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暑中お見舞い申し上げます毎日暑い日が続いております。私達夫婦の毎週日曜日の朝が、お墓参りの予定日です。昨日も朝から暑いでしたが、熱々の墓石に沢山のお水をかけてあげました。朝から雲が立ち込め、まるで地上の熱を雲が蔽い逃げることができないようにしているような蒸し暑さでした。お参りをして自宅に戻り、昼食をとり、雲行きが怪しくなってきたので洗濯物を取り入れ、窓を閉めたら突然の雨です。雷が鳴り風が吹き外はまるで夜のようになり、部屋の電気をつけて本を読んでおりました。ちっよっと転寝をしていたら 雨がやみ外は明るくなりました。窓を開けたら す~と涼しい風が吹いていました。買い物に出かけて、私の住んでいるところから東側の地域で道路のいたるところに 葉っぱや小枝が落ちているのに気がつきました。まるで台風の後のようでした。夕方自宅に戻りましたら、次男が隣町の海水浴から帰ってきて「今日、昼、緑地で竜巻があって 一人亡くなったようだ。」と聞きました。あわててTVをつけ、事故のニュースを見ました。2kしか離れてないのにそんな突風が吹いたのが信じられませんでした。まして、楽しいはずのイベントで亡くなる人がでたことが。自然の大きな力の前で、人間は本当に何もできない家族の方の心痛はいかばかりかと思います。今は静かに亡くなられた方の御冥福を祈りたいです。
2008.07.28
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すべてのセレモニーが無事に終わり、事故から4日目(月)曜日セレモニーに仕事で来られなかった職場の先輩が来てくれました。お骨になった大樹・遺影を前に、今度会って二人で飲もうと思い、旅行で買ったお土産のお酒を前に、杯を交わして暫く泣いておられました。「大樹は 僕の後輩の中で一番素晴らしく、そのうちに追い越していくのを楽しみにしていました。一番期待していたのに、残念です。何事にも一生懸命でしたよ。本当に信じられない」仕事のことを他の人から評価されていたのが、親としても嬉しかったです。この日も、弔問客の方が何人かこられました。悲しんでる暇もなく、後始末という辛い仕事が家族には残されます。事故の日の遺品の整理。この時ばかりは次男が頼もしく思えました。淡々とするべき仕事を言ってくれます。あの黒いゴミ袋に入っていた服・靴・鞄・ヘルメットゆっくり見る勇気はありませんでした。「おかん、血の着いたものは触ったらあかん」と次男に言われました。頭とあごだけを怪我していたので あまり血はついていません。ただ救急車で破られたジーパンは、大樹が気に入ってたのでかわいそうでした。リックもとても気に入ってましたが 少し血がついていたので処分しました。そしてヘルメットは、職場にある 血痕を取り除く処理剤を使い、庭で洗っていました。どんな気持ちで兄のかぶってたヘルメットを洗っているのか 暫く眺めていました。その血液の量の多さにあらためて 医者の言葉の意味を感じました。洗い終えてから 二人でヘルメットを見たら前のフレームのところにまるでハンマーで釘を刺して割ったような鋭い傷跡がありました。後は何も無いのです。すごい衝撃がここにあったのだと 思いました。後日仲間の方にお話をいたしました。皆はヘルメットがその様に見えなかったので脳震盪を起こしていると最初は思われたほどです。救急車に乗って心肺停止の状態を聞かされたようです。大好きな THE BLUE HEARTSのヘルメット戌年産まれの犬嫌いは皆の知るところですが、唯一犬と一緒に写真に写ってます。心なしか顔が引きつっているように 私には見えます。
2008.07.26
