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歎ずるを止めよ 終戦 の屈辱を天は鉄槌を下して吾民を試む知るを要す自今幾年月狂瀾怒濤雲を捲いて至る見ずや雪に耐えて梅花潔し男児志を立つ究難の際忍苦すべからく立つべし興国の功し平和日本 万世に栄えん(松口月城 『平和日本』 ) 昭和20 (1945) 年8月15日正午。 独国降伏から100日目・・・。 世界四十数ヵ国を敵として戦われた戦争は、 日本の全国土に 壊滅的惨禍 をもたらしていた。 帝都 ・ 東京を始めとする主要都市は、 米空軍による戦略爆撃の目標となり、 その殆んどが灰燼に帰していた。 空襲の猛威は、 軍事施設 ・ 工業施設の徹底的破壊に止まらず、 大量の非戦闘員を捲込み、 その命を容赦なく奪っていった。 通信網も道路 ・ 交通網も寸断され、 物資の流通機構も又致命的打撃を蒙っていた。 最早、 日本の継戦能力は 零に等しい状態 だったのである。 家屋 ・ 財産を失い、 食糧 ・ 物資の欠乏に喘ぎながら・・・。 国民の多くは、 軍部の鼓吹する最後の勝利に望みを託し、 日毎に窮迫する生活に耐えていた。 然し、 是の日・・・。 ポツダム宣言 受諾を告げる 玉音 ・・・天皇の声が、 ラジオから流れ、 戦争の終結を全国民に知らせた。 正式に降伏文書への調印が成されるのは、 同年9月2日の事である。
August 15, 2008
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今年も、 又やって来ました。 【伝説の大波】 が・・・ではなく。 【皇室行事】 若しくは 【歴世天皇の御遺徳】 に因み・・・。 その由来を説明するのに、 若干の考証を要し・・・。 説教好きで、 【温故知新】 とか直ぐに宣う、 年長の国会議員の顔が浮かんで来る。 【国民の祝日】 に求められる三拍子を揃えた、 あらゆる意味で 【国民の祝日】 とナットクの一日・・・ 【海の日】 が。 (^.^) 猛暑の三連休。 その最終日。 海水浴場は、 大変な盛況を呈している様子。 水の事故も多発しているので、 十分な注意を。
July 21, 2008
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1945 (昭和20) 年8月10日午前2時過。 皇居 ・ 吹上御苑地下防空壕内。 戦争がはじまっていらい陸海軍のしてきたことは、 どうも予定と結果がたいへん違う場合が多い。 いま陸海軍は本土決戦の準備をしておって、 勝算もじゅうぶんあると申しておるが、 わたしはその点について 心配 している。 先日参謀総長から九十九里浜の防衛対策の話を聞いたが、 待従武官が現地を視察しての報告では、 その話とは非常にちがっているようであるし、 ・・・銃剣さえ兵士に配給されていないことがわかった。 このような状態で本土決戦に突入したならばどうなるか、 わたしは 非常に心配 である。 あるいは、 日本民族は、 みな死んでしまわなければならないことになるのではないかと思う。 そうなれば、 皇祖皇宗から受けついできたこの日本という国を子孫につたえることができなくなる。 日本という国を子孫につたえるためには、 一人でも多くの国民に生き残っていてもらって、 その人たちに将来ふたたび立上ってもらうほか道はない。 これ以上戦争をつづけることは、 日本国民ばかりでなく、 外国の人々も大きな損害を受けることになる。 ・・・国民全体を救い、 国家を維持するためには、 ・・・忍びがたいことも忍ばねばならぬと思う。 わたしは、 いま、 日清戦争のあとの三国干渉のときの明治天皇のお心持を考えている。 みなの者は、 この場合、 わたしのことを心配してくれると思うが、 わたしは、 どうなってもかまわない。 わたしは、 こういうふうに考えて、 戦争を即時終結 することを決心したのである
August 10, 2008
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昭和6 (1931) 年9月18日夜。 満洲 (中国東北部) ・ 奉天郊外柳条湖。 日本の権益である南満洲鉄道 ・ 付属地の警備を主任務として、 満洲に駐留する 関東軍 は、 是の日・・・。 自らの手で、 鉄道線路を爆破。 満洲の政治主権者である張学良軍閥の仕業として、 一斉に軍事行動を開始 した。( 『戦争と人間 第一部 ・ 運命の序曲』 ) 張作霖暗殺から三年余・・・。 一度は頓挫した 満蒙分離構想 ・・・東北三省を中国本土から切離し、 日本の支配下に置こうとする計画は、 無法この上ない手段をもって実行に移されたのである。 日本の運命の重大な岐路となった 満洲事変 である。
September 18, 2008
