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在宅ワーク情報の「女性のパソコン」(白夜書房)というムックが発売された。当サイトも取り上げたいと編集部からメールはいただいていたが、発売日も知らされておらず、他の方の日記で初めて知ることができた。 ちょうど書店に行く機会があったのでパラパラと見てみたら、切手ぐらいのサイズで隅のほうに小さく小さく掲載されていた。立ち読みしただけなので正確には引用できないが、「クライアントからの意見にも耳を傾けてみよう」といったニュアンスで書かれていた。 1/5頁程度のカコミのさらにその一部分なので、字数に制限があるのはわかるが、一言お断りしておくと、当方の意図は、「クライアント側の論理」を振りかざすことではない。 たしかにこれまでの日記には、発注者の立場から非常識な「SOHO」への鬱憤を書き散らかしたものもある。だが、ふがいない「SOHO」たちの問題点を通して、プロとして働くというのはどういうことなのか、仕事に大切なのは何かを問い続けてきたつもりだ。変な話かもしれないが、日記を読み返しながら自分自身の襟を正すこともある。 編集部が、当サイトを「クライアントの一方的な言い分」と解釈したのなら、それは私の筆力が足りないということなのだろう。しかし、もしもそうでないとしたら、あの紹介文は読者に禍根を残す誤解を与えはしないだろうか。 当該ムックのターゲット層は、これから在宅ワーカーとして働きたい主婦、あるいは在宅ワーカー初心者のようだ。まさにSOHOとしての常識を身につけ始めた人たちである。 その人たちに対する読み物として、「発注側には発注側の、請負側には請負側の言い分がある、立場が違えば言い分も違う」と受け取られかねないような構成はいかがなものか。 それはまさに哲学でいう「相対主義」の立場であり、合理的真実にヴェールをかぶせる役割を果たしかねない。何に対する「合理的真実」か。すなわち、この社会構造の中でSOHOとして働くことの真実である。 たとえば、世間知らずの在宅ワーカーたちのインモラルなことやルール違反、技術不足などを当方は指摘してきたが、それは全て「立場と言い分の違い」という逃げ道を作ってしまわないのだろうか。 何よりそうした「相対主義」の主張は結局、中小編集プロダクションと在宅ワーカーが相容れない対立関係にあるという価値観を生む。そうやって無限の対立を作り出すことは、結果的に誰を喜ばせることになるのか、書籍・雑誌媒体であれ、ホームページであれ、本当にSOHOを「支援」する意図があるのなら、そこを見失ってはならないと思う。「そうはいっても、しょせん発注側は強い立場だ。弱い立場のSOHOをあげつらっているだけではないか」という人もいるだろう。 私、というより弊社は吹けば飛ぶような編集プロダクションであり、より大手のプロダクションや出版社からの仕事を請け負っている。つまり、発注者でもあり請負者でもあるわけだ。「Small Office」という点では弊社もSOHOなのである。 そこで、今後はサイトの名称も「悪徳SOHO劣伝」から「悪徳SOHO・無法ビジネス列伝」と変更し、請負者の視点からの話も少しずつ加えていきたいと思う。SOHOたちが最も知りたがっている債権回収の話も、差し障りのない範囲で紹介していくつもりだ。
2003年03月28日
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3月18日(火)の日記についての感想が、一部誤解も含め多数掲示板に寄せられているので、具体的な例をひとつご紹介しよう。 20代後半の女性が、ライターをやりたいと相談に来た。「私は家庭内暴力、ドラッグ、中絶、売春、その他いろいろな経験をした。だから、ひとの興味を引きそうなネタを書かせたら自信がある」 直接仕事とは関係ないが、執筆の動機としてこんなことも言う。「世間から見れば規格外の自分が、ちょっと好きという気持ちもある。そんな自分をみなさんにわかって欲しい」「変わっている自分が好き」というのは、女性、とくに若い人に多く見られる傾向だ、ということは前回ご紹介した心理学者も話していた。 その女性がどういう事情で何を書きたいかはその人の自由であり、とやかく言う気はない。ただし、それをビジネスとするには道順というものがある。 この女性は、ライターとしての実務経験は、当然ながらない。それだけではなく、何をしたいのかというビジョンもない。 