「007 スペクター」21世紀のボンドにスペクター
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大泥棒の路地裏
第十五章
「決別と僕」
馬によく似たモンスターはいななきを上げて逃げ去るフレイド達を見送っていた。
この寒い場所だというのに、体は恐ろしいほど熱く、汗がとめどなく流れている。フレイドの顔にも、大量に汗がにじんでいた。
これは走り過ぎて身体が火照っているわけでなく、身近な恐怖からくるものだとわかった。
初めて出会うモンスターへ対する恐怖。普段なら、フレイドは喜んで相手しようとするだろう。しかしそのフレイドが一目散に「逃げよう」と告げた相手だ。
どれほど恐ろしいモンスターなのだろう。どれほど危険なモンスターなのだろう。アニスターには測り知れないほどの力を持っているに違いない。
とにかく今はフレイドの言うとおり逃げるしかない。あの馬に似たモンスターから感じ取ったのは確かな殺意だった。リオレイアやランポスなんかに向けられたものとは比べ物にならないほど強い狂気めいた殺意だ。
今でも背中に針を刺されているように感じる。チクチクと、ひしひしと、それは自由自在に感覚を変えて襲ってくる。
今すぐ振り返り、あの謎のモンスターが追ってきているかを見たい。そして追ってこない事に安堵したい。しかし、その余裕はなかった。どこにも。
フレイドも同じ気持ちなのかもしれない。何も言わずに、ただひたすら走っている。きっと安全だと確実に確証できる場所まで逃げない限り、この状態は続くのだろう。
一瞬足元に影ができた。フレイドとアニスターを覆うほど大きな影が。続いて風が後ろから吹きあがる。
フレイドとアニスターは同時に立ち止まった。頭上を飛び越えた例のモンスターは蹄をかつかつと鳴らし、二人の目の前に立っている。
静かに怒りにたぎった瞳は再び鎖で拘束するように二人を縛った。
二人の間に言葉がなかった。フレイドはアニスターに目配せをするが、焦点は定まっていない。
腰が抜けそうになる瞬間にフレイドがアニスターの腕を引いて走りだす。蹄の音がしないことから、モンスターは追ってきてはいないようだ。
そう安心して振りかえると――そこにはあのモンスターの長い顔があった。うっすら青い白みを帯びた顔が。
「ひぃっ!?」アニスターは悲鳴を上げた。
それと同時にフレイドがドラゴンキラーに手をかけ、一気に振る。ドラゴンキラーの淡く赤い刃は正確にモンスターの長い首へと狙いをつけていた。
ガンッ!
瞬間、当惑が生まれた。確かにフレイドのドラゴンキラーはモンスターの首を叩きつけたはずだ。それなのに、岩を叩いたようなくぐもった金属音のようなものがしたと思った瞬間、弾かれたのはフレイドのドラゴンキラーだった。
衝撃がフレイドの腕にそのまま跳ね返り、フレイドは姿勢を崩して一回転した後に尻もちをついた。
「くそっ!」
フレイドは転がり、勢いをいかして立ちあがる。その瞬間鈍い音が響く。
モンスターの蹄がフレイドのもといた位置を踏みつけたのだ。雪は軽く埋もれているだけであった。それだけなのに、あれに当たれば防具ごとぐしゃぐしゃに潰されるほどの威圧が備わっていた。
体勢を立て直したフレイドはドラゴンキラーを構える。その行為がアニスターにとっては正気を疑うもので、息をのんで立ち止まった。
フレイドはこのまま、このモンスターと戦うつもりらしい。すでに冷や汗でぐっしょりになっているというのに、それでも戦おうと相手を睨みつけている。
アニスターは――武器を取るどころか、背中に掛けた盾をも落としてしまった。しかし拾い上げるほどの勇気がわかなかった。まるで怪物の潜む谷底に向かって手を伸ばすような、そんな絶望的な恐怖で動けなかった。
フレイドは何も言わなかった。モンスターが軽快なステップを踏んで右へ左へ飛びながら向かってくる。そのステップのリズムをフレイドは読んでいた。
大きく振りかぶり、ドラゴンキラーを振る。重い剣は正確にモンスターの華奢な頭を叩きつけた。それなのに、モンスターの頭はびくともしない。白く光を灯っている一角が受け止めていた。
あんな身体をして、飛竜のように頑丈なモンスターのようだ。
一角のモンスターが軽く頭を上げると、フレイドのドラゴンキラーを軽々と弾いた。
見えない力に押されるかのようにフレイドは再びしりもちをつく。先ほどより速く立ちあがり、体勢を戻すが、モンスターの角はすぐそこまで迫っていた。
あぶない! そうフレイドに忠告しようとしたが、喉から声が出ず、アニスターは口をぱくぱくさせるだけだ。なぜ、いまさらになって声がでない? フレイドは懸命に抵抗しようとしているというのに、落ちた盾も拾おうとせず、膝を小刻みに揺らしてなんになるというのだ?
