大泥棒の路地裏

大泥棒の路地裏

第十七章


「対立」


 外の空気――といっても、地下を出たばかりなので、館の中なのだが――を胸一杯に吸い込んでも、気分は晴れなかった。まだあのきつい香水のような臭いが、衣類に染みて辺りに漂っている。

 吐き気がして、ルセスは前かがみになって嗚咽を漏らした。それから目がちかちかとなり、ところどころに虹色の斑点のようなものが見え始めた。ひどい風をひいた時に似ているな、とルセスはちらりと思った。

 とにかく、一刻も早く外にでないと…。一歩一歩地下から上がる階段を踏みしめ、ルセスはもう一つあることを思い出した。それはとても大切なことで、絶対に忘れてはいけないものだった。

「ランスロット師匠の……短剣!」

 この館に入ってから、館の主であるエガイトルに短剣を預けたままだったのだ。それを返してもらわなければ、意地でも帰れない。

 地下を上がり、館の出口に差し掛かると、腕を組んでいるベラネンが待っていた。

「もう帰るのか?」

 咄嗟にルセスは声色を変えた。

「はい…ちょっと、気分がすぐれなくて…。それに、あまり遅くなると、親方にどやされますから…」

 するとベラネンは笑った。それは別に嘲笑染みたものではないにしても、どこか不愉快な気分にさせた。

「お前の親方については知らんが、あの場所で気分が悪くなるのは頷ける。誰だって最初はそうさ。でも、しばらく嗅ぎ続けると、癖になる。いとおしく感じるらしいぜ。特に女はな。なんでも、西のかなたの魔女からもらった香料とかで…」そこまで言うと、ベラネンは口をつぐんだ。どうやら、余計な事を言ったらしい。

 しかし、ルセスにはそんなこと今はどうでもよかった。ルセスが質問をしようと口を開いた瞬間、ベラネンは思いだしたように言った。

「ああ、そういえば、お前が帰る時に呼びとめるように言われてんだ。エガイトルの旦那が、お前を部屋に連れてくるように言ってんだ」

 そう、彼から短剣を返してもらわなければ。ルセスは今にも倒れそうな体に渇を入れ、何とか背筋を伸ばすのを維持した。

「ありがとうございます。エガイトルさまはどちらへ?」

「こっちだ。ついてこい」

 ベラネンが先導して、ルセスはほんの数分、個人のものとは思えないほど広い屋敷を歩くことになった。


「ここだ」

 と、ベラネンに案内された場所は館の二階に位置する部屋の扉だった。ベラネンはぎこちなく扉を叩く。

「エガイトルの旦那。例のお嬢ちゃんが帰るっていうんで連れてきました」

「入れてくれ」上品で気品に満ちた声が帰ってきた。

 ベラネンが扉を開け、入るよう顎で指示をする。ルセスが部屋へ入ると、ベラネンは部屋の外から扉を閉め、足音で遠ざかっていくのがわかった。

「やあ、君かい」

 部屋は今まで見たこともないほど優美であった。傷も汚れも見せない白乳色の壁。床に敷かれた金色の刺繍が施されたカーペット。きらびやかに明るく部屋を照らすシャンデリア。そして、エガイトルが腰かけるシンプルだがとても気品の溢れる椅子に大きな机。

 エガイトルは立ち上がり、机の上から何かを取り出した。それはランスロットの短剣だ。

「これを取りにきたのだろう?」

 鋭い獣のような眼が光る。しかし、その光に敵意は浮かんでいない。表情だけで見れば、微笑を含んだ温かい顔だ。

「は、はい」

「ではこちらへ――」ルセスがエガイトルのそばにまで来ると、エガイトルは鞘に納められた短剣を丁寧に渡してくれた。「これを返そう」

「ありがとうございます。では、失礼します…」

 思ったよりあっさり返してもらった。いや、これが普通なのだろう。何かあるのかも、とルセスはどこかで思っていたのだが、それは見当違いだったようだ。

「失礼なことを聞くかも知れんが、君はユーリンドの人かね?」

 ドアに手を伸ばそうとした瞬間、背中からエガイトルの声が聞こえ、手がぴたりと止まった。振り返ると、エガイトルはまだ立ったままだ。その獣のような眼はこちらを睨んでいるの見つめているのかわからなかった。

