わたしのこだわりブログ(仮)
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大変お待たせしました。こんなに開くとは思わなかったので休み宣言も出していませんでした。m(__)m前回終わってから自身の体調を崩し、年明けには母の腕が上がらない問題で家に来て病院に通っていたので私の負担が倍増。加えてパソコンのメール受信が不調で2度も修理に・・。やる気も完全に落ちてました。イングランドの進撃、これから複雑になって行くのでセンシティブにやりたい。資料も大量に必要。集中力も必要。ジタバタするよりは慎重にゆっくり歩を進めよう。・・と、思ってたら開きすぎた。(;^_^Aさて、番外編であった「イングランド国教会と三王国の統合 」が3編になりその間も開いてしまいましたが、そもそも、それらは本スジ「アジアと欧州を結ぶ交易路」で扱っていた「東インド会社、イングランド編」での布石(ふせき)。イングランドにおける東インド会社設立を理解してもらう為に必要なスピンオフ(spin-off) 回でした。当時のイングランドは3王国の統合と言うイングランド形成の激動期にあたっていた事。しかしそれ以上に特筆なのは、欧州勢による東インド会社の設立は新宗教(プロテスタント)の欧州台頭に重なっていたと言う事実。もし従来のカトリック一強なら、それほどもめる事もなかったかもしれない。ルターの意見書から始まる新宗教の台頭が各国の宗教に影響を与え、ひいてはそれは政治に影響を与え、国家間の争いの素となり、どこも内戦を引き起こし、諸々ややこしくなった時代なのである。※ 神学者マルティン・ルター(Martin Luther)(1483年~1546年)から始まる宗教改革(1517年~)。こんな時代に各国の東洋進出(大航海時代)も重なっているのだからまさに欧州一連の激動期。宗教革命のみならず、スペイン、ポルトガル以外の国の海洋進出も開始された。しかも新たに海洋進出した国はカトリック国ではなかった。各国進出の大航海時代突入は交易から新たな陣取り合戦と言う各国の植民地開発につながるのだが、さらにそこにカトリックvsプロテスタントの戦いも乗っかり、火種のもとは増えた。つまり各国競争の海洋進出はただの貿易の自由化どころではなく、交易を越えて宗教問題もかかえた領土獲得問題に発展。そこには話合いや融通はなく、早い者勝ちor力による領土争奪戦となり激しく展開して行く事に・・。※カトリック国同士の争いならローマ教皇による裁定で収まる事もあったが・・。1596年、ネーデルランド(オランダ)のフレデリック・デ・ハウトマン(Frederick de Houtman)(1571年頃~1627年)率いる探検船4 隻がついにジャワの胡椒の主要港であるジャワ島バンテンに到達成功。※ 実はポルトガル・ルートを研究しての成功。これに慌てたイングランドは1600年10月、イギリス東インド会社(East India Company)を設立。追随した。因みに、ネーデルランドもイングランドも双方東インド会社は特別許可状ともいえる「勅許(ちょっきょ)」によって設立された会社であった。(国営ではない)こうしてポルトガル、スペイン、ネーデルランド、イングランドと東南アジア方面への進出が、各国の東インド会社設立へとつながったわけだが・・。世界は広域、最初から新大陸(中南米)に展開したスペインはともかく、北米や南米、アフリカ大陸西岸、インド方面など空いた所に各国の交易は展開されて行く。★要するに方面別会社が以降たくさん設立されるに至るのだ。★イングランドもほぼ同時期に北米西岸のバージニアやインド、イラン、また南アフリカ大陸の西岸へ進出している。前置き解説が長くなりましたが・・。今回ちょっと間が開いた事もあるので各国の外洋進出のおさらいを冒頭に入れて、ジェームズ1世の時代に開始されたアメリカ西岸への進出と中東イランのサファビー朝との交易の話でまとめました。特にペルシアとの交易の話はあまり情報が無かったからね。当時「イスファハンは世界の半分」と形容される盛況であり同時に真珠と称えられる美しさを持つ都。その遺産は今も残っている。古い写真ですがイスファハンの建築をいくつか紹介します。開いた分盛りだくさんです。何と、イスラエルによるテヘラン攻撃が始まったと言うニュース。イスファハンはテヘランから離れているから大丈夫かな。アジアと欧州を結ぶ交易路 27 イギリス東インド会社(中編)海洋進出1 ポルトガル・スペイン海洋進出2 イングランド・メアリー1世時代海洋進出3 イングランド・エリザベス1世時代海洋進出4 イングランド・ジェームズ1世時代アルスター植民地(Plantation of Ulster)新大陸アメリ東岸バージニアへ進出アジア東岸とイラン進出ジェームズ1世の時代に本格化する海外植民地政策当時のイングランドの交易国アッバース1世下で始まったペルシアとの交易交易ルートと交易品大嘘つきが発見したペルシアイングランドとペルシアの交易をとりもったのは弟ロバート1622年のホルムズ島奪還の協力海洋進出5 イングランド・チャールズ1世時代ペルシアとの取引全盛ロバート・シャーリーと大王の死チェヘル・ソトゥーン宮殿イスファハーン(Isfahan)サファヴィー様式(Safavid style)シェイク・ロトフォッラー・モスク(Sheikh Lotfollah Mosque)彩釉タイル ハフト・ランギー(haft rengi)タイルイマーム・モスク(Imam Mosque)イスファハンは世界の半分まずは各国の海洋進出を時系列で整理してみた。海洋進出1 ポルトガル・スペインポルトガル単独で始まった外洋航海。最終目標はアジアの香料諸島を見つける事。それは外洋に出られる船の建造から始まっている。真っ先に世界への進出を開始したのはポルトガルだったのである。1341年、ポルトガルとジェノバ人の遠征隊をカナリア諸島(Canarias Island)に派遣。先住民がいた。 ※1496年、カナリア諸島の利権はスペイン(カステーリャ)にとられている。1419年、ポルトガル、マデイラ諸島(Madeira Islands)を植民地に。1427年、ポルトガル、アゾレス諸島(Azores Islands)発見。1439年までに7島植民地。ポルトガルはアフリカ西岸を南下。1488年、ポルトガルのバルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias de Novais)(1450年頃~1500年)ヨーロッパ人として初めて南アフリカ喜望峰に到達。スペイン特使としてコロンブスのロマンの探検航海が開始。1492年~1493年、コロンブス第1回航海(First time)。カリブ海の島に到着。アジアを目指したのに新大陸アメリカの発見。これよりスペインの中南米の進出が始まる。★1493年、教皇裁定により「教皇子午線」が決定。スペインとポルトガルの権利域が確定された。 ※ポルトガルは東域。スペインは西域。外洋進出による領土問題は2国のみに権利が与えられたのだ。★1494年、両国の協議で新たな線引き、トルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)線を決定。