「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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大泥棒の路地裏
第七章
「火竜と僕」
金色に輝く満月は夜のすべての光となっていた。星よりも大きくぼんやり輝いている満月の真下はいったいどこなのだろう。アニスターはたまにそう考えることがあった。もしかしたら、あの無数に空に張り付いている星のうち一つは絶対自分の真上にあるはずなんだ。そう、今こうして立っている自分の真上には必ず一個の星が――
子供の時からそう信じてきた。誰から教わったことだろう。父ブルームだ。父さんはなんでも知っている。
アニスターは自分よりかなり前を急ぎ足で進むフレイドを見て、彼は星よりも岩のほうが興味ある人間なんだと思った。現に彼は、地面に張り付く岩に耳を当てて一時静かになったと思うと、子供のようにはしゃいで走ったりスキップしたりで進んでゆくからだ。
時間帯では真夜中といったところだろうか。アニスターはこんな時間にここ『森と丘』の丘陵地帯を徘徊したことはなかった。フレイドが突然あの夜酒場で
「おい、アニー。冒険しようぜ!」
なんて言った後でも、こんなことになるなんて思ってもいなかった。
普段はのどかですがすがしい風の吹き通るこの場所は、真夜中となると一風し肌寒い風が吹き不気味な色合いの景色を見せている。いつもこの辺で狩をすべく群をなしているランポスどころか、草をはむ平和の象徴ともいえるほど大人しい草食動物アプトノスの姿すら見ない。違う顔の森と丘を見た瞬間だった。
綺麗な景色でもあるが、そんなものに関心を寄せるほどアニスターはロマンティックではない。彼は今とても眠たかった。フレイドについていくために足とりは早めに動かしているが、どうにも瞼の重みが揺れるたびに増している。この時間は普通、ベースキャンプやゲストハウスで眠っているはずだ。フレイドはかなり元気に走り回ってるけど、平気なのだろうか。
「ねえ、フレイド。いつまでこうやって進んでいく気?」ついにアニスターは問いただす決心をした。
それでもフレイドは岩に耳を傾けたり息を弾ませて走りだしたりと何かと夢中で、聞いてすらいないようだ。この状態がかなり続いている。それも長い事。アニスターはいい加減呆れてきた。いったい彼は何が目的なのだろう。
「君は歩きながら眠る気かい? 僕はもうこのまま倒れて横になりたいくらい限界に近いんだよ」
するとようやく返事が返ってきた。
「飛び立った!」
「は?」
返事というには、あまりにも内容の理解できない返事だ。フレイドは喜々とした顔で振り返り、アニスターを見た。
「アニー! 行くぞ、なにもたもたしてんだよ! 早く行かないと、間に合わないぞ!」
間に合わないって、どこへ? そう聞き返す間もなくフレイドは一目散に走り始めた。
アニスターも慌てて走りだす。フレイドはあんなに重たい大剣を持っているというのに、全然そんなハンデを見せない。アニスターはなかなか追いつけずにいた。
「それと」フレイドは振り返りもせず、走ったまま息を弾ませて言った。「んなところで眠ってると、朝まで永遠に起きられないぞ!」
「わ、わかってるよ~」
あながち本当の事だから困る。こんなところで眠りでもしたら、臭いをかぎつけたランポス辺りがやってきてアニスターは食べられてしまうだろう。わかってるさ、言われなくったって。それでもやっぱり、フレイド自身の動向はまったくつかめなかった。
フレイドは森へ入っていった。緑生い茂る安らぎの場ともなる場所であるが、この時間帯だと木々のトンネルの先は真っ暗で、アニスターの不安を掻き立てるだけであった。フレイドは躊躇なく奥へ進んでいく。アニスターもそれについていく。
