大泥棒の路地裏

大泥棒の路地裏

第十六章


「館の主の主」


 夕刻。オレンジ色の太陽が高く建ち並ぶ建物に沈んでいくのを眺めながら、ルセスは一時の自分の姿を忘れようとした。

 しかし、足元から入る風が冷たくて、正直忘れられそうもない。以外にスカートは温かいが、風の侵攻を全て遮ることなどできるはずもなく、今まで味わったことのない違和感が漂っていた。

 すらりとした両手にフリルのついた袖。花の髪飾り。長いスカート。どれも――最悪だ。中央区の広場の噴水に映る自分の姿を見て、ルセスは深いため息をついた。

 どこからどう見ても――認めたくないが――一人の少女だ。体格も出来あがっていない未完成な九歳の子供では、男女完璧に見分ける者なんていないだろう。

 はっきり言って、こんな姿をした自分が認められない。

 ちらりとルセスは視線を、ルウェンの言っていた大きな館へ向けた。

 窓の数を見たところ、館は三階まである。屋根裏部屋があるなら、四階だ。まるで貴族でも限られた者しか宿泊することのできない、豪華な宿泊邸のようだ。

 夜が近づくにつれて、館の前に女性が集まりだした。館から離れた場所にある広場でその光景を見ていたルセスは、あの中に紛れ込んでも大丈夫かと不安になり始めていた。

「あら、あなた…」

 館には行列が並んでいる。あれに紛れ込み、うまく館の前で門番のように突っ伏している、ルウェンの言っていた屈強な男たちの目を免れれば、入れるだろうか。そんな事を考えているうちに、一人の少女がすぐ後ろまで来ていることを彼は知りもしなかった。

「見ない顔、ね」

「えっ?」背中で声がして、ルセスは驚いて肩を吊り上げた。恐る恐る振り返ると、そこには一人の少女が両手を腰にまわしてかがみこむように立っていた。

 少女は覗きこむようにルセスの顔をまじまじと見ている。ルセスも同じように彼女の顔を見て、思いだした。

「あっ、君は」

 ピーターと二人で商人をしていた時に話した、赤毛の少女だ。フリルつきの帽子から流す赤い髪が印象的だった。

 悩んだような表情を浮かべ、少女は首をかしげる。

「あら、あなたはわたしの事を覚えてるのかしら? わたし、あなたをどこかで見たような気がするんだけど、思いだせないの」

 ああ、そうか。ルセスは納得した。彼女と話した時は、自分は男だった。今は、女の子に変装? いや、仮装している。

 そして、その事がばれてはいけない。ルセスは改めて肝に銘じた。

「い、いえ、ぼ…わ、私がたまたま見かけて、覚えているだけ…なの。だから、覚えていないのも無理ない、わ…」咄嗟に声色を高くしてみたが、正直自信はなかった。

 しかし、赤毛の少女はそれで納得したのか、晴れた表情を浮かべた。

「あら、やっぱりそうなの。わたし、記憶力はいいほうだから、一度会った人の事はそう忘れないのよ。でもあなたと会った事があるって思ったのなら、多分どこかで見かけたってことなんだろうね」

「え、ええ…多分、そうだと思う、わ」

 突然、女の子の口調になった自分が恥ずかしくて、ルセスは顔を赤らめた。頭から心臓の音がする。顔が熱くて、手が震えている。これは緊張からくるものでは決してない。

 その様子を見ていたにも関わらず、少女は怪しむ様子を見せずに言った。

「あなた、この都の人じゃないんでしょ?」

「えっ、どうして…」

 顔を上げると、少女は微笑むように優しく笑った。

「うーん。なんとなく、かな。あなた、この辺じゃ見ない顔だし。あの館の事、珍しそうにずっと見てたから」

「あ、うん…その、私、つい最近この都にきたばかりで、何もわかっていないの。親方から、女の人がいっぱい集まっている館があった、って話聞いて、なんとなく気になって…」

