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こんにちは、資料館です。七保町の浅川入口バス停から国道139号を300mほど松姫方面に進んだ右手の路肩に石碑が2基立っています。右側に建つ碑の中央には「供養塔」と大きく刻まれ、両脇には建立者である「山水会大物狩猟倶楽部」、建立日の「平成九年五月吉日」の文字が読み取れます。左側の碑には、山水会の総指揮者・勢子長・副勢子長・射手達人・射手名人などの会員の氏名が刻まれています。大月市の面積はおよそ280k㎡あまり、県内27市町村中5番目の広さです。そのうちの約87%を森林が占めています。森林の多くは山地で、そこにはたくさんの動物が住んでいます。森に住む動物たちは、かつては食料や毛皮・油などの恵みを人に与えてくれる存在でした。ところが、今は里に下りてきて悪戯をするので害獣として扱われています。人間の食生活の変化や、耕作地の放棄、植林によって動物たちの立場が変えられたのです。特に、シカやイノシシ、クマなどの「大物」は駆除の対象となってしまいました。恵みを得るための猟から、被害を受けないための猟へ、どちらも人間の生活を守るためとはいえ、この変化に猟師たちもどこかやるせなさを感じているのではないでしょうか。「大物」を仕留めたことを誇るのではなく、かつて恵みを与えてくれたことへの感謝と、今の殺すことが目的となっているやりきれない気持ちが、大物動物たちの冥福を祈る供養塔の建立になったのだと思います。ちなみに、令和元年度に大月市が報告を受けた駆除された動物たちの頭数は次のとおりでした。イノシシ 112頭シカ 042頭クマ 2頭※「個体数調整」や「狩猟」による数は含まれていません。合掌……。※おまけこの道は何度も自動車で通っていましたが、石碑の存在には気づきませんでした。やはり歩かないとダメだなと思いました。
2021年03月27日
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こんにちは、資料館です。『広報おおつき』4月号に「真木のお伊勢山」を掲載しました。「花見の名所」、「富士山のビュースポット」であるとともに、尾根上に5柱の神様が鎮座する「信仰の山」でもあると紹介しました。南側登山口からの、大国主命を祀る「根神大権現」、菅原道真を祀る「天満宮」の2社については説明済みですので、残る5社について補足説明をしていきたいと思います。今回は、「お伊勢山」という山名の由来となった「大神社」です。社殿の東側に設置されている説明板には神社の由来が次のように書かれていました。-----------------------------------大神社の由来当大神社は三重の伊勢に鎮座あらせられる伊勢神宮であり、古来より遍く一般の尊敬を集めている天照皇大神が御祭神であります。国民の総氏神として仰がれ、全国に大神社は一万八千社を数える中の当地であります。奉建はさだかでは無いが真木山福正寺が寛正六年(一四六五)に焼失した時、近くに在って同時に焼けたとの事であり、昔、神明社と言うも現在の大神社と同称である。その後に徳川幕府が農民の心の安住のために穏やかな世が送れるように皇大神宮の御札を各家に奉斎しようとした折り、それをまとめて松の木の地に祀ったとされる。その間約三百年が経過している。その頃に飢饉やら、疫病がはやったのを憂いて悩んだ氏子衆が村を見下ろす高台の(伊勢山)現在地に奉遷したのが(一七五九)宝暦九年となっている。その時の棟札は現存している。古くは真木村と言ったが、上下に別れており、上真木の氏神様となったものである。近い昔、地方相撲は名物として名声も高く、地元はもとより近隣の村から幾多の力士を輩出し、地方相撲の神社として名高かったことは、「北都留郡誌」及び、「ふるさと真木」の書物にも記されている。鎮座地 大月市真木四〇二九御祭神 天照皇大神御神鏡 加賀田河内大掾安正境内地 四五七坪九合七勺明治八年(一八七五) 再奉建設 拝殿大正四年(一九一五) 本殿、拝殿 西向きを南向きにする昭和八年(一九三三) 村社指定昭和三〇年(一九五五) 屋根修理氏子戸数 百九十三戸 崇敬者数 約九六〇人平成十年十一月(一九九八)本殿、拝殿を改築する。ここに由来を書きしるして後世に永く伝えるものである。大神社建設委員会----------------------------------この由来書によると、初めは神明社と称し、真木山福泉寺の近くにあったが、室町時代中期に火事により寺と共に焼失し、江戸時代中期に「高台の(伊勢山)現在地に奉遷した」とあります。