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101系:中央総武緩行線総武中央緩行線と言えば、そのラインカラーはカナリアイエローが思い浮かびます。しかし、その起源は山手線であり、中央総武緩行線だけではなく、殆どの線区が茶色の73系などで占められていました。山手線のラインカラーであるカナリアイエローがあまり定着していないうちにウグイス色の103系に変わってしまい、中央総武緩行線のラインカラーとしての定着間が強いのかもしれません。以上3枚とも 昭和55年頃 錦糸町駅にてみんな同じような写真でスミマセン。複写したものではなくて、すべて違う電車です。この頃の黄色い101系は、冷房改造車が全く導入されておらず、全部が非冷房車の編成でした。ほとんどが7連+3連の10両編成です。そして、この写真を電子化するまで気が付かなかったのですが、1番目の写真の編成は、千葉方(編成の奥の方)が3連なのに対し、2番目と3番目の写真の編成は中野方(編成手前)が3連になっています。津田沼区と中野区で違ったのかもしれませんが、中央線や京浜東北線では分割編成でも組成が統一されているため、非常に違和感を覚えました。昭和56年12月頃 平井駅にて用事があって平井駅に行ったとき、急行列車の撮影のついでに撮った写真です。この頃になると、中央快速線から流れてきた103系の冷房改造車と、103系の最終新製車が入線してきており、101系の活躍の場が狭まっていました。正直なところ、私が中学生くらいまでは中央総武緩行線はすべて101系でしたので、希少な感じもしませんでしたし、写真を撮ろうという気持ちも全くありませんでした。中央快速線から101系が撤退を始めた頃、それなりに101系を意識するようになってはきて、やっと撮りに行ったという感じでした。101系の引退時期と高校時代が重なっており、モノクロ現像を自分でやっていたため、カラー写真が全然ありませんでした。
2024.06.20
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101系・103系:大阪環状線(昭和49年)平成31年、民営化から30余年が経過し、大阪環状線に残っていた元祖オレンジ色の国電もとうとう終焉を迎えてしまったようです。大阪は撮影でも馴染みがある場所に思っていますが、実は3回ほどしか行っていません。いずれもデジカメ時代ではないので、撮影は特急列車や旧型の電気機関車が中心で、普通列車など撮る余地はありませんでした。大阪で国鉄輸送の中心となる大阪環状線ですが、特に撮影してはいなかったのですが、偶然に写っていたものが2枚だけありました。撮影は、いずれも昭和49年8月、大阪駅にて101系 大阪環状線 外回り縦位置で撮影した写真から切り取りました。明るい時間における下り客車列車を撮影したものですが、画像が粗く、EF58はナンバーも判読できません。列車も何者か今となっては分かりませんが、この時間の下り列車だとすると、荷物列車の可能性が高いようです。環状2番線に停車しているのが大阪環状線外回りの101系で、当時の大阪環状線ではメインとなる形式でした。103系 大阪環状線 内回りこちらは581系特急「しおじ」を撮影したもので、ほんのちらっとですがオレンジ色の大阪環状線が写っています。数年前まで101系だとばかり思っていたのですが、読者からの指摘により、103系であることに気が付きました。当時の大阪圏の国電は、東海道緩行線がスカイブルーで103系となっており、大阪環状線や桜島線、関西本線も含めて101系ばかり。大阪環状線にわずかながら103系が配置されていたことを知ったのは、それほど前のことではありません。まさか、そんな稀少な103系の大阪環状線が自分の写真に写っているとは思いもよりませんでした。
2024.06.19
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EF71+ED78重連牽引:明星セメント タキ10600※本記事は、2021-03-01に投稿したものであり、当時の表現になっています。KATOから6年近くのブランクを開けてED19形機関車が発売されました。これに合わせ、やはり飯田線における注目の貨車であるタキ10600形2両セットも同時発売となっております。前回のED19発売時においても、このタキ10600形4両(番号違い)と合わせてセット発売もされ、当方も購入しております。その当時、タキ10600形について色々と話が出て、このタキ10600という貨車が仙山線をED78に牽かれて走っていたと聞かされました。Wikipediaには記述がないのですが、KATOの製品紹介では磐越東線大越駅~奥羽本線蔵王駅まで運用されていたそうです。ここで疑問。磐越東線からわざわざ線路規格の低い仙山線を通る必要があったのか?調べて解かりました。元々は奥羽本線経由であったものが、改軌工事で通れなくなってしまったため、已む無く仙山線経由になったこと。そのため、改軌された山形~蔵王間は3線で残されたこと。合点がいきました。そこで初めて、板谷峠でタキ1900と思われる専用貨物を撮影したことを思い出し、過去ログから写真を探し出してみました。昭和60年6月19日 大沢~板谷間にて 上り貨物列車(再掲)国鉄時代はこれらセメントのバラ積み貨車も添乗していましたが、それらはタキ1900やホキ5700が殆どで、タキ10600と言う貨車も前回模型化されるまで全然知りませんでした。遠目に撮った写真なので今回改めて拡大して見てみると、不鮮明ですがタンク上手すりの特徴からタキ10600だろうという結論になりました。この撮影は、初めて奥羽本線に行った時のもので、特に何を狙っていたわけではなく、スイッチバック体験をするわけでもなく、友人のクルマで行っています。正直、何を目的に行ったのか今でも良く分かりません。しかし、次に訪れたのは民営化後になっていますので、専用貨物列車を捉えることができたのはこの回だけであったことから、貴重な記録となっています。私的には奥羽本線よりも飯田線として運用したいタキ10600ですが、今回2両セットが発売されたことにより6両編成に仕立てることができるようになりましたので、EF71やED78で牽かせて楽しんでも良いと思います。KATOのタキ10600は、既に中古しか手に入らなくなっているようです。【中古】Nゲージ KATO(カトー) 8067 タキ10600 明星セメント 2両入 【A】【中古】Nゲージ KATO(カトー) 10-1184 ED19 + タキ10600 セメント輸送列車 明星セメント 6両セット 【B】 スリーブ傷み 交換用カプラーエラー対策済み ナンバー取付残有 パーツ取付済
2023.07.07
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169系:急行「信州」「信州」は、上野~長野間を結ぶ急行列車。碓氷峠を通過するため、169系による協調運転が行われていました。列車によっては長野~軽井沢間で普通列車による運転が行われていたり、上野~湯田中間(長野電鉄乗り入れ)の急行「志賀」を併結していたものもあります。昭和57年1月頃 南浦和~蕨間にて 「信州6号」?このような急行列車、編成である程度の区別は出来ますが、ヘッドマークがないため特定が困難なものが多々あります。今はスキャニングで拡大が出来ますので、列車番号からその種別を推測・判断することも出来るようになりましたが、この写真のように、まじめに列車番号を示していないものもあります。今回は推測になりますが、おおよその撮影時期は判明しており、この場所の光線状態からして14時前後くらいと見ました。ここに時刻表を当ててみると、確かに14時過ぎ、上り「信州6号」が通過いたします。編成もご覧のとおり、サロ2両を含む169系編成ですので、ほぼ間違いないかと思います。昭和52年頃 大宮駅にて サハシ169-7写真の列車は、大宮駅の急行の発着は殆どなかった思われる折り返しホームの7番線に入っている状況が???なところですが、写真を撮った時間と行き先サボに青帯が表示されているところから推測すると、長野~軽井沢間が普通列車となっていた上り「信州2号」であると思われます。ビュッフェに関する記述は、過去ログ『169系:サハシ169』をご覧下さい。新幹線の開業により急行列車の廃止が危惧されましたので、このように撮影記録が残っていますが、それ以前は165系急行なんてゴロゴロ走っていましたので、まず撮る機会はなかったんです。故に、撮った写真の枚数が非常に少ないです。
2022.04.22
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国鉄 EF55型電気機関車:12系&スエ78 東北本線を走る高崎機関区に配置されていたEF551。その性格から、走行区間は高崎線や上越線、両毛・信越本線など、高崎鉄道管理局(高崎支社)の守備範囲内での走行が殆どでした。そんな中、私の経験上で1度だけ、東北本線で営業運転された時の記録があります。昭和63年10月10日 東大宮~蓮田間にて上野~宇都宮を走ったかと思うのですが、詳細は憶えていません。毎度の12系編成ですが、イベント性を考慮したのか、スエ78が連結されてアクセントとなっています。宇都宮でのイベントなどで、回送では走ったことが何度かあるようですが、EF55が東北本線を走行した例は大変珍しいかと思います。【2023年8月】 KATO|カトー EF55 高崎運転所【発売日以降のお届け】
2023.04.10
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国鉄 キハ35系:キハ35900番台かつて、国鉄型気動車の中でも一際目立つ存在であるはずだったキハ35900番台という車両がありました。平成28年11月12日 碓氷峠鉄道文化むらにて キハ35901ラッキーにも保存されているトップナンバー車。地方都市の非電化区間用における通勤形気動車として、昭和36年に製造が開始されたキハ30系(キハ35系)。気動車としては初となる、両開き3ドアでオールロングシート。非電化路線におけるドアステップの必要性から、外吊りドアを装備する特殊な外観となっていました。同系の誕生から約1年後、ボディーをステンレス製とした900番台が登場します。国鉄気動車としては初となる銀色の気動車となりました。昭和52年1月頃 大宮駅にて キハ35910シルバーボディーの900番台は、キハ35形のみ10両が登場しています。新製時はすべてが木更津に配置され、房総地区で活躍していました。ステンレス製としたのは房総地区での運用における塩害対策ですが、濃霧も良く多く起こる地域であるために、銀色無塗装の車両には視認性の問題が生じました。そのため、前面には警戒色の赤帯を入れることになってしまいました。房総地区の電化により活躍の場を失った大部分のキハ30系は、新たな活躍の地へと散らばって行くことになります。そのうち、シルバーボディーの900番台は、高崎第一機関区へ全車が集中配置されることになり、八高線や川越線で活躍することとなります。写真は、大宮駅における川越線で撮影したもので、ラストナンバーの910となります。大宮機関区から出庫してきた銀色のキハ35を初めて目にし、慌ててホームを追っ掛けて行ったことが思い出されます。昭和59年7月27日 川越線 南古谷~指扇間にて数年は銀色に警戒色のまま運用されていましたが、昭和52年頃から実施された塗装合理化に際し、何故か塗装不要な900番台も他の鋼製車と同様に朱色4号に塗装されることになってしまいました。気動車王国でひと際目立つ存在であった900番台は、他の鋼製車の中にすっかり溶け込んでしまいましたが、ボディや屋根の肩部に残されたコルゲートと、強度確保のために長く造られたドアレールカバーにその存在の主張を残していました。埼京線の開業と同時に川越線が電化となり、昭和61年頃に半数の900番台が廃車となり、さらに八高南線の電化で殆どの車両が廃車となります。キハ35904のみが生き延び、茅ケ崎に配置されて相模線で最後の活躍をしていましたが、平成7年11月にその運命を終えたそうです。
2024.01.04
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EF6019牽引:一般貨物列車(国鉄時代)国鉄時代末期に運用から撤退して以来、永きにわたって高崎で動態保存されてきたEF6019でしたが、令和元年7月3日付をもって除籍されてしまいました。EF6019は、昭和37年東洋電機・汽車製造製で、同年8月3日付で新鶴見機関区に配置となり、主に東海道本線の貨物列車牽引に活躍しました。後に浜松機関区に配置換えされ、国鉄末期の昭和56年7月に高崎第二機関区に転属、首都圏の貨物列車牽引に当たっていました。昭和57年5月頃 蕨~西川口間にて 上り貨物列車高崎にやってきて間もない頃のEF6019。原形で手付かずのオリジナルな姿。川口←→田端間の貨物列車は、蕨駅にてカマを入れ換えます。”テール消し忘れてますぜ!”と言いたくなってしまうシーン。昭和60年11月4日 岡部~深谷間にて 上り貨物列車国鉄末期、高崎線を行く上り貨物列車を牽引するEF6019。わずかな期間に前照灯がシールドビーム2灯に改造されてしまいました。車扱いが殆ど消滅してしまったため、トラばかりの構成ですが、おそらくは専用貨物でしょう。シートが大きく、何を積んでいたのか気になります。最後尾はコキが連結されているようで、既に緩急車はありません。最後まで残ったEF6015とEF6019の2両のEF60。15号機はイベントで展示後に廃車となり、19号機はここから30年以上も生き延びることとなりました。あみあみ 楽天市場店[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 3094-4 EF60 500番台 特急色
2022.05.09
