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ウイーンの王宮にある宝物館の写真を見返していて、ナポレオンの子息(ナポレオン2世)の為に造られたベビーベットが目に留まった。あまりの豪華さに写真撮影していたのだ。よくよく見るとベットにはたくさんの蜂がデザインされている。どうもナポレオンが蜂を意匠に使用していたらしい。最初は紋章における蜂について調べて見たのだが、ナポレオン関連のあちらこちらから蜂の意匠が現れるので結局ナポレオンの歴史も追ってしまった。そして気付けばナポレオンの住まいであったフォンテーヌブロー宮殿にも案の定、ナポレオンの玉座に蜂がいっぱい。いろいろ迷走したが、初心に戻って今回はナポレオンの紋章に関する所にしぼって紹介する事にしました。ナポレオン(Napoléon )と蜜蜂(abeille)の意匠オーストリア皇女との間に生まれたナポレオンの息子象徴としての鷲と蜜蜂蜜蜂の紋章(Emblème de l'abeille)フォンテーヌブロー宮殿ナポレオンの玉座の蜜蜂ウイーンの宝物館に展示されているナポレオン2世のベビーベット鷲はナポレオンの紋章である。オーストリア皇女との間に生まれたナポレオンの息子1810年4月ルーブル宮殿の礼拝堂でナポレオンは2度目の結婚をした。相手は敗戦国オーストリアの皇女。マリー・ルイーズ(Maria Luisa)(1791年~1847年)ナポレオンはオーストリアの敵。彼女は泣く泣くナポレオンに嫁いだそうだ。マリー19歳。すでに皇帝となっていたナポレオンは41歳。しかしナポレオンはマリーにとても優しく彼女もいつしかナポレオンが好きになったらしい。そして1811年3月。ナポレオンとの間に第一子誕生。それが将来ナポレオン2世となるナポレオン・フランソワ・シャルル・ジョゼフ・ボナパルト(Napoléon François Charles Joseph Bonaparte)(1811年~1832年)である。※ 母の実家、オーストリアではライヒシュタット公フランツ(Franz,Herzog von Reichstadt)として知られる。敵であるナポレオンの名前が使用される事はなかった。難産で危険なお産だったそうだ。一時マリーとベビーの命が天秤にかけられ、ナポレオンは迷わず妻の命を優先しろ。・・と言ったそうだが、幸い二人とも助かり、特に息子誕生にナポレオンは非常に喜んだらしい。その喜びによりナポレオン・フランソワは生まれながらにしてローマ王に即位したのである。下のベビーベットの天蓋には女神が月桂冠を授けている。ベットのレリーフにはローマ建国の神話であるオオカミとロームルス (Romulus) とレムス (Remus) が描かれていて、それだけでこのベットがナポレオン・フランソワのものだと解るのだ。さらによく見るとベットには蜂がたくさん装飾されている。そもそも今回の謎はここから始まったのである。これは何の印?下の豪華な衣装箱? にもプリントや刺繍ではなく、金属の蜂がたくさん装飾されている。ウイーンの宝物館にあったマリー・ルイーズ(Maria Luisa)(1791年~1847年)の肖像画マリーのドレスにもローブにも蜂が刺繍されている。これはブルボン王家がアイリスの紋章をたくさんプリントしているのに似ている。フランス読みでマリー・ルイーズ(Maria Luisa)としましたが、オーストリアではマリア・ルイーザ(Marie Louise)。彼女の棺を2014年「カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降」で紹介しています。リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降ちょうどその中にシシイこと、エリーザベト(Elisabet)の柩も載っているのでよかったら見てねウイーンの宝物館にあったナポレオンの肖像画ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)(1769年~1821年)ナポレオンの紋章の黄金の鷲(ワシ)が胸にたくさん付いている?いや、これは1802年にナポレオンが創設したレジオンドヌール勲章(L'ordre national de la légion d'honneur)のようだ。たぶん第一帝政スタイル。レジオンドヌール勲章は現在も存在するフランスで最も名誉ある勲章。形が時代で少しずつ変わっているようなのだ。※ 勲章には1~5等までのランクがあり、北野武さんがフランスから贈られた勲章がこれである。ところでナポレオンは地中海に浮かぶコルシカ島の出身であるが、フランス貴族と同等の権利を持つそこそこ裕福な家の子弟。家に家紋があってもおかしくないが、どうもその筋からではなさそう。因みに10歳の時にパリに留学。15歳で陸軍士官学校に入学して11ヶ月で卒業。非常に優秀だったそうだ。象徴としての鷲と蜜蜂鷲は強いので古来勇気や正義、また不死の象徴となるアイテムである。神話においては空の使者、神の使者や神が鷲に変身する事もあったので、古代ローマ帝国でも国章となっていたようだし他にも多くの帝国(オーストリア、ドイツ、スペイン、ハンガリーetc)や貴族が家紋に入れ、街や教会のシンボルにもされている。また福音所記者マルコのシンボルでもある。、強い信念をアピールしたい所が使用するアイテムかも・・。よく見れば騎士のローブに蜂が描かれている。では蜂の意味は? 蜂は間違いなく蜜蜂である。なぜなら蜂が採取してくる蜜が貴重な栄養源であり神の食べ物であるから。それ故、蜜蜂としての意匠だけでなく、蜂の巣や養蜂の巣箱なども同じく紋章の中に使われています。調べて見ると蜂や巣箱を家紋にしている所が結構ありました。ローマ教皇ウルバヌス8世の紋章ローマ教皇ウルバヌス8世(Urbanus VIII)(1568年~1644年)(在位:1623年~1644年)実家であるバルベリーニ(Barberini)家の蜂が由来らしい。おそらく3匹の蜂は三位一体にひっかけていると思われる。蜜蜂は集団で社会生活をするところから活発、勤勉。