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ラストにBack numberを入れました。前回触れた造船所の石川島播磨重工(IHI)であるが、どうも私の母校に縁がある。母校もご近所の築地にあったのだ。母校は関東大震災後に武蔵野に移転した。その後戦争で、武蔵野の学校が爆撃されて生徒が亡くなっている。その理由が、石川島播磨重工の飛行機部門、ジェットエンジンを造っている工場が近くにあった事で間違われたらしいのだ。武蔵野の学校は緑に囲まれた広大な敷地にあったから、上空からでは確かにわからなかったのかもしれない。その悲劇について、学校の七不思議の中「乙女椿の伝説」なるものが有り、「女生徒の死」以降「血のように真っ赤に咲くようになった」と言うツバキの花の事が伝説となり伝えられている。在学中にどのツバキだ? と探したのを憶えている。爆撃された場所の特定はしたが、ツバキの方はたくさん有りすぎて解らなかった。それにしても、石川島播磨重工(IHI)がもともと水戸藩の造船所が出発だったとは知らなかった。東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史月島川水門東京都下水道局明石町ポンプ所東京都の水害対策聖路加ガーデン(St.Luke's Garden)佃大橋(つくだおおはし)と佃島の渡し(つくだのわたし)住吉水門(すみよしすいもん)と佃川支川(つくだがわしせん)徳川家康と佃島の歴史亀島川水門(かめじまがわすいもん)霊岸島水位観測所(れいがんとうすいいかんそくじょ)中央大橋(ちゅうおうおおはし)大島川水門(おおしまがわすいもん)月島川水門昭和39年竣工 鋼製単葉ローラーゲート有効幅員 11m×1連 上空制限高(A.P.) +8.9m平成28年に耐震化工事が完了。門が変わったようです。※ 耐水対策で浸水しても可動できるよう電気系統が上にあがったのでしょう。月島川は月島川水門を経て隅田川と朝潮運河をつなぐ全長530mの川。明治25年~27年に作られた月島1号地(現月島)と月島2号地(現勝どき)の間を流れている川で、月島川を境として中央区勝どきと月島に分かれている。月島川水門前のブルー補強工事か? 3月には無かった。対岸の勝どき橋から佃大橋の間に東京都下水道局明石町ポンプ所がある。地図上では川が見えないので不思議であるが、この地帯はもともと土地が低いので恐らく人工的排水システムで内部の水位を下げているのでしょう。このポンプ場の少し裏手に築地本願寺があります。関東大震災が起きた後に海の上に再建したと聞いたので、このあたりも埋め立てなのかも。東京都の水害対策東京都では、東日本大震災を受け、建設局、港湾局、下水道局の3 局で「地震・津波に伴う水害対策を検討。今までも、すでに東部低地帯の河川域の対策を講じてきていますが、震災後にマグニチュード8.2 の海溝型地震等、想定される最大級の地震や津波高潮などに対応できる設備の強化などすすめられてきた。※ 特に地盤の低い隅田川、中川、旧江戸川等については防潮堤や護岸(スーパー堤防)、水門・排水機場等の整備が完成している。近年、さらに建物の耐震設計と護岸の強化、また津波、高潮によ浸水被害など例え浸水しても設備が稼働できるよう、電気系統などを高い位置に設置するなど対策を進めている。東京で特に心配なのが、この隅田川流域を含む東部低地帯の浸水。大正から昭和40年代にかけて進行した地盤沈下の影響で、地盤高が朔望平均満潮位より低い。かつては度々水害に襲われていた場所。水門や排水機場等の設置により、平常水位を人工的に周囲の地盤高程度まで低下させ、また護岸や河道の整備で水害はなくなったらしい。とは言え、今回の岡山県倉敷市真備(まび)町で起きた小田川の決壊などは集中豪雨による増水。荒川が同じように決壊したら東部低地帯は水没。東京も壊滅に? 東京都は決壊を起こさないよう学識経験者を集めて対策を講じているらしい。佃大橋(つくだおおはし)に向かって左手前が聖路加(せいるか)レジデンス。聖路加ガーデン(St.Luke's Garden)裏手は聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)聖路加国際病院(せいるかこくさいびょういん)の第3街区に位置する聖路加ガーデン(St.Luke's Garden)は、47階のタワー塔と、38階の聖路加レジデンスのツインタワーで構成されている。38階の棟は、4階に医療施設「聖路加クリニック」が設置。7階〜30階は、医療介護付き居住施設の「聖路加レジデンス」(175戸)となっていて、介護・介助サービスも万全に提供されている。つまり、超高級系の介護付きマンションである。尚、38階の棟の32階〜38階はホテル「銀座クレストン(旧 東京新阪急ホテル築地)」となっているので家族が来ても宿泊には困らないようですね。因みに、「せいろか」ではなく、本来は聖路加(せいるか)が正しい。福音書記者の「聖ルカ」を和名にしたのが「聖路加」なのだ。「聖ルカ」の家は、代々医者だったと信じられているからかな?聖路加ガーデン前からの佃大橋全景右の白い橋が中央大橋。隅田川は右にカーブしていく。またここは亀島川(左)から墨田川への合流点でもある。佃大橋と右の高層ビルは月島のラスト「佃エリア」かつて石川島の造船所があった場所である。佃大橋(つくだおおはし)と佃島の渡し(つくだのわたし)江戸時代より320年余り続いたと言う隅田川の渡船場「佃島の渡し」があった場所に架橋された佃大橋(つくだおおはし)。戦後初めての隅田川の架橋だったと言う。実は江戸時代に隅田川への架橋には防備の観点から制限があったそうだ。特に東方面は奥州や総州へ繋がるので、最盛期の明治時代初頭には20以上の渡船場が街道筋に存在したらしい。自動車や市電の発達など、交通網も変化する中、特に関東大震災の被災からの復興事業に伴う新規架橋が進み、渡しは消えて行ったと言う。「富士見の渡し」(葛飾北斎 「冨嶽三十六景色 御厩川岸 両國橋夕陽見」)ウィキメディアコモンズより借りてきました。佃公園(つくだこうえん)とリバーポイントタワー&住吉水門写真右の鳥居が、おそらく佃の氏神である住吉神社へのかつての隅田川からのアクセスゲート。.