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<先日のエントリーから続く>ローラン・プティがルドルフ・ヌレエフと初めて出会ったのはウィーン。ヌレエフが故国を捨てる数ヶ月前のことだった。プティもヌレエフも同じ芸術祭に招かれ、それぞれのバレエ団の主宰者と専属ダンサーとして参加していた。アプローチをかけてきたのは、ヌレエフのほう。プティは宿泊先のホテルを伏せていたのだが、ある日、終演後にプティの後をつけてきたソ連(当時)人のダンサーがいた。彼は自己紹介すると、満面に笑みを浮かべてプティのバレエを賞賛し、ヘタな英語で、「またお会いしましょう」と言った。ヌレエフはフランスで亡命。プティはニュースで彼の顔を見て、それが数ヶ月前ウィーンで自分に会いに来た若者だということに気づいた。天才ダンサーはロンドンに渡り、マーゴ・フォンテーンの相手役として一世を風靡し、その名声は瞬く間に世界中に広まっていった。彼が出現する前は、バレエはまだまだ一部のブルジョアのための芸術だった。だが、ヌレエフがバレエ人気を真に大衆的なものにした。これまでバレエとはまったく縁がなく、何の関心も示さなかった田舎の主婦までが、フランク・シナトラやエルビス・ブレスリーを語るように、ヌレエフの噂話をし、ヌレエフに夢中になった。公演先でたびたび起こすスキャンダルも、ヌレエフのアイドル化に拍車をかけた。プティが聞くヌレエフについてのニュースといえば、カナダで警官のズボンに手を突っ込んだとか、コールドバレエのダンサーに暴力を振るったとかいった、よからぬ話ばかりだった。ルックスだけで言えば、ヌレエフには際立ったところはなかった。だが、ひとたび捉われてしまうと、抜け出せなくなる魅力があった。やがてプティは、そのことを身をもって知ることになる。ヌレエフと自分のために新作バレエを作ってほしいとプティに依頼に来たのは、フォンテーンだった。プティはロンドンに向かうが、最初のうち仕事はうまく行かなかった。いや、プティとヌレエフは仕事の面では終生軋轢を繰り返している。要するに振付師プティとダンサー・ヌレエフは、本来あまり相性がよくなかったのだろう。プティのバレエはしばしば見るが、洒脱でいかにもフランス的なプティの作品を、「ヌレエフが踊ったら」と考えても、あまりしっくり来ない気がする。このときプティは心身のバランスを崩し、いったんフランスに帰国する。疲れたプティを癒してくれたのは、妻のジジ・ジャンメールだった。ほどなくモチベーションを取り戻したプティは、再びロンドンに向かい、彼より14歳も若いスーパースター、ヌレエフに合わせ、彼の気に入るような振付をした。つまり、振付師プティはヌレエフに対しては、最初から妥協したのだ。とにかくヌレエフは踊りに関しては、このうえなく頑固で、石頭だった。プティの指示を素直には聞かない。プティ「今のところ、3回繰り返して踊れるかい?」ヌレエフ「できるかよ。せいぜい1回だね」↑いちいちこんな感じ。このときは、プティが怒って立ち去ると、翌日ヌレエフのほうが折れてきた。こうして2人は衝突を繰り返しながら、徐々に互いの距離を縮めていく。そんな折、プティの母親がロンドンにやって来た。慣れない外国で仕事をしている息子の食事の面倒を見るためだ。ところがプティの母親は、1人で夕食をとるハメになった。そのころ、ヌレエフは車を手に入れており、朝プティを迎えに来て、夜は家まで送ってくれていたのだが、プティはいったん帰宅しても、母親の手料理は食べずにまた出かけてしまう。実は、送ってくれたヌレエフと再び外で落ち合い、一緒にロンドンの夜の街を遊び回っていたのだ。母親は数日で帰国してしまった。それからのプティとヌレエフは、ますます離れがたくなり、朝から晩まで一緒に過ごし、プティがヌレエフの家に泊まることもしばしばになる。「私の魂は彼によって稲妻に打たれたような衝撃を受けた」と、プティは『ヌレエフとの密なる時』に書いている。プティを驚かせ、ある意味で呆れさせたのは、ヌレエフの乱れきった夜の私生活だった。彼はプティをさまざまないかがわしい場所に案内する。ヌレエフは精神的な欲求を抑制することのほとんどない性格だったが、肉体的欲望に関しては、輪をかけて素直で、ブレーキをかけることは皆無だった。彼の一夜の愛人になることはまったく簡単で、ヌレエフにとってそれは、手を洗う程度の意味しかもたなかった。ロンドンでプティとヌレエフのコラボレーション第一作となったのは、『失楽園』というバレエだったが、ゲネプロのころには、ダンサーのヌレエフが勝手に振付を変えてしまい、もはやプティの作品とは言いがたいものになっていた。初日の夜、心配するプティに対して、ヌレエフは、「心配ないよ。今日はもう3回もヤったから、僕は絶好調」などと言って、プティを赤面させる。作品はプティのものではなくなっていたが、公演は大成功だった。1960年代の終わり――このころのヌレエフはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。どこで何を踊っても観客は総立ちで大喝采。ヌレエフはどんどん仕事を増やし、70年代に入ると、年間250回に及ぶ公演をこなすようになる。舞台に立つ時間は750時間。それはつまり、その2倍以上の時間を練習とリハに費やしていることになる。ヌレエフはまさに、暴君のように肉体を酷使していた。公演を終えるとお付きのマッサージ師が始めるのは、ヌレエフの身体に巻かれた数十メートルにおよぶ粘着テープを引き剥がすことだった。ヌレエフの情熱は、バレエだけに向けられており、それはほとんど宗教的なものだった。どれほど放埓な夜を送ろうと、朝10時には必ず稽古場に来て、基礎からの練習を怠りなく繰り返す。だがプティは、ヌレエフの公演回数が多すぎると感じていた。事実、ヌレエフの舞台は、次第に質にムラが出るようになる。プティがそれをヌレエフに指摘すると、ヌレエフは激怒して暴れた。2人の間にはっきりと亀裂が入ったのは、新作バレエ『オペラ座の怪人』(マルセル・ランドウスキー作曲)を準備しているときだった。最初の予定では、ダンサー・ヌレエフがこの新作バレエに割く時間は6週間だった。振付師のプティにとって、新作の準備期間としては、それでも短かった。 ところが、多忙をきわめるダンサーの都合で、6週間は5週間に、そして4週間に、しまいには2週間になってしまった。業を煮やしたプティは、ヌレエフとの間に入っているエージェントに、長編バレエをこのような短い期間で創作するのは無理だと伝えた。すると、ヌレエフは忙しい公演のスケジュールをぬって、遥か彼方から飛行機でプティのもとに飛んで来た。だが、もちろんプティの言うことを素直に聞くタマではない。わずか1時間の話し合いで、「それなら、別のダンサーに躍らせろよ。僕なら1週間もあればできるけどね」と捨て台詞を残して、流れ星のように去ってしまった。プティは、ヌレエフについて、「ジュピターのように移り気」だが、同時に「ジュピターの妻ユノのように貞淑」だったと書いている。新作バレエの話が流れたとはいえ、2人はプライベートでは友人であり続けた。プティが病気で倒れたときは、毎週金曜日の夜に電話をかけてきて、「君がそうしてほしいなら、明日飛行機で君のところいって、一緒に週末を過ごすよ」と言ってくれた。一方で、こんな話もしている。「チューリッヒでさ、公演の後、すぐに寝る気になれなかったんだ。ぶらぶらしていたら、好みのタイプに会った。ホテルに連れて行けなかったから、湖の広がる茂みで愛し合った。すばらしく衝撃的だったよ」プティという人は、ヌレエフにこういう話をされると、非常に気になるのだ。数ヵ月後、チューリッヒに行ったプティは、わざわざそのホテルの近くを歩き回り、「湖の見える茂み」を捜したりしている。結局、「できそうな」場所は見つからなかった。なので、プティは、「あれは作り話かな?」などと思いをめぐらしている。そう、プティはヌレエフに夢中だったのだ。プティはたとえば、俳優のヘルムート・バーガーのように、ドン・ファンのリストならぬヌレエフのリストに名を連ねるつもりはなかった。プティの望みは、ヌレエフにとって「唯一の存在」になることだった。つまり、ヌレエフから「最高の振付師」と言われたかったのだ。だが、ヌレエフはずいぶん長い間、別の振付師に心酔していて、プティの前でも彼のことを褒めちぎってプティをウンザリさせていた。仕事では軋轢があったとはいえ、プライベートでは続いていた2人の関係。そこに壊滅的な亀裂が生じる事件が起こる。場所はニューヨーク。メトロポリタン歌劇場でプティが、マルセイユ国立バレエ団の引越し公演を行ったときだった。<続く>
2009.05.29
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Mizumizuは現在、ペッパーミルはプジョー製、ソルトミルはコール&メイソン製を使っている。ソルトミルのほうはもうずいぶん長く――おそらく15年以上は――同じものを使っている。毎日使うほどではないが、といってほったらかしということもなく、常に食卓の上にあり、切れることなくピンクソルトが入っていて、しばしば使うという感じ。ペッパーミルのほうは、ソルトミルより少し早く、ウサギ形のものを買った(メーカー名は失念)が、数年で壊れてしまい、次におしゃれっぽい小物を売っている店で、1000円ちょっとの安いものを買ったが、それもすぐに胡椒の詰まりがひどくなり使えなくなってしまった。そこで、質に定評のあるプジョー製に替えたら、それ以来ずっとトラブルなく快適に使えている。コール&メイソン製のソルトミルはオーストリアのバートイシュルの岩塩専門店でピンクの岩塩を買ったときに、それ用ということで買ったもの。話が逸れるが、ここで買ったピンク岩塩は、日本でよく売っているヒマラヤのピンク岩塩なんて及びもしないほど美味だった。塩の味の中に不思議な甘みがあり、まろやかな味。記憶の中で美化されている部分もあるとはいえ、その後、あの味を越える塩にはお目にかかれていない。で、ミルに話を戻すと、壊れないのでずっと使い続けていたのだが、先日、ピンク岩塩が切れて、たまたま気まぐれでクリスマス島のクリスタル結晶の塩を買ってみた。何の気なしにソルトミルに入れると…あれ? 削れない。なんだか滑ってしまっているようだ。調べてみると、ソルトミルは厳密には岩塩用と海塩でギア(刃)の作りが違うようだ。それはそうかもしれない。だが、Mizumizu所有のは刃はセラミック。セラミックなら海塩でも大丈夫な気がする。ま、もし海塩が原因で削れないのなら、岩塩にすればいいだけだ。というわけで、いつものピンク岩塩を買って入れてみた。が、結果は同じだった。滑ってしまっているようで、削れない。「ソルトミル 削れない」で検索してみたが、たいした妙案はなかった。塩を全部出して、構造をじっくり見る。バラすことはできないが、中にバネが入っていて、頭部のツマミを閉めるとその圧力で、上下になっている下のほうのギアが移動し、噛み合わされて削るというシンプルなものだ。下のギアの部分を見ると、だいぶ塩がついている。単純に、これで削れなくなっているように見える。だったら、水洗いして、しっかり乾かせばよいだけの話ではないか?バラせないから乾燥させるのがちょい難しいかな、とは思ったが、もし水洗い→乾燥で直らなかったら、それは壊れたということだし、コール&メイソンはギアを交換してくれるという話もあるので、聞いてみてもいい。というワケでお湯を勢いよく流し、そのあと少しお湯につけてセラミックのギア部についた塩を除去してみた。これが洗浄後。こびりついていた塩はきれいに取れた。そして、内部の乾燥には、コレ↓ダイソンのヘアドライヤー! コイツがすんばらしい働きをしてくれた。このドライヤーは、元来のドライヤーとしても、心からおススメできる。あっという間に髪が乾いて、しかもふんわりとボリュームが出る。値段は飛び切りだが、実にGOODなドライヤー。コイツをコール&メイソンのソルトミルの開口部に近づけて、中の水滴を次々と飛ばしていった。ドライヤーだけでほぼ乾いたといえるぐらいになったが、それでも念のため、数日放置して自然乾燥。で、ピンク岩塩を再度入れたら…おー! ちゃんと削れる。新品に戻ったようだ(って、新品時代のことは実はもうよく憶えてないのだが)。これでまた使える。めでたし、めでたし。こんなことなら、もっと早く、というか、もっとマメに水洗いするべきだった。コール&メイソンのセラミック・ギアは、実に秀逸なのだなあ…と改めて感心した。クリスマス島の海塩が削れるかどうかは、実はまだ試していない。大丈夫な気がするが、万が一、せっかく直ったミルなのに、海塩が原因で削れなくなってもイヤなので、海塩用のソルトミルをもっとしっかり調べてから、ピンク岩塩が終わったあとにこのミルに海塩を入れて使うか、あるいは別に海塩用のミルを買って、同時に違う塩を楽しむのもいいかな、とも考えている。もちろん、次に買うのも、定評あるミルメーカーのものにするつもり。
2019.01.26
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♪空をこえて~ ラララ 星の彼方 ゆくぞ アトム ジェットのかぎり~Mizumizuでもソラで歌える『鉄腕アトム』オープニング主題歌。You TUBE時代になって、アメリカ版『Astro Boy』も聞けるようになった。https://www.youtube.com/watch?v=d3UbaB7oPTwで、聞いてみて、え~! この歌詞、イイじゃん!!となった。てっきり日本語の歌詞を訳したものだと思っていたのだが、全然違う。日本語のほうがやさしい感じで、英語のほうはもっと勇ましい感じ。だが ♪Rocket high, through the skyとか♪Astro Boy, as you fly,Strange new worlds you will spy,Atom celled, jet propelled...なんてところは少し共通しているようでもある。とはいえ、「戦う」「ヒーロー」というのを思いっきり前面に出しているのは非常にアメリカ的だ。特に「すげー」と思ったのは、♪Everything is GO, Astro Boy!これ、すんごく米語的。簡単そうでいて、相当センスのあるネイティブでないと書けないようなあ…そして、続くラストの盛り上げが素晴らしい。Crowds will cheer you, you're a hero,As you go, go, go Astro Boy!Cが連続する発声のおもしろさ。Everything is GOで準備万端整えて、GO, GO, GOで皆がヒーローを後押ししている感じの強さ。日本語版とはずいぶん違って、やはりアメリカ的になってるなぁ……と、つまり、Mizumizuは日本語の主題歌が先にあったものだということを疑っていなかったので、そんなことを考えた。だが!調べてみたら、なんとオープニングの主題歌はアメリカ版のほうが先だったというではないか!!『鉄腕アトム』のアメリカでの仕掛け人とも言えるフレッド・ラッド氏と2009年に話したという「こはたあつこ」氏の記事。https://www.cinematoday.jp/page/A0002248「よく言われるんだがね。手塚氏とは、不思議とユーモアセンスも近かったよ」と語るフレッドさんが、アトムのテーマソングについて、面白いことを語ってくれた。実は、かの有名なアトムのテーマソングの歌詞はアメリカ版が作られなかったら、存在しなかったというのだ。えっ? それはどういうこと?「1963年に放映された日本語版『鉄腕アトム』の最初の5話には、歌詞はなく、楽曲だけだったんだ。でも、当時アメリカの子ども向けのテレビ番組には、必ず歌詞がつき、ボーカルが入っていた。だから、アトムのアメリカ版には、新たに歌詞を作る必要があった」と語る。そのため、「有名な作詞家であるドン・ロックウェル氏に、歌詞をつけてもらった」そうだ。「最初の3話の英語版を終えたぐらいに手塚氏がアメリカに来たから、映写室でアメリカ版を見てもらったんだ。冒頭のテーマソングが流れて、歌詞が聞こえてきたときに、手塚氏は本当にびっくりしていたね。その後試写室から出てきて、突然、日本に国際電話をかけ始めたんだ。そして大声で、何やら話している。恐らく、『おい、このクレイジーなアメリカ人たちが面白いことをやってくれたぞ! 高井氏を呼んで、日本版にも歌詞をつけてもらおうじゃないか!』としゃべっていたんだろうね」そう笑いながら話すフレッドさん。もちろん電話口の話の内容は彼の想像だが、その後、それまで歌詞がついていなかった日本版の「鉄腕アトム」にも、1963年の6話以降は、すべて日本語の歌詞がついたというから、電話口での会話の内容も的外れではないかも知れない。しかし、そんな楽しいエピソードを体験したフレッドさんも、初めは手塚氏と会うことにあまり乗り気ではなかったそうだ。「オリジナルを作ったアーティストは、たいてい英訳の吹き替え版に満足しないんだ。だから、手塚氏も同じだろうと。でも、会って本当に良かった。試写室から出てきた手塚氏は、満足そうに大きくほほ笑みながら英語ではっきりと、『Ladd, you are GOD FATHER of Astro Boy!”(ラッド、君は、アストロボーイのゴッドファーザーだ!)』と言ってくれた。わたしも思わず叫んだよ。「アリガトーゴザイマース。デモー、アナタハ「テツワンアトムー」ノファーザーダ!」とね。手塚氏の作品が、最高の名作だったからこそできたことだ。わたしのしたことはたいしたことじゃない」とうれしそうに当時を振り返った。そんなフレッドさんは、アトムのほかにも、「鉄人28号」「ジャングル大帝」「科学忍者対ガッチャマン」など、数々の日本アニメの吹き替え版を手掛けている。また、「海底少年マリン」「マッハGo Go Go」「美少女戦士セーラームーン」では、コンサルタントも務めたそうだ。さすがに81歳になった今は「若い者に任せている」とのことだが、ニコニコしながら冗談を飛ばす姿は、まだまだ元気そうだ。そんなフレッドさんに、吹き替え版を作るときに一番大切なことは何かと聞いてみた。すると今度は真剣な表情になり、「オリジナルを作った作家が言わんとしていたコンセプトをよく理解すること」という答えが返ってきた。実は、アトムの吹き替え版は、フレッドさんが手掛けた作品以外にも、ここ近年にほかのバージョンが製作されている。しかし、中には、「手塚氏が言わんとしていたメッセージが、薄れてしまったように見えるものもある」とフレッドさん。「わたしが幸運だったのは、手塚氏とじかに交流することができたことだと思う。だから、『鉄腕アトム』で手塚氏のユーモアや、彼が伝えたいメッセージが理解しやすかったのでは」と語る。では、手塚氏が「鉄腕アトム」で描きたかったことは何なんだろう?「アトムはロボットだったけど、ピノキオのように人間の気持ちを持っていたという点が重要だと思う。アトムは人間と同じように傷つきやすい面があり、人間になりたいというコンプレックスを持っていたんだ。手塚氏が生きていたら、そこをきちんと描くようにと指摘したのでは」と語る。また、「手塚氏はわたしよりもずっと賢い人だった。わたしが到底できない、未来を予想する力があった。彼には遠い未来に、人間が人間の仕事を奪ってしまうロボットを疎ましく思う時代がやって来るということが見えたんだ。手塚氏はそういう時代が来たら人間とロボットが共存するために、規則が必要になると考えていた。ロボットは人間に背いてはいけないと。でも、ロボットを支配する人間の方も、ロボットに対して責任を持たなければならないということだ」とも語る。生命に対する愛が手塚氏の重要なテーマだったことについては、「手塚氏は生命を愛していた。彼は「生きているものが大好きだった。だから『生命が宿っているものすべてに優しく接してほしい』と常に話していた。それが彼の作品にも表れていると思う」と語った。81歳のアメリカ人男性が、手塚氏についてここまで理解してくれていることが非常にうれしかった。(引用終わり)「オリジナルを作った作家が言わんとしていたコンセプトをよく理解すること」が一番大事だと語るフレッド氏。それを日本のテレビ局や映画関係者、それに漫画を原作にして脚本を書く脚本家にレクチャーしてくれませんかね? 『セクシー田中さん』の悲劇を発端に、今、まさに日本で議論されている問題ではないか!手塚治虫をここまで理解してくれた人物が『アストロボーイ』に関わってくれたのは、『鉄腕アトム』にとって幸運だったのだと改めて感動した。こういう人がいたからこそ、『アストロボーイ』がアメリカの子供たちの心に届いたのだ。先に紹介した英語版主題歌のサイトのコメント欄には、英語で多くの賛辞が寄せられている。どれほどアメリカで『アストロボーイ』が愛されたか分かる。作品には、もちろん、それが持つパワーという「車輪」が一番大事だが、それをヒットさせるには、別の「車輪」が必要なことが多い。手塚治虫という人は、とんでもない人間に引っかかることもあったが、それ以上にスケールの大きな理解者に何度も巡り合っている。図抜けた才能は、奇跡のような出会いを呼ぶということだろう。そして、なんとオープニングの主題歌はアメリカが先だったという驚きの情報。しかも有名な作詞家を手配してくれたようだ。なるほど。イイ歌詞なワケだ。おまけにそれを聞いて手塚治虫はただちに日本に電話して、誰かに何かを話していたという。この時に電話したのは、もちろん自社の関係者だっただろうけれど、日本語の作詞を担当したのは、ご存知、谷川俊太郎氏で、『二十億光年の孤独』を気に入っていた手塚治虫自身が谷川氏に電話をかけて依頼したそうだ。https://www.huffingtonpost.jp/entry/tanikawa_jp_5c5a8f05e4b074bfeb16225b「あれは手塚治虫さんが電話をかけてきて『(歌詞を)書いてみないか』みたいなことを言われて...。まだ若かったので『あの手塚さんから電話がかかってきた!』と感激しましたね」(引用終わり)谷川氏が英語の歌詞を見たかどうかは、明かされていないので分からない。アメリカサイドから歌詞をもらうことは簡単だが、それならそうと谷川氏が話しそうなものだ。あえて英語の歌詞は見せずに谷川氏のオリジナリティに期待したかもしれない。ところで、こはた氏の記述には誤りがある。青文字にした「それまで歌詞がついていなかった日本版の「鉄腕アトム」にも、1963年の6話以降は、すべて日本語の歌詞がついた」の部分。歌詞がついて放送されたのは31話から。ちなみに、すぐれた手塚評になっている『チェイサー』(コージィ 城倉)でも、第一話から歌が流れたことになっている。手塚治虫の足跡をものすごく丹念に調べ上げて描いた作品なのだが、ここは残念。Mizumizuも最初に『チェイサー』を読んだときは、第一話からあの名曲が歌詞つきで流れた――というか、歌詞が先にできたと思い込んでいたから、何の疑問も持たなかった。You TUBEには第一話のオープニングも上がっていて、それを見ると、上の『チェイサー』の映像の説明も違っている。https://www.youtube.com/watch?v=KGq6z1mEU9Q&t=2sチェイサーの映像は後期バージョンだ。それも上がっている。https://www.youtube.com/watch?v=lOn4lh-hPxUMizumizuは初期バージョンはうっすらと、後期バージョンはかなり憶えている。前期・後期の記憶がごちゃごちゃになってはいるが、初期バージョンでは、アトムの一発で悪者が将棋倒しになるところが、幼心にメチャ受けした。後期は飛行機の乗客に手を振る場面と雪山の木々の間を低空で飛んでいく場面が特に好きだった。しかし、アトムってカワイイな~。あの5本のまつ毛とか、大きな目とか、ふっくらした身体のラインとか(はあと)。手塚プロがYou TUBEの公式サイトで1963年版を限定公開してくれたのだが、その中のカウボーイのコスプレ(こすぷれ?)も似合ってた(はあと)。【中古】アニメが「ANIME」になるまで—『鉄腕アトム』、アメリカを行く
2024.03.04