答えは簡単だ。アニスターにはあのモンスターと戦う器量がない。フレイドのようにどんなものにも正面から立ち向かうような勇気もなければ、賢いハンターのように応用も考え付かない。アニスターは再び無力に苛まれていった。
正面からやってきた一角をフレイドはドラゴンキラーの腹で受け止める。ドラゴンキラーと比べて、白く光る角は剥ぎ取り用ナイフより小さいというのに、フレイドごと吹き飛ばした。
「くっそ、デタラメなやつめ…!」
モンスターが追いつく前にフレイドは立ちあがり、走りだす。しかしドラゴンキラーは背中に掛けており、その走りはモンスターに向かうというより、それるようだった。
フレイドはモンスターの青白く輝く身体をかすめて通り過ぎ、アニスターのもとへ走った。
そして盾を拾い、「こっちだ、アニー!」
今度は、フレイドはアニスターの手を引かなかった。それでもアニスターは自分の足でフレイドについて行く事ができた。また、背後の恐怖におびえる敗走の始まりであった。
二人は自分達が出てきた洞窟へと逃げ込んだ。洞窟の入り口は狭く、あのモンスターが入れるほど大きくはない。もう洞窟に入り、しばらく走っているというのに二人は振り返らなかった。
どれくらい走ったことだろう。洞窟へ入りほんの数秒だけと言われたら納得してしまうだろうし、一時間は軽く走ったと言われても不思議ではないと思える。二人は我を忘れてただただ逃げていただけなのだ。
アニスターは疲れが足に出てきて、何もつまづくものもないというのにあっさりこけてうつぶせに倒れた。
「アニー!」はっとして足を止め、フレイドは振り返ってアニスターのもとへ走った。「大丈夫か?」
「う、うん…」フレイドに手を貸してもらい、少年は立ちあがった。
まだ二人は息切れをしている。しかし、冷静さは取り戻した。もうここまで逃げ切れば、追ってくるはずもない。そのまま二人は沈黙してお互いの無事を確かめあった。
静寂。
息遣い以外はなんの音もしない、静けさだけの世界。それに似つかない、肌をちくちくと刺す不思議な感覚。まるでさっきまでの恐怖が今その場にいるようだ。
「…あのモンスターはなんだったんだろう」アニスターは絶望しきったような声で言った。自分でも正直驚いている。
思いだしたようにフレイドは顔をしかめ、その表情を怒りに変えて拳を氷の壁に叩きつけた。
「くそったれ! なんであんな奴がここにッ……!」
「フレイド、あれがなんなのか知っているの?」
驚いた顔でフレイドはアニスターを見上げる。アニスターは自分が何か間違った事でも言ったのかと不安になった。
「あれを知らないなんて、お前もよっぽどなのかもな」フレイドはにやりと笑った。もう怒りの表情はない。しかし、冷や汗がたっぷりにじみ出ている。
アニスターは何も言わず、フレイドが語るのを待った。フレイドはそれほど時間をかけずに語り始めた。
「あれは、雷獣だ。古龍の一種で、厳密には〈キリン〉っていう名前だ」
「キリン……ッキリン!?」
「やっぱり、知ってるじゃねぇか」
知っているも何も、ハンターでその名前を知らない者はいない。伝説の生物、幻のモンスター、いろんな呼び名で言われているが、雷獣と聞いたのは初めてだ。
酒場でもたまに噂を聞く。キリンという伝説の生き物がいて、目撃者も若干ながらいるという話を。どういう容姿かは聞いていなかったが、伝説の生物というのであれば、興味が湧かないわけでもない。その知識はいつの間にか隅へ追いやられたものだが。
「え、でも、でも、古龍って? 竜なの!?」
あの容姿で竜には見えない。翼もなければ、恐ろしい牙があるわけでも、鉤爪があるわけでもない。
