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こんにちは、資料館です。大月市郷土資料館のある猿橋公園の4月17日現在の桜の開花状況をお知らせします。ソメイヨシノとしだれ桜は、花びらが落ちて「葉桜」となってしまいました。替わって、今を盛りと咲いているのが、上の写真に写る2色の八重桜。牡丹(ボタン)に似た八重咲きの様子から「牡丹桜」とも呼ばれています。奥に見えるのが、よく見かけるピンク色の花弁をつけたもの。手前のものは、花弁の色が緑色の「御衣黄」(ぎょいこう)という非常に珍しい桜です。その名の由来は、高貴な方が着用する衣服の色(萌黄色(もえぎいろ))に見立てて名づけられたといわれています。その色合いから、遠くから見ると、葉っぱと見間違えてしまいます。猿橋公園の奥、ケヤキ広場の東側遊歩道沿いに咲いています。近寄ってじっくりと観察・観賞してください。※おまけ大月市郷土資料館は入館無料です。猿橋公園へお花見に来たついでに立ち寄ってみてください。
2026年04月17日
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こんにちは、資料館です。当館では令和8年4月1日から入館料を無料としました。ただし、これは試行的なもので、今後の利用状況によっては取りやめるかもしれないことをご承知おきください。なお、見学する際には次のことを守ってください。●展示物には触らないこと●館内での飲食、喫煙をしないこと●危険物または動物(盲導犬を除く)を持ち込まないこと●他の見学者の妨げとなる行為をしないこと●職員が行う管理上必要な指示または指導にしたがうこと上記のことを守れない方については入館をお断りしています。※おまけ猿橋公園では、桜が見ごろを迎えています。ソメイヨシノ、枝垂れ桜は満開です。4月の中旬には、八重桜、御衣黄が開花すると思います。また、河川敷の駐車場には桃花が、トイレ前には古代桃の花がきれいに咲いています。お花見ついでにぜひともご来館ください。
2026年04月03日
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こんにちは、資料館です。当館では、2月中旬より昨年寄贈された稀少な「御殿飾り」を目玉に、昭和・平成の雛人形を展示しています。既にお伝えしたように「広報おおつき」やNHK甲府のニュースでも取り上げられたこともあり、おかげさまで好評を博しています。しかしながら、写真やテレビで見たり、実際に来館してご覧いただいたのは、ほんの一部で、資料保管庫にはまだまだたくさんの雛人形や五月人形たちが眠っています。今回は、スペースの関係で展示できなかったそれらの人形をWeb上で特別にお見せしたいと思います。手前に「御殿飾り」、中ほどには「高砂」などの脇を飾る人形、奥は五月人形です。こちらは裏側に並べた人形たちです。実は、この他にも資料保管庫にまだまだたくさんあります。それらの紹介についは、またの機会にしたいと思います。皆様のご家庭で不要になった雛人形・五月人形等がありましたらご連絡ください。当館に活用・廃棄等の処分を一任していただけるのであれば引き取らせていただきます。雛人形は4月中旬まで飾り、五月人形と入れ替える予定です。ぜひともご来館ください。※おまけ「高砂」とひな祭りの関係を詳しく知りたい方は、こことここを読んでください。
2026年03月27日
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こんにちは、資料館です。18日(水)、NHK甲府のニュースで当館に展示中の雛人形が取り上げられました。TVの宣伝効果は抜群で、当日、たくさんの人が来館してくださいました。4月中旬まで展示しています。猿橋公園のソメイヨシノもあと一週間もすれば開花すると思います。お花見に来たついでにぜひともご観覧ください。
2026年03月19日
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こんにちは、資料館です。雛飾りの補足説明を順次していきます。初回は、親王雛の持ち物について。親王雛が持つ必須アイテムはと聞かれると、多くの人は次の品々を思い浮かべると思います。男雛は右手に笏(しゃく)と呼ばれる細長い板、左の脇には刀。女雛は両手に広げた檜扇(ひおうぎ)。確かに、上の写真はこれらの品々を身に付けています。ところが、こちらの親王雛はどうでしょう。男雛も女雛も何も持っていません。男雛が冠を被っていないことから、刀以外の笏と檜扇を紛失したとも考えられますが、女雛をあらためてよく見てみると手が十二単の袖に隠れていることに気づきました。手が袖に隠れて見えないタイプを見るのは初めてです。平安時代の高貴な女性のたしなみとして肌(手)を隠しているのだと思いますが、これでは檜扇を持たせることはできません。檜扇は、紛失したのではなく、もともと無かったのかもしれません。気になったので調べてみました。手をひざ元に置き、袖で隠しているタイプの女雛をWebの画像検索で探すと、こちらの「古今雛」(東京国立博物館)を見つけました。檜扇を広げてひざ元に置いたり、脇に差し込んでいたりしています。やはり、檜扇は女雛の必須のアイテムなのでしょうか。さらに検索すると、別の江戸風の「古今雛」(日本玩具博物館)が見つかりました。江戸時代後期の作品ですが、姿形が当館のものと非常によく似ています。こちらの女雛は、檜扇を持っていません。日本玩具博物館の展示品なので、装身具等が欠けているものを展示するとも思われないので、檜扇を持たない女雛も存在するのかもしれません。今回も、「わからないということがわかった」という、残念な結果となりました。手を袖に隠している女雛をお持ちの方の情報をお待ちしております。※おまけ日本の伝統的な礼法である「左方上位」(「左上右下」とも)と、前近代的な「男尊女卑」の考え方に従うと、男雛が左(向かって右)、女雛が右(向かって左)に置かなければなりませんが、大月市では上の写真のように男雛を右、女雛を左に置くのが一般的です。京都を中心とする地域では、礼法に従い、男雛を左、女雛を右に置いていますが、その置き方の違いや変遷について詳しく知りたい方は、こことここを読んでください。
2026年03月12日
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こんにちは、資料館です。「ひな祭り」に合わせて資料館では、2月中旬から雛人形を飾っています。4月の初旬まで飾る予定ですので、ぜひともお越しいただきたいと思います。親王飾り、5段飾り、そして御殿飾りの3タイプを展示しています。目玉はなんといっても「御殿飾り」。上の写真のように、「御殿」の内に、畳台の上に「内裏雛(男雛・女雛)」、前廊下に「三人官女」を配した、珍しい雛飾りです。恥ずかしながら私は聞くのも見るのも初めてでした。「広報おおつき」3月号にも書いたので、まずはその記事を読んでみてください。---------------------------------「懐かしの御殿飾り」3月3日の「上巳(じょうし)の節句」に、雛人形を飾って女児の健やかな成長を願うひな祭りが民間で広く行われるようになったのは江戸時代になってからのことでした。初めの頃は、屏風を背景にして紙や木で作られた男雛と女雛の2体の質素な立ち雛を並べていただけでしたが、やがて座り雛が主流になってくると官女や随身(ずいじん)などの添え人形や調度品類が増えていき、江戸を中心に「段飾り」、上方では内裏雛を京の御所(ごしょ)=紫宸殿(ししんでん)に模して作られた建物の中に置いて飾る「御殿飾り」という華やかな様式が流行しました。近年、住宅事情や生活様式の変化により内裏雛のみの「親王飾り」が主流となる中、「段飾り」は今でも目にする機会がある一方で、「御殿飾り」は昭和30年代の終わりごろから見かけられなくなりました。昨年、郷土資料館ではその稀少な「御殿飾り」の寄贈を受けましたので、これまで市民の皆さんからいただいた雛人形と併せて2月上旬から4月初旬にかけて展示することとしました。ぜひともご観覧ください。「広報おおつき」令和8年3月号 №818---------------------------------紙幅の都合上、説明不足の部分が多々あるので、このブログで順次補足していきたいと思います。※おまけ「ひなまつりが終わってすぐに雛人形をしまわないと婚期が遅くなる」。これは、あくまでも俗説。一説によると、節句が過ぎたのに面倒くさがっていつまでも片付けないでいるようなだらしなさを戒めるための警告だともいいます。「片付く」が、「嫁に行く」ともいう意味で使われることから、婚期にかけて用いられるようになったのではと考えられています。資料館で4月初旬まで飾るのは、けっして物臭(ものぐさ)からではありません。旧暦の3月3日、つまり新暦の4月3日に「月遅れ」のひな祭りをするご家庭もあるからです。
2026年03月05日
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※国土地理院地図(電子国土WEB)を加工して作成しました。こんにちは、資料館です。大月のランドマーク、岩殿山。強瀬側登山口から山頂へと至る新ルートが2025年12月25日に開通しました。新ルートは、既設の登山道を「ふれあいの館」の少し行った先で西方向に分岐し、浅利側登山口と合流するまでのおよそ550m(公称)を新設して作られています。これにより、2019年(令和元年)8月に鏡岩の剥落により中腹のふれあいの館から山頂手前の浅利登山道合流点まで通行止めとなり、畑倉登山道口や浅利登山口までの迂回が解消され、大月駅や岩殿山駐車場から最短で岩殿山に取り付くことができるようになりました。ただし、新設部分から山頂へと至る道は「ふれあいの館」までの「遊歩道」とは違い、本格的な「登山道」となっているので、散歩するような軽い気持ちでは登らないでください。最低限、グリップ力にすぐれたトレッキングシューズとグローブの用意が必要となります。その理由はというと、分岐してすぐから始まるアルミ製の足場板と急階段です。いずれも単管パイプで組まれていて頑丈で、水抜き穴もついていますが、冬季の凍結時はもちろん、小石や砂が載っていたりすると、滑る可能性が大です。転倒を避けるために手すりがつけられていますが、それをつかむためにはグローブが必要となります。また、この新設部分、小学生以下の子ども連れの人たちにもあまりおススメできません。それは、単管パイプの縦杭をつなぐ横パイプが手すり部分の一本しかなく、背の低い子どもが足を滑らせた時にすり抜けて転落してしまう危険があるからです。転落防止のためには手すりと地面の間にもう一本欲しいところですが、設置してしまうと山に住む動物たちの横断を阻害してしまいます。擬木に転落防止のためにロープが張られている区間も低い位置にはロープがありません。非常に悩ましいところですが、山の生活者である動物に優先権があるのは確かで、仕方のないことだと思います。JR大月駅に近く、首都圏から日帰り登山が可能な山として人気を博している岩殿山ですが、低山とはいえ決してお手軽に登れる山などではありません。山頂を目指す人は、登山靴と手袋の準備、そして「リスク軽減」への心構えをお願いします。単管パイプとアルミ足場板で作られた階段と棧道。なかなかの急勾配です。転落防止のための擬木杭とロープ。まだ踏み跡がしっかりついていないので、慎重な歩行が求められます。クマよけの鈴と思われます。ロープに触れるとあちこちで鳴る仕組みになっています。これはナイスアイデアですね。※おまけ大月市の登山情報は下をクリック。秀麗富嶽十二景登山情報山と渓谷オンラインの岩殿山情報は下をクリック。山梨・岩殿山の強瀬側登山道が、約6年ぶりに通行可能にコースタイムつき地図
2026年02月15日
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こんにちは、資料館です。少し前の話になりますが、先週の12月4日(木)に放送されたNHK朝ドラ「ばけばけ」に陶製と思われる筒状のベージュ色の湯たんぽが映し出されました。そして、本日11日(木)にも再び映し出され、それがかまぼこ型の陶製湯たんぽであることを確認しました。テレビのものとは色が違いますが資料館でも陶製のかまぼこ型の湯たんぽを展示しています。前年度前期の朝ドラ「虎に翼」で戦後まもないころの生活を描いた場面で炭火アイロンが映し出された時にもそうでしたが、テレビなどで資料館に展示されている品物が紹介されると、ついつい蘊蓄を語りたくなります。ということで、今回は「湯たんぽ」についてのあれこれです。まずは、『広報おおつき』に好評連載中(?)の「大月探訪記」で「湯たんぽ」について書いた過去の記事を読んでみましょう。---------------------------------湯たんぽ電気のなかった時代、冬場の夜はとても寒く、寝室の環境は過酷なものでした。そうした中、人々の身体を温め、安眠を助ける道具として湯たんぽが登場し、広く使われました。日本における湯たんぽの歴史は江戸時代までさかのぼります。湯たんぽは江戸時代前半期(元禄期ごろ)には既に存在しており、当初は、陶製でかまぼこ形や円筒形のものが使われていました。これが大正~昭和初期になるとブリキ製の波形のものが登場し広く普及していきました。陶製、ブリキ製だった昔の湯たんぽは、熱湯を入れると湯たんぽ自体の温度が上がりすぎて火傷をしてしまうため、布に包んで使用しました。そして翌朝、ぬるま湯になった湯たんぽの湯を洗顔に利用しました。郷土資料館には昔の人々の安眠をサポートした陶製、ブリキ製の湯たんぽが展示されております。来館された際にはぜひご覧いただき、現代の湯たんぽと比較してみてください。『広報おおつき』(2021年12月号 №757 25p)---------------------------------記事中、「日本における湯たんぽの歴史は江戸時代までさかのぼります」とありますが、グーグル先生に湯たんぽの起源を再度問い合わせたところ次の論文を読むように勧められました。論者は、共立女子大学名誉教授で湯たんぽ研究の第一人者である伊藤紀之氏で、論題は「湯たんぽの形態成立とその変化に関する考察」です。共立女子大学家政学部紀要に2007年から2011年まで5回分けて掲載されたもので、WebではそのうちのIVとVを読むことができます。湯たんぽに関するWeb上で見られる記事のほとんどがこの論文を参考にしているのでないかと思われますので、基本的文献として一読しておく価値はあると思います。かくゆう私も、この稿のほとんどを伊藤氏の論を要約する形で書いています。伊藤氏の論文Ⅴによると、文献資料としての初出は室町時代の文明年間まで遡ることができるものの、その資料には図もなく特徴も記されてないため、形状・材質についてはわからないということです。論文IVでは、現存する最古の湯たんぽとして岐阜県多治見市で出土した「黄瀬戸織部流し湯たんぽ」を写真付きで紹介していますが、最古としながらもその年代については、「桃山期から江戸初期」と幅をもたせてあります。その論文の2ページの左上に掲載されている復元した写真を見ると、底面が四角形で上方が丸く盛り上がったパウンドケーキのような形をしています。型に合わせてひも状の粘土を渦巻き状に積み上げていく「手びねり」で成形された陶器とあり、その作り方もイラストで示されています。なお、釉薬の素材として高価な銅が使われており、一般庶民にはとても手が出るような代物ではなかったようです。形状・材質がわかるものとして紹介しているのが正徳2年(1712)に発刊された『和漢三才圖會』と、寛政元年(1789)開版の江戸時代の図解総合百科『頭書訓蒙図彙大成』です。これは、『和漢三才圖會』に掲載されているもので、工具箱のような形をしています。上部に取手らしきものがありますが、注釈に書かれている「小口」は見あたりません。こちらは、『頭書訓蒙図彙大成』に描かれているつぼ型と箱型の湯たんぽの図です。※翻刻 ------------------湯婆(とうば)はたんほなり桐(きり)銅(あかゞね)陶(つち)などにて作(つく)り湯(ゆ)を入て足(あし)をあたゝむるもの也脚婆(きやくは)湯媼(たうあう)ともいふ今は酒器(しゆき)に 用(もち)ゆ ----------------------------次ページの注釈には、桐(きり)や銅(あかがね)、陶(つち)で作られていると書かれています。どうやら江戸時代の半ば頃には、箱型・弁当型が一般的なようで、材質も陶に加えて加工しやすい木や金属も使われていたようです。資料館に展示してあるかまぼこ型の陶器製の湯たんぽが出現するのは、明治維新後に西欧の筒状の陶器製湯たんぽが入ってきてからです。西欧のものは石膏型を使って量産されたものでしたが、日本の窯場の職人たちはロクロを用いたり、手びねりと叩きの技法で形状を似せて作り上げました。明治中期に登場するとたちまちのうちに普及し、量産化を図る必要から粘土板で組み立てるなどの熟練を必要としない効率的な製作法が生み出され、明治後半にはヨーロッパから導入された石膏型の技術を用いるようになりました。また、この明治中期の普及時に湯婆(たんぽ)にさらに湯を重ねて湯湯婆(ゆたんぽ)という言葉が造られたとしています。これについては、日本では「湯」を“タン”と読むことがわかりづらく、「たんぽ」に「湯」を重ねて「湯たんぽ」と呼んだとも言われていますが、真偽のほどは定かではありません。資料館のかまぼこ型は長方形の底部の上に半円筒形の上部を載せて接合したような跡が見られるので、石膏型で作った二つのパーツを組み合わせて成形したものではないかと考えられます。金属製品についているような銘板や刻印がないので、製造年代は特定できませんが、その形状と造りから明治の後期以降のものであると思います。ちなみに、朝ドラの描く舞台は明治23年から24年にかけての冬の松江でした。明治中期にあたり、ドラマに登場した湯たんぽはかまぼこ型でしたので、おそらく手びねりで作られたのではないかと思います。なお、金属製の湯たんぽが普及するのは大正末期以降で、かまぼこ型に加えて甲羅型のものが出現します。波型にしているのは強度を出すとともに表面積をかせぐためで、陶製の同型のものが出現するのは、戦時中の国家総動員法にもとづく金属供出が始まり、代用品として作られるようになったからだと思います。戦後、金属製のものが再び作られ始め、昭和30年ごろにはゴム製のものが普及し、現在はプラスチック製のものが主流となっています。※おまけ様々な素材により様々な形をした湯たんぽが存在しますが、わざわざお金をかけなくても、身近なものでも充分代用できます。その代表的なものは、ペットボトル。興味のある方は<ペットボトル湯たんぽ>で検索してみてください。保温時間を長くする方法や注意事項が詳しく書かれています。まずは、警視庁警備部災害対策課のX(エックス)を見てから調べてみましょう。これから本格的な冬が始まります。少しでも暖かくして過ごしてください。
2025年12月11日
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写真:初狩 唐沢の土石流こんにちは、資料館です。『明治40年の大水害』の3回目、いよいよ最終回となります。水害罹災者の移住先とその後について見ていきましょう。『山梨県水害史』(山梨県水害史発行所 1911)には次の様に書かれています。-----------------------------洪水後の復旧を図るに最も必要なるものは、財力其一に居るは説を待たずと雖も、人力の豊富なるも亦其一に居る、我県に於て災後良民を他に移住せしむるの可否に就いては、種々なる説を聞く処ありしも、住むに家なく、耕やすに田畝なき者をして、堵に安んぜしむるには移住を断行するの外なし、茲に於て県は其移住者に相当の補助を与え北海道亦厚き便宜を与ふることゝなりて有志団体の大移住行はれ、翌四十一年四月北海道に着す。此年団体移住を為したるもの三、一は中巨摩郡の団体にしてワツカタサツプを根拠とし、二は東八代郡の団体にしてペーペーナイに村を樹て、三は東山梨郡の団体にしてヌプリカンベツに部落す、蓋し是等の土地は何れも倶知安市街を距ること二三里の処にして、現今甚だ利便なりとは言ふ能はざるも最も有望の地たるを失はず、而して以上の三団体は各幾何の戸口と土地とを有するやと言ふに、最近の調査に依れば、左の如きものもあり。 <中略>之によりて見る時は一戸平均約六丁歩の土地を有し、移住以来僅々三年にして既に殆んど全部を成墾地と為したり、作物は馬鈴薯、玉蜀葱、蕎麦、小麦、大麦、燕麦、裸麦、大豆、小豆、蕓苔、牧草等可ならざるはなく、養蚕、牧畜、養鶏の業亦大に適す、然れば即ち是等移住は安んじて其業を楽しみつゝあり、勿論移住の当時にありては一面の草叢なりしを以て二三の人自失したりと雖も、今や却て移住の天地の安楽なるを喜べり四十一年又郡内地方より団体移住ありしが、是等も遠からず好成績を挙げて到る所に殷富なる甲州村を樹立するならん。『山梨県水害史』 第9章 明治四十年水害史 第13節 北海道移住-------------------------------水害により住む家はもちろん、山林の崩壊や田畑の流失などで生計を立てるための収入源を失った人々を救済する方策として北海道への移住が提唱されます。その背景にあった主な理由は次の2点です。ひとつは、災害によって相対的に余剰人口が増えたために他地区への人口移動が必要になったこと。ふたつめは、移住先としては、国力を充実させるために北海道の開拓が明治初年より国策としてあったこと。北海道移住への動きは、あたかも発災前から既定路線であったかのようなスピード感を持って行われました。山梨日日新聞は水害発災からわずか4日後の8月29日付の紙面で、明治22年の奈良県十津川村の水害罹災民が北海道へ団体移住したことを引き合いにして、山梨県でも同様に団体移住すべきとの論説を掲載します。翌月早々には武田千代三郎山梨県知事が「移住」の方針を打ち出し、月末には北海道の移住地の調査に着手します。そして、12月半ばから翌年1月の半ばまで県内の21カ所で移住の説明会が開催されました。説明会では、移住地が北海道庁の指導を受けて羊蹄山(蝦夷富士)の麓であることや、開拓当初の一ヶ年分の食糧費や家財道具などについて補助が出ることなどが提示されました。その3か月後の明治41年4月には北海道への移住が行われ、新天地での生活が始まりました。発災からわずか8か月、1年間の生活が保障されていたとはいえ、行ったことも見たことも無い全く知らない場所への移住を決断しなければならないほどの惨状であったことがわかると思います。では、郡内地方(南北都留郡)の人々の北海道への移住はどう行われたのでしょう。『北都留郡誌』(1925)を見てみましょう。