労働、また社会的結束や秩序のシンボルです。勤勉や秩序は修道士達の模範です。また蜂の巣を教会にみたて、蜂は熱心に共同体に変わらぬ忠誠(活発、労働、社会的結束)をつくす信徒とも解釈されます。甘い蜜をつくり出す事から甘美と言う意味あいもあり、言葉による誘惑なども含まれ弁のたった聖アンブロシウスやクレルヴォーの聖ベルナルドゥスのアトリビュート(attribute)にもなっているそうです。※ アトリビュート(attribute)は宗教画などの中で聖人を表すための象徴的なアイテムとなるもの。蜜蜂の紋章(Emblème de l'abeille) (加筆訂正の部分)王政においては絶対君主性に関連づけられ特に女王の巣箱の支配は強い王政の象徴でもあったようです。しかしナポレオンの場合ナポレオンは蜜蜂の帰属性や社会的結束を自分の統治する帝国の理想に求めたのか? と最初は思いましたが・・。真意はナポレオンの理想でなく、ナポレオン自身の意志の表明のようでした。国民の支持により選ばれた皇帝(ナポレオン)はもとの地位にこだわりなく能力のある者を積極的に登用し、きちんとした中央集権的な国造りに着手。先人には敬意を表しつつ、しかし革命直後のような恐怖政治は否定。革命の自由平等は失わず、しかし秩序ある国造りの実現。そして国の内外にフランスの栄光を実現させると言う強い目的と意志。第一帝政、第二帝政のシンボルとして、奉仕、自己犠牲、社会への忠誠などを象徴する蜜蜂(ミツバチ)がスローガンと言うよりはむしろナポレオン自身の強い意志として使われたらしいのだ。良い統治者になる。と言う志しを蜜蜂の意匠が示していたと言う事になる。ナポレオンの開いたフランス第一帝政の国章 (ウキメディアコモンズより借りてきました。)黄金の鷲と黄金の蜜蜂の意匠ブルボン王家の紋章フルール・ド・リス(fleur-de-lis)の意匠絶対君主であったブルボン王家ではアイリスをシンプルにデザインした意匠を使用している。フルール・ド・リス(fleur-de-lis)である。493年、キリスト教への改宗したフランス、メロヴィング朝の最初の君主。クロヴィス1世が王家の紋章に最初に採用して以降キリスト教徒のフランス王を象徴するものになったとか・・。フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)門の上にあるのはナポレオンの意匠、黄金の鷲足につかんでいるのは雷(いかづち)らしい。12世にはすでに居城があったと言われている。現在にいたる宮殿を造ったのはフランソワ1世(François Ier)(1494年~1547年)の治世らしい。宮殿は何度も改築されている。特にフランス革命においては調度品が売り払われ宮殿は荒廃。ナポレオンはそんなフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)を自分の権威の象徴として修復してここに住んだのである。ナポレオンの玉座天蓋にも蜂が無数に刺繍されている。椅子にも蜂がいっぱい。やっぱりナポレオンの蜜蜂の使いかたはブルボン家のフルール・ド・リス(fleur-de-lis)のテキスタイル用デザインをかなり意識したか、真似た物であるのは間違いなさそう。フォンテーヌブロー宮殿には他にナポレオンの執務室や寝室。マリーアントワネットの寝室はジョセフィーヌの寝室にもなっていて公開されている。古い写真になるが部屋の中は変わらないだろうから近日紹介するかも・・。..追記 2017年2月「ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式」の中、フォンテーヌブロー宮殿内の「ナポレオンの居室」や「マリーアントワネットのベッド」を紹介していすます。よかったらリンク先を見てね。リンク ナポレオン(Napoléon)の居室と帝政様式リンク ナポレオン(Napoléon) 1 ワーテルロー(Waterloo)戦線とナポレオンの帽子リンク ナポレオン(Napoleon) 2 セントヘレナからの帰還リンク ナポレオン(Napoléon) 3 ヒ素中毒説とParis Greenリンク ロゼッタ・ストーンとナポレオン
2017年01月27日
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以前旧王宮の中にあるスイス宮の宝物館を紹介していますがウイーンの王宮とその一帯は 19箇所が、現在各種美術館やライブラリなどとして公開されています。広大な王宮(Hofburg)の周りに点在する美術館の場所や入口を特定するのは結構大変でした。前回紹介した「西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)」は新王宮内の「武器と鎧のコレクション」からの紹介でしたが、新王宮内だけでも以下複数の部門が入っています。その総称がはっきりしていないので新王宮美術館としました。Ephesos Museum(エフェソス博物館)Collection of Ancient Musical Instruments(古代楽器のコレクション)Collection of Arms and Armour(武器と鎧のコレクション)Austrian National Library (オーストリア国立図書館)Papyrus Museum /(パピルス博物館)Reading Rooms(読書室)今回は新王宮美術館の紹介ですが、ついでに新王宮前広場もいれました ※ 旧王宮にのスイス宮にある王宮宝物館については2014年11月「ハプスブルグ家の三種の神器」と2014年12月「聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)」で紹介しています。ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)新たな宮殿の断念と滅亡へ進むハプスブルグ家ブルグ門(Äußeres Burgtor)英雄広場(Heldenplatz)と騎馬像新王宮(Neue Burg)新王宮美術館(Neue Burg Museum)ウィーンの王宮(Hofburg Wien)地図薄いブルーが市内環状道路であるリングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)リング挟んでますが、全部ひっくるめて王宮と庭園です。濃いピンクが新王宮部分。上部のレッドが旧王宮です。イエローがブルク門新王宮の前の庭園が英雄広場(Heldenplatz)です。広場宮殿側☆にオイゲン公(Prinz Eugen)騎馬像。広場左の☆にカール大公騎馬像新たな宮殿の断念と滅亡へ進むハプスブルグ家実は環状道路の上に凱旋門が建ち新王宮と現在の美術史美術館は繋がる予定だったそうです。そして同じく自然史博物館につながるよう新王宮の正面に同じ相対する宮殿が造られる予定だったそうです。下はウィキペディアから借りて来た絵に書き込み入れました。薄いブルーが:現在の道路(リングシュトラーセ)の位置ピンクの矢印が新王宮ブルーの矢印が幻の王宮新宮殿中止の理由については書かれていませんが、マリア・テレジア以降 縮小するハプスブルグ家。フランツ2世(Franz II) (1768年~1835年)(在位1792年~1835年)の時代には神聖ローマ皇帝も返上。フランツ・ヨーゼフ1世( Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位1848年~1916年)の時代に入るとオーストリアにはもっと悲劇が訪れる。イタリアとハンガリーの独立運動。1866年の普墺戦争ではプロイセン軍に首都ウィーンに迫られ不利な講和を締結。帝国内の民族問題。1914年のサラエボ事件(皇位継承者フランツ・フェルディナント大公のが暗殺)はオーストリアがセルビアに宣戦を布告しての開戦となった。それが世界を巻きこむ第一次世界大戦である。結果、第一次世界大戦は敗北。次代オーストリア皇帝カール1世(Karl I)(1887年~1922年)(在位1916年~1918年)は退位を認めなかったが、莫大な皇室財産のほとんどが没収された。オーストリアは共和国となり帝国はカール1世が最後の皇帝となって終焉した。新宮殿自体がオーストリア帝国崩壊直前に完成。さらに新宮殿の建設などと言っている場合ではなくなったと言うのが現状だったようだ。美術史美術館と自然史博物館が中途半端にある理由がわかった気がした ブルグ門(Äußeres Burgtor) 正確には城の外側の門である。環状道路リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)からのブルク門は新王宮前庭園に入る門。※ この撮影しているバックに美術史美術館があります。王宮側からのブルグ門ブルグ門(Äußeres Burgtor)かつてオスマントルコに包囲された1683年には街は城壁で囲われ要塞化されていたので外壁の一部として門はあったようです。イタリアの建築家L・カニョーラ(Luigi Cagnola)(1762年~1833年)の原案のもと現在の門はPeter von Nobileにより1824年建造。(たぶん新古典様式でしょう。)しかし、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は1857年に城壁の撤去を決めた。そして跡地にできたのが環状道路リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)だ。※ リングシュトラーセ(Wiener Ringstraße)については2010年の「カールス教会 1 (リンクシュトラーセ) 」で書いています。つまり門が造られた時点ではまだ城壁はあったが、世界の情勢が変わり各国が城壁を撤去する中で遅ればせながらウイーンも城壁を撤去せざるおえなくなった。(もしかしたらプロイゼンとの講和条約に入っていたのかも?)それで城の敷地の拡張がリングで分断されて不自然になったのだろう。リングができた時点で撤去の話もあったらしいが、1934年に門は改修。現在第一次大戦の戦没者のメモリアルになっている。新王宮前の英雄広場(Heldenplatz)からの門門の奥に見えるドーム左が美術史美術館。右が自然史博物館上の写真右に見切れているがテッシェンの大公カールの騎馬像である。英雄広場(Heldenplatz)と騎馬像もし計画通りシンメトリーに宮殿が建てられていたとしたらそこに凱旋門ができる予定だった?結局、英雄広場(Heldenplatz)には当初予定通りシンメトリーに二基の英雄の騎馬像だけが建てられた。テッシェンの大公カールの騎馬像 1860年設置勘違いしそうな名前であるが、カール大帝でもカール皇帝でもない。テッシェンの公(Herzog von Teschen)カール・ルードヴィヒ(Carl Ludwig)(1771年~1847年)である。1809年のナポレオンとの戦いにおいて総司令官として勝利。(それはナポレオンの初敗北)そして彼は英雄になった。新王宮の前にある対の騎馬像はオイゲン皇太子(Prinz Eugen) 1865年設置サボイのオイゲン公(Eugen von Savoyen)オイゲン・フランツ(Eugen Franz) (1663年~1736年)ハプスブルクの帝国で最も重要な将軍の1人らしい。新王宮(Neue Burg)新王宮とオイゲン公の騎馬像新王宮入口正面テラス上がヒトラーが併合宣言スピーチをした場所だそうだ。ハプスブルグ家の双頭の鷲1869年、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世( Franz Joseph I)(1830年~1916年)(在位1848年~1916年)の為に計画された新宮殿は1881年に建設開始され1913年に完成。前述したよう新宮殿自体がオーストリア帝国崩壊直前に完成したので結局誰も住む事は無かった宮殿である。