全9件 (9件中 1-9件目)
1
昨年の暑い盛りの8月4日の第一回講座・記念講演「山城のあるまちづくり」で始まった「鹿児島清水城ガイド養成講座」もこの3月10日の第十回「甦る鹿児島清水城」を以って予定の講座を修了した。 第一回から第十回まで暑い日も寒い日も鹿児島まで毎月駆けつけて、しかもボランティァとして私達40人の生徒たちに毎回2時間以上休憩もされずに熱く語っていただいた三木靖先生の情熱には頭が下がるばかりだ。先生本当にありがとうございました。 私もその熱意に負けまいと、10回一回も欠席することなく講座を聞くことが出来て、3月10日の閉講式において、「鹿児島清水城整備推進協議会、会長 肥後吉郎」氏名の修了証をいただくことが出来た。 今回の講座は島津氏・薩摩藩の勉強を始めたばかりの私にとって、興味津々で、大変楽しく、これをきっかけにして、更にいろいろな事を知りたいという大きな動機づけにもなった。この歳になってもうあまり時間もないのだが・・・。(苦笑) 10回の講座で一緒に勉強したメンバーがこのままでは、まだ不足した点もあるので、今後は県内の「山城見学会」も予定されていて、3月25日「志布志城、高山城」を皮切りに5回の予定が立てられている。ところが一回目の日は他に予定を立てていたため、残念ながら参加出来ない。 話題は変わり我が家の雑草園の「玄海つつじ」が今年も咲いたので、変わり映えがしないがアップしたのでご覧ください。昨年来、草花の好きな妻が多忙で近所の皆さんが楽しみにしてくれている雑草園の花も今年は目ぼしいものがない中で、この花だけは健気にもいつもと同じように咲いてくれました。
2013.03.15
コメント(18)
私が現在受講中の「鹿児島清水城ガイド養成講座」の清水城は島津家第7代当主・島津元久により、1384~1387年に建てられた。それから14代勝久に至る当主が1550年まで使い、164年間にわたり島津家の本城だった。しかし、ここが手狭になり、15代貴久が内城を築く。その跡に1556年に建てられた寺が真言宗の大乗院である。そしてこの大乗院は島津氏縁の場所に建つ寺院として歴代の藩主の尊崇が厚く、現在の南さつま市坊津秋目にある一乗院と真言宗藩内首座を争った。 しかしそれが災いとなり、明治時代になって、1869年廃仏毀釈により、最初に破壊された寺になった。跡地には11世貫主・覚山の墓と門前の大乗院橋のみが残されていた。この大乗院橋は、天保13年(1842)肥後の石工・岩永三五郎作の屈指の名橋であったが、平成5年(1993)鹿児島を襲った大水害(8.水害)により流されてしまい、現在はコンクリート製の新しい橋が架けられている。流された橋は、近くの若宮公園に半分に縮小されて残されている。 大乗院跡にある清水中学校のプールの山側にその当時の磨崖仏が残されていることは、昨日紹介したが、同じく中学校の入り口を入ったところにもその遺跡が残されている。 鹿児島清水城平城(屋形)部、即ち大乗院跡地では、鹿児島市教育委員会による埋蔵文化財発掘調査がこれまで5回にわたり行われているが、この上水道の石管はその時、出土したものである。 また大乗院は現在の清水中の敷地のみならず、寺から向かって南に200mのところに正門(仁王門)があり、その間に10の支院が立ち並んでいた。 仁王門のあった場所は当時から湧水があり、現在も仁王堂水として残されている。私も高校時代ここは通学路に当たり、良くおいしい水を飲んだものだった。清水小学校の前である。大乗院の10か所の支院跡は全て民家になっているが、仁王堂水から清水中学校に向かう右側の民家の入り口に「威光院跡」という看板が掲げられており、昔をしのぶことが出来る。 〈参考資料〉三木靖先生の「鹿児島市清水城ガイド養成講座」 ウィキペディア「大乗院(鹿児島市)」
2013.02.13
コメント(10)