1498年5月、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1460年頃~1524年)はインドに上陸。これにより東洋の香辛料など直接買い付けが可能に。スペイン参入まではポルトガル単独で香辛料のアジア直接買い付けがされていた。 ※アラブ経由のヴェネチアルートは存在しているが高価だった。1521年、スペイン特使のマゼランが西回り太平洋航路で香料諸島フィリピンに到達。アジアからの直接買い付けにスペインも参入。★1529年4月、サラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)線が東経144度30分に敷かれた。ポルトガルとスペインの地球の裏の条約線である。 ※ 地球は丸かったので裏側にも線引きが必要になったからだ。★1537年、教皇勅書スブリミス・デウス(Sublimis Deu)が公布。かつての教皇子午線は無効とされた。※ 他の国も船を持って海洋進出が始まると、スペイン、ポルトガル以外の国から不公平が訴えられた。これにより東方面がポルトガル領、西方面がスペイン領と言う教皇による裁定自体が消滅した。つまり、以降はポルトガルとスペイン以外の国も海洋進出し土地を獲得する事が可能になったのである。しかし、カール5世からフェリペ2世の時代にかけてのスペイン海軍は最強。1580年、スペイン王フェリペ2世(Felipe II)(1527年~1598年)は母方からポルトガルを相続。スペインによるポルトガルの併合もされた。つまりアメリカ大陸もアジアもスペイン支配に。ここにスペイン一強時代が到来する。★太陽が沈まない帝国(the empire on which the sun never sets)と形容された。ところで、フェリペ2世でピークに達した海軍力はフェリペ2世の代で斜陽(しゃよう)を始める事になる。この頃、欧州のスペイン領での内乱や戦闘が勃発。特にネーデルランドの宗教戦争からの独立戦争に海戦。カトリック国スペインはプロテスタントらに翻弄される。最強スペインの崩壊は宗教戦争から始まったと言える。海洋進出2 イングランド・メアリー1世時代メアリー1世(Mary I of England)(1516年~1558年)(在位:1553年~1558年) ※夫はスペイン王フェリペ1世であったが子は無く早世した。スペインとの良き関係はそこで切れた。1555年 モスクワ会社(Moskovskaya kompaniya)設立。 ※初めてのイングランドにおける勅許会社(joint stock company)。国営ではない。当時のモスクワ大公国との契約でイングランドとロシア間の貿易を独占。対アジアの東インド会社や新大陸向けの会社の先駆けとなる存在であり、1698年まで存続。海洋進出3 イングランド・エリザベス1世時代エリザベス1世(Elizabeth I)(1533年~1603年)(在位:1558年~1603年) ※異母姉に全て敵対。プロテスタントを支持。スペインとの関係も最悪。国を上げてスペインから略奪を開始。(海賊奨励)1592年 9月、レヴァント会社(Levant Company)設立。勅許会社(joint stock company)。国営ではない。かつては東洋の品はヴェネツィア経由が主流であった。そんな時代に設立されたヴェネツィアの東洋交易の会社(1583年設立)を1592年合併する形で新たにオスマン帝国と独占契約を交わしてレヴァント会社(Levant Company)が設立された。東洋のみならず、新たに中東の品も含まれた交易開始である。これは女王肝いりで、正式に国交を結んだオスマン帝国との交易であったが、欧州勢の中では賛否のあった契約。理由:イングランドは参戦していなかったが、1571年10月ローマ教皇率いる西側欧州軍とオスマン帝国軍の間では歴史にも有名なレパントの海戦 (Battle of Lepanto)が行われていた。これは西側の交易を阻む地中海の海賊の親元オスマン帝国を相手に教皇庁が指揮を執り大々的に戦った海戦であり、西側の国にとってオスマン帝国は最大の敵国であった。つまり西側からしたらひんしゅくを買う取引であったからだ。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦1600年10月、イギリス東インド会社(East India Company)設立。オスマン帝国を介さず、直接アジアへの買い付けをするべく、こちらもイングランド商人が女王の勅許(ちょっきょ)の元に設立した会社である。これは同時期に一足先に香料諸島にたどりついたネーデルランドを牽制(けんせい)するべく? また張り合う為に設立された会社と言える。 ※香料諸島の略奪が想定された会社なので社内に軍隊も保有された。つまり香料諸島で戦かったのはイングランド軍ではなく、イギリス東インド会社のプライベート軍隊だったのである。因みに、イングランドでの勅許会社(joint stock company)は議会を通さない直接の王の裁定。しばしば女王の小遣い稼ぎに使われていた手法。つまり、大金を王に支払って投資家らが商業権利を認めてもらったのが勅許会社なのである。王もお金が欲しいからウィンウィン(Win-win)の取り引きである。アイルランドのアルスター(Ulster)地方への植民地開発。公式では1609年、ジェームズ1世の治世にアルスター植民地(Plantation of Ulster)開始とされているが、計画はエリザベス1世の時代からあった。また、ペルシアのサファヴィー朝との交易はエリザベス1世時代に持ち込まれた話から発展している。海洋進出4 イングランド・ジェームズ1世時代ジェームズ1世(James I)(1566年~1625年)スコットランド国王ジェームズ6世(在位:1567年~1625年)イングランド国王・アイルランド国王ジェームズ1世(在位:1603年~1625年)※ ジェームズ1世からイングランドは3王国連合の時代に入る。つまり国内問題も激動の時代に突入。先にも触れたが、1600年にエリザベス1世女王が勅許を与えた「イギリス東インド会社」の実動はジェームズ1世の治世。他にもアルスター地方(Ulster)への入植や北米への進出。また中東ペルシアの進出もジェームス1世の時代に開始されています。1602年、ジャワ島のバンテンにイギリス東インド会社の商館を設置。1603年9月 第1回航海は全船帰還し成功。1604年 第2回航海出航。前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)」でこのあたり触れていますが、出資者のほとんどがレヴァント会社の関係者であり総裁もレヴァント会社の総裁トマス・スミス(Thomas Smythe)が兼任している。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)1609年、公式のアルスター植民地(Plantation of Ulster)開始。イングランドによるアイルランドのアルスター地方(Ulster)への入植もエリザベス1世時代にすでに始まっていたらしい。 