全1467件 (1467件中 1-50件目)
現在、You TUBEの「手塚プロダクション公式チャンネル」で限定公開中の『千夜一夜物語』。大人向けアニメラマと銘打った(旧)虫プロダクションの野心作だが、このキャラクターデザインと美術担当にいきなり抜擢されたのが、アンパンマンの作者やなせたかしだ。レア本『ある日の手塚治虫』(1999年)にやなせたかしの寄稿文とイラストが載っていて、それによれば、1960年代の終わり、手塚治虫からやなせに突然電話がかかってきたという。虫プロで長編アニメを作ることになったので、やなせに手伝ってほしいという依頼だった。わけがわからないまま、やなせは「いいですよ」と返事をする。当時を振り返って、やなせは「同じ漫画家という職業でも、手塚治虫は神様に近い巨星、ぼくは拭けば飛ぶような塵埃ぐらいの存在」と、書いている。いくらやなせ氏が謙虚な人だといっても、それはチョット卑下しすぎだろう…と読んだ時には思ったのだが、1969年は、まだアンパンマンが大ヒットする前だった。多才なやなせは詩人として有名だったし、すでに『手のひらを太陽に』の作詞者として知られていたが、漫画では確かに大きなヒットはまだなかったようだ。やなせはアニメの経験などゼロだったから、手塚の申し出は冗談だと思ったらしい。だが、『千夜一夜物語』が始まると、本当に虫プロ通勤が始まる。手塚治虫と机を並べて描いてみて、やなせが「たまげてしまった」のは、そのスピードと速さ。あっという間に数十枚の絵コンテをしあげていくのだが、決してなぐりがきではない、そのまま原稿として使えるような絵なのでびっくりした。(『ある日の手塚治虫』より)完成したアニメ『千夜一夜物語』では、やなせたかしは「美術」とクレジットされているが、キャラクターデザインもやなせの手によるものだ。上はやなせ直筆のイラストとエッセイ。わけわからないまま始めた仕事だが、やってみると案外これは自分に向いているのではないかと思ったという。特に「マーディア」という女性キャラクターは人気で、後年になっても「マーディアを描いて」と頼むファンがいて、やなせを驚かせた。「キャラクター」の波及力に、やなせが気づいた瞬間だろう。『千夜一夜物語』がヒットすると、手塚治虫はやなせに「ぼくがお金を出すから、虫プロで短編映画をつくりませんか」と申し出てくれたという。会社としてお金を出すというのではなく(社内で反対があったようだ)、手塚がポケットマネーから資金を提供したのだ。そうして完成したのが、やなせたかし初演出アニメ作品『やさしいライオン』(1970年)。毎日映画コンクールで大藤賞その他を受賞し、その後もたびたび上映される息の長い作品になったという。こうしたアニメ畑でのキャラクターデザインの仕事がアンパンマンにつながっていったのだと、やなせは書く。『千夜一夜物語』から『やさしいライオン』を経て、やなせのキャラクターデザイン技術は、「シナリオを読めば30分ぐらいでラフスケッチができる」までに向上した。「基本は虫プロで学んだのである」。キャラクターデザインの達人、やなせたかしの飛躍のきっかけを作った手塚治虫。だが、「少しも恩着せがましいところはなく、『ばくがお金を出して作らせてあげたんだ』などとは一言も言わなかった」(前掲書より)やなせと手塚は気が合ったようだ。その後、「漫画家の絵本の会」で一緒に展覧会をしたり、旅行をしたこともあったという。「いつも楽しそうだった」「あんなに笑顔のいい人を他に知らない」「そばにいるだけでうれしかった」と、やなせ。そういえば、やなせの価値観と手塚のそれは非常に似通っている。時に残酷だという批判を受けるアンパンマンの自己犠牲精神は、戦争を通じて経験した飢餓からきたものだというし、「ミミズだって…生きているんだ。ともだちなんだ」という『手のひらを太陽に』の歌詞は、手塚の精神世界とも共通する。戦争は大きすぎる悲劇だが、あの戦争が手塚治虫ややなせたかしの世界を作ったとも言える。『第三の男』ではないが、平和とは程遠い15世紀のイタリアの絶えざる闘争の中でレオナルドやミケランジェロ、つまりはルネッサンスが生まれたように、日本という国を存亡の危機にまで追い詰めた第二次世界大戦があったから、今私たちが見るような手塚マンガが生まれ、次々と新しい人材がその地平線を広げていくことになったのだ。「ぼくは人生の晩年に近づいたが、最近になって自分の受けた恩義の深さに気づいて愕然としている。 漫画の神様であるだけではなく手塚治虫氏自身も神に近い人だったのだ。 どうやってその大恩に報いればいいのか、ぼくは罪深い忘恩の徒であった自分を責めるしかない」(前掲書より)手塚治虫を「神」と呼ぶとき、それは漫画の力量がまるで神様というだけでなく、次に続く人材を「創生」し続けたという意味も含むだろう。藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、里中満智子はよく知られているが、さいとう・たかおだって、楳図かずおだって、手塚治虫がいなければ漫画家にはなっていなかったかもしれない。つげ義春さえ、漫画家になるにあたって「ホワイト」だとか「原稿料」だとかの実際を聞かせてくれたのは手塚治虫なのだ。そして、やなせたかし。今や、やなせのアンパンマンキャラクターは、世界でもっとも稼ぐキャラクターのトップ10に入っている。https://honichi.com/news/2023/11/16/media-mix-ranking/そのキャラクターデザインの出発点が大人向けアニメ+ドラマと銘打った(旧)虫プロの『千夜一夜物語』だったというのは、今ではほとんど忘れられているようだが、まぎれもない事実だ。やさしい ライオン (やなせたかしの名作えほん 2) [ やなせたかし ]
2024.05.07
萩尾望都に漫画家になることを決心させた手塚治虫の『新選組』。作家の藤本義一も好きな手塚作品にこれを挙げていた。萩尾望都は分かるとして、藤本義一が『新選組』を選んだのは意外。ただ、藤本氏は『雨月物語』の現代語訳をやった作家…と考えれば、少しつながるかもしれない。で、今日はちょっとしたトリビアを。現在、手塚治虫『新選組』を原案とする『君とゆきて咲く』が放映中だが、主人公の名前、深草丘十郎。この丘十郎というネーミング、おそらくはあるSF作家から来ている。それは海野十三。日本のSFの始祖の一人と言われている作家だ。手塚治虫は『のらくろ』の田河水泡と海野十三を「ボクの一生に大きな方針を与えたくれた人」だと書いている(『手塚治虫のエッセイ集成 わが思い出の記』立東社より)。海野十三には別のペンネームもあり、そのうちの1つが丘丘十郎なのだ。少年手塚治虫は海野十三の小説を寝食を忘れて読みふけった経験があるという。海野も大阪で頭角を現してきた青年漫画家、手塚治虫のことは知っていて、妻に、「自分が健康だったら、この青年に東京に来てもらい、自分が持っているすべてを与えたい」と語っていたという(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より)。海野は1946年ごろから結核にかかり、1949年5月に51歳で死没する。手塚治虫+酒井七馬の『新宝島』発売が1947年1月。1947年に『火星博士』、1948年に『地底国の怪人』と『ロストワールド』。『メトロポリス』が1949年9月だから、海野が読んでいたのはおそらく『ロストワールド』まで。手塚治虫と海野十三には個人的なやりとりは何もない。それでも海野は、手塚治虫という青年漫画家が自分の影響を受けていることを作品から読み取ったのだろう。手塚治虫が医師国家試験に合格し、東京のトキワ荘を借りるのが1952年。海野が亡くなって3年後だ。もう少し海野が生きていたら、二人の対面もなっていただろう。1950年前後の日本に、SFという言葉はない。SF作家と呼べる人もほとんどいなかった。星新一や小松左京が出てくるのはもう少し先の話だ。手塚作品と海野作品の共通点については、Mizumizuは海野作品を読んだことがないので語ることはできないが、タイトルが、明らかに海野十三オマージュだと気づく作品が多い。『日本発狂』(手塚)『地球発狂事件』(海野)のように。もっとも、猫が重要な役割を果たす手塚作品『ネコと庄造と』のタイトルは、『吾輩は猫である』なんて目じゃないほど猫の生態に精通した作品『猫と庄造と二人のをんな』からだから、手塚治虫という人の博覧強記ぶりには驚かされる。いや、『猫と庄造と二人のをんな』と『ネコと庄造と』は、全然似ているところはない作品なんですがね、話の内容は。ただ、谷崎潤一郎という人の猫に対する愛情と理解の深さは、夏目漱石なんて足元にも及ばない。というか、夏目漱石は明らかに人間に興味はあっても、猫については無知だ。話を手塚版『新選組』に戻すと、この作品、テレビドラマが始まってから初めて読んだのだが、なかなか面白かった。萩尾望都と『新選組』については、このYou TUBE番組が面白い。https://www.youtube.com/watch?v=Z1q21iHz-Y4Mizumizuが惹かれたのは、その様式美。花火を背景にした一騎打ちはそのクライマックス。そのほかにも、下からアングルで描いた橋の下での魚釣りとか、上からアングルで見た階段での襲撃とか面白い構図があちこちに出てくる。物語として惹かれたのは、あまりに「語られないエピソード」が多すぎて、逆にこちらが二次創作してしまう点。例えば、大作は、人並みはずれた剣の技を持ちながら、なぜああも虚無的なのか。彼はおそらく死に場所を求めてスパイとなった(と、頭の中で妄想)。そして、ワザと丘ちゃんに負ける(と想像)。親友の手にかかって死ぬことを選ぶまでに、彼の前半生に何があったのか。長州のスパイだというから、吉田松陰の薫陶を受けたのかもしれない。だが、志を抱いた倒幕の志士と考えるには、彼はあまりに傍観的だ。過去が何も語られないからこそ、自分でそのストーリーを補いたくなる。ここは是非、萩尾望都先生に鎌切大作を主人公に、その生い立ちから丘十郎との出会い。出会ってからの彼の心の揺らぎを描いてほしい。丘十郎の純粋さが鎌切大作の内面をどう動かしたのか。ある意味、大作は丘十郎の純粋さに命を奪われるのだから。丘十郎に海外留学の手筈を整える坂本龍馬のエピソードは、あまりに飛躍しすぎだが、もしかしたら坂本がフリーメーソンと関わりがあったというのがこの突拍子もない展開の背後にあるのかもしれない。そのあたりも語れそうだ。手塚治虫はあとがきで、「時代考証メチャクチャ」「異次元の新選組」と言っているが、時代考証完全無視の異次元時代劇は今大流行りなので、手塚治虫がその元祖だったということか(笑)。あまり人気が出なくて途中で打ち切ったという手塚『新選組』だが、全集を見ると、それなりに版を重ねていて、不人気作品とも思えない。なにより1963年の作品が、2020年代になって歌舞伎になったりドラマになったりしている。ドラマ『君とゆきて咲く』もイケメンがダンスする、異次元・新選組になってる。将来的には、こうした「特別な友情」にキュンキュンする層をターゲットにした、ミュージカルにもなるかもしれない。新選組 (手塚治虫文庫全集) [ 手塚 治虫 ]
2024.05.04
拙ブログでも紹介したテレビアニメ『鉄腕アトム』の「ミドロが沼の巻」(こちら)。有難いことに、現在、手塚プロダクションが期間限定で、この(今となっては)お宝動画を公開してくれている。https://www.youtube.com/watch?v=9lu5yUKfByM併せて、この回を担当した「スタジオゼロ」(1963年5月設立)の鈴木伸一氏が語る当時の様子が面白すぎる。https://www.youtube.com/watch?v=yS4oAjTeSzw藤子不二雄、石森章太郎、つのだじろう…漫画界のレジェンドが、どれだけアニメーターとしてダメダメだったか。それぞれが描いたアトムを紹介してくれているのが嬉しい。「みんなキャラクターのモデルシートなんか見ないの。頭の中に入ってるアトムで描いちゃう」って…笑っちゃう。今となっては笑っちゃう話だが、顔もバラバラ、プロポーションもバラバラのアトムを見た当時の手塚先生のお気持ちはいかばかりかと…と、また笑ってしまう。Mizumizuイチオシのひどすぎるアトム画は、これ↓眉毛が濃すぎるし、左目のまつ毛が眉毛の上に飛び出しちゃってる。まつ毛も太すぎてヘン。腕も太すぎて丸太みたい。もうメチャクチャ。どなたの仕業ですか? つのだじろう先生かな?それにしても、やはり「誰も歩いたことのない道」を行く手塚治虫の影響力はマグマ級だ。鈴木伸一のトークを聞くと、おとぎ話を専門に作るアニメプロダクション(おとぎプロ)をやめて、SFや未来の話をアニメでやってみたいと思ったのだって、手塚アトムの大成功を見たからだろう。鈴木氏はそこに「アニメの未来」そして「自分の未来」を見たのだろう。スタジオゼロに売れっ子漫画家たちが参加したのも、手塚先生を追ってのことに間違いない。やがて漫画家たちは漫画の道に戻り、スタジオゼロで唯一本格的なアニメーション修行をしていた鈴木伸一はアニメーション作家として羽ばたく。現在、トキワ荘で特別企画展『鈴木伸一のアニメーションづくりは楽しい!!』が開催中だ。https://www.kanko-toshima.jp/?p=we-page-event-entry&event=529563&cat=18037&type=event『手塚治虫とトキワ荘』(中川右介)によれば、スタジオゼロに参加するより前、1950年代の終わりごろに石森章太郎も、赤塚不二夫、長谷邦夫とともにトキワ荘でアニメづくりに挑戦している。手塚の名代として東映動画に派遣されたことで動画用紙やセルをたくさんもらった石森は、町の大工に木製三段のマルチプレーン式撮影台を作ってもらい、カメラも買った。本業の合間に、石森が犬の原動画を描き、赤塚がセルにトレース。長谷邦夫が白黒のポスターカラーで彩色した。ところが1秒を描くのに何日もかかり、20秒作ったところでやめてしまったという。やめてよかったのだ。この3人は3人とも、漫画の世界でゆるぎない地位を築くことになるのだから。鈴木伸一 アニメと漫画と楽しい仲間 [ 鈴木 伸一 ]
2024.05.02
手塚プロダクションでチーフアシスタントを務めた福元一義氏。彼の著書『手塚先生、締め切り過ぎてます!』には福元氏自身の手によるカットが掲載されているが、さすがの腕前だ。と、思ったら、彼はプロの漫画家だったことがある。少年画報社で編集者をしていた福元氏だが、もともとイラストを描くのがうまく、手塚番をしていた時も、半分アシスタントのような仕事をして手塚治虫に評価されていた。また、福井英一の急逝にともなって宙に浮いてしまった『赤胴鈴之助』の引継ぎに新人だった武内つなよしを推薦し、ヒットに導いた。こうした実績をあげた編集者時代。それでも、密かに「漫画家になりたい」という夢があり、ずっと習作をしていたのだという。そして、手塚治虫の仕事ぶりを間近に見ていて、ある「勘違い」をしてしまう。(『手塚先生、締め切り過ぎてます!』から福元一義作イラスト)スラスラといともかんたんに描いてる先生を見ていたら、ひょっとするとぼくだって…漫画家・福元はすぐに売れっ子になる。第一作がいきなり大人気となり、翌月には7社から執筆依頼が来た。これを福元は深く考えもせず受けてしまう。だがもちろん、手塚のように速く描けるわけがない。結局、原稿は間に合わず(これを業界用語で「原稿を落とす」と言う)、それ以降、依頼はぱったり途絶える。仕方なくかつて所属していた出版社の温情で、細々と仕事を続けることに。そうやって実績を積んでいくと、また他社からも依頼が来るようになって、講談社から出た『轟名探偵』は、それなりの人気を取ったという。ところが、突如として漫画界に吹き荒れた「悪書追放運動」のあおりを受け、このヒット作が運動のやり玉にあがってしまう。福元にとってショックだったのは、テレビに「悪い漫画の例」として『轟名探偵』の扉絵が大写しになったことだった。さらに、追い打ちをかけるように、夏休みに編集部に見学に来た少年が「轟名探偵は怖いから早くやめてください」と言ったと聞かされた。この件ですっかりモチベーションをなくした福元。子供が生まれて、その将来を心配もしたという。そんな折に、武内つなよしから「マネージャーになってくれないか」と声がかかり、漫画家をやめることに。武内がだんだん仕事を減らしてマネージャーのサポートも要らない状態になったころ、手塚治虫が編集部をとおして「福元氏が作画を手伝ってくれるなら、新連載を引き受けてもいい」と声をかけてくれた。手塚の名前を聞けば、断ることはできない福元氏。新連作とは『マグマ大使』(1965)のこと。こうして彼は天職を見つけた…というわけだ。手塚治虫に憧れて漫画家になる。思ったよりはやく人気が出る。依頼が増えて、原稿を落とす――このパターンにピンときたら、あなたは漫画通だろう。そう、藤子不二雄Aの名作『まんが道』に、同じようなパターンのエピソードがあるのだ。狭い下宿を出て、トキワ荘に移り(この時、手塚治虫が敷金を残してくれたので二人は引っ越すことができたのだ)、急に売れっ子になった藤子不二雄の二人。だが、久しぶりに帰省をしたところ、いきなり「燃え尽き症候群」のようになって漫画が描けなくなってしまう。矢のような催促の電報がくる。なんとか対応しようとする二人。だが、筆は遅々として進まない。そして…まるで終わりのないマラソンに駆り立てられるような「売れっ子漫画家」の人生。延々とトップを走り続ける手塚治虫の超人的なエネルギーが、福元一義の、そして藤子不二雄の大失敗を引き起こしたとは言えないだろうか。だが、藤子不二雄には、トキワ荘の頼もしい先輩・寺田ヒロオがいた。藤子不二雄の原稿が届かないために困り果てた編集部のために、寺田ヒロオは徹夜で別の原稿を描いてくくれたのだという。東京に戻り、寺田の叱責と励ましを受け、手塚治虫からもエールを送られて、藤子不二雄は再起する。その後の二人のとどまることを知らない出世ぶりは、今更ここに書くまでもないだろう。[新品]まんが道[文庫版](1-14巻 全巻) 全巻セット
2024.05.01
前回のエントリーに登場した河井竜氏。(旧)虫プロ社員で制作進行担当だった。入社は(旧)虫プロ全盛期の1963年。彼には新劇の脚本と演出をしたいという夢があり、とうとう2年後のある日、社長の手塚治虫に退社を申し出た。演劇では食えないと、一度は思いとどまるよう説得した手塚社長だが、河井氏の決意は固い。最後は「わかりました! 立派な演出家になってください」と送り出した。劇団を作ったものの、すぐに食えるわけもなく、廃品回収業のアルバイトをする河井氏。すると(旧)虫プロの仲間が200キロもの動画用紙を提供してくれた。さらに河井を驚かせたのは、手塚社長から毎月現金書留が届くことだった。劇団の公演パンフレットには広告も出してくれた。だが、3年後、河井氏は病に倒れてしまう。結核だった。劇団はうまくいかず、お金も底をついていた。結核は法定伝染病。治療費は国から出るが、夢は諦めようと決意を固める河井氏。諦めた自分が、手塚社長から支援を受けることはできないと、「芝居で食っていけるようになったから、もう仕送りは結構です」と手塚社長に電話をした。「あ、そうですか、よかったよかった。河井さん、よかったですね。いっそうがんばってください」「長い間ありがとうございました。本当にありがとうございました」【中古】ブラック・ジャック創作秘話(4)-手塚治虫の仕事場から- / 吉本浩二時は流れ流れて2009年。まさみじゅん氏のブログで、河井氏とともに手塚邸の植栽の剪定に行った話を見つけた。ちょうど『誰も知らない手塚治虫―虫プロてんやわんや』が出版されたころだ。http://mcsammy.fc2web.com/MushuProOB/MushiProOB1.html高齢になった手塚夫人が植栽の管理が大変と聞いて、出向いたのだという。http://diary.fc2.com/cgi-sys/ed.cgi/mcsammy/?Y=2009&M=9&D=13
2024.04.30
手塚治虫著『ぼくはマンガ家』によれば、彼は「誇大妄想的突発性錯乱症」なのだそうだ。それが事実であるということを、めちゃくちゃ汚い絵これまでにない個性的な作画で、あますところなくギャグにした不朽の迷作――それが『ブラック・ジャック創作秘話』だ。【中古】ブラック・ジャック創作秘話(2)-手塚治虫の仕事場から- / 吉本浩二これはホントに面白い。手塚漫画より手塚治虫のが面白いんじゃないかと思えるくらい、面白い。手塚治虫ファンじゃなくても面白い。まだ読んでない不幸な人は、すぐに読むべき。さまざまある手塚先生「錯乱の場」での中でも、もっとも意味不明で、Mizumizuイチオシのシーンは、これ。制作進行担当社員の河井氏に、「もう待てない」と言われて突発性錯乱症スイッチが入る手塚先生。社長なのに、「やめます!」と叫んで、机の下に逃げ込む。しかも頭だけ。行動が猫。ちなみに、この河井氏が(旧)虫プロを辞めたあとのエピソードは、手塚治虫がどれほど思いやりのある人間だったかを端的に示す例。そして、その厚意に応えて、河井氏が手塚未亡人のために取った行動も、素晴らしい。それについてはまた次のエントリーで。誇大妄想入った突発性錯乱の場は、こちら。冷静になったときの手塚先生の弁は、「編集の方から野放しにされたら、半分の作品も生まれなかったですよ」。で、「自由にしてくれ」と言われて、「分かりました!」と野放しにした編集者の原稿は、結局3回連続で間に合わず、その後その編集者が会社を辞めたと聞いて…自分のせいだと思ったとたん、怒涛の責任転嫁…言うことやることメチャクチャだ(苦笑)。ちなみに、なのだが、『神様の伴走者:手塚番1+2』に、その編集者とおぼしき人物のインタビューがあり、本人は「自分が会社を辞めたのは手塚さんのせいではない」と話している。もともとやりたかったことが別にあったからだそうで、本人は手塚治虫含めて周囲の人たちが「手塚番をしながら3回も連続で原稿を落としてしまったので、会社を辞めたんだ」と思っていたことも知らなかった。お次は、のちに松本零士となる松本晟少年の証言から。このシーンには、夜中の「メロン」「ケーキ」「スイカ」などのバリエーションあり。テレビのドラマでも採り上げられて、かなり有名になっているエピソード。さらに…完全に少しイカれたおっさん…手塚治虫「正史」とも言える『手塚治虫物語』では…誇大妄想的突発性錯乱症のコの字もモの字もサの字もなく、仕事にひたすら邁進する手塚像が描かれ…藤子不二雄Aの『まんが道』で、神になったというのに…『ブラック・ジャック創作秘話』では…と、言われて編集者が慌てて手塚先生愛用のユニの2Bを買ってくると…こんな人だとバラされましたとさ。いずれは歴史上の人物として、その一生が映像化もされるであろう偉人・手塚治虫。その際は「正史」に描かれた軌跡だけでなく、こういうぶっ飛びエピソードも入れてほしい。うしおそうじの『手塚治虫とボク』にも、若き日の手塚のぶっ飛びエピソード「手塚治虫の遺言」編もある。このブログでは敢えて紹介しなかったのだが、手塚という人が、スイッチ入ったらいかに「やめられない止まらない」人だったか分かるエピソードだ。ああいった秘話(?)も、漏れなく入れてほしいもの。
2024.04.29
『釣りキチ三平』で有名な矢口高雄が初めて読んで衝撃を受けた手塚治虫作品は、『流線型事件』だったという。その一部始終を『ボクの手塚治虫』で詳しく描いているが、それは藤子不二雄、石ノ森章太郎といった後の巨匠たちが手塚漫画から受けた衝撃と驚くほど似通っている。ボクの手塚治虫【電子書籍】[ 矢口高雄 ]矢口少年は、利発で向学心に溢れた少年で、『流線型事件』にある車のデザイン理論に惹きつけられ、暗記するほど読んだという。内容は凄いのにオサムシなんて、変な名前だと思ったらしい。その矢口少年が、恋をしたかもしれないというのが『メトロポリス』のミッチィ。男にも女にもなるミッチィは、手塚漫画のヒーローの原型となったキャラクターというだけでなく、のちの少女漫画家にも大きな影響を与えたのではないかと思う。というのは、『メトロポリス』を実際に読んで気づいたのだが、昔々Mizumizuが読んでいた少女漫画のそこここに、そのイメージがあるからだ。『ボクの手塚治虫』で、矢口少年が『メトロポリス』を「解説」する場面がある。漫画家・矢口高雄が模写した『メトロポリス』の場面を引き合いに出しながら、少年・矢口高雄が、どこが面白いのかを生き生きと語るのだ。「へ~~、当時の男の子たちは、こんなふうに夢中になったんだ」ということがよく分かる。で、最近になって『メトロポリス』を初めて読んでみた。・・・特に面白くありませんでした。「デッサンをやってない」というのは、初期の手塚に浴びせられた悪評の代表例だが、なるほど、そう言われても仕方がない部分が目に付く。レッド公のプロポーションのデタラメぶりとか、脳が入っているとは思えない頭の形とか、骨格がないとしか思えない(いわゆるゴム人間)ヒゲオヤジとか。ただ、マンガだから、と言えば許容範囲の話で、ちゃんとそれなりに魅力のあるカタチになっているのは、さすが。だから、漫画家に対して、「絵が下手」というのは、あまり意味のない悪口だ。それを言ったら、絵画の世界だって、「下手くそ」な世界的画家はいくらでもいる。漫画のキャラクターの魅力は、デッサンが正確かどうかにあるのではない。しかし、Mizumizuにとって『メトロポリス』は、当時の少年たち、なかんずく漫画エリート少年に与えた影響を紐解く教材としての意味以上のものは見出しにくかった。子どものころに読めばまた別の感想を持ったかもしれないが、残念ながら、Mizumizuは手塚治虫には遅かった子供で、リアルタイムで読んでいたのは、手塚治虫および女手塚こと水野英子に影響を受けて漫画家になった世代の少女漫画家の作品。ただ、『メトロポリス』の後半、ミッチィが「覚醒」して、暴れまわるところには惹きつけられた。特に、人間に虐げられたロボットたちを従えて「メトロポリスへ!」と海の中を行進していくシーンは美しい。この発想は今読んでも衝撃的だ。手塚治虫の少年向けマンガに女の子のファンが多かったというのも頷ける。手塚作品に出てくる少女の多くは、「暴れまわりたい」という欲求を明確に持っていて、時にそれを実践するからだ。こういう少女像を描く男性の少年漫画家は少ない。で、その虐げられたロボット。「壊れるまで働かされる奴隷」のロボットが…これ↑なのだが、これを見て、そっこ~頭に浮かんだのが、鳥山明の自画像。似てませんか? これ。鳥山明は子供のころ、手塚治虫のロボットの模写をやっていたというから、『メトロポリス』のロボットも真似していたのかもしれない。しかし、「壊れるまで働かされる」ロボットって… 売れっ子漫画家のメタファーですか?