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1918 (大正7) 年7月23日。 富山県下新川郡魚津町。 米価の暴騰が国民生活を直撃し、 深刻な社会不安が醸造される中・・・。 名もない漁民部落の、 名もない人々の間から、 自然発生的に、 生存権擁護の叫びが上がった。 是の日・・・。 生活難に喘ぐ漁民の妻達は、 結束し、 町役場や資産家の下に押し掛け、 救済を懇願。 食米を求めての紛擾は、 県内所々に飛び火し、 やがて・・・実力による米の移送阻止へエスカレート。 現代史の序幕劇である 【米騒動】 の発端となる。
July 23, 2008
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1945 (昭和20) 年8月9日。 帝都 ・ 東京。 国体護持の美名の下に、 国民に膨大な犠牲を強いながら、 何ら意に介する事なく、 戦争継続を鼓吹し続ける軍部であったが、 歴史の審判は既に下っていた。 ソ連軍が満洲に侵攻を開始し、 長崎市に二発目の原子爆弾が投下された是の日・・・。 緊急招集された 最高戦争指導会議 は、 ポツダム宣言受諾の可否をめぐって紛糾を重ねる。 全国民を壊滅的惨状から救済するため、 速やかなる 戦争終結の決断 が求められていたのであるが、 是の期に及んでも、 軍部は無条件降伏に難色を示し、 結論は得られなかった。 ソ満国境地帯に在っては、 圧倒的威力を有するソ連機甲師団の前に、 関東軍の防衛線は粉砕され、 守備隊は悲惨な玉砕を余儀なくされている最中にである。 戦争終結の成否は、 御前会議 の決定に委ねられる事となった。 重臣層は、 御前会議の席上・・・前例のない、 天皇に発言を促す事によって、 軍部を抑え、 戦争を終結に導こうとしていた。 昭和天皇の意思の表明・・・。 最高統帥者の事実上の親裁を仰ぐと云う事であった。 軍部の国政壟断によって、 機能不全に陥っていた 明治憲法体制 は、 今・・・滅亡を回避する為、 最後の反撃を試みようとしていたのであった。 同日23時30分過。 最高戦争指導会議の全構成員 ・ 四幹事は、 防空壕内の一室に参集する。 「やがて、 玉座の後方の扉が開かれて、 天皇陛下は、 蓮沼侍従武官長を随えて室に入られた。 最敬礼をしてお迎え申しあげたのち、 お顔を拝すると、 極度のご心痛にやつれ果てた御面持 であり、 額には数本の頭髪が乱れて下っておられた」(迫水久常 『機関銃下の首相官邸』 )
August 9, 2008
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苦悩の果てに自殺を遂げる事になっていたラスコーリニコフですが・・・。 基督教原理に基く救済の象徴として、 彼の前に立ち現われるのがソーニャでした。 ラスコーリニコフの苦悩は、 人類全体の苦悩を象徴しています。 果たして、 彼に・・・救済の道は開かれるのか? それは、 人類の未来に関わり、 延いては・・・人類救済という途方もない命題とも結び付いていました。 もう一人の殺人者スヴィドリガイロフにとって、 自殺は究極の救済を意味しましたが、 それをラスコーリニコフに当てはめるわけにいかなくなったのです。
July 16, 2008
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厳戒下に開催された主要国首脳会議でしたが、 不測の事態も起こらず、 無事に閉幕。 長野の聖火リレー妨害事件の様に・・・。 コレ見よがしに、 公秩序の紊乱行為に走る不埒者が現われなかったのも、 ナニよりでしたネ。 (^.^) 猛暑のさなか・・・。 重装備に身を固め、 治安の盾として、 職責を全うした警備陣の労苦は、 言葉では表わせないものが有ったでしょう。 自衛隊からも、 警務隊 ・ 調査隊の精鋭チームが支援に奔走していたと思われますが、 衷心から感謝を述べさせていただきまさす。
July 9, 2008
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今年の夏は、 ともかくも減り張りが効いた、 夏らしい夏である事は確かな様です。 【海の日】 も、 【土用の丑】 も、 【隅田川花火大会】 も、 そういう夏の真っ盛りに訪れてこそ意義が有る。 乗り気になれる。 皆で、 大いに盛り上がる。 消費も好調。 うなぎも生ビールも、 たいそう美味い。 【永谷園】 恒例。 冷製茶漬のCMも・・・。 今年は、 この減り張り感に怖い程フィットして見える。 ・・・というわけで、 猛暑を忌避するのでなく、 生活に取り込んで、 猛暑との共存を楽しむ工夫も大切なのかも知れません。
July 27, 2008