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現在、You TUBEの「手塚プロダクション公式チャンネル」で限定公開中の『千夜一夜物語』。大人向けアニメラマと銘打った(旧)虫プロダクションの野心作だが、このキャラクターデザインと美術担当にいきなり抜擢されたのが、アンパンマンの作者やなせたかしだ。レア本『ある日の手塚治虫』(1999年)にやなせたかしの寄稿文とイラストが載っていて、それによれば、1960年代の終わり、手塚治虫からやなせに突然電話がかかってきたという。虫プロで長編アニメを作ることになったので、やなせに手伝ってほしいという依頼だった。わけがわからないまま、やなせは「いいですよ」と返事をする。当時を振り返って、やなせは「同じ漫画家という職業でも、手塚治虫は神様に近い巨星、ぼくは拭けば飛ぶような塵埃ぐらいの存在」と、書いている。いくらやなせ氏が謙虚な人だといっても、それはチョット卑下しすぎだろう…と読んだ時には思ったのだが、1969年は、まだアンパンマンが大ヒットする前だった。多才なやなせは詩人として有名だったし、すでに『手のひらを太陽に』の作詞者として知られていたが、漫画では確かに大きなヒットはまだなかったようだ。やなせはアニメの経験などゼロだったから、手塚の申し出は冗談だと思ったらしい。だが、『千夜一夜物語』が始まると、本当に虫プロ通勤が始まる。手塚治虫と机を並べて描いてみて、やなせが「たまげてしまった」のは、そのスピードと速さ。あっという間に数十枚の絵コンテをしあげていくのだが、決してなぐりがきではない、そのまま原稿として使えるような絵なのでびっくりした。(『ある日の手塚治虫』より)完成したアニメ『千夜一夜物語』では、やなせたかしは「美術」とクレジットされているが、キャラクターデザインもやなせの手によるものだ。上はやなせ直筆のイラストとエッセイ。わけわからないまま始めた仕事だが、やってみると案外これは自分に向いているのではないかと思ったという。特に「マーディア」という女性キャラクターは人気で、後年になっても「マーディアを描いて」と頼むファンがいて、やなせを驚かせた。「キャラクター」の波及力に、やなせが気づいた瞬間だろう。『千夜一夜物語』がヒットすると、手塚治虫はやなせに「ぼくがお金を出すから、虫プロで短編映画をつくりませんか」と申し出てくれたという。会社としてお金を出すというのではなく(社内で反対があったようだ)、手塚がポケットマネーから資金を提供したのだ。そうして完成したのが、やなせたかし初演出アニメ作品『やさしいライオン』(1970年)。毎日映画コンクールで大藤賞その他を受賞し、その後もたびたび上映される息の長い作品になったという。こうしたアニメ畑でのキャラクターデザインの仕事がアンパンマンにつながっていったのだと、やなせは書く。『千夜一夜物語』から『やさしいライオン』を経て、やなせのキャラクターデザイン技術は、「シナリオを読めば30分ぐらいでラフスケッチができる」までに向上した。「基本は虫プロで学んだのである」。キャラクターデザインの達人、やなせたかしの飛躍のきっかけを作った手塚治虫。だが、「少しも恩着せがましいところはなく、『ばくがお金を出して作らせてあげたんだ』などとは一言も言わなかった」(前掲書より)やなせと手塚は気が合ったようだ。その後、「漫画家の絵本の会」で一緒に展覧会をしたり、旅行をしたこともあったという。「いつも楽しそうだった」「あんなに笑顔のいい人を他に知らない」「そばにいるだけでうれしかった」と、やなせ。そういえば、やなせの価値観と手塚のそれは非常に似通っている。時に残酷だという批判を受けるアンパンマンの自己犠牲精神は、戦争を通じて経験した飢餓からきたものだというし、「ミミズだって…生きているんだ。ともだちなんだ」という『手のひらを太陽に』の歌詞は、手塚の精神世界とも共通する。戦争は大きすぎる悲劇だが、あの戦争が手塚治虫ややなせたかしの世界を作ったとも言える。『第三の男』ではないが、平和とは程遠い15世紀のイタリアの絶えざる闘争の中でレオナルドやミケランジェロ、つまりはルネッサンスが生まれたように、日本という国を存亡の危機にまで追い詰めた第二次世界大戦があったから、今私たちが見るような手塚マンガが生まれ、次々と新しい人材がその地平線を広げていくことになったのだ。「ぼくは人生の晩年に近づいたが、最近になって自分の受けた恩義の深さに気づいて愕然としている。 漫画の神様であるだけではなく手塚治虫氏自身も神に近い人だったのだ。 どうやってその大恩に報いればいいのか、ぼくは罪深い忘恩の徒であった自分を責めるしかない」(前掲書より)手塚治虫を「神」と呼ぶとき、それは漫画の力量がまるで神様というだけでなく、次に続く人材を「創生」し続けたという意味も含むだろう。藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、里中満智子はよく知られているが、さいとう・たかおだって、楳図かずおだって、手塚治虫がいなければ漫画家にはなっていなかったかもしれない。つげ義春さえ、漫画家になるにあたって「ホワイト」だとか「原稿料」だとかの実際を聞かせてくれたのは手塚治虫なのだ。そして、やなせたかし。今や、やなせのアンパンマンキャラクターは、世界でもっとも稼ぐキャラクターのトップ10に入っている。https://honichi.com/news/2023/11/16/media-mix-ranking/そのキャラクターデザインの出発点が大人向けアニメ+ドラマと銘打った(旧)虫プロの『千夜一夜物語』だったというのは、今ではほとんど忘れられているようだが、まぎれもない事実だ。やさしい ライオン (やなせたかしの名作えほん 2) [ やなせたかし ]
2024.05.07
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国立博物館へはチャイナタウンからタクシーで行ったのだが、案外苦労した。タクシー運転手にNational Museumと言っても、通じないのだ。1人目はあっさり「知らない」と言うので、乗らずにやりすごし、2人目には地図を見せて説明。わかったような顔をして、走り出した最初の信号で、「やっぱりわからない」と言われて(苦笑)途中下車(料金は払わず)。ちょい途方に暮れた。どうも日本語の地図を見せてもよくわからないようだ。文字は外国語かもしれないが、道の交わり方などでわかると思うのだが。ドライバーのくせに、地図もロクに読めないのか、とちょっと暗澹となる。だんだんわかってきたのだが、バンコクのタクシーの運転手は非常に当たり外れが大きい。マトモな人も多いが、明らかにおかしい人間もいる。急に欲を出してふっかけるヤツもいる。ホテルやしっかりしたレストランで呼んでもらって乗るときは、ホテルやレストランのボーイが、トラブルが起こったときのためにタクシー運転手の情報をメモした紙を乗車時にわたしてくれるのだが、街中ではそうはいかない。女性旅行者は1人で拾わないほうがいいかもしれない。地図を見せて説明するより、タイ語で「国立博物館」と書いてある文字を見せたほうがいいのじゃないかと思いつき、『地球の歩き方』を見たら、ちゃんとタイ語で書いてある。3人目のドライバーは、ややお年のいった実直な感じの運転手だった。『地球の歩き方』をわたして、「国立博物館」のタイ語の流麗な文字を指し示す。一生懸命見ている。しばらくたって…まだ見ている。明るい窓のほうに本をもっていって、一生懸命見ている。そ、そんなに見えないの!? 運転は大丈夫なのか?? 本を斜めに動かしながら必死に読もうとする運転手。「降りたほうがいい?」と一瞬よぎるが、とてもマジメそうで真剣な態度に、もうちょっと待ってみようと決心する。やがて、「あ~!」と言って、走り出した。わかってくれたよう! 地図を見ながら方向を確かめたが、ちゃんと行っている! もともとチャイナタウンから国立博物館への道はそんなに複雑ではないのだ。走り出したらスイスイと国立博物館に到着。72バーツだったので、いつものように80バーツを出すと、すぐに5バーツおつりをよこそうとする! こんな人は初めて。だいたいみんな、ゆっくり数えるフリをして、我々が降りていってしまうのを待っているのに。もちろん、受け取らずに、外に出て、窓越しに合掌してお礼。こういう心がけのタクシー運転手ばかりだと助かるのだが、そうはいかない。博物館にも「小悪党」がてぐすねひいて待っている。門の外で、「チケット?」と言って別の場所に誘導しようとするのだ。博物館のチケットを野外で売るわけがない。もちろん無視して門の中へ。チケット売り場で40バーツ(132円)を払い、リュックのような大きな荷物は預けて見学開始。上がチケット、下が博物館の地図。かなり広くて見て回るのが大変。建物内は冷房が入っている部屋もあるが、広いのであまり効いておらず、暑さで体力を奪われる。展示物は多いので、ある程度見るポイントを絞っておかないと疲れるだけかもしれない。もちろん何に興味があるかは人によって違うだろうけれど、個人的には中央の建物を囲むように配置されたL字型の棟にある仏像がお勧め。この仏像を見る体力は是非残しておこう。写真は石仏。もちろん、木像もあればブロンズ像もある。中でも必見なのは、スコターイ王朝時代の仏像。面長で優美な造形は特筆もの。場所としては地図の左上の棟にある。仏像には大きく分けて、Reclining Buddha、Seated Buddha、Standing Buddha、Walking Buddhaがある。日本の仏陀像はほとんどSeated Buddha(観音様はよく立ってるが)で、Reclining Buddha(涅槃仏)は法隆寺の涅槃像土(8世紀)などがあることはあるが、あまり馴染みがない気がする。Walking Buddha(遊行する仏)となると、まったく見たことない。なぜ日本にないのだろう? タイ国立博物館の白眉は、やはりこの日本にはないWalking Buddhaだろう。StandingとWalkingの違いは、足の位置。そろっていればそれはStanding(立像)。前後に開いていればそれがWalking(遊行像)。しかし、そんなことより、ピタリと身体にはりついた衣の透けようが異様に肉感的…… などと思うのは仏様に対する冒涜でしょうか? でもハッキリ言って、仏像好きは、こういう衣の流れや手や顔の優雅な表情に惹かれるのだと思う。スプーンのように曲がった右腕がイイ。そしてこの妖しげな腰のくねり方。う~ん、ホテルのバトラー君のクネった歩き方はモンロー・ウォークではなく、ブッダ・ウォークだったのかもしれない。だが、しかし、造形的にもっとも優美な仏像が多く作られたスコターイ王朝ですら13世紀。アユタヤ王朝となると14世紀。あまり古くないのだ。そのわりには、全体的に、日本の仏像で言えば鞍作止利(7世紀)のような素朴で大らかな造形が多いような気がする。そして、かなり様式化されていて、日本の仏像のような個性には乏しい。いや、もちろん顔はつぶさに見れば一体一体違うのだが、それは「違い」であって、人の情念にまで迫る個性というふうには思えないのだ。日本の仏師は西ヨーロッパのルネサンス期の彫刻家に匹敵するような個性と力量を備えた者もいる。「その作品」だけにみなぎる仏師個人の情念を強く感じる忘れがたい造形美。そういったものがタイの仏像にはあまり感じられない。こちらの無知が深い観察を阻んでいるのかもしれないが、たとえば、興福寺の阿修羅像のような、ハッとするような作品には出会えなかった。タイでは、信仰心の篤さが逆に仏師の制作上の自由を許さなかったのかもしれない。様式化された仏像は、東ヨーロッパの正教会のイコンを思わせる。日本人だから日本のほうが優れていると思いたい気持ちがあるのかもしれない。国立博物館に日本人がとても少ないのも、そう思っている人が多いからかもしれない。美術的な価値の優劣はともかく、スコターイ王朝の仏像には日本にないものがある、それは事実だ。間違いなく一度見る価値はある。同様に長い仏教美術の歴史をもつ、同じアジアの同胞として。で、タイの仏像の本買いました。1200バーツ(4000円弱)。写真も美しく、説明も英語でわかりやすい。オマケ博物館のカフェで飲んだココナッツ飲料。一見おいしそうでしょう? 実はゲキまず。ほとんど飲めなかった。何を飲んでもおいしいホテルとは大違い。
2008.06.18
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三菱一号館は、三菱地所の前身である三菱合資会社の不動産部門が、1894年にイギリス人建築家を招聘して丸の内に初めて建設した赤レンガの洋風建築。老朽化のため1968年にいったん解体されたのだが、丸の内エリア再開発の目玉として三菱地所が2010年に再建した。この再開発事業には三菱のプライドを強く感じるのだが、中でも再建された三菱一号館は外装といい内装といい、部材といい意匠といい、素晴らしいの一言。現在三菱一号館は主に美術館として使われている。その一階の角に、元は銀行窓口だったというフロアをカフェに改装したCafe 1894があり、いつも人で賑わっている。こちらが入り口。堂々とした石の階段は一段一段が高い。赤レンガの風格ある外観は、今となっては貴重な19世紀のクイーン・アン様式。重厚な扉をくぐって中に入ると、二層が吹き抜けになった大空間に驚かされる。ギリシア式の柱、窓枠、天井の羽目板などがすべて木製なのが、いかにも日本の洋風建築。装飾部材が多用されているのにも目が行く。こうしたディテールの過剰さは、近代的な建築空間からは消えてしまっている。窓ガラスもちゃんとアンティークガラスを使っているので、外の景色が微妙に揺らいで見える。天井からここまで長く下げたシャンデリアも珍しい。灯りとしてのデザインはシンプルだが、贅沢な空間演出だ。明治時代に貪欲に欧米の技術や文化を吸収しようとした日本人の意気込みが感じられる。こうしたカフェは、往々にして内装「だけ」が素晴らしく、味はイマイチなことが多いが、Cafe1894ではそうした心配はご無用。コーヒーはオーガニックの豆を使っているとかで、香りの高さに驚いた。こちらはマロン・アラモード。ネーミングも見かけもクラシックだが、案外(失礼!)アイスクリームがフレッシュでさっぱりと美味しいのにまたまた驚いた。なるほど、この味なら客も入るはずだ。食器はニッコーのWhite Crownシリーズ。コーヒーが透けて見えるほど薄い。雰囲気といい味といい、丸の内エリアでは一番のお奨めカフェ。クルマを利用される方なら、丸ビルの地下1階で年会費無料のポイントカードを作れば、丸の内エリアに17ヶ所ある駐車場に1時間まで無料で駐車できる(ただし無料で置けるのは1日1ヶ所)ので便利(こちらを参照)。カードはその場で発行してくれる。一店舗で3000円以上買い物をすればさらに1時間駐車がタダ。三菱一号館に隣接する丸の内パークビルも、地下の駐車場へ通じるスペースまで凝ったインテリアを施している。細部に至るまで個性的だ。これはエレベーターの昇降ライト。左右がエレベーターが来たことを知らせる昇降ライト。その間にバラの花が閉じ込められている。壁面のライトの脇にまで、曲線の可愛らしいデザインが。三菱一号館と丸の内パークビルに挟まれた一号館広場に出ると、木々に囲まれたベンチで人々がくつろいでいる。この2つのビルを擁するブロックは、ブリックスクエアという名前がついており、その雰囲気はアメリカのボストンの街角を思わせる。ブリックスクエアから馬場先通りに出て、ブランド店の立ち並ぶ丸の内仲通りに抜けるのもいい。このあたりは、東京でも、いや、恐らく世界の有名都市の中でも、最も洗練され、最も清潔で、最も平和で、最も裕福そうな場所だ(ただ、衣類や鞄を扱うブランド店にはあまり人が入っていない。あれで経営は大丈夫なんだろうか)。Mizumizuが仲通りに出たら、ちょうどメルセデスのCLSが道の脇に停まっていた。石畳と並木の洒落たこの道には、流麗なデザインのCLSがいかにも似つかわしかった。巴里も倫敦も紐育も何度も行ったが、今の東京ほど手ごろな価格の美味しいもの、可愛いものが溢れている都市はない。若者が海外に興味をもたなくなったのも、これだけ快適で清潔で秩序正しく、しかもなんでも手に入る国に住んでいれば、ある意味で当然のことかもしれない。
2010.09.25
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松本に行ったら、桃太楼で栗のお菓子を買って…と、しっかりくだんの店の定休日と営業時間をチェックしておいたMizumizu。なにせ閉店5分前にかけこもうとして、閉まっていた苦い体験があるから(こちらの記事参照)。だが、なんと…!行ってみたら臨時休業の張り紙が!がっかり… つくづくこことは縁がないらしい。隣の土産物店でなんとな~く聞いてみたら、「ああ、身内に不幸があったらしいですよ」とのこと。そ、そうですか…しかたなく、というわけでもないのだが、店構えは非常にきれいで高級感のある店に寄ってみた。その名も開運堂。実にわかりやすい。いろいろなお菓子があったが、どれがどんな味やらわからない。ウロウロ見てまわった末に選んだのが、「真味糖」という、細長い落雁のような和菓子だった。「真の糖の味」とも読める非常にストレートな名前なので、単に砂糖を固めて、そこに山国らしく胡桃を入れたものだろう…ぐらいに思っていた。ただ、甘いだけのよくある味だろう、と。しか~し!その予想はいい意味で裏切られたのだ。和風タッフィー(トッフィー)と説明されていたが、タッフィーのようにベタつかない。ヌガーのようでもありながら、どこかさっくりしている摩訶不思議な歯ごたえなのだ。材料の寒天に秘密があるのかもしれない。もちろん甘いが、単なる砂糖の甘さではない。蜂蜜を使っているせいか、甘味にコクがある。なのに、しつこくない。実に摩訶不思議。もちろん胡桃もしっかり主張してくる。フレッシュなものを使っているのか、野性的だが後に残る嫌味なクセがない。胡桃を散らした白雪のような肌の佇まいもいい。これ、なかなか凄いお菓子では? こんな小さな長方形だが、しっかりした材料の吟味と選択、そして味のセンスが光っている。胡桃と寒天という地方色豊かな素材から、タッフィーに通じるモダンな風味を作り上げる。そう言ってしまえば簡単だが、この独創性は特筆すべきもの。どこにでもありそうで、なかなかない味。そんな言い方がぴったりくる。いや、恐れ入りました。松本はやはり地味に凄い街だ。砂糖と寒天、蜂蜜にくるみのすてきなハーモニー♪信州を代表する銘菓です。開運堂 真味糖(しんみとう)開運堂のホームページをあとで見たら、真味糖はもともとは生菓子なのだとか。Mizumizuが買ったのは干菓子だったが、次は生を食べてみたい。
2014.01.30
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<先日のエントリーから続く>ローラン・プティは、ヌレエフがプライベートでも天性の誘惑者だったと言っている。ヌレエフの視線は、「あなたを好きになりそうなんだけど、いい?」と言っているかのよう。そうして、狙った獲物を手に入れると、いとも簡単に新しい獲物のほうへ行ってしまう。ヌレエフが最も愛したのは、若い男の子で、やはりというべきか、筋肉質な肉体と尽きせぬ活力をもった年下のダンサーをとりわけ好んだ。ヌレエフはソレント半島の沖にある島に邸宅を構えるが、ロココ調の家具のおかれた部屋の豪華な装飾を施した壁には、そうした全裸の男性たちの絵画が飾られていたという。アメリカ人ダンサーでヌレエフの愛人の1人だったロバート・トレーシーは、『Nureyev and me』の中で、39歳のヌレエフが愛したのは、23歳の自分の「若さ」だったと語っている。2人はバレエ公演のリハーサルで出会い、すぐに関係を持った。ホテルの部屋に誘ったのは、もちろんヌレエフのほう。「ヌレエフは私の脚とそれにジャンプが好きだった。私たちはほとんど一目で肉体的に惹かれあった」(トレーシー)。もっともトレーシーは、ヌレエフを独占しようと思ったことはなかった。できるとも思っていなかった。ヌレエフには「300万人」(←いくらなんでも、そりゃないだろうが)の若い男の子がいた。もちろんトレーシーより若く、もっとナイスなバディ~を持った取り巻きも。トレーシーもヌレエフに束縛されたくなかった。トレーシーは最初のうち、世紀の大スターとたいしたことないダンサーの自分が、「長続きするはずがない」と思っていた。だが、2人の関係はやがて友情に落ち着き、ヌレエフの死の直前まで続いた。プティの言う、「ジュピターのように移り気で、ユノのように貞淑」なヌレエフらしいエピソードだ。女性との関わりで言えば、トレーシーはヌレエフから、「3人の女性と関係をもった」と聞いたという。40歳を超えたヌレエフは息子を欲しがっていた。ヌレエフによれば、彼の子供を妊娠した女性が2人いたが、どちらも中絶してしまったという(←なんか、ジャン・コクトーみたいなことを言ってる)。ヌレエフは、プティにはこんなことを言ったという。「僕はマーゴと結婚すべきだったかもしれない。彼女こそ僕の運命の女性だった」ヌレエフはエイズを発症したあとも、それを一切公表しないまま舞台に立ち続けた。晩年は、胸にコイン大の金属片を埋め、2~3日ごとに金属片についたネジを抜き、そこから注射器で心臓を拡張する液体を注入していた。そうやって彼は舞台に立ち、偉大なダンサーの役を演じ続けた。病状は悪化する一方で、彼を栄光の高みに引き上げた筋肉は破壊されていたが、それでもヌレエフは偽りの健康を装った。何も知らない観客からブーイングを浴びせられると、蔑視のポーズで答えることを忘れなかった。ヌレエフがこの世を去ったのは、1993年1月6日。「彼の死に顔は、彼が愛していた若者の顔立ちのようにほっそりとして美しかった。それは井戸の中に映し出された自分の裸体にうっとりと見とれ、悦楽とともに自らに恋焦がれたナルシスが乗り移ったかのようだった」(『ヌレエフとの密なる時』)ジャン・コクトーの作品は未来を予見するとジャン・マレーは言った。事実『双頭の鷲』では、ジャン・マレーとエドヴィージュ・フィエールの死期を予言するような台詞がある。そして、1967年の『若者と死』で健康なヌレエフが演じた、「カクッ」とうなだれて死んでいく若者の顔は、プティのこの描写の予言のよう。白々とした空間で一瞬アップになるヌレエフの死に顔は、まさにナルシスのように美しい。このときの撮影では、ヌレエフはパウダーをはたきながら、「僕のスクリーン映りはどう?」とプティに、いたずらっ子のように微笑みかけた。「マリリン・モンローよりステキだよ」とプティが答えると、ヌレエフは大ウケして笑い転げた。そして喜々として準備にいそしんだという。14歳も若く、強靭で、無限のエネルギーに満ちていたこの若者の死を、プティが看取ることになろうとは。比類なき若者、ヌレエフとの日々は、彼が永遠にいなくなったあとも、プティの心を去らなかった。ヌレエフは誰のものにもならない人だった。私のヌレエフ、君のヌレエフ、彼のヌレエフ、私たちの、あなたたちの、彼らのヌレエフ。1人1人にとって、それぞれのヌレエフが存在する。『ヌレエフとの密なる時』は、プティの見た夢とも妄想ともつかない、2人の「共演」で終わっている。それはヌレエフの死から4年たった1997年のある日。ヌレエフが歌いながらプティに近づいてきた。2人は数歩の距離で向かい合って立ち、それから一緒に踊り出した。その場でゆっくりと回転を始め、どんどん回転を速めていくと、大勢の群集がやって来て、観客となった。ヌレエフとプティはひたすら踊り続けた。そのときプティは、彼が愛してやまなかった不世出のダンサーが踊った作品の中でも、とりわけ素晴らしかったシーンを見る。『白鳥の湖』で黒のビロードに金と銀の装飾をあしらった衣装を着た王子役のヌレエフが、オデットを探しながら白鳥から白鳥へと走り抜けていくのだ。回り続けたプティとヌレエフのダンスがフィナーレを迎えようとしたとき、ヌレエフはまるで魔法にかかったように、プティの、そして集まった群集の目の前から消えてしまった。プティとヌレエフは現実では、ほとんど常に振付師とダンサーだった。2人の世界は時に交錯したが、仕事の面では軋轢も多かった。プティという惑星の近くを、忘れがたい強烈な輝きを放ちながら、時折通過していく流れ星、それがヌレエフ。だが、コクトーの小説『恐るべき子供たち』のラストシーンを彷彿とさせるようなこのエピローグは、世界的振付師としてではない、1人のダンサーとしてのプティの魂の告白だ。プティはただ踊りたかったのだ。1人のダンサーとして、1人のダンサーであるヌレエフと。ローランとルドルフと観客と、他には何もない世界で。<終わり>
2009.06.02