2024.04.28
手塚治虫のチーフアシスタントだった福元一義によれば、1950年代、売れっ子すぎて他の漫画家から敬遠されがちだった手塚治虫と積極的に付き合っていたのが福井英一だったという。当時2人を担当した編集者の証言によれば、福井は、「なんであんなに手塚の線はきれいなんだ」「どんな道具を使っているんだ」と聞いたりしていたという。「俺が聞いたことは手塚には内緒だよ」などと口止めまでして。馬場のぼると3人でカンヅメにされたときは、3人で映画の物まねをして盛り上がり、原稿が進まず、それから出版社は漫画家同士を1つの場所にカンヅメにするのをやめたのだという。強烈なライバル意識とやっかみがあったのは、むしろ福井のほうで、酒の席で手塚に、「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ」「金のために描いているとしか思えねえ」などと難癖つけて絡んだりしている。手塚に自分の家で一緒に仕事をしようと持ち掛けたのも福井英一のほうだった。福元チーフはその場にいることになったのだが、二人の仕事ぶりは対照的だったという。福井のほうはキッチリ下絵を入れてペン入れをするオーソドックスなスタイル。うしおそうじと同じタイプだ。福井もうしおもアニメーター出身なので、似ているのかもしれない。手塚は簡単なアタリを入れて、すごい速さでペン入れをしていく独自のスタイル。当然、生産枚数は違ってくる。そのイライラもあったのでしょうが、よほど興奮したのか、ふだんは徹夜がまったくできなかった福井先生が、その晩は完全徹夜をしたのです。障子の外ですずめが鳴く声を聞いてビックリしたら夜が明けていたということで、福井先生自身喜んでいたのですが、最後のセリフは、「もう君とは二度と一緒に仕事しない」でした。手塚先生の超人的な仕事ぶりに、よほどリズムを狂わされたのでしょう。(福元一義『手塚先生、締め切り過ぎてます!』集英社新書より)【中古】 手塚先生、締め切り過ぎてます! 集英社新書/福元一義【著】酒を飲んで突っかかったと思ったら、一緒に仕事しようと誘っておいて、あげく「もう二度と一緒に仕事しない」とか、言いたい放題(苦笑)。明らかに福井は手塚に甘えている。1950年当時は、「手塚は絵が下手」などと言う先輩漫画家が多かったのだが、ちゃんと手塚タッチの美しさに気づいていたのはさすがの審美眼だが、その創作の秘密を探ろうとしたしたものの、一緒に仕事して、とても真似できるテクニックではないことを知ったのだろう。そこにいくと、素直に「驚倒した」「仰天した」と書いたうしおそうじは素直だ。ちなみに、うしおそうじは、福井英一が亡くなる前に、一度だけ彼に会っている。同じ東京下町の職人の倅同士ということで、すぐに打ち解けたのだが、そのわずか数日後に福井の訃報が舞い込む。電報で知らせてくれたのは手塚治虫だった。これは1953年の記事だが、「中卒」と「医学部卒」とか、書く必要あるのかね? これじゃ福井英一が気の毒だ。ちなみに手塚治虫が入学したのは阪大医学専門部だから、学歴詐称だというヘンな人がいるが、手塚卒業の年に医学部が医学専門部を吸収しているのだから、医学部卒と書いても別に間違いではない。https://www.museum.osaka-u.ac.jp/jp/exhibition/P13/TezukaChirashi.pdf手塚治虫が前代未聞の、年上にサバよむという年齢詐称(笑)をしていたのは事実なので、この記事では26歳とあるが、本当はまだ24歳だ。「この商売の寿命はほんの2年ぐらい」と言っているところを見ると、この頃は、売れなくなったら医者に戻ろうという気持ちもあったのかもしれない。手塚治虫の『ぼくはマンガ家』によれば、福井英一が手塚作品を褒めたのはたった一度。『弁慶』という時代物だった。手塚は歌舞伎の「勧進帳」の舞台を使ってユーモラスに弁慶を描いたそうだ。それを見て福井が「やりやがったな、うめえ」と、うなったのだという。だが、本当は福井は手塚作品を全部揃えて持っていた。それを手塚が聞かされたのは福井の葬儀の席でだった。「なあ、手塚さんよ」と、山根一二三氏がポツリと言った。「あいつは、俺にいつも、手塚がライバルなんだと言ってたぜ。そして、つい最近も『俺は手塚に勝ったんだろうか?』って訊いてた。あんた、気がついていたかい? 奴の家にはあんたの本が全部揃っていたんだ。こんな感じですか?コージィ城倉『チェイサー』より。主人公の漫画家・海徳光市が、隠し持っている手塚作品コレクションを読もうとしている場面。「手塚に勝ったんだろうか?」――この自問、どれだけ多くの人気を得た漫画家がしたことだろう?コージィ城倉も『チェイサー』で、主人公の海徳光市が、商業的成功を第一目標とする「ジャンプ」システムにのることで、子供だましの、自称「おバカ漫画」が大ヒットし、一時手塚作品以上に売れたとして「(俺は手塚に)勝ったのだが…」と言わせている。だが、主人公が一度は「勝った」はずの手塚は、どこまでも彼の先を行ってしまう。それを一番知っているのも主人公自身、という設定だ。現代にも続く正当派スポ根漫画『イガグリくん』と同時期に手塚が連載していたのは『ジャングル大帝』だが、当時は明らかに『イガグリくん』のほうが人気があった。『鉄腕アトム』より『鉄人28号』のがアンケートでは上だったと雑誌編集者が証言しているし、今では初期手塚の代表作と言われているSF大作『0マン』より寺田ヒロオの『スポーツマン金太郎』のほうが、やはりアンケートでは上だった。ちなみに、『ブラック・ジャック』も、アンケートが取れず、編集部がその人気に気づくのは、突然休載になったときに、編集部に抗議の電話が殺到したことがきっかけだった。手塚に勝つ――同時代の人気や作品の売り上げだけの話なら、「勝った」漫画家はいくらでもいるのだ。だが、例えば、ウィリアム・シェークスピアよりアガサ・クリスティのが読まれているからといって、アガサ・クリスティのがシェークスピアより偉大な作家だと言う人はいないだろう。先ごろ、1万円札の「顔」の候補に手塚治虫が挙がったが、漫画家で彼と競った人はいない。そういうことなのだ。
2024.04.27
1954年に起こった手塚治虫の筆禍事件、通称「イガグリくん事件」は当初は漫画仲間以外にはあまり知られていなかった。そして、この「事件」があってわずか数か月後に福井英一氏は過労死してしまう。手塚治虫が『ぼくはマンガ家』で、この「事件」を振り返って反省の弁を述べなければ案外忘れられた話だったかもしれない。正直なところ、そのころのぼくは福井氏の筆勢を羨んでいたのだった。(手塚治虫著『ぼくはマンガ家』毎日ワンズより)この「事件」の現場にいた人間は少ない。まず、チーフアシスタントの福元一義氏。福元氏の『手塚先生、締め切り過ぎてます!』によると、少年画報社でカンヅメになっていた手塚あてに福井英一が電話をかけてきた。その電話を取ったのは福元チーフで、福井英一はその時、「手塚君に話がある。その間、仕事を中断することになるけどいいかな」と言った。どういう話か知らなかった福元だが、心情的に編集者よりというよりは漫画家よりだった彼は、漫画の話でもするのだろうと軽い気持ちでOKしてしまったのだという。午後11時ごろに福井英一は、馬場のぼると一緒にやってきた。「やあやあ」と手塚治虫が迎えるのだが、だんだんと様子が変わってきたという。福元チーフはその時、隣りの部屋にいたのだが、大きな声がやがてヒソヒソ話になったかと思うと、手塚がやってきて「これから池袋の飲み屋に行ってくる」。そのまま手塚得意の遁走をされたら困ると思った福元チーフは「道具はココに置いていってくださいね」。道具があれば戻ってきてくれるだろうと思ってのことだ。つまり、この時点では、福元チーフは福井英一が手塚に「怒鳴り込んできた」とは思っていないのだ。それより仲のよい三人組で、締め切りを放り出してどこかに行かれては困ると、そっちを心配している。夜通しそわそわしながら福元チーフが待っていると、手塚治虫が戻ってきたのは明け方になってから。手塚「いやあ、参った、参った」福元「飲みに行ったんじゃないんですか」手塚「違うんだ、抗議だよ。強引にねじ込まれちゃって」現場にいた福元チーフが見聞きしたエピソードはこうだが、うしおそうじが、のちに現場にいた馬場のぼるから話を聞いたところ、コトはもっと大げさになっている。手塚治虫が『漫画少年』に連載していた「漫画教室」の1954年2月号にわずか数コマ(Mizumizuが見たところでは2コマだけ)のイガグリ君らしき絵に、福井英一が烈火の如く怒り、手塚・福井の共通の友人だった馬場のぼるの家に来て、「俺は今から手塚を糾弾しに行く」とまくしたて、馬場を強引にタクシーに押し込めたのだという。「これは明らかに俺の『イガグリ』だぞ! つまり手塚はこのイガグリを悪書漫画の代表としてこきおろして天下にさらしたんだ! 俺は勘弁ならねえんだ」(うしおそうじ『手塚治虫とボク』より)馬場は頭に血がのぼった福井英一が手塚に暴力でもふるったら、確実にマスコミの餌食になるだろう。自分が身を張ってでも決斗を防がねばと悲愴な覚悟をしたそうだ。そして、福井は手塚に会うやいなや、胸ぐらをつかんで、「やい、この野郎! 君は俺の作品を侮辱した。中傷した。謝れ! 謝らないなら表へ出ろ」と叫んだというのだ。手塚治虫著『ぼくはマンガ家』では、次のように書かれている。ある日、ぼくが少年画報社で打ち合わせをしていると福井英一が荒れ模様で入ってきて、「やあ、手塚、いたな。君に文句があるんだ!」「な、なんだい」「君は、俺の作品を侮辱した。中傷した。謝れ! 謝らないなら表へ出ろ」「いったいなんのことだか、ちっともわからない。説明してくれ」「ふざけるな」記者(Mizumizu注:記者と手塚は書いているが、編集者の間違い?)が、ぼくに耳打ちして、「先生、相当荒れていますからね。池袋へでもつきあわれたほうがいいですよ」そこへ、馬場のぼる氏がふらりとやってきた。ぼくは救いの神が来たとばかり馬場氏も誘い、3人で池袋の飲み屋に行った。綿のような雪の降る日だった。福井英一ははじめから馬場のぼるを伴って手塚糾弾に来たのだが、手塚治虫は、あとからたまたま馬場のぼるが来たのだと勘違いしている。ともあれ、3人は飲み屋に行って、そこで馬場のぼるの仲立ちもあって手塚が福井に頭を下げている。そして翌月の「漫画教室」で、福井氏と馬場氏らしいシルエットの人物に、主人公の漫画の先生がやり込められているシーンを描き、彼へのせめてもの答えとしたのだ。(『ぼくはマンガ家』より)これが「イガグリくん事件」の顛末だが、実際に「漫画教室」1954年2月号を見た中川右介は、そこに書かれたセリフを引用して、くだんの漫画教室はなにも福井個人批判ではなく、「(手塚)自身を揶揄しているよう」だと述べている。こういった表現が福井、馬場、うしお、手塚といった人たちによって、ますますドギツくなっていった。(「漫画教室」より)と、自分の名前も入れている。そのあとに、確かにイガグリ君のような髪形の頭を一部描いたコマも2つあるが、他にも渦巻状の線だけとか、空とか雲とか煙とかだけが描いたコマもある。そして、そういう表現をそのまま真似するのは避けた方がよい、と言っているだけだ。実際に問題となった「漫画教室」を見ていない人たちは、手塚治虫がイガグリくん人気に嫉妬して福井英一だけを中傷したと勘違いしているが、それは事実ではない。手塚はこのイガグリを悪書漫画の代表としてこきおろして天下にさらしたんだ!なんて、どう考えても過剰反応だ。数か月後に酒を飲んで過労死してしまったという事実を鑑みるに、福井英一は、この頃ハードスケジュールに追いまくられ、すでにかなり精神的に不安定な状態だったのだろう。福井英一が亡くなったのは1954年6月。漫画家の死が新聞に大きく取り上げられる時代ではなく、宮城にいた小野寺章太郎少年(のちの石ノ森章太郎)は、手塚治虫からのハガキで福井英一の死を知る。「福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀の帰途だ。狭心症だった。徹夜で仕事をしたんだ。終わって飲みに出て倒れた。出版社――が殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほど、くわしく知らせるから」と、ハガキにはあった。手塚先生の悲しみが、行間からにじみ出ているようなハガキでした。福井英一は手塚先生の親友でした。ぼくは顔を見たこともないし、ファンレターを出したこともなかったのですが、それでもとても悲しくなりました。(石森章太郎著『マンガ家入門』より)この文面から分かるのは、天才・石ノ森章太郎は、当時、手塚治虫が「筆勢を羨む」ほど人気絶頂だった『イガグリくん』には興味がなかったということだ。もちろん、手塚治虫と福井英一の「(のちに大げさに広まる)確執」など知らない。二人は親友だと思っているし(実際に親しい仲だった)、手塚治虫の悲しみを思って自分も悲しんでいる。そして、漫画家という職業は体を壊すほど厳しく、忙しいものなのかと、不安になったと『マンガ家入門』に書いている。マンガ家入門【電子書籍】[ 石ノ森章太郎 ]
2024.04.25
少年漫画の世界に「週刊誌」が登場するのが1959年。うしおそうじは現役の売れっ子漫画家として、この大きな時代の転換点を目撃した一人だ。『手塚治虫とボク』には、来るべき週刊誌時代に備えてか、出版社側が「(月刊誌で)締切を守れない漫画家」をリストアップし、一斉追放に向けて布石を打ったのではと思われる、ある「懇談会」のエピソードが載っている。前回のエントリーでも紹介したように、下絵をきっちり描き、ペン先をいくつも付け替えて仕上げるスタイルのうしおそうじは遅筆だった。それにうしお自身、絵がうまくないことを自覚しており、驚異の手塚テクニックを目の当たりにしてからは、ますます自分の限界について考えるようになる。遅筆のうしおは「締切破りで悪名高い漫画家」の上位5位に必ずランクされていたが、ナンバーワンの締切破りは手塚治虫その人だった。もちろん手塚が締切を守れなかったのは、遅筆だからではない。仕事が多すぎたためだ。どちらにせよ、締切破りの漫画家は決まっており、1959年ごろのある日、そうした悪名高い漫画家が10名ほど呼ばれて、出版社側と「なぜ毎月の締め切りを守れないのか、その原因を探り、是正を考えよう」というお題目で懇談会が開かれたのだ。締切破り常連のうしおも当然呼び出されて参加したのだが、その懇談会にうしおはなにやら陰謀めいたものを感じ取る。それは、締切破りナンバーワンの手塚治虫が「どこかの出版社がカンヅメにした」といって、ドタキャンしたからだ。うしおの知るそのころの手塚という人は、約束をした以上は、たとえ終わり間際になろうと必ず現れる人だった。それが、最後まで来なかった。そして、締切り破りトップテン漫画家vs出版社の懇談会は、吊し上げをくらった漫画家側「担当者が、うちで出したメシに文句をつけていた」出版社の編集者側「風呂の釜焚きまでやらされた」「子供の送り迎えをやらされた」というような、本来の趣旨とはずれた私怨炸裂のオンパレードになり、2時間かけて何も明快な解決策はないまま終わる。うしおは参加した漫画家たちの、あまりのアホさ加減に呆れている。論客の手塚がいれば、違ったものになっただろう。だが、集まったのは頭脳プレイのできない漫画家ばかりだった。1959年は週刊サンデーと週刊マガジンが発行された年。うしおは後にその流れを鑑みて、この時の懇談会は出版社サイドによる「手こずらせ漫画家一斉追放」のための口実づくりではなかったかと結論づけている。そして1960年、うしおは漫画家を辞めてアニメと特撮の制作会社ピープロダクションを興す。では、手塚をカンヅメにして、懇談会に参加させなかった出版社はどこだろう? うしおはそれについては書いていない。だが、ひとつ言えるのは、週刊誌創刊に向けて、小学館と講談社が熾烈な「手塚獲得作戦」を繰り広げていたという事実だ。やがて到来する週刊誌時代の足音が聞こえてか聞こえずか、児童漫画家の一部楽天家たちは放埓に構え、無為に過ごしていた。そして運命の回り舞台はあっという間に回転して、週刊誌時代が訪れ、時代の波に乗れない児童漫画家たちはたちまち凋落していくのであった。それに対して、あれほど編集者たちのひんしゅくを買い、不倶戴天視されていた手塚治虫は、週刊誌時代を迎えてますます本領を発揮。名実ともに天下を制するようになる。(うしおそうじ著『手塚治虫とボク』より)手塚治虫とボク [ うしおそうじ ]週刊誌時代が到来する前は、手塚より年上の児童漫画家が子供漫画の世界で幅をきかせていた。また、児童漫画家のほかに「大人漫画家」という区別があり、大人漫画家と呼ばれる漫画家たちは児童漫画家たちを下に見ていて、特に手塚治虫を蛇蝎のごとく嫌い、「絵が下手」「話が荒唐無稽」と罵倒しまくっていたのだ。だが、『新宝島』、そしてそれに続く『ロスト・ワールド』『メトロポリス』『来るべき世界』のSF三部作に衝撃を受けた全国の才能ある少年たちが、続々と漫画家という道の職業に足を踏み入れ、頭角を現していくにつれ、手塚の評価は一変する。彼らにとっては、手塚治虫は神だった。神とその使徒たちが成し遂げた日本文化の革新は、明治維新を成し遂げた志士たちの偉業にも匹敵するだろう。大人たちは、戦後子供たちを夢中にさせ、破竹の勢いで世の中を席巻する新しいメディア、マンガを悪書といって糾弾し、焚書までした。それに真っ向立ち向かったのも手塚治虫だった。マスコミ関係者各社を筆頭にPTA、全国子供を守る会、地方自治体の教育機関、母と子供の会など、その手の団体の指弾のスケープゴートとして、決まって名を晒されるのが手塚治虫であった。そして、いちばん呼び出しの多かったのも手塚治虫である。当然のことながら手塚は憤然として、どの吊し上げの席にも出て行った。怖れず臆せず、逃げも隠れもせず、堂々と相手方と渡り合った。単独の時も複数の時もあった。ボクは彼のヒーローキャラの「レオ」のごとき獅子奮迅の働きに心から拍手喝采を送った。(前掲書より)手塚に続く漫画家たちは、手塚が矢面に立ってくれたからこそ、仕事を続けられたという側面がある。事実、手塚と同世代の漫画家の中には、「悪書」のレッテルを張られたことで意気消沈し、漫画家を廃業した者も多い。そして、手塚漫画を読んで育った子供たちは、長じて日本を世界トップの経済大国に押し上げたのだ。「学校の授業よりも何よりも、人生で大切なことを教わったのは手塚漫画」――これは昭和の時代に活躍した某女流作家の言葉。Mizumizuがこれを目にしたのはラサール石井の本が出るよりずっと前だ。そして今――日本のGDPがインドにも抜かれて世界第5位に転落するというニュースが流れている。一億総中流だった国は、もうどこにもない。あるのは明確な格差。そして、海外からの観光客を喜ばせる「なんでもかんでも安い国、ニッポン」。ただただ衰退の一途をたどる日本に、誰もなすすべもない。
2024.04.22
後に「神業」と言われる手塚治虫の仕事ぶり。うしおそうじは1950年代初頭にその凄さを目撃している。現役の売れっ子漫画家から見ても、そのテクニックは想像をはるかに超えたものだった。まずはペンの使い方。うしおは3本のペン先を使い分けていた。きっちり下描きを入れてその上にペン入れをするのだが、太い線と細い線でペン先を替えていく。ペンを替えるから、当然時間はかかる。ところが手塚は、特に大切なメカニックな背景だけは一応ちゃんと下描きを入れるが、顔は丸、手足は日本線というようにラフな下描きを入れるだけ。ペンも1本で細い線を描く時はひっくり返し、あとは力加減で太い線・細い線を描き分けていた。鼻歌まじりに。しかも、どこでも描くことができる。机がなくても。特に記号のような下描きから、驚くべき速さで一気呵成に仕上げる手塚テクニックには「正直言って仰天した」という。もっと驚いたのはペン入れの順番。普通の漫画家はノンブルどおり1コマ目、2コマ目と順番にペン入れをするのだが、手塚は5ページ目の右から2コマ目を仕上げたかと思ったら、今度は3ページ目の下から2段目の左隅、次は6ページ目の一段目の右から3コマ目…というように縦横無尽にペン入れをしていくのだ。まるで牛若丸のごとく跳び跳びに埋めてゆきながら8ページ分描き終わる。仕上がりを見せてもらうと、驚くべきことに整然と、毛ほどの隙もなく完璧に仕上がって文句のつけようもなかった。(『手塚治虫とボク』より)手塚治虫とボク [ うしおそうじ ]ちなみに1955年。まだ週刊誌時代は始まっておらず、この頃は月刊誌時代だが、その当時も手塚治虫は月に10本以上の連載を抱え、なおかつ仲間と付き合い、飲んだり騒いだりしていたという。うしおは手塚の驚異的な量産の秘密は彼の描く速さにあり、なぜそこまで速いのかといえば、それは4ページだろうが、十数ページだろうが、紙に向かった時にはすでにコマ割りは手塚の頭の中で出来上がっていたことだと書いている。通しの吹き出し(セリフ)を全部入れてしまうと、ポイントごとに下描きのラフな記号風のものを描き入れて、その上に超絶テクを駆使してペン入れをする。この「手塚の神業」は業界では有名だったが、あまり一般の読者には知られることがなかったと思う。Mizumizuは小学校ぐらいのときに、漫画家の鈴木光明がアマチュア時代、手塚の仕事ぶりを初めて見たときの驚きを書いた文章を読んでいて、「こんなことができる漫画家がいるのか。本当に手塚治虫というのは別格の天才なんだな」と思ったのを今でも覚えている。手塚作品は読んでいなかったのだが。鈴木光明がその時目撃した手塚の仕事ぶりは、すでにアシスタントを使っていたのだが、自分は原稿を描きながら、口頭でアシスタントにコマ割りを指示する…という信じがたいもの。「こんなことができないとプロの漫画家になれないのかと思ったが、そんなことができるのは手塚先生だけだった」という鈴木フレーズが(多少言い回しは違うと思うが)、強烈に記憶に刻まれている。頭の中でコマ割りが全部出来上がっていて…というだけでも人間離れしていると思うのだが、それを作業しながら口頭でアシスタントに伝えるって…やはり、天才・石ノ森章太郎が言うように、手塚治虫は天才を超えた宇宙人だったのかもしれない。この神業を一般人にも広く知らしめたのが、『ブラック・ジャック創作秘話』というワケだ。[新品]ブラック・ジャック創作秘話 手塚治虫の仕事場から (1-5巻 全巻) 全巻セット
2024.04.21
うしおそうじ(鷺巣富雄)と言ってもピンとこない人は多いと思う。手塚治虫原作の『マグマ大使』を実写化し、その高い特撮技術で名声を得た人物だが、今の若い世代には『新世紀エヴァンゲリオン劇場版』など庵野秀明作品の音楽担当鷺巣詩郎の父親だと言ったほうが、とおりがよいかもしれない。うしおそうじは、実弟の鷺巣政安(アニメプロデューサー、演出家)に「自分を引っ張り出してくれたのは手塚さんだ」と語っていたという。交際家として知られる手塚治虫だが、うしおそうじのもとにも、彼はある日突然やってくる。うしおが務めていた東宝で労働争議が激化したことで、うしおは赤本漫画のアルバイトを始めるのだが、自分でも予想外にうしおの漫画は好評を得る。うしおが駆け出しの漫画家としてスタートしたころ、年ではうしおより下の手塚治虫はすでに上昇気流にのって、全国にその名を轟かせる売れっ子漫画家になっていた。うしおは手塚の『ジャングル大帝』を読んで衝撃を受ける。その作者がいきなり自分を訪ねてきて驚くうしお。手塚は『漫画少年』(学童社)の編集者と一緒だった。そして、うしおの作品名を次々挙げて、「うしおさんの作品はよく読んでいます」と言って、うしおをさらに驚かせた。つまり、二人の訪問の目的は、『漫画少年』に連載をしてくれということだった。新しい漫画家を探している学童社に、うしおそうじを推薦したのが手塚だったのだ。うしおの手塚第一印象は「明るい」ということ。そして、その声と語り口に注目している。手塚のリズミカルな話しぶりを聞きながら、ひとつ気づいたことがあった。彼の声量と艶のある発声はあたかもオペラのバリトン歌手を思わせるのだ。それにしても、彼のこの快活な話しぶりは彼の天性か演技か、計りかねていた。初対面のボクにまったく無防備で接するはずはないとみるのが普通だし、決して下衆の勘ぐりとは言えまい。しかし、演技にしては彼はどこまでも自然体であった。いずれにしても、彼のこの天真さは天性と育ちの良さからくるものだろう。(うしおそうじ『手塚治虫とボク』早思社より)手塚治虫とボク [ うしおそうじ ]手塚治虫のトーク力には定評がある。漫画家の社会的地位を高めたのも手塚の知性とユーモアあふれるトーク力によるところも大きいだろう。一時漫画の仕事が減った時も、講演などの仕事依頼が来るので、手塚治虫がヒマだったことはないとチーフアシスタントは話している。手塚のコミュニケーション能力の高さ、その声、語り口の魅力に初対面でいちはやく気づき、こうした文章にしているうしおそうじは、のちに漫画家を廃業して制作会社を興すだけのことはあり、視点が実業家よりだ。うしおそうじが感じた戸惑いは、手塚治虫のトークを聞いた多くの人に共通するのではないだろうか。明るく、快活明瞭で、自然体。だが、どこか本音が見えないようなところもある。本心なのか巧みなウソなのか、分からない。やさしい雰囲気の中に、ふいにドキリとするような毒が混ざる。実は、そうした「つかみどころのなさ」が多くの人が手塚治虫という「人間」に惹きつけられる理由ではないだろうか。うしおは、同じ「漫画家」としての視点からも、手塚治虫の「神業」を記している。手塚に自主カンヅメを提案し、のちに手塚が頻繁に隠れ場所として使うことになる「ホテル・メトロ」を紹介したのもうしおだ。<次のエントリーに続く>
2024.04.20
うしおそうじは戦前、東宝でアニメーションの制作工程を学んだ人だった。そのときの室長が大石郁雄で、芦田巌(別名:鈴木宏昌、芦田いわを)はその門下生だった。その縁で、うしおは芦田とも面識があった。芦田は独立して三軒茶屋にアニメスタジオを持ったのだが、師匠の大石のところに来て話すのは、「生フィルムの入手が困難になった。このままでは零細プロは早晩消滅する」という愚痴ばかりだったという。その様子をうしおは見ていたが、師匠のところでときどき会う先輩アニメーターというだけで、個人的な付き合いはなかったようだ。その後、うしおは労働争議もあって東宝を辞め、漫画家からピープロの社長へと転身を重ねていく。ピープロの経営が軌道に乗ってきた1961年春、アトムが放映開始の2年間になるが、手塚治虫がうしおに突然連絡をしてきて、三軒茶屋まで来てほしいと言う。うしおがさっそく駆けつけると、芦田巌にアニメの肝心なコツを即席に教わりたくて、申し込んだら今日午後1時に来いと言われたので、一緒に来てほしいのだと。天下の手塚治虫が、なんで今さら芦田社長にアニメ即席入門の交渉を?――うしおはあきれ返ったが、手塚の目はキラキラ輝いて真剣そのもの。「じゃあ、とにかく芦田厳にボクから正式によろしく頼むと言って口添えすればいいのですね」手塚はそうだと言う。うしおは手塚に芦田という人間は態度が悪い、相手の目の前でせせら笑うような態度を取るので、そのつもりで会ったほうがよいと忠告する。2人で芦田をたずねると、手塚は自分は本気でアニメプロダクションを興すつもりだが、今、同族会社システムのアニメプロで成功しているのは芦田漫画しかないので、経営のコツやアニメーションの動かし方を教えてほしい。門下生としてこちらに自分が通うと真剣に話をする。その真摯な態度にうしおは脇で胸を打たれるのだが、肝心の芦田はうしおの言ったとおりの態度で、「君みたいな漫画家の頂点に立つ人間がいまさらアニメの一兵卒など務まるわけがない」「漫画家は絵が描ければすぐにでもアニメができるような幻想にとらわれる」「勘違いして、プロダクションを興そうなんて甘い」「アニメーションは絵と同じくらいに撮影の要素を大切に考えない者は失格。鷺巣君(うしおのこと)はそのことをいちばんよく知ってるから独立しても仕事が舞い込むんだ」そんな上からのお説教ばかりで、1時間話し合っても手塚の頼みを聞いてくれるのかくれないのか、いっこうに埒があかない。うしおが手塚に目配せすると、手塚も肝が決まったらしく、芦田に対してきっぱりと、「私の考えが甘かったので、これで失礼いたします」。その語気には、それでも自分はやるという覚悟の決意が込められていることを、うしおは感じ取った。表に出ると手塚は厳しい表情をしていた。それを見てうしおは、彼は必ずやるだろうと思い、無言で手を差し出すと、彼も無言で手を固く握りしめてきた。(うしおそうじ著『手塚治虫とボク』草思社より)その後、うしおのもとには手塚が『鉄腕アトム』の第一話、営業用のパイロットアニメに本格的に取り組んでいるという噂が流れてくる。テレビアニメ『鉄腕アトム』の誰も予想しなかった、恐ろしいばかりのヒットは、日本中が知るところだが、芦田巌はその後どうなったのだろう?芦田巌という名前は今ではほとんど忘れ去られているが、1940年代の後半から1960年代までは、アニメ界では知られた人物だったらしく、大塚康生も芦田の門を叩いている。(以下、大塚康生著『作画汗まみれ』アニメージュ文庫より引用)芦田漫画という会社は社長の芦田巌さんという方が戦前からのアニメーターで、山本(善次郎=早苗)部長とは古い友人という関係で東映動画から仕事が行っていました。実をいうと、私は東映動画に入る前に、そのころ三軒茶屋にあったその芦田漫画に「入れほしい」と頼みに行ったことがありました。そのときに、芦田巌さんが私の絵をみてこういわれました。「きみの絵はアニメーションに向いていないよ、絶対やめたほうがいい…」そういわれて、私はスゴスゴと引き揚げたことがあったのです。(引用終わり)手塚治虫も1947年、東京進出を考えて自作を手に出版社に営業をかけていたときに、たまたま京王電車の駅の電柱に漫画映画制作者の求人広告が貼ってあるのを見て、『新宝島』や自著の赤本数冊をかかえ、そのままその漫画映画のプロダクションに飛び込み、使ってほしいと頼んだという。しかし、「一度、出版界の味をしめてしまうと、報酬その他、割がいいもんだから、けた違いに不利な漫画映画などつくる気になれない。諦めるんだな」と、断られたという(手塚治虫著『ぼくはマンガ家』より)このエピソードは1967年の東京新聞「私の人生劇場」でも手塚自身が語っているが、何というプロダクションだったのかはどちらにも書かれていない。書かれていないが、それはどうやら芦田漫画だったらしく、手塚以外の著者(Mizumizuが見た中では、うしおそうじや中川右介)の本には、1947年に手塚が飛び込み入社志願をして断られたのは芦田漫画だと書かれている。ただ、手塚治虫本人がそう言ったのかどうか、Mizumizuとしては確認が取れない。ちなみに2012年9月の「虫ん坊」では、東京新聞「私の人生劇場」をもとに記事をまとめているので、昭和21年(1946年)となっているが、『ぼくはマンガ家』では、「ぼくが戦後はじめて東京の街を見たのは昭和22年(1947年)の夏だった」とあり、Mizumizuもこちらを採用している。なぜなら『新宝島』が発売になったのが1947年。手塚はその大ヒット作を持って東京の出版社に営業をかけるのだから、1946年ではおかしい。話は戻って、1947年に手塚が飛び込んだ会社がもし芦田漫画だとすると、手塚治虫は、まだ東京進出を果たしていない、駆け出しのころに1回、漫画界の頂点に立ち、アニメに進出する直前に1回の、計2回も芦田に弟子入りを志願したことになる。一時はアニメ界の第一線に立っていた、その芦田厳がその後どうなったのか、実はよく分かっていない。だが、うしおの前掲書には、芦田のその後が書かれている。手塚治虫がアトムのパイロットフィルムを制作しているという噂を、うしおが聞いてからしばらくたって、夕刊記事の三面記事に小さく、三軒茶屋のパチンコ店内で地回りのチンピラやくざの抗争でピストル発射事件があり、客の芦田厳氏にそれ弾が当たったが無事だという記事が載っていた。「ああ、相変わらず賭け事が止まらないのだな」とボクは概嘆した。(『手塚治虫とボク』より)さらに数十年経って、うしおは芦田漫画のあった場所の近くにたまたま行く機会があった。芦田漫画は畳屋にかわっていて、その畳屋の親爺にそれとなく芦田のことを聞いてみると、親爺は物凄い剣幕で怒りだし、畳を斬り落とす包丁を握りしめながら叫んだという。「あんたは芦田と親しいのか。親しいなら、芦田の現住所を教えろ。あいつには借地権の線引きでごまかされたんだ」。
2024.04.17