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1990 (平成2) 年8月2日。 ペルシャ湾岸クウェート王国。 アラブ国家によるアラブ国家への侵略・・・。 世界を覆いつつある冷戦終結ムードに水を浴びせる、 異常事態が発生します。 フセイン政権 下の軍事大国 イラク による、 湾岸産油国 クウェート への軍事侵攻でした。 国際社会は挙って、 この暴挙を批難。 クウェートからの撤退を求め、 対イラク制裁 に踏み切ります。 イラクの非道と暴虐は、 国際法上からも、 道義上からも、 歴然としていました。 中東問題をアラブ民族の視点から見れば、 従来語られているものと全く異なった現実が見えて来るとは、 当時から云い古されていた事です。 然し、 湾岸危機 に関する限り・・・。 如何に詭弁 ・ 詐術を弄した所で、 イラクの所業を正当化し得るものではありません。 クウェートはイラク固有の領土であり、 その資源も又イラク国民の所有に帰すると云う・・・フセイン大統領の主張には、 一片の正当性も認められず、 詭弁の為の詭弁でしかない事は、 誰の眼にも明らかでした。 日成らずして、 欧米軍を主体とする 多国籍軍 と アラブ合同軍 による、 史上最大規模の・・・イラク攻囲網が形成される事となるのです。
August 2, 2008
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1905 (明治38) 年9月5日。 米国メイン州ポーツマス海軍造船所。 合衆国大統領セオドア ・ ルーズベルトの斡旋による日露講和会談は、 最大の懸案事項であった露国への賠償金要求を廻って紛糾していたが、 8月29日、 日本側がその条件を取り下げた事で最終合意が成立。 是の日・・・。 日本全権 小村寿太郎 と露国全権 ウィッテ は、 講和条約議定書に調印。 日露戦争は正式に終結する。 露国は、 満洲 ・ 朝鮮半島からの完全撤兵 ・ 韓国内政への不干渉を誓約し、 日本の戦争目的は完全に達成 された。 加えて、 露国権益である関東州 ・ 東清鉄道の一区間 (旅順―長春間) の租借権譲渡。 更に、 南樺太割譲と沿海州沿岸の漁業権の譲渡が認められた。 同日・・・。 賠償金皆無の講和条約を不服とし、 講和反対を叫ぶ国民大衆による決起集会が東京 ・ 日比谷公園で開催される。 国権主義者 ・ 対露強硬論者の煽動に激昂した群集は、 暴徒化し、 内相官邸 ・ 国民新聞社 ・ 交番等を襲撃。 帝都は一時無警察状態に陥る。 近代日本最初の都市型暴動とされる 第一次日比谷暴動 である。 この擾乱による死者は十七名。 負傷者数百名。 検挙者総数は二千名に上った。
September 5, 2008
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大災害 ・ 異常事件が内外で続発。 長野の聖火リレー妨害事件。 ミャンマーのサイクロン禍。 中国四川大地震。 秋葉原無差別殺傷事件。 岩手 ・ 宮城内陸地震。 定めし、 ネット ・ メディアは活況を呈している事で有ろう・・・と思いながら、 その片鱗に触れる方途もなく、 ひたすら業務に精励し続けるしか有りませんでした。 もっとも・・・。 その事自体に、 なんら不都合は感じませんでしたが・・・些か淋しいものが有ったのは事実ですネ。 (^.^;
June 30, 2008
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プロレタリア文学の旗手 ・ 小林多喜二の代表作 『蟹工船』 が最近・・・盛んに読まれている由。 個人的には、 岩波文庫版 『カラマーゾフの兄弟』 新訳刊行を契機として巻き起こったドストエフスキー ・ ブームに連動する現象と見ているのですが・・・。 今回の事態。 全国の漁業関係者が自らの生存権を守る為に敢行した一斉休漁という事態を受けて、 俄かに・・・時代を象徴する現象としてクローズアップされるのかも。 ひょっとしたら、 次に再注目されるのは・・・。 スタインベックの 『怒りの葡萄』 辺りではないでせうか? (^.^;
July 15, 2008
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1827年3月26日。 オーストリア帝国首都ウィーン。(A ・ ホランド監督 『敬愛なるベートーヴェン』 ) 重度の聴覚障害・・・。 肉親の自殺・・・。 打続く私生活上の不幸に身も心も苛まれながら、 常にアグレッシヴな創造の姿勢を失う事なく、 苦悩も叫喚も、 一流の芸術表現に昇華させた、 希世の音楽家 ルートヴィヒ ・ ヴァン ・ ベートーヴェン は、 久しく病の床に臥していたが、 戸外に凄まじい雷鳴の轟く是の日・・・。 主治医マルファッティに看取られながら、 56年余の孤高の生涯を閉じた。 直接の死因は、 アルコールの過剰摂取による肝硬変 であったが、 予てから彼の身体は、 数多の難病に蝕まれていたとされる。 我が友よ! 喝采を・・・。 喜劇 は終わった!