指揮をとったのがスコットランド王でありイングランド王であるジェームズ1世。※1601年頃?には次代の王位継承者としてジェームズ(1世)は女王に認められて側近にいた。アルスター植民地(Plantation of Ulster)北部アルスター地方は、もともと先住民のゲール人の土地であり彼らのほとんどはカトリック。★反プロテスタントであり反イングランドの土地を戦略的に抑える為の民族分断を図った侵略でもあった。先住民のゲール人族長らから強制没収した土地でイングランドはプランテーションを開始して行く。入植者はほぼイングランドとスコットランド人。アイルランド系住人は。ほぼ故郷にとどまり移動しなかったらしいが、劣悪な土地を与えられるか小作人として使役されたらしい。プランテーションを造る。そもそも、何も無い土地(荒野)への開墾による入植は大変な作業。入植者は苦労しながら開墾し、街を形成するまでに成長。※プランテーション以前のアルスターに街は無かった。ところで、ロンドンではアルスター植民地化が計画進行していた頃に、新大陸への植民計画も始まった。もともとアルスター植民地化へ資金協力するはずであったロンドンのギルドはロンドン・バージニア会社への支援に回ったのでプロテスタント入植者もまたアルスターではなく、アメリカのバージニアやニューイングランドに入植先を変えたらしい。※バージニア入植については以下にリンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世新大陸アメリカ東岸バージニアへ進出1606年、バージニア・カンパニー・ロンドン(Virginia Company of London)設立。ジェームズ1世に勅許された会社(joint stock company)。総裁はこちらもトマス・スミス(Thomas Smythe)。スミスは1609年に解任。1607年、バージニア・カンパニー・プリマス(Virginia Company of Plymouth)設立。こちらはプリマス、ブリストル、エクセター出身の裕福な投資家たちによって資金提供された会社らしい。つまりバージニア・カンパニーは2つ存在する。ジェームズ1世が2つの団体に南北分けてバージニアの勅許を出したと思われる。(ロンドン会社)北緯34度線から41度線までの海岸に対する権利。(プリマス会社)北緯38度線から45度線までの海岸に対する権利。※2つ会社の競争で勝ち得た方に重複する部分を与えると王は考えていたらしい。トマス・スミス卿が進出したロンドン会社の方はそもそも交易が主体。一方、プリマス会社はそもそも入植が目的だった? 英国最初の北米植民団はすで1585年送り込まれていたが全滅している。新大陸に渡った当初は食料もなく悲惨。農作物だって一朝一夕(いっちょういっせき)に生(な)るわけではないからね。海図の本「Eary Sea Charts」からSeachart of the West Indies and the Atlantic Ocean西インド諸島と大西洋の海図 17世紀中葉北米東岸を拡大植民地の紋章が入れられているので上に国名を記しました。北米上からフランス、イングランド、スウェーデン、スペインの紋章がありスウェーデンの紋章から1655年以前と推察できる。スウェーデンではグスタフ2世アドルフ(Gustav II Adolf)(1594年~1632年)(在位:1611年 ~1632年)王の時に重商主義政策が推進され北アメリカに進出。1638年大西洋岸中部のデラウェア川沿いに植民地(New Sweden)を持ている。しかし1655年ネーデルランドの植民地に組み込まれ国としては消えた。※因みに砦はとられたが、スウェーデン人とフィンランド人の入植者らはある程度の地方自治を続け残留。ネーデルランドに取られた砦は1664年にイングランドが奪取し、1667年のブレダ講和条約(Treaty of Breda)(1667年)で完全にイングランド領となりネーデルランドも消えた。下はブレダ講和条約前年1666年のニューネーデルランド(NIEU NEDERLANT)とニューアムステルダム(New Amsterdam)の海図。作成者はネーデルランドのPieter Goos。下はニューアムステルダム(New Amsterdam)部分拡大図。後のニューヨーク(New York)翌年(1667年)、条約によりニューアムステルダム(New Amsterdam)はイングランドに割譲された。王はその土地をヨーク公に与えたので街の名はニューヨーク(New York)となった。※ヨーク公は後のジェームズ2世(James II)(1633年~1701年)の事。現在のニューヨーク、マッハッタン島(参考に)1607年5月、ロンドン・カンパニーでジェームズ砦としてジェームズタウン(Jamestown)設立。しかし、利益どころかイングランドからの食糧支援が無ければ生きられない飢餓状態。街を捨てる直前に1610年、バミューダより持ち込まれたタバコの栽培がかろうじて利益を出す輸出品に成長。その後黒人奴隷による労働者の導入が始まった。1612年 サマーズ諸島(現在のバミューダ諸島・Bermuda)をバージニア植民地の一部に追加。※1640年頃から奴隷制が見られ1660年には奴隷制はバージニアに定着。南部のバージニアやサウスカロライナで大規模農業経営(プランテーション)が発展したのはその為だ。バージニア・カンパニーについては以下「イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世」の中、「新大陸アメリカのバージニア・カンパニー」でも書いています。リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世アジア東岸とイラン進出1613年、日本の平戸に東インド会社商館を設置。(1624年1月には商館は閉鎖)※ インドネシアのバンテンで日本からの使者より三浦按針(みうらあんじん)の手紙を受け取った。リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世 「日本との交易」で書いています。1616年、サファヴィー朝(Safaviyān)の王アッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定。元々、エリザベス1世時代に女王の寵臣エセックス伯の元部下アンソニー・シャーリー(Anthony Shirley)から持ち込まれたペルシアとの取引話であったが、オスマン帝国との関係もあり女王は激怒して相手にしなかった。★ペルシアとの交易が動くのがやはりジェームズ1世の時代。東インド会社による強い意向で始まった。次項、「アッバース1世下で始まったペルシアとの交易」で詳しく解説。1619年、東インド会社、オスマン帝国よりモカ港の入港の許可を獲得。コーヒー豆の輸入独占。 ※エリザベス1世時代からのオスマン帝国との取引の賜物。1619年、インドネシア問題でネーデルランド(オランダ)とイングランドの間で協定が結ばれたが・・。 ※香辛料の輸入量の取決めがされた。ネーデルランド2対イングランド1の割合。同時期にインドネシアに商館を開いたネーデルランドとは何かともめた。そこでできた協定であったが、現地のオランダ東インド会社第4代VOC提督であったヤン・ピーテルスゾーン・クーン (Jan Pieterszoon Coen)(1587年~1629年)(任期;1619年~1623年)は本国を無視して独占を図かりイングランドと戦争を始めた。結果、1623年、アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)事件を起こした。 ※アンボイナ虐殺事件はアンボイナ島にあるイギリス東インド会社商館で、職員全員がVOCの軍隊により拷問の上に虐殺された大事件。ネーデルランドによる残虐な仕打ち。実質の競争敗北。加えて中国との交易に参入できなかった事。また日本戦略のマーケティングミスが重なりイングランドは東アジアから大きく撤退する事になった。※インドネシアに仕入拠点は残ったもの平戸の商館は閉じられた。 おまけ平戸商館でイングランドが売っていた品毛織物(ラシャ)・・イングランド最大の特産物で最も売りたい品であったが蒸し暑い日本で全く売れなかった。そもそも湿度の高い東南アジアでは尚更どこも売れなかったらしい。鉛・鉄・錫(すず)・・それほど売れず。象牙・香木・・東南アジアで入手した品。火縄銃・・すでに国産の銃が生産されていたから需要は限定。平戸商館でイングランドが買っていた品銀・・当時の日本は世界有数の銀産出国。日本の銀を東南アジアの買い付け資金に充てていた。銅・・大砲の材料や通貨の材料として需要。漆器・屏風・・芸術品としてイングランドの貴族の間で珍重。Sea chart of Indian Ocean(インド洋の海図) 17世紀中葉Hendrik Doncker(Amsterdam)解説には1602年に進出したオランダ東インド会社が、1656年、ポルトガルからスリランカのセイロン(Ceylon)、コロンボ(Colpmbo)、インド南西部のマラバール海岸(Malabar caost)を奪い。ついにインド南部のケララ州のコーチン(Cochin)を手に入れた。とある。その年代の地図と思われる。下は部分拡大イングランドも一時はジャワ島西部のバンテン(Bantam)に商館を設置(1602年)してジャワ島や周辺に進出していたがオランダ東インド会社との抗争が激化。先も触れたが、アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)事件(1623年)を契機に、イングランドは東南アジア地域から実質撤退しインド、中東方面にシフトして行く。※アンボイナ虐殺については「アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)」で書いています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)ジェームズ1世の時代に本格化する海外植民地政策先にも触れた1609年、アルスター植民地(Plantation of Ulster)の公式の開始。また同じ頃、新大陸バージニアでの植民地活動の本格開始。1613年にはジャワ島のバンテンに商館設立。いずれも、最初から困難が伴ったが、これら本国以外での植民地活動への参入はジェームズ1世の時代に本格的に開始されている。これは時代の流れも確かにあるが、スコットランドから来たジェームズ1世がイングランド国王として弱体な権力基盤の上にいた事。そもそもイングランドでは徴税が少なく、国家財政が常に逼迫? していた事もあったのだろうと推察する。以前も触れたがイングランドでは議会の承認なくして王は資金が得られなかったから財政難で軍を集められない。援軍も出せないなど資金で苦労している。また、ジェームズ1世はしばしば海軍を軽視したと言われるが、まず、議会が提示する資金が少ない。国庫は危機的な困窮があったので海軍に資金投入したくてもできなかったのが実情だろう。そんな中で国王は購入が可能な新位階として1611年、イングランド準男爵位を創設してまで資金集めしている。その資金は、アルスター植民地でアイルランド人の反乱に備えるスコットランドの為の軍隊の費用を捻出する為だったとされる事から王のプライベートでの費用捻出であったのかもしれない。次代のチャールズ1世も涙ぐましい努力をして資金捻出している。はっきり言って当時のイングランド王は王室収入が乏しく貧乏だった。フランス王家のように国王と言えど自由に使えるお金は無かったのだ。皮肉な事に王制が倒されていたイングランド共和国(Commonwealth of England)時代にクロムウェルが導入した消費税や関税が王室収入に宛てられることになったので王制復古からは少しマシになったようだ。当時のイングランドの交易国ロシアとの交易・・モスクワ会社(国の公認)オスマン帝国との交易・・レヴァント会社(国の公認)(女王が推進)アイルランド・アルスター植民地・・国の公式北米バージニア植民地・・2つのバージニア・カンパニー(国の公認)東洋交易(インドネシア)・・東インド会社(国の公認)東洋交易(日本)・・東インド会社(国の公認)中東ペルシア交易・・東インド会社(国の公認)後にインドアッバース1世下で始まったペルシアとの交易アッバース1世(Abbas I)(1571年~1629年)(在位:1588年~1629年)先も触れたが、ペルシアとの交易の話はもともとエリザベス女王時代に女王の寵臣エセックス伯の元部下アンソニー・シャーリー(Anthony Shirley)(1565年~1635年)から持ち込まれた話であった。しかし、この男は信用のおけない大嘘付き。女王は彼の行為を激怒したが、東インド会社にとっては新たな交易相手の獲得と同時に高級品のシルク(絹)を得る道が中国以外に開ける事が魅力的だった。交易ルートと交易品現在のイランをピンクで囲いました。イングランドと日本の位置関係も解るので広域にのせました。当時イングランドからはアフリカ大陸を下り喜望峰を経てインド洋に入りペルシア湾のバンダレ・アッバースから陸路進むルートでイスファハン入り。海路(ロンドン〜ペルシア湾)まで約6ヶ月〜9ヶ月(貿易風待ちを含む)。陸路(港〜イスファハン)までラクダのキャラバンでザクロス山脈を北上。約1ヶ月〜2ヶ月。ロンドンからイスファハンまで 片道だけで約1年〜1年半。下はイランとザグロス山脈の地形図 ウィキメディアから借りました。イランは山脈に囲まれた特殊な地形です。最大で3000m級の頂を持つザグロス山脈が走るイラン。ラクダのキャラバンは約1ヶ月〜2ヶ月かけてほぼ1000m級の乾いた大地を★バンダレアッバース(Bandar-e ʿAbbās)の港から→★イスファハン(Esfahan)へ荷を運んだ。※イスファハンは標高約1600mの盆地状の高原にある。当時は黒海もオスマン帝国が完全支配していたのでカスピ海からロシアに抜けて欧州に入るルートをアンソニー・シャーリーはとっている。が、アッバース1世の指示でイギリス東インド会社の交易ルートはペルシャ湾経由と定められたと言う。