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朝ドラ「花子とアン」の総集編を見ました。本放送はもう10年前!!こわい…(笑)そのときはあまりちゃんと見てなかったけど、Netflix/CBCの「アンという名の少女」にも関係するので、あらためて見てみたかったのよね。とりあえず総集編だけでも見れてよかった。少女マンガ風の百合っぽさがあったり、昼ドラ「真珠夫人」っぽいところがあったり、人気の朝ドラになった理由がよく分かりました。◇脚本を書いた中園ミホは、村岡花子の人生をいろんな点でアンに重ねたのね。たとえば、花子&蓮子(村岡花子&柳原白蓮)の関係を、腹心の友だったアン&ダイアナに重ねたり、花子の出身地である山梨県甲府のブドウの話を、ワインで酔っぱらうエピソードにつなげたり…。村岡花子の父は静岡出身の茶商なので、べつに甲府で葡萄を栽培してたわけじゃありませんが。ちなみに小説では、アンがダイアナにワインを飲ませるけど、ドラマでは逆に、蓮子が花子にワインを飲ませてましたね。◇そして、「はな」という本名に「子」をつけた史実を、「ann」に「e」が付くことを望んだ物語に重ねている。旧姓時代の安中はなが、ペンネームとして「安中花子」を名乗ったのは、モンゴメリの小説を翻訳するより前のことだから、これはある意味、運命的な符合だったといえる。CBCのドラマが、あらためて名前の「e」に焦点を当てたのも、案外、この日本の朝ドラの影響だったかもしれない。Anne with an E(Eのつくアン)◇運命といえば、父の安中逸平がカナダ・メソジスト派の信徒であり、そのコネで東洋英和女学校に入学したことが、花子がモンゴメリの小説と出会うことに結びついている。おなじクリスチャンでも、この教派でなければ、村岡花子がモンゴメリの小説に出会うことはなかったでしょう。モンゴメリの「Anne of Green Gables」は、まさにカナダの長老派教会の人たちの物語なのだから。◇実際、ドラマを見ていていちばん興味が湧いたのは、やはり父の安中逸平のことです。地方の貧しい茶商の娘だったにもかかわらず、良家の子女が通う東京のミッション校に入学できたのは、父が熱心なクリスチャンにして社会運動家だったから。ドラマでは花子だけが単身で上京してましたが史実では花子が幼いときに一家で上京したらしい。おそらく娘の文才も父譲りなのでしょう。◇左翼活動家だった父とはちがい、戦時中の花子はやや日和見だったとも言えます。いわゆる翼賛体制にも協力的だった。けれど、じつは「赤毛のアン」の翻訳作業こそが、1939年~1945年の戦時中におこなわれていた。その点は重要だろうと思う。つまり、村岡花子は、よりによって米英との戦争中に、ひそかに英語の小説を翻訳してたわけですね。そして、それが彼女の代表作になった。この姿勢こそ、政治的だった父に通じている。◇柳原白蓮の人生もなかなかに壮絶で、ドラマではそれを「ロミオとジュリエット」に重ねてました。しかし、こちらのサイトによると、http://whiteplum.blog61.fc2.com/blog-entry-3030.html?sphttp://bungeikan.jp/domestic/detail/705/村岡花子が子供のころから読んでたのは、むしろ「ロミジュリ」でなく「失楽園」だったらしい!白蓮と宮崎龍介の駆け落ちのことを考えると、これまた運命的というかなんというか。ちなみに昼ドラにもなった菊池寛の「真珠夫人」は、ほかならぬ「白蓮事件」をモデルにしたとの噂があったものの、実際には事件より小説のほうが先に書かれていたようです。なお、現在の「ブギウギ」に出てくる淡谷のり子も、竹久夢二とかかわりがあった人ですが、柳原白蓮も夢二とかかわりがあったらしい。もともと彼女自身が、夢二の美人画を具現化したような人ですよね。
2024.01.20
GYAO!は3月でサービスを終了しましたが、最後に「アイ・アム・ザ・ブルース」という映画を観ました。ドキュメンタリーだけれど、映像がとても美しく、ブルースを育んだアメリカ南部の風土や、ゆったりした時間の流れを体感できた佳作。登場するミュージシャンは年寄りばかりなのに、歌や演奏はほんとうに素晴らしく、ブルース好きならいつまででも見てられる内容でした。狭義のブルース形式の曲だけでなく、ゴスペルも取り上げられていましたし、カントリー風の曲や8ビートの曲が演奏されるのも興味深かった。ちなみに、この映画は、カナダ人によって制作されている。同じくGYAOでは、「ランブル~音楽界を揺るがしたインディアンたち」というドキュメンタリー映画も配信されていて、こちらは米国音楽史における先住民の貢献を探る内容でしたが、やはりカナダ人による作品でした。米国音楽に関するドキュメンタリーなのに、そうした映画を作るのは、なぜ米国人ではなく、カナダ人なのでしょう?わたしは、CBCとNetflixのドラマ「アンという名の少女」が、米国側の事情で打ち切りになったと思っているのですが、それと同じ背景を感じてしまいます。つまり、北米大陸の人種問題の歴史に向き合ってるのは、もっぱらカナダ人ばかりで、アメリカには、いまだ人種間の分断があるということ。プロテスタントの多いカナダと、南部にラテン系カトリックの住民を抱える米国とでは、政治的な姿勢も違うし、歴史的な差異もある。被写体となる黒人や先住民も、カナダの白人であればこそ心を開くのかもしれません。◇もうひとつGYAOで観たのは、「ゴーギャン~タヒチ、楽園への旅」という映画。もともとゴーギャンやルソーの絵画は、ファンタジックでピースフルな雰囲気があって好きだった。その異国趣味は、ドビュッシーやサティの音楽にも通じてると感じてました。しかし、当然ながら、そこには植民地での支配/被支配の関係があるわけで、たんに優雅なコロニアル趣味では済まされない面もある。パリにいながら異国を想像しただけのルソーと、実際に植民地まで行ったゴーギャンを比べても、その暴力性には、だいぶ違いがあるのかもしれません。◇映画では、本国フランスでの理解が得られずに、タヒチへ渡ってサバイバルな生活に挑みながら、画家としての成功も、現地妻の愛情も失って、ふたたび本国へ戻るゴーギャンを悲劇的に描いていました。けれど、ほんとうに目を向けるべきなのは、宗主国の白人が、本国の妻子を捨て置き、植民地のポリネシアで幼い少女を現地妻とし、エキゾチックな視線を向けていくことの暴力性ですよね。それをポスコロ的な視点で描いたら、まったく別の映画になってしまう気がします。山田五郎のYoutubeチャンネルによれば、ゴーギャンの発想は、のちの「フォークロアアート」の先取であるとのこと。しかし、その背景には、やっぱり植民地主義的な暴力性があるわけです。◇カナダの白人と、米国南部のラテン系の白人に差異があるのと同じく、オランダ人の生真面目なプロテスタントだったゴッホに対して、フランス人のゴーギャンは、いわば罰当たりなカトリック信者だったわけで、そこにはラテン気質の野獣的な奔放さがあった感じがします。
2023.04.07
1孤児のジェーン。伯母に引き取られて、いじめられる。2 親友だったヘレンが病気で死んでしまう。3 家庭教師としてロチェスター家に雇われる。その屋敷には女の幽霊が出る。4 エドワード・ロチェスターと婚約するが、女の幽霊の正体が死んだはずの先妻だったと知る。5 すべてを失ったエドワードと再会して結ばれる。【ジェーン】 孤児の少女。【ヘレン】 ジェーンの親友。病気で死んでしまう。【エドワード】 ロチェスター家の当主。発狂した妻がいるのを隠している。pic.twitter.com/uku6EJfZBS— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) May 9, 2022
2022.05.09
NHK「アンという名の少女」シーズン3。第9話から最終回までの感想です。第9話は、内容が重すぎて気持ちが追いつきませんでした。本来なら、アンとギルバートのすれ違いの恋にハラハラドキドキするところだけど、寄宿学校に連れ戻されたカクウェットのエピソードや、白人にリンチされたというバッシュの父親のエピソードがハードすぎて、そちらにまで気持ちが回らない。◇そして、最終回。アンのすべてを知っている親友のダイアナや、ギルバートに捨てられた不幸なウィニフレッドを介して、ようやくアンとギルバートのすれ違いが解消され、二人の恋が成就しました。また、マシューとマリラの機転によって、アンの両親の謎も解き明かされました。亡き母は、形見となった花言葉事典に、アンのことを、Eのつく「Anne」と記していました。赤毛も母譲りであることが分かりました。さらにギルバートはトロント大学へ、ダイアナは両親の許しを得てクイーン学院へ進学。バッシュも母や義子イライジャと和解する大団円を迎えました。…ただし、シーズン3で制作が止まってしまったので、ダイアナとジェリーの恋の行方や、寄宿学校へ連れ戻されたカクウェットのその後については、宙ぶらりんのままに終わる結果となっています。正直にいうと、ウィニフレッドとの破談の話も、バッシュの母やイライジャとの和解の話も、ダイアナの進学の話も、かなり強引な展開で最終回にまとめあげた感があります。…本来、先週からの流れで考えれば、アンとマシューは、カクウェットの両親が神父と話し合ったのかどうか、それを確かめに行かなければなりませんし、新聞社へも告発の手紙を送らねばならないのですが、それについてのエピソードはいっさい出てきません。カクウェットを寄宿学校に送ったリンド夫人も、なぜか最終回には姿を現しませんでした。この問題にかんしては、意図的に放置したように見えます。◇ちなみに、今年の7月にNHK出版で、上白石萌音の『翻訳書簡 赤毛のアンをめぐる旅』が書籍化されます。わたしは、こんどの萌音の翻訳本が、今回のドラマの内容にもリンクするのかどうかが気になっています。上白石姉妹は、過去に「赤毛のアン」の舞台に出ていましたし、とくに姉の萌音は、NHKの「100分de名著」で原作を朗読したり、ラジオ英会話の連載で原作の翻訳に取り組んだり、もともと関わりが深かったのです。また、彼女はこんど「ジェーンエア」の舞台にも立つのですが、原作の「赤毛のアン」も、ドラマの「アンという名の少女」も、もともと「ジェーンエア」とは深い繋がりがありました。今のところ、萌音も、萌歌も、ドラマについては言及していませんが、おそらく「アンという名の少女」は見ているだろうと思うし、ましてNHK出版のスタッフが、今回のドラマのこと意識していないはずがないからです。◇ドラマが放送された当初、その衝撃的な内容に対して、従来の原作ファンや過去の映画などを見たファンからは、「内容の改悪」「原作への冒涜」だとの批判が上がりました。わたしも、その主張が間違いだとは思いません。実際、このドラマは、原作の内容と大きく違っています。しかし、そこには時代の必然性もありました。つまり、現在の歴史観が、原作の古い価値観を容認しきれなくなったのです。今回のドラマの制作者は、原作の価値観を意図的に否定したと言ってもいい。◇日本の原作ファンや、世界名作劇場などのアニメを見てきたファンは、このドラマの放送が終わった後も、相変わらずモンゴメリの描いた牧歌的な世界を愛し続けるでしょうし、萌音のファンのなかには、こんどの翻訳本を通して、はじめてモンゴメリの原作に触れる人もいるのだろうと思います。日本人にとっては、しょせん遠い外国の物語なのだし、それがかりに歴史の現実を美化したファンタジーだとしても、それはそれで、べつに構わないだろうと思う。ちなみに、GYAOでは、現在、2016年版の映画が無料配信中ですね。こちらのほうが、原作ファンやアニメファンには受け入れやすいはずです。◇ただし、カナダ本国では、そういうわけにもいかないのだろうな、と思います。周知のとおり、このドラマが放送された後、先住民へのジェノサイドの歴史が明らかになりました。もはや「赤毛のアン」の世界を、モンゴメリの描いたような牧歌的な物語として味わうことは、すくなくともカナダ人にとっては困難になってしまったように思う。今のところ、プリンスエドワード島やノバスコシアが、先住民に対するジェノサイドの現場になったという証拠はないけれど、そこに先住民のコミュニティがあったことは間違いないし、英語話者を中心とした「赤毛のアン」の物語の背後に、先住民やアカディア人や黒人に対する差別の歴史があった事実を、もはや無視することはできないと思います。カナダの歴史そのものが書き換えられようとしている今、「原作が正しい」「ドラマによる改変は間違っている」という理屈は、すくなくともカナダ本国では通用しなくなったように見える。◇ドラマが中断された理由はよく分かりませんし、シーズン4の制作がありうるかどうかも分からないけれど、もしかしたら、今回のドラマの制作中止は、最初から既定の方針だったんじゃないか?という気もしています。つまり、終わらせてはいけない現在進行形の歴史があるからこそ、この物語を、あえて宙ぶらりんのまま完結させなかったのでは?…とも思えるのです。カクウェットと、彼女の両親が、その後どうなったのか??ダイアナがアカディア人の少年と結ばれ、ステイシー先生が黒人男性と結ばれることは可能なのか??それは、ドラマの外側の現実世界で明らかにすべき事柄なのだと思います。
