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先週の金曜日の夜、NJにある旦那のホストファミリーの家に少々顔を出しに行った。次の日の土曜日がその家のパパ、Daveの誕生日だったのだが私たちの土曜・日曜の予定はめいいっぱい詰まっており、しかたなくその金曜の夜を使って一足速くプレゼントを届けることに決めた。そのお昼に職場近くのアートショップに行き旦那といろいろ探した結果、今年の彼へのプレゼントは「GONG」と書かれた小さい赤い箱にした。何かというと、その中にミニチュアの(手のひらサイズ)の中国風の鐘(あのよく映画の宮廷とかで鳴らされてるようなフライパンのふたがぶら下がったようなやつ)とそれをたたく親指の長さのバチ、32ページの説明書が入っている箱で、なにやら意外に面白そうだったのでこれを選んだ。Daveは冗談が大好きな典型的なアメリカ人なので、きっと受けるに違いない。 その行く途中の車の中で私と旦那はいろいろなことを話していたがふと、私達の小さい頃には昆虫、ザリガニ、おたまじゃくし等の自然のものとよく遊ぶことがあった、という話題になった。私の小さい頃は、住宅街自治区全体の庭にまだ除虫剤が散布される前で、庭にカマキリ、こおろぎ、バッタ、イナゴ、アゲハチョウの幼虫などが沢山いて、虫が大好きだった私は彼らに嫌がられるほど大切に育ててあげたり(アゲハの幼虫は箱から逃げ出した)、なでなでしたり(!)いつもいつも捕まえては逃がし、捕まえては逃がしして虫との交流を楽しんでいた。旦那の小さい頃は、まだまだあぜ道が沢山ある時代で、小高い丘に登って地面を掘れば縄文土器がざっくざく出てきてよくそれを掘って遊び(どういう時代だったんだ?!)、カブトムシやクワガタを一人でよく取りに行ったり、近くの田んぼにめだかやかえるがいたそうで、特に昆虫ではげんごろう(懐かしい名前・・・)が大好き、蚕やらせみやらアリ地獄やらといろいろ遊んだそうだ。こんな話をしてくれた。そんな旦那が相模原の自宅から歩いて数十分の「子どもの国」に家族に内緒でこっそり行こうと一人であぜ道を歩いていたある日、異常におなかの膨らんだ蛇が目の前に現れたという。無邪気な彼は、なんだこいつ~、と思いその蛇の尻尾をつかみ上げてぐるぐる回してやったそうだ。回して少々すると、その蛇の口から沢山のカエルが飛び出してきたという。蛇が吐き出すのを止めるまで彼は回し続け、止まったところで蛇を放すと蛇はふらふらして去って行き、ふと辺りを見回すとカエル(アマガエルの大きさ)の死骸だらけだったそうな。暇な彼はそれを全部数えたところ、軽く100匹は落ちていたという。人が通らなかったから誰にも死骸は飛んで当たらなかっただろうけど、後にそのあぜ道を通った人はすごく不気味だったに違いない。また一つミステリーの謎は明かされた・・・。一箇所に散乱したカエルの大量の死骸を見たら、それはどこかの少年が100匹のカエルを食べた蛇を振り回したにきっと間違いないっ…。その100匹もカエルをおなかに入れた蛇のことを考えても面白い。もちろん蛇にとっては笑い事ではないが、カエルを100匹も見つけ出すのも時間がかかっただろうしおなかに入れるのも時間がかかっただろうし、しめしめ・・・大漁大漁!と思っていたにもかかわらず旦那に会ってしまったが為に全部吐き出すことになったしまった蛇・・・。つかの間の幸せとはこういうことか。旦那のその蛇の話を聞いて私の頭によぎった懐かしい蛇を思い出した。山口県岩国市の祖母の家に昔よく行ったが、その近くに「神様の化身」と呼ばれるそこではとても有名な「白蛇」がいた。長さも数メートルあっただろうが、とても割腹の良い大きな白い蛇だった。その神の化身は広いスペースだが檻に入れられて、いつも端っこの方の木にのぼりじーっとしており、私は見るたび「どこが神様なんだろう?」と疑問に思っていた。そしてその化身はかれこれ10年以上前には亡くなったか、いなくなったかしてしまいその後そこには檻と説明の札だけが残った。その時は何度も見ていたのでなんとも思わなかったが、今考えると確かに白い蛇は珍しい。テレビでも見ることはまずないし(以前生きている時に神の白蛇として紹介されていたこともあったが)、道端で遭遇することもないだろう。あの広いと言えども窮屈な檻に入れられた神の化身は、いったい何を食べていたのだろうか。