「ふぅん。まっ、確かによそから来た人には珍しいかもしれないわね。ここは女子供だけの都。旅人以外は、みんな女性。だから、女だけだからって浮ついてやってくる人たちも少なくないわ。あの館に集まるのはね、そんなことにならないよう、司祭様が教えを説いてくれるのよ」

 司祭さま? ぴくりと反応したルセスに気づいた様子もなく、赤毛の少女は彼の隣に座った。

「どんなこと教えてるの?」

「うーん、いろいろ」それだけ言うと、彼女はその話題から切り離すようににっこりと笑った。「あなたはどうしてこの都に来たの? 今このご時世じゃ、旅も全然安全じゃないでしょうに。ここに来る人はみんな、ほとんどアーチェルドの事を知らないよその国から来た人か、世間知らずだってお母さんが言ってたわ」

「あ、私は…」

「ずばり、アーチェルドの人じゃないでしょ!?」びしっ、と人差し指をルセスの額に当てて、少女は言った。

「……す、すごぉい。よくわかったね」

「だってあなたの口調、ここの訛りじゃないみたいだからね。それに、綺麗な発音してるわ。お母さんは綺麗な訛りをしているユーリンド人と会った事があるって言ってたわ。だから、あなたもユーリンド人なんじゃないかなって思ったんだ」

 あってる? と言わんばかりに少女は目を輝かせてルセスに顔を近づける。正直、驚いている。ほとんどあっているのだ。

「うん。私、その、…」適当な言い訳を言おうと思ったが、なかなか考え付かず口ごもった。が、思いついたのですぐに口に出した。「前までは、ユーリンドに住んでいたんだよ。いろんな所と旅しながら商売してた。つい最近、アーチェルドについて、ここまできたんだ」

「へぇ。じゃあ、家族で旅してるの?」

 肯定しようと思ったが、ルセスは首を振った。ルウェンやピーターはどう見ても、自分と似ていない。とても家族とは思えないだろう。

「ううん。私、孤児なの。親方に引き取ってもらって、親方のもとで働くことになってから、ずっとこうして旅してる」

 すると驚愕して、少女はうつむいた。

「そう…ごめんね」

「ううん。謝らなくてもいいんだよ。それに、今も結構気に入っているから」優しくルセスは微笑んだ。この少女は、人の痛みや辛さをよくわかっているようだ。

 いや、すでに知っているのだろう。恐らく彼女の父親も、戦争に駆り出され、失ったのだ。

 少女は頭を上げた。

「ねえ、あなたの名前、聞いてもいい? お友達になりましょ」

「ええ、いいわ。私は、私は…ルセス」

「わたしはアシニア。集会までしばらく時間があるから、お話しましょ?」

 こうしてルセスとアシニアは友達になった。



 アシニアからこの都に関する事で、いろんな事を教えてもらった。先日人が多かったのは、たまたま旅人が多く来ているためで、普段はそこまで賑わっていないらしい。それに今はもう旅人もほとんどモネルダを出、安全な所へ逃げているらしい。

 ここも安全ではない。自衛は女子供しかいないここでは全くない。それに、アーチェルドには賊が繁栄しているため、安全な場所などないとも言える。この辺に関する話もたくさん聞いた。昔話や、伝説なんかも。

 すっかり日は落ち、うっすらと見えていた月がはっきりと金色の光を放つ時間になっていた。

「あら、こんな時間。もう、集会が始まっちゃうわ」

 ちらりとアシニアは館を見る。館の窓からは眩しいほどの光が溢れている。

「集会…」

 ルセスははっとした。そうだ、集会だ! あの館に入らなければいけなかったんだ! アシニアと話しているうちに、すっかり目的を忘れてしまっていた。

 名残惜しそうにアニシアがため息をする。話してわかったが、この少女はいいこだ。素直で、きづかいがしっかりできている。ルセスもよく子供らしくないと言われるが、この子はまた別の意味で子供らしくない。そんな彼女にルセスは好感を覚えていた。