うしおそうじ(鷺巣富雄)は、1950年代には手塚治虫と並ぶ人気漫画家だった。もう彼の漫画を覚えている人は少ないだろうが、漫画家をやめたのちに彼が手掛けた『マグマ大使』『怪傑ライオン丸』は、日本の特撮黎明期の優れた作品として記憶している人も多いだろう。そのうしおそうじの著作『手塚治虫とボク』は、実に面白い。手塚治虫とボク [ うしおそうじ ]うしおが手塚治虫と一緒に映画を見に行ったり、旅行したりして親しくつきあったのは1950年代前半。手塚が漫画の神様と呼ばれる前だ。そのころの手塚治虫の図抜けた才能を目の当たりにして、うしおそうじは「驚倒した」と言っているが、今日取り上げるエピソードは、うしおが漫画家をやめて制作会社ピープロの社長となり、手塚治虫は(旧)虫プロの社長となって『鉄腕アトム』で一大ブームを巻き起こし、同作が『アストロボーイ』として、アメリカで放映されると決まったころの話。うしおは『鉄腕アトム』が、1話1万ドル(当時のレートで360万)でアメリカに売れたという噂を聞き、手塚治虫に直接電話してお祝いの言葉を述べた。本人はそれだけで電話を切るつもりだったが、手塚治虫が折り入ってお願いしたいことがあり、今からそっちへ行きたいと言う。手塚のお願いというのは、うしおのピープロで『鉄腕アトム』を作ってほしいというものだった。驚いたうしおは「いいですけど、一体どうしたんですか」と聞く。すると手塚はすぐにうしおのもとに駆けつけてきて、こんなことを言ったという。「目下、うちの連中はアトムを作るのは嫌だと言い出したんです。飽きて、もううんざりだと言い、『ジャングル大帝』をカラーで製作したいと言う。体のいいサボタージュ気分が職場に蔓延してボクは困っているんです。そりゃあ、彼らの気持ちは分かるし・・・」「彼らの気持ちも分かるし・・・って、それはちょっとおかしくないですか。ボクはよそながら聞いてますが、虫プロの社員は会社に対して10時と3時にコーヒーブレイクをもうけ、就業中は有線でムーディなBGMを流せと要求して、会社はその要求をのんだともっぱらの噂ですよ」「ええ、その噂は一部本当です」うしおの詰問調の質問に、手塚は不快感をあらわにしたという。「だってうしおさん、ボクは仕事をしているとき、ムーディーなBGMが流れているほうが効率が上がるんですよ」「手塚さんが漫画家として仕事をしているときに名曲がバックに聞こえてくるほうが快適に仕事がはかどるということは分かります。だからといって、虫プロの職場で従業員たちの要求をなんでも受け入れてやる、その考え方は行き過ぎではないですか。」うしおは、虫プロはいまや業界だけでなく、あらゆる産業界でも注目する企業になってしまったのだと話すが、手塚は不機嫌になる一方。手塚治虫には話さなかったが、もっと呆れた虫プロのアニメーターの実態をうしおそうじは聞き及んでいた。本来なら『鉄腕アトム』の絵を描くべきところを、こっそり東映動画のアルバイト仕事をしているという話を何度も聞いていた。彼らはトレース台の下に東映動画の仕事を隠しておき、管理職の姿が見えなくなると、机の上の『鉄腕アトム』をどけて、それを取り出し、アルバイトに精を出しているというのだ。<以上、前掲書からそのまま引用>うしおは手塚治虫の顔色を見て、経営について口出しするのをやめ、アトムの仕事を引き受けている。最初は13本の約束だったが、結局、2年にまたがって39話分も応援をした。うしおそうじの証言は具体的で信憑性が高い。虫プロのアニメーターがあれがしたい、これは嫌だとワガママを言い、しかもこっそり他社のアルバイトまでしていたという話は今ではほとんど聞かないが、当時はどうやら業界内部では有名な話だったということだ。
2024.04.14
橋本一郎『鉄腕アトムの歌が聞こえる』という書籍があるが、著者はYou TUBE動画も開設して、手塚治虫とその時代について様々な証言を行っている。鉄腕アトムの歌が聞こえる ~手塚治虫とその時代~【電子書籍】[ 橋本一郎 ]その中に手塚治虫が率いていた(旧)虫プロのアニメーターの高待遇ぶりを語った動画がある。https://www.youtube.com/watch?v=dwvTatm6Qk88分17秒ぐらいから。(旧)虫プロのアニメーターは凄い勢いだった。東映動画から金に糸目をつけずに雇ってきたうえに、時間外が青天井だったため、とてつもない収入があった。自宅を(都内に)次々新築していき<Mizumizu注:虫プロで3年働くと都内に家が買えたという話もある>、虫プロの駐車場には高級車がずらりと並んでいた。<以上、発言をまとめたもの>これはなんといっても、『鉄腕アトム』の大ヒットとそれに伴うマーチャンダイジングの急拡大がもたらしたもの。 手塚治虫自身『ぼくはマンガ家』(1969年)というエッセイで、次のように書いている。<引用>「アトム」がそれほど話題にならなければ、類似作品も作られなかったろう。「アトム」が儲かるとわかるとスポンサーはどんなに大金を積んでも、どこかにテレビ漫画を作らせようと躍起になった。アニメーターたちの引き抜き合戦が始まり、アニメーターの報酬は、うなぎ登りに上がった。高校を出たか出ないかの若い者が 月々何十万もサラリーを稼ぎ<Mizumizu注:上掲の橋本氏の朝日ソノラマでの月給は、虫プロ全盛の時代に2万弱だったという>、マイカーを乗り回すといった狂った状態になった。<引用終わり>つまり、手塚治虫の『鉄腕アトム』がもたらしたのは、アニメーターバブルだったのだ。安い給料で奴隷労働させたなんて、デマもいいところ。手塚治虫が生きていれば、こんなデマはまかり通るはずがない。丹念な取材に定評があり、『手塚治虫とトキワ荘』の著者でもある中川右介は、以下のように総括している。https://gendai.media/articles/-/75170?page=4<引用>アトムを真似できなかった制作会社『鉄腕アトム』の放映開始は1963年だが、早くもこの年の秋に、3本の子供向けTVアニメが、制作・放映される。虫プロは『鉄腕アトム』を週に1本製作するため、技術面でさまざまな技法を編み出した。それは極力、絵を「動かさない」という本末転倒したもの、ようするに、「手抜き」なのだが、そのおかげで、日本のアニメは「ストーリー重視」になった。この手法はすぐに真似され、1963年秋からTCJ(現・エイケン)の『鉄人28号』『エイトマン』、東映動画の『狼少年ケン』が放映された。「アニメが儲からない」のは、虫プロではなく、この2社のせいである。TCJはテレビコマーシャルの制作会社で、当時のテレビCFにはアニメを使うものが多かったので、アニメ部門があった。『鉄腕アトム』の成功を見て、電通がTCJに発注したのが『鉄人28号』で、TBSが発注したのが『エイトマン』だった。TCJは虫プロと異なり、電通やTBSの下請けとして、安い価格で受注したのだ。このとき、利益の出る価格で受注していればいいのに、コマーシャルで儲けていたので、赤字覚悟で受注した。『鉄人28号』はTCJもアニメの著作権が持てたので、マーチャンダイジング収入があったが、『エイトマン』のアニメの権利はTBSと原作者の平井和正と桑田次郎にしかないので、キャラクター商品が売れてもTCJの収入にならない。『狼少年ケン』はNET(現・テレビ朝日)が放映した。NETは当時は東映の子会社で、東映社長の大川博がNETの社長だ。東映動画も、もちろん東映の子会社である。東映はNETに対し、「東映動画に適切な製作費を払うこと」と指示できる立場にあったが、そうしなかった。それでも東映動画は『狼少年ケン』の著作権は保持していたので、キャラクターのマーチャンダイジング収入は得た。テレビ局と広告代理店は、アニメの利益がキャラクター商品にあると分かると、その権利を得て、一度得ると手放さない。その結果、制作会社は低予算を押し付けられたあげく、著作権も持てず、経営は厳しくなり、社員の給料が安くなる構造が生まれる。これは、別に手塚治虫のせいではないのだ。さらに、東映動画はTVアニメに乗り出すと人員を増やしたが、今度は人件費が経営を圧迫して人員整理をし、労働争議になり、ますます正社員は採用しなくなり、下請け、孫請、フリーランスを使うようになっていく。その過程では、腕のいいアニメーターは正社員だった頃よりも収入は上がった。<引用終わり>東映動画のやり方は、実にエグい。だが、人員整理(つまりクビ切り)をして、正社員ではなく下請けにやらせるという構図は、なにもアニメ業界に限ったことではないし、そうやって東映動画は生き残ったのだ。 一方の虫プロは、テレビ局からの受注減、劇場公開長編アニメ映画の赤字、それに労働争議も重なって倒産した。 アニメーターバブルが弾けた時、多くのアニメーターは収入を減らしただろうが、才能のある一握りだけは、大きな組織を離れることで、逆に収入が上がる。これもよくある話だ。そして、手塚治虫が労働者であるアニメーターに、いかに「甘かった」か。それは、うしおそうじの『手塚治虫とボク』(草思社)に端的な例が書かれている。<以下、次のエントリーで>
2024.04.12
アニメ制作費が安い――この話は今もよく聞くが、それを60年以上も昔の『鉄腕アトム』のせいだと信じている人が、いまだに一定数いることには呆れてしまう。『日本アニメ史』(中公新書 2022年)著者である津堅信之氏は、日本アニメ史 手塚治虫、宮崎駿、庵野秀明、新海誠らの100年/津堅信之【1000円以上送料無料】さすがにそれは「飛躍しすぎ」と結論づけているが、同氏のネット記事https://president.jp/articles/-/57267?page=5のタイトルはアニメ業界が激務薄給になった「元凶」と批判も…『鉄腕アトム』を激安で作った手塚治虫の誤算と、「中身をよく読まない」多くの一般ユーザーを誤解させるものになっている。しっかり中身を読んでみれば、同氏の結論は以下だ。(引用)『アトム』以来半世紀以上を経た現在まで、安い制作費の原因を手塚に押しつけるのは、話を飛躍させすぎている。自社が制作する作品の価値を認識し、それを権利として獲得することは、後続のアニメ制作会社にも課せられていたはずである。そういう後続他社の努力の欠如、もしくは変えられなかった責任を問う声は、なぜか小さい。(引用終わり)まったくの同感…というか、普通に考えたら、当たり前のことではないか? 60年も昔に、誰かが新しい分野を開拓した。不可能だといわれることをやってのけた。そのインパクトはあまりに大きく、新しいビジネス(キャラクター販売、アニソン、メディアミックスへの流れ)が生まれた。その実績は目覚ましいもので、恩恵を受けている後輩たちは枚挙にいとまがない。2024年現在、東京駅近くの地下には主にアニメのキャラクターグッズを売る店がずらりと並んでいる場所があるが、これだって端緒を開いたのはアトムだ。ところが、それをきちんと評価するアニメ関係者はほとんどおらず、逆にアニメーターの過酷な労働や低賃金は、手塚治虫のせいだというトンデモ説はいまだに跋扈している。キャラクターや関連グッズが売れるのは自分たちの手柄。でも、アニメの制作費が安く、アニメーターの待遇が悪いのは手塚のせい?おかしーわ!新しい分野に参入する時、戦略的に廉価設定をするのは、ビジネスシーンではよくあることだ。後続他社の努力の欠如や責任を問う声が「なぜか小さ」く、手塚治虫の死去後に「手塚のセイダーズ」がワラワラ出てきて、声が大きくなっていったのはなぜか。それは、だいたいみんな分かっているハズだ。手塚治虫が生きていれば間違いなく反論しただろう。皆忘れているが、漫画が悪書として「焚書」の憂き目にあった時も、新左翼と呼ばれるトンチンカンな評論家の酷評で漫画家たちが苦しめられた時も、「最前線」に自ら出向いて反論したのは、誰あろう手塚治虫だった。それを、彼がこの世を去り、何も反論できなくなくなったとたんに口汚く攻撃するなんて、実に卑劣ではないか。しかも、アトムに関しては、その過去の状況さえ、悪い方に脚色されている。(前掲ネット記事からの引用)まず、約4年間・全193話放送された『アトム』は、その期間ずっと1話55万円だったのではない。当時の虫プロスタッフの証言によると、話数を重ねる中で徐々に上積みし、最終的には1話300万円程度までになっている。また、1965年10月放送開始のテレビアニメ『ジャングル大帝』では、制作現場に投入される予算は1話250万円で管理された。さらに、『アトム』の当初契約1話55万円は、あまりにも安すぎるとして、手塚には告げない形で虫プロの事務方が再協議し、代理店(萬年社)が1話あたり100万円を補填ほてんして、合計155万円で制作していたとの証言もある。(引用終わり)津堅氏は、日本のアニメ史を俯瞰したうえでの客観的な記述を心がけている。中公新書の『日本アニメ史』には、上記のネット記事には載っていない関係者の証言も多くあり、できる限り幅広い業界人の声を集めようと努力している姿勢は尊敬に値する。今の日本のアニメ業界が抱える問題を語るなら、こうしたマジメな書籍を一読してからにしてほしい。
2024.04.09
今でも時々メディアでお見かけする漫画家ちばてつや。いつどんな話を聞いても、本当に人柄の良い方だなぁと感服する。ちば氏の語る、亡くなってしまった昭和漫画界の巨匠との思い出話は貴重なうえにとても面白いのだが、『あしたのジョー』の初代テレビアニメについて、Wikiには吉田豪氏の丸山正雄氏へのインタビューからの引用として、「虫プロダクションでの制作であったが、社長の手塚治虫は本作品をライバル視していたため、アニメ版の制作にも関知しなかった」とある。だが、これはちばてつや氏の証言によれば、ウソだ。『ある日の手塚治虫』でちば氏は、『あしたのジョー』を(旧)虫プロでアニメ化する企画が持ち上がった時に、「手塚先輩がわざわざ打合せで訪ねてきてくださった」と書いている。工事中で道路に穴があいていて車が通れなかったので、手塚治虫は車を待たせ、穴のあいた道路にわたした板の上を歩いてきたそうで、その時の情景をちば氏がカラーで描いている。その絵の下の、ちば氏直筆の文が以下。危ない板を渡ってくる姿を見てあせったちば氏が「こちらからスタジオに出向きます」と叫んでも、手塚氏は「いやいや、礼儀だから」と言って、ガンとして聞かなかった、とある。『あしたのジョー』が「今だに何度もあちこちで放映され、長い間ファンに愛されている」アニメ作品になったことを、ちば氏が嬉しく思っているのは確かだ。ちばてつやのところに手塚治虫が打合せに行ったことを、インタビュー時には丸山正雄氏が忘れてしまっていただけのことかもしれない。しかし、原作者本人は20年たっても憶えていて、手塚氏の律儀さに恐縮しているのに、「ライバル視していたから関知しなかった」などと、事実と違う話を言いふらすのはいったいどういう了見なのだろう?
2024.04.05
「手塚治虫の奇跡は、映画やショービジネスの世界ではなく、漫画という繊細で奥深い大衆娯楽によって生み出された。この飛ぶ鳥を落とす勢いで躍進し続ける風変りな男のおかげで、漫画ははるか僻地の質素な家に住む人々をも夢見心地にさせた」これはローラン・プティの『ヌレエフとの密なる時』(新倉真由美訳)をパクって、『新宝島』から1950年代の「どこでも手塚(どの雑誌を開いても手塚治虫の作品が巻頭カラーを飾っているという意味)」時代をイメージして作った文章だ。変更したのは赤文字の部分。ヌレエフ→手塚治虫、バレエ→漫画、芸術→大衆娯楽に変えただけ。Mizumizuは個人的には手塚漫画は芸術だと思っているが、本人がそう言われるのを嫌ったので、あえて忖度した。【中古】 ヌレエフとの密なる時ある分野の人気のすそ野を爆発的に広げる革命児には似た部分が多い。バレエではヌレエフが手塚のポジションにいると思う。ヌレエフ以前にも偉大なバレエダンサーはいたし、バレエを好んで観る人たちも確かにいた。だが、ヌレエフの登場によって、それまである程度固まっていて、閉鎖的だった「バレエファン」は一挙に様変わりする。手塚治虫以前にも、もちろん売れっ子の漫画家はいた。だが、手塚の「映画的手法」によって、日本各地の少年少女が文字通り「夢見心地」になったのだ。矢口高雄の『ボクの手塚治虫』は、「はるか僻地」で質素な生活をしていた少年が、いかに手塚漫画に魅了され行動したかを生き生きと描いている。手塚作品を読みたいがために、矢口少年は、雪深い山道を何キロも歩いて町の本屋に行く。手塚作品を買いたいがためにきついアルバイトをして、本屋の主人に「このカネはどうした?」などと疑われ、憤慨して自分がどうやってそのお金を作ったかを説明し、そこから本屋の信頼を得ている。ボクの手塚治虫【電子書籍】[ 矢口高雄 ]このファンの熱情は、ヌレエフの公演を見ようと遠くからでも駆けつける新しいバレエファンの心理とダブる。そして、もう1つ、大いなる共通点。再び『ヌレエフとの密なる時』から。今度は改変なして。「驚いたことに、彼の出演料は非常な人気を博していた他の出し物に比べ比較的少なかった。そう、それは本当にささやかなものだった。『僕にとってそれはとても良いことだと思う。だってわかっていると思うけれど、僕は来年も踊っていたいから』それは理にかなっていた。天文学的な出演料を要求し、毎年踊る機会の減っているダンサーたちにとってなんという教訓だろう。この時期ヌレエフは1月から12月まで約250回の公演を行っていた。それはおそらく多すぎた」手塚治虫が原稿料にこだわらなかった、むしろマネージャーに「安くしろ」と言っていた話はよく知られている。ちばてつやの●分の1だったとか、アニメージュの編集長だった鈴木敏夫(現在はスタジオジブリ代表)に「僕の作品は単行本で売れるから、原稿料はいくらでもいい」と言ったとか。単行本で稼ぐから、というのも本当だろうけれど、実際のところ、長い間漫画界の第一線で活躍してきたこの大天才は、原稿料を上げたのちに人気が落ちて、あっけなく切られてしまう(一時的な)流行漫画家の姿をきっと見ていたのだろうと思う。若いころの手塚は、「この商売の人気は2年ぐらい」と言っていたし、売れなくなったら医者に戻ろうとしていた感もある。そのための道も残していた。たとえ人気がなくなっても、原稿料が安ければ頼むほうは頼みやすい。いったん原稿料を上げて、人気がなくなったら「下げますから仕事ヨロシク」と言っても、相手は依頼しようとはなかなか思わないものだ。だったら、最初からお手頃な値段設定にしておいたほうが、競争力を保てる。一種、企業家のような発想で入れ替わりの激しい漫画業界を40年以上も生き抜いたのだ。ヌレエフは非常に公演数の多いダンサーだった。手塚治虫もすごい量産漫画家だった。そしてその対価に大きなものは要求しなかった。「来年も踊っていたいから」というヌレエフの言葉は、「来年も描いていたいから」とすれば、そのまま手塚治虫の言葉だ。むろん、あちこちでスキャンダルを引き起こす奔放なバレエダンサーとそういった問題とは無縁の博覧強記の漫画家の生き方は大いに異なっている。だが、「死の病(当時)」がその体を蝕んでも、なんとか仕事を続けようとしたその執念は似ている。ヌレエフはダンサーとしてキャリアをスタートさせたのち、振付師としても名声を得た。晩年にはクラシックバレエのレパートリーを演奏するオケの指揮も行い、好評を得ていた。亡くなる3か月前、ヌレエフはローラン・プティの公演に指揮者として参加したいと自分から申し出ている。オケの指揮をするヌレエフ、なんて素敵なアイディアだろう!――プティは喜んで了承する。「なるたけ早く仕事に着手して暗譜したいから、急いで楽譜を送って」だが、二人の構想が実現することはない。亡くなる数週間前まで、ヌレエフは創作作品で自らも踊る意欲を持ち続けていた。当然と言えば当然だが、現実に彼にできたのは、楽屋で横になっていることだけだった。それでもヌレエフは楽屋にいて、亡くなる数日前になってようやく病院に戻った。手塚治虫も最晩年まで多くの仕事を抱え、新しい分野の構想や依頼もあった。病院のベッドで、寝かせようとしても必死になって起き上がろうとしたという。彼が亡くなった時、ニュースで速報が流れた。Mizumizuはその瞬間、たまたまテレビを見ていた。「60歳の生涯を終えた」というアナウンサーの言葉に、「えっ? うそ。違うでしょ」と思った。熱心な読者ではなかったのに、ちゃんと年齢のことが頭にあったのは、生年月日による性格占いなどの対象に手塚治虫がよくなっていたからだ。みんな手塚フィクションにいっぱい食わされていた。したり顔で手塚治虫がもって生まれた性格や運勢などを断定していた占い師には、笑ってしまう。ゲーテを想起させるような「手塚治虫最期の言葉」を知って感動するのは、もっと後のこと。「頼むから仕事をさせてくれ」――この最後とされるセリフが、ある種の手塚フィクションでも、あるいは本当の本当でも、それはどちらでもいい。手塚もゲーテ同様、歴史上の人物として語り継がれることになるのだから。ゲーテの臨終の言葉「もっと光を!」については、以下のサイトが詳しい。https://www.jmedj.co.jp/journal/paper/detail.php?id=277
2024.04.02
2021年に「岩下くま」氏がポストした手塚治虫先生との思い出。岩下くまさん(@IwashitaKuma)が7:38 午後 on 月, 2月 08, 2021にポストしました:【手塚治虫先生の思い出】 https://t.co/t6ahX1g3Qz(https://x.com/IwashitaKuma/status/1358726920305692677?t=gtHEiYEO6PQ3OL49O_fF4Q&s=03これは、いくつかの面で傑作漫画だとMizumizuは思っている。まずは、昭和という時代の雰囲気がよく出ている点。「デパート」は令和の今の時代では、縮んでいくパイに四苦八苦している斜陽の産物扱いだが、昭和時代は、消費の花形であり、ステータスだった。そこで催されるイベント、登場する「漫画の神様」。たまたまその日にデパートに行って参加する(参加できる)少女。昭和という時代のおおらかさ、平和なムード、その中での熱気が伝わってくる。それから、手塚治虫の華やかな多才ぶりを実際のイベントを通して巧みに描けている点。目から描き始めて、その場でキャラクターを造形する――これ、案外難しいと思うのだが、そこは多才な「漫画の神様」。トークで盛り上げ、造作もなくキャラクターを描いて見せる。参加者の熱に押されるように、手を挙げまくる少女。だが、突然の指名にかたまってしまう。このときのパニックぶりの絵が秀逸。「岩下くま」氏が漫画のエリートに属する少女だったことは、この表現の巧さで分かる。「うう…」と泣きそうになっている姿など、スクリーントーンをうまく使って、熱にうかされた気分から一挙に暗いパニック状態に落ちてしまった自分をシンプルなタッチで端的に描いている。そして「目の前に漫画の神様がいた、後ろにもやさしい神様がいた」――これは名台詞ではないですか。パニック状態から一転して頬を染めながら、憧れの神様からのプレゼントを受け取る少女の嬉しそうな表情。この話の持っていきかたの巧さも指摘しておきたいポイントだ。そして、手塚治虫先生の人となりを端的に伝えるラスト。それを、たった一コマで見事に描いている。司会「手塚先生、終了時間です」手塚(ノリノリで)「大丈夫です。まだまだ描きますよ」この「まだまだ描きますよ」は、とんでもない多作の天才漫画家が人生の最期まで言い続けた言葉だ。それを思うと、ふと涙が出る。戦争直後に彗星のごとく現れた天才漫画家は、高度成長期の熱気とともに漫画というメディアを一大産業にまで押し上げ、そして昭和が終わるとともに逝ってしまった。手塚治虫がたった60歳で逝き、バブルの狂乱の絶頂を見ず、その終焉とそのあとの長い経済的停滞も見なかったのは、偶然なのだろうか、それとも必然だったのだろうか。手塚治虫が亡くなったのは1989年の2月だが、日経平均株価が最高値をつけたのは1989年12月29日(3万8957円44銭)。2024年2月になってようやくこの最高値を超えたが、それまでに実に34年かかったことになる。銀座の地価が過去最高を記録するのは、バブル末期の1992年(1平米辺り3650円)。これが更新されたのは2017年だ。もっとも、都心の一等地は例外で、Mizumizuの住む荻窪に関していえば、土地の値段はバブル期の最高値にはまだまだほど遠く、今年やっとバブル前まで戻したというところ。だが、土地や株の価格だけが更新されても、昭和バブルの熱狂は今の日本には皆無だ。それ以前の高度成長期といい、あの戦後昭和という時代が放ち続けた熱気は何だったのだろう。まだ日本人はまだそれほど豊かではなかったが、未来に対しては楽観的だった。中村草田男の言う「明治」をMizumizuは知らない。同様に昭和を知らない世代は、「昭和は遠くなりにけり」と、感慨にふける年寄りを、昔のMizumizuのように見ているのか。昭和――あの頃に自分も経験できたかもしれない体験を逃してしまった者としては、こういう実話を読むとたまらなくうらやましくなる。だが、あの頃に思いを馳せることのできる漫画、それもこうした時代の雰囲気や場の熱量、登場人物のパーソナリティまでを十二分に盛り込んだ優れた作品に触れることができるのは、たまらなく嬉しくもある。
2024.03.31
北海道にマンガミュージアムを!大和和紀&山岸凉子展 (hokkaido-life.net)に展示された(らしい)山岸凉子の「手塚先生との思い出」。山岸凉子が紡ぐ、この日のお話は、雪の札幌という背景もあいまって、一種幻想的なシンデレラストーリーのようにも思える。デパートの催事場で漫画の神様の神技に驚き、喜ぶ大衆。必死に声をかける漫画家志望の高校生。多忙にもかかわらず、常識的なハードルを設けたのちに、熱意ある漫画家のタマゴの作品を見てくれる手塚治虫。山岸凉子の兄の態度も素晴らしい。当時は大学生だったということだが、今の大学生よりずっと大人だ。手塚治虫の「予言」どおり、すぐにデビューした大和和紀。デビューまで数年を要したのち、誰もが知る少女漫画の大家となった山岸凉子。その彼女が、「私はあの時の手塚先生のように読者や漫画家を目指す人たちにやさしくできただろうか」と自問するラスト。手塚治虫が「神様」なのは、その作品が漫画のお手本であるということも、もちろんあるが、それだけではない。非常に頭がよく、絵に情熱をもち、かつ優れたストーリーテラーの素質をもつ稀有な若い才能を日本全土から「漫画家」という職業に引き込んだからなのだ。今の漫画を見ても、漫画家には優れた作画の技量だけでなく、幅広い教養が必要だということが分かる。漫画家を目指す若者に、手塚治虫がどれほど親切だったかは、こちらのエントリーでも紹介した。自らの作品と人柄で、漫画家の種を蒔き続けたという業績は、まさに神の名にふさわしい。なお、山岸凉子『手塚先生との思い出』は、【手塚治虫文化賞20周年記念MOOK】マンガのDNA ―マンガの神様の意思を継ぐ者たちで全編が読める。
2024.03.27
好評のうちに幕を閉じた(らしい)『あさきゆめみし』x『日出処の天子』展 ― 大和和紀・山岸凉子 札幌同期二人展この展覧会のもう1つの目的は、「北海道マンガミュージアム」構想を前進させること。北海道にマンガミュージアムを!大和和紀&山岸凉子展 (hokkaido-life.net)かねてから歴史的名作と呼ばれる漫画の元原稿の保存を美術館として行うべきと訴えているMizumizuとしてはもろ手をあげて賛成…と言いたいところだが、地方につくる漫画美術館には課題も多く、一も二もなく賛成とは言い難い。漫画美術館の役割は大きく分けて3つあると思う。1)原画を含めた展覧会の開催2)漫画本の収集3)原画の保存このうち、Mizumizuがもっとも大事だと思うのが(3)だ。数年前、川崎市市民ミュージアムが浸水被害にあって、せっかくの収蔵品が大きな被害を受けたことがあるが、あのミュージアムの場所を見ると、さもありなんだ。自然災害の多い日本で、良好な状態で原画を保存していくための方策にはかなりの予算を必要とする。そこをどうするか。北海道マンガミュージアムは市立ということになりそうだが、有名漫画家頼みの、地方行政による漫画美術館の管理運営は、何十年かのちには行き詰まることがほぼ見えている。手塚治虫記念館であっても、来場者は減少傾向だし、三鷹の森ジブリ美術館でさえ、コロナ禍で二度もクラウドファンディングを行うありさまだ。できたばかりのころは集客も見込めるだろうが、長期的にはそうはいかなくなる。それを見こしたとき、あちこちに小規模なマンガミュージアムというハコモノを作ることが公共の福祉に利するのかは疑問だ。逆に、だからこそ、漫画美術館というのものは、傷みやすい漫画原画の保存をどうしていくかをまず第一に考えるべきなのだ。それは国としてやるべきだとMizumizuが主張するのはそこで、原画さえ確実に保存できれば、漫画本の収集は二の次、三の次でよい。マンガミュージアムに行って漫画本を読まなくても、今は電子書籍もあるし、図書館に収蔵されているものもあるし、以前よりはるかに気軽に漫画を読めるようになっているのだから。展覧会についても、わざわざ新しい「マンガミュージアム」を作らなくても、既存の美術館やイベント会場を利用すればできるはずだ。このごろは頻繁に行われるようになってきているので、そのノウハウは蓄積されてきている。それだって、1990年に東京国立近代美術館で手塚治虫回顧展が開かれ、成功をおさめたことが、この流れの発端であることは間違いない。やはり、道を切り拓いたのは手塚治虫なのだ。1990年当時は漫画はアートとは見なされなかった。手塚治虫自身、「(漫画家は)アーティストになるな」と言っている。石ノ森章太郎が手塚治虫回顧展に向けて奔走したときも、三越デパートでは「大々的なイベントに」と言われ、美術館からは「あまりイベント臭が強いと困る」などと言われている。それも今は昔だ。「漫画なんて読んでいたらバカになる」と言っていた大昔の人々は、手塚治虫の登場によって消し去られた。今は70代ぐらいのシニアもマンガで育っている。漫画を「サブカルチャー」と位置付ける人も、まだ多いが、「サブ」はいずれ取られることになるだろう。浮世絵の評価の変遷をみても、一般庶民の嗅覚のほうが、「これがメインストリームのカルチャー、こっちはサブカルチャー」と区分けして歩く権威ある人々のそれよりも鋭いのだ。
2024.03.26