特定の人物や出来事に焦点をあてたノンフィクションライターになりたいのか、実用書の単行本を作りたいのか、旅行雑誌の取材記事を作りたいのかもはっきりしていない。 とにかく、「書く仕事がしたい」と単純にくり返すばかりである。 私はこの時点で面倒になってしまった。 が、相談者のせっぱ詰まった気持ちに免じて、「仕事」は「アート」ではないということを断りながら具体的に提案した。1.出版社や編集プロダクションに就職するのがいちばん。2.在宅にこだわるなら、テープ起こし、清書、データ入力など、地味に思える仕事から在宅仕事としての「ふるまい」を経験すること そして、可能性は少ないが、という条件付きで3.原稿や企画書を直接持ち込むという方法もある。 ということも紹介した。 するとその女性からは何の返事も来なくなった。諦めたのかと思ったら、どうやら3を目指しているらしい。若いのに、どうして地道な努力をしようとしないのだろう。 この女性は、手っ取り早く成果を手に入れたい根っからの山師なのかも知れないが、かりに間違って「ひとの興味を引きそうなネタ」の企画があたったとしても、職業として「ライター」を続けるのは難しいと私は思っている。 そもそも、「変わっている自分」というが、そんな人はそうそういない、と私は思う。 たしかに、その人の「ネタ」は「普通の人」から見て経験の機会が少ないことかも知れない。しかし、そんなことを言うのなら、たとえばキャリア公務員として出世して大臣になれる経験、スチュワーデスになる経験、ラーメン屋の出前持ちの経験。これらだって経験している人の方が圧倒的に少ない。世の中はそういうものに満ちている。 何より、本当に「変わっ」ているかどうかを対外的に表現できるのは、経験や職業そのものではなく、それらを通して何を伝えられるかである。筆力が全てなのである。「ドラッグやったよ」「いい気持ちだったよ」。これだけ書いたって、そんな既知の描写。いまどき衝撃的でも何でもない。 それに、「みなさんにわかって欲しい」というのもくせものである。ライターは、読者にその読み物を楽しんでいただいたり役立てていただいたりするサービス業であり、自分の価値観を押しつける仕事ではない。 もちろん、珍しい体験それ自体でひとつの読み物が絶対にできないとはいわない。筆力がどうであろうが、経験自体の面白さと勢いで1冊書き上げてしまうこともあり得るだろう。しかし、その後はどうするのだ。出版者も読者もワンパターンをおもしろがってはくれない。「いい年した女がまだ馬鹿やってるよ」と笑われるのが落ちである。経験の面白さで一発あてても、筆力がなければ「さらなる一歩」を踏み出すことはできないだろう。書くことにあたって、どのような大志を抱こうが、また願おうが自由である。しかし、物事は自然現象であれ社会現象であれ、原因があって結果がある。筆力のない者は書く仕事を持続する必然性を有しない。これは原則中の原則である。 私は、職業として継続的に書く仕事を希望する人には、ぜひ遠回りも厭わず、きちんとした道順で歩んで欲しいと思っている。 学問に王道なしというが、仕事も同じではないだろうか。
2003年03月26日
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実用書の出版にあたって、テレビなどにもよく出演するある心理学者に話をうかがった。テーマはやる気とビジネス。私は、ついでというわけではないが、悪徳商法と在宅ワーク希望者についてうかがってみた。その心理学者曰くこの情報化時代にイマジネーションが足りないから騙される。その根底には、在宅ワークが楽な商売という幻想が横たわっているのではないか。そもそも「自由業は実は不自由業」。時間が決められていないということは、逆に常識的でない時間に働くこともある。時間の拘束が約束されないということは、逆に仕事がしたくてもない場合もある。つまり、使う側にとっての「自由」業であるという視点が抜け落ちてやしないのか。けだしもっともである。さらに私は考えた。安易な在宅ワーク志願は、パソコンが普及しただけでなく、インターネットができたことで、「楽」に情報を得られるから、それを利用してデータを適当にまとめれば、自分にも何か書けるのではないかと思っているのではないだろうか。それ自体が安易なだけでなく、いつしかインターネットでのみ情報を得る方法論が定着してしまうのではないだろうか。