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583系:団体列車「スターライトライナー」JR東日本に残る現役583系としては唯一となってしまった秋田車両センターの6連ですが、ご存知のとおり、平成23年ダイヤ改正までは仙台に所属していました。本来なら全廃になってもおかしくはないところ、動態保存の如くレストアをした編成です。仙台時代も仙台地区の団体を対象に、ディズニーランド向けの臨時列車として月に2回程度は上京していました。晩年は特に愛称が付いていなかったと思いますが、私が初めてこの団体列車を撮影した時は、「スターライトライナー」という愛称が付いていました。※撮影は、平成20年2月10日です。前日に発生した武蔵野線における沿線火災並びに信号機故障に伴う大幅な遅延により、撮影予定であった臨時・団体列車にも大きな影響が及びました。仙台車の583系を使用した団体列車「スターライトライナー」が6:14着15発で来る予定だったのですが、武蔵野線での運転見合わせにより到着していません。他の写真を撮っていた際に臨時列車到着の放送が入り、見ていたら583系の姿が・・・慌てて移動。大宮駅で抑止が掛かっているらしく、全く動く様子がありません。ちなみに、到着したのは7:35くらいで、1時間20分くらい遅れたようです。東北線内どこかの駅の中線で止められ、取り敢えず大宮まで辿り着いたのでしょう。大宮駅にて停車位置がほぼ209系と同じところでしたのでツーショットです。団体列車でも名称が発表されていたのでヘッドマークを期待したのですが、残念ながら「臨時」表示でした。やはり後部も「臨時」でした。orzそして、約20分停車の後、7:55くらいにやっと発車して行きました。何とか583系の写真を撮ることができたので、武蔵野線の動き次第で常磐緩行線でも撮りに行こうかなんて思いながら南浦和へ。乗り換えて新松戸方面のホームへ上がっていくと・・・!なんで583系が停車しているんだ???中線の無い南浦和では、乗降の無い列車が停まることは無いんですよ。ということは、動き出したとはいえ、相当つかえているな・・・。常磐緩行線の撮影は断念し、反対側ホームから583系を撮ろうと府中本町方面のホームへと。そしてここで悲劇が。遅れていた府中本町行きが到着、遮られてしまいました。しかも交代乗務員が到着していないため、暫く停車するとのアナウンス。ホームを府中方へ歩いていくと、今度は『団体列車が発車しま~す!』のアナウンスが・・・今度は慌てて新松戸方へ走る。恥ずかしい。やっと現れた交代車掌が引継ぎをしている直ぐ横で、シャッターを切る!私だけ世間一般と全く違う行動をしているのが自分でも可笑しい。南浦和駅にて完全に間に合わないタイミングでしたが、583系が比較的ゆっくり加速してくれたので、後部だけでも撮ることができました。当時から秋田からの列車は「わくわくドリーム号」のヘッドマークがあったので、このシチュエーションは非常に残念でした。
2023.01.27
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115系3000番台:瀬戸内色誕生当初関東在住の身からすれば全くと言って良いほど縁の無い車両、115系3000番台。当時は客車列車の淘汰が大幅に進み、直流区間の普通列車といえば113系と115系ばかりと言ったところ。そんな中誕生した115系3000番台は、115系でありながら117系と同様の接客スタイルを持った変り種として異色の存在だったと思います。昭和57年10月4日 徳山駅? クハ115-3104山口線のSL撮影行に際し、当時未だ残っていた可部線の73系を撮影し、小郡へ向かって移動している時に初めて出逢った115系3000番台です。まだ製造元から回送されてきたばかりのようで、車体・足回りはもちろんピカピカ。窓のカーテンも全て下ろされていることから、私たちが見つける寸前に着いたばかりという感じですね。この編成を運転してきたと思われる運転士さんたちも興味深げに車輌を見ている様子が写っています。塗装も省略化の方向が強くなった頃で、ブルーのラインもおそらくテープだったのではないでしょうか。これがのちに115系の一般型まで及び、いつの間にか瀬戸内色と呼ばれるようになったようです。昭和57年11月28日 小郡駅(現新山口駅)にて モハ111系との混成これもやはり山口線を撮りに行った際に撮影したもの。フリークエンシーの実施により、クハ+モハ+モハ+モハ+モハ+クハの6両編成が基本であった同地区の111系を、クハ+モハ+モハ+クハ×2として編成を増やすため、6両編成から中間車のモハ+モハを抜き、ここに新製クハ115-3000を両端に足して誕生した編成です。殆どのモハユニットが111系非冷房車であることから、クハ115-3000も冷房準備車としてクーラーを搭載していませんでした。ですので、新車の割には冷房すらない、さらには湘南色との混成と、非常にインパクトがありました。普段は通勤車など殆ど撮ることは無かったですが、塗装としても115系にしては珍しかったですし、何よりも2ドア車と言うのはインパクトがありましたね。さらには私的に目の無い混色編成というのは美味しかったと思います。その後全車が冷房化され、中間車の111系も全廃となり、転配で115系や117系のユニットを組み、塗装が変わってしまったものもあります。ピッカピカの誕生時に逢った彼らも既に老兵と言われる年代になってしまいました。写真では幼いままの彼等を今こうして見ていると、年月の流れの速さを感じます。
2023.09.06
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EF65500番台牽引:寝台特急「富士」「富士」は日本初の特急列車で、明治の終わりに東京~下関を結ぶ客車特急として誕生しています。その後運転区間が長崎・博多など変遷がありましたが、太平洋戦争の激化により運行休止となりました。戦後すぐには「富士」の名は復活せず、昭和36年に東京~神戸・宇野間を結ぶ181系電車特急として再び東海道・山陽を走ることになります。一方、九州方面には特急「みずほ」が不定期列車(実際にはほぼ定期で運転されていたようです)として誕生し、東京~熊本を結んでいました。その後、20系化されると同時に、付属編成を大分行きとして併結するようになっています。そして、昭和39年に大分編成を独立し誕生したのがブルートレインの「富士」でした。後に運転区間が西鹿児島まで延長され、日本一長い距離を走る特急列車として有名になりました。登場当初からはしばらく20系が使用されていましたが、昭和50年3月の改正から関西で余剰となった24系24型を使用するようになり、さらに約1年半後には、新製による24系25型にグレードアップされています。昭和50年? 東京駅にて EF65530牽引 7レ 「富士」ポケットカメラですので画像が悪くてスミマセン。昭和50年後半の時期くらいかと思われます。今は無き東京駅13番線で出発を待つ下り特急「富士」。初めて東京駅に撮影に行ったときにはまだ20系だったはずですが、当時は小学生でお金がなく、フィルム消費の限界が早く、記録を残せなかったのが非常に残念です。オハネフ24 「富士」50・3改正は過ぎており、客車は既に24系24形化されています。まだブルトレブームより少し前くらいの頃でしょうか。写りが悪くて残念ですが、この後わずか1年半で25形化されてしまいました。昭和52年頃 田町駅にて EF65506牽引 8レ 「富士」見てお判りのとおり、客車は24系25形に変わっています。特急「富士」のヘッドマークは長らく円型のものが使用されていました。その後、ロビーカーが連結されることになり、牽引定数の関係でEF66が牽引することになった際に、山型の特製ヘッドマークに変わっています。個人的には、この円型のヘッドマークの方が好きでしたね。山型のヘッドマークは、500番台には似合わないかなぁ・・・?満を持して登場したブルトレ用500番台P形でしたが、片道1000kmの運用はP形にしても過酷過ぎたようで、昭和53年くらいに、さらに性能を向上したEF651000番台後期形(PF形)にバトンタッチすることになり、東海道のエースから降板となります。平成22年5月22日 大宮車両所にて「おおみや鉄道ふれあいフェア2010」では、EF65535に「富士」のヘッドマークが掲げられました。平成27年11月14日 尾久車両センターにて「ふれあい鉄道フェスティバル2015」で展示された、「富士」のヘッドマーク取り付けのEF65501。ブルトレのスター牽引機P形にはやはり丸いヘッドマークが似合います。
2024.01.01
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国鉄 50系客車:スユニ50(山陰本線)国鉄50系に属する郵便・荷物合造客車であるスユニ50。老朽化した旧型合造客車のスユニ60などの置換えを目的とし、昭和53~58年に掛けて80両が製造されました。本州用の0番台と北海道用の500番台があり、0番台は電気暖房対応の2000番台としています。登場時、殆どが地方幹線のローカル運用などに使用されていたため、地元で見ることはまずありませんでした。地方での客車列車の撮影などにも良く出掛けましたが、本線運用では旧型荷物車も現役であり、マニ50やオユなどの使用が多く、合造車であるスユニ50は滅多にお目に掛かることはありませんでした。平成59年2月12日 出雲市駅?にて宿が見つからずに益田駅で駅寝し、始発列車で出雲市駅へ。その際にホームに停車していた上り普通客車列車を撮影したものと記憶しています。早朝の山陰はことのほか寒く、DD51に牽引される旧型客車4両と、最後部に連結されたスユニ50からは蒸気暖房のスチームが立ち上っていました。当時は珍しい光景でもなんでもなかったのですが、東日本では殆どが電気暖房対応となっており、このようなスチームを吐き出す姿をなかなか見ることがありませんので、思わずシャッターを切りました。そのような偶然で記録されたスユニ50形客車で、これ以外には形式的に撮影したものはありません。この約2年後の昭和61年、荷物列車が全廃となったためにこれら荷物客車はお役御免となり、最短ではわずか3年で生涯を終えた車両がいたことになります。KATOから夜行普通列車「山陰」が発売となるようです。9両セットで2.5万円とはかなり高価な設定となっており、鉄道模型のインフレ化が止まりません。個人的にはこの「山陰」にも1.5往復乗車経験があり、そのうちの初めて乗車した時は旧客による編成となっていました。正しくこのセットの編成ですね。乗車経験もあって、趣味的にも欲しいところではあるんですが、高額であること、脳内鉄道では蒸気暖房編成が不要なことから見送ろうと思っています。しかし、今回のラインナップの中でもスユニ50が単品発売になることから、こちらだけは押さえておこうと思っています。5141 スユニ50[KATO]《05月予約》5141 KATO カトー スユニ50 Nゲージ 鉄道模型 【5月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 5141 スユニ50単品だと送料が掛かるので、工夫が必要です。また、セットの中でオハフ45100番台が製品化されるのですが、こちらは電気暖房仕様の2000番台となるため、欲しいラインナップとなっています。ただ、編成単位は不要なので、こちらはASSYで揃えようかと考えています。まだ楽天では予約情報が引っかからないので情報が入ったらご紹介しようと思います。送料無料◆10-1879 KATO カトー 夜行鈍行「山陰」 9両セット Nゲージ 鉄道模型 【5月予約】10-1879 夜行鈍行「山陰」 9両セット[KATO]【送料無料】《05月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1879 夜行鈍行「山陰」 9両セットスユニ50とセット販売もあるようで、全部揃えたいならこちらがお得なようです。送料無料◆セット販売 10-1879/5141 KATO カトー 夜行鈍行「山陰」 9両セット+スユニ50 Nゲージ 鉄道模型 【5月予約】
2024.01.07
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こちらでは未だに鉄道模型ネタを投稿していなかったので、ちょっとネタフリをしておきます。20年ほど前に発売されたマイクロエースの動力車において、ダイキャストが崩壊する現象が起きており、ネットをググってみるとそこそこの記事がHITします。私もその年代にそれなりに購入しており、しかも長くもっておきたいものだけ購入していたので、該当製品があったのは非常にショックでした。特に、ED71やDD50という、当時、他社ではほぼ製品化されることがないであろう車種が対象になっていたからたまりません。2023年になって、このダイキャスト崩壊について大きな進展があったため、親ブログに投稿した記事をここにご紹介したいと思います。『マイクロエースDD50はやはり崩壊していた』なお、記事には触れていませんでしたが、ほかにもDD14、クモニ83、D51+ロータリー車のテストを行いましたが、多少ぎこちない動きの車両があるものの、概ね問題なく可動しました。ただ、危機感を抱いた点がひとつ。ブリスタからさらに車両を保護するために車両を巻いているビニール。特に乳白色の物は劣化が始まっています。おそらく、これを放って置くと、劣化から溶解が始まり、本体を溶かしてしまう危険があります。お心当たりの方がいたら、迷わず除去してしまった方が良いと思います。あくまでも自己責任になりますけど。
2023.01.16
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485系 クロ481ー2300番台:特急「雷鳥」クロ481ー2300番台は、平成3年に特急「かがやき」6連用としてクハ481-300番台から改造された先頭グリーン車。特急「かがやき」の廃止により-2301が「加越」「北越」用に、-2302・-2303は「はくたか」用に転用されました。「はくたか」の681系化により-2302・-2303共々国鉄色となり、「加越」に運用されたそうです。「加越」の「しらさぎ」統合化、683系化で余剰となり、「雷鳥」に使用されるようになりました。※撮影は、平成20年4月22日です。今庄駅にて クロ481-2302 「雷鳥8号」南今庄駅にて クロ481-2303 「雷鳥16号」こうした角度でとってしまうと、クハ481-300番台と全く区別はできません。最後まで「雷鳥」に使われたと思ったのですが、この後余剰となって183系化され平成23年に廃車されたそうです。
2023.07.19
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209系500番台:京浜東北線現在はE233系1000番台で形式統一が図られた京浜東北線ですが、かつては殆どの時代において複数の形式が存在していました。平成になってからは209系の時代が長かったですが、この間、103系から209系に変わった際も、205系が存在したり、今回ご紹介いたします209系500番台がありました。209系500番台はE231系が完成するまでの過渡的形式であり、システム的な部分を209系としているものの、車体はその後の標準とすべく広幅を採用したものです。殆どが中央・総武緩行線用として製造・配置されましたが、最終の2編成は京浜東北線への転用も考慮されていました。また、追加で転入した分を含め、京浜東北線では最大で5編成、50両が活躍していました。平成19年10月7日 ウラ82編成平成20年9月23日 ウラ83編成平成21年2月22日平成21年3月25日5編成もありましたので、乗車する機会は比較的ありましたが、最後の頃は1編成のみとなったため、その機会も貴重となってきました。平成21年4月4日 ウラ80編成 818A平成21年4月4日 ウラ80編成 1019A平成21年4月4日 ウラ80編成 1418A目撃情報から運用を割り出し、1日中追いかけたこともあります。大体は目的外に出会ったものしか撮影していませんので、見られる写真が全然無かったためです。そんなこともあって、この日だけは地元の定番アングルでじっくり構えたものです。平成21年7月4日 ウラ80編成これも偶然撮影したものですが、結果的にコレが最後の撮影となりました。京浜東北線に導入されたのが平成12年末、最終的に全面撤退となったのが209系よりも一足早い平成21年でしたので、その活躍は10年にも満たないものでした。
2023.11.21
