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ある人が尋ねました。 「人生の意味は何ですか?」 アドラーは答えました。 「一般的な意味はない。 人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」 『アドラー心理学』より この簡潔な人生論に対置させてみれば、 「人生とはなんぞや?」と悩みとおした池田晶子さんは 考え方が受け身すぎたのかと思ったけど、 それは早とちりだとあとで思い直した。 人生の意味の問いと向き合う切実さは 人それぞれ度合いあるけれど、 まったく無頓着でいるひとも大勢いる。 そういう人たちへ、自身の悩みを共鳴させることで、 なにかしらの価値ある気づきを与えようと 精一杯行動していたのだと思う。 受動的な考えを行動的に続けた、といえる。 『41歳からの哲学』ほか 池田晶子さんのエッセイを読書中。 ときどき勢い余って書きすぎるところあるのが 普通の読み物としても面白い。
2015.04.29
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『朧月夜』、この歌詞は八六調である。 八六調というのは沖縄方面の民謡などにみられて、 八八八六の琉歌調という括りで扱われている。 沖縄の歌姫、夏川りみさんのアルバム 『ぬちぐすい みみぐすい』にこの曲が収められている。 いくぶん聞き手の贔屓目も含まれていようが 八六の土地の人が歌う八六の歌は素晴らしいの一語に尽きる。 普通に聞き流せば ゆったりした時が流れゆくのみだが、 深く耳を澄まして聞けば 神々しいまでに装われた時と向きあえる。 別に国が認めてくれなくてもいいけど 私はこれを重要無形文化財 としよう。
2015.04.20
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近所に、けやき通りと呼ばれている道がある。2車線幅の道で、街路樹はもちろんのこと、けやき。1キロにわたって約170本が立つ。植えられたのは昭和40年だそうで樹齢は50年だ。街路樹としては大きくなりすぎた感あり。道を高くから覆って、けやきのトンネルができている。しかし、この程度では観光資源にはならない。けやき並木の景観が沿道ショップの繁盛に貢献してるようにもみえない。防虫処理、倒れた時の被害、電線などを守るための枝切り、作業はやりずらく、管理費はかさんで大変なはず。それでも守られてあるのは、地域の人がよいと思っていて行政もそれを理解してくれているからなのだろう。とかくそろばんで考えることを、合理的な考え方だと思い込みがちであるが、それらは同義ではない。ことわりを表す理という字には、木目の意味もある。二本の木の枝がくっついて連理の枝と呼ぶように。道を挟んでけやきの枝が合わさりあう、これ合理なり。
2015.04.19
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料理研究家の辰巳芳子さんの言葉を集めた本 『お役に立つかしら』。 紹介される素にして上質な料理は、 こと調理に関しては横着きわまりない自分には 到底真似できず何の役にも立たないけれど、 料理のことに伴わせて語られる 暮らし方の秘訣の作法・処方の数々は 文章ひとつの味わい深くて そこに美食の愉しみ以上の感銘を受けた。 料理も文章も、材料(または言葉)の持ち味を 存分に活かす術だといえる。 技能に共通点があるのだろう。 本の中にこういうひとことがあった―― 自分自身が相当に食べ込んだものでないと、 「いま、あれで力をつけよう。守ってあげなくては」という 感覚的欲求が生じにくい。食は、一代では改善できないと、 つくづく思うゆえんである。 なるほど。 自分の食べ物を自分で選び作れる者は幸いである。 病気のときに備え、「あれで力をつけよう」という一品を じっくりと練り上げこしらえることができるからだ。 喉の通りやすいもの。さっぱり系の味。 一例をあげるなら、ゆず風味の雑炊とか。 頼りになる一品を作っておこう。 そして、すぐれない体調のときは 頼りになるそれを食べて実績を重ねておこう。
2015.04.18
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チャレンジ!ダイトレの受付は、 問題を抱えているように見受けられる。 今年も案の定というか、長蛇の列ができた。 用紙の一部をちぎって提出するのは、 箱だけ置いといて、あとは参加者各自にまかせればよい。 スタート時間は、各自で管理にすればよい。 Tシャツと参加章を渡すだけでよい。 と、思うのだが、ボランティア主体の運営では、 どのような改善策もあまり期待できない。 問題を汲み上げボトルネックを突き止め対策を講じれる、 そういう体制全域にわたった改善意識は、 営利を追求しない集団には備わらないものだから。 やり方を改めることは仕事の量を変えることをであり、 仕事の増えた誰かが文句を言ったり不満を抱いたりするものだ。 ボランティア主体の運営は、まずはスタッフの人間関係に ストレスを与えないことを優先して考える傾向がある。 指示する方もされる方も、ことなかれ主義なのである。 ただでやってもらってる以上、 多くを要求できないという面もあろう。 「個々の作業負担に多少の増減があっても、 全体の仕事量が減れば成果だ。 参加者の満足は、奉仕の満足につながり、仕事の達成感である。 全体でのプラスは、全員の満足に等しい。 」 このような組織を俯瞰する視点にたった効果的な改善は 望めないのか。 チームで闘う場合によく「一丸となって頑張ります」 というが、本腰入れて改善にあたるには、 この一丸となることがまずもって必要である。 一丸になるにはそれなりの手続きがいる。 達成できたら、栄誉があるとか、報酬があるとか、 誰もが近視眼的な損得勘定に盲目的になれるような 相応の魅力がいる。
2015.04.16
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癒しの歌でしょうか。 それとも、 寂しくなる歌でしょうか。
2015.04.11
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「優しい」と言う語が急激に株をあげたのは、どういう男性と一緒になりたいですか?という女性への質問で半分以上のひとが「優しいひと」と答えた、そういう一時期があったからのような気がする。今でもそうかもしれないが、あっちこっちでそんなアンケートがあり、「優しさ」は答えたといえないほど至極当然の答えだった。実際に、答えになってないと思う。「理想のひとは?一言で簡単に」と尋ねるような問いは、ぶっつけでするものじゃない。寿司のおしながきから好みのネタひとつ選ぶのにさえ、ふつう人は考え悩むものだ。なのに、こうも深いことを。尋ねるほうが間違っている。「優しいひと」と答えた方もテキトーなものである。というのも普通これには不可欠の条件がつくはず。「自分にだけ」優しいひと。誰にでも優しいという性格は喜ばれない。自分以外の人に優しくするのは許せない。それが実際。アンケート集計の1位はダントツで「優しさ」。「優しさ」という属性は青天井に株をあげた。優しさこそ間違いなく善いもの、と意識に刷り込まれた。アンケートを行った者、答えた者、結果をみた者。誰も何も考えていなかったのである。「優しい」なんて「かわいい」と一緒。おおざっぱすぎて何も表現していないに等しい形容詞だが、そういう無害な使われ方をしている分はよいとしても、自論の正当性を高めるのに「優しい」という語のイメージを利用する表現がときどき見受けられる。「地球に優しい」という使い方はその代表格だ。(この先はまたの日記で)
2015.04.10
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三大生活習慣病は、がん、脳卒中、心臓病。これら病気と闘うはめになると、診断、通院、治療、入院、手術。命に係わることだから治療行為は最優先の割り込みをかけてくる。それまでの日常がずたずたになる。生活を維持するだけでも大変で、治療が一段落したとしても従来と同じ生活習慣に戻ってしまっては再発の招き入れでしかない。壊された生活をこれ幸いと完全にリセットし、改めた生活習慣にしないといけない。何を捨て、何を残すか。医者のすすめ、家族の援け、自身の希望。身辺一切を俯瞰的にみる視点にたち、最善から最悪までを予想しながら、あらゆることに感謝と覚悟を織り込んでいく。病気から逃避するのではなく克服。そうでないと快復はやってこない。これをマラソンに置き換えると。オーバーペースで走って、脚は痙攣、体はスタミナ尽きてふらふら。リタイアしたいところだが、それは許されない。立ち止まって休んで、歩けたら歩いて、エイドでバナナ、救護でサロンパス、利用できるもの利用し、たとえはってでも進んで、寿命すなわち制限時間の残されている限り、1cmでも前へと進まなければならないのだ。
2015.04.09
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北陸新幹線が開通して、金沢マラソンが募集中である。その流れもあって金沢のことを調べていたら、「弁当忘れても傘忘れるな」というこの地方の気候特性を言い表した言葉に出会った。なんか聞いたような、と思ったら金沢に限らずこのフレーズの適用範囲は広いようだ。ただ本拠地はやっぱり金沢のようで、調べてみるとこちらhttp://grading.jpn.org/SRB02303.htmlに年間降水日数ランキングというのがあり、1位 石川県2位 富山県3位 福井県とあった。この地方で上位を独占している。確からしい。雨降る日が年間187日だから、ぴったり二日に一回は雨、ということだ。前日受付もあることを考えると『金沢マラソン! お前はすでに雨に降られている』といってよい。ただし。走っていると、少々の雨ぐらいなら気にならない。ランナーにとっての雨は、しっかりと本降りの雨だけである。困るのは、運営スタッフだ。警官やボランティアも含めて。アフターも簡単にすますなどして経済効果にも影響ありそう。やはり大会日は雨でない方がいい。
2015.04.07
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人災と思える過失を犯しておきながら謝罪会見で「今後二度とこのようなことがないように再発防止に努めます」と頭を下げる組織の責任者。多数の犠牲者をだす事件や事故が起こるたびみせられてきたシーンである。『再発防止に努めます、 といえば免罪符になると思っているのか! あれだけ人が死んでいて 言うことはそれだけか!』事故の責任云々とは別に、そういう反省の態度に憤りをおぼえたものだった。「だった。」というのは、過去形。今は見過ごすことができる。まず、たとえ人徳あふれる企業とその責任者であったとしてもTVに流れるとあっては、言えることは限られるだろう。犠牲者の遺族の前で同じ台詞を言ってるとは限らない。メディアと社会の歪みを矯正してみられる賢明な視聴者であらねばならない。つまるところ、不毛な映像をきまって流す報道番組が罪作りなわけだ。その気づきのほか、もうひとつある。「再発防止に努めます」というのは、なににも増して大切なことだなと感じるようになったから。再発防止ができたなら、失敗は繰り返されない。犠牲者は常に人類の進歩となり、少しは報われる。大きな事故防止に限らず、卑近なところでも遵守されるべきこと。一度遅刻したら二度とないよう対策しよう。一度失言したら二度とないよう対策しよう。一度靴下に穴をあけたら二度とないよう対策しよう。いろいろと再発防止したいこと、ある。再発防止を一番に考える姿勢。それは大切だと思う。といっても、責任者の謝罪から本気度はまるで感じられないのが普通。ただ穏便に切り抜けることしか考えていないのが丸わかり。その分だけは、謝罪会見をみるたびまだちょっと引っかかりはするけど。