私の怠慢で第四回講座までの詳細しかアップしていないが、2月10日で9回目講座「文化財としての鹿児島清水城」が開催された。 平成24年8月4日 記念講演会「山城のあるまちづくり」 8月26日 「鹿児島清水城の中核部」 9月16日 「山城としての鹿児島清水城」 10月14日 「守護島津氏と鹿児島清水城」 10月28日 「鹿児島清水城の構成」 11月11日 「城下と鹿児島清水城」 12月9日 「発掘された鹿児島清水城」 平成25年1月13日 「その後の鹿児島清水城」 2月10日 「文化財としての鹿児島清水城」 である。残すは3月10日「甦る鹿児島清水城」のみとなった。 暑い夏に始まったこの養成講座には毎回30人を越す熱心な人々が集まり、南九州城郭談話会会長・鹿児島国際大学名誉教授・三木靖先生のスライドや資料を使った熱心な講義に聞き入ってきた。その中の一人となった私も幸い9回までは欠席することもなく、先生のお話を聞くことが出来て、新しい知識を得ることが出来たし、また大いに触発された。三木先生には感謝あるのみである。 この日は先生の講座は時間オーバーの12時15分まであり、そのあと「鹿児島清水城整備推進協議会」の肥後吉郎会長より、今後の日程やアンケートなどの話があり、清水城山城部入り口他に仮のプレートを表示したとの話もあった。 帰りに早速写真を写してきた。いずれ正式な表示板や案内板が建つはずである。 この二つの案内板に従って行くと、いよいよ山登りに入るが、登山口の左側に、清水城の跡地に出来た「大乗院」の磨崖仏がある。この大乗院も廃仏毀釈により、廃寺となり、今ではこのほかの遺物が清水中学校の校庭の隅っこに残されている。いずれ紹介したい。
2013.02.12
コメント(11)
橋の向こうに見えるのが鹿児島清水城の平城部分に建てられた鹿児島市立清水中学校。中学校の建物右上の山に山城があったとされる。現在の清水中学校は、鹿児島清水城⇒大乗院⇒清水中学校という経過をたどる。大乗院につてもいずれ紹介したい。 4回目講座も南九州城郭談話会会長で鹿児島国際大学名誉教授の三木靖先生を講師にお迎えして開催された。講座名は「守護島津氏と鹿児島清水城」である。 この日はそもそも島津家とはどういう生い立ちを持ち、どういう歩みをしたのかということが主要なテーマである。そしてまた鹿児島清水城は守護島津氏にとってがどのように位置づけられるのかについてのお話である。私もこのところの歴史散歩などから、必要性にも迫られて島津氏の系図や歴代藩主のことなどいくらかは調べているが、こうして体系ずけて聞くのは初めてであり大いに興味を持って講座を聴くことだった。「島津氏は現在32代目、同一地域で、身分制社会の上位の身分で地域最高の武家として現地で800年以上前から続き、700年以前に島津姓の家柄をたて、300年以前に本格的な家系を確定した。このような武家の長期継続の家系は類例が少なく貴重である。」その背景についての解説もあったが、かいつまんで言えば「当主が家の継続に努め、分家が本家を尊重し、国人(地元領主)が島津氏の存在を認めたを背景に当主が優秀で、早々に家系が確定し本家と分家の位置が明瞭で幕藩大名として島津本家歴代当主が、戦国期の相州家・伊作家を主体に家系を再編し、守護大名期、幕藩大名期の本家が、基本的に長子相続を維持できたことが幸いした。」ということだ。 「島津家本家は鎌倉・室町の全期間、鹿児島の守護職であり、6代以降は守護大名・戦国大名・幕藩大名となってほぼ同一地域で700年程の期間に30人近い当主が家督を継承した。初代(1)~15代は幕府から守護職に任じられ、管国の治安維持の責任者だった。守護は代官を派遣し(守護代)、国衙の機能を継承した守護所を設けた。島津氏もそうした。」「島津氏は5代目以降、当主が現地に本拠を移し、6代~14代は守護大名となった。」 「初代忠久は島津庄の地頭職に任命された。そして鎌倉将軍に御家人として認められ、庄官の縁もあった島津庄の地頭職に任命されたのである。さらにその庄園が過半を占める薩摩国以下大隅国と日向国、後には越前国の守護にも任ぜられた。