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1954年に起こった手塚治虫の筆禍事件、通称「イガグリくん事件」は当初は漫画仲間以外にはあまり知られていなかった。そして、この「事件」があってわずか数か月後に福井英一氏は過労死してしまう。手塚治虫が『ぼくはマンガ家』で、この「事件」を振り返って反省の弁を述べなければ案外忘れられた話だったかもしれない。正直なところ、そのころのぼくは福井氏の筆勢を羨んでいたのだった。(手塚治虫著『ぼくはマンガ家』毎日ワンズより)この「事件」の現場にいた人間は少ない。まず、チーフアシスタントの福元一義氏。福元氏の『手塚先生、締め切り過ぎてます!』によると、少年画報社でカンヅメになっていた手塚あてに福井英一が電話をかけてきた。その電話を取ったのは福元チーフで、福井英一はその時、「手塚君に話がある。その間、仕事を中断することになるけどいいかな」と言った。どういう話か知らなかった福元だが、心情的に編集者よりというよりは漫画家よりだった彼は、漫画の話でもするのだろうと軽い気持ちでOKしてしまったのだという。午後11時ごろに福井英一は、馬場のぼると一緒にやってきた。「やあやあ」と手塚治虫が迎えるのだが、だんだんと様子が変わってきたという。福元チーフはその時、隣りの部屋にいたのだが、大きな声がやがてヒソヒソ話になったかと思うと、手塚がやってきて「これから池袋の飲み屋に行ってくる」。そのまま手塚得意の遁走をされたら困ると思った福元チーフは「道具はココに置いていってくださいね」。道具があれば戻ってきてくれるだろうと思ってのことだ。つまり、この時点では、福元チーフは福井英一が手塚に「怒鳴り込んできた」とは思っていないのだ。それより仲のよい三人組で、締め切りを放り出してどこかに行かれては困ると、そっちを心配している。夜通しそわそわしながら福元チーフが待っていると、手塚治虫が戻ってきたのは明け方になってから。手塚「いやあ、参った、参った」福元「飲みに行ったんじゃないんですか」手塚「違うんだ、抗議だよ。強引にねじ込まれちゃって」現場にいた福元チーフが見聞きしたエピソードはこうだが、うしおそうじが、のちに現場にいた馬場のぼるから話を聞いたところ、コトはもっと大げさになっている。手塚治虫が『漫画少年』に連載していた「漫画教室」の1954年2月号にわずか数コマ(Mizumizuが見たところでは2コマだけ)のイガグリ君らしき絵に、福井英一が烈火の如く怒り、手塚・福井の共通の友人だった馬場のぼるの家に来て、「俺は今から手塚を糾弾しに行く」とまくしたて、馬場を強引にタクシーに押し込めたのだという。「これは明らかに俺の『イガグリ』だぞ! つまり手塚はこのイガグリを悪書漫画の代表としてこきおろして天下にさらしたんだ! 俺は勘弁ならねえんだ」(うしおそうじ『手塚治虫とボク』より)馬場は頭に血がのぼった福井英一が手塚に暴力でもふるったら、確実にマスコミの餌食になるだろう。自分が身を張ってでも決斗を防がねばと悲愴な覚悟をしたそうだ。そして、福井は手塚に会うやいなや、胸ぐらをつかんで、「やい、この野郎! 君は俺の作品を侮辱した。中傷した。謝れ! 謝らないなら表へ出ろ」と叫んだというのだ。手塚治虫著『ぼくはマンガ家』では、次のように書かれている。ある日、ぼくが少年画報社で打ち合わせをしていると福井英一が荒れ模様で入ってきて、「やあ、手塚、いたな。君に文句があるんだ!」「な、なんだい」「君は、俺の作品を侮辱した。中傷した。謝れ! 謝らないなら表へ出ろ」「いったいなんのことだか、ちっともわからない。説明してくれ」「ふざけるな」記者(Mizumizu注:記者と手塚は書いているが、編集者の間違い?)が、ぼくに耳打ちして、「先生、相当荒れていますからね。池袋へでもつきあわれたほうがいいですよ」そこへ、馬場のぼる氏がふらりとやってきた。ぼくは救いの神が来たとばかり馬場氏も誘い、3人で池袋の飲み屋に行った。綿のような雪の降る日だった。福井英一ははじめから馬場のぼるを伴って手塚糾弾に来たのだが、手塚治虫は、あとからたまたま馬場のぼるが来たのだと勘違いしている。ともあれ、3人は飲み屋に行って、そこで馬場のぼるの仲立ちもあって手塚が福井に頭を下げている。そして翌月の「漫画教室」で、福井氏と馬場氏らしいシルエットの人物に、主人公の漫画の先生がやり込められているシーンを描き、彼へのせめてもの答えとしたのだ。(『ぼくはマンガ家』より)これが「イガグリくん事件」の顛末だが、実際に「漫画教室」1954年2月号を見た中川右介は、そこに書かれたセリフを引用して、くだんの漫画教室はなにも福井個人批判ではなく、「(手塚)自身を揶揄しているよう」だと述べている。こういった表現が福井、馬場、うしお、手塚といった人たちによって、ますますドギツくなっていった。(「漫画教室」より)と、自分の名前も入れている。そのあとに、確かにイガグリ君のような髪形の頭を一部描いたコマも2つあるが、他にも渦巻状の線だけとか、空とか雲とか煙とかだけが描いたコマもある。そして、そういう表現をそのまま真似するのは避けた方がよい、と言っているだけだ。実際に問題となった「漫画教室」を見ていない人たちは、手塚治虫がイガグリくん人気に嫉妬して福井英一だけを中傷したと勘違いしているが、それは事実ではない。手塚はこのイガグリを悪書漫画の代表としてこきおろして天下にさらしたんだ!なんて、どう考えても過剰反応だ。数か月後に酒を飲んで過労死してしまったという事実を鑑みるに、福井英一は、この頃ハードスケジュールに追いまくられ、すでにかなり精神的に不安定な状態だったのだろう。福井英一が亡くなったのは1954年6月。漫画家の死が新聞に大きく取り上げられる時代ではなく、宮城にいた小野寺章太郎少年(のちの石ノ森章太郎)は、手塚治虫からのハガキで福井英一の死を知る。「福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀の帰途だ。狭心症だった。徹夜で仕事をしたんだ。終わって飲みに出て倒れた。出版社――が殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほど、くわしく知らせるから」と、ハガキにはあった。手塚先生の悲しみが、行間からにじみ出ているようなハガキでした。福井英一は手塚先生の親友でした。ぼくは顔を見たこともないし、ファンレターを出したこともなかったのですが、それでもとても悲しくなりました。(石森章太郎著『マンガ家入門』より)この文面から分かるのは、天才・石ノ森章太郎は、当時、手塚治虫が「筆勢を羨む」ほど人気絶頂だった『イガグリくん』には興味がなかったということだ。もちろん、手塚治虫と福井英一の「(のちに大げさに広まる)確執」など知らない。二人は親友だと思っているし(実際に親しい仲だった)、手塚治虫の悲しみを思って自分も悲しんでいる。そして、漫画家という職業は体を壊すほど厳しく、忙しいものなのかと、不安になったと『マンガ家入門』に書いている。マンガ家入門【電子書籍】[ 石ノ森章太郎 ]
2024.04.25
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最初にアルベロベッロを訪れたときに、欲しいと思ったものの、かさばるし、重いし、壊れやすそうなので、買わなかったトゥルッリの置物。今度は意を決して買うことに決めて来た。安価で手ごろな小さいものがお土産屋に売られているのだが、当然こういうものは質が低い。一方で、石職人(実際に屋根の修復を行う職人)が作っているトゥルッリの置物は、実際のトゥルッリに使われる石を使った本格的なミニチュア。どうしても本格的ミニチュアのほうが欲しくて、石職人のアトリエを捜し出した。しかし、実際に見てみると、やっぱり重そうで、壊れやすそう。「日本まで運んでる間に壊れそう」と職人兼売り子のおじいさんに言うと、「大丈夫! 壊れたらのりではりつければいいから! 本物もそうしてるよ」胸を張って、太鼓判を押してきた。そ、そうか。確かに素材は石だし、屋根が崩れたりしたら修復すればいいのネ。というワケで、買ったのがコレ。幅約20センチ、高さ約12センチ。価格8万リラ(約4,800円)。左の屋根の天辺が微妙に左に曲がっているのに気づきましたか? やっぱり壊れたので、修復したのです。まっすぐに直せなかったのは、ひとえに修復の腕の未熟さ。買い物も無事すませ、アルベロベッロを去るMizumizu一行。アントニオはふだんは超おとなしい紳士なのだが、ハンドル握ると人格一変。F1目指してるのかよ? ってなノリでぶっとばす。さすがモータースポーツの本場、イタリア。と感心するより、ハッキリ言ってコワイ。おまけにクルマの後ろに乗っていたら、グネグネした田舎道で酔ってしまった。とうとう耐えられなくなり、「気分が悪いから、ちょっととめて」とクルマを停めてもらい、休憩して、ついでに助手席のイタラと席をかわってもらった。さらに、5月とはいえ、30度を越す気温と強烈な南イタリアの太陽光を浴びて、イタラ邸に帰ってから気分が悪くなった。もともとちょっとした太陽アレルギーがあり、直射日光に長くあたると皮膚に湿疹ができる。家で具合悪そうにしてるMizumizuを見て、イタラが、「どうしたの?」と聞くので、「太陽に当たりすぎて、気分が悪い」と答えたら、「変なの」と怪訝顔。へ、変ですか?イタリアにだって熱中症とか日射病ぐらいあるだろうに。「太陽の国、イタリア」と言うが、5月の太陽ですでに具合が悪くなるヤワな日本人のMizumizuは、南イタリアではとても長くは暮らせない気がする。さて、ここでMizumizuファミリーの本の宣伝。気楽な母娘旅のパートナー、Mizumizu母が1999年に出版した「イタリア・プーリア州2人旅」。すでに市販はされておりませんが、直販は可能ですので、ご希望の方に販売いたします。定価:1500円(消費税・送料込み)。購入ご希望の方は、住所・氏名をお書き添えのうえ、メールにてお申し込みください。今回のMizumizuブログの旅はバーリからシチリアに向かいますが、「イタリア・プーリア州2人旅」は、その前の旅、文字どおりプーリア州をめぐる個人旅行のお話です。イラストもMizumizu母。イタラとの出会いの詳細についても綴られています。意外なイタラの年齢にビックリするかも? また、風光明媚なプーリアの街が写真つきで紹介されています。内容は…プロローグ――アルベロベッロのトゥルッリイタラ・サントルソーラ――ある出会い脚光を浴びる「国の恥辱」――マテーラの洞窟住居トマトつかの間の栄光――カステル・デル・モンテ白い宮殿――グロッテ・デ・カステラーナバロックのまち、レッチェなどです。
2009.01.12
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カナダフィギュアスケート史上最高のスケーター(←ご意見無用)、カート・ブラウニングの代表作と言えば、「カサブランカ」。You tubeでその映像を見ていたら、意外なことに気づいた。動画はこちら。演技は2:10ぐらいからスタートするのだが、途中で曲が変わっている部分、3:25あたりから・・・アレッ? この曲は・・・?なんとまあ、こんな偶然が・・・♪ブラウニングは翌年のリレハンメル・オリンピックでもこの曲で滑っているが、オリンピックではショートでの「信じられない失敗」を引きずってしまったのか、全体的に精彩を欠いている。前年のワールドでのこの動画の演技のほうが、完成度は高いと思う。超ダイナミックなトリプルアクセルは、今見ても圧倒される。この高さ、この飛距離。回転も速いが、強引に体を回している感じがしない。ジャンプだけでなく、歯切れのいいステップや、小気味のいいエッジの遣い分け、バランス感覚抜群の滑りなど、さまざまなスケート技術を高い次元で備えている選手だということがよくわかる。当時、男子フィギュアの芸術性といえば、ロシアに代表される本物のバレリーナの劣化バージョンのようなバレエ的な動き、見てるだけでウツ病になりそうな重厚で悲壮感漂う風格ある表現こそが最高峰とされていた。そこに風穴をあけて、映画的で洒脱な表現を氷上に持ち込み、トップ男性フィギュアスケーターは、「王子様」タイプだけではないことを体現してみせた選手だ。カナダのバンクーバーオリンピックが開幕し、今ではブラウニング風の演技的な表現が主流になって高く評価されている。その礎を作った選手だともいえる。動画の5:16あたりで、ポケットに手を突っ込んでの、ちょっとした「失意の紳士」風の演技が入る。当時は、「止まってるだけ」と酷評するジャッジもいた(←その筆頭は、もちろんロシア人)が、今ではああしたポーズを、多くの選手が演技に取り入れている。しかし、カートはもちろん素晴らしいのだが、(あくまで)スケート技術に関しては、高橋選手・小塚選手は彼にまさるとも劣らないものを持っていると、今回のオリンピックのショートを見て、あらためて確信した。彼は高橋選手のスケート技術(および整髪料・笑)をベタ褒めしているが、さもありなん。カートは欠点のないスケーターだと思うが、バッククロス(文字通りバックで足をクロスさせながら、ふつーに滑っているところ)時のエッジの深さやストロークの伸びや上半身のピシッとしたラインは、明らかに高橋選手のほうがいい。カートは少し「ヨチヨチ」した滑りになっている。高橋選手の滑りを、「氷上をスキーヤーのように滑走していく」と賞賛したのは、誰あろうモロゾフだったが、そのモロゾフが織田選手の滑りのテクニックについては、なかなか宣伝できないのもわかる気がする。もちろん、織田選手には織田選手の素晴らしさがある。ジャンプもそうだが、ステップやスピンのレベルをきちんと取ってくるところなど、スキのない仕上がりは見事だ。しかし、相変わらず応援が、高橋選手に比べると・・・振られていた国旗まで少なくなってしまったように見えたのは、気のせいでしょうか。自腹でチケット買って応援に駆けつけてくれた熱心な日本人ファンの多くが、高橋選手目当てだと言われれば、人気というのはそもそもそういうものだし、それはそれで仕方がないのだが・・・。できれば、ここはひとつ心を広くもって、フリーを見に行く方は、大ちゃんファンも是非、織田選手にも暖かい拍手と歓声をお願いします。なんといっても同じ日本代表ですからね。今回のショート、小塚選手の滑りの巧さにも、あらためて目を見張った。小塚選手の左右のバランス感覚や、エッジが氷に吸い付いたように、滑らかに加速していく自然で伸びやかな滑りなども、もうすでにカートと比べても、まったく見劣りしない。スピンの軸のよさ(本当にあれほど「微動だにしない軸」は、トッド・エルドリッチ選手の再来のよう)、回転の速さ、シットスピンのときの一直線に伸びた足の美しさ、文句のつけようがない。すべての動きが基本に忠実で素直なので、見ていて気持ちがいいのだ。ジャンプに関しては再三指摘したように、今シーズンは優先順位のつけ方に誤りがあったと思うが、フィギュアスケートの王道、正しき伝統を受け継いでいける世界でも稀有な選手だと思う。では、明日のフリー。みなさん、日本3選手のよい滑りに期待しましょう。ここまで来たら採点について神経質になっても、もはや一文の得にもならない。選手にできるのは自分の演技に集中して、迷いなく滑ることだけ。ショートで「課題」が見つかった選手は、フリーではそれを克服するように務めればいいだけのことだ。今回トリプルアクセルを捨ててダブルアクセルで無難に来たランビエール選手が、肝心の4回転からの連続ジャンプで失敗。かなり確率よく4回転+3回転を決めることのできるジュベール選手が、4回転で失敗したうえに、ルッツで回転不足のまま転倒。アボット選手の「入り方の難しい(そして降りたあとのトランジションも難しい)トリプルアクセル」が失敗で連鎖的にルッツも失敗。これがオリンピックの怖さだ。安全策で来ても、普通どおりに来ても、難しいものに挑戦しても、うまくいくか大失敗するかジャンプは常に紙一重なのだ。ファンも熱心なファンになればなるほど、贔屓の選手を心配しているとは思うが、いろいろな「政治的思惑」を想像してあれこれ騒ぎ立てるのは、今はよくない。思惑がないと言っているのではない。あるからこそ、それにとらわれてはいけないということだ。「不安感」「不信感」といったマイナスのエネルギーが何かのきっかけで選手に伝わったりしないよう、落ち着いて、覚悟を決めて本番を待ちましょう。特に女子はこれからです。演技直前にジャッジへの不信感をもつものがどれほど演技に悪い影響を及ぼすか、トリノのスルツカヤ選手を思い出してもらえればわかると思う。失敗したっていいじゃないですか。入れる技は選手がコーチと自分自身で決めたことなんだから。結局は、オリンピックはゲーム(遊び)なんだから。
2010.02.18
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ガイドさんにもらったフルーツでこれまで食べたことがないものがあった。それは「サラク」。おにぎりのような形だが、皮は硬く、ヘビの鱗のような模様に覆われている。皮は案外簡単に剥ける。実(み)はまるっきり、「デカいにんにく」。だが味はにんにくとは似てもにつかない。ま、フルーツだから当たり前だけど。歯ごたえは少し水分の少ない林檎のよう。噛むとあまりパンチのない酸っぱさと甘さが口の中にひろがる。若干苦みもあるよう。不思議な味だったが、MizumizuもMizumizu連れ合いも大いに気に入る。特に東南アジアのフルーツ大好き人間のMizumizu連れ合いは、大絶賛。翌日の朝、ホテルの朝食のフルーツコーナーで、同じものがおいてあるのに気づいた。同じは同じだが、縮こまったように少しサイズが小さい。しかも、食べてみたら、あーーら、不思議。おいしくないではないか!もともと水分がいっぱいのフルーツではないようだが、さらに乾いた歯ごたえで、味も抜けたような感じ。苦みが強いようにも思う。よかった。ホテルで最初に食べたら、「サラクってまずい」のレッテルを貼るところだった。しかし、なんでマズいわけ? サイズも小さいし。さては規格外の売れ残りを安く仕入れたな――と、ますますホテルへの不信感を募らせるMizumizu。しかし、後日、ホテルから至近の「バリ・コレクション」というショッピングセンターのスーパーで、「ジャワ島産サラク」と「バリ島産サラク」が売られているのを見て、試食させてもらって謎が解けた。この2つは味がかなり違う。ジャワ島産のほうがみずみずしく、美味しい。ガイドさんにもらって食べたのは明らかにジャワ島産のものだったと気づく。バリ島産のものは、もっと原始的な味。つまり、これがホテルの朝食で出たものだったのだ。な~んだ。ガイド氏もそう言ってくれればいいのに。知らずにバリ島産のサラクだけを自分で買っていたら、「あら、さすがにガイドさんのくれたものは美味しかった。いいもの売ってる場所を知ってるのかな」などと尊敬してしまうところだった。バリ・コレクションは、ヌサドゥア・リゾートに泊まったゲストには一番行きやすいショッピングセンター。ホテルから無料の送迎バスも出ている。のだが・・・これまた、本当につまらない、モロ観光客向けお土産屋の集合体。スーパーが一番おもしろい。バリ島でのショッピングにはダメ出しをしたMizumizuだが、ここで決定打のホームランを打たれた気分。そうそう、バリ島で気づいたのだが、お店によってはカードのサインを2枚しないといけない。一瞬「2回サインさせて2重に取るつもり?」と疑ったのだが、そうではなく、店用のレシートと銀行用のレシートがあり、別々にサインを求められるというだけ。Mizumizuと同様の疑念をもったのか、スーパーでレシート2枚にサインをするのを拒否している白人がいて、お店の人を困らせていた(笑)。横からMizumizuが、「ここでは2回サインしないといけないの」と教えてあげたら、納得したようにサインしていた。バリ・コレクションには(観光客向けの)レストランもたくさん入っている。ホテルのレストランにそうとう飽きていたので、1度入ってみることに。入り口でメニュー見ながら迷っていると、案内役の男の子が、「15%割引きだから」と営業をかけてきた(笑)。しかし、例によってサービス料だかタックスだかが21%と書いてある。「これは?」と聞くと、「このあたりの店は全部そうだから」という答え。確かにそれは嘘ではないと思う。しかし、サービス料だかタックスだかを21%取って、15%割引とは、これいかに?なんだかよくわからないが、「食事のあと無料でホテルに送るから」とまで言われ、そっかそれなら時間の決まっている送迎バスを待つこともないなと店に入る。Mizumizuはだいたい招き猫体質。Mizumizuが店に入るとあとから客が増えてくることが多いし、店でなにか買っていても、不思議とあとから人が入ってくることも。このレストランも、Mizumizuがテーブルにつくと間もなく、次々白人客が入ってきて、ガラガラだった店がいっぱいになった。お客は圧倒的にロシア人。お店はガンガンに生演奏を流していて、うるさいのなんの。しかもスピーカーの真下の席という不運・・・しかし、周囲を見回しても、うるさそうな顔をしているゲストは皆無。みんなこの超うるさい生演奏を楽しんでいるのか? だとしたら、ボリューム絞ってとは言いにくい・・・と、必死にしばらく我慢していたものの、とうとう鼓膜が悲鳴をあげ、ボーイに「音を少し小さくして」と頼んだ。すると、すぐにスピーカーの音量を落としてくれ、事なきを得た。ホッ。Mizumizuが一番よく行くイタリアじゃ、なかなかこうはいかない。辛抱強く2度、3度と頼む根性が必要。それに慣れているので、言えばすぐにやってくれるというだけで感動できる体質になりました。イタリアのみなさん、ありがとう。Mizumizu連れ合いはロシア人相手の貿易をやっていた人。聞いてみると、だいたいこういう賑やかなレストランが好きなのだとか。へ~。ホテルのレストランも夜、ステージでがなっていて、大変にうるさかったっけ。あれはマジョリティであるロシア人のためだったのだな。インドネシア料理で食べたいものがなかったMizumizとMizumizu連れ合い。Mizumizu連れ合いの頼んだトルコ料理(かな?)。Mizumizuは春巻き。一品の量が多いのは、みんなでシェアして食べるため? それとも白人のスタンダードに合わせてる?とにかく、なんでもかんでも料理の量が多いのに閉口。だがジャワティー(インドネシア紅茶)は普通に美味しかった。紅茶やコーヒーが美味しいのは嬉しい。レストランの会計は、確かに15%引いたあと21%が足されていた。???そんなら、なんで最初っから値段を安くしておかないのだろう?もしかして、これは入るのをしぶっている客を説得するために特別に用意してある割引で、案内役がすばやくボーイに、「コイツらは安くするって言って引き入れた客だから」と秘密の暗号を送り、割引する客としない客に分けているのか?そんなマメなことするかなあ?食べ終わって案内役だった男の子に送迎を頼むと、すぐに手配してくれた。一応、料理はそこそこだったので、「おいしかった、ありがとう」とお礼を言ったのだが、「オ~、ハハハ」照れてるのか、そっけないのか、はたまた内心「たけー料理食べてウマイなんて言って、外人ってバカだな」と思っているのか、どうとでも取れそうな、曖昧かつ意味不明の反応。こういう反応もちょっと日本人に似ている気がする。「ありがとう」と言われると、「どういたしまして」のような「定型返答」が照れくさくてできず、思わず意味不明のお世辞笑いと曖昧な返答をするところ。
2010.03.23
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2008年4月11日付朝日新聞の天声人語の記事は、これを書いた記者がいかにパバロッティに興味がなく、オペラに無知かということをさらけ出している。オペラファンなら一笑に付して終わりだろうが、一般の人は間に受けてしまうかもしれない。だから、そこそこオペラを見ている人間の「ふつー」の感想を、書いておくのも意味のないことではないと思う。XXXX以下、天声人語XXXX「私は勝つ。勝利(しょうり)する」と歌い上げる(うたいあげる)くだり(件)は、突き抜ける(つきぬける)ような驚異(きょうい)的な往年の声の張りを思わせるものがあった――。06年2月10日、トリノ冬季五輪の開会式。ルチアーノ・パバロッティの熱唱(ねっしょう)を伝える小欄である。ただし〈テレビで見る限り〉として▼寒空(さむぞら)の下に流れたアリア「誰も寝てはならぬ」は、13日後、荒川静香さんに金メダルの滑りをさせた曲でもある。あの夜の名テノールが「口パク」だったと聞いて、しばらく本当に寝られないファンもいよう▼当時のオーケストラの指揮者が、近著で「歌も演奏も録音だった」と打ち明け(うちあけ)た。映像を確かめてみた。歌い手は左手に白いハンカチを握りしめ(にぎりしめ)、太い眉(まゆ)を八の字にし、口を大きく丸く開けている。ただならぬ存在感だ。弦楽(げんがく)の奏者たちもしっかり弓(ゆみ)を動かしていた▼「高音の王様」は4カ月後に膵臓(すいぞう)がんと診断され、07年9月に71歳で逝った()。トリノの頃はすでに痛みを覚えていたらしい。当日は体調を考え、数日前に別々に吹き込んだ歌と演奏を会場に流したという▼これが最後の大舞台となった。拍手と歓声に向かって右手で投げたキスは、母国での大役を「無事」に務めた喜びか。いや、歌の神様への感謝、謝罪、そして別れだろうか▼かつて、一度の野外(やがい)公演で何十万人もを酔わせた(よわせた)声楽家にすれば、歌うふりは恥ずべきことかもしれぬ。だが、これで彼の「勝利」が消えるはずもない。大声で弁護はしないが、現にあの夜も、世界中の何億人かが酔った。「それも芸じゃないか」と、口だけ動かしてみる。XXXXXXXX文章はうまいし、よくまとまっている。だが、その内容たるや、情けないぐらい勝手な思い込みに終始している。1)突き抜けるような驚異的な往年の声の張り→パバロッティがとっくに驚異的な高音を失っていたのは、オペラに興味がある人間なら誰でも知っている。トリノでのvincero'もかつてのパバの突き抜けるような艶やさはなかった。そんなことぐらい「テレビをとおして」だってわかるだろう。「往年」の彼の歌唱をおそらくは一度も聞いたことのない人間が、堂々と「往年」などと言う。なんたる欺瞞だろう。もし、この記者がパバの高音の比類なさを知っているなら、ただのイベントにすぎない「野外コンサート」の例など出さないはず。パバが全身全霊をかけ、「その声を出す前は、体中の筋肉が緊張する(パバの弁)」というハイCを響かせて聴衆を驚愕させた伝説のオペラの演目を例に挙げるはず。2)名テノールが「口パク」だったと聞いて、しばらく本当に寝られないファンもいよう→アリアのタイトルに引っ掛けたと思われる変なオヤジギャグだが、「本当の」オペラもしくはパバロッティのファンなら別段驚くことではない。パバロッティが口パクをやったのは、トリノが初めてではない。超高額のコンサートで口パクをやってしまい、叩かれたこともある。これはNEWS WEEKの日本語版でも「どうしちゃったの? ルチアーノ?」という記事で紹介された。これにからめて、「なぜ口パクをしたのですか?」とインタビューを受けているパバの姿も日本のテレビで放映された。パバは微笑みながら、「私が悪いんです。うまくやれると思っていたのですが」と答えていた。あのときは相当な騒ぎになったのだが、朝日新聞の天声人語担当者はまったく知らないようだ。いかにオペラに興味がないかわかるというもの。Mizumizuの個人的な話でいえば、トリノでパバが登場したとき、「また口パク?」と思い、そう口に出した。それがむしろ普通のファンの反応だろう。パバが歌えるとは思えなかったからだ。すでに、パバは何度も「引退コンサート」をやっていて(笑)、ついには「引退という宣言を本当に守れますか?」などと突っ込まれていたからだ。ところが、口パクだろうと思って見たら、口パクには見えなかった(苦笑)。しかも、相当いい感じだ。これには実は驚いたのだ。そして、「ああ、最後までちゃんと歌えてよかった!」などと胸をなでおろしていたのだ(もちろん、内心ちょっとだけ、「やっぱり口パクだったんでは?」という疑惑は残った)。パバにやられたってことだ(笑)。天国のパバヘ:見事に騙されましたよ、お見事!3)数日前に別々に吹き込んだ歌と演奏を会場に流したという実は、この「数日前」というのは相当ひっかかる。演奏はともかく、当時のパバが「数日前」にあそこまできちんと歌えたのだろうか。本当は歌唱の録音はもっと前のものだったのではないか…… と密かに思っている。4)拍手と歓声に向かって右手で投げたキスは、母国での大役を「無事」に務めた喜びか。いや、歌の神様への感謝、謝罪、そして別れだろうか投げキスはいつものパパのしぐさ。コンサートではたいていああやるし、オペラでのカーテンコールでもそう。特別なポーズではない。もちろん、あれが最後の雄姿となったわけだから、見る側が主観でそう信じるのは勝手だが。感傷的に入れ込んだ文章を書く前に、パバのオペラの1つぐらいは見てはどうだろう。5)かつて、一度の野外公演で何十万人もを酔わせた声楽家にすれば、歌うふりは恥ずべきことかもしれぬ。だから初めてじゃないんだってば。本当にパバが恥だと思っていたら、何度も口パクはやらないって。パバにとっては体調不良のままライブで歌って、途中で声が出なくなることのほうが恥だし、聴衆をガッカリさせると思っていた。そうならないという自信はすでに晩年のパバにはなかった。だから口パクをやったのだ。単純な話だ。それに、雑音だらけの環境でマイクを通して大勢に聴かせる野外公演なんて、お祭りみたいなもの。本当の声楽家の勝負は劇場でのオペラなのだ。パバはスカラ座でブーイングをあびて以来、かのオペラの殿堂の舞台には立たなかった。晩年のパバの声の衰えは、それと反比例するようなパバロッティがらみの高額チケットビジネスとあいまって批判の対象にされたのだ。6)「それも芸じゃないか」と、口だけ動かしてみる。 ……いまどき天声人語を真に受けて読む読者もいないかもしれない。だが、影響力のある新聞なのだから、こんな「知ったか」を書く前に、多少オペラに詳しい人間に話を聞くなり、パバのオペラのビデオを1本でもいいから見るなり、パバについて少し知る努力をするべきではないかと思う。イタリアでのオリンピックという歴史的なイベントにおいて、イタリアが生んだ歴史的歌手を登場させること――それがイタリア人にとって、そして世界の人々にとっても、もっとも重要なことだった。その後まもなくパバが亡くなってしまったということを考えると、あの舞台にパバが立ったこと、それが何よりの意義だろう。すでに引退状態のパバに「往年の美声」を期待した人がいたら、それはまったくパバに関心がなく、パバの現状を知らない人だ。東京は相当ハイレベルなオペラ消費都市なのだ。これほど一流の歌手が頻繁にコンサートを行い、一流のオペラハウスが引っ越し公演をやっている街は世界広しといえども、そんなにはない。首都東京の一般聴衆のレベルがこんなに高いのに、国のオピニオンリーダーになるべき新聞記者が、ここまであからさまに無知では情けなくなる。
