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2004 12/24(金)shinが病気をしてからつけはじめた記録ノートの7冊目は2003年の12月21日から始まっているのだが、書かれたのは3日間のみ。書けなかった理由は多々あるのだが、12月24日に会社から「復職不可」の連絡があった事は大きいだろう。shinも私も90%ぐらいの確率で復職出来ると思っていたので、この連絡には相当へこんでしまった。しかしちょっとだけホッとしたのも事実である。障害者として受け入れてくれれば…と言う甘さもありはしたが、やはり退院から2ヶ月しか経っておらず、身体的能力はともかく実務をこなせるかどうかについてはまだまだ途上レベルだったからだ。とは言え年末年始も例年とは比べようも無くブルーであった。子供達にもキチンと説明したので、察してくれたのか「外出」のおねだりもなく地味なお正月を過ごした。両親も半分ガッカリ、半分ホッと…と言う感じだろうか。現場でどれだけshinが対応出来たかは分からないが、今、冷静に考えてもこの時点での復職は無理だったように思う。OTのI先生には特に心配をかけてしまい、「不可」の知らせには本当にがっかりさせてしまった。「再度アタック」も強く勧められたが、会社の風土からしてそれは無理だとshinも言う。(この一年間で身障者の就職の難しさをあちこちで垣間見る機会があり、この時I先生が言われた意味が改めて分かった気がした)shinが転職してからこの会社の事は折々に聞いていたのだがやはり個性の強い会社と言う印象は私も持った。仮に仮にshinが復職しても辞めるのは時間の問題だったかもしれない。I先生がPT・ST・主治医・SWまで連絡してくださったようで25日に病院へ行った時には、すでに皆さん事情を知っていて下さった。年末の忙しい時期にも関わらずSWのUさんも丁寧に対応して下さり主治医のK先生は緊急連絡先を教えて下さった。だからってどうなるものでもない事は皆良く分かっているのだが、やはりこのタイミングで「人の情け」は身に沁みてありがたかった。この「不可」のタイミングが年末になったのは偶然だったのだろうか。ダメだった場合の対応策をキチンと立てていなかった私達も甘かったが、労働関係の相談窓口も閉まりどうしようもなかった。年末でなかったらもう少し別の対応もでき、例えダメでも納得の度合いも深かったのかもしれないが、やはりタイミングが悪かった。悪く考えれは…いやよそう。こんな時が自分がイヤな人間に見えてくるときだ。年末年始のロスは10日あまりもあり、仕事始めを待っての退職関係書類の受け取り、記入、手続き、確認と年末より慌ただしい日が続いた。ここでミスがあってはいけない(特に健保の任意継続は日程がギリギリだった)…との思いでかなり緊張してペンを握っていたように思う。その中でも会社の担当窓口の女性は丁寧に対応して下さり、またSWのUさんも書類に目を通した上で「会社の対応に問題点はない」と何も分からない私達を安心させてくれた。こうやってshinと会社との関係は切れた。言いたい事は山ほどあるが、私達の姿勢にも反省点はあり、いつまでも済んだ事に拘っていても仕方がないだろう。この一年間も色々な事があったが、沢山の方々のサポートのお蔭で何とか乗り越える事ができた。大きな感謝と共に大切に過した一年を振り返る事ができ、私は心静かだ。 *-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*-*6月の発病から半年あまり。このシンドイ系の日記を沢山の方に読んでいただきました。本当にありがとうございました。 shinの発病から一年目が近づいてきて私の精神状態が不安定になり、関連して半年間文章にする作業をしていなかった事もあり、いろんな思いが膨らみ過ぎてパンクしそうになる自分に気がつきました。まず自分の気持ちを整理しなくては…そんな思いで始めた並行日記でしたが、スタートするにあってはやはり躊躇いが大きく書き始めてからも迷いは続きました。しかし少しずつ書き進めるうちに、私が書いていながら分かっていなかった事や新たに気がついた事など多々ありました。肩の力も徐々に抜けていき、後半はとてもリラックスして書く事ができました。とは言え、家事の合間にまとめながら書きましたので、家族の用が続いたり体調が悪かったりすると何日も記入ができずに、相当溜めこんだ時もありました。それでも楽しく書き続けられたのは皆さんの励ましのお蔭だと思っています。さて、これからどうしよう…と12月に入ってからずっと考えていました。12月23日でノートも終わっていることだし、もう止めようかとも思ったのですが、ネットの楽しさも少しながら分かり始めたのでもう少し続けてみてもいいかな…そう思うようになりました。ただ今までのようにシンドイ系一本で行くのは私も飽きましたので少し模様替えをして…と計画を立て、今年の記入は25日くらいには終わって…と予定していたのですが。いろいろとアクシデント続きで結局大晦日にやっと間に合いホッとしているところです。 クローズはしませんが暫くは更新はちょっとお休みします。shinの就活の模様は折に触れて、普段はマヌケな主婦の目で見た世の中いろいろを書いてみたいと思っています。年明けにリニューアルオープンをする予定でいますので、また来年も宜しくお願いします。それでは、皆さん、良いお年をお迎えください。
2004.12.24
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2004 12/23(木)昨日は次女の作文から短い文章を紹介した。長女は昨年の夏休みの「自分史を書く」宿題にshinの事をテーマに選んだ。「ちょっと自分史とはずれてない?」と私が尋ねると「先生に相談したらお父さんの病気の事もOKって言われたから大丈夫」と言う。それなら記録の一つにもなるし書いてみたら…と言っておいたのだが。結構長いものなので途中少し削った部分もあるが、ほぼ原文のままである。 6月14日。自宅の1階でテレビを見ていると、2階から奇妙な声が聞こえてきた。上がってみると、午前中授業参観に来ていた父が床に座り込み訳の分からぬ事を口走っていた。ただ事ではないと思ったが、どうして良いか分からずに立ち尽くしていると、祖母が様子を見に来た。そして、父を一目見るなり「救急車をよんで!」と叫んだのである。救急車?なんで?どうして?そんな思いや不安が頭の中を交錯したが、私は弾かれた様に電話に飛びつき119番通報した。その後、父の手を握り「もうすぐ救急車がくるからね。大丈夫だからね」と励ましたが、相変わらず妙な事ばかりを口走っており、よく見ると右手右足がぐにゃりとしていた。数分後、救急車が到着した。救急隊員の人が部屋に入り父に話しかけたりするのを私はぼんやりと見ていた。まもなく父は救急車に運ばれ、私も祖父も乗った。受け入れてくれる病院が中々見つからなかったが、ようやく見つかったのか、走りだした。 父が運ばれた病院はH病院であった。この病院は、最先端の医療機器などが備えてあり、カルテは全てコンピュータ化されているのだと言う。治療の間、先程連絡した母が来るのを待っていた。時間がどんどん経つのに比例して私の不安も増していった。その不安も最高潮に達しかけた時、妹と外出していた母が来た。「大丈夫だった?よく頑張ったね」この言葉に思わず涙が出た。暫くすると先生の説明があった。診断の結果、父の病名は脳出血だった。左脳の視床と言う部分の血管が切れていたらしい。左脳は言葉や記号を使った論理的機能や言語能力、時間の観念、計算などを司っている。そこにある髪の毛一本分の血管が切れたのだと言う。この説明を聞き、私は父が死んでしまうのではないかという不安に襲われた。意識はしっかりとしているらしいので少し安心したが、「24時間以内に再出血すれば命の保障は出来ないし、体の麻痺や言語障害などの後遺症が残るかもしれない」と言われた。場合によっては手術をしますと宣言され、母はその後、手術に対する同意書を書いて提出した。3階のICU(集中治療室)にいる父との面会を許された。ICUは重症患者を収容しているので出入りは厳しく、入るのに3つのドアを抜けなければいけない。さらに手の消毒は必須である。父は奥のベッドにいたが顔を合わせた瞬間その場から逃げたい衝動に駆られた。私を見つめていた目が普通ではなかった。まるで科学者を見つめる実験用の動物の様な目だったのだ。 仕方がないと解っていても、父をまともに見ることが出来なかった。それでも母は「絶対大丈夫だから。諦めないで、頑張って闘おう!」と父に言った。後遺症の事などで頭が一杯で混乱していた私に比べ、こんな時にもいつもの気持ちを保ち続けている母は強いと思った。 その後、病院に母を残して私は祖父と家に帰った。祖母と妹に病状の説明を簡単にした後、部活の先輩と友達に明日の予定のキャンセルを連絡した。そしてテレビを見ながら帰りを待った。