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【参拝日:2021年(令和3年)4月24日(土)】 〈稲荷神社:埼玉県吉川市平沼53-6〉
2021年04月24日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月24日(土)】 吉川中央病院の隣にある神社 通学に使っていた小道にあります。 ※ 右側が小道 〈鷲神社:埼玉県吉川市平沼116-1〉
2021年04月24日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月24日(土)】 〈真言宗系単立 大聖山日蔵院:埼玉県吉川市保107〉
2021年04月24日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月24日(土)】 吉川郵便局の北側にある神社。 大好物の力石がありました。 ※ 力石 ※ 力石 ※ 水神宮 〈香取神社:埼玉県吉川市保1-34-6〉
2021年04月24日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 ※ ずっと探していた力石が、こんなところに ※ 力石っぽいんだけど ※ これも、力石っぽいんだけど ※ 社殿 〈増森神社:埼玉県越谷市増森1892〉
2021年04月09日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 ※ 力石 ※ 力石〈増林下組香取神社:埼玉県越谷市増林4232〉
2021年04月09日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 〈護郷神社(旧浅間神社):埼玉県越谷市増林3199〉
2021年04月09日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 〈水神宮:埼玉県越谷市東大沢3丁目 定使野公園〉
2021年04月09日
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【参拝日:2021年(令和3年)4月9日(金)】 ※ 本殿※ 力石ありました 〈弥十郎稲荷神社:埼玉県越谷市弥十郎441番地〉
2021年04月09日
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【参拝日:2017(平成29)年3月26日(日)】 〈真言宗智山派 延命寺:埼玉県吉川市1541〉
2021年03月26日
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【参拝日:2021(令和3)年3月20日(春分の日・土)】 〈大泊香取神社:埼玉県越谷市大泊19〉
2021年03月20日
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【参拝日:2021(令和3)年3月20日(春分の日・土)】 ※ 浄土宗 安国寺 〈浄土宗 安国寺:埼玉県越谷市大泊910〉
2021年03月20日
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【参拝日:2021(令和3)年2月11日(建国記念日・木)】 ちょっと寄ってみたら、建て替え中でした。 かえって貴重かも 〈曹洞宗 浄山寺:埼玉県越谷市野島32〉
2021年02月11日
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【参拝日:2021(令和3)年2月11日(建国記念日・木)】 ※ 野島久伊豆神社 〈野島久伊豆神社:埼玉県越谷市野島261〉
2021年02月11日
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【参拝日:2021(令和3)年2月3日(水)】 ※ 公式HPより 湯島天神は 雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)二月郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)十月に、太田道灌これを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。 その後、学者・文人の参拝もたえることなく続き、林道春・松永尺五・堀杏庵・僧堯恵・新井白石などの名が見える。将軍徳川綱吉公が湯島聖堂を昌平坂に移すにおよび、この地を久しく文教の中心としていよいよ湯島天満宮を崇敬したのである。 明治五年(1872)十月には郷社に列し、ついで同十八年(1885)八月府社に昇格した。 