これをやれる日本人女子シングル選手がいるとしたら、それは紀平選手だと思っていた。2018年にそう書いた(こちら)。だが、日本人女子としては初、世界をみわたしても56年ぶりという快挙をなしとげたのは、2018年当時は予想もしていなかった坂本花織選手だった。これには、ロシアの問題も絡んでいる。ロシア女子に対抗すべく3A以上の高難度ジャンプに挑んできた日本人女子選手は、ケガに泣かされてしまった。そういった背景のあるなか、自分の強みをしっかり伸ばしてきた坂本選手が3連覇という偉業を達成したのは、まさに神の配慮と言えそうだ。勝負は時の運ともいうが、自分でコントロールできない世界のことに振り回されることなく、地道に自身の道を究めていくことの大切さを、坂本選手の奇跡的偉業が教えてくれているように思う。ロシア人が坂本選手を見てどうこき下ろすかは想像できる。「私たちの選手が4回転を跳ぶ時代にトリプルアクセルさえない選手が3連覇など悪夢」「女子フィギュアが伊藤みどり以前に戻ってしまった」などなど…だが、坂本選手が長い時間をかけて磨き上げてきた世界は、観る者を幸福にする。スピード感あふれる滑り、ダイナミックなジャンプ。大人の雰囲気。ロシア製女王生産装置の中からベルトコンベヤで流れてくる、選手生命が異様なほど短いロシア女子シングル選手には、求めるべくもない魅力だ。今回の優勝を決めた要素をあえて1つだけあげるとすれば、それは連続ジャンプのセカンドに跳ぶ3Tの強さだろうと思う。これを回転不足なく確実に決められるのは、長きにわたる世界女王の条件とも言える。もちろん、それは単独ジャンプのスピード、幅、高さがあってこそだ。欠点は、やはりルッツ。これまで見逃されることも多かったが、今回のフリーではEがついてしまい、減点になった。テレビでもばっちり後ろから映されて、見ていて思わず「ギャーー」と叫んでしまった。・・・完全にインサイドで跳んでる・・・ う~~・・・ エッジがインに変わってしまう前に跳ぶことができるのだろうか、彼女? それをやろうとすると跳び急ぎになって着氷が乱れてしまいそう。といって、しっかり踏み込めば、今回のようになる。その状態がずっと続いているように見える。同じく3連覇のかかった宇野昌磨は4位という結果に終わったが、これはある程度仕方がないように思う。宇野選手ももうシングル選手としては若くはない。長いフリーで最初の高難度ジャンプで失敗すると、それが尾を引いてしまう。ジャンプ以外にもあれだけ上半身を、そして全身を使って表現するのだから、一言でいえば体力がもたないのだ。だが、宇野選手のショートは「至宝」だった。肩に力の入ったポーズで魅せる選手が多いなが、上半身の無駄な力をいっさい抜いた、それでいてスピード感あふれる滑りには驚かされる。至高の芸術品をひとつひとつ作り上げていくようなアーティスティックな表現は、ただただ息をつめて見つめるしかなくなる。こうした、「スケートとの対話」の見事さは、浅田真央がもっている孤高の表現力に通じるものを感じる。今回のショートはジャンプもきれいに決まった。宇野昌磨、完成形といったところか。これ以上はもう望む必要もないし、これまで日本シングル男子の誰もが成し遂げられなかったワールド2連覇という勲章だけで十分だ。マリニンの優勝は、当然だろうと思う。4アクセルに4ルッツ、4ループまで装備し、3ルッツのあと3Aを跳んでしまう選手に、今、誰が勝てるだろう? 鍵山選手の成長は見ざましく、すんげー4サルコウに加えて、4フリップまで来た。それでも難度ではマリニンには及ばない。プログラムコンポーネンツでは勝っているが、やはり得点の高いジャンプの難度で勝負はついてしまう。マリニンにはフリップを跳んでほしい。4ルッツ2回に3ルッツ1回。それは素晴らしいが、やはりバランスが悪い。これは他の選手にも言えることだが、ルッツとフリップを両方入れる選手が減ってきている。ジャンプの技術を回転数だけではなく、入れる種類の多さで見るようルールを変えるべきだ。以前も書いたが、ボーナスポイントではなく、すべての種類のジャンプを入れなかった場合は「減点」とするのがよいと思う。それも1点とか2点とかではなく、大胆な減点とすべきだ。すべての種類のジャンプを成功させたときのボーナスポイントとなると、なにが「成功」なのかという判断が難しくなる。Wrong Edgeを取られたら、回転不足を取られたら、それは「不成功」なのか、あるいは軽微なら「成功」とみなすのか、試合ごとの判定によって判断も違ってきてしまう。それよりも、ジャンプの偏りに減点するほうが明解だ。
2024.03.25
日本のみならず海外にも大きなショックが広がった、漫画家鳥山明の突然の死去。鳥山明を育てたとして知られる鳥嶋和彦氏は、かつてインタビューでこのように語っていた。https://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/torishima/4鳥嶋氏: ええ、漫画の歴史において手塚治虫さんとちばてつやさんは「別格」。それは僕の中ではかなり確信を持って言えることですね。鳥山明さんだって、あくまでもそうした作家たちの積み重ねの上に成立した、“偉大なるアレンジャー”でしかない。実際、『Dr.スランプ』は『ドラえもん』と『鉄腕アトム』、『ドラゴンボール』は『里見八犬伝』と『未来少年コナン』の変形でしょ。(引用終わり)鳥嶋氏は、鉄腕アトムの影響下にある作品として『Dr.スランプ』を挙げているが、鳥山氏自身は、ドラゴンボールの悟空の髪型にはアトムの影響があるのかもしれないと述べている。鳥山氏は幼い頃、『鉄腕アトム』が好きで、登場するロボットの模写に熱中していたという。こういう体験が無意識の影響になることは多い。個人的には、鳥山氏自身が言うほどには似ていない気がする。アトムの髪型よりずっとオーバーな「角」になっているし、形も「オリジナリティ」がある。その意味で、まさに鳥山氏は偉大な「アレンジャー」だ。元祖アトムだって、5本のまつ毛の、あのかわいいぱっちりお目目は、キューピーちゃんからだと手塚治虫自身が言っているが、「そういわれればそうかな?」ぐらいだ。革新的な功績を成し遂げた天才は、「オリジナリティ」にあふれた人だと思われがちだが、実はそれは正しくない。天才と呼ばれる人間は、その多くが模倣から出発しているし、どのくらい先達の作品を自分の血や肉として採り入れたかが後々、その人の「オリジナリティ」としてモノを言ってくるのだ。これはピカソが若い頃「古典派の巨匠のような絵を描く」と感嘆されたことからも分かる。若くしてそれほどのテクニックを身につけていたからこそ、ピカソは古典的なスタイルを破壊し、新しい様式を創造し、されにそれを破壊しつづけてピカソ・オリジナルの世界を確立できたのだ。鳥嶋氏は言及していないが、鳥山明の『ドラゴンボール』にも、『鉄腕アトム』の影響があることに気づいた人がいる。いまさら鉄腕アトムを読破して驚くドラゴンボールに与えた影響:ムゲンホンダナ(本棚持ち歩き隊!!):SSブログ (ss-blog.jp)実際にアトムを読んでみたら、これはスゲエ漫画だと思い知らされたのである。驚いたのは、今ある少年漫画のヒット作のあれこれを、すでに鉄腕アトムでやっているということだ。浦沢直樹「PLUTO」の元ネタ、「地上最大のロボット」を読みながら思った。空を縦横無尽に飛び回って戦う、これってドラゴンボールじゃん!主題歌の歌詞にも出てくる10万馬力。アトムの前に立ち塞がる敵ロボットは、30万馬力、50万馬力、100万馬力とインフレしていく。戦闘力じゃん!100万馬力の強敵、プルートウのデザインはフリーザの第二形態に似てる!ちなみにドラゴンボールは戦闘力5から始まってジワジワ上がっていき、戦闘力100万越えするのはフリーザ第二形態!これは狙ってやってたのだろうか。(引用終わり)それはともかく――Mizumizuが個人的に面白いと思ったのは、シッポをめぐる手塚治虫と鳥山明の態度の違いだ。鳥山明の場合は、上の画像にあるように、「シッポがないと特徴がない」と編集に言われて、シッポを足したものの、描くときに邪魔でしょうがなく、すぐに尻尾を切るエピソードを考えたのだという。手塚治虫は?Mizumizuが偏愛する『0マン』の主人公リッキーは、シッポのあるリス族の進化した生物なのだが、「この主人公にシッポをつけたのは、かいているうちに急にインスピレーションがわいたのです。漫画評論家のある人によれば、手塚はよくシッポのある人間の物語をかくということですが、たしかにそういえば、なぜかそういうキャラクターにへんな性的魅力を感じて、つい登場させてしまうのです。なにか、性的な異常心理と関係でもあるのでしょうか?」(『0マン』 あとがきより)せ、せいてきないじょうしんりって・・・、テヅカセンセ、ご自分で・・・『0マン』のリッキーも一度、このように↓シッポを失ってしまうのだが、すぐ人工物のシッポを作ってもらって、元の姿になっている。シッポを失ったときのリッキーの嘆き方も、尋常ではなく、愛おしそうに切れてしまったシッポを抱きしめ、「やわらかいフワフワしたぼくのシッポ。さようなら。もう会えないね」と涙をひとつぶながし、「シッポのおはか」まで作っている。シッポが切れてしまって熱にうなされるリッキーの描写は、とても愛おしい。高熱で衰弱している少年の姿が、うるんだような瞳が、漫画的な表現なのにリアルにこちらに伝わってくる。そして、そのあとにくるエピソード――リッキーを助けて自らは重傷を負ったまま立ち去るギャング(じつは元医者)の姿、快復したあとに亡くなった見知らぬ人やシッポのお墓をつくって弔うリッキー、たったひとりで荒野を歩みだすリッキー…この一連の場面、『0マン』の中でも、とりわけ好きだ。鳥山明作品については、読んでないので個人的な感想はなし。手塚治虫の後継者の呼び声が高いのは知っている。明治節にちなんでつけられた「治」。これに「明」を合わせると明治となる。なるほど、これは明治大帝の思し召しでしたか(サヨクはっきょう)。<次のエントリーに続く>【中古】 0マン 2 / 手塚 治虫 / 中央公論新社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.03.15
米アカデミー賞でアジア映画初の視覚効果賞を受賞した『ゴジラ-1.0』(山崎貴監督作品)。パニック映画の大げさな特撮シーンが実はかなり好きなMizumizu、この作品は映画館で観た。面白かった。初代ゴジラ映画(1954年)も、テレビ放送を観ている。最高に素晴らしい娯楽映画だった。そのあとの「ゴジラシリーズ」は、さすがにおちゃらけすぎたり、マンネリ化したりして、全部は追っていないが、渡辺謙が出た『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は劇場まで足を運び、楽しんだ。みんな大好きゴジラだが、手塚治虫もゴジラが大好きだった。これは手塚治虫のエッセイ『観たり撮ったり映したり』から、ゴジラにまつわるエピソード。『ウルトラQ』に『W3』が「蹴散らされてしまった」時のエピソードを臨場感あふれる筆致で面白おかしく書いている。イラストが秀逸なんてもんじゃなく、最高。テレビから出てきたゴジラ(と、それをもとにした怪獣たち)が、W3のキャラクターを打ちのめし、それを手塚治虫の実子手塚真(眞)氏が大喜びで拍手喝采。父でありW3の生みの親の漫画家がくやしがっている。ゴジラとあわせて、ウルトラQのスター怪獣(?)がイイ。柔らかめの線で描かれたカネゴンなんて、素晴らしいじゃないですか。このイラスト原画、残っているのだろうか?? 「なんてったってゴジラが最高作」という手塚治虫の眼はさすがに鋭い。1950年代の日本で作られたキャラクターが日米で人気を博し、何度も映画化され、ときには大コケしながらも、アイコン的存在として受け継がれ、ついにアカデミー賞の舞台で伊福部昭の、あの誰もが知るテーマ音楽が流れるというところまできたのだから。ところで、手塚治虫は恐竜にインスパイヤされたと思われる、「ゴジラに似た」キャラを何度も作品に登場させている。Xユーザーの時星リウス@妄想自由人さん: 「手塚治虫先生はゴジラ公開より6年前の昭和23年に『ロスト・ワールド』という漫画にゴジラっぽい恐竜を描いてましたね。 #手塚治虫生誕祭 #ゴジラの日 https://t.co/kYARUbcFRo」 / X (twitter.com)そして、奇しくも(笑)、ゴジラ様と漫画の神様は誕生日が同じなのだ。これ、ネタにしてる人いるよね? と思って検索してみたら、いました、いました。Xユーザーの妖介🐐さん: 「推しの誕生日全然把握しとらんなワイ…11月3日だけは手塚治虫とドルフ・ラングレンとゴジラの誕生日なので覚えてる。 https://t.co/oxITNGopCx」 / X (twitter.com)しかし・・・11月3日は、日本を近代国家へと導いた明治天皇(別名:明治大帝)の誕生日なのですよ、もともとは。それで祝日なのですよ。手塚治虫の本名は手塚治で、「明治節」から取ったのですよ。ついでに、11月3日はさいとう・たかをの誕生日でもあるのですよ。さらに言うと、11月3日は、フィギュアの皇帝「エフゲニー・プルシェンコ」の誕生日でもあるのですよ。手塚治虫も宇宙人などと言われたが、プルシェンコも現役時代は、宇宙人と呼ばれていたのですよ。手塚治虫とゴジラとプルシェンコのコラボマンガは…さすがに見当たらなかった。だれか描いてください。最後に、手塚プロダクション公式サイトの「虫ん坊」からゴジラにまつわるページを。https://tezukaosamu.net/jp/mushi/201806/column.htmlこれは是非とも『手塚治虫×ゴジラ展』を! 著作権的に微妙ですかね…? そのへんはお話し合いをお願いします。【中古】 観たり撮ったり映したり / 手塚治虫 / キネマ旬報社 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.03.12
<昨日のエントリーから続く>『ベルサイユのばら』のロザリーが、『白いトロイカ』に出てくる…いや、『白いトロイカ』のロザリンダが『ベルサイユのばら』のロザリーになった?――という昨夜のエントリーに続き…ロザリーだけじゃない、他にも『白いトロイカ』に、『ベルばら』のサブキャラが登場しているという話をしようと思う。『白いトロイカ』で、Mizumizuが最初に、「あれっ? ジャルジェ伯爵夫人(オスカル様の母)」と思ったのが、このコマの女性の髪型。横の髪の流れ方が特に、ジャルジェ伯爵夫人の特徴そのもの。続いて、びっくらしたのが、メルシー伯が『白いトロイカ』にいるじゃありませんか?これだって、気づいた人いるよね? と検索したら、やはり…『ベルばら』ファンだという、この方のブログ。https://ameblo.jp/pampanico/entry-12838970261.htmlやはりね。そう思ったよね。「メルシー伯がいる!」って…ここまでいくと、ほとんどもう「スターシステム」。ただ、手塚治虫のこのシステム――少女マンガ家で積極的に採り入れたのは、木原敏江かな、と思うのだが、彼女はあくまで自作のキャラをスター俳優として別の作品に登場させる、文字通り手塚流スターシステムなのだ。それが先輩漫画家のキャラだというのが、やはりねえ、ちょっと…いや、ちょっとというレベルじゃないかもしれない。上に紹介したブログでも採り上げているお墓のシーンの構図…手前の十字架の大きな配置と傾き方とか、左後ろに別の十字架が2本あるところとか。花の位置をわざわざ変えたり、ここまで構図が似ていると、手元に『白いトロイカ』を置いて描きましたか? と聞きたくなる。ほかにも、「これベルばらにもあったよね?」という構図が、あちこちに出てくる。池田理代子がやらかした、「キャラが似すぎている問題」といえば、やはりアレだよねえ、山岸凉子の名作『日出処の天子』。これはもう、Mizumizuが書くまでもなく、りっぱなサイトがあるので、そちらをご覧あれ。https://w.atwiki.jp/ikeda_cribbed/ただ…実は池田理代子作品で、別の作者の既存作に似てるなあ…とMizumizuが思ったのは、ずっと昔だが、あったのだ。それは福原ヒロ子の『従姉ヴァレリア(1974もしくは75)』と池田理代子の『クローディーヌ…!』(1978)。テーマは全然違い、『クローディーヌ…!』はトランスジェンダーを時代に先駆けて採り上げたとも言える作品で、主人公の名前からしてメダルト・ボスの『性的倒錯』を元ネタにしているらしい。「共同参画」2022年1月号 | 内閣府男女共同参画局 (gender.go.jp)池田氏:フランスのボスという心理学者の本にクローディーヌの症例が載っていて、「単にクローディーヌをトランスジェンダーとしてだけとらえることはできない。要するに違った性を持って生まれてきたのだ」というのが書いてありまして、それがヒントです。(引用終わり)一方の、『従姉ヴァレリア』は、もっと通俗的で、主人公が富豪の娘に成りすますことから始まるサスペンス。タイトルはバルザックの『従妹ベット』に着想を得ているのだろう。だが、この2作品、主人公(ヴァレリア/クローディーヌ)の設定――魅力にあふれモテモテ――とその恋愛対象の女性(モナ/シレーヌ)に対する一途で激しい恋愛感情&強引なアプローチが似ている。それに引きずられるように、あるいは憧れを恋愛感情と勘違いし、いったんは愛を受け入れるものの、最終的には心が離れていく相手の女性の、可憐で女の子らしい、そして微妙にズルいキャラクター設定も似ているのだ。女性同士の性愛を描いているところ、主人公に横恋慕する女性キャラが出てくることも同じ(ただし、池田作品のほうがより深みのある性格に設定されている)。最後に主人公が自死を選ぶという結末も共通している。『従姉ヴァレリア』は大好きな作品で、中学の帰りにある本屋によって掲載誌の『セブンティーン』をさがすのが楽しみだった。これ、実写ドラマにしてもらえませんかね? 今読んでも面白いと思うのだが。話がそれた。このくらいにしておこう。【中古】少女コミック 白いトロイカ 全2巻セット / 水野英子【中古】afb【中古】 性的倒錯 / メダルト ボス, 村上 仁, 吉田 和夫 / みすず書房 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】従姉ヴァレリア(分冊版) 【第1話】【電子書籍】[ 福原ヒロ子 ]
2024.03.09
少女マンガの金字塔『ベルサイユのばら』(池田理代子)。この作品、Mizumizuが小学生のころ、週刊誌に連載されていて、毎週熱心に読んでいた。物語の元ネタは明らかにシュテファン・ツヴァイクの『マリー・アントワネット』で、『ベルばら』より先にこの小説を読んでいたMizumizuには、ツヴァイクのコミカライズの部分が多い作品だと感じていた。歴史上の人物の発言などは、ほぼツヴァイクの小説にあるものを少し言い回しを変えただけという印象だったが、そこに架空の人物がロマンチックに絡んでくるのが『ベルばら』の最大の魅力だった。週刊誌連載当時は知らなかったが、長じて手塚治虫の『リボンの騎士』という作品があるのを知った。男装の麗人・オスカル様の元ネタは、明らかにコレだろうと思ったのだが、不思議なことに池田理代子自身は『リボンの騎士』に言及していない。心を打たれたとして挙げている手塚作品は『つるの泉』。作画については、影響を受けたのは水野英子だと言っている。https://www.nikkei.com/article/DGXMZO49580760Z00C19A9000000/なるほど。水野英子は手塚治虫の弟子のようなものなので、水野タッチに影響を受けた池田理代子は、実は手塚の直系孫弟子と言っていいかもしれない。と、池田氏本人のインタビューを読んで思ったのはここまで。Mizumizuは『ベルばら』世代なので、水野英子には「遅かった子供」だ。もちろん名前は知っていたし、絵は見たことがあったが、『ベルばら』が流行っていたころの目には古く見えて、あえて読んでみようとは思わなかった。最近、水野氏は積極的に発言を始め、メディアもそれを採り上げることが多くなってきた。水野作品も復刻されて電子版で読めるようになった。それで、なんとなく『ベルばら』を想起させる絵柄の『白いトロイカ』を読んでみた。で…驚愕!!なんと『白いトロイカ』の主人公ロザリンダが、『ベルばら』のロザリーにクリソツ!!ここでロザリーについて説明すると、彼女は「王妃の首飾り」事件を起こすジャンヌの異母妹で、実母はアントワネットのお気に入りのポリニャック夫人という、まー、どう考えたってマンガ以外ありえない設定。さらに後年、マンガの最終局面で、革命によって牢獄につながれたマリー・アントワネットのお世話係としてそばに仕えることになる。マリー・アントワネットの最後のお世話係には実在したモデルがいる。もちろん実際は平凡な女性だが、その女性にドラマチックな出生の秘密と主人公オスカルと絡む波乱の人生を与えたところが、『ベルばら』の大いなる魅力になっている。実在のロザリーについては、こちらをどうぞ。https://fr.wikipedia.org/wiki/Rosalie_Lamorli%C3%A8reところが、だ。『白いトロイカ』を読んだら、そっくりなのはロザリンダとロザリーの絵柄だけではなかった。ロザリーの出生の秘密と波乱の人生(特に恋愛相手の特性)まで、あまりに似すぎていたのだ。びっくりしたな~、もう。で。他に気づいてる人、いるよね? と思って検索したら、やっぱりいました。https://ameblo.jp/ikeda-riyoko/entry-10461452977.htmlこのブログでも挙げられている、二人に共通するのは…◎ほぼ同じ髪型(いくつかパターンがある)で出てくること。◎平民に育てられたが、実際には貴族の娘であるという出生の秘密があること。◎ロザリンダ/ロザリーに貴族としての礼儀作法を教える高貴な人物が現れる(このあたりは『マイ・フェア・レディ』風。ついでに育ちの悪さが出てしまうエピソードも『マイ・フェア・レディ』のイライザとロザリンダ/ロザリーに共通)という展開。ちなみに、その高貴な人物(レオ/オスカル様)は、貴族ながら革命に身を投じて落命する運命というのも同じ。◎ロザリンダ/ロザリーと結ばれるのが、西洋版「ねずみ小僧」みたいな黒い鷹/黒い騎士。『ベルばら』を彩るロザリーの多くのエピソードが、ロザリンダとそっくり。そっくりすぎる。上記のブログに絵柄の類似点を指摘した写真があるが、ブログがなくなってしまうと、写真も消えてしまうので、同じものを貼っておきます。まずは、リボンの色が白か黒かってだけの違いにしか見えない髪型。ヘアバンドまで同じ、ボリューミーな髪型こっちはヘアバンドではなくて、編み込み。次回のエントリーに続く。
2024.03.08
♪空をこえて~ ラララ 星の彼方 ゆくぞ アトム ジェットのかぎり~Mizumizuでもソラで歌える『鉄腕アトム』オープニング主題歌。You TUBE時代になって、アメリカ版『Astro Boy』も聞けるようになった。https://www.youtube.com/watch?v=d3UbaB7oPTwで、聞いてみて、え~! この歌詞、イイじゃん!!となった。てっきり日本語の歌詞を訳したものだと思っていたのだが、全然違う。日本語のほうがやさしい感じで、英語のほうはもっと勇ましい感じ。だが ♪Rocket high, through the skyとか♪Astro Boy, as you fly,Strange new worlds you will spy,Atom celled, jet propelled...なんてところは少し共通しているようでもある。とはいえ、「戦う」「ヒーロー」というのを思いっきり前面に出しているのは非常にアメリカ的だ。特に「すげー」と思ったのは、♪Everything is GO, Astro Boy!これ、すんごく米語的。簡単そうでいて、相当センスのあるネイティブでないと書けないようなあ…そして、続くラストの盛り上げが素晴らしい。Crowds will cheer you, you're a hero,As you go, go, go Astro Boy!Cが連続する発声のおもしろさ。Everything is GOで準備万端整えて、GO, GO, GOで皆がヒーローを後押ししている感じの強さ。日本語版とはずいぶん違って、やはりアメリカ的になってるなぁ……と、つまり、Mizumizuは日本語の主題歌が先にあったものだということを疑っていなかったので、そんなことを考えた。だが!調べてみたら、なんとオープニングの主題歌はアメリカ版のほうが先だったというではないか!!『鉄腕アトム』のアメリカでの仕掛け人とも言えるフレッド・ラッド氏と2009年に話したという「こはたあつこ」氏の記事。https://www.cinematoday.jp/page/A0002248「よく言われるんだがね。手塚氏とは、不思議とユーモアセンスも近かったよ」と語るフレッドさんが、アトムのテーマソングについて、面白いことを語ってくれた。実は、かの有名なアトムのテーマソングの歌詞はアメリカ版が作られなかったら、存在しなかったというのだ。えっ? それはどういうこと?「1963年に放映された日本語版『鉄腕アトム』の最初の5話には、歌詞はなく、楽曲だけだったんだ。でも、当時アメリカの子ども向けのテレビ番組には、必ず歌詞がつき、ボーカルが入っていた。だから、アトムのアメリカ版には、新たに歌詞を作る必要があった」と語る。そのため、「有名な作詞家であるドン・ロックウェル氏に、歌詞をつけてもらった」そうだ。「最初の3話の英語版を終えたぐらいに手塚氏がアメリカに来たから、映写室でアメリカ版を見てもらったんだ。冒頭のテーマソングが流れて、歌詞が聞こえてきたときに、手塚氏は本当にびっくりしていたね。その後試写室から出てきて、突然、日本に国際電話をかけ始めたんだ。そして大声で、何やら話している。恐らく、『おい、このクレイジーなアメリカ人たちが面白いことをやってくれたぞ! 高井氏を呼んで、日本版にも歌詞をつけてもらおうじゃないか!』としゃべっていたんだろうね」そう笑いながら話すフレッドさん。もちろん電話口の話の内容は彼の想像だが、その後、それまで歌詞がついていなかった日本版の「鉄腕アトム」にも、1963年の6話以降は、すべて日本語の歌詞がついたというから、電話口での会話の内容も的外れではないかも知れない。しかし、そんな楽しいエピソードを体験したフレッドさんも、初めは手塚氏と会うことにあまり乗り気ではなかったそうだ。「オリジナルを作ったアーティストは、たいてい英訳の吹き替え版に満足しないんだ。だから、手塚氏も同じだろうと。でも、会って本当に良かった。試写室から出てきた手塚氏は、満足そうに大きくほほ笑みながら英語ではっきりと、『Ladd, you are GOD FATHER of Astro Boy!”(ラッド、君は、アストロボーイのゴッドファーザーだ!)』と言ってくれた。わたしも思わず叫んだよ。「アリガトーゴザイマース。デモー、アナタハ「テツワンアトムー」ノファーザーダ!」とね。手塚氏の作品が、最高の名作だったからこそできたことだ。わたしのしたことはたいしたことじゃない」とうれしそうに当時を振り返った。そんなフレッドさんは、アトムのほかにも、「鉄人28号」「ジャングル大帝」「科学忍者対ガッチャマン」など、数々の日本アニメの吹き替え版を手掛けている。また、「海底少年マリン」「マッハGo Go Go」「美少女戦士セーラームーン」では、コンサルタントも務めたそうだ。さすがに81歳になった今は「若い者に任せている」とのことだが、ニコニコしながら冗談を飛ばす姿は、まだまだ元気そうだ。そんなフレッドさんに、吹き替え版を作るときに一番大切なことは何かと聞いてみた。すると今度は真剣な表情になり、「オリジナルを作った作家が言わんとしていたコンセプトをよく理解すること」という答えが返ってきた。実は、アトムの吹き替え版は、フレッドさんが手掛けた作品以外にも、ここ近年にほかのバージョンが製作されている。しかし、中には、「手塚氏が言わんとしていたメッセージが、薄れてしまったように見えるものもある」とフレッドさん。「わたしが幸運だったのは、手塚氏とじかに交流することができたことだと思う。だから、『鉄腕アトム』で手塚氏のユーモアや、彼が伝えたいメッセージが理解しやすかったのでは」と語る。では、手塚氏が「鉄腕アトム」で描きたかったことは何なんだろう?「アトムはロボットだったけど、ピノキオのように人間の気持ちを持っていたという点が重要だと思う。アトムは人間と同じように傷つきやすい面があり、人間になりたいというコンプレックスを持っていたんだ。手塚氏が生きていたら、そこをきちんと描くようにと指摘したのでは」と語る。また、「手塚氏はわたしよりもずっと賢い人だった。わたしが到底できない、未来を予想する力があった。彼には遠い未来に、人間が人間の仕事を奪ってしまうロボットを疎ましく思う時代がやって来るということが見えたんだ。手塚氏はそういう時代が来たら人間とロボットが共存するために、規則が必要になると考えていた。ロボットは人間に背いてはいけないと。でも、ロボットを支配する人間の方も、ロボットに対して責任を持たなければならないということだ」とも語る。生命に対する愛が手塚氏の重要なテーマだったことについては、「手塚氏は生命を愛していた。彼は「生きているものが大好きだった。だから『生命が宿っているものすべてに優しく接してほしい』と常に話していた。それが彼の作品にも表れていると思う」と語った。81歳のアメリカ人男性が、手塚氏についてここまで理解してくれていることが非常にうれしかった。(引用終わり)「オリジナルを作った作家が言わんとしていたコンセプトをよく理解すること」が一番大事だと語るフレッド氏。それを日本のテレビ局や映画関係者、それに漫画を原作にして脚本を書く脚本家にレクチャーしてくれませんかね? 『セクシー田中さん』の悲劇を発端に、今、まさに日本で議論されている問題ではないか!手塚治虫をここまで理解してくれた人物が『アストロボーイ』に関わってくれたのは、『鉄腕アトム』にとって幸運だったのだと改めて感動した。こういう人がいたからこそ、『アストロボーイ』がアメリカの子供たちの心に届いたのだ。先に紹介した英語版主題歌のサイトのコメント欄には、英語で多くの賛辞が寄せられている。どれほどアメリカで『アストロボーイ』が愛されたか分かる。作品には、もちろん、それが持つパワーという「車輪」が一番大事だが、それをヒットさせるには、別の「車輪」が必要なことが多い。手塚治虫という人は、とんでもない人間に引っかかることもあったが、それ以上にスケールの大きな理解者に何度も巡り合っている。図抜けた才能は、奇跡のような出会いを呼ぶということだろう。そして、なんとオープニングの主題歌はアメリカが先だったという驚きの情報。しかも有名な作詞家を手配してくれたようだ。なるほど。イイ歌詞なワケだ。おまけにそれを聞いて手塚治虫はただちに日本に電話して、誰かに何かを話していたという。この時に電話したのは、もちろん自社の関係者だっただろうけれど、日本語の作詞を担当したのは、ご存知、谷川俊太郎氏で、『二十億光年の孤独』を気に入っていた手塚治虫自身が谷川氏に電話をかけて依頼したそうだ。https://www.huffingtonpost.jp/entry/tanikawa_jp_5c5a8f05e4b074bfeb16225b「あれは手塚治虫さんが電話をかけてきて『(歌詞を)書いてみないか』みたいなことを言われて...。まだ若かったので『あの手塚さんから電話がかかってきた!』と感激しましたね」(引用終わり)谷川氏が英語の歌詞を見たかどうかは、明かされていないので分からない。アメリカサイドから歌詞をもらうことは簡単だが、それならそうと谷川氏が話しそうなものだ。あえて英語の歌詞は見せずに谷川氏のオリジナリティに期待したかもしれない。ところで、こはた氏の記述には誤りがある。青文字にした「それまで歌詞がついていなかった日本版の「鉄腕アトム」にも、1963年の6話以降は、すべて日本語の歌詞がついた」の部分。歌詞がついて放送されたのは31話から。ちなみに、すぐれた手塚評になっている『チェイサー』(コージィ 城倉)でも、第一話から歌が流れたことになっている。手塚治虫の足跡をものすごく丹念に調べ上げて描いた作品なのだが、ここは残念。Mizumizuも最初に『チェイサー』を読んだときは、第一話からあの名曲が歌詞つきで流れた――というか、歌詞が先にできたと思い込んでいたから、何の疑問も持たなかった。You TUBEには第一話のオープニングも上がっていて、それを見ると、上の『チェイサー』の映像の説明も違っている。https://www.youtube.com/watch?v=KGq6z1mEU9Q&t=2sチェイサーの映像は後期バージョンだ。それも上がっている。https://www.youtube.com/watch?v=lOn4lh-hPxUMizumizuは初期バージョンはうっすらと、後期バージョンはかなり憶えている。前期・後期の記憶がごちゃごちゃになってはいるが、初期バージョンでは、アトムの一発で悪者が将棋倒しになるところが、幼心にメチャ受けした。後期は飛行機の乗客に手を振る場面と雪山の木々の間を低空で飛んでいく場面が特に好きだった。しかし、アトムってカワイイな~。あの5本のまつ毛とか、大きな目とか、ふっくらした身体のラインとか(はあと)。手塚プロがYou TUBEの公式サイトで1963年版を限定公開してくれたのだが、その中のカウボーイのコスプレ(こすぷれ?)も似合ってた(はあと)。【中古】アニメが「ANIME」になるまで—『鉄腕アトム』、アメリカを行く
2024.03.04