本貫地のなかった1代は、島津庄(薩摩国)を本貫地にしようとした。これは将軍の側近で本貫地が無い御家人は将軍(幕府)が倒れれば即地位を失って廃絶となりかねないので、その危険を避けようとしたと思われる。北条氏が実権を握る時流のなか、1203年母方の比企氏が弾圧されると、島津氏も連座し、守護職は抹消された。それでも10年間の働きを評価され1213年薩摩国守護職だけは回復した。そして1333年5代貞久のとき大隅国、日向国の守護職も回復した。」 「島津氏は1~5代は将軍の側近で鎌倉に常駐していたが、3代のとき、元寇に対処するため北部九州に出向き、北九州で没したとのことで、4,5代は北部九州と鎌倉を行き来した生活で、4代は鎌倉で没したが、5代は鹿児島(島津庄)に定着し初めて鹿児島(木牟礼城といわれる)で没している。」 「守護大名となった島津氏は守護所を築いたと思われる。可能性があるのは出水平野の西端に近い野田の屋地か国衙のあった川内平野の川内川流域沿いであろう。それらを引き継いで、鎮西探題攻めの恩賞で大隅国、日向国の守護も回復した後、薩摩でも大隅、日向と繋がる鹿児島地域に中核となる守護所を設けようとし、鹿児島東福寺城を攻略し、その後、清水城を築いた。ここは島津氏の本拠となる。島津氏は鹿児島でもそれ以外でも、一族・領主層を被官層にすることには苦労し、主に分家を活用し守護大名となったが、室町末期になるとその維持も難しくなり、14代目は分家からの養子で本家を継続しようとした。そんななか分家伊作家兼相州家当主忠良は息子を15代目とした。15代目となった貴久は、自力で家臣団を組織し、領域を統治し、守護大名にとどまらず戦国大名となった。15代目は鹿児島清水城を廃し、その財産を継承しようとし、清水城のすぐ東に新しい城、鹿児島内城を築いた。それを受けて18代が幕藩大名となった。」 その後、先生のお話は島津家歴代当主の話に及び、初代 忠久から18代 家久までの簡単な経歴や業績のことなど紹介があった。その中で鹿児島清水城は7代 元久の1384~1387年から使い始め14代 勝久の1550年まで約160年間にわたり鹿児島本城として使われたことを改めて話された。 その他「島津氏本拠城の変遷」など沢山の話があったがここでは割愛する。
2012.12.10
コメント(10)
9月16日(日)稲荷町公民館において、第3回目の鹿児島清水城ガイド養成講座が開かれた。講師はいつもの南九州城郭談話会会長で、鹿児島国際大学名誉教授の三木靖先生である。 3回目ののテーマは「山城としての鹿児島清水城」である。「中世の山城は、すべて使われなくなった古城です。しかも古城歴400年なので、たいていの山城は忘却の彼方で、山林や耕地、荒地になっています。それでも文化庁・文部科学省の指導のもと全国の県、市、町、村の教育委員会は、この30年ほどの間に悉皆調査で山城跡を『周知の遺跡』と認定し、文化財保護上の有形・埋蔵文化財・史跡として保存、活用の対象としてきました。全国の過半数の都道府県は悉皆調査を行い、その結果を『中世城館跡』報告書して刊行しました」「全国の城はこの調査等で解明が進み、文化財指定を受けたり、世界遺産登録を済ませたものも出ています。2008年国指定史跡の城は278件の317城でした。」「2006年には日本城郭協会は『楽しめる城』を条件に『日本名城100選』を決めました。全都道府県から一城以上でしたが、近世城郭が大部分で、本県では鹿児島城が選ばれました。」 そこで今回は、他の山城と対比しながら鹿児島清水城を考えるということになった。対比する城として、一つは本城を使い始めた第七代島津家当主・薩摩、大隅、日向守護・島津元久が本城を使う前まで使っていた「志布志城」を取り上げ、もう一つは本城の使用を終わらせた第十五代島津家当主・薩摩、大隅、日向守護・島津貴久が、そういう行動に出るまで使っていた「伊作城」を取り上げて説明がなされた。