2015.04.06
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更新を滞らせて半年もすぎた。こんな調子なのは前々から。ムスカリに春ですよと教えられたとか言いながら、春の気まぐれだったのかふと思い出したように書きはじめたこともあったっけ。昨日、ムスカリをたくさん見たからかまた書かなければ、という気になった。書かなくなってわかったのは、綴ることがいかに未来の自分をつくっているか、ということ。それがよく分かるのは、誰かと話をしているときで自分の意見はこのブログに書いたことが骨格になっている場合が多い。綴ることで整理され、綴ることで自在に応用できる考えになる。綴ることで記憶に深く仕舞われて、綴ることでパッと取り出せる輪郭の明瞭さを保てている。しばらく綴ることをサボったから自分の意見に新鮮さがないのが感じられた。日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり。肉体が新陳代謝を繰り返し維持されているように思考と精神も日々再生されないと腐臭を放つのだと懼れよう。とりあえず切り出せた。なるべく続くように、なるべく間をあけず、そしてなるべく軽くいこう。
2015.04.05
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ジョギング中は、漂うにおいに敏感だ。 とりわけ夕方の住宅街ででくわすサンマか鯖を焼くにおいは強烈だ。料理を頭にうかべて、それで頭がいっぱいになる。すき焼きのにおいも強烈だ。食べ物のにおいに釣られるのは仕方ない。あげればキリがない。 でも食べ物と関係ないにおいもある。鉄工所のにおいなんかは強烈だ。前の道がサビでうっすらと茶色くなっている町工場なんかの。 秋口の野焼きのにおいも複雑だ。 出くわしたにおい、それぞれが違っているようで、でも共通点があるような気がする。子供のころ、近づきすぎて煙に涙した記憶とともに仕舞われているにおい。昭和の世代だけの反応かもしれない。 里山では煙がところどころに立ちのぼる。 近くを過ぎるとき、実りの豊かさのにおいでもいうようなにおいが、しばらくのあいだ薄く漂ってくる。 稲刈りの終わった田んぼの畦にそって、彼岸花がつらなっていた。 町では道にそって、秋祭りの提灯がつらなっていた。
2014.09.21
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関西の花のお寺といえば名前があがってくるほどに、そこは名所になっている。 庭とお堂との釣り合いがよいのか、花の見せ方が上手いのか、よく知らないけど、花期の二週間ほどはたいそう賑わう。 最寄駅に降りたので寄った。寄ってみようかという気になったのは私がジョガーだからで、寺は往復で3キロを越す辺鄙なところにある。 花は五月の花。いまの時期に立ち寄る人はまずいない。 案の定、境内には人影なく、しんとしていた。 花のないことが、強調されているようだ。一年は五十二週間。そのうちの二週間だけある花は、残りの五十週間、のべつ幕無しに花のないことをにおわせている。 いっときだけある花は、よいものだろうか。 スポーツで栄光に輝いた人とか、一発屋と後ろ指さされてる芸人とか。華やかな一時期のあったことが、その他大半に陰を落とす。 大きな不幸はその処理に難しいが、大きな幸せもまた同じなのかも。 その花木の下で、秋海棠が咲いていた。
2014.09.20
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そこは田畑一面すべてをコスモスにあてていた。街中の一画だから眺めるのは無料で、しかも「切り花自由」と書いてある。手前ばかりを切られると見栄えが悪くなるせいか「奥から切ってね」とも。そのためのコスモス畑の奥へと続く踏みしだかれた道があった。写真を撮るために入り込んだ。まんなか辺りでは、一輪をとらえたその背景に、色とりどり華やかに咲き乱れるさまが、奥行もってぼんやりと映りこみ、いい感じ。でも、そのいい感じは「感じ」どまりなところがあって、実際にアングルを探しはじめると、条件の整った一輪は、これほどの数咲いているのに、なかなか見つからなかった。
2014.09.19
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和歌山県は高野山の山麓、富有柿の里として知られる九度山町から、河根(かね)という山間の集落へ向かった。下調べが足りず道がよくわからない。大丈夫だろう。山へ入りこんでいく道は、麓の分岐でどちらを選ぼうとも、先では出合って絞られていくもの。気にせず勢いで歩いた。 高野山へ参るのに徒歩しかなかった昔、主な道は七つあった。それを高野七口と呼ぶ。そのひとつ「京大坂みち」が、この河根の集落を通っていく道である。かつては宿場町で栄えたこともあり、その名残かここら辺りの道は思いのほか縦横に通じていて複雑だった。 迷って、引き返して、遠回りして、悩みながら歩いた。さらには、あとで帰って調べてみれば、歩きたかった道とは別の道を歩いていた。 まぁそれも思い出の道。 道端には柿畑。大きな柿が実っていた。でもまだ青い。 「柿が赤くなれば医者は青くなる」は、柿の栄養価の高さを教えることわざだ。今はまだ医者の顔の方が赤い。 柿の代わりに、熟れた柿の色をした花「黄花コスモス」が、脇道に入ってすぐの所で、横手の石垣を隠すようにたくさん咲いていた。 倦まずたゆまず蜜集めにいそしむクマバチに、迷って疲れていた私は少し元気づけられた。
2014.09.14
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何の気なしに見やった絵馬所の、とある願が目にとまった。「人生の目標が見つかりますように」太めのマジックではっきりと書かれてあったせいか、明瞭で強い願いのように思われた。『なんか重いなぁ。しかし、こんなこと、神頼み、しますか?』神頼みすべきことではない、というなら、合格祈願も疑問符がつく。交通安全も、商売繁盛も、縁結びも、怪しくなる。うーん。マークシートのあてずっぽうが正解になるかどうか。交通事故も巻き込まれるケースはほとんど運といえる。商売繁盛も、縁結びも、幾分かは運に負っている。この「幾分か」が肝要?9割は自力でなんとかします。あと1割。わが力の及ばぬところにおいて、なにとぞ力をお貸しください。という姿勢ならよし?人生の目標が見つかるかどうかには、度合いというものがない。見つかるか、見つからないか、二つに一つ。丸投げだ。しかも最終目標といえるようことを。なんという横着。いや。それを咎めたら、よくある「幸せになれますように」も丸投げで同罪だ。横着は、最終目標どころか最終到達地と、さらにひどい。とはいえ。「幸せになれますように」は、あまり深く考えてなさそうで、それゆえに許されそうだ。「人生の目標が見つかりますように」は、考えた結果がコレかいな、という誹りは免れないだろう。そもそも。お寺さんは人生の目標を悟るべく日々修行を積んでいるお坊さんの行場。その傍らで、この内容をダイレクトに半ば運任せに神頼みする、その「空気読めてなさ」がいやらしくないか?悪意はないと思うけど。うーん……なにかこの一言願いには、思考のブラックホールのようなものが渦巻いている。そんな気がしたひとこまである。
2014.09.12
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水のきれいな地方の、山の麓に住む人が、こう言った。 「あれはすごかった。びっくりやね」 なんの話かというと、ホタルの乱舞である。その時期となれば、蚊も蛍も同じ数ほど飛んでいそうな所に住んでいる人が、たまげた表情をつくって言うのだから、これには惹きこまれた。「もう山全体が光ってる感じ」 私は一般の人よりも、深いところまで、遅い時間まで、山に踏み込める自信がある。夜を徹して山道を走るイベントに参加しようと思っているぐらいだから。 場所と季節さえおさえたら、私も見れる。いつか見に行こう。 と決意して、まだ果たせずにいる。 蛍の舞う短い季節は、毎年あっという間に過ぎる。 蛍はまた見逃したけれど、今年は素晴らしい花火をみた。 岸和田港まつり花火大会である。 港とつく通り、この花火大会は海の近くで催される。花火の打ち上げ場所は、運河を挟んで対岸の埋立地に設けられる。観客は、見通しのよい海越しに、地上からあがりはじめる瞬間から花開いて夜空に散るまでを、間近に眺めることができる。 今年初めて見たが、一番お気に入りの花火大会になった。 会場手前は工場地帯。倉庫の屋根に登って眺める人たちも多い。 演出もなかなか。音、光、色、形。これらで奏でる大規模なシンフォニー。 このカメラには花火モードがないので、夜景モードで撮ってみた。 花火の光はかなり強く、夜景モードではオーバーに。 黒い布で露光を加減しながら撮るのが、技の一つなのだとか。 この写真は夕焼けモードで撮ってみた。 シャッター速度と露出のバランスは悪くない。 これから花火は夕焼けモードで撮ることにしよう。 でも少し赤っぽい。夕焼けだから赤くしてくれてるのか。 これって捏造? 私の赤色は、あなたの赤色と同じとは限らない、とかなんとか。 そういうクオリアの話があったっけ。 そういう視点からだと、 夜景モードの赤色と夕焼けモードの赤色が違って、それで何か問題ある? で終わりそう。
2014.09.07
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野々宮の父(福山雅治)は、私と似ているところがあって観てていやになりました。 似ているというのは、もちろん外見の格好よさとかではありません。比べるだけで怒られそうですが。 似ているのは処世術というかそのあたりです。万事においてPDCAサイクルで対処することが、日々を生きること。別の言い方をすれば「敵を知り己を知れば百戦危うからず」を遵守している生き方とでもいいましょうか。野々宮の父は私の目に、そういう習性の化身に映りました。 数年前ぐらいから、私は自分のそういう習性が嫌いになって、そこから脱しようと試みています。多くの情報を集めて最適解を求めて最善を尽くすことが、ただの環境の囚人でしかないという、そういう視点を持ち合わせてしまったからです。 しかし長年を経て身に付いた思考はもはや自分そのものでもあるようで、思考の骨格に近い習性を外すことは難しく、魚が鳥になろうと努力しているようなものかもしれません。脱する先を決めずして脱せるものか? この自滅的なメタ視点もPDCAサイクルの産物なのか?……というような、破綻している自分のことはさておき。 立派に良い父です、野々宮のお父さん。物語の流れで父親失格の烙印を押されはしましたが、良いものもたくさん持っています。優しさ、根気強さ、熱心さ、たしかな愛情も。 それだけに野々宮路線にいる未熟者の私は『これでダメなのか』の絶望感に襲われるのです。似ているから、わかりもします。エントロピー増大を生理的に厭うまでの大人的感覚の持ち主は、もう子供と馴染めないのです。 結末、2家族が1つになる道は一縷の望みを示唆しますが、2家族の性格をとことん対立させたあのシナリオではしっくりきません。そのうち野々宮の父が爆発するなと予想されるだけです。 と反発しましたが、諸々書いたことは個人的なことで一般に作品はお勧めです。 天災ではなく人災。それも大人災。それで平穏な日常が壊されます。もう復旧不可能な大打撃。そして、失って気づく大切なもの、際立ちます。 大切なものが何であるかを気付かせてくれるもの、それもまた宝です。