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送り言葉集の色紙は棺の中に納めました。このように手元に残っているのは、セレモニー方がコピーをとってくれたからです。少し紹介いたします。“お前だけはいつも俺の味方やった ほんとうにありがとう”“まだ知り合って2年くらいか?会う度に大ちゃんの無邪気にハシャグ子供の様なスガタを見て元気もらってた。休みが合わずたった一度しか走れなかったけど、心の中にこれからも走ろう。仲間を見守ってくれ。”“5月29日の高山ツーリングが最初で最後やったな。なかなかいっしょに走れんかったんやな。もっと色んなとこ行きたかった・・・。またいっしょに走りたい。本当にありがとうございました。”“一度も制服姿を拝見できなたっかのが心残りでなりません。本当にこの・・・・。安らかに・・・。天国でも ハーレーと楽しめよ!”“今年も来年も再来年もずっとずっと俺らの「カンジ」はお前やぞ。これからもずっと一緒やからな”“大樹、おれは、ぶっちゃけお前の影響を受けまくったぞ。バイクに興味を持ったのも、JRに就職をしたいと考えたのも、全部お前の影響だったよ。一緒に朝練してたことが、つい昨日のことに思えます。そういえば、お前の仕事姿を見たのは、おれの採用試験のときやな。お前が車掌で回ってきた時びっくりしたわ。最後になるけど、お前が残した仕事に対する姿勢、勇姿を受け継ぎ、JR西日本を背負って行くから見守っててな。ありがとう。”“大樹の笑顔が好きやった。俺は、先輩じゃないお前の友達だ!!”“大樹、寮では色々と話したなー お前がバイクで行く時「きをつけてな」が最後の会話となったなー。天国で皆と仲良く”“お母さんの側に直ぐうまれておいでよ”“大ちゃんへ 自分をしっかり持っていたお前はかっこよかったぞ 絶対、どこかでまたあえる!いつかいっしょに走ろーぜ”“5日バーベキューするってゆーとったじゃやないっすか。これからもっと大樹さんと思い出をつくろうと思ったのに。大樹さんは、僕の心の中で生き続けます。やからこれからもよろしく。”“10月にはわいの結婚式で「その頃には敦賀に戻れる」っていうとったから、結婚式が済んだら大樹といっぱい遊べると思ってたんやけど・・・省略・・お前はほんまにバイク大好きやったからな。ほな、また会う日までわいは全力で頑張るから、見とってくれよ!!みんなもわいもお前のことが大好きやったぞ!!”“おまえがくれた、HiLonsのTシャツ、大事にするわ。省略 卒業してからカラオケしたよなあ。STANS PUNKSを知っててまじでおどろいたわ。いつも女の話で、それが最高におもろかったわ。まあ、長くなりすぎたけどみんなは、一人のために、一人はみんなのために、精神で、がんばろうぜ。またいつか会おうな。ぜったいに会おうな。約束な”“若き君へ23年間という短い人生であったかもしれませんが充実した人生を生きられたと確信いたします。いくつまで生きたよりいかに生きたかと人生の師匠が語ってくれました。”多くの花で、また思い出の品、制服などで棺の蓋が浮き上がるほどでした。私は18の時に、病気で亡くなった母の葬式を経験しています。その時代は棺に釘を打つのです。その音が後まで残りました。今はいたしません。友人や同僚に見送られて、セレモニー会場から 通った小学校の近くを通り、市営球場、中学校、高校。(すべて自宅から1キロ以内にあるのです)自宅前に車を進め、最後のお別れを済ませ、斎場に向かいました。友人達も斎場まで来てくれました。そこで食事をして待つのですが、何を話して待っていたのか 今でも思い出せません。ただじ~っと外を見ていたような気がします。家族も友人も大樹の骨を納め、また納められた骨壷をみて あらためて「死」を認めました。肉体があるあいだは まだ奇跡を信じている自分がいました。それから、初七日のお経を頂き、仕上げといって お手伝いをしていただいた地域の方や親戚に食事をふるまい やっと自宅に戻れるのです。長~い辛い一日がようやく終わり、仏間に祭壇を造って頂き やっと家に帰ってきました。2005.8.26郡上八幡にて夕日をあびて
2008.07.23