Ephesos Museum(エフェソス博物館)Collection of Ancient Musical Instruments(古代楽器のコレクション)Collection of Arms and Armour(武器と鎧のコレクション)新王宮美術館のチケットでエフェソス博物館と古代楽器のコレクションと武器と鎧のコレクション3つが見学できる。Ephesos Museum(エフェソス博物館)のブース以前たまたま「古代ローマ水道橋 4 (水道管とエフェソス) 」でエフェソスの遺跡を少し紹介しています。良いものだけが盗まれてボロボロになったエフェソスの荒廃はヒドイものです。その調度の一部がこんな所で見られるとは思ってもみませんでした。青銅と思われる彫像です。驚くほどパーフェクトなできばえです。現代の作品に思えるその製作の技術力に驚きます。下は石の彫刻のようです。左がセイレーンなのでおそらく右はオデッセウスと思われる。エーゲ海に近い現トルコ共和国のイズミールの南にあるエフェソスは非常に高度な文明を持った都市であったが、それ故にいろんな所から侵略された歴史を持つ。エフェソスと言えばケルスス図書館が有名であるが、その飾りが現地には何一つないのにここにあった(一部)のには驚いた。Collection of Ancient Musical Instruments(古代楽器のコレクション)のブースここにはたくさんの変わった形のピアノが陳列されていた。上のピアノは帝政様式のスタイルなのでナポレオン時代のものではないか?Collection of Arms and Armour(武器と鎧のコレクション)のブース武器と鎧のコレクションが内容的にも一番充実していた気がする。エフェソス博物館と古代楽器のコレクションの量は少なくちょっと物足りないかも・・。武具はまだまだ紹介したいものがいっぱい吹き抜けの天井画が素敵でした。ミュシャの絵を思い起こすスラブ系の女神と天使達。新王宮と美術館おわり
2017年01月20日
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続編 「西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑」のリンク先をラストに追加しました。織田信長の政策の一つに「兵農分離」と言うのがある。それ以前の戦いでは畑仕事の暇な農閑期(のうかんき)にしか人を徴集できなかった。つまり大きな戦は農閑期に限られたと言う事だ。そこで織田信長は農民にお金を払って兵として正式に雇い入れる・・と言うスタイルを思いついた。これならいつでも戦に出る事が可能。武芸に励む事も可能。農家の方も家督を継げない次男三男に就職の道が開けたのだから喜んだであろう。そしてそこに兵隊のプロが誕生したのである。※ 織田家には給料を支払うだけの収入があった。一方欧州の方は、ローマ帝国が滅んでからはカール大帝(742年~814年)が立て直しを図るまではあらゆるものが零(ゼロ)になってしまっていた。つまり欧州の歴史はローマ帝国の崩壊で一度リセットされ、カール大帝以降に全く新しい方法で体制作りが始まったのである。そんなわけで、欧州でもカール大帝の頃まではかつてのような兵隊のプロは存在しておらず、農民が主に領地を守る自主防衛の為に戦いに参加していたにすぎなかったようだ。(侵略者、蛮族との戦い)西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)騎士の誕生騎士道の高まりが騎士を増やした疑似戦争 トーナメナントお金のかかる馬と武具ウィーンの新王宮の美術館から時代はたぶんハプスブルク家出身神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)の頃。彼は中世最後の騎士と呼ばれている。※ マクシミリアン1世は「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の中、「金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳」にて説明しています。彼は金羊毛騎士団を設立したルゴーニュ公の1人娘マリー・ド・ブルゴーニュと結婚し、妻の相続する領土を守った騎士なのである。そして彼は金羊毛騎士団と金羊毛勲章を継承し、ハブスブルグ家にもたらした。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)騎士の誕生日本においても、西洋においても、戦争と農業は密接に関係している。農業の大切な時期には当然誰も行きたがらない。かの十字軍の遠征でさえ、農閑期(のうかんき)に出発し、とっとと聖地奪還して次の農繁期(のうはんき)までには帰国すると言うのが当初の予定だったのだ。つまり初期の戦(いくさ)と人材の関係には農繁期(のうはんき)と農閑期(のうかんき)の問題があったと言う事だ。。そこで欧州の領主は農民に一定期間の徴兵を納税代わりの義務として課せるようになる。戦争に特化した傭兵が現れるのはこの頃(11世紀頃)だ。最初は農民が自分達の代わりに雇ったらしいから・・。しかし傭兵の裏切りにあう事もしばしば。彼らはお金の高い方に動く。やがて王は彼らと長期契約で土地を与える代わりにきちんと武装して兵力となりえる臣下を持つに至った。(当時は財源が乏しく与えられるのは土地くらいしかなかったらしい。)これが即、騎士と言う訳ではないが、これがルーツになるのだろう。土地をもらい受け、領主となった彼らは代々武芸に励み、土地とその職を相続していく事になる。騎士階級となる臣下の誕生である。※ ところで英語のKnightには「騎士」だけでなく「従者」の意味もあるそうだ。戦士と言うだけでなく臣下と言う意味か?マントの下の防具もはや甲冑を超えてますね。騎士道の高まりが騎士を増やした以前紹介した「ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)」 騎士をめざした貴族の子弟(2013年9月)リンクロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)でも既に紹介しているが、南フランスでは財産は子に均等に相続されるものの、北フランス、イングランド、ドイツでは長子相続と言う制度がとられていた。