住吉水門(すみよしすいもん)と佃川支川(つくだがわしせん)佃川支川(つくだがわしせん)の水門が住吉水門(すみよしすいもん)。かつての月島と佃島の間を流れていた川は、佃大橋の完成と共に一部埋め立てられ、住吉神社につながる逆L字の掘割りに残っている。住吉水門(すみよしすいもん) 昭和40年竣工 鋼製単葉ローラーゲート有効幅員 4m×1連上空制限高(A.P.) +5.75m平成28年度に耐震化工事が完了。門が変わったようです。徳川家康と佃島の歴史佃島と住吉神社の歴史は16世紀の天正時代に遡るらしい。1582年(天正10年)6月本能寺の変の知らせを受けた徳川家康は慌てて大阪を脱出する際に摂津国の佃村(現・大阪市西淀川区佃)の漁師らが船を出し、食べ物を提供してくれたおかげで大阪脱出を果たしたと伝えられている。その恩義の延長なのか?後に徳川家康が江戸に幕府を開くと、もともと江戸湾に漁師も少なく増える人に対しての食糧事情が低かった事もあり、彼の佃村および大和田村の漁夫33人と神主を江戸に呼び寄せ、漁師として、将軍家に魚を献上する任をまかせたと言う。当初は安藤対馬守重信(あんどうつしまのかみしげのぶ)の屋敷に居候。後に当時干潟であった場所をもらい受け、埋め立てて築島にして住んだと言われる。住吉神社は彼らの氏神様であった。だから佃島(つくだじま)の名は彼らの故郷(摂津国佃村)に由来しているし、もともと彼らの塩ゆでの小魚料理は、江戸に来て醤油に代わり、名物の佃煮が誕生したと言う。佃大橋を振り返って川下側を見た所。橋の手前側、双方に佃島渡船跡が残っているようだ。高いビルが先に紹介した聖路加ガーデン(St.Luke's Garden)のタワー塔。その右手が築地であり、さらに奧が銀座。さて、月島にかかる最後の橋。中央大橋に向かって中央大橋の手前左に亀島川が合流。亀島川水門がある。(写真見切れている所)亀島川水門(かめじまがわすいもん)昭和43年竣工 鋼製単葉ローラーゲート有効幅員 15m×2連上空制限高(A.P.) +8m日本橋川から分流する亀島川はその分流点に日本橋水門を持ち、隅田川と合流する中央大橋下流に亀島川水門(かめじまがわすいもん)を持つ。2つの防潮水門で完全に閉め切ることができるそうだ。何しろ亀島川は八丁堀、茅場町、箱崎へと流れているからだ。江戸期には亀島川沿いの八丁堀に御船手奉行所が置かれ、江戸に入る船舶の検め(あらた)をおこなったと言う。検めを行った徳川水軍の将で、御召船奉行であった向井忠勝(むかい ただかつ)(1582年~1641年)こと、向井将監 (むかいしょうげん)の屋敷は合流の箱崎。亀島川河岸は将監(しょうげん)河岸と呼ばれていたらしい。気になっていたのが、水門前のキューブ。(写真下の右)霊岸島水位観測所(れいがんとうすいいかんそくじょ)1873年(明治6年)~明1879年(明治12年)の間、3ヶ月毎の満潮位と干潮位を測定しその平均値を算出。霊岸島水位標を東京湾平均海面(T.P.0m)とし全国の高さの基準としたそうです。つまり、ここは日本の水準点の原点だった場所です。しかし、東京湾の埋立てや隅田川の影響があり、水準原点の検証をする観測所としては不適合となり、現在は神奈川県三浦半島油壺の観測所に移設。隅田川のテラス護岸の施行に伴い1994年(平成6年)に元の位置から移動して現在も荒川水系の基礎データの観測を続けているようです。川上側からの中央大橋川上側からの中央大橋 この橋を写真右(西)に進むと東京駅の八重洲口に出るのだ。中央大橋(ちゅうおうおおはし)竣工 1993年(平成5年)8月構造形式 二径間連続鋼斜張橋橋長 210.7m幅員 25.0m橋桁製作 石川島播磨重工業横浜工場(地元だからね)昭和の橋と異なりデザインも考慮された造り。ひと味違う橋である。ライトアップが映えるらしい。バブル絶頂期のものなので分不相応なほどの贅沢だとウィキペディアには書かれていた。笑えるちょっと逆光ですが・・。豊洲運河を越えると江東区に入り越中島。越中島と永代大島川水門(おおしまがわすいもん)昭和33年竣工 鋼製単葉ローラーゲート有効幅員 11m×2連上空制限高(A.P.) +7.5m平成28年に耐震化工事が完了。門が変わったようです。この水門の向こう大島川は永代、門前仲町、深川とめぐる。調度大島水門前あたりからの下流、中央大橋と月島方面。中央区の月島。右が隅田川 左が豊洲運河の分岐点船は永代橋に進む Back numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年07月23日
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東京港湾局のリンク先、変わっていたので入れ替えました。西日本の豪雨による土砂崩れや川の氾濫による大災害が続き、日本は大丈夫なのか? と本気で心配します。何十年に1度の災害とは言うけど、果たしてそうなのだろうか?近年毎年のように、年間の降雨水量を超える豪雨に見舞われ、土砂崩れや堤防の決壊と言う事故が起きているこの現状。もはや地球環境そのものが変化して、気候が変動しているとしか思えない。つまり、今までの年間降水量などあてにならない。集中豪雨は当たり前のように毎年起こる事象になるのではないか? と言う事。そしてそれに伴う水害や土砂崩れも然り(しかり)である。そうなれば、当然、今までの都市整備では処理しきれないだろう事は目に見えている。抜本的改良をしない限り、毎年のように同じところが水害に見舞われるだろう事は秤(はかり)知れると言う事だ。めったに無い事だから。予算も無いし。・・と、自治体が後手後手に抜本的改革をしないで来た所が被害にあった。ハザードマップで警告していたとしても実害が出るまで住民にはハザードの意識はなかったろうから。何も考えずに山を切り開き、宅地を造る。人口増加で一見、都市化したように見えても、これでは「砂上の楼閣(さじょうのろうかく)」。無作為な街の拡大が招いた災害だったと思わざる終えない。亡くなった方々のご冥福をお祈りいたします m(_ _)mさて、東京クルーズ2回目ですが、2回目もクルーズから遠くなってしまった気がします。