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29日の手術は思った以上に簡単だった。30日の視力検査でも問題なし手術した左目は右目より明るくなりハッキリと見える。運転も楽々、スマホも楽々、言うことなし!なのだが術後1週間は●洗顔・洗髪禁止、これは濡れタオルで拭けば済むから問題ない●1週間の禁酒は、体調が良くなるのではないかと期待している、現に夜間のトイレが1回だけになった。●コーヒーは禁止ではなく控えめにだから 1日一杯でガマンしている問題は3種類の目薬を3時間置きに点眼することこれがタイヘンなのだ点眼そのものは簡単だが、3時間置きというのが私には憂鬱の種。カレンダーに点眼時間を書き込んで点眼したら○で記録する昨日までは なんとかやれたが今朝は7時が7時半になってしまった。3時間置きということは出かけても すぐに帰って来なくてはならない。3時間なんてすぐにたってしまう。今日が終わっても あと3日、ストレスがぁ、、、、
2026/07/02
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昨日、朝早くかみさんと新幹線で新岩国に向かった。新岩国からはレンタカー広島で落ち合った妹と弟も同乗。1年近く放置した実家での法事は諦めてお寺で執り行った。1時に始まって3時に終わって実家に戻り墓参り。留守宅管理にお世話になっているお宅に挨拶。3時には新岩国駅に向かって出発、4時過ぎの「こだま」で広島、そこから「のぞみ」で名古屋、そして岡崎。8時に帰宅した。1泊もしない帰省は初めて。こんなキツイ日程としたのはタイガのためあてにしていた次女の都合がつかなくなって動物病院に無理を言って預かってもらったから金曜夜連れて行き2泊して今朝早く迎えに行った。実家でやっていた食堂のメニュー何年前までやっていたのだろうか
2026/07/26
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古文書の勉強に役立てようとネットで「三體千字文」を買った。せんじもんせんじもんでは変換出来ず「せんじぶん」で出来たけど「せんじもん」が正解。なのだ!年代物の古本で昭和63年発行。天地玄黄 宇宙洪荒 日月盈昃 辰宿列張頭の柔らかかった頃 何でも手当たり次第覚えたが 当時も今も書けはしない。楷書→行書→草書の変化を見たくて買ったのだ。そもそも日本への漢字は百済から伝わったのである。井上「三體千字文」によると「日本書紀・応神紀によれば、応神天皇の16年(285年)に、百済の王仁(わに)が来朝して論語10巻と千字文1巻を伝えるとあるが」天地玄黄 で始まる千字文は粱の武帝(在位502-549)が周興嗣に作らせたものである。これより以前、魏(220-265年)の鐘ヨウの別種のものがある。王仁のもたらした千字文は、魏の鐘ヨウの千字文とするのが通説である。鐘ヨウの千字文は「二儀日月 雲露厳霜」で始まる。面白いもので漢字を捨てた韓国で最近、千字文の石碑を作ったらしい。中央日報の記事はここなお常用漢字は2136字ある。ここそして日本の小学生が6年間に習う漢字は1026文字ここ千字文に出ていない文字も多い。どだい千字文を読めたからといって新聞もまともに読めない。一度捨てたものを元に戻すのは難しい。日韓の間も、ここまで壊れたら修復は望めないだろう。覆水盆に還らず
2019/08/12
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手術はわずか20分ほどでおわったのだが1週間は毎日3時間置き6回、目薬をさすこと1週間は禁酒、節珈琲1週間は洗顔、洗髪禁止1週間は重いものを持つな1週間は汗をかく運動禁止根が臆病従順な爺ィは きっちり守った。ようやく1週間が経ち酒はもう1日 明日の晩まで、 お預け。今夜の風呂では思い切り 洗顔、洗髪、久しぶりにスッキリした。明日から月内は1週間1回の診察と毎日の点眼。来月からは月1回の診察を1年間。なかなか大変なのだ。タイガはすっかり元気になった。快食快便快眠 体重も元に戻った。
2026/07/05
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東京都、猛暑で男性のハーフパンツ勤務を推奨 女性からは「スネハラ」との声も (BBC News Japan)スネハラ?拗ねるってことか記事をGeminiに要約してもらった。「猛暑対策として東京都が「東京クールビズ」を提唱し、男性のハーフパンツ勤務を推奨したことで、職場で足の露出が増加した。これに伴い、男性のすね毛を見せられることに不快感を抱く人が現れ、ネット上では「スネハラ(すね毛ハラスメント)」と呼ばれ賛否両論を呼んでいる。都の担当者は、マナーを守り他人に失礼がなければ服装は自由という立場を示すが、周囲を不快にさせない身だしなみ(社会的マナー)として医療脱毛に通う男性が増加。女性の服装制限との不公平感も指摘される中、ハーフパンツ着用における新たなマナーや身だしなみへの配慮が課題となっている。」記事に添付されてた写真確かにラフすぎると思うなあスネに濃い毛があったりしたら少々キモいかもハーフパンツ履く前に処理したほうがいいかな。そこ行くとジジの足にはいっさいスネ毛がない。若い頃は 引け目に感じていた薄毛1周回って今では時代の最先端を行くことになったかもしれない。「人間万事塞翁が馬」って このことかも。
2026/07/24
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79歳 最後の日。左目白内障の手術をした。朝10時から病室に入り、30分起きの点眼、午後1時、手術室、目を瞑らないよう固定して、手術が始まった。明るい光を見つめているうちに終わった。病室を出て戻るまで20分。眼帯を取り替えるとき、左目のかすみが取れていることがわかった、瞳孔を開いているせいもあるが、めちゃ明るい4時 かみさんに迎えに来てもらった。今夜から1週間、顔を洗ってはいけない、簡単酒を飲んではいけない、大変!明日から1週間に4回も通院。大変だなあ庭のキュウリの側に「アマガエル」を見つけた。キュウリの葉っぱの色になっている。
2026/06/29
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昼過ぎまて晴れて暑かったのに午後3時前から曇におおわれた。お天気レーダーによればかなりの雨になりそう開いているまどを閉め終わると同時に雨が降り出した。すぐに雷を伴った強い雨になった。玄関から外をうかがうピカリ稲光 すぐにガラガラ ズダン久しぶりに味わう雷風が吹くほんの30分か40分で雨はあがった。これは「夕立」だったのだろうか外に出ると涼しいまだパラパラと小雨が降る中を傘さして散歩。遠くて定かではないが新幹線のガードあたりでパトカーが警戒しているようだ。冠水しているのだろう。2500歩で家に帰る。クーラーを切り 窓を開けて風を通した。室内の湿度が上がった。やはりクーラーなしでは無理かな。
2026/07/28