つまり騎士道の華やかなりし頃のイギリス、ドイツ圏ではほとんどの財産が長子のみに引き継がれ、長男が亡くなれば別であるが、通常は次男以下の息子には何も与えられないので自力で自活の道を探すしかなかったようだ。そこで家督を継げなかった者達の中で騎士をめざした者達が増えたようだ。もちろん聖職に進む者も多かったろうが・・。一方領主の側にも理由があった。素晴らしい領主の周りには立派な騎士が集まる・・と考えられ、競って優秀な騎士を求めたからだ。自ら騎士道の手本を示して騎士と騎士道のブームを造った一人がイングランドのヘンリー王子だ。※ イングランド(プランタジネット朝)のヘンリー若王(Henry the Young King)(1155年~1183年) ヘンリー2世の次男。彼については騎士ウィリアム・マーシャル(William Marshall)のところで触れているが、当初彼は次男であった為に有能な騎士のウィリアム・マーシャルと共に自ら騎士として道を求めたようだ。粘り強さと賢さ。王となっては立派な騎士が彼に集まるのを見て当時優勢だったフランドル伯フィリップでさえ一目置いたらしい。残念ながら熱病で亡くなり、彼の意志を継いで騎士ウィリアム・マーシャルが十字軍として聖地に向かっている。疑似戦争 トーナメナント最初の騎士がいつくらいから出たのか定かでないが、騎馬による槍試合が騎士のスタイルとなり、その戦法を最も得意としていたのがフランドル伯だったようだ。蛮族がせめてくる以外は余計な戦いは禁止され、あっても小競り合い程度が続いた時代、トーナメントと言う疑似戦争ゲームで戦っていたのがフランドル伯とイングランドのヘンリー王子だ。(他にももちろんいただろう。)彼らのトーナメントは一騎打ちかと思いきや、数百人規模の本格的な戦いだったようだ。当然怪我人や死者も出るし、負ければ鎧(よろい)を取り上げられたり馬を持って行かれたりと損害も大きい。(捕虜はお金を払って鎧や馬をひきとったらしい。)つまり勝てばゲームと言えど大きな利益が得られ、戦功によっては騎士に昇格できるチャンスだったわけである。そんな中前出の騎士ウィリアム・マーシャルは負け知らず。強さと信頼の置ける彼はヘンリー2世、ヘンリー若王、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世と歴代5人の王の側近として貴族にまで昇進している。(爵位や領地をもらい。王の親族と結婚。一国一城の主になる。みんなの目指した英雄騎士である。)お金のかかる馬と武具出世を目論む者達がトーナメナントに参加し、賞金を稼いだり名を挙げる事で領主に取り立てられる? しかし、それは簡単な事ではない。武具を身につけるには相当なお金が必要。最高の騎馬はパレード用の馬と比べると10~30倍の値がついていたらしいし、騎士の正式な装備にはそうした馬3頭分くらいかかったらしい。騎士になるには、血統も必要だったらしい。騎士見習いにとなるべく推薦をもらい、他の騎士の元に武芸の奉公に行く事がいつしか慣例となっていた。そこで教えを請い、武芸を磨き、騎士道を学ぶ。馬に乗り武器を使えるようになるまで幾星霜(いくせいそう)。最初は誰か騎士のサポートからスタートだろう。何年も従者を続けて20年と言う場合もあったらしい。貧しい農家の子がいきなりトーナメントに参加できる事はほぼなかったであろう。ウィリアム・マーシャルのような例外はあったであろうが、彼でさえ最初の従者時代と騎士なりたての頃は貧困だったらしい。賞金を稼げなければ結婚もできない。だから騎士は案外晩婚だったようなのだ。トーナメント用の甲冑棒で突くだけと言っても走った馬からなので相当の衝撃らしい。たから防具も盾もどんどん大きく強くなって行ったのだろう。防具の背中。フィット感が、技巧の極致。実用工芸品ですね。しかし、これもトーナメントで使用すればボコボコになったらしい。脱ぐのに鍛冶屋のお世話になる事も・・。もっと凄いのが下の武具。スカートの様な回しがついている。こちらは金槌での殴り合い用の武具らしい。これもマクシミリアン1世の時代。この武具は使用されなかたものなのか? あるいは後から修復補正したものか?危険が無いようにどんどん改良されているのだろうけど・・。そもそもどこから脱ぐのかな?この武具には脇の開きもない。そうそう姫を守る騎士・・は後世ロマン派の時代の小説から生まれた話で実際には従者と言う立場故、そんな色っぽい事はほぼ無かったのではないか?次回 これら甲冑の展示されていたウィーンの新王宮の美術館を紹介します。リンク ウィーンの新王宮美術館(Neue Burg Museum Wien)「西洋の甲冑 」back numberリンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail) 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)続編でましたリンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
2017年01月14日
