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国鉄 直流型電気機関車:EF5895(宮原機関区)EF58シリーズ、今回は宮原機関区の95号機です。過去ログ『EF5895牽引:81系お座敷列車(ミハ座)』の再掲写真になります。昭和55年8月 神足~山崎間にて EF5895牽引 スロ81系ミハ座原形窓の美しいカマでした。パンタグラフが切れてしまったのが残念。この写真を撮った1年後には廃車になってしまったようです。95号機昭和31年 7月16日 川崎車輌+川崎重工製 浜松機関区昭和56年 9月19日 廃車 宮原機関区
2024.11.26
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茨城交通 キハ2000形:キハ2004茨城交通キハ2000形は、元留萠鉄道が昭和40年頃に導入した国鉄キハ22タイプの気動車。キハ2004は、留萠鉄道の廃止に際し、昭和45年頃に茨城交通にやってきました。車体はキハ22と同様のスタイルですが、タイフォンが上部ヘッドライトの脇に設置されているため、キハ22とキハ55系を折衷にしたような印象です。転属時から車体カラーの変遷がありますが、茨城交通時代末期には淡黄色に赤ラインを配置したいわゆる「国鉄準急色」に塗り替えられ、人気がありました。※撮影は、平成18年5月4日、中根~金上間にて。茨城交通 キハ2004国鉄時代において、キハ22にはこの塗装は設定されていなかったはずですが、タイフォンの位置や側窓が1段上昇式であることから、違和感はさほど大きくないかもしれません。平成27年12月にひたちなか鉄道で引退となりましたが、その後平成筑豊鉄道で動態保存されることになり、陸送及び航送により九州に向かいました。昨今、維持が困難になって貴重な車両たちが解体されてしまう事例が非常に多くなる中、珍しく明るい話題と言えるでしょう。何回か訪れた茨城交通でしたが、ひたち海浜鉄道を通じてキハ2004には当たらないことが多く、コマ数もたったこれだけでした。
2024.11.25
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485系 クロ481:特急「ひばり」上野~仙台間を結んでいた特急「ひばり」。その運転本数は、当時の国鉄随一となっていました。仙台運転所所属の12連を基本に、青森運転所の12連も共通運用。さらに、仙台運転所持ちでは12連クロ編成、クロ+サロの13連、青森運転所の583系と、バラエティーに富んでいました。481系の東北本線版として誕生した483系は、登場当初よりグリーン車を制御車としたクロ481が設定されました。これは、始発となる上野駅の中央改札が1号車端となっていたことに起因すると思われます。クロ481は、東北本線初の電車特急として誕生した「やまびこ」はもちろん、その後誕生した「ひばり」「やまばと」「あいづ」を含め、常磐特急の「ひたち」にも使用されました。今思えば、東北・常磐特急が地平ホーム、中間にしかグリーン車を組み込めなかった上信越の特急が高架ホームとしていたのも、このメイン改札の位置が考慮されていたのかもしれません。地元を走る「ひばり」編成の中でも、ピカイチかっこ良かったクロ+サロ編成。このクロ+サロ編成を含めて、クロ481使用の「ひばり」の写真をご紹介いたします。昭和48年頃 西川口~蕨間にて 「ひばり」クロ編成激しい画像で申し訳ない。サクラパックで撮った撮影初期の頃の写真です。ネガがなく、プリントからの拡大スキャン。昭和50年以前は、「ひばり」に583系運用も含む4種類の編成が走っていました。これはそのうちのクロを連結した12両編成で、「やまばと」と共通運用で使用されていたものです。初期の「やまびこ」編成の名残でしょうかね。登場当初はサハ481を含む13両編成だったようですが、その後サハが抜かれて12両編成になっています。昭和52年頃 蕨~西川口間にて先頭車の流し撮りで詳細は不明ですが、おそらくクロ+サロ編成かと思われます。昭和52年頃 大宮駅にて クロ+サロ編成これは編成が良く判る写真です。上野方にクロ481+サロ481を連結し、中間にサハ481も挟んだ13両編成でした。当時、485系による13両編成は、「白鳥」のサロ+サロ編成と「ひばり」のこの編成のみでした。昭和52年3月21日 古河~栗橋間にてシャッター幕が故障し、走行ムラが出来てしまった写真。それでも何とかクロ+サロの編成が判るように写ってくれました。この時代のクロ+サロ13両編成は憧れでした。今ではNゲージでもラインナップされ、古き良き時代が再現できるようになりましたが、本格的にNゲージをやっている頃はクロ481が欲しくてしかたなく、クハ481から改造しようかなんて考えていました。しかし、運転台直後のクーラー有無など、形状の違いからなにもせずにそのままに。クロ481が製品化された頃には財政が脆弱になり、購入すら断念したままとなっていましたが、しばらくNゲージから離れていたため少しは回復し、やっと手に入れることができました。485系ボンネット型:特急「ひばり」(その1)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その2)485系ボンネット型:特急「ひばり」(その3)485系 貫通型:特急「ひばり」485系1500番台:特急「ひばり」485系:臨時特急「ひばり52号」583系:団体列車 特急「ひばり」リバイバル運転485系K-1編成:団体列車リバイバル「ひばり」E653系勝田車:団体列車「リバイバル特急ひばり」号
2024.11.24
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西武鉄道 10000系:特急「ちちぶ」(その1)西武鉄道において、5000系初代レッドアローを置き換える目的で誕生した10000系ニューレッドアローですが、令和2年3月13日を最後に西武池袋線・秩父線の運用から撤退し、後継となる001系ラビューに置き換えることになりました。誕生から25年ほどの活躍ですが、走行系の機器を101系や5000系から流用しているため、やむを得ないこともあります。ニューレッドアローそのものは撮影のために追い掛けるようなことはありませんでしたが、現場仕事をしている時代に西武線沿線の現場もあり、遭遇機会も多く、コマ数がありました。今回は、現場時代に押さえていた写真を集めてみました。平成21年11月8日 稲荷山公園~武蔵藤沢間にてこの3枚については、娘の水泳大会の引率で行った際、たまたますぐ近くに西武池袋線があったために撮影した時のもの。デジカメで撮影した最初のニューレッドアローでした。平成22年6月16日 清瀬駅付近にて平成22年6月16日 清瀬~東久留米間にて平成22年6月16日 東久留米~清瀬間にて平成22年7月14日 大泉学園~石神井公園間にて平成22年7月14日 大泉学園駅にて平成24年6月29日 清瀬駅にて平成24年7月11日 所沢駅にてこの辺りの写真は全て現場仕事の際に撮影したもので、朝に撮影したものは現在のスジで言うところの特急「ちちぶ7号」の時間帯に当たっていたようです。この頃からレッドアローCLASSICやグリーアローの遭遇機会も狙ってはいたのですが、悉く期待に裏切られており、ノーマルな編成にしか当たりませんでした。西武鉄道 10000系:ニューレッドアロー 特急列車運転50周年西武鉄道 10000系:ニューレッドアロー(プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. )
2024.11.23
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国鉄旧型電機 EF155(新鶴見機関区)EF15シリーズ、今回は5号機です。昭和52年 蕨駅にて5号機は、元は上越線用として配置されましたが、奥羽本線電化と同時に福島第二機関区へ移動、板谷峠対応となりました。しかし、板谷峠における連続勾配は殊のほかキツく、タイヤが弛緩するといった問題が現われてきました。そこで、連続下り勾配に対応できる「電力回生ブレーキ」装置を備えたEF16型に改造されています。その後、同機は再び長岡第二機関区へと戻り、さらに比較的早いうちにEF155に復元され、新鶴見区にも配置となり首都圏の貨物列車の牽引に活躍しました。最期は、甲府区の配置となり、身延線で終焉を迎えました。写真をご覧いただきますと、屋根の上には前後に2機のベンチレータのみで、非常にスッキリしているのが特徴です。また、冬期対策として、前面窓、貫通ドア窓、さらにはヘッドライトに至るまで、前面のあらゆる装置にツララ切りが装備され、その昔は山男だった様相を最期まで見せておりました。先般ご紹介いたしました7号機と同じようなスタイル、経歴となっています。5号機昭和22年12月24日 日立製 長岡第二機関区 新製配置昭和24年 4月 5日 福島第二機関区へ移動昭和26年 6月28日 EF16 5号機に改造昭和42年12月27日 EF15 5号機に復元昭和55年 1月17日 廃車 最終配置区 甲府機関区
2024.11.22
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旧型国電 73系:富山港線富山港線は、北陸本線富山駅から分岐し、終点岩瀬浜までを結ぶ8kmのローカル線です。交流区間の北陸にあり、直流電化による電車運転が行われる変わった形態路線であり、東北の仙石線に似ています。ローカル線であることから新車の投入は行われず、遅くまで旧型国電で運行されていました。私は旧型国電に興味がありましたので、末期の頃に他の用事も兼ねて2度ほど訪れています。昭和57年8月8日 富山駅にて初めて見るスカイブルーの73系は新鮮でした。昭和57年8月8日 富山口駅付近にて昭和57年8月8日 城川原駅にて城川原駅に電車区がありました。昭和57年8月8日 東岩瀬~岩瀬浜間にて昭和57年8月8日 岩瀬浜駅にて最初に訪れたときは日曜日だったでしょうか、終日2連の運用でした。天気が悪くスッキリしない日。しかし、初めて訪れたこともあって、途中の駅間も何箇所か歩きました。全線踏破もしています。昭和58年4月15日 富山~富山口駅間にて2度目に訪れたのは翌年。富山第二機関区からの徒歩での帰り道でした。そんなこともあって時間もなく、乗車はしていません。現在はライトレールとして再生され、利用率も良いようですね。しかし、思い出に残る73系の北陸ローカル線は、一部の路線とともに過去へと消えていきました。
2024.11.21
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381系:特急「しなの」昭和43年、キハ181系により特急運転が始まった「しなの」。そのわずか5年後の昭和48年、中央西線の全線電化時において、日本初となる振子式特急形電車381系が誕生し、曲線の通過速度を向上させ、電車化とともに大幅なスピードアップを図ることになりました。なお、暫くはキハ181系2往復が存置されていました。昭和52年3月30日 名古屋駅にて生涯初めて遭遇した381系「しなの」。53・10改正以前の姿ですので、文字マークとなっています。オートハーフでしたので案の定ブレブレです。昭和56年8月 東海道本線 山崎~神足(現長岡京)間にてキハ181系時代より、1往復は大阪まで顔出していました。381系化後のキハ181系が存置されていた時代においても、何故か大阪「しなの」は気動車のまま残っていました。初めて大阪に行ったとき、運がよければキハ181「しなの」が撮影できたはずですが、その時間に朝食を摂りに旅館に帰ってしまったらしく、結局1度も遭うことはありませんでした。上の写真は先頭をリバーサル、後部をモノクロで撮影しています。リバーサルの方は感度が低かったせいか、ブレてしまっているのが残念です。昭和56年11月22日 名古屋駅?にて昭和58年1月12日 長野駅にて 489系「白山」今ではこんな並び写真も夢のようですね。381系も老朽化及び陳腐化により、JR製383系へと進化し、終焉を迎えました。
2024.11.20