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20系寝台客車:急行「十和田」「十和田」は、上野~青森を結んでいた急行列車。線路容量の関係と思われますが、青森への夜行は常磐線経由の方が運転本数が多く、寝台特急「ゆうづる」が5往復運転されている中、これを補完する夜行急行「十和田」でさえも季節列車を含めて5往復設定されていました。(後に「ゆうづる」は「十和田」を格上げして7往復まで成長。)昭和50年代初頭までは、「十和田」は5往復とも旧型客車により組成されており、編成は寝台重点のものや座席重点のものなど多様に設定されています。昭和51年、24系25形100番台が登場するようになると、20系客車淘汰が急加速的に早まり、急行列車にも20系客車が充当されるようになります。そして、昭和52年9月、「あさかぜ」「瀬戸」及び新大阪~下関を結ぶ寝台特急「安芸」に25形100番台が投入されると、ここで捻出された20系客車が急行「十和田2号」に充当されることになりました。資料によれば、20系客車を使用した急行列車としては「銀河」「天の川」「新星」に続き4例目となるようです。上記3列車は寝台専用急行であったため、編成をそのまま充当されましたが、「十和田」の場合は寝台専用列車ではなかったため、ナロネ21を座席改造したナハ21が編成中3両連結され、旅客の便を図りました。20系誕生以来、座席車を寝台化したことはありましたが、寝台車を座席化した初めての例となりました。EF80に牽引され上野駅20番線に到着した20系「十和田」 カヤ211号車に連結されたナハ21のサボ最後部のナハネフ22写真は昭和52年~53年初頭頃、上野駅にて撮影したものです。「銀河」の登場時と同様に、テールマークは「急行」でした。資料を調べたところ、「十和田」が20系寝台客車で運転されていた期間は意外に長く、昭和52年10~昭和57年11月(上越新幹線開業)でした。その後20系客車はそのまま「津軽」に転用され、「十和田」は12系座席車化されています。旧型客車:急行「十和田4号」(回送)
2023.12.30
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EF62牽引:急行「越前」令和6年3月16日、北陸新幹線が延伸開業され、東京~福井間が1本で繋がりました。東京から北陸へ行く場合、富山・金沢へは信越本線~堀く本線経由が一般的でしたが、福井は微妙な位置にあり、距離的には信越本線経由が微妙に近いものの、時間的には東海道新幹線~北陸本線経由が有利でした。北陸新幹線など影も形もなかった時代、唯一福井へ直通する夜行急行がありました。「越前」は、上野から信越本線経由で福井まで運転された、北陸急行の中では1番距離の長い夜行急行でした。編成は、荷物車、A寝台、B寝台、グリーン車、普通車自由席で、普通車指定席は連結されていません。途中直江津まではEF62が牽引しています。「越前」は夜行列車でしたが、上野着が7:05と比較的ゆっくり到着するため、冬期においても上野口での撮影が可能な列車でした。特徴としては、私の知る限り近代化更新後の旧型客車で統一されており、荷物車もパレット積み対応のマニ37(青)で、EF62の前面警戒色以外すべて青で統一されていたイメージがあります。昭和55年10月頃 蕨~西川口間にて EF6223牽引 上り「越前」昭和57年5月頃 浦和~南浦和間にて EF6222牽引 上り「越前」昭和57年11月13日 上野駅にて EF6237牽引 上り「越前」到着昭和57年11月14日 大宮駅にて 上り「越前」到着この区間において、定期列車でEF62を見るとことが出来たのがこの「越前」と夜行急行「妙高」のみでしたが、「妙高」は駅撮りも出来ないほど早朝の到着時間であったため、実質的に写真に撮ることが出来たのはこの「越前」だけでした。「越前」は上野~福井間を信越本線経由で設定されていましたが、昭和57年11月の上越新幹線開業時に上越線経由であった「能登」の廃止により、運転区間を金沢で打ち切りされた挙句に愛称まで乗っ取られてしまうことになります。やはり、福井県に入らない列車名に「越前」を使用することは出来なかったのでしょう。この上り「越前」は、臨時運用のカマの送り込みスジとして使用されていたそうで、EF62同士やEF58との重連運用が生じることが多かったそうです。しかし、当時はそのような情報を知る由もなく、私は一度も見ることができませんでした。EF58・EF64牽引:急行「能登」(旧型客車時代)489系:急行「能登」
2024.03.17
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キハ56+キハ22:急行「大雪」石北本線といえば、当時日本で唯一のカタカナ特急「オホーツク」と長躯函館~網走間を往復していた「おおとり」が花形であった訳ですが、両列車とも1往復のみの設定で、庶民としてはやはり急行「大雪」がメジャーな優等列車であったと思います。昭和55年の時刻表を見ると、1日5往復の「大雪」が設定されており、4往復が昼行のディーゼル、1往復が寝台車を連結した夜行急行でした。テツとしては昼間のディーゼル急行よりも夜行列車を多用した、と言いますか、夜行しか乗ったことがない方も多いのではないでしょうか?急行「大雪」は、その多彩な運用面からも大変興味深い列車です。1往復は釧網本線経由で釧路~網走~旭川~札幌を走破し、下りでは名寄本線の興部行き、さらに驚くことは、上りの名寄発~名寄本線~遠軽~札幌なんてとんでもないコースを走破する列車もありました。さすがに好んで乗るような列車ではありませんが、ちょうど9時間も掛かるこの列車は通しで乗る人なんてまず居なかったのではないでしょうか。昭和56年3月 遠軽駅にて 急行「大雪4号」右側のキハ56とキハ27の2両編成を組んだ急行ですが、あまりにもショボイ編成ですので、『うさぴょんのマル鉄回顧録』でアップしたときは急行「天都」かもしれない、としていました。しかし、昭和56年の時刻表を確認したところ、この時点で既に急行「天都」は廃止されていました。そこでさらに時刻表を追ったところ、渚滑線の乗りつぶしから遠軽へ戻ってくるのが9:40。特急「おおとり」と特急「オホーツク」が10:50を前後として交換が行われるのでこれを撮影。駅へ戻ってから列車に乗ろうとすると、網走方面、旭川方面とも12時を過ぎるまで列車が無い。網走発の558Dが遠軽12:11着。折り返し12:42の網走行き559D。名寄発の1623Dが12:02着、そのまま12:38に旭川行き514D「大雪4号」となります。そのときの私の行動と時刻表上の時間の相関がピタリと一致しました。つまり、写真で言うところの左側が558D~559D、右側が急行「大雪4号」。さらに、昼行の急行「大雪」はほとんどがグリーン車連結であるのに対し、この旭川行き「大雪4号」のみグリーン車は連結されていません。以上のことから、全ての状況が一致し、写真のローカルな急行列車が「大雪4号」であることが判明いたしました。ヘッドマークの無い気動車急行と言うのは、私的には撮影対象外だった筈ですが、北海道と雪景色、極寒の風景は、普通の気動車ですら魅力的に感じさせてしまうんですね。ですので、本州ではあまり撮影実績の無い一般型車両たちも、沢山記録に残すことができたのだと思います。
2022.12.29
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キハ183系:特急「とかち」(新国鉄色時代)平成2年9月1日のダイヤ改正において、特急「おおぞら」増発分のうち札幌~帯広間運転の列車を特急「とかち」として名称を分離、5往復が誕生しています。石勝・根室本線のフリークエンシーの始まりですね。当時はまだJR色というのは発生しておらず、国鉄末期に導入されたN183系ことキハ183系500番台に合わせた塗装に塗り替えられた0番台車が多用されていました。特にグレードの高い500番台は「おおぞら」を中心に使用され、私の見た限りでは、「とかち」は0番台を中心に組成していたように思えます。スラントノーズの0番台を使用した特急「とかち」写真のように、ヘッドマークも絵柄イラストととなっており、現在のような抽象的デザインではありません。のどかな風景をあしらったヘッドマークは、まだ国鉄時代の意識を読み取ることができます。100番台を先頭にした特急「とかち」既に増発に伴う短編成化が実施されており、先頭化改造車も4両が誕生しています。国鉄色時代だったのはわずかな期間であり、同車もN183系と同じベースに塗装されています。翌年には第1期「スーパーとかち」化に向けた北海道特急初のJR塗装化が実施されており、ヘッドマークのデザインと合わせて、この塗色による特急「とかち」による活躍は、わずか1年にも満たない貴重な歴史の1ページとなってしまいました。※以上、撮影は平成2年9月5日、石勝線 楓(当時)~占冠間にて。景色を取り込んだ写真のため、画像は大~きくなるようにしてあります。また、プリントからのスキャンなので、ややシャープさに欠けます。平成3年7月10日 楓~占冠間にて キハ183系「とかち」そして、翌年である平成3年7月27日、「とかち」に2階建て合造車キサロハ182を連結した速達型特急「スーパーとかち」が誕生します。それまで旧国鉄色(オリジナル色)から新国鉄色(500番代塗装)へと変化していったキハ183系ですが、ここで初めてJR色が登場することになります。この新色は、現在のキハ183系「オホーツク」や旧「おおぞら」にも使用されメジャーとなったJR北海道塗装の奔りとなるものですが、良く見ていただくと前頭部分の塗分け(特にライト周辺)が異なり、印象がかなり違っています。また、「スーパーとかち」の車輌には前頭部側面にロゴが入るのですが、塗色変更は準備中でありながら、実際には運転日前で「スーパー」ではありませんので、まだロゴが入っていません。この後2週間後に控えたダイヤ改正では大きく変貌する「とかち」でしたが、改正前のホンのひと時、新色塗装、ロゴ無し、混結編成、キサロハ無しという、極めて異色な編成が走っていたのです。そして、キサロハを含んだ「スーパーとかち」が誕生しますが、平成21年10月の改正でキハ183系が撤退しまい、キハ283系を使用した第2期「スーパーとかち」へと移行することになります。
2023.03.23
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京成電鉄 モハ700形:行商専用列車京成電鉄では、千葉県内から都心へと向かい行商を行うおばちゃんのための専用列車が走っていました。もちろん、一般客を排除して運転する列車ですから、車両は常にお古です。むかしこの記事をまとめた当時は良く知らなかったのですが、モハ700形に属する車両だそうです。昭和56年頃 日暮里駅付近にて 行商専用列車モノクロなのが残念な写真です。確か、日暮里付近で特急「みちのく」の写真を撮影していた際に偶然通りがかった行商専用列車をキャッチしたと記憶しています。当時、既に青電は廃車になったか塗り替えたかで消滅してしまっていて、京成の中でも最後の青電だったと記憶しております。704-1601-1602-2203の4両編成で、昭和49年に同列車に使用されるようになり、このうち1601が外されて3両編成となったのが写真の編成だそうで、この写真を撮って直ぐに廃車となってしまったようです。フィルム現像を自前で行ったのですが、薬液の温度管理が悪かったらしくオーバーに定着してしまったため、粒子も非常に荒れてしまい、見苦しい写真となってしまいました。
2023.10.01
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京成電鉄:赤電3100形(非冷房時代)京成電鉄3100形は、昭和35年に誕生した新性能電車です。登場時はもちろん非冷房車であり、後に冷房改造が行われています。更新工事の施工により行先表示幕が設置されましたが、幕板部へのヘッドライトの移設は行われなかったようです。京成津田沼駅にて 31043101~3116は1次車であり、コイルバネ台車を採用しています。京成津田沼駅にて 31223021~3036は昭和36年以降に誕生した2次車となっており、京成電鉄では初めて空気バネ台車を採用しました。写真を見ると、ドア窓の大きさが1次車は大型で、2次車は小型になっているようです。登場からしばらくの間は2両編成のみとなっていましたが、半数の先頭車が中間車化され、4両編成に変更されました。この写真を見る限り、すべてが2両編成で組成されているようで、更新前の貴重な姿となっています。
2023.11.07
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DD51ディーゼル機関車:DD5113・23(非重連型)昭和56年、高校2年の春休みに2回目の渡道に挑みました。友人の提案で壮大なコースだったのですが、1日目 上 野 23:20発 佐渡7号 新 津 4:59着2日目 新 津 5:38発 833レ 青 森 19:40着 青 森 ・・・といった、所帯を持った今では絶対に考えられない行程でした。途中の「あつみ温泉駅」で異様な光景に驚いたわけです。何がっていうと、こんな光景が目に飛び込んできました。昭和56年3月10日 あつみ温泉駅にて DD5123留置の図当時、EF641000番台の大量の投入によって廃車となった長岡区のEF58と一緒に、それまで会ったことの無いDD51の2ケタの車両が停まっていたのです。羽越本線は村上以遠が交流電化ですから、本来EF58の居場所ではないだけでも驚きだったのですが・・・客車がホームに停まるや否や、ホームに下りて慌てて撮ったものです。そして、席に戻りホッとした矢先、動き出した列車の反対側の車窓を見ると、こんなのが目に入ってきたのです。昭和56年3月10日 あつみ温泉駅にて DD5113他もっと若番の13号機で、しかも、正面のラインがプレートの下に一直線に入っています。初めて見た実物に、慌てて反対側の席に移り、窓を開けて素早く撮影しました。(車内はほとんどって言うか、誰も人が乗っていないので、一応迷惑は掛けていません。)後にも2両の初期車が連結されていましたが、動き出している車内からの撮影でしたので、番号は読み取れていなかったり覚えていなかったり・・・。残念ながら、現役活躍時代の写真ではない寂しい結果ではありましたが、私にとって唯一無二の初期車の写真なんで、撮っておいて良かったという思いで一杯です。【メモ】DD51 13号機 5~19号機の3次車に該当。燃料タンクが増量された。 非重連型で、2次車と同様、正面帯がナンバープレートの下に入る特徴のあるタイプ。 初期の1000PS×2台のエンジンを搭載したタイプ。(後に1100PSに換装) 1964.4.14 川崎車両新製 盛岡区配置 1986.3.31廃車 最終配置区 東新潟区DD51 23号機 20~27号機までの4次車に該当。 やはり非重連型であるが、正面白帯が初めてナンバーの部分に上がった。 当初から1100PS×2台のエンジンを搭載したタイプ。 1964.11.28 川崎車両新製 鳥栖区配置 1986.3.31廃車 最終配置区 東新潟区
2024.05.25