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京都市左京区一乗寺にある「詩仙堂」江戸時代初期の文人・石川丈山が晩年を過ごした山荘庭園で「鹿(しし)威し」発祥の地。大学1年生のころ、近くの岩倉に下宿していたので 何度か訪ねたことがある。その石川丈山が生まれ育ったのが三河国和泉(愛知県安城市和泉町)丈山没後350年を経ても地元の人々に愛され続けており、詩仙堂を模した丈山苑と言う庭園がある、丈山苑今、安城市歴史博物館では「丈山展」を開催中5月2日、車で出かけてみた。数々の書画を見てきた中で印象深かったのは富岡鉄斎鉄斎の描いた丈山像 賛も鉄斎によるこの画像丈山像は狩野探幽画 丈山本人の賛 を模しているそうだ。例によって「鉄斎 賛」の書き起こしをやってみたくなった。古文書解読アプリ「ふみのは」では歯が立たなかった。「ふみのは」は漢文に弱いようだ。「Googleレンズ」に漢文の部分だけ読ませた『石り山健原名重之飛泰信岡後及名凹字丸山隔六・人参州人住東聖公浪華風戰先登交瑰乾表作:某及從者变省後每去肥逊打收束一乗寺築詩仙堂二十三汽車年九十的是陈现存至今』ここまで読めれば あとは「ウィキ」の丈山の経歴と照らし合わせて『石川丈山姓源名重之始嘉右衛門後内名凹字丈山號六々山人参州人仕東照公浪華岡山戰先登交鎗斃敵作ニ某及從者獲首後辞去肥避打洛東一乗寺築詩仙堂巧語能書実曉世之隠士也寛文壬子夏五月二十三日沒享年九十歳遺跡現存至今』この漢文をGeminiに書き下し文にしてもらった『石川丈山、姓は源(みなもと)、名は重之。始めは嘉右衛門、後に内名(うちな)を凹(おう)とし、字(あざな)は丈山、六々山人と号す。参州(さんしゅう)の人なり。東照公に仕ふ。浪華(なにわ)・岡山の戦いに、先登(せんとう)して鎗を交へ、敵を斃(たお)し、某(ぼう)及び従者の首を獲(う)る。後に辞し去り、洛東(らくとう)一乗寺に肥避(ひひ)し、詩仙堂(しせんどう)を築く。巧語(こうご)にして書(しょ)を能(よ)くし、実に世の隠士なり。寛文(かんぶん)壬子(じんし)夏五月二十三日没す。享年九十歳。遺跡(いせき)現存して今に至る。』続いてかな文字部分こちらは「ふみのは」に任せた。渡して則見川水浦仕へ上た小の波たつかけ候し村山年中後水尾天気南あて御坐候召たまふニ辞して奉承た也彼なりと彼き欲と雖賞をにさて????さっぱりわからんでも後水尾天気は後水尾天皇だろうそこで 「石川丈山 後水尾天皇 関係」をキーとしてGoogle検索したら『『続近世畸人伝』によると、上皇の「お召し」があったが、「渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波にも濡れやしつべき」という、老いを理由に参内を辞退する和歌を返したエピソードが有名。』と出てきた!続いて『続近世畸人伝 石川丈山 後水尾天皇』をGoogle検索したら「国際文化研究センター」の石川丈山がヒットした。これは続近世畸人伝第一巻冒頭「石川丈山」のほぼそのままみたいだ。読んでみると先程の鉄斎かな文字部分が これを模したことがわかる。だから、渡らじな瀬見の小川の浅くとも老の波たつかげははずかし丈山後水尾天皇勅ありて翁を召たまふニ辞して奉れる也波たつを波そふと雌黄をなし 賜わりしとぞ前出の漢文と このかな文字を合わせてGeminiに現代語訳を依頼した。[現代語訳]石川丈山は、姓は源、名は重之、通称を嘉右衛門といい、のちに凹、字、丈山、六々山人と名乗りました。三河国の人で、徳川家康公に仕えました。大坂夏の戦において先陣を切って敵某及び従者二人の首級を挙げました。しかし家康公の命(抜け駆け禁止)に背いたとして官職を辞し、京都に隠棲しました。のちに京都の一乗寺の地に「詩仙堂」を築きました。そこには、中国の優れた詩人三十六人の肖像を掲げ、自らも詩歌に耽り、清貧な生活を楽しみました。丈山は巧みな詩文を綴り、書道にも通じ、まさに世の真理を深く悟った、本物の隠者でありました。寛文12年(1672年)5月23日に没しました。享年90歳。その高潔な足跡は、今もなお人々に語り継がれています。なんとまあ 八十歳のジジィが スマホだけを頼りに富岡鉄斎の難解な書を解読出来てしまった。すごい武器を手に入れた心地!ついでに狩野探幽画 石川丈山賛の「石川丈山像」も解読してみた。こちらはGoogleレンズとGeminiだけに頼った。レンズで読み取った文に手を入れた加賣隱几招禍忌巾 黙上霄貌昭上精魂交游造物涵籠道真 八秩滙走三陽逸民逸民謂誰六々山人盲書これをGeminiに添削依頼したら[ ]の文字が直された加[帽]隱几招[提]忌巾[点]上霄貌昭上精魂交游造物涵[養]道真八秩[矯]走三陽逸民逸民謂誰六々山人盲書Geminiが要約してくれた。帽子を被り、机に寄りかかり、隠遁の身で静かに暮らしている。探幽がその姿を描き出し、私の精神をここにはっきりと映し出した。私は万物の創造主(自然)と遊び、真理を心に養っている。八十歳になっても健やかに過ごす、この三陽の隠者は一体誰か。それは、この「六々山人(丈山の別号)」である。(目がかすむなか書いた)盲書である。丈山が80歳のときに、自身の肖像画に寄せた自嘲気味ながらも誇り高い言葉です。お手元の資料と照らし合わせてみてください。
2026/05/05
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中日新聞社西三河版1936年生まれだと私より10歳年上。第一回横溝正史賞は1981年、37年前のことこの本は、今では手に入りそうもない。オプジーボの驚異的な効果はたくさんのガン患者を救っている。非常に高い薬だと話題になったが、薬価基準見直しによりかなり値下げされている。当初、100mgl 72万円だったのが17年36.5万円になり今年はさらに32万円になる見込み16年オプジーボ記事http://answers.ten-navi.com/pharmanews/8141/18年オプジーボ記事http://answers.ten-navi.com/pharmanews/13115/
2018/03/06
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タラコでカラスミ(もどき)を作りはじめて2週間。最初に干し始めたタラコは試食で半分、そして今日残り半分も消えた。今思えば1回目の試食の時すでに干し過ぎだったようだ。追加したタラコを完成品として今日ラップして冷蔵庫に保存。1本だけスライスして試食薄切り大根にくるんで酒の肴。悪くはない悪くはないのだがさほどうまいものではない以前食べたのが あまりに昔のことだったからカラスミって、どんな味だったか覚えていない。まあ こんなものだとしておこう。
2022/12/26
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爺仲間のモーニングコーヒーの帰り、ロースカツを買ってきた。冷凍したご飯をチン、キャベツの千切りの上にカツ。ウスターソースにケチャップを加え甘味つけに「おたふくお好み焼きソース」。味はバッチリ垣根の芍薬が満開良い日だなあ!