あれだけ大きな白い体を維持するのに檻の中でどんなえさを与えられていたのだろう。やはりカエル100匹は朝飯前に食べれたのかもしれないが、そんなに大量のカエルを頻繁に与えられたりしたのだろうか。ドライブが終わりReeves家に入るとビーグル犬のMandyとCandyが出迎えてくれた。そしてDaveに誕生日カードと「GONG」を渡すと彼はとりあえず箱を開け、少々安っぽい聞こえだが「コ-ン!」と言う音を取りあえず楽しみ始めた。「ひさ子を呼ぶ時に使えるなっ!」と奥さんのひさ子さんを苦笑いさせ、あっち向けてコンコン、ひさ子さんに向けてもコンコンと鳴らし始めた。コーヒーを入れてテーブルにつきゴングを置くと、Daveは箱の中に入っていた32ページの説明書を開いた。そこには「まず壊れないように丁寧に箱からお出しください」ともうゴングをたたきまくった後だと言うのに大真面目に書いてあり、Daveは大受けした。しかし彼が一番もっと笑ったのは「中国の文化に魅せられてこのゴングを手に取ったあなたは、音楽を奏でるのにもちろん興味がおありでしょう…。まず音楽を奏でるには、その鉄板をリズムよく叩いてください。」という既にがんがん叩きまくった後と言うのにそれまた神秘的に書かれた2ページ目のパートで、「いったい誰がこんなことを書くんじゃい!」とそれを聞いた私達も吹き出した笑いが止まらなかった。この吹き出し様で今年の誕生日も成功だったということを私と旦那は確認し、次の日の予定の為に慌てて自宅に向かってまたドライブを始めた。
September 30, 2003
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数週間前の土曜日にDanielのバースデー"Sushi"パーティーへ行った。パーティーにはほとんど知らない人ばかりしかいなかったので最初私と旦那のノリノリはすしを作ってしばらく二人で遊んでいたが、そのうち折角だから、と思い人々の会話に入ることにした。すしパーティーに来たDanielの友達はみんな食べ物通で、いかにすしがおいしいかと言うことで話は盛り上がっていた。その時ふと、Danielが「そういえばRayはね、XXマーケットのマネージャーをしているんだよ」と話題に出しその時私達は始めて会話を交わした。RayがマネージャーをしているXXマーケットはオーガニックの商品が販売されている今流行りのスーパーマーケットで、旦那の日系食品会社も実はその同じ店に商品を卸している。意外に身近で微妙に重要なコネクションに出会い、私はノリノリのことを思いちょっとうれしくなった。Rayは背がとても高くて体格もよく、ピアスにショートヘアーの男性で、紺のトレーナーにハーフパンツとセンスもなかなかの人だった。すしが大好きで週4回食べ続けても飽きないと、ノリノリの会社のすしを絶賛していた。この辺ではそのすしが一番安心でおいしいと私も思っているので彼と一緒に自分がほめられている気がしてうれしくなり、私たちはさらに会話を弾ませた。Rayは見かけはそのように男性らしいが、話し方はとてもお茶目でRandyというもっと男らしいパートナーと一緒に暮らしている、いわばゲイの人だ。二人は旅行が大好きで、特にアムステルダムがお気に入りだと言っていた。私達はハネムーンでガラパゴス諸島に行ったが、彼らもそこに行こうと思っていたらしく根掘り葉掘りそこにについて聞かれてわいわいと私は大好きなイグアナや楽しかった出来事について語った。そして話はどんどん進みなぜか政治の話になり、今回のイラク侵略がいかにビジネスで嘘の塊で無駄に人を殺したかと言うことで話は盛り上がった。私は普段政治の話はよっぽど仲が良くて安心できる人にしかしないことにしているが、初対面だけど彼にはできた。アメリカにいる外国人の考えとしてとても興味深く話を聞いてくれ、そして実はお互い反戦デモに参加していたことも分かりなおさら仲良くなった。そんなRayは実はホラー映画マニアだ。アメリカのはもちろん、アジア物も日本物もドンと来い!ぐらい良く見ているそうだ。(日本物は特に怖いと評をもらった)彼は「小さい頃からどうしてか分からないけどずっとホラーが好きだったんだ。」と言う。見かけやしぐさや彼の心のやさしさによらずとても怖いものを見るのが好きだった彼は随分と悩んでいたと言う。