 エガイトルは含み笑いをした。

「驚くことはない。君のその短剣の鞘――お父さんのものかね? 古いが、とても丁寧に手入れがしてある。そしてその鞘に施された木の彫り物。それはユーリンドでもそれなりの地位を持つ者の紋章だ。そう、たとえば――ユーリンドの王立騎士団などの、な」

 背筋がぞくりと寒気を感じる。エガイトルの言葉はまさに確信をついていたのだ。

「父が…騎士でした。これは父の形見です」咄嗟に嘘をついたものの、それを最後まで通し続ける自信がルセスにはなかった。服のかさなる肌が汗ばんできているのを感じる。

「ふむ、なるほど…で、母上は? なぜ君が旅人となってこのアーチェルドに来る必要があるのだね? ――ああ、気を悪くしないでくれ。私個人が気になって聞いていることなんだ」

 とはいうものの、『嫌なら話さなくてもいい』という遠慮は見せないようだ。なるほど、これは軽い尋問だ。

 ルセスはここをごまかせる方法を考えた。まず、怪しまれずに逃げ切るのは無理かもしれない。だけど、もっともらしいことは――嘘をつくことだ。そう、それしかない。それに、不可能ではない。嘘は事実を交えることでその本質を隠すと聞く。ルセスにはそのネタがいくつかあった。

「母は…どこにいるのか、わかりません。アーチェルドにいるということは確かなんです」

「ほお、それはなぜだね?」

「父はユーリンドの騎士でした。でも、母はアーチェルドの人だったんです。その間に私が生まれたんですけど、母は――理由はわかりませんけど、このアーチェルドを離れず、残りました。私は父に引き取られて、去年までユーリンドで暮らしていました」

 それから話の筋を読み取ったようで、エガイトルは悲しい表情を一瞬浮かべた。

「では、君はアーチェルドに残った母上を探すために、旅商人一行とともにここへ来たというのかね?」

「そうです。私は、母に会いたい!」演技を交えて言葉を繰り出し、頭の中でピーターに謝る。この話のモチーフはピーターの身の上話だ。勝手に話して、ごめん、ピーター。

「それはそれは…母上に会いたい気持ちは、私もよくわかる。……君は勇敢なのだな。今のこの現状を知っているかはともかく、自ら母上のためにこんな場所までやってくるなんて」

「母は…お母さんは、私の唯一の肉親です。最後に会ったのは、赤ん坊のときだと聞きました。私は、どうしてもお母さんに会いたいんです」

「ふむ…だが、無謀でもあるな。君はその母上をどうやって探す気かね? 最後に会ったのが赤ん坊の時では、まともに顔すら覚えていないのではないか?」

「私をここまで連れてきてくれた親方が、母を知っているんです。旅に付き合い、下で働くという条件で今まで一緒に旅をしてきました。親方なら、母を見れば一目でわかるそうです」

「なるほど」と納得したような声を上げたものの、エガイトルの表情は冷徹で、獣の眼は何を考えているのかわからなかった。「だが、それでも辛いのではないか? たとえこの都にいたとしても、大勢の女性のなかから探し出すなんてな」