待たずに寝ていなさいと言われていたが、何かせずにはいられなかった。11時頃に母から電話があった。「今夜中に手術をする」と言う内容であった。結局その電話の後、私はベッドに入って無理矢理寝ようとしたが、意外とあっさり眠れてしまった。次の日、起きてすぐに母に様子を聞いた。手術は長時間におよび、帰宅したのは日付が変わってから。手術後、父の頭には髄液を出す為の管を2本差し込んであると言う。「今は落ち着いているから。お父さんは悪運が強いから大丈夫。これからは母さんもお見舞いとかであんまり家にいないけれど、そこは分かってね」母の言葉は最強のお守りだ。この時ほどそう思った事は無かった。「明日から1週間は念のため部活を休んで欲しい」と母から言われていた。何となく学校へ行くのが恐かった。月曜日、私はいつもどおりに登校した。毎朝学校へ一緒に行く友達が、普通に話をしてくれるのが嬉しかった。その後、担任の先生と部活の顧問の先生に事情を話した。担任はすでに知っていたので励ましてくれた。顧問の先生も快く部活を休む事を承諾してくれた。それからの一週間は大変だった。生徒呼び出しの校内放送を聞くたびにヒヤッとする。部活がとても恋しかった。何より辛かったのは駅や街中で親子連れを見かける時で会った。今まで存在自体が当たり前だった家族が欠けている、当たり前だった人がいないと感じてしまうのだ。親に叱られた時にはよく「親なんてウザいだけだ!」と思っていた。それなのに、その叱ってくれた人がいなくなると、あの笑い声が懐かしくまた聞きたくてたまらないのだ。人間ってこんなものなのだろう。ウザいと思っていても、結局心のどこかではその人の事が大切だと感じているものなのだ。父が入院してから1週間後、私は母と妹と3人で病院へ行った。私にとっては2度目、妹にとっては初めての面会であった。ICUに入るときは1週間前の事もあってか、少し緊張した。しかし父は1週間前とは明らかに違っていた。私や妹が話しかけると何かしら反応を示し、時々照れたように顔を背けるのだ。何より自分から話しかけてくれる。意味不明な事ばかりだったが、それでもこれは驚くべき変化である。帰り際に握手をしてもらった。私の手を握る父の手から「負けるものか」と言う気持ちがヒシヒシをと伝わった。 父が入院していからちょうど10日目の6月24日。母から、父が一般病棟に移ったと聞かされた。久々に聞く明るいニュースであった。母の話では、これから本格的なリハビリに移るようだ。父はとても負けず嫌いな性格なので、きっと頑張れると私も母も信じていた。その次の日からリハビリが始まった。父の場合は作業療法(OT)理学療法(PT)が用意されていた。作業療法では手の訓練、理学療法では足の訓練を行っていた。ある程度調子が出てきたら、リハビリ専門病院へ移る予定だと言う。それからの20日間、父のリハビリは進んだ。そして7月16日、更なるリハビリのためF病院に転院した。ここでは作業、理学に加えてH病院ではなかった言語療法も加えられた。転院後、夏休みになった事もあり私はちょくちょく面会に行った。面会に行くと父はその日の出来事や同室のKさんの事などをよく話した。一つ私が気に入らない事は叔父の名前と私の名前を取り違える事であった。家族4人の会話の時間が以前より増えたかもしれない。転院後2ヶ月目からは、言語療法の宿題に加えて右手のリハビリも兼ねて母が買った算数や国語の文章問題のドリルを解くようになった。8月の後半になると、父は理学療法の一環として外歩きを理学の先生と始めた。わずかな段差、階段、坂道、人ごみ、健康な時には何でもなかったものが、父をひどく緊張させる。しかし、最後に3階の病室まで階段を上り終えた時は疲労と共に大きな充足感が得られたようだ。母はその事を聞いて、散髪を兼ねた初外出を計画している。発病当日、授業参観の帰りに散髪したきりだったので、父の額には管を差し込んだ時の傷口が二つあったが、傷もきれいになり部分的にカットされた髪も傷口を隠すまでに伸びている。リハビリ科のドクターをはじめ、理学の先生や、担当の看護師さん達は大賛成だ。患者さんたちに対して、いい刺激はどんどん与えるのが病院の方針らしい。父は外出に備えてステッキを1本借りる事にした。そのステッキは当分返さなくてもよくなった。今まで車イスの移動が主だったが次週からはステッキ歩行となったからだ。勿論誰かと一緒であるのが条件だが、これは大きな進歩である。この話を聞いた時、私はH病院で歩行訓練を受けていた父の姿を思い出した。その頃の父は、極度に緊張した顔で最初の一一歩を踏み出していた。それと比較すると、今、父に少し出てきた余裕の表情を私は嬉しく思い、父の頑張る姿を誇りに思った。今年は天候も不順で冷夏と言われたが私にとってもいつもと違う夏休みだった。以前は夕食の配膳ぐらいしか手伝わなかった。最近は母が用意してくれた夕食を温め、私が作った味噌汁を出せるようになった。味にムラがあったり具の大きさがマチマチだったりしたが、今では私の自慢料理である。ちなみに好きな具は茄子である。 父の突然の病気により、本人はもとより家族全員がパニックに陥った。特に70代、80代の祖父母は気丈に振る舞っていたものの、息子が命に関わるような病気になり大きなショックであっただろう。母は父の病状に加えて祖父母の事も注意深く見ていた。頑なに面会を断っていた祖父母も先日、発病後70日ぶりに父と会った。二人の肩の力が少し抜けたように見えるのは気のせいだろうか。さて私達はどうだったか。妹と相談し、家事の分担を決めた。とりあえず出来る事は母の負担をなるたけ減らす事だと気づいたからだ。しかしいつも出来ていた訳でもなく、反省する事もしばしばだが、以前よりは家事全般に多く関わるようになり、母からも感謝されている。 9月の連休には父の初の外泊も予定されている。車の乗り降りをはじめ、2階への13段の階段、狭いトイレや風呂など、課題は沢山ある。でも父は外泊を楽しみにリハビリを頑張っている。私も茄子の味噌汁を味わってもらいたい。その後さらに1ヶ月、父の入院は予定されている。リハビリの内容は、益々ハードなものになっていくだろう。しかし私達は希望を失わず父をサポートしていきたい。来年の6月14日、この話を笑いながら出来るようになるために。以上が長女の文章である。夏休みに書いたので9月10月についての記載はないが、長女もこんな風に感じていたのかと思うと改めて子供達へ与えてしまったものの大きさを感じずにはいられない。さて、明日は…。
2004.12.23
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2004 12/22(水)今まで私の思いばかりを書いてきた。「闘病記」は普通病気と闘った本人が書くパターンが多いようだが、shinには記憶に無い部分も多々あり、まだ気持ちの整理もついていないのかもしれない。(この点について私はshinに尋ねたことがないのだが)子供達はどうだっただろうか。shinの発病以来、不安な気持ちになったり悲しくなったりした事もあったと思う。それでも入院中も自宅復帰後も子供達は自然にshinと関わってくれた。リハビリの見学、学習の手伝い、外出の補助…家族としてできる事を本当に自然にやってくれた。リハビリのプロセスを一緒に見守ることでshinの回復を実感してくれたのだと思う。shinにしても出来ない事は家族の協力を素直に受けていたし、出来る事が増えて来ると時間がかかっても自力でしようと努力もしていた。ここで次女の文章を紹介しよう。次女の小学校では毎年全学年の作文集を出すのだが、次女は6年生の作文でshinの病気にふれている。「お父さんの事を書こうかな」と言っていたので「小学校最後の文集だしもっと楽しいテーマにしたら」とアドバイスしていたのだが、結局shinのことにしたようだ。11月頃の文章らしいが、短いので原文のまま。 「がんばろうか」 これは、私の人生の大きな山の一つかもしれない。六月十四日、父が倒れた。脳の血管が切れて、入院した。梅雨の頃の出来事だった。私の夏休みは、病院に行って父に会うのが日課になった。 父は、右手右足がまひをしていた。髪の毛一本の細さの血管が切れたため、車いすに乗っていた。リハビリでは、バーにつかまってゆっくり歩く事や、ボール投げ、話す練習をしていた。それもだんだん出来るようになってきた。 「がんばろうか」と言う言葉が、私の合言葉になった。 病院では私は色々な人と出会った。父の命をみつめ、かかわっていくうちに、心が優しくなれる気がした。患者さんたちと話しているうちに、私もがんばろうと思えた。 今、父は退院し、リハビリをしている。これからが大変だ。けれど、がんばろうか。2003 12/22(月) *自宅復帰58日目*H病院で予定通り検査を受けました。今日は段取りも良く(これが普通と思いますが)、それでも午前中一杯かかって終わりました。shinにとってはシンドい検査だったでしょうし、結果がでればまた辛い思いもするでしょう。検査の話が出たときにどうしようかと躊躇いもしましたが、この結果をスタート値にすればよい…と割り切りました。結果は後日出ます。shinも私も現実をキチンと受け入れなければいけないでしょう。夕食の時、明日の祝日にお菓子を作りたいと次女が言い出しました。お友達にクリスマスプレゼントとしてあげるそうです。長女が一人いないだけで食事の後片付の量も少なく、はやく終わりました。shinが入院してから9時まで開いているスーパーに驚いたり助けられたりしましたが、今日は次女を誘って夜のスーパーでお菓子の材料を買いました。クリスマスも近い8時過ぎのスーパーは思った以上に人も多く賑わっています。聞いたことはありましたが、お惣菜や生鮮食品は次々にシールを貼られて値段が下がっています。へえ~って感じでしょうか。「私こんな時間にお買い物したの初めて~」といつもと違う体験に次女もちょっぴり嬉しそうです。時にはこんな事も生活の刺激になるのでしょうか。