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キハ58系:急行「奥久慈」「ときわ」「奥久慈」は、上野駅から常磐線・水郡線を経由して常陸大子・郡山方面へ直通した急行列車です。常磐線内は急行「ときわ」と併結になっていたため、急行「ときわ」としても「奥久慈」と手を組むために気動車急行としてながらく存置されました。「奥久慈」は上野に乗り入れる水郡線からの唯一の列車であり、通年2往復体制をとっていましたが、多客期には臨時列車も増発されています。水郡線内では何れも途中駅まで急行運転であり、その先は普通列車となっていました。急行「奥久慈」の運転関係については、マル鉄コレクション館『時刻表ネタ 昭和55年 水郡線を走った急行「ときわ7号」』でご紹介しておりますので、ご参考を。昭和55年頃 上野駅にて 常磐線快速ホーム11番線に停車中のDC急行「ときわ」「奥久慈」時代によって変遷があるようですが、上野駅の11・12番線は京浜・山手ホーム同様に嵩がありますので、ステップ付きの車両は入口の1歩目が落ち込むため危険なんですよね。私がバイト時代に臨時の「ときわ」「奥久慈」が11番線発だったので、この写真も臨時かもしれません。旅客誘導中に何人かステップに足を引っ掛けて転びそうになった人がいたのを今でも覚えています。昭和55年頃 上野駅にて 上野駅を発車したDC急行「ときわ」「奥久慈」上の写真の列車が発車したシーンと思われます。この時代でも上野発のDC急行は非冷房車が多かったのですが、関東のみを運用する水戸区には冷房車が中心に配置されていたようですね。同じ時代の「おが」や「いいで」「ざおう」と随分格差のある編成です。昭和56年5月頃 新松戸駅にて 「ときわ」「奥久慈」常磐快速線はこの区間でも95~100km/h運転していましたので、DC急行も結構カッ飛んでいました。スピードを確保するため、加速に有利なキハ58の編成率が高かったのも常磐線の特徴です。昭和56年8月30日 新松戸~北小金間にて 下り「ときわ」「奥久慈」これは新松戸駅近くの築堤をよじ登って撮影したものです。未だ循環タンクの付いていないトイレの列車が走っていたので、実はこのアングル、ある意味命がけです。今ではこんなところをよじ登ることすら出来ないんでしょうね。昭和57年10月12日 常磐線 荒川沖~土浦間にてこの区間は交流区間ですが、DCには関係ありません。この翌年の昭和58年には、急行「奥久慈」は常磐線内のみとなり、水戸からは普通列車という直通しているだけの役割となり、年を追うごとに衰退し、昭和60年3月改正でとうとう廃止となっています。私は個人的に常磐線には縁がなかったので、当急行列車には乗ったことはありませんが、その昔は編成中にキハ55も組み込まれており、注目していた列車でした。しかし、現実にはバイト中に臨時の「奥久慈」にキハ55が3両連結されているのを見たことがあるだけで、晩年の定期急行はキハ58系に統一されていたようでした。結果的に混成列車を撮ることができなかったのが非常に残念でした。ところで・・・このたび、TOMIXからキハ58系「奥久慈」「ときわ」セットが発売予告されました。もうかなり昔からHG仕様として発売されてきた同社のキハ58系ですが、ここに来てコアな車両セットとして発売されることになります。特に、「ときわ」「奥久慈」は常磐線を走る急行列車であるため、常磐無線アンテナを搭載しているのが最大の特徴で、このアンテナを設置するためにクーラーの一部を移設している点で既製品にはない設定となっています。常磐線を再現するモデラーであれば、これは待ちに待ったグレードであると思われます。しかし・・・10両編成ではかなりの高額となりますね。送料無料◆98494 TOMIX トミックス 国鉄 キハ58系 急行ディーゼルカー (奥久慈) セット(5両) Nゲージ 鉄道模型 【2月予約】98494 国鉄 キハ58系急行ディーゼルカー(奥久慈)セット(5両)[TOMIX]【送料無料】《02月予約》送料無料◆98493 TOMIX トミックス 国鉄 キハ58系 急行ディーゼルカー (ときわ) セット(5両) Nゲージ 鉄道模型 【2月予約】98493 国鉄 キハ58系急行ディーゼルカー(ときわ)セット(5両)[TOMIX]【送料無料】《02月予約》送料無料◆セット販売 98493/98494 TOMIX トミックス 国鉄 キハ58系 急行ディーゼルカー (ときわ) セット(5両)+(奥久慈) セット(5両) Nゲージ 鉄道模型 【2月予約】
2022.08.12
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EF651116牽引 14系客車:臨時特急「踊り子」国鉄末期の頃、電車一色であった伊豆方面への優等列車に、客車による特急「踊り子」が設定されていました。客車には81系お座敷客車や14系サロンエクスプレス東京なども使用され、それぞれ「お座敷踊り子」や「サロンエクスプレス踊り子」を名乗りました。客車が回らない日には14系座席車も充当され、こちらは通常の臨時特急「踊り子」の号数付きで運転されています。昭和62年2月13日 保土ヶ谷~戸塚間にて EF651116牽引14系客車 「踊り子55号」プリントで正面が白飛びしてしまっているのですが、画像加工したところ1116号機であることが判明しました。相次ぐ合理化で電気機関車や客車列車が淘汰され、一方では余剰客車によるジョイフルトレインも次々と誕生した頃。鉄道ファンもここに追従して行った方が多く存在した時代でした。牽引機は東京機関区(後に田端機関区に統合)が当たっており、EF65以外にもEF58が登場する機会も有りました。当時のダイヤ情報にも掲載されましたので、人気のある列車でした。
2022.10.26
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旧型国電 73系:鶴見線 TOMIXから旧型国電73形電車が発売になります。TOMIX 国鉄72・73形 南武線・鶴見線 販売首都圏で新性能化が比較的に遅かった鶴見線。全国的にも戦時・戦後型であるモハ73形は最後まで見ることが出来ましたが、鶴見線では可部線や富山港線のようにラインカラーをまとっていませんでしたので、73形らしい茶色のままの好ましい姿で走っていました。昭和53年2月19日 鶴見駅にて 折り返し待機中のクモハ73形多分ですが、初めて鶴見線を訪れたときの写真です。今までアルバムに入れたまま何も気にしていなかったのですが、鶴見線で撮ったクモハ73の写真は、この写真のものを除いて全て更新工事施行車でした。もしかしたら台数的に少なかったのでしょうか。同じ頃まで残っていた南武線や横浜線も同様に更新車ばかりでしたので、ライトが屋根上にある限りなく原形に近いクモハ73の未更新車の写真少ないです。昭和54年12月頃 浅野駅にて 原形3段窓のクハ79450一見更新後のような整ったスタイルをしていますが、3段窓をはじめ、埋め込み式のヘッドライトも登場時からのものです。どうも、クハ79のこの番台区分が、101系の顔の始祖だったようですね。昭和54年12月 浅野駅にて クハ79これも同じ編成のようです。昭和54年12月 浅野駅にて クモハ73更新工事施行車この写真で着目していただきたいのが、2両目に連結されているモハ72形。モハ72系の最終グループである全金属製の920番台です。側板の位置が他車よりも高く、窓にもRがついて滑らかです。101系がモハ90系として登場したときのデザインに、限りなく似ているのが特徴の車両でした。昭和54年12月頃 浅野駅にて クモハ73更新工事施行車これも同じ編成のようです。昭和54年12月 鶴見線 弁天橋電車区にて綺麗に写っており、ネガの再現性も良かったのですが・・・サボ「回送」です。ご意見によれば、「回送」行先札を準備しているケースは旧型国電では稀であり、かえって貴重なのでは?ということです。昭和54年12月頃 武蔵白石駅にて 更新工事施行済みのクモハ73更新済みのタイプで、高窓・ライト埋め・客窓のサッシ化が実施されています。撮影場所は、構内配線の状況から、おそらく武蔵白石ではないかと思われます。この時点においても101系が僅かながらに入線しており、昭和55年くらいが73系の末期ではないかと思われます。98490 72・73形通勤電車(鶴見線)セット(3両)[TOMIX]【送料無料】《12月予約》98489 72・73形通勤電車(南武線)セット(4両)[TOMIX]【送料無料】《12月予約》[鉄道模型]トミックス (Nゲージ) 98489 国鉄 72・73形通勤電車(南武線)セット(4両)
2022.12.17
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101系:中央快速線国鉄初の新性能通勤電車として誕生した101系電車。初投入となった路線は中央快速線であり、それまで茶色一色と言えた通勤電車に鮮やかなカラーを採用したのもオレンジバーミリオンが最初です。あまり写真は撮っていませんでしたが、中央快速線の101系時代の写真をご紹介いたします。昭和51年6月6日? 東京駅1番線にて 中央線「特別快速」101系といえば中央線、中央線といえば特別快速ですね。新性能車で「特別快速」という速い列車が注目を集めた時代もありました。101系オンリーだった中央線快速でしたが、山手線や京浜東北線の103系冷房車投入に遅れをとってはいけないため冷房改造が施工されるようになり、特に「特別快速」に重点を置いて運用を組むほど重要視されていました。言わば、首都圏を、そして、全国を代表する国電区間であったわけです。写真は、現在の東京駅の3番線にあたる、当時の1番線です。ポケットカメラでネガにかなり傷が付いてしまったので、画像を修復して掲載しています。昭和54年頃 東京駅にて 101系800番台で編成された快速電車東京駅で折り返し待機中の101系中央快速線です。低屋根の800番台編成で、行先もレアな青梅行きです。現在、このホームは山手線内回りの列車が使用しており、中央快速線はさらに1段高いところへ上がってしまい、雰囲気もかなり違ってしまいますね。昭和55年10月頃 神田駅にて クモハ100-805ほかで編成された快速電車中央線快速の101系は、古くから臨時で相模湖や大月方面への乗り入れを行っていました。トンネル断面の小さい中央本線では、乗り入れる車両は181系を除いて低屋根構造の800番台を使用しました。これは70系・73系の「山ゲタ」時代から続いています。低屋根構造の新性能4扉車は101系の他に例が無く、大変注目を集める存在でありました。昭和56年9月頃? 武蔵小金井電車区にて過去に1度だけ武蔵小金井電車区を訪問したことがあります。101系だらけの電車区内。カラーでないのが残念です。和56年9月28日 保土ヶ谷~戸塚間にて 101系 回送「あまぎ」とかを撮りに行って偶然捉えた写真です。モノクロですが、色の濃さからしてオレンジバーミリオンですね。101系晩年期で、廃車が急ピッチに進んでいた頃だと思います。写真は7両編成で、かなり傷んでいるところから察して、大船工場への廃車回送ではないかと思われます。当時、首都圏における機関車の解体は大宮工場、電車の解体は大船工場と相場が決まっていました。153系の時は東急車輛とかでも解体作業が行われたようですが。中央快速線では昭和54年に201系試作車が誕生し、将来的に全車両を201系化することになっていました。そのため、冷房化に関しては101系改造ではなく、103系を配置することになりましたが、他の路線においても冷房化が急務であったため、103系の方が重点的に転出し、後輩の103系より101系の方が長く活躍しました。
2023.01.11
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455系:急行「あづま」「あづま」は、上野~福島間を結んでいた急行列車です。東北本線の急行列車は行先によって名称を使い分けていましたが、「あづま」の夜行列車については、福島から各駅停車となり、仙台まで足を伸ばしています。急行列車区間としては、上野~福島間を結んでいた急行列車と言って良いでしょう。急行「あづま」は下りが夜発夜着の1号と、夜行列車の3号となっており、上りも4号が夜行列車であることから、撮影可能時間帯の列車としては、上りの「2号」だけとなります。その分、大変撮影しにくい列車であったといえます。また、途中の郡山~上野間は、会津若松からの急行「ばんだい2号」を併結していました。昭和57年1月4日 白坂~豊原間にて 急行「あづま2号」「ばんだい2号」フィルムスキャナをもらってからは大きく画像を観察することができるようになり、列車番号札の表示されていた時代の列車は判別が可能となりました。この写真の列車番号を当時の時刻表で確認したところ、上りの「あづま2号」「ばんだい2号」」であることが判明したと言う訳です。福島にED71を撮りに行った時にも夜行利用したことのある列車でしたので、東北本線の急行の中でも一番地味な列車ではありましたが、思い出深い列車名でもありました。KATO 455系 急行まつしま・ばんだい 販売[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1632 455系 急行「まつしま」 7両セット[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1633 455系 急行「ばんだい」 6両セット送料無料◆セット販売 10-1632/10-1633 KATO カトー 455系 急行「まつしま」 7両セット+急行「ばんだい」 6両セット Nゲージ 鉄道模型 【7月予約】送料無料◆10-1632 KATO カトー 455系 急行「まつしま」 7両セット Nゲージ 鉄道模型 【7月予約】送料無料◆10-1633 KATO カトー 455系 急行「ばんだい」 6両セット Nゲージ 鉄道模型 【7月予約】10-1632 455系 急行「まつしま」 7両セット[KATO]【送料無料】《07月予約》10-1633 455系 急行「ばんだい」 6両セット[KATO]【送料無料】《07月予約》
2023.03.12
