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母が亡くなって、一ヶ月くらいはバタバタしていた。
仕事は辞めようか迷っていたけど、とりあえず続けられるところまで頑張ってみようと思って、
10日ほどお休みを頂いたけど、またそれまでと同様に勤めることにした。
自分がやらなくちゃ!っていう責任感で気が張っていたせいか、周りの人たちが気を遣ってくれるけど、
「大丈夫だよ~
」
って感じで、私は以前より明るく張り切っていたような気がする。
おばあちゃんが死んだ事も理解できないかえでは、そのことで泣くわけでもなく、
普段と変わらなかった。
相変わらずハサミでチラシ広告をチョキチョキしていたけど、
ハサミをおでこにぶつける自傷はエスカレートしていた。
ぶつけては泣いている。
あまりにも切ないので 「もう止めようね」
と取り上げた。
かえでも余程痛かったのか、すんなり私にハサミを手渡してくれて、
それ以来ハサミを見つけると、どこかに隠してほしいという感じで、私にハサミを持ってくる。
こうして 『ハサミで広告を切ること』
と 『ハサミをおでこにぶつける』
というこだわりは、
ここで終止符を打った。
やれやれと思ったのも束の間・・・
納骨が済んで、そろそろ学校が冬休みになるという頃、
今度は、おでこを壁や柱、家具などにゴンゴン当てるようになった
下の娘は 「"タンスにゴンゴン一年中~"だねぇ」
なんて言っているので、
私も笑っちゃったけど、これもエスカレートしていき、おでこにはコブができて、流血もして、
かさぶたになると剥がして、という事を繰り返していた。
ゴンゴンやっても痛くないように、おでこの傷に絆創膏を貼り、そのうえをバンダナで覆った。
バンダナでは薄いので、100均で売っていたパイル生地のヘアバンドのかっこいいヤツをつけさせた。
これで少しは当たっても大丈夫かな?という程度のものだったけど、
直接ぶつけるよりマシだろうと思った。
初めはイヤがって外そうとしていたけど、これが新たなこだわりになってしまい、
つけているのが当たり前になると、朝から晩まで、寝る時にも取ろうとしなくなった。
おでこの自傷に加え、次は手の甲を、自分で強く血が出るまで噛みつくようになった。
これには、手袋で対処した
何かで覆っていれば、噛むことはなかったけど、これもこだわりになってしまって、
手を洗う時とお風呂以外は、ずっと手袋をしたままになってしまった。
指先が使えないのも困るので、かえでのお気に入りは、指なし手袋だった。
朝、学校へ行く時には、ランドセル、着替えのバッグ、ハンカチ、ソックス、
ヘアバンド、手袋を身につけての登校だった。
手の甲が噛めなくなったせいか、持っているハンカチや、
トレーナーの首もとの部分などを噛んでいることも増えた。
おばあちゃんのいない寂しさを上手く表現できないから、
こうやって何かを噛んで紛らわしているように思えた。
少しでも自分の気持ちを伝える手段を知っていたら、
もう少し何とかなっていたようにも思うのだけど。
私に向かってくる事も、以前と変わらずに、頻繁にあった。
だんだんと車に乗っている時の攻撃が激しくなり、
ついには私と二人で車に乗ることを嫌がるようになった。
誰かほかの人が一緒にいれば、かえでも乗ってくれるのだけど、私と二人で乗ることはダメだった。
朝、仕事に行く前に、かえでを養護学校へ送っていたので、それが出来なくなってしまい、
おじいちゃん(私の実父)が送迎をしてくれるようになった。
おじいちゃんと二人で乗ることには、全く抵抗が無いようで、
私はおじいちゃんに負けたような気分だった。
私、母親なのに、かえでに嫌われてしまった
母親の資格なんてないんだ・・・
そんなふうに思えてしまって、すごく悲しかった。
でも父は、かえでの送迎という仕事ができたので、
自分の出番とばかりに張り切って引き受けてくれた
父には、かえでの送迎と、ゴミの日にゴミを出すことを頼んだ。
今や父は、私よりゴミの分別に詳しい、我が家の 『ゴミ出し主任』
になっている
そうやって、かえでは6年生になっていった。
母の死から約4ヶ月の間に、かえではたくさんの自傷や新たなこだわりを作り出し、
問題行動が増えてはいたけど、
ハサミをやめたこと、偏食が治ってきたことなども嬉しい出来事で、
本当にいろんなことが次々とあった頃だった。
よくやっていたなぁ~なんて、今になって思ってるけどね
私の人生の中で、一番フル回転してた時だったかもしれない・・・