「志布志城は、志布志湾にそそぐ前川河口付近、標高58mを最高地点とし、東西約300m、南北600m、北東から南西に延びる台地の先端とその周辺でした。」 「伊作城は、東シナ海にそそぐ伊作川下流、標高73m、東西1000m、南北750m、北東から南西に延びる台地の先端とその周辺でした。」 志布志城、伊作城との対比で鹿児島清水城を見たらどうなるのか。「鹿児島清水城は鹿児島湾にそそぐ稲荷川下流、標高132m、東西700m、南北1050m、北西から南東に延びる台地の先端とその周辺で、北側吉野台地と堀切で区切り、稲荷川側は切岸状にしていますが、西方は長谷場・セバル台地との間に大きな谷があって、これが西側の堀に相当しました。主な曲輪は頂上部にありました。主郭はその中央になります。主郭部の北側には堀切が廻っています。堀切は南に向かった後、西方に曲がっていて、稲荷川から西側の谷に落ちていました。南側屋敷地と、前記の堀切を結ぶ空堀は、大手口から主郭部西側を通っていて、竪堀の性格があります。この主郭部は南に延びています。この頂上部からは、城内外が良く見通せますし、城の周囲から頂上部をかなり広く見上げることもできます。頂上部の周囲の斜面内には、多数の平坦地があり脇曲輪的な存在で、西側の斜面内には大興寺が存在していたと思われます。南麓には屋敷地がありました。」 次に城の対比という観点から「志布志城、伊作城、鹿児島清水城を対比してみますと、半島状の台地を主とし、周囲を河川で堺し、台地本体とは堀切で区切り、安全を確保し、頂上に主な曲輪、前面の麓に屋敷地(=平城)があり、城内に寺社地があり、規模壮大なところが共通しています。」という説明があった。そして更に「城の場所を見ると、いずれも河口かそれに近い場所で、低平地と湊が近いとこは共通している。周囲を見て目立つことは、志布志城は西側に3城あり、それと合わせた4城で『志布志城』を形成していた。また伊作城は城のすぐ脇から西側に小規模な城が9つあり、伊作城の支城と伝承されている。鹿児島清水城は東に東福寺城、北に橋之口城、西に催馬楽城、長谷場城がある。3城とも周囲に城があり、3城は配置、規模、構造、周囲の様子の共通点があり、その上、歴史的に近い関係があり、極めて類似している。」との説明があった。 この3城は先生の説明によると、縄張等の調査が進んでいる志布志城は国指定史跡であり、1992年以来、住民と行政の息長い取り組みがあり、また志布志市のホームページを見ると見学のルートもできており、山城跡の散策を楽しめるようだ。だが私はまだ行ったことがない。伊作城は県指定史跡であり、私も昨年秋訪れた。ここも駐車場や案内版など整備され、空堀や土塁など中世の城を物語るいろいろなものを見ることが出来た。鹿児島清水城は2012年8月4日に「鹿児島清水城 整備推進協議会」が発足しやっとスタート台に立ったところである。三木先生のお話でも、これは相当息長く活動を続けないといけないことで、これからの課題も多い。
2012.11.07
コメント(8)
8月26日(日)三木靖先生を講師に第2回目の鹿児島清水城「ガイド養成講座」が開催された。当日の参加者は30名。講座にはガイドになる気持ちはなくても、清水城のことを勉強したい人に広く門戸を開いているので、多数の参加となった。この日はまず実地からということで、清水中学校の裏山にある山城部に登ることから始まった。私は4月27日以来2回目の山登りである。 前回もそうだったがご婦人方の参加も多い。 登り始めてしばらくすると、山肌から水が染み出ている場所に遭遇する。雨のあとだったので、その周辺は相当にぬかるんでおり、私は下るときに足をとられて、危うく尻餅をつくところだったが、そこは若さ? で手を少し汚しただけでなんとか切り抜けることが出来た。泥の中に尻餅をついていたら、どうなっていたかと今考えても冷や汗ものである。当時はこういう水を使っていたのだろうとの話があった。実際この山城部には数箇所水の出る場所があるらしい。 