2023/05/09
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予約していたエッセイ集がようやく手に入ったら、どの文を読みたかったのかわからなくなった話を書いた。←ここ作者 浅田次郎は嫌いではないが余り著書を買ったことはない。図書館の小説棚の一番手前を占領しているので手に取ることは多い。わたしの本棚にずっと積まれたままの本内容が重すぎる予感で数年来放置状態。そんなことだけど、エッセイ集は別。あちらを読み、こちらを読みしたが結局、どうしてこの本を予約したのかイマイチぴんとこない。ぴんとこないが惹き付けられる一文があった。それは「理不尽について」という題だった。どんな内容か要約して投稿しようかと思ったのだが、下手に要約しては伝わらない。著作権法に触れるのを覚悟で無断で全文掲載することにした。 浅川次郎著『勇気凛凛ルリの色』講談社文庫より「理不尽について」殿下は馬がお好きだった。だから毎朝、広島市の郊外にある仮御殿を騎馬でお出ましになり、市内を南から北に縦断するようにして、山陽本線の駅近くにある軍司令部に通われた。その朝も同じだった。忠実なお付武官のY中佐が、今日はたいそう日ざしが強いのでお車をお使い下さい、と勤めるのを笑って退けられ、おまえは一足先に車で行け、とおっしゃられた。Y中佐はそうした殿下を、深く尊敬していた。うだるような暑さと不利な戦況の中で、日本の軍人たちはみなうんざりしているというのに、朝鮮王族である殿下はいつも馬上に凛と軍服の背を伸ばして、軍司令部との長い道のりを往還なされる。しかもお付のY中佐にはご自分の乗用車を使用させるのである。Y中佐が長靴も履けぬほどのひどい水虫に苦しんでいることを、殿下はご存じだった。ではお先に、と車で御殿を出るとき、Y中佐は遠ざかる殿下に敬礼しながら、いつも胸がいっぱいになるのだった。殿下はY中佐が車窓から体を引っこめるまで、馬上の答礼の手をおろそうとはなさらなかった。おそらく、それが士官学校の先輩に対する当然の礼儀であると、殿下はお考えになっているのだろう。口にこそ出さないが、Y中佐は理不尽を感じている。明治四十三年の日韓併合によって、朝鮮の李王家は日本の皇族として礼遇されることになった。それから四十年ちかくの歳月が経つから、お若い殿下は日本の皇族としてお生れになり、学習院と士官学校に学ばれ、帝国軍人としての人生をお過ごしになっている。歴史の必然と言ってしまえばそれまでだが、はたして当の殿下は、自分の感じているような理不尽をお感じにはなられないのであろうか、と中佐は思う。理不尽とは、道理を尽くさないで無理無体に押しつけることである。ならばこれ以上の理不尽はなかろう、と中佐はひそかに考えている。殿下の任務は、来たるべき本土決戦に備えて西日本の防衛を担当する、第二総軍の教育参謀である。沖縄を陥(お)とした米軍が、遠からず九州に上陸してくるであろうことはほぽまちがいないから、最高指揮所の参謀として、殿下の任務は極めて重大である。それぐらい殿下は、有能な軍人であらせられる。理不尽だとY中佐は再び思う。大東亜戦争は日本が世界を相手にした戦である。しかし殿下が世界を敵に回す理由は、何ひとつないと思う。自分は何度死んでも良い。だが殿下をこの戦で殺してはならないと、Y中佐は心に誓っていた。Y中佐が一足先に軍司令部に到着したころ、殿下の馬は二人の護衛憲兵を従えて、ちょうど市の中央部にあたる福屋デパートの前を通過していた。夏空に爆音が聴こえた。殿下は略帽に手庇(てひさし)をかかげて天を仰がれた。警報は発令されておらず、広島はそれまでにもほとんど空襲を受けてはいなかった。単機のB29は偵察飛行にちがいない。再び馬を歩ませたとたん、殿下はすさまじい光に捉われた。背中に熱鉄が巻きついたような気がし、馬もろともに車道の中ほどまではじき飛ばされた。真黒な煙の中で、殿下は気丈にも焼けただれた背を起こした。そのとき殿下は、わずか数百メートル先の爆心から、天に向かって魔王のように立ち上がる巨大な柱を、確かにご覧になった。軍服は破れくすぶり、参謀懸章は炎を上げて燃えていた。それでも殿下は、軍刀を抜き、長靴を曳いて、目前にそそり立つ理不尽の柱に向かって歩いた。爆心地から離れた軍司令部でも、四百余名の出勤者のうち百名が即死した。瓦礫の中からはい出したY中佐は、大声で泣きながら殿下の姿を求めて市内を走り回った。軍司令官や参謀長の消息も、家族のことも、爆死を免れた軍人としてやらねばならぬことも、何も思いうかばなかった。ただ、あの人だけは殺してはならないと、そればかりを考えていた。殿下は相生橋の橋脚の下に蹲(うずくま)っておられた。煮えたぎる川面をじっと見つめながら、殿下はそのとき何を考えていらしたのだろう。生きてはおられたが、お体は真黒に焼けていた。宇品の船舶司令部の舟艇が、蹲る殿下と、そのかたわらでなすすべもなく号泣する侍従武官とを発見した。舟はただちに二人を収容し、似島(にのしま)の海軍病院に向かった。背中一面に火傷を負われていた殿下は、ベッドにうつ伏せて手当てを受けた。痛みも苦しみも訴えようとはなされず、徹夜で看護をするY中佐に、大丈夫だから休めと仰せられた。自分の傷は浅いから、と中佐が言うと、殿下は声に出されずに、黙って足元を指さされた。おまえはひどい水虫だから、立っているのは辛かろうと、殿下は仰せられたのだった。子供のように泣きじゃくりながら、中佐は理不尽だと思った。理不尽とは、道理を尽くさず無理無体に押しつけることだ。殿下はよその国の軍服を押しつけられ、今またよその国に原子爆弾を押しつけられた。道理もくそもあるものか、と中佐は泣いた。殿下は昭和二十年八月七日払暁、薨去された。最期を看取った中佐はその直後、病室の前の芝生に正座し、働哭しつつピストルで自らのこめかみを撃ち抜いた。―-これは物語ではない。原爆の犠牲になられた旧朝鮮王族のお名前は李鍝殿下といい、自決したお付武官は吉成弘中佐という。