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亡くなった日も天気は晴天。それから毎日本当に晴天つづき。告別式の日も朝から青空でした。まったく気持ちの良い初夏の一日 旅立ちの日としては上天気なのでしょうね。皆の心にぱっかりあいた 悲しみを埋めてくれるようなみごとな快晴のそら。「お母様、お父様」と言われ矢継ぎ早の段取りに時間を取られている間に 告別式の時間になりました。ゆっくり悲しむ時間もないのです。セレモニーの担当者が私の中学の後輩で、しかも大樹とクラスは違いますが同級の息子がいるお母さんでしたので随分助かりました。弔辞は会社の上司の方が、また同期の同僚が、そして野球部の同級生が心をこめて話してくれました。いつの間に書いてくれたのか。後で皆で相談しながら書いたと話してくれました。そして会場の受付に置いてあった色紙に送り言葉を書いてもらいました。“ちょうどお前が無くなる1週間前、髪を切りにきてくれて いつもみたいに笑って話してたシーンが今、頭の中でグルグルまわってます。もっとお前と音楽の話を含めてたくさん話したかった。お前の分も一生懸命生きるわ。”“小・中・高ってずっと一緒にいたけど、もっと一緒にいればって思うわ。3日に飲もうって言ってたのが信じられん。お前の分も頑張りたいと思う”“小学校の時、お前とバッテリー組めて楽しかったぞ。お前のピッチングはすごかった。また野球やろうな。今までお疲れ様。”“大樹初めて会った時、洋楽の話をアツク語ってそれからすごく気の合う最高の二人になれたよな。こんなにすべてが似ている大樹にすごく楽しい思い出もらった。本当にありがとう。”“大樹の笑顔、一生忘れんぞ!!めちゃさびしい。またいつか会えるのを楽しみにしとるな。”“ローリングストーンズ・ザ・フーのライヴ大ちゃんと一緒に行く事ができてよかった。最高のライヴやったな!!ありがとう”“また一緒にライブ行きたかった 見とってくれオレも全力で生きる”“いつでもお前の笑顔は忘れんぞ!!しばらくは会えないけど、いつでもお前がそばにいると思ってるからな”“大樹は何をしても笑わせてくれて、野球している時も就職して一緒におる時もめっちゃおもろかった。ありがとな大樹”“野球部に入部した当初は、あんまり話とかしてなかったけど、気づいたら部員の中で一番仲良くしてくれた大樹。お前が横におると遊びも楽しくなるし、辛い時は二人でバカやって乗り越えたよな。これからは、大樹の分も明るく前向きに頑張るよ。”最後の乗務は、5月31日の深夜。つまり6月1日。米原から金沢の運転でした。
2008.07.19
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頭は混乱したままお通夜の朝。この日も朝から弔問の方が来てくれました。女友達が大樹のハーレーのモデルを探してきてくれ、飾ってくれました。いろいろな人がこられるので 何を話したのか覚えていません。ただ、午後から時間のある方は棺を出すときにいて欲しいと頼みました。親戚も皆昼にはそろいました。まさか息子の湯灌をしなくては いけないなんて。ただぼ~うと見ているだけでした。「白装束なんてかっこわり~な」なんて言ってる様で後で夏に着るように仕立てた浴衣があったのを思い出しました。その時は冷静でないので考えがつきませんでしたね貴方に持たせたお数珠は 私が大事に使っていたものです。こころ安らかに眠って欲しい。母の願いでした。滞りなく通夜も進みましたが、弔問の友人が多く、遠方から帰ってきてくれた先輩や後輩。主人が「時間のある方は、ゆっくりしてにぎやかにおくって欲しい」と挨拶したものですから、沢山の友達が椅子で床でソファで仮眠をしながら一晩を過ごしてくれました。次男も一睡もせず、皆といてくれました。私が朝目覚めたら 皆いろいろな所で寝ていました。「悔しくて 悲しくて 飲んだよ」「大樹が皆を集めてくれた」と皆が言ってた。「わり~皆忙しいのに、おどかして」なんて上から見ていたのかしら
2008.07.14
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26年前の7月14日 息子大樹は生まれました。体重は 3650g 元気な色黒の男の子主人は男の子がほしかったので 「やった」と言ったそうです。産むのは私ですよ!!亡くなった子供の歳をかぞえる。亡くなって2年、日が経つにつれ その言葉のもつ意味が 重く受け止められます。生きていた年数に亡くなってからの年数を必ず足さなくてはならないのですね今はいいけれど 歳を重ねていくとちゃんと足せるでしょうか