彼は心がやさしい分敢えて人が必ず持つ「恐怖」の部分に目をそらさないで目を向けようとしていたのだ、と私は思う。繊細で人にぶつかりすぎて崩れない前に恐怖を沢山目にすることによって生きる耐性をつけてきたんだ、と。誰かに好きなものは好きなんだから理由なんか考える必要ないだろう、と言われそうだがなぜわざわざそういうことを考えるかと言うと、私も見かけに全くよらずヘビーメタルが大・大・大好きだからだ。私は昔から泣き虫で小さい頃は特に他の人がかわいそうな時にも勝手におんおんと涙が出た。内気で「女の子らしい」と学校でもよく言われていたがまた別に、親のしつけの圧力にいつも押されて家ではその怒りを妹にずっとぶつけていた。ある時その怒りが「音楽を聴く」と言う行為に変わった。私の聞く音楽はとても重く、思考回路と同じように複雑で速くなったり遅くなったりし強弱のついたテンションで叫びや怒りを表現していて、聞いている間自分の持っている怒りと言う怒りの全てを忘れることができた。でもしばらく自分が本当にこれが好きで良いんだろうかという不安もあった。こういう音楽を聴くのは乱暴な男の子というイメージがあったし、実際それを聞いている人なんてほとんどいなかった。Rayもそうだったに違いない。誰も周りでホラー映画が好きな人はいなくてどうすればいいのか分からなかったけど、彼を強くするものはそれだったから必死で探したに違いない。私も自分を安定させるために必死で探していった。そして私達は二人とも戦争で沢山の人が殺されると言う現実はどんなホラー映画よりも恐ろしくどんなメタルよりも怒りを感じることを知っていた。私達はその恐怖や怒りを克服するためにそれらに向き合っているようなものなのだ。自分の風貌とは全く関係なしに世間的にあんまり…と目を反らされるものを敢えて見たり聞いたりすることによって私達は既に自分自身の中で戦いをしているのだ。ノリノリが持ってきたカメラでソファに座っていたRayと私を撮ろうとするとRayはぴったり私にくっついた。撮った後もしばらくくっついていたので私は恋愛した時と同じようにどきどきした。お互い似合ったパートナーがいるのでこれ以上仲良くなることはないけれど、同じ弱さとそれに立ち向かおうとしている強さを感じ取った私達はずっとぴったりくっついていたくらいこの出会いがうれしかった。帰り際、別れるときにお互いしっかりハグをして次に会えることを楽しみにしあった。
September 27, 2003
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開設して間もない私のページは、更新がほとんどない日でも自分が開いたり、誰かがランダムでやって来たり、意外に人が足を入れていた。自分でわざと入らなかった日も親切な人が来てくれてなんだかうれしかったものだ。今週US-Taiwan Relations Conference(いかにもネオコン好みなトピック!)で私は飛び回り、会場近くのホテルに泊り込みコンファレンスを進めたので数日パソコンに触れることがなかった。金曜日にオフィスに戻りログすると、前の日一日誰も来なかったことに気が付いた。楽天の編集トップ画面一面のアクセス推移グラフは9/19は「0」と書いてあるにもかかわらず薄くグラフの色を残してくれていた。0でもなかなか存在感がある。ちなみに自分がパソコンに触れていなかったその前の2日間はそれぞれ7人の人が顔を出してくれ、実はその次の日の土曜日も私は顔を出せなかったが、11人の人が来てくれた。あんまり変わり映えないページだけど誰かが必ず来てくれるという安心感の中、一日だけかくれんぼに成功したような満足した気持ちになる。見つけて欲しいのに見つけられて欲しくない、小さい頃を思い出しても必ず誰かに蘇る矛盾する気持ち。隠れると言うことは見つけてもらうためにあるわけで。ささやかだがそれを思い出させた、誰も私のページに来なかった日。そして人が来てくれる喜びを再確認する日。
September 19, 2003