取材経験のある既存のライターならともかく、そうでない人がインターネットに頼ることについて、私は批判的である。なまじ、インターネット「だけ」でできてしまう仕事などを経験すると、余計にそうした誤解が生じてしまうのだろう。先日、ライターの採用で面接に来た女性は、自分がいかにインターネットを使っているかを自慢していた。だから情報収集には絶対の自信があり、インターネットで「すべて」の調べものを済ませているのだと。ダイヤルアップ時代には数万円の通信費を使い、現在は常時接続環境でサクサク使っていると鼻高々だった。「自分の足を使って、人と会うというのは苦手ですか?」私がこう尋ねると、その人は、まるでバカにしたように答えた。「企業の広報と会ったって、サイトの情報以上のものはでてきませんわよ」私はその人を採用しなかった。しようと迷いもしなかった。態度が悪かったからではない。自分の足を使おうとしないこの話し方で、書き手として失格であると判断したからである。この人は、もともと全く別の仕事をしていて、インターネットが普及してからライターの仕事を始めたという。取材・調査はイコールネットサーフィンという認識になっているのも無理はなかった。だからこそ、使えなかった。インターネットで情報を集められることはいい。しかし、その質をこの人はどう客観的に判断できるのだろう。きれいに整理されたホームページだけで真実がわかるというのか。インターネットによる情報公開は、自分にとって都合の悪いことは行わない。汚職で辞職や逮捕された政治家のホームページに、自分の“不適切な”行動を正直に書いた人はいないだろう。また、誰でもすぐに公開できる仕組みであることから、悪意がなくても事実誤認や誤謬があったり、更新が遅れて情報が古くなったりしている場合もある。法的にも未整備であり、責任の所在も曖昧だ。そうした不完全かつ不確実な情報を収集したところでまとめた記事など、間違いの拡大再生産を起こしかねない。何より、取材は「企業の広報」だけではないし、「企業の広報」だって、力のあるライターなら会って特ダネをとれることもある。生きた人間との対面を軽視するこの人は、本物の取材者ではない。2月25日(火)の日記で、ホテルに確認せず、既存の本で料金調べを済ませてしまった女性の話を書いたが、その誤りは、こういう自信満々のインターネットマニアにもおそらくあてはまる。実際に企業に確認した結果、「ホームページの通りです」と言われたのなら、そのときはじめてそれを使えばいいのだが、インターネットで「すべて」すませるなどという人は、そしてそれに自信を持っている人は、そういう裏取りの手間に重きを置かない。少なくとも、こちらではそう判断せざるを得ない。インターネットの範囲でわかる真実もある。しかし、それが理解できるのは「足を使った取材」を知っている者だけだろう。いずれにしても、自分の足を使って人と会い情報を収集する。既存のメディアに発表されていないものを少しでも見つけようとする姿勢が書き手であるなら大切ではないのか。お金の取れる仕事というのは、そういうものではないのか。
2003年03月23日
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先日、このホームページの掲示板にこんな書き込みが寄せられた。「請負った側がしくじった場合の損害を保証する保険はあるか?」 これには以下の回答がよせられた。「不慮の事故に対する保険はあるが、パソコンやソフトが壊れたからといってデータまでは保証されない」 言われてみればその通りである。プロである以上、「パソコンが壊れました。データも無くなりました」では通用しない。 なぜこんな書かずもがなのことを日記のテーマにするかというと、パソコンのトラブルで納品が遅れる主婦SOHOが後を絶たないからだ。 SOHO歴5年のデザイナーは、納品日の夜になってからこんなメールを送ってきた。「パソコンの調子が悪くてデータが壊れてしまったようです。原因不明です」急いで電話をかけ「いつ頃までにアップできそうですか」と尋ねると「復旧の目処がたたないのでわかりません」と言う。 それは困る。すべてのデータが壊れてしまったのか、一部は生き残っているのか、納品が遅れるだけなのか、遅れる場合こちらはいつまで待てばいいのか。それがわからなければ手の打ちようがないではないか。 トラブルそのものは不可抗力の面があるとしても、それを言い訳にするのはプロとして恥ずかしいことだ。自分の使う「道具」のメンテナンスや準備も仕事のうちだからだ。メインマシンと同じ環境のサブマシンを用意しておく。作成中のデータは毎日数カ所へバックアップして万が一の被害を最小限に食い止める。 二重三重にセーフティネットを張っておくべきであろう。