2004.12.22
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2004 12/21(火)午前中ケアマネージャーのKさんの訪問日。義父の手術の経過についても丁寧に話を聞いてもらい、本人も気持ちが落ち着いたようだ。毎回そうなのだが、Kさんは約2時間を費やして話を聞いてくれる。前半は両親とのカンファレンス。内容によってはメールで先にお知らせしておく事もあるのだけれど、それでも両親の話も素早く記録をとりながら丁寧に聞いて下さる姿勢にはいつも頭が下がる。後半は両親の状態を家族から聞き取る事と、shinとのカンファレンス。こちらもポイントを押さえながら丁寧な対応。今日は先日の登録の件や一月からの予定などをshinが話し、私は「最近shinが曇り気味なんです」と気がかりを説明。特に血圧などに問題が無くても、脳血管系の病後は時々曇ることもあるそうで、あまり神経質にならないようにとのアドバイスがあった。また来年からの事もあるので、そろそろノンビリモードから求職モードへの切り替えをしたいのだが、なかなかうまく行かない事も相談したら、「いきなり新しい事への切り替えと言うよりは、一度ニュートラルになってみてはどうですか」と優しい言葉が帰って来た。ああ、そうだ。ニュートラル。一気にこの一年間のペースを変えるなんて、やはり無理なのだ。一度心を空っぽにして、新しい空気を詰め替えていけばいいのかもしれない。Kさんの言葉にはハッとさせられる事が多いのだが、今日は特に目からウロコが落ちたような気持ちになった。これはshinも同様だったらしく、「うんそうだ、ニュートラルだ」と感心していた。shinが病気になってから何か問題が起きたり壁にぶつかった時に、必ず解決への糸口になるような言葉やアドバイスがあった。「もうイヤだ。限界」とギブアップしたくなるような事も多々あったのだが、「もう少し頑張ってみようか」と思うようなエネルギーを誰かしらに貰っている。頑張りすぎるのもシンドいが、諦めない粘りも以前よりは私に備わったのかもしれない。人間は一人で生きては行けない…人間は一人では生きていない…明日を信じる気持ちって大事だと思う。2003 12/22(日) *自宅復帰57日目*長女はスキー教室へ行きました。朝早いバスだったのですが、苦手の早起きも今朝はなんのその…です。ノンビリしすぎているところが親としては心配なのですが、先の事は心配しないタイプなので、きっと目一杯楽しんでくるでしょう。shinは毎日パソコンに向かっています。マヒのある右手はなかなか思うように動かずイライラしている時もありますが、少しずつでも滑らかになればよいと私は思っています。諦めて止めてしまえばゼロ。限りなくゼロに近くても毎日積み重ねていけば、いつか高さが出てくるはずと信じる事にします。明日はまたH病院で検査があります。どうぞスムーズに一度で終わりますように。
2004.12.21
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2004 12/20(月)shinはPCとOT、二人の娘は学校へと久々に皆外出。明日から冬休みの長女は終業式があり、「夕方はキャロルがあるから」と言って出かけた。長女の学校は終業式の日にクリスマスキャロルがあり、その後ナゼかお汁粉が出るのが恒例になっている。今どきの子供達もお汁粉は好きらしく、毎年キャロルは賑わうらしい。讃美歌に限らずクリスマスソングも最近は次々と出ており、ちなみに今年の私のお気に入りは某FM局のクリスマスイメージソング~This Christmas Time/KERI NOBLE~。小さい頃、幼なじみのMちゃんが私に歌を一つ教えてくれた。「Tちゃん、シュワキマセリ教えてあげるね」Mちゃんはきれいな声で「シュワキマセリ~シュワキマセリ~シュワ~ア~シュワ~ア~ア~キマ~セ~リ~」と何回も歌ってくれた。私もこのフレーズだけはマスターして家でも歌ってみた。母も一緒に歌ってくれたのでこの曲は「シュワキマセリ」の曲だと一人納得したのだ。(ここで母がキチンと説明してくれていれば…)その後成長して楽譜が読めるようになった時、母の讃美歌の曲集の中にこの曲を見つけた。ナント「シュワキマセリ」は「主は来ませり」だったのだ。私は一人合点の子だったので「シュワキマセリ」はクリスマスの呪文のような言葉だと思いこんでいたのだった。この思い込みがとけた時の可笑しさと言ったら。一人で暫く笑い続けて…。その幼なじみのMちゃんとは4年前に会うことができた。進学、就職、結婚とそれぞれ違う20年あまりを過してきたのだがお互いに一目で判った。懐かしい思い出や現在の事など話すうちに時間は瞬く間に過ぎてしまったが、Mちゃんはジックリとした大人の女性になっており、「会えて良かった」と思えた事がとても嬉しかった。新しいクリスマスソングもいい曲は沢山あるのだが、讃美歌112番~諸人こぞりて~は幼い頃の懐かしい思い出と重なり、いつの間にか口元がほころびる一曲だ。夕方shinは小さな花束を持って帰宅した。「はい。今日は結婚記念日だから」朝からも「今日は記念日だね」と言って出かけたが、ずっと曇りオツムが続いていて夕方まで覚えているとは思ってもいなかったので、驚きと共に嬉しさもこみ上げて来た。ありがとう、shin。2003 12/20(土) *自宅復帰56日目*長女は終業式とキャロルがあると言って登校しました。帰宅後「キャロルもその後のお汁粉も良かった~」と興奮した様子でした。shinの復職について両親と話をしました。現在の状態では無理なのではないか…と懐疑的な思いがあるようです。入院中から退院後もshinとは深く話をしようとしない両親です。間に立って私ももどかしい思いもしましたが、理解力記憶力とレベルダウンが目立つ両親にややこしい説明をするのもためらわれていたのも事実です。できればもう少しリハビリに励みたいが休職期間の延長は認められず、復職願い等の書類の提出を求められ現在返事待ちだから…と何回目かの説明をしました。義父は常に父親としてではなく、会社の上司のような視点でshinを見ていたようです。この30年近くshinを束縛していたものは、この義父の眼差しだったのかもしれません。いずれにしても結果はもうすぐ出るでしょう。shinが病気になってから待つことには慣れたつもりです。もう少し待ってみましょうか。
2004.12.20
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2004 12/19(日)shinは年賀状の印刷。並行して出来ないこともないのだけれど、shinの分が完成しないと私のも子供のも落ち着いて出来ない気がして随分せかせた。一番ホッとしているのはshinかもしれない。去年の年末はお客様状態のshinだったが、今年は大掃除や片付けも手伝ってもらおう。早めにオーダーを出して段取りを立てるところからしてもらうのも良いかもしれない。 2003 12/19(金) *自宅復帰55日目*午前中T先生の訪問です。両親のリハビリは現在の機能の維持を主な目的としていますが、このような介護保険の利用の仕方が出来て本当にありがたいと思っています。それぞれの部屋で会話を交えながらのリハビリは、精神的にも両親のプラスになるのでは…と思います。午後からはK先生の診察でした。その前にH病院に寄り、先日の検査の結果を貰いました。shinも目を通しましたが、相当シビアな結果でした。本人も覚悟はしていたようですが、落ち込んでいるのも分かります。私は「病後半年だし、この結果をスタートにして右上がりになっていけばいいじゃない?」と言うのが精一杯でした。shinはK先生に先日の超特急診断書のお礼を述べ、午前中にまとめていた質問などをしています。先ほどのH病院の検査結果も見てもらいました。K先生もコピーしてshinのカルテにファイルしていました。身障者手帳の話も出ました。shinの場合、そんなに重い級は取れないようですが、これから先の社会生活にもあった方が何かとプラスになる事もあるようです。中には取りたくない人もいるようですが、shinは特に嫌がる気持ちも無く、申請の準備を進めることにしました。