2008.07.14
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大樹、久しぶり!6月1日ではや1年が過つんやな!早いもんや。大樹が最終乗務の501Mで金沢に戻った時に6月23日の約束やったかな?コンパの約束の話をしたのが最後だったね。アホみたいに笑いながら。懐かしいよ。1日の日、俺は友達と津幡の方まで買い物に行ってた最中、15時頃に○○指導助役から電話があってさ、「山崎が勝山の方でバイクでこけたから、お前地元だから道わかるだろう!?乗せて行ってくれ!」って言われて、友達と二人して足の骨でもいっちまったんかな?って思ってたよ。16時ちょと前やったかな?列車区に指導助役を迎えに行ったら、鬼のおっさんが泣いて車に乗って来たのには、いまでも忘れられないね。越前大野に着いた時には、ツーリングのメンバーみんなが、俺から見たら、みんな悲しい表情の中に、悔しい表情が見えた様に感じたよ。同僚の方が去年の1周忌の前に、大樹の携帯にをくれました。事故の日の事が書かれていました。時間の経過と共に冷静に話を聞けるものです。その時は、目の前にしなくてはいけないことがあり、仮に聞いていてもどれだけ覚えているか自身がありません。眠れぬ夜を過ごし 次の朝、地域の役員の方に葬式の連絡を済ませた時近所の同級生のお母さんが 来てくれ共に泣きました。昨夜の内に友人達には連絡が入っており、同級生も泣いて寝れなかったと言って、仕事にでかけたそうです。弔問の方とお話をしながら、セレモニーの打ち合わせ。ここで困った事に、遺影にする写真がなかなか無い。高校時代は部活で ほとんど坊主頭。社会人になってからは写真を撮る機会が無く アルバムをみても無いのです。娘なら成人式の写真、と言えるのですが息子はないのです。困っていたら近所に住む方が尋ねてくださり、「お兄ちゃんの写真ありますよ」と1年前に自宅の前でハーレーに乗っている写真を持ってきてくださいました。その写真は生前、大樹が頂いたのを見た覚えのある写真でした。お気に入りの帽子をかぶっていました。「帽子はどうなのかしら」「息子さんらしいのであればいいのですよ」ということで15枚の写真の一番いいのを選びました。思いもしない申し出に、本当に感謝しています。素敵な遺影ができた事を。午後から職場の上司の方がツーリングの方と一緒に弔問に来ていただきました。主人に「大切な息子さんを お預かりしておきながらこのようなことになり、年配者がついていながら大変申し訳ありません。」と涙声で言われました。私は心から皆さんに大変な迷惑をかけたと深く頭を下げました。息子の不注意でこのような事態を引き起こした事を詫びました。その時に息子の制服と運転士用かばんなどを持ってきていただきましたので、大樹のそばに飾りました。そしてセレモニー会場に飾る写真がありましたら探して欲しいとお願いいたしました。早く仕事を切り上げた友人たちが、私達夫婦の友人、野球関係者、金曜日でしたので夜遅くまで続きました。土曜日がお通夜、日曜日が告別式となります。ツーリング中、いっぷく 気持ちの良い秋の日。
2008.07.10
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夜の8時半頃自宅に帰ってきました。私達は帰る道すがら、私の実家の両親に大樹を迎える準備を頼み、北海道の私の弟に連絡をして 辛い報告をしました。2000年の6月に同居している義父が老衰のため亡くなり、お葬式をだしていました。その経験からこれからしなければならない事の多さを考えて家に着いたときから、泣いてばかりいられません。夕方のニュースも新聞報道も住所が金沢の寮の住所であったため私の息子と後で知った方もおられました。とにかくセレモニーの会場を決めようとしていた時に 会社の方が来て下さいました。「大野のほうに行きましたが、入れ違いになりました。