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キハ181系:特急「しなの」(佐久間レールパーク)「しなの」は、名古屋~長野を中央西線・篠ノ井線を経由して結ぶ特急列車。元々特急列車の走っていなかった中央西線木曽路で、「しなの」は急行列車として誕生しています。中央西線ならではの山岳路線でスピードアップが難しかったため、キハ82系の誕生により四国を除く全国に拡大した特急網も、中央西線は手付かずになっていました。そこで、非電化・山岳路線におけるスピードアップの実現のため、強馬力エンジンを搭載した急行形気動車キハ90・91が試作誕生し、急行「しなの」に充当されるようになります。この試作データで手応えを得た国鉄は、さらに改良を加えたキハ181系が産声を上げ、ここに特急「しなの」が誕生します。昭和43年のことでした。平成21年8月22日 佐久間レールパークにて佐久間レールパークの閉園に間に合うように訪問し、ヘッドマーク付のキハ181-1に会うことができました。キハ181に合うのは、おそらく昭和55年8月の特急「やくも」以来だと思います。初めて大阪駅に撮影に行ったときにはキハ181「しなの」の撮影が可能だったのですが、発車時間がちょうど朝食時間に重なってしまい、撮り損なってしまいました。大好きなキハ181でしたが、特急「つばさ」の引退はあまりにも早く、悲しいものでした。
2024.11.19
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国鉄旧型電機 EF157(新鶴見機関区)EF15シリーズ、今回は1ケタ7号機です。昭和52年頃 安善駅写真からのスキャンなので画像は良くありません。鶴見線を撮影に行った際、途中駅で見掛けたEF157号機です。まだ廃車の出ていなかった時代ですから、正直なところ一切興味なしの形式でしたが、1桁となると滅多に逢えるものではありませんから、やはり記録したいという気持ちがありました。7号機昭和23年 2月25日 日立製 新製配置 2/27 国府津機関区昭和24年 3月14日 福島第二機関区へ異動昭和26年10月20日 東芝にて EF167に改造昭和40年 9月30日 長岡第二機関区へ異動昭和43年 3月22日 大宮工場にて EF157に復元昭和46年 3月14日 新鶴見機関区へ異動昭和52年12月 9日 甲府機関区へ異動昭和53年12月 5日 廃車EF15の1桁号機は、9号機を除いて全て勾配抑速ブレーキ付きのEF16を経験しています。さらに、昭和42年~43年に掛けて、EF15の元番号に戻されるという経歴を持ちます。乗務員扉、ヘッドライトに残るツララ切りも、過酷な福米時代を経験したことを物語ります。最終配置は甲府機関区でしたが、写真を撮影したのが鶴見線であることを考えると、新鶴見機関区時代のもので間違いないと思われます。
2024.11.18
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東急電鉄 1000系:東京メトロ乗り入れの終焉※本記事は、2013-02-28に投稿したもので、当時の表現になっています。平成25年3月15日をもって、東急東横線は東京メトロ副都心線への乗り入れに伴って渋谷駅が地下へと切り替わることになりました。前回は日比谷線03系車両が東横線乗り入れ廃止についてご案内いたしましたが、今回は、逆に東横線から日比谷線に乗り入れている東急1000系についてご紹介いたします。東急1000系は18m車で日比谷線乗り入れができる車両ですが、乗り入れ車両とは別に、多摩川線・池上線に運用される3両編成の同系が存在します。日比谷線乗り入れは専用の8両編成となっています。平成25年1月8日 東急東横線 都立大学駅にて北千住行きのトップナンバー車に出会いました。今まで特に興味のあったシチュエーションではなく、写真を撮ったのはこれきり。偶然に立ち会った東京メトロ03系との並びシーン。良い記念になりました。平成25年2月10日 東横線 多摩川駅にて 1105 菊名行き1000系自体が形式消滅になることはありませんが、乗り入れの廃止に伴い、「北千住」「南千住」といった字幕は見納めとなります。
2024.11.17
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小田急電鉄 3100形NSE:特急「はこね」小田急ロマンスカーの代名詞と言えば、今はVSEを指すのでしょうかね。特急列車の魅力が高い小田急電鉄は、その時代ごとに顔となるロマンスカーを導入してきましたが、その中でも長らく顔を務めてきたのは3100形NSEでしょうか?昭和57年5月 登戸駅付近にて NSE車使用の「はこね」マミヤM645の試運転の際に撮影していたものです。当時はそれほど好きな形式ではなく、国鉄だけでもネタは尽きない時代でしたから、特に縁の無い小田急線の撮影って言うのは基本的になかったですね。この頃のNSE車は、ヘッドマークが大型の差込式で、国鉄ボンネット車の様なホームベース型をしています。このあと引退するまで写真を撮らなかったのは、ロール式になって余りにも印象が変わってしまったからだと思います。でも、今思えば沢山撮っておけば良かったと・・・。平成18年10月14日 海老名車庫にてオマケ画像で、フェスタでの1コマです。名車は今でも大切に保存されています。
2024.11.16
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国鉄・JR貨物:EF651037(EF652037)EF65PFシリーズで、今回はJR貨物のEF651037(EF652037)です。1037号機も1036号機と同じく昭和45年度に誕生した増備車で、昭和45年9月4日に落成しています。国鉄時代は宇都宮運転所に配置となり、その後田端機関区を経て民営化後にはJR貨物所属となったのも1036号機と同様です。他のPF初期車が次々と廃車になる中で、比較的に最後まで残った初期車として有名でした。特にこの年度の個体までは扇風機の搭載が無かったため、前面に通風孔が残るタイプとして稀少でした。また、ナンバープレートは途中からブロック式になったようです。比較的初期の車両でありながらも、1036号機とこの1037号機は新たな保安装置を搭載した車両として2000番台化されることになり、2000番台の若番車として活躍しました。平成23年7月18日 3071レ2000番台化される前に撮影した1036号機。やはり原色ではないEF65の写真を撮っていなかった頃なので、この写真が同号機1000番台時代唯一の写真でした。平成24年8月26日 4094レ平成25年7月27日 4094レ平成26年3月8 4094レやはり平成24年度から2000番台となりましたが、平成27年度から地元におけるPFの定期スジが壊滅状態となってしまったため、記録は平成26年で途切れてしまいました。同機も未更新車であったことが災いし、2036号機と共に平成27年度には除籍となってしまいました。
2024.11.15
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茨城交通 キハ220形:キハ221『茨城交通 キハ200形:キハ201』のご紹介をした際、チラッと写っていた茶色い車両。元羽幌炭礦鉄道からやってきたキハ221です。羽幌炭礦鉄道キハ22形は、昭和35年~41年にかけて導入された車両。羽幌炭礦鉄道は昭和45年に廃止となっています。その際、車齢の若かったキハ22は茨城交通へ譲渡されることになり、昭和45年~46年に掛けて3両全てが入線しています。キハ221は、平成10年まで活躍しましたが、運用離脱後は阿字ヶ浦駅でやはり更衣室として使用されていたようです。※撮影は、平成18年4月30日、茨城交通阿字ヶ浦駅にて。内陸側は潮風や陽当りがそれほどでもないのか、色褪せがあってもそれほど劣化はしていないようでした。一方の海側は、正面も含めてボロボロです。左右でこれほどまでに影響が違うのでしょうか?最後は羽幌炭礦鉄道時代の塗装を再現し、このように社章や会社名まで再現されていました。国鉄キハ22形と同形態で、本家キハ22もキハ20系の中では遅くまで使用されていた関係もあってか、私自身の注目度は低い車両でした。同車は、2009年に撤去されたそうです。
2024.11.14
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485系:特急「はつかり」「はつかり」は、昭和33年10月ダイヤ改正で誕生した東日本初となる特急列車で、上野(東京)~青森間を結びました。誕生当初は、東海道線特急列車の電車化により発生したスハ44系及び10系グリーン車・食堂車を使用した客車列車であり、ブルートレインと同様の塗装をした大変オリジナル色の強いものでした。また、しばらくの間は常磐線経由の設定となっています。昭和35年、国鉄初となる気動車特急キハ81系により無煙化、スピードアップが図られますが、初期故障が多く、遅れが多発したことは有名です。昭和43年、東北本線の全線電化開業により、初めて東北地区に583系が誕生します。583系による運転は9月9日となり、さらに10月のダイヤ改正では東北本線経由に改められます。大きな改正ごとに本数が徐々に増発され、昭和48年のダイヤ改正で初めて「はつかり」にも485系が使用されることとなりました。今回は、この485系で運用された特急「はつかり」をご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて昭和52年頃 蕨~西川口間にて昭和52年春頃? 上野駅にて485系貫通型「はつかり2号」と気動車急行「いいで」「ざおう」の並び(再掲)昭和53年頃 蕨~西川口間にて昭和54年頃 東北本線 蕨~南浦和間にて昭和54年3月 西日暮里駅から昔はそこそこ有名撮影地であった西日暮里駅からの写真です。写真は上野駅に向かう特急「はつかり」。座席の向きの様子から、尾久からの送込み回送のようですね。ドアはちゃんと閉めましょうよ(笑)。昭和55年 西川口~蕨間にて昭和56年8月 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にて昭和57年 蕨~南浦和間にて東北・上越新幹線開業直前の頃の写真と思われます。この写真も1500番台でかなり慌てて撮ったようで、おそらく300mm手持ちでピントを合わせながら構図も考えている間がなかったようですね。写真では分かりづらいかもしれませんが、セイタカアワダチソウのような高草が画面のセンターにカブってしまい、どうにもならん状態ですが、望遠効果でなんとか目立たなくなっているようです。1500番台も当時はそこそこ逢える確率のあった車両でしたが、数ある特急のどの運用に入っているか、前後のどちらに付いているかというところまで追う事は難しかったので、駅撮りではない状況ではなかなか難しかったですね。たった1枚しかないとは、非常に寂しいものとなってしまいました。485系は全て青森運転所に所属するもので、サロ・サシ各1両を込んだ12両編成となっています。当初からサロは2号車でしたが、「食堂車への距離が遠い」との不評から6号車へ付け替えが行われ、これは583系にも共通しています。青森運転所では開設当初にボンネット型の運用があったようですが、「白鳥」「いなほ」での運用実績は記録があるものの、「はつかり」に関しては未だにその記録に接したことはありません。東北新幹線の開業によ盛岡~青森間の、さらに青函トンネル開業後は函館まで足を伸ばすことになりますが、平成14年に新幹線が八戸延伸された際、特急「白鳥」「つがる」に愛称が変更され、特急「はつかり」の名称は消滅しています。583系:特急「はつかり」その1583系:特急「はつかり」その2
2024.11.13
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24系25形寝台客車:寝台特急「つるぎ」寝台特急「つるぎ」は、昭和47年10月に誕生した20系寝台客車により誕生しています。大阪~新潟を結び、米原経由で運転されていました。湖西線開業とともに同線経由に変更となり、昭和51年に24系25形に置換え、平成6年12月に廃止となるまで変わらない運行形態が続きました。昭和55年8月 神足(現長岡京)~山崎間にていつもアップしている写真の区間ですが、オハネフ25の0番台で編成された「つるぎ」を捉えたものです。私的には「つるぎ」のヘッドマークは好きなデザインでしたが、やはり取り付け省略の期間が長かったため、目にすることはありませんでした。その後は関西を訪れる機会が無く、走行距離の短いことも災いして、なかなか撮りにくい列車でしたね。結局、実車を目にしたのはこのときが最初で最後でした。寝台特急「つるぎ」は定期廃止後も臨時列車として運転が組まれましたが、平成8年度を最後に運転されることはなくなりました。平成20年3月9日 東京駅にて何故か急行「銀河」を撮影に行ったら、この幕が掲出されていたので撮っておきました。「つるぎ」はかなり前に廃止されているから、黒幕になってからは1回も走っていないと思うんですが。用意されていたってことは、復活する可能性もあったということでしょうか?