---------------------------【北海道移住】奮然愛郷の念を断ち、親戚古旧と別れ、祖先墳墓の地を棄つるに至れる笹子村坂上保義外郡下各村の水害罹災民は、明治四十一年四月三十日郡長飯島篤雄郡書記長望月於菟作に引率され、同日午後六時三十三分笹子駅を発車し順次大月、猿橋、鳥沢、上野原各駅にて同志と合しつゝ目的地北海道胆振国虻田郡弁辺村庄瀧別(壮滝別)(此路程 本郡大原村ヨリ青森迄汽車五〇三哩八、青森ヨリ弁辺迄汽船一〇九浬 弁辺ヲ経テ移住地迄四里十八丁)に向かひ進行せり。『北都留郡誌』第三十五章 變災 第二節 水害 1175p----------------------------この文に続いて、引率した飯島郡長、望月郡書記が武田県知事に提出した復命書の抄録が掲載されています。それには、抄録とはいえ、上述した行程と移住地の割り振りについての詳細が書かれています。さらに具体的に知りたい方のために次の2書を紹介します。小畑茂雄.「調査ノート 明治四十年の大水害被災者の北海道移住について」.山梨県立博物館 研究紀要,2008,no.2小畑茂雄.「山梨県における明治40年の大水害被災者の北海道団体移住」.山梨県立博物館 調査・研究報告,2020,no14この2つの論文によると、明治40年4月30日に山梨県を発った北都留郡を中心とした移住者93戸441名は、5月4日に北海道虻田郡弁辺村(現在の豊浦町)ソータクネベツに到着したとあります。さらに、明治42年、明治44年と移住は続き、3次にわたる北都留郡全体の移住者の戸数・人数は次の通りとなります。---------------------------------------------- 北都留郡 県全体明治41年 69戸 311人 301戸 1437人明治42年 66戸 352人 106戸 0524人明治44年 17戸 081人 253戸 1169人合計 152戸 744人 660戸 3130人----------------------------------------------なお、移住先のソータクネベツは1932年に弁辺村が豊浦村へと名称変更された際に字名も改正され、字山梨となりました。他に、字弁辺原野は字新山梨へ、また倶知安町にも字山梨、京極町には字甲斐という地名も正式名称として残されています。明治40年、43年の大水害により、被災からの復興が困難なために故郷を離れ、北海道へ移住した人たちは、その後どうなっているのでしょうか。論者である小畑氏は、移住後の様子について次の様に述べています。---------------------------------こうして三か年度にわたって、660戸3130名もの人々が、住み慣れた山梨を旅立ち、「蝦夷富士」羊蹄山の麓に新たな「山梨村」を築きはじめた。ただし、もともと傾斜地かつ寒冷地で雪深く、たびたび冷害や霜害にも見舞われたこともあって移住者たちの再移住が進み、現在でも山梨からの移住者がそのまま定住している例は極めてわずかである。「山梨県における明治40年の大水害被災者の北海道団体移住」7p----------------------------------移住先でも様々な困難に見舞われ、再移住を余儀なくされるなど、とても成功とは言えない状況だったようです。※おまけ大月市旧町村別移住者数 1908年4月30日 1909年3月2日 1911年4月18日 合 計 戸数 人口 戸数 人口 戸数 人口 戸数 人口 笹 子 15 066 01 005 11 49 027 120初 狩 07 032 02 008 03 16 012 056広 里 26 104 23 115 01 02 050 221賑 岡 01 004 01 005 00 00 002 009七 保 00 000 01 005 00 00 001 005 大 原 06 028 10 060 02 14 018 102富 浜 02 009 06 033 00 00 008 042梁 川 01 005 02 004 00 00 003 009 合 計 58 248 46 235 17 81 121 564『北都留郡誌』北海道移住者調 1181p明治41年4月の移住者数が小畑氏の論文で引用する資料(若尾資料)と一部一致しません。その理由は不明です。
2025年11月18日
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『時をつなぐ街 大月市制50周年記念誌』 84pこんにちは、資料館です。上の写真は、「明治40年の大水害」による被災状況を記録した写真です。吉久保付近から笹子川上流の阿弥陀海方向を写したものです。左手の沢と笹子川の合流点にある大きな建物が笹一酒造(花田屋)で、右手の線路の先にある橋は笹子駅手前の鉄橋だと思われます。今回は、水害罹災者の移転先について書く予定でしたが、もう少し被害状況について触れておきたいと思います。前回引用した「第七節 南北都留両郡水害実記」(『山梨県水害史』山梨県水害史発行所 1911)の末尾に「北都留郡水害調査表」として北都留郡全体の被害状況がまとめられています。しかしながら、これは「北都留郡全体」であり、村々の個別の被害状況についてがわかりません。ということで、『水害史』に書かれている笹子川沿いの笹子村、初狩村、広里村の真木地区、花咲地区それぞれの人的被害と、家屋被害の数値を拾い出してみました。●笹子村 人的被害の記載なし 流失人家140戸 埋没人家40戸●初狩村 立河原 人的被害の記載なし 流失人家30余戸 中初狩 即死者11名 倒潰人家26戸 下初狩 死亡者30名 倒潰人家50余戸●広里村 真木 人的被害、家屋被害についての記載なし 花咲 人的被害の記載なし 家屋被害の数値はなく「国道沿いの人家悉く流失」とありなお、数値の合計が合わない部分が2つあります。 ① 下初狩の状況描写の中では、「25名は即死し、10名は傷く」と書かれています。これは、合計の死亡者が30名で、その内訳として、即死者が25名で、傷者10名のうちの5名が後遺症等により死亡したものと考えられますが、断定することはできません。 ② 真木地区の状況を描いた段落の文頭に「200有余の家を奪い60人を殺す」とあります。笹子、初狩両村の死亡者数合計は41名ですので19名多く、流失、埋没、倒潰家屋の合計は286余戸ですので80戸以上も足りません。死亡者については、執筆時に後遺症による死亡者を加算したものとも思われますが、これも確かなことはわかりません。また、80戸は「有余」という誤差の範囲内なのかもしれません。もう一つ、被害状況を記した文を『北都留郡誌』(1925)から引用して紹介しておきます。-----------------------------------------【明治四十年水害】明治四十年八月二十三日より二十五日に亘り豪雨あり、即ち大原村に於ける降雨量七百十八粍を示し、丹波山、上野原両方面の観測を合すれば、一千七百四十粍五の大雨量に達し遂に笹子川其他の大氾濫となり、付近群山の大崩壊となり家屋田畑を流亡し人畜の死傷また多数を出せり。即ち笹子、初狩、廣里の三村の如きは最も其惨状を極めしものにして、笹子村にては各部落被害を受け、白野組は寶林寺、橋詰付近は天野房吉、小俣保太郎方、阿弥陀海付近は天野永義、天野宇太郎方、黒野田付近は普明院、追分付近は隔離病舎を何れも避難所とし救助せしが、収用せし男女老幼五百九十四人此延人員七千三百四十九人を算せり。殊に、二十三日午後六時頃笹子川の水流激増し、役場及学校の背後なる堤防決潰せしより、同校訓導渡邊淸(清)重氏は直に 御真影を奉じて天野薫平(衆議院議員)氏方に遷し奉りしが、同邸も亦同日午後九時頃奔湍に蠢食され流失せしを以て 御真影は稍々高所なる停車場構内に移し、次で黒野田天野昇平(明治十三年御巡幸の際の 行在所 )氏方に遷し漸く安置し奉るを得たり。初狩村にては、二十四日午後二時頃富士沢瀧の前崩壊し倒潰家屋十七、埋没死亡者七人、斃馬三頭、同日午後三時頃唐沢山大崩壊をなし同四時半頃及二十五日午前七時頃相次で数回の大崩壊にて倒潰二十八戸、埋没死亡十一人、斃馬二頭を出し、下初狩塞塲沢(寒場沢・神馬沢か?)は二十五日午前六時半頃より同八時二十分に亘り前後三回の大崩壊ありて倒潰戸数五十二戸、埋没して生命を賭したる者二十六人斃馬七頭、又立河原付近は河川氾濫のため民家三十七戸を流失せり。廣里村にては、真木、花咲地内の笹子川沿岸耕地流失し道路堤防の決潰甚しく、罹災救助に関する焚出戸数五十三戸、二百五十七人に達せり。島田村にては桂川氾濫のため家屋を流失し或は浸水等にて飢餓に迫り同村避難病舎に避難し救助されしもの男女二十人あり。棡原村にては居家流失二、居家半壊二あり。其他、鶴川、小菅川、丹波川等も出水各沿岸にも崩壊ありて大被害を受けたり。而して、笹子川に国道は全部破壊され、真木区地籍(廣里村)に架設せる鉄橋は築堤と共に流失し且沿線の鉄道線路は崩れ、線路は折れ汽車不通となりしより旅客の身動きさへも自由ならざる惨況に陥り、為に中央線の交通(本郡、甲府間)は一時甲府方面より信州に出で、千曲川に沿える信越本線を辿り、八王子を経て国境上野原方面に来往するの大迂回をなし、不便亦言はん方なかりき。即ち政府にては其復旧を急ぐと共に、笹子隧道口に仮停車場を設け、辛ふじて交通運輸の便を開きたり。空前の惨害 天聴に達するや、日野西侍従を御差遣あり、親しく其実状を視察せしめられ、又救恤の思召を以て御内帑金の御下賜等あらせられたり。【罹害調査】死亡八十七人、負傷三十六人。(北都留郡下)以下は『水害史』の「北都留郡水害調査表」に同じ。【改修工事】道路、堤防等の被害を受け改修等の工事を施せるもの本郡下の文左の如し。甲州街道笹子村吉ヶ窪字広河原廣里村真木字源氏廣里村同巌村立合鶴川橋前後初狩村中初狩唐沢橋 長十二間同宮川橋 長十二間笹子川流域笹子村護岸 二十三間堤防二十九間同村字押出堤防百五十一間初狩村立河原護岸 十五間七尺 堤防 百二十三間廣里村字宮の西堤防 百三十間六分初狩村字宮川堤防 九十七間六分桂川流域島田村鶴島護岸 六十間『北都留郡誌』(1925) 1170p-----------------------------------------『水害史』と同様に、『郡誌』に書かれている笹子川沿いの各村各地区の人的被害と、家屋被害の数値を拾い出すと次の通りになります。●笹子村 人的被害、建物被害についての記載なし。●初狩村 富士沢(藤沢?) 倒潰家屋17戸、 埋没死亡者7人 唐沢 倒潰28戸、 埋没死亡11人 塞塲沢(寒場沢?)倒潰戸数52戸 死者26人 立河原 流失民家37戸●広里村 真木、花咲両地区の人的被害、建物被害についての記載なし。被害家屋、死亡者数の具体的な数値があるのは初狩地区だけで、笹子村、真木と花咲地区の人的被害についての記載はありませんでした。その初狩地区は、死亡者総数44名、被害家屋数合計134戸でした。ちなみに、『大月市史 通史編』(1978)には、被災状況が次のように書かれていました。-----------------------------------------北都留郡全体では、死亡者87人を出したが、その内被害の最も多かったのが、笹子、初狩、広里の三村であった。その初狩村では、被害戸数133戸、人数809人、死者44人、田畑宅地等98町3反が荒地となり、総計55万円の損害を出したのである。『大月市史 通史編』(1978) 772p-----------------------------------------死亡者数44人は同じですが、被害戸数は1戸少なくなっています。その他の数値についても、何を参照にしているのかわかりませんでしたが、ある程度の年数が経ち、正確な統計がまとまり、研究者により確定されたものだと思います。いずれにしろ、山梨県内では北都留郡が、その北都留郡の中では笹子川沿いの笹子村、初狩村、真木・花咲地区が、人的・物的に甚大な被害を受けたことがわかります。『大月市史』では、上の文に続いて「容易に回復の目途がつかないため、県は三回にわたって、罹災者たちを北海道虻田郡に移住させることにした」とあります。いよいよ次回は、北海道移住について書きたいと思います。
2025年09月15日
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こんにちは、資料館です。今回は、「広報おおつき」9月号に掲載された「大鹿川の巨石 -明治40年の大水害-」の解説です。まずは、広報の記事をおさらいです。------------------------------------明治40(1907)年8月22日から26日にかけて山梨県に降り続いた大雨は、県内各地に土石流や土砂・洪水氾濫を発生させ、死者233人、流失家屋5000戸あまりに及ぶ甚大な被害をもたらしました。北都留郡での死者は87人にものぼり、最も被害の大きかったのは、笹子川沿いの笹子村、初狩村、広里村の三村でした。その初狩村では、死者44人を出し、宅地・耕地のほとんどが流失し荒地となってしまいました。被害の規模が大きく、容易には復興の目途がつかなかったため、県は明治41年から44年にかけて3回にわたって罹災者たちを北海道虻田(あぶた)郡に移住させることにし、上記三村では89戸、397人が移住しました。笹子町の吉久保地区と白野地区の境を流れる大鹿川左岸には、この時に発生した土石流により上流から押し出されてきた巨石を現在も見ることができます。その大きさは、『山梨県水害史』(1912)によると「長さ八間(14.5m)巾六間(10.9m)」とあり、土石流の威力のすさまじさを今に伝えています。「広報おおつき」(2025 №812) ----------------------------------------大雨をもたらしたのは琉球諸島東方と小笠原諸島南西で発生した2つの台風が停滞していた梅雨前線を刺激したことによります。5日間の県内各地の総降水量は、甲府で315.4mm、睦合村(現南部町)で469.3mmだったのに対し、大原村(現大月市)が718.0mm、丹波山村が608.5mmに達するなど、県東部に大量の雨が降りました。ちなみに、大月の5日間の総降水量は年間降水量の51.8%にあたり、また23日だけでその半分以上の415mmの雨量を記録しました。。『山梨県水害史』(山梨県水害史発行所 1911)の「第九章 明治四十年水害史」に当時の被害状況が書かれています。国立国会図書館デジタルコレクションで公開されていますので、興味ある方は全文を読んでみるといいでしょう。忙しい方のために、「第七節 南北都留両郡水害実記」の北都留郡に関する記述だけ以下に引用しますので、試し読みしてみてください。なお、旧字体は常用漢字に、漢数字は算用数字(アラビア数字)に直してあります。-----------------------------------40年度の雨量は笹子付近に最多量を示し、所謂郡内地方より言う時は、其裏に当れる東山梨郡に於ては日川重川の氾濫となり、東八代郡に於ては金川御手洗川等の洪水となれり、而して笹子御坂等の諸山を界して其表に位置する我郡内地方も笹子川大幡川及び河口湖等惨状最も峻烈を極めたり、以て知るベし此大洪水は笹子及び御坂等の連山を中心として起り、裏に流れたるは所謂国中地方を禍いし、表に注ぎたるは所謂我郡内地方を苦めたるものなることを、前既に叙したる如く我南都留郡に於ては22日より26日迄の5日間1576.5ミリの降雨を示し、就中中野村は雨量645ミリの大量に達す、北都留郡に於ては大原村は718ミリの大雨量を示し、他の二個所の観測を合する時は1740.5ミリに達せり、此驚くべき大雨量は23の渓流に注いで下流桂川によりて海に入るものなるが、渓流如何でか此大雨量に支(一字判読不明)得べき、果然山岳崩壊となり渓流の押出となりて近世稀なる大破壊を見るに至れり、又増水の為に水底に沈没した村もあり。北都留郡を貫流するを笹子川とし、大鹿川其他の支流ありて皆之に注ぐ、笹子初狩の二大村は多数の部落を率いて此笹川の左右に誇れり、而して22日以来の降雨によりて笹子川は大洪水となり、又左右の群山には大崩壊起りて或は支流の渓谷に押出し或は笹子の本流に墜落す。斯くて笹子川の流域は大惨状を呈するに至れり。笹子川の上流に黒野田あり、之れ笹子村の一部落なるが、此部落は所謂笹子隧道によりて天下の旅客に記憶せらる、然るに此部落は笹子川の大反乱によりて破壊せられ、殊に鉄道線路を破壊せしかば旅客運送の不便実に言わん方なかりき、茲に於て政府は其復旧を急ぐとともに隧道口に臨時停車場を仮設し以て辛うじて交通の便を開けり、第53図は其実景を写せるもの以て当時の状況を知るを得ん、下りて字橋詰に来れば民家の流出したるも甚だ多く、近く身辺を見、遠く停車場を望めば、唯だ残留半潰の家屋と左右諸山の崩壊のみ、大字白野に来れば大鹿川氾濫して巨岩を押出し、下図に示せる如く高さ丈余に達せる鳥居を埋め去り、僅かに其の蓋木のみを露わす、下図電信柱の向うに見ゆるは即ち鳥居の蓋木とす、今尚旅客の見る如く此附近一帯大石巨岩の磧にして中には数万貫にも達するものもあり、第56図は巨石中の巨石にして長さ8間幅6間と註せらる、当時水害視察として来峽せられたる日野西侍従等此巨大なる石よりも之を押出したる崩壊の威力に驚き、県内先導者と共に撮影せらる、即ち56図は其写真とす、白野の国道筋の人家は、この大鹿川の氾濫によりて全く埋没の厄を免る能はざりしもの多く殊に此地方は住民は養蚕家のことゝて家も二階立なるが多し、然るに大鹿川の押出は何の苦もなく之を埋没せり、第57図は白野が激流の本瀬となり、為めに流失したる残存家屋の一部を示したものなるが、一枚の写真尚一小渓に過ぎざる大鹿川の横暴の如何に甚だしかりしかを知るに足るべし。笹子川に沿へる国道は全部崩壊せられ、鉄道線路は崩れ、鉄線は曲り所々に折断するものあるを見き斯くて笹子村に於て140の人家を流し、40の人家を埋没し、1000に余る人民を窮乏に陥いれ、跡振り向きもせず、之より一瀉初狩村を襲うなり。初狩村の惨状は笹子村に比して其性質残酷なり、平地は笹子川の為に流失し、山麓は崩壊の為に圧倒せられたり、第58図は初狩村字立河原が笹子川の氾濫によりて其国道を川の本瀬とせられたる実況なるが、既に国道激流の本瀬と為る以上は、沿道の人家、付近の田畝の安全なるべき筈もなく、一寒部落にして30に垂んとする人家流失し、150の住民は其居所を奪はる、更に眼を転じて彼方山麓を見れば、中初狩区なる唐沢崩壊して祖師堂跡26戸を潰し11名の即死者を出す、水に流没するの惨に比して唯だ一思いに圧死するの安きを言う勿れ、死の惨は一なり、傷の苦みは一なり、何ぞ苦楽を異にせんや、第59図は其唐沢が崩壊して祖師跡を破壊したる実況なるが、他人之を写真に見るも尚恐怖の念に満たされ惻隠の情禁ずる能わざるものあり、況や爰に家居したる26戸の人々、其親の苦悶を見、其愛児の悲泣を聞き、其死を見、其傷を見、而して己も土砂木材の下に圧せられ身動きさえも自由ならざるの境遇にある時、嗚呼此処は活きながらの地獄なり、罪なくして陥いりたる残酷なる地獄なり、誰か同情の涙に咽ばざるものぞ。唐沢の大崩壊は崩壊と云うよりも一種急激なる河の観を為せり、其無限の土砂は墜落以上一歩を進めて流下せり、而して其速度は墜落に劣らず、第60図は其崩壊が如何に怖るべき勢を以て流れたるかを示せるもの、其下にあるものゝ危険押して知るべきのみ。初狩村の崩壊は之に止らず、下初狩に至て実に惨状極に達せり、即ち此区字下宿なる寒場沢に大崩壊起り、50余戸の人家は土砂の下に埋没又は潰倒し、25名は即死し、10名は傷く前には家も蔵も人も家畜も、田も畑も、山も宅地も、大地皆呑み尽くさんとする笹子川あり、後ろには寒場沢崩壊して恐怖に満てる村民を老いも若きも男も女も、圧殺せんとす、否既に50の人家を潰し、30の生命を奪いたり、第61図は其惨状の一面を写したるものにして、第62図亦然り、見よ満目蕭条として地に生色なく鬼哭長えに絶えざらんとす、高きを見れば山は落ちんとし、低きを視れば家は覆らんとするとき、神、仏にも見離されたるを感じたるならん、徒らに天道の無情を怨んで恵沢の厚きを思はざるは、悲しき時の人情なりと雖も、亦彼らが斯る叫びに同情を表せずんばあらず、山来笹子川の沿岸、山岳の傾斜最も急なれば之を耕したるの罪を責むるは、冷静なる者独り之を克くす、今其惨状を見其苦みを後代に伝うるに当て、是等に悲到するは到底為し能わざる処なり。山は斯の如く崩壊して200有余の家を奪い60人を殺す、而して川は愈々激して沿岸悉く嘗め尽し、之より尚も其下流なる広里村を衝く同村真木区地籍に架したる鉄橋は築堤と共に流失し、国道の橋梁又木片の如くに流れ行けり、大字花咲に至れば国道は流失して激流となり沿道の人家悉く流失す、第63図は其悲惨なる実況の一部を写したるものなれども、此一部以て全村の荒廃を知るを得ん。丹波川にも崩壊あり、都留川にも崩壊ありき、左れど北都留郡の惨状は此笹子川の流域に如くものなく、就中笹子初狩及び広里の三村最も悲惨なる状況に陥いれり、左れば此郡被害の9割は此三村に係るものと知るべし。郡内の者沢の押出の音を聞いてビャク来ると謂う、川に沿い、山を負うて家居する郡内地方のことなれば、沢の押出の恐るべきは言うを待たず、郡内人には此ビャク程恐るべきものなく、小児泣いて静まらざればビャク来ると唱えば泣き已むと称せらる、然るに40年の洪水は笹子川の大氾濫と同時にビャク大に来りて、泥水巨石を流したるものビャク来の声に小供を泣き已ませたらんも、全人民の叫喚となれり、嗚呼。(南都留郡 略)北都留郡水害調査表●人 死者87人 傷者36人●家屋 全潰246戸 半潰64戸 破損468戸 流失825戸 浸水347戸●堤防 決壊37ヶ所1585間 破損4ヶ所106間●道路 流失埋没279ヶ所12075間 破損342ヶ所6126間●橋梁 流失破損217ヶ所●田 埋没流失76丁5反 浸水29丁8反●畑 流失埋没329丁2反 浸水29丁8反●山林 埋没流失405丁3反●山崩 914ヶ所(南都留郡水害調査 略)『山梨県水害史』(山梨県水害史発行所 1911) 266p~275p-------------------------------------文中の赤字の部分が、冒頭写真の「大鹿川の巨石」です。上が2025年の冬のもの、下が『水害史』の56図になります。※おまけ場所を教えて欲しいとのリクエストがありました。ここになります。富士急バス原入り口下車 徒歩5分次回は、移転先について触れてみたいと思います。
2025年09月02日