明治維新以前は、上野東叡山寛永寺が別当を兼ね、喜見院がその職に当った。 元禄十六年(1703)の火災で全焼したので、宝永元年(1704)将軍綱吉公は金五百両を寄進している。 明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年十二月、後世に残る総檜造りで造営された。 「天神信仰」とは、神さまとして崇められた菅原道真公の神霊に対する信仰をいいます。本来は、天神とはは地神(くにつかみ)に対する「あまつかみ」で、特定の神さまをさすものではありませんでしたが、菅原道真公が火雷天神と称され、雷神信仰と結びついたり、「天満大自在天神」の神号を賜わったことにより、菅公の神霊への信仰を、「天神信仰」と一般的に呼ぶようになりました。 菅公が、藤原時平の讒言により左遷された大宰府で亡くなった後、京都では、藤原時平を助けて菅公の左遷に努めたといわれる藤原菅根が落雷によって死去し、さらに日蝕・地震・彗星、落雷などの天変地異、干ばつ、洪水などの災害等による農作物の被害をはじめ、疫病などが次々に起きて、世の人々は不安になりました。 延長八年(930)には、宮中の清涼殿で雨乞いの協議をしているときに、にわかに黒雲がわいて落雷し、藤原清貫は死亡し、平希世は負傷するという事が起りました。その当時は、怨霊に対する御霊信仰や雷神信仰が盛んであったので、菅公の怨霊の仕業ではないかとのうわさが広まりました。 菅公の怒りが雷の形で現れると信じた人々の信仰は、藤原氏をはじめとする都の貴族たちには恐怖と畏怖の念でとらえられましたが、一般農民には水田耕作に必要な雨と水をもたらす雷神(天神)として、稲の実りを授ける神、めぐみの神となって、広く全国に崇敬されていったのです。 やがて、道真公の学問に対する偉大な事績やその人柄から、天神信仰は文道の大祖、文学・詩歌・書道・芸能の神、あるいは慈悲の神として崇められるようになりました。 そして、その天神信仰を中心に各地に天神講などが普及して、全国の津々浦々に、天神さま、天満宮として建立され、今の世に、学問の神・誠心の神として崇拝されています。撫で牛(手水舎横)※ 合格甘酒 〈湯島天満宮(湯島天神):東京都文京区湯島3-30-1〉
2021年02月03日
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【参拝日:2021(令和3)年2月3日(水)】 ※ 公式HPより 烏森の地は、古くこのあたりが武蔵の国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一体は松林であった。その為当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりである。明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。 平安時代の天慶3年(940年)に、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが、烏森稲荷の起こりである。 明暦の大火(世界三大大火の一つに数えられる俗名 振袖火事)が起こった際、江戸市中は焼け野原となり、もちろん当社の周辺も大方焼けてしまった。ところが烏森稲荷社だけは不思議にも類焼を免れたのである。これは神威の致すところと考えられ、以降当社に対する信仰は日に日に厚くなっていった。 また、椙森神社(日本橋)柳森神社(神田)と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されている。明治6年にはこれまでの烏森稲荷社の社名を烏森神社と改め、新橋烏森の守り神として多くの人々の信仰を得ている。昭和46年には御社殿を造営し現在に至っている。※ 社務所 〈烏森神社:東京都港区新橋2-15-5〉
2021年02月03日
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【参拝日:2021(令和3)年2月3日(水)】 ※ 公式HPより 1603年、慶長8年、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により防火の神様として祀られました。 慶長15年、庚戊本社をはじめ、末社仁王門、坂下総門、別当所等将軍家の寄進により、建立されました。祭礼などには下附金を賜るほど、当時の幕府の尊崇は篤いものでした。 その後江戸大火災で全焼してしまいましたが、明治10年、9月に本殿、幣殿拝殿、社務所の再建がなりました。 大正12年9月1日、関東大震災に、昭和20年5月24日帝都大空襲により太郎坊神社を残し社殿は焼失しましたが、昭和33年9月、氏子中の寄付により、御本殿、幣殿、拝殿などが再建され、現在に至ります。愛宕神社は、標高26メートルの愛宕山の山頂にあります。これは23区内で自然の地形としては一番高い山。春は桜、夏は鬱蒼と茂る樹木の涼と蝉時雨、秋は月と紅葉、冬は雪景色と四季折々の表情で、訪れる人の目を楽しませています。 オフィス街に位置することもあり、境内はお昼休み時は近隣で働く人々でにぎわいます。 都心の中にぽつりと残ったオアシス的な存在として人々の安らぎの場となっています。 〈愛宕神社:東京都港区愛宕1-5-3〉