手塚治虫がほとんど常に大量の仕事を抱え、その結果として必然的に、頻繁に締め切りに遅れていたのは有名な話だ。さいとうたかをがよくラジオなどで「僕は締切に遅れたことはない。(血液型)A型だから」と話しているのをMizumizuも聞いた記憶がある。「手塚先生はよく遅れてた。B型だから」と同氏が話しているのも聞いた気がする。確かに手塚治虫の生前は血液型はB型という話が流布されていたが、実際にはどうやらA型だったらしい。ところで、『神様の伴走者 手塚番13+2』(佐藤敏章)を読んでいて、Wikipedia(ウィキペディア)の「横山光輝」の記述が正しくないことに気づいた。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%AA%E5%B1%B1%E5%85%89%E8%BC%9D締切に関しては非常に誠実で、『三国志』連載中は当日の朝に編集者が仕事場に行くと、玄関口に完成原稿が封筒に入れられて置かれていたという。(引用終わり)この話、おそらく担当した編集者から聞いた話がもとになっているのだろう。その編集者が横山番として『三国志』の原稿を取りにいっていた間はそうだったのかもしれないが、横山光輝がいつもいつも締切に誠実だったかというと、実はそうでもないらしい。「少女クラブ」で手塚番だった新井善久氏が、編集者人生の初期に手塚番をやって良かった点は、多くの新人マンガ家たちから神とあがめられる漫画家の担当者だったおかげで、彼らから一目置いてもらったことだと『神様の伴走者 手塚番13+2』の中で述べている。そして、同時にもう1つ。締切を守らない手塚治虫の担当で苦労したことで、のちのち、「ちばてつやさんとか、横山光輝さんとか、居催促常連作家の原稿取りを苦労におもわなくなったってことも(良かった点として)ありますね。」と言っているのだ。横山光輝=居催促「常連」作家と言い切っているところを見ると、横山光輝が長いキャリアの中で、締切を守れたか守れなかったかは、あくまでその時に抱えていた仕事の量によるということだろう。少なくとも、新井氏から見た横山光輝は「締切に関しては非常に誠実」ではなかったというのは確かだろう。ちなみに、『ブッダ』で手塚番になり、同時に横山光輝の担当でもあった竹尾修氏は、『神様の伴走者 手塚番13+2』の中で、手塚治虫は横山光輝のストーリーテラーとしての手腕を認め、ドラマ構成のうまさを「すごい」と思っていたのではないかと語っている。インタビューアーが「ライバル視するということは?」と尋ねると、竹尾氏は、「手塚先生のほうから? いや、あんまりないですね。意識されてたのは横山先生のほうだったと思いますけどね。もちろん手塚先生のほうが先輩だから、一目も二目も置いてらっしゃったけども、自分が連載している雑誌に手塚先生が加わったということで、手塚先生の存在を意識されたかもしれません。ある時、『手塚さんの存在が太陽だとすれば、自分は月で良いんだ』と、そういう表現をされたりしてましたから。手塚先生って華やかで目立つじゃないですか」と、答えている。手塚番 ~神様の伴走者~【電子書籍】[ 佐藤敏章 ]
2024.03.01
物語の嗜好は、その人が過去に何を好んだかでだいたい固定されてくる。どのような教養の中で育ったか、それによって何を読むか(観るか)が決まってくるといってもいいだろう。Mizumizuが手塚治虫を好むのは、この天才漫画家が感動した小説や映画にMizumizuと共通するものがあるのではないか――そう思って、手塚自身のエッセイを読むとき、そうした言及に注意を払うようにしてみたことがある。結果――手塚の興味、いわゆる守備範囲は広すぎて、大きな円にMizumizuの小さな円が含まれてしまう感じだ。Mizumizuは手塚治虫ほど読書家ではなし、映画好きでもない。ただ、手塚治虫が具体例として解説などで挙げている物語は、わりあい限定されている。『シラノ・ド・ベルジュラック』もそのひとつ。これはMizumizuも大好きで、小学生のころ、何度も読んだ。といっても、読んだのは少年少女向きにやさしく描き直された『悲劇の騎士』という作品名だったのだが。あとは手塚漫画の中に、元ネタを探して「やっぱり手塚先生もアレ読んでるな」と、過去の読者体験を思い出すのも楽しみのうちになっている。『アッシャー家の崩壊』のように、手塚自身が作品(『ロバンナよ』)の中で元ネタをバラしているものもあるが、たとえば『ブラック・ジャック 人間鳥』の、何とも言えないラストシーン。これを見て、Mizumizuは『スガンさんのやぎ』が元ネタだと勝手に確信してニヤニヤした。これに気づいた読者は日本中に何人もいまい――と得意になっているのだ。幸いなことに、Mizumizuの主張(思い込み)が作者によって覆されることは、もう、ない。最近のSNSの発達で、いろいろな人の手塚評が読めるようになった。やはり「知られざる元ネタ」を誇らしげに推測して「そう思う人いませんか?」なんて書いてる人もいて、「おんなじやな~」と、またニヤニヤした。残念ながら、その方の挙げた手塚漫画も元ネタだという作品も、Mizumizuは知らないので、当たりかどうかは判断つかないのだが。手塚治虫は『スガンさんのやぎ』を読んだか? なんて愚問だ。当然読んでいる。断言してもいい。同書は自由、命をかけた闘争…という手塚漫画を共通のテーマを持っている。勝てない相手に挑み、死という悲劇に終わりながら、その命がどこか輝かしいのも、手塚作品に共通する。『スガンさんのやぎ』は、やはり小学生だったMizumizuが絵本で読んで、衝撃を受けた作品だ。やぎの選び取った生き方とその結末について、ずいぶん考えた。スガンさんのやぎは、一晩の自由を得て、幸せがったのだろうか? スガンさんがやぎの運命を知ったとき、どんなに泣いただろう? そんなことを想像した。こうした逆説的な「自由意志」の賛美は、日本人の作品には滅多にない。あるとすれば手塚作品だ。例えば『ジャングル大帝』。レオは恩を受けた人間との約束を守るために、「行かないほうがよい」と分かっている場所へ赴く。自分が帰ってこれないかもしれないと分かっていても、自由な意志で彼の中の道徳にしたがうのだ。まるでカント哲学の実践のように。だから、レオの最期は悲愴ではあっても無残ではない。最近始まったインタビュー記事の連載の中で、水野英子は『ジャングル大帝』について以下のように語っている。https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20240222-OYT8T50085/最終回のことは忘れられません。本屋で「漫画少年」を買って家まで待ちきれず、店先で読み始めました。吹雪のムーン山で、レオがヒゲオヤジを助けるために自ら身をささげ、毛皮となる場面では、感動でポロポロ涙がこぼれました。親が死んでも泣かなかった子が、手塚先生のマンガにこれほど泣かされたんです。(引用終わり)ジャングル大帝の悲劇は、多くの子供には重すぎる。トラウマ級のショックだろうし、拒否反応を示す子供も多かっただろう。水野英子はもともと文学少女で、作品の質を見抜く眼が鋭かったのだろう。その「感性のエリート」ぶりは、藤子不二雄とも共通する。手塚漫画は、その時代その時代で、必ずしも「雑誌アンケート1位」の作品ではなかった。つまり、もっと大衆的な人気のを集めた作品は別にあった。だが、手塚漫画の真価を分かる読者が、あまりに才能豊かで、「物語るために生まれてきた」、いわば「物語のエリート」とも呼べる逸材だったのだ。そして、彼らがのちに人気漫画家として手塚を脅かすほどの存在になったことが、なんとも逆説的に手塚治虫という存在を「まんがの神様」にまで高めたと言える。「感性のエリート」水野英子は、小学4年生の時に『ホフマン物語』を見て、感激している、https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20240221-OYT8T50100/母と見た映画で一番印象深いのは、オッフェンバック作曲のオペラを原作にしたイギリス映画『ホフマン物語』です。小学4年生の時でした。幻想的な美しさに感激し、映画が終わった後も椅子にしがみついて「もう一度見たい」とだだをこねた記憶があります。この映画は、その後の私のファンタジー感覚の源になりました。(引用終わり)手塚治虫も、『ホフマン物語』に触発されて、『ばるぼら』を描いたと言っている。「『ホフマン物語』は、ぼくにとって青春の感慨であり、人生訓なのです」(講談社 手塚治虫漫画全集 『ばるぼら(2)』 あとがきより)青春の感慨――うまい言い方するなぁ。こういう「教養で完全武装したような言葉」をさらっと使える人が(多くの人がバカにしていた)戦後日本の漫画界に現れて超人的な仕事をしたことで、「教育上よろしくない」漫画を集めて焼いたりしていた人たちは、最終的に退場せざるを得なくなったのだ。水野英子を見出したのは手塚治虫で、手塚治虫の紹介で雑誌「少女クラブ」に描き始めるが、徐々に育ってきたことで、編集者の丸山昭は、「手塚治虫のバトンを完全に水野さんにタッチできた(佐藤敏章『神様の伴走者 手塚番13+2』)」と安心したと語っている。水野英子自身はインタビューで、自分は少女マンガ家だとは思っていないと述べている。https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20240218-OYT8T50108/「少女マンガ」というジャンルは1970年代に成立したものだと思います。私たちが50~60年代に少女誌に描いたものは「少女向けマンガ」と呼んだ方がいい。「少女マンガ」は、私たちの後ろにできた新しい言葉です。(引用終わり)水野英子自身の意識はそうかもしれない。だが、手塚治虫が切り拓いた「少女向けマンガ」のバトンを受け取り、次に水野に憧れた才能のある女の子たちがその分野に進出する。やがて、有名女性漫画家が次々生まれて「少女マンガ」が一大ジャンルとなる――その流れの源泉を作ったという意味で、やはり水野英子は「少女マンガの先駆者」だろう。彼女が「女手塚」と呼ばれる所以も、その影響力の強さにある。『神様の伴走者 手塚番13+2』でインタビュアーも、「水野さんが手塚先生の占めていたパートを担ったという印象はありますね」と述べている。手塚治虫から水野英子へ。この2人の先駆者の感性を刺激した作品が、同じ『ホフマン物語』だったというのも、偶然ではないのだろう。ちなみに、Mizumizuが最も好きな小説はゴーゴリの『外套』。感性が鋭かった若い時代に感動した小説はほかにもあるが、年を重ねて読み返しても昔とは違った視点で楽しめると感じた小説はこれだけだ。多くの小説は、それこそ『ばるぼら』の松本麗児じゃないが、昔受けた感動が古色蒼然として見える。だが、『外套』は時間が経ってもMizumizuを裏切らなかった。ゴーゴリはホフマンの影響下にあったという。その意味で、Mizumizuの嗜好も手塚・水野に水面下でつながっているのかもしれない。少女マンガはどこからきたの? 「少女マンガを語る会」全記録 [ 水野英子 ]【中古】神様の伴走者 手塚番13+2 /小学館/佐藤敏章(単行本)ばるぼら (手塚治虫文庫全集) [ 手塚 治虫 ]
2024.02.28
昨日紹介した記事の中にある鈴木伸一の「漫画家とアニメーション(アニメーター)というのは、本質的に違うもの」の好例がある。月岡貞夫と石ノ森章太郎の若き日の短いエピソードだ。月岡貞夫は小学生の頃から手塚治虫にファンレターを送り、それに返事をもらったりしていた。そして高校二年の時に、手塚からアシスタントにならないかと誘いを受ける。月岡は1年待ってもらい、高校を卒業するとその翌日に父親に黙って上京、手塚治虫のアシスタントになった。石ノ森章太郎は高校1年生の時に手塚治虫に乞われて『鉄腕アトム』のアシスタントを経験、その後すぐ17歳で漫画家としてデビュー。上京して一人暮らしをするが、生活能力ゼロ。見かねた赤塚不二夫が、同居して食事などの面倒を見始めた。なかなか仕事に恵まれない赤塚と違って、石ノ森にはコンスタントに仕事が入ってきていた。今では押しも押されもせぬアニメ界、漫画(萬画)界の巨人たちだが、月岡・石ノ森のこの二人、20歳前後の数か月(何か月だったかはっきりしないが、半年以上だったという説が有力)、東映動画で「同僚」だったことがある。1958年、東映動画が手塚治虫に『ぼくのそんごくう』をマンガ映画にしたい(当時はアニメという言葉はまだなかった)と持ち掛け、そこから始まった「手塚治虫、多忙につき」の迷走が、この二人の運命をほんの短い期間交差させることになる。アイディアを出した東映の白川大作氏のインタビュー記事が以下にある。http://www.style.fm/log/02_topics/top041115.html手塚さんは、アニメーションをやりたくてやりたくてしょうがなかった。それで、ディズニーについても、非常によく研究していたし、知識もいっぱいあった。それで「ストーリーボードから入りたい」と言い出したわけですよ。ストーリーボードを全部描くと言い出したわけ。こっちにしてみれば願ってもない話だった。ところがそれは手塚さんの、いつもの安請け合いだったんです(苦笑)。 とにかく、その時は手塚さんはアニメーションをやるという事で意気込んだわけですよ。そうすると当然、雑誌の仕事にしわ寄せが行くわけだ。その時、すでに大売れっ子でしょ。本当は漫画の連載だけで目一杯のはずなのに、アニメーションの方にウエイトを置いちゃったから、雑誌の方が全部押せ押せになっちゃうわけですよ。あの人は、連載の仕事にしても話がくるとほとんど断らんわけですよ。それだけの量がこなせる超能力者ではあったんだけどね、人間だからいつも上手くはいかない。どっかで穴が開いたり、編集が待たされたりするわけなんだけど。漫画界でも、劇的な変化が起ころうとしていたころだ。小学館と講談社が同時に週刊誌の創設を決め、時代が月刊誌から週刊誌へ移ろうとしていた。手塚治虫争奪戦も起こった。東映動画の『西遊記』(手塚の『ぼくのそんごくう』)は迷走していた。手塚が描くと言っているストーリーボードが完成しない。というよりも、手塚に描く時間がなかった。雑誌の仕事は、それまでは月の後半に集中して月刊誌を描いていけばよかったが、週刊誌連載も始まったので、毎週締め切りが来る事態となっていた。東映動画の打合せにも定刻通りに着いたためしがなかった。東映動画では手塚への不信感が増していき、雑誌の編集者たちはこれまで以上に原稿の締め切りが遅れるのでいらだっていた。両立は無理だった。手塚と編集者たちの間に立つマネージャーの今井は、「もう大泉(東映動画)へ行くのをやめてください」と言わざるを得ない。手塚もさすがに両立の困難さを痛感していた。(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より引用)。こうした事態を打開するために派遣されたのが、実家が映画館を経営していて子供のころからアニメの研究をしていた月岡貞夫。手塚のラフなストーリーボードを完成させる役割だった。しかし、いかに作画の速い月岡でも一人では手が足りない。そこで追加派遣されることになったのが、手塚と同じくらいディズニー好きで、手塚をして「ディズニーが放棄していった抒情性を、突き詰めるだけ突き詰めたような作品」を描くと言わしめたを石ノ森章太郎だった。彼らの人件費も自分が出すと手塚は申し出ている。上の絵は、数ある手塚関連本の中でもバツグンの面白さを誇る(笑)『ブラック・ジャック創作秘話』から。月岡貞夫(左)と石ノ森章太郎が東映動画にバス通勤をしている情景。もともとはストーリーボードを完成させるだけの短期間の派遣だったのだが、東映動画に通ううち、二人はどんどんアニメ制作にのめり込んでいったという。石ノ森章太郎は仕事に迷いを感じている時期だった。もともと漫画をステップに映画監督になりたいという希望をもっていたのもある。当時の漫画家という職業は世間的にはまだまだ認知されておらず、社会的な地位も低かった。赤塚不二夫は東映動画にマジメに通う石ノ森章太郎の姿を見て驚いたようだ。「ストーリーボードを描くために、毎日サラリーマンのように東映に出勤していく君に、また驚いたものだ。自由業で不規則、生活はかなりワガママいっぱいに暮らしていた君が、あんなにキチンと通うことは不可能だと思っていただけにね」(赤塚不二夫『石森章太郎氏への手紙』)。月岡・石ノ森の両人は、ふたりとも東映動画に就職したいと白川氏に相談したようだ。ここで白川氏は二人の才能の方向に見合った決断をする。のちに「天才アニメーター」の名をほしいままにする月岡貞夫に関しては、白川が保証人となって東映動画に入社。石ノ森章太郎はそれについて、「アニメーションに向いた体質だったというか、才能があったんだな」と、『ことばの記憶』で書いている。石ノ森に対して白川は、漫画を続けたほうがよいとアドバイスする。http://www.style.fm/log/02_topics/top041115.html白川 月岡くんと石森は、最初は手塚さんが連れてきた助手なんだけど、やってるうちに2人とも「このままアニメーションをやりたい。東映動画へ入りたい」と言い出したわけ。その時、僕はまだまだ入って2年目ぐらいのペーペーだけど、僕が保証人の1人になって、月岡君を東映動画に入れたんですよ。石森は個性が強すぎて、上手いんだけどアニメーターには向かないと思ったんです。── 石森さんの後の活躍を考えると、正しい判断でしょうね。白川 「やめろ。あんたは、ちゃんと漫画をやれ」と言ったんですよ。「もうちょっと漫画を描いて、漫画が売れるようになったら、その頃は、俺ももうちょっと偉くなってるだろう。その時はお前の原作買いに行くから」って。それが後の『サイボーグ(009)』になるんですよ。その後ですよね、石森が段々売れ出したのはね。もし、その時に彼が東映動画へ入ったって、途中で辞めたと思うけどね。あの東映のアニメーションの制作システムの中で、石森章太郎が、大工さんや森さんの下についてアニメーターになれたかって言ったら、多分、なれないですよ。だけど、月岡君は天性のアニメーターだったから。月岡氏を「天性のアニメーター」と呼び東映動画に引き入れた。石ノ森氏のことは「個性が強すぎて、上手いんだけどアニメーターには向かないと思った」「東映のアニメーションの制作システムの中で、石森章太郎が、大工さんや森さんの下についてアニメーターになれたかって言ったら、多分、なれない」と判断して、自分の世界だけで勝負する道を奨めた。その後の漫画界での石ノ森章太郎の超ド級の大活躍を見ると、白川氏の目の確かさには、唸る。さて、手塚制作のキャラクターについて、東映動画のアニメーターはケチョンケチョンにけなしたらしい。白川 『西遊記』の話に戻ると、キャラクターも手塚さんが全部作ったんですよ。ところが、これが東映のアニメーターから総スカンだったんです。要するに「デッサンがなっちゃない」とか「前と後ろが違う」とか、画としてしっかりしてないと描けないというのが、アニメーターの意見だった。── このパンフレットに掲載されているのが、その時の手塚さんのデザインなんですか? これが総スカンを食ったものと考えていいんでしょうか。白川 そうそう。これが総スカンを食ったものですよ。それでね、清水崑さんの画をみんなが直したのと同じように、みんながそれぞれ修正を始めたわけです。だけど、そこに月岡君がいたから。彼は東映動画の中では全くの新参の若者だったわけだけど、才能もあったし、鼻っ柱も強かったからね。キャラクターデザインのかなりの部分を月岡君が担ったんです。白川氏は手塚漫画のファンだったということもあり、東映動画の中では「手塚寄り」のスタンスだった。「手塚の回し者」などと悪口も言われたそうだが、才能を見抜く目の確かさは、東映動画アニメーターが束になってもかなわない。内部にいて見えた東映動画の悪い点も冷静に指摘している。白川 ここで、あえて東映動画の悪口を言いますとね。── (笑)。白川 後に虫プロは、手塚治虫の画をアニメーター達が描いたわけですよ。ディズニーも最初はディズニーの画をアニメーター達が描いたわけですよ。ところが東映動画は全然違ったんですよ。どっちの結果がよかったかは別として。『白蛇伝』も最初は岡部一彦のデザインで、それは後になって大工さん(大工原章)や森さんが描いたものは、かなり違うんです。── そうですね。白川 あの頃、日本のアニメーターは、人の画に合わせて描こうという意識があまりなかったんですよ。ちなみに、白川氏は東映本社の人物で、東映動画の社員ではなかった。だが、東映動画の企画部で働いていた人間。だからといって、東映動画内の声ばかりを代弁するような人だったら、その後の白川大作の活躍もなかっただろう。上の発言を読むと、当時の東映動画に何が欠けていたかを冷静に見ているのが分かる。月岡氏にとってはもちろんだが、石ノ森氏にとっても白川氏との出会いは、その後の「自分にもっともふさわしい道」を選ぶきっかけとなったという意味で、非常に貴重だ。そして白川氏は約束を守る。石ノ森章太郎の『009』をアニメ化したのだ。そこから今日まで続く009伝説が始まったのだと思うと、その業績ははかり知れない。手塚治虫に倣うように早世してしまった石ノ森章太郎とは対照的に、月岡貞夫は日本人の「国際的アニメーター」の草分けとも言える存在になり、長くアニメ業界で活躍する。後進の指導にもあたり、アニメーションの技法書も多く執筆している。現在は大学でも教鞭をとり、2024年2月6日には中国で作品展も開き、本人(80歳超え!)も現地に飛んでいる!https://www.takara-univ.ac.jp/tokyo/news/2024/02/0206news.htmlアニメーション作家として活躍し、本学の特任教授を務める月岡貞夫氏による展示「不行不至-月岡貞夫作品展」が良渚文化芸術センター(中国・浙江省杭州市)にて、1月8日(月)から2月3日(土)まで開催されました。 月岡氏は、2009年に中国美術学院伝媒・動画学院(現:動画・遊戯学院)の客座教授に任命されており、日本と中国のアニメーション教育に深く携わっています。のちに業界を代表する存在になる月岡貞夫、石ノ森章太郎、そして白川大作の3人の若き日の出会いとエピソードは、「どうやって自分にもっともふさわしい、自分の道を切り開いていくか」のお手本のようにMizumizuには映るのだ。【中古】 月岡先生の楽しいアニメ教室 4 / 月岡 貞夫 / 偕成社 [単行本]【宅配便出荷】【中古】 NHKみんなのうた絵本 3 / 月岡 貞夫, 加藤 直, 井出 隆夫 / 童話屋 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】ブラック・ジャック創作秘話手塚治虫の仕事場から 3【電子書籍】[ 吉本浩二 ]
2024.02.24
トキワ荘の住人で、早い時期に漫画からアニメーション畑に転向した鈴木伸一(現・杉並アニメーションミュージアム名誉館)。その長いキャリアについてはWikiを読んでいただくとして、彼が藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫らと設立したアニメーションスタジオ「スタジオ・ゼロ」が、一度だけ、当時一世を風靡していた日本初の連続テレビアニメ『鉄腕アトム』の作画を請け負ったことがある。第34話「ミドロが沼」の巻だ。今、You TUBEで手塚プロダクションにより、この「お宝」映像が限定公開されている。https://www.youtube.com/watch?v=Zgw-jfzSXM4どうしてお宝なのかというと、この「ミドロが沼」、藤子不二雄、石ノ森章太郎らが描いたアトムが見られるからだ。手塚治虫を追って漫画家となり、のちに押しも押されもしない大家となる面々は、手塚治虫の後を追いかけて、アニメ制作にも足を突っ込んでいた時代がある。その様子と「ミドロが沼」のエピソードについて当事者だった鈴木伸一が語ったサイトが以下。『アニメと漫画と楽しい仲間』の出版に際してのインタビューだ。https://www.mag2.com/p/news/583417/3(ミドロが沼)は、スタジオ・ゼロの実質的な初仕事として手塚治虫氏から受けたものだったが、トキワ荘の漫画家たちそれぞれの作画タッチがそのまま各パートに出てしまい、手塚氏がラッシュを観て頭を抱えたという有名な逸話の詳細が本書のなかで述べられている。「それぞれが漫画家ですからね、漫画家っていうのは癖があってこそ漫画家、癖が出てくるのが当たり前、それを考えもしないで受けて、手がないからみんなで分散してやったわけですから、当然そうなるというのは明確なんですけど……。手描きっていうのは本当によっぽど訓練しないと統一できない。だから作画監督制度というものを東映動画あたりがその後始めたわけです。ただ、当時のスタジオ・ゼロの面々は、だれもが僕より手塚先生の漫画に心酔して漫画家になった人たちだし、それを僕が直すのも失礼だし、それがそのままアニメーションになっちゃった。それがそのあと色々話題になったり面白がられたり。だから、漫画家とアニメーションというのは、本質的に違うものなんですね」実際に見てみたら、確かに時々アトムのプロポーションや顔が明らかに変で、それが普通のアトムと混ざって出てくるからおかしくて仕方がない。どのアトムが石ノ森アトムで、藤子不二雄アトムで…と指摘したサイトもあるので、興味のある方は検索を。こういう手作り感のあるアニメ、今ではありえないから、返って楽しめた。鈴木氏は手塚治虫との思い出についても触れている。「手塚先生は横山(隆一)先生のことを大変尊敬されておりましたし、ディズニーも大好きでした。そんなわけで、横山先生の弟子でありディズニーが好きという共通項をもった僕に、よく電話をかけてくれて、ちょいちょいいろんなところへ遊びに行きました。今考えるととても幸せなことです」こうした古い話から、現在のアニメーション技術の見張る進歩についても語っている。表現しようとしているものが変わってきていますか?「変わってきていますね。描線ひとつにしても今はもうぜんぜん綺麗で美しい。僕らの時代はまだまだそこまでいっていなかった。アニメーションがこれから拡がっていくという時代です。今アニメ界を代表するような宮崎駿さんなどもその時代にダーッと入ってきた時代。手探りでしたね」「ただ、そういった昔のものには、今のものとは違う力強さや存在感があった気もします。今僕らがやっている個人やグループ製作のアニメでは、僕のパートでダーマトグラフ(グリースペンシル)なんかで乱暴に描いたところがみんなの評判がいい。綺麗に描くのもいいけど、『かんじ』を、それが欲しいなと思っています」その「かんじ」とは、いったいどのようなものなのだろう。お話をうかがいながら、鈴木さんが横山隆一氏のおとぎプロにいたころのアニメ制作にヒントがあるような気がした。当時鈴木さんも他のスタッフも、絵コンテというものの存在を知らなかったとのこと。「今考えると、よくあんなやり方でアニメーションが作れたな、と思います。横山先生が一枚さらさらとお描きになった原画を、このシーンを何枚で、というのがない状態で動きをどんどん描いていくわけです。長さはできてみないとわからない。僕はそういうもんだと思っていました、知識がなかったから」もしかしたら、当時の自由なアニメ製作の楽しさや創造性が、今鈴木さんが参加されているグループでのアニメ作業に回帰してきているのかもしれない。「今やっている個人製作は自由で楽しいです、ぜんぶ一人で、グループのみんなそれぞれが自分の世界を作っている。頭の中の世界と、手の技術で」「手探りで試行錯誤の製作、できてみないとわからない楽しさ、そこへ行っちゃうと逆にちゃんとしたアニメーションの作り方のような元に戻れない。つまんないから。そういう手作りの世界へどっぷり浸かっちゃうことになっちゃう」技術が進歩すればするほど、ひとりの人間の力量でできる範囲は限られ、やがて作り手は大きなシステムの中の歯車になっていく。分業が細分化すればするほど、作画という作業のもつ原始的かつ根源的な楽しみが、作り手から奪われていくと言ってもいいかもしれない。鈴木氏の話しているのは、そういうことだ。こういう日本アニメの歴史の話のできる人も、こういう「昔の」アニメ制作の楽しさを知る人も、すでにほとんどいなくなっている。鈴木氏は90歳超え。よくぞ生きて、語ってくれました。鈴木伸一 アニメと漫画と楽しい仲間 [ 鈴木 伸一 ]
2024.02.22
トキワ荘マンガミュージアムに行ってきた。現在、企画展「ふたりの絆 石ノ森章太郎と赤塚不二夫」展が開催中。小学校の集団見学があったとかで、今日は11時からの開館。午前中にかなりの訪問客があった。平日ということもあってか、年配者が多い。初めて行ったのだが、区立のミュージアムとしてはかなり頑張っていると感じた。直接トキワ荘とは関係のない里中満智子氏の尽力もかなりあったらしく、彼女の言葉が掲示されている。なにより良いと思ったのは、1ページの漫画ができるまでのステップを絵とビデオで紹介しているところだ。漫画を描くのがいかに大変な労力を必要とするかよく分かる。小学生の見学はどんどん受け入れるべきだし、宣伝もすべきだろう。Mizumizuの子供のころは、こういう施設はなかったから、週刊誌時代の連載漫画を見て、いったいどうやってこんな緻密な絵を毎週毎週描いているのか想像もつかず、まるで魔法使いだと思ったものだ。実際の制作過程を見ると、漫画を描くというのが、いかに地道な作業かが分かる。読む立場だけではなく、作る方の立場に立って物事を考える機会を与えられる施設になっているから、修学旅行での訪問先としてもふさわしい。「トキワ荘通り」に漫画の読めるスポットや昭和の暮らしを紹介する施設を配置したりと、前豊島区長の「漫画による地域振興を」の意気込みと熱意が伝わってくる。今回の企画展は石ノ森章太郎と赤塚不二夫。ふたりの友情を軸に、トキワ荘での青春時代のエピソードを紹介しつつ、貴重な原画展示などもあった。2024年2月18日のエントリーで紹介したデビュー前の赤塚不二夫の『ダイヤモンド島』の原画もあった。細かいコマ割りで、少し紙面がごちゃごちゃしてしまってはいるが、いかにも手塚風のストーリー漫画。のちの赤塚スタイルとはまったく違うが、うまい。手塚治虫はディズニーの「白雪姫」を何十回も見るうちに観客の反応を観察するようになり、名場面に無反応な観客を見てひそかに憤っていたそうだ。藤子・F・不二雄は、少年時代に手塚漫画を友達に見せて、反応がイマイチだと「コイツ、感性鈍いな」と憤慨している。こういう他人の反応の観察というの、Mizumizuも結構やるほうだ。今回は、めったに見られない石ノ森章太郎の原画展示のコーナーで、「昔は日本中の男のコが仮面ライダーに夢中だったわよね~」などと思い出話だけしてロクに絵を見ないでサーッと通りすぎてしまったおばさんに、「おいおい、そんな話より、原画だよ、原画。よく見なよ~」と言いたくなった。ま、つまり、この人は基本、漫画にあまり興味がないということだ。作品は、作品そのものも面白いが、それを見ている人がどう感じるか、その反応もまた面白い。石ノ森章太郎と手塚治虫の「ジュン」事件は、ネット上でよく話題になっている。例によって、「手塚治虫は嫉妬深い」と神棚から引きずり下ろすことに快感を覚える凡人はこの手の話ばかり広めるが、石ノ森の手塚治虫に対する敬意は、以下のエピソードに端的に表れている。石ノ森は少年時代に読んだ『ジャングル大帝』の動物オーケストラのシーンで、「音楽が聞こえた」のだという。そして、まるで手塚漫画の主人公のようにすっくと立って空を見上げ、「この感動を分かち合わなくては」と決意した自分の姿を漫画に描いている。石ノ森はクラシックマニアで、まだ駆け出しの時代に、原稿料が入ると、右から左へとクラシックレコードを買ってしまうほどだった。そんな石ノ森だからこそ、手塚治虫の音楽表現をダイレクトに受け取ることができたのだろう。手塚治虫の死後、その回顧展を東京国立近代美術館で開くべく力を尽くしたのも石ノ森だった。その時、美術館サイドは「あまりイベントくさくなっては困る」と石ノ森に言ったらしい。同時期に三越は手塚展を「大々的なイベントに」したいと石ノ森に話している。「イベント」にしたくない美術館とイベントとして盛り上げたいデパート。今では美術館のほうがイベント臭くっさくさの展覧会を開いているから、時代は変わったものだ。今回の石ノ森章太郎のエピソードは、以下より。【中古】 漫画家が見た手塚治虫 マンガに描かれた漫画の神様 / 手塚 治虫, 藤子 不二雄?, 石ノ森 章太郎ほか / 秋田書店 [コミック]【メール便送料無料】【あす楽対応】
2024.02.20