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こんにちは、資料館です。今回は、特別展のご案内をさせていただきます。今年はアジア・太平洋戦争の終結から80年という節目の年です。平和な暮らしに慣れてしまった私たちは、東欧や中東で行われている戦争が、テレビの中の遠い国での出来事のようにとらえがちです。しかし、今から80年前、日本は中国・アメリカなどの大国を相手に戦争をしていて、戦場にいる兵士ばかりでなく、町で暮らす多くの人たちも空襲による甚大な被害を受けました。私たちの住む大月も、終戦のわずか二日前、8月13日に艦載機による空襲を受け、記録に残るだけでも61名の死者と140棟以上の建物被害が出ました。戦後80年、街の様子は大きく変わり、体験者の多くが鬼籍に入る中で、惨禍の記憶は年々薄れていくばかりですが、テレビに映し出されるウクライナやパレスチナと同じ惨状が確かにそこにあったのです。今回の展示では、投下された爆弾の破片や薬莢などの実物資料、戦災調書や教務日誌などの文献資料、当時の生活を写した写真資料に加え、戦争体験記の高校生による朗読動画や戦争遺跡である聴音壕の3D化などの映像資料を活用し、より多くの人が理解を深めることができるように工夫を凝らしました。多くの命と暮らしが失われた戦争の記憶を決して風化させることなく継承し、未だ戦争の絶えない不安定な国際情勢の中で、再び愚かな過ちを繰り返さないために私たちは何をどうしたらよいのかをみなさんに問いかけたいと思います。※おまけ●期間中(令和7年8月1日(金)~10月31日(金))は入館料が無料です。●イベントの詳細については「広報おおつき」8月号(8月1日配布)をご覧ください。
2025年07月17日
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こんにちは、資料館です。資料館では、新年度を迎えて展示品の入替をしました。その中からいくつか紹介していきます。初回は、上の写真に写る電気扇風機です。筐体には鉄が使われ、羽根は真鍮でできています。重量は約8kgと、現在のプラスチックを多用したものと違い、重厚感がありありです。台座の向かって右側に銘板がありました。------------------------------------------------------12 Inch A.C. Electric FanCat Volts Cycles Patent No. Utility Model No. C-7032 100/110 50/60 30005 33754 42413 58168Shibaura Engineering Works, Ltd., Tokyo, Japan------------------------------------------------------製品名は「12 Inch A.C. Electric Fan」。直訳すると「12インチ交流電気扇」。型番は「C-7032」。そして、製造は「Shibaura Engineering Works, Ltd.」。漢字表記では、「株式会社芝浦製作所」です。現在の東京芝浦電気株式会社(東芝)の前身です。製造年代を知りたくて、グーグル先生に聞いたところ、いくつか資料を紹介してくれました。しかし、どれもあいまいで、残念ながら特定することができませんでした。『江戸東京博物館紀要 第2号』(2012年3月)では、同型の扇風機について、芝浦電気が東京電機と合併して「東京芝浦電気株式会社となった1939年(昭和14)以降、戦後の一時期まで芝浦製作所のプレートのままこれらの製品が流通しているため、販売時期・流通時期の特定は難しい」とあり、製造年代を「昭和初期~中期」としていました。当然のことながら、写真資料として掲載されている広告の年代も「昭和初期~中期」でした。また、銘板(プレート)ですが、当館の所蔵品は英語表記ですが、画像検索すると、日本語表記のものもあり、さらに表記されている特許番号等の個数にも違いがあります。ネットの海の中から、昭和5年の試験証のラベルのついた電気扇を見つけました。当館所蔵の電気扇の銘板には、4つの番号がありますが、昭和5年製のものには「28521」と「36243」が追加され、6つあります。昭和5年製の銘板に追加されたこの2つの番号は、当館所蔵の電気扇のガードカバーに巻きつけれている金属プレートにありました。ということは、当館所有の電気扇は、台座の銘板に番号のある昭和5年製のものより以前に製造された可能性が高くなります。また、登録意匠の36243を独立行政法人工業所有権情報・研修館が提供する検索サービスで検索すると次の回答が得られました。-----------------------------------------------意匠登録0036243意匠の名称 花辨型電氣扇保護枠指定物品 電気扇風機用保護枠登録年月日 昭和2年11月16日意匠権者氏名(名稱)株式會社芝浦製作所-----------------------------------------------以上のことから、当館所蔵の電気扇は昭和2年から昭和5年までの間に製造されたのだと思われます。さらに、モーター部の裏には鉛の封印とともに銅製のタグが括りつけられていました。昭和3年5月25日製の意味でしょうか?ところで、この電気扇、羽根が回転した時にガードの表と裏のラインが重なって睡蓮の葉のように見えることから、『睡蓮(すいれん)』と呼ばれていたそうですが、意匠登録では「花弁型」とあるだけで、「睡蓮」の文字はありません。前掲の『江戸博紀要』には、「戦後「水連」とよばれた、芝浦製作所の扇風機のうちもっとも一般に知られている製品」とし、その脚注には、東芝科学館の言として「1949年(昭和24)年以降、扇風機に植物のサブネームをつけるようになった」とあります。東芝製扇風機の戦後カタログを見ると、同型機を「水蓮」と称しています。ところが、戦前の広告には「水蓮」の文字はどこにも見あたりません。いつ頃から「すいれん」と呼ばれるようになったのか、また、東芝が漢字表記を「水蓮」と明示するまでのちまたでの非公式な漢字表記は「睡蓮」だったのか、残念ながら手がかりが無く、わかりませんでした。こちらは、ガードカバー中央にあるエンブレム。『SEW』の意匠は、Shibaura Engineering Works の頭文字を表しています。こちらについては、『生活学論叢 12号』(2007)所収の論文の中に、筆者の平野聖氏が「『アサヒグラフ』を通読したところ、1953年5月21日号の裏表紙にはSEWを付した広告が見られるが、翌1954年6月9日号裏表紙にはToshibaが使われていることが判明した」と書いているのを見つけました。※おまけ今年は、戦後80年。この電気扇が、昭和初期のものだとすると、「国家総動員法」(1938(昭和13)年)にもとづく不要不急の金属回収をよびかける政府声明や、1941(昭和16)年に公布された「金属類回収令」をすり抜けてきた歴史を持つ、貴重でタフな品ということになります。ご家庭でご不要になられたレトロな家電製品がありましたら、資料館までご連絡ください。モノと状態によってはいただきたいと思います。次回は、一番上の写真の奥に写り込んでいる「ハンドル付き電話機」の紹介を予定しています。
2025年05月01日
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こんにちは、資料館です。岩殿山駐車場の南西角に「がちゃトイレ」が設置されました。南壁中央にある登山地図案内板の西隣には「ガチャガチャ」(カプセルトイ)も置かれ、次の内容がAI音声で流れています。-------------------------------------登山者の皆さん、こんにちは。岩殿山へようこそ。山のトイレって大切ですよね。でも、維持には費用がかかるんです。そこで、このトイレの運営はここでしか手に入らない「岩殿山限定ガチャ」の売り上げでなりたっています。ガチャの中身は、山バッチ・お守り・通行手形・秀麗富岳十二景アイテムなど、ここだけの特別なものばかりで、お土産には最適です。登山の思い出にぜひ一回回してみてください。それがトイレの維持にもつながります。ご好評ならどの登山道にも広げていく予定です。ちなみに、こちらのガチャ製品はアクリル製ですが、コロナ禍で使われた仕切り板をアップサイクルして作られた環境対策品です。ガチャとトイレに関するお問い合わせは株式会社スプリングまで。電話番号0554 56 7855。ライン・SNS・Webは、「岩殿山 ガチャステーション」で検索してください。あと、安全管理の為、防犯カメラを設置しています。どうぞご理解くださいませ。最後にもう一つだけお願い。グーグルマップや山等で「ここにトイレがあるよ」ってお手すきの時に紹介してくださいね。皆さんのご協力、よろしくお願いします。それでは、安全で楽しい登山を。---------------------------------------トイレのトビラには、大きな文字で「トイレ1回、がちゃ1回り」とあり、その下に小さな文字で「トイレの維持費のご協力をお願いいたします。」と書かれた紙が貼り付けてありました。ちなみにガチャのお値段は、1回400円です。※おまけこのトイレ、一日中しゃべっています。そればかりでなく、一日中発光もしています。ソーラーパネルを屋根代わりにして、円筒状のアクリルカバーの中にはバッテリーがあります。自然エネルギーで発電・蓄電して、電力を供給する自律型電源システムを採用しています。フルカラーLEDの使用、アップリサイクルなどともに、最新のテクノロジーが使われています。
2025年03月09日
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こんにちは、資料館です。前回の七保防空監視哨の続きです。資料館にもどり、国土地理院のHPで公開されている戦後まもなくに米軍が撮影した航空写真で天神山付近を確認しました。 ① 地理院地図(電子国土Web)を加工 ② 国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」USA M1196-A 119 1948/10/19(昭23) を加工 ③ 上記空中写真の天神山山頂部分を300倍に拡大加工 ④ 『岩殿山の総合研究』(岩殿山総合学術調査会 1998 大月市教育委員会)第2編 第7章 岩殿城周辺の城郭 <駒宮砦>(第53図)より ③ と ④ を見比べると天神山山頂に駒宮砦の遺構がしっかりと写っているのがわかりますね。中央の廓の中心と、東の廓の右下あたりに穴があるようにも見えます。近日中に、この二地点を集中的に再調査したいと思います。※おまけ本題とは関係ありませんが、『岩殿山の総合研究』の駒宮砦の項には次のような説明がありました。---------------------------------<駒宮砦>(第53図)葛野川に浅川が合流する所の北側、標高496mの天神山に築かれた城郭。天神山北側に形成された駒宮集落との比高差約90m。葛野川の谷あい沿いに岩殿城と相互に望むことができる。遺構は山頂を中心に東西120m、南北40mの範囲にみられ、東西方向にのびる尾根上に4本の堀切とそれに挟まれた3つの郭によって成り立っている。主郭は山頂部分にあり、東西25m南北15m程の広さで東西二段に分かれている。周囲にはやや不鮮明ながら部分的に上塁がめぐり、南辺には土塁に挟まれた虎口があり下段の腰郭に通じている。堀切を隔てて一段下がった東側の郭は三角形状で東端に上の高まりがあり、北側には腰郭をともなう。西側の郭も堀切を隔てて一段下がってつくられており、郭内部が土塁や段差により幾つかに区画され、見様によっては直径5m程の円形の凹みが中央部分にみられる。南側には腰郭が三つありそのうち西端のものは土塁をともなう特異な形態を呈している。4本の堀切から続く竪堀は、堀切の方向とは逆に落とすという特徴がみられる。『甲斐国志』には「御前平 浅川卜駒宮両村ノ間ニアリ御前卜云コト尋常ナラヌ称ナリ是亦其故ヲ知ラズ郡中凡御前卜云山所々ニアリ多ハ峰火台ノ跡ナルベシ御前平モ其類ナルベシ」とあり、烽火台と推定している。------------------------------------
2025年02月24日
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こんにちは、資料館です。前回の七保防空監視哨の続きです。資料館にもどり、国土地理院のHPで公開されている戦後まもなくに米軍が撮影した航空写真で天神山付近を確認しました。 ① 地理院地図(電子国土Web)を加工 ② 国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」USA M1196-A 119 1948/10/19(昭23) を加工 ③ 上記空中写真の天神山山頂部分を300倍に拡大加工 ④ 『岩殿山の総合研究』(岩殿山総合学術調査会 1998 大月市教育委員会)第2編 第7章 岩殿城周辺の城郭 <駒宮砦>(第53図)より ③ と ④ を見比べると天神山山頂に駒宮砦の遺構がしっかりと写っているのがわかりますね。中央の廓の中心と、東の廓の右下あたりに穴があるようにも見えます。近日中に、この二地点を集中的に再調査したいと思います。※おまけ本題とは関係ありませんが、『岩殿山の総合研究』の駒宮砦の項には次のような説明がありました。---------------------------------<駒宮砦>(第53図)葛野川に浅川が合流する所の北側、標高496mの天神山に築かれた城郭。天神山北側に形成された駒宮集落との比高差約90m。葛野川の谷あい沿いに岩殿城と相互に望むことができる。遺構は山頂を中心に東西120m、南北40mの範囲にみられ、東西方向にのびる尾根上に4本の堀切とそれに挟まれた3つの郭によって成り立っている。主郭は山頂部分にあり、東西25m南北15m程の広さで東西二段に分かれている。周囲にはやや不鮮明ながら部分的に上塁がめぐり、南辺には土塁に挟まれた虎口があり下段の腰郭に通じている。堀切を隔てて一段下がった東側の郭は三角形状で東端に上の高まりがあり、北側には腰郭をともなう。西側の郭も堀切を隔てて一段下がってつくられており、郭内部が土塁や段差により幾つかに区画され、見様によっては直径5m程の円形の凹みが中央部分にみられる。南側には腰郭が三つありそのうち西端のものは土塁をともなう特異な形態を呈している。4本の堀切から続く竪堀は、堀切の方向とは逆に落とすという特徴がみられる。『甲斐国志』には「御前平 浅川卜駒宮両村ノ間ニアリ御前卜云コト尋常ナラヌ称ナリ是亦其故ヲ知ラズ郡中凡御前卜云山所々ニアリ多ハ峰火台ノ跡ナルベシ御前平モ其類ナルベシ」とあり、烽火台と推定している。------------------------------------
2025年02月24日
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※地理院地図(電子国土Web)を加工こんにちは、資料館です。七保にあった防空監視哨の位置と遺構の有無についての問い合わせがあったので調査をしてきました。上の写真は、監視哨があったとされる駒宮天神山山頂の現況を写したものです。防空監視哨とは、本土に襲来した敵航空機を目視と聴音により察知する施設です。その情報は、監視隊本部を経由して陸軍軍管区に送られ、警報を発令したり、迎撃の飛行機を発進させたりする際の判断に活用されました。山梨県には、甲府・大月・南部に監視隊本部が設置され、その下に、それぞれ15・10・7の監視哨が置かれていました。大月の監視隊本部は大月警察署内(現在の大月信用金庫あたり)にあり、大月市内には大月・七保・笹子の3か所に監視哨がありました。このうち、遺構があるのは、大月市立中央病院の裏にあるむすび山にあるものだけで、七保・笹子についてはおおよその場所がわかっているだけで、遺構の有無についての確認ができていませんでした。七保の防空監視哨は、元監視隊員だった小俣敏雄さんの体験手記(『終戦二日前 -八月十三日・大月空襲の記録-』(大月市総務課1984)所収)により、現七保町駒宮地区天神山にあったということがわかっています。天神山は、西流する浅川と南流する葛野川の合流点に向かって北東方向から延びてくる尾根の最後のピークにあたる部分です。(地理院地図の496m地点)山頂の現況は、上の写真の通りで杉林に囲まれ、郭(くるわ)や空堀などの山城と思われる遺構が残っているものの、監視哨らしきものの痕跡はありませんでした。しかしながら、現在は植林した杉林のために展望は遮られますが、屹立する幹の間からは富士山を見通すことが出来ます。加えて人里からも近く、監視哨を設けるには最適地だと思います。また、地形的にも中央の最高壇となる主廓に立哨壕(聴音壕)を造り、その北側の下壇にある腰廓に監視哨(事務所)を置いてみると、小俣さんの描いた見取図にうまくあてはまります。とはいうものの、県教育委員会が昭和60年に行った『山梨県の中世城館跡 -分布調査報告書-』の「駒宮砦」の項には監視哨についての記述が一切見られません。監視哨を設置する際に、城郭遺構に手を加えているならば、それについての記述があるはずですから、監視哨はここには設置されなかったものと考えるのが妥当かもしれません。天神山山頂(駒宮砦)から北東へ尾根伝いに駒止嶺の三角点(583.7m)まで行くことにしました。地理院地図には道が描かれていませんが駒宮からの登山道との合流地点までの尾根は広く、どこからでも樹間に富士山を見通すことができます。天神山山頂と合流点の間に、垂直に地中に打ち込まれた2mあまりの単管パイプ3本とその傍らに4角錐の電波塔の先端部分らしきものが転がっていました。部材から考えてみると監視哨施設とは関係のないものだと思います。合流点から駒止嶺までの道は、初めこそ笹が左右から生い茂り藪漕ぎを強いられましたが、その後は踏み跡も明瞭な登山道となります。三角点には、頭頂部を5cmほど出して腐葉土に埋もれた標石と、傍らの木の幹に「駒止嶺」の標識がくくりつけられていました。このあたりも開けていて樹間に富士山を望むことが出来ますが、遺構らしきもはありませんでした。また、里からは遠くなるため、交代勤務を必要とする監視哨を置くのには適地とは言えません。結局この日は、監視哨の位置を特定することはできませんでした。※おまけ山頂部の写真の中央に、小さく石塔が写っています。北向きの正面に「南無阿弥陀佛」と刻まれている名号塔でした。その下に「修善」と花押があり、名号の左にある文字は読み取れませんでした。東側の面には「安政四丁巳年 三月吉祥日」とあることから、1857年の造立だとわかります。西側の面の文字と台石に刻まれている造立者と思われる人名は読み取れませんでした。拓本採取の道具を持参し来なかったことが悔やまれます。また、名号塔の東の脇には山名の由来となった天神社とおぼしき祠が朽ち果てていました。
2025年02月21日
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こんにちは、資料館です。上の写真は、七保町林地区にある十王堂です。かつては、茅葺の風情あるお堂だったそうですが、今やただの二間一間の高床式の小屋にしか見えなくなってしまったのが残念でなりません。堂内には、木造の十王像と二体の仏像(不明(地蔵菩薩か?)・うち一体は面部分が割れ剥がれている)が安置されています。左手前の段下、道路脇に立つ説明版には次のような文が書かれています。------------------------------十王堂の由来江戸時代、十王堂はどの村にも必ずあったが現在大月市内にはこの十王堂一つだけとなった。十王信仰は人が死亡すると、その日から7日毎に7回(49日)と続いて百カ日1周忌、3回忌と10回閻魔大王以下10王のさばきをうけ、生前に善行したものは極楽に、悪事を働いたものは地獄へ送られるという。このさばきにあたる日には死者の霊を救ってくれる。不動明王、釈迦如来、阿弥陀如来などの10の仏様に、読経したり念仏を唱えて死者の回向をしなければならない。このお堂はその忌日に念仏講の人たちや親戚縁者などが十王の前で回向する場所であった。昭和初期まで毎月16日に念仏を唱える会があったが今は絶えた。しかし昔の人たちは、だれも必ずおとずれる死後極楽に行けるように生前つねにおこないをつつしみ善行につとめる考えがこの十王堂から教えられたのである。この説明版は人々の生活を長く守り支えてきた地区文化財の由来を伝え、保護するためにふるさと創生事業により建てる平成3年12月七保公民館-----------------------------十王信仰は、もともとは中国の唐代に仏教と道教との融合で起こり、日本でも平安時代の末頃から信仰が始まりました。日本で広まる過程で、奪衣婆(だつえば)や懸衣翁(けんえおう)などの新たな登場人物が創られ、十王を仏の化身として見立ててそれぞれに本地仏が充てられました。説明文の中の不動明王は初七日に審判する秦広王(しんこうおう)、釈迦如来は二七日の初江王(しょこうおう)、阿弥陀如来は10回目の三回忌に最終審判を下す五道転輪王(ごどうてんりんおう)に対応する本地仏です。回向とは、死者(亡者)の親族や仲間たちがそれぞれの本地仏に読経・念仏をすることによって罪の軽減を願うことで、忌日法要(法事)の意義を説くキーワードの一つです。ともあれ、十王信仰は、審判の過酷さや地獄の苦しさなどからの救済を求めて仏教への信仰を広める役割を果たすともに、死後の世界への辛さ苦しさや恐怖心から日々の生活において悪行を慎み善行を積ませるという道徳心の向上のためにも大きな効果を発揮しました。十王堂がどの村にもあったのは、主に後者の理由によるものからです。説明文の文頭に、「現在大月市内にはこの十王堂一つだけとなった」とありますが、確かに十王像にはあちこちでよく出会いますが、「十王堂」と名乗る堂宇を見かけたことがありません。大月市内の他地区で、現存する「十王堂」をご存じの方は資料館までご連絡ください。なお、「広報おおつき 令和7年2月号」の「大月探訪記」で紹介した大松山光照寺の閻魔堂の記事も合わせてお読みください。※おまけ十王堂の左に写る石塔は名号塔。名号塔の正面に「南無阿弥陀仏」、右側面に「念佛講中」、左側面に「文政二卯天五月造立」十王堂の右に写る七保公民館林分館の脇には二十三夜塔と石祠。二十三夜塔の正面に「二十三夜」、右側面に「當村中」、左側面に「嘉永七卯寅祀一月吉日」石祠の内部には丸石、「農の神」との伝えあり。これは十王堂の後ろに写る火の見櫓の下の三差路にある道標。風化が進んで文字が読み取れない。平成7(1995)年9月に行った調査では次の文字が刻まれていることが確認されている。「右なら子 左無らみち」文化3(1806)年の村絵地図を見ると、三差路から北西に山方向へ向かう道が「用沢道」、何北に直進する道が「奈良子道」と書いてある。この道標、三差路の「奈良子道」西側道路脇、「用沢道」をほんの少し登った段下にあるが、どこから来た人のための道標であるかがわからない。道路の改修工事で石造物が移設されることはよくあることで、ひょっとしたら現在の位置と設置された当時の位置が違うかもしれない。いずれにしろ「用沢道」は山道(徒歩道)となり、現在は宝鏡寺薬師堂裏から用沢川沿いに舗装された立派な市道が通じている。先にも書いたが文字は読み取れず、道も付け替えられために今や用を為さない道標。やがては忘れられてただの路傍の石となるのであろうか?