やがて森のトンネルを抜けると、大きな木々に囲まれた湖に到着した。涼しい風が流れ、湖の真ん中にはぽかんとぼんやり輝く月が映っている。水はとても澄んでおり、飲み水としても最良である。
フレイドは辺りを見渡し安全の確認を行っていた。真夜中の森の中は普段昼間に活動している動物達が眠っている。アプトノス、ケルビなどの無害な草食動物からブルファンゴという巨大イノシシまで身を隠して眠っていた。
普段気性が荒く、人を見るだけで猛突進してくるブルファンゴも今では大人しく、可愛く見える。恐らく、ここで起こしてしまえばいつも通り猛突進を繰り出し、アニスターを追いかけまわすことになるだろう。
このイノシシを起こすわけにはいかないと考えたアニスターはフレイドに歩み寄り、小声で話しかけた。
「フレイド、いったいここで何があるの?」
フレイドも小声で言った。
「お前、依頼用紙を見ていないのか?」
もちろん見ている。この森と丘へやってきた理由は依頼を受けたからであって、決して遊びやピクニックにきたわけではない。第一、ギルドの決められた猟場には依頼を受ける以外、侵入は許されていないのだ。
『ランポスの討伐』どれがアニスターとフレイドの受けた依頼だ。通商隊が通る森と丘のルートにて肉食動物ランポスが徘徊するようになり、それを討伐してほしいとのことだ。そこまでちゃんと目を通している。
アニスターが頷くと、フレイドは再び小声で言った。
「じゃあ、今ここにどんな事が起こるか、知ってるだろ」
「まさか、ランポスがこの辺にいるの?」
「それこそまさか、だ」フレイドは肩をすくめた。「ランポスが徘徊しているルートはここじゃない。通商隊のルートはここからかなり離れている場所だからな」
「じゃあ、どうしてここに来たの?」
「お前に見せたいものがあって――いや、正直に言おう。俺が見たいものがあってここにきたんだ」
眉をひそめてアニスターはフレイドを見た。
「見せたいもの?」
「とにかく、説明している暇はなさそうだな」
そういうなりフレイドはアニスターの腕を引っ張り、草の集まる茂みに飛び込んだ。ものすごい力で引っ張られ、アニスターはバランスを崩しフレイドのようにかがみこむことができず、鼻を地面にぶつけてしまった。
小さい悲鳴を上げる前にフレイドの手がアニスターの口を塞ぐ。彼の掌は大きく、アニスターの口だけでなく鼻まで塞いだため、アニスターは息が出来ず苦しかった。彼の手をどけようにも、力が強くとてもアニスターの力じゃびくりともしなかった。
と、その時静まり返った森の中で明らかに目立つ風の音が聞こえた。風が吹き荒れる音というより、風を凪ぎ周辺を移動しているような音だ。この音――聞いたことがある。
ようやくフレイドはアニスターにやっている事の重大さを理解したのか、慌てて手を離した。アニスターは大きく咳き込む。
苦しくてどうしようもなかったが、それでもアニスターは小声で話すくらいは冷静であった。
「どうしたん…ゲホッ、だよ、フレイド…ゲホッ」
「わりいわりい」それから彼は茂み越しに空を見上げた。謝っていた時は半笑いだったが、見上げた瞬間、夜空を見上げ星を眺める女の子のようにロマンティックな光が彼の瞳に灯っていた。「彼が来るぞ」
彼がくる? フレイドは誰かと待ち合わせでもしていたのだろうか。いや、ここでの依頼を受けたのは今のところ自分達だけだ。他に誰かがあとから何かの依頼を受けたところで、この時間にここまで来れるはずがない。
誰が来るのか問う為に口を開けた瞬間、先ほどの風を凪ぐ音がさらに大きくなり、アニスターはフレイドと同じように空を見上げた。茂み越しの、森のその奥に見える夜空は月が輝いている。見方によれば不気味だが、温かい光のような気がする。
その満月を一瞬、大きな影が覆った。影は左右の翼を大きくなびかせ、膜を波打っている。アニスターは影のシルエットに見覚えがあった。長く大きな尻尾に翼、そして影でも目立つ強靭な顎。
あれは前に密林で戦った火竜と全く一緒だ!