※ アンソニー・シャーリーのルートの方が現実的には近いし早かったが・・。ペルシャ湾ではバンダレアッバースの港を利用。これは元はポルトガルが長らく領有していた場所。バンダレアッバースとホルムズ島を取り戻す為にイングランドは艦船を出して協力したのが1622年のホルムズ島攻防戦である。(この時の王はジェームズ1世)アッバース1世の陸軍とイギリス東インド会社の艦隊が連合し100年以上ポルトガルの支配下にあったホルムズ島を奪還した。これによりペルシア湾はアッバース1世軍の支配となり、イングランドの貿易拠点(バンダレ・アッバースなど)も得られたのである。イングランドがペルシアから買った品生糸(加工する前のシルクの糸)・・ペルシアの絹は最高級品で欧州で人気。イングランドはこれを安く仕入れ、ヨーロッパで転売して莫大な利益を上げていた。生糸はアッバース1世の時代のペルシアの国家最大の輸出品。それ故、イングランドに運ぶにはペルシア湾から船に載せなければならないとアッバース1世から条件が付いていた。バンダレアッバース奪還にしぶしぶイングランドが手を貸した(艦船を出して協力した)のも生糸がほしかったかららしい。ペルシア絨毯・・ペルシア絨毯は「主力の商品」ではなかったが王侯貴族の間でステータスシンボルとして求められていた。宝石と貴金属細工・・ラピスラズリ、真珠などの宝石類。馬・・アラビア馬の血統を引くペルシア馬。ペルシアに売った品毛織物(ラシャ)・・イングランド最大の特産物で最も売りたい品。インドで売れなかったイギリスの毛織物が、冬に冷え込むペルシア内陸部で一定の需要があった。アッバース1世は軍隊の衣類(コート)などに大量買い付けしてくれている。アッバース1世はオスマン帝国に対抗する為に軍の強化にお金を使ったので兵器、スズ、鉛なども主な交易品。支払いは銀東インド会社はペルシアの絹糸を買い付ける資金(銀)を乳香や没薬などの香料の取り引きで得ていた。※別の港や欧州で売って現金化する三角貿易のようなスタイル。そもそもはイングランドの毛織物を売ったお金で銀を得たかったが、ペルシア以外でほとんど毛織り物は売れなかったから資金を得る為の物品が必要であったからだ。大嘘つきが発見したペルシアアンソニー・シャーリー(Anthony Shirley)(1565年~1635年)アッバース1世(Abbas I)(1571年~1629年)(在位:1588年~1629年)先も触れたが、このアンソニー・シャーリーは軍を辞めたあと海賊を行為をしていたならず者。しかもとんでもない大嘘つき。無許可の遠征の過程で捕らえられ、流れついた先がオスマン帝国と敵対していたイラン(ペルシア)であった。当時のイランはアッバース1世(Abbas I)の元、サファヴィー朝(Safavid Iran)が全盛を迎えていた。※ 当時は首都をカズヴィーン(Qazvīn)からイスファハン(Eṣfahān)に遷都中。アンソニー・シャーリーは行く先々で平気で嘘を付くが、ここでも「スコットランド王ジェームズの親族である」とアッバース1世に嘘の自己紹介をしている。これによりシャーリーは歓待を受けて客人としてもてなされているのだ。また、アンソニー・シャーリーはアッバース1世にヨーロッパの政治情勢に関する情報を提供しつつオスマン帝国に対抗するには欧州と同盟を結んだら良いと進言。また軍事技術の助言もし、その為に欧州に外交使節を派遣するようプレゼンをしている。(しっかり外交官気取り。)アッバース1世(Abbas I)(1571年~1629年)(在位:1588年~1629年)にも思惑はあった。当時アッバース1世も対オスマン帝国との関係には陸の脅威として憂慮していた。またペルシア湾の要衝ホルムズ島を占領するポルトガルから港も奪取したかった。たまたまウズベクからの凱旋パレードで上機嫌だったこともあったのだろう。大宰相(だいさいしょう)は一行をうたぐったが王は信じたのだ。さらにアンソニー・シャーリーに有利な事態が起きた。オスマン帝国の大使が到着し、アッバース1世に対して「息子を人質としてオスマン帝国に差出す事。ホラーサーン地方をウズベク人に返還する事。さらにオスマン帝国領からペルシャに逃れた住人1万世帯を帰す事。」の要求がされた。当然王は憤慨。大使を追い返し欧州に外交使節団を出す事を決定。その使節団にアンソニー・シャーリーが同伴する事になったのだ。王は彼らを正式な外交使節として受け入れたばかりか、王の使節団の一因として彼を正式な使者にしたのである。この時、アンソニーの弟ロバート・シャーリー(Robert Shirley)が彼の帰国を保証する為に残されている。これが噓つきのアンソニー・シャーリーがペルシアの大使になってしまった理由である。1599年、オスマン軍を避けてアッバース1世の使節団はモスクワ経由をとった。モスクワでトラブルがあり軟禁されていたアンソニー・シャーリーはイングランド関係者に向けた手紙にこの事を記し、また外交使節団の事を報告している。アンソニー・シャーリーからの手紙の内容を知ったエリザベス女王は、まずアンソニー・シャーリーの無許可の大使就任に激怒。(当時イングランドはオスマン帝国と提携していた。)アンソニー・シャーリーが勝手にオスマン帝国と敵対するペルシアの大使となった事。またローマ教皇にも謁見。ヨーロッパ諸国を回った事はイングランドからしたら「知らぬ。」ではすまされない「国益を損なう事態」。女王は「即刻帰国せよ」と命じたらしいが、戻ればほぼ投獄。命令を無視。アンソニー・シャーリーは故郷イングランドに戻れなくなったし、当然イングランドに向けた外交交渉はできなくなった。結局アッバース1世にプレゼンして期待させながら欧州同盟にも応えられなかった。このままペルシアにも戻れない。弟を見捨てる事になる。起死回生? イングランド憎し? 当時イングランドと敵対し、オスマン帝国とも敵対していたスペイン(ハプスブルク家)に情報を売りにも行った。スペインでの待遇は悪くなかったが、スペイン王もペルシアと同盟する気は無かった? イングランドとペルシアの交易をとりもったのは弟ロバートロバート・シャーリー(Robert Shirley)(1582年~1628年) ペルシアに残された弟(推定17歳)は必死にアッバース1世に尽くす事になる。若かったロバート・シャーリーは戦士としてもペルシアの為に戦った。その結果、信頼を得る事となり、王は彼を再び欧州への大使として抜擢したのだ。ロバート・シャーリーの肖像(フレスコ画)(1615年~1616年 推定34歳)画家不明 クイリナーレ宮殿(Palazzo del Quirinale)のフレスコ画画像はウィキメディアから借りました。※ クイリナーレ宮殿(Palazzo del Quirinale)はローマのクイリナーレの丘にあるグレゴリウス13世のパラッツォ。ローマ教皇に謁見した時の記録? 装いはペルシアのもの。いざ、出発の時、弟ロバート・シャーリーは兄と違うルートを選択。なんとインドを抜けるルートを選択しているのだが、これが功を奏したのだ。1615年、イランから陸路でインドのゴアやムガル帝国の宮廷(アジュメール)を経由。このインド(ムガル帝国の宮廷)で2年ほど足止めされている時にイギリス東インド会社の商人と接触。