2025年02月18日
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こんにちは、資料館です。火伏・火防の信仰として「愛宕信仰」について書いてきましたが、2年前の「広報おおつき」に「秋葉信仰」を書いたことを思い出したので、ついでながら紹介しておきます。----------------------------------------秋葉信仰秋葉信仰とは、秋葉三尺坊大権現(あきばさんしゃくぼうだいごんげん)に対する信仰で、庶民の間で愛宕信仰(あたごしんこう)と並ぶ火防の神として信仰されました。秋葉山(あきばさん)は静岡県浜松市にある山で、秋葉三尺坊大権現とは秋葉山秋葉寺(しゅうようじ)に祀られた火防のご利益があるとされる天狗です。三尺坊は元々人間だった天狗で、信州に生まれ、越後国蔵王堂にて修行した修験者(しゅげんじゃ)です。白狐に乗って遠江国の秋葉山に飛来し、以後、秋葉山の鎮守になったと伝えられています。火防のご利益がある秋葉信仰は、江戸時代中期頃から庶民に広がり、各地で秋葉講が生まれました。市内で確認できる「秋葉大権現」などと刻まれた石造の常夜灯は、講の依り代として造られた石造物です。火災の発生しやすい季節になりましたので、この機会に市内を散策し、昔の人々が火防の祈りを込めた秋葉信仰の痕跡を探してみてはいかがでしょうか。「広報おおつき」(2022年2月号)----------------------------------------上の写真は駒橋二丁目(旧国道20号厄王大権現社上)にある秋葉山常夜灯(秋葉灯篭)です。高さ2mもある立派なもので、竿(柱)の前面に「秋葉大権現」、左に「寛政五癸丑年」と6名の氏名、右に「三月吉祥日」と5名の氏名が刻まれていることから、11名の講中が寛政5(1793)年3月に建立したことがわかります。駒橋宿の中ほどにあることから、信仰の証とともに、町内の安全や防火を祈願して建立したのだと考えられます。ちなみに、火袋(火を灯すところ)には下のようなお札がありました。「奉請 秋葉大権現」とあります。奉請(ぶじょう)とは、読んで字の如く「請い奉る」ことをです。つまり、秋葉大権現に、この灯篭まで来ていただき、火伏・火防のご利益を賜りたくお願いしているわけです。文中にある「依り代」(神が寄りつくもの)とはこのことをいいます。※おまけ秋葉信仰の起源については諸説あり定かではありません。一般に広く信仰されている「秋葉信仰」は、神仏習合時代の秋葉三尺坊大権現という火防の神に対する信仰から始まったとされています。ところが、明治の神仏分離により、信仰の在り方についてもややこしくなってきます。慶応4(1868)年に神仏習合の寺院であった秋葉寺は、秋葉寺と秋葉神社に分離され、秋葉神社では祭神として火の神である迦具土神(カグツチ)を祀ることとしました。明治6(1873)年に、秋葉寺は無檀無住(檀家も無く住職も居住しない)を理由として廃寺となり、秋葉三尺坊大権現は曹洞宗の萬松山可睡齋に遷座されました。明治13年、秋葉寺の再建が許され、現在地に本殿が建立されました。秋葉山秋葉寺HPに、「秋葉寺と秋葉神社の区別」として秋葉神社に対しての厳しい文言があるのはこの経緯によるためです。ここでは、明治以降の秋葉信仰は、江戸時代までの秋葉信仰とは違ってきているとだけ述べるにとどめておきます。駒橋の秋葉山常夜灯には「秋葉大権現」のお札がありましたので、秋葉三尺坊大権現への信仰だと思われます。ただし、お札の御朱印は静岡県の秋葉寺のものではなく、「光照禅寺」と読めるのは私だけでしょうか?このことについては、駒橋地区の秋葉講の聞き取り調査を後日行い、再度報告をしたいと思います。※おまけのおまけアメリカ、ロサンゼルスの山火事を「対岸の火事」と思っていたら、今月18日に山梨県でも甲府市と笛吹市にまたがる山で火事がおき、未だに消火活動(25日現在)が続いています。太平洋の向こう岸の外国の火事、笹子峠を越えた国中地方の火事だからといって他人事としてみるのではなく、自分事として「火迺要慎」をよりいっそう心がけましょう。
2025年01月25日
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こんにちは、資料館です。強瀬の愛宕地蔵に関連して、真木のお伊勢山にある愛宕神社について書きます。ちなみに、放置していた「真木お伊勢山散策」の続きでもあります。真木の愛宕神社は大神社の北にあります。小社ですが立派な神明鳥居と狛犬、そして覆屋を備えています。本殿左にある「愛宕神社縁起碑」によると、祭神は迦具土神(カグヅチノカミ)で、京都愛宕神社より勧請したとあります。参考までに、碑文の全文を掲載します。-------------------------------------------------------愛宕神社縁起碑愛宕神社は、火之神、迦具土神(カグヅチノカミ)を祀り、古来火伏の神として信仰されている。我が国の最も古い国書 古事記、日本書紀によれば、伊邪那岐(イザナギ)伊邪那美(イザナミ)の夫婦神によって、大八州国が生まれ、多くの神々が誕生するが、伊邪那美の神は迦具土神を産んだ為に神去られたとある。京都市右京区嵯峨愛宕町に鎮座する愛宕神社は、京都の北西に聳える愛宕山上にあって、王城の鎮護・防火の守護神として崇められ、全国津々浦々に祀られる愛宕神社の御本社である。ここ御伊勢山に祀られる愛宕神社は、大正年代から昭和にかけて、当地域に発生した相継ぐ民家の火災を憂いた住民により、昭和初期に御本社から御分霊を奉迎し、鎮座したものである。爾来、大月市消防団第三分団第八部が地域住民の平穏な生活、防火防災を願い護持奉斎に当たり今日に至る。平成十四年九月吉日------------------------------------------------------気になったのは創建の年代についての「昭和初期に御本社から御分霊を奉迎し、鎮座したものである」という件です。『甲斐国志』(文化11年(1814年)完成)には、お伊勢山の神社として次の二社が紹介されています。----------------------------------〇〔神明社〕 御伊勢山にあり社地縦六拾間横貮拾間除地なり村持〇〔愛宕権現〕 小社 同所『甲斐國志』 巻之七十二 神社部第十七下----------------------------------江戸時代には、「愛宕権現」があったことがわかります。それなのに、碑文には「昭和初期に分霊、鎮座す」とあるのはどうしてなのでしょう。おそらく、明治維新の神仏分離令により神仏習合の愛宕権現が廃されたのに伴い社殿も撤去ないし朽ち果ててしまったので、昭和に入ってから京都愛宕神社若宮の祭神である迦具土神を改めて勧請して創建したのではないかと思われます。※おまけ火災は、地震や台風などの自然災害とともに昔から怖れられた災害です。かつての日本家屋は木や紙などからできていたので、ひとたび火の手が上がるとまたたくまに広がってしまいます。まして、大月は街道筋も山間部も、人家があるのは川よりも高い場所です。消火能力の高い機器など無かった時代、火防・火伏の神を信仰することが、最も有効な火災を予防する方法だったのです。ちなみに、愛宕神社のお札には「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれています。「火、すなわち慎みを要する」。つまり、神に頼むだけでなく、自らも火の扱いを慎むべしとの戒めの言葉ですね。乾燥した日が続きます。火の取扱にはくれぐれもご用心(要慎)してください。
2025年01月21日
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こんにちは、資料館です。前回の続編です。強瀬の「愛宕さん」に関連するものとして「念仏講」があります。強瀬の住民が「講」というグループを作り、和讃(わさん)・御詠歌(ごえいか)を念仏とともに詠唱します。その内容は、「愛宕さん」の仏力を讃え、ご利益を願うものです。上の写真は、そのテキストの一部です。ひらがな表記で読みにくいので漢字表記にしました。●愛宕様御詠歌帰命頂礼愛宕様二十四日がご命日火伏の除けのご和讃に雪の土台に霜柱氷の梁に雨の桁露の葺き草おわすれば心も清く念ずればいかなる火難も来るまいのがらせ給うのご請願利益新のありがたや●愛宕地蔵火伏祈祷和讃帰命頂礼愛宕様本地は勝軍地蔵様前に天狗のお立ちある常に火炎を護りつつ日護摩を焼かせ給うなり愛宕詣りに袖ひかばなびかぬ人もなかりけり南無阿弥陀仏 阿弥陀仏その意味するところは割愛します。語句を一つ一つ丹念に調べていくとわかるはずです。歌い方には地域性があり、「強瀬節」と言われていたそうです。現在、コロナ禍を経て、講の成員の高齢化と次代の継承者がいないため廃絶の危機にあります。どなたか、映像・録音記録をお持ちでしたら資料館までご連絡ください。※おまけ愛宕信仰とは、京都嵯峨の愛宕山山頂にある愛宕神社を総本社とする火伏の神に対する信仰です。「神」なのに仏教の地蔵菩薩が祀られているのは、愛宕神社の前身が明治維新の際に神仏分離令や修験道禁止令によって廃された白雲寺という神仏習合の寺院だったからです。白雲寺は、修験道の神廟をルーツに持ち、本地仏を勝軍地蔵(将軍地蔵)とし、垂迹神を伊邪那美命(イザナミノミコト)とする愛宕大権現を祭神としていました。江戸時代までは、神仏習合・神仏混淆であったことから、本地仏である勝軍地蔵を「火伏の神」として祀っていたわけです。しかしながら、白雲寺(愛宕神社)が火伏に霊験ありとされたのには諸説あり、愛宕神社のHPの由緒書きにも「古くから」の一言で片づけられていて、公式な見解は述べられていません。ただ、徳川家康が江戸に幕府を開く際、江戸の防火・防災の守り神として「勝軍地蔵」を祀って愛宕神社を創建していることから、戦国期を経たあたりから勝軍地蔵が戦勝の神から火防の神への転換がおこり、江戸期に民間信仰として広まっていったのではないかと思います。そう考えると、前回紹介したように、この地蔵が江戸期にどこぞの地から強瀬に運ばれてきたという伝承にも一致します。
2025年01月17日
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こんにちは、資料館です。今回紹介するのは、「広報おおつき」1月号に掲載された賑岡町強瀬地区の「愛宕地蔵」です。強瀬集落の東のはずれ、市道高月川隣線沿いの南向き斜面に建つ三間四方のお堂には、地域の人から「愛宕さん」とよばれている地蔵菩薩の石仏が祀られています。この地蔵は、火除け火伏のご利益がある勝軍地蔵で、背丈が170cm、肩幅57cmもの堂々とした体は、断面が凹型をした石を7段に積み重ねて造られています。江戸時代、この地蔵が鎌倉から馬の背に載せて運ばれてきて納められたと伝えられているのは、この構造に由来するものだと考えられます。また、夜回りをした地蔵とも伝えられていて、十二月末頃になると、どこからともなく拍子木の音がしてきて、この音を聞くと年寄りたちは「愛宕さんが火の番を始めた」と子どもたちに言い聞かせたといいます。強瀬地区が150年以上も大火に見舞われていないのは、「愛宕さん」のご利益のおかげとして、現在も毎月24日に念仏講が開かれています。特に正月には、区長・氏子総代をはじめとしてたくさんの人が参加する中で賑やかにお祭りが行われます。今年も1月24日に行われるとのことでした。こちらは、愛宕地蔵の足元を写したものです。地蔵は上記のように断面が凹型をした石を7段に積み重ねて造られています。全体像の写真でもよく見ればわかるのですが、こちらはその構造が一目瞭然でわかりますね。錫杖と宝珠を持つ両腕から垂れ下がる袈裟の袖(?)が前へ出て、仏像に立体感を与えるとともに、安定性をもたらしていると思います。次回は、愛宕信仰について考察したいと思います。※新年のご挨拶とお礼あけましておめでとうございます。大月市郷土資料館です。昨年末に開催しました「特別展『追分の人形芝居展』」にはたくさんの方にご観覧いただき、ありがとうございました。また、お忙しい中、アンケートにもご回答いただき、貴重なご意見をいただけましたことにも、重ねて感謝申し上げます。来場された皆さんから寄せられた、ご意見・ご感想を今後の資料館運営に役立たせていきたいと思います。
2025年01月07日
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市制70周年記念特別展 追分の人形芝居展開催中期 間 令和6年11月1日(金)~12月22日(日)入館料 期間中無料休館日 月曜日、祝日の翌日開館時間 9時~17時(入館は16時30分まで)追分の人形芝居は昭和35年11月7日に山梨県無形民俗文化財(当初は無形文化財)に指定された本市を代表する文化財です。本特別展では、公演で用いられる人形やかしらをはじめとした道具を展示していますので、それら資料をじっくりと観察することができます。また、追分の人形芝居についてパネルにて解説をしておりますので、公演を観るだけではわからない歴史について知ることができます。ぜひ、この機会を利用して本市を代表する文化財、追分の人形芝居について理解を深めてください。※お願い入館者数の集計とアンケートの回答にご協力をお願いします。※おまけYouTube で追分の人形芝居をもっと知ろう。クリックすると動画が視聴できます。笹子追分人形芝居 CoolJapan【日本語字幕】Sasago Oiwake Puppet Play CoolJapan【English subtitles】笹子追分人形芝居 ダイジェスト
2024年11月01日
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こんにちは、資料館です。「広報おおつき」9月号に掲載された「浅川の指差し地蔵」の補足版です。実は、この広報の記事は、Web版を焼き直したものです。今回は、その補足版ということで、葛野地区和田原から葛野川左岸沿いに浅川地区落合に抜ける道を紹介します。上の写真は、和田原にある道標です。高さ80cmほどの自然石に、中央に「南無阿弥陀佛」、向かって右に「右ハあさかわ」、左に「左ハい□□」と刻字されています。残念なことに「左はい」の下の部分が剥離しているために読み取れませんが、右へ進むと浅川へ向かうことを示していることには間違いはありません。この道は、いったいどんな道だったのでしょうか。この写真は、「今昔マップ」というサイトから生成したものを screen capture(screenshot)したものです。右が現在の地形図、左が明治時代の地形図です。赤丸●の所が、道標と指差し地蔵が置かれている場所になります。右の現在の地形図の、葛野地区内を通る黄色い道が県道505号小和田猿橋線、赤い道が国道139号です。左の明治時代の地形図では、県道も国道も直線と破線の組み合わせの二重線で表記されています。そして、葛野川左岸の道標から浅川地蔵を経て落合へ抜ける道も直線と破線の組み合わせです。他の道は、破線の二重線、破線の一本線です。直線と破線の組み合わせの二重線と破線の二重線は里道と呼ばれた道で、前者を聯路(れんろ)、後者を間路(かんろ)といいました。また、破線は小径(しょうけい)といいます。それぞれの幅員について調べたところ、明治時代には明確な規定はありませんが、里道の2つは荷車の通れる幅をもった道であることが大正時代の規定から類推できます。小径は、国土地理院が徒歩道(1m未満の道)として規定する道、辞書的に言えば「二人以上並んでは通れないほどの小道」でしょうか。明治時代の地形図では、現在の県道・国道・左岸沿いの道も同じ「聯路」の地図記号で表記されています。ということは、明治時代までヒト・モノ・カネ・情報・文化を運ぶ道としての役割を同等に果たしていたのではないかと考えられます。再び、右側の現在の地形図を見てみます。左岸沿いの道だけが「徒歩道」に格下げされただけでなく、道標から小泉集落外れまでと指差し地蔵手前の道が消失しています。実際に歩いてみると、小泉集落外れから始まる徒歩道の入口付近には、多数の馬頭観音があり、整備された道も500mほど続きましたが、そこから先は道は崩れて踏み跡もなくなり地図アプリをたよりに進まなければなりませんでした。中間地点を過ぎ、2011(平成23)年9月の台風12号の豪雨がもたらした深さ20m、長さ600mに及ぶ深層崩壊による土石流が発生した場所では、土石流を止める大きな砂防堰堤(ダム?)の上部へ大きく回りこまなければ沢の向こうには行けませんでした。10年以上も前に災害によって道が消失しているのに地図に反映されていないことがわかり、地理院地図だからと信用過ぎるのも考えものだとつくづく思いました。さらに進むと「指差し地蔵」が道の右側に見えてきます。道標ですから道の分岐点に多くの場合は置かれます。しかし「指差し地蔵」の正面に道はありません。道があったとしても、ここまで歩いてきた道は「山道」などではなく、立派な生活道です。おそらく、道標は少し先にある沢沿いの百蔵山への道の分岐点にあり、沢の治水工事をしたときに移設されたのではないかと思います。沢を進み畑を横切り、集落の家並みが始まる手前に葛野川へ向かう道があります。道は、段丘崖で途切れてしまいますが、崖渕には百番供養塔や牛頭観音などがあり、かつては橋もしくは渡しで対岸の道とつながっていたことがうかがえます。集落をすぎて「落合橋」をわたると県道511号浅川瀬戸線と合流します。※おまけ道標の「左ハい」の下には何という文字が続くのでしょうか?葛野の近くで「い」で始まる大字名は「いわどの」(岩殿)しかありません。仮に岩殿だとすると、猿橋方面から来た人のための道標ですから、直進して七保橋を渡り畑倉を経由して行くことになり、下和田から強瀬地区川隣りへも葛野川を渡ることができたので、遠回りすることは考えられません。小字となると「いやま」「いどち」などがありますが、よほどの名所でなければ小字を進行方向を示すのに用いることはないと思います。みなさんは、どう思いますか?
2024年09月28日
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こんにちは、資料館です。いよいよ、「笹子自然遊歩道」の最終回です。今回は「笹子峠の矢立のスギ」にまつわる伝え話の真偽について科学的に考察してみます。一つ目は、「岩殿山で国見れば国恋し矢立の杉が見え候」です。この歌は、岩殿山の城番として国中地方から派遣された武田の武士が、望郷の念にかられて詠んだものとされています。その武士の心情を察するに余りありますが、ここで問題としたいのは果たして岩殿山山頂から矢立のスギは見えるのだろうか、ということです。国土地理院の地理院地図(電子国土Web)を使って検証してみましょう。画面は広い方が良いので、なるべくスマホでなく、パソコンを使用してください。まずは、ここを開いてみましょう。矢立のスギ付近が表示されるはずです。画面をドラッグすると、地図の表示範囲も変わります。左下のズームバーをスライドさせて、岩殿山と矢立のスギが同一画面に表示されるようにします。次に上のメニューの「ツール」をクリックし、右側に表示される「断面図」をクリックします。操作方法のウインドウが開きますが、邪魔ですので、最小化ボタン「-」をクリックします。この時終了ボタン「×」をクリックすると、断面図のプログラムも終了してしまいますので注意してください。「矢立のスギ」をクリックし、マウスカーソルを移動させると点線が伸びていきます。そのまま、「岩殿山山頂」まで伸ばしてダブルクリックすると直線に変わり、しばらくたつと断面図が生成されます。縦横比を調整して見やすくしてみましょう。次のグラフが、矢立のスギから岩殿山山頂までの断面図です。赤線で、スギと山頂を結びました。横軸をみると、直線距離でおよそ約15kmの離れていることがわかります。断面図なので、この間に何もなければ見通せることになります。しかし、岩殿山山頂から5km地点あたりから、尾根の張り出しにかかるようになり、7.5km地点からは完全に赤線を越えています。このことから、「岩殿山の山頂からは矢立のスギは見えない」ことが証明されました。二つ目は、強弓の使い手である源為朝が滝子山山頂から矢を放ち矢立のスギに命中させたという伝説。同じ要領で、断面図を作ったのがこちらです。やはり、途中に高い部分があるため、見通すことはできません。しかし、だからといって命中しなかったとは言い切れません。なぜなら、矢は放物線を描いて飛ぶからです。たとえ見通しがきかなくても、風を読み、方向と射出角さえ合っていれば命中します。だとしても、滝子山山頂から矢立のスギまで距離は約6kmもあるのでいくら強弓の名手といえども物理的に不可能と言わざるを得ません。以上、二つの伝え話は、事実にもとづくものではなく、「作り話」であることが、「科学的」に証明されました。事実と違えるとはいえ、この2つの「作り話」に価値がないわけではありません。昔から語り継がれてきた言葉(話)には、人々の願いや人々への警鐘などが込められています。肉眼では決して見えないスギが心の眼では見えた武士の心情や、物理的に不可能な距離にあるスギを射ぬく源為朝に寄せる人々の思いなど、多面的多角的にとらえて、その意図するところを考えてみてください。次回は、過去記事「指差し地蔵」の続編です。
2024年09月08日
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こんにちは、資料館です。いよいよ、遊歩道の終点にある「矢立のスギ」編です。江戸時代から様々な書物で紹介され、浮世絵にも描かれてきました。その名の由来については、出陣する兵士がこの杉に矢を射立て、武運を祈ったことから「矢立ての杉」と呼ばれることになったとするのが一般的ですが、源頼朝の巻狩説、源為朝の強弓説など、諸説あります。ここまでについては、ググるとすぐにわかる情報なので詳細は割愛します。今回は、傍らに立つ説明板に記されている数値をもとに、矢立のスギの生育の歴史に迫ってみます。--------------------------------------------------------------------県指定天然記念物笹子峠の矢立のスギ所在地 山梨県大大月市笹子町大字黒野田字笹子1924の1種 類 スギ指 定 昭和35年11月7日所 有 山梨県このスギは昔から有名なもので、昔の武士が出陣にあたって、矢をこのスギにうちたて、武運を祈ったところから「矢立のスギ」と呼ばれてきたものである。そのような名木であるうえに巨樹であるために、県指定天然記念物にされているものである。その規模は次のようである根回り幹囲 14.80メートル目通り幹囲 9.00メートル樹 高 約26.50メートル幹は地上約21.50メートルで折れて樹幹中は空洞になっている。昭和50年10月 山梨県教育委員会------------------------------------------------------------------なんと数値は昭和50(1975)年のもので、しかも「ようである」という不確かな断定?です。そこで、過去の文献を調べ、幹囲(目通り)と樹高の数値を次の表にまとめてみました。書 名 甲斐国志 甲斐叢記 北都留郡誌 県名木誌 市巨樹名木誌 県巨木誌年 代 1814 1891 1925 1931 1969 1992根 廻 ---- ---- ---- 10.6m 14.8m ---幹 囲 6.9m 7.6m 10.0m 8.7m 9.0m 9.07m樹 高 ---- ---- 60.6m 33.0m 28.0m 24.0m折損部 ---- ---- ---- ---- 22.0m 20.0m※甲斐国志には「山之部」と「古跡部」の2か所に記載がありますが、数値が違います。※書名の県は山梨県、市は大月市です。※『山梨県名木誌』(以下『名木誌』)以前の数値は尺表記をmに換算して表記しています。植物も生物なので年を重ねると葉や茎の数が増え、幹や茎が太くなり、そして背も高くなります。「異常値」と思われる『北都留郡誌』(以下『郡誌』)の数値を除外して幹囲の推移をみると、大きな空洞がありながらも、たくましく成長している様子がうかがえます。しかし、樹高の経年推移は右肩下がりとなっているのはなぜでしょう。風により頭頂部の枝が折れてしまったからでしょうか?また、案内板に「幹は地上21.50メートルで折れて」とありますが、折れたことにより樹高が低くなったのでしょうか。と言うか、そもそも幹が折れたのは何時のことなのでしょうか。そして、根本の空洞と何か関係あるのでしょうか。幹が途中で折れていることや根元に空洞があることについては樹木の状態を紹介する際には外すことのできない事項です。まして、古くから「名木」として知られていた「笹子峠の矢立の杉」です。記載がない、ということはそれらの損傷がその時点では無かったと思われます。ということで、樹高の記載のある4つの書物を読み直してみました。まずは、幹が途中で折れていることについてです。折損していることに触れているのは、『大月市巨樹名木誌』(1969)(以下『巨樹名木誌』)からで、それ以前の書物には記述がありません。『郡誌』(1925)の「高二百尺」(60m)は眉唾ものですが、これが仮に正しいとすると『名木誌』(1931)の樹高はその半分の109尺(33m)であることから、この間に折れたと考えられます。『郡誌』の巻頭に「笹子峠の矢立の杉」の写真があるのですが、これが不鮮明で、すでに折れているようにも見えるし、折れてないようにも見えて、なんとも判然としません。『名木誌』(1931)にも写真があります。撮影方向は違いますが、樹形がよく似ています。こちらの方を見ると、幹は先端まで伸びていて、折れてはいない様に見えます。次に、幹の空洞です。幹の空洞については『名木誌』(1931)が初出となります。「樹相」の項に、「明治四十年の大水害」により、樹皮を剥がされ、根はむき出しとなったために「樹勢は自然に衰へ、随って枝葉は繁らず樹相も餘振はざるに至れり」とあるのに続けて「幹は空洞なることは勿論なりとす」とあります。また、「火災」の項には、「昭和四年十二月二日浮浪者の焚火に因り幹の洞内より燃え上がり樹梢に及ぶ惜むらくは、此の名木は枯死するに至らんか。」と、火災に遭い、枯れ死してしまう虞があるとも記しています。『郡誌』(1925)には、「明治四十年大洪水の際其近傍の山岳崩壊し根本の半面を埋め樹皮稍々損傷せり」と「明治四十年の大水害」により根元が土砂で埋まり樹皮が「稍々」(やや)損傷したとありますが、根がむき出しになったことや空洞については特に触れていません。そして、「現今、高二百尺目通周囲三十三尺、幹は蒼空を凌ぎ枝は迂り或は折れたりと雖も其葉蓁々として繁茂せり。」と、樹勢の強い様が書かれています。空洞はともかくとして、根はむき出しになってはいなかったのでしょうか。『郡誌』と『名木誌』の間には6年の月日が流れています。6年間で樹勢がこうも衰えるものなのでしょうか?数値にしろ、樹木の様子にしろ、『郡誌』の著者は実際に現地まで足を運んで執筆したのか疑いたくなります。ここから先は憶測となりますが、外側からは健康そうに見えていながらも、かなり前より幹の内部では腐朽が進行していて、「明治四十年の大水害」により樹皮が剥がされ、傷ついた外側の部分からも腐り始め、昭和4(1929)年の火災の際には人が入り込めるほどの大きさの穴ができたのではないかと思われます。そして、火災によって樹勢が弱まり、『名木誌』の書かれた昭和6(1931)年から『巨樹名木誌』が書かれた昭和44(1969)年までの間のどこかで強風等により幹が折れたのではないかと考えられます。そして、折れたことにより、樹高が低くなったのではないでしょうか。次回はいよいよ最終回、「笹子峠の矢立のスギ」にまつわる伝え話を科学的に考察してみたいと思います。※注意いつものように、赤太字には原典資料のリンクが貼り付けてあります。本ブログの内容を引用する場合は、必ずクリック(タップ)して原典を読んだ上でその真偽を判断した上でお願いします。
2024年09月05日