2014.06.13
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すぐ近所で、幻の花、大山蓮華が咲いていました。 普通この花を見ようと思えば、近畿最高峰1,915メートルの八経ヶ岳を目指さなければいけないのですが、すぐそこでした。 咲いたと聞けば、なら見に行こうかと、早朝に起きて車を走らせること2時間、登山口から山歩き4時間。山頂で食事。下りて温泉。そういう一日をなんどか楽しみました。 大山蓮華を、山歩きのきっかけにしていただけですね。 それがすぐ近所で。 山に登らず見れる大山蓮華なら、もう高嶺の花ではありません。肝心の山へ引っぱりこんでくれる魅力がありません。 でもこの花に会ったおかげで、大峰の山地図を眺めたくなりました。
2014.05.22
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少し前、コンパクトデジタルカメラ、FUJIFILMのFINEPIX XP70 を買いました。 2~4代目は同じ不具合に悩まされました。 液晶に縞が入って見づらくなるのです。 防水でもないのに雨や汗のしみるポーチに入れておくと、まず液晶がやられるようです。 これを不具合といえばメーカーに責任があるように聞こえて怒られそうですね。 もちろん原因は自分の荒っぽい使い方にあります。 ランニングや登山でいかに酷使しているかは、本ブログが物語っているかと思います。 それで、次に買うのは防水が希望でした。 ハウジングを被せたようなずんぐりな格好でもないのに、数メートルの水中でも使えるカメラがすでに選べるほど市場に出回っていました。 使い慣れているFUJIFILMのFINEPIXシリーズからも「10m防水、1.5m耐衝撃、-10℃耐寒、防塵」というタフ仕様のモデルが発売されていました。その最新モデルがXP70で、値段もこなれてきた先月、amazonで購入しました。8GのmicroSDをつけて。カラーはブルー。 まだ使い始めで使いこなせていないのですが、機能と特徴を折あれば紹介したいと思います。 ちなみに前回載せた名高の浦の夕景は、このカメラで撮りました。 撮影モードの「夕焼け」を試してみました。 タフさに加えて、XP70は今時の機能をもうひとつ備えています。WiFiです。 写した写真をパソコンやスマホに取り込む際、有線で繋がなくても転送できるのです。 (WiFi機能付きのSDカードというのもありますけど) ところがこの「PC保存」、買ってしばらくはうまく処理できませんでした。 FUJIFILEのサイトからPC AutoSave(1.0.0.1)をダウンロードしてWindowsXP(SP3)にインストールして、こんなものはOK、OKの連打ですぐ使えるものと思っていたら、つまづきました。 PC AutoSaveを起動して「PC保存先設定」「手動設定」と進ませて"カメラを検知すると、[接続確認画面に進みます]"と出て、ここで検知できないのです。カメラの方でも見つかりませんとなります。 ハマって悩んでようやく原因がわかりました。私の場合、ルーターが3GモバイルのいわゆるポケットWiFiのようなものを使っているのですが、そのルーターのセキュリティ設定に理由がありました。 プライバシーセパレーターという設定で、ルーターに繋がっている端末同士はお互いが見えないようする設定です。これが初期状態で「使用する」だったから、カメラからPCが見えないのも当然。またこの設定が実に分かりにくいところに置かれていたので、見つけるのに時間がかかりました。 また、これに加えてもうひとつ。 プライバシーセパレーターの解除で、PC保存先設定はクリアできたのですが、「PC保存」でまたつっかかりました。「PC保存」で繋ぐルーターと「PC保存先設定」で繋ぐルーターが違うのです。「PC保存先設定」をし直しても設定は変わらず。その設定をどこから引っ張ってきているのか謎でしたが、セットアップの「ワイヤレス設定」「共通設定」「設定初期化」を実行すれば、やっと消えてくれました。 それで初めてWiFi転送に成功。 なんでこんな苦労せなあかんねんと思いつつ、でも成功して感動しました。ルーターの機種は違っても、同じような設定があり、悩んでいるユーザーも多いのではと思います。参考に解決手順のあらましを書いておきます。 ルーターの設定画面に入って(DOS窓でipconfig、Default GatewayのIPをIEで送る)、プライバシーセパレーターを解除。私の場合、無線設定、拡張(11n/g/b)の配下に設定する箇所がありました。試行錯誤したときの誤った情報をクリアするため「ワイヤレス設定」「共通設定」「設定初期化」を実行してから、PC保存先設定を行う。 キーワード FUJIFILE, FINEPIX, XP70, PC AutoSave, PC保存, WiFi通信, PCサーチ中, PC自動保存先が見つかりません
2014.05.19
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運転していたら、日没の時間が近づいてきました。走っている道は、山間と市街地を繰り返し抜けていく郊外の道で、西側には海がありました。道は海岸に寄ったり離れたりしています。空は夕焼けで染まり始めていました。 どこか海岸近くに車を止めて、夕焼けをみよう。 そのあたりは、和歌山市の南、国道42号線。 山間を抜ける道からの眺めは、海と岬だけの整理された夕景になります。そういう眺めが特等席かなと思って、よい場所を探しながら車を走らせていました。 しかし42号線は流れのある道。ここはどうかなと迷いながらだと、流れに掴まってなかなか止まれません。駐車しておける場所でもないといけません。ちょっと無理だなと見送っているうちに道は海から離れてしまい、さらには市街地に入ってしまいました。 夕景もまた釣瓶落とし。 特等席にこだわるのはやめて、海が見えた交差点を西に曲がって、人気のない海岸沿いの道に入り、適当なところで車をとめました。 そこは海南市の名高というところでした。 目の前の海は、四方を埋め立てに囲まれていました。しかも小型船舶の係留に使用されているようで、雑他なことこの上ない眺めでした。遠方には高圧線が横切り、水平線は埋め立て地に建つ工場に隠れていました。海と岬だけの整理された夕景、当初イメージした特等席とは大違い。 でも、こういう小型船のひしめきあうさまは、水彩画の定番モチーフですし、これはこれで味があります。 夕景に染まりゆく漁港を歩きまわり、満足いくひとときを楽しみました。 あとで調べて知りました。名高の地から眺める海を、昔は名高の浦と呼び、万葉集に四首詠まれていることを。そのうちの一首。 紫の 名高の浦の 靡き藻の 心は妹に 寄りにしものを (巻11-2780) (紫は名高の枕詞。袈裟同様、紫は名高い方の服の色、という繋がり) 実際の景色は、古の歌の描く景色ともまた大違い。 でも、どこかで切なさが呼応しているようで、これはこれでいいかなと写真を眺めながら思いました。
2014.05.18
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大人買いをした『ちはやふる』の流れで、そのあとも漫画を読んでいます。ただし作品のジャンルは違って、『わが指のオーケストラ』という聾者の教育史を描いた漫画です。 市の手話講座に通うと、手話と並行して聾者の文化についても教わるのが普通だと思います。私も通ったので教わりました。教わる聾者の文化とは、聾の病理学的な知識と、聾唖学校での教育方法についてが多くを占めていました。 で、その聾唖学校での教育方法というのが、実に問題あったのです。 どう問題あったのか? それを丁寧に、また読みやすく感動的な物語に組み立てて描いてあるのがこの漫画です。全4巻。作者は山本おさむ氏。 『はだしのゲン』と同じぐらい古い漫画かなと勝手に思い込んでいましたが、初版平成5年とそう古くはありません。それでも20年近く前です。そして昨今ようやく、この作品が描く聾者の社会におけるエポックメーキングな出来事といえる手話言語法制定がニュースとなっています。 「昨今ようやく」などと物知り顔に書くのは憚られるかと思いつつ、やはり「ようやく」は省けないと思い直しましたのは、少なくとも一読者として、その想いを抱くことこそちゃんと読みましたという証にほかならないと感じたからです。 あとがきにみる「六十余年前に、父が訴え続けたことが、今、やっと開花しかけてきたのでしょうか。それにしても、あまりにも遅い開花でありました。」が、この二十年弱に対しても「あまりにも、あまりにも」と重なります。正直いって私には過去の他人事なんですが、他人事を他人事にさせておかない訴えに本作は満ちています。 読み終えて知りたくなったのは、西川はま子さんの発声がどういうものだったか。 もしかしたらYOUTUBEで聴けるかもと検索してみましたがありませんでした。聾教育の歴史では陰の人になってしまいましたが、その修得した能力の素晴らしさと功績は、ヘレンケラーに継ぐ奇跡の人として、もっと歴史上に刻まれて多くを大切に遺されてあってほしいところです。しかし、それが口話教育を支持することとイコールになるのだとしたらデリケートな問題です。 排斥したいのではなく護りたい。 愛するからこそ道を拓きたい。 強い愛ゆえに生まれる解けない対立。 愛情の正が自身を正当化してしまう。 聾教育史の一面を通じて普遍的な問題がたくさん描かれてありました。 感動の作品でした。
2014.05.15
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コミック『ちはやふる』を中古で揃えました。少し前発売の24巻のみ本屋で購入。現時点の全24巻を一気読み真っ最中。読み終えたら全巻セットで売るつもりです。回し読みして売ればレンタルするよりもお得なやり方かなと。『ちはやふる』は競技かるた百人一首を題材にした少女漫画。以前から気になっていました。競技かるたの世界がウソっぽくなく描かれていて、期待していた以上のおもしろさ。競技かるたをしようとは思いませんが、このコミックにはハマってます。
2014.04.16