多少の想像を加えてはいるが、まぎれもない事実である。想像を加えなければならなかった理由は、それぐらいこの出来事が歴史の中に埋もれてしまっているからである。私の蔵書のうち、はぼ三分の一は戦史と軍事関係の書物であるにも拘らず、思い立ってこのことを書こうと思ったら、記述はわずか一冊しか発見できなかった。だからたいへん不謹慎な話ではあるが「李鍝」というお名前にどういうふりがなを振っていいのかもわからない。それでも私は、夏の去らぬうちに書いておかねばならないと思った。この事件が歴史もれてしまうこと自体、理不尽だと感じたからである。戦後五十年を迎えた今年、話題と論議はほぼ二つに集約されたと思う。ひとつはスミソニあんの原爆展騒動とフランスの核実験に伴う、原爆の回顧である。もうひとつは、韓国の従軍慰安婦問題を初めとする、戦時賠償についてである。一見してこの二つは別問題のように思えるのだが、実は不可分の事実であることを、李鍝殿下はわれわれに教えてくれる。われわれは議論をしなければならない。しかし自己の正当性ばかりを主張する議論は無意味である。要するに、毎度口をすべらせる日本の政治家は、誰ひとりとして李鍝殿下の理不尽な死を知らない。原爆投下を正当な行為であったと主張し続けるアメリカ人も、その死を知らない。そして、もちろん一方的な被害者である韓国国民には、理不尽に殉じた日本軍人がいたことを、知って欲しいと思う。戦後五十年という節目の持つ大命題は、不戦の誓いである。謝ることや責めることや、言いわけや開き直りや、そういうレベルの論議よりも、もっと節目にふさわしい国家間のシンポジウムが「理不尽とは、道理を尽くさないで無理無体に押しつけることである。」。爆心地の橋脚の下でじっと蹲(うずくま)っていたという異国の王子は、そのときいったい何を考えていたのであろうか。よその国の軍服を着、よその国の落とした爆弾の熱にその背中を焼きながら。李鍝公の遺骸はただちに妃殿下の待つ京城の自邸に空輸されたという。だがおそらく、その魂魄は祖国に帰ってはおるまい。人類が核兵器の愚かしさを知り、真の不戦を誓うその日まで、彼はたぶん相生橋の橋脚の下で理不尽の炎に背を焼きながら、今もじっと蹲っているにちがいない。「李鍝(いう)殿下」 李鍝(いう)殿下は、朝鮮王家最後の皇太子、李垠(いうん)殿下の甥にあたります。1922年(大正11年)に来日し、軍人としての教育を受けました。被爆当時、第二総軍教育参謀中佐であった李殿下は、馬で出勤途中に被爆しました。西方に逃がれましたが、本川橋西詰で力尽きました。うずくまっているところを発見され、宇品の凱旋館に収容、似島(にのしま)へ転送されますが、翌7日に亡なくなりました。 李鍝(いう)殿下でんかの遺体は、総軍の飛行機で、現在のソウルの自宅へ運ばれました。(広島平和記念資料館資料より)作者が何度も繰り返している「理不尽とは、道理を尽くさないで無理無体に押しつけることである。」という言葉が重い。実は昨夕岡崎にやって来た天安のNさんにこの文を読んで感想をくれろとLINEで送った。今朝、東京への新幹線の中で読んでくれているだろう。韓国併合は日本側にいかなる正当な理由があっても、「道理を尽くさないで無理無体に押し付けた」ことは紛れもない事実なのだ。その後のすべてのネジレは、そこから始まっていると私は思う。
2024/03/23
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親父が あれこれためらっているうちに 3女は 7月に続き またまたソウルへ出かけている。前回は明洞(みょんどん で変換できた!) 今回は北村泊り。いつも ゲストハウスに泊まるそうだから 友人と二人で合わせて5000円くらいか今回の宿は 韓屋、板の間に布団をしいて寝るのだという。ただし トイレ シャワーは共同使用。ソウルのホテルが高くなって ためらっている私だが この価格だったら年金生活者向きかもしれない オンドルを味わいに出かけてみるかな。到着早々 写メが入った。「こないだきたとこ~ 3回目」3女からの追伸「お昼ごはん」行くかな
2012/09/28
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一度は経験したいと思っていた 激安ソウルツアーに 3女を誘って行ってきた。日程は 10日 17:45出発 仁川到着 19:50 で2泊3日で 12日帰り便の出発は08:50 というもの。3女に連絡したら 滞在時間が短すぎて寝ずに買い物しなきゃいけないと不満たらたらだった。実際 ホテル到着が 22:30 で翌々日 5:40にホテルを出発したから ソウル滞在時間は 31時間という強硬スケジュールだった。 ホテル到着後すぐに タクシーで東大門に乗りつけて 23:30 食堂に入り腹ごしらえ。0:30からは 衣料品を漁りまくる3女の後を付いて回った。3女の買い物のお供は 以前に経験済みだが あれこれ引っ張り出しては 買わずに次の店へ向かう。洋品専門のビルから革製品のビルと 衣料品を仕入れている連中に混じって あれこれ買い込む度胸に感心する。ビルの中は 暖かいのだが 外に出れば気温は0℃以下みたいだった。午前2時を回って 屋台が店じまいを始める頃 ようやく買い物終了。帰りのタクシーを探す。メーター料金拒否の車が多いのだが 4・5台目に メーターOKの車を拾って ホテルに帰り着いたら3時を回っていた。翌日は 江南のブティックを回りたいと言う。9時に起きだして 地下鉄で新沙まで行き そこからブティック通りへと歩く。途中 ドーナッツ店で時間をつぶし カルビチムの店に寄って昼食。食後は 次々と店に入っては出ることを繰り返しお目当ての店で ブラウスなど買い込む。この後 仁寺洞に行って 今度は 私の骨董店巡りにしばらく付き合わせたが東大門で行きたい店がまだあるからと 落合場所を決めて ここから別行動。私は 独立門と 再建後の光化門見物に出かけた。