当初は簡単に水門も入れるだけのつもりだったのですが、今回の水害を受けて細かく載せる事にしました。隅田川にたくさんある水門は今回のような水害に際して重要な役割を持っているからです。水門を単独に扱うか迷いましたが、場所にも意味があるので橋と平行で入れる事にしました。今回は最初に浜離宮の所にある水門と浜離宮も入れて紹介。隅田川は勝どき橋までですかね。東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場水門と排水機場の意味汐留川水門築地川水門と浜離宮築地市場月島の歴史勝鬨橋(かちどきばし)隅田川(すみだがわ)を遡上(そじょう)。見えるのは築地(つきじ)大橋。その左手前に浜離宮(はまりきゅう)。右手が月島の「豊海エリア」ピンクの→左から、汐留川(しおどめがわ)水門、築地川(つきじがわ)水門。.水門と排水機場の意味東京港に整備されている、高潮対策の整備の一つとして、支流の口に水門が設置されています。まさに今回の岡山県倉敷市真備(まび)町で起きた小田川の氾濫による浸水災害。そんな災害を防ぐ為にある水門です。岡山県倉敷市真備(まび)町で起きた小田川の決壊による水害は、そもそも小田川が注ぐ1級河川の高梁(たかはし)川の水位上昇が発端で起きたバックウォーター現象だったと言います。バックウォーター現象とは、本流への合流地点で、本流の水位が高いと支流の水が配水できず、逆に支流の方の水位が上がってしまうと言う現象で、それにより支流域に被害をもたらすと言うものです。※ 小田川では1970年以降、大きな浸水被害が5回も発生。1972年にも大雨で決壊し2000戸以上が床上浸水。問題は今の合流点にあるようで2029年頃をめどに新しく造り完成させる予定だったとか・・。東京港の水門は、高潮等で外水域の水位が高くなった場合、水門を閉鎖して内水域の水位上昇を防せぐ為にある。この時、同時に中の水を排水するシステムが作動される。(排水機場)水門を閉鎖した時、内水域の水位は当然上昇するので、排水機場のポンプを運転して内水域の水位を下げる為の排水作業が同時に進行すると言う方法がとられているようです。東京も水の都市でした。小さな河川はたくさんあるので、特に高潮による海からの逆流に対応する為にあちこちに水門と排水機場が造られているようです。この排水システムはどれくらいの河川にまで対応できるのでしょうね。下は東京港湾局のページから港湾局の資料に寄れば、50年確率(約250mm/日)又は100年確率(約340mm/日)の大雨が降っても、内水位が維持できるよう主排水ポンプの能力を決めているとの事。リンク 東京港湾局排水機場しくみ汐留川(しおどめがわ)水門昭和44年竣工 門扉型式 複葉ローラーゲート有効幅員 14m×1連上空制限高(A.P.) +6.1m汐留川(しおどめがわ)江戸時代初頭には軍港として利用された日比谷入り江。当初は江戸城前まで広がっていたと言う。1620年代になると埋め立て地が大名屋敷となり、もともと日比谷入り江にそそいでいた川は江戸城の外堀の一画として東に延伸。浜御殿(浜離宮恩賜庭園)の西縁にあたる水路を指して汐留川と呼んだそうだ。かつてこの汐留川の先に江戸城があったと言う事だ。現在残るのは浜離宮の西側と南側を縁取る900m程度。築地川(つきじがわ)水門 昭和44年竣工 門扉型式 スイングゲート有効幅員 14m×1連上空制限高(A.P.) なしクルーズ船の浜離宮停泊場へのゲートにもなっている。かなり驚くのはゲートの通り抜け。まさかここを? とちょっと感動。本来、浜離宮に入るのは下流コースのみ。今回は便宜上先に紹介する事にしました。※ 船のサイズによっては浜離宮に停泊できないので便が限られている?尚、浜離宮排水機場の写真がありませんが情報だけ。昭和45年竣工。主排水ポンプは立型軸流 ポンプ×4台口径 2,100mm。 排水量 42t/sec。浜離宮(はまりきゅう)正式名称は浜離宮恩賜庭園(はまりきゅう おんしていえん)元は将軍家の鷹狩の場所であったと言われているが、浜離宮の歴史は甲府藩の下屋敷だった所から始まる。時の甲府宰相,松平綱重(まつだいらつなしげ)の長男 松平虎松(幼名)が徳川の6代将軍 徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)(1662年~1712年)(在職:1709年~1712年)として即位すると。ここは徳川将軍家の別邸となり、浜御殿と呼ばれる。1709年(宝永6年)頃、現在のような庭園になったらしい。宮内省管理の離宮を経て現在は東京都の都立公園として開放されていて、近年外国人に人気の場所なのである。右の護岸は築地市場の一角である。正面左の斜めに見えるビルは東京汐留ビルディング。複合ビルで、ソフトバンクグループ本社やコンラッド・ホテル(Conrad Hotels)が入っている。正面右の大きなビルは大手広告代理店の電通(でんつう)が入る電通本社ビル。築地川は現在では本流が河口付近に750m程残っているのみ。かつての築地川の大部分は現在の首都高速都心環状線に転用されたようだ。大阪もそうであったが、東京も高速道路の用地に買収のいらない川の上が利用されているからね。浜離宮での乗船が終わると再び水門を抜けて隅田川に本当にこする事もなく完璧で拍手をしたくなるようなギリギリの通り抜けでした。築地大橋に向かって隅田川を遡上。築地大橋は先ほどの築地川の北側にある。築地大橋(つきじおおはし)と築地下は築地大橋(つきじおおはし)からの勝鬨橋(かちどきばし)築地大橋(つきじおおはし)頭上に横繋ぎ材の無い開放感がある鋼3径間連続中路式アーチ橋。橋長×幅員 245.0m×32.3~48.0m環状第2号線が通る「環二通り」となるもの。平成27年度に完成した隅田川の最も下流にある新しい橋なのですが、未だ通行がされていないそうです。上の地図は「環状第2号線 事業概要 2号線のあらまし」&道路Webから当初は地下トンネルで隅田川を越える予定だったが築地市場が豊洲に移転するので橋に変更。しかし、その豊洲移転が未だできていない事から築地市場内に計画されている環状第2号線の整備ができていない。だから未だ橋は未開通。東京都は「東京2020大会は、地上道路で対応」し「市場機能移転後、本線(トンネル)を整備し、東京2020大会後に完成」するとしているらしい。