「もし、よかったら、あなたも参加しない?」

 願ってもない事をアニシアが言った為、ルセスはぱっと顔を上げた。

「え、でも、いいの?」

「もちろんよ。それに、司祭様も女の人であれば、見物も構わない、って言ってくれてるからね」

 女の人ならば? なぜ、女性限定なのだろう。疑問に思いつつも、ルセスは明るく頷いた。

「うん。是非、行ってみたいわ!」

 そして、ふいにこう思った。ずっとこのままだと、ぼくはぼくじゃなくなるかも、と。



 若干ドキドキしながらも、アニシアに手をひかれて館の前まで走って行った。館の扉の前で腕を組んでいる屈強そうな男はアニシアとルセスを一瞥し、それから文句をつけるでもなく、視線を遠い彼方へ映した。

 まあ、ルセスがよそ者だとしても、都の住人全てを見て覚えていないかぎり大丈夫なのだろう。考えすぎかとルセスは思い、ほっと一息してアニシアと中へ入った。

 扉を開けた先は、また予想以上に大きい空間が広がっていた。高価なシャンデリアの光が太陽のように強い光を放ち、壁は黄金に輝いている。入ってすぐ隣の壁には大人二人分ほどの大きな鏡がかけてある。

 そこだけを見れば、ただの豪邸だ。それも、相当権力のある王族のもののようだ。だが、ルセスはあることに気が付いた。

 ここで並んでいたはずの女性たちは、いったいどこへ行ったのだろう。

 あれだけの人数がいれば、ここでも十人は見かけてもいいはずなのだが、見渡しても鏡に大きな鏡に映る自分と、アニシアしかいない。

「どう、ご感想は?」アニシアがルセスの手をとって言った。

「ええ、すごい! こんなに凄いお屋敷が集会場なの?」

「そうよ。なんといってもここはあの大貴族のエガ…」

「おい!」

 突然屈強そうな男が二人の背後から現れ、喚くような声を上げた。ルセスとアニシアはびくっと反応して、恐る恐る振り返る。

「な、なによ、ベラネン。この子は一応司祭様の許しをもらっている子だよ?」

 アニシアからベラネンと言われた筋肉質の大男はぽりぽりと音がするほど強く鼻を掻いた。

「そんなことぁどうでもいい。俺が注意しときたいのは――こいつだ!」

「ひゃっ!?」

 自分でも驚くほど高い声の悲鳴をあげ、ルセスは驚きと恥ずかしみを同時に受けた気分になった。

 それと同時に、絶望感まで覚えた。

 なんとベラネンは後ろからルセスのスカートをまさぐってきたのだ。生々しい男の手の動きに、ルセスの背中に凍りつくような悪寒が走る。

「ちょ、ちょっとベラネン! レディーのスカートに手を突っ込むなんて、どういうことよ!!」

「こいつがレディだぁ?」するとベラネンは馬鹿にするように笑った。

 心臓の音が再び聞こえ始める。どうしようもない緊張が走った。もしかして、男であることがバレた? それなら、もうこの作戦は続けられない。

 鼻で笑うと、ベラネンはルセスのスカートに突っ込んだ方の手を肩まで上げてみせた。その手には、一本の筒がある。

「お前もそいつも、レディ、って呼ぶには成長が足りな過ぎるぜ。それに勘違いするな。俺は子供にぁ興味ねぇ。俺が止めたのは、こいつがそいつの腰に挿してあったからだ」

 ひらひらとベラネンは筒を振る。とても古い、年季のかかったものだ。鮮やかとは言い難いが、草や枝の装飾が施されている。

「あっ、そ、それは!」

 咄嗟にルセスはベラネンの持っている筒に手を伸ばす。だがあっさりとかわされ、もう彼では手の届かない高さまで腕を上げられた。

 それは、ランスロットから預かった『幸運の短刀』だ。

「か、返してください!」

「ベラネン、返してあげなさいよ。大切な物みたいよ?」

「いいや駄目だね」ベラネンは短刀の鞘を抜き、まじまじと刃を見た。その目には関心のまなざしが見える。「知ってるでしょお? この中央館では、武器の所持は禁じられている、ってよ。これは立派な武器になりうる。よそ者だろうとなんだろうと、それだけはきっちり守ってもらわないとなぁ」