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こんにちは、資料館です。茶屋編の最後は、「庚申塔」です。「野立跡」碑のある峠側の擁壁が峠道と接するところに、写真の石仏があります。風化が進んでいるため、光背部分に刻まれている文字は判読不能で、像容もはっきりとしません。それなのに、これが庚申塔と判断する理由は、足元の左右に猿を配していることによります。干支の申(さる)は、動物の猿にこじつけられ、さらに「見ざる聞かざる言わざる」へとつながり、庚申塔の多くに三猿が刻まれていますが、二猿はもちろん、一猿から十猿、それ以上の群猿が彫られている庚申塔もあるからです。庚申信仰の本尊は青面金剛(しょうめんこんごう)であることを念頭に置いて像容をよく観察してみると….。頭髪は火のように逆立つ焔髪(えんぱつ)に見えてくるだけではなく、生え際の中央には髑髏(どくろ)が、その下の額には三つ目の縦に見開いた眼がぼんやりと浮かんできます。また、光背には線彫りされた四本の手と弓や鉾(ほこ)、宝珠などの法具が見えてくるような気がしてきます。そして、割れてどこかへいってしまった青面金剛像の足元部分には、踏みつけられた邪鬼がいたのではないかとも考えられます。ハロー効果(認知バイアス)のかかった観察結果はさておき、二匹の猿が像を拝むような形でいるので、青面金剛像の庚申塔であることは間違いないと思います。上述したように、風化により傷みが激しく、刻まれている文字が判読できないので、残念ながら、いつ、誰が建てたのかはわかりませんでした。※おまけ中国の道教の教えによると、人間の体内には三尸(さんし)という虫がいて、旧暦で60日に一回巡ってくる庚申(かのえさる)の日に眠りについた宿主の体内から抜け出して天に昇り、天(てん)帝(てい)に宿主の日頃の行いを報告し、その報告の内容によっては寿命を短くされてしまうといわれていました。そこで、人々は庚申の夜は一ヶ所に集まり、長生きするためには三尸の虫が天に昇るのを防がなければと夜を徹して念仏を唱えて夜明けを待ちました。このグループを庚申講(こう)、この行事を庚申待(まち)といいます。庚申待は平安時代からありましたが、民間信仰として庶民の間に広まったのは江戸時代に入ってからで、庚申塔は、庚申待を3年18回続けた記念として日本各地で盛んに建てられました。その形は、文字だけを刻んだシンプルなものから、仏教の本尊である青面金剛像や、庚申の「申(さる)」つながり「見ざる、聞かざる、言わざる」に通じて三猿像を庚申塔に刻んだものまで、様々です。次回はいよいよ笹子自然遊歩道の最終回、「矢立のスギ」となります。
2024年08月27日
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こんにちは、資料館です。今回は、「明治天皇御野立所跡 碑」です。茶屋跡の石積みの擁壁の前にあります。その左にあるステンレス製の案内板には次のことが書かれています。顕彰の記過ぐる明治十三年六月十九日大帝本縣御巡幸に際し 畏れ多くも此の地天野治兵衛家に御野立あらせられ 聖蹟を永久に残せ給へりと雖も 時代の変遷と文化の発達による中央線の開通は 此の地を過ぐる者をして絶無ならしめ 為めに聖蹟も又口碑に傳ふるに過ぎざりき聖蹟の主 天野治兵衛氏之を慨嘆する事多年其の効空しからず 陸軍大将菱刈閣下の御揮毫を得て 記念碑を建立し以て之を永久に傳へんとす昭和十二年十一月七日※明治天皇御野立所跡記念碑除幕式における笹子村長天野五六様祝辞より抜粋「野立」とは、「天皇や貴人が野外で休息すること」です。ここに書かれているように、1880(明治13)年6月19日、午前7時に黒野田の宿泊所を出立した天皇一行は、矢立のスギの手前にあった茶屋で小休止し、峠を越えていきました。その様子を、『明治天皇御巡幸紀』で確認してみましょう。鳳輦笹子行在所を発す六月十九日。午前七時、笹子駅 行在所御発輦。是日。陰雲濛々朝雨霏。御道筋は笹子駅より駒飼駅に至る二里二町余の間、笹子嶺の峻坂難路なり。御板輿に召させ給いて御出門。(中略)数町にして追分を過ぐ、渓路縈回両山の樹木森々として水声を葉底に聞く。上ること十三町許にして屋宇三四あり、中茶屋と云う。笹子嶺の東面 七時五十分、此に駐駅。野立所天野治兵衛宅側 県官備うる所の富士氷を、銀盆に盛りて 供御す。是より笹子の峻坂となる、絶頂に至まで十二町余。羊腸盤紆、崖坡欹側す、柵を植えて路を護せり。途中に老杉一株あり。尖杪雲を抜く大さ数囲、名づけて箭立杉と云う。(中略)下ること五町余にして甘酒茶屋御野立所 石田権平宅側、笹子嶺の西面、東八代郡日影村地内、又、古茶屋と云う に駐駅。時に午前八時四十五分なり。ここでは、茶屋の名称が「中茶屋」となっています。『甲州道中分間延絵図』の「字中茶屋」との記載と合致します。軒数も3、4と、アバウトながらも絵図に描かれている家屋の数と合いました。天皇は、「中茶屋」で、銀盆に盛りつけられた「富士氷」を食べています。これは山梨県の官吏(役人)が用意したもので、どこから運んできたのかは書いていないのですが、『巡幸紀』の「御用氷」の項を見ると、九一色村(旧精進村、現富士河口湖町精進)産の天然氷を運んできたものと思われます。ここに記述がないのは、県官吏のサプライズだったのかもしれませんね。いずれにしても、ここで天皇は「野立」を行いました。そして、驚くべきことは移動の速度です。午前7時に黒野田の行在所(旧黒野田本陣)を出発して午前7時50分に中茶屋に到着しています。この間、直線距離で約3km。健康な人であれば無理なく歩ける速度です。(時速4km/h)しかし、それは平坦な道の場合であって、天皇一行は曲がりくねった坂道を登っての移動です。距離も伸びるし、負荷もかかります。天皇は板輿に乗っているので霧雨煙る山道の風情を楽しむ余裕がありますが、輿を担ぐ人、荷物を運ぶ人たちは濡れて滑りやすい足元に注意を払わねばならず、心も体も辛く苦しかったと思います。また、峠を越えて古茶屋に到着したのが、午前8時45分。中茶屋から古茶屋まで17町(約1.8km)を55分で移動しています。しかも55分の間には、中茶屋で「富士氷」を食べる時間も含めてです。また、矢立のスギにしても、ただ横を通り過ぎただけでなく、一通りの説明もあったはずです。「羊腸盤紆、崖坡欹側す」道の峠越えにかかった歩行時間はいったいどのくらいだったのでしょうか。涼しくなったら実際に歩いてみようと思います。なお、1880(明治13)年に行われた明治天皇の山梨・大月への天皇巡幸については、過去の記事「甲州街道あるき 大月宿03 明治天皇御召換所阯の巻」を参考にしてください。次回は、茶屋跡に遺された事物の最終回「庚申塔」です。
2024年08月12日
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こんにちは、資料館です。前回、「次回は、茶屋跡地に遺された事物について3つ紹介します」と予告しましたが、いつものことで、調べていくうちに書きたいことがいろいろと出てきましたので、一つずつ3回にわたり紹介していきます。今回は、「一等水準点標石」です。写真の手前が麓で、奥が峠です。茶屋跡の道路沿いの石垣が始まる手前、木の根元近くに四つの丸石に囲まれて、四角い石柱の頭部に丸い突起を持つ標石があります。水準点とは、土地の高さを測るための基準となる座標点で、一等水準点は、主に主要国道沿いに約2kmごとに設置されています。地形図では、水準点の標石を上から見た形を図式化して、□の中に・がついた記号で表わされます。1932(昭和7)年に発行された地形図(昭和4年三修)までさかのぼって確認することができました。国土地理院の「点の記」という記録には、99という番号が振られ、1925(大正14)年に選定、標石と4つの防衛石を埋設、標高899.8363mと記されています。ちなみに、写真の標石を囲む4つの石が「防衛石」で、標石の突起を「球分体」といいます。一等水準点がここにあること、また昔の地形図に描かれた道路記号からも、この道がかつては国道だったことがわかります。※おまけ国土地理院の基準点成果等閲覧サービスで、基本情報までは簡単に見ることができます。しかし、右側に羅列されているデータの中ほどにある「点の記情報(作成年月日)」を閲覧するのにはIDを取得してログインしなければなりません。地形図に興味のある方は登録しておくと後々役立つことも多いと思いますが、それほどでもないという方のために、本稿に重要だと思われる項目だけ紹介しておきます。点の記所在 山梨懸甲斐國北都留郡笹子村大字黒野田字笹子俗稱 三軒茶屋線路 從東京 至山梨懸甲斐國甲府市ノ通路所有主 山梨懸地目 道路石質 國産花崗岩防衛石数 四個撰定 大正十四年五月廿六日埋石 大正十四年五月廿七日観測 昭和六年十九日撰定者 陸地測量手 矢野助清埋石者 仝 仝人観測者 陸地測量師 永山圓平標高(m) 899.8363俗称に「三軒茶屋」とあります。前回紹介した茶屋のいくつかある呼称の一つです。線路に「東京より山梨県甲府市に至る通路」とあります。前々回の「峠道の移り変わり」で書いたように、峠道が国道8号とよばれていた時代に水準点が選定されたことがわかります。所有主に「山梨県」とあります。大正14年の選定時は国道でしたが、記録を作成した観測時の昭和6年には県道に降格されていたため、土地所有者が山梨県となっているのだと思います。
2024年08月11日
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こんにちは、資料館です。「広報おおつき」7月号に掲載された「大月探訪記 笹子峠自然遊歩道」の解説版その2「茶屋編」です。新田沢に架かる美久保橋を渡り、二つ目のカーブを曲がってすぐの左手に「笹子峠自然遊歩道」の看板があります。ここから入って道なりに進むと、小さな谷と沢を回りこんだ先にある尾根先の下に先ほどの新田沢が見えてきます。道は一間(いっけん)・一尋(ひとひろ)の幅があり、街道として車馬を通すために整備されたものと考えられます。沢を左下に見ながら林の中の道をしばらく進むと、急に視界が開けて、広く平坦な場所に出ます。道が中央を通り、右側には石積みの擁壁と石垣で造成・整地された敷地があり、左側には木製のベンチが数基(台?)置かれています。『甲州道中分間延絵図』でこのあたりを探すと、「字中茶屋」と書かれた地点の街道の両側に数軒の家屋が描かれ、「立場」(たてば)という文字もありました。「立場」とは、宿場と宿場の間の休息地のことをいい、『甲州道中宿村大概帳』にも次のような記載があります。此宿ゟ駒飼宿迄之間立場壱ヶ所黒野田宿地内字笹子茶屋但 黒野田宿江三拾四町駒飼宿江壱里七町三拾弐間また、『甲斐国志草稿』にも、茶屋について次のように記載が見られます。それ(矢立のスギ)より少しく下て茶店四戸あり蕎麦麺餅等を売味淡薄也小仏峠強飯笹子峠の蕎麦麺とて古より名あり茶屋の件数と提供していた飲食物の品目もわかります。ちなみに、地元の名物とされている「笹子餅」((株)みどりや製造)は、この茶屋で売られていた「峠の力餅」に由来するといいます。1902(明治34)年11月に官設鉄道中央線笹子隧道が完成し、翌年2月1日に大月駅-初鹿野駅(現在の甲斐大和駅)が開通、同年6月11日に甲府駅が開業すると、笹子峠を越える人はめっきり少なくなり、茶屋は廃業してしまいました。先の「笹子餅」のパッケージには「創業明治38年」とあることから、おそらく峠の茶屋が廃業したのもその前後と思われます。※明治38年は西暦1905年。※おまけ「笹子茶屋」「中茶屋」の他に「中の茶屋」(『五街道中細見紀(甲州道中)』(1858))という表記も見られますが、ネットでよく見かける「三軒茶屋」という表記の根拠となる江戸期の文献資料については見つけられませんでした。また、提供する飲食について、上記の『草稿』の「蕎麦麺餅等」以外にも、上総国夷隅郡大野村(現千葉県夷隅郡夷隅町)名主、喜左衛門の『甲州道中記』には「中段ニ茶屋有、蕎麦飯餅酒ノ類有」とあります。「蕎麦飯餅酒」の区切りを「蕎麦・飯・餅・酒」とするか、あるいは「蕎麦飯・餅・酒」とするか、悩みます。ちなみに、これが蕎麦飯のレシピです。次回は、茶屋跡地に遺された事物について3つ紹介します。
2024年07月26日
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こんにちは、資料館です。「広報おおつき」7月号に掲載された「大月探訪記 笹子峠自然遊歩道」の解説版その1「本文編」です。江戸時代、笹子峠(標高1,096m)は甲州道中(日本橋~下諏訪 45宿 53里)の中で、一番の難所と言われました。黒野田(くろのだ)宿(大月市笹子町)から駒飼(こまかい)宿(甲州市大和村)まで往来するのに、険しい峠道を約500m登り降りしなければならなかったからです。明治時代になってからは、明治天皇の巡幸や国道としての指定、県道への格下げなどをきっかけにして、道幅を広げたり、勾配を緩やかにするために蛇行(だこう)させたりしたために江戸時代の道筋や景観とはだいぶ異なってしまいましたが、蛇行させたことによっていくつかの箇所で部分的に旧道の面影を残すこととなりました。大月市では、中腹に位置する県道212号日影笹子線美久保(みくぼ)橋から矢立のスギに至るまでの部分を整備して「笹子峠自然遊歩道」を造りました。県道沿いに立つ看板をたよりに「遊歩道」に入ると、わずか800mほどの短い距離ですが、沿道にはかつての街道の賑いや変遷を知ることのできる遺物をいくつも見ることが出来ます。沢沿いの道をしばらく進むと視界が急に開け、右側に石積みが現れます。かつてここには茶屋があり、明治のころまで旅人に餅をはじめとする飲食物を提供していました。跡地には「明治天皇御野立所跡」の記念碑が立ち、近くには青面金剛と三猿が刻まれている庚申塔や、この峠道が国道であったこと示す一等水準点の標石などもあります。さらに進むと、県指定天然記念物「笹子峠の矢立のスギ」が樹々の間に見えてきます。厳しい自然の力と火災により満身創痍となりながらも、青々とした葉を豊かに茂らせたその姿は、浮世絵に描かれた時代と変わらない威容を誇り、見るものに力を与えてくれます。2019(令和元)年には、「遊歩道」を含めた笹子峠越の道が文化庁により「歴史の道百選」に追加選定されました。※広報に掲載した文を加筆訂正しています。次回は茶屋について紹介します。※おまけ峠道の移り変わり上記の通り、江戸時代、笹子峠は甲州道中の中で、一番の難所と言われました。1880(明治13)年に明治天皇の山梨巡幸に合わせて道幅を広げるなどの道路整備が行われ、1885(明治18)年には東京~甲府間が国道16号「東京より山梨県に達する路線」として認定を受けましたが、峠越えの苦労は相変わらずでした。※「富国強兵」を掲げ、経済の発展と軍事力の強化によって近代的な国家を目指していた明治政府は、産業の振興と国防上の観点から、道路整備よりも鉄道(中央本線)の建設を重視し、1902(明治35)年に延長4,656mの笹子隧道が完成しました。翌年、官設鉄道が甲府まで開通すると、笹子峠を人馬で越える人は少なくなり、峠道の茶屋や麓の宿場は急速に廃れてしまいました。一方、国道16号は、1920(大正9)年に国道8号「東京市より山梨県庁所在地に達する路線」へと名称変更された後、1929(昭和4)年に大月~甲府間は笹子峠を越えるルートが国道から外され、御坂峠を越えるルートに変更されました。このため、笹子峠越えの道は県道に降格してしまいましたが、道路整備は続けられ、御坂隧道(1931年完成)に少し遅れて、1938年に笹子峠の真下に笹子隧道が開通し、1952年にはふたたび国道20号の指定を受けました。しかし、隧道に至るまでの峠道は未舗装の上に急カーブが連続する狭い道だったためとても便利とはいい難いものでした。1958年、麓の標高700mあたりに新笹子隧道が建設されて有料道路として供用を開始すると、またもや笹子町黒野田~大和町日影間は路線変更がなされました。(1960年施行)その後、1971年に新笹子峠が無料開放されると、峠道は国から県に移管され、県道日影笹子線と名称を変え、現在に至っています。
2024年07月03日
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こんにちは、資料館です。『広報おおつき』4月号に「真木のお伊勢山」を掲載しました。「花見の名所」、「富士山のビュースポット」であるとともに、尾根上に5柱の神様が鎮座する「信仰の山」でもあると紹介しました。南側登山口からの、大国主命を祀る「根神大権現」、菅原道真を祀る「天満宮」の2社については説明済みですので、残る5社について補足説明をしていきたいと思います。今回は、「お伊勢山」という山名の由来となった「大神社」です。社殿の東側に設置されている説明板には神社の由来が次のように書かれていました。-----------------------------------大神社の由来当大神社は三重の伊勢に鎮座あらせられる伊勢神宮であり、古来より遍く一般の尊敬を集めている天照皇大神が御祭神であります。国民の総氏神として仰がれ、全国に大神社は一万八千社を数える中の当地であります。奉建はさだかでは無いが真木山福正寺が寛正六年(一四六五)に焼失した時、近くに在って同時に焼けたとの事であり、昔、神明社と言うも現在の大神社と同称である。その後に徳川幕府が農民の心の安住のために穏やかな世が送れるように皇大神宮の御札を各家に奉斎しようとした折り、それをまとめて松の木の地に祀ったとされる。その間約三百年が経過している。その頃に飢饉やら、疫病がはやったのを憂いて悩んだ氏子衆が村を見下ろす高台の(伊勢山)現在地に奉遷したのが(一七五九)宝暦九年となっている。その時の棟札は現存している。古くは真木村と言ったが、上下に別れており、上真木の氏神様となったものである。近い昔、地方相撲は名物として名声も高く、地元はもとより近隣の村から幾多の力士を輩出し、地方相撲の神社として名高かったことは、「北都留郡誌」及び、「ふるさと真木」の書物にも記されている。鎮座地 大月市真木四〇二九御祭神 天照皇大神御神鏡 加賀田河内大掾安正境内地 四五七坪九合七勺明治八年(一八七五) 再奉建設 拝殿大正四年(一九一五) 本殿、拝殿 西向きを南向きにする昭和八年(一九三三) 村社指定昭和三〇年(一九五五) 屋根修理氏子戸数 百九十三戸 崇敬者数 約九六〇人平成十年十一月(一九九八)本殿、拝殿を改築する。ここに由来を書きしるして後世に永く伝えるものである。大神社建設委員会----------------------------------この由来書によると、初めは神明社と称し、真木山福泉寺の近くにあったが、室町時代中期に火事により寺と共に焼失し、江戸時代中期に「高台の(伊勢山)現在地に奉遷した」とあります。「高台の(伊勢山)」をどう読み取るかですが、奉遷(移設)前から高台を「伊勢山」と呼称していたわけでなく、伊勢神宮の主祭神である天照皇大神を祀る神明社を移設したので、総本社の社名にちなんで「伊勢山」と呼称するようになったと解釈するのが妥当かと思います。ちなみに、『甲斐國志』(1814(文化11)年)という地理書には、次のように「御」をつけた「伊勢山」の記述が見られます。----------------------------------〇〔神明社〕 御伊勢山にあり社地縦六拾間横貮拾間除地なり村持〇〔愛宕権現〕 小社 同所『甲斐國志』 巻之七十二 神社部第十七下----------------------------------江戸時代の後期には、大神社ではなく神明社と呼称していたことがわかります。いつから「大神社」としたのかは不明で、氏子さんをはじめとする地区の人たちによる今後の調査研究を待ちたいと思います。ところで「大神社」の御利益ですが、祭神の天照皇大神は国家レベルの願いを聞き届けてくれる神様ですので、原則的に個人レベルの願い事は受け付けてはくれません。そうはいってもムラ社会での民間信仰に於いては、原則は無視され、個人レベルの願い事を何でも受け付けていただけるようです。由緒書きに「飢饉」や「疫病」の文字が見えますから、国土安泰ということで、「五穀豊穣」や「病気平癒」・「無病息災」などの御利益を願っていることが分かります。また、「相撲」にかけて、「必勝祈願」もあったかもしれません。上真木公民分館駐車場にある「五福参り案内図」には、御利益として「家内安全・商売繁盛・五穀豊穣」と書いてありました。なお、大神社へは上真木公民分館館駐車場の東側にある石段の参道を登り直接行くこともできます。
2024年03月30日
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こんにちは、資料館です。「広報おおつき」2月号に掲載された「大月探訪記 節分の柊鰯」の増補版です。立春前日の節分は、春の始まりを新しい年の始まりととらえ、大晦日と同様に様々な年越しの儀式や飾りつけが行われます。大月市内でも、昔から鬼を病気や災いをもたらす邪気と見立てて「鬼は外、福は内」と大きな声で唱えて豆をまいたり、ここ近年では恵方を向いて縁起の良いとされる七福神にちなんで七つの具を入れた巻きずしを無言で食べたりなどが各家庭で行われています。一方、最近つとに見かけなくなったのは、「柊鰯」(ひいらぎいわし)という家の門、玄関、台所になどに柊と一緒に鰯の頭を飾る風習です。柊の葉はノコギリ状にとがっているので、これが鬼の目を刺すと考えられ、鬼を寄せ付けないための魔よけとして伝えられてきました。このため、柊の葉には「鬼の目突き」という呼び名がついています。また、鬼は悪臭を嫌い、特に鰯を焼くその臭いと煙を鬼が嫌がると考えられています。つまり、これも豆まきと同じように、鬼=災厄を遠ざけるおまじないの一つといえます。これが一般的な鰯と柊の話ですが、梁川町彦田地区には「すずめ、せっとう、口焼き申す」という言葉が残っています。すずめは小鳥の雀。せっとうは窃盗、つまり泥棒のことです。これは、種を蒔く時期の到来を前にして、穀物をついばみ盗む雀に対し「おまえの頭を焼いて串刺しにするぞ」と威嚇するおまじないの言葉です。この言葉を唱えながら唾を吐きかけて鰯を焼くのですが、残念ながら唾を吐きかけることにどのような意味があるのかはわかりませんでした。今でも、柊鰯を門口に飾り付けるつける家があります。ブラブラして探してみてください。
2024年02月02日
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こんにちは、資料館です。東奥山の道祖神祭り梵天飾りは予定通り1月14日に建てられました。朝の8時、区長をはじめ、氏子総代、神楽保存会、消防団など40名以上の方々が春日神社の境内に集合し、「柳」や「太鼓」などの飾りつけや組み立て作業に取り掛かりました。11時過ぎに、心柱を支柱に差し入れて掛け声をかけながら二股竿で少しずつ押し上げていき、見事な梵天飾りが建ちあがりました。14時から、区民の方々が参集すると火入れが行なわれ、無病息災等を祈願してどんどん焼きが行われました。梵天飾りは一週間ほど飾られた後に解体され、五色の紙花がついた柳はセット単位(約50cm)で分割し各戸に配られます。各戸では配られた柳を厄除けとして玄関先等に飾り付けます。なお、機織りが盛んだったころ、梵天竿の建っている間は女性たちは機織り作業を休みにしたそうです。東奥山地区の梵天については、「奥山の道祖神祭り」を読み直してください。※おまけ大島の梵天飾りも東奥山の梵天飾りも柳の数は13本でした。平年は12本なのに今年は1本多い理由は「うるう年」だからということでした。しかしながら、厳密に言うとこれは誤りなのではないかと思います。昔ながらの年中行事は二十四節季や旧暦に基くものが多く、「うるう月」が3年に一度存在しました。柳の数は月の数であり、それゆえ「うるう月」のある年は13本にしたのではないかと思われます。根拠とするに足る研究論文等が見つかり次第、再度紹介させていただきます。
2024年01月17日
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こんにちは、資料館です。『広報おおつき』(令和6(2024)年1月号)の「大月探訪記」で紹介した、大島地区の梵天飾りについて追記します。上の写真は、今年の梵天飾りです。青空に華やかな姿が映えています。例年と違うのは傍らに簡易的な説明板が設置されていることです。そこには、次のようなことが書かれていました。■左(山側)のパネル■----------------------------------今年も梵天が完成しました。昨年11月から準備を始め、1月6日に建てられ1月14日(日)道祖神祭の際、14時~15時くらいに倒します道祖神祭終了後の梵天様は解体され、飾りや柳の部分は地区内各家々に配られます各家々では魔除けとして玄関先などに1年間飾られ、翌年のどんどん焼きで焼かれます高さ13m柳 上段 5m柳 下段 7m柳や、四方に張ってある下の段の綱は、いつもは12本ですが、今年はうるう年のため13本になってます----------------------------------■右(川側)のパネル■----------------------------------昨年8月実施されたかがり火祭りの際、道祖神祭の際飾られる梵天様の縮小版を3基大月平和通りに飾りました作り方を大島地区で教え、実行委員会、平和通り商店街、浅利長の会などの人達が協力して作りました高さ 5m柳 上段 2m 下段 3.5mこのパネルは、その際PR用に作成したものです・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大島梵天様高さ13m柳 上段 5m柳 下段 7m小正月の行事、道祖神祭に合わせ毎年1月5日から15日頃まで、七保町大島の公正屋大月東店西側、農道わきに建てられます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・道祖神祭は無病息災、家内安全、地区の安寧を祈願、子供の成長、学業成就を祈念し「どんどん焼き」を実施その道祖神祭に花を添えるのが梵天様梵天様昭和初期頃まで地区青年団により高さ30mもある大梵天が建てられていた昭和40年後まで地区有志により続けられていたが一旦途絶えていた平成24年(2012年)大島神楽保存会と地区有志により復活・毎年1月5日頃から15日頃まで飾られる・道祖神祭終了後の梵天様は解体され、飾りや柳の部分は地区各家々に配られる・各家々では、魔よけとして玄関先などに1年間飾られ、翌年のどんどん焼きで焼かれる・我々は、先輩たちから受け継いだ地域の伝統を更に次の世代に引き渡します----------------------------------なお、東奥山地区でも14日(日)に春日神社境内に梵天飾りを建てる予定です。※おまけ本ブログの過去の記事もお読みください。畑の中に立つ謎のツリー 2022年01月15日大島地区のボンテン倒し 2022年01月20日
2024年01月08日
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こんにちは、資料館です。NHKの人気番組「日本最強の城スペシャル」で岩殿城が紹介されます。番組内で岩殿城は山頂からの景観を武器に最強の座に挑みます。果たしてどのように評価されるのでしょうか。是非ご覧ください。●放送日時: 2024年1月3日(水) 19時20分~●番組名: 日本最強の城スペシャル 富士山にうっとり!温泉にほっこり!雪景色にまったり! 今こそ行きたい冬の名城8連発●放送局 NHK総合(1Ch)●番宣URL HP X(Twitter)この記事は、見逃し配信が終了する日(1月10日)の次の日に削除します。※おまけテレビ電波塔のある岩殿山頂上(標高634m)は整備され、富士山方向へ広く展望が開けています。畑倉登山口から約40分、展望のきかない山道を登り詰めると、絶景の富士山が目の前に現われます。気温が下がり、山からの展望を楽しむのには絶好の季節となりました。良く晴れた日の早朝に登ると水蒸気も少なく、空の青と雪の白のコントラストが見事な富士山を楽しめます。放送を見る前に行くか、それとも見た後に行くか、あなたはどちら?