2003年03月22日
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業界の端くれながら、現役として仕事をしていると、「ライターになりたい」という相談を受けることがままある。2月14日(金)に紹介した「エッセイスト希望」の主婦などもそうなるかもしれない。 その人たちは、おおむね次のように動機を語る。「作家になれないまでも、せめてモノを書く仕事がしてみたい」 中には、もっとあからさまなものもある。「将来作家になるステップとして、ライターをやってみたい」 プランはその人の価値観なので、とやかく言う気はない。ただ、なぜそんなに書く仕事にこだわるの? と尋ねると、次のような動機を述べる人がいるのは鼻白だ。「自分は人間関係を作ることが苦手なので、部屋にこもって書く方がいいと思う」「私は普通と違う個性的な人間なので、きっと面白いことが書ける」 とくに女性に後者のケースが多いのだが、こういう動機ではライターとしてはつとまらないだろう。 前者のケース。取材はどうするのだ。ギャラの交渉はどうするのだ。仕事がうまく流れるように業界の人たちとの人脈づくりやお愛想はどうするのだ。ライターもビジネスなのだ。「人間関係を作ることが苦手」な人の逃げ道として選択することはできない。 何より、お金をいただいて(自分の作品を)不特定多数の人々に読んでいただく「サービス業」なのだ、ということが、その人たちの意識にはないんじゃないだろうか。 個性的な人間(と自称する人ほど本質的には凡庸なのだが)が個性的な文を書いた。これだけでは商品にならない。「個性的」な空間に読む者を誘える筆力があるかどうかが大切なのではないか。「私は個性的なのよ」という自己分析や気取りに立った視点を押しつけられても、読者には嫌悪感しかもたらさない。 もちろん、中には「マイ・ワールド」がクライアントにウケ、さらにクレジットの入った仕事が認められ、自分の本を出すということもある。 しかし、それはたまたま「アート」が市場で評価されたというだけのことで、我々の仕事それ自体は「アート」ではない。 そのへんの認識が曖昧だから、名もない一介の主婦が「エッセイ書きたい」なんて言い出すんじゃないだろうか。「作文」と「作品」は違うのに。
2003年03月18日
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この日記を始めてから、掲示板やメールなどでいろいろご意見をいただいている。賛否両論とはよくいったもので、毀誉褒貶相半ばする状態ではあるが、「否」の方は残念ながら論理的でないものも少なくない。以下はおおまかなパターンから私の回答をつけてご紹介しよう。・被害者ヅラしているが、(いい加減な在宅ワーカーに)騙される側にも責任がある 上記の論理をわかりやすいたとえ話にすれば、窃盗事件の原因を被害を受けた側の責任とする観点から述べるものだ。善意に見ても「両成敗」といったところか。「鍵が甘かった」とか。泥棒に入られたい家の造りなのがいけないとか。 しかし、論理的に考えてみれば、窃盗事件は窃盗をする人間がいるから起こるのである。当たり前の話だが、盗み自体がすでに悪いことなのだ。 つまり、当該日記に対する上記のような意見は、おおもとの悪を免罪する意図を勘ぐらざるを得ない。 しかも、在宅ワーカーの側は、「騙す」つもりではなく、本当に無知や世間知らずや能力不足から間違いを起こしていることがほとんどだ。「加害者」の問題点として述べることは、その人達へのアドバイスにもなるのだから、決して道理のない糾弾ではない。 もちろん、私にたいして、「ここをこうすれば騙されなくなる」という具体的なアドバイスをするというのなら話は別だ。が、上記のような意見に限ってそれはない。きっと、過去に「加害者」として「騙した」過去があるから、その古傷でもうずいて、カッとなって反射的に論理的に奇妙な反発を書き殴ってしまうのだろう。・主婦に仕事をやらせる方がどうかしている これも、半分は上記と同じ答えである。誰であろうが看板を出して仕事を受けたのなら、仕事ができなければその人の責任は免れない。 考えてもみて欲しい。