2004.12.19
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2004 12/18(土)今朝は次女のリクエストでまたまたオーブン仕事。クッキーとブラウニーを焼いたのだけれど、BPや型紙用の紙を切らしていた。いつもと違うモードへの切り替えが最近は上手くいかない。私も注意力が落ちているなぁ。ブラウニーはワンボールケーキなので材料をマゼマゼしていけば出来るのだけど、今日は砂糖で失敗した。半端に残っていた粉砂糖を卵と合わせたのだが、いつまでたってもモッタリと泡立たないし。きっと粉糖のコンスターチがまずかったのかも。以前の私ならもう一度やり直すのだが、いい加減なところで諦めてそのまま焼いてしまった。BPも泡立ちも不足していたので上がりは悪かったけれど、ソコソコのお味。まぁ、これでもいいではないか。。。と開き直ってみたものの、暫くブランクがある事をする時は要注意。shinは今年最後のPT。F病院の入院サイクルは大体3ヶ月で、退院しても通院が可能なら外来リハになる。リハビリの先生はどなたも入院患者と外来患者を担当しているのだけれど、担当のO先生の患者は増える一方なのでそろそろshinも卒業になるのかなぁ…と思っていたのだが。来年の予約が取れたと言ってshinが帰ってきた。あぁ、良かった。昨年の病後半年間のような目覚しい進歩は無いにしても、専門家の指導の下でリハビリに励む事が出来るのは本当に幸せなのだ。あちこちの病院のシステムなども時々耳にしたりするのだが、退院後3ヶ月の通院リハでスパッと切られたり…なんて事を聞くと胸が痛む。そこからの道のりが長いのだし、時として不安になる患者は技術的にも精神的にも専門家にサポートしてもらいたいと思っているのだ。救急救命の技術が進歩し脳卒中の死亡率は以前に比べると大幅に減少したと言う。その一方でリハビリの充実度はどうだろう。F病院のように質の高いリハビリを提供できる所ばかりではないのが現実のようだし、慢性期のリハビリの受け皿が少ないのも現実のようだ。また高次脳機能障害についての認識が医療機関でもばらつきがあり、適切な治療を何年も受けられないままの人も沢山いるらしい。お年寄りの場合は「あら、おじいちゃん病気のせいでボケちゃったのかしら・・・」なんて思われる事もあるのかもしれないが、若い人はそうはいかない。また症状によっても高次脳機能障害と分かれば早い段階から適切なリハビリを行う事で随分と回復できるのだから、まずは高次脳機能障害の社会的な認識の広がりが重要だと思う。夕方Zさんからハガキが届いた。shinが病気をしてから幾度Zさんに励ましてもらっただろう。ハガキもメールも電話も、いつも私のシンドいタイミングを見計らったように届き、元気付けてくれるのだ。今私が悪戦苦闘している事はすでにZさんは経験済みで、優しくでもしっかりとした言葉は私の心にグングン沁み込んでいくのがよく分かる。ありがとう、Zさん。2003 12/18(木) *自宅復帰54日目*shinは朝から会社への提出書類を書いています。入院中から書字は練習してはいたものの、日記程度のものしか書いていなかったので、フォーマルな文章はなかなか進まないようです。小さなミスもあれこれあり、コピーを取って下書きをしたのは正解でした。午後からのケアマネージャーのKさんの訪問が終わり、急いで郵便局へ行きました。列に並んで順番を待っていると、shinが書いた封筒の宛名書きに会社名が抜けていることを発見。ああ、きちんと確認したつもりだったのに…。私の注意力の無さに腹が立ちます。どうしようかと思いましたが、結局私が書き足しました。本当に悔やまれますが仕方がありません。買い物もして帰りましたが、同じものを2個買っていることに帰宅後気がつきました。あ~ぁ、本当にどうしたことでしょう。私の注意力は限りなくゼロに近い感じです。こんな日もあるのかぁ~。トホホの一日でした。こんな日は早く寝るに限ります。
2004.12.18
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2004 12/17(金)我家の近辺にはまだ少しながら雑木林が残っている。ベランダから見える東側の雑木林は結構横に広くて大きい。春先にはあちこちにモヤモヤっと咲く桜もあるので、秋になると寒い地方ほどではないが紅葉もし、常緑樹とのバランスが美しい。季節が進むと葉の落ちた木々は枝だけの姿になるが朝日の逆光にくっきりとシルエットを見せるその枝々の繊細さは早朝だけに見られる美しさかもしれない。でも昼間の力強さもある。雲ひとつない青空に映える葉を落とした木々。葉も花もついていない枝にあるのは次の春への準備の証しである冬芽だけだ。それでも裸の枝の重なりからは春の予感が漂い、冬空に透けて見える枝の色も日々変化するのが分かる。余分なものをすべて捨てた潔い姿に私は何度勇気づけられたことだろう。小さい事に拘らないで、春は必ず来るから…。見上げた木々からのメッセージは、ちっぽけな私にも直球でズシリと、変化球でフンワリと届く。それにしても植物はエライと思う。芽吹きから爽やかな新緑、開花、冬芽の準備…と段取りを違えることもなく、淡々と永々と命をつなげる。それぞれに組み込まれたDNAの成せる業と言えばそれまでだが、どんなに厳しい天候が続いても弱音をはいたり諦めたりしない強さには、しなやかな力を感じてしまう。この一年間の生活で挫けそうになった事も実は何回もあったけれど、その気持ちを軽くしてまた元気にしてくれたのはいろんな形でサポートして下さった沢山の人々とあの雑木林かもしれない。太古の昔から人は森から自然の恵みを分けてもらい、更にエネルギーをも吸収してきたのかもしれない。私は木々に何のお返しも出来ないけれど、感謝の気持ちだけは忘れないでおこうと思う。 2003 12/17(水) *自宅復帰53日目*午前中は会社へ提出する書類の下書きをしました。午後からshinは地区のリハビリ教室へ出かけましたが、今日は着いたよコールが出来ました。「建物に入る前に連絡する」ことが漸く定着してきたようです。shinが下書きをしながら良い文章が思いつかず、私は文例集を買ってこようと思っていたのに、買い物だけしてすっかり忘れて帰ってきました。これではshinの事は言えませんね。どうしようかと迷いましたが、後悔はしたくなかったのでもう一度書店まで出かけました。ビンゴ!ほぼピッタリの文例を見つけられました。よかったぁ。
2004.12.17
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2004 12/16(木)本日は主婦業の日。お天気も良く、フトン・洗濯物をジャンジャン干し、しばらくサボっていた掃除もま~るく済ませる。午後からは長女のリクエストのクッキーも作り何だか充実の一日だった。オーブンを使うのは大好きだ。粉系もお芋もチーズ系もオーブンを使うととてもいい香りがする。子供の頃、学校から帰って玄関を開けたとき、プーンと暖かい香りがすると何か幸せな気分になったものだ。「お母さん、今日は何を作ったの?」…数十年前の私も、私の子供達も靴をぬぎながら同じ事を聞いているのがおかしい。クリスマスが近づくとフルーツケーキやシュトーレン、クッキーなどを焼いてはおやつにしたり、親しい人にプレゼントしたりもしていたのだが、去年今年と生活のサイクルも変わりちょっとサボっている。それでも今日は長女がお友達の家に持って行くクッキーを作れた。買えば何でもある時代だけれど、私はオーブンを使って子供達に小さな思い出を焼いているのかもしれない。2003 12/16(火)朝一番で訪問リハビリのT先生とラッシュ体験をしました。自宅→駅→会社最寄り駅→会社と歩行も含めてT先生に見てもらいました。先日二人で乗った時とほぼ同じ時間帯でしたが今日の方が電車は混んでいます。ドア付近に立っていたので駅に着く度にホームへの出入りがあり、人に押されてよろけないかと心配になりました。先生もその点が気になったようですが、「全体的には思った程悪くはない」との評価でした。やはり慣れも必要なのでしょう。会社までの道のりも確認してもらった後、駅でちょっと休憩しました。先生とは先週初めてお会いしたばかりなのですが、とても気さくに話してくださる方です。発病当時の事、リハビリの事、今後の事等など沢山話してしまいました。誰にでも話せる内容ばかりではないので、shinも私も溜まっていたのかもしれません。それにしてもこんなに早い時間に一緒に外出訓練をしてもらえるとは思ってもいなかったので、本当に感謝です。先生もshinのようなレベルの在宅患者は初めてらしく、「私も新たな経験です」と言われました。