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2章 The “Cold War” and the Exploits of the Self-Proclaimed “World Policeman”<「冷戦」と自称「世界の警察官」の功績>VOL.10 からの続き→→→→またはIndexに戻る韓国 1950-1953第二次世界大戦後、中国からマレーシアに渡る革命と反植民地運動により、アジア太平洋地区においてアメリカ国務省の掲げた計画は完全にひっくり返された。主戦線は朝鮮半島を開拓した。ワシントン議会は西洋諸国の軍事力がどんなアジアの軍力をつぶすことができるとはっきり示す為にこれに直接介入することに決めた。アメリカの軍艦、爆弾、そして大砲は韓国半島全土をほぼ破壊した。4分の3の市民である、450万人の朝鮮人が死んだ。5万4千人のアメリカ兵が棺おけとなって帰郷した。しかし全てにおいて技術的に勝っているアメリカの軍隊は勝たなかった。この集中した軍事から3年後、停戦が交渉された。朝鮮半島は未だに分割され4万人程のアメリカ兵が韓国に今日駐在している。(ここにがい骨が「次の戦争を待っているんです。」と言っている絵。)ドミニカ共和国 1965年アメリカが後ろ盾した軍事政変後、国民投票で選ばれたにもかかわらず政権を転覆させられた大統領を復帰させることを求めドミニカ人は蜂起した。しかし、ワシントン議会はドミニカ人が選んだ人には関係なく、手下にある男を居座らせた。2万2千のアメリカ軍が蜂起を抑える為に派遣され、3千人の人々がサントドミンゴの道で銃殺された。続く→→(まだ作成中)
September 6, 2003
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フィラデルフィアに住み始めて6年目にもなると、私が留学したての頃の日本人の友人は既にほとんどが帰国したか別の都市へ移動したかしており、近場にいる日本人の人々は旦那を含めて渡米して10年以上経っている人が大半だ。皆様々な事情で様々に生きているが例え彼らがどのような環境にいても、日本語を忘れていくという現象は共通している。会社の形態にもよるが日系企業にいると、職場の人の割合も断然日本人が多くなり会社内での業務では日本語が主に使われる。最近は人件費の事情もあり駐在員で成り立っている企業はほとんどなく、現時採用の職員が多い企業ばかりなのでなおさら生で使われるきれいで丁寧な日本語と接することが減っていく。英語は丁寧語があるにはあるが、ほとんど頼みごとをする時に使用されるだけで後は汚い言葉を使わなければどういうしゃべり方をしてもあまり変わりはない。しかし日本語で丁寧に話す時は、言葉の端々に尊敬・謙譲・丁寧語を散りばめなければいけない。日本からの来客が訪れ、その機会ごとにどんなに気をつけようとしても、やはり言葉の端々に「~ですから」と言いたいのに「~だから」とか、「~ですので」と「~なので」と出てきてしまい一応文の締めくくりには「~です」「~とおっしゃっていました」「~します」と思い出したように出てきてしまう。それと同様に漢字・熟語等の表現法などの記憶も薄れていく。書き言葉に話し言葉、それぞれの日本語を忘れていくにもかかわらず、英語を話す人々と接していないという最悪の事態になると、日本語もできないが英語もできないという非常に欝を導きやすい状態になってしまう。日本に戻っても日本語の能力に欠けて心配なのに、かといってこちらでばりばり人と接していくほどの英語の表現力がない。実際そうやってアメリカにいつつ日本人社会から抜け出して頑張れない人や、あきらめてとりあえず日本に帰国する人は沢山いる。留学の最大の難関はその「言葉のできない自分」とどうやって付き合っていくか、ということだろう。私は旦那のことも実は心配だ。渡米歴10年、日本で日本語の勉強を熱心にしなかった彼は少々日本語の表現力に欠けている。しかし日系の会社に働き始めてからここ2年程で英語力もかなり落ちてきていると、私はときどき実感する。彼の会社では日本語の書類が飛び交うので、書類は英語でも日本語でも作っていかなければならない。そしてなにより、日本語を忘れかけた人々に日本語の書類で物事を訴えるのはとても大変なことだったりする。相手の読解力も疑わなければいけないのでより明確に書いていかないと意味は伝わらない。日本人の悪い癖だが、分からなかったことは分からないと質問するわけでもないのに(質問すれば良いのに!)後で「あいつは何を書いているかわからん」と自分の能力を棚に上げて陰口をたたく人が沢山いる。