2022.03.07
いろいろと盛りだくさんでしたが…いまひとつ話の流れが分かりにくい。とくにダイアナの心の動きがよくつかめませんでした。まず手はじめに、ジェリーに対する一方的な決別宣告!ジェリーが可哀想!その後、ジョセフィンおばさんに背中を押されると、パリへの花嫁修行ではなく、進学を志すという賭けに出る。そして、妹のミニーメイから「いい子ぶった嘘つき」だと指摘されるや、なぜかアンの家に駆けつけて仲直りをする。…うーん。どういうこと??◇わたしが思うに…進学を諦めてパリでの花嫁修行を受け入れる。↓やむなく身分違いのジェリーとは別れる。↓しかし、ジョセフィンおばさんに翻意を促される。↓妹のミニーからも「いい子ぶった嘘つき」と指摘される。↓一転して、進学を目指すという賭けに出る。↓その勢いでジェリーとも仲直りをする。↓ついでにアンとも仲直りをする。…みたいな流れだったら、もっと分かりやすかったのですけどね。たんなる編集ミスなのでは?いずれにしても、ダイアナとジェリーの仲直りは、来週以降に持ち越しのようです。◇アンとギルバートの心の動きも、なんだか唐突。どうやら2人は、前回のダンスパーティーの夜あたりに、おたがいのことを急に意識しはじめたっぽいのだけど、その気持ちに従うべきかどうかを迷っている。頼みのジョセフィンおばさんも、かろうじて「真実は隠れている」などとと言うばかり。とくにギルバートにとって、アンを選ぶということは、医者としての成功を諦めることにもなりかねないし、のみならず、それはウィニフレッドと彼女の両親を裏切ることにもなる。そもそも、ギルバートにとって、ウィニフレッドへの恋心とは何だったのでしょう?はなから恋ですらなかったってこと??ウィニフレッドも、彼女の両親も、ギルバートのことを受け入れてくれてる善良な人だし、それをギルバートのほうから一方的に反故にするってのは、それはそれで、視聴者的には釈然としないかも…◇他方で、リンド夫人はすっかり人が変わったみたい!もともとは、アンの天敵であり、バッシュの天敵であり、ステイシー先生の天敵でもあったけれど、いまや最大の味方になっています。以前なら、「結婚して子供を産むのが女の幸せ!」みたいな考えだったのに、今じゃあ、「女はずっと抑圧されてきた!」みたいなことまで口にしている。どんだけ?(笑)アンに感化されたのか…それとも、評議会のオヤジどもから受けた屈辱が、よっぽど癇に障ったのか…そんなリンド夫人が、なかなかの策士っぷりを発揮して、評議会のオヤジどもを見事に黙らせました。そしてなんと、マリラが評議会の女性メンバーに!すごい社会進出!!アンの人生が動き出すのはまだまだこれからだけど、それより先に、ダイアナや、リンド夫人や、マリラの人生が変わろうとしている。◇それはそうと、バッシュとステイシー先生の2人。なにやら水辺でイイ感じ?!2人とも「人を殺したい」と思うほど世間に立腹したらしい。古臭い社会のしきたりに苦しめられてきたのですね。まったく予想してなかったけれど、これって、もしや恋愛フラグなの??だとしたら、バッシュは、ギルバートと違って、ものすごい恋愛巧者だよねえ!彼にとって人種ごときは何の壁でもないのかしら?ステイシー先生に会った瞬間から、なんかニヤニヤしてたし(笑)。もし、そういう流れなら、わざわざトリニダードからお母さんを呼び寄せなくて済んだよね。◇さて、その黒人のお母さん。べつに悪い人ではないけれど、身についた「白人のご主人様」にへりくだる態度を変えようとしない。それは、ちょっと滑稽であると同時に、評議会のオヤジどもとはまた別の意味で、やっぱり「古臭い考え方にとらわれてる」ってことでもある。彼女自身が時代の犠牲者には違いないけれど、このドラマのなかでの立ち位置は、ちょっと微妙です。◇カクウェットが、寄宿学校から命からがら脱走してきた。彼女を探しに出た男たちは、銃を抱えていた。シーズン2の、詐欺師の捕物騒動のときにも、馬にのった村の自警団が銃を片手に探しに出たけれど、無防備な子供でさえ殺すことがあったのでしょうか??かりに子供を殺した場合、それは殺人事件として問われることもなく、カトリックの教会権力によって闇に葬られるってこと?◇なお、コロナ禍で延期になってるようですが、その寄宿学校の遺骨問題の件で、バチカンのローマ法王がカナダを訪問する予定になっています。最近は「法王」ではなく、歴史教科書とおなじく「教皇」と言うらしい。ローマ教皇カナダへ。寄宿学校跡地に子どもの遺体多数。#アンという名の少女#アンという名の少女3https://t.co/Q2KKiCyXEt— まいか (@JQVVpD7nO55fWIT) February 10, 2022 日本では、近世のキリシタンが「被害者」と見なされることが多いけど、海外に目を向けると、むしろバチカンは「加害者」として数々のジェノサイドに加担している。両義的ではあるけれど、どちらも歴史の真実であるのに違いありません。
2022.02.10
今回は、いつにもまして現代的な内容。◇フランケンシュタインについて語り合う、ジェリーとダイアナ。ジェリーは、短期間のあいだに英語の読み書きを覚え、小説も読破できるほど上達したのですねっ!すごいっ!!…と思いきや、やはり読解力にはまだまだ限界があるようで、ダイアナとの教養の違いが浮き彫りに(笑)。そりゃそうだよねえ。◇そして、アンとダイアナが、そのことをめぐって信じられない大喧嘩!!あなたはジェリーのことを見下しているんだわっ!そして、きっとわたしのことも見下しているんだわっ!…と言わんばかりのアン。ええ~?!そりゃダイアナへの無理解が過ぎるのでは?ダイアナの心の広さを誰よりも知ってるのは、ほかならぬアンだったはずでしょ。もしかして、最愛の親友をジェリーに奪われた複雑な気持ちから、あるいは恋愛経験で先を越された劣等感から、やり場のない嫉妬心でもぶつけているの?◇それはそうと、女性の尊厳について、アンが徹夜で書き上げた記事は素晴らしい内容!女性は独立した人間で男性の付属品ではない。女性の身体は本人のみに属し、他人が勝手に触れるべきものではない。女性に拒絶されても無理強いする男性は、女性が何を求めているか女性本人よりも分かったつもりでいる。女性は男性と対にならなくても、この世に生まれた時から完成している。普遍的な真実が抽象的な表現で書かれていて、特定の事件について書いてあるのでもないし、特定の個人について書いてあるのでもない。でも、これを村人たちは、つい卑近な出来事に結びつけてしまうから、ただのスキャンダル報道のように受けとめられる。そもそも、あの時代に、この記事の内容をまともに理解できる人は少ないのだと思う。◇なぜアンは、これほど優れた記事が書けたのでしょうか?本人いわく、私、昔はいつも腹を立ててた。「女の子は何もできない、役に立たない」とか、「捨てても、たらい回しにしても構わない」って言われて。だけど、最近気付いたの。昔から私は私だった。今は愛されてるけど、愛されてなかった頃も価値がなかったわけじゃない。自分の価値を決められるのは自分だけ。他の誰でもない。…とのこと。つまり、自分の経験から獲得した哲学なのですね。でも、これって経験だけで書ける内容じゃないし、やっぱり本を読んで教養を身に着けたからこそでしょう。◇そんなアンの記事の内容を、あらためてギルバートが読み直すと、とたんに風向きが変わります。生徒たちは、アンに駆け寄って団結し、村人たちを巻き込んだデモ行進にまで発展する。そして、最後は、口をしばられた子供たちが「言論の自由は人権だ!」とのプラカードを掲げ、村人たちからは拍手喝さいが起こります。それまで抑圧されていた人々が一気に目覚めたのでしょうか?…この流れは、シーズン2の最終回に似ていました。ステイシー先生が、「進歩的な母親の会」に排斥されたことに対して、生徒たちが抗議したときですね。あのときは、ステイシー先生の進歩的な演説と、子供たちのジャガイモ発電のパフォーマンスによって、人々の考えを変えさせようとしたのですが…結果的にはリンド夫人の采配ですべて決まっちゃった感じ(笑)。ほかの村人たちは、なにやら付和雷同っぽかった。正直、今回も、あのときと同じように、ややご都合主義というか、予定調和的な感じがしました。ギルバートに説得された生徒たちも、デモ行進に随行した村人たちも、なんだか付和雷同という印象を拭えなかった。◇それにしても、メアリーの追悼記事のときと同様に、ギルバートの言葉だけが不思議な説得力をもってしまう。まったく同じことを主張してるのに、アンが前に立つと、人々の強い抵抗を生むけれど、ギルバートが前に立つと、なぜか丸く収まってしまう(笑)。これって、ギルバートの文才?タイミングとバランス感覚?人望と政治力?それとも、やっぱり不美人よりイケメンが有利ってこと?◇最後の場面では、評議会側の陰謀で印刷機が盗み出されます。要するに、言論弾圧ですね。保守層の、進歩派への妬みは昔から変わらない。不都合な言論を抑え込もうとする動きも現代と同じ。というより、やはり、これは「現代のドラマ」なのですね。
2022.01.28
テントサーカス?移動遊園地?…かと思ったら、物産の品評会だそうです。調べてみると、北米の各地では、《カウンティーフェア》と呼ばれる農業見本市があって、大規模な遊園地を会場にしたり、あるいは会場に移動遊園地を出没させたりするらしい。ピエロとか、曲芸とか、インチキ占い師とか、気球体験とか、何でもありのフェスティバルなのですね!気球から見た景色から察するに、海の見える岬のところが会場だったようです。あれってアヴォンリー村のすぐ近くですよね。あんな場所に、あんなにたくさんの人が集まるの?ウィニフレッドの一家なんて、わざわざシャーロットタウンからやってきたんでしょうか?◇ウィニフレッドの一家は、ワード医師と同じく開明的な人々で、黒人に対しても、まったく偏見がないようです。貧しいギルバートの境遇にも理解があるみたい。一方、アンとウィニフレッドは、見るからに似た者どうしだと思うけど、ギルバートをめぐっては恋敵になってしまいますね…。本当ならすぐに仲良くなれそうなのに。◇ダイアナとジェリーの恋はすごく順調!見かけ倒しのビリーなんぞと違って、ジェリーは、華奢な体のわりに力も強いし、頭も良くて保守的な考えにもとらわれていない!手にキスをしようとしたジェリーに、すばやく唇を捧げてみせるダイアナもなかなか大胆!こういうところは、アンよりもはるかに上手うわてです。まあ、インチキ占い師にまともに喰ってかかるような、純粋すぎるアンの幼さも憎めないけれど。◇ギルバートへの失恋が確定したルビー。さぞかしご傷心かと思いきや、いつのまにか別の男の子に心移りしてケロッとしてる!あっさりしたものですね…。なんと都合のいい性格なのでしょう(笑)。そう、心移りが早いといえば…かつてはバッシュやステイシー先生に敵対していたリンド夫人も、いつのまにか、すっかり味方に変わったようで、この人も、けっこう都合のいい性格です。◇品評会の夜のダンスパーティーは、あまりにも混沌としていてワケが分からない。老若の男女が入り乱れて、いろんな思惑や駆け引きが交錯する。そんななかで、またもビリーが卑劣なことをやらかします。ビリーみたいな奴の横暴さは、すでに周囲の誰もが承知しているはずなのに、それはなかば容認されてしまってもいて、結局、傷つけられた側が泣き寝入りすることになる。でも、アンはそういうことが許せない。わたしも、ビリーみたいな奴はとことんやっつけたい!でも、来週は、アンの正義感が暴走しそうな予感です(笑)。◇それにしても、黒人の赤ちゃんといい、仔馬の赤ちゃんといい、どうしてあんなに可愛くて人懐っこいのでしょう。見ているだけでメロメロです!…そういえば、前回の「フランケンシュタイン」の話の続きですが、バッシュの奥さんの名が "メアリー" であったことと、小説の作者が "メアリー・シェリー" であることには、きっと関係があるのだろうな、と思えてきました。フランケンシュタイン博士の創造物は、人間とおなじ知性的な存在でありながら、見た目が違うだけで「異端の怪物」と見なされてしまいます。その意味でいうと、あの黒人の赤ちゃんも、やはりフラケンシュタインの怪物と同じ境遇なのですね…。このドラマのシーズン3は、その悲しみについて考えるための物語なのかもしれません。