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続編「西洋の甲冑 4」を出すにあたり、Mail (armour)のルーツの部分を修正しました。6年経過して、後から解った事実もあったので。完結編として完成した暁にはBack numberを後から書き込みます。前回載せた「西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)」はヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)からの出典でした。実は甲冑に関してあちこちで撮影だめしてきているのですが、どこも解説が付いていないのが現状です。(おそらく美術館自体で甲冑の年代も特定していないのだと思われる。)当然展示は一緒くたで、いつ、どこで、どのような戦闘で仕様されていたのか全く見当がつかない状況です。(V&Aでさえ、近世の一部が展示されているだけで系統が示されているわけではない。)そんな中で唯一まとまった多量の武具を展示している美術館がウィーンの新王宮にある「Kunst Historisches Museum Wien」です。そこは武具の他にエフェソスの遺跡、古楽器も合わせての展示ですが、武具に関しては、当然ハプスブルグ家、直の品が多いので他と比べものにならない量と品質(美品)と種類を誇っていました。(私の知る限りでは中世の騎士達の武具に関してのコレクションは今の所一番です。)そこの武具は高貴な立場の人や、本物の騎士の武具が中心。お金のかかった美術工芸品のような品々がならび素晴らしいのですが残念ながらそこも解説書がドイツ語表記のみ。載せるならある程度説明を入れたい所。(勉強が必要で長らく保留にしていたわけです。)まだまだちゃんと紹介できる程ではありませんのでザックリですが、今回はいろんな美術館から写真を引っ張って、初期のArmour ClothingであるMail (armour)。日本で呼ばれる鎖(Kusari)から紹介します。西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)Mail (armour)Mail coifBascinetAventailHauberkMail and Plate hauberk Mail (armour)の歴史ところで、武具の有名な産地が北イタリアとドイツにあったと言う事が調べているうちに解ってきました。当然仕様も違いますし、国(地方)により戦闘の違いか? 好みの違いか? スタイル自体に流行の違いがかなりあったようです。また、地方への伝播は今と違い欧州内でさえ、その時差は幅広かったようです。(武具の製作と使用年が特定できない原因でもあります。)こうした武具の伝播は、特に戦いにおいて戦勝国が戦利品として持ち帰った武具などからコピーされて広まったり、また行商の商人により他国にもたらされたりしたと思われます。ミラノ ポルテベッツォリ美術館((Museo Poldi Pezzoli))より写真右の方はイスラムのMail and plate armour※ 2014年 「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」で紹介ミラノ ポルテベッツォリ美術館((Museo Poldi Pezzoli))よりイスラム軍の武具Mail (armour)俗に日本では鎖帷子(くさりかたびら)と呼ばれるKusari(鎖)で編まれた防護服を中世では「Mail 」と呼んでいたようです。「Mail 」と言うと郵便や手紙の解釈にとられてしまいますが、全く同じ文字で別の意味です。その語源は古フランス語(Old French)とアングロノルマン語(Anglo-Norman)からで「郵便用の袋」の意味だったとされています。もしかしたら郵便を入れて運ぶ輸送用の袋が中世の騎士が着ていた鎖帷子に似ていた?いや、むしろ「鎖帷子の頭巾(Mail coif)」の前身が中世人々が頭に被っていた白いリネンの布頭巾だったと考えられている事から「Mail 」は白いリネンの布をさしていた可能生もあるかも? などと考察してましたが・・。はっきり書かれたものを一つ発見。以下。Plate armour(プレートアーマー)の説明ではっきり郵便輸送用の袋からの転用らしい事がかかれていました。リングをつなげた鎖編みの袋(メール)は体にフィットもしたそうです。リネンですが、直接、鎖(くさり)網を体に装着するわけにはいかないからその下は厚手のキルティングのようなリネンでカバーされていたようです。つまり、郵便(Mail)の袋がそもそものルーツだったと言う事らしい。※ 「Mail (armour)の歴史」はラストにも載せています。armour用のMailは、丸環の鎖あみを指す言葉にもなっている。Mail (armour) 部分拡大写真(「Kunst Historisches Museum WienのHauberkから)金属のリングを連続してつなげて頭巾やシャツを編ん刃物よけの軍用の防護服としたものがMailです。上の写真はほぼ原寸に近いかもしれません。技術も未熟な手作業の時代に、細かい鉄のリングを沢山造って繋いで服にする。これは非常に大変な作業です。職人が一着造るのにどれだけの日数を要するのか。つまりMail (armour)は非常に高額な商品であったと言う事です。(使い回しができるけど)Mail coifウィキペディアから借りてきました。上の写真 Mailだけで造られた頭巾は Mail coif と呼ばれている。ボディー用のMail より若干小さめのリングで編まれている。一般的な戦場機甲部隊のファッション。頭部を守る為に考えられたのは言うまでもなく、これが後にヘルメットの誕生に繋がるのである。Mail coif は地域により15世紀初頭まで使用され、15世紀半ばには次世代の合体型のAventailの出現で終焉している。Bascinet中世の欧州に現れた最初の軍用ヘルメットの総称が Bascinet である。14世紀。 Bascinet は最も一般的なヘルメットとされている。15世紀半ば以降はSallet と Armet の出現で無くなる?実はこの Bascinet の定義が今一つ解っていない。ただ、次に紹介するヘルメットとMailのコンビネーションはBascinetに分類されている。当初のBascinetf は敢えて頭頂部が三角錐のようにとがっていたらしいが、1410年頃よりバイザーは丸くなったそうだ。丸みを帯びたバイザーの典型が以前紹介したカール大帝の忌中紋章(きちゅうもんしょう)の形だ。美術館で買ったポストカードを撮影探したが、他の美術館でも Bascinet はほぼ見ない。たいていのヘルメットはSallet か Armet である。Aventail上の写真はイスラム軍のものヘルメットと Mail が合体したものを Aventail と呼んでいるが・・。