確かに日本語を忘れた人が書いた日本語の文章を理解するのには相当な時間がかかる。あいまいに陰を残すことができるところが日本語の特にイイところであるが、そのように表現力が欠けた人が書く文は「陰」を残しすぎて結局何が言いたいのか分からないことが多い。いや、それは実際日本語の文章として成り立っていないだけかもしれないが書いている人にはそれがわからないので、読み手がそれを日本語の文として読解していかなければならない。旦那の日本語を直すのは私のルーティーンの一部だ。旦那の書いてきた文章を重箱の隅をつつくようにその背景にある意図を質問し、全部頭で分解してから新しく文を立て直す。ずーっと質問し続けていると、ついつい語調が強くなってしまうのでパートナーとしてそれは気をつけたいと常々反省はしているが、質問は止められない。でも彼も言われっぱなしでなく、彼なりに努力して私が指摘したことを念頭に次の文章を書いてくる。その文章添削を幾度も繰り返して、最近ようやく彼の「詳しく書いた」という行為と私の言う「詳しく書きなさい」という行為はどうやら解釈がぜんぜん違っているらしい、と分かった。が、それでもトライしてくれる気持ちがあればいつかは分かってくれると信じ、文章を楽しく読み解く。旦那が先週持ってきたのは、旦那の文章でなく旦那の会社が直属するレストランのオーナーのゆうこさんの文章だった。そのレストランから生まれた彼が勤める食品販売会社は今日本の企業に買ってもらえるかもらえないかの瀬戸際に来ている。オーナーのゆうこさんは日本にわざわざ赴き、その会社を訪問し社長さんをはじめ沢山の方々と面会したそうだ。ゆうこさんは頭が切れる上、明るく気風がよい魅力的なおかみさんだが、未亡人で二人の子持ちとあり人一倍働きものだし忙しい人だ。彼女がお世話になったその企業の社長にお礼状を書いた。添削を頼まれた旦那は、その日の夜取りあえず私のところにそれを持って来た。その文章の前半は形が整ってたが、残りは取りあえず書いておいた、という様に無理やり書かれていた。時間のないときの文章だ。ひとづつ拾っていくとゆうこさんは素晴らしい人々と出会い、その社風も施設も素晴らしく、お土産も沢山もらったということを理解した。後はどうやって文章にしていくかだ。例えばだ。++++「御社の衛生設備の整った工場や沢山の施設を見学し、大会社というものをまざまざと見た思いでした」という文章を日本にいて大会社が当たり前の人々のことを考えこちらの視点で伝えるなら、田舎者だと思われないように++++「こちらは米国での小さな組織で運営していますので、御社の衛生設備の整った工場や沢山の施設を見学させて頂き、大会社という大規模な組織に改めて感嘆しました。」となったほうが、お礼状で日本にいる相手に伝えるなら分かりやすくなるに違いない。こんな感じの文も例えに出すと、++++「素晴らしいレストランやメンバーズクラブに行き、シンデレラのような気分になりました」という文章が出てきた時は、このレストランが食べに連れて行ってもらった場所なのかそれとも会社の施設なのか確認し、シンデレラという意味がうまく伝わるように、++++「レストランやメンバーズクラブ等の施設はどれも素晴らしく、中に入るとまるでシンデレラになったような華やかな気分になりました」と言い換えることもできるであろう。さてここで大雑把に例を挙げておいたが、この文一つ一つを書いた本人の意思と文体を損ねることなく直していくという作業はとても時間がかかる。現にここに挙げた例でさえも簡単そうに見えて、とても時間がかかった。そしてこういう文章がひとつふたつでなく、何段落も続くとそれはそれは時間がかかるし、同じ文章のパターンはほとんどないのでいわば永遠の作業だ。お礼状は2段落とまとめの文章で構成され約1時間で仕上がったが、横で旦那は大きな鼾をかいて居眠りをし私は少々いらいらした。ゆうこさんは自分の書いた文が意味を組んだままお礼状になったので、30秒しないで読み終わる文章をびっくりして15分間読み続けていたと、次の日それを渡した旦那から聞いた。
September 5, 2003