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ある本を読んで、これはとても実践的な本だと思った。 ところで、「実践的」という言葉。 よく使われているし、また自身で使いもする。 読むときも書くときも、わかったつもりで接していた。いま改めて『実践的とはどういうことか』と自問してみても、なにも説明できなかった。 生半可な理解しかできていない言葉を使うなとは教科書の説くところである。これではいけない。 理解できていない言葉に接したら、辞書に当たるのが基本である。だが、いつも傍らに辞書があるわけではない。白状すれば、あっても引かない。前後の文脈から意味を推測して納得してしまう。そうして、統計的に掴んだおぼろげな意味で、いつしか理解したつもりになっている。 言葉とは幾分そうして習得していくものではあるけれど、ときどき繕いものをするように、お座なりですませていた言葉を検めたい。 広辞苑(第五版)より~【実践】一. 実際に履行すること。一般に人間が何かを行動によって実行すること。「考えを ─ に移す」二. [哲](ア)人間の倫理的行動。アリストテレスに始まる用法で、カントなどもこの意味で用いる。(イ)人間が行動を通じて環境を意識的に変化させること。この意味での実践の基本形態は物質的生活活動であり、さらに差別に対する闘争や福祉活動のような社会的実践のほか、精神的価値の実現活動のような個人的実践も含まれる。認識(理論)は実践の必要から生れ、また認識の真理性はそれを実践に適用して検証される、という立場で実践の意義を明らかにしたのはマルクスとプラグマティズムである。 以上、実践の説明に「的」がつくと「実践に基づくさま。実際に行動するさま。」となる。 辞書にあたってよく理解できたか。 書くまでもないと思う。 「二」の説明は、深刻である。「倫理的行動」「アリストテレス」「カント」「物質的生活活動」「個人的実践」「認識の真理性」「マルクス」「プラグマティズム」。理解しなければならない言葉を、たくさん押しつけられた。お座なりにすべからず、そう思い立った矢先のこと。 凡ての道はローマに通ず。凡ての言葉は宇宙に通ず。 しかし、実践の形態から帰納して意義を説こうとするのは、辞書の姿であろうか。プログラミング的な視点でみれば、これは自己参照という高度な関係性の付与である。辞書で許されるのか。 右の反対は左。左の反対は右。こういう循環参照すらも本来好ましくない気がする。 何をかを考えているように見えてもコンピュータは、究極的には電気があるかないかしか判断できない。単純の積み重ねでしか複雑を構築できないプログラミング言語と違い、自然言語は分解不能のブラックボックスのいきなりの生成が許されるのである。そう考えると、曖昧にしか理解していない言葉は、案外それでいいのかもと思い直してみたくなった。 言葉はもとより曖昧なものかもしれない。
2014.02.28
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NHKニュースキャスター那須英彰さんの講演会を聴きにいってきた。 と、つい「講演会を聴きに」とはずみで書いてしまった。「聴きに」は違う。那須さんは手話ニュースのキャスターさんで、ろう者だから、手で語る講演会なのである。ならば「見にいってきた」とするところか。でも「見る」というのはまた違う気がする。 手話言語条例が各地で注目されている昨今だから、「読み取りにいってきた」といえば手話にふさわしい。しかし私の手話の読み取り能力は貧弱で、とてもじゃないが「読み取れた」とは言えない。困った。表現しようがない。 いやまてよ、そこに動詞を入れず「講演会にいってきた」とだけ言えばよいのかと、今気づいた。 ということで、那須さんの講演会へいった。 手話ニュースは、勉強のために録画したものをときどき見ている。(ここはもう「見ている」でいい ^^;) 那須さんは演劇をされていることもあって、数いるキャスターさんのなかでも、手話がアグレッシブな感じがする。アグレッシブを具体的に言えば、緩急の差が際立ち、表情に熱があり、使う空間が自在といったふう。音楽でいえば「ダイナミックレンジが広い」というのがぴったりか。 ニュースをみていてときどき思うのは、音声と手話それぞれ、当たり前ではあるけど伝達に要する時間に差があるということ。ぴったりであることが多いだけに、どちらかが伸びたときに気になる。伝えなければならないことがたくさんあると、那須さんは相応にスピードがあがって、速い手話になるのだが、それでも音声がなくなってからも手話を続けるケースのよくみられるキャスターさんではないかと思う。伝えるために、省けないことは省けないのだ、という熱意がありありと感じられる。 芸術的な手話もあるという。最後に付けしで披露されたパントマイムと手話が融合したかのような表現は印象的だった。手話を言語と認める動きには感謝しているけど、本当はろう者にとっては手話が言語なのは当然のことで、言語どころかもっと大きな可能性をもった表現手法なんですよと、講演全体をふりかえってみれば、伝えたいことの核心はそのあたりにあったのかもという気がする。 いいニュースにはニコっとし、わるいニュースには困った顔をする。最初はそういうことをする手話に幼稚なイメージをもっていた。しかし、人に対する好感度は、いちいちのことに相応の表情を添えることで決まるのだと、好感あふれる那須さんをみて反省せざるをえない。人生で必要なこと全てを幼稚園で学び損ねた人間の、反省である。この歳で改善は難しいが、努力しよう。
2014.02.23
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百人一首のなかで最ももはげしい恋歌はどれか、という問いを以前に綴った。 そのひとつの答えが書かれてある書をみつけた。それが題にある本、『日本の恋歌』竹西寛子著 (岩波新書)である。 問いの答えを探していたわけではない。この本に出会ったのも、たまたまである。書物との出会いにおいては、なかば奇遇と思われる巡りあいに驚かされることが稀にある。実際は奇遇というほどのものではなく、関心事のアンテナを立てているから、普通なら見過ごしてしまうところを一段掘り下げて気づくべきことに気づいた、というのが正しいのだろう。 でも、こういうことは、あって嬉しい。 さて、その答えとは。答えと言っては語弊があるか。 この本『日本の恋歌』は、百人一首という狭い範囲ではなく、記紀万葉にはじまり与謝野晶子・水町京子まで、ずっと広い範囲から、著者の惹かれた恋歌を選びだしたものである。 選ばれた歌は三十首。そのなかにあったのだ。 「忘れじの行く末までは難ければけふを限りの命ともなが」 他に百人一首にみる歌はなかったから、この歌が百人一首のなかでもっとも惹かれる恋歌だという点で、本と私は一致したと言ってよかろう。(おそろしくて、こんなこと言う気にならないが、言わないと話が進まないので。) 歌は一致したが、鑑賞眼はもちろん月とすっぽんほど違う。 私がごく表面的に言葉どおりになぞって、ピュアの一言ですませたのに対し、この本にはこの上なく上質な解釈が付されていた。その解釈をここに載せておく。あなた様が、いつまでも忘れないと仰って下さるお言葉は決して一時のそらごとではなく、本当にそう思って下さってのこととお受けしております。でも、人の情はうつろい易いもの、いえ、それがむしろ人の自然でございましょう。何事かをお疑い申しているのではございません。固い今日のお約束も、いつまでもとは頼み難いのが人の世の常。それゆえ、今日の逢瀬を最後の思い出にいっそ死んでしまいたい、それほど満たされている今日の私でございます。 幸せの絶頂で命を断つことは、将来の不幸を念頭に置いている。恋の裏切りではないが、事実、詠み手の晩年は幸薄くなる。それを予感しての自暴自棄ではないこと。また感情にのまれた刹那的な叫びでもないこと。それら前後の詳しい説明とあわせて読めば、この歌の魅力が、行く末まで忘れ難いものになるのは確かである。
2014.02.19
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試写会で『LIFE!』を観てきた。 毎日同じことの繰り返し。世間一般の人は、冒険家ではないから、まぁ普通はそうだろう。変化のない日常は、知らず知らずのうちに、チャレンジ精神を萎えさせてしまう。惰性で生活がまわり、鈍感に落ち込んでいくことに対して鈍感になってゆく。 夢見ることに疲れ、バーチャルな刺激で気持ちをごまかす。エンターティメントのなかにだけ自分を解放する安らぎをみつけて虜になる。でもそれは代用でしかない。商業的に仕組まれた紛い物。錯覚による解放感にすぎない。 生気の失われた日々に埋没する人々。 都会の働き盛りの良識ある人々。 現代の実に多くの人々。…… 世間一般の人は、冒険家ではないから、仕方ないのだろうか。 いや、マスコミを騒がせるビッグなことだけが、輝かしいチャレンジの成果なのではない。日常のなかにも自分を都度つくり変えていく機会があり、さらには、激しく活動して安泰を壊さずとも、静かに護ることで打ち克つチャレンジもあるのだと、この映画は教えてくれる。 どこにでもいそうな冴えない男が、なんのかんのとあって、終わりでは心のなかの錆やら垢やら埃やら何もかもさっぱり落とした感じでそこにいて、爽快な日常の一場面を見せつけて映画は終わる。その変身のロードムービーだ。実際に地球狭しとあちこち移動するが、始点と終点の差は心のなかにこそ測りたい距離。心のなかの話なら、一念発起さえすれば、瞬時に変身できる。それでは観客を説得できない。変身のロードへ、観客の心をも引き連れてゆこうと、4段階を踏ませているとも見れるだろう。 日常のなかでの、うだつのあがらない男。 非日常に投げ出された、うだつのあがらない男。 非日常のなかで、生まれ変わっていく男。 日常のなかに戻ってきた、生まれ変わった男。 『バックトゥーザフューチャー』でマーティの父・ジョージが、映画の始めと最後で変身していたのを思い出した。不良のビフに頭の上がらなかったジョージが、逆に仕切っていた。あの爽快感に似ている。ジョージの場合は、過去を変えたからという突飛もないもので、経過が描かれていない。 しかし、この映画はそこが眼目だから、経過が丁寧に描かれてある。突然の職場でピンチに置かれること。僻地で選択の余地のない状況に置かれること。これらの助けを借りて男は生まれ変わる。経過がリアルで説得力ある。まぁ、リアルといっても、そこは八分目に。無為に日を過ごしていた男が、いきなり標高5500mのヒマラヤを歩けるかとか、そんなことはイッテQのイモトを見ていなくても首をかしげたくなるけど。 ともあれ意識したいことは、この映画をもごまかしの解放感のひとつにすませてしまわないことだ。4日間で数十万かかる研修セミナーがあることを思うと、本作の観賞は2時間で千幾ら。これで自己改革が叶ったら、元を採れたどころではない。
2014.02.18