豊洲移転でコタゴタしたからです。築地大橋の下からの築地市場のバックヤード築地市場(つきじしじょう)東京都内に11か所ある東京都中央卸売市場の一つ。その規模は取引金額で日本・世界最大と言われる。市場は中央区築地。銀座からも歩いて来れる。まさにこの隅田川の真下、都営大江戸線が走っている。東京って凄い。築地市場の対岸、月島側はマンションが立ち並ぶ。このあたりは月島の「勝どきエリア」。リバーサイドの高層タワーはオール賃貸の高層タワーマンション「プラザタワー勝どき」手前の「リオフレンテ 勝どき」も賃貸らしい。最近は利便も良いし、おしゃれな地区になっているようですが・・。月島(つきしま)の歴史月島はほぼ埋め立てでできている。月島1号地は1892年(明治25年)にできた。隅田川が運んだ海底の泥土を積み上げてできたのだそうだ。もともと石川島に水戸藩の造った造船所があった。※ 石川島は佃二丁目あたりの旧名。※ ペリー来航に対抗するように江戸時代にできた造船所は後に石川島播磨重工業となり、現在 IHI Corporationと名称が変わっている。月島には造船関連の鉄鋼業や重工業が増えて行ったようだ。しかし、当時、隅田川に橋は無く、築地側などからの渡し船にたよっていたと言うのでかなり便の悪い所だったようだ。1929年(昭和4年)「東京港修築計画」に伴う4度目の計画で待望の架橋が決まった。※ 着工 1933年(昭和8年)~1940年(昭和15年)竣工。当時は船舶の往来も多く、3,000t 級の船舶が航行が視野に入れられた為に可動橋が考えられたと言う。しかも、当時、月島地区は1940年(昭和15年)に東京万国博覧会のメイン会場となる予定があり、橋は日本の技術力を誇示できるものでなくてはならなかった。1940年(昭和15年)東京万博の年に橋は完成する。それが勝鬨橋(かちどきばし)である。が、戦争の為に万博自体が中止となってしまった。勝鬨橋(かちどきばし)晴海通りが通る勝鬨橋(かちどきばし)は日本では数少ない可動橋の一つです。真ん中がパカッと持ち上がって開く跳ね橋(はねばし)構造になっています。可動部 シカゴ型双葉跳開橋固定部 鋼ソリッドリブタイドアーチ橋着工 1933年(昭和8年)~1940年(昭和15年)竣工。全長246m。 幅22m。最大支間長 可動部 51.6m。 固定部 86.0m。とは言え、現在の勝どき橋が開く事はない。1980年に機械部への送電が止まり、可動部もロックされ、役目を終えたようだ。市民団体からは再び開きたいと言う要望があるらしいが、動力部の整備に莫大なお金がかかる事。また勝どき橋を通る晴海通りの交通量の多さから、難しいらしい。橋の上の4つの小屋? は運転室、見張室、宿直室だったらしい。開く角度は最大70度、約70秒で全開。橋の上を都電が走っていたと言うのだから尚、驚く。軌道の電気はどう通していたのか?上からの撮影もほしかったですね。勝どき橋を川上側みた所。左が月島の「月島エリア」の部分のリバーサイド。写真左に青い何かが見えるがそこが、月島川水門である。今回浜離宮も入れて長くなったので、次回月島水門から始めます。隅田川クルーズ つづくBack numberリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年07月14日
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タイトル変更しました。旧 最新 詐欺「法務省を語る」&ブレイクの描く地獄 → ダンテの描いた地獄の図& 法務省を語る詐欺師一昨日、母の所に詐欺(さぎ)の手紙が届いたらしい。以前1度オレオレ詐欺で振り込み寸前までひっかかった母の所には、以降、度々詐欺らしい電話がかかるように・・。おかげで母は家電にほとんど出なくなった。昨年末は、「あなたのカードが詐欺に使用されたらしい。」と警察を名乗る電話が。「カードは家にありますよ。」と言うと、「確認に家に行くので住所を教えてください。」と言うので「警察が住所を聞くのはおかしい・・」と詐欺だと気付いたらしい。これは近年最も主流になっていた年寄りを騙す詐欺師の手法であったが、一昨日、新しいのがやってきたのだ。今度は法務省を名乗る手紙らしい。そんな訳で詐欺師に憤りながら、彼らがどんな地獄に落ちるのか? 「ダンテの神曲」で拾ってみた。ウィリアム・ブレイクの描く地獄はなかなか興味深い。なぜなら彼は幻視の能力を使って挿絵を描いているからだ。それにしても、詐欺師の罪は重い。殺人ではないから、たいした罪ではないかと思っているのかもしれないが、道徳的観点から言えば暴力を振るう者よりも罪は重いのだ。犯人は地獄に落ちろ・・前に母がオレオレにあった時も思ったようで、その時は「ロダンの地獄の門」(2010年3月)を紹介していました ( ̄▽ ̄;)アハハ…ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師最新詐欺「法務省を語る」ダンテの地獄図幻視者ウィリアム・ブレイク(William Blake)地獄の解説オレオレ詐欺師が落ちる地獄最新詐欺「法務省を語る」まだ手紙の本体を直接確認していないが・・。「あなた宛に訴訟が起こされました。」と言う内容らしい。反論があるなら期限内に返答をしなければ訴訟を起こしたものの言い分が通ってしまうから連絡をしろと言うような事らしい。しかも期限は翌日と間がない。人に相談される前にまず電話をかけさせようと言う魂胆のようだ。電話は当然詐欺師の所。そこで今度は法務省の人間を名乗り年寄りをだまくらかすのだろう。※ 担当部署の名前と電話があり、そこにかけるよう書かれていたらしい。担当部署名だけで怪しそうだったけどね。聞けば近所のお年寄り仲間も似たり寄ったり。年寄りを狙う最低のサギ師らがあの手この手で毎日のように年寄りの貯金をかすめ取ろうとしているこの現状。情けないにもほどがある。オレオレ詐欺の電話かけなど、当然こう言う詐欺をする集団の年齢は若い方に部類するのだろう。年寄りが、人生かけて一生懸命 貯めた最後のお金を、本来働き盛りの若者が、まともに働かずして、横取りするなんて考えられない悪行である。