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481系・485系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正前)特急「はくたか」は、昭和40年10月ダイヤ改正において、それまで大阪~上野を結んでいた気動車特急「白鳥」を分離する形で誕生しました。運転経路は「白鳥」と同様に信越本線経由となり、使用車両もキハ82系のままとしています。昭和44年10月の改正において、「はくたか」は電車化により経路が上越線と変わり、信越本線経由の列車は489系の登場により「白山」となっています。電車化に当たっては、60Hz交流電化の北陸本線を経由することから、向日町運転所の481系・485系が使用されることになりました。電車化当初はまだ489系は誕生しておらず、金沢運転所には485系も配置されていませんでした。このことから、特急「はくたか」に使用される481系は関東で見ることができた唯一の例であり、その運用は関東~九州に及ぶスケールの非常に大きい運用となっていました。今回は、昭和53年10月改正前の写真をご紹介いたします。昭和48年頃 西川口~蕨間にて 481系 赤スカート車昭和53年10月改正まで、「はくたか」は向日町運転所の481系が使用されていたため、このように赤スカート車が上京する機会がありました。上野口で見られる唯一の関西仕様の車両です。ヘッドマークを注視すると、ロール式のようですね。私が撮影できた唯一の例でもありました。それまで583系やキハ181系の憧れが強かったですが、この写真を撮って以来、赤スカート車が非常に好きになりました。昭和51年頃 上野駅にて クハ481ボンネット車 この頃の「はくたか」はボンネット車が圧倒的に多かったような気がします。ですので、それなりに写真に撮る機会も多かったような。まだ向日町運転所の481系時代が続きます。昭和51年頃 赤羽駅にて クハ481ボンネット車高架化前の赤羽駅での写真。リコーオートハーフでの撮影のため、ブレてしまっています。今までアルバムに入ることすらなかった写真でしたが、今となっては懐かしい風景です。昭和52年頃 大宮駅にて クハ481300番台 非貫通型何度かは目にしたことのあった非貫通型の写真。しかし、殆どボンネットが多かったような気がします。基本的には文字マーク時代の特急列車が好きな私ですが、何故かこの非貫通型の「はくたか」文字マークがしっくり来ないんですね。イマイチ格好良くない。それでも遭遇率が低かっただけに、文字マーク時代としては唯一の非貫通型の写真です。昭和53年3月 西川口~蕨間にて クハ481ボンネット車後追いで撮影した下り「はくたか」。こちらが上野方なので、自連むき出しになっていないところからクハ481であることが判ります。昭和53年10月改正からは、使用車両が金沢運転所の489系に変更され、「白山」と共通運用になりました。また、貫通型・非貫通型はヘッドマークがイラスト化されています。『489系:特急「はくたか」(昭和53年10月改正後)』『681系・683系:特急「はくたか」』
2024.03.23
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EF5861牽引:臨時特急「サロンエクスプレスそよかぜ」「サロンエクスプレスそよかぜ」は、逗子~軽井沢を結んでいた臨時特急です。客車にサロンエクスプレス東京を使用した全車グリーンの豪華特急列車で、その昔運転されていた臨時急行「軽井沢グリーン」を髣髴させるものでした。高崎~中軽井沢間はEF62が牽引していたと考えられますが、逗子~高崎間はEF62ではない機関車が牽引していました。これは、おそらく横須賀線区間にEF62が入線していなかったため、訓練を省く目的があったのではないかと思われます。過去ログ『EF651108牽引:臨時特急「サロンエクスプレスそよかぜ」』でPF牽引の列車をご紹介しておりますが、結果的に最終運転となった昭和63年度では、折からのEF58最終ブームもあって、お召機EF5861が牽引し、ヘッドマーク付も相俟って注目を集めました。昭和63年5月4日 上尾~宮原間にて 「サロンエクスプレスそよかぜ」お召機である61号機が牽引し、話題沸騰となりました。もちろんヘッドマークを掲出していますので、注目度は凄かったですね。こちらはちゃんと撮影記録が残されており、やはりWikipediaでは昭和62年8月までとなっておりますが、こちらも明らかに記述が間違っております。昭和63年5月5日 北本~桶川間にて 「サロンエクスプレスそよかぜ」テールマークは通常の「サロンエクスプレス東京」が掲出されていたと記憶しており、特に面白みも無かったので後部は撮っていませんでした。下りの特急「あさま」とカブってしまい残念な結果となりましたが、当時はまだこんな時代背景だったという意味では良い記録であることも間違いありません。同列車の記録はここで途切れており、この年度が最後の運転となったようです。
2024.05.04
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183系・189系:特急「あずさ」「あずさ」は、昭和41年、新宿~松本間に誕生した特急列車です。登場当初は田町電車区の181系が使用され、特急「とき」と共通運用となっていました。その後、181系は新潟運転所に所管替えとなりましたが、昭和48年から上野~東京間の回送線使用した定期旅客営業が廃止されたため、長野運転所の所管となっています。同時に、特急「あずさ」に幕張電車区所属の183系0番台も投入され、自由席車両付のL特急となります。昭和52年頃 中野駅にて 183系0番台中野駅に居て何故こんな写真を撮ったのか全く記憶の無いシーンです。おそらく28mmの広角レンズですが、ホームにカメラを置いてシャッターを切っていると思われます。この頃は既に189系が誕生しており、181系が撤退した後でした。「あずさ」は、幕張区の183系0番台に出逢う方が多かったように思います。昭和52年頃 新宿駅にて 189系こちらは同じ頃に新宿駅で撮影した新鋭189系。どうやってか、特別改札のあるホームに潜り込んで撮ったようです。当時の新宿駅は結構な規模の操車場があり、貨車の入換が行われていました。右に見える貨車の位置は、埼京線1~4番ホームの新南口~サザンテラス口の旧跨線橋が掛かっていたところですね。上に跨っている道路橋は国道20号線(甲州街道)です。昭和53年2月19日 新宿駅にて 183系0番台こちらは新宿駅で撮影した183系0番台。特別改札の無い中央線快速ホーム発着なので撮ることが出来たのでしょう。左側に1つ目のDD13もチラッと写っています。昭和58年1月12日 川岸~辰野間にて飯田線の旧型国電を撮影に行った際に撮ったもの。上越新幹線の開業により大量の183系1000番台が長野区や幕張区に流れ出したため、0番台は「あずさ」の運用から撤退することになります。この写真も183系0番台が「あずさ」で活躍する末期の頃となるでしょうか。また、特急列車の経路がみどり湖駅経由の新線に切り替わってしまったため、この区間を特急列車が走ることはなくなってしまいました。昭和58年3月26日 西国分寺駅にて 189系「さよならED16」列車を撮るために陣取ったホーム端で待機中に撮影したものです。この頃の「あずさ」は、長野区の189系が12連で運用されていました。在来特急としても最も貫禄のあった頃ですね。そして、183系1000番台の流入、グレードアップ車両やリニューアル車両(あずさ色)が導入されると同時に、オール9連化されることになります。しかし、その変な塗装に影響されてしまってか、これ以降、特急「あずさ」の写真を撮ることは全く無くなってしまいました。平成20年11月11日 189系あさま色 「あずさ81号」20年以上の時が過ぎ、JRになって初めて189系「あずさ」の写真を撮ることができました。「あずさ」は多客期の需要が大きいため、シーズンに何本かは波動用車両を使用した国鉄車が使用されます。この時代になってあさま色の車両が使われると言うのも皮肉ですね。この列車については、JR化後の変遷が非常に複雑なため、記述は省略いたします。189系:臨時特急「あずさ銀嶺」
2024.05.23
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169系:サハシ169食堂車には、純然たる供食設備をもつ食堂車と軽食だけを提供するビュフェ車があり、記号では同じ「シ」を使いますが、ビュフェ車は座席車と合造となるのが一般的です。(戦前・戦中型の客車で、食堂車で合造の車両も一部存在します。)ビュフェ車の起源は、ビジネス特急の151系「こだま」の誕生を機に製造された「モハシ150」と思われますが、正式な食堂車も連結することになった同系からは、比較的早く姿を消すこととなります。一方、食堂車を連結しない長距離昼行電車急行では、その需要も考慮してのことでしょうか、153系の登場(サハシ153)から、その後登場する451・471系列(サハシ451・455)、165系(サハシ165)と、ビュフェの連結のスタイルを確立していくことになります。誕生当時は盛況を極めたらしいビュフェ車でしたが、食堂乗務員確保の困難や物価高騰によると思われる食堂利用の低迷など、ビュフェ車を連結しているとはいうものの、営業は殆どされていない状況が続き、全国的に運用から離脱していくことになります。そんな末期の状況の頃、私自身は小学生~中学生時代に営業していないビュフェ車を見る機会がありましたが、中間車ということで写真を撮るという概念も無く、偶然撮ってあったのがこれと言う写真がありましたのでご紹介いたします。昭和52年頃 大宮駅にて サハシ169-7写真はサハシ169-7で、サハシ153-9から改造された車両です。横軽通過対策車として製造された169系では、東海道新幹線の開業により職を失いつつあったサハシ153を改造して編入することとなり、サハシ169としての新製車は1両も存在しません。台車も含めて153系時代の面影を色濃く残しています。しかし、調理室側の明り取り窓が153系時代は同じ高さに開けられていたのに対し、改造時において中央側が1段低く開け直されており、若干バランスを崩したようなスタイルになっているのが特徴です。写真の列車は、大宮駅の急行の発着は殆どなかった思われる折り返しホームの7番線に入っている状況が???なところですが、写真を撮った時間と行き先サボに青帯が表示されているところから推測すると、長野~軽井沢間が普通列車となっていた上り「信州2号」であると思われます。
2022.04.20
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EF58牽引 旧型客車:急行「鳥海」上野~秋田間を上越・羽越線経由で結んでいた急行「鳥海」は、荷物車+グリーン車+A寝台+B寝台+自由席普通車で構成された、由緒ある夜行急行スタイルの列車でした。強いて言えば、なぜか普通車指定席は連結されていません。上野~秋田間を結ぶ急行は、この他にも全車寝台急行の「天の川」が設定されており、お互いに補完しあいながら長らく運転されていました。急行「鳥海」は、上野~新津間をEF58、新津~青森間をEF81が牽引し、水上~石打間はEF16がサポートしていました。(時代背景により、羽越本線非電化時代はDD51、晩年の上越国境越えはEF641000番台のサポートなど、牽引機は変化しています。)昭和52年頃 蕨~西川口間にて EF5890牽引 「鳥海」回送東大宮操車場に回送される「鳥海」編成は、そこそこ遅い時間になってから通りましたので、比較的見る機会が多かったように思います。昭和55年7月23日 南浦和~蕨間にて EF58174牽引 急行「鳥海」昭和55年10月頃 蕨~西川口間にて EF58134牽引 急行「鳥海」同列車の晩年に近い写真です。グリーン車の帯がまだ残されています。一方、本来茶色のマニ36が連結されている筈が、当時新車のマニ50に変わってしまっています。昭和57年 大宮操車場駅構内から 上り急行「鳥海」右側にスニ40が少しだけ写っています。他の夜行急行列車は、A寝台車が上野寄りに連結されているのに対し、この写真では逆なんですよね。それまでは所定の上野寄りでしたので、最終期頃に連結位置が変わったようです。もう1点、マニ36が張上げ屋根改造車です。この写真を撮った時は、プリントにしなかったため、日常的に「鳥海」に連結されていることに気が付きませんでした。後に注目した車輌なんですが、気が付いた時には荷物輸送すら廃止になってしまいました。その後わかったことですが、マニ362022ではないかと思われます。昭和57年11月14日 大宮駅にて 停車中の急行「鳥海」上り定期の最終日。翌朝到着の臨時列車扱い「鳥海52号」をもって急行時代の幕を下ろしました。急行「鳥海」は、ツララ切り+スノープラウといった雪国装備をまとった高崎第二機関区のEF58が終始担当してしておりました。上越急行には、他にもEF58+雑形客車の組み合わせとして、急行「天の川」「能登」(旧急行「北陸1号」)が走っており、あまり珍しい感じはありませんでしたが、「鳥海」の最大の特徴は、スニ2両(パレット積載型荷物車)+一般荷物車と、計3両の荷物車が連結されていたことでした。ちなみに、スニ2両は、新潟地区への新聞輸送に使われていたものです。昭和57年11月のダイヤ改正(上越新幹線大宮暫定開業)で廃止になってしまった急行「鳥海」ですが、他に生き残った夜行列車たちとは違い、最期まで20系化や12系・14系化されることなく、旧型客車のまま伝統ある夜行急行のスタイルを守りとおした列車でした。5147 ワサフ8000[KATO]《04月予約》[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 5147 ワサフ8000【中古】Nゲージ/KATO 10-899 セットバラ 5139-2 (1両のみ) スニ41-5 (郵便・荷物列車「東海道・山陽」A 2022年ロット) 【A’】 付属品無し/ビニール袋で個装しエアキャップに包んでの発送【中古】Nゲージ/KATO(カトー) 貨車 セットバラ10-899(1両のみ) スニ41-5(郵便・荷物列車「東海道・山陽」 Aセット)【A】【2022年8月】 KATO|カトー 【Nゲージ】5300 オハフ45 ブルー【発売日以降のお届け】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 5228 オハ46 ブルー
2022.08.15
