想いが重なれば闇は光に変わる。想いを抱き続ければ天開がある。

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Lily & Rosy

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2009年02月17日
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苦しく傷ついた人の傍に佇むことは私の名前(優子)の通り、

しかし苦境になく普通の状態の人に対して、
好き嫌いが激しい私がとりうる、優しさのかたちとはいったい? 

万人に優しいというのはやはり自分には理想で、
今はまだそれに魅力も感じないけれど、
一人でなく複数に同時に思いをかけられる人にはなりたいと思う。

そして、ひとつマチルダの詩の例から、改めて「思い出した」ことがある。
コーチもクライアントのそばに「ともにいる」だけでいいということを。

コーチは考える必要はないということを。
確かプロ養成コースでとことん訓練されたはずなのに、最近学びが起こることを意識したり、問題解決に走っていた・・・初心に戻ります。

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(心のともしび)
http://www.tomoshibi.or.jp/tv/info.html
真の優しさ
By シスター 渡辺和子


人間たくましくなくては生きていけない
優しくなければ生きる資格がない
といったのはレイモンド・チャンドラでした
弱肉強食と同じ意味で、


確かに生きる力は必要ですけれども
それ以上に よく生きる力
人間として人間らしく生きる 
思いやりを持った優しさというものが必要です

生きる資格としての優しさというのはどういうものか?

自分自身と闘ってられる強さ、
それに裏付けられているものだと思います

あるとき一人の学生が話にきて、いろいろ話したあげく、
シスター、私の彼はとても優しいのですと言いました
ご馳走様と思いながら、
どんなにやさしいの?と訊きましたら
携帯をかければどこでも来てくれる 
ほしいもの ねだれば大抵のものは買ってくれる と申しましたので
それではひとつテストしてみてください

あなた方ふたりが 手をつないで降りたプラットフォーム
たまたまエスカレーターもエレベーターもない駅だった
そしてあなた方二人の前を お身体の悪い方が荷物をもって歩いてらっしゃる
その時にあなたの優しい彼がどうするか見てちょうだい
あなたとの手を振りほどいて 
その方のお荷物を持って上までお連れする人なのか
それともあなたとの手をこんりんざい離すまいとして見向きもせず
二人だけで歩いていこうとする人なのか 
もし前者ならばその人は本当に優しい人だと思う
でも後者だったら、もうそろそろお付き合いをやめてもいいかもしれない
と申しましたら、その学生は今度試してみますといって帰っていきました

これは20世紀の社会心理学者 エーリッヒ・フロムという人が、
「愛するということ」という本の中に書いていることで
もともと愛とか、優しさというものは特定の人にのみ向けられるものではなくて
もし人が一人の人だけに優しくて他の人々に冷淡であるとすれば
それは本当の優しさではなくて、エゴイズムだと書いております
本当の優しさというのは、ある特定の人に対しての優しさではなくて
全世界とのかかわりにおいて優しい、ということでなければいけないと思うんです

マザーテレサがよく、
愛の反対は憎しみではありません、愛の反対は無関心です 
とおっしゃっておりました
憎しみは愛の反対語であり、
憎い人はかわいさ余って憎さ百倍というように 気になるものでございます 
ところが無関心はそこに愛のかけらもない
その人の存在さえ認めようとしない 関わりあいを一切持とうとしない そういう姿で
この無関心が今日本に蔓延しているときに
私たちは全世界とのかかわりとしての優しさを育てていかなければいけないと思います

優、やさしい とは 人ベンに憂いと書きます
それは憂の傍らに佇んでいる人の姿をそのまま表した字です
私自身が憂いをもって心配事、苦しみをもっておりましたときに、
その憂いととともに生きました
そして少~し優しくなったと思います

人様の場合にも、その方の羽振りがいいときに傍についているけれども
その方が落ち目になったときに離れ去っていく 
その人はその方の憂いの傍らに佇む優しい人ではありません

遠藤周作が「聖書の中の女性たち」という本を書いていらっしゃいますけれども
その中に 白血病のために11歳で死ななければならない
マチルダという少女の詩が載せられている

私の喉が痛いとき あの子の喉も痛み
私が夜咳をするとき あの子も目を覚まして咳をしている
私がママにしかられて泣く時 あの子も私と一緒に泣いている
夕日に映る私の影法師のように あの子はいつも私と一緒だ

マチルダにとって
この何度もでてきる「あの子」は、イエス・キリストでした。
苦しむ人と苦しみ、泣く人と泣く
喉の痛みを奇跡的に治すでも 咳を止めるでもない
ママのしかるのを止めさせるのでもない
いつも私たちとともにいるエマヌエルとしてのイエスさまのお姿が
この11歳のマチルダの詩によく表れております

そしてイエス様ご自身が自分のお言葉で 
マタイの9章だったと思いますけれど
医者を必要とするのは健康な人ではなくて病人である
私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来た
私たちが罪びと又は心や身体を病んでいる「にもかかわらず」
愛してくださるのではなくて
私たちが心や身体を病んで「いるが故に」愛してくださる
イエス様のみ言葉だと思います
よく自分は罪深いから洗礼を受ける資格がないとおっしゃる方がございますけれども
私が申し上げたいのは、いや、罪びとだから「こそ」イエスの身許に近づく権利があるのですよ
私もそうでした ということでございます

足跡 フットプリンツ という詩がございます

ある夜 一人の人が夢をみました
そしてその中に自分の生涯が映し出されておりました
そこには いつもふた組の足跡がついていたんです
ひと組は自分の足跡
そして もうひと組は、主イエスの足跡でございます
ところが ところどころ 足跡がひと組しかない場所がある
そしてその時、実は自分がいちばん苦しみ、辛い思いをしていた時だった
それを考えて この人は主に話しかけます
主よ 私があなたに従う決心をしたときに あなたは私におっしゃいました
私はけっしてあなたのそばを離れない いつもあなたと一緒にいる
なのになぜ わたしがあなたを一番必要としたその時に限って 
私をお離れになったのですか 
すると主はお答えになります
私が愛する大切な子よ
ひと組しか足跡がなかったとき 私はあなたを私の肩に背負っていたんだよ
私は決してあなたを見捨てることはなかった

この詩にあらわれておりますように 
実は私たちが悩んでいるとき、悲しんでいるとき
一人ぼっちではないかと思うときに
主が一番近くにいてくださる
私たちを背負ってくれてくださる
かくて真の優しさというのは 一人の人への優しさではなくて 
全世界との関わりとしての優しさだということ
そしてもう一つの特徴は 見捨てられた人を 決して見捨てない
ともにいる優しさ ということだと思います





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Last updated  2009年02月17日 05時03分51秒
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