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1章 Manifest Destiny <自明の運命説>VOL.9 からの続き→→→→またはIndexに戻る「うわぁ!こんなことこの本(America Land of Freedom)で読んだことないよ!」と子供。(” America Land of Freedom”と書いた分厚い本を持っている絵)2章 The “Cold War” and the Exploits of the Self-Proclaimed “World Policeman”<「冷戦」と自称「世界の警察官」の功績>「いい日にしてくれよっ!」と無気味に笑う棍棒を持った警察官の絵・・・。しかしながら合衆国は、第二次世界大戦に同じく超大国となったソビエト連邦と争わなければならなかった。それから45年間、二つの超大国の地球規模の縄張り争いに世界は巻き込まれた。アメリカはいつも敵のソビエトよりも何倍も強かったが両国とも「影響範囲」を守り広げていく為、莫大な軍事力を維持していた。両国は決して直接的に戦場で交戦することはなかったので、この両国間での争いは「冷戦」と呼ばれた。しかし「冷戦」は他の国々で数知れない暴力の傷跡を残した。この二つの権力はそれぞれの紛争においてだいたいが対極(敵同士の立場)で紛争を支持していた。この部分に置いてアメリカは自分達の「影響範囲」を拡大する為にアメリカの土地々や太平洋を越えて、アジアやアフリカの古くからのイギリス、フランスや又日本のほとんどの植民地領土も含めて移動していった。これをするためには、アメリカの計画(野望)とはだいたいかけ離れている地元民の野望とも交渉しなければならなかった。これらの土地で、従順でない者や無秩序、不服従を抑える為に新たな「大株主」はまた自らを「世界の警察官」と呼んだ。冷戦の間、ワシントンは200回以上も外国に軍事介入した。「アメリカを舐めんなよ、坊や!」と警察官の絵。続く→→
September 4, 2003
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1章 Manifest Destiny <自明の運命説>VOL.8 からの続き→→→→またはIndexに戻るおぞましい戦争はおぞましい出来事で終焉を迎えた。アメリカが原爆を最初に広島に落とし、そして長崎に落とした時瞬時に20万人の人々が殺された。何万人もの人々がさらに放射能汚染でその後死んでいった。-----神が求めた神のやり方で、我々に(爆弾を)使うことをお導きになったのだと、我々は祈るのです。-----ハリー・トュルーマン大統領、1945年日本の降伏は爆弾が落とされる前に既に予期されていた。彼らの本当の目的は、アメリカの新しい大量破壊兵器のすさまじい力を世界に見せしめることであった。(ここにぼろぼろになって地べたに座ったり倒れたり死んだりしている日本人数人の白黒写真)そして第二次世界大戦は政治的、経済的、軍事的主権をアメリカに残したのだった。-----我々が足取りを決めなければならない。もはや世界であるとも知られる、この同業会社の我々主要な株主らがこの責任を肩代わりしようではないか。-----レオ・ウェルチ、在ニュージャージー、スタンダード石油会社(現エクソン石油)前理事長、1946年経済政策を決め、「世界であるとも知られるこの同業会社」を構成する従属的な会社達に見合った経営を選択していく、その責任をアメリカは熱心に肩代わりした。しかし、自分達を独立国家とする沢山の国々の中でこれはそんなにうまく行かなかった。2章 the “Cold War” and the Exploits of the Self-Proclaimed “World Policeman” <「冷戦」と自称「世界の警察官」の功績>へ続く→→全7章あるというのにやっと1章終了か・・・先は長い・・・ひぃ~
September 3, 2003