博士の学位を取った大学教授だろうが、中卒の主婦だろうが、店のものをちょろまかせば同じように捕まる。「教養がない奴を店に入れた方が悪い」という論理は成り立たないだろう。 もう半分は、(私が)誰を使うかは価値観の問題であり、それは私の批判的指摘における客観的な判定とは次元の違う問題だということである。ややこしい言い方をしたのでこれも例を挙げる。 ひと頃話題になった偽装牛肉というのがある。騙された消費者に対して、「最初から最高級の黒毛和牛を買っておけば騙されることはないのに」という意見があったらどう見るか。 騙された消費者たちはこう思うだろう。安い国産牛を買うことを支持してくれなくても結構だ。だけど、だから偽装を免罪するという論理にはならないでしょう……と。 黒毛和牛を買うか、国産牛を買うかはその消費者の価値判断である。国産牛が、黒毛和牛のようにおいしくなかったとしても、国産牛を買った消費者は文句は言えない。しかし、どちらも商品として出ている以上、たとえ(安い)国産牛だろうが、流通や原産地表示など、決められたルールに則って商品としての体裁は守らなければならない。 この日記の論点は、いうなれば、和牛と国産牛の差でもなければ消費者の価値判断でもなく、「偽装」それ自体を問題にしているのである。・タイトルや本文の一部に不適当な表現がある これは素直に聞き入れ、反省したい。客観的な見地から書いているつもりが、つい、当時を思い出し、恥ずかしながら多少なりとも感情が高ぶり、知らず知らずのうちにその人達と同じ土俵でやりあうようなことを書いてしまうことがあった。改めて読んでそう思う。 今後も、賛否いろいろなご意見をお待ちしている。
2003年03月15日
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「金を貸せば友を失う」とはよく言われることだが、シビアな関係になりきれない友人とのビジネスも避けるべきだ。情にほだされて仕事を頼むなどもってのほか。自分の首を絞めることにもなりかねない。 まだ子供が小さかった頃、私は自宅近くの小さな制作会社にパートタイマーとして勤務していた。もっとも、正社員は一人もいない個人事務所だから、社長以外はすべてパートタイマーだ。近所に住んでいるため時間の融通がつけやすい私は重宝な存在だったらしく、仕事の悩みなどもよく社長からもちかけられた。口幅ったいようだが、それなりに信頼されていたと思う。 挨拶状の制作から発送までを請け負ったときのことだ。宛名書きの人員が足りず、社長から「誰か適当な人はいないか」と言われた私は、同じ年頃の子供を持つ「公園仲間」の友人にうっかりそのことを漏らしてしまった。単なる雑談の延長で話したわけだが、それを聞いた彼女は「私にやらせて!」と言い出した。 彼女は第二子を妊娠中でまもなく臨月に入ろうかという身体だ。「その身体では無理だよ」「旦那にさせるから! お金が足りなくて困っているの。お願い!」 私は彼女のご主人とは一面識もない。どんな人かを知らずに紹介はできない、と断ったが、最後は拝み倒されるように渋々口利きを約束してしまった。 ほかに外注先が見つからなかったのか、社長は彼女への発注を快く承諾してくれた。仕事の内容は挨拶状の封筒入れと宛名書きだ。紹介した手前、彼女には責任持ってしっかり仕事をしてくれと何度も念押ししておいた。「こう見えても私、仕事には厳しいから。絶対大丈夫」 しかし納品された封筒を確認してみると、挨拶状にインクの指紋がうっすらと残っていたり封筒の宛名が擦れていたり。お粗末な仕事ぶりは誰の目にも明らかだった。挨拶状を印刷しなおす時間はないし、封筒もクライアントから預かっている社名入りのものなのでやり直しはできない。仕方がないので、あまりにも汚いものだけ予備と差し替え、あとは誤魔化して納品した。 おかげで私の立場は丸つぶれだ。社長には平謝りに謝り、彼女に「一体どういうことだ」と文句を言ったところ、「ごめんね~。急いでやったもんだから」の一言だけで悪びれた様子もない。私は彼女の人間性をみた思いで、その後友人関係も自然消滅した。
2003年03月07日