2013/03/13
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民進党代表戦 レンボで決まりましたね。2重国籍が判明した後の 国会議員たちの投票で大逆転を期待したのですが空振り。結局過半数の議員が国籍法に違反していても 日本国籍をもっていればいいと判断したのでしょうね。仕事のからみで 愛知民社と言われた時代から40数年肩入れしてきた政党ですがもうほんとうに愛想が尽きましたね。「いばらの道が続く」のではなく 奈落への道の第一歩を踏み出したのだということに1年もしないうち 次の衆議院選で思い知ることでしょう。政権党の横暴を食い止めるべき健全野党は 当分望み薄だなあ。政治の話はあまり書きたくなかったのに今日は特別。月見酒 月は晴れても 心は闇だ
2016/09/15
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飢饉なんて、どこの話?という今の日本なのに、 「飢饉」を再考しようという企画展を西尾市岩瀬文庫で見てきた。 そもそも飢饉ってなに? 凶作により人々が飢えくるしむことなのです。 日本では古来、餓死者が出るほどの飢饉が幾たびも繰返し発生しているそうで 文献による最古の記録は古事記、仁徳天皇が316年高台から民のかまどの煙が上がらないのをご覧になって民の窮乏を知り課役を免じたと出ている。 鴨長明の方丈記には1182年の飢饉の京都の惨状が記されています。 「京の仕組みとして、田舎から物資が入らなくなるとたちまち窮乏した。みな飢えきり、日を経るごとに追い詰められる様は水が干上がった魚のようであった。築地の傍ら道のほとりに餓死している者は数も知れない。採り片付ける手段もないので腐敗臭が充満し、変わり果ててゆく有り様は目も当てられない」 江戸時代の享保・天明・天保の三大飢饉については多くの記録が残っている。 飢饉の惨状記録だけでなく日々の備え、凶作の時の代用食の食べ方等の文書も多数発行されている。 飽食の世だが、物流の途絶等、一歩間違えれば方丈記にある京都の惨状が再現されぬとも限らぬ輸入頼みの日本である。 と、ちょっとばかり真面目に考えさせられた企画展でありました。
2017/12/01
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大判焼きのいただきものがあったので、かみさんと抹茶にした。茶碗は自作、お点前は我流。お茶だけは西尾抹茶のまあまあの品を本日封切り。わたしが買うのは、家から近い「香嘉園」という店。スタンプカードを持っている。500円でスタンプ一つ、今回は四つ。30個で500円なのだが、貯まるとなんとなく嬉しい。ほかにも カツ丼屋のスタンプも集めている。ただし、持ち帰り弁当の時しかスタンプはない。というわけで最近はテイクアウト専門。3日前の写真。
2022/02/26
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安倍さんを襲った犯人が宗教団体に恨みをかかえていたことは、直後の報道でも散見されたのだが団体名は明らかにされなかった。当初、選挙中だから明らかにしないのだと思っていた。私が考えていた団体はK党とその母体である S学会だったが違っていることは報道ではなくSMSでしらされた。マスコミの報道は週刊誌のネット情報で「統一協会」の名が明らかにされた。犯人は母親が統一協会への多額の寄付で破産して同会へ恨みを抱いたこととを明かし、自らは反統一協会の団体に属したことも語っていたようだ。その辺のことは選挙明けから堰を切ったように続々と出てきている。「赤信号みんなで渡れば怖くない」協会や反協会に関わる、これまで(怖くて?)報道されなかった数々の秘密が日の目を見るのは結構なことだと思う。もうひとつ不自然に感じるのは、両協会が共に文鮮明という人物から発しているというのに、「朝鮮日報」も「中央日報」も日本のアベ殺害犯の動機(らしきもの)が自国に関連しているというのに今日にいたってもその事を一行も書いていないことである。今後の展開に注目している。
2022/07/14
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ちょっと前に河津桜を見に行ったと思ったら、枝垂れ桜が見頃だとの情報。月曜日は毎年行く西尾市源空院の枝垂れ桜。例年25日頃に満開になるのだが今年はすでに満開。今年もタイガとかみさん。寺の近所のミモザ火曜日の爺モーニングで話題になった西尾市「無の里」の淡墨桜には水曜日に訪れた。岐阜県根尾谷の淡墨桜を接ぎ木して育てたのを平成元年移植したそうだ。帰りに毎年行く万燈山の桜を見に行った。昭和47年植樹した桜は樹高が高過ぎて花がよく見えない。昔は花見をするグループがたくさんいたのだが、今ではほとんど人がいない。山の麓のモクレンは今年も見事な花を着けていた。ソメイヨシノはまだ開花したばかりのようだ。
2023/03/24
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モーニング仲間から、ジャ○○ットクルーズのお土産に寄港地函館の鮭トバをいただいた。17万tの豪華客船で10日間のクルーズだそうだ。客のほとんどが老年の夫婦、中には老親と高年の夫婦、さらには韓国からの老夫婦もいたそうだ。私には遠い話だが、モーニング仲間の一人は関心しきりだった。せっかくの頂き物だから、帰りがけに合いそうな酒を買ってきた。夜、さっそく飲んだ。飛騨古川の「蓬莱」ワイングラスでおいしい日本酒アワード最高金賞受賞の酒。酒トバに、もらいもののカボスを添えた。なかなかの味わい!子供のころ好きだった鳳仙花を、かみさんに植えてもらった。花が終わり実がなってしばらくたった。そろそろ良かろうと、実を指で押したらクルリと弾けてくれた。これこれっ!