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1章 Manifest Destiny <自明の運命説>VOL.7 からの続き→→→→またはIndexに戻る「我々の部隊は目の前の美しい思想に染められて、死ぬ為に派遣されたんだ。ドルとセントが本当の理由で人を殺し死んでいく為に進軍したなんて誰も部隊には言わなかったさ。」と、スメドリー・バトラー将軍、1934年。第一次世界大戦は「全ての戦争を終える」ためにあったはずだった・・・「が、そうではなかった!」と子供の解説。第二次世界大戦の間、何百万人もの若いアメリカ兵士がドイツのファシズムや日本の帝国主義と戦う為に駆り出された。しかし、ワシントンで戦略計画者達が持っていたゴールは賞賛するには程遠い物だった。「彼らは自分達の帝国主義の理想を持っていたのさ。」とがい骨の絵。1940年10月、ドイツと日本の軍隊がヨーロッパとアジアに進軍した時、精鋭の政府役人、経営者と銀行屋のグループが国務省と外務省に召集され、アメリカの戦略について話し合った。イギリス帝国、極東、西洋の地球の半分を含めたアングロアメリカンの「影響範囲」をどう維持していくかに彼らは関心があった。結局、彼らは国は戦闘準備を整えなければならない、そして・・・「アメリカの軍事と経済の世界的主権を確保する為に統合した政策を設けよう!」とまとめた。(ここに一人の$マークのついたネクタイを締めスーツを来たおじさんがそのセリフを言い、これに「そうだ!」と呼応する3人の同じネクタイを締めた人々の絵。)「もちろん公に彼らは言わなかったが、」と子供。-----もし、戦争の所目的が単にアングロアメリカ人の帝国主義を求めているようだと語られてしまえば、世界の残りにいる人々はうん、とは言わないだろうが・・・他の民族が帝国主義に興味があることを強調すれば・・・これには良い宣伝効果があるだろう。-----外務省と国務省が1941年にかわした私文書から。 続く→→
September 2, 2003
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1章 Manifest Destiny <自明の運命説>VOL.6 からの続き→→→→またはIndexに戻るスメドリー・バトラー将軍は、これらの海軍遠征でもっとも賞賛されたリーダーの一人であった。彼が定年退職してから、その頃のことを回顧し彼はこういった。「俺は33年と4ヶ月、軍隊として現役で過ごしてきた。この期間、むきむきの筋肉の男として俺が費やしてきたことはほとんどが、ウォールストリートか銀行員のどでかい金のなる木の為さ。ぶっちゃけ、俺は資本主義に遣えた詐欺師、ギャングだな。」「だから、俺は1914年アメリカがメキシコ、特にタンピコの石油に興味を持った時、それらをちょいとアメリカのために取っておいた。アメリカ国立銀行の坊ちゃん達が歳入を集められるよう、ハイチとキューバをそれなりの場所にしてやったさ。そしてウォールストリートが稼げる為に中央アメリカの共和国の半分は無理やり奪ってやったぜ。」「1902年から1912年にブラウン兄弟の国際銀行の為にニクアグラをきれいにしてやったし、ドミニカ共和国には砂糖があってアメリカの為に道標を付けたし、ホンジュラスには1903年アメリカの果物会社が出入りできるようにした。1927年には中国で、スタンダードオイル会社がビジネス出来るよう妨害されないようにした。」(ここに生首を持ったおじさんと、それを見ている子供の写真。「アメリカ海軍の将校が、1930年のニクアグラのオーガスト・サンディノ反乱軍のリーダー、シルバノ・ヘレラの首を持って立つ」との注釈)第一次世界大戦はヨーロッパの植民地化政策の権力でどう世界を分割するか、という狭間での恐ろしい戦いであった。ウッドロー・ウィルソン大統領がこの乱闘に仲間入りすることを決めた時、彼はアメリカ国民に「世界を民主主義の下に安全にする為」ヨーロッパに軍隊を送るのだ、と説明した。(ここにシカゴデイリートリビューン新聞の絵「アメリカが戦争に突入と、ウィルソン大統領:『我々は正義と権利の為に戦わなくてはならない』」)「でもその後ウィルソンは実のところ、アメリカが戦利品をどう公平に分けてもらうかを考えていた。」と、ママ。ウィルソン下のイギリス大使はこう言っている。むしろ率直にアメリカはドイツに宣戦布告をすべきだ、なぜなら・・・-----それは我々の現在最も見込みのある取引状態を保つ唯一の方法だからですよ。イギリス大使 W.H.ページ、1917年。この為に13万274人のアメリカの兵士が死の戦場に出された。続く→→
September 1, 2003
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