「高台の(伊勢山)」をどう読み取るかですが、奉遷(移設)前から高台を「伊勢山」と呼称していたわけでなく、伊勢神宮の主祭神である天照皇大神を祀る神明社を移設したので、総本社の社名にちなんで「伊勢山」と呼称するようになったと解釈するのが妥当かと思います。ちなみに、『甲斐國志』(1814(文化11)年)という地理書には、次のように「御」をつけた「伊勢山」の記述が見られます。----------------------------------〇〔神明社〕 御伊勢山にあり社地縦六拾間横貮拾間除地なり村持〇〔愛宕権現〕 小社 同所『甲斐國志』 巻之七十二 神社部第十七下----------------------------------江戸時代の後期には、大神社ではなく神明社と呼称していたことがわかります。いつから「大神社」としたのかは不明で、氏子さんをはじめとする地区の人たちによる今後の調査研究を待ちたいと思います。ところで「大神社」の御利益ですが、祭神の天照皇大神は国家レベルの願いを聞き届けてくれる神様ですので、原則的に個人レベルの願い事は受け付けてはくれません。そうはいってもムラ社会での民間信仰に於いては、原則は無視され、個人レベルの願い事を何でも受け付けていただけるようです。由緒書きに「飢饉」や「疫病」の文字が見えますから、国土安泰ということで、「五穀豊穣」や「病気平癒」・「無病息災」などの御利益を願っていることが分かります。また、「相撲」にかけて、「必勝祈願」もあったかもしれません。上真木公民分館駐車場にある「五福参り案内図」には、御利益として「家内安全・商売繁盛・五穀豊穣」と書いてありました。なお、大神社へは上真木公民分館館駐車場の東側にある石段の参道を登り直接行くこともできます。
2024年03月30日
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こんにちは、資料館です。資料館では、新年度を迎えて展示品の入替をしました。その中からいくつか紹介していきます。初回は、上の写真に写る電気扇風機です。筐体には鉄が使われ、羽根は真鍮でできています。重量は約8kgと、現在のプラスチックを多用したものと違い、重厚感がありありです。台座の向かって右側に銘板がありました。------------------------------------------------------12 Inch A.C. Electric FanCat Volts Cycles Patent No. Utility Model No. C-7032 100/110 50/60 30005 33754 42413 58168Shibaura Engineering Works, Ltd., Tokyo, Japan------------------------------------------------------製品名は「12 Inch A.C. Electric Fan」。直訳すると「12インチ交流電気扇」。型番は「C-7032」。そして、製造は「Shibaura Engineering Works, Ltd.」。漢字表記では、「株式会社芝浦製作所」です。現在の東京芝浦電気株式会社(東芝)の前身です。製造年代を知りたくて、グーグル先生に聞いたところ、いくつか資料を紹介してくれました。しかし、どれもあいまいで、残念ながら特定することができませんでした。『江戸東京博物館紀要 第2号』(2012年3月)では、同型の扇風機について、芝浦電気が東京電機と合併して「東京芝浦電気株式会社となった1939年(昭和14)以降、戦後の一時期まで芝浦製作所のプレートのままこれらの製品が流通しているため、販売時期・流通時期の特定は難しい」とあり、製造年代を「昭和初期~中期」としていました。当然のことながら、写真資料として掲載されている広告の年代も「昭和初期~中期」でした。また、銘板(プレート)ですが、当館の所蔵品は英語表記ですが、画像検索すると、日本語表記のものもあり、さらに表記されている特許番号等の個数にも違いがあります。ネットの海の中から、昭和5年の試験証のラベルのついた電気扇を見つけました。当館所蔵の電気扇の銘板には、4つの番号がありますが、昭和5年製のものには「28521」と「36243」が追加され、6つあります。昭和5年製の銘板に追加されたこの2つの番号は、当館所蔵の電気扇のガードカバーに巻きつけれている金属プレートにありました。