Mizumizuが「線の美しさ」に惹かれた巨人をの名を思いつくままに挙げるとしたら、雪舟、ジャン・コクトー、手塚治虫だ。漫画の始祖とも言われる「鳥獣戯画」の筆遣いにも感動したが、あれは誰が描いたのかはっきりしない。複数の作者がいるとも言われ、大いなる感動は鳥獣戯画の有名ないくつかの場面に限られる。ここで言う「線」とは、いわゆる西洋絵画のデッサンは含まず、あくまで絵画技法でいうひと筆ひと筆の「タッチ」に限定しての話。子供の頃、まず感動したのは雪舟の作品を見たとき。この人はどうして、こうも「(横に)まっすぐな線」をきれいに描けるのかという単純な、しかし深い感動だった。雪舟が実際にどのようにまっすぐな横線を描いたのかは分からない。だが、定規のようなものを当てて描いているとは思えない、「有機的」な勢いがその「タッチ」には確かにあった。あまりに有名な『慧可断臂図』も、達磨の体の大胆な筆遣いに驚かされた(絵画の主題などそっちのけ)。後景の緻密な表現と対象的な、きわめてシンプルな衣をまとった達磨の白っぽい表現。筆をどこで止めたかまで分かる勢いのある線の有機的な美しさ。謎もある。背中の真ん中あたりと腕でいれば肘のあたりでいったん筆を継いでいるのは、なぜ? これがずっと気になっている。特に、背中の真ん中でいったん筆を止めたのはどうしてなのか。ここの筆継ぎは、ちょうど構図の中央あたりにあるので、変に目立ち、見ようによっては一気呵成に描いたゆえの稚拙な失敗の印象にもなる。でも、全体の作画の力量を見ると、そんな簡単なミスをして、そのままにする画家とは思えないのだ。お尻の丸みを出すために筆の方向を変える必要があったのかな、と個人的に推測したこともある。だが、それなら、もう少し下で筆の方向が変わっているから、そこで止めたほうがよかったはずだ。もちろん、他の仮説も可能だが、真実は雪舟に聞かないと分からない。ところがここの筆止め、見ているうちに不思議なアクセントにも見えてくる。謎かけというか、遊びというか…雪舟の絵には、こちらの想像力を刺激する奇妙な違和感があり、それが「単にうまいだけの画家」にはない、独特な魅力になっている。有名な「秋冬山水図」もそうだ。「秋」の図は、わりにきっちり描かれていて、技法の巧みさは堪能できるが、面白くはない。雪舟の真骨頂は「冬」のほうにある。中央やや左よりに縦にひかれ、ところどころ途切れた、目立つ線。これはいったい何なんだろう? 見た人は必ず疑問に思うはずだ。岩肌の境にも見えるが、変に浮いている。まるで、このようなラフに線をまずひいて、そこからどんな絵が描けるか即興やってみたかのような、奇妙な不調和がある。でも、そんな無計画な描き方をするわけがない。画家の力量の高さ、緻密な構図のつくり方は、「秋」でこれでもかと示されている。「冬」はまるでそれを全否定するかのような、幻想的な作品になっている。木は生気を失い、うなだれた老人のよう。岩も木も家屋も、雪をいただいている。雪を屋根につんだ遠くの家屋は、屋根の線を途中で止めてしまうことで暗示的な表現になっている。細かいが、高度な技巧だ。こうした雪舟の謎かけ、写実をいったん捨てた幻想性、つまりは伝統的な山水画の中に雪舟が隠し入れた「自由」の精神が、実は雪舟の一番の魅力ではないかと思うのだ。自由は可能性を生む。その可能性が後世の画家を鼓舞し、破格のインスピレーションを与えたのではないか。この後世に与えた影響力――誰かを思い起こさせないだろうか? そう、漫画界における手塚治虫だ。これは今年開催される雪舟展のポスター。この煽りなんて、まるっきり「手塚治虫」に書き換えられる。「手塚治虫伝説」「漫画の神様の誕生!」藤子不二雄・石ノ森章太郎・横山光輝・赤塚不二夫・水野英子・里中満智子・萩尾望都・・・みんなの憧れ、みんなのお手本。ポスターでは雪舟と若冲の絵が並んでいるが、手塚治虫と並べてソックリな絵は、のちの有名漫画家の初期の作品からいくらでも探せるだろう。藤子不二雄の「手塚信仰」とも言える敬意はあまりに有名だが、石ノ森章太郎も自著『絆 不肖の息子から不肖の息子たちへ』で、こう書いている。「戦後間もない昭和22年、手塚治虫の『新宝島』という単行本が登場した。僕がこの本を初めて見たのは、刊行から3年ぐらいたった小学校6年のときだった。それは今までみたことのない漫画だった。絵が動いている! 映画少年だった僕には、そのマンガは背筋がゾクゾクするほど魅力的に見えた。絵画を原点とする『漫画』が、紙の上に描かれた映画という『マンガ』になったのだ」。「ギャグの王様」である赤塚不二夫の出発点が手塚だという話は、ライトなファンには初耳かもしれない。そうしたファンのために中学1~2年のころの赤塚不二夫のエピソードを紹介しておこう。手塚治虫の『ロストワールド』を一読して、藤雄少年(のちの赤塚不二夫)は自分もマンガを描こうと決心し、ミカン箱に紙をはって机にして毎晩漫画を描いた。最初は手塚治虫の真似だったが、やがて128ページの『ダイヤモンド島』という長編が完成した。藤雄は自分で製本もして表紙もつけた(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』)。少女漫画界の手塚とも言われる水野英子も、手塚作品との出会いが人生を変え、手塚の口添えがあって世に出た漫画家だ。「この時(手塚の『漫画大学』を読んで)受けたショックは言葉に表せないものでした」「絵の美しさ、巧みさ、かわいさ、内容の文学性、メッセージ性・・・。どれをとっても素晴らしくて『これこそ自分の探していたものだ!』と思いました」。(水野英子インタビューより)そして、1955年、少女漫画誌の編集者が手塚治虫に、以前描いた原稿を探してくれと頼まれ、押入れの天袋を探したとき、手塚のものではない原稿を見つける。「これはなんですか?」「下関の中学生の女の子が送ってきたものだよ。けっこういいセンスをしているから、育ててみたら?」雪舟は日本人の間では、押しも押さぬ「画聖」として認められている。ところが、海外での認知度はいまひとつだ。中国の水墨画とどう違うんだ? むしろ中国の亜流では? そう思う人が多いとも聞く。雪舟が日本で尊敬されるのは、単に「物凄く巧い画家」だからではない。その不思議な遊び心、幻想性といったオリジナリティが、のちに続く画家たちに幅広い影響を与えたからだ。こういう天才が、何世紀かに一度、ある分野に現れる。そして、天才の才能に圧倒されながら、独自の世界を構築しようと、あがきながら才能を開花させたものたちが、その分野のすそ野を広げ、新たな価値を生み、その職業につく者たちに対する世間の評価までを変えていく。昭和という時代に生まれた、手塚治虫という超ド級の天才が漫画を、日本をどう変えたか。それを目撃できた、私たちは幸運だ。
2024.02.18
手塚治虫は『ばるぼら』(昭和48年)のラストに、漫画家で本の収集家でもある「松本麗児」なる人物を登場させ、芸術というものの正体について語らせている。松本麗児はもちろん、松本零士がモデルだ。松本零士は、実際に古い漫画本のコレクターで、手塚自身も持っていない初期作品を所有していた。矢口高雄も『ボクの手塚治虫』を執筆するにあたって松本零士の手塚治虫コレクションを見せてもらいに出向き、対談している様子を同書の中で描いている。ボクの手塚治虫【電子書籍】[ 矢口高雄 ]『ばるぼら』では、レオナルドの「モナリザ」が日本に来たとき、初日に2万人もの人が一目鑑賞しようと押し寄せたり、ケースにカラースプレーをかける女が現れたりといった狂乱ぶりを、「国をあげてのセンデンに乗ったのだという声もある…」と書いている。そして、「だが一方、おなじくらいの、いや、もっと古い文明の産物である日本の芸術品が、国でろくな保存もされないままに、訪れる鑑賞者もまばらである」と続く。そのモノローグに描かれているのは、東大寺戒壇院の広目天。「これらの芸術品の中にはまるでたきぎのようにころがされ、並べられたまま、見返る人間もなく朽ち果てようとしているものもある」の絵はどこかの寺で乱雑に「保管」されている仏像群。この寺が昭和48年当時のどこを描いたものかはっきり断定はできないが、Mizumizuの昭和50年代前半ぐらいの東大寺三月堂の印象は、これにかなり近いものだった。今はもちろん、ちゃんと管理されているが、昔はあまりにラフというか、てきとーな仏像の置き方で、まるでただの倉庫だと、子供心に驚いたものだ。今の日本人は仏像の価値を理解している。芸術作品にふさわしい保存・管理が進んでいるし(それによって神秘性が損なわれたものもあるとMizumizuは思っている。たとえば三十三間堂がそれだ)、国宝というハクをつけた仏像の展覧会は非常に人気が高い。『ばるぼら』に登場する松本麗児は、「元来、感動とか情熱とかいうものとは別に、発表の場とかアッピールとかによってそのねうちがきめられちゃんです…」と語る。さらに、松本麗児は学生時代に最高の芸術だと思っていたものが、年を経た今になると古色蒼然として見える…と続ける。「だから芸術というものについてもかなり懐疑的なんです」。つい最近、総額2億円超えの「芸術」作品が、6年もの間劣化や盗難のおそれがある状態で保管されていたというニュースが出た。https://www.ktv.jp/news/feature/230725-bijutuhin/https://news.yahoo.co.jp/articles/27db41f57f947c02e3f1361b33d0acbbc90423b3(引用)駐車場に保管されていたのは、約7900点に上る「大阪府20世紀美術コレクション」のうち、鉄製の大型立体作品など105点。黒川弘毅(武蔵野美術大学 名誉教授)と山崎哲郎(彫刻家)による調査で明らかになったのは、ずさんな管理体制だった。資料によると、どの作品にも複数の種類の粘着テープ・ステッカーが目立つ位置に直接貼り付けられており、剥がすと粘着剤が付着する状態。また錆も発生していた。この錆は外気吹き出しダクトの位置と関係しており、作品を2017年に咲洲庁舎10階から地下3階に移動させたタイミングで急激に進行したと考えられるという。地下駐車場の湿度・気温は作品にとっては不適切で、外気温湿度の変動が直ちに影響する状態だとしている。(引用終わり)駐車場で保管…(苦笑)これなどは、むしろ、バブル期のアートブームにのって、「たいしたことない」芸術作品にやたらと高い「評価額」をつけて収集したものの、バブルがはじけて巷からマネーが消滅したら見向きもされず、困って放置した…という図に見える。評価額が本当なら、「盗難のおそれのある」場所で、今まで盗まれることもなく置かれていたというのがおかしいではないか。誰も欲しがらない、人知れず劣化してしまった「20世紀アート」を修復するのに、今度はいくらかけるのですか? で、それを誰が見ると?そうかと思えば、ピカソ作品が210億円で落札されたりといった、ニュースもある。https://jp.reuters.com/life/entertainment/BMSGPDXRDJLGFAMJYLURJPJRWE-2023-11-09/ピカソは確かに偉大な画家だが、だからといって210億って… バカバカしいにもほどがある。もはやこうしたビッグネームによる絵画は、芸術としての価値がどうかという問題ではなく、投資アイテムとしての価値がどうなのかという問題になってきている様相だ。松本麗児というキャラクターをとおして、手塚治虫は昭和40年代にすでに、時代によって「価値」の変わる芸術というものの正体を暴いている。「多分、今世界中に残っている芸術作品の、おそらく百倍か千倍の量のものがつくられたでしょうね。そのうちの何割かはこわれ、埋められ、焼けてなくなってしまいました。また芸術とみとめられずに、そのまま行方不明になったものもあります。そういうものが何百年もたってから急に最高の芸術品としてみとめられて、もてはやされることもあるし、芸術品と思われたものが急に飽きられて価値がダウンすることもあります」。モナリザ以上に古い文明の産物でありがなら、長い間見向きもされずにずさんに管理されてきた日本の仏像。評価額700万円のものもあるというのに、地下駐車場で保管されても盗まれもせず劣化してしまった現代アート。西洋ビッグネームアーティスト作品のバカげた落札額。「芸術とはしょせんそういうものですよ」(松本麗児に語らせる手塚)。もちろん重層的テーマをもつ手塚の『ばるぼら』は、斜め上から芸術の正体を暴いてみせる物語ではない。これは「芸術のデカダニズムと狂気にはさまれた」有名作家が主人公。彼はミューズに魅入られ、自らの正気と命を引きかえに、最後の作品を執念で書き上げる。「しょせんそういうもの」である芸術に殉じた作家の物語だ。
2024.02.14
上のタイトルは手塚治虫漫画全集(講談社 1982年)『ばるぼら』のあとがきからの引用だが、漫画をテレビの実写化するにあたっての改変が世間の衆目を集めている今、なんともタイムリーな言葉ではないか。漫画原作者からは、改変にまつわる「嫌な思い出」がさまざま語られているが、里中満智子氏の意見は、非常にニュートラルで冷静だ。https://dot.asahi.com/articles/-/213175?page=2私は、ドラマやアニメなどの二次創作は、原作とはまた別の世界だと思っています。というのも、自分の少女時代を振り返ると、好きな漫画作品がアニメ化されたときに満足したことがなかったんです。原作ファンとしては、「このキャラクターはこんな声のはずがない」とか「原作のこの部分をもっと生かしてほしかった」など否定したくなるポイントが次々と出てきてしまって。たとえば手塚治虫先生の『鉄腕アトム』は、漫画だと、世の中の不条理に対する独特の絶望感が漂っています。私はその暗さが好きだったんですけど、アニメになると、小さな子ども向けにすっきりとした明るさにまとめられていました。アニメ版も手塚先生が手掛けていたんですけど、夕方にお茶の間で流れるテレビアニメだと、まったく違った表現になるんだなと思いました。――ご自身の作品も、『アリエスの乙女たち』(1987)『鶴亀ワルツ』(1998~99)などドラマ化されていますが、“改変”をめぐるトラブルはありませんでしたか?出来上がったドラマは原作通りではなかったけれど、原作が持っているメッセージを伝えたいという気持ちが見えたので、楽しく拝見しました。私は、たとえ表現方法は変わっても、原作の芯の部分は伝えて頂けるだろうと、映像のスタッフさんを信頼したいタイプなんです。作品の世界をきっちり守る考えの漫画家さんからは「丸投げじゃないか」と言われるかもしれませんが、どっちがいいではなくて、作者によって違うし、同じ作者でも作品によって違うこともあります。みんなが納得できる理想形は、一つの作品ごとに関係者たちが模索して、築いていくものだと思います。だからこそ、映像のスタッフさんには、是非、ご自身が好きだと思う作品を二次創作して頂きたい。みなさん、お仕事だからいろいろなことを考えなきゃいけないのでしょうけど、「これだけ人気の漫画を実写化すればヒットするだろう」とか「原作のおいしいとこだけつまみ食いしよう」とか、そんなことだけを考えていらっしゃるとは思いたくないです。里中氏には同じクリエイターとしての「映像のスタッフ」に対する信頼感があるようだ。だが、そうした気持ちを踏みにじるような「改変」があるのも、また確かだろう。これはもちろん、基本的には「映像のスタッフ」の態度によるものだが、原作者のスタンスによってもその捉え方は違ってくるだろう。好例が、白戸三平と横山光輝だ。(Wikiより引用)自作品の映像化に関して、横山はその点については現実的かつ寛容で、商業作品は第一に経済的に成功させなければならないという点に対して理解を持っていた。白土三平が『ワタリ』について先に制作された映画版の表現や完成度への不満からテレビドラマ化を拒否し、手配されていたスタッフやキャスト、予算などが宙に浮いてしまった際に、代替企画の原作者として横山に急遽白羽の矢が立てられ、このために『飛騨の赤影』(仮面の忍者 赤影)の連載を開始し、こちらは正統派の忍者漫画であったのに対して、テレビドラマ版は東映スタッフが知恵を絞り原作とは大幅に毛色の異なる作品となりながらも、いずれも人気作品となった。(引用終わり)白戸三平はいかにも「孤高の存在」という気がする。といって、横山光輝が「妥協した」というのも少し違うだろう。横山は現実的で、商業作品は経済的に成功させなければならない、それを最も重要だと考えていた。これは妥協というより信念だ。横山のこうしたスタンスを早い段階で指摘した慧眼のマンガ家がいる。それは赤塚不二夫だ。赤塚は売れない時代に、有償で横山光輝のアシスタントをしたことがある。横山の仕事が終わると赤塚は石森章太郎や藤子不二雄など「いちばん気の合う仲間」のところに飛んで帰った。そして、横山について「彼の持論は即物的で、漫画家なんて、大衆小説だけ読んでいればいいとさえ、極言した」と自著『ボクはおちこぼれ』で書いている。それより前、石森、長谷邦夫と赤塚が手塚治虫を訪ねた時、手塚は3人にこうアドバイスした。「マンガを描きたかったらマンガだけ読んでいてはダメだよ。いい音楽も聴きなさい。いい映画も見なさい。いい芝居も見なさい」。その場で長谷が『第三の男』の音楽が好きだと言うと、手塚はピアノで弾いてくれたという。耳コピですかね? スゲー横山光輝は手塚治虫の作品で漫画家を志した。そして、手塚の推薦でデビューし、デビューに当たっては手塚が原作まで提供している。手塚治虫にここまでの後押しを受けた漫画家はほとんどいない。その後は『鉄人28号』をはじめ、さまざまなヒット作を世に出し、後期には歴史物で評価を得るが、同じ手塚治虫を出発点としながら、藤子不二雄や石ノ森章太郎といったトキワ荘の有名ストーリー漫画家たちとは、何かが決定的に違う。それを赤塚は敏感に感じ取ったのだ。Mizumizu個人は、横山原作のアニメやドラマはよく見ていたが、横山漫画には興味がなく、読んだこともないし、これから読みたいとも思わない。ただ、漫画史に残る巨匠であることは確かだ。作家の渡辺淳一は「(年を重ねて)想像力がなくなってきた作家にとって歴史物は好都合だ。歴史の経緯を書くことでページを埋めていくことができるから」というようなことを言っているが、晩年になってもオリジナル作品にこだわり続けた手塚治虫やトキワ荘出身の有名漫画家(藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫)とは対照的に、横山は後年は原作のある歴史物の漫画化を多く手がけた。このあたりスタンスの違いは、むしろ手塚やトキワ荘出身漫画家たちとの「インプットの差」のようにも思える。横山が本当に大衆小説しか読まなかったかどうかは分からないが、「いい音楽、いい映画、いい芝居を」と、幅広いインプットを後輩に奨めた手塚とはくっきりとした境界線が見える。このインプットの差が、生涯に生み出した作品のジャンルとその傾向に現れているように思うのだ。だが、横山光輝のように、改変に寛容な、ある意味で「即物的な」漫画家がいたからこそ、『魔法使いサリー』『仮面の忍者 赤影』のような、原作とは離れた改変ヒット作がテレビから生まれた。これは原作者横山の立派な実績だと言って差し支えないだろう。あるいはそうした成功例が、テレビ局側の「改変」に対する安易な考えを招く元になったという側面も、もしかしたらあるのかもしれないが・・・
2024.02.12
手塚治虫については、「若い才能に嫉妬して…」などというエピソードがやたらと語られる。そういう話のが面白いからだが、手塚がどれほど若い漫画家の卵たちに親切だったか、ファンを大事にしたか、傷ついたかもしれない表現者にやさしかったか、そちらのほうのエピソードのほうがよほど多いのに、忘れがちになるようだ。藤子不二雄がトキワ荘に入る際、先住者だった手塚治虫が敷金を置いておき、藤子のふたりは家賃だけ払えばよいようにしてくれたのは、『まんが道』で有名だが、彼の見返りを求めない親切はもっと語り継がれるべきだと思う。なので、今日はネットではあまり拾えない、そうしたエピソードを紹介したいと思う。赤塚不二夫「どんなチンケな、漫画家のタマゴでも、手塚先生のところを訪問すれば、手あつくもてなしてもらえた。彼は、そんないそがしいのに(注:徹夜続きで編集者に睨まれながら仕事をしていることを言っている)、東京駅や上野駅にわかい連中をタクシーで自らおくってあげるほど、心くばりのふかい人だった」(『ボクはおちこぼれ』より)松本零士:(原稿を描くために旅館にカンヅメにされたとき、手塚が来て)「ここにいるくらいなら、僕のうちに来なよ」と言って、初台の新しい家に連れて帰った。松本が「お金がない」と話すと、手塚はいくらか渡した。そのお金で、松本は新宿で『OK牧場の決斗』を見て、九州へ帰った。(中川右介『手塚治虫とトキワ荘』より)つげ義春:ホワイトの使い方が分からず、編集部に問い合わせたものの、それでもはっきりしなかった。そこでトキワ荘の手塚治虫を訪ねると、たまたま彼はいて、「ファンです」というつげ義春を招き入れ、丁寧に教えてくれた。原稿料についてつげが聞くと、それも教えてくれた。(同上)サトウサンペイ「ある時、私の描いている『フジ三太郎』がどっかの雑誌で誰かにたたかれたと聞いた。多分それを意識してであろう、パーティでお会いしたら、『うちの女房はフジ三太郎のファンでね』と、ウソか、マコトか知らないけれど、言ってくれた。なんと心やさしい人だろうと思った」。(朝日ジャーナル『手塚治虫の世界』より)永六輔「毎年、障がい者のためのバザーでご一緒になりました。その時に、山のような色紙を前にどんな主人公でも手を抜かずにキチンと描き続け、バザーが終わっても待ってる人がいる限りやめない方でした。その色紙を僕が売るのですが、高くすると、『安く! もっと安く!』と言いながら描き続ける、そういう方でした」。(同上)
2024.02.09
前回のエントリーでは、手塚治虫の原作漫画とかけ離れていても名作になったアニメの話をしたが、今回は、「この企画がボツって良かった」例を挙げたいと思う。それは、『0マン』。1959年に「週刊少年サンデー」で始まったSF超大作で、初期手塚の最高傑作の呼び声も高い作品。漫画史における歴史的意義としては、それまで月刊誌が中心だった少年漫画の潮流を週刊誌へと変え、毎週「次はどうなる」と読み手をワクワクさせて引っ張っていく、「週刊誌における長編漫画」のスタイルを確立したエポックメーキングな作品だ。このあたりの詳しい話は、You TUBERの某(なにがし)氏による動画がオススメ。https://www.youtube.com/watch?v=V_kQm_RyDUQまた、コージィ城倉による『チェイサー』では、漫画雑誌の編集者(つまり、大人)たちが「面白い」「次が気になって」と夢中になっている様子が描かれている。この『チェイサー』については、後日詳しく書くつもりだが、日本の高度成長期、漫画が新しい庶民の娯楽として爆発的に人気を得ていく――その「昭和の熱気」の雰囲気を背景に、手塚治虫を口では批判・否定しつつ、本当は大好きで手塚の真似ばかりしている漫画家を媒体にした、一級の手塚治虫論になっているところが素晴らしい。…だそうだ。重層的なテーマをもった手塚作品にふさわしく、何を面白いと思って読んだのかは、人それぞれなのだが、もう人生の終盤(苦笑)になって、初めて『0マン』を読んだMizumizuがヤられたのは、主人公リッキーのかわいさだ。コンパスよりきれいな円を描く――と言われた手塚タッチが生み出した、とことん「丸い」お顔のリッキー。大きな、独特のお目目、いつもかぶっている赤いキャップ、足首のない「末広がり足」――そして、ふわふわの大きな尻尾。最初、表紙でこの絵を見たときは、「うーーん、少年向きのマンガだよね」と、なかなか食指が動かなかったのだ。だが、評論家を含め、面白いと言っている大人が多いことに背中を押されて、図書館で借りて読んでみた。で、今は…全集版のサイズ(B6)では飽き足らず、それよりデカいB5判を揃えてしまった。しかし…実はこれはカラーでないのが気に入らない。B5サイズでカラーの限定版も過去に出たようだが、当然、今はプレミア価格で当時の定価では買えない。ま、多分、また出るでしょう。カラー&大型サイズの豪華版(また買うのかよ)。カラーではないとはいえ、サイズが大きいので、流麗な手塚タッチが堪能できる。リッキーは運動能力に優れ、屋根から屋根へピョーンピョーンと飛び移ったり、ありえない跳躍を見せたりするのだが、そこがまたカワイイ。卑怯な真似が大嫌いなのは手塚ヒーローの定番設定だが、人間のためにやらざるを得なくなったときは、うつむいてキャップで顔が隠れている。そんなひとコマにも、ヤられてしまった。健気なリッキーは、自らの苦悩を大人に漏らさず、自分の中にそっと閉じ込めて、周囲に悟られないようにする。幼いルックスからは想像もつかない独立心の強さも魅力のひとつだ。驚かされたのは、うたたねをしていた田手上(たてがみ)博士が目覚め、その間に重大な決意をして涙するリッキーを見て、そのいきさつをしらないまま、「(自分だけが寝てしまって)さみしがっている?」と誤解し、丸っこい小さなリッキーを抱き寄せて、「かわいい子じゃ。わしの孫みたいじゃ」と愛おしむ場面。このリッキーをパッと抱き寄せて、抱きしめている嬉しそうな表情は、まさにかわいくて仕方がない孫をいつくしむ祖父の姿。この漫画を手塚治虫が描いたのは、30歳になるかならないか。その若さで、「孫に対する(年寄りの)気持ち」をさりげなく、しっかり描き切っているところに驚かされたのだ。山田玲司は手塚治虫を「オトナなんだけど、子供でもいたい人」と評したが、若くして老成した視点も持っていたことがこのシーンから分かる。ところが、だ。手塚治虫の「あとがき」によると、発表からだいぶたって、『0マン』を(旧)虫プロダクションでアニメ化しようという企画があり、パイロットフィルムを作ったそうだ。ところが、当時は『巨人の星』『明日のジョー』に人気が集まっていたとかで、かようなチマチマした可愛らしいキャラクターではどうも、というテレビ局からのつよい要望で、でき上ったテレビ用のリッキーは、星飛雄馬がシッポをつけたようなチグハグな人物でした。れいの跳躍をしてみても、ただの体操選手の走り高跳びのようにみえて、あんまりおもしろいアクションにはなりませんでした。(手塚治虫漫画全集 『0マン』より)手塚プロダクションの公式ホームページには、その時のキャラクターが載っている。https://tezukaosamu.net/jp/anime/103.htmlゲーー なんじゃこれ『0マン』の最大の魅力は、幼くまるっこく、かわいいリッキーのルックスにある。それを流行りにのっかって、変えろと? 当時のテレビ局の担当者が、いかに『0マン』を理解してなかったか分かる。ボツって良かった!しかし、アニメにならなかったのは個人的には残念だ。作りようによっては面白い作品になったハズ。「手塚流悲劇」が控えめで、主要人物がほどんど死なないというのは、当時よりも、むしろ今の時流に合っている。どこかで作ってくれませんかね。金星への移住など、現在の常識では無理だと分かっている部分もあるから、そこは「改変」が必要だろうが、ストーリーの骨格は今でも十分楽しめるから、アニメ化は荒唐無稽な話ではないはずだ。オートメーション化が進み、「ひと」が仕事を失ってヤケになっているシーンなどは、むしろ現代のほうがリアルに見る者に迫ってくるのではないか。手塚治虫の先見性は、ときに恐ろしいほどだ。アニメ化することで原作漫画の認知度が上がるというのは、まぎれもない事実。だから原作者は弱い立場に置かれる。その結果、『0マン』パイロットフィルムに見るように、「テレビ局の意向」で作品の良さが完全に損なわれてしまうこともある。富野由悠季氏が『海のトリトン』の最終話のシナリオを隠したというのは、勇気ある英断だった。テレビ局に漏れたら100%改変を強要され、名作と再評価されることもなかっただろう。
2024.02.08
<前回、2024年2月6日のエントリーから続く>アニメ版『海のトリトン』は、番組の最初と最終話がYou TUBEにアップされている。アトランティスやオリハルコンといったワードから連想されるのは、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』。宿敵への復讐を遂げて、ピピとイルカたちを伴って海の彼方に去っていくラストシーンは『モンテ・クリスト伯』を思わせる。ただ、最終回は、富野由悠季が「こういう終わりにすると話したら絶対に反対されるので内緒にしていた」というように、意表をつくどんでん返しが用意されていたのだ。それは主人公トリトンの属するトリトン族は、過去にポセイドン族を人身御供として扱っていた、という歴史的事実だ。被害者と思われていたトリトンが実は加害者の子孫であり、わずかに生き残っていたポセイドン族も、トリトンが、そうとは知らずに根絶やしにしてしまっていたという大いなる罪の告発だ。富野氏の見解は、「少年は大人になる時、なにかしら罪を背負うもの」。それをこのアニメのラストで描きたかったのだという。善と思われていた側は実は悪でもあったという二重性を、子供向けアニメにぶっこんだというのは、実に挑戦的かつ革新的だ。ただ、番組上でのその説明…かなり長く一方的なので、多分当時の子どもには分からなかっただろう。もちろん、そんなことは承知のうえでのシナリオだろう。手塚漫画が子供時代によく理解できなくても、大人になってその重層的な意味に気づくように、富野由悠季も加害者と被害者、善と悪は逆転しうるという哲学を、子供たちの未来へのメッセージとして残したのだ。このラストシーンでのどんでん返しがなければ、たとえ『ガンダム』があろうとも、アニメ版『海のトリトン』の再評価はなかったはずだ。一方の、手塚版のトリトンも、一族の血を守るため、ポセイドンの子供たちをすべて葬る。そして最後は、不死身のポセイドンとともに「ともだおれ」となることを選ぶ。手塚版で感じるのは、戦争体験の根深さだ。満身創痍になりながら、倒せない敵にどこまでも向かっていく姿は、まるで特攻隊員。そして、死にゆくトリトンの目に映るのは…「地球は海でいっぱいだ。青いうつくしい海。あのどこかにピピ子と子どもたちがすんでいる」そして、帰ってこないトリトンを待つピピ子は、まるで美しくも哀しい戦争未亡人。彼女は残された子供たちの「自ら成長しようとするたくましさ」を見て、(おそらくは)悲劇を乗り越えていく。戦乱の不条理の中で生まれた子供は、はやく大人になるのだ。父親トリトンの遺志を継ぐべく、自ら立ち上がるブルートリトンの幼くも凛々しい姿は、ある意味、親の描く理想の子供像でもある。戦争による飢餓を体験したからこそ思い付いたのだろうと思える怪物も出てくる。いくら食べても食べても満足できず、食べた分だけ毒の排泄物をまき散らして歩くゴーブだ。奇怪で滑稽なこの怪物は、その破壊的な行為とはうらはらに、どこか哀れですらある。アニメ版『海のトリトン』は、のちの評価はともかく、放映当時はさほど視聴率が取れなかったが、実は南米でも放映されていたようで、You TUBEで面白い投稿を見つけた。https://www.youtube.com/watch?v=QPcCNfepLRQ投稿によると、なんと最終回は「(子供向け番組としては)暴力的すぎる」という理由で放映されなかったというのだ。You TUBEで字幕付きで最終話をアップしている動画を見て、感激している海外ファンが昔を懐かしんでいる。ワールドワイドな人気を博した日本のアニメの一つと言っていいのだろう。トリトン役の塩谷翼の声が、また傑出している。ホンモノのボーイソプラノで、日本の少女たちを虜にしたようだ。少年役は女性が当てることが多いなか、この塩谷少年の声と迫力は、アニメを一層感動的なものにした。と、同時にこの魅力的な声が「大人になるトリトン」を描いた手塚版との違いを決定づけた。手塚版のトリトンでは、あの名曲『GO! GO! トリトン』も生まれなかっただろう。イメージが違いすぎる。このように、『海のトリトン』は、天才漫画家の作品も素晴らしいが、アニメ版を作るために集ったメンバーも才能あふれる面々で、まったく違う魅力をもった別々の作品になったという、珍しい好例だろうと思う。ただ、富野由悠季氏の、手塚治虫自身も漫画のほうは失敗作だと思っていたのでは――などというのは、とんでもない言いがかりだ。それは手塚治虫漫画全集『海のトリトン』4巻(講談社)の手塚治虫自身のあとがきを見ても明らかだ。サンケイ新聞に、長い間「鉄腕アトム」を掲載したあと(編注:「アトム今昔物語」のこと)、編集部との話し合いで、"海を舞台にした熱血もの"をかくことにきめたときは、まだ、こんなSFふうのロマンにするつもりはありませんでした。(中略)かいていくうちに、物語は、はじめの構想からどんどんはなれて、SF伝奇ものの形にかわっていきました。よく、主人公が作者のおもわくどおりに動かず、かってに活躍をはじめることがあるといわれますが、トリトンの場合もそのとおりで、あれよあれよと思っているうちに、ポセイドン一族やルカーやゴーブができていってしまったのです。↑このように、キャラクターが勝手に動き出す…というのは、作者自身がノって描いている証拠だ。手塚治虫の代表作の一つだという人もいる。トリトンやピピ子が、変態によって一挙に4~5歳成長するという設定も、それこそ「格の違う変態」手塚先生ならではのエロチシズム。変態を終えて成熟したピピ子の美しさにトリトンがドギマギするシーンなどは、Mizumizuが好きな場面の一つ。超自然的な存在であるガノモスが、最後に浮き島となってトリトンの家族を守るというのも、絵画的に美しく幻想的なラストだ。複雑に絡み合う多彩なキャラクター、予想もつかない展開、重層的なテーマと詩的なラスト――やはりMizumizu個人としては、手塚版トリトンに軍配を上げたい。