2023年12月21日
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こんにちは、資料館です。前回に続き、今回は中初狩上野原地区にある二十六夜塔を紹介します。国道20号唐沢橋に西詰の少し先、南側道上に立っています。高さ75cmあまりで25cm角の柱状をしています。刻まれている文字は次の通り。---------------------廿六夜 得大勢菩薩 享和三癸亥秋九月 願主 小林氏奉岩---------------------享和三年は西暦1803年です。扇山の月待塔より11年前に造立されています。得大勢菩薩は勢至菩薩の別名です。前回説明したように一般的には勢至菩薩は二十三夜待ちの信仰対象ですが、どうやら初狩では二十六夜待ちで(も)祀られていたようです。信仰が地方に伝播していくにつれて少しずつズレが生じてきている証拠の一つとして、とても興味深いものです。ここでも願主(がんしゅ)が小林氏となっています。一人なのか、それとも小林姓を名のる血縁集団なのか、悩むところです。また、二十六夜塔の他にも文字塔や地蔵像、石灯篭などもまとめられて置かれていることから、道を建設する際に移設されたのは間違いなく、月待ちが行われた場所の特定はできません。※おまけ二十六夜塔は非常に珍しく、資料館では大月市内に前回の扇山と今回の中初狩の2基しか確認していません。二十六夜塔に限らず、山中や藪の中に石塔を見つけたら資料館でご連絡ください。
2023年12月16日
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こんにちは、資料館です。今回は扇山山中にある「二十六夜塔」を紹介します。山頂から南東方向に下山し、「君恋温泉」の大きな矢印看板と「犬目・大野」「山谷・中野」「扇山」の案内板がある三差路から「山谷・中野」方面へ少し下った西側(右)の路傍にあります。表は東側、つまり道側を向いて立っています。刻まれている文字は次の通りです。「文化十一年(甲戌)」は西暦1814年です。「天」は、石造物の造立年を示す数字の後ろに散見されることから、年と同じ意味を持つと思われます。「サにヽ」は、二十を表します。方に色は、施の異体字です。仲野は中野(現富浜町中野)です。以上のことから、「二十六夜」と大きく刻まれたこの石塔は、文化11(1814)年3月吉日に中野地区の九兵ヱと甚蔵によって建立されたことがわかります。○○夜と刻まれた石塔を「月待塔」といいます。月を信仰の対象として、特定の月齢の夜に集まり、月の出を待ち上天した月を拝む行事を月待ち行事といいます。多くの場合、「講」という組織を結成し、その構成員である「講中」が飲食を共にしたり、念仏や経文を唱えたりしました。本来は信仰にもとづく宗教的行事でしたが、時代が下るにつれてその意義が薄れ、親交をふかめる親睦行事へと変容していきました。月待塔は、その月待行事を長い間回数を重ねてきたことへの記念や、それぞれの月待で祀られる神仏への尊敬や感謝を表すための供養として建立されました。大月市内にある「月待塔」の中でいちばん多く見られるのは「二十三夜塔」です。二十三夜待ちで祀られるのは勢至菩薩で、智恵の光によって人々をもろもろの苦難から救い出すとされています。神道では月讀命(つくよみのみこと)で、こちらは月齢を数えて暦を司ることから、先を読む農耕の神として祀られていました。また、旧暦11月二十三夜は、「霜月三夜」「三夜待ち」と呼ばれ、三が産に通じることから、子宝や子育ての平安を願う女性達によって講が組織されることも多かったといいます。ただし、これは一般的な二十三夜待ちの説明で、開催月やその内容については地域ごと年代ごとに違い、大月市内でもそれぞれの地域で様々な形態で行われていたと考えられます。二十六夜待ちについても、祀られている神仏やその形態が各地で様々な違いを見せます。愛染明王を祀る地域が多く、特に機織が盛んな地域では、「愛染」が「藍染め」につうじることから、染物業者に信仰があったといいます。また、江戸では、陰暦の正月・7月の26日の夜、月光に中に阿弥陀三尊(阿弥陀仏、観世音菩薩、勢至菩薩)の三尊が現われ、その姿を拝むと平素の願いがかなうと信じられ、歌川広重が「東都名所 高輪廿六夜待遊興之図」にその様子を描いています。では、扇山山中にある「二十六夜塔」を建立した二人が信仰対象としたのはどちらなのでしょうか。大月市に隣接する上野原市と都留市には二十六夜山という山があり、その山中にはそれぞれ「二十六夜塔」があります。手掛かりとして、その2つを調べてみました。上野原市秋山の二十六夜山登山口にある看板には次のように書かれています。--------------------------------廿六夜塔平安時代から盛んにおこなわれた廿六夜待ちの信仰の遺習で、旧正月と七月の廿六夜の夜半、月の出を待って拝むと幸運を得ると謂われた。秋山地区でも昔からこの信仰が盛んで、明治廿二年に建立された見事な廿六夜碑が山頂にある。この碑は住民を病気災害から守り、養蚕の守護神として崇められている。---------------------------------この文では月を仮の姿として現れる信仰対象が阿弥陀三尊なのか、愛染明王なのかがわかりません。しかし、無病息災・平穏無事を願ったり、蚕が良く育ち、良い繭ができることを祈ったりしていたことがわかります。また、『秋山村誌』には次のような記述が見られます。--------------------------------夫廿六夜藍膳明王ハ、万民ノ諸悪災害ヲ防御シ、且養蚕ノ守護神ニシテ、信シテ験アルハ辨ヲ俟スシテ人ノ知ル処ナリ、而ルニ、我国養蚕ハ、日ニ月ニ盛大シ、是全ク此業ヲ等閑スルナカレト欲ス、依テ茲ニ諸君ノ賛成ヲ得テ、高金山頂ニ一ツノ供塔(ママ)ヲ安置シ、廿六夜ノ畑海ヲ拝礼、祈願所ト定ム、希クハ四方ノ有志何分ノ寄付アランヿ乞フ但シ毎年祭日、旧三月九月廿六ト定ム明治廿二年旧九月日発起者落合文七原田長三郎『秋山村誌』(1992) p.1358第11編 宗教 第三章 民間信仰 第二節 特殊な民間信仰 二十六夜山--------------------------------高金山(高ヶ嶺山)の山頂に二十六夜塔を建立しようという趣意書です。藍膳明王(愛染明王)を信仰対象としていることがわかります。そして、諸悪災害の防御と養蚕の繁栄を祈願しています。また、祭礼も旧暦の3月と10月となっています。ちなみに、高金山(高ヶ嶺山)は二十六夜山の別称です。ただ不可解なのは、趣意書が「明治廿二年旧九月日」に書かれているのに、山中に立つ「二十六夜塔」には「明治廿二年七月吉日」と刻まれていることです。これをどう説明したら良いものか、誰か教えてください。都留市の二十六夜山の山頂にも二十六夜塔があり、その傍らに立つ案内板には次の文が書かれています。--------------------------------二十六夜山二十六夜山(標高1297m)は、都留市の南東部に位置し、今倉山から赤岩とつらなる尾根の西側に位置する最後の山です。(中略)山名は、江戸時代に盛んとなった旧暦の正月と七月の二十六日の夜に、人々が寄り合い飲食を供にしながら月の出を待つ二十六夜待ちの行事に由来します。この日の夜半の月光に現われる阿弥陀仏、観世音菩薩、勢至菩薩の三尊の姿を拝むと平素の願いがかなうと信じられ、かつては、この二十六夜山の山頂で、麓の村人たちによって、遠く道志山塊から上がる月を拝む月待の行事が行われました。--------------------------------阿弥陀三尊を拝む月待行事であったとしています。これ以上の情報はありません。都留市の観光情報にも同様の記事がありました。さて、扇山山中の二十六夜塔に話を戻しましょう。石塔には神仏の尊名や像、梵字などが刻まれていないため、阿弥陀三尊、愛染明王のどちらを祀っていたのか、それとも両者を祀っていたのかはわかりません。しかし、江戸時代には中野地区を含む郡内地方は郡内織(郡内縞)の産地として養蚕がさかんだったことから、秋山の二十六夜待ちと同様に、藍染めをする染物業者が信仰した愛染明王が、流通経路をさかのぼり養蚕農家に、あるいは養蚕から機織までのすべての工程を行っていた当時の一般農家に受け入れられ、養蚕の守護神として祀られていたではないかと思います。ただ、ここでも不可解なのは、施主として九兵ヱと甚蔵の二人の名前が刻まれていることです。「講」を結成して月待ちを行っていたのなら、個人名ではなく「○○講中」という集団名にするか、無記名であるのが一般的です。だからといって二人だけで「講」を構成していたとは考えらません。「講」の代表者、あるいは石塔の造立を呼びかけた発起人、または資金を出した者、と解釈するのが妥当かと思うのですが、どうでしょうか。なお、石塔のある場所は南向きの尾根上の緩斜面ですが木が生い茂っているため東方向への見通しがききません。ここで、月待ちを行ったとは思えません。この先の扇山山頂は広く、しかも北東方向から南西方向に大きく視界が広がっています。新宿高層ビルやスカイツリー、その先の房総半島まで見通せます。月待ちをするのには絶好の場所です。自分だったらここで月待ちをしたいと思います。※おまけいつものことですが、歯切れの悪い終わり方で申し訳ありません。信仰は、伝播の過程でその時代やその地域の風土によって少しずつ変容していくので、これだと断定することが難しい上に、拠り所とする資料が少ない(無い)のでしかたがありません。一般に知られていることから類推するしか方法がなないので、「思う」・「考えられる」という表現が多くなってしまいます。あくまでも、一つの参考として読んでいただければと思います。民俗学に類することは、遺物・写真はもちろんですが、それを説明できる文献、特にエゴドキュメント呼ばれる日記、手紙、自伝、私的な覚え書きなど、自分のために書いた個人的な文書が貴重な資料となります。古い家や蔵などを整理・解体された時に、大月市郷土資料館に寄贈してもよい地域の歴史や文化に関わるエゴドキュメントがありましたらぜひともご連絡ください。
2023年12月15日
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こんにちは、資料館です。下和田春日神社の3回目。今回は、本殿胴羽目彫刻についてです。鳥居をくぐり石段を上ったところにある建物が拝殿。読んで字のごとく礼拝などの神事を行う建物です。拝殿を右から回りこむと3つの小さな社が現われます。これが案内板にある「末社」の稲荷神社、疱瘡神社、八幡神社です。本殿は、ちょうど拝殿の真後ろにあります。ここに「春日神」と呼ばれる4神と、「相殿」として建御名方命が鎮座しています。本殿の様々の部位には見事な彫刻が施されていて、装飾彫刻ファンのみならず、一般の人も見とれてしまうほどです。特に目をひくのは、中国の故事を題材にした浮彫の彫刻がなされている胴羽目部分です。東面の胴羽目の超卯国です。「仙人の烏鷺(うろ)・爛柯(らんか)」木樵(きこり)が山中で迷っていると、2人の仙人が囲碁を打っている所に出くわした。木樵がしばらく対局を観戦していると、一人の仙人に「帰らないのか?」と声をかけられた。気がつくと樵の持っていた斧の柄が腐っていた。囲碁に夢中になりすぎると時の経つのも忘れてしまうことを、仙人にとっては短い時間でも人間にとっては悠久の時が経過していることで表しているという中国の故事を題材にしています。限りある大切な時間を有効に過ごせという教えです。なお、烏鷺の烏はカラス色(黒)、鷺はサギ色(白)であることから囲碁の別名として使われます。彫刻をよく見ると、真ん中の仙人が右手人差し指と中指の間に碁石をはさんでいることや、立っている木樵が左手についているのが斧であることがわかりますね。また、仙人を童(わらべ)とした「爛柯」(らんか)(=斧の柄が腐る)という同様の故事もあります。ちなみに、斧の柄のことを柯、朽ちることを爛といいます。こちらは北面の胴羽目です。「桃園の誓い(とうえんのちかい)」『三国志演義』の序盤に登場する劉備・関羽・張飛の3人が、桃園で義兄弟(長兄・劉備、次兄・関羽、弟・張飛)となる誓いを結び、「我ら3人、生まれた日も時も違えども、死する日は同じ事をここに願うなり」と生死を共にする宣言を行ったという創作上の逸話です。信頼し、力を合わせて事にあたることの大切さを教えています。桃の花が咲く下、中央にいる耳たぶの大きいのが劉備、右に座る長いひげが関羽、そして左に座るドングリ眼に虎髭が張飛です。これは西面の胴羽目です。「許由(きょゆう)・巣父(そうほ)」許由・巣父はともに、中国古代の伝説上の隠者。帝堯(ぎょう)からその高徳を認められて天子の位を譲られるも固辞し、汚い話を聞いたとして潁川(えいせん)の水で耳を洗った許由と、そこへ牛に水を与えるために通りかかり、許由の耳を洗う理由を聞くと、汚れた水を牛に飲ませるわけにはいかないとその場を去った巣父を題材にしています。世俗を離れて生活している高潔な人物は、栄達にとらわれず、高い位を嫌うとのたとえらしいのですが、俗世間にまみれて生活している私には、何を伝えたいのかわかりません…..。左上で耳を左手で触っているのが許由、右下の牛をひいて退場使用しようとしているのが巣父です。先述したように胴羽目部分以外の素晴らしい彫刻も一見の価値ありです。※おまけ大月市内の装飾彫刻が素晴らしい神社(いずれも大月市指定文化財)・下町諏訪神社(高尾山諏訪大明神)・朝日小沢諏訪神社(大倉山諏訪神社)後日紹介したいと思います。
2023年12月06日
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こんにちは、資料館です。下和田春日神社の2回目、「百蔵大明神」についてです。鳥居横の案内板には、神社の由緒について次のように書かれています。----------------------------------当初大同三年(八〇八)七保町下和田百蔵山頂に「百蔵山(モモクラサン)春日大明神」と称し鎮座。徳治元年(一三〇六)に山火事にて社殿炎上、その後文和二年(一三五二)山火事を恐れて神慮を伺い、東梨木戸の現在地に御遷座し、本殿は享保五年(一七二〇)に改築されたものと社記に云う。----------------------------------なるほど、平安時代の初めに百蔵山頂に創建され、「百蔵山春日大明神」と呼ばれていたのですね。そして、鎌倉時代の終わりごろにおきた山火事により社殿が焼失したので、室町時代の初めに今の場所に移ってきたというわけか…。う~ん、そうえば百蔵山頂に「百蔵大明神」と刻字された石碑が一基あったな。というわけで、百蔵山頂で撮ってきたのが上の写真です。----------------------------------------------明治維新百年祭記念百藏大朙神遺跡昭和四十三年三月十四日 氏子一同山梨縣神社庁長 古屋新 書----------------------------------------------銘文中央に「百蔵大明神」とあります。案内板の「百蔵山春日大明神」とは違う神様なのでしょうか。まず、「百蔵山春日大明神」について考えてみます。先頭につく「百蔵山」は「山号」と呼ばれる称号で、他の同名の神社と区別するための住所のような役割を果たします。「山号」は一般的には寺院に多く見受けられますが、「山号」を持つ神社もわずかとはいえ存在します。「春日」は神名で、祀られている神様は当然ながら春日神となります。最後の「大明神」は、「大」が次の名詞にかかる形容詞で、「明神」が神社(神)の格式(ランク)を表したり、神様を尊び敬う気持ちを表すときにつける「神号」となります。つまり、百蔵山にある春日神を祀ったとても格式の高い神社、もしくは、百蔵山にあるとても尊い神様である春日神を祀った神社、ということですね。次に、「百蔵大明神」です。その前に、毎度おなじみの『甲斐国志』には下和田春日神社がどのように書かれているのか確認しておきましょう。---------------------------------『甲斐国志』 巻之七十二 神社部第十七ノ下百蔵山春日明神(下和田井尻ニアリ)本村氏神ナリ地蔵立像アラハゝキ貮躰(衣冠形坐像)背後ニ文明十五(癸卯)ノ銘アリ十六善神壹幅天文八(己亥)年ノ裏書アリ神剣壹振銘曰甲斐国都留郡宮谷郷百蔵大明神為御剣天文十七年十一月吉日於駒橋元近作之△花井寺ハ社ノ西隣ニアリ安貞二年ヨリ宝徳年中マデ書写スル所ノ大般若経六百巻ヲ蔵ム其巻末ニ筆者ノ姓名及神主ノ名ヲ記シタレハ此経ハ明神ニ奉納シテ花井寺ハ社ノ別当職ナルベシ此ノ寺寛和二(丙戌)年創造トアレバ別当職タルコト久シキコトニシテ此社ノ旧キコト可知ル 応永中絶学祖能禅師住持タリシヨリ改メテ禅刹トナリ塩山ノ末院トナル今ハ社僧ナク神主ノミ神領畑壹段四畝七歩祭礼七月廿六日十一月十五日神主ハ奈良大和〔以下略〕--------------------------------------「明神」に、形容詞の「大」がついていません。江戸時代には「大」をつけてよんではいなかったようですね。また、祭礼の日も違っています。気になるのは、花井寺の説明部分にある「花井寺ハ社ノ別当職ナルベシ」の文言。これを理解するのには花井寺の記述を読まなくてはいけません。----------------------------------------『甲斐国志』 巻之九十 仏寺部第十七下水上山花井寺(下和田村)臨済宗山梨郡塩山向岳寺末〔中略〕開山絶学無能禅師是レ禅法ノ開祖ニシテ是ヨリ先寛和二(丙戌)年神主奈良某大檀那トナリ創造ス盖シ真言ノ精舎ニシテ百蔵明神ノ別当職ナルベシ〔中略〕応永中無能禅師来住ス初メテ禅法ヲ唱フ此ノ時改宗シテ臨済宗ノ禅刹トナリ向岳寺ニ属ス〔後略〕----------------------------------------花井寺は、寛和二(986)年に百蔵山春日大明神の神主奈良某(なにがし)が大檀那(パトロン?)となり真言宗の寺院として創建し、応永年間(1394~128)のどこかで臨済宗に転宗したとあります。そして、それは「百蔵明神ノ別当職ナルベシ」ともあります。おっと、ここでは「百蔵明神」と書いてありますね。はからずも、「百蔵山春日大明神」、「百蔵山春日明神」、「百蔵大明神」、「百蔵明神」と呼び方は違うけれども、同じ神様である春日神を指していることがわかりました。では、この「別当職」とは何でしょうか。「別当職」とは、神社の役職の一つで、神社に属しつつ仏教儀礼を行う僧侶を「別当」といいます。ちなみに、「別当」のいる寺院を「別当寺」といいます。「神社で仏教儀礼を行うの?」と思われる人も多いと思いますが、江戸時時代以前には、「神と仏は一体である」という考えのもと、同一敷地内(境内)に神社と寺院が併設されたり、神前での読経や仏像を神体として祀るなどがあたりまえに行われていました。これを「神仏習合」といいます。先に引用した『甲斐国志』の「百蔵山春日明神」の説明の中に、祭神はあたりまえのこととして省略されているのに、「地蔵立像」を所蔵していることが書かれているのもこのためによります。参考までに、総本社である春日大社もかつては興福寺と「神仏習合」の関係にありました。「神仏習合」が出てくると、本地垂迹説や修験道との関わりも気になります。総本社である春日大社では春日4神にそれぞれ本地仏を充てていましたし、春日大社の春日山(花山・三笠山)も山岳信仰の修行場・霊場でした。分社である下和田春日神社も、「明神」という神号や、鳥居の形式が「両部」であることから、本地垂迹説」に基づいて祭神を「仏が仮の姿で現われたもの」として信仰されていたと思われます。ただ、いつからその信仰が始まったかについては、残念ながらわかりません。また、修験道についても、下和田春日神社も創建から焼失するまでの500年間も山頂に社が山頂に置かれていたことから、山岳信仰があったのだろうと考えられますが、こちらも推測の域をでません。これ以上進むと、どんどん沼にはまっていきそうなので、「神仏習合」「本地垂迹説」「修験道」についての詳しいことはグーグル先生に聞いてみてください。※次回予告「殿本殿透彫胴羽目彫刻」についてです。これが、実は下和田春日神社について紹介したかった本題です。※おまけ春日大社と興福寺の「神仏習合」の関係についてはこことここです。春日大社と山岳信仰についてはここです。
2023年12月05日
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こんにちは、資料館です。百蔵山の麓にある下和田の春日神社へ行ってきました。猿橋駅から徒歩でおよそ30分。桂川にかかる宮下橋、葛野川にかかる百蔵橋を渡るまでは平坦、もしくは若干の下り勾配ですが、そこから先はかなりの坂道を上ります。高低差は70mほどですが、歩き慣れていないと結構きつく感じます。車で行かれる方は春日神社の西に駐車スペースがあるのでそこを利用するといいでしょう。さて、春日神社の朱塗りの立派な鳥居。控柱を持つ、明神鳥居系の両部鳥居という形式です。「春日宮」と書かれた扁額が掲げられています。右脇には由緒書きの案内板。内容は次の通り。-------------------------------------春日神社鎮座地 大月市七保町下和田字東梨木戸一二二五番地祭■神 天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、同姫大神(ドウヒメオオカミ)、武甕槌命(タケミカズチノミコト)、経津主命(フツヌシノミコト)、相殿建御名方命(アイデンタテミナカタノミコト)末■社 疱瘡(ホウソウ)神社、八幡神社、稲荷神社由緒・沿革当初大同三年(八〇八)七保町下和田百蔵山頂に「百蔵山(モモクラサン)春日大明神」と称し鎮座。徳治元年(一三〇六)に山火事にて社殿炎上、その後文和二年(一三五二)山火事を恐れて神慮を伺い、東梨木戸の現在地に御遷座し、本殿は享保五年(一七二〇)に改築されたものと社記に云う。現在の本殿は文化六年(一八〇九)に新築、外壁彫刻は天保二年(一八三一)に施されたもので、文化財級の見事さで知られている。拝殿は昭和一四年(一九三九)に新築されたもの。元旦祭 一月一日例祭日 七月吉日新嘗祭 十一月二十三日----------------------------------------神様の名前に仮名(カナ)がふってあります。また和暦には西暦も併記してあります。読み手に優しい案内板です。この案内板に書かれた内容に沿って、春日神社を数度に分けて紹介していきます。ただし順不同です。まず初回は、祭神からです。祭神として5柱の神が祀られています。そのうち、天児屋根命、同姫大神、武甕槌命、経津主命の4柱は、総称して春日神(かすがのかみ)と呼ばれています。そう、あの有名な奈良県奈良市の春日大社と同じ神様です。というか、この下和田春日神社は、春日大社を総本社とし、分霊した春日神を祀る全国各地にある分社のうちの一つです。ただ、春日大社と違うのは4柱の並び順。春日大社の方は、祀られた社殿の並び順で、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、同姫大神となっています。この違いの理由については残念ながらどこにも書いてありません。手掛かりは、それぞれの神様の神話と性格、ご利益にあるのかもしれません。武甕槌命、経津主命の2柱は「国譲り」の際の軍神で、主たるご利益は勝負事。天児屋根命は、天の岩戸の前で祝詞を奏上した言霊の神で、主たるご利益は国土安泰。同姫大神は、特定の「同姫大神」という名の固有の神ではありません。「同」は直前の語句を受けて、「この」または「その」という指示代名詞。そして、「姫」は妻や娘を指します。つまり、天児屋根命の妻である神様で、ご利益は夫と同じ国土安泰、そして夫婦であることから子孫繁栄か?それぞれの神様についてもっと深堀りしたい人はグーグル先生に聞いてみてください。総本社は中臣氏及び藤原氏の祖神(おやがみ)である天児屋根命を守るために軍神である2神を前に置き、妻を後ろ(奥)に置いたのかもしれませんが、ご利益から考えると、分社の場合はその地域の人にとって切実なものが上位にきます。すると、勝負事よりも日々の生活の安泰が一番の関心事になります。国土安泰。つまり、天変地異が無く、五穀豊穣、子孫繁栄、夫婦和合が何よりも大事。ということから、天児屋根命、同姫大神が上位にきて、武甕槌命、経津主命と続くのだと思いますが、いかでしょうか。さて、5番目の神様の相殿建御名方命。「相殿」とは同じ社殿に2柱以上の神を合わせて祀ること。つまり、神名は建御名方命です。国津神の建御名方命は「国譲り」の際に、天津神の武甕槌命と闘い、敗れた神です。ちなみに、建御名方命は武田信玄が崇敬した諏訪大社の主祭神です。ライバル同士が同じ屋根の下に祀られているのはどうしてなのでしょう。ノーサイドの精神からなのでしょうか?また、一つハテナが増えてしまいました。※次回予告「百蔵山(モモクラサン)春日大明神」についてです。※おまけ山梨県神社庁の下和田春日神社の紹介文はここです。