人の行為として一番やっては行けない事だと親や学校では誰も教えてくれなかったのだろうか?最も最近その親も駄目駄目なのが多いからね。近年の日本の教育には、道徳教育の分野が欠けているのではないか? と思う。逆ギレする親がいるから悪い子がいても他人の子を叱れなくなったし・・。それに詐欺以外にも「人として」ちょっとあり得ない事件が多すぎる昨今だ。日本人の行く末に本当に不安を感じる。以前紹介した事がある六道輪廻(ろくどうりんね)で考えると死後の転生があるとするなら、彼らの落ちる先は大叫喚地獄(だいきょうかんじごく)に間違いない。※ 大叫喚地獄では罪状により細かく振り分けられている。キリスト教で言っても、もちろんか地獄落ちである。それもかなり深い地獄の底に・・。キリスト教の地獄を皆がイメージするよう表現したのが「ダンテの神曲」である。そして「ダンテの神曲」では罪の深さが明確化され受ける罰も表現されている。地獄はすり鉢のごとく成り、底に向かう毎に裁きは重くなる。そして恐ろしい地獄の姿を細かく紹介している。今回はダンテの神曲に挿絵した画家の絵を入れて地獄の紹介を少々。以前は入口の地獄門を紹介したから今度は詐欺師の落ちる地獄のステージを確認。ダンテ神曲の地獄編 地獄の見取り図 バチカン教皇庁図書館サンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli),地獄の峡(かい)(La voragine infernale) (1490年)ダンテの地獄図上の絵は地下に食い込んだ地獄の断面図です。サンドロ・ボッティチェッリ( Sandro Botticelli)(1445年~1510年) ルネサンス期のイタリア・フィレンツェを代表する画家。彼はメディチ家の依頼でダンテの神曲の挿絵を残していた。素描約90点、彩色4点。写真はバチカン教皇庁図書館のアーカイブから持ってきました。これは解像度が低いですが、元絵は羊皮紙に描かれていたものらしい。NTTデータが技術協力したデジタル・アーカイビング事業。スキャンしてバチカン教皇庁図書館に収められている作品の一つです。色合いは、ほぼオリジナルではないかと・・。ダンテと彼の詩(Dante e il suo poema) 1465年フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(Santa Maria del Fiore)のフレスコ画ドメニコ・ディ・ミケリーノ(Domenico di Michelino) (1417年~1491年) ※ ウィキメディァより、パブリックドメインになっいたので借りてきました。ダンテが左手に持つのは叙事詩「神曲」。左手バック、フィレンツェの街。彼の背後に見えるのが煉獄(れんごく)右手が指すのが地獄の行進。下は部分拡大。ダンテは著書「神曲( La Divina Commedia)」の中で地獄を描いているが、本来「神曲」は「地獄篇」、「煉獄(れんごく)篇」、「天国篇」の3部から成る。そして各篇はそれぞれ34歌、33歌、33歌の計100歌から構成されている。※ ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)イタリアの詩人、哲学者、政治家。※ 地獄編の成立は1304年から1308年頃とされる。地獄の入口 地獄の門地獄の門の碑文 ウィリアム・ブレイク(William Blake)ロンドン、ナショナル・ギャラリー(National Gallery)臓 撮影は本から※ ウィリアム・ブレイク(William Blake)(1757年~1827年) イギリスの詩人、画家、銅版画家。※ プーブリウス・ウェルギリウス・マーロー(Publius Vergilius Maro)(BC70年~BC19年)共和制ローマ時代のラテン文学の詩人。青い服がウェルギリウス。赤い服がダンテ。物語はダンテ(Dante)が、ローマの詩人ウェルギリウス(Vergilius)に連れられて地獄門をくぐり数々の罪の地獄を観て回るところから始まる。地獄の入口、地獄門には銘文が刻まれている。それは一人称の形で語りかけられた、門(もん)自身の自己紹介らしい。その最後に「この門をくぐる者は一切の望みを捨てよ。(Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate)」と書かれている。実は正確にはキリスト教の聖典に地獄は表現されていない。黙示録はあるが・・。神曲」はあくまでダンテの創作した地獄の姿である。しかし、この作品が登場した中世より、キリスト教圏では地獄の有様が決定したと言える。とは言え、ダンテが求めたのは正義。正義を表現する為に地獄は産み出されたと言えるかも・・・。ダンテと神曲、地獄門については以下で紹介しています。かなり昔なので、書き直したい気もしますが・・2010年3月「オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)」リンク オルセー美術館 番外編 (ロダン・地獄の門)2009年7月「最後の審判 1 (ダンテの神曲)」リンク 最後の審判 1 (ダンテの神曲)2009年7月「最後の審判 2 (福音書と黙示録)」リンク 最後の審判 2 (福音書と黙示録)そしてこのダンテの叙事詩は、実に写実的に表現されている。それ故に後世、啓発された画家らによってダンテの意図したのに近い挿絵がなされている。前出、ボテイチェリの「地獄の峡」はダン・ブラウンの映画「インフェルノ(inferno)」でも取り上げられている有名な絵図である。また、イラストレーターであったギュスターヴ・ドレ も「神曲」の挿絵を1861年~1868年に描いている。「ドレの神曲」「ドレの聖書」もある。※ ギュスターヴ・ドレ (Gustave Dore)(1832年~1883年)幻視者ウィリアム・ブレイク(William Blake)そして、近年ダンテの神曲の本に挿絵されるのが、ウィリアム・ブレイク(William Blake)である。※ ウィリアム・ブレイク(William Blake)(1757年~1827年) イギリスの詩人、画家、銅版画家。冒頭に触れたが、ブレイクは幻視者(Visionary)の異名を持つ。