「竜ではないが、ギルドは古龍種としてキリンをそっちにわけたんだ」だんだんフレイドの息遣いが整い始めてきた。「最近じゃ、キリンを目撃したって証言も少なくはない。南のほうのギルドナイツではキリンを討伐したハンターがいるって話だ。だけど、あまりにその姿を見かけないために調査という調査はまだ決定されていなかったんだ。だからキリンの調査はほとんど進んでいないし、どんな性格なのかもわからん。たださっきの様子だと、ケルビみたいに臆病ってわけでも、アプトノスのように穏やかってわけでもないようだな」
アニスターは先ほどのキリンの襲撃を思い出し、ぞっとした。今自分が生きているのが不思議なくらいだ。それほどの強い殺気を放っていたのだ。
「飛竜みたいに、僕達人間を見たら真っ直ぐ向かってくるような、そんな凶暴なやつなの?」
「わからん。でも今見たところ、そうなのかもしれないな。キリンが何を食っているかわからんが、あの容姿で肉食には見えない。だから俺達を食うつもりではないんだろうけど、やっぱり人間はみんなおぞましい敵に見えるんだろうな」
一瞬あれを馬かなにかと思った自分が愚かであった。あれほど強い殺気と敵意をあらわにしていたモンスターに対してそんな可愛らしい印象を覚えるなんて。
「これから、どうするつもりだい?」
この問いにフレイドは悔しそうに歯を食いしばり、拳を強く握った。アニスターにはその意味がよくわかった。
フレイドは頑固で負けず嫌いだ。先ほど躊躇もなく逃げ出した自分が許せなかったのだ。
それも仕方ない事だとは思う。むしろ、懸命な判断だと言える。しかしフレイドはそれが許せなかったのだ。フレイドのプライドが。
彼がこれからなんというか、アニスターは怖かった。彼はもしかしたら、無謀にもあのキリンに挑みにいきかねない。現に今彼の心は葛藤で渦巻いているのだろう。
しばらくして、フレイドは顔を上げた。
「逃げよう。今回の依頼は失敗だ。当のドドブランゴだって逃げ出していたし、続行は不可能だ」
その決断をくだすのに、フレイドはこの短い間どれほどの葛藤をしてきたことだろう。アニスターは異論せず、頷いた。
二人はもと来た道をたどり、徐々に洞窟の出口まで近付いていった。
ここにきて、やっとわかることがあった。ドドブランゴ、ブランゴ、それにガウシカなどの雪山に棲む生物が足並みをそろえて逃げ出した理由は、あの雷獣キリンの出現によるものなのだ、と。
キリンのあの異常な殺気に凶暴さがあれば、それだけで野生の本能は危険だと教えるはずだ。雪山の生物が棲み処を捨てて逃げる理由として納得できる。
ついに洞窟の出口が見えた。強く輝きを放つ出口はこれまでに地獄から抜け出させてくれるような希望を彷彿とさせた。この洞窟を出れば、もう終わる…。
外に出ると肌が突然かゆむずくなってきた。陽光はほとんど黒っぽい雲に包まれ、光という光は射していない。一瞬夜中かとも思えるほどの暗さだ。空気もあまりおいしいと感じない。逆に喉につっかえる様な、重い味がする。
「アニー!」
フレイドが突然叫び、振り返った瞬間彼はアニスターを突き飛ばした。不格好にアニスターは倒れる。
「な、何するんだよフレ――」突然轟音が響いたかと思うと、青白い光の槍がアニスターの出た入口に落ち、地面に穴を開けた。それは一瞬で消え、真っ黒な焦げ跡だけを残している。あまりの眩しさにアニスターは目を覆った。
肌にぴりぴりと静電気のようなものを感じる。それはあの山頂付近で感じたものと全く一緒であった。そしてアニスターは恐怖で震えあがる。
まるで待ち構えていたかのようにキリンが目の前に立っている。全身に青白い筋がのたくるように体中を走る。それはキリン自信から発散されている電気だ。