2024.11.12
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西武鉄道 10000系:ニューレッドアロー 特急列車運転50周年本記事は、2020-02-09に投稿したもので、当時の表現になっています。西武鉄道では、特急列車運転50周年を記念して『特急電車運行開始50周年記念プロモーション』を実施、令和元年10月中旬より10000系1編成に記念ラッピングが装飾されて運行されていました。当初は令和2年1月までの予定だったようですが、この期間が2月22日まで延長されたそうです。令和2年3月のダイヤ改正で池袋線及び秩父線の特急運用から10000系ニューレッドアローが撤退することを知り、最後の記録ということで撮影に行ってきたのですが、偶然に同ラッピング編成を捉えることができました。※撮影は、令和2年2月8日、秋津駅にて。10000系 特急「ちちぶ70号」側面ラッピング以外にもヘッドマーク(シール式)が取り付けられています。西武鉄道では既に10000系の廃車が進んでおり、同ラッピングも3月改正までの取付ではないことを考えると、この編成自体が同日をもって引退となってしまうのかもしれません。既に終わってしまったイベントだと思っていたので、この機会に記録することができたのでラッキーでした。
2024.11.11
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西武鉄道 10000系:ニューレッドアロー(プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. )本記事は、2020-02-10に投稿したもので、当時の表現になっています。西武鉄道では、平成28年12月25日からニューレッドアローのうち1編成を「プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. 」として運転していました。車体には、秩父夜祭の山車などと地域の代表的なランドマークのデザインをラッピングが施されました。平成31年7月、新型001系導入に伴う10000系廃車第1号となったのが、この「プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. 」として運転されていた10103Fでした。※撮影は、平成29年6月8日、東久留米駅にて。10000系ニューレッドアロー platinum express 特急「むさし」珍しく現場の仕事があり、早めに到着したためにホームで撮影。偶然に来た特急が「プラチナ・エクスプレス 秩父Ver. 」でした。現在に至るまで、最後に撮影したニューレッドアローがこの写真でした。プラチナ・エクスプレスには「プラチナ・エクスプレス 川越Ver. 」がありましたが、そちらの方は撮影する機会が無く、当該編成(10104F)も廃車第2号となり、既に横瀬送りになっています。
2024.11.10
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153系・185系:急行「伊豆」急行「伊豆」は、東京~伊東・伊豆急下田・修善寺を結んでいた温泉急行列車で、現在の特急「踊り子」の前身となる列車。特急がまだ高級品であった頃、全車指定の急行列車としてそれでも高級な感じのある急行列車でした。自由席連結の急行「おくいず」とペアを組んでいましたが、後年は「伊豆」にも自由席車が連結されるようになり、「おくいず」を吸収して大所帯となりました。昭和56年5月頃 保土ヶ谷~戸塚間にて 下り153系急行「伊豆」急行「伊豆」は、基本10両+付属5両の最大15両編成で設定され、グリーン車2両を常時組み込んでいたのが特徴といえます。また、付属編成は修善寺まで乗入運転を行っていました。このあたりの設定状況を考えると、今の185系「踊り子」そのままという感じですね。急行「伊豆」と言えば、153系が定番で、多客臨で155系や167系が使用されました。そんな急行「伊豆」に一大転機が訪れたのが昭和56年3月のことでした。153系の老朽化を見込んだ上で新製車を投入。そのコンセプトは特急運用を基本としながらも、153系が間合い運用していた普通列車までカバーしてしまおうというもの。それまでの国鉄では、特急車両を急行や普通列車に使うなど有り得なかったんです。153系の置換えともなると、普通列車もカバーしていることから新製数も多く、一度に全ての車両を置き換えて特急化するのは困難です。そのため、昭和56年3月に第1編成誕生以来、新製毎に徐々に置き換える間、急行運用のままの「伊豆」に使用されるようになったのです。昭和56年5月 東海道本線 東戸塚~戸塚間にて昭和56年9月 東海道本線 品川駅にて昭和56年9月28日 東海道本線 戸塚~保土ヶ谷間にて昭和56年9月28日 東海道本線 戸塚~保土ヶ谷間にて185系の車両を使った急行は、他にも高崎・上越スジで「ゆけむり」「草津」「あかぎ」がありましたが、この「伊豆」だけは「急行」とせずに、ちゃんと愛称名が用意されたのです。これらの写真は、殆どがEF58や特急「あまぎ」を撮る時のついででした。でも、今となっては貴重な写真です。特急「踊り子」の誕生は昭和56年10月ですので、この形態の「伊豆」はわずか半年間のみの運行ということでした。その割には良く撮っていたなぁという印象です。
2024.11.09
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183系OM103編成:団体列車「はばたけ・トキめき新潟号」2008年11月、団体列車「はばたけ・トキめき新潟号」という列車が走りました。車両は大宮総合車両センターの183系OM103編成。これはどうも両端が特急マークを取り付けているために選抜されたようで、リバイバル運転へかなりこだわりがあったようです。運転区間は、定期運転当時のまま上野~新潟間としており、平成20年11月8日に上野→新潟、翌11月9日に新潟→上野と両日の片道運転となっています。平成20年11月8日 下り 「はばたけ・トキめき新潟号」団体列車の名前からある程度それらしいヘッドマークが付けられるだろうと想像はしていましたが、意外にも現役当時と同じ「とき」のイラストマークで登場となりました。しかも、きちんとロールに用意されたものであるため、現役時代そのものの見栄えでした。この列車の運転当時、ヘッドマークの緑色が薄いとクレームを付けているファンがいたようですが、標準のデザインでは濃い緑としながら、この黄緑色のヘッドマークは存在しました。ただし、数ある編成のうちの1編成のみであったと思われ、捕獲するは困難でした。平成20年11月9日 上り 「はばたけ・トキめき新潟号」翌日は返しの運転となりますが、こちらはなんと文字マークの再現となっていました。これにはビックリ!イベント用にこれらのマークを準備していたとは、この当時は夢にも思っていませんでした。自身も文字マーク時代はあまり写真を撮っていませんでしたから。しかし、悲しいかな、スキャニングしてみると、ヘッドマークが明る過ぎて肝心の文字が殆ど見えません。これには参りました。往復とも撮影に適した時間の設定となっていながら、天気が非常に悪く、厳しい撮影条件でした。当時はあまり良い性能のデジカメではなかったので、あえてF-1にISO400で臨んだのですが、それでもやはり相当厳しいものでした。今のようなデジイチであれば増感してクリアできたと思いますが、これも時代を反映した物語ですね。
2024.11.08
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183系OM車:快速「快速碓氷」上野~横川を結んだ「快速碓氷」。いつごろから運転され始めたのかよく知らないのですが、長野行新幹線が出来てからでしょうかね?やはり駅からウォーキングと絡んでいるようです。年2回のシーズンに数本運転されているようで、年度によって設定数にバラツキがあるようです。全部地元で同じような写真ですがご紹介いたします。平成20年11月18日 OM102上が上り列車、下が下り列車です。この時は天気が悪かったので、ISOの範囲が狭い旧機のデジカメを使わず、F-1のネガフィルムを使っており、フィルムスキャン画像となります。平成21年4月19日 OM103 下り平成22年4月17日 OM103 上り平成22年11月14日 OM103 下り平成24年11月3日 OM103 下り平成25年4月13日 OM103 下り最下段の写真は、平成25年春に運転された「快速碓氷」で、この秋からは185系化されたため、結果的には183系として最後の運転となったものです。まだOM183系は在籍していますので、平成26年度も残れば運用復活の可能性はありますが、651系の動向も気になるところであり、このまま引退の可能性が高いものと考えます。しかし、いつも思うのですが、快速「碓氷」で良い筈なのに、なんで「快速碓氷」なんでしょうか?
2024.11.07
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秩父鉄道:1000形※本記事は、2014-03-22に投稿したもので、当時の表現になっています。秩父鉄道1000形は、吊り掛けの100形や元小田急の800形を置き換えるため、元国鉄の101系の購入によって導入した車両です。2両以上の組み合わせが自由であった利点を生かし、3両編成×12編成の計36両が導入され、当初は普通列車の殆どが1000形で統一されました。その後、リバイバルブームに乗って中央快速色、総武緩行色、京浜東北色、関西色と様々な国鉄時代の色を纏い、ファンを楽しみませてきましたが、いよいよこの平成26年3月の3連休の運転をもって、最後の1編成が運用を離脱することになったようです。秩父鉄道にC58が走るようになった頃には何回も足を運びましたが、旧型客車による運転が終了してからは足が遠退いてしまいました。その頃には既に元101系である1000形が大勢を占めており、むしろ最後に残っていた100形の方に着目していました。そんなこともあって、1000形の写真も殆ど残っていません。あるだけ集めたものを記録しておきます。平成4年4月5日平成5年5月16日 浦山口~武州中川間にてここまでは、導入当初の塗装で、100形等に施行されていた当時の標準塗装です。平成8年9月15日 1205F 野上~樋口間にて塗装変更が社内全般に実施され、それまでとは違った爽やかなイメージとなりました。前後の車両は冷房化も実施されました。平成19年2月15日 1212F 西羽生~羽生間にて平成19年2月15日 1212F 羽生~西羽生間にて平成19年2月15日 1211F 西羽生~羽生間にて秩父鉄道1000形の全廃により、昭和32年に誕生した国鉄新性能車の始祖101系は、全国の鉄道から消滅し、57年の歴史にピリオドが打たれます。(台車等の流用改造車を除く。)
2024.11.06
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上越新幹線 E1系:「Maxとき」&「Maxたにがわ」※本記事は、2012-09-28に投稿したもので、当時の表現になっています。E1系は、平成6年に誕生した初のオール2階建て新幹線系列です。慢性的な混雑から立席客を減らすため、座席数の増加を目論んだ車両あり、最終的には12連6編成が誕生しています。登場当初は東北新幹線・上越新幹線に使用されていましたが、新在直通の新幹線が開業したことにより途中の分割併合に不便を来たすことになったため、東北新幹線にE4系を導入、上越新幹線限定運用と移り変わります。E1系には以下のような特徴があります。・製造時は600系を付番する予定であたため、現在においても600系が欠形式になっている。・現在の新幹線の中では唯一の鋼製車両。したがって重量がある。・JR東日本の新幹線としては初めてVVVFを採用。画像は平成8年に発行されたオレンジカード。NTT発行のテレホンカード誕生当初はこのようなデザインでしたが、残念ながらこの頃の写真は撮っていませんでした。平成15~18年にかけてリニューアル工事が実施され、現在の姿となっています。平成21年11月7日 戸田駅にて初めて撮影したE1系Max。写真は第4編成で、リニューアル第1号編成です。平成24年8月4日 戸田橋付近にて 「Maxとき343号」夕闇の中を走るE1系。戸田橋の花火大会とのコラボを狙いましたが、残念ながら打ち上げが始まりませんでした。平成24年8月25日 大宮駅にて 「Maxとき310号」運用離脱前にと駅撮りでの捕獲。「Maxとき310号」は、越後湯沢~東京間がノンストップで、大宮駅も通過する列車でした。平成24年8月29日 大宮駅にて 「Maxとき326号」トキのひなの誕生を記念し、ステッカーが貼られていました。平成24年8月29日 大宮駅にて 「Maxたにがわ415号」E1系は越後湯沢行きの「Maxたにがわ」にも運用されていました。東北新幹線へのE5系の増備が進みE2系に余力が発生、最高速度の遅いE4系を上越新幹線に押し出したことにより余剰となったE1系Max。個人的には魅力を感じていた車両ではありませんでしたが、登場当初「マックスはとても恥ずかしがり屋さんなんです。マックス~~~。」という小泉今日子さんのCMでその名を知らしめた、新幹線初のオール2階建て車。600系という幻の形式とともに、本日、定期営業運転から撤退、その使命を終えることになります。
