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鰯の頭も信心から 人の心の作用一つでこの石も神になる
僕個人の1月17日の新春を迎えるにあたって、神や死者の魂のことなどを少し述べましたが、神vs.人の二元論のモデルこそが西欧一神教の世界理解で、これが究極のデジタル世界に直結していること。
マルクスはその下部構造(身体)が生み出すイリュージョン(脳の意識)が独り歩きしたことで神が誕生したと考えます。彼は自分が生み出した幻想が物神化したものに呪縛されてきたことに警鐘を鳴らし、「宗教はアヘンだ」と言ったのも、その発見にもとづいています。
それは彼の「資本論」、「プロレタリア独裁」の行動原理にまで貫徹されている発想で、その意味で彼もキリスト教1神教世界の申し子と言えます。
人類の歴史は、自身や集団の生み出した幻想が独り歩きして、あたかもそれが実在するかのように信じてきたこと。それが神であり、信心の対象なのです。
なぜ、そんな依存現象が根絶されないかと言うと、その根底に「一瞬先は闇」の世界に生きる「不安」があるからです。生きる不安が解消されないかぎりさまざまな霊感商法まがいの詐欺に近い宗教は絶えることはありません。
世界の普遍宗教と言えども最初は巷の霊感商法まがいのものから出発しました。キリスト教も初期の段階では、不治の病に苦しむ人をイエスが奇蹟によって治したことが評判を呼んだのです。
でも、仏教やキリスト教、そしてイスラム教が、ちまたの拝み屋さんと少し異なるのは、膨大な作家群がその雑多な霊験あらたかぶりを示す事象をつなぎあわせ、膨大な物語を紡ぎ出し、それをなるべく整合性をもつ体系につくりあげたことにあります。
さらにもうひとつは、それらの物語を儀礼化したことです。神話化と儀式。この二つを抱き合わせにし、完璧に近い洗練化に成功したものが普遍宗教の普遍たる所以なのです。
「なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぼるる」 西行法師が伊勢神宮に参詣したときの印象ですが、このサムシング・グレートを匂わせる装置こそが神社・仏閣、教会なのです。
原初、自然現象に対する素朴な畏怖の感情から、大いなる力を感じてそれに実体を与え、信仰してきたものの究極の洗練が現行の諸宗教なのです。
僕は人は卑小で哀れな存在だと痛感していますので、こんな感情をアヘンとして遠ざけることはできません。
しかし、他者に対して思いきり優しく、そして自分の対してなるだけ強くなろうと努力することが、さまざまに手を変え品をかえ、次から次へと現れ誘惑する神というアイコンの意味を薄めていくことになると思っています。
そのためには、頭脳の生み出した神というものに人格を与えず、神をその原初の姿にもどして親しむこと、すなわち自然に親しむことが一番だと考えてムックきのこクラブの旅を続けてきました。
それは畢竟、 自然(身体)と人間(精神・頭脳)のバランスを回復することだと思っています。
そして人間の生は一回かぎりで、いかなる人の死も純粋に個人的なものだと思っています。誰にも後世も再生もないと考えています。残された人がどう思おうとどう願おうと、甦りも、往生極楽世界も、地獄もないというのが僕にとっての唯一の真実です。
だからこそ、個人的な死を自分の事同様に受け止めた人が最後の1人になるまで、時おり生存を確認し合う集いは必要だと感じています。この少数の人たちが同じく亡くなったときその心の中の碑(いしぶみ)と言うべき記憶も風化することになります。それは、完全に自然に戻ることなのですからむしろお祝いすべきことだと思います。
僕はそんな無宗教の人間ですが、親父が残した北方異民族慰霊碑の碑前で毎年、4月29日の昭和の日に慰霊祭を斎行しています。

神戸市灘区の護国神社境内に建立してこの4月29日に40年目を迎える慰霊碑
これは戦争という100%人為の愚行を犯しつづけ、敵味方に分かれて牙を剥き出して殺し合うことの愚かさを根絶したいという親父が伝えたかった真の思いを、残された者が命のかぎり伝えることに主眼を置いたものです。
自民党・安倍政権が戦略的平和という安直な言葉で、国の根幹をなし崩しにしようとしている2015年は、戦争の語り部の殆どが虚しくなった戦後70年を経た節目で、とりわけ重要な意味をもっていると思います。
それは、この世に生を享けた人は何人を問わず、なべて純粋に個人的な死を迎えられるような世界を実現するために伝えることに特化した鎮魂の集いだと考えて細々と続けています。
二度と繰り返してはならない悲惨な戦争の事実を、統計的な数字に還元してしまう大量死の次元からではなく、純粋に個人的な死の事実から掘り起こし訴えつづける鎮魂の事業なのです。
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