2023年11月30日
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こんにちは、資料館です。『広報 おおつき』9月号に掲載された「大月探訪記」<御嶽沢の地蔵尊>の補足説明をします。まずは、原稿文です。-----------------------------1935(昭和10)年9月26日、5日前から降り続いた豪雨が止んだ日の早朝、七保村の御嶽沢で土石流が発生し、大音響とともに下流の集落を襲いました。葛野川の氾濫の様子を御嶽沢橋から見ていた人や、橋近くの家で雨のために延期されていた葬儀の準備をしていた人たちなどが巻き込まれ、翌27日の新聞には「生埋め十九名 葬式準備中四家族が遭難」との見出しのついた記事が掲載されました。さらに、29日の新聞は、「葛野の遭難者を発見 神奈川県下で八名」として、犠牲者が桂川・相模川を流れ下り大磯海岸・平塚海岸で発見されたことを伝えています。死者・行方不明者数の内訳はわかりませんが、重軽傷者を多数出し、家屋4戸と共同水車小屋3棟が流失する大惨事となりました。写真の地蔵尊は、この時の犠牲者を慰霊し、再び土石流の災禍に見舞われないことを願い、七保村民の手により建てられました。-----------------------------次に、地蔵尊の台石正面に刻まれている建立の理由と祈りです。-----------------------------昭和十年九月二十六日御嶽沢崩壊大惨事ニ遭遇ス七保村七百有余人ノ得志特志ニヨリコノ尊像ヲ建設シ以テ諸霊ノ冥福ヲ祈ル願ハクハ災禍ノ再ヒ無カラシメンコトヲ-----------------------------また、向かって左の石燈籠の前面には「破諸闇」、右の石燈籠には前面に「清浄光」その裏には建立年の「昭和十年十二月吉辰」が刻まれています。それでは、事実の確認をしていきましょう。「1935年9月21日 台風」で検索すると、国交省関東地方整備局のHPに利根川上流の群馬県烏川流域で発生した水害「烏川災害」の記事がありました。台風の進路図や群馬県の被害状況等が掲載されていますが、本文中の「24日朝から26日夕方まで豪雨が継続しました」とあるのは、別添資料の日雨量(グラフ)と照合すると、26日には雨量の記載がないことから、正確な表現ではないと思われます。また、「昭和10年 山梨 水害」で検索すると、山梨県立博物館の水害学習のワークシートの年表と、甲府市防災情報WEBの災害史年表の記事がありました。県立博物館のワークシートは「明治40年の大水害」がメインで、1935年の水害については年表中に「9/21~26 台風と前線による記録的豪雨(総雨量420㎜)で全県に著しい被害。死者39人。各所で堤防・道路の流出・決壊・破損。」とあるだけで、地区別の被災状況については記述がありません。甲府市の年表には、「台風 21日~26日までの総降水量 甲府 419.5mm、河口湖 522.9mm、日最大降水量 甲府 185.5mm、河口湖 163.3mm。死者39人、負傷者21人、家屋全・半壊116戸、流失107戸、橋梁163箇所、堤防・道路の流失・決壊・破損1,112箇所、田畑流失・浸水5,483ha市内各河川が氾濫、荒川堤防が決壊し、西部から南部が被害」とあります。こちらは、観測地点の降水量が示されていますが、地区別の被害の内訳はありません。いずれにしても、1935(昭和10)年9月21日から26日にかけて雨が降り続き、群馬県や山梨県に甚大な被害をもたらしたことが公的な記録で確認することができました。では、大月の被害状況はどうだったのでしょうか?残念ながら『大月市史』には記述がみられませんでした。本ブログでたびたび引用する『大月市の石造物』(大月市文化財審議会編集 1993)の巻末付録「二、石造物の由緒・伝説等」に、地蔵尊建立の由来として、水害の状況を審議会委員の奈良文一氏が次のように書いています。-----------------------------午前六時三十分頃、この橋の御嶽沢の上流、六角沢(釜土場ともいう粘土層)が崩れて雨水、土砂を蓄めていたと思われる堰が切れ、更に大田原・正原の二つの耕地の崩壊をさそって大音響と濛々たる土煙をあげ怒涛の速さで押し下ってきた。避難の間もなく流失家屋四戸、水車三棟、行方不明者十九名、ほかに生埋めになったが救出されたもの、または、かろうじて逃げおおせたが重軽傷を負ったものなど多数で、またたく間に修羅場と化してしまったという。行方不明者の多くは流されて遠く大磯海岸で発見されたものもある。(中略)すでに納棺されていた故人も喪の家もろとも流出し、泥だらけの白装束で上野原地内の桂川で発見されたそうである。-----------------------------また、郷土史家の鈴木美良氏も、自著の『葛野川物語』(1999)で、「水難者供養の地蔵尊」として被害状況を次のように書いています。-----------------------------二十八日には大磯署より連絡があり、大磯・平塚海岸で六遺体を収容できた。この大水害によって死亡した人は十四人、流出家屋は四戸、水車小屋三棟の大被害となり、(後略)-----------------------------そして最後に、『ふるさと葛野のあゆみ』(鈴木伝一編著 1980)です。「山津波の惨害」という章題で、「概況・惨害の原因・被害の状況・救恤・死亡者の氏名・家屋流出者の氏名」の項目を立てて詳しく書き綴っています。文末には「以上は筆者の記憶と昭和十年九月二十六日、二十七日、二十八日、二十九日付の山梨日日新聞の記事を参考に記述した」とあり、自身が体験者であること、記憶を新聞記事という客観的な根拠に基づいて整理していることを明示しています。また、不鮮明ながらも実際に引用した新聞記事の切り抜きも図版として掲載され、かろうじて見出しを読み取ることもできます。さらに、発行者が葛野西東長寿会・葛野ふるさと学級であることから、鈴木伝一氏が当時の体験者から聞き取りをしていることも容易に想像されます。一読すると、前掲ニ書は本書をもとにして、その要約と推量で書かれていることがわかります。抜粋になりますが、被害の状況についての記述は次の通りです。-----------------------------老若男女が十九名が濁流に呑まれて「あれよ」という間もなくその姿を消してしまった。二十六日夕刻までに、清水みつ子さん他七名を発掘し、葛野小学校に安置。この日(27日)は鈴木保利さんが救助されたほかは、なおこの時点では十名のゆくえ不明者があった。この日(同日)神奈川県大磯町の海岸に漂着した六個の溺死体は、(中略)身元不明者の漂着者として付近の寺に仮埋葬した。次いで、二十八日早朝犠牲者捜査に出動した消防組員等が仮埋葬した犠牲者を調べた結果、岡部徳密さん、矢竹よね子さん外二名と判明したので家族を招致して遺体を引き取った。こうして埋没された犠牲者の死体は、二十七日までに発掘されたもの、桂川に漂着して発見されたもの、または大磯海岸まで漂着したもの等だいたい収容されたので各団体は、二十七日をもって一応発掘作業を打ち切った。-----------------------------この後、-----------------------------さらに二十八日に至って平塚、大磯方面に遭難者が漂着したとの知らせに接したので、関係者は同地に急行した。-----------------------------と続きますが、葛野の犠牲者だったのかについては書かれていません。「死亡者の氏名」の項には、14名の氏名が書かれています。先の引用文中の犠牲者に出てくる、清水みつ子、鈴木保利、岡部徳密の3人の氏名はありますが、矢竹よね子の名はありません。但書に「菩提寺 福泉寺に葬られた人々のみを記す」あることから、矢竹よね子は福泉寺の檀家ではなかったのかもしれません。となると、鈴木美良氏が「死亡した人は十四人」と断定するのは誤りで、死亡者数は十五人以上となります。正確な死亡者数の記載が無いため、広報では「死者・行方不明者数の内訳はわかりません」という表現にしました。また、「家屋流出者の氏名」には4名が記載され、続いて「外に共同水車 三棟」とあります。ただ、わからないのがその下に「以上六戸」とあり、計算が合わないことです。広報ではこの部分は「家屋4戸と共同水車小屋3棟が流失」という表現にしました。広報原稿を執筆するのにあたって、当時の「山梨日日新聞」の記事が読むことができれば、何か新しい発見があったかもしれないのですが、所蔵している山梨県立図書館は遠く、手を抜いてしまったことが今更ながらに悔やまれます。機会があれば、県立図書館へマイクロフィルム資料を見に行こうと思います。※おまけ「御嶽沢の地蔵尊」は、『広報 おおつき』8月号に掲載した「浅川慰霊並災害復興之碑」とともに、国土地理院HPの地理院地図(電子国土Web)に「自然災害伝承碑」として掲載されています。国土地理院HPから「地理院地図を見る」クリックすると地理院地図(電子国土Web)が開きます。次に左上の「地図」と書かれたアイコンをタップ・クリックするとメニューが出ますので、「災害伝承・避難場所」を選択します。さらに、「自然災害伝承碑」、「土砂災害」と選択していくと、地図上に災害記念碑の地図記号が表示されます。あとは、調べたい場所をズーム・スワイプしてさがし、地図記号をタップ・クリックすると写真と説明が現れます。残念ながら地番や住所番号は表示されませんが、地図上で場所は確認できるので、目的地へはたどり着けるはずです。大月市内には、2023年9月現在で「自然災害伝承碑」が3つ掲載されています。先の2つと、明治40年の大水害の際、笹子川支流の大鹿川が氾濫し押し出された「大鹿川の巨石」です。こちらについては、またの機会に紹介したいと思います。「自然災害伝承碑」についての学習を深めたい人は、次のWeb記事を読んでください。内閣府防災情報のページ国土交通省国土地理院 自然伝承碑台風13号は大月市に大きな被害をもたらすことなく去っていきそうですが(午後2時現在)、日頃からハザードマップ等で、自宅・職場などの日常生活の場所にどんな自然災害のリスクがあるのか確認しておきましょう。
2023年09月08日
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こんにちは、資料館です。今回は、「広報 おおつき」6月号の「大月探訪記」で紹介した「岩船地蔵」の補足説明をします。船に乗った地蔵を「岩船地蔵」といいます。近県各地に残る「岩船地蔵」の多くは、「下野の国岩船地蔵念仏踊り」がその地に巡ってきたことを記念して造立されました。市内に所在が確認されている三体のうち、賑岡町岩殿地区の「岩船地蔵]については、広報や本ブログでも紹介しましたので割愛し、賑岡町畑倉地区と初狩町藤沢地区にある二体について紹介します。トップの写真は畑倉地区の曹洞宗幡倉山法幢寺にある岩船地蔵です。境内ではなく、山門の向かって左側に立つ三界万霊塔の後ろにあります。船長は約80cmで、船の高さ20cm、船の底より首までの高さは65cmとだいぶ小ぶりです。地蔵像は船に対して横を向いて乗り、左手に宝珠、右手には錫杖を持っています。頭部は亡失し、替わりに丸石が置かれています。背面には上の写真のように「弘化四丁未 施主村中」と刻まれていました。弘化4年は西暦で1847年です。ここで大きな疑問が湧いてきました。郡内で「念仏踊り」が流行したのは、後述するように享保4(1719)年の6月から7月にかけての頃と考えられています。それから100年も後に「念仏踊り」の記念碑として造立するものなのか、ということです。100周年でもないし、この時代の暦である干支で数えて2回目の還暦(大還暦=120周年)でもありません。「念仏踊り」の記念碑でなければいったい何なのか?残念ながらその由緒を知る人は今となっては誰もいません。こちらは藤沢地区にある岩船地蔵です。西側斜面上にある墓地入口の左側にあります。、船長は60cmで、船の底より頭頂部までの高さは70cmです。左手にあるはずの宝珠は欠損していますが、右手には錫杖をしっかりと握っています。見ての通り頭部と胴体のバランスが悪いのは、後年の修復によるものと思います。西日を強く受けるためなのか風化が激しく、造立年代などの刻字は見受けられませんでした。※おまけ 『裾野市史研究 第5号』(1993),「歴史を調べる楽しみ -岩船地蔵捜索記-」(閲覧日:2023-07-27)「岩船地蔵」について詳しく知りたい方は、上記の民俗学者の福田アジオさんの講演記録を読むといいと思います。講演をまとめた文章なので、少し冗長ですが、岩船地蔵について初めて学ぶ人にとっては、ていねいで分かりやすいと思います。p.3に「岩船山地蔵様享保四亥の七月郡内より須走村へ御越被遊」と書かれた古文書を紹介し、p.17には相模から郡内を通り、須走へと抜けていくコースを推論しています。また、p.10あたりから念仏の様子が細かく描かれ、p.14には記念碑として「岩船地蔵」が造立されたことに触れています。なお、福田氏は栃木県岩船山高勝寺から岩船地蔵が送り出されたという説に対して、あるいは高勝寺がお布施を募るために念仏信仰を広めたという説に対して、寺にはその記録が無いことから、大きな疑義を呈しています。ぜひともご一読ください。
2023年07月28日
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こんにちは、資料館です。6月7日(水)にNHKで放送された『にっぽん百低山「岩殿山・山梨」』に、資料館スタッフが出演しました。NHKプラスで14日(水) 午後0:43 まで視聴可能です。ここをクリック(タップ)してください。なお、本記事は配信終了後に削除します。
2023年06月07日
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こんにちは、資料館です。今回のブラブラは、お伊勢山の天満宮です。根神神社を包み込んでいる杉林を抜け、尾根伝いに進んでいくと、すぐ前方に鳥居が見えてきます。二つ目の神社、天満宮です。石造りの神明鳥居から続く石畳の参道の先には社があり、社の手前、向かって左側に紅梅、右側には白梅が植えられています。そして社の左にの奥には何やら石像が立っています。まずは、右側に建つ由来碑を読んでみましょう。--------------------------由来碑天満天神、この神様の正体は平安王朝の全盛の九世紀の末から十世紀の初めにかけてたぐいまれな才能をもち、文人、政治家としての菅原道真である。承和十二年(八四五)に生れ少年時代から当代随一の文学者として崇め祀り手習いの神様として明治三十六年上真木区内お伊勢山の南端に祀る、以来子供達の勉学の神として真木地域の子供達が祭典行事盛大に行い大きなふき流しの幟を立てて生の木枝をいぶし焼空をもこがす程の炎焼いっせいに大声で気勢をあげ勇気を鼓舞し合った昭和初期戦火の非常時となり祭典も自然廃止となる敗戦五十余年変革の時代少年の道徳教育向上の為神社改修を志ざし御霊を慰めることといたしました。---------------------------------天満天神とは、学問の神様として知られる菅原道真に贈られた神号です。菅原道真を祭神とする神社は全国各地にあり、その社名も「天満宮」・「天満神社」・「天神社」・「菅原神社」等々、いろいろな呼び方があります。真木地区にも、沢中や下原、小佐野に「天満宮」があり、それぞれ「天神講」の行事を行いました。----------------------------------お天神様 矢貝定治(七十七歳)「お天神講」といえば、昔の少年の頃の自分がなつかしく思い出されます。その頃は下原のお天神山は前が柴山でした。曲がり曲がった道の角に、行燈を立てて燈をつけたので、夜はとてもきれいでした。大勢で道造りをしたり、沢中河原から石を運んで、石垣を作ったりしました。大人の世話にならずに、子供だけでお祭りを仕上げました。赤白の幟を十本ぐらい立てて、沢中も小佐野も上真木も、ひと目に見えるので、競って立派にしたものでした。宿の座敷にいっぱい布団を敷いて、仲良く寝ました。夜の明けるのを待ちかねて、前に用意しておいた桑ゼッピャアをどんどん燃やして、その上に青松葉を積んで狼煙(煙)をあげる競争をしました。煙が村の上を太い筋になって流れて壮観でした。七十六歳の今、思い出しても心が高ぶります。(後略)『ふるさと真木』(真木公民館・真木老人クラブ連合会 1983)------------------------------------形は違いますが、真木ばかりではなく、「天神講」の行事は各地域で行われていました。果たして、現在も行われているか、寡聞にして知りません。左奥に立っている石像は、二宮尊徳です。おそらく学問つながりで造られたのではないかと思います。二宮尊徳については、改めて稿を起こす予定ですので、今回は傍らに立つ顕彰碑を紹介するにとどめておきます。--------------------二宮尊徳顕彰碑二宮金次郎(のちの尊徳)天明七年(一七八七)七月二十三日相模国足柄郡柏山村の農家に生まれる。わづか五歳の少年にして論語や漢文を読み、又勤倹譲の生活信条を守り一家をささえ各領地の復興を成しとげ偉大なる功績をあげる。安政三年七十歳にして息子弥太郎にゆづり没す。明治、大正、昭和に亘り小学校国定教科書等に道徳を教え、正しい勇気、強い意志、慎重な計画、たゆまぬ努力こそいつの時代の子供たちにとって学ぶべき手本にちがいない。小学当時の唱歌を忍ぶ---------------------------------------※おまけ幼少より文才に優れ、朝廷においては政治的手腕を発揮し、右大臣まで上り詰めるものの、権力闘争に敗れて太宰府へ左遷され、その2年後に失意のうちに没した菅原道真。都落ちした菅原道真が京都の北野天満宮に神となって祀られているのはどうしてか?「東風吹かば にほひをこせよ 梅花 主なしとて 春を忘るな」と、「梅は飛び 桜は枯るる 世の中に 何とて松の つれなかるらん」の二首の意味は?そして、「飛梅伝説」「飛松伝説」とのかかわりは?などなど、真偽のほどは定かではないが、面白いエピソードがいっぱいです。まずは、北野天満宮、太宰府天満宮のHPで基礎知識を得てから、グーグル先生に教えてもらってください。
2023年05月13日