先生とは途中で別れ、私達はそのままF病院のリハビリへ向かいました。今日はSTとOTがあります。病院へ入るとTさんご夫婦が時計台広場が見える場所におられました。最近はすっかり寒くなり外に出る患者さんもあまり見かけません。久々にお会いするTさんです。随分元気そうになってはおられましたが、歩行と失語症の更なるリハビリのために、明日転院される事を聞きました。shinとTさんは入院当初いきさつがあったので険悪なムードの時期もあったのですが、3ヶ月の入院期間中にコミュニケーションが出来るようになっていました。病棟で聞いた話ではTさんは警官だそうです。意思が強そうなお顔や屈強な上半身を見ていると、ナルホドと思います。私と奥さんも年令が近いこともあり、会うと近況を話せるようになっていました。でも「○さんは歩けていいですね」「話せていいですね」「字が書けていいですね」と言われる事も多く、私も慎重に言葉を選びました。今日は「○さんみたいに歩けるように新しい病院でもがんばるからねっ」との明るい言葉に救われました。ちょっとナーバスになっているTさんは「じゃあ、体に気をつけて頑張ってください」と言ったshinの手を握り涙を流していました。私もウルウルしてしまいましたが、こんな時いい言葉がうまく出て来ない自分がもどかしく思えます。聞いていて「あぁ」と思える言葉を沢山持っているのは、きっといろんな経験をして涙も一杯流した人なのでしょう。「頑張る」と一言で片づけるのも好きではないのですが、今日はTさんも奥さんもしなやかに頑張って欲しいと心から願いました。
2004.12.16
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2004 12/15(水)12月に入り喪中のお知らせが沢山届いている。その中でも同年代の友人知人からが今年は目立つ。実家のお父さん、ご主人のお母さん…。私達も親を見送る世代になってきた…ということだろうか。そう言えば私が高校生の頃(母は今の私より少し若かった)、母方の祖父や父方の祖母が続けて亡くなった。孫としての悲しみは充分あったつもりだが、その頃の両親の気持ちまでは理解出来なかった…と思う。悲しみの中にもいろいろと処理をしないといけない決まり事も多々あり、日常の生活も止まってはくれない。子としての責任、親としての責任…40代50代は抱えているものも結構大きく重いのかもしれない。 2003 12/15(月) *自宅復帰51日目*朝一番でH病院の脳外の外来です。4週間前に受けた検査の結果も今日もらえるように頼んでいたのですが、病院内での横の連絡が出来ていなく後日になりました。本当にこの検査では最初からスムーズに行かないことばかりです。検査の日程、段取り、結果…とどれ一つ一度でうまくいってません。いくら電子カルテで処理をするとは言え、最終的な確認は人の目ではないでしょか。先日会社より提出を求められた主治医の診断書、一般的な健康診断書の依頼と時間的な余裕があまりない事情についてF病院のK先生とSWのUさんにFAXを送信して今朝は家を出ました。H病院で順番を待っているとUさんから「一般的な健康診断書は年末でもありちょっと時間がかかるかもしれないです」と電話がありました。項目によっては結果が出るのは来年になるものもあるようで、すぐ会社に連絡をしてみると「じゃあいいです」。なんなの、これは。思いつきではないのでしょうが、提出の根拠ってあったのでしょうか。一方主治医のK先生は今回の事情もよく理解して下さり、「今日中に書いておくから明日取りにいらっしゃい」とのことでした。書類は事務窓口に依頼書を書いて担当の先生へ廻りそれからまた窓口を通して患者の手元へ…というのが普通なのですが今回は超特急で書いていただけるようです。この週末は、会社訪問後の何となく不安な気持ちで過していたのでUさんやK先生の思いが嬉しく、硬くなっていた気持ちもフッと緩んだようになれました。感謝です。
2004.12.15
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2004 12/14(火)皆それぞれの外出予定があったので私も出かける。高速に乗って100kを出し、かなりスカッとして帰ってきた。今抱えている問題の解決にはならないが、自分の気持ちを早めに切り替えないと私も周囲もキツイから。と言っても私はアブナイドライバーではないのよ。いつもは安全運転を心掛ける優良ドライバー。 今日は天気もよく(私の守り星座は太陽らしい)運良く高速もスイスイと空いていたので、アクセルを踏む右足にもグーンと力が入ったわけで。落ち込んだ時、元気が湧かない時などに出来る気分転換の方法を沢山持ちたいと最近よく思う。私は気持ちの切り替えがあまり上手ではないので、いつまでも引っ張ってしまう事がある。そんな時うまく自分を弾けさせることが出来たら、もっと気持ちも楽になるだろう。2003 12/14(日) *自宅復帰50日目*スキー教室に必要な物の購入のため、長女と買い物へ出かけました。私は九州出身でスキーが出来るほどの雪を見たことがありません。shinは以前北海道に転勤したことがあるのですが、スポーツは大好きなのに一度も「スキーに行こう」とは言いません。きっとシリモチ専門なのでしょう。そんな訳で我家の子供達は学校のスキー教室が頼りです。身体能力はソコソコの娘ですから4~5日行ったからってどうと言うこともないでしょうが、まあ何事も経験です。今年は夏休みもお楽しみはなかったので、楽しい思い出を沢山作ってきてほしいと思います。
2004.12.14
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2004 12/13(月)私が土曜日に飲み込んだブンドウの重さは確実にshinと違っていたらしく、優先度の違いが原因でとうとう私がキレる。shinの優先度の違う行動が病気の為か只のモノグサなのかが分からない。でも疲れているとダメね。普通ならもう少し忍耐できる事でもガマンがきかず、出てくる言葉も超キツイ。こんな時はshinにも自分にも苛立ちが増す。早めに気分転換をしなければ…。2003 12/13(土) *自宅復帰49日目*退院後から「PCは早めに触ろうね」と度々言ってはいたのですが、どうも避けている様子でキッカケがつかめないまま私も一日延ばしにしていました。ところが昨日の会社訪問でPCについてもスルドイ質問があり、ようやくshinも始める気になったようです。入院中もOT室で少し触ってはいたのですが、手始めに以前私用に購入していたタイピングのテキストを使ってみました。やはり右手の動きが上手くいきません。病前は500字/10分くらいのスピードで打てていましが今は右手の書字よりも遅いかもしれません。何でも病前と比較するのはよくないと分かってはいるもののつい出来ない事に目がいって落ち込んでしまいます。右マヒがあるので当然と言えば当然なのですが…。とりあえずの目標は書字のスピードを超すことでしょうか。またPCのいろんな機能もすっかり忘れており、これらを呼び戻す…と言うより新に入れ直すにはかなりの時間がかかるでしょう。でも何もしなければゼロのままです。少しでも前に進む努力をする事で気持ちも落ち着くし自信も出てくるかもしれません。
2004.12.13
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2004 12/12(日)次女曰く「私達ももうサンタクロースを信じる年頃でもないんだよね」 「じゃぁクリスマスプレゼントもいらないってこと?」 「そうじゃなくて一緒に買い物に行って自分で欲しい物を決めたいな…って」 「ふ~ん」…先日からそんな会話をしていたのだが、ちょうど定期試験も終わったので今日は子供達と外出。いろんなお店が入っているショッピングセンターでそれぞれ予算内で欲しいものをチェック。私も見たいものはあったが昨日も一日がかりの外出だったので頭が働かずボンヤリしている。こんな時は変な買い物をする事が多いので、敢えて私の買い物はしない。昨日の銀座もそうだったがボーナスサンデーのショッピングモールはクリスマスショッピングの家族連れでどこも一杯だった。子供達は限られた予算の中でも楽しみながら迷っている。shinは病前から、ユックリモードの買い物に付き合うのは好きでない人なので、今日は子供達と3人ノンビリ過す。お昼も気に入った所でゆっくり出来て二人ともいい笑顔を見せてくれた。思えば去年のshinの発病から子供達も結構シンドイ思いをしているはずなのに、shinの事・祖父母の事・家の事と手伝ってくれる二人は私にとっても大きな支えになっている。これから二人とも進路を決める時期になるのだが、それぞれのやりたい事や夢を叶える為の努力を惜しまず、自分の道をしっかり歩んで欲しい…と思う。2003 12/12(金) *自宅復帰48日目*先日ケアマネージャーのKさんから提案があった訪問リハビリが実現し、今日は事業所の方と担当PTさんに来てもらい契約と顔合わせがありました。