つまり霊や異境の怪物が見えたらしいのだ。彼は出会った幽霊の絵も残しているようだし・・。ブレイクが覚醒したのは愛する弟ロバートの死(1787年)からだったらしい。以降彼は弟の魂と交信し続けたと言う。そして、同時に独自のヴィジョンを使って? 彼はシェィクスピアやダンテ、あるいは聖書の挿絵を描き始めた。ブレイクが観た怪物 ロンドン、テイトギャラリー蔵写真は本から持ってきました。怪物は何度かブレイクの所に来たらしい。もともと繁盛した洋品店の家で生まれた彼は父の応援もあり、しっかり絵の勉強をさせてもらっている。版画家の元に弟子入りすると7年の徒弟時代に版画のあらゆる技法をマスター。当時は挿絵もしていたので、徒弟が終わると実家で銅版画家として婦人誌の挿絵の仕事を始めたようだ。25歳で結婚もしたが、父と弟が相次いでなくなると生活は大変だったらしい。何しろ俗世の事、ましてお金儲けは苦手だったようだから・・。1788年、詩と画像を一枚の銅版画に載せると言う「彩色版画(Illuminated Printing)」を考案。この色刷り印刷は活気的だった。これによりブレイクは自分の印刷機で自分の本を印刷することが可能になった。※ 1788年「無垢の歌」。1794年「経験の歌」これらは「Illuminated books」として発売されている。それにしてもこの技法、亡くなった弟の霊が教えてくれたものだったらしい地獄の解説地獄は9の圏から構成されている。大きくは3つ。強欲の罪。暴力の罪。欺瞞(ぎまん)の罪。ダンテの地獄では一番重いのが欺瞞(ぎまん)の罪である。上方のピンクが「地獄の門」。黄色の十字がエルサレム。赤で記した所がオレオレ詐欺師らが落ちる地獄である。ほぼ底の方である。下の絵は所持している「神曲」の挿絵から撮影したので白黒です。本来はカラーのはず。地獄の上層 第2圏(自制喪失の愛欲の罪の地獄)地獄の第2圏(自制喪失の貪欲者の罪の地獄)3つの頭を持つケルベロス。貪欲者を食らっているのかよく見えないが裂かれた有様か?地獄の下層 熱砂の荒野ここは暴力者が落ちる地獄。乾ききった砂漠の上に裸かで歩く亡者に容赦なく火の塊が落ちてくる。つまり灼熱の地獄なのだ。地獄の下層 第八圏 悪の嚢 (ふくろ) マレボルジェ(Malebolge)の中、3つめのステージ、聖物売買者の地獄貪欲な教皇らが、炎の穴に落とされて焼かれている?オレオレ詐欺師が落ちる地獄地獄の最下層(第九圏)に流れるコーキュースト(Cocytus)の少し手前、第八圏の中でも底の方の地獄。悪の嚢 (ふくろ) マレボルジェ(Malebolge)の第七の嚢 (ふくろ)あるいは第八の嚢 (ふくろ)だろう。※ 第八圏は十の嚢 (ふくろ)からなってる。※ 第七の嚢 (ふくろ)と第八の嚢 (ふくろ)の話は第24歌から第25歌にある。地獄の下層 第八圏 7つめのステージ 第七の嚢 (ふくろ) 盗人の地獄。毒蛇のいる猛火の中を裸の亡者が走る。ここは盗人の地獄。ヘビは彼らの頭と腰と尾を刺し、貫き、彼らをとらえてとぐろを巻く。そして火を受けた亡者は灰になるまで焼かれて果てる。そしてすぐにまた元に戻ってまたヘビに貫かれてまた燃える。ここではそれがエンドレスに続き苦しみが途絶える事はない。こちらもフィレンツェの3盗賊の受け苦である。ちょっとマンガチックな絵である。翼を広げた6本足のドラゴンが盗賊に食らいついている。そして悪意を以て罪を犯した彼ら詐欺師が落ちる地獄は第八圏である。ダンテの神曲の「地獄編」中でも、この第八圏の悪の嚢 (ふくろ)、マレボルジェ(Malebolge)の解説は長い。地獄の下層 第八圏 8つめのステージ 第八の嚢 (ふくろ)レボルジェ(Malebolge)の解説は長い。地獄の下層 第八圏 8つめのステージ 第八の嚢 (ふくろ謀(はか)りを回らして他を欺(あざ)向いた者達が落ちる地獄。亡者一人一人を包むように火焔(かえん)に身を焼かれ続ける。その炎の揺らめきは彼方まで連なる。つまりたくさんいる亡者がみんな火に包まれて燃えている図なのである。第八の圏にはまだ9と10のステージがあり体を引き裂かれると言う責め苦が待っています。そして最も最下層には嘆きの川、コキュートス(Cocytus)と呼ばれる氷地獄が待っている。それでも「神曲」は全体を通して亡者が焼かれるパターンが多い気がします。特にこの第八圏のマレボルジェ(Malebolge)ではヘビと猛火の責め苦が多い気がする。実はダンテはこの「神曲( La Divina Commedia)」を神の喜劇(Commedia)として描いたと言う。簡易に読んでもらいたかったかららしい。敢えて俗語で書き下ろしたようだし・・。が、内容は、総じて、地獄編は行いに対して、必ず報いは受ける事になる。と言う教訓のよう。例えそれが生前でなかったとしても、魂が裁きを受ける事になると言うのがキリスト教であり、ダンテの神曲です。だから生前、人として正しく生きなさい。と示唆しているのかな? と思いきや、実はダンテは神曲の中で自分に酷い仕打ちをした者達を地獄に落として責め苦を与えているのです。ちょっとした仕返しですね。そう言う意味で娯楽本的要素も含めていたか?ダンテもまた普通の人だったと言う事ですが、普通の人ではなかった? のが、挿絵をしたブレイクです。彼は詩人でもありロマン主義を代表するの天才ですが、生前彼を評価する者は少なくやはり生活は貧しかったらしいです。今やイギリスでも世界でも有名なブレイクですが、霊的要素で? それとも悟ったから? 後年の作品はだんだんに難解になっていたそうです。いつか、作品を見つけたらまた改めてとりあげたいテーマとなりました。個人的にはヒ素中毒の影響があるのでは? との疑問はありますが・・。最後に聖書をテーマにした「カインとアベル」から弟アベルを殺して逃げるカインの図です。かたわらには両親のアダムとエヴァがいて、エヴァのうちひしがれた姿と情けなくも悲嘆にくれるアダムの顔が印象的な絵です。ロンドン、テイトギャラリー蔵 1826年頃。 32.4cm×43.2cm人類初の殺人者となったカイン。このテーマをブレイクは幾度も描いているそうです。おまけに、「アベルの幽霊」と言う作品もあるらしい。実在かどうか解らないアベルに、まさか会ったのか次回再び「東京クルーズ」に戻って続きをやります。