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こんにちは、資料館です。今回のブラブラは真木のお伊勢山です。真木のお伊勢山は、上真木地区の東側の尾根にあり、富士急バスの「辻」バス停から東へ2ブロック先に南端の登り口があります。高齢者福祉施設大月富士見苑南の墓地までの距離にして600m、高低差60mの緩やかな尾根筋には4つの神社が連なり、様々な願い事ができます。また、左を振り返れば絶景の富士が望め、春先には梅や桜の花々も楽しめます。そしてうれしいことに、中間地点の大神社近くには、とてもきれいな洋式水洗トイレもあり、安心してブラブラを楽しむことができます。なお、この尾根については、「大神尾根」と呼ばれていた記述が『ふるさと真木』(真木公民館・真木老人クラブ連合会 1988)にありました。さて、初回は南端にある「根神大権現」を紹介します。登り口からすぐの所に、小さな石の鳥居と、その奥に杉の大木に囲まれて覆屋を持つ社があります。鳥居の扁額には「根神」とあり、社殿脇には次のような由緒を記した板碑が建っています。--------------------------------根神大権現(子之神社(ねのかみしゃ))の由来当神社は、お伊勢山の南登山道入り口に位置していて、御祭神は大国主命である。日本神話の中で大国主命による根の国訪問の記述があり根神大権現の名称はその神話に由来するものと思われる。祭祀された時期は不明だが、当神社境内の御神木(夫婦杉)の樹齢と一致していると思われる。社殿内に現存している一番古い木札は寛政年間のものであり、文化年間に編纂の甲斐国誌(ママ)にも記述がみられる。根上家、幡野家ではみ祖のご遺志を尊びこのお社を鎮守となし代々祭礼を行っている。縁結び、子宝の神として爾来、近在の人々の信仰をあつめている。小林浩治氏をはじめ氏子の皆様のご尽力により当神社の整備改築工事が完成したことに感謝の意を表し、ここに由来碑を建立する。平成十五年四月吉日幡野伸夫根上 茂--------------------------------碑文中、「文化年間に編纂の甲斐国誌(ママ)にも記述がみられる」とあるとおり、『甲斐国志』巻之七十二 神社部第十七下に「[子ノ神]林ニアリ 百姓持」との記述があります。「林」はこの社の立つ地域の字(あざ)名で、『甲斐国志』(文化11年(1814年))の時代には「子ノ神」とよばれ、表記されていたことがわかります。また、「百姓持」(ひゃくしょうもち)とは、個人もしくはその一族が祀っていたことを示しますが、官本である『甲斐国志』に載るくらいですから、私的な「屋敷神」のレベルを超えて、地域の信仰を得ていたと考えられます。しかし、祭神としている大国主命や根神大権現についての記述はありませんでした。碑文に書かれている、根神大権現の名称由来としてあげる神話とは『古事記』(和銅5(712)年)のことです。その「根の国訪問記」には、ネズミ(子)が神の使いとして火の海に包まれた大国主命を救うくだりがあります。ここを根拠にして、「根」と「子」は字音(発音)が同じであることから、「ね」の漢字表記に揺れが起き、「子之神社」(子ノ神)が「根神大権現」とも称されるとしています。この部分については、「権現」についての説明が不足している感があるので補足しておきます。「権現」とは、「日本の神々は本地(ほんじ)である仏が権(かり=仮)の姿で現れたもの(垂迹)」との考えにもとづく仏教側からの神の称号(神号)です。そして、神号は神本来の名前ではなく山名や地名、神社名につけられるのが一般的でした。神仏習合思想の一つである「本地垂迹説」といわれるこの考えは、平安時代中期から始まり、江戸時代の終わりまで全国に流布しました。このことから、根神大権現とは、「子之神社」(子ノ神)が表記ゆれを起した根神社(根之神社)に神号である権現が組み合わされたのではないかと考えられます。。つまり、子之神社=根神大権現(社名)、大国主命=根神大権現(神名)というわけですね。※社名と神名を混同しないように、社名を表すときには○○権現社とつけることが多い。ただし、この考えは、先に「子之神社」があることを前提にしています。反対に、先に「根神(子神)大権現」があって、明治維新の際に「子之神社」に社名変更された可能性も残ります。いずれにしても、根神大権現という表記がいつから用いられたのかを知る資料を寡聞にして知りません。同様に、大国主命(根神大権現)を仮の姿とする本地仏(ほんじぶつ)を知る手がかりもありません。もしかしたら、社殿に現存しているとある木札に書かれているかもしれません。確認したいと思います。社の周りには石棒が数多く置かれています。このことについて、真木公民館・真木老人クラブ連合会が発行した『ふるさと真木』には次のように書いてあります。--------------------------------上真木 子の神社 天野義昌(七十六歳)上真木の東山の下に、三本の大杉が高く立っている。この大杉の下に、「子の神社」(ねのかみしゃ)がある。詳しい記録はないが、神社の中にある木札を見ると、一番古いものが寛政元年であり、今から百七十年位前の木札と思われる。この神社の境内には遺産の石棒があり、その中でも特に立派なものは、持ち去られてしまっている。(後略)『ふるさと真木』(真木公民館・真木老人クラブ連合会 1983)--------------------------------石棒は、縄文時代の中期(前3000~前2000年)以降に作られた磨製石器の一つです。石棒には男性器を写実的に表現したものがあることから、女性を象徴する土偶とともに、子孫繁栄や生産・豊穣を祈るための道具だと考えられています。写真の向かって左に写る石棒は平成の時代に造られたもののようです。あまりにリアル過ぎて赤面してしまいますが、それ以外のものは素朴で温かみを感じます。先に述べた「百姓持」の「屋敷神」も、子孫繁栄や五穀豊穣を願ったものが多いことから、ここに石棒があっても不思議ではありません。ひょっとしたら、この石棒こそがご神体なのかもしれません。また、社の近くには「夫婦杉」と称される杉の合体木があります。こちらも夫婦和合、子孫繁栄のシンボルともいえます。さらに、「子」は「こ」とも読むことができます。「子之神社」のご利益は「子授け」だと地域の人から聞きましたが、むべなるかな、ですね。※おまけ明治新政府は、明治元(1868)年に「神仏判然令(神仏分離令)」を発し、これにより各地で「廃仏毀釈」(はいぶつきしゃく)が起こりました。仏のものとも、神のものともわからない「権現」は廃され、山岳信仰である修験道も明治5(1872)年の「修験宗廃止令」の布告により仏教になるように命じられてしまいました。黒歴史ともいえる、「廃仏毀釈」を調べてみると、路傍の石仏に首が無いものがあることの意味がわかりますよ。
2023年05月07日
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こんにちは、資料館です。今回は、『広報おおつき』(2023.5)の「大月探訪記」でも紹介した〔初狩葎塚句碑〕です。初狩町中初狩にある歩道橋の北階段近くに、高さ2mあまりの二等辺三角形をした石碑が建っています。石碑の表(碑陽)には、次の芭蕉の句と揮毫した人の名が刻まれています。山賤乃頤登づる葎哉芭蕉中教正三森幹雄謹書山賤乃頤登づる葎哉(やまがつのおとがとづるむぐらかな)で用いられている単語の意味は次の通りです。「山賤(やまがつ)」は木こりや炭焼きなど山仕事を生業とする人。「頤(おとがい)」は下あご。「登づる」は「閉づる」の当て字。「葎(むぐら)」は密生し藪(やぶ)をつくるつる草。芭蕉が、葎が生い茂る山路で出会った猟師や木こりなどの山しごとをする人が、あいさつも交わさずにぐっ顎を閉じて無口で通り過ぎた様を詠んだ歌とされています。文学作品の解釈については人それぞれなので、ここでは割愛させていただきます。それでも、という方はここをお読みください。5ページ目あたりから一般的な解釈が書いてあります。句碑の裏(碑陰)には、建立を発起した初狩村の俳句同人「古池連中」と各地の賛同者88名と石工2名の氏名刻まれています。また、「維持 明治廿九年時雨月 中初狩 下初狩 藤沢組 有志」と、建立した年月もあります。ちなみに、時雨月とは旧暦10月の別名です。このことから、建立を芭蕉の忌日(陰暦10月12日)である「時雨忌」に合わせていることがわかります。では、芭蕉はこの句をいつ、どこで詠んだのでしょうか。この句が収められている『続虚栗』(榎本其角編 1687)には、詞書に甲斐山中とだけあり、詠んだ時期や場所は書かれていません。芭蕉が甲斐(郡内)を訪れたのは知る得るかぎりでは2回あります。1回目は、天和2(1682)年12月の江戸の大火により芭蕉庵が焼失し、芭蕉の門人であった谷村藩の国家老高山傳右衛門繁文(俳号麋塒)の離れ桃林軒に半年ばかり身を寄せていた時。そして2回目は、貞享2(1685)年4月、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の帰り途、かつて谷村に仮住まいしていた時に世話になった人々にお礼をするために立寄った時です。時期については、2回目の来甲の際というのが定説となっていますが、場所については、未だ不明のままです。芭蕉が仮寓した都留市では都留市のどこかで、大月市では門人である杉風の姉の嫁ぎ先の初狩のどこかでと、それぞれ詠まれたものだと主張しています。大月市と都留市は三つ峠・高川山からの尾根を挟んで隣り同士、仲良くその峠道とするのはいかがなものでしょうか。(根拠を全く示せませんが……。)参考文献として大月市および都留市の『市史』等を紹介しておきます。都留市は『市史』をはじめ、様々の資料のデジタル化が進みネット公開されているので、リンクを貼り付けておきます。大月市は紙ベースのみなので、以下に該当部分を抜粋して掲載します。なお、入力間違い等がありますので、他所で引用する際には、必ず刊本で原文確認をしてください。-------------------------------------------------------『大月市史 資料編』(1976) p.846山賤の頤登づる葎哉 芭蕉中教正三森幹雄謹書甲斐山中考山がつのおとがひ閉づるむぐらかな (続虚栗)所在地/大月市初狩町中初狩・「初狩小学校」前碑陰に刻まれた県内外の俳人八十七名の姓号をみてもこの建碑がいかに盛大であったかは推察し得る。また、この建碑を記念して、明治三十二(1899)年十月十日、初狩村葎塚吟社より俳諧「葎塚集」(此処庵大弌編)が刊行されている。葎塚集序租翁の徳海内に輝き、普ねく蕉門の俳風に靡き、東は松島・象潟より西は松浦・宮崎まで其遺吹を石に刻して魂を招く便りならんと翁塚と号け、句塚とも呼び伝えて、道の尊重を崇めずといふ処もなし。ここに甲斐の国なる此処庵大弌雅哲はこたび葎塚てふを建築せらるゝ事は、往昔我翁行脚の折から口ずさみ、駄比して唾を以て万世不朽に伝へて碩徳を敬ひ奉らんとの篤情は感称するにあまりありと言ふべし。扠予は編集は大撰の一名に加はりしことの因縁浅からざるを思ひめぐらすに就ても、葎塚には風雅の冥慮も永く著しからむと或は敬し、或は渇仰して敢拙辞を述ぶる事しかり。したひよる徳や蛍もむぐら塚 曙庵 虚白租翁の高徳を慕ひ甲斐の山中に秋のゆかしき初狩の里へ、長く朽せぬ碑を建、葎の長しげく栄えんことを告て、広く江湖の句を集め、冊を綴り、其末に現時人名録を附し、俳道の便りとなす。その功も名と共に大弌なれば、己常陸の山民なれど、口を閉る能はず、此祝辞を述ぶるになん。露の恩たしかにうけて八重葎 尾花庵 可昇この碑の傍らに「蕉翁」と刻んだ碑石のかけらで五十センチほどのものが置いてある。碑背に安永四(1775)年東都松露庵の字が見えるので、芭蕉死後八十二年目に徳を慕う松露庵三世木耳庵長明の手で建てたものらしい。その後明治二十九(1896)年初狩村の古池連中が諸国の俳人によびかけ、当時高名な春秋庵三森幹雄宗匠の筆を得て甲州街道端にこの句碑を建てた。それがさらに戦後路面拡張のため、現在地へ移されたのである。「曙庵虚白」は獅子門(各務支考)道統、再和派(美濃派)十六世。また「松露庵三世長明」は江戸日本橋鉄砲町の人。性実直よく師風を伝え、著書『をしえ鳥』その他多数あり。門人に春秋庵一世加舎白雄がいる。現在の碑面が、春秋庵十一世幹雄の書であるのもおそらくそうした関係であろう。この句は貞享二(1685)年四月、芭蕉が「のざらし紀行」の旅の帰途(関西よりの帰り)、天和三(1683)年流寓の節、世話になった人々への謝礼の挨拶に立寄った折、初狩村付近にて出来た句と推定し得る。------------------------------------もう一つ、参考文献として『大月市の石造物 Ⅱ』(1999)を紹介しておきます。------------------------------------文学碑 句碑 p.9初狩葎塚句碑所在地 初狩町中初狩 初狩小学校入口規模 碑 20×108×230台石一段 70×130×5銘 山賤の頤登づる葎哉 芭蕉 中教正三森幹雄謹書 ※裏には建立賛助者等の氏名が刻まれている(略)この句碑は、明治二十九年(1896)初狩村の俳句同好の古池連中が諸国の俳人によびかけて建立したもので、当時高名な春秋庵三森幹雄宗匠が筆をとっている。碑に刻まれている八十七名の中に全国の俳人が名を連ねているのをみてもその盛大さが偲ばれる。もともとはここより東へ百メートルほど下った国道沿いに立てられていたもので、昭和三十年代の道路拡張工事の際にこの地に移転した。この建碑を記念して明治三十二年(1899)十月十日初狩村葎塚吟社から俳諧「葎塚集」が刊行された。その序の中で曙庵虚白は「租翁の徳海内に輝き、普ねく蕉門の俳風に靡き、東は松島・象潟より西は松浦、宮崎まで其遺吹を石に刻して魂を招く便りならんと翁塚と号け、句塚とも呼び伝えて、道の尊重を崇めずといふ処もなし。ここに甲斐の国なる此処庵大弌雅哲はこたび葎塚てふを建築せらるる事は、往昔我翁行脚の折から口ずさみ、駄比して唾を以て万世不朽に伝へて碩徳を敬ひ奉らんとの篤情は感称するにあまりありと言ふべし。扠予は編集は大撰の一名に加はりしことの因縁浅からざるを思ひめぐらすに就ても、葎塚には風雅の冥慮も永く著しからむと或は敬し、或は渇仰して敢拙辞を述ぶる事しかり。」と記している。此処庵大弌は初狩町中初狩五〇三番地に生まれ、本名は小林大弌といい、幼にして俳諧を好み、葎塚吟社を結成し、多くの子弟を育てた。甲斐山中考甲斐山中 「山賤のおとがひ閉るむぐらかな」 続虚栗甲斐の山中に立ちよりて 「行く駒の麦に慰むやどりかな」の二句は芭蕉の「野ざらし紀行」の際甲斐山中にて発句したことが記されている。貞享二年(1685)四月、芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の帰り、天和三年に仮住まいさせていただいたお礼に立寄った折の句で、「山賤の」の句は初狩付近でできた句とも言われる。しかし甲斐山中での発句の山中をさんちゅうと読むかやまなかと読むかで場所が異なることになるので説が分かれている。「山賤の」はさんちゅうで異論はないようであるが、勝峯氏は「行く駒の…」は「立ちよりて」であるから山中は固有名詞の山中(現山中湖村)でなければならないと主張している。しかし寒冷地の山中村に麦作が行われていたかは疑問である。「甲斐国志」(1806~1814)に「芭蕉ノ句ニ 行く駒の麦になくさむよとりかな 此駅ヲ過ル時ノ句ナリト云フ」とある。此駅とは甲州街道駒橋宿をさすが、駒橋付近での作とは断定はできないものの、旅の終わりにふさわしい句として、新たに注目したい。------------------------------------------------------------------------芭蕉と郡内流寓 p.300芭蕉は、三重県伊賀上野赤坂町に正保元年(1644)郷士の子として生まれる。父は松尾与謝衛門という。幼名は金作、のち藤七郎。幼少の頃、藤堂家の一族藤堂良忠に仕えたが、この良忠は俳諧を好んだことにより影響を受けた。寛文四年(1664)の句が最も古いものである。俳号は初め宗房、のち桃青、芭蕉等十四をも数えるといわれる。寛文六年、主君の死後江戸に入り「貝おほひ」を刊行した。その頃は俳諧で身を立てるまでには至らず、杉山杉風の世話になり、水道工事に関係したりしていた。延宝八年(1680)江戸深川六間堀杉風の下屋敷に居を構えたが、翌年門人の李下から芭蕉一株贈られて以来この草案を芭蕉庵と呼んだ。この頃から「はせを」の俳号を使うようになったといわれる。また芭蕉はこの庵の近くに住む仏頂和尚から禅を学んだが、初狩の六租五平もその弟子であったようである。天和二年(1682)十二月、駒込の大円寺を火元とする火事(八百屋お七の火事)によって焼け出された芭蕉は、三年正月に杉風の薦めで甲州初狩に住む杉風の姉の所に身を寄せることとなる。甲州初狩には六租五平もいる上に、谷村には門人の谷村藩国家老高山麋塒<びじ=俳号>(傳右衛門繁文)もいて心強かったのかもしれない。初狩での仮住まいはどこか、今もって不明である。初狩も度重なる大火で地域の古文献は消滅し口碑に頼らざるを得ない。甲州には約五ヶ月間寄寓しており、高山麋塒宅には三十乃至五十日逗留したといわれるので、その他はあちこち歩いていたとしても本拠は初狩であったことは間違いあるまい。中津森桂林寺過去帳から初狩の小林友右衛門が六租五平であるという説もあったようであるが、現住職には引継ぎがなくて不明である。初狩では口碑として二軒あげられているが信憑性には欠ける。しかしそこが芭蕉の死から八十一年後に建立された翁塚の発見場所に近いという点で今後の研究に期待したい。なを勝峯晋風氏は「芭蕉終焉記」に「富士の雪みつれなければ」とあるので寄寓先はもっと岳麓地方であらねばならぬといっているが、富士の雪は初狩からも眺められるし、特に富士見沢集落からの富士山の眺望は見事である。天和三年五月江戸に帰った芭蕉にはまもなく芭蕉庵が再興された。貞享元年(1684)故郷伊賀上野に「野ざらし紀行」(甲子吟行)の旅に出て、翌年江戸に帰るがその帰途甲州に立寄った。元禄二年(1689)には「奥の細道」の旅に出て元禄四年に江戸に帰り、元禄七年にはまた関西に旅して同年(1694)十月大坂滞在中に病没した。遺体は遺言により大津の義仲寺に葬られた。--旅に病で夢は枯野をかけ廻る--------------------------------------------------------------------------大月市の石造物概要 p.301文学碑には芭蕉の句碑が目立つが、注目すべきは初狩の葎塚句碑である。当時全国の俳界著名人によって建立されたもので、当時は、芭蕉の初狩流寓中の作として知られていたものであろう。約半年の間郡内にいたわけで、初狩の杉風の姉の家に仮宿していたという説を地元としては信じたい。俳句はそこで見たもの、聞いたもの、また心の動きを表すが後に加除添削を加えるために場所の特定は困難な場合も生じてくる。しかし口碑として存在するかぎり無関係とはいいきれない。一九二〇年ごろ、初狩小学校で「わが初狩は山賤の頤閉ずと詠じけん」と歌われ、地域の誇りとして影響を及ぼしてきている。------------------------------------都留市については、ここを読んでください。※おまけ『広報おおつき』の「大月探訪記」では、紙幅の関係で原則400字以内でまとめなければなりません。書きたいこと、伝えたいことはたくさんあるのですが、泣く泣く削る部分も多くあります。そこで、広報が配布された後に、このブログで補足説明させていただくことにしました。また、位置についても、グーグルマップの座標を埋め込みましたので、紹介したスポット名〔初狩葎塚句碑〕をクリック(タップ)してください。細部を確認したい方のために、写真の部分もクリック(タップ)すると高画素のものが別ウィンドウで開くようにしておきました。※おまけのおまけそうそう、大事なことを忘れていました。「山賤」(やまがつ)を「山賊」(さんぞく)と間違える人が多くいます。詠むとき、書くとき、気をつけましょうね。もう一つ。芭蕉が焼け出された火事を「八百屋お七の火事」とする人がいますが、これも違うようです。ここを読んでください。
2023年05月03日
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こんにちは、資料館です。猿橋公園の桜の開花状況をお知らせします。上の写真は「染井吉野(ソメイヨシノ)」です。八分咲きといったところでしょうか。こちらは「枝垂桜(しだれざくら)」です。三分咲き手前です。これは「古代桃(こだいもも)」です。古代桃については昨年の記事をお読みください。※おまけ一昨日の22日(水)に甲府と甲州市勝沼で気温25度を超える夏日を記録しました。大月も22.7度を記録して、県内全域で5月上旬~下旬並みの暖かさとなりました。このため、猿橋公園の桜たちも一斉に開花し、見ごろとなっています。残念ながら、この土日は天気がすぐれませんが、28日(火)は晴天が望めそうです。心配なのは、4月初めの土日まで花が持つかどうかです。散ったとしても「八重桜(やえざくら)」、「御衣黄(ぎょいこう)」が追いかけるように咲くとは思いますが、予断は許しません。「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」
2023年03月24日
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こんにちは、資料館です。猿橋公園の桜の開花状況をお知らせします。早咲きで有名なのは河津桜です。そのトリビアについては、伊豆・河津町観光協会のHPをご覧ください。猿橋公園にもたくさんの種類の桜が植えられています。その中で最も早く開花するのが、この河津桜です。写真のようにすでに3分咲き、といったところでしょうか?ケヤキ広場を周回する遊歩道の東側(猿橋側)にあります。しばらく4月並の暖かい日が続くという予報です。猿橋公園をブラブラして一足早い春の訪れを楽しんでみてはいかがでしょうか?※おまけ前回紹介した、特異な形をした敷石住居も見てくださいね。ついでに、大月市郷土資料館にもお立ち寄りいただければ幸いです。ただし、入館料が必要ですが....。
2023年03月07日
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こんにちは、資料館です。猿橋公園内に塩瀬下原遺跡(しおぜしたっぱらいせき)から出土した敷石住居を復元しました。復元といっても、敷石部分だけで、建物などはありません。上の写真でもわかるように、その特異なレイアウトから祭祀(さいし)に使われたのではないかと考えられています。郷土資料館の東、ローラー滑り台の横にありますので、傍らに立つ説明板を目印にして、探してみてください。柵などは設けていませんので、近くに寄って、見て、触って、はるか昔の縄文時代の人々のくらしに想いをはせてみるのはいかかがでしょうか。なお、説明板には次のことが書かれています。塩瀬下原遺跡 1号敷石住居塩瀬下原遺跡は、桂川清流センター建設に先立ち、平成7年から平成11年にかけて発掘調査が行われた縄文時代と平安時代の集落遺跡です。調査によって縄文時代中期(約5,000年前)から後期(約4,000年前)にかけての住居跡と平安時代の住居跡が確認されており、なかでも住居の床に平らな石を十字型に敷いた1号敷石住居(縄文時代後期)は全国的に珍しい形状の物です。十字部分の長さは、縦横ともに約4.3mで、方角は東西南北に対応しているわけではありません。この遺構は、形態的な特徴から、一般的な敷石住居とは異なり、祭祀性の高い建物だったと推定されます。建物について末木健氏は、十字型の敷石の外側にあった石の出土状態を分析し、建物外壁に石が積まれた形状だった可能性を想定しています。1号敷石住居の敷石は、発掘調査終了後に、大月市教育委員会が山梨県より譲渡を受け、発掘された当時の状態への復元作業が行われました。復元には出土した敷石を使用していますが、風化したものは使用せず代替品を用い、また十字部以外はイメージによる復元をしています。大月市教育委員会※おまけ山梨県埋蔵文化財センターの下原遺跡の案内のページを貼り付けておきます。興味を持たれた方はクリックしてみください。遺跡トピックスNo.0013塩瀬下原遺跡ページの左側にあるインデックスから関連したページを開いていくと、より深く理解できます。
2023年03月01日
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