「でも、それ、すごく大切なものなんです! お願いします。絶対に悪さもしません。だから返してください!」必死にルセスは懇願する。しかし、瞳の力を使って見なくても、この男が短刀を返してくれないことは手に取るようにわかった。この男は、ランスロットの短刀に魅了されている。

 アニシアも協力してくれるようで、高く伸ばした手にある短刀に向かって、必死に手を伸ばす。

「返してあげなさいよ! でくのぼう!」

「どんなに大切なものだろうとな、規則は規則だ。ここへ入るんなら、短刀は没収だ」

「そんなこと言わずに返しなさいよ! この筋肉ダルマ!」

 ルセスより必死な様子でアニシアは手を伸ばし、ベラネンの厚い胸板を叩く。それでもベラネンはびくともせず、短刀の刃をうっとりと眺めていた。

「このっ!」

 ぴょん、と飛びあがったかと思うと、アニシアの両足はベラネンの足を踏みつけ、ブーツごと抉った。

「ぎにゃああ!!」痛みに絶叫すると同時に、ベラネンは丸太のように太い腕を振り上げる。「このクソガキ! こっちが手を出さないと思ってつけあがりやがって!」

 あぶない! ルセスが前に出てアニシアの肩を掴むと同時に、ベラネンの今にも振り落とされそうな手がぴたりと止まる。ルセスは、ベラネンの二の腕を軽くつまむように細い手が乗せてあるのに気づいた。

「たとえ罵られたとしても、女性に手を上げるのは感心できないな」ベラネンの二の腕を掴む手の主が言った。

「エガイトルさま!」アニシアはヒーローを見る様な目で、ベラネンの背後に立つ男を見た。

 エガイトル、と呼ばれた男は細みだが長身で、どこか威厳のある顔立ちであった。灰色の長い髪を全て頭の後ろに撫で下ろし、顎先の髭もすらりと伸びて上品だ。だがルセスは、この男にただものでない何かを感じた。

 獣の目だ。細い眼に隠された獣のような野心を持った瞳が見える。だが光は穏やかで、上品だ。正直言って、これがよいものなのかどうか、ルセスには判断ができなかった。

「え、エガイトルさま…」ぎこちなくベラネンは腕の力を抜く。エガイトルの手はすでに離してあるが、その動きからまだ掴まれているようなぎこちなさを感じさせる。

 エガイトルは細い眼をさらに細めてベラネンを見た。

「ベラネン。身内でもめ事は感心できんな。今この都の現状を知っているだろう? 今、全員で協力せず、どう乗り越えられるのだ? モネルダでは、絶対にこんなことがあってはならんのだよ。ベラネン、わかるか?」

 上品だが、威圧のある冷ややかな声にベラネンは汗を流す。まるでその汗が出た事によって、身体が縮んでしまったかのように、彼の身体が小さく見える。

「は、はい…申し訳ありませんでした」

「わかればよろしいのだよ、ベラネン。さあ、仕事に戻るんだ。――ん? その手に持っているのはなんだね?」エガイトルはベラネンの手に握られている幸運の短刀に向かって顎をしゃくる。