2021年02月03日
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【参拝日:2021(令和3)年1月1日(金・元日)】 地元の鎮守様 今年は、新型コロナの影響で、おでんなどはなく、破魔矢をいただきました。〈増森神社:埼玉県越谷市増森1892〉
2021年01月01日
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【参拝日:2020(令和2)年12月30日(水)】 地元の神社。お正月の準備 ※ 榊〈新田神社:埼玉県越谷市増森〉
2020年12月30日
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【参拝日:2020(令和2)年12月30日(水)】 地元の神社。お正月の準備 〈雷電神社:埼玉県越谷市増森〉
2020年12月30日
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【参拝日:2020(令和2)年12月30日(水)】 地元の神社。お正月の準備 〈三峯神社・古峯神社:埼玉県越谷市増森〉
2020年12月30日
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【作業日:2020(令和2)年12月30日(水)】 地元の神社の世話人デビュー 鈴の緒に三色晒を交換しました。 ※ 力石のような、違うような 〈増森神社:埼玉県越谷市増森1892〉
2020年12月30日
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【参拝日:2020(令和2)年12月6日(日)】 〈愛宕神社:埼玉県さいたま市岩槻区本町3-21-25〉
2020年12月06日
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【参拝日:2020(令和2)年11月16日(月)】 ※ 公式HPより 鷲神社は天日鷲命(あめのひわしのみこと)日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした由緒正しい神社です。現在は「おとりさま」として一般にも親しまれ崇敬を集めており、また十一月の例祭も現在は「酉の市(とりのいち)」として広く知られています。 社伝によると天照大御神が天之岩戸にお隠れになり、天宇受売命が、岩戸の前で舞われた折、弦(げん)という楽器を司った神様がおられ、天手力男命が天之岩戸をお開きになった時、その弦の先に鷲がとまったので、神様達は世を明るくする瑞象を現した鳥だとお喜びになり、以後、この神様は鷲の一字を入れて鷲大明神、天日鷲命と称される様になりました。 天日鷲命は、諸国の土地を開き、開運、、殖産、商賣繁昌に御神徳の高い神様としてこの地にお祀りされました。 後に日本武尊が東夷征討の際、社に立ち寄られ戦勝を祈願し、志を遂げての帰途、社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月酉の日であったので、この日を鷲神社例祭日と定めたのが酉の祭、「酉の市」です。この故事により日本武尊が併せ祭られ、御祭神の一柱となりました。 江戸時代から鷲神社は、「鳥の社(とりのやしろ)」、また「御鳥(おとり)」といわれており、現在も鷲神社は「おとりさま」と一般に親しまれ崇敬を集めています。十一月の例祭も現在は「酉の市」と広く知られていますが、正しくは「酉の祭(トリノマチ)」と呼ばれた神祭の日です。※ なでおかめ〈鳳(おおとり)神社:東京都台東区千束3-18-7〉
2020年11月16日