2024.11.05
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京成電鉄 初代AE:空港特急「スカイライナー」京成電鉄では、スカイライナーの運転開始から50周年を記念してラッピング車を運転しています。京成電鉄 新AE:スカイライナー50周年京成電鉄有料特急列車で、初代AE形は昭和47年に誕生しました。当初から公募により「スカイライナー」と名付けられたものの、新東京国際空港の開業の遅れにより、なかなかその目的を達することが出来ませんでした。昭和53年にやっとのことで新東京国際空港が開港となり、ここにアクセス特急としての「スカイライナー」が誕生することになります。昭和54年5月 京成上野駅にて AE-3編成昭和54年5月 京成津田沼駅にて AE-5編成昭和54年5月 京成津田沼駅にて AE-1編成旧塗装時代は6両編成で、車番がAE-1、2、3、8、9、10と振られており、将来的には10両編成を予定していたことを伺わせていました。しかし、現実的にはAE100形登場に際して8両編成に組み直されたものの、今までに他の列車を含めて10両化は達成されていません。残念ながら、新塗装時代の写真は撮っていません。昭和48年5月26日 宗吾車庫にて金町のHさんから拝借いたしました写真です。おそらくは誕生間もない頃の写真で、愛称決定前に使用しようと思っていたのか、「空港特急」という純和風な愛称も用意されていたようです。他にもただの「特急」というヘッドマークも用意されていたようですが、それらが実際の営業運転で使用されたことがあるのか、情報が掴めず分かっていません。
2024.11.04
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485系K60編成:快速「那須野満喫」平成24年11月をもってに運用を離脱した勝田車両のセンターのK60編成ですが、その離脱直前となった平成24年11月3日、東北本線の快速「那須野満喫」に充当されました。183系で設定された10月29日とは運転区間が異なり、交直流電車の機能を生かして新白河行きとして設定されました。平成24年11月3日尾久 -回9520M→ 上野上野 -回9523M→ 大宮大宮 -9123M→ 新白河新白河 -回9125M→ 郡山郡山 -回9122M→ 新白河新白河 -9124M→ 大宮大宮 -回9526M→ 上野上野 -回9421M→ 勝田485系 K60編成 回9523M 快速「那須野満喫」 送込み回送珍しく地元を走るK60編成。でも、何故か上野まで回送して出直しているにもかかわらず大宮発としているのは???ですね。何か特別やヘッドマークが用意されているのではないか?という期待もむなしく、表示は「回送」幕でした。この後、まさか1ヶ月も持たずに運用離脱するとは思ってもいませんでした。
2024.11.03
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20系寝台客車:寝台特急「北陸」上野から北陸方面への優等列車の歴史は古く、急行「北陸」という名称は昭和25年に誕生しています。昭和44年10月、「北陸」は系統を吸収して2往復体勢となり、「北陸1号」は座席を主体とした季節急行列車として、「北陸2号」は寝台車を主体とした寝台急行列車と活躍を始めます。昭和50年3月改正において、寝台車主体の急行「北陸2号」は20系寝台客車の使用により特急列車化されることになります。これは同時に誕生した寝台特急「北星」と同様で、20系客車は「はやぶさ」「富士」「出雲」「日本海」の24系24型化により余剰となった車両を活用しています。なお、急行として残った「北陸1号」は、上越線経由のまま急行「能登」として定期化されることになります。昭和52年 大宮駅にて EF5871牽引 上り「北陸」「北陸」も朝早い列車なので、殆ど記録が残っていません。その中で、唯一EF58が牽引している写真がこれです。当時はヘッドマークが付いていませんでしたから、専ら撮影は客車側ばかりとなっていましたね。そんなこともあり、かなりの枚数を撮影したEF58ですが、長岡区のEF58の写真は殆ど残っていません。昭和52年頃 上野駅にて ナハネフ22状況からして冬休みでしょうかね。早朝の上野駅で撮った20系時代の「北陸」。降りた客も早々にホームを立ち去り、閑散としています。推進運転用のライトも取り付け済みになっています。昭和53年頃 上野駅にて ナハネフ22こちらも同じシチュエーションですが、おそらく夏休み期間中に撮影したものでしょう。夜が明けた上野駅ホームは大変明るく、早朝の到着でも十分撮影することが可能でした。到着したばかりなのでしょうか、ホームは「北陸」から下車した乗客で賑わっています。昭和53年3月20日 上野駅にて カニ21こちらは電源車のカニ21です。「北陸」は高架ホームの発着でしたが、機回しは上野駅で行わずに常に推進での回送を行っていたため、夜発でなければ電源車を撮影することは出来ませんでした。20系編成最期の頃にカニ22も使用されたことがあったようでが、残念ながら目撃したことはありません。上野駅にて ナハネフ23もーまんさんから画像提供を受けましたナハネフ23の「北陸」です。20系の廃車や急行転用によりナハネフ22が不足しだし、稀にナハネフ23が使用されることがあったようです。ちなみに、私は現物を見たことはありませんでした。20系客車は軽量化設計が寿命を縮めてしまい、あまり活躍の期間は長くなく、ニューブルートレインと称される14系・24系以降の車両へ転換が早かったですね。20系寝台特急「北陸」についても、昭和53年10月の改正から14系客車へと置き換えられることになります。
2024.11.02
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救援車:スエ388スエ388は、3軸ボギーの優等寝台車を改造した救援車です。その変遷は目まぐるしく、マロネ37形→マハ47形→マハネ37形→マハネ29形→カニ38形と何度も形式・用途を変えながら険しい道を歩んで来ました。昭和56年5月頃 佐倉客貨車区にて スエ388電車の中から撮った写真なので、構図が悪くて申し訳ない。この頃、2度くらい大回り乗車で佐倉駅を通ったことがあり、この車両の存在が気になっていたのです。側面の扉が上昇式の折れシャッター(20系電源車の荷物扉と同構造)を採用し、しかもた~~~くさん付いているんです。一目見て異様な雰囲気を持った車両です。下回りは戦前型の3軸ボギー車ですが、ボディーは10系客車に準じた構造となっており、その点では20系と似たシャッター式折戸を使用したり、断面が10系とそっくりであったりといった様相に納得が行きます。しかし、一方では雨どいが省略された姿など、戦災復旧車のような雰囲気も併せ持った非常に異色なスタイルです。※荷物車時代には雨樋がきちんと付いていましたので、救援車になってからゴミ溜まりや腐食防止のために撤去されたものと思われます。同車は8号車を名乗っていますが、スエ38の1~7は31系客車に属する全く別物であり、同車のスタイルは8号車のみが唯一となっているのも特徴です。データによると、スエ388は昭和56年に佐倉客貨車区の廃止とともに廃車されたことになっており、写真を撮った頃とリンクしておりますので、最晩年にギリギリ撮ることができたものということが判明いたしました。
2024.11.01
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489系非貫通型:特急「白山」(53・10改正後)特急「白山」は、上野から信越本線経由で金沢を結んでいた489系を使用した特急列車です。誕生は昭和47年3月改正からで、それまでは急行列車でした。同ルートからのルーツを考えると、最初に特急列車として運転されたのは上野「白鳥」であり、系統分割で特急「はくたか」でキハ82系のまま設定されていました。昭和44年10月改正の上越線電化に合わせ、「はくたか」が485系化のうえ上越線経由となったため、信越本線内では北陸まで直通する特急列車が不在となりました。碓氷峠を通過するための協調運転に対応した489系が誕生したことにより、同区間を通過する特急・急行列車の12連化が実現し、これに合わせて特急「白山」が誕生しています。同時に、181系により輸送力が不足していた特急「あさま」に対しても、一部列車ながら489系による共通運用で輸送力を確保しました。今回は、特急「白山」の昭和53年10月改正以降の非貫通型の写真を並べてみます。昭和54年 蕨~西川口間にて クハ489-700番台こちらは53・10改正後にイラストマーク化された「白山」。毎度ながらの定点写真です。昭和54年8月 上野駅にて クハ489-300番台こちらは、上野駅到着後、『据付け』と呼ばれる上野~秋葉原間の電留線に引き上げる「白山」を撮影したもの。181系「とき」や189系「あさま」など、高架ホーム発着の電車は尾久客車区に引き上げずに、同区間の電留線に引き上げるパターンが多かったですね。昭和56年 蕨駅にて 489-700番台「白山」と 165系「よねやま」ちょうどピッタリとすれ違いましたね。165系は編成が写っていませんが、列車番号から急行「よねやま」であることが判りました。東北・上越新幹線の開業前は、優等列車街道(過密地帯)の同区間でありましたから、このようなすれ違いは茶飯事だったでしょうね。今では優等列車がほとんどなくなってしまいましたが、その分普通列車の本数が格段に増加したため『カブった!』ってことは未だに良くありますが。本数的には3往復(廃止末期は2往復)走っており、「白山」の写真を捉える期間は少なくなかった筈ですが、何故か200番台も含めて、写真を撮った枚数は極端に少ないような気がします。ボンネット車が好きだったということもあるのでしょうが、実際の運用数もボンネット型の方が多かったのではないかという気がしてなりません。
2024.10.31
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茨城交通 キハ200形:キハ201茨城交通湊線の時代、同社には元国鉄のキハ20形が5両在籍していました。冷房改造されて最後まで残っていたキハ205(形式はキハ20形)が間もなく引退等あるようですが、他のキハ200形4両は既に廃車されています。廃車されたうちの1両であるキハ201は、廃車になってからも阿字ヶ浦駅に留置され、海水浴時の更衣室として使われていたそうです。※撮影は、平成18年4月30日、茨城交通阿字ヶ浦駅にて。キハ201は、国鉄から鹿島臨海鉄道を経由して茨城交通にやってきた車両で、鹿島臨海鉄道時代にヘッドライト及びテールランプが妻板ボックス化改造されており、前面の印象がオリジナルとはかなりかけ離れています。そんな印象のギャップが、写欲をそそられなかった原因でもあったと思います。キハ200形は冷房改造がされておらず、ワンマン化も行われていなかったため、この写真が撮影された平成18年までにすべて廃車されたようです。定期運用撤退からさほど時間が経っていないにもかかわらず、海が近いせいか痛みが酷く見えます。同車は平成21年まで使用され、3月に解体されてしまったということです。
2024.10.30