ロバート・シャーリーは「ペルシアには最上の絹がある。アッバース1世はイングランドとの交易を望んでいる。今なら独占できるぞ。」的な事を言ったのだろう。当時イギリス東インド会社は、インドネシアでネーデルランドに苦戦していた時期。中国との貿易もかなっていない中、イングランドは新たな金になる商品を探していた。また毛織り物の販売先も求めていたから彼らの反応は上々だったはず。実際ロバートの働きかけを受け1617年、イギリス東インド会社の使者エドワード・コノック(Edward Connock)がイスファハンでアッバース1世に謁見。会社として正式な「通商許可(ファルマーン)」を求めたので アッバース1世はこれに応じ、イギリス東インド会社に絹の独占購入権と、ペルシア湾での拠点設営を認める事になった。★ロバート・シャーリーはついに使命を果たしたのである。兄のついた嘘を命がけで真実に変えた。それにしても「インド経由の謎」これは欧州をめざしたと言うよりは、インド、インドネシアに展開するイギリス東インド会社に最初から接触することが目的だったのでは? 1617年、イギリス東インド会社の最初の船がペルシア湾(ジャスク港)に到着。正式交易がスタートする。1622年のホルムズ島奪還の協力ポルトガルによるホルムズの占領は1507年に遡る。ホルムズの占領とは、ペルシア湾を通るインドとヨーロッパの交易路の独占を意味する。ペルシア湾の奪還はアッバース1世の悲願。アッバース1世はオスマン帝国を回避して絹を直接売りたかった。ペルシアはイングランドに協力を迫ったのである。東インド会社(EIC)の方もネーデルランドに負けないドル箱(絹)が欲しかった。この利権の死守は必至であった。1622年、軍事協力による ホルムズ島奪還の攻防が行われる。イングランドは火器の導入や常備軍の編成などイラン軍の近代化を支援もした。実際のホルムズ戦ではアッバース1世の陸軍とイギリス東インド会社の艦隊が連合して戦った。アッバース1世は海軍を持たないのでイングランドの艦船を利用。イングランドの艦船にアッバース1世の戦士を載せて運んだ。※イギリス東インド会社は国営ではない。会社独自の軍隊を備えていた。会社の最盛期には英国陸軍の2倍にあたる26万人の兵士がいたとされる。会社の実利は? 当時のホルムズ島は世界中の富が集まるロケーション。※ 特にホルムズは古来よりアラビアから運ばれる香辛料(乳香や没薬)などの集積地。この勝利により、イギリス東インド会社は大量の現金(銀)と関税の免除及び関税の折半。という利権を手にいれたと言う。もっとも、関税収入の半分を同社に分配する契約に関しては、この収入が適切に支払われることはほとんどなかったらしい。ところで、イングランドはオスマン帝国とも「レヴァント会社」を通じて良好な商売をしていた。イングランドの立場はどうだったのだろろう? 実際、イギリス東インド会社の台頭の恩恵でイングランドは「オスマン経由の陸路」と「ペルシア湾の海路」の両方を獲得できてラッキー。オスマン帝国側に不満もあったらしいが、あちらもイングランドは捨てがたかったのだろう。海洋進出5 イングランド・チャールズ1世時代チャールズ1世(Charles I)(1600年~1649年)イングランド、アイルランド王チャールズ1世(在位:1625年~1649年)スコットランド王ジェームズ6世(在位:1625年~1649年)ペルシアとの取引全盛議会との内戦で忙しかったチャールズ1世であるが、東インド会社は動いていた。1622年、ホルムズ島奪還に協力したイングランド(イギリス東インド会社)はペルシアとの関係をより強固にし、取引も拡大させていく。ペルシアでは王アッバース1世が都をイスファハンへ遷都(1598年)。ホルムズ奪還はペルシアにとっても莫大な利益を約束したからサファヴィー朝(Safaviyān)はアッバース1世の元、隆盛を極め繁栄する。アッバース1世(Abbas I)(1571年~1629年)(在位:1588年~1629年)イスファハンは荒野の広がるペルシアの中でもイラン屈指のオアシス都市として知られるひと際美しい都。交易で訪れた者は皆、感嘆。その美しさの話は今も伝えられる。イスファハンはイングランドからは非常に遠かったけれど、代えがたい上質のシルクが彼らを迎えた。奇しくもホルムズの翌年1623年、インドネシアでアンボイナ虐殺事件が勃発。イングランドはネーデルランドに負けてインドネシアからの撤退を決める。彼らは非常にタイミングよく乗り換えに成功したのだ。イングランド(ジェームズ1世)とペルシアの王アッバース1世とはすでに貿易協定(1616年)が結ばれていたが、1625年、チャールズ1世即位後にはイギリス東インド会社は東アジア・東南アジアにおける活動を縮小してインド亜大陸とペルシア(現イラン界隈)へ完全なシフトが始まった。★ペルシアとイングランドの取り引きは、チャールズ1世(在位:1625年~1649年)の在位期間にほぼ当てはまる。ロバート・シャーリーと大王の死ロバート・シャーリーの肖像(夫婦の肖像一片)1627年所蔵 R.J.バークレー画家不明画像はウィキメディアから借りました。この交易が成功するとロバート・シャーリーはペルシアでの成功者として見られた。ウィリアム・シェイクスピアの「十二夜」の中の表現にペルシアの王様から莫大な年金をもらう者の話が語られている。また、同時に彼の異国情緒タップリのペルシアの正装は画家らの興味をひいた。実はヴァン・ダイクによる肖像画も存在する。宣伝効果バツグン。一時はペルシアの恩人と称えられ、実際ペルシアと欧州を結ぶパイプ約として活躍。しかし、全てはアッバース1世の寵愛があっての地位。実はイギリス東インド会社側からは自分らの利権を減らす敵? と疎まれ、宮廷内では権力闘争に巻き込まれて行く。1628年旅行中、ガズヴィーン(Qazvīn)で病死? 毒殺とも伝えられる。翌1629年、アッバース1世も逝去する。しかし彼の後継者、孫のサフィー1世(1610年? ~1642年)は極めて無能だった。アッバース1世の死後オスマン帝国の逆襲が開始されわずか10年。1638年、イラクを奪還されサファヴィー朝の没落は加速する。カリスマ王のアッバース1世の死はサファヴィー朝の終わりを意味していたのである。イギリス東インド会社はロバート・シャーリーがいなくなった事で自分たちが有利に交渉できると考えたのだろうが、実際はペルシア宮廷の腐敗が進み、汚職や欲望にかき回され、交易の収益は落ちて行く。さらに独占であったはずのペルシア湾の利権にオランダ東インド会社が参入。シェアの奪い合いとなり当然収益の悪化でペルシアとの取引に陰りが始まる。もし、ロバートが生きていて、無能な王のサポートをしていたらサファビー朝(Safavids)の没落はもう少し先だったかもしれない。チェヘル・ソトゥーン宮殿(Chehel Sotoun Palace)Located in Isfahan, Iran(イランのイスファハンにある)宮殿内フレスコ画(1647年頃)シャー・アッバス1世(Shah Abbas I)がウズベク王のワリ・ナドル・ムハンマド・カーン(Wali Nadr Muhammad Khan)を迎える図。下が拡大。