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常磐線:荷物気動車(キニ55・キニ56・キニ58)常磐線の隅田川~水戸間には、いつ頃からかわかりませんが、気動車の荷物列車が昭和50年代まで走っていました。常磐線には急行荷物列車も走っていましたし、普通列車にも荷物輸送を目的とした客車列車もやはり昭和50年代まで設定されていました。確かに、本線系では短距離用の荷物電車が設定されていたことを考えれば、常磐線に荷物列車が設定されていてもなんら不思議ではないわけですが、なぜ気動車だったのでしょうか?昭和57年10月12日 荒川沖~土浦間にて首都圏では最後まで見られた10系列の気動車で、大変貴重な存在でした。走っている時間帯も良く、常磐線に撮影に行くと良く出くわしましたね。写真は下り列車。昭和57年10月12日 土浦~荒川沖間にて キニ563+キニ553上の写真が進行方向先頭で、下の写真が後追いです。1両目の車輌は「キニ563」で、元「キハ5514」からの改造車です。昭和49年12月17日に大宮工場で改造・竣工し、水戸機関区に配置されました。種車の「キハ5514」はキハ55型の初期車で、妻面にRが付いた独特の形状をしており、改造後もRが付いたままの車体で特徴がありました。昭和61年12月18日付けで廃車となっています。2両目の車輌は「キニ553」で、元はキハ10系の2エンジン車「キハ5110」からの改造車です。3は昭和40年9月2日に多度津工場で改造・竣工し、他の1・2・4とすべての車輌が竣工とともに水戸機関区に配置されました。キニ55の2と3が昭和58年6月17日に、1と4が昭和59年5月8日に廃車され、10系気動車として最後まで残った形式でもあります。昭和60年8月25日 神立~高浜間にて キニ56+キニ58この写真は後追いです。番号は未確認ですが、後尾車(右側)の「キニ56」は水戸機関区に1台のみの配置ですので、「キニ563」で間違いないでしょう。先頭車(左側)は「キニ58」で、老朽化した前述「キニ55」の代替車として、2エンジングリーン車である「キロ58」からの改造で誕生しています。昭和53年7月から9月にかけて名古屋工場・幡生工場で3両が改造・竣工し、全車水戸機関区に配置になっています。荷物輸送の廃止により、昭和61~62年にかけて全車が廃車になっています。(「キニ581」は「碓氷峠鉄道文化むら」にて保存・展示。)水戸機関区配置の荷物気動車は、全国に配置された改造荷物気動車に比べてバラエティーさには欠けますが、常磐線用に2エンジン車を配置していたのが特徴といえます。これは、平坦路線の常磐線ですが、電車のダイヤに影響させないための措置と聞いております。交流又は交直両用の荷物電車が今もって製造・改造されたことが無かったのは、交流区間における普通列車が客車列車主体であり、特別に専用の荷物電車を用意する必要がなかったという時代背景でしょう。もし、現在も荷物輸送が活発に行われていれば、もしかしたら誕生していたかもしれません。【中古】(非常に良い)マイクロエース Nゲージ 国鉄キニ58首都圏色 2両セット A0720 鉄道模型 ディーゼルカーマイクロエース Nゲージ 国鉄キニ28首都圏色 2両セット A0719 鉄道模型 ディーゼルカー[cb]6168 KATO カトー キユニ28 首都圏色 Nゲージ 鉄道模型 【6月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 6168 キユニ28 首都圏色【中古】Nゲージ マイクロエース A0721 国鉄 キユニ28 首都圏色 2両セット 【A´】 ※外箱若干傷み
2023.01.24
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113系:東海道本線 普通列車既に全廃となって久しい東海道本線の113系ですが、今回は懐かしい113系時代の普通列車の写真をご紹介いたします。普通列車は撮影の対象から外れており、それほど枚数は撮影していませんでしたが、珍しい写真も撮っていました。昭和54年頃 品川駅にて 113系 静岡車品川止まりの臨時列車でしょうか。品川駅へ到着後、田町電車区へ回送されるシーンです。当時の東海道普通列車は、田町・国府津・沼津各区の車両が東京駅へ乗り入れしていましたが、このうち沼津区の編成はグリーン車無しのモノクラス編成でした。したがって、時刻表でも区別が付いたようです。しかも、かなり遅くまで冷房改造されずにいたため、ご覧のように原形のグローブ型ベンチレーターずらりと並ぶ壮観な編成を見ることができました。昭和55年8月 東京駅にて 113系 クハ111非冷房車夕方撮影のためブレてしまって、所属や車号表記が判別できません。押し込み形ベンチレーターに原形非冷房であることから、113系の初期車と思われます。この当時、房総系のスカ色では見られたタイプですが、東海道本線東京口では冷房化の促進が急速であり、あまりお目にかかれないタイプでした。昭和56年2月1日 根府川~早川間にて付属編成が非冷房4連。おそらく111系と思われますが、基本編成は113系新製冷房車のようです。付属編成は静岡車と考えられますが、このような混結運用があったのか?詳しくは知りません。昭和58年7月24日 戸塚~保土ヶ谷間にて 113系冷房改造車この頃になると、東京口の湘南電車は静岡車を除いてほぼ100%冷房化されていたと思います。冷房化に際してはヘッドライトのシールドビーム化も実施されているため、冷房改造初期のデカ目のままの車両もなかなかお目に掛かることは出来ませんでした。この列車もデカ目でなかったらシャッターを切っていなかったことでしょう。昭和59年3月23日 東海道本線 保土ヶ谷~戸塚間にて 111系 静岡車一番上の写真から7年、沼津区の111系非冷房編成がまだ残っていました。後部の方を良く見ると、何両か押し込み形ベンチレーターの113系初期車が混結されているようです。EF58牽引荷物列車の写真を撮るために構えていたのですが、思わぬところで貴重な列車を撮ることができました。昭和54年5月 大船駅にて 113系 湘南色・スカ色混結画像を大きくしていただけると判るかもしれません。最後部の次に連結されているモハユニットがスカ色となっています。昔から東海道本線では良く見られたようですが、写真ではあまり捉えたことがありませんでした。昭和56年8月21日 富士駅にて当時、旧型国電に没頭していたので、新性能車である113系や115系などは眼中になかったわけですが、混色編成というデザイン感覚を麻痺させるような編成というのは放っておけない存在だったため、乗り継ぎの合間に見た同列車だけは撮影していたようです。先頭車のクハ111ですが、おそらくは横須賀線あたりで使用されていた初期113系で、窓周りを見る限り0番台で間違いないでしょう。横須賀線・総武快速のスルー運転により、冷房車や冷房準備車が優先配置となり、本格的な改造を要する基本番台を手放して都落ちさせたのではないかと思われます。連なる車両はモハ111系となっており、グローブ型ベンチレータを搭載しています。北方面に住む私としては、あまり出逢える機会が少なかった車両でもあり、記録としても希少なものとなります。クハ111の方向幕は未だ準備すらされていないことから、短編成化に合わせて取り急ぎ手当てしたような様子も見て取れますし、なかなか面白いものではないでしょうか。悲しいことに、当時はフィルム現像も自分で行っていたため、カラーでないのは残念なところです。昭和54年5月頃 品川駅にてこの写真は、未だ東海道線と横須賀線が分離運転する以前の写真です。この列車、東海道線の普通列車なのですが、編成は南フナの横須賀線用の113系1000番台です。ラインカラーでない車輌を使用するときは、基本的に線名表示シールを貼って誤乗防止策を施すことが多いですが、101系や103系はともかく、113系や115系ではそのようは措置はあまり見たことがありません。この写真の列車も、線名表示はしていないものの、行先札が貫通路の窓の内側から架かっています。しかし、これでは小さ過ぎて一目では判りそうもありません。また、この列車の特筆すべきところは、通常品川始発の場合、7・8番線の始発ホームから発車するのですが、このホームは通常の東海道・横須賀線が発着する番線なのです。そして、貫通路にぶら下がっている行先表示も、どうもプラスティック製のきちんと作成されたもののようです。さらに、付属編成を連結するとグリーン車の位置が違ってしまうためか、基本編成のみの11連となっています。行先表示が準備されているところを見ると、私の経験が少ないだけで、もしかしたら良くあった話なのかもしれません。でも、中学1年から高校2年くらいまで品川へ結構な回数の写真撮影に行きましたが、このような措置を見たのはこの1回だけでした。
2023.03.15
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京成電鉄:赤電3200形(非冷房時代)京成電鉄の3200形は、京成電鉄では初めて両開き式扉を採用した車両。登場時はもちろん非冷房であり、前面の行き先幕などさえも備えていませんでした。後に更新工事が施工され、方向幕や種別幕の設置、ヘッドライトの幕板部への移設などが行われ、3300形更新車と同じような姿になっています。昭和54年5月頃 3248晩年の頃とはかなり印象が違ってしまいます。すべてがアナログ、マニュアル操作の時代ですね。行先板がパタパタなのも味わいがあります。平成19年11月を以って全廃、廃形式となっています。京成電鉄:赤電3100形(非冷房時代)
2023.11.26
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小田急電鉄 7000形LSE車:特急「はこね」(新塗装)※本記事は、2012-03-05に投稿したもので、当時の表現になっています。小田急電鉄7000形LSE車は、昭和55年、3000形SSE車を置き換える目的で誕生した、同社3代目となるロマンスカーです。洗練されたそのスタイルは、個人的には小田急電鉄の顔であったNSE車よりも好きでした。誕生から既に30年が経過。平成23年1月に4編成のうち1編成が廃車となりました。平成7年から平成9年に掛け、車両のリニューアル工事が実施されました。この際、既に誕生していた10000形HiSE車と同様のホワイトベースにワインレッドの塗装に改められました。これにはかなりガッカリしたものです。オリジナル塗装を1度も撮ったことがなかったからです。そしてまた転機が訪れます。平成19年、ロマンスカー50周年を記念し、4編成のうち1編成が復刻塗装としてよみがえります。オリジナルとは若干の相違がありますが、当時、撮影を全くしていなかったと私としては非常に喜んだものです。期間限定ということではありましたが、好評のうちに期間が延長され、現在に至っています。平成24年3月、他のHiSE、RSEが全廃になるとの情報の中で、先輩格であるLSEが残るのは皮肉と感じたものですが、ここで状況を覆すような発表がありました。それは、平成23年1月に廃車となった1編を除く3編成のうち、さらに1編成を廃車。ワインレッドトしても1編成のみとなった編成をオリジナル塗装化するということです。よって、10年強にわたって活躍したこのリニューアル塗装も、平成24年2月19日を最後に姿を消すこととなりました。平成20年1月5日 和泉多摩川駅にて平成20年1月26日 栢山~富水間にて 「はこね20号」平成20年1月26日 小田原駅にて 5000形とのすれ違い平成23年10月29日 登戸駅にて 「はこね11号」平成23年12月27日 参宮橋~南新宿間にて 「はこね2号」平成23年12月27日 南新宿~参宮橋間にて 「はこね15号」平成24年1月26日 南新宿~新宿間にて 「はこね2号」好きな塗装ではなかっただけに、あまり気合の入った撮り方になっていないのが残念なところです。それでも、フィルム時代にはまったく撮っていなかった形式だけに、押さえておいて良かった、という想いです。そして、最後に撮影のチャンスが訪れました。平成24年2月19日 開成~新松田間にて 「はこね6号」平成24年2月19日 渋沢~新松田間にて 「はこね19号」平成24年2月19日 新松田~渋沢間にて 「はこね20号」LSE旧塗装の最終日となった同日、撮影を組むことができました。
2024.06.18
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旧型国電 牽引車:クモヤ90国鉄時代、電車は現在のように編成を固定とする概念がありませんでしたので、検査の際は編成から中間車を抜いて入場するというのが当たり前でした。回送の際に運転台がなくなってしまうこともあるので、各電車区には運転台付き電動車の配置が必須となっていました。関西では17m車、交直流対応車などバラエティな牽引車が存在しましたが、首都圏ではクモヤ90しか見当たらなかったように思います。今回は首都圏で撮影したクモヤ90を並べてみます。中学生時代の写真もありますので、写りについてはご勘弁を。昭和51年 錦糸町駅にて クモヤ90+101系中央総武緩行線写りも色も最悪な写真ですが、101系を牽くシーンとしてはこの1枚しかありませんでした。前後でサンドイッチしていますが、津田沼電車区にクモヤ90が2両配置になっていたのかは分りません。昭和51年 西川口~蕨間にて クモヤ90+103系京浜東北線こちらも写り最悪といったところ。やはり、京浜東北線を牽くクモヤ90はこの1枚しか見当たらないようです。おそらく、浦和電車区配置のクモヤ90でしょうね。昭和52年 上野駅にて クモヤ90+103系常磐線上野駅5番線で折返し待機中の配給列車。常磐線の低窓103系が連結されていました。大井工場への入出場だったようです。昭和52年 品川駅にて過去ログでアップいたしました、クモヤ90000と90001の重連回送です。どちらが000で001だか忘れました。昭和55年8月 品川駅にてこちらも田町電車区の確かクモヤ90000だったと記憶しているんですがね。153系・165系を連結しており、おそらく大船工場での検査から戻ってきたものでしょう。昭和56年12月頃? 田町電車区 留置線にて留置線に留っているクモヤ90000。もちろん同形式のトップナンバーになります。当時、お金の無い身分なので、良く高輪にある中古カメラ屋に通っていました。10分以上は歩く距離でしたが、坂道を歩いて良く通ったものです。途中、線路際から一番品川駅寄りの電留線を覗くことができ、運が良いとこのような写真を撮ることができました。昭和52年8月 クモヤ90+クハ165の回送車両はおそらく新前橋電車区のクモヤ90とクハ165で、新前橋区から大井工場への検査入場のための回送と思われます。昭和53年 下十条電車区にて クモヤ90005下十条電車区配置のクモヤ90005で、東十条駅のホームから撮ることが出来ました。当時はまだ横浜線や南武線、鶴見線などでも73系を見ることが出来たので、ツリカケ式のクモヤ90は特に目立つ存在ではありませんでした。それでも、昭和56年の山手・京浜のATC化によりクモヤ143が誕生すると、クモヤ90も急速に淘汰されてしまったようです。4866 KATO カトー クモヤ90 0 (T) Nゲージ 再生産 鉄道模型 【4月予約】[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 4866 クモヤ90 0番台(T)[鉄道模型]カトー 【再生産】(Nゲージ) 4865 クモヤ90 0番台(M)
2022.04.21