Aventail あるいは Camail と呼ばれるこれらは、本来ヘルメット周りに取り付けられた Mail のカーテンをさしている。(このタイプは前出の Bascinet に分類されている。)※ 当初はヘルメットに直接Mailがとりつけられていたようだが、1320年頃より着脱可能なタイプが出現。技術的な進化か? こちらの方が手間いらずか? 欧州ではmail だけのmail coif は15世紀後半には完全に消滅。この Mail のカーテン(Aventail or Camail) 部分は後に鉄のプレート(Plate)に代わり Close helm (helmet)が生まれる。HauberkMail で造られたシャツがHauberk (ホーバーク)である。いわゆる鎖帷子(くさりかたびら)である。ウイーン新王宮美術館より 欧州のタイプHauberk の Cape 型である。欧州では14世紀にプレートの鎧が出現するまで主流であったが、イスラム圏ではオスマン帝国の時代を通して使用されていたようだ。下はイスラム圏のものであるが、仕様の年代は不明。ただ、下のタイプは胸に一枚の大きなプレートを取り付けている事から15世紀前半と推定。イスタンブールの軍事博物館のマネキンよりお腹のあたりに小さなプレートが複数取り付けられている。このタイプは Mail and Plate hauberk である。Mail and Plate hauberk Mail and Plateのコンビネーションのタイプである。このような Hauberk は欧州タイプにはなく、中東、オスマン帝国、インド、中央アジア、韓国、日本などに伝わっている。これがいわゆる日本の鎧の先祖となる?Mail (armour)の歴史ルーツは古代青銅時代に始まり、オリエント伝わり、ケルト人を経てローマに伝わり、中世から鉄製になった。・・と、「西洋甲冑武器事典」には書かれていますが・・。ウィキペディアの「Plate armour(プレートアーマー)」の解説では、郵便(Mail)袋からの新たな発想のarmour(アーマー)らしいです。要するに、当時郵便に使用されていた袋は鉄のリングをつなげて鎖編み状態にしたもの。それが人の体にフィットした事もあり開発されたようなのです。だからそれは「Mail 」と呼ばれたり、「Mail (armour)」と呼ばれたりしていた。素材は同一だったと言うことみたいです。確かに鉄を使用する文化が現れ、世界に広まったからと言うのは前提ですが、欧州ではローマ帝国が滅んだ後しばらく文化が消滅したり停滞している。カール大帝以降に復活?武器が変われば防具も変わる。新たな素材の出現で、武具も再構築されたのかもしれない。「Mail (armour)」は14世紀以降「Plate armor(鉄の甲冑)」の出現までは主流であった。とは言えオスマン帝国では近世まで使用されていた。以前紹介した十字軍騎士のフィギュアである。右の騎士の兜がAventailである。鎖帷子(くさりかたびら)の上にシトー会の白装束がテンプル騎士のトレードマークであった。武具の緻密さ、手間などから高価な Mail (armour) は当初は限られた兵士しか着られなかった。それ故、武具の略奪は当然あり、死亡した兵士のMailを脱がして持ち帰る姿が絵画にも残されている。ある意味戦場での最大の戦利品はそうした武具や武器にほかならなかったかもしれません。(持ち帰った武具は自分で使用する場合もあったでしょうが、売り飛ばしてお金に換える事もしばしば・・。)また、戦闘後は実戦経験から新たな服の改良や開発などもされたようです。それは武器の進化に起因しているのは言うまでもありません。イスラムの戦闘は剣が多かったので長らくMail (armour)が使用されたのかもしれませんが、欧州では中世初頭。十字軍時代から現れたcrossbow による攻撃が流れを変えたようです。大規模傭兵軍(crossbowmen)による部隊攻撃により重装備をした貴族の騎士(aristocratic knight)らもそれには太刀打ちできなかったようです。※ 矢の先に鋭い針がついていて、Mailを貫通してしまう。富裕層の騎士達はMail (armour)を捨て、身体のさらなる領域を鋼鉄で保護。気がつけば全身を被う鋼鉄のフル装備となる甲冑が誕生した? ウイーン新王宮美術館より crossbow 15世紀西洋の甲冑 つづくリンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル) 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
2017年01月10日
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続編を出すに当たり、多少の書き換えをおこなっています。Break Time(一休み)ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)から珍しい素材を持ってきました。V&Aは以前「ビクトリア& アルバート博物館 のカフェテリア」で少し触れていますが、素材の宝庫です。何しろここは前にも紹介しましたが、1851年のロンドン万国博覧会をきっかけに誕生した美術デザイン博物館(工業製品博物館)だからです。※ 1899年にV&Aに名称変更。私的には非常に興味あるものがたくさんありましたが、今回は中から中世の甲冑(かっちゅう)を選びました。西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)戦闘の変化から武具も変化Armour Steel ClothingのテキスタイルArmour Steel Clothingとは、直訳すれば鋼鉄の鎧(よろい)服。古来より戦闘で使われてきた防具服で、俗に甲冑(かっちゅう)と呼ばれる戦闘用の装備あれこれを取り上げようと思います。戦闘の変化から武具も変化今に残る古い時代のものはギリシャ時代の物に遡り、それらは考古学的な遺産? 割と多くの美術館に置かれているし、教科書にも載っていたかもしれない。