空堀を登ると第二次世界大戦中に掘った防空壕も散見される。 空堀を上から見る。 最終目的地は眺望の良い九州電力の鉄塔の下。桜島には雲がかかっていたが、この日も心を和ませる絶景であった。 この日は三木先生からこの清水城は空堀、曲輪、土塁、切岸を主要素としているなどの説明を受け、山城中心曲輪のことを学んだ。 尚、当日のことを含めて三木靖先生のブログ「山城散歩」と「みちくさ」に詳細は書いてある。 次回第3回は9月16日(日)「山城としての鹿児島清水城」も稲荷町公民館で午前9時30分より開催されます。どなたでも参加できます。
2012.09.10
コメント(10)
当ブログ4月27日と6月9日の二回書いてきた「鹿児島清水城整備推進協議会」の設立総会が7月21日稲荷町公民館において開催され正式に発足した。残念ながら私は当日所用のため欠席した。それを受けて8月4日その設立を記念して、標記の記念講演会の開催となった。当日は会場の鹿児島市福祉コミュニティーセンターに80名の参加があり、講師として南九州城郭談話会会長で中世城郭研究の第一人者である鹿児島国際大学名誉教授の三木靖先生を迎えて開かれた。演題は「山城のあるまちづくり」である。 当日の講演は1、まちづくり。2、土で築く城。3、空堀(からぼり)。4、土塁。5、切岸。6、曲輪(くるわ)。7、その他の施設。8、清水城。9、蘇る鹿児島清水城山城部。という分類であった。先生が自ら踏査されて書かれた貴重な「縄張図」も配られて参加者は清水城のロマンに酔った。三木先生のブログー『山城散歩 みちくさ』 多くの山城愛好家の方へーに詳細がアップされている。またこのことは昨日の南日本新聞にも大きな記事として掲載された。 この記念講演を第一歩として、ガイド養成講座が開かれる。来年の3月まで10回にわたる講座だが、必ずしもガイドになることを義務ずけられるものではない。私は無欠席での「終了証」を狙っているところだ。
2012.08.10
コメント(12)
写真は東福寺城跡のある多賀山から清水城跡(山城部)のある山を望む。(真ん中の山) 当ブログの2012年4月27日に「清水城跡を訪ねる」を書いてから40日余りの今日、清水小学校内にある清水小校区公民館において、「清水城跡調査整備保存活用推進協議会設立準備会」が開かれた。 先ず鹿児島国際大学名誉教授で日本の中世城郭研究の第一人者である三木靖先生の講演「清水城の概要」を聞く。「島津家が戦国大名となる前、守護大名だった室町時代に本城としていたのが清水城です。島津家の史書は清水城を鹿児島本城と呼んでいました。日向国・大隅国(1391年~奥州家元久)、薩摩国(1393年~奥州家元久)の守護だった島津家の『譜代の住所』すなわち伝統的な本城でもあり、守護職の政治を掌る場でもありました。(なお、1363年以降薩摩国守護は総州家師久、大隅国守護は奥州家氏久でした。)守護は国衙と並んで地域の統括(大犯三ヶ条)権を持ち、その実行のための中核施設を持っていました。それが守護所で、政治ばかりか流通・商工業の中心となっていきました。室町時代になると、要害の地として軍事性も強化されました。さらに守護所は城下をともなそこに有力家臣層の屋敷、寺社、町屋が成立していきます。このような動向に照らして清水城とその周囲を見直すことが大切です。地元から見ると清水城、守護から見れば鹿児島城でした。地元にとって大切な城であると同時に守護島津家の歴史、鹿児島の歴史に欠かせない城だったわけです。」という鹿児島にとっての清水城の位置づけの話があった。そして「清水城(鹿児島本城)縄張図」によって主に山城部の説明があり、曲輪(くるわ)、空堀(からぼり)、土塁、土居、堀切、切岸などの場所が示された。初めてしることも多く大変勉強になった。 その後、肥後吉郎さんの司会で(1)調査 (2)整備 (3)案内体制づくり (4)広報・周知他 などが話し合わ7月7日に次回準備会をそして7月21日に設立総会にこぎつけるということで今日の会議は終わった。 会議終了後、一人で多賀山に登り、写真を写したり、祇園の洲公園や石橋公園、八坂神社を回って帰った。