担当のT先生は明るくハキハキとした女性で、両親の自宅でのリハビリとshinの職場復帰に向けての外出訓練などをしていただくことになりました。さしあたり来週の火曜日はshinのラッシュ体験、金曜日は両親のリハビリです。さあこれからどのような展開になるのでしょうか。楽しみです。shinが病気してから出合った人は沢山いますが、どの方ともとても大切な出会いであり心細い私達を支えたり励ましたりしてもらっています。今はまだ受身の私達ですが、この出会いの一つ一つが力となり勇気となっていくのが分かります。そして、いつかどんな形になるかは分かりませんが私達が頂いたエネルギーをまたどなたかにお返しできる日が来るように願っています。今日のもう一つのイベントは4時の会社訪問です。今にも雨が降り出しそうな天気になりましたが、3時ごろ家を出ました。shinが締めているネクタイは今年の父の日に子供達がプレゼントしたものです。と言っても父の日はICUで危ない状態でしたので、渡せたのは一般病棟へ移ってしばらく経ってからでしたが。久々にスーツを着たshin。病後痩せたのでシャツの首周りも少し緩くなりウエストも余っていますが、以前の「働くお父さん」です。またこうやって毎朝着替えて出かける日が早く来るようにと思わず祈ってしまいました。会社訪問には同行するかしないか迷いましたが、OTのI先生の「一緒に行かれたがいいですよ」とアドバイスもあったので、会社でのやりとりも確認できると思い一緒に行きました。会社ではKさんと先日病院へ一緒に来てくださったMさんが対応してくださいました。雑談の中にもシビアな質問もあり、shinの一挙一動がしっかり見られているのが分かります。復職願いや診断書等の提出書類の説明があり、なるべく早く提出するようにと指示がありました。F病院の退院前に休職期間が延びた時、会社からの書類には次期出勤日は2004年1月5日とあったので1/5確実スタートと思っていましたが、そうでもないようなニュアンスの話もあり、まだハードルがある事を改めて感じました。転職して間もないshinは会社への貢献度も低い訳ですし、中途障害の社員を職場へ迎えるのは会社の負担が増える事になるのでしょう。まぁでも、ここであれこれ心配しても始まりません。今出来る事は必要な書類を整えて後は待つだけです。気持ちを切り替えましょう。会社を出た頃から降りだした雨はだんだん強くなりました。帰りを約束していたので、次女の出先へ寄り一緒に帰りました。次女は「お父さんスーツ着てる。あ、そのネクタイ父の日のだね」と目ざとくチェックです。帰宅してから次女が私にこっそり言いました。「あのね、お父さんが病気になった時は私泣かなかったんだよ。でも今日スーツを着たお父さんを見たら涙が出ちゃった。どうしてだろうね」12月の雨は冷たく、shinは初めて夜道と雨降り歩行を同時に経験する事になりました。
2004.12.12
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2004 12/11(土)1月からの求職活動に備えて情報収集も兼ね、都内の障害者専門の人材登録会社へ行く。今日の説明会の参加者は5名で男性はshinのみ。50代に見えた女性は補聴器を着けていたが、他の若い3名の女性はは内部障害なのか外見上からは分からない人ばかりだった。全体のオリエンテーションの後、個別面接があり、こちらの情報・希望等を細かく聞いてもらう。3人の今日の担当者もそれぞれ手帳をお持ちだとか。この会社自体、よく聞く人材派遣会社の特例子会社で社員のほとんどが障害を持った方らしい。さて、覚悟はしていたがやはり障害者の雇用ニーズは厳しいようだ。加えてshinは1月には51歳になり年令のハードルもある。…と落ち込んでいてもしょうがないのだが。きっときっと巡り合える職場がある…と信じたい。shinが病気になってから次々と出てくる厳しい現実。シンドくてもイヤでもそれを受容しないと前へは進めない。その現実をゴクリと飲み込む度に、私の胃の中では理科の実験で使ったようなブンドウがゴロゴロと動き回る。私の中で現実がいつの間にか落ち着き、居場所を見つけ、代わりに何かを捨てる…その繰り返しだったようにも思える。shinとは現実認識のレベルも違うので、そこでも私はストレスを感じてしまう。これは良くない循環だと分かってはいるものの、じゃぁどうすればよいのか…。今の私にはこうやって自分の気持ちを言葉にする事ぐらいしか出来ない。後から読んで「全~部グチだ」と思えるものでも、言葉にする事で支えられている私がいるのだと思う。2003 12/11(木) *自宅復帰47日目*明日の会社訪問に備えて想定問答?をしてみました。私も同行はしますが、メインはshinです。さて、明日はどうなるでしょうか。
2004.12.11
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2004 12/10(金)昨日よりはマシな状態になったが、まだ調子が出ない。とりたてて急ぐ用事もないので、今日もジワッと過そうか。2003 12/10(水) *自宅復帰46日目*先月LPガスから都市ガスへの工事をすませたのですが、今日は関連してガステーブルとレンジフードの取替え工事です。朝一でスタートしたので昼過ぎには工事は終わったのですが、先に部品交換をしてもらっていたオーブンの不調も分かり、結局後日再修理となりました。shinは午前午後と違う予定があり、朝から外出です。午前中はKさんが立ち上げたリハビリクラブの発足式で、ナント司会はshinがするらしいのですが。大丈夫かな。今朝出かける前に「着いたよコールは目的地の建物に入る前に外からかけてね」と念をおしました。すると午前、午後と2回の連絡がありました。目的の建物に入ってしまうと連絡を忘れるようです。どうやらポイントはここだったようです。昨日痛みを訴えていた義母も今日は平気なようです。やはり病院へ行って安心を貰ってきたのが良かったのでしょう。大人でも子供でも不安な状態で過すのは精神衛生上よくありませんね。
2004.12.10
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2004 12/9(木)朝からボーッとしていて体に力が入らない。今回は自然体を心掛けていたので、特別にテンションは上がっていなかったと思うのだが。こんな日は無理をせず、ボンヤリ過そう。午後から両親は駅前まで外出。退院前に「○さん、沢山歩いてね」と先生から言われたとか。それにしても翌日から出かけるとは…。恐るべし、82歳。私より元気。2003 12/9(火) *自宅復帰45日目*義母が「数年前にかかった帯状疱疹に似ている」と痛みを訴えました。義父と違って騒がない人ですから、「痛い」と言うときは相当な状態なのかもしれません。今日は午前午後とリハビリがあるので、義母には義父が付き添って病院へ行きました。shinと私はSTの時間に合わせて現地集合としました。私が出かけようとしていた時に、郵便局の保険担当の人が来てしまいました。特別に約束のある訪問では無かったのですが、聞きたい事もあったので出かけるのを遅らせました。先日shinの入院保険の申請をしたのですが、調査が必要なので時間がかかる…との連絡がありました。CMなどでは「すぐにおりる」を売りにしているのに、おかしいなと思っていたところだったので事情を話してみると。shinは加入してから2年が経過していないので、その間については誰でも審査があるそうです。今回が特別な事ではないのでもう少し待つように言われました。shinの他の入院保険は50歳になってから考えようと思っていたので、健保の高額医療費や付加給付金などはあったものの今回の入院はかなりの出費になりました。うっかり者の私は保険に対してもうっかりしていて、備えは薄かったと言えます。これから新たなshinの保険は契約できないので現状維持でいくしかありません。「こうなったら奥さん、もう自分の終身保険も考えてね」とアドバイスを貰いました。今までは子供達の学資保険が中心でしたが、私達の老後ももう見える所まできています。はぁ~早い。結婚前にお世話になった先生が、地元の新聞社の県民文化賞を受賞された事を知りました。とてもお世話になった方で、現在は脳梗塞後のリハビリに励んでおられるそうです。先生のご苦労される姿も間近に見ていましたので受賞された事も私としてもとても嬉しく、またshinの病気とも重なる部分もあり、いろんな気持ちを込めてお祝いのお花を贈りました。病院への道の途中で寄った花屋さんには様々な鉢植えや苗などがありました。shinが病気をするまでは季節ごとに寄せ植えを作り変えたり球根や種から花や緑を育てたりしていたのですが、気持ちの余裕も時間も無い生活をしていると花屋さんへ行く事も無くなっていました。今日は先生のお蔭で綺麗な鉢植えや季節の花々を沢山見る事が出来ました。いま流行の「癒し」とか「和み」などと言う言葉を口に出して使うのは個人的には好きではないのですが、この20~30分間が私の気持ちを随分落ち着かせてくれた事に気づきました。OTのI先生に12日の会社訪問の事を相談してみました。距離的にも近いしどうしようかと思っていたのですが、「病院での面談はいつも同席していたし、重要な話もでるかもしれないから奥さんも同行した方がいいでしょう」とのアドバイスでした。今のshinの状況では、やはりその方がいいかもしれません。夕方帰宅すると義母は普通の状態でした。痛みも治まり、先生からも「帯状疱疹ではないでしょう」と言われたそうです。あ~やれやれ。一安心です。