フレイドは人差し指を唇にあてて静かにするよう命じた。今のところ、自分達はまだあれに見つかっていない。つまり、このまま物音を立てず身をひそめていれば見つからないかもしれないのだ。アニスターは彼の言うとおり大人しくしていた。
火竜は地面に着地し、湖の前で止まる。月の光を直接受け、影は晴れてその姿がはっきりと見えるようになった。密林で戦ったリオレイアに似ているが、それは全く異なったものであった。
リオレイアよりどこか攻撃的な印象を与える全身の赤い甲殻、そして鱗。姿は似ているが形は別物で、大空のように青い瞳をしている。アニスターはその火竜を知っていた。モンスターハンターなら誰もが知っている、飛竜の中で最も代表的なものだ。
雄火竜リオレウスはアニスター達に気づく気配もなく、平気で後ろを向いて湖を見た。雄のリオレウスは雌のリオレイアと違い、よく空を飛び辺りを周回している。リオレイアより視野が広く、翼を一度仰ぐだけでどこまでも遠くへ行けるという。
リオレウスの住む周辺では、生き物は空に脅え影が近づかない事を祈る生活を送っている。そう、空こそリオレウスだったのだ。人は彼を大空の王者と呼ぶようになった。
その名に恥じぬ貫録を彼は持っている。だがなぜか、あの飛竜や大型の肉食モンスターに睨まれた時の緊張はなかった。どこか、自然の動物を眺めているような穏やかな空気が流れているだけだ。
フレイドはアニスターに振り返り、もっと身を低くするよう手振りで指示した。アニスターは身を低くし、フレイドに合わせる。
くぉぉぉぉん。
今の音はなんだ? 洞窟の奥から響いてくるような深い音は。それはリオレウスが発していたあくびだった。空を見上げてだらしなく開けた口から漏れたあくびだったのだ。
よく見ると、瞳はとろんとしており、寝起きの子供のようにみえる。いつもの敵意ある鋭い眼には見えなかった。
リオレウスはあくびを終えると、開けたままの口を湖に突っ込み水を飲み始めた。開いた口で水をすくい、空を見上げて喉に流している。湖は激しくともいかないが、ざぶざぶと音を立てて波紋を作りだした。
リオレウスは先ほどまで眠っていたのだろうか。アニスターはフレイドを見た。彼はまるで子供が国の英雄を見るような、憧れの瞳でリオレウスを見ている。狩る気がないのは承知しているが、それはそれで意外だった。
水をたらふく飲んだリオレウスは顔を上げて、また眠たそうにあくびをすると大きく翼を広げ、湖から去っていった。それをフレイドは最後まで見ていた。
「ねえ、フレイド。見せたかったものって、あのリオレウスのこと?」リオレウスの姿が完全に見えなくなり、物音が一切聞こえなくなってようやくアニスターは口を開いた。
「すっげぇだろ!」フレイドはまるで興奮を隠すことなく言った。その顔は眩しいくらいに光り輝いている。「リオレウスだぞ、おい! 空の王者! 代表的な飛竜! 最も獰猛で、最も賢いすっげえワイバーンだ!」
「お、落ち着きなよフレイド…」アニスターは彼ほど興奮できなかった。かといって、冷めた気持ちでリオレウスを見ていたわけではない。いつの間にか自分の掌には汗がたまっていたのだ。
驚いたことにフレイドはもう落ち着いていた。「なあ、アニー。お前は彼をあんな間近で見た事あるか?」
アニスターは首を横に振った。
「見るのも初めてだよ」
「そうか。で、どうだった?」
アニスターはリオレウスが寝ぼけながら水を飲む姿を思い出した。噂ではかなり獰猛で、血も涙もない恐ろしい飛竜だと聞いていたのだが、森の中で目撃したリオレウスはそれとはかけ離れた印象を持っていた。まるで寝起きの自分みたいだ。
かなり殺伐として、緊張感のない所だったのに、胸が高鳴るように脈打っているのをアニスターは感じた。リオレイアに追いかけまわされていた時のとは違う、どこか衝動的な鼓動を感じる。
リオレウスのあの姿を思い返すだけで、それは容易に胸を高鳴らせた。大きく、たくましい肉体に甲殻や鱗の鎧。それが自分のすぐ目の前で、のんきに水を浴びて、飛び去って行くまですべて見ていた。初めてみるリオレウスは、恐怖の対象ではなかった。
「なんだか、こう…」うまく言い表せないが、胸がドキドキしているのは確かだ。アニスターは胸に手を当てて表現しようとしたが、言葉が見つからない。「…すごいよ」
なんて感想だろう。自分で言ったことだが、これは変な事だ。アニスターは自分の表現力のなさに嘆いた。だがフレイドはというと、それで満足というように微笑を浮かべて頷いた。