March 26, 2008
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物価高が家計を直撃し、 消費者の意識が挙って生活防衛に向けられる中・・・。 一次産業の雄たる漁業に携わる人々の生活は、 それ以上に圧迫され、 より深刻な状況に在る事を、 否応なく印象付ける出来事では有ります。 漁業従事者による同盟罷業が、 是だけ大規模に、 是だけ組織的に敢行されるのは前代未聞・・・。 大正七年夏に勃発した 【米騒動】 の最中にさえ起こり得なかった異常事態です。 操業すればする程赤字が増大するという悪循環の下、 燃料費補填等の救済策を政府に求める漁業関係者の叫びには悲壮感が漲っています。
July 15, 2008
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1941 (昭和16) 年12月1日。 日本にとって運命の年となる昭和16年・・・。 四回の御前会議が開催され、 その都度・・・誤った情勢認識に基づく、 誤った国策の決定が成され、 日本を誤った方向へ導いていった。 その軌跡は、 あたかも破滅への里程標を見る様である。 是の日・・・。 昭和16年最後の御前会議は、 対米英蘭開戦の決議を全員一致で採択し、 昭和天皇の允裁を得る。 開戦は、 聖旨として、 日本の国家意思として、 正式に決定した。 陸海軍統帥部は、 第一線各軍及び艦隊に対し、 作戦発動を命じるのである。
December 1, 2008
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1890 (明治23) 年10月30日。 内閣制度創設。 憲法発布。 議会開設・・・。 明治14年の政変から十年・・・。 藩閥政府主導の下に、 近代国家としての態様は順次整えられ、 遂に・・・東洋最初の立憲君主制国家 ・ 大日本帝国 の誕生へ至ります。 そして、 是の日・・・。 皇居内に於いて、 新時代の国民教育の基本方針を示した 『教育ニ関スル勅語』 が発布されます。 忠君愛国等の十二の徳目から成る、 いわゆる・・・ 教育勅語 です。 国体・・・。 天皇制権力機構 の根幹を支える役割を担わされるのは、 云うまでもなく衆庶・・・一人一人の帝国臣民でした。 その帝国臣民の在るべき姿・・・。 期待される臣民像 を、 学校教育を通じてインプットする。 以って臣民意識の涵養を図る事が、 この時代の学校教育に課せられた命題でもあったのです。 戦後・・・。 教育勅語は、 狷介で固陋な 軍国主義教育 に直結するものと見做され、 排斥の対象になりました。 然し、 人間の社会は一定の段階を経ながら発展していくものです。 封建制度が解体され、 近代的な国民国家が形成されていく過程・・・。 過渡期に在って、 勅語が国民精神の形成に果たした役割については、 相応の評価が与えられて然るべきかも知れません。 又、 戦前の学校教育全般について云える事ですが・・・。 知識の取得に偏重する事なく、 情操面の育成を大変重視していた点も見逃してはならないでしょう。 もっとも、 個人主義精神 ・ 批判精神の発達を促し、 疑問を抱かせ、 社会への問題意識を喚起するという面では、 教育は全く停滞していた事は否めません。 国民の権利意識が急速に伸張するのは、 明治末期から大正中期に掛けてですが、 その時期には最早・・・勅語は時代の実情にフィットしないものになっていた事は確かです。 その教育勅語が俄かに宗教色を帯びて、 国民の日常生活の上に重く圧し掛かって来るのは、 昭和10年の夏・・・ 第一次国体明徴声明 (=天皇神格化宣言) が発せられてからの事です。
October 30, 2008
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広島と長崎・・・。 二つの慰霊祭の中間に 【平和の祭典】 が開幕した事は、 とても意義深く思われます。 もっとも、 国民の大多数の関心は、 金メダル獲得数にシフトしている模様ですが、 是も五輪の醍醐味の一つ。 それか有らぬか、 原爆の記憶を風化させまいと躍起になってか、 主要全国紙は挙って反核の論陣を張り、 【核兵器廃絶】 の大合唱状態。 拡声器を手にアジ演説を打つ様な、 【慰霊の日】 に相応しからぬ論調も見られ、 正直な所・・・違和感を覚えずにいられません。 それが、 今年の特異性でも有るのでしょうか。
August 9, 2008