2004.12.09
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2004 12/8(水)予定より早く病院には着いたのだが、もう足踏みをするような気配で待っていた義父。「前のベットの人はもう出たぞ」義父の入っていたのはどうやら短期ステイ専用の部屋らしく、月曜の手術日に合わせて週末に入り手術が済むと順次退院というパターンらしい。もはや術前のションボリさんはいなくなり、いつものワガママさんに戻っている。まぁ元気になったという事か。義父の入院中は天気も良く、比較的暖かな日が続いた。義母は「なにも12月に焦ってしなくても年が明けてからでもいいんじゃない?」と言いはしたが、1月に延ばせばまたいろんな条件が変わってしまうかもしれない。出来る時にする。波が来たらのる。shinが病気してから私はあれこれ考えなくなったのかもしれない。いつもその時が良いタイミングだと思うことにしている。子供達の定期テストとはバッチリ重なってしまったが、予定通りに無事終了出来たのは本当に感謝だ。2003 12/8(月) *自宅復帰44日目*とても良いお天気です。shinとお墓参りに行きました。両親と行くとあれこれ面倒な事もあるので、二人でとっとと出かけました。お掃除も綺麗にしてあったので、軽く水を撒きお花を飾って終了です。帰りはルートを変えていつもと違う道を通ってみました。本当にお天気がよいのでドライブには最高のコンディションです。長い人生の中で今日のような雲ひとつ無い晴天、何の憂いも無い日々がどれ位あるものなのでしょうか。年を重ねるにつれ、人はそんなに沢山無い事が分かってくるものなのかもしれません。曇りや雨があって晴れの日のありがたさが分かるのだとすれば、今の私達の状態は雨のち曇り…でしょうか。いつかまた晴れの日を手に入れる為に頑張りたいなと思った初冬の一日でした。
2004.12.08
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2004 12/7(火)昨夜は動けなかったためトイレの度にナースコールを押さねばならず早くも文句を言っていた義父だが、「今日は誰が来るの?」と昼過ぎに電話をかけてきた。昨日の疲れで元気の無い義母は最初からパス。私一人で病室へ行ってみるともう点滴も外され、昨夜私が帰ってからの事を縷々と話す義父を見て安心した。「ああいつもの通り。フツウだ」標準コースだと術後2日で退院なのらしいが、義父も明日には出られそう。話すだけ話すと満足したのか「疲れたろう、今日は早く帰ったら。明日は早めに迎えにきて」だって…。2003 12/7(日) *自宅復帰43日目*駅前のスーパーの本屋でshinと待ち合わせをしました。約束の場所へ行ってみましたが、shinが見当たりません。 下のフロアーも捜してみましたがshinはいません。携帯にも連絡してみるのですが、なかなか上手く取れないようです。 携帯も自分でかける事は随分早くできるようになったのですが、着信を取るのが難しいらしく呼び出し音が鳴っている間には出れないのです。着信に気がついてポケットから携帯を出し開けて…そうこうしている間に呼び出し音が切れてしまいます。呼び出しの時間設定を長くしてはみたのですが、まだ間に合わないようで。なのでこちらからshinに電話をしてもなかなか連絡がつきません。今日もそのパターンのようです。あきらめずに何回も何回もかけるうちにやっとshinも出てくれました。よくよく聞いてみると、本屋にはいるものの場所は違うスーパーらしく約束のスーパーを勘違いしたようです。待つこと20分、shinはふうふう言いながらこちらの本屋へ来ました。ちょっとバツが悪そうにしています。まぁ、地元で良かった…そう思うことにします。入院中からshinもノートをつけていましたが、来年用に大き目のスケジュール帳を買うことにしました。種類も沢山あって悩んでいましたが、見開きを4日に分けてあるタイプに決めました。病前は何でも覚えてしまう人だったのでメモ帳も持とうとしなかったのですが、これからはそうはいきません。今は真っ白の来年一年間のスケジュール。どんな予定が入るのでしょうか…。
2004.12.07
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2004 12/6(月)待つのは覚悟の上で12時には病院着。長い付き合いなのでshinも義母も義父の性格は知り抜いており、出かける前からあきらめムード。病棟へ行くと丁度ナースステーションに居合わせたDr.Yにshinも義母もご挨拶が出来た。義母は一度会ったくらいでは顔も覚えられない人で、「あの先生だっけ?」と心もとない反応。この病院では循環器の先生はいつもグリーンの手術着のようなものを着ているのだが、今日のDr.Yはその上にちょっと大き目の白衣を羽織っている。「前が押しているので3時過ぎになるかもしれません」と申し訳なさそうに言われたが、結局義父が病室を出たのは4時過ぎで戻って来たのは6時半を過ぎていた。その間、日当たりのいいデイルームで待っていたのだが、雲ひとつ無い青空がだんだん夕暮れ色になっていく。うつらうつらしていたのか、ハッと目が覚めた時はもう夜の空になっていた。昨日は6万4千人もの観客で埋まったスタジアムも今夜は静かにその巨大な姿を暗闇の中に映している。手術の説明がDr.Yからあり「すべて成功」との事だった。心配された造影剤のショックも無く、術前術後のモニターからは手術の効果もはっきり確認でき、家族の心配もいつの間にか溶けていく。局部麻酔だったので義父ともすぐに話ができ、shinも義母もほっとした表情で言葉を交わしているのが嬉しかった。その後遅い夕食を食べさせ(8時間は絶対安静でひざも曲げられないらしい)私も10時過ぎに帰宅。とても長い一日だったが手術も成功し義父の状態も安定しているのが何よりだった。それにしても疲れた。早く休もう。2003 12/6(土) *自宅復帰42日目*部屋の整理をしていた次女がまとめたゴミ袋をふと見ると何やら小銭やまだ使えるノートを発見しました。物の管理が上手くない次女には日頃から、お金も物も大切に使うようにと言っているのですが…。私も少々頭にきて、かなりキツク叱りました。これを機会に少しでも気をつけられるようになればよいのですが。毎年この季節は夏椿の枝にイルミネーションをつけます。本当を言うと何だかシンドイ気がしたのですが、子供達も楽しみにしているので今年も梯子に登りました。クリスマス系の準備は好きなのですが終わるとともに年末モードになるので、片づけが億劫なのです。年賀状も考える季節です。今年はshinには期待出来ないので、これも私の仕事でしょう。はぁ~大人になってから12月はあまり好きではなくなりました。
2004.12.06
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2004 12/5(日)入院前は「毎日来なくてもいいから」と言っていた義父も、昨日私が帰るときは「明日は何時に来るの」。やはり心細いのだろうか。日曜日の病院はお見舞い客も多く、デイルームも混んでいた。今日は夕方からすぐ近くの競技場でサッカーの試合があるので2時ごろからすごい人出。ここのデイルームも眺めのよい南西の角にあり、ざくざく集まるサポーターが間近に見える。病院のパブリックスペースが明るく広いと患者も家族も気持ちが良い。H病院もそうだったけれど。皆で共有できるものは多いほうが幸せな気分になれるのかもしれない。明日の手術のスタートは「早くて2時です」と看護師さんより説明があったのだが「何が起こるかわからないので早く来て」と義父が言う。やはり先日の説明の事もあり不安なのだろう。2003 12/5(金) *自宅復帰41日目*2回目のF病院一人旅です。今日も懲りずに「着いたら電話してね」と言って送り出しましたがやはり着いたよコールはありません。もう着いたかどうか心配はしていないのですが、どうして電話が出来ないのかがわかりません。やはり目的地に着くと安心してしまい、電話をするのを忘れるのでしょうか。夕方はご丁寧に病院からと電車の中から連絡がありました。きっとO先生の指摘があったのでしょう。JRでは長女と同じ車両に乗り合わせたらしく、駅には二人で降りてきました。午後から雨になり、うすら寒い夕方です。雨の日の歩行はまだ練習していないし、PTの疲れもあるでしょう。少し甘いかなとも思いましたが、駅まで迎えに行きました。