2023/11/15
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日曜日 「はず夢ウオーク」に参加して 名鉄東幡豆駅から三ケ根山頂を歩いてきた。風がちと冷たく登山道にはうっすらと前夜の雪が残っていたが 絶好のウオーク日和だった。山頂からは三河湾が一望出来て急登坂の疲れは吹っ飛んだ。ウオーク・コースでは山頂にある三ケ根観音に向かうのだが 私は 脇道にそれて 殉国七士廟を目指した。昔 むか~し 私がまだ若かりし頃 三ケ根スカイラインをドライブしていたとき山頂の道路沿いに 殉国七士墓があるのに気付き お参りした記憶がある。今回訪れた廟所は 記憶にある場所とは少し奥まった広大なところにあった。参道の奥に巨大な門柱があった。殉国七士とは 東京裁判でA級先般として死刑となった7人の人士のこと。題字は 安倍首相の祖父岸信介元首相の筆。岸元首相もA級戦犯として巣鴨拘置所に入っていた。殉国七士については こちらのHPを見て欲しい。殉国七士墓の周りには いろいろな日本軍部隊慰霊碑が設置されていた。山頂には 行基作と伝わる像が祀られている三ケ根観音というお堂がある。その境内には 比島観音像が建てられていて フィリピン近辺で亡くなった50万の軍人・軍属・民間人を祀っている。多くの慰霊碑が周りを取り巻いている。数多くの慰霊碑の中に 従軍看護婦之碑というのがあった。 黙祷 ・・・・ 黙祷いずれの慰霊碑を見ても 生き残った関係者の 押し殺してきた声の数々が ひしひしと伝わってくる思いがした。あの時代を生きた男と女たちの子である 私たちには その声を 伝えていく義務があるのではないだろうか。
2014/01/20
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買い置きの焼酎も日本酒も空になった、今夜は飲まないでいることにした。明日の酒を楽しみにしながら、昨夜の酒の写真を見る。ゴボウと人参のキンピラ、薄切りレンコンの挟み焼き。レンコンの間にひき肉が挟んである。日曜日の料理番組でやっていたのを、かみさんが再現。次には自分で作ってみるかな。
2022/12/19
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12月28日、孫三太郎9歳の誕生日そしてコロナ自宅療養完了の日。お父ちゃんもお母ちゃんも感染しなかったみたいで良かった。お年玉も用意してある。正月には来れるかな。
2022/12/28
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11月に身体障害者手帳4級(聴力障害)を交付された。その後、高速道路ETC料金減免Net申請をしたのだが、添付した車検証の一部に不備があるから送るようにとのメールが届いた。すぐに写真を添付して返送しておいたのだが、年が明けても「ナシのつぶて」変だなと、保存していたメールを読み返していたら「このメルアドは通知専用であり返信には使えない」ということが書いてあった。あらためて申請用ポータルから、必要書類総てを送った。今日「オンライン申請手続き完了通知」が届いた。今さら高速料金が半額になっても それほど助かりはしないのだが ものみな上がるこのごろだから料金半額というのは なんとなく嬉しい。大久保彦左衛門の聖地巡りにでも利用するかな。
2025/02/12
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毎年姿を見せるヤモリが今年は見てないので気にしていた。台風7号の影響で夕方から雨が強くなり始めたが、その前に雨戸を閉めたり家のまわりの点検は済ませておいた。先ほど風呂に入ろうと脱衣所で下着を脱いでいたら窓にヤモリの腹が見えた。この窓は雨戸が付いていない。スマホを持ってきてパチリ数日前の散歩中数年ぶりにカワセミをちらりと見た。その時の写真をGeminiに日本画風の絵にしてもらった。写真とはカワセミの向きが逆になっている、Geminiにはこういうところがあるから疑ってかからなければならない。タイガは昨日の足の手当ての確認に行ってきた。出血は止まっている。食欲はある。元の快食快便快眠に戻っている。本日焼き上がった作品。黒毛が落魄した姿になってしまったが今のタイガに近いかも。
2026/06/26
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次女ファミリーが宮島へ行くついでに私の実家に立ち寄ってくれた。 継母とは八年ぶりの再会。 墓参りを済ませて錦帯橋見物。 宮島へ 広島泊りで今日は呉の大和ミュージアム 三女は昨日、同級生の家で遊んだ帰りにわが家へ 夕飯は餃子のO将 疲れた孫三は寝てしまった。 次女の帰宅に合わせて明日また来るという。 爺は明朝ひとりで帰省するのだ。 今朝、庭で採れた野菜
2017/08/17
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4月5日に開始した 「家康 伊賀越え」ウオーキング。昨日 無事踏破した。今回は 4月29日京田辺の三山木駅からスタート。木津川を越え宇治田原・甲賀信楽・伊賀音羽・柘植・関・亀山・白子の110km。途中 信楽勅旨・伊賀上野・亀山2泊と宿をとった。4泊5日の旅であった。歩数計では 52959歩・44405歩・31914歩・25721歩・38137歩合計 193136歩 さぞかし 体重も減ったことだろうと期待していたのだが家に帰って 体重計に乗ったらなんと!1kg 増加している!!歩数計によれば 5日間 合計消費カロリー 6206Kcal出発前の5日間の歩行数 20345歩 消費カロリー 598Kcalこれだけ消耗して 体重が増えるとは不思議朝は 通常通り 昼は コンビ二おにぎり2つだったから夜か29日夜 宿の食事 鶏鍋・鶏刺し・こんにゃくサラダ・ご飯1膳ビール1本 酒1合30日夜 持ち帰り 握りずし・コロッケ2・鶏むね肉フライ2・スイカ缶ビール500cc 酒300cc1日夜五目ラーメン・餃子生ビール中ジョッキ 缶ビール 500cc2日夜焼肉(カルビ・ハツ・レバー)野菜サラダ生ビール中ジョッキおつまみナッツ缶酎ハイ500cc多少の記憶もれはあるが 大体こんなところふだんより ちょっと多めだった。やはり 激しい運動の後の ドカ食いは太るのだなあ。
2008/05/04