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今日も、ビジネスがクライアントの「評価」で成り立っているという大前提から目を背けている人の実話を2題書いてみよう。 我々の仕事には、「コンペ」という競争を勝ち抜かなければならない場合がある。ある仕事の受注先を決めるために、クライアント(または代理店)が参加者に作品(カンプ)を提出させてから受注先を決めるものだ。大企業や官公庁などの発注ではしばしばこの方法を採用している。 弊社も以前は何度か参加し、受注を獲得したこともあるが、どちらかというと弊社の場合、外注の「実力テスト」がわりに使っていた。 それで、何人かのフリーランスがこの話に乗って作品を提出したが、ま、普通は落ちてしまう。落ちてもともとなのだが、経験の少ない人ほど、「自分こそ一番」という思いが強くあるようで、現実を素直に受け容れられない。 あるポスターのデザインコンペに参加してもらった20代の女性デザイナーは、自分の作品が採用されなかったことに不服そうだった。そしてこんな捨てぜりふを言ってのけた。「コンペは作品の質ではなくクライアントの好みで選ばれるから、プロの仕事とは言えない」 おいおい、「仕事」と名の付くものは、本人の自覚や他の生業の有無にかかわらず、すべて「プロ」によるものだろう。 言葉尻のつっこみはともかくとして、選ぶ側がおかしい、という「自己弁護」で“総括”する態度は、やはりちょっと違うのではないか。 いかなる選考であれ、選ぶ裁量は選ぶ側にある。つまり、その仕事において作品に商業的価値を与えるのは選ぶ側であり、我々ではない。これは、コンペであろうが通常の受注仕事であろうが基本的に同じだ。通常の仕事は、コンペのように競い合う中で価値を買ってもらうわけではない。が、いうなれば価値をクライアントから信任してもらえるかどうか、ということではないだろうか。クライアントが欲しいのはクライアントが価値を感じるものであり、我々はその前提で結果を出すのが仕事なのである。 次は、A5版書籍のレイアウトをお願いした30代の自称「デザイナー」の女性の話だ。彼女はセオリーを無視したシロモノを提出してきた。ノド(綴じる側の余白)もその他の余白も1センチに満たないところまで割り付けている。理論上印刷はできるかも知れないが、読みやすさを考えたら常識的なものではない。おまけにA5の単行本なのに2段組ときた。「こんな商品にならないものを作ってたら、恥ずかしくて看板出せないでしょう」「私はそうは思いません。あなたがどこに何を割り付けるかをすべて指示しないのが悪いんです」「いやね、こっちがそこまでやったら、あなたはデザイナーではなくて、たんなるオペーレーターでしょう。デザインをおこすところからするという約束だったし、またそういう条件でもできる人がデザイナーを名乗れるんじゃないの?」「いいえ、私はデザイナーです。話は平行線ですね」 もっとも、その自称「デザイナー」は、「オペレーター」としても失格だった。画像などもいわれたところにおいていないし、基本的な用語も理解していなかった。そもそも、「デザイナー」であろうが「オペレーター」であろうが、ノドや余白の常識がわからないのはおかしな話であるし、きちんと仕事をする人は自分の職域や肩書きに対してもっと誠実であろう。 いずれにしても、以来、弊社では仕事を発注する際、「デザイナー」か「オペレーター」かの違いについて、相手に失礼になるのではないかと言うほどくどい確認を行うようになってしまった。あつものに懲りてなますをふくというが、これもトラウマの一種かもしれない。
2003年03月02日
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このホームページが、他の「SOHO」関連サイトで宣伝をしていただいていることは掲示板の書き込みで知ったが、昨日、複数のサイトでそれを確認できた。 ホームページを開設するということは、不特定多数の方々の閲覧が前提となっているわけだし、ましてや私はメールマガジンも出しているぐらいなので、宣伝自体は大変ありがたいことだと思う。本来は、私がやるべきことなのだから。 ただ、宣伝してくださった方の意図や自覚はどうあれ、宣伝されたサイトでは、ここの日記に書かれていることは、おそらく黙殺されるか、場合によっては意図的に歪曲された形で、悪意をもって取り上げられるのではないかと私は危惧している。 多くの「SOHO」関連サイトは、明らかにSOHOの「弱者」としての断片を話題の中心に据えることを意図し、さらには、SOHO同士のグチやたわいもない会話で盛り上がることを目的としているようで、掲示板でも以前、どなたかが書かれたと記憶しているが、まじめなSOHOに対する真の啓蒙を目的としているとはいえない。 