2004.12.05
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2004 12/4(土)今日は皆予定があったので、夕方病院集合とした。実は昨日今日とshinはF病院、H病院の受診日だった。特に脳外は今まで私も外した事は無かったのだが、良い機会と思いそれぞれ一人で行ってもらった。近況や1月からの求職活動スタートについて、また書類の依頼など数日前からメモ帳にまとめていた。今日のH病院は9時の予約だったが適当なバスの時間が無く、かなり早く家を出た。夕方病院へ行くと神戸の義弟も来てくれており、思いがけず皆が集まる事ができた。「知らせなくてもよい」と言っていた義父も嬉しかったらしく表情も昨日より落ち着いて見え、安心。皆がぞろぞろ行ったからって何が出来る訳ではないのだが、不安な気持ちの病人が少しでもリラックスできたり気持ちが落ち着いたりするのであれば、それでよいと思えるようになった。子供達もある程度の事は分かるようになってきているので、昨年のshinの入院にしてもそれぞれのレベルで感じる事はあったろうし、病院での家族の姿をきちんと見ておくのは大事な事だろう。2003 12/4(木) *自宅復帰40日目*昨日のメールの件もあり、今朝はラッシュ体験をしてみました。7時半に家を出て、8時台の上り電車に乗ります。混雑した駅の構内、電車の乗り降り、ラッシュの車内での立ち位置など心配は多々ありましたが、私が予想したほどの危なさは感じられませんでした。病前は片道2時間近くかけて通勤していましたが、今回もし復職できれば電車で15分ほどの所になるはずですので、それも安心材料の一つです。やはり何十年も通勤に電車を使っていたので体が覚えている事もあるのでしょう。降車駅のスゴイ人ごみも私のほうが戸惑うようで、shinはスイスイと抜けて行きます。結婚して間もない頃、shinと二人で夕方のラッシュ時に電車に乗った事がありました。それまでラッシュの経験が無かった私はあまりの混みように驚いてしまい、「次の電車に乗ろうか」と言った事があります。その時shinは「次も同じだよ」と笑いながら私を混雑する車内に押し込みました。ふとそんな事を思い出してしまったラッシュ体験でしたが、しばらく忘れていた朝の情景を見られただけでもshinの刺激にもなったと思います。
2004.12.04
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2004 12/3(金)義父入院。手術は6日なのだが腎機能アップのため週末はずっと点滴だとか。病室で荷物の整理をしていると手術の説明のため担当の先生からカンファレンス室へ呼ばれる。と、言ってもリスクに関しては先日外来で聞いた事と同じ内容なのだが義父は記憶が無いらしく、初めて聞くような表情で、だんだん不安になってきたのか顔色が冴えない。年令に加えて腎機能の問題、手術そのもののリスクが改めて説明され、また術例をモニターで見せてもらった。カンファレンス室で貰った手術の同意書は病室へ持ち帰ったのだが、義父はなかなかペンを取ろうとしない。「随分おどされたなぁ」とポツリ。かなり迷っているようなので私もゆっくりと待つことにした。「今更止める訳にもいかんだろう…」そう言いながら義父はサインをしたのだが、いつも威張っている義父だけに何となく可哀相になってしまった。2003 12/3(水) *自宅復帰39日目*午後からshinはリハビリ教室です。「会場に着いたら電話してね」と送り出したのですが、今日も着いたよコールができません。無事に着いたことで安心してしまうのでしょうか。ナゾです。後ろから尾行している訳ではないのでshinが一人で外出する時の様子は分からないのですが、病前と比べればいろんな事に緊張しながら歩いているのだと思います。我家は坂道の上にあるので行きは下りが主です。一緒の時も気がつくと道を睨んで歩いています。「目線はもう少し高めがいいよ。いろんな物が見えるから」と声をかけますが、歩くことに必死になっているshinの視線はいつの間にかつま先から1mくらいの所になっています。後ろからの自転車やバイク、前方の障害物などに気がつくのが遅い時も多々あり一緒にいるとヒヤリとします。横断歩道は青と同時にスタートすれば4車線道路でも大丈夫です。ただ点滅横断はダメでした。一度二人で怖い思いをしました。「一人で渡る時は点滅横断はやめてね」と念を押したことがあります。入院中に病室で中央線の踏み切りの話が出たことがありました。工事のため踏切の距離が広がり、高齢者やハンディがある人は渡りきれない…とマスコミも騒いでいました。Yさんは「私とTHさんはこの足だと渡りきらないうちに遮断機が下りて、きっと通勤快速にひかれちゃいますよ」と笑っていましたが、横断歩道や踏切の開いている時間なんて病前は考えた事もありませんでした。shinの会社から「12日に来社するように」とメールが来ました。いよいよ復職に向けての面談があるようです。shinは「来たか」と言いました。来週のOTでI先生にも対策について相談してみようと思います。
2004.12.03
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2004 12/2(木)午前中はヘルパーさん。5~6人のヘルパーさんが交代で来てくださるが、皆さんお仕事も丁寧で気持ちがいい人ばかり。定期的に人が来るのは今の我家にはとても重要だと思っている。明日から入院というのに義父は用意の様子もない。以前なら旅行でも入院でもさっさと荷物をパッキングしていたのだが、必要な書類さえまだ記入もしていないようだ。だんだん手術に対しての気持ちがトーンダウンしているように見えてならない。手術を決めるまでのプロセスが足りなかったかな。数日前から義母が用意していた入院道具を義父に確認させながら一つずつバックにつめる。リストも用意して一つずつ入れていても、「あれはいれたか、これはまだか?」と数秒前の記憶も覚束ない様子はこちらが不安になってしまう。オイオイ大丈夫?義母は義母でそんな様子の夫を見るのが辛そうだ。話しかける口調もついついキツメになっているのが分かる。私も義父に対しては、オイオイと思いながらも冷静に対応しているつもりだが、shinに対してはそうはいかない。やはり配偶者となると感情が先にたってしまうのかも。何か指摘する時も事実だけを冷静に伝えればそれでいいのに、やはり感情的な物言いになっている自分に気がつく。そしてその事で自己嫌悪。今の私の最大の敵は、自分の心、かもしれない。2003 12/2(火) *自宅復帰38日目*今週はshinの一人旅週間です。今日のSTも一人で行ったのですが、着いたよコールがありません。病院に入る前に連絡してね…と約束したのですが。さながら「初めてのお使い」のママのような気分です。途中で何かあったのかしら…と少々不安になりST室へ電話をかけてしまいました。折り返しS先生から連絡があり、shinは無事に着いたことが分かりました。やはり携帯を使う事を忘れていたようです。「午後のOTが終わった、今から帰るから」と3時ごろ連絡がありました。どうやらS先生からI先生へ連絡が行ったようです。このあたりの情報伝達の速さがF病院の特色のようです。 家族の不安が少しでも軽くなるように、先生方も気を配ってくださいます。感謝です。帰宅後、今日の様子を尋ねてみました。着いたよコールは忘れたようですが、それ以外の点では大きな問題も無かったようで、初回にしてはマズマズの出来でしょうか。
2004.12.02
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2004 12/1(水)昨日は義母より振込みを頼まれたのだが、いろんな偶然が重なりトラブル発生。で、朝からその後始末。振込先も義母の同級生なもので、電話で確認を取っても今ひとつ答えは不確かで…。「あ~年をとるってこんなことなのかなぁ」としみじみ思ってしまう。おまけに私のおめめもロービジョン度が進み、小さな字は読み飛ばしていたりする。そろそろシニアグラスも考えないといけないのかなぁ。人は衰えを感じると弱気になるのかもしれない。2003 12/1(月) *自宅復帰37日目*昨日の午後は横浜もすごい雨だったようですが、私達が帰り着く頃は雨も上がっていました。疲れが出るかなと思っていましたが、shinもケロリとしています。次女は学校です。外出の予定もないので一日ノンビリ過ごしました。
2004.12.01
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