左の御人がシャー・アッバス1世(Shah Abbas I)。因みに左下の八ヒゲの人は警護人。ウズベクを抑えた事で北西方面の国境が安定しオスマン帝国との対決に臨み勝利。1623年オスマン帝国との戦闘でバグダードを奪還。サファヴィー朝はアッバース1世 (1571年~1629年)(在位:1588年~1629年)のもとで最盛期を迎える。イングランドは1616年~1617年サファヴィー朝に特使を派遣して接触。イングランドとアッバース1世は同盟を結び1507年~1622年にかけて行われていたペルシア・ポルトガル戦争に参戦。先にも説明したとおり1622年、ホルムズを奪還。ペルシア湾周辺のポルトガル領を征服し、ポルトガルからペルシア湾を奪い返す事に成功。イングランドが艦隊を持って参戦した事がペルシアの勝因であったから、東インド会社艦隊の支出はペルシアが半分持つ。残りは絹貿易の保障とホルムズの戦利品の折半、また関税の免除及び関税の折半で話がつけられた。ホルムズは中東の香辛料の集積場。イングランドの受けた恩恵は他にもあったはず。チェヘル・ソトゥーン宮殿(Chehel Sotoun Palace) 1657年建設。こちらはウィキメディアからお借りしました。アッバース1世の命により建設が開始されアッバース2世によって完成。王室の接待や宴会のために利用された宮殿。現在は二つの建物のみ残しているにすぎないが20本の柱が庭園の水面に映り込み倍に見えるので40本の柱を意味するチェヘル・ソトゥーン宮殿と呼ばれている。★おそらく当初はこの四角い池は宮殿で囲われてたいたと思われる。(柱はもっとたくさんあったはず。)「塀で囲まれた庭」の事を古代ペルシャ語でパイリダエーザ(Pairidaeza)と言うらしいが、ペルシア庭園でのパイリダエーザはもれなく「中庭にある泉」をさしているからだ。因みにこれが英語の楽園・天国(パラダイス・paradise)の語源となっている。豊かな水が潤すペルシア式の庭園部分はイランにある他の8つの庭園とともに2011年ペルシア庭園の世界遺産に登録されている。下はかなり古い写真ですが、自前です。下は解像度が低い写真ですが、自前です。こちら下はウィキメディアからお借りしました。Ceiling of Chehel Sotoun throne room(チェヘル・ソトゥーン玉座の間の天井)ウィキメディア・コモンズの注目画像であり、最高品質の画像の一つだそうです。それ故、拡大して細部が見られたので、上の写真の部分拡大が以下です。ムカルナス(muqarnas)(鍾乳石状の装飾)の装飾性はアッバース1世の元で進化。それ以前のムカルナスは小さな尖った窪みが層を成して繰り返す形式で、煉瓦、石、漆喰、木などで作られていた。タイルを使った幾何様式の新たなムカルナス。これだけでものすごい芸術作品です遠目に鏡面のように光を反射するので鏡だと思っていたが・・。ウィキメディアの高画質の写真を部分拡大して判ったのは面のきれいなタイルをまるでステンドグラスを思わせるような枠の中にデザインして貼り付けている事。このタイルを使用する新技法は、アッバース1世がイスファハンで建築させた全ての宮殿やモスクでのスタンダードとして見られる。次項「サファヴィー様式(Safavid style)」で他のも紹介します。ところで、チェヘル・ソトゥーン宮殿(Chehel Sotoun Palace)は先に紹介した記録のフレスコ画で有名す。他の作品も紹介しようと見ていてちょっと面白い発見をしました。その発見は交易とは離れるし、詳しく解説したいので別枠「Break Time (一休み)」で紹介する事にしました。イスファハーン(Isfahan)アッバース1世が建設したイスファハーン(Isfahan)は現在人口50万人。トルコ人、アラブ人、インド人、アルメニア人、ユダヤ人、ゾロアスター教徒が混在する他文化都市。イスファハンは首都テヘランから南方約330km。ザグロス山脈とその支脈の山々に囲まれたイラン高原中央部、標高約1600mの盆地。大陸性の気候を示すイラン高原は、夏と冬の寒暖差が25度以上。しかしザグロス山脈を水源とするザーヤンデルード川(Zayanderood)の豊かな水に恵まれたイスファハンは牛、ヤギ、羊、ロバの放牧だけでなく麦・大麦・米・綿花・葡萄・メロンなどの農作物の実り豊かな都市としてイラン屈指のオアシス都市として繁栄する。アッバース1世は1598年遷都を決めると計画都市計画を実行。宮殿やモスクなど多数建築。どれも当時の最高の技術と芸術性を備えたペルシア史に残る建築物を残した。サファヴィー朝はイスラム黄金時代の象徴とされ「イスファハンと言えば美しい都」と今も形容される。それらアッバース1世の建造物はその治世サファヴィー朝(Safavids)からサファヴィー様式(Safavid style)と呼ばれる。イスファハーン(Isfahan)の中心となる通称イマーム広場(Imam Square)ことナグシェ・ジャハーン広場(Naqsh-e Jahan Square)。正式名称「メイダーネ・ナクシェ・ジャハーン(Meydān-e naqsh-e jahān)(世界の肖像の広場)」。広場の空撮にモスクの位置を書き入れました。写真本体はウィキメディアから。右上からベージュのドームを持つシェイク・ロトフォッラー・モスク(Sheikh Lotfollah Mosque)アリ・カプ(宮殿)(Ali Qapu(Palace))ブルーのドームを持つイマーム・モスク(Imam Mosque)orジャーメ・モスク(Jāmé Mosque)サファヴィー様式(Safavid style)アッバース1世が作ったイスファハンのイマーム・モスクは「青の芸術」とも形容されるよう、頂くブルーのドームが特徴。このブルーは壁面を青色のタイルで覆う事でできている。しかも太陽光の角度によってエメラルドグリーンから深いサファイアブルーへと色を変える特殊に開発されたタイルでできている。つまりイマーム・モスクが絶頂期を迎えたサファヴィー朝の最高傑作と言われるのも納得の特徴を備えたモスクであるのはタイル一つを見ても解るのだ。構造においても、アッバース1世の建築はビザンツ様式のアヤソフィアよりも、古代ペルシア(ササン朝)の宮殿建築の様式に近いとされる。ミナレットやイワーンの使い方もしかり。先に紹介したムカルナスの幾何学化とタイル装飾の融合はここから始まる。宮殿もモスクもそれ以前とは全く違い非常に特徴があるから「サファヴィー様式」とくくられる程。特に特徴なのはやはりモスクの壁面を飾ったタイルである。以前は建材そのままで壁にタイルほ貼る事も無かった? 土のモスク、石のモスク、レンガのモスク、木のモスクとイスラムのモスクは建材で分類される程。「サファヴィー様式」では壁面を絵柄付きのタイルで覆っている。しかも従来のタイルではない。ハフト・ランギー(haft rengi)と呼ばれる七色の彩釉タイルを開発。絵柄を合わせるように貼る事で壁面を草花や幾何学の柄装飾で飾る事を可能にしたのである。★イマーム・モスクのドームはただ青いだけではない。唐草文様で装飾されている。さらにカラーである。イマーム・モスクのブルー・ドームはこれぞ「サファヴィー様式」と言えるブルーで、イスファハンブルーとも形容される。