さも当然のようにそこにいるキリンはフレイドをじっと見つめている。いつの間にかフレイドは背中のドラゴンキラーを持ってアニスターの前に守るように出ている。
どういうルートを通ったのかはわからないが、回り込まれたのだ。
「立て!」きつい口調でフレイドが叫ぶ。アニスターは言うとおり即座に立ちあがった。しかし震えが治まらない。
フレイドはキリンの前足を狙ってドラゴンキラーを振る。キリンはさも予想していたことのようにあっさりとその一撃を避けてしまった。
しかし予想していたのはキリンだけではない。キリンが避けると同時にフレイドの腕がアニスターの首を掴み、洞窟の入口へ放り込んできた。
あまりに強く首を絞められ、アニスターは咳き込んだ。気がつくとまた暗闇の世界に押し込まれていた。
続いてフレイドが飛び込んでくる。隙を見てキリンから逃れたのであろう。
「こっちだ!」間髪いれずにフレイドは叫んで走った。
アニスターも彼の後を追って走る。またキリンは入口に入る事ができず、追ってくる事はできなかった。それなのにまだ肌に走る静電気が止まらない。それに、喉元に刃を向けられているような緊張感も残っている。
「こっちの動きは読まれているんだ」アニスターは走りながらフレイドの背中に向かって言った。「僕達は逃げられないんだ!」
「確かに奴は俺達の逃げ場を読んでいた…」初めの時よりずっと冷静な口ぶりでフレイドは言った。「でも、完全に俺達の行動を理解しているはずはない!」
どうしてそんなことが言える? 相手は道のモンスター。伝説で幻。どんな力を持っていてもおかしくないモンスターだ。
「何か根拠があるの?」
「いや。だけど、そう信じてやったほうがずっといいだろ。キリンのことに関しては俺達は関与する必要はない。今回のこの試験は中止だ。だったらやる事は一つ、帰る事だ。俺達はそれに全力を注ぐ必要がある」
思ったよりフレイドは子供ではなかった。
「まずはどうするか、だよね」
「とにかく奴から完璧に逃げたい」
アニスターがきょとんとしてフレイドを見ると、フレイドは恥ずかしいような悔しいような複雑な表情になった。
「さっきも言った通り、奴は依頼の対象じゃない。それに、奴と戦うにはまだ準備不足だ。対策だって練ってないんだぞ。それに――…」
それに、僕がいる。アニスター自信が足を引っ張っていることは十分承知だ。ブランゴもドドブランゴもいない今、アニスターが行うはずであった作戦は全てなくなった。だからフレイドは逃げよう、というのだ。
「この洞窟だって、まだ全部見たわけじゃないんだ。通路はここだけとは限らない。もっと探索しよう!」
「で、でも、もしキリンが待ち構えていたりしたら…」
「そこは運の戦いだな。あとはもう、祈るしかねえよ」
あっさりとフレイドは言った。
二人はそのまま、洞窟内で別の通路探しへと目的を移した。
見つけた通路は二つ。南へ向かって伸びる通路に、真っ暗でよく見えない通路だ。アニスター個人としては、うっすら明るい南へ伸びる通路へ向かいたいところだ。
「アニー、お前はどっちにいきたいよ?」フレイドはドラゴンキラーの刃を砥石で研ぎながら言った。
「え? 僕に聞くの? ――…僕はどっちかっていうと…ってフレイド、それ!」
ん? とフレイドは研いでいた途中の、大きく欠けたドラゴンキラーの刃を見た。まるでその部分だけそっくり三角に切り取られたように欠けている。断面はいくつかの層になっており、表層はピンクかと思うとその次にこげ茶色が重なり、つぎに鮮やかな緑色の層が重なっている。
「ああ、さっきキリンの角をこいつで受け止めたときについたもんだ」
「そ、そんな…キリンの角はそんなに強いものなの?」