2024.02.06
Mizumizuが手塚漫画にハマるきっかけになったのは、『海のトリトン』を読んでからなのだ。そして、この漫画に行きついたのは、アニメ『海のトリトン』のオープニングを飾った『Go! Go!トリトン』からだ。https://www.youtube.com/watch?v=LIetONBzm9kいきさつは、こうだ。このアニメは子供時代、テレビで放映されていた時に、数回見た記憶がある。少年向けアニメにありがちな、「次々現れる敵と戦う(そして、倒す)」というストーリーにすぐ飽きて見なくなったのだが、オープニングの曲とトリトンと白イルカの躍動感あふれる海洋でのアクションシーンは大、大、大好きだった。『Go! Go!トリトン』は不思議で、いったんはまったく聞かれなくなったのが、ずいぶん経ってから復活して、なぜか甲子園でよく演奏されるようになった印象があった。You Tubeで検索したら、『Go! Go!トリトン』はやはり人気で、アップされた動画にはたくさんのファンのコメントがついていた。歌詞も大人へのステップを踏み出す少年と神秘的な海のイメージを融合させた素晴らしいものだし(作詞は林春生)、曲もいい。調べてみたら作曲はジャズ畑の鈴木宏昌。子供向けのアニメソングに、なんともオトナな異色の才能をもってきたものだ。メロディラインはもちろんのこと、楽器の使い方もカッコイイ。成熟した男性歌手の歌もうまいし、そこに児童合唱がかぶさってくることにもテーマ性を感じる。このアニメソングを聞いて、デーモン小暮閣下は歌手を目指したとかいう噂も聞いた。『海のトリトン』の原作は手塚治虫。ところが、一部アニメファンの(元)少年たちの原作に対する評価が、えらく低い。「アニメと全然違って、つまんなかった」「面白くなくて、メルカリで売った」等。演出…といいながら、最終回の脚本は完全に自分のオリジナルだと話す富野由悠季に至っては、「原作漫画はつまらなかった」「手塚先生も失敗作だと思って、自分の自由にさせてくれたのだと思う」などと勝手なことを言っている。手塚漫画はたいていストーリー展開が複雑で、ドンパチアニメが好きな少年たちにあまり受けないのは、分かるのだ。しかし、手塚治虫自身が自作の『海のトリトン』を失敗作だと言った――という話は聞いたことがない。いろいろ調べてみると、「アニメのトリトンはぼくのトリトンではない」「ぼくは原作者という立場でしかない」という発言は見つかった。「ぼくのトリトンをあんなに改変しやがって」的な発言はまったくない。ちなみに実写映画『火の鳥』と『(宍戸錠版)ブラック・ジャック』については、「火の鳥をあんなにしちゃって。あの映画は失敗です」「(宍戸錠のメイクに対して)あんな人間いません!」と酷評したという話は残っている。だが、アニメ『海のトリトン』の出来に関しては、公けには否定も肯定もしていない感じだ。あえて触れないようにしているようでもある。それは、もしかしたら『海のトリトン』プロデューサーで、天下の悪人、西崎義展とのトラブル…というか、手塚の信頼につけこんで西崎が起こした著作権かすめ取り事件…のせいかもしれない。Mizumizuは手塚版トリトンを読んだことがなかったのだが、それほどおもしろくないと言うなら、どんなつまらない作品なんだろう…と思って図書館で借りてみた、というわけなのだ。で、読んでみたら…面白いじゃん! これ!なんとまあ、アニメとはまったく別作品と言っていい。これって、原作って言えるのか? というレベルのかけ離れ方だった。原作は実によく構成されている。先が気になって、どんどん読んでしまう。以下のように漫画版『海のトリトン』を奨めている人もいる。アニメと原作の違いを短い文章でうまく説明している。https://konomanga.jp/guide/66230-26月8日は、国際的な記念日である「世界海洋デー」。もとは1992年の本日に開かれた地球サミットにて提唱されたもので、2009年より正式に国連の記念日として制定された。その趣旨を要約すると「海の環境と安全を守ることは、人類の責任である」といったところだが、そんな記念日に読んでいただきたいマンガといえば……海を舞台にした作品は数あれど、やはり手塚治虫の代表作のひとつである『海のトリトン』をまずはオススメしておきたい。本作はテレビアニメ化された映像作品のほうで知っている人も多いとは思うが、原作とアニメでは登場人物や設定がかなり異なっていることはご存じだろうか?もちろん、手塚治虫のどメジャー作品だし「読んでて当然!」……と言いたいところではあるが、アニメの直撃世代の人に「原作にはオリハルコンってまったく出てこないんですよ」とか言うとたいがい驚かれたりするのもまた実情だったりする(※少なくとも観測範囲では)。そもそも当初は主人公がトリトンですらなく、アニメに登場しない矢崎和也という人間の少年を軸に物語が展開するのだが、ほかにもトリトンに海中での戦い方を指南する丹下全膳や、トリトンに心惹かれ、大きな役割を果たす少女・沖洋子、さらにトリトンをつけ狙うポセイドン族の刺客でありながら、その洋子に情愛の念を抱く怪人・ターリンなど、原作のみに登場する重要キャラクターは多数。そして何よりも重要なのは、トリトンと人間との出会いはアニメ以上にセンシティブな問題をはらみ、人間の身勝手さが強調されていることかもしれない。『海のトリトン』の原作においては、人間が海洋汚染などにもう少し敏感でいれば回避できたであろう悲劇もたびたび描かれている。そして海に生きる者からの視点もしばしば登場する本作は、「世界海洋デー」に読むにはピッタリだろう。<文・大黒秀一>大黒氏は、明らかに手塚のトリトンを面白いと思って書いている。Mizumizuも同感だ。Mizumizuなりに追記するとすれば、『海のトリトン』は『ジャングル大帝』と双璧をなす親子3代にわたる大河ロマンだ、ということだ。『ジャングル大帝』アフリカのジャングルを舞台にしたライオン、『海のトリトン』は海を舞台にした海洋族が主人公。そして、初代、つまり主人公の親は、人間界とはかかわりを持たない存在として、さっそうと登場するが、すぐ亡くなる。2代目、すなわち物語の主人公は人間と深いかかわりを持ち、成長していく。その中で様々な闘争に巻き込まれる。そしてちらっと出てくる3代目は、2代目が持ったような幸せで親密な関係を人間との間にもつことはなく、どちちらかと言うと人間の醜い面を目の当たりにして、おそらくは物語の終了後、人間社会とは離れた存在になっていく(であろう)――というような展開も共通している。アニメ版主人公のトリトンの顔は、髪の毛の色以外は…まぁ確かにギリシア風の衣装とか、手塚アイデアだろう(ただし、手塚作品では、トリトンは少年から成長し、大人になって子どもを作るのだ)。イルカのルカーも色と目つき以外は、原作に近い役割のキャラクターだ。アニメのオープニングで海洋爆発があるが、これは原作にあると言えば、ある。だが、アニメ版の最初、上から爆発の場面をとらえ、次にカメラを引いて、それが海洋上であることを示し、さらに、古代チックな石が吹き上がってきてタイトルの文字になる…というのは完全にアニメチームのアイデア。秀逸ではありませんか! それに続くルカーとトリトンそのアクロバティックな海のシーンも、アニメでしかできないダイナミズムと美しい色彩にあふれている。素晴らしいじゃありませんか!<長くなってきたので続きは次回>
2024.02.06
https://www.nippon.com/ja/news/kd1126400523543085894/文化的な価値を持つ漫画の原画の散逸や劣化を防ぐため、文化庁は管理や活用に関する調査を始めた。「あしたのジョー」で知られる漫画家ちばてつやさんに協力してもらい、適切な保管やデジタル化の手法を検証する。調査はちばさんが保有する原画や下書きに当たる「ネーム」といった資料計7万点余りを借りて実施。目録を作って全体を整理し、適切な保管の仕方を探る。権利関係も確認し、一般公開など活用しやすくする。数十点を対象に写真撮影し、デジタル化して保存する方法も確かめる。日本の漫画やアニメは海外でも人気が高い。原画など制作過程の資料に関心を寄せる愛好家もおり、オークションで「鉄腕アトム」の原画が高額で落札された例がある。管理は作家や遺族らが個人で担うケースが多い。相続などで権利関係が複雑化することもあり、保存状態や国外流出を懸念する声が高まっている。調査は2023年度予算の3400万円で今年3月まで行い、24年度内に結果を公表する。24年度予算案ではアニメも含め、資料の保存活用事業として1億8500万円を計上した。2024年2月3日付で上記のような記事が出た。「ちばてつやさん原画の散逸防止へ」というタイトルだが、記事の内容を読めば、「文化的な価値を持つ漫画の原画の散逸や劣化」を防ぐのが目的であり、ちばてつや氏にまず白羽の矢が立ったのは、一世を風靡した『あしたのジョー』の作画者であり、かつ本人が存命であるというのがその理由だろうと思う。そして、ここにきて急にこの話が進み始めたのは、まぎれもなく「オークションで『鉄腕アトム』の原画が高額で落札された」からだ。大方の予想を上回る26万9400ユーロという高値にびっくらこいた極東の衰退国のお役人が慌て出したという図だろう。里中満智子氏などが、漫画原画の傷みやすさ、個人が保存・管理していくことの難しさを懸念して必死に訴えたときは「国立漫画喫茶」などと、あちこちから揶揄されて計画は頓挫してしまったというのに、おフランスでテヅカ原画が一発高値落札されたとたん、コレだ。ちなみに「まんだらけ」によると、手塚治虫の最初のベストセラーであり、多くの才能ある少年たちをまんが道へと導いた『新宝島』を、大英博物館が買い取りたいと打診してきたそうだ。原画はすでにないから、手塚本人が「最低」といった描き版の印刷本を、だ。もちろん、日本国の美術館からの打診は、これまで一度もないという。読み捨てられるだけのモノから保存すべき文化遺産へ――価値観をひっくり返し、またも歴史を動かしたのは、手塚治虫なのだ。亡くなって、30年以上もたつというのに。そして、今、その流れにまずのったのが、ちばてつやというのは、Mizumizuにとっては感慨深い。ちばてつや氏は、あの時代にありながら画風の面で手塚の直接的な影響を受けていない(つまり、手塚風丸っこいタッチを出発点としていない)非常に稀有な漫画家で、しかも手塚漫画とは対極にある梶原一騎(高森朝雄)原作の作品を大ヒットさせた実績の持ち主だ。そういうと、ちば氏と手塚治虫の関係は良くなかったのではないかと想像してしまうが、実際には良好だっだ。これは手塚治虫逝去に際して『朝日ジャーナル』にちば氏が寄せたカット。ちば氏は手塚治虫を「御大」と呼ぶ。2023年3月のブログにも「手塚治虫御大の話」というのを載せていて、そこで、この上のカットの「みんなに色紙をたくさん描いてくれた」ことの詳しいエピソードを明かしている。まだ『あしたのジョー』が出る前の話だ。ちば氏の結婚を祝い、ちば氏の家(まぁ、はっきり言って、まだ売れてないからボロ家)に漫画仲間が集まってワイワイやっていた。そこへ突然、多忙なはずの大スター・手塚治虫が花束をもってお祝いにかけつけ、騒然となる。悪書追放でやり玉にあがった話などをして「御大」中心に漫画論で盛り上がっていると、酔っぱらった漫画仲間の一人が「お、おれ、アトムの大ファンなんスー」「こんなチャンスめったにないんで」と御大のサインをねだる。御大が、一瞬ムッとしたような表情を見せたのを見逃さないちばてつや。しかし、仲間たちが次々と「おれはウランちゃん」「リボンの騎士」…とせがみだすと、「わかったわかった」と(おそらくはイラストとサイン)を描き出す御大。こうして、ちばてつや家があっという間に手塚治虫サイン会会場になった。手塚御大は、イヤな顔ひとつ見せないで、みんなにたくさんたくさんサインを描いてくれて、忙しい仕事場へ帰って行かれました。・・というお話。(ブログより抜粋)ううう…作品でも泣かされるが、こういうエピソードでも泣かせてくれるなぁ、手塚治虫。2018年にちばてつやが「第22回手塚治虫文化賞特別賞」を受賞した時は、スピーチで、「手塚先生に(『あしたのジョー』でそうしたように)『こんな漫画のどこが面白いんですか!』と言って踏みつけてもらいたい」と、有名な(?)手塚治虫伝説を引き合いに出して笑いを誘っているのを見た記憶があるのだが…雑誌を床に投げつけて踏みつけたって、『巨人の星』じゃなかったですか? あるいは『ドカベン』? この2つの「説」は読んだことがあるのだが…それにしても…『あしたのジョー』のラストシーンの絵は素晴らしい。手塚原画に並ぶ傑作だと言って差し支えないだろう。実は原作者はラストには別のシーンを考えていて、この「真っ白に燃え尽きた」ジョーの姿をラストにもってきたのは、ちばてつやの強い要望だったらしい。普段は妥協しない原作者も「手塚治虫とちばてつやは別格だから」とちば案を受け入れたとか。それで、この歴史に残るシーンが生まれたというのだから、この原画はまさしく、ちばてつやだけのもの。漫画の神様・手塚治虫を読んで漫画家となることを運命づけられ、神の存在に最も近づいた、あるいは分野によってはしのいだと言ってもいい藤子・F・不二雄、石ノ森章太郎は、手塚治虫とほぼ同じ、62歳、60歳でそれぞれ亡くなっている。ちば先生、長生きしてくれてありがとう!(涙)『ひねもすのたり日記』の続きを楽しみにしています。皆さん、この作品のマンガチックなペンタッチ、ほのぼのとした色づかい――イイですよ。ひねもすのたり日記(第5集) (ビッグ コミックス) [ ちば てつや ]
2024.02.04
「11日ひきのねこ」で有名な馬場のぼるは、朝日ジャーナル1989年臨時増刊4月20号『手塚治虫の世界』で、手塚さんは、どんなところでも原稿を描いた。列車の中でも、蒲団の中でも……。あれは人間わざではないです。と手塚治虫の超人技を追悼している。言わずもながだが、馬場のぼるだってめちゃくちゃ巧い人だ。ねこたちの描き分けなど、手塚治虫に勝るとも劣らない。だから、今でも馬場のぼるのねこキャラは人気だ。その馬場氏をして「人間わざではない」と言わしめる手塚治虫の作画の技量よ。しかも、蒲団の中でも描ける、つまり「寝そべって延々と描ける」というのは、後にも先にも手塚治虫だけではないだろうか。寝ながら描けたらラクだと思うかもしれない。でも、やってみたらすぐ分かる。寝ながらでは、逆にすぐ疲れてしまうし、そもそもうまく描けるものじゃない。「寝ながら手塚」のイラストは、それを目撃した漫画家によってあちこちで描かれている。こちらは馬場のぼる(前掲書より)。ふたりが親しく交流できた、おそらくは初期のころのイメージだろうと思う。ニコニコ顔で楽しそうに描いている手塚治虫。それを「へーーっ」という顔で見ている馬場氏本人。どこか牧歌的なほのぼのとした雰囲気が漂うのは、時代もあるだろうけれど、馬場のぼるのイラストならでは。これはコージィ城倉の『チェイサー』より。これは、福元一義著『手塚先生、締め切り過ぎてます!』中の著者本人によるカット。若き日の手塚治虫に編集者として出逢い、その後一時漫画家として売れるも、最終的には手塚プロに入社し、チーフアシスタントとして長く手塚漫画を支えた人物なので、締め切りに追われながらシャカリキになって描いている手塚治虫の姿は、さすがに臨場感がある。ちなみに右下で待っているのが、「手塚番」と呼ばれる編集者たち。福元一義氏は、基本的に「描く」側の人間なので、『手塚先生、締め切り過ぎてます!』も、描き手としてのアプローチで手塚治虫の実像に迫っており、非常に読んでいて面白い。中でも「スピードの秘密」として書かれたエピソードは、手塚治虫の作画手法がいかにユニークなものだったかを明かしている。手塚治虫が生涯でもっとも多忙をきわめた昭和49年~51年のある日、アシスタントの福元一義に先生が話しかけてくる。「福元氏はペンだこの痛いことがあるかね?」「あります。とくに、締め切りに遅れて徹夜した時など、疼くように痛みました」「僕も、ここのところ疼くように痛くてかなわないんだ。ホラ、こんなに堅くなっている。触ってごらん」と右手を差し出すので、人差し指と中指のグリップ(握り)のあたりを触ってみましたが、それらしい部分がありません。そうすると先生は不思議そうな顔で、「君、どこを触ってるの? ここだよ、ここ」と手裏剣をかざすような仕草をしました。唖然としながら見つめると、なるほど小指から手首にかけての部分が少し赤紫色になっており、触ると堅くごわごわして、デニムのような肌触りでした。ふつうペンだこといったら、少々の個人差はあっても人差し指か中指のどちらかにできるものですが、先生の場合は違っていたのです。(福元一義著前掲書より抜粋)ここで面白いのは、手塚治虫は普通の人は、「ペンだこ」と言ったら、人差し指か中指にできるものだと思う――ということを知らなかったことだ。そして、この多作の漫画家のペンだこは、「小指から手首にかけての部分」にあったということ。この独特のペン使いを見抜いた漫画家がもう一人いる。『鉄腕アトム』の人気エピソード「地上最大のロボット」をリメイクした、天才・浦沢直樹だ。ごくごく最近だが、『手塚治虫 創作の秘密(1986年初放送のNHK特集)』で原稿を描く手塚治虫の映像を見て、浦沢直樹は、「小指が浮いてるね」「手首を中心にして描いているみたい」と指摘していた。こんな描き方は普通できない、というような話になり、その場に同席していた堀田あきおが、「浦沢さんならできるかも。僕はできない」と言っていた。福元一義は、さすがに元漫画家のチーフアシスタントだけあって、(手塚)先生は、手首を支点に、手先全体を使って大胆にサッと描かれるのに引き換え、私たちの場合はグリップを中心に小さなペン運びで描くので、その違いがペンだこのできる場所の違いになったのだと思います。(前掲書)と端的に説明している。『手塚治虫 創作の秘密』では、残念ながらペン入れ時の手塚治虫の手元はあまり鮮明には映っていない。だが、手塚治虫の筆致の大胆さと繊細なディテールと比べ合わせると、Mizumizuは氏の描き方が中国の伝統的な墨絵(日本で言う水墨画の本家)に似ていると思うことがある。中国の伝統的な墨絵(Chinese ink painting)の描き方は、日本の今の水墨画の描き方とは似ているようで異なる。さまざまな技法があり、一概には言えないのだが、以下の描き方は、手塚作画に非常に似ている気がする。https://www.youtube.com/watch?v=UAmZ3Hb0aQM中国人のChinese ink paintingのプロが、壁に張った紙に墨絵を描いて見せる動画もYou TUBEにはたくさんあがっているが、手塚治虫もよく講演などで、観客に見えるように大きな模造紙を床に垂直におろして、そこに即興でキャラクターの絵を描いて見せていた。こうした手塚ショーは観客の驚きを誘い、いつも場は大いに盛り上がったそうだが、みなもと太郎氏によれば、こういうことができる漫画家は1960年以降は、ほとんどいなくなったようだ。そのエピソードが載っているのが、以下の『謎のマンガ家 酒井七馬伝』だ。酒井七馬は手塚治虫を一躍有名にした『新宝島』の共作者であり、手塚本人はそうとは思っていなかったようだが、ある意味、手塚治虫の師匠と言ってもいい存在だ。【中古】 謎のマンガ家・酒井七馬伝 「新宝島」伝説の光と影 / 中野 晴行 / 筑摩書房 [単行本]【メール便送料無料】【あす楽対応】酒井七馬(1905年~1969年)が活動していた時代には、漫画家なら似顔絵ぐらい描けて当たり前で、よく漫画家がイベントに登壇し、大きな模造紙に即興で似顔絵を描いたりするショーは人気。実は若き日の手塚治虫も酒井七馬とこういうイベントに参加していたのだという。ところが、酒井七馬の晩年、たまたまこうしたイベントに参加したみなもと太郎は、酒井氏の司会で、呼ばれた漫画家が大きな模造紙に即興で漫画を描くように言われても、まるで原稿のひとコマを描くように、チマチマとした絵しか描けない姿を見て、酒井氏が当惑する様子を目撃している。「似顔絵を描いて」と酒井氏に促されても「描けませ~ん」と言われたそうで、当然、場は盛り上がらない。『謎のマンガ家 酒井七馬伝』の著者である中野氏は、みなもと太郎から聞いた、この「盛り上がらなかったイベント」の終焉が、酒井七馬が「自分の時代が本当に終わった」ことを実感した瞬間であろうと、大いなる寂寥を込めて書いている。酒井氏は、若い漫画家に筆で描く練習をするようにとアドバイスをしていたという話だが、そんなことをする漫画家は彼の晩年にはいなかったのだろう。ちなみに、漫画を描き始めたころの手塚治虫は墨を自分ですっていた。使っているペンはガラスペンだったという。ガラスペンの形は筆の穂先に似ていて、滑りは軽く描き具合は良好だが、1回分の浸けるイングの量が少ないので、しょっちゅう浸けていなければならず、時間のロスが大きいので、手塚治虫が東京に出て連載を持ってからはお役御免となったという(福元一義、前掲書より要約)。手塚治虫の登場で、ストーリー漫画は隆盛を極めていき、さらに発表する雑誌も月刊誌から週刊誌へとスピードが速まっていく。その経過の中で、「漫画家」という者に求められる技量が変わっていったということだ。実際、石ノ森章太郎は、自分を「漫画家」ではなく「萬画家」と称している。伝統的な呼称との決別は、自分の描く世界は「漫」ではなく「萬」だという自負もある。手塚以前・手塚後で変わったものはあまりに多いが、マンガ家に求められるものが変わるにつれ、消えていった描き手の素質もあったということだ。消えていく技量を高いレベルで維持していたのが手塚治虫本人だった、革新者でありながら実は伝統の継承者であったというのも、あまり指摘されることはないが、まぎれもない事実だろう。手塚先生、締め切り過ぎてます! (集英社新書) [ 福元一義 ]
2024.02.02
手塚治虫のキャラクターグッズは今日でも大変な人気で、ダントツなのはやはり「アトム」なのだろうけれど、個人的にMizumizuが偏愛するキャラクターは子供時代のレオ。現在、手塚プロダクションは、やたらあちこちの企業とコラボして頻繁に手塚キャラクターグッズを出す。そして、そのたびに転売ヤーが現れて、フリマサイトで上乗せ販売をしている。実際のところは、そんなに儲からないグッズがほとんどなのだが、たまに2倍、3倍の値段で売れたりするせいか、何匹目かのドジョウを狙った転売ヤーは後を絶たず、本当に欲しいファンの怒りの声をSNSなどでよく目にする。「ジャングル大帝」を知らなくても、レオがかわいいと言ってグッズを買っている人も多いようだ。そう、本当にレオはかわいい。これは、いわゆる「ヘソ天」のレオ(講談社 手塚治虫漫画全集「レオちゃん」より)。猫好きがありがたがって拝むポーズだ(笑)。「うちの子」のへそ天写真を喜んでSNSにアップしている猫バカは多いが、手塚治虫は昭和40年代に、もうネコ科小動物のへそ天のかわいさを知っていたということ。ちなみに、この時代にすでに「猫ドア」をつけている家を描いていて、そこから飛び出してくるレオの動的なかわいさも一級品だ。以下は、前掲書の別場面からの抜粋なのだが…左上、上品にお辞儀をするレオは、今でもよく使われているレオの胸キュンポーズの代表例。このページには手塚治虫お得意のカメのモブ(群像)も描かれている。スタンプかなんかで押して描いたんじゃないの? と一瞬思うのだが、よくよく見ると一匹一匹、顔も甲羅模様も違う。カメの模様の多さとは対照的な白い躯体のレオのオシリ(厳密には、オシリではなく腰の一部らしいが)もふっくらと、なにげにセクシー。手塚治虫は「ぬいぐるみはオシリ」と言って、家じゅうのぬいぐるみを後ろ向きにして飾っていたそうだ。さすがは、「変態の格が違う」手塚先生。注:手塚ファンの間では、「手塚先生=ド変態」は定番の賛辞なのだ。こういう、なにげない一コマも、Mizumizuは大好き。いわゆる「ドローイング」を思わせる勢いのあるタッチで、ちゃんとカタチになっているのは、なにげに凄い。レオの黒目の位置、口の開け方、それに「つなをはなせえ」のセリフの「え」が効いている。レオは王子として生まれ、大帝と呼ぶにふさわしい大人に成長していくライオンだ。常に他の動物を従え、リーダーとしてふるまう。その強さ、賢さ、品の良さ、カッコよさが凝縮した一コマ。手塚治虫は自分でもピアノを弾くし、クラシック好きとしても有名だが、「ジャングル大帝」の名シーン、動物たちによるオーケストラシーンにも、その造詣の深さがうかがえるレオのポーズがある。面倒なので、コピぺはしないが、上掲漫画全集の「ジャングル大帝 1」の162ページ。動物たちを声の高い順にグループ分けし、指揮棒を振りながら指示を出し…「はい! コーラス」と言いながら目をつぶって、前かがみになりながら指揮棒を上から下におろす。ちなみに、コーラスといいながら、「ブーーーー」という音(笑)。次に指揮棒を下に向けて左右に素早く振りながら「うまいぞ、その調子」。それから、「はい!」と万歳に近い、のけぞるようなポーズで指揮棒を下から上後方に振り上げる。だんだんノってくる動物たち。そして両手をつかって、別のグループに指示を出す。眼は閉じたままで耳をそばだてている様子。このときはセリフはないが、その無セリフがレオのポーズを引き立てる。この少ないコマ運びの中で、「音楽」ができあがっていく様子がうまく出ている。ここでのレオの一連の動きは、まさに指揮者そのもの。作者がクラシックに詳しいことが、分かる人間には、分かる。指揮者の仕事を細かく観察しているものだなぁ…と感心する。手塚治虫…どんだけお坊ちゃまだったのでしょう。筋金入りですな。ジャングル大帝 1【電子書籍】[ 手塚治虫 ]
2024.01.31
漫画の神様のエントリーを続けていたら、タイムリーにも、「少女漫画の神様」萩尾望都がアングレーム国際漫画祭にて特別栄誉賞(Fauve d’honneur)を受賞したとのニュースが入ってきた。https://natalie.mu/comic/news/558883萩尾は「漫画に出会うことで私の人生は豊かになり、美しくなり、寛容になりました。この表現の分野が存在すること、読者や編集者、多くの方が支えてくださることに、感謝いたします」とコメント。アングレーム国際漫画祭では、過去につげ義春、浦沢直樹、池上遼一、伊藤潤二、真島ヒロらが特別栄誉賞を受賞している。正直、「今になって?」という気がしないでもないが、手塚治虫の初期作品「地底国の怪人(1948年)」英語版が2014年にアイズナー賞 国際アジア賞を獲ったということもある。これなどは翻訳編集解説を担当したライアン・ホームバーグ氏への評価でもあるから、萩尾望都のフランスでの受賞には、同じような背景があるんだろうと想像する。手塚治虫もそうだが、萩尾望都も作品発表時には必ずしもアンケートでトップを取るというような作家ではなかった。だが、トップを取った漫画の多くが時間がたてば忘れ去られるのとは対照的に、時の経過とともに、「萩尾望都、やっぱり凄いよな。天才」という評価が高まった稀有な存在ではないかと思う。手塚治虫逝去時に発行された朝日ジャーナルの「手塚治虫の世界」で巻頭カラーを飾っているのが萩尾望都の追悼漫画なのだが、その中に「手塚漫画のコマのリズムやメロディ感は先生の音楽好きからきているのかもしれない」という言葉がある。【中古】カルチャー雑誌 ≪諸芸・娯楽≫ 朝日ジャーナル1989/4/20 臨時増刊 手塚治虫の世界この「コマのリズム」「メロディ感」は萩尾望都作品にもぴったり当てはまる。手塚漫画の、主に長編の、ストーリー展開の巧みさを一番に受け継いだのが里中満智子なら、こちらの想像力を刺激するファンタスティックなセリフを含んだ、音楽的なコマ運びを受け継ぎ、独自に進化させたのが萩尾望都だといえるだろう。萩尾望都は、Mizumizuが少女漫画で唯一、豪華本を購入した作家でもある。買ったのは、「ポーの一族 プレミアムエディション」。大判なので、当時の夢幻的な萩尾タッチがかなり忠実に再現されている(やはり、漫画は小さくしてはダメ)。「トーマの心臓」「11人いる!」「残酷な神が支配する」を挙げる人もいるだろうけれど、Mizumizuにとっての萩尾望都最高傑作、および少女漫画の金字塔は、「ポーの一族」。『ポーの一族 プレミアムエディション』上巻 (書籍扱いコミックス単行本) [ 萩尾望都 ]
2024.01.29
手塚治虫はトークが非常にうまく、講演会にも引っ張りだこだった。大人向けの講演会では大人向けに話し、子供向けトークショーでは子供向けに語ることができた。書籍になって残っているものも多い。精神世界では手塚治虫の直弟子といっていい里中満智子氏も、相手によって手塚治虫の何が偉大かを語り分けることができる。漫画家やゲーム開発者など、「描く」ことを生業としたい若者に向かって同氏がよく引き合いに出すのは、手塚治虫が二次元の紙面上にもたらした視覚革命、「映画的構図」の凄さだ。その一例が以下:https://animeanime.jp/article/2015/02/21/22063_2.html「漫画界でいえば手塚治虫と、その次の世代についても同じことが言えます」。手塚治虫の最大の功績は、それまで芝居中継のようだった漫画のコマ割りに対して、映画的な構図を持ち込んだ点にあります。「それまでは定点カメラでしたが、手塚治虫は手持ちカメラを多用して、キャラクターに近寄ったり、俯瞰でとらえたり、キャラクターと一緒に舞台の上をかけまわったりしました」映画的手法と簡単に言うが、映像ならカメラを複数用意してあっちからこっちから撮ればよい話だが、漫画となると、それを一コマ一コマ描いていかなければならない。その難しさは、絵を描いたことのない人間には想像できないかもしれない。Mizumizuが、「すげーな、こりゃ」と思ったのは、低年齢層向けの漫画「レオちゃん」でのコマ運び。ここでは、走ってくるレオをまずは真正面から撮り、次に忍び足になったレオを横(のやや下)からキャッチ。次に少しだけカメラを上にずらしてレオの表情を撮り、だんだんカメラを上げながら、レオの身体の向きをコマごとに変えて撮る。次に怪鳥の脇にカメラを移動させ、近づいてきて止まったレオを斜めから撮っている。最後のコマではレオはおらず、たまごを落とす怪鳥を斜め前少し下からとらえて、落下するたまごの動きを読者が感じ取れるような構図になっている。このページでは、石投げをする類人猿を斜め下からまずとらえ(ふりあげた石がコマの枠を飛び出しているのもの効果的だ)、次は一転して、類人猿の斜め上に設置したカメラでやっつけられた敵と感謝するレオを撮り、そのままレオは移動して、洞窟の奥に設置したカメラに黒く映る。博士との会話では、レオのかわいい表情のアップ。次のコマでは背面からで、レオと博士が前進していく動きを暗示している。ちなみにここでは背景が真黒。それから、「よし!」「ぼくにまかせてください」と言いながら、拳をにぎって右手を曲げる力強いポーズのレオを、カメラを寄せて撮る(ちょこっと写っているレオの腰のふくらみもGOOD)。このページは離れて小さく撮られたレオが多いから、このポーズは非常に印象的に見えるのだ。次では一転して、かなり上方に置いたカメラで鳥の群れと大きな正方形の「何か」を見せている。これが何かというのは次のページをめくれば分かるという仕掛け。は~、すごい。一コマ一コマを、ここまで変化をつけて見せるって…カメラなら撮ればよいことだが、手で描いているんですからね、これを。どんだけ技量が高いんだ。そしてレオは果てしなくカワイイ。丸みを帯びた身体の線も、よく動く瞳をもつ目も、めちゃくちゃかわいい。それでいて、描くのが速い。線の勢いを見ても、ノンビリ描いた線ではないことが分かる。まさに神の視点、神の技。