ラピスラズリのブルーからトルコ・ブルー。エメラルドブルーなどの彩色を持つ。イマーム・モスクだけでなく次に紹介するシェイク・ロトフォッラー・モスクもその内部は絵柄タイルで装飾されている。イスファハーンのモスクがどこよりも美しい。と感嘆されたのはハフト・ランギー(haft rengi)と呼ばれる七色の彩釉タイルの開発に成功したからだ。シェイク・ロトフォッラー・モスク(Sheikh Lotfollah Mosque)ベージュ(カフェオレ色)のドームが特徴のシェイク・ロトフォッラー・モスク(Sheikh Lotfollah Mosque)は、もともと王とその家族のための私的な礼拝堂。外に向かって誇示したブルー・ドームのイマーム・モスク(Imam Mosque)とは異なり、上品で落ち着いた色が選ばれたらしい。また、このベージュのタイルは、太陽の光の角度によって色が劇的に変わると言う朝はピンクがかった色、昼はクリーム色、夕暮れ時には燃えるようなオレンジ色。時間とともに表情が変わる事は最初から計算ずく。つまり、ベージュのドームは、一日の太陽の動きを映し出す日時計のようなモニュメントでもあるらしい。先も触れたが、洞窟の入口が意識されたムカルナス(muqarnas)(鍾乳石状の装飾)の装飾性はアッバース1世の元でタイルが取り入れられ建築素材から進化。そしてそれは唯一無二の美しさを示す事になる。彩釉タイル ハフト・ランギー(haft rengi)タイルhaft =7 rengi=色 から「7彩タイル」一枚のタイルの中に模様の「線(輪郭)」をワックスや油、マンガンの混合物で描き、その内側を色釉薬で彩色するという「クエルダ・セカ手法(Cuerda Seca)」をとる事で釉薬が混ざり合わないように描かれている。これにより一枚のタイルに他彩色が可能になっている。使用する素地や輪郭線の作り方、完成品の表面の質感に違いはあるが、ガラス質の素材を焼き付けて装飾すると言う技法では七宝焼きに似てますね。因みに七宝焼きは紀元前1000年前から存在。歴史は古い。良質の石材に乏しいペルシアは、古代、日乾しレンガと焼成レンガが建築資材として使われてきた。中世、資材が レンガに代わっても全体としてはモノトーン。そこでレンガの躯体を覆う仕上げ材料としてタイルが発展したらしい。当初は古代ローマに見られるようなモザイクによる張り合わせ。それでは あまりにも手間と時間がかかる。アッバース1世は文様をタイルに描き、貼りつなげる事で時短を計ったとされる。どうしても自分の存命中に建築を完成させたかったかららしい。ハフト・ランギー(haft rengi)と呼ばれる七色の彩釉タイルは工期の早回しから開発された? 工期だけでなく、永遠に近い美しさも持ち合わせてイスファハーンを美の都に変えた。その美は今も言い伝えられている。イマーム・モスク(Imam Mosque)シャー・モスク(Shah Mosque)・王のモスク。またカラーから「青のドーム」とも呼ばれる。★イマーム・モスク(王のモスク)の美しさは、サファヴィー朝建築の到達点と称えられ、サファヴィー朝自体がイスラム黄金時代の象徴とされている。。1611年に着工。全体が完全に完成するのは1630年頃で、王の死後(1629年没)であったが主要部分は彼の統治下で大方形作られたらしい。メインのドームは高さ52m。ムカルナスを完璧な幾何文様に置き換えたのもアッバース1世から。イマーム・モスクの鮮やかな青(イマーム・ブルー)(イスファハン・ブルー) 深い青色はイランのカーシャーン近郊で採掘されたコバルトから。明るいトルコ・ブルー(ターコイズ)は、銅酸化物を釉薬(うわぐすり)に混ぜることで作られる。これらブルーの彩色はアッバース1世の時代に完成された。それらで「タイル」を彩色して焼き上げ壁面を飾った。以前はタイル・モザクであったものを絵付けしたタイルを焼成して絵柄を合わせて並べている。モスク内部を聖地メッカの方向(キブラ)に正確に向かせているので直線上に建てられていない。モスクの入口 イーワーン(iwan) こちらのみウィキメディアから借りました。 広大な中庭を囲む4つの巨大な門イーワーン(iwan)が特徴の「4イーワーン」形式。これはペルシア独自の建築伝統で空間の広がりと権威を象徴。イーワーン自体はササン朝ペルシア時代にモスクに持ち込まれたらしい。日照の関係で鮮明な写真が撮れていないです。カメラの解像度も悪いし・・。メインドームドーム下の祈祷所ミフラーブ(mihrāb)は、カアバの方向を示すキブラ壁を示すもの。下はウィキメディアからお借りしました。広角写真だし、もしかしたら汚れを落として修復した後の写真かも。これが本来のイスファハーンの色なのか? と思い参考にしてもらいたく載せました。でもかなり青を強調してますね。The main domed prayer hall (メインのドーム型祈祷堂)イスファハン・ブルーのドーム「イスファハン・ブルー」と呼ばれるこの青は、空の境界がわからなくなるほどの美しさと称えられ。特に、アラベスク(植物文様)や幾何学模様、カリグラフィー(装飾文字)が組み合わされた装飾は当時の人々にとって「神の理(数)と生命の躍動(植物)」が融合した理想の世界を表現していたらしい。これこそがサファヴィー様式(Safavid style)である。アッバース1世が作ったイスファハンのモスクは、いまだに越られない王の美意識が詰まった最高傑作。モスクのルーツがトルコのアヤソフィアを原型としていると言われているが、アイヴァーン(巨大な入り口のアーチ)は、アヤソフィアにはないペルシア独自のアイデンティティだそうです。※ アヤソフィアはもともとキリスト教のロマネスク様式の教会であった。アヤソフィアについては以下に書いてます。リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)イスファハンは世界の半分エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン(Esfahān nesf-e jahān ast)1597年、アッバース1世がサファヴィー朝の首都をイスファハンに置くとを大規模な都市計画で街を建築。イギリス東インド会社のおかげもあり、ホルムズをポルトガルから取り戻しペルシア湾交易では収益が上がり資金もタップリ。イスファハンは交易として繁栄のピークを迎える。しかも最盛期のイスファハンの人口は50万人を超え。東西文明の交差点という立地から、多様な人々や文化が行き交い、イスファハンは活気に満ちた国際都市となった。ここを訪れた商人らがイスファハンの繁栄と美しさに感動して「世界の半分」がここにあると称賛したと言われる。Back number アジアと欧州を結ぶ交易路 27 イギリス東インド会社(中編)リンク イングランド国教会と三王国の統合3 名誉革命リンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2026年03月03日
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