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「まったくのゼロからアップルパイを作りたければ、まずは宇宙を作らなければならない。」という名言があったなと思いだした。 言葉を使ってなにかを書く際も、「まずは」「まずは」と遡っていけば、源はどこまでも遠のいてゆく。書くことが「おそろしい」と著者はたびたび口にされているが、一字一句ゆるがせにはできないという覚悟を、このようにさも当たり前の心がけと示されたら、たしかにおそろしい。 「自分の力の範囲内でものを書こうと思えば、まずは宇宙を作らなければならない。」 この本の著者の基本スタンスはこんなあたりではと思われる。ここでいう宇宙とは、自分自身の、心の中、知識の中、経験の中に広がる、まぁいうなれば、ひとつの宇宙である。 パイ生地の素をこねて、ビン詰めのシロップ漬けリンゴを並べ、オーブンで焼き、シナモンをふりかけ、フローズンのホイップクリームを添えて、「はい、アップルパイの出来上がり」なんて論外も論外、なにひとつ作ったことにはなっていないのだ。 昨今、根拠もなく「あなたは、できる」とポジティブ思考に染まらせ、まずはさせてみて、できが悪くても「すばらしい。その調子で」と称賛し、とりあえず続けさせるという教え方、学び方が多い。ものごと学ぶに当たり、こういった甘っちょろい受け身な姿勢は、この本の与り知るところではないようだ。そのような姿勢では、この本から学べることは何一つないどころか、逆に意欲をそがれてマイナスになるかもしれない。 しかし、言葉の使い方こそ、自分そのものである。そこが宇宙の中心地点と、これに首肯するなら、共感や刺激をうけるところがいっぱいだ。 日常の言葉をいい加減にしないこと。 ものの見方、聞き方を曖昧にしないこと。 何かを言うことによって、そうは言わなかった自分とは違う自分が決まっていく。 人の言葉ではなく、自分の内側からにじみ出ている言葉を使うこと。 事実を曖昧にではなく伝えるために。 自分の認識のために。 自分の声で説得するために。
2014.02.17
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本ブログのサイド部分に自由欄を設けることができると知って、Profile欄を置いた。 以前はProfileのページがあったのに、数年前になくなった。ブログにおけるProfileのような重要度高い部分がばっさり切って捨てられる処置には、さすがにあきれてしまい、こんな商魂ばかりがさまよっている世界とはおさらばして、他所のブログに移籍しようと思ったけども、いまの自分の更新を滞らせている状態で開設するのも気が引けて、引っ越しに踏み切れないでいる。 他の方のブログをのぞいてまず気になるあたりは、黄金律に則って、自分も情報公開すべきであろうと。 好きな食べ物:うなぎ(栄養重視)、好きな女優:蒼井優、好きな女性ボーカル:夏川りみ、平原綾香、西野カナ……、とかいろいろ書きかけたけど、そういう趣味嗜好はこのブログのところどころに書いてあるから、やめた。それに好みは月日がたてば変わったりもするし。 それといつからか禁則処理が守られなくなった。 自分の使っているFireFoxだけかなと思っていたら、ほかのブラウザでもそうだ。こういうことは、ほっといたらそのうち直るだろうから、ユーザーが変に対処しない方がいいと、賢くしていたのに、いっこうに直らない。文章修業などといいながら、こいつは句読点の打ち方も知らないのか、と呆れられているかと思うとちょっと気になる。 試しに今回、 <span style="line-break: normal;"> ~ </span> で投稿文全体を括ってみた。これで禁則処理が働いたかな。 でも毎回入れないといけないのはつらい。なんとかならないものか。
2014.02.15
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たしか荒川洋治だったか、トーマス・マンの『トーニオ・クレーガー』の訳書で、最近翻訳された平野卿子訳がすばらしいと紹介していたのを読み、あまり外国の文学は読まないのだが、触れてみたくなった。 ひと昔の外国文学の翻訳書をイメージすれば、それはお堅い岩波の文庫本で、カーバーは失われて、頁の隅が日焼けで褐色に変わり、画数の多い漢字がびっちりと並んだ黒々とした見るからに難しそうな日本語のかたまり。そういう翻訳ではなさそうなので惹かれた。言葉が時代とともに変わるのなら、翻訳書も時代時代で訳しなおされてしかるべきである。読み慣れていない人が読みやすい本を求めたときのために。 そして図書館の蔵書検索中に知ったのが、この本『三十一文字で詠むゲーテ』である。小説よりもこういう本に、どうも私は惹かれる。『トーニオ・クレーガー』よりも、こちらにまず手が伸びた。 見開き一頁で一首。右にやや大きな字で三十一文字。左に著者のコメント。コメントも数行で終わっているものも多く、全体的に白っぽい。 一文字あたりの値段で考えると割高である。(そういう見方するか!)でも、ゲーテの言葉の濃縮版だから、一文字の重みが違う。(それでフォローしたつもりか!) 『トーニオ・クレーガー』はまだ手元になく、どれぐらい読みやすいかは知らないが、この本は読みやすかった。ちょっと手のあいた時間に開く片手間な読み方で、二日もかからなかった。 読んで思ったことは、ゲーテの言葉と短歌の調べはあわないなということだ。つまりこの本の趣向を否定することになる。 真理を端的にとらえた直線的で一点集中的なゲーテの明察と、情感を多層的に曲線的になぞって含みを感じさせる三十一文字の表現。先入観も手伝ってか、この取り合わせの効果は見つけられなかった。ときどき目にするゲーテの警句そのままの方が、そこではたと本を置き、果てしない思索にふけることのよほど多くありそうで。 よかったことは、ゲーテその人の像が、こんな読みやすい本でつかめたことである。 人生・社会・知性・人間・女たち・芸術・老いと若さ。7章に分かれた視点から浮かびあがるゲーテ像は、文字数の少なさによらず立体的に映った。 歌の余韻が余白にこだまして、読み手を誘いこんでゆく。その先は、警句にうながされての自省の念の入口かと、本のタイトルから想像してしまうがそうではなく、一首一首を等身大で解釈できる安堵感の満ちた広場のようなところ。ゲーテは決して超人ではなく普通の人の延長線上にいるのだと、英知も明察もずっと地続きのところなのだと、そう諭してくれる。 ・・・という感想とは別に、私のこころにとまった歌。 公正であろうと腐心するばかり どこにあるのかあなたの自我は 束縛も喜びとする心情は 愛なくしてはありえぬものよ 愛もなく迷いもないという君は この世で何をするなぜ生きる飛鳥新社:三十一文字で詠むゲーテhttp://www.asukashinsha.co.jp/book/b109830.html
2014.02.14
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2日の日曜日に、紀州口熊野マラソンを走った。 フルを走るのは2年ぶりになる。 目標は5キロを23分で走って、3時間15分でゴールすること。 最初の5キロ、22分14。 スタートロスと混雑ロスを差し引くと飛ばしすぎ。 キロ10秒は大きいぞと思ったけど、もう過ぎてしまったことは仕方ない。 10キロまでの5キロ、22分46。少しリズムが安定してきた。 15キロまでの5キロ、22分23。まだ速かった。 このままハーフまで疲れ知らずで走れて、ハーフ地点から、ダメージゼロの感覚で「さぁハーフを走ろう!」と思えたらいいなと考えて走っていた。 何年も走っていて、こんな甘い考えにまだ囚われていたという……。 20キロまでの5キロ、23分21。 20キロ手前でエネルギー切れの感覚に襲われた。体のなかのどこかが押しつぶされている感じ。朝から食べず、スタート前にスイスロールを2/3と板チョコを少しかじっただけだった。カーボ足りず。 25キロまでの5キロ、23分37。 エイドで薄皮あんパンをゲット。一気にぱくつくと喉つまりそうだし、胃の調子を崩しそうだったので、走りながら、ちびりちびり齧りとり、飴をなめるように口の中に置いてゆっくり食べた。薄皮パン1個食べるのに3キロの道のりをかけて。 30キロまでの5キロ、24分01。 30キロ地点で2時間18分22。 飛ばしすぎで貯めた貯金を使いきって、30キロでちょうどプラマイゼロの、3時間15分ペース。 35キロまでの5キロ、25分26。 ついにキロ5オーバー、ショック。以降、時計を見るのがいやになる。 40キロまでの5キロ、25分53。 ここで力をふりしぼったら一気にツブれて歩きになるのが分かっているだけに、徐々に落ち込んでいくのをなす術なく受け入れるしかないという無念さと並走した5キロ。 ラストの2キロ、11分03。 走り続けていたらいつかは終わると、それだけを思って走り続けたけど、なかなか終わらなかった。41キロ地点から先も長かった。 ゴールは3時間20分。目標クリアならず。 振り返ると、33キロ過ぎから9キロを残して、なかばツブれた格好に。忍耐の9キロは長かったけど、大きく崩れずに耐えきれたのはよかった。苦しんだ分だけ、ゴールを越えたときに爽やかな達成感が得られた。
2014.02.08
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年もそこそこになると、誰も忠告してくれなくなる。 改めてもらい点が、営業上の利益にかかわるようなら、上司なりが指摘することもあろう。でも、仕草やちょっとした癖、気を抜いたときに出てくる好ましくない口癖や表情、そういった細かいといえば細かいこと、とりたてて咎めるほどでないなら、放っておかれるのが常である。 放っておかれるならまだしも、表情、口調、手ぶり、身ぶり、考え方、嗜好、いろんな毛嫌いされる性癖を多くまといすぎたら、相手にされなくなる。多くなくても、ただひとつでも相手がそれを強く意識して辟易すれば、やがてそっぽを向かれる。 あらたまった場に臨むにあたり、お母さんが子供に「ちゃんとしなさいよ」という。その「ちゃんと」の一言に詰め込まれてあるありとあらゆること。年を重ねた分、子供時代の「ちゃんと」に相応の「ちゃんと」が加わってもいよう。 日々の生活の、ある瞬間、CTスキャンにかかるように、自分の全身と心の中を検める。会話していて、食事していて、何かをしていて、ある瞬間、録画を見直すように、直前の数秒間に他者へ不快を与える点はなかったか。 独りでいても、なにかに没頭していても、こういうチェックができること。そして習慣化できれば、「ちゃんと」チェックは、きっと自律神経系の働きで行われるようになり、「ちゃんと」が板についた人になれるのだろう。 自分で自分の悪い癖に気付き、それを努めて直すように心掛ける。中高年のよくある望み「老いても美しくありたい」は、まさにこれができるかに依るのではとも思う。 「ちゃんとしなさいよ」 まだスキャンの精度が悪いから、改めるべき点をたくさん見逃してそうだ。でも姿勢の悪さは一番に分かった。だから、まずは姿勢を正した。 そういえば、魅力的なあの人はいつも姿勢よくにこやかな笑顔を絶やさない。よく知らない人だけど、不思議と魅力的だ。 いや、もう不思議ではない。ちゃんとできているから魅力的なんだろう。ちゃんとするように努めよう。
2014.02.01
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本も半ばにきて「半世紀生きてしまった」とあって、びっくりした。 やおらキーボードを引き寄せ、ググって生年をWikiで確認した。そんなことしなくても奥付に書かれてあったけど。1958年。 『晴れたり曇ったり』は川上弘美のエッセイで、2013年7月が第一刷。 巻末資料によると、初出2000年以降の書きものを、あちこちの刊行物から寄せ集めたものらしい。書かれた歳もまちまちなら、想定読者もまちまちなのに、並べ方に工夫があるのだろうか。一連のブログ記事を読むに似て、時間と想いの連続性を据えつつ読んで、違和感なかった。 若い女性の手を思わせるように、文章には張りがあって艶もあって、ところどころに思考の飾りが、ラメきらめく爪のように配されてある。綴る手もきっとそうだろう。勝手に決めつけていたところに、半世紀生きたときて『誰が?』となった。数行戻って読みなおしもした。 瑞瑞しいのは文章か、感性か。筆者の歳とは別に、文には文の齢があるのだなぁと思った。 「へへん。」 この一遍を読んでから、生きていること自体のスランプをキャッチするアンテナが感度高くなってしまったような気がする。滅入ることがあると「瓶の底に沈む小石」に、自分も同じように落ち着いてしまう。 こんな上手に、負の感情へ誘いこまないでほしい。