2008.04.14
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『マストロヤンニ自伝』(小学館、押場靖志訳)で、マストロヤンニがわざわざ1章を割いて解説し、「本当に見事」「映画のお手本」「傑作とはこういう映画のこと」と言っている作品がある。マストロヤンニ主演映画の中では案外地味な『特別な一日』がそれだ。マストロヤンニが重要な場面として挙げたのは、これまた作品の中でもかなりさりげない「電話のシーン」。ここについてマストロヤンニが何を語ったか聞いてみよう。「私の役はホモセクシャルで、明らかに自分の彼氏と話しているのです」「私は彼(=監督のエットレ・スコラ)に言いました。『ぼくにだって多少の慎みがあるから言うのだけどね、このシーンは全部背中から撮ったらよいと思うんだ。うなじの後ろからカメラで近づいてくれないかな。ぼくの台詞があまりに刺激的になっても困るだろ。お客さんに不快な思いをさせるわけにはゆかないからね』。スコラは納得してくれました。その結果このシーンは、映画の中でも特に素晴らしい場面の1つになったのです」(『マストロヤンニ自伝』)このマストロヤンニの発言には、かなり虚をつかれた。『特別な一日』は過去に見ていたが、マストロヤンニ演じるガブリエレがソフィア・ローレン演じる人妻アントニエッタに出会い、その日のうちに密かに関係をもつというストーリーで、ガブリエレは反ファシストだった記憶はあったが、ホモセクシャルだったという印象がほとんどなかったからだ。そこでさっそく再観賞してみた。マストロヤンニの自伝を読まなければ、2度見てもわからなかったかもしれない――これは確かに、ファシスト政権による性的マイノリティ弾圧のさまを描いた映画だった。重要な「性的マイノリティ」という概念を見落としてしまったのは、1つにはイタリアの事情、つまりファスシト政権のもとで、同性愛者がサルデーニャに島流しになっていたという事実を日本人ゆえに知らなかったせいもある。イタリア人ならある程度わかっていることだから、ことさら説明的に描写する必要はないのだろう。だが、こちらにはピンとこないので、映画のタイトルの『特別な一日』というのが、ガブリエレにとっては、島流しになる前の最後の一日だったのだということを最初に観たときは見逃してしまっていた。『特別な一日』には歴史的な意味もある。映画冒頭で語られるイタリアにとっての特別な一日。それは、ヒットラー総統がムッソリーニ政権下のイタリアを訪問するということだ。この――当時のイタリアの一般人にとって――特別におめでたい日を祝おうと、市民がこぞって出かけていく。アントニエッタの家族も全員外出する。1人残り、家事に追われるアントニエッタ。髪は乱れ、化粧っけもない。生活に疲れた主婦そのもののアントニエッタ。だがこの日彼女は、ガブリエレに出会い、特別な関係をもつ。彼女にとっては、長らく忘れていた女性としての自分を取り戻す一日になる――それがアントニエッタにとっての「特別な一日」。彼女はガブリエレが島流しになることを知らない。また会えると思っている。彼が「自分は男色家」と言っても、その本当の意味、その運命を最後まで理解していない。彼女はファシスト政権についても、それが悪だとか、間違いだとかは思っていない。時の権力の頂点に立つ男にたまたま会ったときの感激を、ガブリエレに素直に語ったりしている。長いものに巻かれている当時の普通のイタリア人女性なのだ。彼女の誤解が、そのままMizumizuの誤解になってしまった。マストロヤンニと同性愛者というイメージがあまりにかけ離れていることもある。また、その描き方が非常に「慎み」深かったせいもある。ガブリエレの「彼氏」もまったく出てこないし、彼がアントニエッタに向かって「自分は同性愛者だ」と叫ぶシーンも、単に、「感情的になって、露悪的なことをオーバーに言っている」ように見えたのだ。だが、そうではなかった。よくよく観ると、映画の冒頭ガブリエレは自殺をしようとしていた。迷っているところに、アントニエッタがたまたま訪ねてきたので、救われたのだ。それをガブリエレは電話で「彼氏」にさりげなく話している。しかも、その「愚行」はその日が初めてではない。何度か自殺を考えたことがあるのだ。そう、彼は絶望し、追い詰められている。明日島流しになるからだ。だが、その事実を電話の向こうの彼氏には黙っている。彼を守るためだ。だが、もう明日になったら2人は話すこともままならない。だから、ガブリエレは思わず、彼氏に「何かしゃべってくれよ! 何でもいいから! 今日はぼくの特別な一日なんだ」と言っている。今日が最後だと告げられぬまま、(恐らくは「会おうか」と電話の向こうで申し出ている彼氏に)「今2人で会うのは危険だ」と押しとどめ、「(逮捕されても)すぐ釈放になるから」と安心させている。「映画の中でも特に素晴らしい場面の1つ」とマストロヤンニが自伝で述べた電話のシーン。同性愛は悪。ファシスト政権下で差別と弾圧の対象にされた性的マイノリティ。会おうとする「彼氏」を制止するガブリエレ。最初に見たときは、反ファシストの同志との会話だと勝手に思い込んでいた。次第に昂ぶってくるガブリエレ。「このシーンは背中から撮って」とマストロヤンニがリクエストした。確かに、これは「同志」への問いかけではない。マストロヤンニが言うように「彼氏」との会話なのだ。この言葉は今のガブリエレの心情でもあるが、明日からサルデーニャでガブリエレが想うことでもある。入ってきたアントニエッタに電話の会話を聞かれて、慌てて取り繕うガブリエレ。だが、すぐ釈放されないことはガブリエレはよく知っているのだ。それはアントニエッタに語った「島流しになった友人の話」からわかる。「チビタベッキアの港に友人を見送りに行った。彼は戻ってこない」と話している。それは明日の彼の運命なのだ、アントニエッタが知らないだけで。アントニエッタが知らない彼の運命を、観客は最後の最後にガブリエレを迎えに来た男たちとの会話で知ることになる。これもとてもさりげないフレーズだ。ガブリエレは、男たちに「出航はいつ?」と聞いている。やはり彼は、これからサルデーニャに流されるのだ。壁にかけた絵を取り外し――それはおそらく、彼氏であるマルコとの思い出の品なのだろう――包んで抱え、男たちに連れられて出て行くガブリエレの姿を、アントニエッタは自宅の窓から見かける。観客には、もうこの2人がこれっきりであることはわかっている。だが、アントニエッタは最後まで知らずにいる。彼女が真実を知るのはいつだろう? 2人が結ばれたあと、「また来週会える?」と彼女は聞いた。ガブリエレは何も答えなかった。彼女からガブリエレの表情は見えない。だが、観客には見えていた。それは硬直した、表情のない表情だった。彼女はガブリエレの沈黙を暗黙の了解と受け止めたのだろう。だが、来週、彼はもうアントニエッタの手の届く場所にはいない。彼は、たとえ女性と「できた」としても、自分が同性愛者だということは変わらないと言う。だがこうも言っている。「特別な一日に、女性とこうした素晴らしい経験をもった。それがぼくにとっては重要なんだ」。彼のセクシャリティをより細かく、正確に記述するなら、「男性の肉体をもちながら、性愛の対象として男性を指向する単性愛者」ということになるだろう。彼はそうした自分から逃れたいと思ったこともあるはずだ。アントニエッタにことさら近づいたのも、そうした願望の表われともとれる。「世間一般の男性」と同じになってみたい――あるいは少なくとも、そのフリだけはしてみたい。だが、同性を指向する単性愛者であるというのは彼の宿命であり、自分で変えることはできないのだ。屋上の物干し場で2人が肉体的に接近するシーンは、表向きは男女の情事を予感させる場面だが、結末を知ったとき、自分から逃れたい男と日常から逃れたい女の願望は、実際には決して1つに溶け合うことはないという哀しさを秘めていたことに気づかされる。この特殊な男性を表現するために、確かにマストロヤンニは細かい「工夫」をしている。たとえば指にはめた大きな指輪。ヘンにオシャレだ。それに、アントニエッタと踊るときのガブリエレの腰つき。微妙にクネっている。どれもわざとらしくならない程度に、微妙に「それ風の感じ」を出している。彼女は出会ったばかりのガブリエレが、わざわざ彼女の家に本をもってきてくれたとき、「自分に気がある?」と誤解した。観客もこのときはそう思ったはずだ。だが、最後になってわかるのだ。あれは「明日はここからいなくなる運命の人間」が、近所の感じのよい奥さんに、自分がいなくなっても自分を思い出してくれればと思ってやった、下心とはまったく無縁の切ない行為だったのだと。自分とあまりにかけ離れた世界のことはアントニエッタには理解できない。最後まで誤解したまま、だが、女性としての喜びや自信を見出した彼女の姿もまた切なく、美しい。ある特殊な世間のムードの中で、いかに少数派がさげすまれ、虐げられるか――ファシズム批判でありながら、また、まったく違った精神世界に住む男女の出会いとつかの間の情事をとおして、彼と彼女が垣間見た儚くも切ない夢を日常的な情景の中に描き出した、確かに傑作中の傑作。
2008.09.25
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<先日のエントリーから続く>ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で、『ノートルダム・ド・パリ』の公演を行うべく準備していたプティのもとに、ヌレエフをゲストダンサーに呼んで、2~3回主役を躍らせてほしいと劇場の有力者からの要請が来た。別のダンサーがもう決まっていたので、プティは気が進まなかったが、結局は折れてヌレエフと稽古を始めた。ヌレエフは明らかに、以前のヌレエフではなかった。すでに病魔に侵されていたのだ。何も知らないプティには、ヌレエフがわざと手抜きをしているように見えた。バカにされたと思ったプティは苛立ち、ヌレエフとの関係は悪化していった。実は天才ダンサーはこのとき、失われつつある体力を必死につなぎとめようと闘っていたのだ。ヌレエフは、舞台初日までには何とか帳尻を合わせた。メトロポリタン劇場に詰め掛けた5000人の客は、ヌレエフにスタンディングオベーションを送った。プティにとって満足のいく出来ではなかったが、とにもかくにも、公演自体は成功した。千秋楽の舞台がはねた後のパーティで、「事件」は起こった。さんざめく広間に、突然酒に酔ったヌレエフが現れ、プティに向かって、「練習を妨害された!」あ、違った。「プティさん、あなたの駄作バレエに出た僕を、あなたは気に入らないって言ってるそうですね。1つ言っておきますが、僕はあなたのバレエに興味なんてないし、フランスのつまらない踊りにもあなたの振付にも、一切関わるつもりはないですから」と言い放ったのだ。パーティ会場は、一瞬にして凍りついた。ジジが2人の間に割って入らなければ、殴り合いになるところだった。公衆の面前で侮辱されたプティは、「も~、イヤだ。も~『おふくろさん』は歌ってほしくない!」あ、違った。「もう、ヌレエフに自分の作品は踊って欲しくない」と、パリ・オペラ座あてに、ヌレエフのレパートリーからプティのすべての作品を外すよう指示する手紙を送った。「もし喧嘩になっていたら、この愛してやまない怪物と私は転げ回って殴り合ったかもしれない」「一方では深い愛情を感じてはいたが、その時点では、彼と別れることが唯一の解決方法だった」(『ヌレエフとの密なる時』)当代切っての人気振付師と天才ダンサーの大喧嘩は、周囲を困惑させた。友人が間に立って、なんとか2人を会わせ、関係を修復させようとしたが、プティは頑固に、あらゆる申し出をはねつけた。だが、内心では、ヌレエフ本人からの連絡を待っていた。そして、とうとうその日がやってきた。ヌレエフがプティに電話をかけてきたのだ。直接家に来るというヌレエフに、プティは、「僕は君が好きだ。わかっていると思うけど」すると、ヌレエフの殺し文句。「僕も君を愛している」2人は和解し、オペラ座での共同作業を開始した。ヌレエフはプティに気を遣っていたが、暴言を吐かれたプティのほうは、完全に無傷な状態には戻れなかった。ヌレエフといても、プティの心はときに憂愁でいっぱいになり、2人が出会ったころのロンドンの日々を、1つのベッドで分け合った夜を、懐かしむのだった。ヌレエフから待ち焦がれた言葉を贈られたのは、皮肉にもこのころだった。プティの創造世界に戻ってきたヌレエフは、ある日、プティの両手を取り、いたずらっぽい笑みを浮かべ、愛情をこめて瞳をのぞきこみながら言った。「今の僕には君こそ、最高の人だ」ヌレエフの審美眼に絶対の信頼を置いていたプティは、とにもかくにも彼の心の中で1番の存在になれたことを喜んだ。<続く>
2009.05.31
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<ジェイク・ファンの皆様は明日おいでください。ジェイク・ネタは明日からです>昨日、レオナルドが30代後半のときに拾った少年がモデルとされる横顔の素描を紹介したが、この少年は本名はジャコモという。彼はレオナルドからルイジ・プルチの叙事詩にちなんだ「サライ(悪魔の意味)」というあだ名をつけられ、10歳でレオナルドと同居を始めてからずっと25年以上にわたって、レオナルドがフランスで亡くなるまで生活を共にした。なぜレオナルドが彼をサライと呼んだかといえば、それはこの少年が、その美貌と裏腹に、非常に品行が悪かったからだ。レオナルドの手記には、このサライに対する悪口が綿々と綴られている。彼に何を買ってやったとか、彼が何を盗んだとか、彼が何を食べたとか、いちいちその値段までつけて詳細に記録し、「泥棒、うそつき、頑固」などと罵倒している。それならば、さっさと別れればいいことなのに、レオナルドとサライはなぜか離れない。サライの「悪さ」がいつごろまで続いたのかわからないし、それが生来のものだったのか、それとも自分を縛ろうとする高名な画家への少年らしい反発心からだったのかはっきりしないが、ともかくレオナルドは手記では悪態をつきながらもサライに服や靴、指輪や首飾りなどを買い与え、彼の家族の援助までしたうえに、最期にはサライに家を含めた遺産も残している(いいな~、お付き合いするならこういうヒトだよね)。そして、そのサライとの生活を暗示するようなレオナルドの素描がイギリスにある。ソクラテスが死の直前、弟子を集めて行った論議を弟子のプラトンがまとめた『パイドン』から想を得て描いた「快楽と苦痛の寓意(アレゴリー)」だ。『パイドン』においてソクラテスは、「快楽と苦痛とは1つの頭についた2つの肉体」だと述べている。それをレオナルドは1つの肉体に2つの顔をもつシャム双生児のような寓意像にうつしかえて表現した。さらに、この双生児の顔はまったく違っており、2つの顔のうち1つは少年のように若く、もう1つはそれよりずっと年上で、老年期にさしかかっているように見える。少年はサライの素描に似ているという人もいるが、どうもMizumizuにはサライのようでもあり、自分の少年時代を描いたといわれる「キリスト洗礼」図の天使のようでもあるように見える。少年は片手に「葦竹」をもち、もう片手にはコイン(お金)をもっていて、それが地面に落ちている。年上の男は花のついた植物(とげのある薔薇だというが、よくわからない。果物かもしれない)とまきびし(敵から逃げるときにばらまいて、相手の足を止める道具)をもっている。まきびしもやはり、一部が地面に落ちている。そして、この素描には、鏡文字といって、鏡にうつさなければ読めない、さかさまに書かれた文字による注がある。この鏡文字はもちろんレオナルドが書いたものだ。レオナルドという人は元来左利きで、私的な手記などを綴るときなどは、あたかも人に読まれることを避けるかのように、決まってこの鏡文字で書いた。もちろん、普通に書くこともできた(ホント、すごいというか、変な人だ)。年上の男がもっているのは、求愛のプレゼントに使えそうな植物(あるいは快楽そのものを象徴する果実)と、相手から逃げるときに使うまきびしという道具であり(しかも、一部を地面に落とすことで、もう使い始めている)、明らかにそれは、背中合わせの少年に対するアンビバレントな感情を暗示しているようだ。少年の手からコインが落ちているのは、与えられた金の浪費を象徴しているように思われる。そして葦竹については、素描に添えられた注釈に説明がある。この注釈は一般に、「寓意に対する道徳的解釈」だとされている。それはざっと以下のとおりだ。「これは苦痛とともにいる快楽。双子なのは決して離れることができないから。背中合わせになっているのは、2人がまったく対照的であるため。彼らの下半身は1つになっている。なぜなら、快楽の根源は苦痛のない仕事であり、苦痛の根源は虚栄と気まぐれな快楽だから。だから1人は右手に葦竹を持つ。葦竹は役立たずで何の強みもない。だが、刺されると毒にやられる。トスカーナでは葦竹はベッドの脚の材料になる。(中略)ここでは、さまざまな空しい快楽が行われる。不可能なことを想像する心と、しばしば命取りになるあの喜びの両方が」。これが寓意に対する道徳的解釈だろうか? とてもそうは読めない。むしろこれは素描を描いたレオナルドのモノローグのように読める。快楽の象徴であるベッドの材料となる葦竹は、「役に立たないが、刺されると毒にやられる」もの。そしてそれをもつ少年は、年上の男とは「対照的でありながら、離れられない存在」。ベッドでは「不可能なことを考え、しばしば命取りになるようなあの喜び」にふける。「不可能なことを想像する」とは誇大妄想を言い換えたものだろう。そして、レオナルドは自他共にみとめる誇大妄想狂的性格だった。彼は実現不可能な壮大な都市計画を立てたり、実際に使うことのない武器を考案したり、当時の技術ではできるはずのなかった巨大なブロンズ像制作に挑んだりしていた。昨日紹介した「5つのグロテスク」で、グロテスクな顔に囲まれている中央の誇大妄想の男は、晩年のレオナルドの顔にそっくりで、自身をモデルに描いたものだとされている。だから、ここにはレオナルドのサライに対する感情と彼との生活が暗示されているようにしか思えないのだ。下半身が1つになっている画はサライとの関係を示している。単にソクラテスの言葉を寓意像で表わすなら、そのオリジナルの言葉にしたがって、頭が1つで肉体を2つに描けばいいことだ。実はレオナルドはもっと若いころ、具体的にいうと24歳のときに、17歳の少年に対する買春の罪で告発されている。当時のフィレンツェでは、男色に対する罰は大変に重いものだった。罰金、鞭打ち、火刑、去勢、片足の切断。ただし、こうした罰は見せしめのためには行われるものの、有力者は事実上お目こぼしにあずかっていた。このときはレオナルドの罪は不問にふされる。この告発はデッチアゲで、だからレオナルドは罰を受けなかったのだと主張する人もいる。無罪放免にされたことが、告発が陰謀であったという証拠だというのだ。だが、このサライとの出会いとその後の生活を考えると、告発がまったくの事実無根だったとも考えにくい。レオナルドは庶子とはいえ、その父のフィレンツェにおける政治的な地位は高かった。24歳の画家としてのレオナルドの名声はそれほどのものではなかったから、もし政治的な力で罰をまぬがれていたとしたら、それは父親が裏で動いたからかもしれない。だから、「しばしば命取りになるあの喜び」が何かということはハッキリしている。若き日のレオナルドに対する告発が事実無根だという人や、サライとの関係を友情だとかレオナルドの慈愛だとかいう人たちは、万能の天才、ルネサンスの巨匠、人類史上でも指折りの大天才が、男娼を買ったり、教養のないロクデナシの美少年に貢いだりしていては困るのだ。自分たちが抱いている偉大なるレオナルド像のイメージが壊れるからだ。だが、人の仕事の才能や能力とセクシャリティは、本来何も関係がない。ルーブルで人が群がっているガラスケースに入った「モナリザ」や、ミラノで長々と行列ができる、剥落が激しく、いくら修復しようとしても、もうとっくに失われてしまった名画「最後の晩餐」と違って、この寓意画はほとんど人に知られていなし、注目されることもない。だが、人に読まれることを拒否するような鏡文字が添えられた、このひっそりとした地味な素描を見ると、レオナルドの内面のダークサイドから、非常にプライベートな生の声が響いてくるようで、なんとなく胸を打たれたりするのだ。
2008.02.01