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元禄14 (1701) 年3月14日。 江戸城中松之大廊下に於いて、 日本史上最も有名な、 あの刃傷事件が発生した日でもあります。 年々の慣例として勅使饗応の役を申し渡された播州赤穂の城主 ・ 浅野内匠頭 (加山雄三) は、 指南役の吉良上野介 (市川中車) から礼儀作法について教えを乞うことになった。 上野介は嘗て塩田作法の教授を浅野に拒否された恨みを晴らすためか、 進物の少ないのを目の敵にしてか、 諸大名の面前で田舎大名呼ばわりをするのだった。 内匠頭は、 大事の御役目と、 はやる心を抑え、 口惜しさに堪えた。 饗応の儀もあと一日という御勅答御儀の日であった。 それまで抑えに抑えていた正義の剣は、 殿中松の廊下において、 上野介にふりおろされた。 それは御政道の腐敗に抗議する剣でもあった。 内匠頭は即日切腹。 しかし上野介には何の咎めもなかった。 兇変を報じる早駕籠は嵐をついて赤穂へと走った。 その日から長く、 苦しい復讐への道程を赤穂藩士達は歩む事となる・・・・(東宝 『忠臣蔵 花の巻 ・ 雪の巻』 から)
March 14, 2008
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然りながら、 このモノクローム・・・日毎に喧しさを増す世情を余所に、 昏々と眠り通していたわけでは決して有りません。 私とて宮仕えの身・・・。 新年度入りした途端、 輻輳を極める業務に追われ、 全身全霊を振り向け、 職責を全うすべく奮闘していた次第です。 この電子書斎に足を踏み入れる暇もない程の多忙振りで、 気が付けば三ヵ月間・・・ネットから完全に隔絶した、 見方を変えるならストイックその物の生活を励行して居りました。 無理の効く年齢でなし。 体調を崩しもせず、 良く頑張り通したものと、 我ながら感心致します。
June 30, 2008
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1902 (明治35) 年1月24日未明。 青森県八甲田連峰。 目的地まで 2km弱と云う地点に達しながら、 暴風雪に前進を阻まれた演習部隊は、 雪濠を構築し、 露営の態勢に入っていた。 黎明まで現在位置に留まって、 情況を見るのが賢明との指揮官判断によるものである。 然し、 演習部隊に随行していた 大隊本部 は、 公然と指揮に容喙し、 帰営の命令を下す。 「この儘では・・・朝までに、 大半の者が凍傷で動けなくなってしまう!」 斯くして、 演習部隊は八甲田踏破を断念・・・帰営の途に着くのであるが、 その途次に於いて、 当初の目的地への道が発見されたと具申する上曹が有って、 その意見を容れ、 再度反転する。 その結果として、 進路も退路も見失い、 完全な遭難状態に陥ってしまう。 部隊は、 食料も燃料もなく、 数日間に渡って山中を彷徨した果て、 潰滅を遂げるのである。 演習参加人員 210名中、 凍死者 199名。 世界山岳遭難史上最大最悪の惨事として記録される。 戦前に在って・・・。 この事件は、 軍歌 ・ 『陸奥の吹雪』 に詠われ、 微かながら片鱗を伝えられて来た。 軍国美談調の修辞に糊塗された詩世界は、 凄惨極まりない遭難の実態から程遠い。 厳秘に付されていた感のある惨劇の実態が、 一般に周知されるに至ったのは、 戦後も相当年数が経過してからの事・・・。 云うまでもなく、 作家 ・ 新田次郎 の小説 『八甲田山死の彷徨』 によってである。 作者は、 青森第五連隊と平行して八甲田踏破の計画を進めていた 弘前歩兵第三十一連隊 の演習部隊に着目している。 同部隊は、 全く同時期に八甲田山系へ突入しながら、 一人の落伍者を出す事もなく、 踏破に成功しているのである。 両者の全く正反対の結果は、 一体何を意味するのか? 何が両者の明暗を分けたのか? 綿密な資料に基いて、 小説ならではの分析手法によって、 両者の行動を対比的に再構成していく。 大自然の猛威を侮る事なく、 謙虚な態度で対象を分析し、 問題点の克服に努め、 周到な準備をもって臨む、 三十一連隊。 情報を軽視し、 自らを過信し、 状況を自己に都合良く推量し、 惨憺たる潰滅に至る、 第五連隊。 同書の示唆する所は重大で、 刊行当初から 経営者 ・ 管理者 の 必読書 と評され、 今日まで読み継がれている。
January 24, 2008
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1904 (明治37) 年3月27日未明。 中国遼東半島 ・ 旅順港口。杉野! 杉野! 汝何くにか在る?索めて艙内より艙外に至る再び杉野と呼べば 風怒号三たび杉野と呼べば 浪滔滔艦は惜しむに足らず 士は惜しむべし涕涙恨みを呑んで 小舶に下る敵弾一発 夜を照らして紅なり鮮血衣に濺いで 帽は空に在り・・・(鈴木豹軒 『軍神広瀬中佐』 ) 東郷艦隊との決戦を避けて、 旅順軍港内に蟄伏する 露国太平洋艦隊 。 連合艦隊司令部は、 同軍港を封鎖 する作戦計画を実行に移す。 港口部に、 数隻の 老朽船舶を突入 ・ 自沈 させるというものであったが、 当然ながら・・・実行部隊は露軍要塞砲の猛射に曝される事となる。 容易に生還は期し難い、 決死の作戦行であった。 作戦要員は、 原則として 志願者 の中から選出され、 同作戦案の熱烈な賛同者でもあった戦艦 ・ 朝日水雷長の 広瀬武夫少佐 が陣頭指揮に任じた。 (東宝 『日本海大海戦』 ) 閉塞作戦は、 前後三回に渡って実施されるのであるが、 多大な犠牲を供しても・・・尚、 十分な成果を挙げるに至らなかった。 指揮官 ・ 広瀬が壮絶な最期を遂げた事で、 最も有名となった 第二次閉塞隊 の突入が決行されたのが、 是の日の事である。