2014.01.31
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文章修業のために読みはじめた次の本は、 『文章の技 書きたい人への77のヒント』中村明著 筑摩書房。 http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480814494/ 著者の中村明氏は、文章作成の権化といってよさそうなお方である。こちらWikipediaで著作をご覧いただければ一目瞭然。 http://ja.wikipedia.org/wiki/中村明 日本語の作文術は「中村明に始まって、中村明に終わる」……と言われているかどうかはしらないが、そんな感じである。 著作一覧のなかに、記憶にあったタイトルがいくつかあった。何冊かをすでに読んでいるようだ。 カテゴリ「文章修業」は最近つくったものだけど、この課題とのつきあいはブログ開設に遡るから、書かなかっただけで、この手の本とずっと取っ組みあってきた。その割に書きはじめの2005年から9年も経っているというのに、たいした進歩もみえないのはご愛嬌である。 10の章に分かれ、各章が八つほどの小見出しに分かれている。その小見出しの総計が77。 筆者は、読者を思いやって書くことが大切だと力説していた。だから見出しは、本文の中身をよく反映し、かつ簡潔になるように配慮が行き届いている。小見出しを読むだけで、本文の概略を推測して掴むことができる。 大見出しにあたる10の章は以下の通り。1 書く前にこれだけは―文章表現の基本をチェック2 技が飛び交う―目的別レトリック一覧3 第一印象をぴたりときめる―書き出しの型と工夫4 作品を締める―結びのタイプと技術5 カメラアイをしなやかに―視点の種類と操作6 イメージゆたかに―比喩表現の働き7 目にありありと―自然・情景を描ききる8 感覚を研ぎ澄ます―繊細な五感を映す9 心のひだに分け入って―感情のニュアンスそのままに10 魂を吹き込む―作中人物がのこのこ歩き出す サブタイトルの「77のヒント」の感じからすると、筆者のもつ豊富な知識から、思いついたところを断片的に述べてくれるのかと思ったが、そうではなかった。文の骨格、肉付け、装飾、演舞と、技の奥行き十分に、また初級から上級まで技の幅もたっぷりに、『文章の技』を解体し尽くさんと書かれてある本だなと思い改めるにいたった。 いま、1章と2章を読んでところ。事典的密度の本分にあたり、200頁足らずの本で網羅も可なるかと驚きつつ読み進めているところである。
2014.01.29
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以前、紹介した百人一首の本、『百人一首』谷知子著をまだ借りていて、机の脇にずっと置いてあるから、ご飯食べながら片手になど、何の気なしに手にとって読んでいる。 恋を詠った歌が多いのは、飽きない魅力である。その歌に接するごとに、新たな感銘をうける。わずか三十一文字であっても。傍らに決まった解釈が書かれてあっても。 一番、苦しんでいる歌はどれか。 前々から、やっぱりこの人かなとすぐに思いつくのは、和泉式部。 「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」私はもうすぐ死んで、この世からいなくなるでしょう。あの世への思い出として、せめてもう一度だけあなたにお逢いしたいのです。 その正直な気持ちの告白にぐっとひき寄せられるが、よく読めばこれは未練であり、恋はすでに終わっていそうである。そう考えると、炎がない。 今回、本をみていて、はげしい歌の存在に気づいた。 「忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな」 詠者は儀同三司母。清少納言が仕えた人、中宮定子の母とある。どんなに忘れないとおっしゃっても、将来のことはあてにしがたいので、そうおっしゃってくださる今日が最後の命であってほしいものです。 恋が成就した今、死にたい、という歌だ。すごい。ピュアだ。草書で美しく書かれたなら、狂おしい言霊が文字に宿り、触れたら火傷しそうな、そんな感じがする。 さらに、上をいく歌はあるだろうか。
2014.01.27
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7、8年前、山道をひとりでせっせと歩きまわっていた頃、クリスマスになるとLEDで家を飾るのがはやりだした。 人がきれいきれいと称えるその良さを理解できず、私はいつも冷めていた。山道でみつける花の美しさに比べて、電飾の美しさが虚ろなものに思えて仕方なかった。 遠くからしか眺められない谷間に咲く藤。 道に散る紅が教えてくれた頭上のねむの木。 道を曲がったところにサプライズで現れるヤシオツツジ。 山間でのそれら花木の華やかさは、闇に輝く電飾と変わらないコントラストで際立っているから、似たものとして比べていたのだ。 でもようやく、見る側のこころを抜きにして、対象だけをとりあげて比べていたことの過ちに気付いた。LEDが飾っているのは、目の前の闇ではなく、おなじ日おなじ時おなじ場所で、ともに眺めているあなたとの関係なのだと。 そのひとときのあったこと、電飾がきらめくように、想い出がきらめく。よりそって 同じもの見る 想い出の それあるのみで 世界は満ちる(写真:梅田スノーマンフェスティバル2013 撮影2013/12/20)
2014.01.26
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今日は30キロ走をしました。設定4分半。5キロで1サイクルのコースです。05K 22'2810K 22'2815K 22'2420K 22'2725K 22'3430K 22'21Total 2:14'4430キロの壁にぶち当たる寸前で、無事に終われた。でも30までは安定して走れたし、最後アップアップでもなかった。最近、水泳をしているので、クロストレーニングの効果だろうか。体幹が強くなった感じはある。疲れてきても、タイムを落とさずに走れる距離が延びた。以前は、疲れとタイムの落ちこみがもっと忠実に比例していた。5キロ23分のペースでフルを走れば3時間15分切り。それを目標にしよう。
2014.01.18
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正月、久しぶりに百人一首にふれた。 家庭用ゲーム機のなかの味気ない札だったけど、百人百様それぞれの想いの散らばるさまに、ふたたびみたびのことながら、新しく気づいたかの魅力を感じた。ひと昔、パソコンゲームの百人一首に凝って、すべての札を諳んじれたのはもちろん、決まり字(一首に絞れるまでの出だし部分)の一字ごとに下の句を絞り込めたりもできた。 今はもう多くを忘れてしまい、時間をかけないと思いだせない歌がたくさんある。時間をかけても思い出せない歌はもっとある。 でも、忘れない歌もある。 正月明け、ジョギングしていた人と短歌の話しになり、百人一首に話題が及んで、お互い記憶につかえて出てこなかった歌のいくつかを、協同作業でかろうじて記憶の奥から取り出せて、そうそう、それそれと話がはずんだことは、新年早々の楽しかったことになった。 そんなことがあったから、百人一首をなるべく忘れずにいたいなぁと思い、図書館の蔵書検索で「百人一首」で検索をかけて、新しい本を調べてみた。 これなら電車の中やあちこちで簡単に読めるなと、さっそく借りたのが『百人一首』(谷知子著 角川ソフィア文庫)。オールカラーで紙質も良い。一頁に一首、尾形光琳の図と並べて簡単に紹介してある。http://www.kadokawa.co.jp/bunko/bk_detail.php?pcd=321307000112 ところで。 姫の頁がいいなと、たまたま開いたところの歌。 めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雲隠れにし 夜半の月かげ かの源氏物語の著者、紫式部の歌。 宮中で逢った友達のほんの一時の出逢いと別れを詠んだ歌、とされているが、私は違う解釈を押しつけたくて仕方ない。この歌は、そんな日常のひとコマを歌ったものではない。 歌会では、ながながと時間をかけて一首を読み上げるのが通常だったらしい。 「めぐり逢ひて~」 詠む女性と挨拶をかわす程度の面識ある男性は、俺のことを詠むのかとドキっとする。 「見しやそれとも 分かぬ間に~」 ひそかに想いを募らせて、陰からコソコソとチラ見していた男は焦り出す。 「雲隠れにし~」 ストーカー癖のあったその男、これはヤバいとその場を逃げだす方法を考え始める。 「夜半の月かげ~」 『なぁーんだ、びっくりさせるなよ、ホッ』と、句末にいたって安堵の胸をなでおろす。 というように、時間軸を据えて恋愛感情主体で読めば、これは紛れもなく「三十一文字の恋愛サスペンス」、さすがは稀代のストーリーテラー!、と私は勝手に解釈している。 オチの「夜半の月」はもちろん月にすり替えて、許してあげているのである。男は『しかし、やってくれるじゃないか。そうくるなら……』とつづくのは想像に難くない。成就しない段階での探りを入れる会話として、粋な誘いのお手本である。現代の日常会話にアレンジして積極的に用いるべし。 (以上、超勝手な解釈です。念のため m(..)m)
2014.01.16
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前回に続いて『文章心得帖』より。 筆者の力説している要点は、紋切型の表現を避ける、というこの一点に尽きるといってよい。なぜ紋切型がいけないか、その理由を端的に述べている箇所は今さっと見返してみつけられなかったが、こういうことである。 紋切型を使ってしまうと、とたん文がその人から離れて行く。 書き手が見えなくなる。 フリーハンドで曲線模様が描かれてあって、それまでは歪んだりわずかに途切れたりして、多少ぎこちないながらも書き手の個性の見てとれる味わいある線が引かれてあったのに、突然に定規を用いたと思われる直線がピシッとあらわれて、それまでのリズムも雰囲気も台無しにしてしまう。加えて不味いことに、描き手は一向そのことに気づかず、むしろ逆に、どう?綺麗に嵌っているでしょと言わんばかりのしたり顔が窺えて、読み手は一気に興味を失ってしまう。 多数の例文をあげて、紋切型表現に頼ること、つまりは、手垢にまみれた陳腐な表現を用いることのデメリットを分かりやすく説明してあるので、よく理解できた。 しかし、ではどういう表現が紋切型なのか、と問われれば、それはちょっと説明しきれないようで、いくらかはセンスある者が多くを読めば自ずと判断つくものなのであろう。 どうすれば避けられるか。これは書かれてあった。少し長いが引用しよう。 紋切型から離れるためには形容詞を惜しんで、数少なく使う。動詞を主に使って書く。動詞を重んじるやり方が健全なんです。 ヨーロッパ語の場合だと、動詞と名詞を主に使い、動詞の受身の形を使わない、ということが文章を書くときの最も初歩的なやり方です。日本の現代語の場合は、名詞というのはくせものなんです。名詞のなかにたくさんの抽象名詞がある。ヨーロッパ語から漢語を使って置きかえたものでしょう。そのため、名詞がなじんでなくて、名詞を使うことで、われわれの日常の感覚から別のところへいってしまう。それがこわい。 私は日本の現代語の場合には、名詞に対して、もう少し吟味する必要があると思います。動詞を主に、形容詞は数少なく、効果的に使う。そのことを通して紋切型を避けるというやり方がいいように思う。 まだ私の修行が浅くピンとこないが、深い考察によるものであることは分かる。表現しがたい難しいことを、精一杯簡易な説明で伝えようとしていることも分かる。紋切型を避ける方法は高度過ぎて、会得するのにまだしばらくは修行が要りそうだけど、よい文章の条件は、誠実で、明晰で、わかりやすいこと、この3つの心得は忘れずにおこう。