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5日 朝5時家を出て 列車を乗り継ぎ 堺へ。本能寺の変の朝 家康が出立した妙国寺をスタート。8時30分であった。家康が 変を知ったといわれる飯盛山麓までの経路については 諸説あって定かではない。藤井寺を通る道、平野・八尾を通る道。私は平野・八尾を通ることにしたが平野までの道では 住吉大社を経由することにした。住吉は古い神社であり 家康が変を知らずに出立したとしたら 遊山がてら寄ったこともあり得るというだけの理由にすぎないのだが要は 私が寄りたかっただけである。平野・八尾を過ぎ 信貴山麓から 東高野街道に入った。 自動車通行禁止の瓢箪山商店街を抜けて歩き続ける。右手の山が やがて生駒山となり とうとう飯盛山となる。16時 四条畷神社前に到着。32kmの行程であった。せっかくだから神社にお参りした。四条畷神社は 南朝の忠臣正成の子 楠正行を祀っている。ちょうど この日は楠公祭の日だった。祭りが終わったばかりの時間にたどり着いたわけである 参拝後 ビジネスホテルへ直行、8時過ぎにはベッドの中であった。6日朝 多少 足の痛みはあるものの なんとか歩けそうなので四条畷神社前を7時30分出発。9時前 星田妙見宮の下「家康ひそみの藪」に立ち寄った。ここは 伊賀越えを前に 家康一向が 夜までひそんでいたという言い伝えのある場所である。すぐそばの妙見川筋は桜の名所で この時間屋台の準備 臨時駐車場の整備に立ち働く人たちもう 花見にやってくる気の早い人たちの中を場違いないでたちで通り過ぎた。ここを過ぎればあとは 木津川 草内の渡しのある興戸まで ひたすら歩くだけである。 だらだら登りの道は この季節ならではの 満開の桜が目を楽しませてくれる。京都府との県境の峠を越えると 急な下り坂下りきると 普賢寺、もう京田辺の興戸までわずか。ここでも また花景色。 大勢の花見客がいる 観音寺の桜と菜の花。そして 終点近くの 同志社大学構内の桜近鉄 興戸駅についたのが 2時30分であった。この日 25km。初の ツーデイウオークは なんとか歩きとおした。伊勢白子まで 残り108km。連休には 歩く予定。
2008/04/07
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9日高森を発つ前、宇野千代の父親の実家を再訪。前日、傘についていた花びらの確認をしたかったのだ。前日、強い雨のせいで見上げることのなかった薄墨桜がそこにはあった。宇野千代が実家のことを書いた文章にも花びらこのことを、誰かに話したくて、この日20キロ歩いて岩国関戸宿に着いたあとさらに歩いて錦帯橋の満開の桜を見て、さらにさらに歩いて川西にある宇野千代生家を訪ねた。初対面の受付の女性に話をしたら、上手に、感動してくれた。生家の薄墨桜も散り始めていた。 こんなとき句がよめればいいのに爺は受付の女性にシャッターを押してもらうだけだった。ああ
2017/04/10
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漢字のテーマが続く 今朝の新聞記事に惹きつけられた。『漢字の「とめ」「はね」、細かい違いを容認 文化審小委』「とめ」「はね」に細かい違いがあっても、間違いではない-。文化審議会漢字小委員会は、常用漢字では、さまざまな字形が認められることを解説した指針案を大筋で了承した。現在の常用漢字表でも細かい形の違いを認めているが、多様な印刷文字が使われる中、手書きの正誤の判断が分かれるようになった事態に対応するため。二十九日開催の親部会の国語分科会で報告する予定。 指針案では、漢字を点画の長短や方向のほか「つけるか、はなすか」「はらうか、とめるか」などに分けて紹介。例えば「保」のつくりの「口」の下は「木」でも「ホ」でも誤りではないことや「言」の一画目の点が二画目の線に接触してもしなくても同じ漢字だとしている。 常用漢字全二千百三十六字について一字当たり二、三種類の手書き例も作成。表外漢字にも考え方を適用できるとした。正誤の考え方や、これまでも学習指導要領解説書や通知などで、学校では柔軟な漢字の評価を求めていることを取り上げた「Q&A」も作った。<以下略> 元記事「中日新聞」この記事を読んで思い出した。今は亡き長女が生まれた時の事、住まいの近くにある支所の窓口に出生届を出したら係員が「この字はダメですから直してください」という。一生懸命考えてつけた名前にケチをつけられてムッとした。「なんで?」と私 すると係員が答えた「リッシンベンの棒は『はね』るのではなく『とめ』るのです」融通の利かない役人め と 心でののしりながら渋々直した。以後 リッシンベンだけは 正しい書き方になった。一言付け加えて置くが 書くのはダメでも読みだけだったら 漢検2級くらいはいく自信はある。今回の答申が漢検に反映されたら 書き順 はね・はらい・とめ・つける・はなす すべてが あやふやだった私の書き方も認められるわけだ。挑戦してみようかな。
2016/02/21
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昨夜 テレビで 月の裏側の念写写真というのをやっていた。こんな話 好きなのです。超能力者 三田光一氏が 人類の誰も見たことのない月の裏面を透視し、それを念写したという。1931年(昭和6年)の話である。月の裏側というのが 当時として 実にいいではないか。だれが その真贋を確認できたのだろうか。今だから 出来る、念写と実写とを並べてみた。
2008/12/17