それはいきおい、社会人としての常識はおろか、ネットワーカーとしてのルールまでも無視した、「SOHOさえよければそれでいい」という、いわば「SOHO独善主義」とでもいうべき価値観で全てを丸め込む、社会的に見ればクレーマー的な方向への「議論」すら繰り広げられることもある。 たとえばあるサイトでは、企業の実名まで暴露して、「雇い賃が安いから悪徳だ」「本社から離れた地域で募集しているのは怪しい」などという中傷が、何の疑いもなく繰り広げられている。 SOHOが弱者であろうがなかろうが、これ自体、立派な信用毀損(個人の場合、名誉毀損)になる。近代法に於ける「名誉」とは「虚名の保護」という法の原則を、SOHOだけでなく、その管理者がきちんと認識していないから、そんな危ない「議論」にストップがかからない。 ケーススタディとして議論したいのなら、企業の実名を出さずにプロットだけで語ればいいことである。それは社会人として、ネットワーカーとして当たり前の分別であろう。 そもそも、「安い」ことと「悪徳」であることは、法的にも論理的にもイコールではない。それに、「安い」というのはコストや予算や受け手の能力によって解釈が変わるものであり、何らかの客観的な基準に基づいた「事実判断」でない限り、あまり合理性のある議論にはならない。 面白いのは、主婦SOHOはしばしば、中小の編プロを「雇う側」などとして一線を画し、自分たちへのいかなる意見(善意の批判を含む)も、「敵対」した側の為にするものという口実のもとに真正面からそれを受け止めようとしない(いや、本気でそう思っているのか?) 彼女たちは、中小の編プロも主婦SOHOと同じ立場から悩まされる場合もある、という社会構造を知るべきである。しかし、いわゆる「SOHO関連サイト」(の管理者)がきちんとそういうことを啓蒙しているとは言い難い。それはたぶん、その人達も世間知らずなのだろうと私は考えている。「SOHO」の商行為が抱える問題点というのは、「雇う側」と「雇われる側」が最初から固定的なレッテルのもとに役割分担されて対峙しているわけではない。「SOHO」をめぐるトラブルをちょっと考えて欲しい。商行為自体は本来、SOHOであろうがなかろうがれっきとした商法上の問題である。いわゆる「下請けいじめ」という社会政策的問題も、SOHOだけが被害者となる問題ではない。悪徳業者に騙される事件は、本来は消費者問題の一環になる。 つまり、「SOHO固有の問題」である場合も全くないわけではないが、基本的にそれらは、SOHOであろうがなかろうが、関係ない。しかし、考えてみれば、以前も書いたようにそれは当たり前の話なのである。「SOHO」というのは形態に過ぎず、「個人や零細で働く者」という本質は、何も目新しい労働主体ではないのだ。 そういった客観的な仕組みも知らせることのないまま、「SOHOは弱者」であるという啓蒙ばかりを行ったらいったいどういうことになるのか。彼女たちは自分たちの無知も力不足もすべて「雇う側が悪徳だから」という論法で安易に片づけてしまうだろう。それは悪質な責任転嫁になる場合もあり、何よりもその人が本当に努力と自省をする機会を奪うことにならないのだろうか。そして、結局はSOHOという形態自体が社会的な信用を失うことになるだろう。 私が、「主婦SOHO」の人たちにアドバイスしたいのは、伸びる秘訣は、広い意味での「経験」の量と出会いの質、ということだ。 もしあなたが本気で仕事をしたいのなら、苦しいことがあっても逃げずに、「貴重な経験なんだ」という発想の転換をして、ことに技術的な面では自分に対する厳しさを手放さないで欲しい。念のため言っておくが、それは「悪徳」に対して泣き寝入りをしろ、ということを全く意味しない。強いて言えば、「悪徳」のつけ込みうるこの現代社会の構造やルールなどをありのままに見て、その中をしっかり生きていく、という勇気と見識をもってほしい、ということである。 それには、SOHOと名のつく小さいコミュニティーで自己満足的な議論に止まることなく、より広い視野でカルチャーショックを正面から受ける意欲をつねに持っていて欲しい。 そして暇つぶし目的で「仕事をゲットしたい」のなら、別の趣味を見つけて欲しい。仕事は遊びではない。貴重な人生、何も好きこのんで辛いことに手を出し、挙げ句の果てに人様に迷惑をかけることもないだろう。
2003年03月01日
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