2014.01.15
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文章修業のために、いま読んでいる本は『文章心得帖』(鶴見俊輔著 ちくま文芸文庫)。http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480095800/ まだ読了していないが、読みはじめから引きこまれている。文章作法を説く本を読むことには、二重の面白さがあることに気づいた。なにが二重か、まずそれについて述べたい。 なにかを伝授する本、たとえばスポーツや料理の指南書だと、お手本は写真や言葉でしか表現されえない。頑張っても付録DVDの動画だ。言葉の先は、読み手が想像で補わないといけない。そこに書き手の安堵感が生まれるような気がする。安堵感とはすなわち逃げ道だ。それが許せない、とまではいわないけれど面白くない。ここから先はもう言葉では言い表せないのだ。でもその感じだけは掴んでほしいと言わんばかりの、ただ勢いにまかせた文章に、道場の門から放り出されることも少なくないからだ。 でも文章の指南書は違う。その指南書自体がお手本となる。お手本と教えが、隣り合うよりもさらに密な状態、一体となっている。書き手は逃げも隠れもできないのはもちろんのこと、説きつつ示さなければならない。一語、一文、一段落のありようが、つねに全体を揺り動かす緊張感に置かれる。まるでルービックキューブを完成させるかのような難題。それに挑戦する筆者の姿勢が、読みどころだと思う。 韻を踏みながらつくられる詩、その美の調べが芸であるなら、文章指南書における文体と文意の一致がつくりだす美も、言葉の芸である。素晴らしい文章作法の本であれば、それは実用書でありながら芸術的であるから、読み手はそこで二重の味わいに浸れるのだ。 この本はまず、文章の理想として3つの方向があると説く。「誠実さ」「明晰さ」そして「わかりやすさ」。 「わかりやすさ」の説明にこう書いてあった。読者としての自分というのは重要であって、文章はまず自分にとって大事なんです。自分の内部の発想にはずみをつけていくものが、いい文章なんです。文章を書いているうちにどんどんはずみがついてきて、物事が自分にとってはっきり見えてくる。そういう場合に、少なくとも自分にとっては、いい文章を書いていることになる。 とても気持ちよく納得できた箇所である。ここでいう「はずみ」を私は求めている。そして、独りよがりにならないように体裁を保って綴れたらと願う。それを目指して、カテゴリ「文章修業」を充実させていけたらと思っている。
2014.01.14
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9月以来の4ヶ月ぶりの更新。 ブログをほっちらかしているなぁと、ずっと気にしていた。 最近はもっぱら、SNSの方でリアルな話題をリアルな人とやりとりしているので、ここでのブログのように、コメント0をずらっと並べる無反応な世界、壁に向かってモノを言う世界は、なにか健康的でないような気がして、つい書かずほっちらかしてしまう。リア充などというネットスラングを知って、ますますこれでいいのだと安心していた。 しかし、SNSであれこれ書いても、やっぱりそれは、交流のための「書く」であって、書くための「書く」ではない。特定の読み手を意識して、なによりまず誤解を招かないことに注意して書くのは面倒だ。濃くなりすぎてドン引きされないように心掛けるのも面倒だ。SNSでは充実しないものが私の中にはある。 対象を自由に選び、引きこまれた深度まで踏み込んで無責任に見極めて、表現にこだわりおのが記憶を飾る。そういう場所が欲しい。それができるのはここだ。 なぜ、そんなにまで、サンミーにこだわるのか。 わからない。もう説明できない。 こういうことは、リアルでは通用しないかもしれないが、ここなら「あり」だ。 だから、またまた、突然の「ヨンミー」のレポートなのである。 チョコ、ケーキ生地 クリーム、みかんジャム 4つの味(四味)のデニッシュ 第一弾とあるから、いくつか続くのだろう。「第一弾」と書かれてある位置から、続くのはヨンミーではなく、都道府県特産物とのコラボだ。今回は、和歌山県の温州みかん。サンミー的チョコとみかんの相性のよさは、過去に実績がある。第一弾でコケるわけにはいかないという、実に手堅い戦略である。そして、そのとおり、手堅くおいしかった。
2014.01.13
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ヤマザキのふんわり食パンでスイートキャラメルというのが売られていた。するとこちらサンミーでも生キャラメルだ。キャラメルにもシーズンがあるのだろうか。 聞いた話によると(映画だったかな)、チョコレートは原料を牛耳っている組織によって、完全に末端価格が操作されているそうな。同じようにキャラメルも、キャラメルペーストの製造元によって、市場でのキャラメル流通量が一社の動向に依存してしまっているのかもしれない。ほぼ独占状態にある製造元が、決算だから在庫をさばいておこうと決めたら、キャラメルソースが安くたくさん、二次加工に用いるメーカーへと流れて、最終的に小売店の店頭にはキャラメルテイストの商品が多種登場する、といった具合に。 もしそうだとしたら何なんだ、といわれても別に何ということもないんだが、ひとつ言えることは、キャラメルにシーズン性はあるのか、もしあるとすればそれはどういうメカニズムから発生するのか、という疑問について考えることは、他の類似する問題を考える際の思考トレーニングになりはしないだろうか。たとえばロボットに感情は生まれるか、もし生まれるとすればそれはどういうメカニズムから発生するのか、というような問題と取り組む場合に、いくぶんとっつき易くさせてくれるかもしれない。 濃厚なクリーム(キャラメル風味) チョコ、ケーキ生地の 3つの味(三味)が楽しめるデニッシュ キャラメル系では「塩キャラメルサンミー」というのが2011年6月に販売されていた。当ブログのレポートはこちら。私にしては珍しく良い評価である。 今回は「塩」ではなく「生」。まだ夏の暑さも残る9月。常温袋売りのパンで「生」とは首を傾げたくなるが、「生キャラメル」の「風味」だから、セーフなのである。「生」の「キャラメル風味」ではなくて。大人向けの味を狙ってますと言いたいのではなかろうか。 塩キャラメルのときほどもペーストにボリュームがない。さて、それを補うクオリティがあるか、北海道産生クリームがただのイメージでないことが明らかか。そこに意識をむけて味わってみた。 うーん、キャラメル味はあってるんだけど。クオリティよりボリュームの方がいいかな。というか、ボリュームもクオリティのうちだ。 次のキャラメルサンミー、たとえばミルクキャラメルサンミーでもいい、それはズシリと重いことを期待する。
2013.09.04
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劇場で『スター・トレック イントゥ・ダークネス(3D字幕)』を観てきた。 つきあいで。趣味ではない、とまでは言わないけど自分では選ばないタイトルだ。 とはいえクリス・パイン主演の前作は試写会で観ている。それに『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』をIMAXで観たとき、このスター・トレックの予告編が流れて、それが驚くほど長編だった。スポックが火山噴火を鎮める冒頭シーン丸々が流れたのだ。予告編というような感じではなく、購入チケットの映画タイトルを間違えたかと思ったほどだった。実際そう取り違えて席を立った客もいた。 もちろんマニアではないし、とくべつ好きでもないスター・トレックの世界だけど、なんやかんやで知っていて、理詰めのスポックの魅力に実はひそかに惹かれていたりもする。劇場ならではの3Dを楽しむのもいいかと、あまり期待せずに観た。 そしたら、これが意外に良かった。 ライフ・オブ・パイを観たときに思ったのだが、空間(とくに背景)がすっきりとしているほど、3Dは引き立つ。大部分が海と空の広大で奥行はるかな空間に一隻のボート。それは素晴らしい3D舞台だった。宇宙空間も、同じ条件を兼ね備えている。 3Dとして映える映像を見せてもらったので、半分以上は満足だ。 しかし、ストーリーをはじめとする残りの半分は、想像通りだった。 ワープ航行中に後方から光線を撃ってくるとか、そういうのは愛嬌のうちでいいけど、コアの軸がズレて蹴飛ばして直すというアナログな故障と修理方法。いささか遊び半分に過ぎるのでは。子供受けする一面も忘れはしないと錯覚しているのだろうか。 また、蘇生させるのに、死別をあれだけドラマチックに演出する無神経さ。部下をとことん大切にするカーク艦長。敵ながらカーンも同じ。なのに制作陣は観客をこうもあっさり裏切ってくれますか。 こういうことにあまりツッこんでも仕方ない。理に適わないことをあれほど認めないスポックですら容認しているのだから。それは分かっている。 しかしだ。 せっかく3Dが、作品内の時空へワープさせてくれるほどの素晴しい効果を出しているのだから、その作品世界のリアルさも馴染めるものであってほしい。でないと、エンタープライズ号を中心とする三千大千世界も、ホンモノのダイオウイカ一匹のひとにらみに完敗する憂き目に遭うだろう。
2013.08.25