ということは、当館所有の電気扇は、台座の銘板に番号のある昭和5年製のものより以前に製造された可能性が高くなります。また、登録意匠の36243を独立行政法人工業所有権情報・研修館が提供する検索サービスで検索すると次の回答が得られました。-----------------------------------------------意匠登録0036243意匠の名称 花辨型電氣扇保護枠指定物品 電気扇風機用保護枠登録年月日 昭和2年11月16日意匠権者氏名(名稱)株式會社芝浦製作所-----------------------------------------------以上のことから、当館所蔵の電気扇は昭和2年から昭和5年までの間に製造されたのだと思われます。さらに、モーター部の裏には鉛の封印とともに銅製のタグが括りつけられていました。昭和3年5月25日製の意味でしょうか?ところで、この電気扇、羽根が回転した時にガードの表と裏のラインが重なって睡蓮の葉のように見えることから、『睡蓮(すいれん)』と呼ばれていたそうですが、意匠登録では「花弁型」とあるだけで、「睡蓮」の文字はありません。前掲の『江戸博紀要』には、「戦後「水連」とよばれた、芝浦製作所の扇風機のうちもっとも一般に知られている製品」とし、その脚注には、東芝科学館の言として「1949年(昭和24)年以降、扇風機に植物のサブネームをつけるようになった」とあります。東芝製扇風機の戦後カタログを見ると、同型機を「水蓮」と称しています。ところが、戦前の広告には「水蓮」の文字はどこにも見あたりません。いつ頃から「すいれん」と呼ばれるようになったのか、また、東芝が漢字表記を「水蓮」と明示するまでのちまたでの非公式な漢字表記は「睡蓮」だったのか、残念ながら手がかりが無く、わかりませんでした。こちらは、ガードカバー中央にあるエンブレム。『SEW』の意匠は、Shibaura Engineering Works の頭文字を表しています。こちらについては、『生活学論叢 12号』(2007)所収の論文の中に、筆者の平野聖氏が「『アサヒグラフ』を通読したところ、1953年5月21日号の裏表紙にはSEWを付した広告が見られるが、翌1954年6月9日号裏表紙にはToshibaが使われていることが判明した」と書いているのを見つけました。※おまけ今年は、戦後80年。この電気扇が、昭和初期のものだとすると、「国家総動員法」(1938(昭和13)年)にもとづく不要不急の金属回収をよびかける政府声明や、1941(昭和16)年に公布された「金属類回収令」をすり抜けてきた歴史を持つ、貴重でタフな品ということになります。ご家庭でご不要になられたレトロな家電製品がありましたら、資料館までご連絡ください。モノと状態によってはいただきたいと思います。次回は、一番上の写真の奥に写り込んでいる「ハンドル付き電話機」の紹介を予定しています。
2025年05月01日
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こんにちは、資料館です。岩殿山駐車場の南西角に「がちゃトイレ」が設置されました。南壁中央にある登山地図案内板の西隣には「ガチャガチャ」(カプセルトイ)も置かれ、次の内容がAI音声で流れています。-------------------------------------登山者の皆さん、こんにちは。岩殿山へようこそ。山のトイレって大切ですよね。でも、維持には費用がかかるんです。そこで、このトイレの運営はここでしか手に入らない「岩殿山限定ガチャ」の売り上げでなりたっています。ガチャの中身は、山バッチ・お守り・通行手形・秀麗富岳十二景アイテムなど、ここだけの特別なものばかりで、お土産には最適です。登山の思い出にぜひ一回回してみてください。それがトイレの維持にもつながります。ご好評ならどの登山道にも広げていく予定です。ちなみに、こちらのガチャ製品はアクリル製ですが、コロナ禍で使われた仕切り板をアップサイクルして作られた環境対策品です。ガチャとトイレに関するお問い合わせは株式会社スプリングまで。電話番号0554 56 7855。ライン・SNS・Webは、「岩殿山 ガチャステーション」で検索してください。あと、安全管理の為、防犯カメラを設置しています。どうぞご理解くださいませ。最後にもう一つだけお願い。グーグルマップや山等で「ここにトイレがあるよ」ってお手すきの時に紹介してくださいね。皆さんのご協力、よろしくお願いします。それでは、安全で楽しい登山を。