「かなりな。正直、飛竜の牙なんかよりずっと強力だぜ」
飛竜の突進にも尾の一撃にも耐え抜いていたフレイドのドラゴンキラーがこうも簡単に…。
「それで、アニー? どっちにいくよ?」
「そうだね…って、本当に僕が決めてもいいわけなの?」
「さっきも言っただろ。運だ、運。俺はそういう運とかいうのにはとことん見放されているみたいだからな。俺よりお前の方がましだと思うよ」
なるほど、と納得できるほどアニスターは大人ではない。だけど、拒否する理由もないだろう。
「じゃ、じゃあこっちで」アニスターは南への通路を指した。
「わかった、行こう。出たあとは、出た後にでも考えよう」
南へ伸びる通路はあまり長くなかった。最初に出たところよりずっと短い。だから思ったより早く光の射してくる入口まで到着した。
「俺が先にでよう」さっきの襲撃のようなことが起きるのを恐れてか、フレイドはアニスターの肩に手をかけた。「俺なら、あいつの動きに反応できる」
キリンの襲撃で最初に反応出来たのはフレイドだ。彼が先に出るのが適任だろう。だがそれは、フレイドの身を危険にさらすということだ…。
それなのに、アニスターは頷く事しかできなかった。
フレイドは慎重に進んで、つま先だけを入口の光にかざすように突きだした。そしてゆっくり前に踏み出す。
――フレイドは外に出た。物音も、不審な影も見当たらない。しかしフレイドは油断せず辺りを見回し、安心したように息を吐いた。
「…大丈夫だぜ、アニー。ここに奴はいないみたいだ」
いたら襲ってくるはずだ、とフレイドはつけ足した。確かにそうだ。キリンはいつも突然襲ってきていた。ここにキリンがいるなら、今までのように襲ってきているはずだ。
アニスターは震える足を動かし、外に出た。
中とは違い、外の空気はどこか張り詰めているような気がした。まだキリンがどこか近くにいる様な気がして不安だ。肌はまだ静電気を帯びたようにぴりぴりしているし、洞窟内より明るいと言っても、まだ暗い雲が覆っていて昼間だというのに夕方のようだ。
「うーむ」悩んだ人のような声でフレイドは唸った。
「ど、どうかした?」
「どうやらここは、俺達が入った洞窟の入り口と正反対の場所のようだ」
「ってことは、この山の丁度向こう側に僕達が入ってきたってこと?」
「そうなるな」
つまり、帰るには大きく迂回して行くしかない、と現状は伝えてきている。あのキリンに見つからずに…。
それがどれほど大変で危険なものか、アニスターは十分理解している。それでも、あの洞窟へ戻る事はできない。運悪くキリンと遭遇してしまう事態は避けなければならないのだ。
取りあえず、洞窟へ戻るより大周りしてもとの場所へ戻る方が安全だと結論した二人は、そのまま山道から迂回して進むことにした。
雪山は雪が積もり、木々がほとんど生えていないところ以外は他の山と変わりがない。歩きにくいが見晴らしもいいし、モンスターが遠くにいたとしても見る事ができるだろう。
洞窟から出て三十分ほどすると、大きな断崖絶壁へと出た。道は続いているが、雪に埋もれているせいで崩れそうな個所も見えない。
「ここは危険な場所だろうな」とフレイド。
だがここに安全な場所はそうないだろう、とアニスターは思った。なぜなら、この雪山にはまだ人間を襲うキリンがいるのだから。
そのキリンがどの辺にいるかはわからない。あの時ペイントボールを投げていれば、居場所くらいはわかったかもしれない。それができなかったのは、恐怖に硬直していたせいだ。
それでもキリンがこの雪山のどこかにいるのはわかった。