March 27, 2008
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1937 (昭和12) 年7月28日。 北平 (北京) ・ 天津地区。 華北駐留の日本軍各部隊は、 既に下達された軍司令官命令に基づいて、 是の日・・・。 平 ・ 津地区の中国軍に対し、 一斉攻撃の火蓋を切った。 蘆構橋事件から三週間。 事態の平和的解決を志向する人々の努力も空しく、 日中両軍は本格的戦闘に突入したのである。 事後八年間・・・。 中国全土を凄惨な戦場として戦われる 日中戦争 の勃発であった。 存亡の岐路に立つ中国民族の抗日感情は、 満州事変時と比較にならない激しさを伴っていた。 是を過小評価し、 一撃を見舞ったら、 中国は簡単に屈伏するものとしていた、 陸軍部内の主戦派の論は、 最初から破綻を運命付けられていたと云える。 早期収拾の思惑は完全に覆され、 戦線は長期化・・・泥沼の様相を呈する事となる。
July 28, 2008
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1945 (昭和20) 年7月26日。 ベルリン郊外ポツダム市。 独国降伏から80日目。 欧州の戦後問題を合議中であった連合国首脳は、 是の日・・・。 極東に在って、 絶望的な抗戦を継続する日本に対し、 無条件降伏を促す共同声明を発表する。 いわゆる ポツダム宣言 である。 同宣言は・・・。 軍国主義勢力の除去。 連合国による日本の保障占領。 日本軍の完全武装解除。 戦争犯罪人の処罰。 ・・・等を要求。 「右以外の日本国の選択は、 迅速かつ完全なる壊滅 あるのみ・・・」 と結んでいた。
July 26, 2008
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1902 (明治35) 年1月23日。 青森県八甲田連峰。 日露戦争前夜・・・。 厳冬期の輸送路確保と耐寒訓練を目的として、 冬の 八甲田山 を踏破する行軍演習の計画が、 第八師団隷下の二つの歩兵連隊によって、 同時に進められていた。 一方の計画策定者である 青森歩兵第五連隊 の演習部隊 210名は、 是の日・・・。 進軍喇叭の吹奏音と共に、 意気揚々と営門を発した。 折から・・・列島北部には、 観測史上未曾有の大寒気団が急接近していた。 天候は急激に悪化し、 八甲田山系は雪と突風の支配する、 魔の領域と化す。 視界一面の白い闇・・・。 荒れ狂う暴風雪に進路を阻まれ、 演習部隊は立往生を余儀なくされるのである。
January 23, 2008
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1868 (慶応4) 年3月13日。 江戸府内高輪 ・ 薩摩藩下屋敷。堂々錦旆 (ぱい) 関東を圧す百万の死生 談笑の中群小は知らず 天下の計千秋相対す 両英雄(徳富蘇峰 『両英雄』 ) 1868 (慶応4) 年3月14日。 江戸府内田町 ・ 薩摩藩蔵屋敷。 前日に引続いて、 旧幕府全権 ・ 勝海舟 と東征大総督府参謀 ・ 西郷隆盛 との間に、 江戸開城を廻る談判が、 場所を改めて行われた。 万一決裂したら、 もう後のない、 最終会談であった。 江戸市民百数十万人の命運は、 両者の交渉の行方如何に懸かっていたが、 談判の結果・・・ 江戸無血開城 の歴史的合意が成立する。 翌日に予定されていた 総攻撃は中止 され、 江戸市街は壊滅的な惨禍を免れる事となった。 江戸無血開城は、 日本史上の一大奇跡と謳われる偉業である。 民心の安定を緊急の課題とする新政府にとっても、 新時代の扉が平和的に開かれた事を、 衆庶に告示する上で、 途方もなく大きな意義を有するものであった。 斯くの如くして、 戦火が回避された同日・・・。 京都御所に於いては、 五箇条の御誓文 が恭しく奉読されていた事を思い合わせると、 実に感慨深いものがある。
March 14, 2008