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大久保彦左衛門コレクションに新たに映画ポスターが加わった。 彦左と太助 俺は天下の御意見番 1955年公開 彦左衛門役は月龍之介 一心太助を片岡栄二郎 月形は私が調べた限りでは彦左衛門役で10作品に出演している。 1953年 風雲八万騎 1955年 彦左と太助 俺は天下の御意見番 1955年 彦左と太助 殴り込み吉田御殿 1958年 一心太助 天下の一大事 1958年 江戸の名物男 一心太助 1959年 一心太助 男の中の男一匹 1962年 天下の御意見番 1963年 一心太助 男一匹道中記 1966年 天下のご意見番 1968年 黒い編笠 1933年 お馴染一心太助 以前、映画・TVで大久保彦左衛門を演じた俳優番付表を作ってみた。 これもコレクションのひとつになっている。 先日yanpaさんから 司馬遼太郎が『この国のかたち』に大久保彦左衛門のことを書いているとの情報をいただいた。 さっそく文庫本(古本)を注文したら今日届いた。 これもコレクションに加わる。 フフフ 笑いがこみ上げてくる! こいつあ春から縁起がいいわい この台詞の出典をひまにまかせて調べた 歌舞伎『三人吉三巴白浪(さんにんきちさともえのしらなみ)』 https://www2.ntj.jac.go.jp/unesco/kabuki/jp/play/play10.html 声に出して読んで下さい。 「月も朧(おぼろ)に白魚の篝(かがり)も霞む春の空、冷てえ風も微酔(ほろよい)に心持よくうかうかと、浮かれ烏(うかれがらす)のただ一羽塒(ねぐら)へ帰る川端(かわばた)で、棹(さお)の雫(しずく)か濡手で粟、思いがけなく手に入(い)る百両、 [御厄(おんやく)払いましょか、厄落し(やくおとし)、という厄払いの声] ほんに今夜は節分か、西の海より川の中、落ちた夜鷹(よたか)は厄落し、豆沢山(まめだくさん)に一文の銭と違って金包み、こいつぁ春から縁起がいいわえ」
2020/01/11
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暑くても朝と夕方だけは散歩をしていたのだが8月に入って朝夕も30℃超えが続いているこんな日に歩くのはアホの極み外に出るのは喫茶店かスーパーへ行く時だけ家にいるとテレビなのだが見たい番組がほとんどない。Amazonプライムで映画を観たりYouTubeをあちこち覗いたりなのだがこれもそろそろ飽きた。8月末には「家康公検定」のテキストが届くのだが今はまだ手元にあるのは過去問題集だけ今日 喫茶店に行くときこの内の1冊を持って行き100問中40問をやった。明日は 家で過去問をやるかな。
2025/08/03
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先週の土曜日には道路側の樫の木に枝払いをやり、昨日の土曜日朝は庭の樫の木と木蓮の枝払いをやった。ついでに大きくなりすぎたキンカンの木を根元から切り倒した。BeforeAfter夕方、涼しくなるのを待って、お隣に飛び込んだ枝をかみさんと片付けた。かみさんがTVの大相撲を観ている間にトゲのあるキンカンの枝を短く切って厚手の肥料袋に入れた。こうして置かないとごみ袋がトゲで破れる。このあとは自分へのご褒美に金麦を買いに走った。つまみは金麦と一緒に買った鶏唐揚、カクテキそしてキュウリのラオガンマー和えはんらさんの「ハマってるラオガンマー」を見てさっそくアマ●●から取り寄せた。辛さほどほどで金麦によく合う。今朝は朝食後、かみさんと昨日の枝をごみ袋詰め、なんだか「やる気満々」今日は気温32℃予報だったので中止にした「Macモーニング」昼前までは20℃台だから、往復1万歩行ってくるかな。なんてやたらテンションUP!いやこれがまさに「年寄りの冷水」やめておこう やめておこう。
2026/05/17
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白内障術後1週間の診察、「経過良好」晴れて飲酒解禁!なのだが、月曜日は大好きな「荒川酒店」が定休日。昼過ぎ、かみさんのお友だちから旦那が石川県の川に鮎釣りに出かけているから明日にでもお裾分けと連絡があった。これは酒の解禁を1日延ばすしかないかな。あいにくの雨で歩きに出ることは出来ない。大久保彦左衛門コレクションの整理でもやるか、以前からある 「映画ポスター」今回新たに加わったのは1939年(昭和14年)1月14日公開原作大佛次郎 監督兒井英男 主演黒川弥太郎『大久保彦左衛門 第二篇』(日活京都撮影所製作)部屋のドアー外側部屋の中 窓側ポスターと錦絵及び掛軸あと少し錦絵があるのだが天井にでも貼るかなあとは書籍類の整理だが、ネットオークションで面白いのを見つけると ついつい買ってしまうのでなかなか整理出来ない。最近買った大正八年発行の「立川文庫第三編 頓知奇談大久保彦左衛門」こうやって記を紛らわそうとしたのだが午後5時になると我慢できなくなり結局薩摩焼酎 ダイヤメお湯割りキュウリちくわ、山芋に納豆焼酎は100mlだけよ。
2026/07/06
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猛暑と白内障手術とにより毎日のや散歩は夕方だけにしていたのだがこのままでは足の筋力低下で まともに歩けなくなるかも知れない数日前、中学の同級生からのメールに「毎朝5時から歩いている」とあった。朝5時からなんてとてもムリだが、やはり朝も歩いてみようと思い立った今朝9時歩き支度をして面に出たのだが気温はすでに32℃、日ざしもきつい、長年ウォーキングにつかっている雨傘をさしてみた、傘をさしたり外したりして確かめたうん かなり効果がある、ためしに道端の並木の木陰に入ってみたら傘を差したときと同じくらいの涼しさ。とは言え 4000歩ほどで家に帰る頃には汗びっしょりこの傘は名古屋駅ビルに高島屋が出来たときその中の「東急ハンズ」で買ったもので以後23年も使っているのだがそろそろお役御免にしてUV加工の晴雨兼用傘というのに取り替えようかと思っている。予報では明日は最高気温38℃!明後日以降も明日にでも買いに行こう。
2026/07/15
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帰省からのUターンは9号線で山陰を走った。通常のルートであれば580キロ、8~9時間のところ720キロ、16時間の一人旅。朝8時半に出発して出雲大社へ12時過ぎ。暑い、途中、国道の温度表示は35度 を示していた。45年ぶりの出雲大社、昼は昔の記憶を頼りに参道からそれて蕎麦屋を探した。記憶にある寂れた店とは 違うようだ表も中も 待ってる客30分以上並んで 食べるのは5分。たかが そばだもの宍道湖畔ではシジミの味噌汁だけ境港から米子に抜けようと車を走らせていたら道路沿いの電柱に李白の広告が続く次いで松江城の標識。そうだ、お城に寄っていこうと左折。すぐに李白の酒蔵が見えた。思い強ければ かなう李白2本ゲット。お城も見てきた。国宝松江城見終わったら5時を過ぎていた。米子道から中国道、名神、新名神、伊勢湾岸道を走って0時4分豊明インターを深夜割り引き料金で通過。すべて計算通り!疲れた。
2017/08/22
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