「あ、ああ…これは、そこのお嬢ちゃんが隠し持っていた短刀です。その、武器になるんで、没収したんですよ」と、ベラネンはルセスを見る。

「か、隠し持ってなんか…」

 ルセスが反論しようとした時、エガイトルは彼に向かってしゃがみこんだ。

「ふむ。それでもめた、というわけなのだな。だが、お穣さん。規則は規則なのだよ。ここへの武器の所持は禁止されている。だから、ベラネンの言い分もわかってほしい」

「でも、わ、私はそんなつもりじゃ…」

「とても、大切なものなのだね?」

「…はい。失くしては、困ります」

 ふむ。エガイトルは背筋をぴんっ、と伸ばし、ルセスを見下ろす。しかしその獣のような目は、優しく笑みを浮かべた。

「では、集会が終わるまで私が預かっていよう。集会が終わり、帰る時にまた私のもとへくるのだ。その時、短刀を返そう」

 ルセスの顔がぱぁっと明るくなる。

「本当ですか?」

「ああ、本当だとも。君のような可愛らしいお穣さんが悲しむ顔を見るのは、私も辛いからね」

「よかったわね、ルセス。エガイトル様、わたしからもありがとうございます!」

 と、アニシアが頭を下げると、エガイトルはにっこりとほほ笑んだ。

「あ、あの、本当にありがとうございます!」

 見たところ、エガイトルというこの長身の貴族は、アニシアなどの子供からも信頼が厚いらしい。彼になら、そこの筋肉ダルマのベラネンよりずっと信用できるだろう。

「さあ、行きましょう。エガイトル様、わたしたちはこれで失礼します」

「…ああ、気をつけて」

 アニシアに手をひかれて去っていくルセスに向かって、エガイトルはささやくように言った。



 驚いたことに、この館には地下があるらしい。アニシアに連れてこられた先は、地下へ続く階段で、ろうそくで照らされるなか下りていくと、石造りの扉に着いた。

「これ、は…」

 石造りの扉は小刻みに振動しており、まるでこの奥に巨大な化け物がいて、暴れているようだった。

「大丈夫よ。怖がらないで」

 そう言うとアニシアは扉の隣の壁を軽く叩いた。壁も石造りだったが、アニシアが叩いた部分は木の板がはめ込んであり、突然横に滑りその姿を消したと思うと、一人の男の顔が出てきた。

「アニシアかい。遅刻だよ」

「ごめんね。今日はお友達を連れてきたの」

 壁から顔を出す男はルセスをちらりと見ると、壁の奥に姿を消した。

 なんの前触れもなく、突然石造りの扉が横に滑っていく。開いた扉から熱気が押し寄せ、わっという歓声が轟き始める。

 まるでこの時を待ちわびてきたかのように、満足した笑みを浮かべてアニシアは熱気を帯びた風を受け止める。その様子にルセスは正気を疑った。

 風には強烈に甘く深い香りが含まれている。貴族が好んで使うと呼ばれる香水のような臭いだが、これはそれよりずっと強烈で濃い。

 それなのに、アニシアはなぜこんなにも恍惚とした表情を浮かべ、喜々とした声を上げるのだろう。

「さあ、行きましょう! ルセス」

 半分強引に手をひかれて中へ入る。あらゆる女性の歓声が耳になり響き、とっさにルセスは耳を押さえた。それを見たアニシアが、

「大丈夫よ。すぐに慣れるから」

 と言っていたが、正直これに慣れる気にはならない。

 いったいここはなんなのだ? 集会とは、いったいなんの集会なのだ?