たぶんカブトなどは一度は目にされているかと思います。でも甲冑(かっちゅう)は時代と共に素材も形も変化して行きます。それは戦闘方法の変化に伴い、進化せざる終えなかったからです。戦闘方法の違い?剣や斧、弓が武器の頃は、胸当(ロリカ・Lorica)も皮を厚手にした武具でも対応できたかもしれませんが、鋳物(いもの)の素材や、技術の進化。また職人の技術の向上もあり10世紀頃には鎖帷子(くさりかたびら)なども登場。※ 次回「西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)」で鎖帷子(くさりかたびら)は説明。リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)金属が希少だった当時、しかもフル・オーダーですから非常に高価。武具は誰もが装備できるような品ではなかった。それ故、戦闘の戦利品と言えば、馬もそうであるが、敵方の武具である。遺体からはぎとって、自分に合えば自分で使用しただろうし、売ってお金に換えた。戦い毎に武器も少しずつ新しい物が登場。数百年続いた十字軍の戦闘ではより新しい武器や武具が開発された。※ 以前書いたが、ロンドンのテンプル教会事務局の周りにはそんな武具屋も集まって来ている。金槌などの武器から中世には弓からボウガンに移行。ボウガンの登場は武具を大幅に変える事になった。当然、Mail (armour)では貫通する。もっとしっかり体を守れる武具に進化したのだ。甲冑(かっちゅう)と言うと、誰もが想像するフルフェィスにフルボディーを包む金属の甲冑が登場するにいたる。結論からすると、ボウガンの登場が戦闘方法だけでなく、武具も変えたのだ。当然、拳銃が登場するとさらに変わる。(ナポレオンの戦闘では利用されていた)が、今回紹介するのボウガン登場の頃の中世の甲冑です。※ 当初の拳銃は玉が石の小さいのであったから、今程の衝撃もダメージもなく、鋼鉄でも対処できた模様。Armour Steel Clothingのテキスタイル今回の紹介は、「甲冑デザインのスタイルブック」と言う鎧と兜の見本帳みたいなもの。高級顧客への商品パンフと言ったところでしょうか?非常に珍しいものと思われます。それを一部撮影してきました。そのブックから見る甲冑のデザインのお洒落度は感心する所で、これらは現代の衣服に密接に繋がって行っているのだと言う事です。V&Aはデザイン史上の動きを表現する甲冑を有名な生産地であるドイツ南部やイタリア北部から集めている。デザインだけでなく、柄が入っている所が注目です。金属の鎧は動きやすいようにパーツに分けられて製作されている。下はそのパーツのデザイン展開図。見て解るように非常に凝っています。それに全て体に合わせた特注になるわけですから当然高価です。紹介しているデザインは、かなり高位の階級の人用のものだと思います。そもそも甲冑は高価なのでフルセット装着できる者は非常に限られていたからです。戦闘要員の比率からしたらトップとその周りの騎士階級の者達くらい数%?逆に、大将である王侯貴族の為にはこんなデザイン・ブックまで存在していた。と言う事に驚きではあります。ところで、甲冑にはBattle Armour(戦闘用武具)とTournamemt Armour(トーナメント用武具)があり、そもそも用途と言う意味で仕様も違うようです。※ トーナメントの武具は「西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)」にて紹介。リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)西洋では古代ギリシアやローマの時代は青銅や革の甲冑が使われていたと言います。が、今回紹介している騎士スタイルの甲冑の歴史は古代ローマではなく、カール大帝(742年~814年)以降に生まれてくる戦闘のセミプロ達の誕生と臣従制度によって誕生した騎士制度が大きく関係しているようです。※ それら騎士制度については、「ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)」の所で少し触れています。また、「騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)」も合わせて見てもらえると良いかもしれません。リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)花柄の甲冑なんてちょっとオシャレで驚きでしたが・・。展示室の資料に寄れば、ルネッサンス期の貴族が鎧に求めたものは、体の保護と言う物理的な事だけでなく、権威や威厳、威圧もあったようです。その為、動作に影響がでない事は当然ながら、そのデザインには相手に精神的なプレッシャーを与え、かつ印象づけるような巧みなものが理想とされたようです。また甲冑のデザイン装飾だけでなく、戦いで刻まれた装甲の傷などもオシャレの勲章のような物で、そんな甲冑を着けた若い男性は、ファッションリーダー的な存在でもあったようです。(今風に言えば、モテ・アイテムだったと言う事か・・)製作年代が解らないが、ウィーンの新王宮にあったフェルディナント2世(Ferdinand II)(1529年~1595年)の武具が比較的似ていたので下の甲冑は15~16世紀の君主用かもしれない。Breastplate(甲冑の胸当て部分) 1565年フランス製Breastplateの背中部分TassetPauldoron and Gauntlet こうした鉄板製の甲冑が現れるのは14世紀頃のようだ。それ以前は鎖帷子(Mail)で防御されていた。次回につづく 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)リンク 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
2017年01月03日
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