---------------------------------------トイレのトビラには、大きな文字で「トイレ1回、がちゃ1回り」とあり、その下に小さな文字で「トイレの維持費のご協力をお願いいたします。」と書かれた紙が貼り付けてありました。ちなみにガチャのお値段は、1回400円です。※おまけこのトイレ、一日中しゃべっています。そればかりでなく、一日中発光もしています。ソーラーパネルを屋根代わりにして、円筒状のアクリルカバーの中にはバッテリーがあります。自然エネルギーで発電・蓄電して、電力を供給する自律型電源システムを採用しています。フルカラーLEDの使用、アップリサイクルなどともに、最新のテクノロジーが使われています。
2025年03月09日
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こんにちは、資料館です。ブラブラ歩いていると、「ん?」と思うものにたくさん出合います。初めての場所はもちろん、いつも見慣れている場所でもそうです。久々の今回は、朝のブラブラで見つけたモノです。先月から気になっているのがこの自転車。大月駅前のトイレの横に設置してある自販機の前に並んでいます。同じモデルで5台もあることから、個人所有ではありません。そう、シェアサイクル(レンタルバイク)です。運営しているのは P!PPA というシェアサイクルサービスを行う会社です。料金体系や使い方は P!PPA のホームページへアクセスしてください。気になるのは、需要(ニーズ)が果たしてあるのだろうかということです。大月市民がチョイ乗りで使うことはまずないでしょう。となると、JRを利用したり、東横INN大月を当て込んでの観光客でしょうか。もしそうだとすると、大月駅を起点にして、自転車で周遊できるコースを料金体系に沿って作る必要があると思います。観光協会で作るのか、はたまた産業観光課で作るのか、それとも.....?本ブログが何かのお役に立てればと思っています。ここまで書いて大月市観光協会のFacebookにすでに紹介されていたことがわかりました。リサーチ不足でした。※おまけ写真の左に写りこんでいるのが桃太郎ラッピングの自販機です。私の知る限り市内には3か所あります。一つはここ、もう一つは「つきの駅」、最後の一つはさてどこだと思います?
2020年08月20日
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こんにちは、資料館です。浅利地区の中央自動車道浅利橋下に、市内随一の大きさを誇る高さ2mあまりの石造りの地蔵尊が立っています。今回は、古くから地域の人たちに「與市地蔵」とよばれ、祀られてきたこの地蔵尊にまつわる様々な言い伝えを紹介します。天明3(1783)年に出版された『甲斐名勝志』(萩原元克編集)に次の記述が見られます。おそらく出版本では最古のものだと思います。○浅利村に浅利與市義遠住し所とて有。俗説に、與市鎌倉より負來れる石地蔵とて長七尺許有、與市地蔵と云。『甲斐名勝志』巻之五次はお馴染みの『甲斐国志』(文化11(1814)年)。〔浅利村〕土人相傳ふ浅利式部と云人の居址なりとぞ古き石地蔵畑中に立てり長六尺餘足より頭まて石を重ぬること七段なり是蓋し遠方より運来の便なるか爲なるべし浅利氏古鎌倉より負來りしと云何れか是なるをしらす『甲斐国志』 巻之五十四 古蹟部第十六下そして、最後は『北都留郡誌』(大正14(1925)年)。浅利與一地蔵賑岡村字浅利にあり、昔時鎌倉より送り越されしものにして七壇半より成り高六尺餘、石質は伊豆産なり。舊史に、與一義遠の子一子式部太郎義知といふあり、義遠建仁中資盛を討ち姑坂額と共に甲斐に歸り義知を鎌倉に使せり、云々。又嘉禄中陸奥白川に亂あり義知結城朝廣を討ち首を鎌倉に傳へたり、云々。此地蔵享和三亥年土砂崩壊の爲め埋没し僅かに一二段を存するのみなりしが、明治二十年、村民協力して再建を企て現存せり。『北都留郡誌』第33章 故事傳説 第一節 遺跡三つの文献はともに同じ地蔵尊を記述しているのに内容が少しずつ違っています。まず、誰が、いつ、どのような経緯で地蔵を設置したのかについて整理してみます。『名勝志』では、「與市」(浅利与一)が鎌倉から背負ってきたきたとあります。とすると、時代は鎌倉時代となります。『国志』では、個人名ではなく「浅利氏」となり、文頭の「浅利式部」を指すのか、それとも浅利一族の他の誰かを指すのか、断定が難しくなります。時代についても「古」とあるのみで、これもまたわかりません。しかし、地蔵が鎌倉から背負われてきた件は『名勝志』と同じです。『郡誌』では、誰かからはわかりませんが、「昔時(せきじ)」に鎌倉から送られてきたことにと変わっています。3誌に共通しているのは、地蔵は鎌倉から運ばれてきたことだけです。次に、地蔵尊の大きさと構造について比べてみましょう。『名勝志』では、長(たけ)が7尺(約210cm)許(ばかり)の石造り。『国志』では、長が6尺(約180cm)餘(あまり)で、足から頭まで7段に石を積み重ねて造られているとあります。『郡誌』では、高さが6尺餘と『国志』と同じですが、造りが7壇(段)半へと変わっています。勉強不足のため、ここで使われている「半」の意味がわかりませんが、いずれにしろ、3誌に共通しているのは、成人男性の平均身長(167cm(2019年調査))よりも大きいことと、石造りであることです。また、大きな石造りの重い仏像をはるばる鎌倉から運んでくるのはたいへんです。そこで、『国志』『郡誌』にある、7段もしくは7段半重ねの構造の利便性が生きてきます。つまり、大きなものでも、分割して運び込み、現地で組み立てることにすれば、運搬するのには都合が良いわけです。ところで、写真の與市地蔵は高さこそ2mほどもあるのですが、段重ねではなく、大きな石を彫刻加工して造られています。実は、現在の與市地蔵は、『郡誌』の最後に書かれているように、江戸時代に起きた「土砂崩壊のため埋没」したため、明治時代に再建されたものなのです。再建の経緯についは、地蔵の傍らに立つ「再建七十五周年記念碑」に次のように書かれています。(前略)當浅利は公が長く滞留し観音を祀り浅利の郷を築し地なり一説に公は此の地にて亡くなられしとも伝へ其の所以か後に鎌倉公より與市公菩提のため積立式石地蔵尊を贈られたり郷人は之を深く信仰し加護を蒙り来りしも安政六未年(1859) の大荒害に天神山崩落し地蔵尊は堂宇諸共流失せり郷民深く痛歎し再建の願望久しく明治二十六癸巳夏與市公末裔と言伝ふ飯島一統が発起となりて區内特別賛助会員協力により三年の歳月と近郷六百戸よりの浄財を得て斯る近郷比類なき尊像完成し未曾有の開眼供養行われたり(後略)再建七十五周年記念碑 1972年2月4日今から50年前の1972(昭和47)年、浅利地区の人たちは、與市地蔵は浅利与一の菩提を弔うために鎌倉公(鎌倉殿?)から贈られたものであると考えていたようです。気になるのは、土砂災害が発生した年を1859(安政6)年としていることと、地蔵尊が再建された年を発起してから3年後の1896(明治29)年としていることです。『郡誌』の土砂災害の年が1803 (享和3)年、再建の年が1887(明治20)年との違いを見せています。両説とも何を根拠にその年としているのかわかりませんが、扱う対象が同じであれば、古いものより新しい研究成果の方が正確であることが一般的です。再建された年については、記念碑の記された1896(明治29)年であると考えるの妥当だと思われます。土砂災害が発生した年については、地蔵尊の立っている(立っていた)地形から考えると、享和・安政の年も含めて、複数回発生したのではないかと推測することができます。記録には残らないものの、土石流に巻き込まれて壊れるたびに地蔵尊は造り直されてきたことにより、高さや積み重ねの段数の違いが出てきたものと思います。先にも書いたように、現在の地蔵尊は明治時代に再建されたものです。地蔵尊の右後ろに先代のものと思われる石くれが数個置かれてはいますが、当時の姿や形、そして造立年代を知ることができないのが非常に残念でなりません。しかし、不明だからこそ、その時代時代の人々の想いが加わって、言伝えは上書きされてきます。言伝えの事実を検証するのも必要だと思いますが、その時代を背景にして込められてきた「想い」を感じ取ることの方がもっと大切なのだと思います。「與市源義遠之霊」と背中に刻まれた現在の地蔵は、現地の説明板にあるように「元暦二年(一一八五)の源平合戦最後の戦場となった壇ノ浦の戦いで遠矢の誉れを得た浅利与一公の生前の貢献に対し鎌倉から送られてきたもの」という伝説に「土砂災害から身代わりになって助けてくださった地蔵」としての畏敬の念が加わり、今後語り継がれていくのだと思います※おまけ浅利・西奥山地区には、「與市地蔵」をはじめとして、浅利氏の伝説と結びついた事物がいくつもあります。浅利区によって各所に説明板も整備されていますので、冬の暖かい日に与一伝説の里に足を運ばれてみてはいかがでしょうか。ヲ
2022年12月15日
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