 しばらく廊下を歩いていくと、広場にたどり着いた。本当に地下にあるとは思えない広さで、都の女性がぎゅうぎゅうになって、奥にある大きな台上を囲むように群がっている。その女性はどれも高揚しているようで、今まで見た事もないほどの盛り上がりをしている。

 嬌声、歓声、奇声が混じり合い、物語でよく聞くコロッセオなどの会場を彷彿とさせた。

「これが、集会…?」

 想像していたものとかなり違っていたため、ルセスは戸惑って口ごもるようにそう言った。しかしその小さな囁きのような声は、女たちの歓声でかき消されていく。

「よかった! まだ始まっていないみたいよ!」アニシアが叫ぶように言う。

「ねえ、これっていったい…」

「大丈夫! 心配しないで――あ、司祭さまがきたわ!」

 広い台上に、一人の男の姿が上がる。六十代くらいの老人だ。短い白髪に、青と白を基調とした正装。頭に浅くかぶっている長い帽子には、紋章のようなものが刺繍されている。

 歓声が波のように静まり始める。耳鳴りがはっきりと残るくらい静かになるまで、時間はかからなかった。

 台上に上がった司祭――このモネルダを治める一番の権力者ヒッピレイはどこからともなく射し込む光を浴びて、一礼をした。

 髭に隠れた口が開く。

「みなのもの、目を閉じて、胸に手を当てるのです」

 そう彼が言うと、先ほどまで祭り以上の盛り上がりを見せてきた女たちは大人しくその通り従った。アニシアも迷いなく行っていたので、ルセスもそれを真似る。

「みなの顔と声に、闇が見えます。いつの時代でも、誰でも、闇はあるでしょう。私にもあります。ですが、その闇をよく見つめてください。――そこにあるのは、なんです? ちっぽけな虫でしょうか? それとも、憎むべき親の敵でしょうか? よくごらんなさい。本当に見えるものを…」

 その通りにする気は、ルセスにはなかった。ルセスは神を信じていないし、信仰を持とうとも考えてすらいない。くだらない、という気はない。だがルセスは、もっと実感のあるものを求めていた。

 ふと、アニシアに視線を映すと、柔らかく瞑った目から、一筋の水滴が流れてくるのが見えた。それはとてもきれいで、頬を伝い顎のラインで消える。

「闇を払うのは、あなたの身近で大切なもの。私たちは、今回の紛争でたくさんの大切な人々を失くしております。それを埋める事ができるのは、その失った人だけです。ですが、だからといって絶望するには気が早すぎます。人はみな、闇を抱えて生きています。闇を抱えて生きる事が、私たちに与えられた使命でもあるのです。

 顔をあげなさい。そして見なさい。私たちは闇とともに生きていくため、今日まで己を強くしてきました。時期は近い。いずれ、あなたたちの強さがこの時代を終わらせる時がくるでしょう」

 女たちが顔を上げる。ルセスも上げるが、見えるのは司祭だけだ。だがルセス以外のものは、司祭ヒッピレイの言葉に心を動かされたらしく、感動した様子だ。

 ルセスはどんな状況でも冷静になるため、ヒッピレイの言葉を深く捉えていなかった。今考えるべき事は、ここでこんな信仰の確かめ合いだけのために、女子供だけが集められているのか、調べるべきなのだ。

「では、みなのもの。次の集会は、明後日の昼、いつもの場所で行われる。それが最後の集会となるであろう。終われば、みなは自由と闇と生きる強さを手に入れる、“資格”を持つ事ができる」

 いったい、なんのことだ? アニシアに聞こうと視線を移したが、彼女もヒッピレイに釘付けだ。それに、ここで口出しすると怪しまれるだろう。ルセスは黙っておく事にした。

「あとは頼むぞ」

 そう台上の裏に向かって言うと、司祭は静かにその場を立ち去った。

 台上の光が当たる場所へ、誰かが上がる。刺繍入りの白いフード付きローブですっかり全身を覆い隠した人物が現れ、ルセスは驚愕した。

 ここへ来たばかりのころ、広場で見かけた長身の女性だ。確かあの時に、アニシアと出会ったんだ。

「アニシア、あの人っていったい…」と、ルセスがアニシアに目を向けると、アニシアはまたあの時のようにうっとりとした表情でローブの女性を見ている。

 ルセスの言葉に反応しないところ、どうやら完全に意識はあっちへいっているようだった。

 台上に上がるなり、ローブの女性はほっそりとした長い腕を出し、ローブの胸を掴む。一気に腕をひいたと思うと、全身を覆っていたローブは風を鳴らして飛んでいき、女性の姿をあらわにした。