「はい…ですが、それしか方法はないんです」

「かもしれんな。君は賢いようだな。それに勇敢だ。――よければ、私に君の母上を探す手伝いをさせてはもらえないだろうか?」

「…え?」エガイトルの言葉で動揺が走る。エガイトルはこちらに近づこうとはしないが、獲物を捕捉するような眼が離れなかった。

「この都内だけだが、君の母上探しに協力したい。君の力になりたいんだよ」言葉とは裏腹に、冷徹な響きのある口調だ。ルセスの額に汗がたまる。

「でも、お忙しい時にそんなこと、とても頼めません…」

「違う。私が頼んでいるのだよ。君の歳で母上と離れ離れというのはあまりにも辛い。もっと甘えるべき年頃だ。私は君に同情したのだよ。だから、私に協力させてほしい」

 エガイトルの考えが読めない。言葉だけを聞くなら、とても優しく温かい人物だ。だが口調と雰囲気、そして獣の眼がそれと真逆のことを思わせる。

「いいかな?」

 ルセスは雰囲気にのまれて言葉を失い、ただ頷くだけだった。

 笑みを絶やさず、エガイトルは肩を落とす。

「君さえよければ、次の集会にも来てみないかね?」

「で、でも…私…」

「心配しないでいい。今日はあの地下の香料で具合が悪くなったのであろう? 最初はみんなそんなものだ。だけど、安心したまえ。次の集会はここではなく、都を北に離れた森のなかだ」

 それまでうつむいていたルセスが顔を上げる。

「森、ですか?」

「ああ。そこで特別な集会を開くんだ。よければ、君もきたまえ。きっと気に入るだろう」

「あ、ありがとうございます。でも、親方の許しがもらえないと…」

「ふむ。では私から、君の親方へ話をつけよう。だから君は安心してきていい。明後日の明朝、この館の前で集合だ」

 確かに、何をするのかは気になるのだからこれは願ったりだ。この受け入れは断る必要はないのかもしれない。だが――

 突然、頭が波に押されたようにぐらりと傾く。視界がぼんやりと滲んだかと思うと、急に鮮明になり、そして再びぼんやりと滲みだす。机の前に立っているエガイトルの姿がまともに見えない。倒れないように両足に力を込めるが、力を込めたと確証ができないほど感覚がない。

 体中が汗ばみ、息が荒くなる。なぜか、苦しい。エガイトルの獣の眼をみると、なお苦しい。不意に、エガイトルが自分を見下ろしているのに気が付いた。



「どうした? 気分がすぐれないようだな」突然、さらに顔色を悪くしたルセスにエガイトルは言った。

「い、いえ、大丈夫、です…」

「ひどい汗だ。今日はこの館へ泊らないかね? そのまま帰るのは、とても辛そうだ」

「いえ…」と断るものの、ルセスの声はひどく弱っているようだ。まるで何日も飲まず食わずで走り続けてきたようだ。

「本当に大丈夫かね? ここへ泊めることなら、私は一向に構わないが? ここなら、宿屋の安くて硬いベッドではなく、常にあたたかいフカフカのベッドを用意できる。それに、食事も用意しよう。君の好物はなんだね? 言ってみたまえ」

「いえ、わ…わたし、もう行かなきゃ…」

 本当に辛いようだ。汗が滝のように流れ、カーペットに大粒を落とした。が、エガイトルは気にしなかった。

「では使いの者をやろう。表にいるベラネンに、私から君を頼むように言った、と伝えてほしい。そうすれば、ベラネンか、使用人が君を宿まで送ってくれるだろう」

「ありがと、うございます。では、失礼します…」

 ルセスはそれだけを言うと、部屋から出て行ってしまった。汗とあの地下の香料の臭いが少しの間残り、それが消えるころにエガイトルは窓から外を見渡した。

 ちょうどルセスが館を出たところだった。ベラネンには何も言っていないのか、一人で帰っている。小走りで、逃げるように夜の闇へ消えていくルセスを眺め、エガイトルはふっと微笑を浮かべた。

「ふむ…」その鋭い眼は、夜の世界でも鮮明に見えてしまいそうだ。瞳の鋭い光が、最後までルセスを刺していた。「なかなか、賢い“少年”だ」



 ルセスが調査に行き、もう夜が訪れた。それなのに、彼はまだ戻らない。宿の部屋で待っているピーターとルウェンは、それは彼が成功して中へ潜入できたことだ、と自分たちに言い聞かせていた。