2022.01.22
マリラだけでなく、リンド夫人も黒人の子育てを手伝ってます!無償のボランティア?なんと親切な白人たちなのでしょうか(笑)。しかし、それももう限界で、バッシュは、新しい奥さんと再婚するか、あるいは赤ちゃんを養子に出すかを迫られる。そこで、彼の出した解決策は、トリニダードから実母を呼び寄せるってこと。なるほど!向こうでも白人の子供を育ててたし、白人社会での振る舞い方も心得てるかもしれない。でも、それで経済的に成り立つのでしょうか?◇ジェリーが、ダイアナに小説「フランケンシュタイン」を貸していました。彼女も、それを面白そうに読んでいる。ジェリーは、以前から、マシューと一緒に「フランケンシュタイン」を読んでいたけど、あれって、たぶんマシューの私物でしょ?ジェリーが英語の本を持ってるわけはないのだし。ジェリーは、はじめはアルファベットすら読めなかったのに、マシューと一緒にあの小説を一冊読み切ったんだろうか?だとしたら、すごい学習能力!アカディア人のジェリーが、イングランド人のダイアナに英語の本を貸すってのは、いわば文化的な逆輸入ですね。それにしても、何故、よりによって「フランケンシュタイン」なのでしょうか?◇このドラマのシーズン1の副題は、シャーロット・ブロンテの「ジェーン・エア」から採られていたけど、NHKのサイトによると、シーズン2の副題は、ジョージ・エリオットの「ミドルマーチ」から採られていて、シーズン3の副題は、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」から採られているそうです!知らなかった…しかし、そうだとしても、なぜに「フランケンシュタイン」なのか?NHKのサイトによれば、メアリー・シェリーも、その母であるメアリ・ウルストンクラフトも、進歩的な女性解放論者だった点が、アンの生き方に通じ合っている、とのこと。でも、いまのところ「フランケンシュタイン」を読んでるのは、マシューとジェリーとダイアナだから、アンとは関係ありませんよね… (^^;◇ところで、ダイアナは、アンに「スコットランドの風習」という本を貸していました。これまた文化的な逆輸入!そして、これを読んだアンは、さっそく《べルテイン祝祭》とかいう謎の火の儀式を決行(笑)。これって、きっとケルト人の儀式なのでしょう。ゲーテの「ファウスト」に出てくるワルプルギスの夜みたいな。ケルト人にとっては、先祖や大地を敬う祭りなのだろうけれど、キリスト教徒から見れば、あれは異教徒の祭りであり、悪魔の儀式だったはずです…。◇学校はすっかり恋の季節で、フォークダンスの授業では「男女が踊っただけで妊娠する」という噂がっ!彼らは、何が真実で何が迷信なのかを知りません。でも、医学に通じているギルバートだけは、妊娠や出産の真実を知っています。まあ、カスバート家の雌馬だって、交尾をしたうえで仔馬を出産しているのだけど。その一方で、ギルバートは、ミクマク族の民間療法にも関心を示しています。西洋の医学者たちは、それが科学なのか、非科学的な習俗なのかを理解していない。考えてみれば、アンが決行したケルト人の儀式だって、それが神の祭りなのか、悪魔の祭りなのか分からない。信仰と科学、習俗と文明、迷信と真実…の葛藤。そこらへんが「フランケンシュタイン」へ通じるテーマでしょうか?◇それにしても、ギルバートは、子供なのか大人なのか謎ですよね(笑)。助産の知識と技能を持っていたり、若い夫婦と当たり前のように同居したり、そして今回は、大人顔負けの追悼記事を書いてみせました。彼の書いたメアリーの追悼記事は、村人たちをおおいに感動させました。バリー夫妻にいたっては、ブライス家の土地で採れるリンゴを買い取って、それを英国に輸出すると決めたようです。これでバッシュの子育てにも余裕ができますね。…しかし、新聞の追悼記事って、これほどまでに絶大な影響力を発揮するものなの?ギルバートって、アンより文才があるのでは?!
2022.01.15
あらためて人種や民族の問題が浮き彫りになりました。黒人、ミクマク族、アカディア人。そして、アンの出自。シーズン3の第1話では、ダイアナがイングランド系だと明かされたのですが、今回は、アンがスコットランド系だと分かりました。◇まずは、黒人問題。母を亡くした黒人の赤ちゃんは前途多難です…。バッシュは男手ひとつで育てられるでしょうか?マリラが育児を手伝うのも困難です。ただでさえ、彼女には子育ての経験がないし、アヴォンリーの人々の多くは、黒人に対して差別的です。メアリーの葬儀には、ボグ地区の女性たちや黒人牧師が集まりました。やはり黒人のコミュニティを頼るしかないのかなあ…。凧を見上げる黒人の赤ちゃんは可愛かったです。◇一方、先住民の寄宿学校では、外部からの訪問者を排除して、生徒たちを隔離しています。カクウェットは、髪を短く刈られ、粗末な制服を着せられ、母語を禁じられ、英語の名前を与えられ、逆らえば、カトリックの修道女から体罰を加えられる。ちなみに、先住民への同化政策を推進したのは保守党の初代カナダ首相です。原作では、マリラが保守党支持者、リンド夫人が自由党支持者ですが、この作品ではリンド夫人が先住民への教育政策に加担しています。むしろ本人は善意のつもりなのかもしれません。一方のマリラは、先住民に恐怖心を抱いていて、アンの考えとは相容れません。やはり人種問題は厄介だし、アヴォンリーのような村では、なるべく関わらないほうが穏やかに暮らせるのでしょうね…。◇そんなかで、ダイアナがアカディア人の集落に乗り込んだのは驚き!ジェリーは住み込みじゃなくて、アカディア人の集落からグリーンゲイブルズへ通っていたんですねえ。アカディア人の雰囲気が分かったのは今回の収穫。フランス系とはいえ、だいぶ粗野な雰囲気ですが…(笑)集落の子供たちは、英語が話せないようです。そんななかで、ジェリーは、例外的に英語が話せます。カクウェットがそうであるように、ジェリーも当時としては広い視野をもった若者なのですね。◇ちなみに、アカディア人は、北米大陸へ最初に入植したフランス系移民です。英国系のピルグリム・ファーザーズよりも10年以上早く入植しています。彼らが入植した土地は、当初、ギリシャ語由来の「アカディア=理想郷」の名で呼ばれました。本来のギリシャ語は「アルカディア」ですね。(ただし、ミクマク語由来説もあるそうです)アカディア人の呼び名は、そこから来ています。しかし、彼らの土地アカディアは、スコットランド系移民に奪われて「ノバスコシア=新スコットランド」と名を変えます。もともとフランス人はミクマク族と同盟関係にあったので、アカディアへの入植の際も、ミクマク族の協力があったようです。18世紀のフレンチ・インディアン戦争のときも、アカディア人の英雄ジョゼフ・ブルッサールは、ミクマク族と共闘しています。その意味で、ジェリーの先祖とカクウェットの先祖は仲間どうしです。しかし、この戦いの過程で、多くのアカディア人は現在の米国南部などへ移住させられました。いまなお彼らは、ルイジアナ~テキサス州などで「ケイジャン(アケイディアンの訛り)」と呼ばれています。ちなみに歌手のビヨンセは、ジョゼフ・ブルッサールの子孫だそうです!ジェリーの一家は、そんなアカディア人の生き残りだったのですね。◇さて、ノバスコシアの州都ハリファックスには、アンの両親の出自について記録している教会がありました。そこで、アンの両親はスコットランド出身だと分かった。つまり、アンの両親は、スコットランド人がアカディア人を駆逐したノバスコシアへ、19世紀以降に入植した人たちなのです。そのハリファックスの町は、いまや先住民の同化政策の拠点になっています。やはりノバスコシアは戦いの歴史をとどめた場所であって、アンやダイアナの出自も、それと無縁ではないのですよね。17世紀以降、スコットランド人やイングランド人は、アカディア人や先住民を相手に殺し合いをしてきたのだから。それどころか、⇒ 前にも書いたように、14世紀の英国史にまで遡れば、イングランド人とスコットランド人も戦っていました。つまり、ダイアナの先祖とアンの先祖でさえ、かつては敵どうしでした。イングランド系のダイアナと、スコットランド系のアンが仲良くなり、(イングランド系の?)ギルバートと、アフリカ系のバッシュが仲良くなり、イングランド系のダイアナと、アカディア人のジェリーが仲良くなり、スコットランド系のアンと、ミクマク族のカクウェットが仲良くなる…そういう物語になっています。
2022.01.05
CBCとNetflixによる「アンという名の少女」は、シーズン3で中断したまま、制作が止まっています。一部では《先住民問題》を扱ったことが、打ち切りの原因ではないか、とも噂されています。◇しかし、先住民問題を扱うのは、当初からの既定方針だったはずです。たとえば、すでにシーズン1の第5話では、学校を無断でサボっていたアンが、ひそかに「イギリスとカナダの歴史」という本を読み、偶然ページを開いたサスカチュワン州の歴史を学んでいます。これは、あきらかに、その後の伏線です。また、シーズン2の第2話では、下宿人のダンロップが、ダイアナのピアノ伴奏で、アリス・ホーソーンの「The Friends We Love」という曲を歌うのですが、わたしが気になっていたのは、アリス・ホーソーン(=セプティマス・ウィナー)が、じつは「10人のインディアン」の作者でもあったということです。この曲のもともとの歌詞は、インディアンの子供がひとりずつ消えていく恐ろしい内容です。◇今年の5~6月にかけて、カナダの先住民寄宿学校の跡地において、子どもの遺骨や墓が大量に発見されたそうです。先住民寄宿学校というのは、事実上の強制収容所だったのですが、まさに「10人のインディアン」で歌われているような、恐ろしい歴史が存在したことが裏付けられつつあります。ブリティッシュコロンビア州では182の墓と251人の遺骨が、サスカチュワン州では751もの墓が見つかったそうです。彼らの死因については報じられていません。https://www.tokyo-np.co.jp/article/115351近年のカナダ政府は、こうした歴史の調査に積極的に取り組んでおり、それを一般に公表したうえで、公式な反省や謝罪も行ってきました。カナダ政府も、CBC公共放送も、けっして歴史を隠蔽しようとしているわけではありません。したがって、「アンという名の少女」の制作打ち切りの背景に、負の歴史を隠蔽しようとするカナダ側の意図があるとは考えにくい。むしろ、下記の年表を見れば分かるように、制作中止が発表された2019年の時点でいえば、米側(トランプ政権)のほうが後ろ向きの姿勢を示していました。まさに、この時期、米政府とカナダ政府の方針にズレが生じていたことが分かります。