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ヌーベルバーグの先駆けとして現在では高い評価を得ているジャン・ピエール・メルヴィルの『恐るべき子供たち』。新進の映画監督だったメルヴィルの『海の沈黙』を見て感銘を受けたコクトーが、長い間同意しなかった自身の小説の映画化を彼に委ねた。条件はエドゥアール・デルミットを主役にすえること。もう1つの条件として、美術はクリスチャン・ベラールに担当させるはずだったのだが、ベラールが急死してしまったことで、設定年代の変更を余儀なくされた。コクトーは1947年に、パレロワイヤルの画廊で画家志望だったエドゥアール・デルミット(当時22歳)に出会った。レーモン・ラディゲの面影を宿すデルミットを一目で気に入ったコクトーはその場で、ミリィ・ラ・フォレにジャン・マレーと共同購入した別荘の庭師の助手として採用。まもなく「息子」として厚く遇するようになった。同年のコクトー監督の映画『双頭の鷲』でもデルミットをエキストラとして出演させる一方、監督の助手も務めさせる。その後、マレーはコクトーとの同棲を解消し、デルミットがコクトーと一緒に暮らし始める。デルミットは、1949年8月に撮影が始まった『オルフェ』でのセジェスト役を経て、12月からこの『恐るべき子供たち』の撮影に入った。デルミットは1951年に正式にコクトーの養子となり、唯一の遺産相続人に指定されている。ジャン・コクトーとしては、『恐るべき子供たち』の主役に抜擢することで、マレーに与えたような飛翔のチャンスをデルミットにも与えようとしたのだろう。だが、病弱で線の細いポール役にデルミットは明らかにふさわしくなかった。おまけに演劇経験がほとんどない未熟さはいかんともしがたかった。『恐るべき子供たち』は、公開当時は批評家からは不評だった。だが、その後作品自体は見直され、評価が高まっていく。時代がコクトーに追いついてきたのだ。だが、主役がミスキャストだったという事実は変わりようもなく、監督自身も認めざるをえなかった。たとえばこれ。親友のジェラールにポールが寄り添うシーン。少年の面差しを残すジェラールにはそれなりの雰囲気があるのに、ポールが妙にゴツいせいで、バランスがとても悪い。こちらも、ショットとしては素晴らしい。ゆったりと曲がって下る石畳の道。両脇の石造りの商店街。そこを脱兎のごとく駆けていく少年と少女。絵画的な美しさと詩情にあふれたシーンなのに、デルミット(右)のやけに発達した下半身と半スボンがすべてをぶち壊している。阿片の幻想の色濃い場面でも、ポール役のデルミットが台詞をしゃべらずにナレーターのコクトーが全部フォロー。夢幻の世界にふさわしい不思議な効果…といいたいところだが、デルミットが「しゃべれない役者だからナレーションでごまかしてる」という印象に。デルミットはみょ~に肉体を露出させる。この変にセクシーな黒い(黒じゃないかもしれないけど)パンツは何!? いっておくが、ポールは石入りの雪球を投げつけられて吐血し、そのまま学校に行けなくなってしまうような病的な少年なのだ。一度なら許すとしても…Mizumizuの選ぶ『恐るべき子供たち』、ワーストシーン。姉ちゃんと弟が無邪気(?)に、どちらが先にお風呂に入るかでケンカし、どちらも意地になって譲らず、結局2人で入ってしまうという展開なのだが、2度までもこのムチムチに発達した下半身を見せられて心底ゲンナリ。このときデルミットは24歳。ジャン・マレーも同じ年ごろの頃コクトーと出会い、コクトーの原作・演出の舞台『オイディプス王』でほとんど裸で舞台に立っいる。これがコクトーとマレーのコラボレーション第一作。どっちかというと、この「頭のてっぺんからつま先までミケランジェロのダビデ」とパリの観客を瞠目させた美青年の動画映像を残してほしかった。マレーは初期の時代こそ、コクトーの演出に素直にしたがって脱いでいたが、すぐにそうした肉体美を売り物にすることを嫌がるようになる。マレーが25歳だった戦争直前の1939年には、『恐るべき親たち』を映画化しようとしたのだが、ヒロイン役をめぐって出資サイドとコクトー&マレーが対立し、結局映画は流れてしまった。今となってはジャン・マレーが文字通り(?)「見かけだけ俳優」だった20代半ばの映像は、舞台のスチール写真しか残っていないのだ。『悲恋(永劫回帰)』のマレーは、すでに29歳だった。『恐るべき子供たち』に(気を取り直して)話を戻そう。肝心の主役でスベったにしても、やはりこの作品は名作だ。なんといっても俯瞰を多用した斬新なカメラワークがいい。撮影はアンリ・ドカエ。後に『死刑台のエレベーター』『大人は判ってくれない』『太陽がいっぱい』『サムライ』などの名作に携わっている。そして、鮮烈なラストシーンも、俯瞰。実はコクトー自身は、このラストシーンは「スクリーンには死者が残り、生きている者が退場し、徐々に視点が上へ遠ざかる」というイメージをもっていた。だが、それは『悲恋(永劫回帰)』のラストで使ってしまった(占領下日記)。『恐るべき子供たち』の最後は、コクトーのもともとのイメージよりずっとリアルで残酷なものになっているかもしれない。だが、それが他のコクトー映像にはない新鮮な驚きを与えることに成功している。エリザベート役のニコル・ステファーヌの熱演も賞賛に値する。ポール役のデルミットの未熟さを彼女の烈しさがうまくカバーした。小説執筆時、コクトーのミューズはグレタ・ガルボだったという。コクトーは10代後半のガルボの写真を脇におき、ガルボが眼前にいるように想像しながら小説を書いた。映画は「若きガルボ」とは違ったイメージになったかもしれないが、ダルジュロスの幻影と格闘するエリザベートの嫉妬と苦悩がよく伝わってきた。ダルジュロス役はアガート役のルネ・コジマの2役。ポールの線が太すぎるせいで、ダルジュロスの印象が薄くなった恨みはあるものの、1つ1つのシーンは絵画的で美しい。アガートとエリザベートの衣装はクリスチャン・ディオール。毛皮のコートを首元でおさえるルネ・コジマの指の表情がエレガント。「聖処女エリザベート」に思いを寄せるジェラール。このシーンは『オルフェ』を彷彿とさせるようなモーション。コクトーとメルヴィルの感性が入り混じっていることを印象づける。Mizumizuの選ぶベストシーンは、やはりコクトー作品にふさわしく、「死」の場面。深い霧の中で、エリザベートの婚約者が事故死を遂げる。幻想的な場面にかぶさる詩的なナレーション。首にまきついたマフラーが車輪に絡まって命を落とすというのは実際にあった話だという。このあと回り続ける車の車輪が映る。静けさと恐怖と美しさに満ちた場面。ちょっと残念なのは、物語上も重要な意味をもつ雪合戦のシーン。小麦粉か何かを使ったのか、雪がうまく雪球になっていない。雪がもっとリアルだったらさらに美しくなっただろうに、予算不足だったのだろうか。しかし、この映画のDVDの解説はヒドイ。まずはジャン・コクトーについて。「舞台と映画に主演した美形ジャン・マレーとの同性愛に結ばれ、マレーに看取られながら死の世界に向かった」。『恐るべき子供たち』とは何も関係のないマレーの名前を出したあげく、主演のエドゥアール・デルミットと混同している。コクトーを看取ったと言えるのは、死の当日まで一緒だった養子のデルミットなのだ。動かぬ証拠↓「1963年10月11日 ドゥードゥー(=デルミットの愛称)が電話をかけてきた。ジャンは肺腫瘍に負けてしまったのだ」「ジャンが息切れの発作に襲われるや、ドゥードゥーはフォンテンブローの病院に電話をかけた。酸素吸入の道具が間に合わなかったのだ。私の生は停止した。どうやってミリィまで車を運転したのか、思い出せない」(ジャン・マレー自伝より)さらに映画の音楽について、「ときにはかき立てるように高鳴り、ときにはひそかに胸をかきむしるように、4台のハープシコードが交錯する4人の心情を代弁する」。解説ではバッハの「4台のハープシコード(ピアノの前身)協奏曲イ短調BWV1065」となっているが、映画の冒頭にちゃんと書いてあるとおり、「4台のピアノのための合奏協奏曲イ短調BWV1065」なのだ。concerto grosso (合奏協奏曲)だから、ピアノだけでなく弦楽器も参加している。だが、ハープシコードは使われていない。あくまでピアノだ。音聴きゃわかるだろうに。だが、このバッハの音楽が素晴らしい効果を与えていることに異論はない。オーダーメイドの音楽ではないのに、この作品のために作られたように聞えるから不思議だ。もう1つ、間違いとも言い切れないが、大いに誤解を生じさせる記述も。「(コクトーは)シュールレアリズム派の芸術家とも親交が深い」コクトーの生涯にわたる最大の天敵はシュールレアリズムの父アンドレ・ブルトンだった。コクトーが親交を結んだのは、ブルトンからいわば一方的に「破門」されたシュールレアリスト。たとえば、エリュアールがブルトン陣営にいるころ、コクトーとエリュアールは対立していたが、のちにエリュアールがブルトンを離れて和解している。だが、ブルトンは生涯コクトーを徹底的に敵視し続け、コクトーがフランスの詩王に選ばれる際にも、頑強に反対している。ジャン・マレーも『私のジャン・コクトー』の中で、コクトーを死ぬまで攻撃したブルトンの偏狭さに疑問と苦言を呈している。
2008.07.07
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好評のうちに幕を閉じた(らしい)『あさきゆめみし』x『日出処の天子』展 ― 大和和紀・山岸凉子 札幌同期二人展この展覧会のもう1つの目的は、「北海道マンガミュージアム」構想を前進させること。北海道にマンガミュージアムを!大和和紀&山岸凉子展 (hokkaido-life.net)かねてから歴史的名作と呼ばれる漫画の元原稿の保存を美術館として行うべきと訴えているMizumizuとしてはもろ手をあげて賛成…と言いたいところだが、地方につくる漫画美術館には課題も多く、一も二もなく賛成とは言い難い。漫画美術館の役割は大きく分けて3つあると思う。1)原画を含めた展覧会の開催2)漫画本の収集3)原画の保存このうち、Mizumizuがもっとも大事だと思うのが(3)だ。数年前、川崎市市民ミュージアムが浸水被害にあって、せっかくの収蔵品が大きな被害を受けたことがあるが、あのミュージアムの場所を見ると、さもありなんだ。自然災害の多い日本で、良好な状態で原画を保存していくための方策にはかなりの予算を必要とする。そこをどうするか。北海道マンガミュージアムは市立ということになりそうだが、有名漫画家頼みの、地方行政による漫画美術館の管理運営は、何十年かのちには行き詰まることがほぼ見えている。手塚治虫記念館であっても、来場者は減少傾向だし、三鷹の森ジブリ美術館でさえ、コロナ禍で二度もクラウドファンディングを行うありさまだ。できたばかりのころは集客も見込めるだろうが、長期的にはそうはいかなくなる。それを見こしたとき、あちこちに小規模なマンガミュージアムというハコモノを作ることが公共の福祉に利するのかは疑問だ。逆に、だからこそ、漫画美術館というのものは、傷みやすい漫画原画の保存をどうしていくかをまず第一に考えるべきなのだ。それは国としてやるべきだとMizumizuが主張するのはそこで、原画さえ確実に保存できれば、漫画本の収集は二の次、三の次でよい。マンガミュージアムに行って漫画本を読まなくても、今は電子書籍もあるし、図書館に収蔵されているものもあるし、以前よりはるかに気軽に漫画を読めるようになっているのだから。展覧会についても、わざわざ新しい「マンガミュージアム」を作らなくても、既存の美術館やイベント会場を利用すればできるはずだ。このごろは頻繁に行われるようになってきているので、そのノウハウは蓄積されてきている。それだって、1990年に東京国立近代美術館で手塚治虫回顧展が開かれ、成功をおさめたことが、この流れの発端であることは間違いない。やはり、道を切り拓いたのは手塚治虫なのだ。1990年当時は漫画はアートとは見なされなかった。手塚治虫自身、「(漫画家は)アーティストになるな」と言っている。石ノ森章太郎が手塚治虫回顧展に向けて奔走したときも、三越デパートでは「大々的なイベントに」と言われ、美術館からは「あまりイベント臭が強いと困る」などと言われている。それも今は昔だ。「漫画なんて読んでいたらバカになる」と言っていた大昔の人々は、手塚治虫の登場によって消し去られた。今は70代ぐらいのシニアもマンガで育っている。漫画を「サブカルチャー」と位置付ける人も、まだ多いが、「サブ」はいずれ取られることになるだろう。浮世絵の評価の変遷をみても、一般庶民の嗅覚のほうが、「これがメインストリームのカルチャー、こっちはサブカルチャー」と区分けして歩く権威ある人々のそれよりも鋭いのだ。
2024.03.26
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<前回、2024年2月6日のエントリーから続く>アニメ版『海のトリトン』は、番組の最初と最終話がYou TUBEにアップされている。アトランティスやオリハルコンといったワードから連想されるのは、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。宿敵への復讐を遂げて、ピピとイルカたちを伴って海の彼方に去っていくラストシーンは『モンテ・クリスト伯』を思わせる。ただ、最終回は、富野由悠季が「こういう終わりにすると話したら絶対に反対されるので内緒にしていた」というように、意表をつくどんでん返しが用意されていたのだ。それは主人公トリトンの属するトリトン族は、過去にポセイドン族を人身御供として扱っていた、という歴史的事実だ。被害者と思われていたトリトンが実は加害者の子孫であり、わずかに生き残っていたポセイドン族も、トリトンが、そうとは知らずに根絶やしにしてしまっていたという大いなる罪の告発だ。富野氏の見解は、「少年は大人になる時、なにかしら罪を背負うもの」。それをこのアニメのラストで描きたかったのだという。善と思われていた側は実は悪でもあったという二重性を、子供向けアニメにぶっこんだというのは、実に挑戦的かつ革新的だ。ただ、番組上でのその説明…かなり長く一方的なので、多分当時の子どもには分からなかっただろう。もちろん、そんなことは承知のうえでのシナリオだろう。手塚漫画が子供時代によく理解できなくても、大人になってその重層的な意味に気づくように、富野由悠季も加害者と被害者、善と悪は逆転しうるという哲学を、子供たちの未来へのメッセージとして残したのだ。このラストシーンでのどんでん返しがなければ、たとえ『ガンダム』があろうとも、アニメ版『海のトリトン』の再評価はなかったはずだ。一方の、手塚版のトリトンも、一族の血を守るため、ポセイドンの子供たちをすべて葬る。そして最後は、不死身のポセイドンとともに「ともだおれ」となることを選ぶ。手塚版で感じるのは、戦争体験の根深さだ。満身創痍になりながら、倒せない敵にどこまでも向かっていく姿は、まるで特攻隊員。そして、死にゆくトリトンの目に映るのは…「地球は海でいっぱいだ。青いうつくしい海。あのどこかにピピ子と子どもたちがすんでいる」そして、帰ってこないトリトンを待つピピ子は、まるで美しくも哀しい戦争未亡人。彼女は残された子供たちの「自ら成長しようとするたくましさ」を見て、(おそらくは)悲劇を乗り越えていく。戦乱の不条理の中で生まれた子供は、はやく大人になるのだ。父親トリトンの遺志を継ぐべく、自ら立ち上がるブルートリトンの幼くも凛々しい姿は、ある意味、親の描く理想の子供像でもある。戦争による飢餓を体験したからこそ思い付いたのだろうと思える怪物も出てくる。いくら食べても食べても満足できず、食べた分だけ毒の排泄物をまき散らして歩くゴーブだ。奇怪で滑稽なこの怪物は、その破壊的な行為とはうらはらに、どこか哀れですらある。アニメ版『海のトリトン』は、のちの評価はともかく、放映当時はさほど視聴率が取れなかったが、実は南米でも放映されていたようで、You TUBEで面白い投稿を見つけた。https://www.youtube.com/watch?v=QPcCNfepLRQ投稿によると、なんと最終回は「(子供向け番組としては)暴力的すぎる」という理由で放映されなかったというのだ。You TUBEで字幕付きで最終話をアップしている動画を見て、感激している海外ファンが昔を懐かしんでいる。ワールドワイドな人気を博した日本のアニメの一つと言っていいのだろう。トリトン役の塩谷翼の声が、また傑出している。ホンモノのボーイソプラノで、日本の少女たちを虜にしたようだ。少年役は女性が当てることが多いなか、この塩谷少年の声と迫力は、アニメを一層感動的なものにした。と、同時にこの魅力的な声が「大人になるトリトン」を描いた手塚版との違いを決定づけた。手塚版のトリトンでは、あの名曲『GO! GO! トリトン』も生まれなかっただろう。イメージが違いすぎる。このように、『海のトリトン』は、天才漫画家の作品も素晴らしいが、アニメ版を作るために集ったメンバーも才能あふれる面々で、まったく違う魅力をもった別々の作品になったという、珍しい好例だろうと思う。ただ、富野由悠季氏の、手塚治虫自身も漫画のほうは失敗作だと思っていたのでは――などというのは、とんでもない言いがかりだ。それは手塚治虫漫画全集『海のトリトン』4巻(講談社)の手塚治虫自身のあとがきを見ても明らかだ。サンケイ新聞に、長い間「鉄腕アトム」を掲載したあと(編注:「アトム今昔物語」のこと)、編集部との話し合いで、"海を舞台にした熱血もの"をかくことにきめたときは、まだ、こんなSFふうのロマンにするつもりはありませんでした。(中略)かいていくうちに、物語は、はじめの構想からどんどんはなれて、SF伝奇ものの形にかわっていきました。よく、主人公が作者のおもわくどおりに動かず、かってに活躍をはじめることがあるといわれますが、トリトンの場合もそのとおりで、あれよあれよと思っているうちに、ポセイドン一族やルカーやゴーブができていってしまったのです。↑このように、キャラクターが勝手に動き出す…というのは、作者自身がノって描いている証拠だ。手塚治虫の代表作の一つだという人もいる。トリトンやピピ子が、変態によって一挙に4~5歳成長するという設定も、それこそ「格の違う変態」手塚先生ならではのエロチシズム。変態を終えて成熟したピピ子の美しさにトリトンがドギマギするシーンなどは、Mizumizuが好きな場面の一つ。超自然的な存在であるガノモスが、最後に浮き島となってトリトンの家族を守るというのも、絵画的に美しく幻想的なラストだ。複雑に絡み合う多彩なキャラクター、予想もつかない展開、重層的なテーマと詩的なラスト――やはりMizumizu個人としては、手塚版トリトンに軍配を上げたい。
2024.02.06
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トキワ荘の住人で、早い時期に漫画からアニメーション畑に転向した鈴木伸一(現・杉並アニメーションミュージアム名誉館)。その長いキャリアについてはWikiを読んでいただくとして、彼が藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らと設立したアニメーションスタジオ「スタジオ・ゼロ」が、一度だけ、当時一世を風靡していた日本初の連続テレビアニメ『鉄腕アトム』の作画を請け負ったことがある。第34話「ミドロが沼」の巻だ。今、You TUBEで手塚プロダクションにより、この「お宝」映像が限定公開されている。https://www.youtube.com/watch?v=Zgw-jfzSXM4どうしてお宝なのかというと、この「ミドロが沼」、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが描いたアトムが見られるからだ。手塚治虫を追って漫画家となり、のちに押しも押されもしない大家となる面々は、手塚治虫の後を追いかけて、アニメ制作にも足を突っ込んでいた時代がある。その様子と「ミドロが沼」のエピソードについて当事者だった鈴木伸一が語ったサイトが以下。『アニメと漫画と楽しい仲間』の出版に際してのインタビューだ。https://www.mag2.com/p/news/583417/3(ミドロが沼)は、スタジオ・ゼロの実質的な初仕事として手塚治虫氏から受けたものだったが、トキワ荘の漫画家たちそれぞれの作画タッチがそのまま各パートに出てしまい、手塚氏がラッシュを観て頭を抱えたという有名な逸話の詳細が本書のなかで述べられている。「それぞれが漫画家ですからね、漫画家っていうのは癖があってこそ漫画家、癖が出てくるのが当たり前、それを考えもしないで受けて、手がないからみんなで分散してやったわけですから、当然そうなるというのは明確なんですけど……。手描きっていうのは本当によっぽど訓練しないと統一できない。だから作画監督制度というものを東映動画あたりがその後始めたわけです。ただ、当時のスタジオ・ゼロの面々は、だれもが僕より手塚先生の漫画に心酔して漫画家になった人たちだし、それを僕が直すのも失礼だし、それがそのままアニメーションになっちゃった。それがそのあと色々話題になったり面白がられたり。だから、漫画家とアニメーションというのは、本質的に違うものなんですね」実際に見てみたら、確かに時々アトムのプロポーションや顔が明らかに変で、それが普通のアトムと混ざって出てくるからおかしくて仕方がない。どのアトムが石ノ森アトムで、藤子不二雄アトムで…と指摘したサイトもあるので、興味のある方は検索を。こういう手作り感のあるアニメ、今ではありえないから、返って楽しめた。鈴木氏は手塚治虫との思い出についても触れている。「手塚先生は横山(隆一)先生のことを大変尊敬されておりましたし、ディズニーも大好きでした。そんなわけで、横山先生の弟子でありディズニーが好きという共通項をもった僕に、よく電話をかけてくれて、ちょいちょいいろんなところへ遊びに行きました。今考えるととても幸せなことです」こうした古い話から、現在のアニメーション技術の見張る進歩についても語っている。表現しようとしているものが変わってきていますか?「変わってきていますね。描線ひとつにしても今はもうぜんぜん綺麗で美しい。僕らの時代はまだまだそこまでいっていなかった。アニメーションがこれから拡がっていくという時代です。今アニメ界を代表するような宮崎駿さんなどもその時代にダーッと入ってきた時代。手探りでしたね」「ただ、そういった昔のものには、今のものとは違う力強さや存在感があった気もします。今僕らがやっている個人やグループ製作のアニメでは、僕のパートでダーマトグラフ(グリースペンシル)なんかで乱暴に描いたところがみんなの評判がいい。綺麗に描くのもいいけど、『かんじ』を、それが欲しいなと思っています」その「かんじ」とは、いったいどのようなものなのだろう。お話をうかがいながら、鈴木さんが横山隆一氏のおとぎプロにいたころのアニメ制作にヒントがあるような気がした。当時鈴木さんも他のスタッフも、絵コンテというものの存在を知らなかったとのこと。「今考えると、よくあんなやり方でアニメーションが作れたな、と思います。横山先生が一枚さらさらとお描きになった原画を、このシーンを何枚で、というのがない状態で動きをどんどん描いていくわけです。長さはできてみないとわからない。僕はそういうもんだと思っていました、知識がなかったから」もしかしたら、当時の自由なアニメ製作の楽しさや創造性が、今鈴木さんが参加されているグループでのアニメ作業に回帰してきているのかもしれない。「今やっている個人製作は自由で楽しいです、ぜんぶ一人で、グループのみんなそれぞれが自分の世界を作っている。頭の中の世界と、手の技術で」「手探りで試行錯誤の製作、できてみないとわからない楽しさ、そこへ行っちゃうと逆にちゃんとしたアニメーションの作り方のような元に戻れない。つまんないから。そういう手作りの世界へどっぷり浸かっちゃうことになっちゃう」技術が進歩すればするほど、ひとりの人間の力量でできる範囲は限られ、やがて作り手は大きなシステムの中の歯車になっていく。分業が細分化すればするほど、作画という作業のもつ原始的かつ根源的な楽しみが、作り手から奪われていくと言ってもいいかもしれない。鈴木氏の話しているのは、そういうことだ。こういう日本アニメの歴史の話のできる人も、こういう「昔の」アニメ制作の楽しさを知る人も、すでにほとんどいなくなっている。鈴木氏は90歳超え。よくぞ生きて、語ってくれました。鈴木伸一 アニメと漫画と楽しい仲間 [ 鈴木 伸一 ]
2024.02.22
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高橋大輔選手のアイスダンス転向でにわかにメディアの注目が集まったのが、去年。正直、昨季の段階では、小松原組とのレベル差が大きすぎて、注目が全日本優勝カップルにさっぱり集まらないことに腹立たしささえ感じた。だが、今季の「かなだい」組には、心底驚かされた。なんといってもRDの「ソーラン節」の革新性。ひと昔前なら、「ダサい」と若者に敬遠されたであろう日本の伝統的な楽曲が、えらくカッコよく、オシャレなモダンダンス曲になったことに衝撃を受けた。振付が斬新、だから見ていて面白い。衣装のデザインは、特にカラーリングが極めてハイセンス。You tubeに上がったかなだいの「ソーラン節」に、リピが止まらない。コメントを読んでも同じように感じた人が多いらしく、これで間違いなくアイスダンスを見るファンが増えるだろう。これまでアイスダンスは、シングルと抱き合わせで売らないとチケットがさばけないようなお寒い状態だった。ヨーロッパでは「かつて」は人気があったのだが、その人気もある時期を境に急降下し、どん底まで来て、下げ止まったかどうか、という状況。だが、アイスダンスのもつ「成熟したスケートの魅力」「氷上の舞踏藝術としてのポテンシャル」は、元来、他の追随を許さないものだったはずだ。稀代の名振付師もアイスダンス出身者が多い。そこに登場したのが、世界を魅了する氷上のダンサー、高橋大輔。彼を強く勧誘したのは、小松原組以前にはリード氏と組んで全日本覇者だったアイスダンサー村元哉中。メディアの注目先行だった昨シーズンとはガラリと変わり、その急速な「進化」ぶりには驚きを通り越す衝撃があった。もともと村元選手はリード選手と組んで、小松原組以上の成績をワールドでおさめているし、実力はお墨付き。課題は高橋選手にあったのだが、なんというか、天才はやはり天才なのだな、そうとしか言えない。かなだいの魅力は、きわめてフェミニンな身体のラインを持ちながら、どこかしら、ひどく「漢」なものをもっている村元選手と、この1年で肉体改造と言えるぐらいの筋肉をまとい、きわめて男性的なボディを手に入れながら、どこかしら、守ってあげたいようなかわいらしさを失わない高橋選手の個性の相乗効果にある。村元選手は、「ソーラン節」の始めでは巫女的な神秘性を強く印象づける。「ラ・バヤデール」の始まりの彼女のポーズは極めてたおやかでうっとりするほど美麗。ところが、演技に入ると、古典的な性差の境界がぼやけてくる。その意味で、このカップルはとても先進的なのだ。対照的なのが「ココ」こと小松原美里/小松原尊組。とてもオーソドックスでアイスダンスの王道をいく演技。フリーの「SAYURI」では、「美里を美しくみせたい」と力強く抱負を語るちょ~ハンサムな夫。アメリカ出身ながら、日本語を話し、さらにルーツを日本古来の伝説にまでさかのぼることのできる「尊(たける)」という名を選ぶという知性派。おまけに伝統的なアメリカの好青年の典型で、常に前向きで努力を怠らない。メディアの注目が結成2年目のライバルにばかり向く中で、くさりもせずに自分たちの課題を見つけ、1つ1つそれを克服しようと研鑽を積む姿は本当に尊敬に値する。多くの日本の若者にも見習ってほしい。全日本でココ組が着たフリーの紫の衣装は素晴らしく美しかった。演技もNHK杯より確実に良かった。ただ…もう少し…かなだい組を突き放す点をフリーで出せていれば、五輪代表は確実だっただろう。勝ったとは言っても、かなだいとの点差はわずか。昨季のワールドの実績も19位と、やや期待外れだった。といって、かなだいにも今回のRDに見るような不安定さがつきまとう。2人の個性はそれぞれ際立って素晴らしいが、アイスダンスのキモであるエフォートレスな(に見せる)一体感という意味ではココ組には及ばない。選考結果は間もなく発表になるが、日本中が、どちらも応援したい気持ちでいるのではないか。地域猫にご飯を贈る地域猫にたっぷりご飯を贈るネットショッピングをして地域猫活動(TNR活動)を応援する