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485系 ボンネット型:特急「やまばと」「やまばと」は、上野~山形間を結んでいた特急列車です。登場当初はキハ82系が使用され、上野~会津若松間を結ぶ編成を併結していました、電化の進捗とともに会津編成は独立して特急「あいづ」となり、上野~山形間が「やまばと」として存続しています。電化後、しばらくは仙台運転所持ちの485系が使用されており、クロ481を含む12連でしたが、昭和50年頃からクロ481の撤退が始まり、サロの組み込みとともに貫通型や非貫通型が使用されるようになっています。また、一部には青森運転所持ちの編成も運用に入っています。クロ481はもちろんですが、仙台持ちの車両は仙台方にボンネット型を組成したものが多くあったため、日常的にボンネット型の「やまばと」も多く見られました。53・10改正からは「つばさ」とともに運用が秋田運転所持ちとなり、すべて1000番台による運用となります。そのため、ボンネット型のイラストマークは誕生することはありませんでした。また、53・10改正からは「つばさ」とともに運用が秋田運転所持ちとなり、すべて1000番台による運用となりました。昭和48年頃 蕨~西川口間にて クロ481 ※トリミング処理483系登場当初は、481系と同様にタイフォンがスカート部に取り付けられていました。そして、東北特急にはクロ481が登場し、上野方に連結されるようになり、「やまばと」は12連になってもこのような編成が見られました。しかし、東北地方を走行するためにスカート部への雪の付着が問題となり、タイフォンのボディー側への移設工事が行われます。その後の増備車は全てボディー部への取り付けとなって新製されています。この写真を撮った頃には既にボディー側にタイフォンを設置された車両を見た記憶がありますので、写真の旧タイプも最期の頃であったと推測されます。昭和51年頃 上野駅にて クハ481この頃は既にタイフォンの移設工事も終っており、前出のような旧タイプの車両を見ることはありませんでした。仙台運転所持ちの仙台方はボンネット型のクハ481が多く見られました。昭和52年頃 大宮駅にて クハ481陽の向きと座席の向きから見て、午後の上り「やまばと」でしょうか。この頃から既にボンネット車が好きだったようで、クロの外れた上野方の車両は撮らず、仙台方のボンネット車ばかり撮っていたようです。昭和52年頃 大宮駅にて クハ481この列車も、陽の加減の感じからして上の写真と同じ運用のようですね。プリントすると先頭が切れてしまうほどギリギリのフレーミングなので、プリントにしていなかったようです。昭和52年頃 上野駅にて上野駅地平ホームでの1コマ。16番線にクハ481-200番台の「ひばり」。そして、15番線にはボンネット型の「やまばと」が停車しています。東北・上越新幹線の開業前、上野駅の特急黄金時代とも言える頃ですね。「やまばと」は昭和53年10月のダイヤ改正から秋田運転所持ちとなってしまった関係ですべて1000番台に移行、ボンネット型が使用されることが無くなってしまい、魅力が大幅にダウンしてしまいました。当時から3往復しかなく、やや地味な存在であった気がしますが、東北ボンネット車としては唯一残っていた4文字列車でもあり、トータルバランスの整った列車として思い出深い特急です。485系 貫通型・非貫通型:特急「やまばと」485系:団体列車「特急やまばと」-101527 485系初期形 6両基本セット[KATO]【送料無料】《01月予約》送料無料◆10-1527 KATO カトー 485系初期形 6両基本セット Nゲージ 鉄道模型 【1月予約】[鉄道模型]カトー (Nゲージ) 10-1527 485系初期形 6両基本セット送料無料◆セット販売 10-1527/10-1129/10-1130/4556/4570 KATO カトー 485系初期形 6両基本セット+後期形 2両増結セット+初期形 2両増結セット+サハ481 初期形+サロ481 後期形 Nゲージ 鉄道模型 【1月予約】
2022.09.13
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583系:特急「ふるさと」昭和57年6月、東北新幹線が大宮始発の暫定開業となりました。この際、在来線「やまびこ」は全廃、「はつかり」は盛岡~青森のアクセス特急に変わってしまいましたが、乗換え不便の救済策として、上野~青森間の直通臨時特急「ふるさと」が設定されました。昭和58年8月17日 大宮駅にて大宮駅にて出発を待つ下り臨時特急「ふるさと」。当時としては珍しく、専用のイラストマークがセッティングされました。東北新幹線開業により583系の運行範囲が変わるため、行き先表示の整備にあわせてヘッドマークも用意されたのではないかと推測します。昭和58年8月17日 大宮駅にて上の写真と同日、上り「ふるさと」も撮影していました。上り到着はかなり遅い時間で、上野まで行かずに大宮止まりとなっていました。これは、夜行列車として折り返す間合いが確保できなかったための措置だったようです。上り臨時特急「ふるさと」は、3番線に到着後、東大宮操へと引き上げとなっており、上野方の先頭には既にテールランプが点灯しています。昭和60年1月5日 栗橋~古河間にて唯一撮ってあった走行中の下り臨時特急「ふるさと」。編成は583系ですが、まだ食堂車サシ込みの13両という堂々とした編成でした。昭和60年3月、東北新幹線の上野開業によりこのような臨発措置も解消となり、何も無かったように設定が無くなってしまいました。上野開業が春休み前でしたので、この写真がひょっとすると運転最終日であったかもしれません。
2022.12.30
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旧型客車:急行「十和田4号」(回送)小学生の時に撮った写真から。昭和48年頃 西川口~蕨間にて 急行「十和田4号」回送我が家の近所の線路沿いで撮影したもので、まだカメラを買ったばかりの頃と思われます。小西六のサクラパックでした。旧型客車によって組成された夜行急行列車で、この時代としては極自然なスタイルの編成です。EF15牽引の貨物列車にカブられてしまい、編成の全体像は見えませんが、後部からスハフ+スロ+オロネの順番となっています。記憶からも東大宮送りの「十和田」であることは判明しており、詳細に調べたところ、グリーン車及び寝台車が連結されているのは上り1号・3号・4号で、このうち荷物・郵便車を連結しないのは「十和田4号」のみであるため、直ぐに区別ができました。上り1号・3号は定期列車であるため、荷物・郵便車も連結されていますが、不定期(季節列車)には荷物・郵便車を連結しないのがセオリーでした。この時代は西側線路沿いに水路が残っており、正面の住友セメントの敷地をかすめて蕨駅の方まで抜けていました。現在は埋め立てにより道路となっており、一方通行ですが蕨駅の方まで抜けられるようになって、面影は全くありません。目前に「電話」があり、画的には非常に邪魔ですが、当時はモバイルなどありませんから、トランシーバーかこの電話が連絡手段として必須となっており、おそらくは数百メートル置きくらいに設置されていたんでしょうね。
2023.12.23
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旧型国電 モハ62系:身延線 アコモ改造車モハ62系は、モハ73系(旧63系)の下回りに、無理矢理113系のボディーを載せたアコモ改造車で、昭和49年に誕生しています。外観では塗装こそ113系スカ色となっていますが、ベースは115系になります。113系と一見区別が付きませんが、厚い旧型国電の台枠に無理矢理接合する関係で、車体裾が絞られて、さらに直線部分があることが特徴です。アコモ改造は経費節減のために取られた措置でしたが、思ったよりコストがかさみ、4両×3編成のたった12両の改造で終わりました。同類には仙石線で活躍し、最後には103系新性能化されたモハ72970番代があります。103系のボディーを載せたモハ72は、4ドア車だったせいか970番代と73系を名乗ったのに対し、身延線で活躍していた3ドア近郊型に形態が変わったためか62系という新形式を名乗っています。※制御車はクハ66、電動車はモハ62。昭和56年7月2日 鰍沢口~落居間にて昭和56年8月21日 柚木駅にて昭和56年8月21日 西富士宮駅にて旧型国電が終盤を迎えており、貴重なクモハユニ44や低屋根クモハ、2ドア車のオリジナルクハ47など、魅力的は車両が活躍していましたので、戦前型廃車後も残ると言われた62系にはまず興味がありませんでした。なぜこれらの写真が残っていたかといえば、編成数が少なかったなりにも115系が導入されつつある中で最後まで生き残ったため、この車両に当たる確率が高かったのでしょう。今となっては、サイドから台車の特徴を生かした写真を撮っていなかったのが非常に悔やまれます。読者の方から写真提供の依頼があったためにお貸ししたところ、大変面白い動画を作っていただきました。佐久間レールパークで第二の人生を歩んでいたとは知りませんでした。張りぼてに興味が無かったので写真すら撮ってこなかったのですが、記録はやはりもれなくしておきたいですね。
2022.09.14
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八高線:キハ35系・キハ20系現在は、高麗川を境にして八王子方面が電化されてしまった八高線。旅客需要の少ない高崎方面は非電化のまま残っていますが、車両はキハ110系に統一されています。そんな八高線も、平成8年3月までは全線が非電化で、キハ30系が我が物顔で走っていました。昭和61年2月4日3両編成。キハ35+キハ35+キハ30です。昭和61年2月4日これもほぼ同じ場所で撮った写真だったと思いますが、当時は撮影区間を記録していなかったので、どの辺りか判りません。手前からキハ35+キハ30+キハ35900番台+キハ30ですね。900番台は好きな形式でしたが、なかなか先頭に立っている写真を撮ることが出来ませんでした。銀色時代に走行写真を撮りたかったんですけどね。昭和52年くらいから塗装化が始まってしまったようです。昭和61年10月9日 東飯能~高麗川間にて現在は電化区間となってしまった区間です。正面からの写真なので形式は判りませんが、手前はキハ30のようです。3両目はベンチレーターが押し込み形になっているので、寒冷地仕様の500番台であることが判ります。この500番台、まともに撮れた写真が無いようです。もっとも、当時はそのような形態差を知らなかったと思います。DD51を撮りに行っただけであり、キハ30系はあくまでもついででしかありませんでした。昭和63年12月6日 高崎線 倉賀野~新町間にて民営化後、高崎線への乗り入れ区間で、もちろん架線下を行く気動車となります。「オリエント急行」を撮影に行った際についでで撮影したもので、特に気にせずアルバムに貼ってあった写真なんですが、良く見たら2両目はキハ20でしたね。全然気が付いていませんでした。この時代は全国的にも北海道を除きキハ20系は絶滅状態にあったと思いますので、まさか首都圏に現役でいるとは思っていませんでした。三脚に据え付けていたので後追いを撮っていなかったのが悔やまれます。平成6年4月30日 丹荘駅にて平成6年4月30日 竹沢駅にて八高線の高麗川駅以南の電化開業及び高麗川駅以北のCTC自動閉塞化により、非電化区間におけるタブレットが廃止になることになりました。また、同時にキハ30系の撤退も発表されたため、それまでDD51牽引の貨物列車を撮影するついでにくらいしか撮ったことのないキハ30系の写真を撮りに出掛けました。以下は組み写真です。平成6年4月30日、明覚駅で定点で撮影したものです。まずは上り列車(画面右側)が到着して退避。そこへ下り列車(画面左側)が到着します。対向の先頭車は500番台ですね。上り列車から受け取ったタブレット(通票)を下り列車にもって行きます。上り列車からタブレットを受け取った下り列車はさっさと出発していなくなっています。そして、下り列車から受け取ったタブレットが、上り列車運転士へ手渡されます。タブレットを受け取った上り列車がやっと発車していきました。今となってはこんな非合理的な方法も、正面衝突を防止する画期的な列車防護方式でした。平成6年5月29日 越生~明覚間にて 4連で、先頭のキハ35は押し込み型ベンチレーターを装備した500番台となっています。八高線にD51が走った日。この場所の奥で線路内にジジィが乱入。大変な騒ぎとなり、永らくイベント列車の運転が無くなりました。当時はまだ電化の話など無く、相模線や八高線、房総ローカルなど、まだまだキハ35系の活躍の場があり、また、西日本のローカル線でも当たり前に使用されていた形式でした。全く珍しいと言う感覚がなく、あくまでもついででしか撮っていませんでした。もう少し形式写真も撮っておけば良かったと思います。
2022.09.18
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183系1000番台:特急「白根」吾妻線初の特急列車として運転を開始した特急「白根」。前回は『157系:特急「白根」』で157系時代をご紹介いたしましたが、車体の劣化の激しさから特急「とき」の181系を置き換える目的で登場した183系1000番台を田町電車区にも投入することになり、昭和50年12月から臨時特急であった「白根」も置き換えることになりました。昭和51年 上野駅にて183系1000番台に置き換わって間もない頃の「白根」。ヘッドマークが文字式の時代です。まだ鉄道の知識も浅い頃だったので、157系でなくなった「白根」は非常にショックな出来事でした。昭和55年冬 東京駅にて 「白根」回送特急「白根」は、157系時代から伝統で田町電車区の車両が使われており、東京~上野間の回送線を通って車両の送り込みが行われていました。写真は東京駅の11番線(機回し線)で、これから尾久客車区へ向かうところのようです。回送列車ですが、既に「白根」のマークが準備されており、もちろん53・10改正後ですので、白根山のお釜をデザインしたマークに変わっています。昭和57年11月13日 大宮駅にて確か、この日がダイヤ改正前の最終運転か、もしかしたら最終前日だったか・・・。157系でなくなったことからショックで写真はあまり撮っておらず、上越新幹線大宮暫定開業のために撮影に行った際、185系化される前にと撮影したもの。ホームには同様の輩が群がる様子が判ります。「白根」という愛称自体は上越新幹線の開業後も存置されたのですが、「白根」は急行「草津」の特急格上げも含めて定期列車となり、本数が増えました。しかし、全ての列車が185系200番台となったため、183系1000番台による運転は終了することになりました。
2022.11.11
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国鉄 165系:サハ164国鉄165系で随一の変形車であるサハ164。サハ164は、昭和41年、中央東線急行「アルプス」等の増発に対応するため、ビュフェ車サハシ165に代わる車両として2両のみが誕生いたしました。形態的には中間付随車のサハ165に似ていますが、車端に売店を設置し、さらに荷捌き用の扉を設置しているため、165系群の中では唯一の3ドア車となっているのが特徴です。中央東線の急行列車で活躍しましたが、最後までビュフェを営業していた中央東線では列車の統一性を欠くことなどから、新潟区のサハシ165と交換のため転出となり「佐渡」「よねやま」などに使用され、さらにサハシ165の運用離脱とともに活躍の場を失うと大垣区へ移動し、東海道本線の「東海」や間合いの普通列車としても利用されました。昭和52年頃 蕨~西川口間にて 急行「よねやま」に運用されるサハ164-2上野~直江津間を上越線経由で結ぶ急行「よねやま」は、上野~新潟間の急行「佐渡」と共通運用でした。サハ164はサハシ165と共通運用で、当時は13両編成の6号車に連結されていました。画像が荒れて見づらいですが、客窓を挟んで1対になっている扉が客用で、一番左端にある600mmの扉が荷捌き用のものとなります。遠くから見るとパッと見ではサハ165と区別が付き難いのですが、何とも個性的な窓ドア配置となっています。昭和54年3月 東京駅にて 急行「東海」に連結されたサハ164-2偶然にも同じ-2でした。記憶は定かではありませんが、大垣区の153系が撤退を始めた頃、165系で不足するサハを補うために連結し、東京へ姿を見せるようになったものと思われます。急行「東海」にも使用されましたが、間合いで運転される静岡行きの普通列車などにもそのまま運用されていたようです。たった2両のためあまり遭うことができず、写真はどうもコレだけしか見つからないようです。売店という画期的なアイディアだったにも拘わらず、その構想が少し早過ぎたために時代の波に乗れず、風潮が着いて来た頃には急行列車は衰退してしまいました。さらには、売店を設置したための定員減も災いし、結局は本来の用途の使用もされないまま地味で流転の一生を送り、昭和58年1月12日付で廃車、その一生を終えています。