20082009201520172018201920202021スティーブン・ハーパー首相が過去の先住民への扱いを謝罪。真実和解委員会(TRC)が発足。米オバマ大統領が先住民族への過去の暴力や虐待を認めて謝罪する法案に署名。ジャスティン・トルドーが首相に就任。TRCが最終報告書を発表し、当時の政策を「文化的なジェノサイド」だったと認める。ドナルド・トランプが米大統領に就任。CBCで「アンという名の少女/シーズン1」が放送、Netflixで世界配信。CBCで「シーズン2」が放送、Netflixで世界配信。米トランプ大統領が先住民族への差別発言で抗議を受ける。CBCの社長が、Netflixとの共同製作をやめると発言。CBCで「シーズン3」が放送。Netflixで「シーズン3」が世界配信。NHKで「シーズン1」が放送。ジョー・バイデンが米大統領に就任。先住民寄宿学校の跡地で大量の子どもの遺骨や墓が発見される。NHKで「シーズン2」が放送。NHKエンタープライズで「シーズン3」までディスク化。トランプ政権からバイデン政権に変わったことは、CBCとNetflixの関係にも変化をもたらすかもしれません。かりにドラマの制作が再開されることになれば、より一層、過去の負の歴史に向き合う必要が強まるでしょう。ちなみに、モンゴメリの「赤毛のアン」は、村岡花子が1952年に邦訳して以来、とりわけ日本において高い人気を誇ってきました。朝ドラの「花子とアン」も、その関連作品だといえます。したがって、「アンという名の少女」がNHKで放送され、それが日本で反響を呼ぶことは、大きな意味をもちます。原作の評価と同様に、ドラマの評価も多くを日本に負っています。◇話を戻しますが、先住民に対する残虐な同化政策を推進したのは、カナダ初代首相のジョン・A・マクドナルド(保守党)でした。プリンスエドワード島のシャーロットタウンにも、彼の銅像があったそうですが、抗議を受けて先ごろ撤去されたとのこと。なぜシャーロットタウンに彼の銅像があったのか分かりませんが、(1864年のシャーロットタウン会議を記念したものかもしれません)モンゴメリの「赤毛のアン」原作には、アヴォンリー村の住民のほとんどが保守党支持者だったとあります。おそらく当時は彼の政策が広く支持されたのでしょう。なお、シーズン1の第6話では、マリラたちが首相演説を聞きにシャーロットタウンに出かけていますが、ドラマの時代設定に重なる1896年ごろには政権が交代していて、自由党のウィルフリッド・ローリエが首相に就任しています。◇北米で先住民寄宿学校を運営していたのは、キリスト教会でした。ただし、それはアヴォンリーの人々が信仰していた長老派教会ではなく、ケベック州のフランス系住民などが信仰していたカトリック教会です。北米においては少数派のキリスト教徒たちですね。その本部は、いうまでもなくバチカンです。カトリック教徒は、イギリス系よりもフランス系・スペイン系の白人に多いので、北米大陸においては北部よりも南部のほうに多く、さらに北米大陸よりも南米大陸のほうに多いわけですが、彼らはしばしば黒人や先住民に対して残虐な政策をとっています。もちろん、長老派のようなプロテスタントの人々も、黒人や先住民に対して差別的だったとは思いますが、どちらかと言うと、保守的なプロテスタントは、異人種・異民族に対して距離をとって生活する傾向が強く、そのぶんだけ黒人や先住民に対しても暴力的になりにくく、また奴隷制への依存も小さかったために、プロテスタントの多い北部地域は、カトリックの多い南部地域よりも、早い時期に奴隷制を終わらせることができました。これに対し、カトリックの人々は、なまじ黒人や先住民との生活圏域が近いだけに、しばしば残虐にもなりやすいし、また混血もしやすいのです。北米よりも南米のほうが混血割合が多いのはそのためです。古代からの歴史を考えてみても、ヨーロッパ北部に住むゲルマン人やアングロサクソンに比べて、地中海沿岸にすむラテン人のほうが、はるかにアフリカ人やアラブ人との生活圏域が近かったし、そのぶんだけ奴隷への依存度も高かったのです。
2021.12.25
黒人のメアリーが敗血症で死ぬ、というエピソード。正直、ちょっと唐突でした。黒人夫婦が村に移住してから、いつのまにか1年以上が経ったという設定になっていて、夫婦はそのあいだに、村のコミュニティに溶け込むための努力をしてきたらしい。でも、そんなことをセリフだけで説明されても、いまいち実感が湧かないのですよね…。◇どうやら、セリフから察するに、1.メアリーは敬虔なキリスト教信者で、料理も上手で、 ボグ地区でも大勢の人を招いて復活祭を主催していた。2.去年はアヴォンリー村でも復活祭を主催したけれど、 参加してくれる人は少なかった。3.アンは、メアリーからスパイシーな料理を学んでいる。4.バッシュは将来にむけて貯金をはじめている。…ってことのようです。どうせなら、まるまる1話分を使って、そこらへんのエピソードをちゃんと描いてほしかったですね。そうでないと、村人たちと黒人夫婦との具体的な関係性がよく見えないし、去年は復活祭に参加しなかったバリー夫妻が、自宅の庭を使わせてくれるという暖かいエピソードも、いまひとつ実感をともなってこない。そもそも、黒人夫婦が復活祭を準備するだとか、将来に向けて貯金を始めてるとかいうけれど、バッシュの収入源が何なのか、まったく謎です(笑)。◇たった数週間のうちに死んでしまうという話も、あまりに唐突だったし、それまでのあいだに、どれほど体が弱るものなのか分からないけれど、いくら復活祭とはいえ、「死者送りのパーティ」をするという発想も、常識ではなかなか理解しにくいところがありました。片方では、先住民への同化政策が進行してるというのに、復活祭のバリー家の庭のなかでだけ、あたかも人種差別がなくなったかのような綺麗ごとの世界は、どう受け止めてよいのか悩ましかったです。◇◇…それはそうと、黒人の赤ちゃんは、めちゃめちゃカワイイ!いつも目をぱっちり開いて、大人を見上げてるよね!アンは、子守りの経験が豊富なので、マリラやマシュー以上に赤子の世話が得意なのだけど、どうやら、ジェリーもおむつ替えができるみたいです。ジェリーはほんとに偉いなあ。
2021.12.17
アンと、ステイシー先生と、ウィニフレッド。なんだか3人とも似てます…病院で、ガイコツ相手にひとりで喋りつづけるウィニフレッド。馬車に乗って、マシューの隣でひとりで喋りつづけるステイシー先生。よくいえば、想像力が豊かだけど、悪くいえば、ちょっと妄想癖が強い?(笑)まあ、自由奔放でお喋りなんですね。マシューも、ギルバートも、そういう女性が好みなのかもしれません。◇ギルバートの家に、黒人のゴロツキ息子がやってきました。やれやれ。厄介ですねえ…案の定、酒を飲んでは悪態を吐き、亡き父の部屋を荒らして去っていきましたが、まあ、下手に居座られるよりはマシかも。そもそもヤツは何しに来たんでしょう?わざわざ無賃乗車してアヴォンリーくんだりまで。とくに金目のものもないのだし、もう来ないことを祈りますが、また来るのかしら?◇ノヴァスコシアの孤児院では収穫なしでしたね。昔のトラウマだけが蘇って、かえって両親への疑念が増してしまった。あくまでも、ジョセフィンおばさんが出発前に語ってくれた、> 突き止めた事実がよくても悪くても残酷でも、> これだけは忘れないで。> 今ここにいるあなたは、そのままで素晴らしいのよ。という言葉を信じるべきだと思います。なお、孤児院の描写を見て、宮崎吾朗の「アーヤと魔女」のことを思い出しましたが、アーヤのような強さは、本当に救いだなと思います。◇マリラは、アンがミクマク族の集落を訪ねたことに激怒し、「野蛮人に殺されていたかもしれないのですよ!」などと叫んでいました。実際、カナダ本土では、ほんの19世紀末まで先住民の反乱があったのだし、白人と先住民が殺し合ったのは、けっして過去の話ではなかったのだから、マリラの認識も、あながち偏見と言いきれなかったでしょう。まあ、白人と先住民のどちらが野蛮だったか分かりませんが。◇それはそうと…マシューとマリラの台詞、日本語訳がいよいよ気になってきました。やっぱり、姉が弟に敬語を使ってるし、弟が姉にタメ口を使ってるのですよね。
2021.12.12
シーズン3がスタート。先住民との交流が描かれました。◇アンは、先住民の集落にひとりで乗り込むほど勇敢!しかも馬に乗って!ステイシー先生も、アンの書いた記事を評価してるところを見ると、先住民に対する偏見はないようです。正直、わたしだったら、あそこまで勇敢にも寛容にもなりきれないかなー。たとえ偏見がないにしても、生活習慣の違いに触れるだけで、すぐ気が引けてしまいそう。マリラは、先住民にはだいぶ不寛容だけど、なぜか黒人の赤ちゃんには夢中な様子(笑)。ギルバートも、何の抵抗もなく黒人夫婦を先祖の家に住まわせてます。もしかして、ごはんが美味しいから満足してる?でも、あの調子で子供が増えていったら、ブライス家はいずれ黒人だらけになっちゃうよね。◇現在でも、プリンスエドワード島には、ミクマク族の保留地があるようです。当時のカナダの白人は、よほどの理由がなければ、先住民とも黒人とも交流がなかったろうし、アンや、ギルバートや、マリラのように、寛容かつ勇敢な人がいたとすれば、かなり特殊だったと思います。◇ところで、ダイアナの家系って凄いんですね…。ケンジントン宮殿の人たちと遠戚ってことなので、なにやら英国王室にも所縁がありそうです。ダイアナの祖先のペンブローク卿は、エドワード1世が1303年の侵攻でスコットランド占領に成功したとき、イングランド代表として平和協定に関わったらしい。ペンブローク卿の娘シャーロットがカンタベリー伯爵と結婚したので、ケンジントン宮殿の人たちと遠戚なのだとか。ダイアナが、わざわざパリまで花嫁修業に行くのも、この家系の故だそうです。ちょっと信じられません。そんな花嫁修業ってあります?でも、大叔母のジョセフィンが恋人に出会って、自由な人生を手に入れたのも、同じパリですよね。人生、何があるか分からない。◇さて、アンは、自分のルーツを辿るため、ノバスコシアの孤児院へ行くようです。マリラとマシューはとても心配していましたが、ステイシー先生は、さらっと勧めていましたよね。ステイシー先生は夫と死別してるらしいけど、わりとドライな家族観の持ち主なのかしら?どうせなら、孤児院まで付き添ってくれればいいのに!ギルバートが、毎週土曜にシャーロットタウンへ通って、医者の研修をしてるらしいので、アンは、まずギルバートと一緒にシャーロットタウンへ行って、そこからコールと一緒にノバスコシアへ向かうようです。
2021.12.05
シーズン2の最終回です。前回の騒動を受けての解決編でした。ステイシー先生の進歩的な演説と、子供たちのジャガイモ発電によって、村人たちの古い考え方を変えさせようという作戦だったのですが…どちらかというと、リンド夫人の采配ですべて決まっちゃった感じでした。ほかの村人たちは、ほとんど付和雷同?偏見や誤解が解けたという感じでもないし、ビリーの悪事がただされたわけでもないし、ややご都合主義というか、いまいち説得性の乏しい、なし崩し的な展開で、なにやら予定調和的に解決しちゃった印象です。マリラとリンド夫人が、あんなに激しくバトルするとは思わなかったけど、そもそも女性教師「排斥派」から「容認派」へ180度急転するという、リンド夫人の極端な役どころに、ちょっと無理があった気がします。◇丸暗記教育ではなく、「考える力」を育てる教育こそが大事というのは、現代の日本にも通用する主張です。それこそが人間社会に進歩や変化をもたらす。子供たちの夢が世界を変える力になる。ただ、人間社会の進歩にはプラスとマイナスの両面があるのだから、それを「世界に増大する善」とまで呼んでよいものか、そこはやや違和感をおぼえます。大仰でこじつけっぽいタイトルだと思いました。…まあ、とりあえずキツネが助かったのは良かったですけど。◇コールは、学校に戻るどころか、家も村も捨てて、シャーロットタウンへ去ってしまいました。ここでもステイシー先生はちょっと無力でした。彼がアヴォンリーへ戻れる日は来るのでしょうか?◇ギルバートは何を悩んでいたのかよく分かりませんでした。農場の柵を取り付けられないのがそんなに辛かった?考えを改めたギルバートは、バッシュに「農場の計画は変えない」と宣言したのですが、じゃあ、医者の勉強のほうはどうするの?そして、バッシュは夫婦でアヴォンリーに来るのでしょうか?密売をやってるとかいうヤバそうな息子は大丈夫? ◇…てなわけで、来週からはシーズン3がはじまります。