「ルセス、本当に大丈夫なのですかね?」やはり自信が持てず、ピーターはルウェンに言った。

「そうであることを祈ろう。意外と、そうなのかもしれない。彼は君より賢いからな」

 心配させまいと、ルウェンは笑みを浮かべる。しかしピーターはうつむいて、暗い声をだした。

「はい…」

 湿原だった。からかうつもりで言ったのに、ピーターは真に受けている。ルセスは確かに賢い。だが、まだまだ子供だ。ピーターも歳の割に子供染みているが、それでもルセスよりは大人だ。

 ルセスがあそこまで落ち着いていられるのは、短い間とはいえ、ピーターと一緒にいたからなのかもしれない。精神年齢的に言えば、かなり二人とも近いものを感じる。ルセスはそんなピーターを見て、どこか大人びているのかもしれない。

 だがそれが逆にピーターを傷つけることになるとは、考えていなかった。

「なあ、ピーター」

 ピーターが顔を上げる。その顔は今にも泣きだしそうだった。原因は、もうわかっている。

「このアーチェルドの紛争を止めることができたら、お母さんに会いたくはないか?」

 え? とピーターは目を丸める。

「君のお母さんはユーリンドにいるのだろう? じゃあ、全てが片付いたら、ユーリンドへ行きなさい。お母さんも君に会いたいだろう」

「会いたい、ですけど、僕はここを離れるほどお金もないし、それに許可をとれる身分でもない」

 アーチェルドが無事復活を果たせば、国境の取り締まりはもっと厳重になる。それはもうすでに決まっていることだ。王はそれで貿易や他国との関係を取り締まろうとしている。そうなれば、アーチェルドへ入る者も出る者も、相当の理由がいるだろう。そして、それを立証する身分だっている。ピーターには、それがない。

 だがルウェンはあたたかい笑みを浮かべた。

「なんのためにお前をここへ連れてきたと思うんだね? 何も考えていないと? 今回のモネルダの交渉はかなり重大な任務だ。それのお供としてついてきただけでも、大きな責任がかかってくる。君とルセスには、それ相当の報酬が与えられるはずだ。

 たとえば、君はこの任務の功績で一介の兵士から、騎士にだってなれる。貴族の身分を与えられるかもしれない。いや、与えられるだろう」

 それを聞いてピーターの顔が明るくなる。

「じゃあ、そうなったら、僕はこのアーチェルドを…」

「うむ。自由にとはいかんが、出入りはできる。それに、お前はもともとユーリンドで生まれた身だ。ユーリンドへの永住だってできる。お母さんと暮らせるんだぞ」

 ピーターの表情が徐々に希望を取り戻す。が、なぜか突然悲しい表情を浮かべた。

「どうしたのだ?」

「いえ、その…アーチェルドを離れることになるんですよね? そうなったら……」

 言葉につまったのか、ピーターの口の動きが止まる。首をかしげてルウェンが問い質そうとした瞬間、部屋の扉がハンマーで叩くような音を立てて、慌てて立ち上がった。

 強いノックだ。宿屋の主ではないみたいだ。彼なら、もっと慎重にノックをしてくるし、声をかけてくるだろう。あれはおしゃべり好きだが、礼儀もわきまえている。

「誰だ?」

 そういうと同時に、ルウェンは扉を開けた。開いた扉から、一人の少女が現れる。雨に打たれてきたかのように、汗でびっしょりと濡れている。そしてそれは、少女でないと即座に気づいた。

「ルセス!?」

 そう。女装したルセスがいたのだ。ルセスはひどく疲労した表情で、だらだらと汗を流している。

「大変、です。すぐに、にげないと…僕のことが、彼に気づかれ……」

 そこまでいうと、ふっと意識を失い倒れ込んだ。慌ててルウェンがその体を支える。

 ルセスは……眠っていた。見たところ、外傷はない。ひどく疲れて、眠っているように穏やかな寝顔だった。


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