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国鉄・JR貨物:EF651040(EF652040)EF65PFシリーズで、今回はJR貨物のEF651040(EF652040)です。1040号機は、昭和46年度に誕生した増備車で、昭和47年1月14日に落成しています。先日ご紹介いたしました1036号機や1037号機とは年次が異なりますが、やはり宇都宮運転所に配置に始まり、その後田端機関区を経て民営化後にはJR貨物所属となったのは同様となります。それまでの初期車は扇風機の搭載が無かったため、前面に通風孔が残るタイプとなっていましたが、この年次車からは扇風機が搭載されたため運転室上センターに出っ張りが出現し、前面の通風孔が廃されたスタイルとなりました。やはりナンバープレートは途中からブロック式になったようです。初期車の中では後期の車両となりますが、大型のPS17型パンタグラフを搭載した車両として、1036号機、1037号機、1050号機と共に2000番台化された希少な存在でした。※1050号機は、2000番台化前にPS22Bに換装されていた。平成23年11月12日 3055レ2000番台化される前に撮影した1040号機。他の初期車と同様、何故か1カットだけ確保できていた感じでした。平成24年10月5日 4094レ平成24年10月6日 7070レ平成26年5月17日 8050レ未更新車ということで、他の初期車と同様にブロック式の青プレートとなっていました。1050号機とは違い、PS22B化されることなく活躍していましたが、やはり未更新ということで平成27年度には除籍となってしまいました。
2024.10.29
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茨城交通 初代キハ11:キハ111~キハ113現在はひたちなか海浜鉄道湊線となっていますが、平成20年3月31日までは茨城交通が経営していました。今では殆どが新しい車両に置き換えが行われましたが、茨城交通晩年までは昭和30年代製造の国鉄や私鉄から払い下げを受けた車両ばかりが走っていました。昔は国鉄の路線や列車の写真を撮るのが精一杯で、地方のローカル私鉄までは手が回らず、訪れる機会もなかったのですが、国鉄時代に殆ど撮ることができなかったキハ10系が茨城交通に残っており、また、これらの車両が置換えになるということで、初めて同線を訪れました。平成7年11月25日 キハ112+キハ113平成7年11月25日 キハ113+キハ112茨城交通では、国鉄での役目を終えたキハ11型を3両購入しており、これもまた老朽化で引退することになったようです。後継車の導入は1両ずつ徐々に行われることになり、最初の廃車予定となったのがキハ113でした。その引退に合わせ登場時の青塗装に復元されたため、どうしても実車を見ておきたくなり、同線を訪れたものです。さようなら運転となったために日中は増結の2両運用となり、茨城交通塗装のキハ112とのペアで走りました。キハ113は、塗装変更後わずかで廃車になってしまいます。平成8年5月3日 キハ112+キハ3710キハ113がさようなら運転から直ぐに引退となり、キハ112が国鉄気動車の標準塗装となって走り出します。まさに自分がリアルに見てきた姿だけに心が躍り、翌年もまた同線を訪れました。この時は導入されたばかりの3710形との2連となりました。キハ112はその後も長く使用され、引退後にJR東日本が譲受し、大宮の鉄道博物館で復元の上保存されているのはご承知のとおりです。平成8年5月3日 キハ111+キハ223もう1両残っていたキハ111は、キハ113の後を継いで登場時の塗装が復元されました。この2両は同時期に存在したため、日によってはキハ11形2両で運用されたこともあったようです。キハ111は、廃車後に映画ロケに使用され、その際に解体されてしまったそうです。平成21年8月22日 キハ113→キハ48036廃車になったキハ113は、なんとJR東海が譲受し、佐久間レールパークにて登場時の塗装のまま保存されることになりました。佐久間レールパーク閉館の際に解体の危機もありましたが、再整備の上リニア・鉄道館に収蔵されることになりました。さすがにこの年代の気動車は既に限界を超えており、現役で動かすのは酷ですが、古き良き時代の姿のまま保存されていることをうれしく思います。
2024.10.28
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西武鉄道:ラッピング電車「DORAEMON-GO!」西武鉄道では、2020年に『ドラえもん』がコミック連載開始から50周年を迎えたことを記念し「DORAEMON-GO!」を同年10月8日から運転していました。そこから4年が経過した令和6年9月、同ラッピング電車が運行を終了することとなりました。公式PDF ラッピング電車「DORAEMON-GO!」運行終了のお知らせ同ラッピングは38101編成に施工され、西武新宿線で運転されていました。普段の通勤で埼京線と並走していますし、女房の実家も西武新宿線の踏切を通ったりしますので、何度も目にする機会はありました。しかし、写真となるとなかなか難しいです。※撮影は、令和6年6月14日、下井草駅付近にて。午前中の現場が終り、移動するため下井草駅に来ました。ちょうど踏切が下りてしまって待たされると、偶然にもドラえもんラッピング電車がやってきました。慌ててカメラを出し、発車して暗がりから出てきたところをGET。後部はロケーションが良くないのですが無理やり撮ろうとしたところ、ポンコツカメラのピントが合ってくれず、最後部に到達する前にシャッターが下りてしまいました、さらにその後もピントが定まらず終了・・・。昨年、今年と新宿線方面の現場が少なく、運転終了も知りませんでしたので、結局はこのショットが最初で最後となってしまいました。車内まで仕込みがあったようだったので、乗って記録を撮りたかったですね。
2024.10.27
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西武鉄道 E851牽引12系客車:さよなら運転西武鉄道に在籍した、私鉄最大の電気機関車E851。初めて見たのは中学生のオリエンテーリングの時でしたが、その時以来、好きな電気機関車でした。しかし、昭和の時代は国鉄の写真を撮るだけでも精一杯。モタモタしている間に貨物輸送は急速に減退し、比較的新しい機関車であったE851もまさかの引退となってしまいました。結婚前、西武の社員となった同級生や、その先輩、さらにそのお友達との付き合いが濃く、最後のE851を撮りに行く機会がありました。※撮影は、全て平成8年5月26日です。西武秩父線 東吾野~吾野間にて西武秩父線 吾野駅発車E851の廃止にあたり、貨物機であった同機に最後の花道として、JRから12系客車を借り入れという大胆な企画。私の古くからの友人でもある西武鉄道の社員でテツ分の強い方たちが企画したようです。まだ私たち夫婦に子供ができる前で、女房と2人して出掛けました。何故かこの時は川越線~八高線経由で現地入りしています。始発から見届けてはいなかったので、E851が重連で12系客車を牽く姿に興奮したものです。横瀬駅構内にて横瀬駅の構内は、貨物ヤードを利用した、さながら西武鉄道博物館のようになっており、かつて活躍した輸入払い下げ古典電機たちが展示されています。この広い会場では、主役となるE851+12系客車が展示され、誰にも邪魔されずにキレイに撮れるように配慮がなされていました。往路はヘッドマーク無しでしたが、展示と復路は「さよならE851」のヘッドマークが掲出されました。横瀬駅には旧塗装の101系も当たり前のように停まっていますが、今となっては懐かしい光景です。横瀬駅構内にてE33+E34とともに整備線に並ぶシーン。良く覚えていませんが、E851形の4両全機が集結していたと思いました。悲しいことに、E851形は正面にナンバーが無いので、どれがどの番号か分らないのが泣き所です。西吾野~吾野?撮影場所の記録が無いのですが、この方向のカーブに該当する場所がこの区間しかないようです。復路は前述のとおりヘッドマークが装着されており「最後」の行路であることを強調しているようです。撮影場所が見つからなくて、しかも日陰で暗かったこともあり、ややブレ前ピンと無様な写真になってしまいました。飯能駅にて飯能駅ではスイッチバックとなるため、方向を変えるための入換が行われます。後続の電車に乗って充分間に合いましたが、さすがにイベントとあってキレイに写真を撮るのは困難。いつの時代も執着テツに行く手を阻まれます。ホームの無い側線での入換なので、構図的には余裕があります。ここからはプッシュプルになったんですかね。記憶は無いのですが、先頭は単機になっており、その横にもさらにE851形を並べるという大サービス。西武職員のファンへの対応、こだわりに拍手です。その大きさが故に引き取り手が無く、その寿命を早めてしまったE851。中学生のオリエンテーリングのときに初めて見た、丸窓の赤いEF65Pのような姿に憧れた、この機関車が存在したことは一生忘れることは無いでしょう。
2024.10.26
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EF6438牽引:寝台特急「あけぼの」寝台特急「あけぼの」は、平成21年3月ダイヤ改正で、それまで牽引に当たっていたEF81からEF64に運用が変わりました。「あけぼの」の牽引には高崎区から異動したEF64の一般型が充当されることになり、茶色の37号機とともに今回ご紹介いたします標準塗装の38号機が牽引にあたることになりました。平成21年4月19日平成21年5月3日 北浦和駅にて平成21年5月5日平成21年5月9日平成21年6月27日平成21年7月19日平成21年10月3日冬場は撮影条件が良くない上、さらに雪害・風害による運休も多かったようでした。さらに、異動した当初からトラブルも多かったようで、茶色の37号機と比較して、出逢う機会が少なかったように思います。登場時からほとんどブルトレを引く機会のなかったEF64初期車。ヘッドマークステーさえ装備していなかった同車が得た晴れの舞台でしたが、寝台特急「北陸」の廃止とともに1000番台の運用に差し替えられ、その華やかな期間はたった1年のみに終わってしまいました。EF65牽引 20系寝台客車:寝台特急「あけぼの」EF81青森機牽引:寝台特急「あけぼの」ED75700番台牽引:寝台特急「あけぼの」EF6437牽引:寝台特急「あけぼの」EF65PF重連牽引:臨時特急「あけぼの52号」返却回送
2024.10.25
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国鉄 EF13形電気機関車EF13は、昭和19年に誕生した戦時設計の直流型電気機関車です。局面を凌ぐため、徹底した簡素設計となっており、電気機関車の中でもっとも曰く付きのカマと言えると思います。製造は戦中から戦後に掛けて行われ、EF15の製造の前までに31両が誕生しました。特徴のある凸型をしていましたが、戦後間もなく誕生したEF58が暖房装置を搭載する改造に伴って車体の載せ替えを実施するあたり、不要となる車体数が丁度31台あたために、この全てがEF13に流用されることになりました。私の世代では、もちろん凸型の車体を見たことはありません。写真をそこそこ撮り始めたころは既にEF13も活躍末期となっており、それほどの枚数は撮っていませんでした。今回は、私が撮影したEF13のうち、番号の判るものを掲載いたします。昭和53年8月頃 新宿駅にて EF132新宿駅の中線(待避線?)に停車中のEF132号機です。EF13の活躍も末期の頃、地元では何枚か撮った写真がありましたが、みんな広角レンズで、しかも条件が悪い時に撮ったものが多いらしく、まともに見られる写真がありません。そんな中、やっと標準レンズを手に入れた頃でしょうかね。私の撮ったEF13で唯一キレイに撮れていたものです。2号機は、戦時中の昭和19年11月21日に誕生、日立製。所属はあまりにも転々としているので割愛しますが、昭和52年に八王子、53年の9月に立川に配置となり、同年の12月9日付で廃車となっています。ボディーはEF5823号機のものを搭載していたようです。写真は新宿駅で撮影されていることから、立川機関区に転属になる寸前くらいに捉えたものと考えられます。この3ヵ月後には廃車になってしまったわけですから、ギリギリセーフのところだった訳ですね。昭和52年頃 EF1355号機は、昭和20年3月26日に誕生、日立製。最終が新鶴見区の配置で、昭和54年9月13日付で廃車になっています。ツララ切りが角ばり、他車よりも高い位置に付いており、EF13の中でもズバ抜けて特徴のある顔をしていました。昭和52年頃 EF132323号機は、戦後の昭和21年11月6日に誕生、日立製。最終が新鶴見区の配置で、昭和53年10月20日付で廃車になっています。昭和52年頃 EF132828号機は、昭和21年1月31日に誕生、東芝製。最終が新鶴見区の配置で、昭和53年5月29日付で廃車になっています。昭和52年頃 EF1329単機29号機は、昭和21年1月31日に誕生、東芝製。最終が新鶴見区の配置で、昭和53年11月9日付で廃車になっています。貨物用機関車のEF13ですが、昭和30年代頃には中央東線で普通客車列車も牽引していたようです。もちろん暖房装置を搭載していませんので、冬はマヌ34等の暖房車を連結する必要がありました。まだ一眼レフを手に入れたばかりの頃で、殆どまともな写真を残すことが出来ませんでしたが、それでも地元を走っていた記録が何枚かでも残すことが出来て良かったと思います。
2024.10.24
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京成電鉄 新AE:スカイライナー50周年京成電鉄の有料ライナーとして活躍する「スカイライナー」が運転開始から50周年を迎えたそうです。成田空港の開業が大幅に遅れ、初代AE 車は空港特急としての目的が殆ど達成できない状態だったのですが、外国からの観光需要拡大や、競合JRの不便さ、旧新幹線用地の利用によるスカイアクセス線の開業などの追い風の元、成田アクセスに関しては敵なしの成長を遂げました。2024年3月、スカイライナー50周年と5000万に利用達成が重なり、新AE車各1編成に記念ラッピングを施して運転が行われています。撮影に集中する気もなく、出会いも特になかったのですが、この度偶然にも捕捉できましたのでまとめておきたいと思います。※撮影は、令和6年10月18日です。青砥~お花茶屋間にて集合時間に1時間も早く着いてしまい、喫煙所と線路際を往ったり来たりしていた時、カメラを出していないタイミングで撮り逃してしまったラッピング編成。午前中の仕事が早めに終わったために線路際に居たところ、偶然に撮ることができました。堀切菖蒲園~お花茶屋間にて午前中が早く終わってしまったので時間はたっぷりあります。この日は他にもレアな車両たちを目撃していたため、上野折り返しも狙ってみました。同じ場所では反対向きのアングルが撮れないため、堀切菖蒲園方へ移動。側面に旧AE車のステッカーがあったことを思い出し、慌てて側面も。せっかくの機会でしたが、とにかくコンデジがいい加減な動きをする上、天気が悪い中でISO爆上がり。勿体ない仕上がりになってしまったのが残念です。
2024.10.23
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国鉄・JR貨物:EF651036(EF652036)EF65PFシリーズで、今回はJR貨物のEF651036です。1036号機は昭和45年度に誕生した増備車で、昭和45年8月26日に落成しています。国鉄時代は宇都宮運転所に配置となり、その後田端機関区を経て民営化後にはJR貨物所属となりました。他のPF初期車が次々と廃車になる中で、比較的に最後まで残った初期車として有名でした。特にこの年度の個体までは扇風機の搭載が無かったため、前面に通風孔が残るタイプとして稀少でした。また、ナンバープレートは途中からブロック式になったようです。その中でもこの1036号機と次にご紹介予定の1037号機は、新たな保安装置を搭載した車両の番号を識別のための2000番台化されることになり、2000番台の最若番車として活躍しました。平成23年6月4日 3055レ2000番代化される前に撮影した1036号機です。まだそれほど原色ではないEF65の写真を撮っていなかった頃で、結局はこの写真が同号機1000番代時代唯一の写真でした。平成24年10月20日 7071レ平成25年9月17日 2073レ平成26年7月23日 2085レ平成26年8月3日 遅3070レ平成24年度から2000番台となりましたが、平成27年度から地元におけるPFの定期スジが壊滅状態となってしまったため、記録は平成26年で途切れてしまいました。同機も未更新車であったことが災いし、他の未更新機と同様に平成27年度には除籍となってしまいました。
2024.10.22
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20系寝台客車(ナハネフ):寝台特急「あけぼの」上野~秋田・青森を結んでいた寝台特急「あけぼの」。登場時から20系寝台客車により運転されており、20系が老朽化により廃車にある中で、最後まで定期特急列車として運転された寝台特急として歴史に刻まれています。子供の頃から20系が大好きで、身近な線路を走る20系寝台特急である「あけぼの」が大好きでした。まだ中学生くらいの時に撮った写真が中心ですが、今回は20系寝台客車のうち客車部であるナハネフ22及びナハネフ23に絞ってご紹介いたします。昭和52年頃 上野駅にて ナハネフ22 「あけぼの」の並び昭和50年代の上野駅では、上信越・高崎線が上のホーム、東北線は地平ホームの仕切りがありましたが、いくつかの例外もありました。下りの「あけぼの」は地平ホーム発ですが、上りは高架ホーム着で、時間が近いため隣同士で並ぶシーンが毎日展開されていました。おそらく、早朝の地平ホームは、常磐線の夜行列車が多数到着しているため、本数の多い東北スジの夜行を飲みきれなかったんでしょうね。その割には「越前」が地平ホームに到着していたりしましたが・・・。昭和52年3月頃 上野駅にて ナハネフ22とナハネフ23の並びこの頃になると、20系の特急列車からの撤退、急行への格下げ、状態の悪い車両の廃車など、動きが顕著になってきました。それが影響してか、本来は中間に封じ込められて、首都圏では末端に顔を出すことがなかったナハネフ23が付属編成にも登場するようになりました。昭和52年3月頃 上野駅にて ナハネフ23上の写真のナハネフ23をチューボーカットで撮影したもの。ナハネフ21「日本海」に会って以来、この顔の虜になってしまっいました。このピンク色に染まったテールマークに極限の魅力を感じました。昭和55年頃 大宮駅にて ナハネフ23)久し振りに撮ったナハネフ23「あけぼの」でしたが、異常なほど真っ赤なテールマークに違和感を感じました。もっとほんのりした色だったような・・・。朝6時くらいで真っ暗なところを見ると、冬場に撮った写真のようですね。昭和55年3月 青森駅にて ナハネフ23こちらは初めての北海道撮影行で乗り継ぎの際に撮影したもの。青森着の「あけぼの」は、途中秋田駅で付属編成を落としてきますので、必然的にナハネフ23が顔を出すことになります。逆にナハネフ22は撮影できないと言うことですね。写真のテールマークはひらがなが白地、ローマ字が赤地でガチャ目になっています。ひらがなの方は書体がおかしいので、盗難にでもあって手作りで作ったものでしょうか?だとしたら悲しいことですね。こうして見ると、一番撮影できた筈のナハネフ22が殆どありませんでした。「いつでも撮れる」ヤツはいつもこうなっちゃうんですね。「あけぼの」の20系は昭和55年10月まででしたので、最後まで残った特急運用ではありましたが、私的にはそれでも高校2年生だったことになりますから、有名撮影地などで走行写真を撮ったりするのは厳しい状況でした。結果的に駅撮り写真ばかりとなってしまいましたが、大好きな20系客車を間近で見ることが出来て、記録に残すことが出来ただけでも満足に思います。
2024.10.21
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国鉄・JR東日本:EF651017EF65PFシリーズで、今回はなつかしい国鉄時代とJR化直後のEF651017です。1017号機は、昭和44年11月29日落成の1次車に該当します。他の初期車と同様に新鶴見機関区に投入後、宇都宮運転所に配置されますが、3次車が導入された昭和45年頃に一時的に下関運転所へ異動したようです。その後、比較的早い時期にPF形は宇都宮運転所に集中配置となり、一時期は東海道・山陽のブルトレ牽引をしたことのあるPFも関東に戻ってくることになり、東北本線を中心とする運用に使用されるようになりました。なお、1017号機は、2次車や3次車とともに下関時代にナンバープレートがブロック化されたのも外観上の特徴となっています。昭和54年頃 蕨~南浦和間にて EF651017牽引 「北海ライナー」1017号機が牽引する下り「北海ライナー」です。牽引されるコンテナ車はもちろんコキ10000系で、東北本線で最も優先された貨物列車です。コキ10000系では、空気バネ台車等の使用により多くのエアを供給する必要があることから、東北本線ではPF形やED751000番台による牽引が固定されていました。昔はこの区間も背の低いコンクリート柵となっており、どの位置からでも写真を撮ることができました。昭和63年11月14日 栗橋~東鷲宮間にてEF651017牽引 団体列車「オリエント・エクスプレス '88」民営化により、1017号機はJR東日本に継承され、当時はまだ多数残っていた客車ジョイフルトレインや12系化以降の急行列車の牽引にも使用されました。外観は国鉄時代のままで、側面にJRマークが貼付された程度の変化となっています。そして、当時の一大イベントとなったオリエント急行の牽引にも充当されました。※「オリエント急行」に関してはリンク先をご覧ください。同機は、宇都宮運転所に戻って以来、関東を離れることなく客車列車の牽引に活躍し、平成8年11月17日に除籍となっています。
2024.10.20
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小田急電鉄 7000形LSE:特急「スーパーはこね」※本記事は、2013-10-15に投稿したもので、当時の表現になっています。小田急電鉄のロマンスカーも世代交代が進み、HiSEやRSEがなくなって寂しくなったものです。現在の最優等スジとしてVSEが優先して「スーパーはこね」に運用されるわけですが、検査の都合により時として7000形LSEが充当されることがあります。普段利用しない私鉄にあって、このような機会を捉えるのは大変難しく、まして現場仕事のなくなった今となっては偶然に捉えることなどまず考えられません。今回、LSEが代走する事前の情報があったため、この機会を逃すわけにはいかないと思い、連休中でありながらも通勤駅となっている新宿まで出掛けてきました。※撮影は、平成25年10月12日です。南新宿~参宮橋間にて 7000形LSE「スーパーはこね」ワンポイントで1枚だけの写真。今まで会う機会もなく、やっとのことで撮影することができました。VSEもカッコいいと思いますが、昔ながらのロマンスカー色で、LEDや液晶のような撮りづらいヘッドマークではない、昔ながらのスタイルがやはり良い。
2024.10.19
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489系:特急「あさま」「あさま」は、上野~長野・直江津を結んでいた特急列車。181系によって運転を開始しましたが、碓氷峠を通過するに当たり8両までという編成両数の制限がネックとなっていました。これを解消するため、165系電車によるEF63との協調運転の試験が実施され、その成果からまずは489系が落成、金沢行きの「白山」が誕生するとともに「あさま」にも使用されるようなりました。特急「あさま」の使用車両はあくまでも189系が中心であり、489系編成は2~3往復程度であったと記憶しています。「白山」との共通運用であったため食堂車が連結された時期もありましたが、食堂車は営業していませんでした。昭和51年 上野駅にてまずはボンネット篇です。ボンネット車用のヘッドマークは181系と共用で使用されていました。昭和52年 上野駅にてこちらは連結器むき出しの500番台。ヘッドマークには2種類のフォントがありました。昭和52年 上野駅にてこちらはタイフォンがスカートに付いた初期タイプ。一時期、屋上のホイッスルカバーの外された車両が存在しました。昭和54年5月 蕨~西川口間にて クハ489-353・10改正でヘッドマークのイラスト化が実施されました。ボンネット型への採用はしばらく見送られていましたが、「とき」「白山」「はくたか」には昭和54年くらいからイラスト化されたボンネット車用のヘッドマークが用意されました。しかし、何故か「あさま」ようは準備されなかったようです。時刻表を見ると、53・10改正以降の489系は1往復のみとなってしまったようです。その後は489系の食堂車がなくなり、189系編成とは時刻表上の区別が付かなくなってしまいました。昭和51年 赤羽駅にて昭和51年 大宮駅にて昭和51年 上野駅にて酷い写真ですみません。中学1年の時、オートハーフで撮った写真です。走行写真はホントどうにもならないくらいブレちゃうんです。文字マークが懐かしい、古き良き時代です。昭和58年8月17日 大宮駅にて昭和54年か55年くらいから489系の運用がなくなってしまったため、イラストマークの489系「あさま」の写真がまったくありませんでした。昭和58年夏、臨時の「あさま」に489系が充当されることが判り、夜遅い時間だったのですが、わざわざ大宮駅に出向いた記憶があります。489系の復活と共に、イラストマークの入っている489系「あさま」を初めて撮りました。平成8年9月28日 横川~軽井沢間にて クハ489-200番台その後も「あさま」への定期運用は無かったのですが、JRになってから489系が長野所に取り残されることになり、直流区間専用の489系が配置されました。金沢局の車両も変な塗装にしちゃってくれましたが、長野所の489系も189系グレードアップ「あさま」と同様な塗装がされ、異様な雰囲気で189系と共に活躍しました。貫通扉の改造工事をしたのでしょうか、ただでさえ狭い貫通型のヘッドマークが、さらにひと回り小さくなっています。平成8年11月2日 信越本線 御代田~信濃追分間にて長野新幹線の開業も近くなり、碓氷峠への撮影が活発になっていった頃です。平成9年10月1日、長野行き新幹線の開業と同時に碓氷峠(横川~軽井沢)間が廃止になりました。在来線特急の「白山」は廃止、「あさま」も新幹線にその名を譲って終わりを告げます。さらには、長野に残ったJR東日本の489系も用途廃止となり、ひっそりと廃車されました。489系には非貫通型車両も存在しましたが、何故かこの「あさま」の写真はありませんでした。
2024.10.18
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ジョイフルトレイン:485系 「ジパング」本記事は、2021-09-04に投稿したもので、当時の表現になっています。485系ジョイフルトレインの残党として主に宮城県を中心に活躍していた「ジパング」がとうとうラストランとなるようで騒がしくなっています。485系「ジパング」は、元々高崎車両センターに所属していたお座敷電車「やまなみ」と「せせらぎ」がリニューアルにより「やまどり」として6両編成で再組成された際に余剰となった先頭車2両を活用したもので、中間電動車に485系1ユニットを組み込んで4両編成としています。両先頭車はお座敷電車時代の外観を保っていてジョイフルトレインらしいデザインですが、組み込んだ電動車ユニットは鋼体改造をしていないため凸凹編成となっており、登場した当時はなんて無様な編成だと思っていました。いずれはなんらかの手を入れると思っていたものですが、結局はこの体裁のまま引退を迎えることになるとは・・・。運転区間は殆どが宮城を中心とするJR電化線のみであり、関東へ顔を見せることはなく、このへんてこりんな編成を撮りたいと思っても実現することは非常に難しい編成でした。平成26年11月15日 尾久車両センターにてそんな中、1度だけ実物を見る機会がありました。「第14回ふれあい鉄道フェスティバル」に召集されたもので、ブルトレの廃止により目玉が無くなりつつある同イベントにおいて、個人的には最高の目玉と出掛けて行きました。しかし、編成の殆どを車庫に突っ込むという最悪の展示方法で、最大の特徴である凸凹編成すら記録することができず、こんな写真を1枚撮っただけで終ってしまいました。いずれは東北に出向いて、などと目論んでいたものの、なかなかそのようなゆとりもなく、結局はこれが最初で最後の記録となってしまいました。
2024.10.17
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185系OM車:特急「あかぎ」デッドヒート編「あかぎ6号」は、「スペーシアきぬがわ2号」と大宮発時間が近接しているため、地元では両者によるデッドヒートが繰り広げられることが多くありました。今回は、特急「あかぎ」のうち、両者(それ以外も)が1画面に写っているものを集めてみました。平成24年6月3日 「あかぎ6号」&「スペーシアきぬがわ2号」平成24年7月28日 「あかぎ6号」&「スペーシアきぬがわ2号」「スペーシア」が先行してしまうと「あかぎ6号」がブラインドされてしまいますので、意外と両者が写っているシーンは多くなかったです。平成24年7月17日 「あかぎ6号」&「スペーシアきぬがわ2号」このようなドンピシャ併走もなかなか難しいですね。京浜東北線が顔を入れてきたので、引き気味で3列車を写すことが出来ました。平成24年2月5日 「あかぎ6号」平成24年3月20日 「あかぎ4号」平成24年4月8日 「あかぎ6号」平成25年2月3日 「あかぎ4号」「あかぎ4号」及び「あかぎ6号」共にですが、併走する湘南新宿ラインのダイヤ乱れなどで競合するシーンも多々あったようです。数撮っていればこのようなシーンに出会うこともしばしばですね。
2024.10.16
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ED75牽引:寝台特急「ゆうづる」寝台特急「ゆうづる」は、昭和40年10月1日ダイヤ改正で誕生した、上野~青森を結ぶ寝台特急です。1年早く誕生した「はくつる」とは異なり、常磐線経由となっているのが特徴。登場当初は20系客車を使用していましたが、その後24系、25形化も行われています。また、583系電車寝台との複合体系を持ち、最盛期には7往復が設定されていました。EF80からバトンを受けた「ゆうづる」は、常磐線~東北本線をED75に牽引され、一路青森を目指しました。昭和55年3月 青森駅にて ED751015牽引「ゆうづる」一夜を明かし、青森に到着した「ゆうづる」。24系の整った編成でした。ただし、ヘッドマークがなかった時代ですので、魅力には欠けました。昭和62年8月初旬 撮影地不詳 ED75729牽引「ゆうづる1号」昭和62年8月初旬 撮影地不詳 ED75716牽引「ゆうづる3号」翌年の青函トンネル開業を控え、車両の動きが活発になっていました。「北斗星」に使用する車両を予備車から改造するため、改造が終るごとに「ゆうづる」の編成へと充当されるようになり、この時期の「ゆうづる」にも一部金帯車が登場しました。昭和63年2月23日 千曳~野辺地間にて ED75牽引「ゆうづる」せっかく雪景色の中を走る良いシーンだったのですが、何を血迷ったかメチャクチャ早いタイミングでシャッターを切っており、これでもかなりトリミングして大きくしています。しかも、カラーバランスが非常に悪く、修正があまり利きませんでした。青函トンネル開業間近で、直前にはA寝台「ツインデラックス」さえ連結され、「北斗星」への移行準備がなされました。平成21年11月14日 尾久車両センターにてこちらはおまけですが、東北本線の非電化時代、DD51が「ゆうづる」を牽引していました。確か重連仕業だったと思います。EF80牽引:寝台特急「ゆうづる」24系寝台客車編:寝台特急「ゆうづる」EF81(展示):寝台特急「ゆうづる」
2024.10.15
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国鉄 スハ43系:スハフ432031かつては普通列車が客車列車ばかりであった東北本線黒磯口の交流区間。東北新幹線の開業により455系の余剰が大量に発生。電車化を前に、機会があれば旧型客車の写真を撮っておくようにしていました。昭和58年10月5日 黒磯駅にて スハフ422031モノクロプリントからのスキャンで、画像がイマイチなのはご勘弁下さい。スハ43系緩急車のスハフ422031。普通列車の中間に連結されていました。プリントの色調から体質改善工事施行車の青塗装と思われます。これらの体質改善工事施行車は、主に急行列車に使用されていたと思われますが、この時代ですと殆どの旧型客車による急行列車は12系化又は廃止となっていますので、オハ60系淘汰の玉突きにより普通列車への使用が多くなっていたと思います。その後、黒磯口にも急行からの転用455系や583系改造の715系などが投入され、終焉を迎えることとなります。盛岡局の配置となっていたようですが、所属の客車区が良く分かりません。検索しますと、急行越前さんのブログがHITしましたので、参考にご紹介させていただきます。1982年10月10日釜石~宮古
2024.10.14
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東武鉄道 8000系:8568F復刻塗装同一形式最大生産量を誇った東武鉄道8000系。初回登場から既に50年を経過し、かなりの数が淘汰されましたが、野田線や東上線北部、亀戸線・大師線など2両編成路線では未だに活躍しています。このうち、亀戸線や大師線で運用される2両編成については、平成28年から復刻塗装が誕生しています。3編成の塗装変更車誕生しており、インターナショナルオレンジにミディアムイエロー帯ノ8577Fとイエローにインターナショナルオレンジ帯の8575Fは未だに活躍していますが、試験塗装の1つである緑色にジャスミンホワイト帯の8568Fは令和6年3月に廃車となってしまったようです。町会コミュニテイーの防災研修時、本所のセンターに行くついで、亀戸まで足を伸ばして亀戸線の撮影をしており、この時の8568Fを撮っていました。以上 令和元年8月17日 亀戸~東あずま間にて 8568F令和5年2月25日 亀戸水神~亀戸間にて 8568Fこの1枚だけ現場回りの際に捉えたもの。昼の移動時間だったので1枚だけ。令和6年度の現場ではあまり亀戸近辺の現場が無いため、他の2編成も含めて、捉える機会がなくなっています。
2024.10.13
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EF65牽引 20系・24系25形寝台客車:寝台特急「瀬戸」「瀬戸」は四国連絡特急として、急行「瀬戸」の格上げにより誕生いたしました。設定当初から東京~宇野間を走り、急行時代には次世代寝台車として誕生した14系寝台客車を試用したことでも有名です。特急格上げに際しては、当時最もメジャーであった20系により運転されています。「瀬戸」の特急化は、「出雲」と同じく昭和47年の改正と遅い部類に入りますので、誕生時からEF65500番台が牽引に当たっていました。昭和51年初頭頃 東京駅にて EF65510牽引「瀬戸」初めて撮った特急「瀬戸」の写真。ポケットカメラでオマケに夜間ですから、ブレるわ的は外れるわで悲惨な写真ですが、どうも他に500番台の「瀬戸」は撮っていないようです。小学生~中1くらいの年齢では、夜発・早朝着の「瀬戸」「出雲」の写真撮影は困難でした。しかし、神田方から東京駅に入線する機関車に向かってフラッシュを焚くなんて、今から考えれば無謀な行為をしていたものです。当時の機関士さん方、大変申し訳ありませんでした。昭和52年頃 東京駅にて カニ21「瀬戸」昭和47年の誕生以来、昭和52年頃までは20系客車が使われていました。東京口では、この「瀬戸」と「あさかぜ」が最後の20系使用定期特急となりました。昭和53年8月 東京駅にて EF651097500番台から1000番台への切替えの頃。この日は来る列車によってまちまちでした。この日の「瀬戸」は1000番台の牽引。できれば500番台に来て欲しかった。ヘッドマークは、誕生から廃止になるまで変わることはありませんでした。昭和54年 東京駅にて EF651111牽引「瀬戸」東京駅に到着した上り「瀬戸」。右に写っているのは横須賀線で、昭和55年までは地上区間を走っていました。昭和54年 東京駅にて オハネフ25100番台「瀬戸」昭和54年で、上の写真と同じ頃のようですが、こちらは夜の下り列車のようです。まだイラストマーク化される前なので、夏休みくらいに撮ったものでしょうか?今となっては懐かしいシーンです。20系も淘汰が進み、状態が良いものは急行列車や波動輸送用として転用されました。昭和54年だとまだブルトレが辛うじて隆盛にあった頃でしょうか。ブルトレブームも一段落したとはいえ、まだカメラ小僧がホームを走り回っていますね。「瀬戸」は東京発着の時間が撮影に適していなかったので、走行写真は残念ながら無かったようです。平成21年5月23日 大宮車両所にて「JRおおみや鉄道ふれあいフェア2009」で展示されていたときの「瀬戸」。こうしたイベントで「瀬戸」のヘッドマークが登場するのは珍しいですね。昔からこれくらいきれいに撮れる技量があれば・・・。昭和52年ごろ 東京機関区にてこれは、東京機関区の一般開放の際に撮った写真です。当時、同区がどの程度このような催しを実施していたのか不明ですが、あまり鉄道機関の車庫や工場の開放といった行事はなく、大変珍しいことだったように思います。ま、私の知っている限りEF58が特急「瀬戸」を牽引したことは無いと思います。
2024.10.12
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489系:特急「白山」(53・10改正前)特急「白山」は、上野から信越本線経由で金沢を結んでいた489系を使用した特急列車です。誕生は昭和47年3月改正からで、それまでは急行列車でした。同ルートからのルーツを考えると、最初に特急列車として運転されたのは上野「白鳥」であり、系統分割で特急「はくたか」でキハ82系のまま設定されていました。昭和44年10月改正の上越線電化に合わせ、「はくたか」が485系化のうえ上越線経由となったため、信越本線内では北陸まで直通する特急列車が不在となりました。碓氷峠を通過するための協調運転に対応した489系が誕生したことにより、同区間を通過する特急・急行列車の12連化が実現し、これに合わせて特急「白山」が誕生しています。同時に、181系により輸送力が不足していた特急「あさま」に対しても、一部列車ながら489系による共通運用で輸送力を確保しました。今回は、特急「白山」の昭和53年10月改正以前の写真を並べてみます。カメラが良くないので、画像・構図とも見苦しい点はご了承下さい。昭和51年頃 尾久駅にて クハ489 0番台多分オートハーフで撮った写真ですね。ブレちゃってます。北陸から持ってきたボンネットの鼻先の雪をそのまま北陸へお持ち帰りって感じですね。隣で待機している10系座席車も懐かしいです。昭和52年 大宮駅にて クハ489-500番台こちらの写真は、上野方に連結されるEF63連結側の500番台です。他の流美なボンネット車と違い、連結器を剥き出しにした荒々しい顔が特徴です。ところで、この写真を見て異変を感じませんか?昭和52年 西川口~蕨間にて クハ489-502上の写真と同じ500番台ですが、こちらは写真から-502の判別できます。こちらも上の写真と同じ車両のようです。異変と言うのは・・・屋上ヘッドライトのライトケース(ホイッスルカバー)が付いていないんです。鉄道雑誌の資料を見ると、金沢の489系は何かしらの異変が発生しており、このライトケースの取り外しを始め、スカートのグレー化などのイレギュラーが発生しているんです。やはり、あるべきものが無いと違和感がありますね。その後に聞いた話では、ツララによる破損があったとかないとか。晩年の急行「能登」も同様にライトケースが付いていませんでしたね。昭和51年 上野駅にて クハ489-200番台直江津向きの貫通型は200番台で、機関車の連結が無い側です。クハ481-200にならって同じ番台を使用しています。製造時期が485系と全く重なっているため、モハ488も集中型クーラーに変更されています。隣にクハ183-1001が写っていますね。昭和52年 上野駅にて クハ489-600番台こちらは東京方の横軽でEF63を連結する側です。こちらは貫通型で600番台が付番されています。ジャンパ栓の違いくらいしか分かりません。昭和51年 大宮駅にて クハ489-300番台色調がおかしくてスミマセン。オートハーフで撮った写真っていうのは大概において変な色に退色してしまっています。昭和52年 上野駅にて クハ489-700番台定番の高架ホームで撮った「白山」。6・7番線では「とき」と並ぶシーンが有名ですが、こちらは8番線側ですね。9番線に停車中の高崎線普通列車との並びとなりました。デカ目の115系も今となっては懐かしいですね。多客期には指定席券が入手困難であったといわれる特急「白山」。隆盛を誇ったまま、昭和53年10月の改正を迎えることになります。
2024.10.11
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国鉄 ED16形電気機関車(南武線)ED16は、国産の量産第1号となった直流型貨物用電気機関車です。18両と少数ですが、戦前型としては標準的な製造量であり、同機に適した路線が存在したためか、50年もの長きにわたって活躍することができました。今日はED16を撮影した写真のうち、南武線のものを少しですがご紹介いたします。昭和51年7月4日 立川機関区にて ED162EF57以来旧型電機に目覚め、友人たちと次の獲物として狙いに行ったED16です。このときが初めてのED16の撮影でした。この頃は写真さえ撮れれば、パンタが上がってなかろうが、走っていなかろうが、何でも良かったんです。この2号機の後には、EF1013(一次形)が連結され、奥の機関庫にも3次形と思われるカマがいます。いずれも昭和52年8月 浜川崎操車場内 発車待機中のED161号機(撮影会実施のため、団体で許可を取っています。)何の機関車でもそうですが、1番とかトップナンバーで感動しますよね。儲かった気分がします。昔「EF571」や「EF131」を見るとすごくうれしかったです。この歳になってもそうなんですから、どういうことですかね。奥多摩工業の石灰石輸送が廃止になって久しく、後に連結されたホキも既に懐かしいと言える貨車になってしまいました。昭和57年5月 府中本町駅にて ED166牽引 ホキ貨物列車これは、マミヤM645の試運転時に撮影したものです。さすがにネガが大きいので、非常にシャープに写っています。浜川崎で荷を卸した貨車は、空車回送となって再び奥多摩の山奥に登っていきます。同形式のホキを連ねた列車は、秩父や熊谷貨物タ、そして、この南武・青梅線くらいでしか見ることの無い限定品でした。私が国鉄時代、大宮操車場で入れ替えをしておりましたが、ホキ9500など青梅線用のホッパー車は、大宮工場への入場車くらいしか見ることは無いので、稀に自分の持ち番線に(ハンプの坂から)落ちてくると非常に緊張しました。(ブレーキを扱う位置が特殊なんです。)昭和58年3月20日 立川駅にて ED1614+ホキさよなら運転を撮影に行った日、立川駅の側線に留置されていました。ED1614は初撮影で喜んだものですが、それまで装着されていたスノープラウが外されており、大変ガッカリしたものです。土日だったため、運休に伴う留置だったのでしょうか?貨車をつなげたまま?このほか、青梅線で撮影したものがありますので、別の機会にご紹介いたします。
2024.10.10
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209系1000番台:中央快速線常磐緩行線の信号システム変更に伴う増発用として、平成11年に2編成が導入された209系1000番台。平成30年度のさよなら運転で役目を終えたのち、中央快速線のグリーン車組み込み計画に伴う編成不足の補充として、ラインカラーをオレンジに貼り替えの上、活躍の場を移しました。ただし、車体幅がE233系と異なるなどの理由から、事故による運用変更を除き、ラッシュに影響しない運用に固定されていました。まずは平成31年3月25日に中央快速線での初対面から。2年間、大手町に通っており、主に神田駅を利用していました。この大手町勤務から新宿勤務へ戻る間近、詳しい運用が分かるサイトを見つけ、この日は神田でダブルゲットの最後を悟り、出勤時間を遅らせて撮影してみたものです。まずは上りT81編成、898Tの到着。こんなに切焦っているのは、私の真横に3番線到着の北行ケトが居るためです。このケトに停車シーンを邪魔されました。逆光だけど初めてなので後部も。予定時間なのに現れないのでガセかと思ったが、この日は5分くらい遅れていたようだ。下り999T は、遅れていたためか、直ぐに折り返してきた。振り替えると、後続のT82編成による896Tが既に到着してきて慌てて撮影。後ろはまだ停車していないT81編成。まさかここで交錯するとは思っていなかった。電車の動きを見ながら、T81編成とT82編成の顔並びをGETすることができた。折り返しの997Tを撮影して出勤。予定より少し余計に待たされたが、初対面での記念撮影は満足の行くものでした。令和2年2月27日 新宿駅にて T82編成 898T令和2年2月27日 新宿駅にて T81編成 896T新宿勤務に戻ってしばらくは出会う機会はありませんでしたが、新型コロナの襲来で、時差通勤を強要され、1時間遅い出勤となりました。このことで、しばらく会わなかった209系1000番台に会うきっかけが再来します。令和2年2月28日 新宿駅にて T82編成 896T令和3年9月16日 新宿駅にて T82編成 中央特快 1699T年度によって、微妙に運用が変わってきました。その中で、久し振りにサイトを見たら、中央特快の運用に入っていることを知りました。時間休を取って、駅撮りで記念撮影。令和5年6月12日 拝島駅にて令和5年4月から10年振りに現場回りのあるセクションへ出戻り。都内各地に出掛けるようになり、特に令和5年度は中央線方面の現場が異常なくらい多く割り当てられました。この日は午後から拝島の現場でしたが、朝方のダイヤがかなり乱れていたようでした。一旦橋上に上がって昼食をどうしようか考えていたところ、普段は下りの到着する2番線に東京行き快速の表示があったので、何か珍しいことが起きているのかと思って行ってみると、拝島折り返しの列車が到着してきました。それも209系1000番台。とにかく写真を撮ろうと思って1番線へ行ってGETしたあとよく考えたら、青梅線の定期運用はない筈で、非常に貴重なシーンだったんだと理解できました。残念だったのは行先が既に「快速東京」になっていたことで、「快速拝島」だったらメチャクチャレアだったんですよね。令和5年6月23日 神田駅にて T81編成大手町の現場の後、なつかしい喫煙所で一服して、ついでなので歩いて神田からの帰途。中央快速上りで偶然にも209系1000番台がきたので、折り返しを待って撮影。この記録が最後となりました。写真は撮っていませんが、新宿では出勤時ほぼ毎時見掛けていたし、現場回りになってからも良く遭遇しました。新宿ではほぼ絵にならないし、急に遭遇してもカメラ間に合わないし。実際に乗車できたこともありましたが・・・。令和6年9月6日を最後に運用から外れ、内装広告の撤去なども終了し、さよなら撮影会等も告知されています。まだ今後の予定や廃車の有無などの発表はありませんが、車齢や使い道、保守の問題から復活することはなさそうですね。
2024.10.09
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小笠原海運:「おがさわら丸」(2代・3代)東京と小笠原を結ぶ一般では唯一の営業路線となる小笠原航路。小笠原海運が運行するおがさわら丸は、1隻のみで片道24時間を掛け、往復しています。現在の「おがさわら丸」は3代目であり、2016年7月から就航しています。リーズナブルな2等から、かなりお高い特等までバラエティー豊かです。令和6年9月11日 小笠原 二見港にて片道は24時間ちょうど。2代よりも1時間半早くなりました。2代よりも1・6倍の11000tになったそうです。乗船したのは1等室。特1等だとシャワールームもあるのですが、1人貸切で使っているだけに文句言えません。1人だと本当に楽でした。搭乗券やルームキー。鍵はカード式でした。搭乗券も今の時代ですから、QRコードが導入され、旅客の利便性よりも業務の効率化の方が大きいと思います。搭乗券は下船時に回収されてしまうため、残念ながら手元には残りません。平成22年9月3日 小笠原 二見港にて おがさわら丸(2代)こちらは2代目のおがさわら丸で、平成22年に行った際に夜間撮影したもの。1997年2月に就航し、2024年6月末の運航を最後に引退しています。6700tで、説明を見ると1等船室の数が全然違いますね。大きさがバラバラですみませんが、当時の1等船室搭乗券です。こちらは印刷式の連綴券で、乗船時に半券、下船時に残りを回収されたと記憶しており、こちらも現在と同様に手元には残らないのが残念です。2代の時は片道25時間半であり、この時は同僚と2人1室であったため、非常に窮屈に感じました。当時も今と同様に、船室内でBSを見られる(東京~八丈島間くらい)ので、時間の潰し方は然程変化が無いと思いますが、14年振りの乗船では往きも帰りも「死ぬほど退屈」という感じはしませんでした。1室1人か2人かでも随分違うのでしょうね。金と時間があれば、仕事以外で特1等とかで往復したいものですが、海外旅行よりも高いくらいの金額になってしまいますので、多分、もう一生行くことはないと思います。
2024.10.08
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