2021.11.24
すごかったー。これまでの内容が吹っ飛ぶぐらいの衝撃回。いろんな事件が起こりすぎて、ちょっと気持ちが追いつかない。見終わったあとの動悸がおさまりません。シーズン2では、いちばん面白い回でした。◇たまに登場する森のキツネって、いったい何の意味があるのかと思ってたけど、こういう伏線だったのかー。長い伏線だったなー(笑)。それから、黒人のバッシュは、アヴォンリーで何やってるの?と思ってたけど、ギルバートと一緒に農場をやるつもりだったのですね。しかし、黒人スラムで出会った女性と別の道を模索するようです。◇さて、新しく赴任した女性教師のステイシー。ジャガイモ判子をやったり、ジャガイモ発電をやったり、芸術にも学問にも理解がありそうな人です。まるで「大人になったアン」ってな感じで、見た目もちょっと似てるし、きっとアンとは仲良くなれるんだろうと期待が高まる。事実、アンも、ほとんど一目惚れのように先生のことが好きになります。ところが…アンの言動は空回りして、かえって警戒されることに(笑)。先生にいろんなことを教えようとするあまり、プリシーの破談の話までベラベラ喋るからですね。おかげで、「噂の危うさと他人への思いやり」について熟考せよと、アンは先生から厳しい宿題を出されてしまいます。まあ、もとはといえば、村の大人たちこそが、色んな噂を立てる悪い見本なのですよね。そのいちばんの代表は、お隣のリンド夫人。さっそく「進歩的な母親の会」から悪い噂を聞きつけて、ステイシー先生にむかって、「女性教師は容認できない」とか、「自転車もズボンもやめてコルセットをつけろ」とか、「マリラのようなオールドミスになるのは良くない」とか、余計なことをベラベラと喋っています。リンド夫人は、クリスマス会のときにも村を仕切っていましたが、どうやらアヴォンリーではかなりの発言力をもってるらしい。彼女が「進歩的な母親の会」と親密なのも意外ですが、それでいてマリラと仲良しなのは、絶妙なバランスというべきですね。◇一方、不登校のコールのことを知らされたステイシー先生は、アンに対して詳しい説明をするよう求めます。アンは、彼の同性愛の件もふくめて、コールについての詳細を話すべきか躊躇しましたが、ステイシー先生いわく、これは「噂話」ではなく「必要な話」なのだからと。そして、話を聞いたステイシー先生は、さっそくコールの家を訪ねますが、これが大きな災いを招きます。親に隠していた不登校がバレてしまい、ビリーによって森の隠れ家も破壊されたコールは、自暴自棄になってビリーにとつぜん襲い掛かり、倒れたビリーはストーブで火傷を負う羽目に。はたしてステイシー先生が、アンから無理やりコールの話を聞き出したのは正しかったのでしょうか?◇まあ、もともと、親に嘘を吐いて不登校を続けていること自体が、正常な状態とはいえませんし、隠していても、いずれバレるに決まってるわけだし。今までそれがバレなかったのは、前任の教師がコールの不登校を放置していたからです。むしろ、そっちのほうがおかしいのですね。そう考えれば、ステイシー先生が、コールの話を聞きだしたのは正しかったと思います。とはいえ、今後の彼女は前途多難です。リンド夫人に代表される村人たちの偏見と闘い、自称「進歩的な母親の会」の保守性とも闘い、「勉学は不必要」と思っているコールの親にも対峙せねばならない。つまり、彼女は、たんに学校の生徒だけではなく、村の大人たちをも啓蒙していかなければならない。それは途方もないほど困難なことだけど、きっとアンはその姿を見て多くを学ぶのでしょうね。ステイシー先生なら、前任のエロ教師とは違って、ビリーの悪事をも見過ごさないはずだし、コールの芸術性を開花させるために、彼を森の秘密基地から外の社会へ引き出してくれるはずです。◇…なーんて、口でいうのは簡単ですが、実際、世の中の慣習と戦うのは容易なことじゃありません。ただでさえ、ステイシー先生は村の「よそ者」なのだし。かりに現代の日本であっても、世間的な既成概念を変えていくのは大変ですよね。たいていは既存の考え方に同調してしまうのがオチ。そうでなければ、周囲から「空気の読めない人間」と排除されてしまうから。このドラマには、「進歩的な母親の会」という保守的な組織が出てきますが、現代の日本にだって、ガチガチの思考を脱しない婦人会みたいな組織はあります。いつの時代も同じです。はたしてステイシー先生は、どうやって村の大人たちに立ち向かっていくのでしょうか?◇◇ところで、話は変わりますが、今回、あらためて気づいたことがありました。原作では、マシューのほうが兄でマリラが妹ですが、このドラマでは、それが逆なのですよねえ…。それについては、ドラマを見始めた当初にいちど確認していたのですが、いつのまにかその設定を忘れてしまって、またついマシューのほうが兄だと思い込んでいました。しかし、これには日本語の翻訳の問題もあると思います。NHKの翻訳では、マシューがマリラに呼びかけるときの「You」を、たぶん「おまえ」と訳しているはずです。弟が姉のことを「おまえ」と呼ぶのは一般的ではありません。本来なら「姉さん」とでも訳すべきだろうと思います。しかも、弟は姉に対してタメ口、姉は弟に対して敬語です。もしかしたら、翻訳者も姉弟ではなく兄妹と勘違いしているのでは?
2021.11.20
あらすじネタバレ感想です教師のフィリップスは、授業中にもプリシーへ色目を使ってたから、てっきりロリコンのエロ教師だと思ってたのですが…まさかゲイだったとは。つまり、プリシーの側の一方的な片想いだったってわけ。フィリップスは女生徒の恋心を利用していたのですね。プリシーが、結婚式を放棄して飛び出したのは、学業への夢を諦めきれなかったからであって、相手がゲイであることに気づいたからではないと思う。まあ、おたがいに自分の本心を偽るような結婚なら、破談にするのが、結果オーライですよね。しかし、そうはいっても、プリシーは、もっと早く偽りに気づけなかったのか。ゲイの男性が、知的でエレガントで、ちょっと素敵に見えるというのは、わりとありうることなのかな。恋は盲目ってやつ?結婚の直前になって急に視界が開けた?プリシーは、彼がゲイであると知ったら、それを受け入れられるのでしょうか?アンは、性を超えた人間的な結びつきのことを、「ライフメイト」という言葉で表現していたけれど。フィリップスは、今後どうするでしょうか。アヴォンリーに残るのか。村を出て行くのか。偏狭な村のなかで本性をカミングアウトするよりも、都市部に出て行ったほうがまだよさそうな気はするけど。それでもなお「事実を認めまいとしてもがく」のかしら?◇シャーロットタウンには、黒人だらけのスラム街。はたして当時のプリンスエドワード島に、あのような地区があったかどうか分からないけど、カナダの都市部にならあったかもしれません。一方のギルバートは、助産は出来るのに、注射器が苦手って何?(笑)いずれにせよ、ギルバートとセバスチャンには明るい未来が見えてきた。ところで、ギルバートとセバスチャンって、ふだんの生活費はどうしてるんだっけ?船員として働いた蓄えがたっぷり残ってる?セバスチャンは家で何してるの?
2021.11.14
あらすじネタバレ感想です今回は、かなり過激な内容。自由奔放な文化人(ほとんど変人?)たちのパーティー。原作からは想像もつかない世界です。保守的なアヴォンリー村とも真逆の世界。◇しかし、アンは根っからの自由人なので、このコミュニティにすぐに溶け込んだようです(笑)。同性愛者であることに苦しみ、ケガで右手が効かなくなって、すっかり希望を失っていたコールも、このパーティで自由と未来の光を見出したみたい。…逆に、まったく馴染めないのはダイアナです。自由すぎる変人たちに対しても、同性愛者だった大叔母に対しても、ひたすら嫌悪感ばかりが湧き上がってくるのですね。たしかに大叔母のジョセフィンは、甥にあたるダイアナの父とは価値観がまるで違うし、まして、母とも住んでいる世界がまったく違います。シャーロットタウンのパーティの世界と、アヴォンリー村の保守的な世界とでは、ほとんど天地がひっくり返っているようです。そこでは、アンとダイアナの立場も逆転してしまう。ふだんのアヴォンリー村では、アンのほうがダイアナの美しさに憧れています。しかし、シャーロットタウンでは、髪を短く切ったアンのほうが美しく輝いてるし、同性愛者のコールも創造的な少年に見えてくる。逆に、気後れしたダイアナは周囲から埋没しています。実際、田舎の少女が、あんなイカれた世界に溶け込めるはずないですよね…現代のわたしですら、アンよりもダイアナのほうに共感してしまいます…(^^;◇それにしても、当時のプリンスエドワード島に、あんな進歩的な文化人のコミュニティがあったのかしら?…と思うけど、ジョセフィンとガートルードが、「パリで出会った」という話を聞いて、…ああ、これには実際のモデルがあるのだな、と思いました。当時のパリは、いわゆるベルエポックの時代です。芸術家たちが自由を追い求めて奔放な活動をしていました。そこには、シドニー=ガブリエル・コレットのような、女性の同性愛者もいました。しかし、コレットより、もっと近いと思われるモデルがいます。それは、ガートルード・スタインです。彼女はアメリカの作家ですが、20世紀の初めごろにパリで暮らしていて、さかんに芸術家たちのサロンを開いていました。さすがにプリンスエドワード島には住んでなかったと思うし、彼女は1874年に生まれて、1946年に死んでますから、ジョセフィンの恋人の「ガートルード」よりは、だいぶ若いし、ちょっと時代がずれている気はします。しかし、脚本家が彼女をモデルしたのは間違いないでしょう。…当時のプリンスエドワード島に、そんな進歩的な人が暮らしていたというのは、かなり大胆すぎる解釈ではありますが、すくなくとも、19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパや北米に、そのような自由な人達が生きていたのは事実なのです。◇逆にいえば、モンゴメリが描いた「赤毛のアン」の世界は、当時の価値観から考えても、よくいえば、牧歌的で懐古趣味的。わるくいえば、保守的なのですよね。このドラマは、いちおうモンゴメリの原作を基礎にしてるけど、じつは、さまざまな点で、モンゴメリの原作をきびしく批判してもいます。それはおもに、教会の保守性の問題や、人種差別の問題なのですが、さらにいえば、性の自由、服装の自由、表現の自由、職業の自由…などにかんする問題も含まれる。今回は、それがもっとも過激な形で表現されたと思います。◇もちろん、かならずしも自由は良いことばかりではありません。たとえば、ベルエポックの文化には、退廃的な側面もあります。当時の自由な文化人たちは、恋や、酒や、貧しさに身を滅ぼしていったからです。それにくらべれば、慎ましいアヴォンリー村の生活のほうが、はるかに美しくて理想的に見えてしまうのも事実。すくなくとも、日本の従来の「赤毛のアン」の読者は、そういう牧歌的な美しさにこそ憧れてきたのです。だから、今回のような奇天烈なパーティには、正直、ちょっと面食らってしまうところもある。◇第7話のサブタイトルは、「気分が変わるように記憶も変わる」となっています。おそらく今回の自由人たちのパーティは、登場人物の記憶を変えるための仕掛けなのでしょう。マシューとマリラは、アヴォンリー村での過去の記憶に苦しめられてきました。アンや、コールや、ギルバートも、いまだにさまざまな不遇と抑圧とに苦しんでいます。しかし、彼らは、新しい時代の思潮と未来を手に入れようとしている。現在の価値観が変われば、過去のとらえ方も変わっていくのかもしれません。きっとマリラの病気も、それによって治っていくのでしょう。
2021.10.28