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関東軍の所業は、 国史に拭い難い汚点を残すものである。 それは、 明治期の先人達が長年月を費やし、 心血を注いで打ち建てた、 日本の国際的信用を、 一挙に失墜させてしまう事となる。 自国の軍隊をコントロール出来ない国家 が、 信頼と尊敬を得られる訳がないのである。 国際社会の激しい批難が日本に集中される中・・・。 関東軍は、 政府の不拡大方針を無視して、 進撃を続行。 東北三省 (奉天省 ・ 吉林省 ・ 黒竜江省) の軍事制圧を完了する。(山本薩夫監督作品 『戦争と人間 第一部 ・ 運命の序曲』 ) 首謀者としての役割を演じたのは・・・。 関東軍作戦主任参謀 ・ 石原莞爾中佐 。 同高級参謀 ・ 板垣征四郎大佐 。 同奉天特務機関長 ・ 土肥原賢二大佐 等である。 然し、 全てを 関東軍幕僚の独断専行 に帰してしまうと、 事変の本質を見誤る。 彼等の上級者として、 彼等を監督 ・ 制御する立場に在りながら、 謀略が実行に移されるのを黙認・・・或いは積極的に支持した将官連がいる。 関東軍司令官 ・ 本庄繁大将 。 朝鮮軍司令官 ・ 林銑十郎大将 。 軍政 ・ 統帥の長としての責任に於いて、 謀略の事後追認を成した者がいる。 陸軍大臣 ・ 南次郎大将 。 参謀総長 ・ 金谷範三大将 。 省 ・ 部の枢要に在って、 謀略計画の策定に深く携わった者達がいる。 参謀本部第一部長 ・ 建川義次少将 。 参謀本部第二部支那課長 ・ 重藤千秋大佐 。 同支那班長 ・ 根本博中佐 。 同ロシア班長 ・ 橋本欣五郎中佐 。 陸軍省軍事課長 ・ 永田鉄山大佐 等々・・・。 事実上・・・組織包みと呼んで良い 陸軍中央 の関与が、 明確に認められる。 又、 政友会幹事長 ・ 森恪 の如く、 田中義一内閣時代から一貫して、 対中国強硬路線 を推進して来た政党人・・・。 更に、 大川周明 の如く、 出所の怪しい工作資金を供与する事で、 謀略支援に一役買った 反動政治団体 代表の存在にも注目しなくてはならない。 満州事変は、 そうした巨大な背景の下に成就した 国家規模の一大謀略 なのである。 この背景を解明する事は、 昭和史の本質に迫る上で、 極めて重要な作業と成り得よう。 無論、 当時の日本国民の大多数は、 終戦に至るまで、 事態の真相を知る事はなかった。 然しながら、 今日・・・。 真実の一切が白日の下に曝された時点に在って、 尚も知らないと弁じ立てる事は出来ないのである。
September 18, 2008
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1885年1月26日。 エジプト領スーダン ・ 首都ハルツーム。 回教原理主義者 マフディー ・ ムハンマド ・ アフマド 率いる叛乱軍の攻囲下に在った ハルツーム は、 是の日・・・。 数万からなるマフディー軍の総攻撃を受けて陥落。 エジプト軍守備隊は全滅した。 エジプトの宗主国的立場に在った英国が、 事態収拾の切札として派遣した チャールズ ・ ゴードン将軍 もまた、 壮絶な戦死を遂げる。 享年 53歳であった。 マフディー軍が、 燎原の火の勢いで、 スーダン全土を席捲しつつある情勢下・・・。 英国政府は、 軍事介入の意思を持っていなかったが、 極めて困難な問題に直面していた。 将に・・・マフディー軍の重囲に陥らんとしている首都ハルツームから、 エジプト軍民一万数千名を脱出させ、 虐殺の運命を免れしめる事である。 無為無策に終始し、 大量のエジプト人を見殺しにしたとあっては、 宗主国の体面を保てない。 窮余の策として取られたのが、 前スーダン総督であるゴードン将軍の派遣であった。 清朝を震撼させた 太平天国の乱 に際して、 常勝軍を率いて、 叛乱軍を鎮圧。 スーダン総督時代、 奴隷制度廃止 を断行。 英国からも、 スーダンからも、 英雄視され、 信望の厚いゴードンをして、 ハルツーム撤退の陣頭指揮に当たらしめたら良いと考えたのである。 処が、 ハルツームに赴いたゴードンは、 現地の情勢から、 居留民の安全な避難を全うする為・・・大規模な保障軍事力が必要と判断、 援軍の派遣を要請し、 本国政府の思惑と真向から対立する。 大いなる 誤算 であった。 英国国民の大多数がゴードン支持を表明し、 ゴードン救出の声は日増しに高まっていく。 宰相グラッドストン は、 世論に突上げられる格好で、 スーダン派兵の決断を下す。 英国軍は、 水陸両路からハルツームへ進撃を開始し、 マフディー軍との間に戦端が開かれる。 然し、 先遣隊がハルツームに到達した時、 同市は既にマフディー軍の制圧下に在ったのである。 結局、 英国軍はなんら得る所なく撤退し、 スーダンは以後十数年間・・・戦乱と飢餓と疫病に支配される事となる。
January 26, 2008