キリンは常に稲妻を体中に帯びている。だからキリンがいるときは肌に静電気が走るのだ。アニスターはその時やっとわかった。たまに鎧に触れると、ぱちっと静電気が鳴りアニスターを驚かせている。
静電気が起きているということは、案外すぐ近くにキリンはいるのかもしれない。そう思うとぞっとしてきた。
「なぁ、アニー」いつもの口調でフレイドは言った。「お前はさ、あんまり俺の事聞いてきたりしなかったよな」
こんな時に何を言い出すのだろう。アニスターは眉をひそめてフレイドを見た。
「そんなことないと思うけど?」
フレイドについてはいろいろ聞いたような気がする。だが思い返せば、それはフレイドについてではなく、フレイドの目標や夢といったものだけであった。それ以外、フレイドについてあまり知らない。
ただわかるのは、信頼できる友達だということだ。頼りになるし、彼は頼ってくれている。ハンターのアニスターにとっては一度の人生にあるかないかのものだ。
「俺もあんまり自分の事を語るような奴じゃないからなぁ」
わざとらしくフレイドが言うので、アニスターはつい笑いを誘われた。
「常に自分の事で僕を巻き込む君があ?」
二人は微笑を浮かべた。こんな状況だというのに。フレイドはやっぱり凄い奴だ、改めてそう思った。
「帰ったら、俺もお前に自分の事を話さないとな」
「別に僕は興味ないけど?」
「そう言うなって。俺はお前の事よく知ってるけど、お前は俺のことをよく知らないだろ。俺だけ隠しているようで嫌だからさ。それに聞いてみるもんだぜ? ――フレイド様の波乱万丈な人生の歩み、ってな」少年は屈託のない笑顔をして笑った。
フレイドの波乱万丈な人生、か。歳は一つしか変わらないのに、フレイドはきっとアニスターよりずっとずっと凄い体験をしてきたに違いない。そう考えると、彼の話に耳を傾けるのも悪くない気がしてきた。
「そうだね。じゃあ、そのうちにでも聞かせてもらお――」
その時、音もなく突然青白い光がフレイドの背後まで迫ってきていた。本当に音はなかった。蹄が雪を踏みならす音も、体中の電気が角に集中して集まる瞬間も――
「フレイド!!」
フレイドの反応は速かった。振り返ると同時に、背中のドラゴンキラーを抜いて大剣の腹を前に突きだす。
正面に立ったキリンの角の光が分散したかと思うと、突如小さな雷が辺りに落ちた。青白い稲妻の槍がフレイドのドラゴンキラーを打ち、アニスターの背中をかすめる。
辺りにいくつも小さな雷は落ち、落ちた場所は雪も十発し、地面の焦げる臭いが立ち昇っている。
直接当たったわけでもないというのに、背中に鋭い刃で引き裂かれたような激痛が走り、アニスターは絶句して倒れた。
ドラゴンキラーで防いだフレイドは一応無事だが、電撃の余波を受けて大きく転がっていった。
キリンは高く倒れる二人を見据え、静かに――そして確かな怒りと殺意を瞳に秘め、いななきをあげた。
「アニー、洞窟へ――!」
フレイドが最後まで言う前にキリンの強靭な足が迫ってきて、身をひるがえしてそれを避け言葉を切った。しかしその先を言う事はなかった。
言う必要も、言う意味もなかったのだ。なぜなら、洞窟への道のりは長く、傾斜も多い。ここまで来るのだって楽ではなかった。
そんな道をキリンに追われると言うハイリスクを抱え込んで出来るであろうか? 答えは簡単だ。アニスターには、無理だ。
フレイドはキリンに向かってドラゴンキラーを振る。他のモンスターと比べたら、だがキリンの華奢な体は難なく弾いた。本当に岩でできている身体のようだ。
しかし衝撃は残っている。ほんの少しだがキリンは怯み、その間にフレイドはもうひとふりした。
それでも、やはり岩を叩いた時のように弾かれる。いったいキリンの身体はどうなっているのだ?