2021.12.26
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これをやれる日本人女子シングル選手がいるとしたら、それは紀平選手だと思っていた。2018年にそう書いた(こちら)。だが、日本人女子としては初、世界をみわたしても56年ぶりという快挙をなしとげたのは、2018年当時は予想もしていなかった坂本花織選手だった。これには、ロシアの問題も絡んでいる。ロシア女子に対抗すべく3A以上の高難度ジャンプに挑んできた日本人女子選手は、ケガに泣かされてしまった。そういった背景のあるなか、自分の強みをしっかり伸ばしてきた坂本選手が3連覇という偉業を達成したのは、まさに神の配慮と言えそうだ。勝負は時の運ともいうが、自分でコントロールできない世界のことに振り回されることなく、地道に自身の道を究めていくことの大切さを、坂本選手の奇跡的偉業が教えてくれているように思う。ロシア人が坂本選手を見てどうこき下ろすかは想像できる。「私たちの選手が4回転を跳ぶ時代にトリプルアクセルさえない選手が3連覇など悪夢」「女子フィギュアが伊藤みどり以前に戻ってしまった」などなど…だが、坂本選手が長い時間をかけて磨き上げてきた世界は、観る者を幸福にする。スピード感あふれる滑り、ダイナミックなジャンプ。大人の雰囲気。ロシア製女王生産装置の中からベルトコンベヤで流れてくる、選手生命が異様なほど短いロシア女子シングル選手には、求めるべくもない魅力だ。今回の優勝を決めた要素をあえて1つだけあげるとすれば、それは連続ジャンプのセカンドに跳ぶ3Tの強さだろうと思う。これを回転不足なく確実に決められるのは、長きにわたる世界女王の条件とも言える。もちろん、それは単独ジャンプのスピード、幅、高さがあってこそだ。欠点は、やはりルッツ。これまで見逃されることも多かったが、今回のフリーではEがついてしまい、減点になった。テレビでもばっちり後ろから映されて、見ていて思わず「ギャーー」と叫んでしまった。・・・完全にインサイドで跳んでる・・・ う~~・・・ エッジがインに変わってしまう前に跳ぶことができるのだろうか、彼女? それをやろうとすると跳び急ぎになって着氷が乱れてしまいそう。といって、しっかり踏み込めば、今回のようになる。その状態がずっと続いているように見える。同じく3連覇のかかった宇野昌磨は4位という結果に終わったが、これはある程度仕方がないように思う。宇野選手ももうシングル選手としては若くはない。長いフリーで最初の高難度ジャンプで失敗すると、それが尾を引いてしまう。ジャンプ以外にもあれだけ上半身を、そして全身を使って表現するのだから、一言でいえば体力がもたないのだ。だが、宇野選手のショートは「至宝」だった。肩に力の入ったポーズで魅せる選手が多いなが、上半身の無駄な力をいっさい抜いた、それでいてスピード感あふれる滑りには驚かされる。至高の芸術品をひとつひとつ作り上げていくようなアーティスティックな表現は、ただただ息をつめて見つめるしかなくなる。こうした、「スケートとの対話」の見事さは、浅田真央がもっている孤高の表現力に通じるものを感じる。今回のショートはジャンプもきれいに決まった。宇野昌磨、完成形といったところか。これ以上はもう望む必要もないし、これまで日本シングル男子の誰もが成し遂げられなかったワールド2連覇という勲章だけで十分だ。マリニンの優勝は、当然だろうと思う。4アクセルに4ルッツ、4ループまで装備し、3ルッツのあと3Aを跳んでしまう選手に、今、誰が勝てるだろう? 鍵山選手の成長は見ざましく、すんげー4サルコウに加えて、4フリップまで来た。それでも難度ではマリニンには及ばない。プログラムコンポーネンツでは勝っているが、やはり得点の高いジャンプの難度で勝負はついてしまう。マリニンにはフリップを跳んでほしい。4ルッツ2回に3ルッツ1回。それは素晴らしいが、やはりバランスが悪い。これは他の選手にも言えることだが、ルッツとフリップを両方入れる選手が減ってきている。ジャンプの技術を回転数だけではなく、入れる種類の多さで見るようルールを変えるべきだ。以前も書いたが、ボーナスポイントではなく、すべての種類のジャンプを入れなかった場合は「減点」とするのがよいと思う。それも1点とか2点とかではなく、大胆な減点とすべきだ。すべての種類のジャンプを成功させたときのボーナスポイントとなると、なにが「成功」なのかという判断が難しくなる。Wrong Edgeを取られたら、回転不足を取られたら、それは「不成功」なのか、あるいは軽微なら「成功」とみなすのか、試合ごとの判定によって判断も違ってきてしまう。それよりも、ジャンプの偏りに減点するほうが明解だ。
2024.03.25
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手塚プロダクションでチーフアシスタントを務めた福元一義氏。彼の著書『手塚先生、締め切り過ぎてます!』には福元氏自身の手によるカットが掲載されているが、さすがの腕前だ。と、思ったら、彼はプロの漫画家だったことがある。少年画報社で編集者をしていた福元氏だが、もともとイラストを描くのがうまく、手塚番をしていた時も、半分アシスタントのような仕事をして手塚治虫に評価されていた。また、福井英一の急逝にともなって宙に浮いてしまった『赤胴鈴之助』の引継ぎに新人だった武内つなよしを推薦し、ヒットに導いた。こうした実績をあげた編集者時代。それでも、密かに「漫画家になりたい」という夢があり、ずっと習作をしていたのだという。そして、手塚治虫の仕事ぶりを間近に見ていて、ある「勘違い」をしてしまう。(『手塚先生、締め切り過ぎてます!』から福元一義作イラスト)スラスラといともかんたんに描いてる先生を見ていたら、ひょっとするとぼくだって…漫画家・福元はすぐに売れっ子になる。第一作がいきなり大人気となり、翌月には7社から執筆依頼が来た。これを福元は深く考えもせず受けてしまう。だがもちろん、手塚のように速く描けるわけがない。結局、原稿は間に合わず(これを業界用語で「原稿を落とす」と言う)、それ以降、依頼はぱったり途絶える。仕方なくかつて所属していた出版社の温情で、細々と仕事を続けることに。そうやって実績を積んでいくと、また他社からも依頼が来るようになって、講談社から出た『轟名探偵』は、それなりの人気を取ったという。ところが、突如として漫画界に吹き荒れた「悪書追放運動」のあおりを受け、このヒット作が運動のやり玉にあがってしまう。福元にとってショックだったのは、テレビに「悪い漫画の例」として『轟名探偵』の扉絵が大写しになったことだった。さらに、追い打ちをかけるように、夏休みに編集部に見学に来た少年が「轟名探偵は怖いから早くやめてください」と言ったと聞かされた。この件ですっかりモチベーションをなくした福元。子供が生まれて、その将来を心配もしたという。そんな折に、武内つなよしから「マネージャーになってくれないか」と声がかかり、漫画家をやめることに。武内がだんだん仕事を減らしてマネージャーのサポートも要らない状態になったころ、手塚治虫が編集部をとおして「福元氏が作画を手伝ってくれるなら、新連載を引き受けてもいい」と声をかけてくれた。手塚の名前を聞けば、断ることはできない福元氏。新連作とは『マグマ大使』(1965)のこと。こうして彼は天職を見つけた…というわけだ。手塚治虫に憧れて漫画家になる。思ったよりはやく人気が出る。依頼が増えて、原稿を落とす――このパターンにピンときたら、あなたは漫画通だろう。そう、藤子不二雄Aの名作『まんが道』に、同じようなパターンのエピソードがあるのだ。狭い下宿を出て、トキワ荘に移り(この時、手塚治虫が敷金を残してくれたので二人は引っ越すことができたのだ)、急に売れっ子になった藤子不二雄の二人。だが、久しぶりに帰省をしたところ、いきなり「燃え尽き症候群」のようになって漫画が描けなくなってしまう。矢のような催促の電報がくる。なんとか対応しようとする二人。だが、筆は遅々として進まない。そして…まるで終わりのないマラソンに駆り立てられるような「売れっ子漫画家」の人生。延々とトップを走り続ける手塚治虫の超人的なエネルギーが、福元一義の、そして藤子不二雄の大失敗を引き起こしたとは言えないだろうか。だが、藤子不二雄には、トキワ荘の頼もしい先輩・寺田ヒロオがいた。藤子不二雄の原稿が届かないために困り果てた編集部のために、寺田ヒロオは徹夜で別の原稿を描いてくくれたのだという。東京に戻り、寺田の叱責と励ましを受け、手塚治虫からもエールを送られて、藤子不二雄は再起する。その後の二人のとどまることを知らない出世ぶりは、今更ここに書くまでもないだろう。[新品]まんが道[文庫版](1-14巻 全巻) 全巻セット
2024.05.01
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前回のダナン旅行、空港で買った、↓のココナッツクラッカーがとても美味しかった。見た目は、薄焼きせんべい。硬めの歯あたりは、せんべいと同じだが、味はココナッツの風味ふんだんで、噛めば噛むほどにほんのりとした甘さが広がる。それでいてしつこくなく、上品な味。ネット情報によれば、ベトナムではチョコレートやお菓子などは空港の免税店で買うより、町中のスーパーのほうが圧倒的に安いのだという。ラッキーなことに、今回のホーチミン旅行で泊まったホテル、ザ レヴェリー サイゴンは、有名な食品スーパーが入っているラッキープラザの隣りだった。ここにあの美味しかったココナッツクラッカーがあればいいなと行ってみることに。実際にラッキープラザに行ってみると、地上階(日本風に言えば1階)がマーケットのようになっていて、ものすごい客引きにあう。しかも、置いてあるモノは典型的な「安かろう悪かろう」の品や有名ブランドのニセモノ。恐れをなしてさっさとエレベーターで2F(日本風に言えば3階)に向かう。このスーパーは、万引きしたものを入れられるようなハンドバッグ類は、店内に入る前にロッカーに入れるように警備員に指示される。財布だけを持って店内へ。店内では日本語が飛び交っている。つまりお客の大半が日本人。ここまで日本人客が多い店は、今回の旅行ではオーセンティックとこのスーパーだけだった。日本でいえば銀座のど真ん中みたいな場所なので、地元民はあまり来ないのかもしれない。品揃えは豊富。見慣れたものも多いが、見慣れない菓子類や食材も多い。「あんまり得体の知れないものは買えないよなー」と、あっちのほうで日本語の声がする。みんな同じような感想を持つようだ(笑)。ココナッツ菓子コーナーに行くと…あった、あった。上品なグリーンのパッケージ。ベトナムでは、お茶のおともにいただくのだろうか? Mizumizuは、コンデンスミルクなしの、苦めのベトナムコーヒーと一緒に食べるのが好きなのだが。前回ダナンの空港で買ったときは、案外高かった。正確な値段は忘れてしまったが、800円? 900円? うろ覚えだが、そのくらいしたような気がする。ところが…!ラッキープラザのスーパーでは、ひと箱なんとたったの35,000ドン(175円)!!嘘でしょ? ダナンの空港では、「ベトナムにしては結構高いなあ、高級品なのかしらん」と思いながら買ったのに。今回の旅行はあまり移動がないので、大きめのスーツケースを持ってきたMizumizu。さっそく5つまとめ買いをする。スーツケースは空港で預けたので、中のクラッカーが粉々にならないかな、と少し心配したが、案外大丈夫だった。もちろん多少は割れたが、中はこんなふうに2枚ずつ包装されているので、問題なし。ベトナムで買うバラマキ土産に迷ったら、絶対にこれがオススメ。ホーチミンの空港内の免税店にもあるから、飛行機に乗る直前にも買えるが、値段はラッキープラザのスーパーのが安い。日本にはあまり入っていないお菓子で、味も良い。しかも、この味でこの値段は、信じられないと言っていい。嵩張るのが難点だが、空港で買うより町中のスーパーで買うほうがお得。ラッキープラザにお菓子のお土産を買いにいくなら、ぜひともお試しあれ。
2017.05.26
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パリのリヨン駅構内にあるレストラン「ル・トラン・ブルー」。絢爛豪華な内装で有名で、映画『ニキータ』や『Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!』 にも出てくる。「内装は一見の価値ありだが、料理はマズい」が日本での固定評。それでも今回は南仏からパリに戻ってきた夜、ディナーを食べに行ってみた。予約しなくても余裕で入れる。席はいったいいくつあるのか・・・ とにかく広い。お客さんはほとんど外国人観光客で、めかしこんだ人が多い。テーブルとテーブルの距離がやたら狭く、とにかくどんどん客を詰め込むぞという意思を明確に示している。ガラスの向こうはホーム。南仏行きのTGVはここから出る。隣りに座っていたのは、ドイツ人の見るからに上流階級の家族。ここだけ急にヴィスコンティの『ベニスに死す』の時代になったようで、デジカメをパチパチやるのは非常にはばかられた。なので、こっそり写す・・・ といっても隣りのドイツ上流夫人とは目があってしまい、ニッコリとご挨拶。どうせだから話しかければよかったかな・・・ 日本人がドイツ語を話すと、案外めずらしがられて話が弾むのだが(話が弾みだすと困る・・・ ドイツ語はかなり忘れているので・笑)。連れているローティーンのお嬢様は2人は超ウルトラ美形で、なんとまあモノを食うというのに、薄手で大判のスカーフを胸のところにきれいにドレープをつけて巻いている。スンゲー、お洒落・・・ よっぽど綺麗に食べる自信がなくては無理だ。おまけにドイツ上流夫人もその旦那さんも、ウエイター相手には、ちゃんとフランス語を話している。と、通路のほうを見ると、これまたモダンなドレスに身を包んだスタイル抜群の黒人女性がさっそうと(たぶんトイレに)歩いていった。南仏はバカンス客が多かったので、ミシュランの星つきレストランといえど、案外カジュアルな服装の人が多かったのだが、さすが花の都・パリ。ここまで気合を入れてめかしこんだおのぼりさんが集結するレストランがあるとは・・・しかし、天井の装飾のゴテゴテぶりは、聞きしに勝る。フレスコ画もギリシア神話の女神みたいなモチーフから、旅情を誘う(?)南仏の海から、本当にごちゃごちゃのめちゃくちゃ・・・ 壁も天井も柱も装飾しつくされている。空白が怖いんですかね? ここまで来ると一種の神経症だ。とは言え、思ったより装飾品は埃っぽく、壁の絵は色もくすんで、レストランの大空間は暗かった。ウェブサイトでは、キンキラ金のイメージなのに、案外ゴールド感がないのだ。イメージ写真とずいぶん違う。バリ島のホテル並みだ。これじゃ一種のダマシでは?しかし、なんざんしょ、このド派手なシャンデリアは・・・ 隅々まで行き届いた貴族風成金趣味に呆れてしまった。料理は期待しないほうがいいと言われていたので、ハズレの少なそうなものを頼むことに。まずは、イタリアンなら何とか食べられるであろうMizumizu母のためにフェットチーネ。テーブルの上に置かれたとたんに食欲減退。これまでに見た幾多のパスタ料理の盛り付けの中でも栄えあるワーストワンを進呈したい。Mizumizu母は、一口食べて顔をしかめる。「味がない」パリのパスタ料理は味をつけないのか?? 塩をかけたら、多少味がついた(塩の)。しかも、驚いたことに、このフェットチーネはちゃんと手打ち(つまり自家製)のようなのだ。自家製パスタでここまでマズイものを作れるとは・・・ さすがフランス人、芸術的です。同じくハズレが少ないであろう、ホワイトアスパラを頼んだMizumizuだったのだが・・・これまた運ばれてきたとたん、「失敗」の二文字が目の前に浮かんだ。茹ですぎなのか、単に古いのか、アスパラに張りがなく、色も悪い。さらにマヨネーズ風ソースが最悪。「味がない」またも、塩をかけて塩味で食べるMizumizu。これならキューピーマヨネーズのほうが断然ウマイわ。ちゃんと自家製で作ってるフレッシュなマヨネーズに見えるのだが、ここまでボンヤリした味って、シェフは味覚異常なのか?これまた生涯最悪のホワイトアスパラの称号を進呈。東京のツム・アインホルンのホワイトアスパラは、これに比べるとなんと美味しいことか。ソースの深く上品な味わいは職人技だ。隣のドイツ上流家族もホワイトアスパラを食べていた。これじゃ、ドイツで食べたほうがマシなんじゃ・・・?もうこれ以上、ここの料理は口に入れたくないので、「もう終わり? カフェは?」と、なんとか飲み物をオーダーさせようとするギャルソンを押し切って、支払いを終え、さっさと退場した。しかし、不思議なことに、ウエイターの態度は悪くなかったのだ。これだけ食べただけで、カードで回ってきた請求額は6,600円。たけーよ。「値段は高めなのでコースがオトク」などと宣伝しているサイトも多いが、パスタとアスパラでここまで芸術的にマズイんじゃ、コースにしたらどうなるのか想像もしたくない。バーがあるので、コーヒー一杯にしておいたほうが無難です。バーといっても、広いレストラン内のわりあい中央にカウンターテーブルがあってそこで飲むので、内装は十分に堪能できるはず。しかし、ご自慢の内装も・・・ もうちょっと掃除したらどうなんだろう。ここまでゴテゴテじゃ、埃を払うのも難しいのか。お客に日本人がいないのも頷ける。こういうおのぼりさん相手で高いばかりの店をありがたがる時代は日本では終わっている。客にドイツ人・アメリカ人が多いというのも・・・この味じゃさもありなん。『Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!』 では、ここでMr.ビーンが口に入れた生牡蠣を吐き出したりする、見ようによっては相当に失礼な場面がある。魚介が苦手なのに、フランス語がよくわからず頼んでしまい困ったので、食べるふりをしてこっそり口から出して捨てている・・・ というふうに映画を見たときは解釈したのだが、もしかしてアレ、このレストランの料理が食えんほどマズいってことを暗に皮肉ったのか? レストランの外に出たときは、そんな気さえしてきたのだった。[枚数限定]Mr.ビーン カンヌで大迷惑?!/ローワン・アトキンソン[DVD]【返品種別A】 【中古】DVD ニキータ/アクション
2010.06.21
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観光客の心をわしづかみにするケチャック・ダンス。その形式を現在見るように整えたのが、画家であり、音楽家であり、演出家でもあったヴァルター・シュピースだ。その生涯については、ウィキペディアなど読んでいただくとして・・・(画像は過去にBS-TBSで放映されたシュピースの紹介番組より)自身が画家でもあったシュピースの作品を見ると、素朴派に神秘主義が混ざったような独特な作風が目を惹く。こちらなどは、暗闇の中から精霊がやってきて、現地の人々を驚かせ、怯えさせている。これがシュピースが見た「神秘の島、バリ」の夜の風景だったのだろう。暗闇に浮かぶ精霊は女性のふくよかな肉体をもっているが、その姿は実に禍々しい。異様な迫力で観る者に迫ってくる。この精霊の姿には、俵屋宗達の「風神雷神図」の影響もあるように思える。ヨーロッパの教養人であり、かつ東洋に興味を抱いていたシュピースが日本の中世の名画を知っていたとしても不思議はない。(風神雷神図、一部)シュピースはバリの絵画や舞踏芸術の素晴らしさを西洋世界に紹介する役割を果たした。その意味で、「バリ芸術の父」と称えられている。だが、そのことがバリ島の観光地化に拍車をかける。ウブドに住んでいたシュピースだが、急速な観光地化を嫌い、ウブド近郊のイサという田舎に引っ越したという。こちらがイサのシュピースの家からの眺め・・・絶景。だが、ここは現在スイス人の個人所有になっており、見学はできない。バリ島の評判を高めることに大いに貢献したシュピースだが、1900年代前半にすでに愛する島の観光地化を嘆いたとするなら、今のバリ島を見たら何と言うだろう。絶句してしまうかもしれない。テレビでバリ島の観光業従事者が、「最近は日本人観光客の数が減った」と話しているのをたまたま聞いた。オーストラリア人に比べると、日本人は気前がいいそうだ。それでも最近、数が減ってきてしまったので、「もっと1人ひとりにお金を使ってもらえるようにしたい」と、かなりストレートなことを真面目に言っていて、ややガックリきてしまった。公共交通機関が発達しておらず、初心者はガイド(もしくはガイド役を務めるタクシードライバー)なしで移動するのが難しい島だから、どうしても彼ら馴染みの土産店に連れて行かれることになる。確かにいいものもあるが、売り込みが総じて激しく、かなり疲れてしまう。すべての店がそうではないが、工芸品を売る店などは、すぐに値引きをもちだして、「安くするから買って」という態度だ。ノルマでもあるのか、売り込みに必死な態度は気の毒にも思うが、心のどこかで、「それは違うでしょう」と声がする。日本人はもう安いものには飽きている。安いだけのものならどこにだってあるのだ。バリでなくては買えないもの、そして質のいいものを買いたい。だが、工芸品のレベルは、明らかにチェンマイのが高い。手作りなのだろうが、観光客相手の大量生産臭がして、作品から職人の心意気が伝わってこない。バリ絵画もパリのモンマルトルの観光客相手の絵売りのように商業化・パターン化してしまっている。それでも、シュピースが愛した神秘性は、緑したたる島の風土に、雨のあとにうっすらと流れてくる霧のような湿気に、民族衣装をまとって歩く現地の人々の後姿に、どことなく宿っているようにも思った。日本が変わってしまってもやはり日本であるように、観光地化されても、やはり神々の島・バリはバリなのだろう。
2011.07.18
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手塚治虫著『ぼくはマンガ家』によれば、彼は「誇大妄想的突発性錯乱症」なのだそうだ。それが事実であるということを、めちゃくちゃ汚い絵これまでにない個性的な作画で、あますところなくギャグにした不朽の迷作――それが『ブラック・ジャック創作秘話』だ。【中古】ブラック・ジャック創作秘話(2)-手塚治虫の仕事場から- / 吉本浩二これはホントに面白い。手塚漫画より手塚治虫のが面白いんじゃないかと思えるくらい、面白い。手塚治虫ファンじゃなくても面白い。まだ読んでない不幸な人は、すぐに読むべき。さまざまある手塚先生「錯乱の場」での中でも、もっとも意味不明で、Mizumizuイチオシのシーンは、これ。制作進行担当社員の河井氏に、「もう待てない」と言われて突発性錯乱症スイッチが入る手塚先生。社長なのに、「やめます!」と叫んで、机の下に逃げ込む。しかも頭だけ。行動が猫。ちなみに、この河井氏が(旧)虫プロを辞めたあとのエピソードは、手塚治虫がどれほど思いやりのある人間だったかを端的に示す例。そして、その厚意に応えて、河井氏が手塚未亡人のために取った行動も、素晴らしい。それについてはまた次のエントリーで。誇大妄想入った突発性錯乱の場は、こちら。冷静になったときの手塚先生の弁は、「編集の方から野放しにされたら、半分の作品も生まれなかったですよ」。で、「自由にしてくれ」と言われて、「分かりました!」と野放しにした編集者の原稿は、結局3回連続で間に合わず、その後その編集者が会社を辞めたと聞いて…自分のせいだと思ったとたん、怒涛の責任転嫁…言うことやることメチャクチャだ(苦笑)。ちなみに、なのだが、『神様の伴走者:手塚番1+2』に、その編集者とおぼしき人物のインタビューがあり、本人は「自分が会社を辞めたのは手塚さんのせいではない」と話している。もともとやりたかったことが別にあったからだそうで、本人は手塚治虫含めて周囲の人たちが「手塚番をしながら3回も連続で原稿を落としてしまったので、会社を辞めたんだ」と思っていたことも知らなかった。お次は、のちに松本零士となる松本晟少年の証言から。このシーンには、夜中の「メロン」「ケーキ」「スイカ」などのバリエーションあり。テレビのドラマでも採り上げられて、かなり有名になっているエピソード。さらに…完全に少しイカれたおっさん…手塚治虫「正史」とも言える『手塚治虫物語』では…誇大妄想的突発性錯乱症のコの字もモの字もサの字もなく、仕事にひたすら邁進する手塚像が描かれ…藤子不二雄Aの『まんが道』で、神になったというのに…『ブラック・ジャック創作秘話』では…と、言われて編集者が慌てて手塚先生愛用のユニの2Bを買ってくると…こんな人だとバラされましたとさ。いずれは歴史上の人物として、その一生が映像化もされるであろう偉人・手塚治虫。その際は「正史」に描かれた軌跡だけでなく、こういうぶっ飛びエピソードも入れてほしい。うしおそうじの『手塚治虫とボク』にも、若き日の手塚のぶっ飛びエピソード「手塚治虫の遺言」編もある。このブログでは敢えて紹介しなかったのだが、手塚という人が、スイッチ入ったらいかに「やめられない止まらない」人だったか分かるエピソードだ。ああいった秘話(?)も、漏れなく入れてほしいもの。
