目の変化びと

目の変化びと

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2006年10月15日
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カテゴリ: 覚醒
「瞬間ごとの知覚/認識」は無限なので、全部(部分の全て)に気づくことはできない。
 ただ、部分は全体とつながっているので、というより、部分と全体の区別なんて、じつのところないのだから、「あるひとつの知覚/認識」に気づくことは、全体に気づくことになる。





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Last updated  2006年10月15日 05時23分24秒
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Re:部分と全体(10/15)  
uland  さん
>「あるひとつの知覚/認識」に気づくことは、全体に気づくことになる。
>これは、そう思うんですが、全体という概念を無限と思えば、部分で表せ無いようなきもする。
 部分が無限であれば、全体も部分もないということなのか?
 瞬間は、無限なのか?無限を感覚することは出来るのでしょうか?
 いろいろと 疑問がわきました。

(2006年10月15日 12時07分08秒)

Re[1]:部分と全体(10/15)  
gaMe  さん
ulandさんへ。

「全体という概念を無限と思えば、部分で表せ無いようなきもする。」

 もちろん、そうです。でも、にもかかわらず、ulandさんが「ようなきもする」と言われているように、「きもする」のですが・・・

「部分が無限であれば、全体も部分もないということなのか?」

 なるほど、すごいですね、「部分が無限であれば、全体も部分もない」ですか・・・なるほど、そうですね。

「瞬間は、無限なのか? 無限を感覚することは出来るのでしょうか?」

「瞬間は、無限」・・・これまたすごいですね。
 そうですね、瞬間は無限、そうですね。
「無限を感覚すること」は・・・できると思っています。ここのところは、説明するとか説明できないとか、そんなことではなく、ただただ「感覚」です。妄想と言われれば妄想です。僕は、「無限を感覚することは出来る」という「妄想」を持っているのでしょうね。

「いろいろと 疑問がわきました。」

 言葉によって語られたことは、「瞬間」「無限」「部分」「全体」「概念」「無い」・・・すべてただの言葉にすぎません。
「疑問」もまた、言葉によって頭に浮かんだものにすぎません・・・

 だから・・・だからどうなの?・・・うーん・・・ハハハ・・・なんか知らんけど・・・ぼくは幸福です・・・ (2006年10月15日 14時48分10秒)

全部と全体  
gaMe  さん
ulandさんへ。

 もういちど考えてみました。
 僕はこの文章で、全部(部分の全て)と全体を別のものとして扱っていますね。

 全部は無限だけれど、全体は無限ではなく、ひとつである。
 そのとき、部分はどこにもない。
 全部は部分の無限の集まりであるが、全体はひとつなので、そこには部分はない。
 瞬間は「全部/無限」の側ではなく、「全体/ひとつ」の側にあり、瞬間は「永遠の今」である。

 とすると、そもそも「 「瞬間ごとの知覚/認識」は無限なので、全部(部分の全て)に気づくことはできない。」というのがおかしいですね。

「瞬間ごとの知覚/認識」を無限にあるものとして捉えようとしても、全部(部分の全て)に気づくことはできないのだから、そんなことは無理である。・・・ですね。

 ulandさん、ありがとうございました。 (2006年10月15日 21時19分32秒)

無限  
gaMe  さん
ulandさんへ。

なるほど、無限を感覚することはできませんね。 (2006年10月16日 05時13分57秒)

Re:部分と全体(10/15)  
 私は、部分と全体を、人間と宇宙、小宇宙と大宇宙と、例えて、考えてみました。

そうすると、gaMeさんの言っていることに納得したのですが、ulandさんとの会話で、少し違う方向に行ったようですね。。。

私は、最初のgaMeさんの文章。。。納得しています。☆(^^) (2006年10月16日 08時23分01秒)

言葉は魔物  
gaMe  さん
ローズこころちゃんさんへ。

なるほど、言葉は魔物ですね。
で、思うのですが、ぼくは、「言葉に取り憑かれる幸福感」と「言葉からの自由による幸福感」と、どちらも得られる、と思っているのかもしれませんね。もしそうなら、脳天気でいいですね。 (2006年10月16日 12時12分37秒)

瞬間  
キリコタン  さん
瞬間の中に留まると、内に繋がり、内は時空を越えて無限らしい(自分にはここまでの境地は得られていないけれど)と言う感覚は在りますが。この後の部分と全体については良く分かりませんです。

遅くなりましたが、リンクさせていただいています。 (2006年10月16日 12時26分09秒)

良く分かりませんです  
gaMe  さん
 キリコタンさんへ。

 僕自身、良く分かりませんです。
 じつのところ、こんなふうな、言葉の遊び(もちろん真剣に取り組んではいるのですが)、みたいなのは、あまり(ほとんど?)役に立たないような気がしないでもないです。
 そんなこと、今さら言わなくったって、わかってたはずじゃないか、と言われれば、それはそうなんですけれど・・・
 言葉の遊びだとしても、その遊びのおかげで、僕自身、ずいぶん救われているわけですけれども・・・
 僕が救われるのなら、「誰か」も救われると思いますけれども・・・
 これだけ書いておいて、こんなこと言い出して、すみません。
 でも、これからも、言葉が大好きなので、書きますけれども・・・ (2006年10月16日 14時32分05秒)

キリコタンさんへ  
gaMe  さん
 もういちど考えてみました。

『部分は全体とつながっているので、というより、部分と全体の区別なんて、じつのところないのだから、「あるひとつの知覚/認識」に気づくことは、全体に気づくことになる。』

 この文章の疑問点は、「部分と全体の区別なんて、じつのところない」でしょうね。飛躍した文章ですね。
 いったい何を言おうとしているのか、考えてみます。

 部分というのは思考の働きによる分別にすぎず、じつのところ全体しかない。
 瞬間ごと、ひとつの全体が、ひろがっている。
「全体=観察者」「部分=観察されるもの」と捉えると、「観察者=観察されるもの」なので、「部分=全体」となる。
 部分が変化する瞬間、全体もまた、同時に変化する。

 まあ、これでは、はっきり言って、苦しい説明ですね。
 こんなふうに言葉の端々にこだわるのは、個人的な楽しみにすぎず、人には害かもしれませんね。

 でも、僕にとっては、キリコタンさんの疑問に(まじめに)取り組んでみることによって、自分の思考の仕組みに気づかさせてもらった気がします。
 キリコタンさん、ありがとうございました。 (2006年10月18日 06時38分06秒)

まちがい  
gaMe  さん
けっきょくのところ、この頃(2006年)やってたような、言葉を使う方法が、なぜうまくいかないかというと、

『言葉は私たちを幻想に導くだけで、けっして神の方向へは導きません』(「自己の変容」クリシュナムルティ著)より引用

もちろん、「神」というのも言葉なんだけど、ここでクリシュナムルティが言ってる「神」は、言葉・イメージ・シンボル等といっさい関係がない。 (2020年03月31日 11時06分42秒)

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gaMe @ まちがい けっきょくのところ、この頃(2006年)や…
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