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『日本語作文術』 野内良三著(中公新書)を読んだ。 http://www.chuko.co.jp/shinsho/2010/05/102056.html 飲食店の評価基準はいろいろあるが、私に言わせれば「うまい・安い・早い」が基本だ。牛丼の吉野家のキャッチフレーズと同じ。接客や内装など他にも評価ポイントはあるだろうけど、他はさておき先の3つがあれば及第点とする。 さて、この本『日本語作文術』野内良三著(中公新書)は、作文術における「うまい・安い・早い」を説いている本だと言えよう。3つは、これ。・読みやすいこと・分かりやすいこと・説得力があること そして牛丼屋にターゲット(サラリーマンの日々の胃袋?)があるように、この術にもターゲットがある。一般の人の日常生活内での作文、すなわち実用文を書くにあたって、というターゲット設定である。これは絞っているようでいてかなり広範だ。広範というよりも基本である。応用を求めるにしても、まずは押さえておかなければならない。さらに著者は主張する。 なにを書くかは一般化できないが、どう書くかは一般化できると。 先の3点の大切さを力説し、この要点に適った文を示し、作文にあたって心がけるキーポイントは何かを、実に読みやすく、わかりやすく、説得力たっぷりに教えてくれる。文ひとつをどう書くか、つぎに段落ひとつをどう書くか、そして文章全体をどうまとめるか。ミクロな視点からマクロな視点まで、筋道このうえなく整理して書いてくれてある。 文の言わんとしている内容と、この本のなかの文の姿かたちが言行一致の極まりで、それら相俟っての説得力は絶大だ。 読みすすめていくと書きたくなってくる。すると折よく、どう書けばよいかの練習問題が出題される。巻末には、すぐに活用できるフレーズ集もついている。 『あぁ、これはアレだ!』 山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」に、綺麗に乗せられたような感じである。 読み終えたあと、実際に私は書ける人になっている気がした。その気持ちの勢いを借りて今これを書いているのだが、この紹介記事は「読みやすく、分かりやすく、説得力がある」だろうか。 ところで、私がこのブログを綴っている目的のひとつは文章修業である。この本を手にしたのを機に、文章修業に関する本を集中的にとりあげて紹介しようと思う。
2013.08.19
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試写会で『少年H』を観てきた。 舞台は神戸。開戦と終戦が含まれる昭和16年ぐらいからの5年間ほどの物語。小学校から中学校へと進む少年Hこと、はじめ君と家族が、激動の時代を乗り越えていく自伝的物語。 まず、俳優さんがよかった。 いろんな出来事と、その経験を通して、人生の足場を組んでいくはじめ君は、その5年を通して同じ一人の子役なのだが、内面的成長に応じて面構えが大人びていくように見えた。それが演技と演出によるものなのか、あるいはこちらの思い込みがそう見させたのか区別はつかないけれど、そんなことはどっちでもいい。 お父さん役の水谷豊も素晴らしかった。少し前の座敷わらしの映画をみても思ったことだけど、この人はいつも生活感なく実在感なく、どこかしけた紙マッチのような鈍さの象徴のような感じがあったけど、この作品では、そういうベースの個性に練熟の域と思われる渋みを上乗せして、和製ダスティンホフマンと言ってもいいような味を出していた気がする。 中心になる父と息子。そのどちらも素晴らしいから、終始スクリーンに惹きつけられた。 舞台セットもよかった。 どこまでが舞台で、どこからがCGなのか区別はつかないけれど、そんなことはどっちでもいい。 広い空間を映しても、看板や電柱の標語、隅々までその時代で埋められている。この路線には『三丁目の夕日』という先達がいるけど、作り手のどや顔がスクリーンの裏に透けてみえない感じがして、私はこっちの方がずっと好みだ。 もちろん、話の中身もよかった。 自伝だから、出来事のあれこれは断片的で、ときに話しは繋がりなく進んでいく。それでも、次の展開へ力強く惹きこまれていく。作品として、ちゃんと一本通っていることの力。その力の素は、さらに突き詰めれば何だろうか? まっすぐではない世の中。まっすぐではやっていけない世の中。しっかりと立つ大地のどこにもない浮遊感。終戦を境に一変する周りの人を、漂うワケメのようだと怒り、枕木にぶらさがってもがく。はじめ君の心情は、映像とセリフのあちこちから多重に語られて、観る者を同じ心境へと誘う。 実際にあったこと。そして、伝えたいことがある。 それだけではないけれど、これら基本の力ではないかと思う。 全編にわたって丁寧に綴られている。押しつけではなく感じとってくださいという程度の気持ちで。 邦画で人にすすめたい一本に、これは入った。
2013.08.09
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『終戦のエンペラー』を観てきた。 日本は敗戦して、戦争責任を問う調査がマッカーサーの司令のもと、開始される。もう戦争は終わったあとだから、激しいドンパチなんかない。それなのに、全編にわたり緊張感が途切れない。 天皇が有罪か無罪か、という一大事の行方が調査中だからである。 しかし、これは誰にもネタバレのことである。いくらフィクションとはいえ、大筋では史実に基づいているのだし。有罪になれば、昭和は短いものであったろう。 結果が周知の題材でも、サスペンスとして成立するのだ。この辺りの作り手の手腕は感嘆すべきものだと思う。派手なSFXや膨大な数のエキストラなどという目立つやり方とは違って、一見地味ではあるが、この映画の特筆すべき点ではないかとも思う。 たとえば結婚披露宴の席で。 「それではここで、新郎新婦のなれそめを紹介したビデオをご覧いただきましょう」と上映がはじまる。ふたりの出会い、距離が縮まった出来事などが紹介される。しかし上手くいかず、喧嘩してそっぽを向きあう展開に。『おいおい、大丈夫かよ』と思わせる。今、ふたりは目の前にめでたくゴールインしているのに、そのビデオの展開にのせられてハラハラしてしまう。 『終戦のエンペラー』はちょうどそんな感じの、プロセス部分だけで勝負するサスペンスだ。 タイムマシンもので、過去を変えたら、現在が崩壊する、というのはよくあるルールだ。だから万が一そのプロセスが史実を裏切ってしまうと、いま映画を観ているこの私の体が、砂と化して崩れ落ち、消えていくかもしれないという恐怖感まで抱かせることができれば本物だ。 まぁ、そこまでは行かなかったけど、そんな映画を観てみたい、誰か作ってくれないかなと思った。
2013.08.03
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8/1、PLの花火。毎年、狭山池から見ています。今年は、花火のあいだじゅう、西側池畔をぐるっと歩いて、ベストポジション探しをしました。神社前は悪くないです。もっと近寄ろうとすると、距離表示400mあたりから博物館が死角になります。そこを過ぎると今度は土手の木々に隠れがちになるのですが枝の間から見えればOK。このあたりがベストだと思います。0キロ地点を過ぎると、駅が近いので今度は人で混み合ってきて、快適さは減少します。写真は、数発分を合成しています。なので実際はこれほど華やかではありませんが印象としてはこんな感じでした。単調だった数年前とくらべて集中型の魅せる演出になったように思います。
2013.08.02
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毎年この時期、車で富士山へいく道中で、地方限定ロールちゃんを探すのがパターンだった。しかし今回は、地方限定のフレーバーがない。このところ地方限定は以前より減ったような気がする。地方限定はやめてほしいと以前書いた覚えもあるし、望ましい傾向だ。楽しみなフレーバーの存在をしっても、地域外のファンはただ指をくわえることしかできないのは残念である。またそれが、全国規模の山崎パンの、ナショナルブランドのロールちゃんの、販売スタイルだと受け入れ難いだけになおさら。 期間限定品は、大阪では万代かライフでよく買えた。ところが、この両スーパーとも、少なくとも私の生活圏においては、期間限定品の取り扱いが減った感じがある。このレアチーズも、いく度か売場をチェックしたけど、売られていなかった。 まだ未購入だったこのレアチーズ探しが、今回のミッション。静岡・山梨では、だいたいマックスバリューで買えることが多い。そして、今回も富士吉田市のマックスバリューで買えた。 ベーシックなテイストである。「暑い夏でもぺろりと食べられる」とある。あまりに暑苦しいと、喉の通りが悪くなると自認しているのだろうか。たしかにロールちゃんのスポンジは乾燥肌で、クリームは甘くボテっとしている。 チーズ感は希薄で、味わいに特別な癖はない。たしかに食べやすいロールちゃんだった。ぺろりと食べてしまい、旅行中のことだからもう数日は過ぎた。あのときの味は……と思いだそうとしても、これといってよみがえってこない。こういうロールちゃんは、レポートの書きにくいロールちゃんである。
2013.07.29
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今年も、富士登山競走(2013/7/26 第66回)に無事エントリーできて、無事にトレーニングを重ねることができ、そして無事にスタートに立つことができ、さらには何よりも無事に時間内完走することができました。 タイムは五合目を2時間13分。八合目を関門4分前。山頂を2分前。 まったく余裕のない状況でした。私の場合においてはですが、この4時間半の重労働は不思議と波やムラがなく、少しぐらい鍛えても縮まらなかったかわりに、気を抜かず挑めば完走圏内には残れそうな、そういう総合力判断されているかの印象を持っています。 総合力というのは、スピード、持久力、気合い、体調。自分の力ではどうしようもないものに、天候や混雑度、運なども。年間通して、トレーニングにそれなりの時間と気力を注いでいたら、大会直前になって何かの調子が今一つだったとしても、代わりに何かが好調で、不調を補完してくれていたり。そういう面があると思います。 体は重く、痙攣を恐れて突っ込みも甘く、レース中に自分でも今回は冴えない走りしているなあと嫌になるぐらいでした。完走こそできたものの、他に喜べるところは何もない結果です。 それと、これは先の話ですが、来年の参加は見送ろうと考えています。この大会と日程の近いおんたけ100キロと交互に参加しようかなと思っています。
2013.07.28
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今年も「富士登山競走」にチャレンジします。6年連続6回目になります。ちなみにこれまでのリザルトは、八合目関門アウト、悪天で五合目打ち切り、4時間21分完走、4時間28分完走、4時間21分完走。山頂関門4時間半に10分以上の余裕をもってゴールしたことはなく、毎年、完走できるかどうか、不安いっぱいでスタートしています。今年も同じです。 富士山が世界文化遺産に登録されました。それにあわせて入山料が検討されています。7月25日から10日間、試験的に入山料導入があるそうです。千円で支払は任意。一説には7千円ぐらい取らないと、という試算もあります。7千円と聞かされているせいか、千円なら安いなと思ってしまうところが、なんか乗せられている気もしますけど。 来年の「富士登山競走」のエントリー費は、入山料や協力金など、迷惑の代償のようなお金をたくさん上乗せされて、値上げは確実なような気がします。今で一万円ですから、一万五千円ぐらいいくかもしれません。 そこまで高くなると、なにも大会の日に登らなくてもいいかと思います。駐車場無料の御殿場五合目に車を置いて、御殿場を登って須走りを下りて吉田道を登って富士宮を下りて、宝永山まわりで御殿場に戻るとか、そういう富士登山をやってみたいなぁと考えています。 今回も大会翌日に、別ルートをまわってみたいのですが、その余力があるかどうか。
2013.07.23
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