2018年07月08日
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ラストにBack numberを入れました。さて、今回はシンプルに観光ネタです。行った感でるよう写真をたくさん持ってきました。実は今年3月、4月と続けて、たまたま隅田川クルーズに乗る機会があったのです。ちょっとロンドンのテムズ川のクルーズに似ていました。見るべきは橋が中心ですが・・。乗船客の9割は以上は外国人です。(もっと多いかも・・。)今、最も外国人にHotな東京観光の一つとなっているのです。そんな訳で、4月はハワイの姉夫婦をつれて浅草からお台場まで乗船。乗り出があり、非常に楽しんだとの事でした。外国人に人気の理由は納得だったそうです。.東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港東京クルーズ (隅田川ライン)東京港の埠頭東京港の観光船ターミナル日の出埠頭と日の出桟橋晴海埠頭(はるみふとう)竹芝(たけしば)月島(つきしま)地域と朝潮(あさしお)運河月島(つきしま)埠頭東京クルーズ (隅田川ライン)そもそも隅田川(すみだがわ)とは、荒川の新岩淵水門から分岐して東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川です。隅田川ラインクルーズは、東京湾のクルーズの中でも、日の出桟橋から浅草の隅田川公園間を遊覧するものです。※ お台場行きも日の出桟橋から出港なので、浅草からだと1度 日の出桟橋で船を乗り替える事になります。会社によっては直通もあるかと・・。ちょうどお台場から晴海を通り隅田川を遡上すると浜離宮、築地市場、永代橋、両国と観光スポットを通り浅草で下船するとスカイツリーにも行けるし、浅草観光など延(ひ)いては浅草寺(せんそうじ)や合羽橋(かっぱばし)商店街にも行ける。なるほど、確かに外国人の興味のありそうなスポットばかりです。当初は橋だけ紹介の予定でしたが、東京港の紹介も入れました。周りの景色と共に水門も入れる事にしました。しかも、これらの場所はまさにオリンピックの中心会場になるの場所。初回は東京港から。全3部くらいになるかも? スカイツリー、フロア450(451.2m)から東京湾方面を撮影。下がほぼオリンピックの会場一帯です。地名を入れたのですが、小さくて見えなかったですね。左から Shinkiba(新木場)、Ariake(有明)、Fji TV(フジテレビ)、Toyosu(豊洲)、Shinagawa(品川埠頭)、Harumi(晴海埠頭)、Shibaura(芝浦ふ頭)※ 対岸が黄色。品川埠頭の向こう隣が大井埠頭で、またその向こう隣が羽田。※ 品川埠頭に東京入国管理局がある。船も、飛行機(羽田)での入国でも共に利便が良い。高層のビルが遠くまで建ち並び海がほとんど見えないですが、東京港、全てはこの写真に収まりませんでした。もっと左の台場(だいば)や葛西(かさい)が入っていません。スカイツリー、フロア450(451.2m)から晴海と豊洲を中心に撮影。右の赤い→ 日の出埠頭。 黄色 浜離宮.月島地域と晴海(はるみ)、豊洲(とよす)は埋め立ての中洲のような所。隣合っているけど、月島地域と晴海は中央区で、豊洲は江東区(こうとうく)です。東京湾方面に右が隅田川、左が豊洲運河に分岐する月島地域。右の橋が中央大橋。正面が石川島公園。月島地域は川上が佃(つくだ)から始まる。最近は河口に行くほど埋め立てが進んで土地が拡張しているから建築ラッシュで高層ビルだらけの気が・・。都心部よりも海の上のが諸々、建築しやすい理由があるのでしょうね。東京港の埠頭日本の五大港(東京港、横浜港、名古屋港、大阪港、神戸港)の一つ。そして日本三大旅客港(東京港、神戸、北九州港)の一つでもある。関東大震災で港湾設備の必要性が重要視され、日の出埠頭1925年に完成。1941年には国際港としての東京港がオープン。1960年代末から国際貨物輸送の主流がコンテナ輸送にシフトし出すと東京港はいち早くコンテナリゼーション(containerization)に対応。※ コンテナリゼーション(containerization)・・コンテナ輸送1998年からは外貿コンテナ取扱個数で国内首位となっているそうです。つまり、東京港は国家戦略の中で国際貿易に重きをおき発展。東京港の湾岸はコンテナ埠頭が次々に建設されたようです。.観光船の埠頭だけの予定でしたが・・。塩漬け株に海運株を持っている私としては、ちょっとコンテナ船が気になる所です。実はリーマショックから未だ大型貨物の方は復活できていないのです。そう言う意味で言うと、東京港の活気は微妙かな?※ コンテナ用の埠頭も一覧にしてみましたが、データ元はウィキペディアです。内港地区品川埠頭(品川コンテナ埠頭 岸壁総延長555m。品川外貿埠頭 延長570m。品川内貿埠頭 延長475m。)※ 品川コンテナ埠頭は現在、日韓・日中・東南アジアなどアジア近海航路用の埠頭として利用。芝浦埠頭 延長879m。日の出ふ頭 延長564m。竹芝埠頭 延長465m。月島埠頭 延長1351m。辰巳埠頭 延長1040m。晴海埠頭 延長1189m。朝潮埠頭 延長1074m。豊洲埠頭 延長283m。南部地区大井(おおい)埠頭(大井コンテナ埠頭 延長2354m。大井水産物埠頭 延長450m。大井食品埠頭 延長610m。※ 水深は全域で15m。北米・欧州方面の長距離基幹航路に就航する大型コンテナ船が主に入港。東京港のみならず日本を代表するコンテナターミナル。川汽、商船三井、郵船の専用ターミナルがある。城南島(じょうなんじま)(大井建材埠頭 延長280m。城南島小型油槽船係留施設 延長387m。城南島建設発生土埠頭 延長160m。)中部地区青海(あおみ)埠頭 (青海コンテナ埠頭 延長1570m。お台場ライナー埠頭 延長1800m。青海客船ターミナル。)有明(ありあけ)(10号地埠頭 延長2420m。10号地その1多目的埠頭 延長180m。)有明埠頭 延長750m。有明フェリー埠頭 延長902m。中央防波堤地区中央防波堤内側ばら物埠頭 延長240m。