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【参拝日:2020(令和2)年11月16日(月)】※ 公式HPより 江戸時代初期までこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していたが、明暦3年(1657)の大火後、幕府の命により、湿地の一部を埋立て、日本橋の吉原遊郭が移された。以来、昭和33年までの300年間に及ぶ遊郭街新吉原の歴史が始まり、とくに江戸時代にはさまざまな風俗・文化の源泉となった。 遊郭造成の際、池の一部は残り、いつしか池畔に弁天祠が祀られ、遊郭楼主たちの信仰をあつめたが、現在は浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参詣者が訪れている。 池は、花園池・弁天池の名で呼ばれたが、大正12年の関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したという悲劇が起こった。弁天祠付近の築山に建つ大きな観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立されたものである。昭和34年吉原電話局(現在の吉原ビル)の建設に伴う埋立工事のため、池はわずかにその名残を留めるのみとなった。〈吉原弁財天本宮/新吉原花園池(弁天池)跡:東京都台東区千束3-22〉
2020年11月16日
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【参拝日:2020(令和2)年11月16日(月)】 ※ 公式HPより 当社は吉原遊郭とともに歩んできた神社です。吉原遊郭は元和3年(1617)、幕府の許可を得て庄司甚右衛門が江戸市中に散在していた遊女屋を日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東隣(現在の日本橋人形町周辺)に集めたことにはじまります。この地には葦(よし)が生い茂っており、そこから「葦原」、転じて「吉原」と命名されました。しかし次第に吉原が江戸の中心地になってしまったため、明暦3年(1655)に現在地である千束村へ移転となりました。以後、日本橋葺屋町付近にあった頃の吉原を「元吉原」、移転後の吉原を「新吉原」といいます。 この「新吉原」には廓の守護神として五つの稲荷社が存在しました。吉原の入口である大門(おおもん)の手前に「玄徳(よしとく)稲荷社(吉徳稲荷社)」、さらに廓内の四隅には「榎本稲荷社」「明石稲荷社」「開運稲荷社」「九郎助稲荷社」がお祀りされていました。 その後明治5年に、これら五つの稲荷社が合祀され、総称して吉原神社と名付けられました。当初は玄徳稲荷社旧地にお祀りされていましたが、関東大震災にて焼失。震災後は水道尻付近の仮社殿にてお祀りしていましたが、昭和9年に現在地へ新社殿を造営、そのさい新吉原隣接の花園池に鎮座する吉原弁財天も合祀しました。その後昭和20年の東京大空襲で惜しくも焼失しますが、昭和43年に現社殿が造営されて現在に至ります。 〈吉原神社:東京都台東区千束3-20-2〉
2020年11月16日
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【参拝日:2020(令和2)年11月16日(月)】 ※ 公式HPより 富士信仰が最も盛んであった江戸時代、富士山参拝は江戸庶民にとって生涯の夢であった。しかし当時は交通事情も悪く、そうした中、富士山崇敬を目的とした「富士講」が結成され、全国各地に浅間神社の勧請が行われた。富士山山開きの6月1日(現在は7月1日)には、富士参りの出来ない人々が、各地元の浅間神社に参詣した。そうした富士山遙拝所として当社が創建された。 当初は、現蔵前の三好町に勧請・分祀(御神霊を頂くこと)され、その後幕府の命により昔は富士に似た森厳なる小丘であった現在地(浅草五丁目)に移されたとされている。 詳しい創建日は不明だが、当社本殿より発見された棟札によると元禄年間(1688~1703)の創建と推察されるが、元禄年間以前の「江戸絵図」にはその鳥居が描かれており、この辺をどう解釈するかが今後の課題である。 当社が再建されたとする江戸時代は神仏習合の時代であり、仏が神の姿をかりて世俗に現れるという権現思想の中、当時神社自体は富士権現として浅草寺子院 の修善寺が管理していた。その後明治維新の神仏分離の政策により修善寺の管轄を離れ、明治6年より浅草神社の兼務社として現在に至る。 明治11年に建てられた社殿は、先の東京大空襲で土蔵造りの本殿を残し全焼。その本殿の観音扉の内側には明治維新前後の作と思われる下り龍の漆喰彫刻が残っている。現在の社殿は平成10年に神社奉賛会その他篤信の方々の努力により再建されたもので、さらに平成14年4月には、石造りの玉垣が奉納され、完成した。〈浅草富士浅間神社:東京都台東区浅草5-3-2〉
2020年11月16日
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【参拝日:2020(令和2)年10月4日(日)】※ 三ノ宮卯之助の力石発見!〈飯塚神社:埼玉県さいたま市岩槻区飯塚1294〉
2020年10月04日
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【参拝日:2020(令和2)年10月4日(日)】〈富士浅間神社:埼玉県さいたま市岩槻区府内1-6-24 〉
2020年10月04日