2022.11.15
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165系:普通列車「夜まつり号」昭和55年代前半くらいまで、国鉄から秩父鉄道への乗り入れが盛んに行われていました。通常は「みつみね」や「ながとろ」といった115系による急行列車が一般的でしたが、日本三大美祭及び日本三大曳山祭とされる秩父夜祭のクライマックスとなる12月3日には、臨時普通列車の「夜まつり号」が運転されたことがありました。新前橋電車区の165系7連が使用されたと記憶しています。昭和54年12月3日 上野駅にて 「夜まつり号」リバーサルで暗いところでの撮影のため、残念ながらブレてしまっております。今は無き165系。しかも、グリーン車のサロ165です。この頃の定番ですが、何故か普通列車であるにも拘わらず、グリーン車込みの165系7連が使用されていました。当時、東北・高崎線における急行形車両で運用する普通列車では、既にグリーン車扱いは廃止されていましたので、ヘッドカバー無しの普通車扱いとなっていました。つまり、フルリクライニングで上野駅から秩父までゆったりと乗ることが出来たわけです。ただ、私の記憶では、殆どお客さんが乗っていなかったような・・・。そして1つの疑問。正式には「秩父夜祭」という祭名のようですが、この列車、「秩父」もついていなきゃ、「まつり」が平仮名なんですよね。「秩父夜祭」号で良いと思いますが。駅の表示看板には「夜祭り」と漢字表記になっており、さらに、サボには「号」まだ入っちゃってます。←普通、列車名表現には「号」は付かない。なんとも不揃いで間の抜けた感じもするわけですが、サボ、サロ165、そして板製の案内板と、どれをとっても昭和の匂いのする、懐かしい写真として残っていました。
2022.12.04
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101系1000番台:武蔵野線武蔵野線は、厳密に言いますと東海道本線の鶴見~府中本町~南浦和~新松戸~総武本線の西船橋までを結ぶ本線と、大宮操車場を結ぶ支線(西浦和及び武蔵浦和を結ぶ路線)、さらに南流山から北小金及び馬橋を結ぶ連絡路線、新小平から国立を結ぶ路線すべてを含んでいます。ただし、ここでは一般的には貨物専用線を含まない、府中本町~西船橋ということで整理しておきます。昭和48年4月1日、府中本町~新松戸間が開業しました。運転当初から接続駅を除き、自動改札が国鉄で初めて登場したことでも知られています。武蔵野線では、騒音防止のために「新秋津~新小平~西国分寺」間に設けられた長大な隧道(トンネル)を走らせるため、列車火災防止のための難燃化対策(A基準)を施した車輌を用意する必要がありました。それが101系1000番台で、全車とも改造により誕生しています。首都圏を走る101系の中では特異たる存在のため、武蔵野線の専用車輌ということができると思います。開業以来、その特殊性から長らく同系が頑張っておりましたが、寄る年並みには勝てず、103系や青梅・五日市線との共通運用の201系に後を譲り、引退しています。当時、あまり通勤型の写真は撮っていなかったので、残っている写真はほんのわずかですが、今日はその中から2枚をアップいたします。昭和56年5月 府中本町駅にて セミ判(6×4.5)の試運転のとき、南武線の撮影の帰り道に撮ったものです。そろそろ101系の存在が貴重になっていた頃なので、駅撮りではありますが取り敢えず撮っておいたのだと思います。セミ判でもあり2L判のプリントでも非常にシャープに写っていますので、返ってくたびれた前面の外板の状態がハッキリと写ってしまい、痛々しく感じます。昭和60年4月14日 南流山駅にて昭和60年につくばで開催された、科学技術博覧会の開催記念運転で運行される快速「奥久慈」号に使用されるC56160の回送を撮りに行ったときに撮影したものです。ある意味暇つぶしで撮ったようなものですが、武蔵野線の写真もほとんど撮ったことがありませんでしたので、貴重な写真になってしまいました。武蔵野線が開業した当初(府中本町~新松戸間)、電車が空いていたので良く往復して遊んでいました。今でこそ8分おき程度に運行されておりますが、開業当初は1時間20分も間隔の開く時間もあり、行った先からなかなか帰ってこれなくなることもありました。今となっては遠い思い出になってしまいました。
2023.04.24
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185系 OMC1編成:団体列車「上野運輸区乗務員・上野駅社員と行く185系回送ルートの旅」東日本に残存する国鉄特急形電車である185系編成のうち、C1編成は200番台風塗装となってレアな存在となっていますが、これがなかなか動いてくれません。185系 回送線・貨物線など周遊ツアーしかし、鉄道コムを見ていたところ、どうも団体列車で地元を走るらしい情報があったので、桜まつりの撤収作業(まだこれから咲くのに・・・)を終了した後、線路際へ行ってきました。※撮影は、令和6年3月31日です。185系 C1編成 9585M185系 C1編成 9586M団体名は「上野運輸区乗務員・上野駅社員と行く185系回送ルートの旅」というめちゃくちゃ長い困ったものです。経路は、上野(11:40頃発)~東北本線・東北回送線~尾久~東北本線・東北貨物線・東北回送線~東大宮操~東北回送線・東北貨物線~田端操~常磐貨物線・常磐線~金町~上野(15:30頃着)という感じで、まあ、乗り鉄には面白いコースかもしれません。当日は、午前中から宇都宮線の事故でダイヤが乱れており、しかも尾久車両センターに寄り道するコースのようなので、通過時間も良く分かりませんでした。結局は線路際に40分以上も待機する羽目に。帰路はスノ・ラビさんから大体の時間情報が入ったため、予定はしていなかったものの、もう1カット記録することができました。いつも思うのですが、せっかくヘッドマークがあるんですから、もうちっと活用して欲しいと思っているのは私だけではないと思います。
2024.04.01
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183系:特急「あやめ」「あやめ」は、昭和50年3月10日、成田線成田以東の全線電化により誕生した特急列車です。それまで、成田線の優等列車は急行「水郷」が気動車で運転されており、特急「あやめ」の誕生とともに電車化(153系・165系)されています。誕生当初から東京~鹿島神宮を結んでおり、4往復の設定となっていました。昭和57年11月のダイヤ改正からは、ペア設定されていた急行「鹿島」が廃止となり、格上げを合わせて1往復が増発、両国発着・新宿発着の列車が発生しています。昭和51年 錦糸町駅にておそらく、私が初めて撮影した特急「あやめ」。ポケットカメラで画像が悪かったため、モノクロ化しています。当初から「さざなみ」「わかしお」と共通の183系9連を使用していました。昭和52年 東京駅にて東京地下ホームにて、「わかしお」(手前)と並ぶ「あやめ」(奥)。当時はまだストロボが高価な機材であったため、地下駅のような暗いところで写真を撮ることは稀でした。一眼レフに変わり、スローシャッターの知識が付いてきた頃だと思います。昭和55年 佐倉駅にて53・10改正後ですので、ヘッドマークがイラスト化されています。本数が少なかったので、あまり写真を撮る機会がなく、たったコレだけでした。元々それほど需要のある線区ではなく、快速列車も走っており、とにかく乗車率の悪い特急列車でした。これは急行「鹿島」や「水郷」も例外ではありません。その後、鹿島線内の普通列車化、編成の短縮、さらには本数の削減と、衰退の一途です。183系1000番台の導入、E257系導入や派生名称の特急列車もあったりしましたが、定期としては平成27年3月ダイヤ改正により廃止となりました。
2024.06.08
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DD51牽引 旧型客車:快速「DL重連レトロみなかみ」高崎のEL・DLが営業運転終了へ「DL重連レトロみなかみ」は、関東ではなかなか見ることの出来ないDD51が、しかも重連で、さらに旧型客車を牽引と、話題性絶大な列車でした。当時としては単なるSL列車一辺倒から一歩はみ出した企画であり、これを撮らない訳にはいかんと思えるほど気合が入ったイベントだったのです。※撮影は、平成23年5月3日です。群馬総社~八木原間にてDD51842+DD51895が牽引する「DL重連レトロみなかみ」号。まずは無難な構図で。ヘッドマークは付いていません。この場所は20人くらいは居たようです。そして、渋川のバカ停を利用して追い越します。津久田~岩本間にて久し振りに来たので道を間違え、目的地に辿り着けず。比較的良いロケーションだったのですが、やや障害物があったり、編成が入らなかったり、痛し痒しでしょうか。しかも、引き過ぎて障害物衝突寸前の見られない構図になってしまいました。敷島~渋川間にて帰路は大正橋を狙ったのですが、黒山でした。50人は居たと思います。諦めて敷島方向へ。昔の記憶を頼りに、撮影地を探します。そして着いたのがここ、敷島~渋川のやや築堤。昔撮った場所とは違いますが、まあ、安直で無難といったところ。黄砂のお陰で非常に暗く、さらにポツポツと雨も降ってきました。渋川~八木原間にてお墓で撮ろうと思ったのですが、前にずかずかと邪魔者が2体乱入。仕方なく前へ出ると、菜の花畑発見。しかし、時間が無くなり、構図を選ぶ余裕が・・・何の脈略も無いような場所に居る邪魔者も居て、ポジションが決まりません。そうこうしているうちに来てしまいました。旧客を構図に入れようと粘っていたら、今度こそDDが電柱にぶつかってDDDになっちゃいました。(最初のDは電柱の意。)独身時代から結婚して初期くらいはしょっちゅう撮影に来ていましたが、20年近く来ない間にテツの様相が随分と変わってしまいました。クルマだらけで駐車スペースが無くなり、明らかなキャパオーバー。今で言うところのオーバーツーリズムですね。撮影地に集合するテツ達は巨大な三脚に脚立を持ち込み、まるでルール無用のクソ報道陣と同スタイル。どこに行っても昔には感じられなかった殺気にあふれ、とても同化する気にはなれず。その後、個人的には好きなC61が復活するも、こんな連中と写真を撮りたくないという気持ちになり、二度と訪れることは無くなりました。
2024.06.16
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14系寝台客車:寝台特急「北星」寝台特急「北星」については、20系時代の写真を過去ログ『20系寝台客車:寝台特急「北星」』でご紹介いたしましたが、今回は、昭和53年10月改正以降の14系化後の写真を、少ないですがご紹介したいと思います。昭和54年5月 蕨~西川口間にて20系客車から14系化された「北星」です。20系じゃなくなったことから興味が失せ、全く撮る気の無かったころなのですが、1枚だけ文字マーク時代の「北星」を撮っていました。35mm判リバーサルフィルムからスキャンしたものです。昭和57年5月 浦和~南浦和間にて EF651010牽引東北新幹線の大宮暫定開業を間近にした頃の「北星」。14系客車になった頃には、牽引機がEF651000番台になっていたのではないかと思います。ヘッドマークの付かない地味な編成だったので、やはり殆ど撮ったことがありませんでした。昭和57年11月6日 上野駅にてイラストマークがやっと板に付いてきましたが、廃止まであと1週間になってしまいました。既に東北新幹線は開業していますので、下車客も少なく静まり返ったホームは、ブルトレの衰退を見事なまでに表現しています。寂しいもんですね。昭和57年11月13日 上野駅にて 横サボ上野行最終日前日の「北星」のサボ。おそらく、噛り付いたガキ鉄を避けるために横サボだけ撮ったものと思われます。いよいよお別れです。昭和57年11月14日 上野駅にて 183系「とき」と並ぶ下り最終「北星」上越新幹線開業前の最終日、沢山の愛称が上野駅から去っていきました。この2つの列車もこの日限りでした。しかしこの人だかり、どうにかならないもんですかね。いつの時代も同じですね。昭和60年7月7日 東大宮操車場にてイベントの際に展示された1両のスハネフ14。幕は「北星」が用意されました。本体列車も旧客をEF8181やEF5889が牽引し、ロイヤルエンジンEF5861が撮影会に参加するなどレアなイベントでしたが、この「北星」も廃止されてから久しかったので、結構な人気が集まっていました。急行時代から「北陸」と同様の運命を辿ってきた「北星」でしたが、新幹線という競争相手の進捗の違いによって、相当な寿命差が生じることとなりました。
2023.01.25
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115系:身延線 ワインレッド色昭和56年、旧型国電にそろそろ全廃の足音が迫ってきた頃、先行で廃車となったサハ45を含む編成に変わって登場した、身延線専用の115系が走り始めました。この時点ではまだ2編成くらいしか運用に就いていなかったようで、撮影中もあまり見ることはありませんでしたし、元々新型車なんて撮る気も無かったのですが、1枚だけリバーサルのコマがありました。昭和56年7月2日 身延線 鰍沢口~落居間にて甲府を基点とする身延線らしく、車体はワインレッドを身にまとい、白帯は富士山の雪をイメージしたものでしょうか、山梨・静岡それぞれの地域を反映したカラーとなっています。導入当初は クモハ+モハ+クハ+クハ で、クハは背中合わせに連結するという珍しい組成が組まれました。これは、無人駅の多い身延線で車掌が集改札をしやすいように、編成中間に乗務員室を設ける措置だったと聞いています。その後、全国的な短編成化に伴うクハ捻出のため、中間のクハが抜かれて3両編成化されてしまいました。モハ114はパンタつきの車両ですが、トンネル断面の極端に低い同線を走らせるため、折り畳み高の低いパンタグラフを採用するとともに、パンタ部だけ少し低くした2600番代という新しい区分番代が発生しています。外観からは殆ど判らないんですが。同時に身延線専用のクモユニ143のワインレッドカラーが導入され、身延線で活躍するとともに、荷物扱い終了後は首都圏にも顔を見せ人気を博しました。これに比べると、115系のワインレッドカラーは比較的短い期間で標準化され、地味なうちに消滅してしまいました。
2023.09.10
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