2012.06.09
コメント(10)
初夏のような好天に恵まれた今日、鹿児島市の清水城跡に行った。先日の南日本新聞に掲載された募集記事“「鹿児島清水城山城部跡」調査整備保存活用事業発足準備の集い”で参加者募集を見たのがきっかけだった。同じ南日本新聞の2012年2月15日の記事「かごしま昔と今 見つめる」に取上げられた草木に覆われた荒れ放題となっていた山城跡「清水城跡」の整備に一人で挑んでいるという肥後吉郎さんその人が連絡先になっていたので、すぐ参加を申し込んだ。 「清水城屋形(平城)」は現在、私の母校でもある清水中学校になっているのだが、「山城部」は中学校の裏部分に広がる山になっていて、荒れ放題だったのだ。それを近くに住む肥後さんが、「清水城を残さずに何を残すのか」との思いでノコギリやナタを手に行く手を阻む竹や木を地道に切り払ってこられたそうだ。実際行ってみると、切り開かれた道は本丸まで達していた。 今日の参加者は15人くらいだったが、案内を引き受けてくだっさたのが、現在は東京在住の三木靖先生だった。なんという幸運。先生は鹿児島国際大学短期大学部名誉教授であり、専門は中世城郭史。中世城郭史と薩摩島津氏の研究においては第一人者といわれている方である。 では清水城とはどんなお城だったのか。島津家6代当主島津氏久が嘉慶元年(1387年)やや内陸に居城を建てた。これが清水城である。清水城は平地にある居館と裏山に築かれた「後詰めの城」の二重構造になっており、その後の島津氏の基本形になった。その後、14代当主・島津勝久まで当主はこの清水城を本拠地にしていたが、天文19年(1550年)15代当主・島津貴久は更に海に近い内城に居館を移し、清水城の居館跡には大乗院が築かれ清水城の館部は廃城となった。(フリー百科事典・ウィキペディアに拠る)三木先生も強調されていたが、この城は約160年間島津本家が居城としていたので、整備して残すべき遺産であるとのことだった。私も同感である。尚、三木先生のブログ「山城散歩」の2011年11月編によると、昨年鹿児島史談会も「鹿児島清水城」を取上げたとのことで、その貴重な資料を今日いただいた。過去には、鹿児島県と鹿児島市の教育委員会が考古学的な発掘も行っており、私が思っていたよりも研究はなされているようだ。残された課題はいかに整備するかということだろう。 今日登る清水城跡を稲荷町公民館から見た風景である。山上の右に見える送電線鉄塔まで行ければというのが目標みたいだ。 登り口には、清水城の跡にあったという大乗院の磨涯仏が残されていた。 肥後さん手作りの竹の杖を持って急坂を登ったが、途中滑りやすい場所もあり、気を抜けない。しばらく行くと数箇所に石垣を見ることが出来た。長い石と短い石が交互に組まれており、テレビで見た滋賀の穴生衆の石垣の組み方だ。因みに熊本城もこの組み方だとテレビで放映されていた。 そこからしばらく歩くと空堀(からぼり)が続く。私はこれまで山城は3ヶ所しか行ったことはないので、詳しいことは分からないのだが、ここの空堀は三木先生の解説によっても、相当なもののようだ。 いよいよ「主となる曲輪(くるわ)の下に到着。この右上に城があったとのこと。 そこから右下に下って行くと、最初の写真にあった送電線鉄塔の下に到着。前の多賀山・東福寺城跡の向こうに錦江湾を挟んで、桜島の展望が開けた。鹿児島人にとって桜島は切っても切れない山だが、ここからの眺めも素晴らしかった。 そこから引き返すこと30分で集合場所だった稲荷町公民館に到着。公民館に上がって肥後さんを中心に三木先生の話を聞く。その後、今後の取り組みを皆で話し合う。とりあえず5月12日有志で、木を切ったり草刈をやって整備していくことにする。
2012.04.27
コメント(12)
全9件 (9件中 1-9件目)
1