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【参拝日:2020(令和2)年10月4日(日)】※ 公式HPより 岩槻城の総鎮守、江戸の鬼門除けとしても名高い由緒ある神社 埼玉県さいたま市岩槻区にある久伊豆神社は、地域の氏神さまとして心の故郷でありたいと考えております。 身近な神社として感じてもらえるように、一年を通して自由に参加できる行事が沢山ございます。また「クイズ神社」ともいわれ勝負運に強い神社としてウルトラクイズの予選会場にもなりました。 普段のお散歩や人生の節目に、どうぞ気軽にお立ち寄りください。※ 参道〈久伊豆神社:埼玉県さいたま市岩槻区宮町2-6-55〉
2020年10月04日
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【参拝日:2020(令和2)年9月27日(日)】〈上峰諏訪神社:埼玉県さいたま市中央区上峰2-3-7〉
2020年09月27日
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【参拝日:2020(令和2)年9月27日(日)】〈日枝神社:埼玉県さいたま市桜区大字大久保領家433〉
2020年09月27日
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【参拝日:2020(令和2)年9月27日(日)】※ 鐘を撞かせていただきました※ 春日氏一族の墓〈曹洞宗 大覚寺:埼玉県さいたま市桜区大字大久保領家363〉
2020年09月27日
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【参拝日:2020(令和2)年9月27日(日)】 舟和浦和工場のすぐ近くにあります。〈諏訪社:埼玉県さいたま市桜区下大久保1029 〉
2020年09月27日
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【参拝日:2020(令和2)年9月17日(木)】※ 公式HPより 松戸神社の境内には、末社と呼ぶには、とても立派な社殿を持つ秋葉神社があります。 ご祭神は『火之迦具土大神』(ひのかぐつちのおおかみ)は、火防・災害除けの神様として、古くから全国的に信仰を集めています。 毎年6月30日に、例祭を執り行います。例祭日前の週末には、町会のお神輿宮入りや、境内にて神賑行事が行われます。〈松葉神社:松戸神社境内 千葉県松戸市松戸1457)
2020年09月17日
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【参拝日:2020(令和2)年9月17日(木)】※ 公式HPより 御由緒 第12代景行天皇の皇子で、御名を小碓皇子(おうすのみこ)と申されました。 景行天皇の御代40(110)年、武蔵国へ向かわれる際に、当地にご陣営を設けて従将の吉備武彦(きびたけひこ)連と大伴武日(おおとものたけひ)連の 方々と待ち合わせたため、『待つ郷』(まつさと)=『待土』(まつど)と呼ばれ、『松戸』の地名が生まれたと云われています。 当社のご社殿は、寛永3年(1626)年の創建とされ、神仏習合思想の影響で、かつては御嶽大権現と称しました。 郷土の伝承には、水戸中納言光圀公の逸話が残っています。 光圀公が鷹狩でこの地を訪れた際に、当社の大銀杏に止まった白鳥へ鷹を放とうとしましたが、鷹は微動だにしない。 憤慨した光圀公は、弓で射ようとするも、弓手は動かなくなり弓も中心から折れてしまった。 愕然とした光圀公は、折れた弓矢を奉納し、御神前に鎮謝して帰ったと伝っています。 慶長期には、街道の宿場町『松戸宿』として賑わうなかで、水戸徳川家からも崇拝を受け、数多の奉納品(御神宝)が納められました。 それ以前の北条氏(小田原)、千葉家高城領主(下総)より納められた古文書等も宝蔵されたと伝わるも、元文4(1739)年の大火災により悉く焼失し、その後、再建されました。したがって本殿は約300年前の建築です。 明治15(1882)年には『松戸神社』へと改称するにあたって、有栖川宮幟仁親王殿下より社号の書の御染筆を賜りました。 明治39(1906)年には、神饌幣帛料を供進されました。 平成18(2006)年に、三笠宮崇仁親王殿下御参拝を賜り、境内は社務所前にて高野槇をお手植え頂きました。 平成22(2010)年には、当神社の氏子である山崎直子宇宙飛行士が、神幸祭・四神お守りを携えて宇宙へと飛び立ち、任務を達成し帰還されました。 〈松戸神社:千葉県松戸市松戸1457)
2020年09月17日