2024.01.28
少女漫画の神様が萩尾望都なら、里中満智子は漫画界に君臨する女帝とも言える存在だ。漫画を描くだけではない、漫画家の社会的地位を高める、権利を守るといった社会的な活動でもリーダーシップを発揮している。漫画の文化的価値について、彼女ほど理路整然と語れる才媛はいない。高校生のときにすでにプロデビューし、すぐに売れっ子になるという稀有な才能の持ち主だった故に、「大学」という学歴はないが、これだけアタマのいい人にそんなものは必要ない。実際、大卒ではないが、大学の教授職も務めるというマルチぶりだ。この傑出した才能が、漫画家という職業を選ぶきっかけになったのは、やはり手塚治虫。里中満智子の凄いところは、自分がどのように手塚治虫の影響を受けたか、手塚治虫の何か凄いのかを、筋道立てて語れるところだ。機会があるごとに手塚治虫の偉大さを語る彼女は、藤子不二雄(A&F)と並んで、もっともすぐれた「手塚治虫の教え」の伝道師だ。なかでも、非常にまとまっていて素晴らしいのが以下の手塚るみ子氏との対談。https://www.asahi.co.jp/50th/satonaka.html手塚「里中さんは私の父、手塚治虫のことでいろいろお世話になっています。先日2月9日、父の十七回忌にもご出席頂きました。今日は里中さんから父、手塚治虫のことをお聞かせ頂こうと思います」里中「人生の恩師というと、やっぱり手塚先生が最大の存在です。私は運良く漫画家になりましたが、漫画家になっていなくても私の少女時代にとって一番大きな影響を与えてくれた存在として一生思い続けたと思います」手塚「一番最初にマンガと出会ったのは?」里中「昭和29年、小学校に上がったら毎月一冊少女雑誌を買ってくれることになっていて、選びに行ったんです。それで選んだのがちょうど創刊されたばかりの“なかよし”でした。それは巻頭に手塚先生の作品が載っていて、その絵が気に入ったからです。それがマンガとの最初の出会いです。でその作品が気に入って、貸本屋に行って手塚先生の作品を捜しました。そうしたらありとあらゆる本、というと大げさですが...に掲載されていました。それらをちらほら見ていてすべて気に入ってしまいました。ですから少女雑誌、少年雑誌に関わらず読みました。その中で一番気に入ったのが“鉄腕アトム”でした」手塚「いつぐらいから漫画家になろうと思ったのですか?」里中「小学6年~中学1年の時でした。それも手塚先生がきっかけです。小学4~5年の時に“子供には良い本を与える”という名目で、子供にマンガを読ませないという運動があったんです。悪い本の代表が“鉄腕アトム”でした。その理由が第1にマンガである。第2にロボットが感情を持つなどということはあり得ない。子供の科学の認識を誤る、ということでした。でも科学は想像が大事なのにと思いました。それがなければ飛行機やヘリコプターも世に無かったと思います。また大人達が与える本の中にはくだらない物が多かったんです。私にとって“鉄腕アトム”は心の肥やしでした。漫画家になろうと思ったのは世の中がマンガを滅ぼすと思ったからです。それを止めるにはマンガの味方が一人でも多い方がいいと子供心に思い、漫画家になると宣言しました」手塚「里中さんは16歳でデビューされていますが、実際に憧れの職業に就いてどうでしたか?」里中「自分の作品が初めて印刷された時に、お金があったら町中の本を買い占めたいと思ったぐらい、私はなんてヘタなんだろうと思いました。アマチュアの時はいくらでもやり直しが出来るのですが、プロになってしまうと自分の作品に責任が生じてしまいます。ですからプロになってからが苦しかったですね。でも好きなことだと苦労を苦労とは思えないんですね。それで18歳の時に出版社のパーティーで手塚治虫先生のお姿を垣間見ました」手塚「その時に初めの出会いだったのですね」里中「出会いではなくて一方的に見ただけです(笑)」手塚「初めて言葉を交わして覚えていらっしゃることはありますか?」里中「思ったよりも少し高い声をしていらっしゃるなという感じだけで、返事が出来るようになったのはそれから2年位してからです(笑)」里中「一番私が思い出に残っているのは、3時間ほど先生と二人っきりで過ごせたことです。それは大阪でのサイン会に行く時の新幹線の中でです。先生はいろいろなお話をしてくださる方で、その時は先生が新婚の時のお話ですとか...」手塚「そんなプライベートな話を...」里中「その他にもいろいろなお話をされていて、その内に“僕が本当に描きたい物は真のエロティシズムなんだ”と仰ったんです。でそれまで疑問に思っていた手塚作品の底に流れる微妙なエロティシズムの謎が解けました。それで“いつ頃描いてくださるんですか?”と聞いたら“そのうちね”と仰ったのでずっと楽しみにしていたんです」里中「先生がありとあらゆるテーマでマンガを描いていたので、後に続く作家はどんなテーマ、ジャンルで描いても良いんだと、当たり前のように思っています。良くアメリカの人に“なぜ50年ぐらいの間にマンガ文化が進んだんだ?”と聞かれます。それで説明しているのが面倒なので“我が国には手塚治虫がいたからだ”と答えています」今では、想像もできない話だが、「教育熱心な親」が漫画を燃やす…なんてことが本当に起こった時代があるのだ。里中氏のように、漫画が世間から糾弾され、憎まれていた時代のあることを知っている漫画家の証言は貴重だ。どんなテーマで漫画を描いてもいいという「自由」の根底にあるのが手塚治虫だというのも、慧眼としか言えない。皆が当たり前のこととして享受している権利は、実は手塚治虫のような先達が世間の矢面に立ち、それでも描くことをやめなかったからこそ得られたもの。こうした視点をキチンと指摘できる存在のあることは、手塚治虫という個人にとっても、漫画界全体にとっても、日本の文化にとっても、とてつもなく大きい。
2024.01.26
やはり焼失していたか…「誰かが持ち出してくれたかもしれない」――その希望は、読売新聞の「輪島出身の永井豪さんが義援金2000万円…焼失した原画「自分が生きていれば復活できる」という記事を見て打ち砕かれた。輪島の朝市一帯を襲った火災によって永井豪記念館が焼失。直筆原稿など計11作品109点、フィギュアなど立体物25点も焼失したとみられるとのこと。永井氏自身は「自分が生きていれば、(描き直すことで)復活させることができると思っている」と非常に前向きに語っている。本人が一番残念だろうに、永井豪は本当によくできた人だなぁ。確かに失われた作品を作った本人が存命だというのは非常に幸運なことではあるが、いくら本人とはいえ、30代に描いたものと70代で描き直したものは、同じではない。技術的に見ても、同一人物とはいえないぐらい違ってしまっているだろう。作品というのは、それが絵であれ文であれ、「その時」の作者を映すもので、その時描いたものは、その時にしか描けないものなのだ。それは手塚治虫の「新宝島」復刻版にも見える話だ。優れた漫画家の直筆原稿は、いまや日本を代表する芸術作品と言っていい、従ってその保存は個人や市町村レベルではなく、国が行うべきだという立場のMizumizuからすれば、今回の永井豪氏の原画焼失は、「こういうことが起こるからこそ」の事例になってしまった。永井豪氏の「人となり」は、今回の震災についてのコメントにもよくあらわれていると思うが、Mizumizuが氏の、さわやかで、しかも志の高い「人となり」に触れたのは、有名な「ブラック・ジャック創作秘話」を読んだ時だ。この「手塚先生の凄い一面」を知りたい方は、「ブラック・ジャック創作秘話」を読んでいただくとして、永井豪は「自分にとっての手塚治虫」を、次のようにまとめている。「4歳の時、初めて読んだ『ロストワールド』以来、全部好き」「僕は手塚先生の孫弟子だと思っています」「作風だけじゃなく生涯現役だったその姿勢もまねたいものです」。かつて一世を風靡した一流漫画家のほとんどが、「手塚作品を読んで漫画家を志した」と言っている。個人的には、永井豪までが、とは思わなかった。というのは、Mizumizuは永井豪作品をよく知らないのだ。漫画はまったく読んだことがない。アニメで作品やキャラクターを知っているだけで、そもそも絵柄をまったく受け付けられない。これはほとんど「生理的にダメ」の域の話で、永井氏には何の責任もない。あの絵がイイ、あの絵があったればこそ、というファンが多かったからこそ、記念館までできる漫画家になったのだ。漫画というのは、実はこれがネックだと思っている。どんなにうまい歌手でも受け付けない声質だと、聞く気になれない。それに似て、どれほど発行部数をのばしていようが、漫画通が「天才だ、天才だ」と称賛していようが、絵がダメだと読む気になれない。だが、そういう自分の好みとは別に、「国が原画を保存するに値する漫画家」は、いる。Mizumizuにとって永井豪が、まさにそれなのだ。追記:その後のニュースで永井豪の原画・フィギュアとも焼失していなかったと報道がありました。https://article.auone.jp/detail/1/5/9/266_9_r_20240125_1706185991840223奇跡!石川県輪島の永井豪記念館「原画およびフィギュアは消失せず現存」永井豪氏が発表「建設時の耐火対策が奏功」
2024.01.25
今度はこのような記事が出た。手塚治虫『新選組』なぜドラマ化? 萩尾望都も影響を受けた、知られざる“時代劇短編”の内容秋田書店の『手塚治虫全史』の解説によると、『新選組』は手塚が正統派の時代劇を意図して描いた作品なのだという。連載が始まった1963年は、新選組の前身である浪士組結成からちょうど100年目であったが、当時は今のような新選組の人気も知名度はなかった。そのせいか、雑誌では思ったような人気を得ることができず、打ち切りに追い込まれた不遇の作品であったとされる。だが、漫画好きの間では当時から評価が高かったようだ。漫画界の巨匠・萩尾望都も高校2年生の時にお年玉で『新選組』の単行本を買って深い感銘を受け、漫画家を志すきっかけになったと語っている。2022年に山崎潤子が手塚治虫公式サイト「虫ん坊」で行ったインタビューで、萩尾が当時の衝撃を語っている。いくつか印象的なコメントを引用しておこう。「そのときの自分の心情に何かこう、ストーリーがフィットしたのでしょうね。ものすごくのめり込んでしまって、1週間くらいずっーと、この漫画のことを考えていた」「進路やら何やらで、悩んでいた(注略)そんなときに、『新選組』に出会って、頭から離れなくなった。そして『こんなにもひとつの物語が人にショックを与えるものなのか』と感動しました」「人間には『やられたことをやり返す』という癖があるんです。だから、私も誰かにショックを与えたいと思ったわけです(笑)」萩尾望都はMizumizuが最も偉大だと思う少女漫画家だ。もちろん、ほかにも偉大な少女漫画家はいる(それについてはまた後日)。だが、萩尾望都は、その抒情性、幻想性、哲学性で少女漫画を芸術の域にまで高めた第一人者。独特のストーリー展開と作画の美麗さは、他者の追随を許さない。いつしか彼女が「少女漫画の神様」と称えられるようになったというのは、Mizumizuにとってはわが意を得たりといったところなのだ。萩尾望都が『新選組』を読んで漫画家を志したという話をMizumizuが知ったのは、浦沢直樹が自作『PLUTO』のアニメ配信にあわせて手塚治虫の天才ぶりについて萩尾望都らのゲストとともに語っている番組を見てのことで、ごく最近の出来事だ。萩尾望都は番組中、「(手塚先生)のセリフでこちらの妄想がぐるぐる広がっていく。でも、そのセリフって実はたった2行なんですよね」といったような発言をし、その発言にかぶせるように映ったのは『新選組』の一コマ。まさに2行だけのセリフだった。この発言にMizumizuは、文字どおり「ショック」を受けた。というのは、ストーリーが追うのが面白くて読んでいた漫画の、たった2行のセリフが、例えは悪いが「原爆の熱線」のように強烈に心に焼き付き、時間がたってストーリーを忘れても、そのセリフだけがいつまでも消えずに、やがてもとの作品の展開を離れた、妄想の別のストーリーを自分の中で作ってしまうという経験を、たった2度だけしたことがあるのだ。それが、手塚治虫と萩尾望都の漫画。もう両作品とも題名すら覚えていないが、2つとも読み切りだった(と思う)。手塚作品を読んだのはラーメン屋(苦笑)。大人向けのコミック雑誌で、今なら、いわゆる「手塚ノワール」に分類されるだろう救いのない結末だった(と思う)。おそらくどーしようもない悪女だった(と思う)女主人公が、風にさらされながら、つぶやく。「寒いわ。吹き飛ばされそう」そこで物語は唐突に終わっていた。萩尾作品のほうは、妄想でストーリーを違って解釈している可能性は高いが、いわゆる「サイコパス」の少女の罪と罰を幻想的に描いた作品だった(と思う)。もちろんサイコパスなんて言葉が世間一般に知られるより、ずっとずっと前のことだ。「罪ってなに? 私だけが悪いんじゃないわ」このたった2行のセリフ。いや、実は、本当はもうちょっと違う言い回しだったかもれない。自らの悪行をそうと認識できない少女のたどる、幸福とはほど遠い人生の結末。身勝手な主人公なのだから、ある意味勧善懲悪的なカタルシスを得ることも可能なはず。あるいは、「何言ってんだよ、コイツ」と単純に読み捨て、そのまま忘れる人も多いだろう短編。だが、Mizumizuがこの2作品の「たった2行のセリフ」から受け取ったものは、そのどちらでもなかった。作品に忍ばせてある世の中の不条理に視点を向けて考えたとき、認めたくない共感が自分の中に広がっているのに気づく。そう、誰しもが自分の中に強烈な悪をもっている。そして、生きている限り逃れられない「孤独」というものが、この世にはあることに気づく。それが人間ではないか。両作品の両主人公の強烈な「孤独」が、このたった2行のセリフとなって、こちらの心に突き刺さったのだ。萩尾作品のこのセリフのあるページの絵はうっすらと記憶によみがえることがあって、Mizumizuはごく稀にだが、唐突に、「罪って何? 私だけが悪いんじゃないわ」とつぶやきたくなるときがある。おそらくそれは、何らかの妄想の世界に入っているときなのだろう。萩尾望都が手塚作品から受けた自らの感動を、「ショック」と表現しているのも秀逸だと思った。手塚作品には単なる「感動」という言葉では表現しきれないものがあるのだ。浦沢直樹は『鉄腕アトム』の「地上最大のロボット」を読んで、「この得体の知れない切なさは何だろうと」と思ったことが『PLUTO』を描くきっかになったと話していた。手塚治虫が出たおかげで、多くの才能が漫画界に集まった。彼らは漫画を描くだけでなく、折に触れて多くのことを語り出した。手塚治虫の名声を高めたのは、こうした後進の天才たちの証言があったからという側面も大きい。そこは見逃してはいけない点だ。手塚作品を読んで、妄想が広がる――それは、分野の違うクリエーターにとっては、自分の手で「手塚作品を舞台化したい」「手塚作品をドラマ化したい」「手塚作品を実写映画にしたい」「手塚作品をアニメ化したい」という野望につながるのかもしれない。…その多くは、残念ながら失敗している、のだが。上記の手塚・萩尾2作品のタイトルをご存知の方、ぜひご教示ください。メールアドレスはmizumizu4329あっとまーく(変換してください)gmail.com2024年2月4日追記:読者よりメールいただき、くだんの手塚作品は『人間昆虫記』ではないかと。単行本で確認したところ、確かに同作品のラストシーンでしたが、セリフは記憶と若干異なっており「私…さみしいわ。…ふきとばされそう」でした。コマの構図はだいぶ記憶とは違い、雑誌で見た時は、背景はなく、女主人の上半身のアップで体を抱くようにしながら風に髪をなびかせていた…と思っていたのが、単行本では、かなり写実的なギリシア神殿のコリント式円柱の間にたたずむ主人公の全身を俯瞰でとらえたシーンになっていました。記憶違いなのか、単行本化する時に描き替えたのかは、分からず。
2024.01.21
昨日、このような記事が出た。日本漫画の貴重な原画の散逸や劣化を防ぐため、文化庁は月内に、国内を代表する漫画家が保有する原画などの実態調査や、保存方法の研究に着手することを決めた。最初に「あしたのジョー」などの作品で知られる、ちばてつやさん(85)の協力を得て調査研究を始め、他の著名な漫画家に対象を順次広げていく。今回は3月まで、ちばさんから原画などを借りて実施する。目録作成や保管状態の確認・改善を進めるほか、将来的なデジタル活用を想定し、資料の一部の数十点を対象に写真撮影や画像保存の手法を検証する。日本の漫画資料をめぐっては、手塚治虫さんの「鉄腕アトム」の原画が海外で高値で落札されるなど、国内外で価値が高まる一方、作者や遺族が個人的に保存しているケースが多く、散逸や海外流出の恐れが指摘されている。政府は喫緊の課題として、国による原画収集も含めた保存体制の整備を早急に進める方針だ。Mizumizuとしては、「ああ、ようやく」といった気分。というのは、世界を席巻しているといっていい、日本の漫画の影響力を見、そのルーツを鑑みるにつけ、いま真に残すべき芸術は、主に戦後の漫画原画ではないかと思うようになったからだ。その筆頭に挙げられるのはもちろん手塚治虫だろう。実はMizumizuは現在、手塚治虫にドはまり中。そのきっかけについては後日また書くことにして、手塚治虫のペンタッチの美しさに驚愕したのは、丸善 丸のノ内本店の「手塚治虫書店」コーナーに展示してあるアトムの原画を見たときだ。手塚治虫の作品展は没後すぐに美術館で行われたし、その後も多くはないが実施されている。そういった展覧会に足を運ばなかったことを後悔した(なので、2023年10月のブラック・ジャック展には行った→そして思った以上に見ごたえのある原稿をしげしげ見すぎて脱水状態になった)。里中満智子氏のように、こうした漫画家の原画の価値を訴え、その傷みやすさから国家による保存を訴えてきた漫画家もいるが、国の動きは鈍かった。それがここにきて、急展開を見せた背景には、記事にもあるように、パリで手塚漫画の原画が高額落札されたことがあるだろう。リアルタイムで報じられた記事はこちら。Une planche d'"Astro Boy" d'Osamu Tezuka fait exploser les enchères à Paris.La planche, rarissime, a été vendue 269 400 euros, soit cinq fois son montant estimé.Une planche rarissime du dessinateur de manga japonais Osamu Tezuka, représentant son célèbre petit robot "Astro Boy", a été vendue aux enchères au prix record de 269 400 euros, soit cinq fois le montant estimé, samedi à Paris, a indiqué la maison Artcurial. "C'est un record mondial pour cet artiste, dont il existe très peu de références sur le marché", a indiqué à l'AFP Eric Leroy, expert en bande dessinée chez Artcurial. Cette planche à l'encre de Chine et aquarelle, de 35 sur 25 cm, est issue du tome 4 de la série, publié en France chez Kana. Elle était estimée entre 40000 et 60000 euros. Datant de 1956-57 dans le magazine Schônen, elle était qualifiée de "pièce de musée" par la maison de ventes. "En 25 ans, c'est la première fois que j'ai (à la vente) une planche de Tezuka, le Hergé de la BD japonaise. Je n'aurais jamais cru en avoir une", a ajouté M. Leroy, selon qui "la rareté et le caractère exceptionnel" de cette œuvre expliquent le montant de la vente. L'acheteur est "un collectionneur européen qui en rêvait depuis longtemps". "Astro Boy est une œuvre emblématique, qui a bercé l'enfance de toute une génération de collectionneurs", a souligné l'expert. "Astro Boy" (ou en français "Astro, le petit robot") est l'œuvre la plus connue d'Osamu Tezuka (1928-1989) et un classique du manga. Créée au début des années 50, cette série a pour héros un petit robot redresseur de torts au physique d'enfant, grands yeux rieurs, houppette brune et bottines rouges capables de se transformer en réacteurs.La planche, qui comporte six cases, le met en scène en train de combattre un méchant. Astro a fait l'objet de plusieurs séries de dessins animés à la télévision, dont l'une a été diffusée dans le monde entier dans les années 80.La planche de Tezuka a donné lieu à la plus haute enchère de la vente. Parmi les autres lots cédés samedi figurait une planche d'Albert Uderzo extraite de La galère d'Obélix, partie au prix de 123500 euros (elle était estimée entre 100000 et 130000 euros). (訳したい人はDeepLで検索してコピペして訳してください。まぁまぁの訳が出ます――ちなみに、Hergéとは、ベルギーの漫画家。彼の作品「タンタン アメリカへ」の扉絵は2012年に133万8509.2ユーロという破格の値段で落札されている)。どうしても日本という国は「海外で評価」されないと、自国芸術の価値が分からないようだ。漫画は大衆のための娯楽であって芸術ではないと言う関係者もいるが、ホンモノの芸術はそうやって大衆の中から生まれるのだ。権力による保護もなく、ただ、名もない人々がひとり、またひとりと評価し、観客(読者)が集まり、名声が広がるうち、レベルが上がり、やがて作者自身も気づかなかった高みへと昇る。日本の漫画がまさにそれ。そして、その種をまいたのが、もう30年以上も前に亡くなった一人の超人的な漫画家、天才の名をほしいままにする「手塚治虫」なのだ。手塚治虫没後の回顧展にも行かなかったことが示すように、Mizumizuは決して同時代的な意味で手塚治虫の熱心な読者ではなかった。むしろ、Mizumizuが読んでいた作家や漫画家が「手塚治虫、手塚治虫」というので、「凄い人なんだなあ」と読むともしれず知っていたという感じ。それがコロナ禍もあって外出ができにくくなり、読み始めてどんどんハマってしまった。なにしろ図書館にかなりの蔵書があるので手が出しやすい。読んでいて単純におもしろい、深い、ということもあるが、「なぜ自分は手塚漫画にハマるのか」を追求するのも実はなかなかに楽しかった。手塚治虫研究、手塚治虫関連本はMizumizuが知らなかっただけで実に多いし、図書館でも借りることができる。そういった周辺本を読んでみると、「なぜ」の答えも少しずつ見えてきた。それについても書いてみようかと思う。
2024.01.19
今季のフィギュアスケート、グランプリシリーズ女子シングルは坂本花織のための舞台といってもいい。素晴らしい流れと幅と、高さと、跳びあがってからの細い軸と速い回転と――加点要素をふんだんに備えた力強いジャンプに加えて、年々磨かれてくる女性らしい表現力。疑惑のロシア女子に対抗すべく高難度ジャンプに挑戦して、怪我に見舞われた他の才能ある女子選手を尻目に、トリプルアクセルも4回転も持たない坂本選手がタイトルを総なめにしている。「エビ1本食べてもお腹いっぱいなる」ほど食が細く、体も限界ギリギリと言えるほど細いのに、リンクに入れば驚異的なスタミナを発揮し、4回転ジャンプを次々決める。バレエ大国の整ったレッスンシステムにのっとって幼少期から表現力にも磨きをかけるから、ローティーン、ミドルティーンで大人並みの所作を見せる。だが、どこか、おかしい――なぜ彼女たちはあれほどまでに短命なのか。大きな大会で頂点を極めると、おはらい箱のアイドルのように、あっという間に跳べなくなり(それもみな同じパターンで、着氷で力なくヨロけるようになる)、次の女王がとってかわる。しかも、同じコーチのもとで同じパターンが繰り返される。こんな奇妙な女王量産システムに支配されては、フィギュアスケートそのものがダメになる。元来、フィギュアスケートでその人のもつ「味」が出てくるには、長い長い年月がかかるのだ。たとえば、宇野昌磨選手が20歳で引退していたら、今の宝石のようなパフォーマンスはなかった。今世界を魅了する彼の表現力も長い時間をかけたのちに出来上がったもの。もっと若いころの坂本選手は、かならずしも表現力で高い評価を得る選手ではなかった。だが、ジャンプでの高得点をテコに世界トップにのぼりつめると、少しずつすべての要素に磨きをかけ、歩んできた人生を想うとこちらも感無量になる演技を見せるまでになった。ショートカットの今の坂本選手の演技を見ながら、ポニーテールで一所懸命頑張っている「あのころ」の坂本選手の姿がダブる。それがまたこちらの胸をあつくする。女子の運動能力…というかジャンプ力が、ミドルティーンもしくはハイティーンで絶頂を迎えるにせよ、そこにフィギュアスケート選手としての演技力もピークを置くような、ロシアの「あるコーチの作り上げたシステム」は間違っている。さらに、それに追随するような採点運用も間違っている。時間をかけて選手が作り上げてきた世界、それも重視していかないと。ジャンプの回転数を追求し、追求し、追求したあげく、道々には才能ある選手の亡骸が累々、そしてやがては競技自体が高い崖から真っ逆さまに落ちる運命だ。そのアンチテーゼとして、坂本花織という選手がいると思う。「健康」を具現化したようなそのパフォーマンスは、見る人を幸せにする。彼女が今積み重ねている勝利は、これまでの狂った女子シングルへの警告だと、Mizumizuには映る。その意味で彼女は「フィギュアスケートの神の使い」にも等しい。ただ、ルッツがねぇ…今は気前よく加点も付けてるが、このままでは、いつか足をすくわれるでしょ…
2023.12.12
いやはや、いやはや…もはや誰も勝てない。グランプリファイナルのイリア・マリニンの演技を見て、ほぼすべての観客はそう思ったのではないだろうか。謎の加点で勝つわけでもなく、多分に主観的なプログラムコンポーネンツの爆盛りで勝つわけでもない。ジャンプの難易度に沿った、極めて分かりやすい勝利。フィギュアは基本的に基礎点重視の採点でいくべきだというのが持論のMizumizuにとって、今回のマリニンの勝利は、プルシェンコ独走時代の幕開けとダブる。時代が違うから、ジャンプの難度は当時とは雲泥の差があるのだが、世界中の一流選手を集めたワールドの場でも、「頭ひとつ抜けた確かなジャンプ力」のある選手。それがプルシェンコであり、マリニンだという印象。ほとんど誰も跳べない超高難度ジャンプである4Aの基礎点を下げるという、暴挙に等しいルール改正を受けて、「4Aは入れないかも」と言っていたマリニンだが、シーズンの幕があくと、このハイリスクジャンプをきちんと入れて、さらに、4ルッツ、4ループ、4サルコウ、4トゥループまで入れる。さらにさらに、3ルッツからの3アクセルという、すんげ~~シーケンスまで決めてみせた。あえてケチをつけるとすれば、フリップがないのが不満。4回転時代になってからのジャンプの偏りはずっと気になっているのだが、やはりここはルール改正が必要かなと思う。ボーナスポイントによる加点ではなく、アクセル、ルッツ、フリップ、ループ、サルコウ、トゥループをまんべんなく「入れなかった」場合に全体のポイントから減点をする、というのはどうだろうか。これならば多回転を競うだけではなく、ルッツとフリップの踏み分けができるか、高難度とされるジャンプは跳べても実は苦手とするジャンプがあるのではないか、という点が明らかになり、ジャンプの技術を見るうえで非常に有意義だと思う。ループを避け続ける加点爆盛り女王とか、アクセルが苦手なスケート技術絶対王者とか、要はMizumizuは個人的に、そ~いうのが嫌いなのだ(読者は分かってると思うが)。フィギュアスケートは世界レベルになればなるほど、莫大なカネが絡む。だからこそ非常に政治的意味合いが強くなる。タイムを競うような競技ではないから意図的な操作も可能だ。だからといって、「誰か」を五輪で勝たせるために、理不尽かつ無茶苦茶なルールをまかり通すなど、あってはならないことだし、いつまでもそれは言い続けると思う。ルッツとフリップの踏み分けと言えば、忘れられないエピソードがある。不正エッジによる減点という明確なルールができるずっと前、マリニン選手の母、タチアナ・マリニナ選手がNHK杯で優勝したことがある。表彰台の中央で喜びを全身で表すマリニナ選手。彼女に対する解説の佐藤有香の賛辞の言葉が忘れられないのだ。「トリプルジャンプ、トリプルジャンプと追い立てられて、ルッツとフリップを正しく跳べる選手がほとんどいない。マリニナ選手はきっちりアウトとインにのってルッツとフリップを跳べる選手」。記憶ベースなので表現は多分違うだろうけれど、そういった意味のことを言っていた。慧眼だと思う。話をマリニン選手に戻して、彼が「皇帝」の名にふさわしいと思う、もう1つの理由は表現力の格段の進歩だ。宇野昌磨選手の洗練を極めた表現とは比ぶべくもないが、マリニン個人としては昨シーズンに比べてぐっと「魅せる」プログラムになってきた。昨季までは、「あ~あ~、スタイルいいのに。やっぱりそれだけじゃないのね、フィギュアの表現力って」という感想だった。1年でこれほどブラッシュアップしてくるとは、素晴らしいの一言。回転力は神がかり的なので、もう少しスケートが伸びればよいし、ジャンプ以外の表現を磨いてほしいところだが、この1年での進歩を見れば黙っていてもやってくれるだろう。凄い選手が現れた。羽生選手が去り、ネイサン・チェンが去り、宇野選手も次のステージへ行く時期が来ている。それでも、次の輝かしいスターが生まれた。願わくば、怪我なく五輪まで行ってほしい。そしてその稀有な才能で、他の選手のレベルも引き上げてほしい。
2023.12.10
全1467件 (1467件中 1-50件目)