中央防波堤内側外貿雑貨埠頭(上組東京コンテナターミナル) 延長260m。東部地区若洲(わかす)(15号地埠頭 延長190m。15号地木材埠頭 延長720m。若洲建材埠頭 延長370m。)東京港の観光船ターミナルそして今、オリンピックも控えて外国人の旅行者も増え、時代は空前の旅客船ブーム。今回は東京港の 旅客船のターミナルがある埠頭中心の紹介になりました。晴海客船ターミナル(晴海埠頭)・・国内外の豪華客船が接岸竹芝旅客ターミナル(竹芝埠頭)・・伊豆諸島・小笠原諸島日の出桟橋(日の出埠頭)・・・・台場・有明方面への水上バスや東京湾クルーズなどが発着。他に非鉄金属・化学薬品等の内貿もある。東京港フェリーターミナル(台場)・・北海道・九州・四国とを結ぶフェリー航路。沖縄・奄美航路船客待合所(台場)※ 内港地区のみの紹介。中部地区(台場)はありません。墨田川ラインのコース一部(東京湾界隈)日の出埠頭と日の出桟橋見えてる沿岸が全て日の出桟橋浅草、お台場海浜公園・東京ビッグサイト・パレットタウン行きが運航している船着き場。住所は港区海岸2-7-104。「海岸」なんて町名あったんですね。モノレール「ゆりかもめ」の「日の出駅」から徒歩2分。後ろの水色のラインはモノレールの軌道。「ゆりかもめ」の景色もこのあたりから海の上を走っているようで楽しい。日の出桟橋からの対岸(東)。見えているのは対岸の晴海(はるみ)と、右奧が豊洲(とよす)。晴海埠頭(はるみふとう)見えていた晴海埠頭のあの建物は?実はあちらは晴海客船ターミナル。国内外の豪華客船が接岸する東京の海の玄関です。晴海埠頭の南側は豊洲。上の写真では豊洲市場も見えている。豊洲は市場だけでなくさらに観光誘致すれば、クルーズ船で来日した観光客の東京観光はこのあたりでほぼ完結できてしまうわけです。下、見えているのは晴海埠頭公園と晴海一帯。晴海埠頭の住所は中央区らしい。晴海埠頭公園は、東京都港湾局が管理する海上公園と言う事だが、レインボーブリッジと東京タワーが望める事から中央区観光協会の夜景八選に入っているそうだ。右(南)方面はレインボーブリッジ。橋の左がお台場。橋の右岸が芝浦ふ頭です。左(北)側方面は隅田川河口とスカイツリーがはるかに見える。見えている橋は築地大橋(つきじおおはし)。つまり橋の左が現在の(旧)築地市場。クルーズはこの後、あのスカイツリーの足下近くまで蛇行する隅田川を遡上して航行する。竹芝(たけしば)埠頭日の出桟橋から運河隔てて北隣の海岸1丁目にホテル インターコンチネンタル東京ベイ羽田からのモノレールからも見える高級ホテル。実は3月のクルーズはここのホテルのランチ・ブッフェのプランに付いていたのですホテルも戦国時代。いろいろ仕掛けているようです。因みにこちらアクセスは「ゆりかもめ」の「竹芝(たけしば)駅」から2分ほど。竹芝客船ターミナルは、伊豆諸島・小笠原諸島への人や物資の玄関口、またレストラン船などの発着場になっているそうだ。このあたり、確かに埠頭(ふとう)だらけ。用途別? それなりに振り分けられているようですね。因みに、ホテルの手前運河の所が小型船の発着所だそうです。インターコンチネンタル東京ベイから浜離宮(はまりきゅう)の手前までが竹芝(たけしば)。※ 写真右の見切れた方が浜離宮。これらビルの裏手の方が港区芝(しば)。ビルがせ高くてみえないけれど、芝東照宮、芝の増上寺、また東京タワーがある方向。ビルの隙間から微妙に見える東京タワー。浅草に向けて出発(写真は日の出桟橋)進路先には、まだ小っちゃくスカイツリーが・・。対岸の晴海埠頭を回る形で隅田川河口方面に向かう。晴海埠頭公園の裏手は大規模工事中。東京都港湾局が管理する海上公園前に停泊しているのは、航海の大型練習帆船、日本丸であった。工事のクレーンとマストが重なりあってよく見えないので日本丸のホームページから持ってきました。帆を張るとこんなに美しい。2代目 日本丸 (1984年進水式)。総トン数(2570t)。全長(110.09m)。航海速力(13.20ノット)。.何の工事かな? と思いきや。どうもオリンピックの選手村の工事らしい。月島(つきしま)地域と朝潮(あさしお)運河中央区臨海部の月島地域と晴海の間に走る運河。ハゼが釣れる事で知られているらしい。こんな所でね月島地域は隅田川河口から中央区豊海町(とよみちょう)、勝ちどき、月島(つきしま)、佃(つくだ)で構成。月島(つきしま)埠頭船が2隻停泊しいる場所。先ほど紹介したウィキペディア情報に寄れば、月島埠頭 延長1351m。となっていたけど桟橋はとっても狭い? 。たまたま停泊していたのは東京海洋大学の海鷹丸(うみたかまる)総トン数(1886t)。全長(93m)。航海速力(17.4ノット)。調査研究及び、乗船実習教育船として太平洋、インド洋、南氷洋等、遠洋航海の実習船となる。月島埠頭の扱いは水産品・窯業品・鉄鋼。築地大橋からすぐの豊海町(とよみちょう)は水産会社の冷蔵倉庫などが建ち並ぶ食品庫のような場所。桟橋の前はマルハニチロの物流倉庫。※ 豊海町(とよみちょう)は丁番を持たない単独町名らしい。次回は、この対岸向かいにある桂離宮に入る汐留川(しおどめがわ)水門と築地川水門を紹介してから築地大橋の下をくぐって隅田川を遡上します。つづくBack number 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 1 東京港リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 2 水門と排水機場リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 3 佃島界隈と佃島の歴史リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 4 永代橋から新大橋までリンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 5 (両国橋から駒形橋まで)リンク 東京クルーズ・隅田川ラインと水門 6 (吾妻橋から言問橋&水神の森まで)
2018年07月02日
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