まるで魔法でも扱うかのようにフレイドは慎重に後退し、キリンの出方を待った。フレイドはもう理解しているのだ。逃げる事なんてできない、ということを。
ここからまた洞窟へ戻るには体力も時間も足りない。どうしてこうも運悪く、こんなところでキリンなんかと…。
アニスターははっとして洞窟から出た時の事を思い出した。
洞窟を出て最初に感じたのは、無条件で肌に起きる静電気。キリンから放出されている電気がそれに関係しているのなら、静電気を感じるだけですでにキリンはそこにいるということだ。
――アニスター達は最初からみつかっていたのだ。そして絶対に逃げられない場所へ行くまで、手を出さず、みていたのだ。確実に仕留めるために。キリンはハンターだったのだ。
この戦いはフレイドとアニスターの負けだった。すでにチェックメイトを迎えているようなものだ。籠城戦で正門を突破されたように、しりもちをついて喉に剣の切っ先を押しつけられているように、この戦いはすでに終わっているのだ。
「あ…あ…っ」
再び訪れる恐怖と絶望にアニスターは硬直する。全身が寒いのとは別の理由で震え始める。
その間にもフレイドはキリンとの攻防を繰り広げていた。
キリンは軽快なステップを踏んでフレイドの背後へ回り込む。何か攻撃が来る前にフレイドはドラゴンキラーで地面の雪を凪ぎ払い、砂塵のように蒔いた。
驚いたキリンは前足を上げて威嚇をする。その少しの時間――攻撃する隙だってある時間を使って、フレイドはアニスターに振り返った。
「ボサっとしてんじゃねえぞ! 逃げろ!」
え………?
今フレイドは、逃げろ、と言った。ボサっとするな、とも言った。そう言った後に、キリンは角を突き立て、フレイドはドラゴンキラーでそれを受け止めた。
キリンの角はなおフレイドを押し続け、やがて首を振ると思うとフレイドはまた雪の中転がっていく。キリンが追いついてくる前に、フレイドは立ちあがった。
「馬鹿野郎! はやくい…!」キリンの角から稲妻の槍が放出され、フレイドに襲いかかる。言葉の途中でもフレイドはそれを跳んで避け、また転がった。
転がるフレイドをよそに、キリンはアニスターを見た。アニスターは声も出ず、目を離すこともできなかった。全てを捉われたような、それでいてもっと恐ろしいもので縛られたようだ。
キリンの進路がこちらに向けられる瞬間にフレイドが跳び出し、ドラゴンキラーを突き立て身体ごとキリンへ突進をした。
反応に遅れたキリンは腹にドラゴンキラーを受け、大きく怯む。しかしそれに比例するようにフレイドも大きく仰け反った。
キリンもフレイドも同時に体勢を直し終わり、お互いを睨みあう。
「行けぇ! アニィー!」
その言葉が、怒声が突然しみ込んできたようにアニスターの体はびくりと動いた。手も足も動くようになっている。震えだけはもとのままだ。
「そ、そんなこと、…だって、フレイドは…」
「がああ!」雄叫びを上げながらフレイドはキリンにドラゴンキラーを振る。キリンはフレイドの動きを覚えてしまったのか、それを軽々と避けていった。
そして踵を返し、尻を向けたかと思うと強烈な後ろ蹴りが繰り出される。ドラゴンキラーの腹で受け止めるが、フレイドは吹き飛んでいった。
キリンはアニスターを見る。アニスターの体はまた徐々に固まってきた。
「いいからいけぇ!!」
怒声と共に鈍い音が響く。キリンの横顔にドラゴンキラーの腹が叩きつけられたのだ。
「ふ、フレイドはどうするんだよ!」
キリンが倒れる。だがまだ戦いが終わったわけではない。すぐにキリンは立ちあがるだろう。
「俺は、大丈夫だ。一人でもな。今まで、ずっとそうだったんだ」
「でも――」