2024.04.29
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今年からますます厳しくなった回転不足によるダウングレード判定。解説者は、よく3回転ジャンプのあとに、「回転不足判定になると、ダウングレードされ、2回転ジャンプの失敗だと見なされてしまいますので」と説明している。これがどんなに理屈に合わず、かつジャンプの点数をゆがめているか、同選手での絶好の例があるのでご説明しよう。キム・ヨナ選手のショートプログラムでのトリプルルッツ。2008年世界選手権でキム選手はトリプルルッツでコケた。You TUBEでの動画は以下。http://jp.youtube.com/watch?v=I2JWBL5WWCU&NR=1連続ジャンプのあとに、転倒しているのがトリプルルッツだ。このとき、キム選手は回転不足で降りてきたと見なされなかったので、基礎点はダウングレードされなかった。3回転ジャンプの失敗と認められたわけだ。確かに、着氷時のエッジを見ると、きちんと回りきって降りてきているようにみえる。だから判定自体は別に問題ではない。問題は点数だ。このときのトリプルルッツの点数は3Lz (基礎点6点)(GOEは全ジャッジが-3)(差し引き後の得点3点)。ここから最後に「転倒による-1」が引かれる。よくアナウンサーは「転倒がありましたので、-1の減点があります」と言っているが、あれはあくまで最後に引かれる点数のことであって、その前にGOEで3点引かれているのだ。この3点は3回転ジャンプと認められればそのまま反映され、2回転ジャンプにダウングレードされれば、規定にそって何割掛けかに調整される。あまり関係のないことまで書くとわかりにくくなるが、要はキム選手の2008年の世界選手権でのショートプログラムでの転倒ルッツは、最終的に2点になったということだ。さて、では先日の中国大会のショートプログラムでは、どうなっただろう?例によってキム選手のトリプルルッツは連続ジャンプのあと。You TUBEでの動画はISUからの抗議で消されてしまったので、以下の動画サイトで。http://figure.videopalace.net/2008/11/07/kim-yu-na-7.html着氷してから「グルッ」と弧を描くように回ってしまっているカンジになっているのがわかりますか? これが「回転不足のルッツジャンプ」の典型的な着氷。ただし、一応降りたあとはきちんと流れて、両手を挙げるポーズまで入れて、それほど悪いジャンプには見えないはずだ。では、得点は?ここで「回転不足判定によるダウングレード」がからんでくる。(<)はダウングレードされて基礎点が3回転のものから2回転のものになったことを意味する。3Lz (<)(基礎点1.9点)(GOEは-2が3人、-1が5人、0が1人)(差し引き後の得点1.48点)。転倒ジャンプであるにもかかわらず、2点を得たのが昨シーズンの世界選手権ショート。見た目そこそこきれいに決めた回転が足りないと判断されたために、1.48点にしかならなかったのが、中国大会のショート。つまり、転倒したジャンプのほうが、素人目には「ふつうに降りたように見える」であろう回転不足ジャンプより点数が高いのだ!こんな採点なのに、「ジャンプの質まで(GOEで)評価されますからね~」などと、よくまあ言えたものだと思う。確かに評価はされている。だがそれは、「トンチンカンな評価」なのだ。先日のエントリーでも示したように、安藤選手の中国大会でのフリップはショートよりフリーのほうが断然よかった。伊藤みどりもそう明言した(してしまったというべきか)。誰も目にも明らかに出来がよかったにもかかわらず、フリーのフリップも回転不足判定にされてしまったので、ショートと同じ点数にしかならなかったのだ。これで「正しく質が評価されている」と強弁する人がいるなら、お目にかかりたいものだ。諸悪の根源はこの「回転不足によるダウングレード」だ。ルッツの場合、トリプルだと基礎点が6点、ダブルだと1.9点。こんなに極端に違ってきてしまう。回転不足でダウングレードは、理論的にそもそもおかしい。回転が不足しているとは言っても3回転の場合は、2回転以上回っている。それをムリヤリ「2回転ジャンプの失敗」だと見なすことにしたのだ。3回転の回転不足は2回転ジャンプにオーバーターンがついたものだから、2回転の失敗、などという寝言にもならない屁理屈をつけて。まさに「無理が通れば道理がひっこむ」世界だ。このムリヤリなルールのために、判定にやたらと時間がかかり、点数が出るまでひどく待たされることがある。判定そのものも案外試合によってバラバラだ。キム選手はアメリカ大会でのショートの連続ジャンプのセカンドジャンプは、回転不足気味で降りてきた。You tubeでの動画はこちら(wrong edge判定も回転不足判定もなし)。http://jp.youtube.com/watch?v=3EkHmj8KAmc&feature=relatedこれをアップした人は、アメリカ大会では取られなかったフリップのwrong edgeを疑っているようだが、この角度では確かにややアウトに入ってしまったようにも見える。ただテレビで正面から撮ったものを見た印象では、Mizumizuの目にはインからフラットに戻り、アウトに入る直前に踏み切ったように見えた。それよりも、セカンドジャンプの回転不足が気になる。回転不足には(一応の)基準があって、ちょっとだけならOKになるから、キム選手のセカンドジャンプはセーフだと判定されたのだろう。ただ、どの方向から撮るかによっても違って見えるくらい、わかりにくい問題だというのは確かだ。このときは、wrong edgeも回転不足もどちらも判定されず、GOEで加点までされて、大きな点を稼いだ。このように判定に信頼がおけないから、You TUBEで次々に動画がアップされる。ISUは著作権違反でさかんにテレビで警告を流しているが、それならば、みずからアーカイブを作るなりして、動画を公開したらどうか。「やってることがおかしい」と素人が気づいたからこうなったのだ。判定が難しい以上、それに大きな点数を委ねるのは適当ではない。だが、現状では、「回転不足判定」されると、苛烈に減点され、転倒ジャンプ以上の低得点になることすらあるのだ。これがおかしいと思わない人は、マトモではない。最初から転倒ジャンプは0点にすればいいのだ。それを回転不足判定、GOEでの-3、そのあとでの-1――目くらましのような複雑な手続きを入れるからこんなおかしなことになる。複雑にわかりにくくしたルールだが、諸悪の根源はハッキリしている。1 回転不足判定によるダウングレード判定。理屈にも合わず、判定は人によってバラバラ。そのくせ減点される点数は非常に大きい。問題はまだある。「解説者がライブでジャンプの評価ができなくなる」ということだ。安藤選手について、アナウンサーが「ジャンプ以外のところで点がのびませんでした」と言っていたが、確かにキム選手に対してジャンプ以外の要素でも負けているのは確か。だが、本当は、ジャンプ以外のところで点が伸びなかったのではなく、ジャンプで点が取れなかったのだ。伊藤みどりは「今はもう、ジャッジがどう判断するかですよね~」と言っていたが、まさにそのとおり。もちろん、きちんと回って降りてくれば問題ないのだが、女子の場合は回転不足気味になる選手が多い。難しいジャンプを跳べばなおさらだ。回転不足は肉眼ではわからないことも多い。だから、解説でうっかり「決まりました」「これはよかったですね」と言ってしまうのだ。実際にプロの目で見ていいジャンプに見えるものが、実は転倒ジャンプより低い点数しかもらえていない、なんとことが実際に横行してるのだ。回転不足を判定するなというのではない。回転不足は不完全なジャンプであり、減点はすべきだ。だが、ダウングレードしてそこからまた減点するのは、いくらなんでもやりすぎた。転倒ジャンプより回転不足ジャンプのが点が低くなることがあるなど、いったいぜんたいどこの誰が想像するだろう?2 3回転ジャンプに対するGOEGOEは「エレメンツの質を評価する」というお題目で導入された、-3から+3までの加点と減点。導入の目的自体は正しい。だが、3回転ジャンプのみに、ランダム抽出したあとの平均点がそのまま反映されるため、自由裁量の部分を最大限利用して、贔屓の選手にわざと有利な点数をつけるジャッジの厚顔ぶりが横行している。自国の選手に高い点をつけ、ライバル選手に低い点をつけるというのは旧採点システムでも行われていた。だが、誰が高い点をつけ、誰が低い点をつけたのか、すべてあからさまになるために、極端なことはできなかった。ところが新採点システムでは、よほど入念にチェックしないとわからない。たとえば回転不足やwrong edge判定がされたにもかかわらず、GOEで厚顔にも減点しないジャッジがいる。キム選手はアメリカ大会のショートでダブルアクセルでお手つきしたが、これも減点しないジャッジがいた。「質」を評価する、といいながら、事実上勝たせたい選手に、できるかぎり加点を与え、負けさせたい選手にことさら加点しない(あるいはちょっとしたことで厳しく減点する)といった「カラスの勝手でしょ」点数になりさがっているのだ。GOEをなくせといっているのではない。もともとフィギュアの審判にはこうした傾向はつきものだ。だから、ジャッジの自由裁量の部分をできるだけ少なくすることが肝要なのだ。不正ジャッジ問題で、客観的な「基礎点」というルールを設けながら、GOEという抜け道を作り、不透明な点数を出すことを助長しているのだ。GOE自体は否定しないが、3回転ジャンプに対するGOEはそのまま反映させるのではなく、他のエレメンツと同様、何割掛けかに抑えるべきだ。それだけで、極端な点数の差が出て、観客がアゼン、ボーゼンとするのを防ぐことができるし、不正なジャッジをする人間がいても、その影響を小さなものにできる。Wrong edge判定(E判定)が出たらGOEは-1から-3、Wrong edge short判定(!判定)が出たらGOEはジャッジの自由裁量、などという曖昧なルールもあらためるべきだ。あとからあとから継ぎ足すからこういうことになる。E判定は-2、!判定は-1。ただし、GOEは3回転ジャンプに対するものも、何割掛けかに抑える。これで十分ではないか。キム選手のアメリカ大会のフリーのように、!判定が出たのに減点なしでは、公平性が疑われても仕方がない。まるで、みずから判定はアテにならないと言っているようなものだ。判定を「厳密にした」と言いながら、実はさらに不透明にしているのが今年の採点だ。キレる選手が出てくるのも不思議ではない。
2008.11.10
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それはホーチミンに着いた、その日の午後のこと。ホテルでゆっくりしたあと、ちょっとショッピングをして、ホワイトローズを食べにホイアン・クアンへ行くことにした。ホテルのコンシェルジュでホイアン・クアンの予約をしてもらい、「ショップに寄ってから、行くから」と言うと、「タクシーの手配はショップで頼むといいです」とのアドバイス。そうするつもりだと答えて、ホテルを出発。The House of Saigonという雑貨のセレクトショップへ。タクシーでホテルから40,000ドン(200円)ぐらいだった。The House of Saigonは思ったより狭く、上階にはカフェもあるという話だったが、なかった。だが、品揃え、質ともになかなか良くて、小物類をちょこちょこと購入。若い女性店員が一生懸命対応してくれたのも、好印象。程よく夕方になってきたので、女性店員にタクシーの手配を頼むと、それまで座ってばかりだったボスと思しきオバさんが出っ張ってきて、どこへ行くのかと聞いてくる。ホイアン・クアンだと住所と電話番号を書いたメモを見せると、「私の家の近く。歩ける」などと言い出す。歩ける距離だということは分かっているけれども、Mizumizu母は足の状態があまり良くないし、気温も30度越えでとても暑い。タクシーで行きたいと主張すると、「book(予約)してあげる」と、どこやらへ電話をかけ始めた。そして、「フィフティ・ドン(50,000ドン)」だと言う。このオバさん、ずっと座ってばかりだが、声はデカくて押しが強そう。若い女性をアゴで使っている雰囲気プンプン。事前に値段を言うなんて、ちょっと変だなと思いつつ、まあそのくらいなら別に構わないので、一応、「USドルじゃなくて、ベトナム・ドンね?」と確認して、手配を頼む。で…結構、待たされた。The House of Saigonは賑やかな通りに面しているので、別に自分でタクシーを拾っても問題なさそうだったが、初日だったし、ホテルのコンシェルジュのアドバイスもあったし、店の人も手配してくれると言うし、雑貨類を見つつ、待ちましたよ。タクシーが来たと言われて、店員さんたちに誘導され、乗り込むと、なんとメーターがない(笑)。ベトナムのタクシーはほぼナビ搭載なのだが、ナビもなく、スマホをくっつけてナビがわりにしてる。明らかに白タクじゃん!乗る直前に、若い女性店員に、「フィフティ・ドン?」と念を押すと、「About…」と微妙な答え。座ってばかりだったオバさんが、店の外まで出っ張ってきて、ドライバーの男性に何やら道順を説明している。明らかに…親族かよ、アンタら。しかし、別に危険な雰囲気はないし、50,000ドン(250円)の固定レート(あるいはそれよりちょっと上乗せされたにしても、70,000ドンはいかないだろうし)で連れて行ってくれるなら別にいいやと、そのままお任せ。運転は丁寧で、大きな道を順調に進む。ちょっと位置関係を確認しておこう。右側にThe House of Saigonがあり、ホイアン・クアンは左側の赤ポツを黒で囲ったところ。道順はこんな感じ↓で、それほど難しくはない。が!この白タク、大きな通りから左折してしばらく行った、明らかに店の前ではない場所で、突然車を停めてしまったではないか!あとから調べて分かったことだが、その場所はホイアン・クアンから遠くはなかった。大きな通りからU字の通りに入った、そのU字の「底」の、下図で「X」したあたりだった(つまり、あとは道を右に曲がり、最初の角を右に行くだけ)のだが、その時は全然、右も左も分からない。周囲は暗くて、バイクはびゅんびゅん走ってるが、怖い雰囲気だったのだ。白タクの運ちゃんは、いたってお気楽な感じで、なんだかんだMizumizuたちに言うのだが、この人英語が話せないので、こっちには分からない。「近くまで来てるけど、分からなくなっちゃって」ぐらいの雰囲気だ。こっちは、そんなお気楽な気分にはなれない!険しい表情で、「確かめて、ちゃんと連れて行って!」と英語でまくしたてるMizumizuを見て、スマホで電話する運転手。そして、スマホをこちらに渡す。例の声のデカいおばちゃんがスマホの向こうで、「あ~。もう遠くない。歩ける」などと説明を始める。はあっ!?歩きたくないからタクシーを頼んだっちゅーの。勝手に親族に(←と決めつけてるが、事実は不明)お小遣い稼ぎをさせるためにタクシーに仕立てて、目的地に着きもせずに、歩けってどーゆーことよ!ブチ切れて、「私たちは歩けない! タクシードライバーは行き方を知らないじゃないの! とても暗い! 6時半に予約してあるのに! レストランに電話して!」とヒステリックにオバちゃんに叫びまくる。押しの強いオバちゃんも、Mizumizuの勢いには負けたのか(笑)、「ドライバーにかわって」と言うのでスマホを渡す。運ちゃんに何やら説明している様子だが、「分っかんないよー」とでも言ってるふうな運ちゃん。全然クルマを動かす気配はない。こちらもそのまま後部座席で待つ。暗い車内で待ってる時間は、ひどく長く感じた。すると、オバちゃんから連絡が行ったのか、レストランのオーナーの女性が迎えに来てくれた。予約しておいてよかった。実は彼女がレストランのオーナーだと分かったのは、クルマを離れて歩き出してからだ。この時は、通りがかりの親切な女性が助けてくれたのかと思っていた。こんな白タク、冗談じゃないわ!お金を出さずにクルマから脱出するMizumizu。(オーナーの)上品な女性が、運ちゃんから何か言われて、「Money?」と英語でこちらに聞いてくる。完全に頭に来ていたMizumizu、「ショップに言いなさいよ。私たちはレストランにいるから」と英語で言うと、そのまま通訳してくれる(オーナーの)女性。運ちゃんはちょっとねばって、なんだかんだ言っていたが、「あとで」「ショップに聞け」「私たちはレストランにいる」とMizumizuが繰り返し、(オーナーの)女性がベトナム語で通訳すると、厳密に言えば不法となる「臨時のお小遣い稼ぎ」は諦めたようだった。というわけで…白タク、踏み倒し!一度でも来たことがあれば、確かに十分歩ける近さだったから、今回のように怒りに任せて踏み倒しまではしなかったかもしれないが、右も左も分からない状態で、暗い道に停められ、感じた不安感は半端ではなかった。救いは、運転手が明らかに一般の小市民で、悪い人物に見えなかったこと。The House of Saigonもぼったくりのあやしい店ではなかったことだ。しかし、タクシーを道で拾うのは危険だからと、店に頼んだのに、この始末…。あの座ってばかりの典型的オバさんときたら… 自分の家の近くだからって身内にお小遣い稼ぎさせようなんて考えず、素直に正規のタクシーを呼んだらいいじゃないの、まったく。というわけで、The House of Saigonでタクシーを手配するときは、「ビナサン」と指定すると良いかもしれない。ビナサンが完全に安全とは限らないが…何度も繰り返すが、ホーチミンのタクシーは安い。それに、人間も「ひどいワル」ではない感じだった。ヨーロッパの一部のタクシードライバーのほうがよっぽど悪辣だ。桁さえ間違えて払わなければ、それほど心配することはないと思う。
2017.05.09
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購入者としてのメルカリユーザーは、買う前に出品者の「評価」をチェックする。品物を買った人が、受け取った時に「受取評価」をする仕組みで、これで出品者の姿勢がかなり分かる。メルカリは基本、受取評価は「良い」にマークが入っていて、わざわざ「普通」や「悪い」の評価にはしにくいようになっている。「良い」の数を見て多ければ信頼のおける出品者だと思うし、「普通」や「悪い」の評価でも、どこがどう「普通」なのか「悪い」のか、買い手のコメントを読めば、それが妥当な評価なのか、ある種の悪意を持った評価なのかも分かる。「悪い」の評価は、大雑把に言うと2つの原因に大きく分けられる。1つは、梱包のずさんさ。もう1つは品物の(出品側の)過大評価。「目立った傷や汚れなし」と言いながら、受け取ったら案外汚れていたとか、「新品」と言いながら、明らかに古いものだったり。買い手としてのMizumizuは、当然「悪い」の評価が多い出品者は避ける。そのせいか、買い手の立場で、これまでに大きなトラブルはない。強いて言えば、写真ほど現物は良くはなかった、という程度のことだが、これは通販でモノを買う場合は、ありがちなことなので、文句をつけるほどのことではない。逆に、あまりに丁寧に梱包しすぎていて、「ここまでやらんでも…」と思うことのほうが多い。品物も、過大な期待をしていないせいか、値段から考えれば満足いくものがほとんど。みな、律儀だなぁと思う。それはそのまま一般的な日本人の民度の高さを反映しているかもしれない。ただ、いろいろな出品者に対する評価とそのコメントを見ていると、確かにずさんな出品者や詐欺まがいの出品者もいるようでは、ある。「品物が割れていた。もっとしっかり梱包してほしい」とか、「(ブランドの)正規品と言われたが、違った」とか。最近、報道で聞くことが多い、「盗品をメルカリで売りさばいていた」という話も、「あるだろうな」とは思う。不用品を売る場合は、自分が過去に買ったものなら、原価はゼロではない。時間が経てば劣化するからさらに価値は下がる。だから、自分で買ったものを処分するのは、あくまで「処分」であって儲からないが、盗んだものなら、ピカピカの新品だ。安く売っても、原価がタダだから、丸儲け。本来なら事務局がもっと目を光らせるべきなのだろうが、基本的にメルカリは「個人の自由に丸投げ」体質で、こうした反社会的行為に対しても感度が低いようだ。メルカリという自由度の高い巨大マーケットの出現が、万引きを助長する側面は、確かにあるだろうと思う。だが、あくまで普通に使っているユーザーとしての感想を言えば、ちゃんとしてる人が多いな、ということだ。購入すれば律儀にお礼コメント、メッセージを書けば律儀な返信、受け取ってみれば律儀な梱包。「悪い」評価をもらわないように、みなそれなりに気を使っている感じだ。ネットオークションもそうだが、あまり自分が詳しくないモノには手を出さないほうがいい。その原則を守って買っている限りは便利なマーケットだ。「民度が低すぎる」「盗品があふれている」といった過剰にネガティブな決めつけ意見は、利益が絡む――つまり、メルカリの成長で迷惑をこうむる業者が絡む、キャンペーンかもしれない。もちろん、個人の率直な意見かもしれないが、ネット上での他人の意見は、常に話半分で聞いたほうがいい。別にメルカリ利用を勧める気はないが、それほど信用のおけない人ばかりではない、ということだ。そうでなければ7000万人もダウンロードしないだろう。売り手への信頼感が醸成されなければCtoCマーケットは成り立たないし、大きくもならない。むしろメルカリの成長は、一般の日本人の民度の「高さ」に支えられている、というのがMizumizuの意見だ。
2018.05.04
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橋本一郎『鉄腕アトムの歌が聞こえる』という書籍があるが、著者はYou TUBE動画も開設して、手塚治虫とその時代について様々な証言を行っている。鉄腕アトムの歌が聞こえる ~手塚治虫とその時代~【電子書籍】[ 橋本一郎 ]その中に手塚治虫が率いていた(旧)虫プロのアニメーターの高待遇ぶりを語った動画がある。https://www.youtube.com/watch?v=dwvTatm6Qk88分17秒ぐらいから。(旧)虫プロのアニメーターは凄い勢いだった。東映動画から金に糸目をつけずに雇ってきたうえに、時間外が青天井だったため、とてつもない収入があった。自宅を(都内に)次々新築していき<Mizumizu注:虫プロで3年働くと都内に家が買えたという話もある>、虫プロの駐車場には高級車がずらりと並んでいた。<以上、発言をまとめたもの>これはなんといっても、『鉄腕アトム』の大ヒットとそれに伴うマーチャンダイジングの急拡大がもたらしたもの。 手塚治虫自身『ぼくはマンガ家』(1969年)というエッセイで、次のように書いている。<引用>「アトム」がそれほど話題にならなければ、類似作品も作られなかったろう。「アトム」が儲かるとわかるとスポンサーはどんなに大金を積んでも、どこかにテレビ漫画を作らせようと躍起になった。アニメーターたちの引き抜き合戦が始まり、アニメーターの報酬は、うなぎ登りに上がった。高校を出たか出ないかの若い者が 月々何十万もサラリーを稼ぎ<Mizumizu注:上掲の橋本氏の朝日ソノラマでの月給は、虫プロ全盛の時代に2万弱だったという>、マイカーを乗り回すといった狂った状態になった。<引用終わり>つまり、手塚治虫の『鉄腕アトム』がもたらしたのは、アニメーターバブルだったのだ。安い給料で奴隷労働させたなんて、デマもいいところ。手塚治虫が生きていれば、こんなデマはまかり通るはずがない。丹念な取材に定評があり、『手塚治虫とトキワ荘』の著者でもある中川右介は、以下のように総括している。https://gendai.media/articles/-/75170?page=4<引用>アトムを真似できなかった制作会社『鉄腕アトム』の放映開始は1963年だが、早くもこの年の秋に、3本の子供向けTVアニメが、制作・放映される。虫プロは『鉄腕アトム』を週に1本製作するため、技術面でさまざまな技法を編み出した。それは極力、絵を「動かさない」という本末転倒したもの、ようするに、「手抜き」なのだが、そのおかげで、日本のアニメは「ストーリー重視」になった。この手法はすぐに真似され、1963年秋からTCJ(現・エイケン)の『鉄人28号』『エイトマン』、東映動画の『狼少年ケン』が放映された。「アニメが儲からない」のは、虫プロではなく、この2社のせいである。TCJはテレビコマーシャルの制作会社で、当時のテレビCFにはアニメを使うものが多かったので、アニメ部門があった。『鉄腕アトム』の成功を見て、電通がTCJに発注したのが『鉄人28号』で、TBSが発注したのが『エイトマン』だった。TCJは虫プロと異なり、電通やTBSの下請けとして、安い価格で受注したのだ。このとき、利益の出る価格で受注していればいいのに、コマーシャルで儲けていたので、赤字覚悟で受注した。『鉄人28号』はTCJもアニメの著作権が持てたので、マーチャンダイジング収入があったが、『エイトマン』のアニメの権利はTBSと原作者の平井和正と桑田次郎にしかないので、キャラクター商品が売れてもTCJの収入にならない。『狼少年ケン』はNET(現・テレビ朝日)が放映した。NETは当時は東映の子会社で、東映社長の大川博がNETの社長だ。東映動画も、もちろん東映の子会社である。東映はNETに対し、「東映動画に適切な製作費を払うこと」と指示できる立場にあったが、そうしなかった。それでも東映動画は『狼少年ケン』の著作権は保持していたので、キャラクターのマーチャンダイジング収入は得た。テレビ局と広告代理店は、アニメの利益がキャラクター商品にあると分かると、その権利を得て、一度得ると手放さない。その結果、制作会社は低予算を押し付けられたあげく、著作権も持てず、経営は厳しくなり、社員の給料が安くなる構造が生まれる。これは、別に手塚治虫のせいではないのだ。さらに、東映動画はTVアニメに乗り出すと人員を増やしたが、今度は人件費が経営を圧迫して人員整理をし、労働争議になり、ますます正社員は採用しなくなり、下請け、孫請、フリーランスを使うようになっていく。その過程では、腕のいいアニメーターは正社員だった頃よりも収入は上がった。<引用終わり>東映動画のやり方は、実にエグい。だが、人員整理(つまりクビ切り)をして、正社員ではなく下請けにやらせるという構図は、なにもアニメ業界に限ったことではないし、そうやって東映動画は生き残ったのだ。 一方の虫プロは、テレビ局からの受注減、劇場公開長編アニメ映画の赤字、それに労働争議も重なって倒産した。 アニメーターバブルが弾けた時、多くのアニメーターは収入を減らしただろうが、才能のある一握りだけは、大きな組織を離れることで、逆に収入が上がる。これもよくある話だ。そして、手塚治虫が労働者であるアニメーターに、いかに「甘かった」か。それは、うしおそうじの『手塚治虫とボク』(草思社)に端的な例が書かれている。<以下、次のエントリーで>