これからの事をサポートいたします。何でもお話ください。」地元から支社に勤務されておられる方でした。主人の弟家族、近所の知人びっくりして来ていただきました。セレモニーの会場も決まり、玄関に喪中の紙を張りそして、ひっそりと静まりた座敷でぼ~としていました。座敷の隣の部屋は80半ばの義母、大樹の両脇に私と主人。何年ぶりに川の字になって寝ました。私達夫婦も言葉も無く、義母も言葉も無く、ただ横になっている。寝て起きたら、みんな夢であって欲しいと!寝れない夜が過ぎていきます。ただ冷たくなった大樹の体をさすり続けながら。次男も言葉少なげで、2階にあがっていました。2歳下で同じ野球部にいたので 大樹の友人から相当の連絡が入っていたようです。昔ならば家の電話ですが今は携帯ですね。大樹の携帯もその頃は次男が持っていました。大樹の同期には野球部はいませんでしたが、次男と同級の野球部後輩が職場や寮にいました。私たちが家を出た頃、職場には死亡の連絡が入っていました。それはすぐに伝達されたそうです。事故の翌日も勤務が入っており、相当の勤務変更をしなければならなかったと思います。事故後大樹の変わりに運転した同僚が、「泣くのを我慢して運転した」と報告してくれました。友人たちもその日の晩は眠れぬ夜を過したと教えてくれました。長い長い1日は 夢のようでした。2005.10.13ツーリング中 牛と話をしています。何を話しているのでしょうか?
2008.07.08
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何も予定の無い、久しぶりの日曜日主人と二人で『奇跡のシンフォニー』を見てきました。お客さんは少なかったのでゆったりと座れました。音楽の持つ素晴らしい魅力が溢れており、久しぶりに暖かい気持ちになりました。少年が、特にいつか両親に会えるという希望を失わず生きていく姿。常に運命を手繰り寄せるように生きていく姿。感動で何度も涙がでました。『奇跡のシンフォニー』是非皆さんも見ていただきたいです。映画と言えば前回は、戦艦ヤマトでした。「もし戦争になったら、お母さんは絶対行かせない。何があっても。大事な息子を行かせない。」「おかんなら、やりそうだな。」そんな話をしたことを、思い出しています。
2008.07.08
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【ポイント3倍★7日am9:59迄】セレナード/キャサリン・ジェンキンス[CD]もう一つの“千の風になって”という新聞広告を見てすぐに購入したCDです。それまで、キャサリン・ジェンキンスの名前すら知りませんでしたが聞いてみて その素晴らしい声にびっくりいたしました。さすがに「世界でいちばん ゴージャスな歌姫」と言われるわけが理解できます。千の風の詩集に出会ったのは、大樹が亡くなって49日の頃だと思います。大切なお客様から 「早く元気になってほしい」とプレゼントして頂いきました。ブルーの綺麗なリボンがかけられてありました。そっと紐解いて 写真をみて、歌を読み、涙が溢れてきました。私はあの写真の中の 赤ちゃんの足の裏の写真がとても好きです。母親なら何度もながめた自分の子供のあし。あらためて 足の裏の写真を見ることはありませんでしたから、とても新鮮に映りました。不思議に泣くだけ泣いたら、またゆっくりはじめから見て傍にある息子の写真に 「あなたも千の風になったのね」と言いました。そして2006年の秋頃、秋川さんの「千の風の歌」が カーラジオから流れた時は思わず車を止めて 泣いてしまいました。日本語の歌は まだ私には きつかったです。このCDには15曲目に ボーナストラックとして「千の風になって」が歌われています。複数存在すると言われる「千の風になって」のヴァリアントの中から、シュワルツコフの遺族の友人が広めたとされるヴァージョンにジェフ・スティーヴンスが曲を付けたものです。時々ドライブの時聞いています。
2008.07.02
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