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【参拝日:2020(令和2)年9月17日(木)】※ 松戸神社公式HPより 御創祀は不詳であるが、明和二年(一七六七)六月豊日付けで、正一位松先宮田稲荷大明神と記された文書が残されており、里人が五穀豊穣、商売繁昌を祈願して、京都の旧官幣大社伏見稲荷大社の御分霊をお祀りした神社である。 伝承に、御本社伏見稲荷大社、祝融(火災)の災いに際し、真っ先に松戸宿宮田鎮座の稲荷神社が御祭神霊を奉献したので、松先稲荷神社と称するようになったと伝える。 現在の御社殿は、昭和五十七年(一九八二)に再建されたものである。※ 市公式HPより 稲荷社は、京都の伏見稲荷大社を勧請(かんじょう)したもので、昭和57年に再建されました。「松先」の名称の由来について、伏見行きの際、千住宿にて同じ目的で伏見へ行く草加の人々と同宿し、東海道、中山道に分かれて競争することになりました。着いてみると、松戸宿の氏子が1日早く勧請できたので、真っ先に勧請した稲荷で「まっさき稲荷」になったという説があります。(異説あり)※ 松先稲荷神社(宮田稲荷)〈松先稲荷神社(宮田稲荷):千葉県松戸市松戸1421〉
2020年09月17日
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【訪問日:2020(令和2)年9月17日(木)】※ 市観光協会公式HPより 市街地の中にある、標高28mの独立した山丘の山頂部に浅間神社があります。境内には富士塚があり、信仰の山として長い間保護されてきました。長い間保護されてきた結果、周囲には極相林が形成され、浅間神社の神域一帯はヤブニッケイがほぼ全域に高木として繁茂しており、タブノキ、ツバキ、ムクノキ等の原生林が残っています。 この極相林は、昭和41年に千葉県の天然記念物に指定されています。 ※ ご朱印はいただけませんでした。 〈浅間神社:千葉県松戸市小山664-1〉
2020年09月17日
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【訪問日:2020(令和2)年9月17日(木)】
2020年09月17日
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【参拝日 2020(令和2)年9月5日(土)】〈伊南理神社:埼玉県越谷市東町5-251 〉
2020年09月05日
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【参拝日 2020(令和2)年8月12日(水)】〈櫻木神社:千葉県野田市桜台210〉
2020年08月12日
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【参拝日 2020(令和2)年8月12日(水)】※ 公式HPより 当神社は、社記によれば平安朝の仁寿元年(西暦851年)に、大化の改新で活躍した大職冠藤原鎌足公五代の後胤で、冬嗣公三男の嗣良公が、この地に居を移した時、この処に桜の美しい大木があり、公がこれの木のもとに倉稲魂命を祀り、その後武甕槌命の神を祀ったのが始まりであると伝えています。 「倉稲魂命、当国野原ノ中ニ創建成リ、櫻乃木ノ元ヘ座ス、神武神人皇五拾五代文徳天皇御宇、仁寿元年初午ノ日稲荷大明神奉祀ス、此時櫻木ノ中ニ座ス、名津ケテ櫻木村ト号ス、後又人皇六拾六代一条天皇御宇、永祚元年壱拾弐月初午ノ日櫻乃木ノ元ヘ宮所建立ス、時ニ桜台ト号ス、此時野原開発ノ年ナリ」正暦三年(992年)「宮司家文書より」 その後、冬嗣公の八男良世公の孫にあたる藤原則忠氏(髙梨相模氏)が祭祀を継承したと伝えています。 現社家はその継承から28代目、初代から31代目に当たります。 現存する宮司家社家文書によれば、この地は古くには「桜木村」と呼ばれ、後に「桜台村」となり、桜が咲き誇る美しい里だったと考えられています。桜の宮と称へられている所以です。そして今もなお広大な御神徳により、広くこの地の開発の守護神として御神慮を示され、また野田市最古のお社としてその歴史を重ね、参詣する人みな朝に祈り、夕に感謝の誠を捧げてまいりました。※ 茅の輪くぐり※ 御神木 ※ トイレの中に川屋神社※ 桜台遺跡〈櫻木神社:千葉県野田市桜台210〉
2020年08月12日
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【参拝日 2020(令和2)年8月12日(水)】※ 市公式HPより 現在の社殿は、文化10年(1813)に再起工し、文政7年(1824)に再建されたといわれています。社殿様式は、入母屋造の三間社で木造銅瓦葺です。 愛宕神社本殿の彫刻は(匠の里)と呼ばれる花輪村(現在の群馬県みどり市)出身の二代目石原常八の作です。常八は、当時かなりの腕利きで、関東一円にその作品を残しています。意匠や技術に優れた江戸時代後期の典型的作品です。 平成16年に千葉県の「有形文化財」に指定されました。〈下総野田愛宕神社:千葉県野田市野田725〉
2020年08月12日
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【参拝日 2020(令和2)年7月14日(火)】※ 公式HPより 峯ヶ岡八幡神社は、平安時代、朱雀天皇の治世にあたる天慶年間(938~947)に清和源氏の祖、源経基の創建と伝えられ、かつては、足立郡谷古田領三十二ヶ村(川口市新郷、安行の一部、草加市の西部)総鎮守に列せられた由緒ある神社です。 約7700㎡の境内には、樹齢約700年の県内有数の大銀杏を初め400余本の樹木が繁茂しており、これらは「峯ヶ岡八幡神社の社叢」として、市の天然記念物に指定されています。峯ヶ岡八幡神社の祭神は、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇の三柱で、この三神は親子神である故、子供守護・家庭円満・安産等に御神徳があるといわれています。〈峯ヶ岡八幡神社:埼玉県川口市峯1304〉
2020年07月14日
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【参拝日 2020(令和2)年7月14日(火)】※ 公式HPより 五百五十余年の歴史と格式 文明元年(1469年)に中興された密蔵院は、正式名称を 「海寿山 満福寺 密蔵院」 とし、自然の息吹に溢れた川口市安行の緑の里にあり、550余年の歴史と、風格を醸し出しています。 御本尊は、平安時代藤原期に創られた地蔵菩薩像で、明治初期までは京都醍醐寺無量寿院の末として、本寺の寺格と御朱印十一石、四十四ヶ寺の末寺を有し、川口、浦和、草加、越谷、大宮などの各寺院に影響をもたらした川口市内有数の古刹です。 〈真言宗智山派 密蔵院:埼玉県川口市安行原2008〉
2020年07月14日
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【参拝日 2020(令和2)年7月14日(火)】※ 公式HPより主祭神 素盞鳴尊 (すさのおのみこと)合祀神 倉稲魂命・天照皇大御神・保食命・菅原道真公・大山祗命・伊弉諾命・伊弉冉命・日本武尊・大己貴命・市杵島姫命・木花咲耶姫命・少彦名命・大日孁貴命・彦火々出見命・応神天皇・猿田彦命 安行は、大宮合地の南端に位置する。地名の由来は、「昔、中田安斎入道安行と云うものが領せし地なるを以て、実名を取て名とすと云」(『新編武蔵風土記稿』)と伝え、中田安行は初期荘園開発当時のこの地の名主とみられている。 当地は、この現在名、安行内の旧原村で、徳川幕府の御料地となり、更に東叡山領(上野寛永寺)が置かれた。 大宮台地が舌状に突き出た先端部に鎮座しているのが当社である。特徹ある地形で、その昔、平将門がここに砦を築いたという伝承がある。 この丘を、地内の人々は古くから久保山と呼びならわしてきた。小字名の久保の由来は定かではないが、起伏の多い地形で窪地があるため起こった地名とも考えられる。 当社の創建は、旧別当蜜蔵院の中興である第一六世法院栄尊が享保年間(一七一六~三六)に、武蔵国一の宮氷川神社(大宮氷川大社)の分霊を勧請したと伝えるが、定かではない。当時この一帯は、正保(一六四四~四八)の改に次いで元禄八年(一六九五)にも検地が行われ、既に村として大きく発展しつつあった。 そこで、より一層の村の発展と平安を願い、国土開拓の神、作神として名高い氷川神が村鎮守として祀られたのであろう。江戸期の家数は化政期(一八〇四~三〇)には九八軒で、当時としてはかなり経済力を有していた地である。 当社の内陣には、本地仏として十一面観音像が祀られていたが、明治初年の神仏分離の後、この観音像は現存していない。 当社は、明治六年四月に村社に列格した。明治四十年六月には合祀政策により、字小清水の稲荷社、字市場の稲荷社、字根谷の稲荷社、字久保の神明社、字沖田の稲荷社、同境内社の天神社、大字北谷字東の村社稲荷社、同境内社の天神社、御嶽社、大字小山字流の村社氷川神社、同境内社の天神社、稲荷社、大字慈林字村中の村社氷川稲荷合社、同字稲荷木の稲荷社、大字藤八新田字道下の村社菅原社、同境内社の稲荷社、厳島社、同字の浅間社、大字花栗字流の村社稲荷社、同境内社の天神社、大字赤山領家字中道西の村社神明社、同境内社の淡島社・熊野社・敬愛神社・天満社・疱瘡社、大字吉蔵新田字中道東の村社八幡社、同境内社の御嶽社、菅原社、猿田彦社、同字稲荷社、大字苗塚字塚前の村社稲荷社の三十二社が当社に合祀された。そこで、各大字の村社が九社合併したことにより、社号を氷川社から現在の九重神社に改めた。 当社は、地内第一の神社として老若男女の崇敬厚く、人々の心の拠り所となってきた。特に戦時中には武運長久と出征兵士の無事が祈られた。しかし、大東亜戦争後の混乱期、浮浪者の為に昭和二十三年には社殿焼失の憂き目に遭ったが、氏子一同の敬神の念が結実して社殿が完成し、昭和二十六年十月十五日に竣工式を斎行した。〈九重神社:埼玉県川口市大字安行原2042〉
2020年07月14日
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【参拝日:2016年(平成28年)7月11日(月)】 ※ 公式HPより 1617年に浅草近くに創建されましたが、1657年の「明暦の大火」とよばれる大火事で焼失してしまいます。その後、再建のため江戸幕府から与えられた土地が現在の場所ですが、当時は海上でした。そこで海を埋め立てて土地を築き本堂を建立したことが「築地」という名称の由来になっています。また1923年には関東大震災に伴う火災により再度本堂を焼失しましたが、1934年に再建し現在の本堂の姿となりました。 現在の本堂は、東京帝国大学(現在の東京大学)名誉教授で建築史家の伊東忠太博士の設計によるものですが、建築研究のためアジア各国を旅した博士と、時を同じく、仏教伝来ルートを明らかにするために探検隊を結成し、シルクロードを旅した大谷光瑞(当時の浄土真宗本願寺派門主)との出会いが縁となっています。 築地本願寺の建物は、インド等アジアの古代仏教建築を模した外観や本堂入り口のステンドグラス、数多くの動物の彫刻などが特徴で、オリエンタルな雰囲気は、まさにシルクロードを伝わる仏教伝来のルーツを感じさせます。その一方で、内観においては僧侶のお勤めスペースよりも本堂内の参拝スペースの方が広く、中央正面に本尊阿弥陀如来が安置しているなど、伝統的な真宗寺院の造りとなっております。2011(平成23)年には本堂及び大谷石の石塀と三門門柱が国の重要文化財に指定されました。シルクロードを旅してきた伊東忠太博士でなければ作り上げることのできない、独特な仏教寺院をぜひお楽しみください。 ※ 浄土真宗本願寺派 築地本願寺 〈浄土真宗本願寺派 築地本願寺:東京都中央区築地3-15-1〉
2020年07月11日
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【参拝日:2017年(平成28年)7月11日(月)】 ※ 公式HPより 駒形堂は隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ。推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという。すなわち、浅草寺発祥の霊地に建つお堂である。駒形堂の名の由来については諸説あるが、浅草寺の一山寺院住職の故網野宥俊僧正は、「駒形堂の地が観世音菩薩上陸の地であることから、隅田川に棲む魚類に対する愛護の必要を感じ、生物の守護仏である馬頭観音を祀り、人びとが心願成就の御礼として馬形の作り物を奉納したことが名の由来ではないか」と推考している。 駒形堂は、天慶5年(942)に平公雅によって建立されたと伝えられる。江戸時代は駒形堂のすぐ前に船着き場があり、ここから上陸した人びとはまず駒形堂のご本尊を拝んでから浅草寺に参拝した。堂宇の正面ははじめ川側に向いていたが、時代とともに現在のように川を背にするようになった。現在の堂宇は平成15年(2003)に再建されたもの。縁日は毎月19日で、ご本尊が開扉されて法要が営まれる。特に4月19日には年一度の大祭が行なわれる。 ※ 浅草寺 駒形堂 〈浅草寺 駒形堂:東京都台東区雷門2-2-3〉
2020年07月11日
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【参拝日:2016年(平成28年)7月11日(月)】 ※ 浅草寺 〈浅草寺:東京都台東区浅草2-3-1〉
2020年07月11日
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【参拝日:2020(令和2)年3月21日(土)】 ※ 越谷市・越谷市観光協会「郷土越谷散策マップ」より 大松の清浄院は、栄広山浄土寺と号し、嘉暦元年(1326)7月に還化した賢真上人の開山と伝えられています。 古利根川の左岸は、中世末期までは下総国葛飾郡下川辺庄下方に属していました。この下川辺庄の勢力を持っていた大河戸氏の一族が、大河戸より分枝して左岸の大川戸より右岸へ移住し、この土地を開発して「新方」と呼び、新方氏を名乗るようになったと伝えられています。 この頃に(新方氏がこの地へ移住して間もない頃、1320年代頃)草庵が草創され、観応年代(1350~53)に寺院が建立され、新方氏一族の僧侶賢眞上人が開山となり清浄院が創建されたものと伝えられています。 出典:越谷市・越谷市観光協会「郷土越谷散策マップ」〈浄土宗 清浄院:埼玉県越谷市大松60〉
2020年03月21日
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