あらすじネタバレ感想です今回はクリスマスの回。女の子が男の子の格好をして、男の子が女の子の格好をして、白人ばかりの村に黒人がやってきて、いろんな壁が取り払われていきます。◇ギルバートが村へ戻ってきて、大好きだったドレスも自分のもとへ戻ってきて、ギルバートと2人でろうそくの火を吹き消して、クリスマスプレゼントに小さな辞書を貰って、ジェリーからも拙い文字のクリスマスカードを貰います。(ANNEの”E”の字が抜けてたけどね!)子供のころから寂しかったマシューと、同じように孤独だった車椅子の老人には、神さまからのささやかな恩寵がもたらされて、最後に、イジワルな子供には罰が下される。…クリスマスとしては定番の展開ですね。◇グリーンゲイブルズのクリスマスツリーは大きかったし、教会の飾りつけも華やかだったし、クリスマス会も賑やかだったし、全体的に、寛容で温かなエピソードになっていました。(エロ教師とビリーの母親だけは不寛容でしたが)シーズン2の前半で登場した白人のよそ者は、とんでもない極悪人だったけど、ユダヤ人のよそ者や、黒人のよそ者は、けっして悪い人ではありません。聖書にあるとおり、人は見かけによらないのですね。…ギルバートの家の亡き父の部屋には、彼が生前に読んでいたホイットマンの「草の葉」がある。奴隷廃止論者で、両性愛者で、理神論者だったホイットマン。アンにとって大事な本は「ジェーン・エア」だけれど、ブライス父子にとって大事な本は「草の葉」なのかもしれません。◇なお、クリスマス会で披露された出し物は、よくあるイエスキリストの降誕劇ではなく、プリンスエドワード島を題材にした「奇跡の島の物語」。神様やイエスに感謝する物語というより、どちらかというと英国女王に感謝する物語って感じでした。(^^;
2021.10.19
あらすじネタバレ感想です. 今週も、お姫様ごっこからはじまる。お姫様と王子様に扮してキスの練習です。思春期になって異性を意識しはじめると同時に、自分の容姿のことも気にせざるをえなくなる。今回のテーマは「容姿の美醜」ってことでしょうか?エロ教師のキスから汚い便所掃除まで、ほぼエロネタと下ネタでしたが…。性的なことに関心をもちはじめたアンに対して、リンド夫人は「叱りつけてムチ打てばいい」と言うけれど、マシューとマリラは、そういう抑圧的な教育を良しとしません。思春期の少女をどう見守っていけばいいのか、という微妙な問題です。◇原作でも、アンは、自分の容姿にコンプレックスをもっていて、赤毛を「にんじん」呼ばわりされたときは、ギルバートを石板で殴りつけて、長いあいだ絶交します。しかし、ギルバートの場合は、ただの異性へ照れ隠しなので、さほどの悪意もなく、最終的にはアンが美しく成長することで、その容姿の問題も自然と乗り越えられているように見える。全体としては、おおらかな物語ですよね。けれど、このドラマの場合は、もっともっと深刻です。孤児院やハモンド家や学校で受ける悪意のある攻撃は、アンの心に、トラウマになるほどの重い傷を与えている。マリラが言ったとおり、「容姿のことなど気にするべきではない」「そんなことよりもっと大切なことがある」と考えるべきなのかもしれませんが、思春期の少女が、他人からあれほどの仕打ちを受けているのだから、気にしないわけにもいかないし、それほど簡単に受け流せるものではありません。アンが、平気で人を傷つけるクラスメイトのことを憎み、コールの繊細さのほうに惹かれていくのも分かります。第5話は、他人から理不尽な仕打ちを受けただけでなく、最後は自業自得でますます容姿がひどくなるというオチ。まったく救われない。アンは、この問題をどうやって乗り越えるんでしょうか?まずは、アン自身が、自分の容姿を受け入れて愛して、魅力的に見せるための術を探すべきかもしれません。実際、コールは、そばかすだらけのアンをチャーミングだと思ってるかもしれない。◇現代ならば、それこそビリー・アイリッシュみたいに、自分で髪を緑色に染める人もいます。整形手術をする人もいる。でも、現代の女性のほうが選択肢をもっているとはいえ、本質的には何も変わっていないし、むしろ、かえって深刻化していると言うべきでしょう。年齢を問わず、多くの女子が、あいもかわらず、やっぱり容姿の問題に悩んでいます。くだらないと言えばくだらないけど、なかなか答えの出ない問題です。◇アンにも正すべきところはあるかもしれません。とくに、今回は、アンの醜さとダイアナの美しさが対比されていました。ダイアナの美しさは、たんに容姿だけのものではない。たとえば、アンは、詐欺師に立ち向かったジェリーの勇敢さを湛えて、彼にキスをしたり、アルファベットを教えたりしてるけど、おおむねジェリーを上から目線で見下してるのは否めない。それに対して、ダイアナは、ジェリーに対しても敬意をもって接していて、そういうところに人間性と品の良さ、美しさが表れています。アンは、ダイアナの美しさを愛して憧れていますが、いずれジェリーにさえ嫉妬しかねない勢いです(笑)。◇もうひとつの別の視点があります。汚い便所で掃除をさせられているギルバートとセバスチャンの世界。アンは、美しいものにばかり心をとらわれて、自分の髪のことなどを気にしてるけど、世の中には、もっと苛酷で醜くて汚い現実があります。ギルバートが直面している最下層社会の現実にくらべれば、まだしもアンは、比較的美しい世界に住んでいるのですよね。
2021.10.14
あらすじ・ネタバレです。出た!エレイン姫!アーサー王と伝説の騎士ごっこ!(けっこう危険な舟遊び)テニスンの名前が出てきましたが、アルフレッド・テニスン「国王牧歌」の真似なんですね。…このランスロットとエレイン姫の悲恋が、若き日のマシューとジェニーの悲恋に重ねられていきます。今回は、たくさんのラブレターが出てきました。まずは、ジェニーからマシューへの手紙。マシューが返事を書こうとしないので、それを知ったアンは、マシューのふりをして返事を書き、彼らの失われた恋を取り戻そうとします…。だいぶお節介だけど!兄の死によって学校をやめたマシューの境遇は、父の死によって学校をやめたギルバートの境遇に似ている。でも、ギルバートは、アンに返事の手紙をちゃんと書きましたから、こちらの恋はきっと成就するはずですね。ちゃんと宛名も"e"のある"anne"になってました。◇さて、やけに苛立っているバリー夫人。アンとダイアナの舟遊びを見て大激怒します。バリー夫人は懲りていませんね。いつだってアンのほうが正しいのに!…と思ったら、カスバート家も事情は同じで、マリラのほうも、かなり苛立っています。詐欺師を下宿させていたカスバート家。詐欺師の金集めに協力してしまったバリー家。マリラも、バリー夫人も、村人たちに顔向けができなくなって、すっかり家のなかに引き籠っているのでした。リンド夫人によれば、教会の長椅子を買えなくなった牧師が、いちばん今回の事件にご立腹だそうです。っていうか、あのケチな牧師、村人からさほど尊敬されていませんけど(笑)。◇不運な状況のなかでは、つねに弱い者へとしわ寄せが来ます。結果的に、いちばん罪のない人がとばっちりを喰ってしまう。バリー夫人は、夫からないがしろにされてるけど、娘のダイアナとミニーは、そんな母親から厳しく当たられます。ミニーはストレスのあまりお寝しょをする。アンは、マリラから意味もなく咎められるけど、下働きのフランス人ジェリーは、そんなアンから八つ当たりを受けます。さらに、マリラは、ドイツから来たユダヤの行商人のことも、「怪しげなイタリア人だ」と言って追っ払います。下宿人を住まわせたことがトラウマになって、すっかりよそ者を警戒するようになってるのですね。それにしても、なぜユダヤの行商人を "イタリア人" と思うのでしょうか?◇一方、トリニダードでも、やはり弱い立場の人にしわ寄せが来ます。妊娠して打ち捨てられた黒人の娼婦です。人種差別と職業差別。階級格差と貧困。そうした社会の歪みが、ひとりの女性を襲う。そこから繰り広げられたのは、粗末な納屋の中で、白人の少年が黒人娼婦の赤ん坊を取り上げるという、かなり衝撃的なシーンでした。男と女、少年と成人、白人と黒人、船員と娼婦…そうした既成の枠組みを打ち砕く大胆なエピソード。ちなみに聖母マリアも、粗末な馬小屋で父親不詳の「神の子」を出産したわけです。ギルバートの母は、彼を出産したときに亡くなったらしいけど、だからといって、十代の少年がお産の知識をもってるのは驚きです。ちなみにギルバートの母が亡くなってるのは、ドラマのオリジナル設定で、原作ではちゃんと生きてるらしいです。◇バリー家も、カスバート家も、いろいろとギクシャクしたけれど、最後は関係を修復して、家族の絆を取り戻します。今回のテーマは、さしずめ「雨降って地固まる」ってところでしょうか?黒人の出産のシーンも、ちょっと唐突ではあったけど、あれはギルバートが医者になるための伏線ってこと?…ところで、ダイアナとミニーは、娘に当たり散らした母親の強制で、大人のレディになるための修業をやらされてましたが、同級生で絵の上手なコールは「大人の男になるための本なんて自分の役に立たない」みたいなことを言ってました。ん?ん??ちょっと気になる発言です…。
2021.10.09
ほとんど捕物帳でしたね…。アンとマリラが縄で縛り上げられたり、馬にまたがった村の自警団が悪者を追っかけたり、原作の「赤毛のアン」とは似ても似つかない、まるで西部劇サスペンスみたいな内容でした。◇アンは、ギルバートへの手紙を書くために、ネイトの部屋からこっそり用紙を借りたのですが、シャーロットタウンで酔っぱらったダイアナの父は、アンが持参したその手紙を見て、それを金の証明書だと勘違いしていました。というのも、ネイトが偽造した証明書は同じ用紙を使っていたからです。…アンは、詐欺の真相に気づきます。主人公だけが真実を見破るという展開は、いささか推理ドラマっぽい御都合主義ではあるのだけど、まあ、詐欺師たちと同じ屋根の下に暮らしてたぶん、不自然な点に気づく機会が多かったのは確かだし、シャーロットタウンに来て、ジョセフィンおばさんの話や、新聞記者の話などを聞いているうちに、いくつかの点と点がつながって線を結んだようです。◇一方、マリラは、ついこのあいだまでネイトを意識して色気づいてたのに、いつのまにか「下宿人はもう要らない」と思い始めたようです。ダンロップと喧嘩したときに、ネイトは顔に傷を負ったのですが、マシューもマリラも、そのあたりからいぶかしく感じ出したのでしょうか?そんな矢先、ネイトとダンロップがまた言い争いをしており、さらには、小屋のなかに隠された酒瓶だとか、アンの部屋から出てきたネイトの姿などを見て、マリラは、いっそう疑念を強めたようです。マシューのほうも、もともと下宿人に疑念を持っていたのだけれど、ネイトに虐められたジェリーが泣きついてきたことで、いよいよ我慢の限界に達した様子。マシューとマリラは、詐欺の真相を見破ったわけではないけれど、収入が安定してきたことも考え合わせて、下宿人の2人に退去を言い渡します。現代の日本だったら、家主が正当な理由もなく強制退去させるのは違法ですが。ちなみに、玄関先でダンロップが歌っていたのは、先週と同じく「The Friends We Love」だったでしょうか?◇それにしても…プリンスエドワード島の別の町で、過去にも同様の詐欺事件があったってのに、アヴォンリー村の人たちがそれを知らないのは、ちょっと不自然な気がするし、知っててなお疑ってないのだとすれば、ずいぶん迂闊な話だなと思います。それくらい欲に目が眩んでるのでしょうか?まあ、現代の日本でさえ、変な投資話に乗っかる年寄りが沢山いるくらいだから、情報の少ない昔の田舎町なら、なおさらですかねえ。シャーロットタウンのように、情報の多い都会の人ならともかく、アヴォンリーのような田舎町の人たちは、純朴であるがゆえに騙されやすいのかもしれません。とくに、このドラマのなかでは、ダイアナの両親が「愚か者の代表」みたいに描かれていて、なかでも娘やアンに無理解なバリー夫人は、ほとんど頑迷な「悪役」というべき扱いになってます。◇シーズン2は、この詐欺のエピソードだけに終始するのかと思いきや、意外にも第3話であっさり肩がついてしまった感じ。次回以降は何の話になるんでしょうか?