 その姿を見て、ルセスは仰天した。女性の格好は、いまどき考えられない服装だったのだ。

 まるで古代の戦士のように太ももの付け根くらいまでしかない短いボトム。胸以外に覆うもののない皮の上着。きっちりと絞められたグローブ。肩や腹、ふとももが大胆に露出しており、白い肌が目立っている。さらに両腰にはそれぞれ細長い剣――しかし、ランスロットのスティレットより短くて太い――が収められている。女性は、まるで古い戦士のような格好をしていた。

 さらに驚くのは、髪型だ。顔は整っていて、まつ毛も長く、化粧もされていてかなり美人だ。だが髪の毛はほとんどの個所が反られており、頭皮があらわになっている。渦巻きの部分にだけ長い髪の毛があり、それをみつあみにしてまとめている。

 なんとも驚きを隠せない容姿だ。あんな女性を、ルセスは初めて見た。

 すると突然、わっ、と歓声が再び地下を響き渡った。女たちは全て立ち上がり、拳をふ
り歓声や嬌声を上げ、祭り騒ぎのようになっている。

「きゃーっ!! セライトル様―!!」

 アニシアも例外ではなかった。彼女は誰よりも大きな声で手を振りながらそう叫んだ。驚いてルセスが彼女に目を向けるが、アニシアは夢中で台上の女性を見ている。

 セライトル。それが彼女の名前なのだろうか。そしてこれから、何か演説を始めようとしているらしい。なぜこれほどまで彼女が熱烈に女たちに騒がれているのかはわからないし、気になる。

 だが、ルセスはこれ以上ここへはいられないと思った。勿論明白にそう思っている。

 この臭いだ。香水をさらに強烈にしたような、凄まじい臭い。アニシアも他の女たちも、気にしている様子はない。むしろ、この臭いを受け入れ、空気といってもいいほど吸っているようだ。

 この臭いは、なにかがある。この熱狂的な女たちの行動と関係しているのだろうか。

 だがそれを深く考える時間はなかった。突然、胃のなかがひっくり返ったような吐き気を催すようになり、めまいもしはじめた。汗が額にたまり、煙があるわけでもないのに景色がかすむ。

 これ以上、ここへいてはだめだ。

「あ、アニシア…?」か細くなった声で彼女に呼びかける。全く聞いている様子がなく、他の女同様腕や拳を振り、台上の女性の名を叫んでいる。

 ここで、彼女とはお別れかも。そう思い、ルセスは入口へと向かった。

 入口では、壁から顔だけを覗かせていた中年の女性が立っていた。女性もあのセライトルという女性を見つめ、顔を興奮に赤らめている。

「あ、あの…」

「ん? おや、あんたアニシアが連れてきた子かい? どうかしたかい?」

「その、時間がきたので、帰ろうと思って…」

 すると女性はあっさりと肩をすくめた。

「ああ、そうかい。もっといればいいのに。あんたもセライトル様を見たら、きっとあの中に混じりたくなるよ」

 ルセスは後ろで猛烈に盛り上がっている女性たちを一瞥した。正直、そんな気は全く起きない。

「気分も悪いし、早く帰らないと親方に怒られちゃいますよ」

「ああ、この臭いかい? 最初はみんなそういうもんだけど、慣れたらこれほどいとおしいものはないもんだね。あっ、お帰りだろ? いま開けてやるよ」

 女性はいそいそと壁の溝のような所に手を射し込み、その奥で何かをひいた。すると石の扉がひとりでに開き始めた。

 驚いている暇はなかった。今は一刻も早く、ここを抜けだして新鮮な空気を吸わないと。足で歩いている感覚すらもわからなくなってきたが、ルセスは精一杯足を踏み出した。


© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: