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真言宗高野山派の光明山遍照寺。寺の本体は区画整理で別のところに移転し、多宝塔と石碑が銀杏とともに取り残されてる。昭和50年の日付が入った看板には、多宝塔と石碑は将来、寺に移転する計画と書かれてるが、もう50年以上経ってる。解体を伴う大規模修理のときだろうか?
周辺に寺が複数あるし、隣にも真言宗の寺が残る。この辺りは寺町だったのだろう。今の駅前の交通量や駅の拠点性の低下からの結果論だけど区画整理は必要なかった。当時を否定しないが、閑散とした中心市街地を作った結果になった。寺町として残してた方が良かった。それにしても区画整理で霊園を移すことはありそうだけど寺を一部だけ移転とは…。
地図では古城山公園という城山まで歩いて行けそうな距離にある。途中に古い商家がところどころに残る。岡山藩六官道の一つ鴨方往来はここなのか?ちょっと前までは良い感じの街道の街並みが残ってたのだろう。
元々は瀬戸内海に浮かぶ小島だったのか。麓まではすぐだった。でも60メートルほどでも城山はやはり山。汗をかきつつ休みつつ、まぁ登ると言ってもアスファルトの車道。道から見える巨大な商業施設、マルナカの巨大な看板が中腹くらいの高さに見える。地方都市にありがちな縫製工場から駅前ニチイ、その後転々…今は取り壊し中、再生出来るかな。
能島村上水軍一族の居城らしい、城の名は笠岡城。江戸時代初めに高梁城への移転により廃城。明治の埋め立ての土砂採取で遺構ごと削り取られたようである。
削り残された山頂に登る。今の瀬戸内海ははるか向こう。もう水軍としての監視には向かないな。笠岡の交通の要衝としての発展もはるか彼方へ。目の前には笠岡湾干拓地が広がる。戦後食糧増産を目指して始まったが、完成は平成初めという目的を失ったけど止められない公共事業の典型。米作目的から牧草地、野菜や花卉に転換。名目はともかく市としては離島を陸続きにしたかった裏の目的は果たせた。
展望台には干拓事業の説明が。干拓した海面面積は善通寺市の半分近くになる18.1平方キロ。農業用地11.9平方キロ、工業用地4.6平方キロ。干拓面積との差は堤防になったり、水路などに残されたようだ。
西に見える煙突は日本鋼管?笠岡市と福山市は県は異なるが、福山城の水野氏時代には笠岡は福山藩領、明治初期には福山町と笠岡村は小田県に属してた。その後小田県の岡山県併合、備後領の広島県への分割併合など土地は繋がってるし歴史も経済圏というか生活圏も重なってる。日本鋼管は JFEスチールに会社名が変わったが両市ともに鋼管町という町名が残るし、病院名は日本鋼管のまま。

暑かったので町の探索はあきらめ白桃アイスバーを食べ倉敷駅まで戻る。倉敷の街は平日でも賑やか。
個人的な希望としては、柳を育てること(笑)。古い民家は出来るだけ再生利用し、新しい建物も調和する造りに修景して駅からの周遊ルートをもっと整えて欲しい。倉敷考古館は500円かかるのに意外に親子連れや若いカップルが多い。
前回重文と覚知してなかった滋賀県出土の個人蔵流水文銅鐸を見てちゃんとカウント。弥生中期。
その後大原美術館へ。特別展「倉敷大原家と中国絵画」の終盤。
大原家所有の岡山県立美術館に収蔵されてる浦上玉堂の重文 山雨染衣図を見る。玉堂は鴨方藩士で岡山県立美術館が建ってる藩邸で産まれたとされる。画業での活躍は脱藩した後、江戸時代も後期になった頃。
国宝 宮女図の展示がまだあった。ここで判明!私は官女図と信じてて、前回そう書いたが改めて目録見て、記憶違いか見間違いだったのかと宮女図に訂正の旨を書いた。でも事実は国宝指定は宮女図だけど、足利将軍家の東山御物『御物御画目録』では「官女図 舜挙」、昔も見間違えた人がいたらしく江戸後半頃までに宮女図が定着したらしい。ついでに言うと指定名 絹本著色宮女図(伝桓野王図)。この伝桓野王図が定着したのは明治頃からだけのようだ。
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