2021.10.01
今回のテーマは、さしずめ「ダークファンタジー」ってところでしょうか?◇ダンロップは6人も殺した極悪人のようです。しかし、そのわりに料理が上手だったり、陽気に仕事の手伝いをやったり、身だしなみや身のこなしもよく、いろんな流行の歌を知ってたり、ダイアナのピアノ演奏に合わせて楽譜をめくったり、詐欺師ならではの教養?? も感じさせる…。考えてみれば、ネイトとダンロップは、カスバート家に下宿代を支払ったうえに、土地の掘削機やら顕微鏡やら地質学の書物まで用意して、かなりのお金をかけて周到な詐欺をやってますよね。◇ダンロップが、ダイアナのピアノ伴奏で歌っていたのは、アリス・ホーソーンの「The Friends We Love」という曲。アリス・ホーソーンというのは、「Ten Little Indians」を作ったセプティマス・ウィナーの別名。本当は怖い歌として知られる「10人のインディアン」は、インディアンの子供がひとりずつ消えていく内容です。ちなみにセプティマス・ウィナーは、ゴシック作家ナサニエル・ホーソーンの親戚なのだそうです。彼の書いた「緋文字」は暗黒ロマン小説の名作ですけれど、そういえばネイトの本名もナサニエルです…。◇アンは、森の幽霊のことを自分で想像して自分でおびえています。これは原作にのっとったエピソード。一方、学校の教室では、英国ファンタジーの「アーサー王と円卓の騎士」を朗読している。これは、ランスロットが森をさまよう物語でしょうか?ジョーシーは、ランスロットとグィネヴィア王妃の不倫をなじります。アンは、原作でもそうだったけど、やっぱりエレイン姫の悲恋に憧れているようです。孤独な少年コールは、授業中にキャメロット王国のお城の絵を描いて叱責されます。◇ところで、マシューも、アンも、下宿人の詐欺にはまだ気がついていませんねえ。とはいえ、マシューはかなり慎重です。マリラも、ネイトのことを意識して色気づいたりしてるけど、金採掘の投資話には容易に乗ろうとしません。やはりマシューとマリラの兄妹は、長老派教会の日和見な老牧師なんぞよりも、よっぽど敬虔な信徒であって、保守的だし、堅実だし、質実剛健なのですね。◇ギルバートの働く蒸気船はカリブ海に入って着岸し、トリニダード島に住む黒人たちの実情が描かれました。奴隷制は廃止されたけど、人種格差は消えていません。しかし、食文化にかんしては、プリンスエドワード島よりも、トリニダード島のほうがずっと豊かなようでした。…最近はだいぶマシになったと思うけど、もともとイギリス人の食べ物って不味いですよね…(笑)。いつもフィッシュ&チップスばかり食べてるイメージ。日本人や地中海沿岸のラテン人たちは、いろどり豊かな野菜や魚介類を豊富に食べるけど、アングロサクソンやゲルマン系の人たちは、肉やジャガイモしか食べないから、味覚も乏しいと思う。プリンスエドワード島は、ただでさえ保守的なスコットランド系の社会なので、質素な食文化があまり変化しなかったのかもしれません。トリニダード島は、いちおう英国領ではあったけど、黒人やスペイン人も混じった南の島なので、そのぶん食文化もいろいろと変化したのでしょう。◇ギルバートは、閉鎖的な故郷を嫌って広い世界を夢見ています。一方の黒人たちには、そもそも帰るべき故郷が存在しない。その対比が描かれます。そんななかで、ギルバートは、"にんじん" 呼ばわりしてアンに殴られたことを、ふと懐かしく思い出したりします。そのとき割れてしまったアンの石板は、マシューの小遣いで、やっと買い替えられました。割れてしまった古い石板は、アルファベットを覚えはじめたジェリーのために、マシューが捨てずに取っておいたようです。
2021.09.21
シーズン2の放送が始まりました!ならず者の男2人は、ちゃっかり下宿人としてカスバート家に馴染んでいる…。◇かたわれのネイトという男は、一見すると若いイケメンなので、マリラはのぼせあがって浮かれてるっぽいし、アンも、彼と話がしたくて仕方ない様子です。ネイトは、地質学者のふりをして、アヴォンリーの土地から金が採れると主張し、村人たちをまるごと騙そうとしています。騙すほうも悪いのだけれど、バリー夫妻やリンド夫人をはじめ、村人たちのほうも欲に目がくらんでいます。アンも、ネイトの主張を信じて、もしも金が採掘されてアヴォンリーが豊かになったら、村を去ったギルバートを呼び戻せるのではないかと期待します。◇そのギルバートは、蒸気船の石炭夫として過酷な労働に従事しています。プリンスエドワード島とカナダ本土を結ぶ船かと思いきや、次週の予告を見ると、遠くカリブ海まで航行するみたいです。仕事仲間のセバスチャンという黒人は、周りの白人から「トリニダード」と呼ばれていて、どうやらカリブ海出身の奴隷の子孫のようです。彼はギルバートに、「白人には選択肢があるが、黒人には選択肢がないのだ」と話します。◇カナダ(とくにアッパーカナダ)では、かなり早い段階で奴隷制が廃止されていたので、アメリカ合衆国から逃れてきた黒人も多くいました。しかし、けっして差別がないわけではなく、最底辺での過酷な暮らしを強いられていたはずです。おそらく当時のカナダ社会は、上層にイギリス系の白人がいて、下層にフランス系の白人がいて、最下層に黒人や先住民がいる、という図式だと思います。下僕のジェリーは、白人とはいえ、フランス系ですので、学校にさえ通うことができませんが、代わりにアンからアルファベットを習おうとしています。結局のところ、詐欺師コンビの下宿人も、欲に目がくらんだアヴォンリーの村人たちも、みんな貧しさから抜け出そうとしているわけです…。◇ギルバートやアンは、曲がりなりにもイギリス系の白人です。セバスチャンの言葉を借りるなら、まだしも「選択肢」はある。ギルバートとアンは、同じ「綱を引けジョー/Haul Away, Joe」という歌を歌い、それぞれに海を眺めながら、恵まれない境遇を抜け出すべく、果てなき夢を抱いている。もともと孤児だったアンの未来は、おそらく書物との出会いによって切り開かれるのですよね。孤児院でお仕置きを受けたとき、重しとして手に持たされた本が『ジェーン・エア』でした。アンは、それをスカートの下に隠し、孤児の少女が出世する物語をむさぼるように読んだのです。いまでは、ダイアナやルビーと一緒に、森の隠れ家で「お話づくり」をして遊んでいます。◇ジェリーは、下宿人の男たちをいぶかしく感じてるけど、町で自分を殴りつけたチンピラだとは気づいていない。マシューは、この下宿人の夜の会話をこっそり覗き見していたので、何かに勘づいたかもしれません。アンも、金の証明書の偽造に気づくのかもしれません。※ついに日本語版のDVDが発売されるようです。
2021.09.14
おくればせながら「アンという名の少女」。第8話の最終回。とりあえず第1シーズンが終了です。最後の場面ではなんと、ならず者2人がグリーンゲイブルズにやってくる!そこで終わりっ!!ええ~っ!どうなっちゃうの~?アンは気づかないかもしれないけど、さすがにジェリーは気づくでしょう。ボコボコに殴られたんだから。第2シーズンの放送はいつになるんでしょうか?◇この最終話で、いちばんスポットが当たっていた人物は、まさに、そのジェリーでした。原作では、フランス系の下僕として、ほとんど人格的存在としてすら扱われなかったキャラ(笑)。このドラマの第1シーズンでは、(カナダ国内のフランス語話者に配慮する意味でも)彼を《ひとりの人間》として描くことが大きな課題だった、と思われます。最終話では、たとえアンに見下されても、それを笑顔でかわし、無邪気にフランス語のキャロル(?)を歌い、 ※たぶん「Il etait une bergere」(羊飼いの娘)という俗謡です。チンピラに襲われてもなお、主人から与えられた仕事を忠実に果たす、そんな純朴で誠実な少年として描かれていました。本作は、第1シーズンを見ただけでも、長老派教会の保守性や、フランス系住民に対する蔑視など、当時の社会的な問題にもかなり切り込んでいますし、すくなからず政治的な意思をもった作品だということは、強烈に伝わってきました。ちなみに、第3シリーズでは、先住民に対する同化政策の問題も出てくるようです。◇しかしながら、ネットの情報によると、このドラマは、第3シーズン以降の制作が打ち切りになってしまい、ファンのあいだでは、制作の継続を求める署名運動も起こっているそうです。なぜ打ち切りになったのか?もともと本作は、カナダの公共放送CBCが、米国のNetflixと共同制作したものなのですが、「Netflixはカナダの国内産業を害する文化帝国主義だ」として、CBC側が警戒しはじめたようなのです。作品そのものは、むしろ「文化帝国主義」を批判する内容なわけですが、たしかに制作面でみれば、Netflixのような米国のグローバル企業は、各国の税制をくぐりぬけて収益を上げたりもするわけで、カナダの国内メディアを圧迫するような面もあるのかもしれません。折りしも、トランプ政権が「米国第一主義」をふりかざした時期だったし、カナダ側が余計に警戒感を強めた可能性もあります。ドラマの内容もさることながら、いろんな面でアクチュアルな要素をはらんだ作品だった…、というわけです。◇第1シーズンを見るかぎり、ドラマそのものは見応えがあって素晴らしいのですが、たとえば、従来の「赤毛のアン」のように、プリンスエドワード島の美しくて伸びやかで牧歌的な世界を、日本の観光客などにアピールするような生易しい内容じゃないし、実際、このドラマを見て、なかなかカナダ観光をしようという動機にはなりにくいかも(笑)。そういう意味でも、カナダ側の産業にはメリットが少ないかもしれず、見方によっては「不都合な作品」なのかもしれませんよねえ。◇いずれにせよ、作品が完全な形で実現していないのは残念ですが、将来的に、制作が再開される可能性もなくはないのかな…?という気がしますし、場合によっては、カナダ国外での人気が、その後押しになるかもしれませんよね。
2020.11.24
今回のテーマは「愛する人の死」ってことでしょうか?老女ジョセフィンとの年齢をこえた友情も描かれました。正直にいうと、ちょっと分かりにくい内容でした。◇いくつかの死のエピソードが絡まり合っています。1つめは、ギルバートの父の死。彼は、かつてマリラと恋仲だったようです。2つめは、ジョセフィンの同居人の死。ジョセフィン・バリーは、ダイアナの大叔母にあたる老女であり、彼女の愛した同居人というのは、ガートルードという女性。つまりは同性愛者だったようです。この2つの死を、アンがどう受け止めていくかという話になっています。◇ダイアナの母がシャーロットタウンまで首相演説を聞きに行ったので、代わりに、シャーロットタウン在住のジョセフィンがやってきて、バリー家の留守を預かっていたのかもしれません。彼女は、同居人を失くした寂しさもあり、そのまま居ついてしまいます。ダイアナは、妹のミニー・メイが病気になったとき、ジョセフィンでもなければ、使用人のメアリー・ジョーでもなく、(ちなみにメアリー・ジョーも、ジェリーと同じフランス人の使用人です)わざわざマリラのところまで助けを求めて走ってきます。しかし、マリラも首相演説を聞きに行って留守だったため、結局は、アンがミニー・メイへの治療を施したのでした。ちなみに、マリラは、「わたしにはアンのような医学の知識はなかった」と言っていたので、なぜダイアナがわざわざカスバート家まで来たのか不思議です。◇ギルバートは、父を失って町を去らねばならなくなった境遇を、誰とも共有できずにイライラを募らせ、とつぜん級友に殴りかかったりします。唯一、彼の悲しみを分かち合ったのは、かつて彼の父の恋人だったマリラだったようです。一方のアンは、意図せずしてギルバートに配慮に欠けたことを言って、ますます彼との距離をつくってしまいます。その後、ダイアナの家でパイを作りながら女子トークをしていたとき、ジョセフィンに『ジェーン・エア』の話をしたと思ったら、とつぜん「愛する人を失くす悲しみ」について語り、泣き出すのです。これは、よく分からないシーンでした。もしかしたら、ロチェスター夫人のことを思い出したのでしょうか?『ジェーン・エア』に出てくるロチェスター夫人とは、横暴な精神病者で、みずから自宅を放火して死んでしまう女性。追記:おそらくアンは、『ジェーン・エア』に登場するヘレン・バーンズのエピソードを、ジョセフィンの同居人と重ねあわせたのですね。とにかく、アンはこれをきっかけに、父を亡くしたギルバートの悲しみや、同居人を亡くしたジョセフィンの悲しみに共鳴したようです。そしてギルバートに手紙を書こうとするのですが、自分の思いをうまく言葉にできず、ふたたびジョセフィンのもとを訪ね、彼女から「後悔のない人生を送りなさい」と助言され、ようやく自分の思いを伝えようとギルバートの家へ向かうのですが、もうそこには誰もいないのです…。◇このドラマでは、シャーロット・ブロンテの『ジェーン・エア』の話がたびたび出てきますが、NHKのサイトによると、各話の副題がすべて『ジェーン・エア』の台詞から取られているそうです。もともとモンゴメリは、英国人作家であるブロンテ姉妹から強い影響を受けており、「赤毛のアン」にもオマージュが散りばめられているのですね。今回のドラマ制作者は、そのことを踏まえて、ふたつの小説を重ね合わせているのだろうと思います。アンが『ジェーン・エア』を愛読していたと設定することで、彼女が、同じ孤児であるジェーンの人生に勇気づけられたのだろう、ということが想像できます。ちなみにブロンテ三姉妹の末妹であるアンは、まさしく「Anne with an “E”」(Eのつくアン)なのですよね。ついでにいえば、地方農民の家系から英国王妃にのぼりつめたアン・ブーリンも、やはり「Anne with an “E”」なのですが。モンゴメリにとっても、アンにとっても、ジョセフィンにとっても、英国は憧れの国だったのかもしれません。◇最後は、マシューの荷物を積んだ船が、シャーロットタウンから本土へ向かう途中で沈んだという話で終わり。シャーロットタウンという町の名がなんども出てきますが、これはアボンリー村の反対側にあるプリンスエドワード島の州都です。