「彼を見て、そう感じればお前は立派なハンターだよ、アニー」フレイドは再び興奮を隠す様子もなく息を荒げた。「リオレウスは俺が一番好きな飛竜だ。かっこよくて、強くて、まさに飛竜の頂点に立つべき飛竜って感じでよ。それに、彼にどこか似ている――」
フレイドの言う『彼』が誰なのか、アニスターは何となくわかっていた。
「片腕のフレイに?」
彼は頷いた。
「ああ、そうだ。装備は違うけどな。彼はリオソウルというリオレウスの亜種の素材から作られる防具を身につけている。けど、もとはおんなじリオレウスだ。それにあの赤い髪。血の色にも取れるけど、俺には燃える炎の色に見えるね。リオレウスの体と一緒だ。あの力強い眼、何者にも屈さない威厳、そして荒々しさ…」
フレイドは全身をリオレウスシリーズで覆っている。アニスターとは違い、何度もリオレウスを見てきたのだろう。だが初見のアニスターよりフレイドは感激しているようだ。気持ちもわからなくはないのだが。
「きっとフレイも同じようにリオレウスが一番好きだったんだろうな。なんだかそっくりだ」
「そっくりって…君はフレイって人と会った事あるの?」
「いいや、ない!」彼はきっぱりいった。「俺の想像ってところさ」
まあそうだろうとは思っていた。彼はフレイに憧れ、フレイを目指す為に装備も似たようなものにしている。リオレウス装備とリオソウル装備は色と質が違うだけで、見た目に変化はない。リオソウルという亜種の素材で強化することで、リオレウス装備はやっとリオソウルシリーズの仲間入りを果たすのだ。
それにフレイドとフレイは名前がほとんど同じだ。彼自身がそう願ってつけたかどうかはわからないが、とにかく近い。偽名か、それともまた別の理由があるのかは定かではないし、アニスターは知る気もなかった。髪形も、あの博物館で見た絵画のフレイと比べると近い形をしている。髪の色は恐らく地毛だろう。
「でも、すごいドキドキしたよ」アニスターは率直な感想を伝えた。
「それが冒険の気持ちさ、アニー。ハンターはそれを経験して、初めて一人前になれる」
「それじゃあ、僕も一人前のハンターってこと?」アニスターは声に笑いを混ぜて言った。
同じようにフレイドも笑う。「ああ、そうさ。一人前のお前なら、今回の依頼はきっと達成できるはずさ」
二人は笑いあって、ベースキャンプへ戻ることにした。いつの間にか夜明けが近くなっている。本来二日は狩の猶予があるが、今回は夜も含まれているのであと一日の猶予しかないといったところだろうか。
思えば凄い体験だったと自分で思う。母と暮らしていた時とは全く違う日常が、アニスターの心を刺激していた。瞼を閉じて、リオレウスのあの姿を思い描く。そこには感動と敬意が込められた感情が湧いてきた
ベースキャンプに戻るなり、二人は荒い作りの木のベッドに横になり就寝した。とはいっても時間もないので、日が昇り朝がきたころには二人は起きておく必要があった。
先に目を覚ましたのはアニスターだ。時間にして、約三時間も眠れていないだろう。それはそれでかなりきつい。彼はまだ大きないびきをかいて無防備に腹を出して眠っているフレイドを見た。なんとのんきな少年だ。
彼は自分より一つ上の十七歳で、実質年上だ。だがたまにアニスターより全然子供っぽくなり、大人げない部分が見え隠れする。頼りになる奴だが、どこか信ぴょう性に欠ける変なハンターだ。
今まで見てきた、フレイドのように経験豊かで腕の立つハンターはアニスターに目もくれなかった。アニスターと組んでくれるという気まぐれを起こすことはまずなかった。アニスターを連れていくということは、失敗する確率を跳ねあげ、依頼の難易度を底上げすることになるからだ。つまり、彼は足手まといにしかならないのだ。
そんな彼をフレイドはわざわざ組もうと呼びかけてきた。アニスターには断る理由はない。だが、どこか引っ掛かる。彼は何か目的があって自分と組むことにしたのだろうか。それとも、たぐいまれなる気まぐれの持ち主なのだろうか。
今のところ、それはあまり問題にすべきところではない。なぜなら今回討伐対象となるランポスはフレイド自身たった一人で相手にできる程度の相手だし、アニスターを扱う必要はない。それに彼は、肉食動物などのモンスターとの戦いを教えてくれるという。
今までアニスターはそういった討伐関連の依頼を受けた事はなかった。パーティでゲリョス討伐に赴く機会はあったが、何もできなかった。
アニスターはベッドにかけてある父の形見コロナを見た。この剣を握った事はあるが、獲物を仕留めたことはあまりない。特に肉食動物などの危険な生き物は。
アプトノスやケルビといった草食動物は、肉の補充のために何度か切った事がある。コロナは肉との摩擦で刀身に小爆発を起こし、その肉を焼き切るのだ。初めてそれを知った時は腰が抜けて、倒した獲物と一緒に転がっていたものだ。
今回フレイドは戦い方を教えてくれる。それがどう自分にプラスになるかはわからないが、結果は悪くはならないだろう。
「フレイド、フレイド」
アニスターはフレイドの体を揺すった。だが彼の声はすぐにフレイドの大いびきでかき消されてしまう。
「フレイド!」
怒鳴るように叫ぶが、それでもフレイドは寝たままだ。まったく、なんと寝相の悪いことか。
こういう男は、きっと普通に起こしても起きないだろう。アニスターは木製のバケツを持ってキャンプを出て、すぐ前の泉まで行った。そこで水を汲み、キャンプまで持ち運ぶ。
戻っても、まだフレイドは眠ったままだった。
「フレイド」アニスターはバケツを胸の方まで上げて、最後の忠告にかかる。「今すぐ起きないと、大洪水の被害にあう夢を見て目覚めることになるよ」
返事は大きないびきだった。それはもうアニスターにとって「どうぞお構いなく」と言っているようにしか聞こえなかった。彼は覚悟を決め、バケツを頭上まで上げた。
と、その時キャンプの天井にバケツの口が辺り、水が少量こぼれフレイドの頬を打った。反射的にフレイドは腕を動かす。フレイドの拳がアニスターの脛を思いっきり打ちつけ、アニスターは悲鳴を上げる。そして鈍い痛みが足をじんわりと刺激し、思わずアニスターはバランスを崩した。
手からはバケツが滑り落ち、こぼれた水はすべてアニスターの頭に流れ落ちた。全身ずぶぬれになり、あまりの冷たさにまたアニーは声を上げてしまった。
それから水にぬれた石垣に足を滑らせ、木製のベッドに頭から落ちる。運悪く後頭部をぶつけ、痛みが走る。が、これは叫ぶほどでもない。
自分の行おうとしたことが裏目にでて、アニスターはしばらくそのままベッドに横になり、キャンプの天幕越しに見える柔らかい太陽の光を見つめていた。なんでこう、僕はドジなんだろう。
「ふぁ~あっ、……ん?」頬の水で起きたフレイドは、そうしてずぶぬれでベッドに横たわるアニスターを見て首をかしげた。「なんだ、どうかしたのかよ、アニー?」
アニスターはぶきっちょに答えた。
「…別に」
「よし、アニー。まずはランポスの動きについて教えるぞ」
起きて身支度を整え、ベースキャンプを出た場所にある広い草原までやってきたフレイドとアニスターは食事をしていた。携帯食料という、塩漬けした保存性の高い肉だ。それを食べ終わったころに、フレイドはそう言った。
アニスターは口に付いた油や塩を手で拭った。まるで緊張感のない彼の様子をみてフレイドは呆れ、両手を腰に当てて胸を張った。
「アニー、これからお前はランポスを狩るんだぞ。今まで肉食のモンスターなんて相手したことがないっていうからこうして教えてやるんだ。もう少ししゃきっとしろよ」
「あ、うん。ごめん」朝の騒動――というには余りにも微妙だが――でちょっと気が抜けていた。そう、今自分はフレイドから教えてもらう身なのだ。ここはちゃんとしておく必要があるだろう。
彼は姿勢を改め、背筋を伸ばした。「よろしくお願いします」
「うむ、良い心意気だ」まるで訓練所の教官のような口ぶりだ。フレイドは直立するアニスターを一周して、間の抜けた笑顔になった。「まあそう固くなるなよ」
ランポス討伐の数は約十頭。アニスターはこれから、そのうちの数頭を相手にすることになる。初めての討伐だ。ここから先は、気を抜くわけにはいかない。
フレイドが言うには、ランポスとの対峙は誰もが通る道で、気をつけてさえいれば踏み外すことはないという。だが、今朝の騒動を起こしたアニスターはその言葉が覆されてしまうような気がして、不安だった。とにかく、それなら人一倍気を引き締めておく必要がある。
誰でも通れる道に、英雄ブルームの息子であるアニスターが立ち往生するわけにはいかない!
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