「お前が確実に逃げ切った時に俺も後を追う! だから今は――」
どっとアニスターの頭に衝撃が走った。重く鈍い音だ。だがアニスターは直接何かを受けたわけではない。目の前の光景が何よりも衝撃的だったのだ。
フレイドの食いしばった歯の間から鮮血が流れる。キリンの一角が脇腹に深く突き刺さり、白銀の角が真っ赤に染まっている。
たった一瞬で、それが起きた。
フレイドの隙、ほんの一瞬の間にキリンは跳び込み、角を突き立てたのだ。角はやすやすとレウスメイルの脇腹部分を貫通し、少年の腹をえぐった。
「が、はっ…」
猛烈な勢いで突進され、脇腹を貫かれる。少年への一撃は間違いなく致命的な必殺で、アニスターには想像もできない激痛が走っている。
角が引き抜かれ、フレイドは人形のように倒れる。脇腹に空いた穴からはどっと血が溢れている。
ドッ。
ドッ、ドッ、ドッ。
頭から心臓の音がしてきた。
アニスターは決してキリンから突進されたわけでも、角の一撃を受けたわけでもない。
ただ彼は見ていただけだった。フレイドが倒れていく姿を。
衝撃的なものが脳を揺さぶる。致命傷を追った少年の姿が目から離れない。あの傷では、もう長く生きることだってできないはずだ。フレイドは負けたのだ。キリンの角に雷が集中しているのなら、今のでフレイドの内臓もぼろぼろになっているはずだ。
――はず、なのだ。
その事実がアニスターの脳を何度も揺さぶっていた。そしてその事実が信じられなかった。フレイドは、常にアニスターの上をいくような存在だった。それが、こうもあっさりと…。
「なに、やってんだよ、アニー…」
キリンがアニスターに向き直り、アニスターがフレイドに降りかかる事実に対し絶望して膝をついた時、ぼろぼろになっているはずのフレイドがなんの支えもなしに――立ちあがった。
「フレイ、ド…?」
「みろよ、俺、ならこいつの攻撃、何度でも耐える、ぜ? だから、俺は大丈、夫だ。な?」
子供を安心させるような目をして、フレイドはアニスターをみる。
キリンが自分に向き直り始めても、フレイドはアニスターから目を離さない。見守るような目をして、言葉を続ける。
「はやく、いけよ。俺はまだ、大丈夫なんだから、さ」
「で、で、でも…」
フレイドの顔が突然変わった。今までの優しい表情ではなく、怒りに身を任せ、飛竜に容赦なく大剣を振り下ろす時に見せる怒涛の表情――
「行けーッ!!」
僕は。
僕は、何をしているんだ?
いつの間にかフレイドとキリンから回れ右したと思うと、今まで見てきた景色が高速で流れ始め、気がつけば全身が熱を上げて走り続けている。
雪を無理にかきわけ、どこを目指すともわからず、まるでフレイドの現実から目をそむけるように、走るのをやめられない。何も考えられなくなるくらい走っている自分は、いったい何を焦っているのかも思いだせなかった。
と、その時何もないはずの場所で蹴躓き、アニスターは顔を雪の地面にぶつけた。こんな時ですら、何もないところでこける自分をけなしたい気持ちになった。
しかし突然頭の中に思い浮かぶのは、最後に見たフレイドの微笑と、そんなフレイドに振り返る雷獣の姿だった。
「あ あ あ…」
キリンに睨まれたときより深い絶望が心臓にどっかりと乗る。小さい頃、母とはぐれて迷子になったときのような、行き先もわからない絶望がこみ上げてくる。
「あ ああ あ あああ、…」涙は出なかった。他の感情がいっぺんに重なり、存在感をあらわにすると思うと、一瞬で分散して消えていく。
アニスターには、友を失った、という事実だけが残っていた。
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