2020.10.27
今回のテーマは、ずばり「性」。初潮のおとずれと、オトナへの憧れ。ロリコン教師が早熟な少女に向けるいかがわしい視線。未婚のマリラと、夫婦ラブラブで10人産んだリンド夫人。マシューの若き日のプラトニックラブ。アンとダイアナのガールズラブ。ギルバートへの強烈に裏腹な感情。初めての美酒の味。かなり現代的な発想で、大胆に多面的に描いていました。前回、前々回ほど過酷な内容ではなく、全体的に微笑ましいエピソードでまとめられており、最後は「袖の膨らんだ服」を着て出掛ける、幸せな場面で終わりました。それにしても、振幅の激しすぎるアンとは対照的に、ダイアナは、少女ながらに素晴らしい人格の持ち主。偏狭な母親とも、まったく似てないのですよね。
2020.10.19
先週の過酷な内容から考えて、アンが学校に戻るのはかなりハードルが高いと思ってましたが、意外にも早く学校へ復帰しました。じつは原作よりも早い復帰ではないでしょうか?◇今回のエピソードで、わたしがいちばん気になったのは、学校を無断でサボっていたアンが、ひそかに「イギリスとカナダの歴史」という本を読んでいたことです。アンは、偶然ページを開いたサスカチュワン州の歴史を読んでいます。そこで先住民の歴史のことも学んだようです。こうした部分に、今回のドラマの強いこだわりを感じます。重層的な視点が織り込まれていますよね。◇調べてみると、サスカチュワン州というのは内陸部の平原で、物語の舞台である19世紀末まで、白人入植者と先住民との激しい闘争が繰り広げられていた土地です。モンゴメリ自身も、15才のときにサスカチュワン州に住んでいたようです。ちなみに、先住民の大きな反乱があったのは1885年、モンゴメリが住んでいたのは1890年なのです。◇今回のドラマには、フランス人下僕であるジェリーの視点のほかに、このような先住民の視点なども織り込まれているようです。さらには長老派教会の保守性なども容赦なく描かれています。原作の世界を相対化して、いわば自己批判を加えている。◇日本でも、時代劇や大河ドラマをつくるときに、敗者の視点や新史実を取り入れた歴史の見直しが行われますが、カナダでも、そういう試みは不可避なのだろうと思います。おそらくカナダ国内でも、先住民の視点、フランス語話者やカトリック信者の視点、さらにはジェンダー批評の視点から、歴史のとらえ直しがさかんにおこなわれているはずです。もともと「赤毛のアン」の原作のなかには、白人開拓者の優位性はもちろん、イギリス系住民や、長老派信徒の優位性などを、暗黙の前提にしているような面があります。逆にいえば、先住民や、フランス系住民や、カトリック教徒に対する、無意識の偏見と差別が内在しているのですよね。そうした原作の世界をそのまま無邪気に映像化する、ということでは許されない時代なのだろうと思います。◇ところで、なぜアンは学校に戻ることができたのでしょうか?いろいろなことが好都合に作用した結果なのですが、わたしなりに思うのは、やはり学校以外の「重層的な繋がり」が大切だなあ、ということです。教室のなかだけの閉鎖的な関係ではなく、ダイアナのような友人との個人的な関係があり、リンド夫人のような隣人との関係もあり、信仰を介した教会関係者との関係もあり、さらには村全体の相互扶助的な関係もあります。つまり、人間関係を回復するための複数のチャネルがありますよね。コミュニティのなかに重層的な関係があるからこそ、かりにひとつのチャネルが駄目になっても、それとは別のチャネルを使えばいい。そういうセーフティーネットがあります。どのチャネルがうまく機能するかは分からない。アボンリー村の保守的なコミュニティは、場合によっては、個人を縛ることもあるけれど、場合によっては、個人を救うこともあります。今回のアンの場合は、村のなかで火災が起こったことで、かえって村人たちのアンへの信頼が高まって、ルビーとも仲良くなれたことがラッキーでした。雨降って地固まる。何が災いするか分からないけれど、何が幸いするかも分からない。◇ただ、ルビーみたいな、ちょっと付和雷同なキャラは、学校に戻ったら、また"多数派"のほうになびいていく気がします(笑)。教室外での関係と、教室のなかでの人間関係の力学はまた違いますよね。しかし、もはやアンは、そういうことに一喜一憂しなくなるのかもしれません。
2020.10.13
いやはや大変です…。先週あたりから、原作とは違うオリジナルな内容になっていて、かなり見ごたえはあるのですが、これほどまでに過酷だとは思いませんでした。アンは学校へ行けるようになります。(ちなみにジェリーは学校にも行かせてもらえません…)アンは、ただでさえ孤児で新参者なのに、なんだか一挙手一投足が周囲から浮いているので、間違いなくイジメられるのが予測できてしまう。そのうえ、いろんな不運も重なって、子供だけではなく、町の大人たちにも糾弾されてしまって、カスバート家もろとも、救いの見えない状況に追い込まれていきます。ああいうことって、現代の日本にもありうることだけど、わたしだったら、絶対にくじけてます…。周りの人たちが嫌になるだけでなく、自分のことも嫌になってしまいますよね。なんども思い出すようなトラウマになってしまう。あれじゃあ、学校へ行きたくなくなるのは当然です。マシューや、下僕のジェリーは、学校に行かずに育っているようですけど、あんな学校へ行くくらいなら、そのほうが賢明だ…という気さえしてきます。アンがこの逆境を乗り越えていくのだとすれば、ほんとうにスゴすぎます。◇カナダの長老派信者たちのコミュニティは、ある意味で、現代の日本社会にも通じるような、おそるべき「同調圧力」に満ちていたのですねえ。子供であれ、大人であれ、ちょっとでもはみ出してしまえば、はじき出されて冷たい視線にさらされる。うわべは「進歩性」を装っているフェミニストでさえ、一皮むけば、はげしく偏狭な価値観に固執していて、排他的で不寛容な態度をむき出しにしてきます。「はしたない」「不謹慎だ」「教育上よろしくない」等々…いまの日本社会にもありがちな光景です。マリラは、そんなフェミニストの女性に向かって、「アンに安息の地が見つかったことを神に感謝したら?」と言い返すのですが、…いやいや、長老派教会の神様にしたって、どれほど寛容なのかは知れたものじゃありません。もしかしたら、神様がいちばん排他的かもしれないんですから!(だから下僕のジェリーは学校にさえ行かせてもらえないのです)◇今後、ギルバートとは口を利かなくなるはずだし、もはや頼みの綱はダイアナひとりなのですが、このままでは、かえってダイアナのほうが、辛い立場に追い込まれてしまいそうで不安です。ほんとうにつらい。そしてリアルすぎる…。
2020.10.06
『赤毛のアン』の一番の見どころは、アンがグリーンゲイブルズにやってくる第1話だと思ってたけど、第3話を見たら、これまた展開が激しくて、かなり見ごたえがありました。◇お隣のリンド夫人は、思いのほか冷静でしたね。しかし、そのほかのアボンリー村の人たちは、思った以上に保守的だということも分かった。よくいえば同朋意識があって結束が強いけど、よそ者に向ける目は、かなりの偏見に満ちています。アンにとって、最初にダイアナと親友になれたことは、あらためて幸運なことだったのでしょうね。このドラマのダイアナは、美人すぎないのもよいです(笑)。一方で、アン自身は、フランス人下僕であるジェリーに対して、やや差別的です。おそらく彼の存在も、この物語に大事な視点をもたらしています。◇アンの名前に対するこだわり。ファーストネームに”e”をつけるだけでなく、ファミリーネームを得ることへの強い思いもあったのですね。名前というものが重要な意味をもつのは、『千と千尋』の物語にも通じるところです。
2020.10.03
全8回でどこまでやるのか知らないけど、けっこう駆け足な印象です。なかなかに傍若無人なアンを見るのも面白かったけど、ちょっと話を詰め込みすぎてて慌ただしい。手始めに、お隣のリンド夫人と大喧嘩。それから、下働きのジェリーとも軽く喧嘩。バリー家に行ったら、少女ダイアナとすぐにお友達になって、最後は、マリラとペンダントの件で訣別。カスバート家も、バリー家も、よくいえば信心深そうで真面目ですが、悪くいえば保守的で排他的。これはたぶん長老派キリスト教信者の特徴。お祈りのシーンも出てきました。下働きのジェリー君はフランス人だそうで、ってことは、アカディア人の末裔?彼のほうはカトリックでしょうか?ちなみに、先週の回想シーンは、虐待描写がコゼット的だったけど、今週の回想シーンは、いじめ描写がけっこう現代的でした。
2020.09.21
やっぱり見てしまう「赤毛のアン」。なんといっても、いちばん面白いのは、アンがひたすら喋り倒す最初のエピソードだし、今回も期待どおりでした(笑)。◇グリーンゲイブルズまでの道すがら、アンが白い花の咲く並木道を見て、「pretty」でも「beautiful」でもなく、「wonderful」と言ってます。NHKのラジオ英会話で、萌音が「夢みたい」と訳した《wonderful》は、これか~っ!と思いました。https://news.nhk-book.co.jp/archives/12892字幕はふつうに「すばらしい」だったけど(笑)。実際、pretty < beautiful < wonderfulのニュアンスの違いを訳し分けるのは難しい。wonderには驚きの要素があるから、fantasticに近いところもあるだろうし、驚異的・幻想的・奇跡的みたいな意味合いですよね。◇昔、ミーガン・フォローズが演じた映画版は、カナダの風景がとてもカラフルだった印象があって、荒涼とした風景というのは、あまり記憶にない。でも、今回のドラマでは、風景にも、音楽にも、どこか開拓地としての荒々しさが感じられて、なんとなくスコッツアイリッシュ風に思えます。実際、この地域は、17世紀以降にスコットランド人が入植して、フランス系のアカディア人を駆逐した土地だから、ドラマのなかでも、フランス人に対する侮蔑が見え隠れするけど、イングランド人(ロンドン人?)にさえ警戒心があるっぽい。その点、プリンスエドワード島の住民は、ノバスコシアやニューブランズウィックの人に対して、開拓者としての同朋意識があったようですね。◇主人公の「器量の悪さ」も、今回のほうが、よりリアルに見えます。その一方で、養母にいじめられる回想シーンには、ちょっとコゼット的な面も感じられるし、アンの口から『ジェーン・エア』の話が出てくるのも興味深い。◇本来の『赤毛のアン』の原題は、「Anne of Green Gables」ですが、今回のドラマの原題は「Anne with an “E”」だそうです。直訳すると「ひとつの"E"をもつアン」ってこと?Ann < Anne という名前のことだけでなく、この「E」には、なにか別の意味もあるのでしょうか?ちなみに、米国のソウル歌手のサム・クックも、「Cook」を「Cooke」に改名してますけど、英語圏の人には、そういう発想があるのでしょうね。
2020.09.15
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