2024.04.12
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5月8日に放送されたNHKのクローズアップ現代『”AI兵器”が戦場に』。この内容を起こした記事"AI兵器"が戦場に 自律型致死兵器システム開発の現状は - NHK クローズアップ現代 全記録を読んですぐに脳裏に浮かんだのが、手塚治虫の『火の鳥 未来編』。ここでは人類は5か所の地下都市でのみ生きながらえている。支配者として君臨するのはコンピュータ。そして、ささいなコンピュータ同士の対立から2つの都市が戦争になる。「計算」に基づいたコンピュータの判断は絶対で、その命令には人は誰も逆らえないのだ。そして、戦争は2つの都市のみで起こったはずなのに、残りの3つの都市もなぜか同時に爆発して消えてしまう。コンピュータがどういう「計算」をしてそうなったのかは分からない。一瞬の、あまりにあっけない人類の滅亡だ。『”AI兵器”が戦場に』では、以下のように問題を提起している。AIの軍事利用が急速に進み、これまでの概念を覆す兵器が次々登場しています。実戦への導入も始まり、ロシアを相手に劣勢のウクライナは戦局打開のために国を挙げてAI兵器の開発を進めます。イスラエルのガザ地区への攻撃でもAIシステムが利用され、民間人の犠牲者増加につながっている可能性も。人間が関与せず攻撃まで遂行する“究極のAI兵器”の誕生も現実味を帯びています。戦場でいま何が?開発に歯止めはかけられるのか?”究極のAI兵器”とは100%自律的に動作する殺戮機械のこと。人間が判断し、指示する必要がなくなり、「正確な計算」に基づき「効率的・効果的」に敵を倒すことができるようになるというのだ。ヤレヤレ…実に不愉快な話。いや、不愉快ではすまない、ぞっとする話だ。元米国防総省 AIの軍事利用政策に携わる ポール・シャーレ氏「AIシステムは、より多くの任務を果たすことができます。その性能は時間とともに向上しています。機械は民間の犠牲を考慮せず、単に計算をして攻撃を許可・実行してしまいます。結果、人々により多くの殺戮(さつりく)や苦しみをもたらしかねません。人間が命の重さを考えることができなくなれば、向かうのは暗黒の未来です」(以上、『クローズアップ現代』の記事から引用)手塚治虫が常に世に問うてきた「命の重さ」。それを考えることができなくなる、暗黒の未来が来るというのだ。規制を求める声は、当然ある。しかし、かつての核兵器開発競争と同じく、AI兵器の開発競争も、止めることなどできない。ウクライナ デジタル変革担当 アレックス・ボルニャコフ次官「技術革新は私たちが生き残る手段です。ロシアは躊躇(ちゅうちょ)することなく、より致命的な兵器の開発に取り組んでいるのです。いつ、この開発競争が終わるか分かりません。総力戦に向かうことが、人類にとって正しい道だとも思っていません。それでも開発を続けねばなりません。さもなくば、彼らが優位に立ってしまうからです」(『クローズアップ現代』の記事より)「人類にとって正しい道だと思わない。でも、やらなければ敵が先に開発を進め、優位に立ってしまう」――この理屈、この恐怖。それが人類を破滅へと導く。『火の鳥 未来編』が描くのは、完全自律型AI兵器のさらに先に待ち受ける、完璧(だと人間が思い込んでいる)コンピュータが支配する世界なのだ。まさに手塚治虫の「予言」どおりに、世界は進んでいる。NHKは昨夜(2024年6月11日)Eテレでアニメ『火の鳥 未来編』のワンシーンが流れる番組を再放送していた。「なぜ機械のいうことなど聞いたのだ! なぜ人間が自分の頭で判断しなかったのだ」そう誰かが叫ぶのは、遠い未来なのか、あるいはそう遠くない未来なのか。火の鳥(2(未来編)) [ 手塚治虫 ]
2024.06.12
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不朽の名作、『ブラック・ジャック』(手塚治虫)。その中でも屈指の名台詞が、これだ。この写真は六本木で開催された『ブラック・ジャック展』で撮ったもの。展示スペースに入ると、まず目に入ってくる正面の窓に、これがどーんと飾られていた。2024年6月30日に放送されたスペシャルドラマ『ブラック・ジャック』でも、ラストにこのセリフの一部を持ってきていた。原作では、このラストシーンの直前に、Dr. キリコが哄笑するコマがある。それを受けて、ブラック・ジャックが「それでも私は人を治すんだ。自分が生きるために」と叫ぶのだ。最初にこのシーンを見たときは、まるっきり映画のワンシーンのようなドラマチックな構図とインパクトのあるセリフに「へへぇええ」とひれ伏したい気持ちになった。「自分が生きるために」――実に、うまい、うますぎる。ブラック・ジャックの叫びが聞こえないかのように去っていくキリコだが、最近になって、気づいたことがある。キリコの哄笑は、「ヒャーッハハハハ ワァハハハハァ」。生きものは死ぬときには死ぬ。お前のやったことは無駄になったな――表面上はそんな勝利宣言にも思えるが、よくよく目を凝らしてみると、この笑い方、実にわざとらしい。無理に笑っているようにも見える。そして、「ハァ」と笑い終わったあとは、キリコは無言になる。ラストシーンでは、キリコの笑い声はなく、吹きすさぶ風の中にブラック・ジャックの叫びだけがある。去っていくキリコの姿は、見ようによっては、うなだれているようにも見える。実は、キリコはこの時、泣いていたのではないか? 最近、Mizumizuはそんなふうに解釈している。キリコが登場する他の物語を読んでみると、キリコは実は「患者が助かるなら、それにこしたことはない」と思っている、まっとうな医師なのだ。ブラック・ジャックの「奇跡の腕」で、助かったはずの命。それが、突発的な交通事故で失われるという不条理。戦場での地獄を体験したキリコは、まともな神経では受け入れられないような悲劇や悲惨な死をいやというほど見てきたはずだ。例えば…なのだが、助かったと思ったとたんに、突発的な攻撃で死んでしまった兵士もいただろう。キリコは不合理に奪われる命を悼む悲しい気持ちを、下品とも思えるような笑いの中に隠して去っていったのではないか。こんなふうに読者が物語に参加できる、したくなる。それが、手塚治虫作品のもつ醍醐味だと思うのだ。ドラマ『ブラック・ジャック』を見逃した方は、TVerであと少しの間、見ることができるので、どうぞ・https://tver.jp/episodes/epthznpv1fブラック・ジャック ミッシング・ピーシズ [ 手塚 治虫 ]
2024.07.03
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浅田選手が昨季かかえてしまったジャンプの大きな問題とその克服具合を見ると…1) 3Aの確率の悪さ、決めても着氷時にフリーレッグを「こする」こと。→これは克服したと思います。今季3Aが跳べるかどうか、実は心配していたのですが、より高く、より軸が確実になり、安定してきました。別に3Aは、2度入れる必要はないんです。2) セカンドに跳ぶ3回転の回転不足問題→世界選手権のショートの3F+3Loは確かに見事でした。針の穴をとおしたと言っていいですね。しかし、認定されたのは、今季あれ一回。もう危険すぎます。やめるべきだと思います。あの素晴らしく完璧な3Loだって、スローでアップでみたら、着氷時に少しエッジが回っています。あれでダウングレードされたって文句は言えないし、そもそもあんな驚異的な連続ジャンプは続けられないでしょう。ダウングレード判定がある限り、自爆の心配もある3Loは武器ではなく、博打です。浅田選手は、セカンドに3Tをつけることもできます。これを今季まったく試さなかったのは、本当に残念。読者の方からいただいた雑誌記事によれば、タラソワは練習を指示していたようですが、要はきっちり回りきって降りてこれるかなんですね。(現状では)ルッツに3Tをつけられない安藤選手と違い、浅田選手はフリップに3Tをつけられるのですから、こちらを磨いていくべきだと思います。3F+3Tは3A+2Tと基礎点は同じ。難度から言ったら3A+2Tですが、浅田選手の場合は、実は3F+3Tより3A+2Tのほうが回りきって降りてこられる確率が高いのではないでしょうか。しかし、消耗する体力が違いますね。それを最初に教えてくれたのは、伊藤みどり。「3Aを2度入れるのがどんなに大変か」と言っていました。確かに、浅田選手の今季の滑りを見ると、3A+2Tと3Aがいかに体力を消耗するかわかりました。3) ルッツの矯正→実は、これがかなり頭の痛い問題。今シーズン12月までの試合での確率を見ると、実は成功させている試合のが多かったんですね。「さすが浅田真央」と思いました。しかも、ルッツあるいはフリップを矯正すると、フリップまたはルッツにも影響が出るのに、浅田選手のフリップは不動です。でも、今シーズン12月までの試合で成功させたルッツは、ちょっと不思議な跳び方をしていたんです。ショートなので、ステップからになりますが、浅田選手の場合、スピードがグンと落ちる。まるでいったんスピードを止めるような感じになり、浮き足を交差させて「重し」のように使い、踏み切りの足のエッジをアウトにのせる。足を交差させる――まるでループのような跳び方でした。それで、そのとき思ったんですね。多くの、というかほとんどの選手は「自分にとって跳びやすいエッジに入ってしまう前に跳ぼう」として、矯正がうまくいかないのに対し、浅田選手は従来の自分のルッツとはまったく違った跳び方をしてるのではないか、と。そして、それはループの応用ではないか、と。男子のトップ選手、たとえばウィアー選手はフリップがwrong edgeで、今季は徹底的にこれを狙われて苦しみました。最後に3Aの調子まで崩してしまったのは、このエッジ違反に対する執拗な減点に悩んだせいもあるかもしれません。ウィアー選手の場合も、エッジを気にして、「アウトに入る前に踏み切ろうとする」ので、高さが出ず、着氷が乱れるんですね。で、浅田選手は、フリップと並んでループも不動です。セカンドにつけられるぐらいですから単独はまったく問題ありません。ところが、今シーズンの初め、ちょっとだけその不動のループが乱れていたんです。初戦に単独ループ(3Aのところを入れ替え)で失敗している姿を見たときは、凍りました。昨季までは、ほとんど助走なしでも、スパイラルの脚を降ろした直後でも跳べて、しかも失敗皆無の絶対の確率をもっていたループで、真央ちゃんが失敗…練習でも、シーズン最初はプログラムに単独のループを入れていなかった(年が変わってから3Sをはずして3Lo単独を入れました)のに、さかんにループを練習してました。12月までの浅田選手のループ応用のような不思議なルッツは、試合では失敗より成功のほうが多かったのですが、練習ではしばしば、着氷が乱れてました。着氷乱れはジャンプの勢いがなくても、ありすぎても起こりますが、浅田選手のルッツの練習での失敗は、明らかに前者。回りきってることは間違いなかったですが、降りたあとフラッとなってします。跳躍力だけで跳んでるからだと思います。やはりルッツですから、助走のスピードを生かせる跳び方をしたいですね。で、年が明けて、浅田選手はルッツの入り方をまた変えたのではないかと。いったんスピードを止めて、足を交差させるループ応用のような不思議な入り方ではなく、通常のルッツになったように見えました。ところがこれが2度続けて失敗。しかも、スッポ抜け。しかも、最後の最後は「!」マークまでついて、初戦のときと同じくらい悪い失敗になりました。つまり、ルッツ矯正という問題は克服できずに終わったんです。進歩があったのかといわれると、それも結果としては、「ない」と言わざるを得ないかもしれません。浅田選手の今季の連続ジャンプの構成は3F+3Lo 10.53A+2T 9.53F+2Lo+2Lo 8.5です。これに3A(8.2点)がつく。対してキム選手は3F+3T 9.52A+3T 7.53Lz+2T+2Lo 8.8です。これに単独のルッツ(6.6点)がつく。わかりますか? 3A+2T自体は、体力を使うわりには、3F+3Tと基礎点が同じ。3連続ならルッツに2回転を2度つけられるキム選手のジャンプのほうが高い。実は浅田真央、絶対勝利のシナリオを完成させるためには、2つの3Aに、3F+3Loが必要なんです。3F+3Loが一番基礎点が高い。これを成功させてしまえば、キム選手の3F+3Tにいくら加点がつこうと、浅田選手には追いつけないんですね。2つの3Aと、3F+3Loさえあれば、たとえルッツの矯正が間に合わなくても(つまりフリーに入れられなくても)、全然問題ないんです。ところが、同じ3F+3Tに落とすと、2人が決めた場合、加点でキム選手に0.5点ぐらい負けることになる(昨季の世界選手権の実績から)。それで浅田選手としては、どうしても正面突破したいんです。今回本当に正面突破してしまったのだから、凄い選手なんですが、むしろこれは来季も浅田真央に3F+3Loという「危険技」を続けさせるワナだと考えるべきだと思います。「天上の神様からの啓示」めいた兆候もありますよね。つまり、キム選手につきはじめたフリップの「!」。これがつくと、加点が制限されるので、もし2人が同じように3F+3Tを決めた場合、多少なりとも浅田選手が上に行く可能性が出てきたわけです。(今回の世界選手権でのフリーのキム選手の得点は9.9点、浅田選手の昨季の世界選手権での3F+3Tの得点は10.93点。ちなみに昨季の世界選手権でのコストナー選手の3F+3T+2Loが12点)。この「天上の神様からのお告げ」を無視しないでほしいと思います。体力的にも3A+2Tよりラクだし、セカンドに難しいループをつけると自爆がありますが、トゥループなら自爆はありません。あとは、「回りきれるかどうか」です。今季の全日本で、浅田選手はフリーで、2つの3Aに、3F+3Loを決めましたが、3Aと3Loの一番の大技を全部ダウングレードされたので、技術点は悲惨なものになりました。年が明けてから、フリーの後半は3F+2Loにしてきました。つまり、フリーからセカンドの3回転がなくなってしまったんです。ですから、フリーから3F+3Loをはずした時点で、3Aを2度というのは、リスキーなだけの大技になってしまいました。本当は来季を考えて、3A+2Tを3F+3Tにすべきだったんだと思うんですが、浅田陣営の決断はそのまま正面突破でした。たぶん、それは、3F+2Loにおとしてもまだ、勝ってしまう可能性があったからだと思います。今回のフリー、キム選手はサルコウとスピンのキックアウトの失敗、浅田選手は3A転倒と2Loダウングレード、そのほかスピンやスパイラルでレベル取りの失敗がありました。キム選手が全部のジャンプを決めるのは非常に難しいので、基礎点の低いサルコウの失敗だけにおさめたのは、相当よかったんですね。対して浅田選手は命綱の2度の3Aを決められず、その他のエレメンツにも取りこぼしがあった。で、キム選手の思わぬスピンのキックアウトがなく、浅田選手が2度の3Aだけを決めていたら(スピンとスパイラルのレベル落としはそのままです)、どうなったかというと・・・技術点 キム選手63.19+3.6(スピンは4大陸の実績からの加点こみ)=66.79点 浅田選手60.15+8.8(3Aは過去の実績からの加点こみ)=68.95点ね? また浅田選手が上に行っちゃう(苦笑)。つまり、他のエレメンツにレベル4を並べ、ジャンプの失敗を最低限におさえ、加点テンコ盛り(と言ってるのはまあ、キム選手のプロトコルを監視してる日本のファンですが)にしてる「いっぱいいっぱい」のキム選手に対し、ループを2回転にしてダウングレードされ、スピンやスパイラルでちょこちょこレベルを落とし、さらに今回はステップの加点でも負けてるのに、それでも、3Aを2度決めてしまうと、やっぱり浅田選手の技術点のが上に行くんですね。4大陸フリーでも、浅田選手は3Aを2度決められなかったのに、後半の2ループを決めると、もう1つジャンプをミスしても、キム選手がうっかりダウングレード3つも取られると、やっぱり浅田選手が上に行っちゃうんです。演技・構成点を爆アゲしなきゃならない理由が見えてくるでしょう?これからこの「演技・構成点の爆アゲ」はカナダの男子、チャン選手に対して起こるのではないかと思います。今突然女子に「9」点がいくつか出て、みんな驚いていますが、徐々に出していけばそれが常態化してしまいます。チャンはジャンプが弱いですからね。銀メダリストが、シーズン通して4回転入れてないのに、3A2度を1回しか決められず、しかも決めた1回も連続は3A+1Tなんですから。まさに今回のキム選手に対する演技・構成点は、「パンドラの箱」を開けたと思っています。9だろうと8だとうと、どちらが適当かなんて誰も言えないし、9と8の差が正しいのか、9と7の差が正しいのかも、誰も答えようがないですから。さて、浅田選手ですが、ルッツの矯正に対してコーチをつけるべきか――というような質問も読者の方からいただきました。これについては答えようがないです。矯正というのは2季前から始まったもので、それまでは、誰もやったことがありません。だから適切な指導メソッドをもっている人はいないでしょう。メソッドもってるコーチがいないから、女子のトップ選手はみな、ルッツとフリップをペアで乱してしまい、困っているんですね。ジュベールやウィアー選手ですら、フリップで「!」を取られる状態から脱していません。「やってみたら相当難しい」とみんなわかったところなんじゃないでしょうか。安藤選手は落ち着いてきました。さすがですね。オリンピックに完全に間に合います。ロシェット選手もエッジに違反がないのが強いです。キム選手は「矯正しない」と言っていますが、それが正解でしょう。今から直そうとすると、非常に危険。あとは単独のフリップだとエッジはどうなのか、ですね。チャン選手は相当疑わしいと思うんですがねぇ… 特にショートでしばしば。彼は常習性がないのに、突発的にかなりモロにwrong edgeになるという不思議なクセがあります(というか、そう見えます)。浅田選手に対して、あまりいろいろな人がいろいろなことを言うのはよくないと思います。浅田選手は、今のところフリップに乱れがありません。この不動のフリップのエッジが来季の試合で曖昧になったり、乱れたりしたら、すべて終わりです。浅田選手の3回転+3回転はフリップにしかつけられませんから。<続く>
2009.04.08
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2024年6月30日放送予定の実写ドラマ『ブラック・ジャック』。放送間近になって、ドクター・キリコが女性に改変されたことが話題になっている。https://news.yahoo.co.jp/articles/080e976183672b4b14c1d94b6fd26d0313f1a6d2(上の記事から引用)キリコについて「なぜ自分で自分の死を決めてはいけないのか。いまだ答えの決まらぬ重い問いを、キリコは理路整然と突きつけ、BJのエゴを暴いてしまう。このドラマにも、絶対にいなくてはいけない存在だった」(引用終わり)ドクター・キリコは軍医として地獄を見た経験から、安楽死を請け負う「死神」になった。個人的には、この設定は外せないと思っている。原作のファンなら、ほとんどがそうだろう。だから、女性に改変と聞いて、「あーあ」と思った部類だ。とは言え、「なぜ自分で自分の死を決めてはいけないのか。いまだ答えの決まらぬ重い問い」という番組プロデューサーの視点も、それはそれであってもいいと思う。ただ…今日本で問題になっているのは、治癒の見込みのない患者(多くは老齢者)に対する過剰な医療介入。苦痛しかない人生を長引かせるだけの治療は、虐待ではないかという考えなのだが、このプロデューサーの「調べてみると、海外で安楽死をサポートする団体には、なぜか女性の姿が多い印象があった。脚本の森下佳子さんと相談しているうち、『優しい女神』のような存在が、苦しむ人のそばにいて死へと導くのかもしれない、と想像するようになった」という言葉の軽さがひっかかる。Mizumizu個人は安楽死は認められるべきだと思っているが、それは「苦しい。こんな人生はイヤ」と訴える人にすべからく、「じゃあ、死んで楽になりましょうね」という話とは違う。人はギリギリまで生きるべきだし、それは長短とは関係ない。そもそも生きることには苦痛が伴う。100%生きてて楽しい、なんて人、いるんでしょうかね?また、この新作『ブラック・ジャック』の女性キリコのキャラクターは、コスプレ感が高く、そのビジュアルもドラマを薄っぺらくしてしまう悪寒がする。「高橋一生はよかったけど、キリコがあれじゃーね」と言われるオチになりそうだ。ただ、見てみないとどんなものか分からないので、その意味で、番組放送前にトレンド入りするほど話題になるのは、よい宣伝になった。視聴者に興味をもってもらい、番組を見てもらうよう誘導するという意味では、成功している。そもそも、手塚マンガの面白さ、その深さを二次創作で凌駕するなんて、ほぼ無理な話。手塚マンガ以上に面白い原作手塚のアニメもドラマも観たことないですから、Mizumizuは。でもね、それでい~のだ(いきなり手塚から赤塚に)。先日、大阪の御堂筋線で見た『ブラック・ジャック』の文庫本を読んでる青年。彼が『ブラック・ジャック』を知って、漫画を読んでみようと思ったきっかけはなんだろう?一番ありそうなのは、アニメではないか。手塚眞が監督した子供向けのTVアニメ『ブラック・ジャック』を、最近になって配信で見たのだが、登場する動物が原作ではほとんど死んでしまうのに対し、手塚眞版『ブラック・ジャック』では、かなり徹底して「死なない」設定に改変されていた。Mizumizuはこの改変が非常に気に入った。特に嬉しかったのは犬のラルゴが死なずにブラック・ジャック一家の一員になっている設定。これは現代の価値観にマッチしているし、そもそも動物が死ぬ映像が苦手で、その傾向が年を取れば取るほど強くなっているMizumizuには、手塚流の非業の死(特に動物)はショックが大きすぎるのだ。。『ブラック・ジャック』作品の持つ切なさ、キツさ、そこに描かれた「生」のはかなさは、もう少し大きくなって漫画を読んで知ればよいことだ。Mizumizuはクリエイターの立場ではないから言えるのかもしれないが、原作への敬意があれば、改変はおおいに結構だと思っている。別の才能のインスピレーションが加わることで、新しい魅力が生まれ、ファン層が広がるのなら、二次創作は成功だと言えるし、「なんだこれ、ひどすぎる」「手塚治虫への冒涜」といった、よくある酷評も二次創作者はバネにすればいい。また、そうした新しい作品をきっかけに、元の作品への興味がわいて、「手塚治虫の『ブラック・ジャック』? 知らないけど読んでみようかな」でもいいし、「手塚治虫の『ブラック・ジャック』? そー言えば昔読んだかな。また読んでみるか」でもいい。また原作が読まれれば、そこで「こんなすごい漫画があったのか」と気づく人が増えるはずだ。その数はなにも爆発的に多くなくてもいい。そうやって名作を「つないでいく」ことが大事なのだ。そもそも、漫画をアニメ化するに当たって、原作者が最も大切だと思う部分を改変され、ハブられたのは手塚治虫が元祖といっていい。1960年の東映動画『西遊記』のこと。この時の経験が、手塚治虫にアニメ制作会社を作らせた。この時の顛末を、それぞれの立場からの考え方の違いを踏まえて、冷静にレポートしている著作が、以下。手塚治虫とトキワ荘 [ 中川 右介 ]
2024.06.23
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