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昭和20 (1945) 年8月14日。 東京。 皇居 ・ 吹上御苑地下防空壕内。 閣僚 ・ 戦争指導会議員連合による 御前会議 が召集され、 ポツダム宣言 受諾が最終的に決定する。 23時00分。 全国民に戦争の終結を告げる 終戦の詔書 は、 公布手続を完了。 23時20分。 昭和天皇自らの朗読による、 同詔書のレコード録音が行われた。 玉音は・・・翌15日正午を期して、 ラジオ放送される事が決していた。 然し、 是の期に及んでも “聖戦完遂” を叫んで止まない陸軍の強硬派は、 玉音放送の阻止を画策する。 陸軍省軍務局の 畑中健二少佐 ・ 椎崎二郎中佐 を中心とする、 一部少壮将校達であった。 同日夜半・・・。 近衛師団司令部へ出向いた彼らは、 師団長 ・ 森赳中将 に面会を求め、 師団の蹶起を要請する。 然し、 森師団長は、 頑として是を拒絶した。 当然であろう。 進むも退くも、 一に聖旨を奉戴して粛然と歩むのが、 皇軍本来の姿なのである。 聖断が下った以上、 軽挙妄動は断じて許されない。 皇軍将士が聖旨に叛いたとあっては、 汚名を千載の後まで残す事と成ろう。 森中将は、 分別のない子供に対するのと同様に、 畑中らを説諭した。 逆上した畑中らは、 無法にも発砲。 師団長殺害という兇行に出る。 彼らは、 師団命令を偽造 すると、 近衛師団の一部をして宮城に突入せしめた。 天皇と政府との連絡遮断。 木戸内大臣を始めとする重臣達の逮捕。 そして、 玉音盤奪取 が、 宮城占拠の主たる目的である。 ・・・近衛師団が蹶起するなら、 東部軍も又追随し、 終戦工作は遂に水泡に帰するであろう。 余りにも短絡した、 独善的な計画であった。 夜を徹して捜索は続けられたが、 玉音盤を発見する事は出来なかった。 一連の異変が 東部軍管区司令部 まで報じられると、 司令官 ・ 田中静壱大将 は陣頭に立って、 叛乱の鎮圧に臨んだ。 15日早朝・・・。 宮城は、 従前の秩序を回復していた。 叛乱部隊の制圧下に在った放送会館も又、 解放された。 事破れた畑中 ・ 椎崎の両名は、 宮城前広場にて自決を遂げる。 同日5時30分。 陸軍大臣 ・ 阿南惟幾 は、 官邸に於いて、 「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」 との遺書を残し、 自刃して果てた。 享年58歳。 自らの死によって、 陸軍部内の鎮静化を図ったのであろうか。
August 14, 2008
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1928 (昭和3) 年3月15日未明。 金融恐慌。 中国革命の進展。 国内外の不安が増大する情勢下・・・。 田中義一内閣は、 日本共産党 ・ 農民労働党等の構成員及びその関係者を標的として、 全国規模での一斉検挙に踏み切った。 後に 三 ・ 一五事件 と呼ばれる、 この大量検挙によって獄に繋がれた者の数は千数百名に上る。 帝国議会開設から三十有余年・・・。 民衆の権利意識の伸張を背景に展開された 第二次護憲運動 は、 権力機構の枢要を占めていた特権的官僚層に痛撃を与え、 その利益を代表する清浦奎吾内閣を退陣せしめた。 是の後・・・議会内の多数派政党の領袖が宰相に任命され、 内閣を組織するという、 憲政の常道 が確立される事となる。 二大政党による、 華々しい 政党内閣時代 の幕が開かれたのである。 更に、 国民の斉しく念願とする処であった 普通選挙法 も成立するが、 社会運動 ・ 労働運動の昂揚に危機感を抱く体制の思惑が反映され、 治安維持法 という、 昭和史に凄まじい悪名を刻み込んだ弾圧法と抱き合わせにされての公布となった。 やがて、 運命の昭和期が開幕。 金融恐慌によって社会不安が増大すると、 治安維持法は、 早くも暴威を振るう事となる。 同法適用による無産政党員の全国一斉検挙・・・ 三 ・ 一五事件 が起こったのは、 普通選挙法に基いて実施された、 最初の国政選挙の直後・・・。 そして、 中国本土で進行中の国民革命運動への威力干渉である 第二次山東出兵 が行われる直前の事であった。 対中国強硬路線・・・軍事力を背景に、 帝国主義権益の拡大を策する 田中義一内閣 としては、 今後躍進の予想される無産政党に容赦のない弾圧を加えると同時に、 反軍勢力を叩いて、 大陸進出政策の遂行を容易ならしめる意図が当然含まれていたであろう。
March 15, 2008
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630年1月11日。 アラビア半島西部 ・ メッカ。 開祖 マホメット に率いられた一万余の回教徒軍は、 メッカ 近郊に進出、 同市攻囲の態勢を整えていた。 マホメット軍の勢威に圧倒された守将アブー ・ スフヤーンは、 抵抗を断念し、 自ら進み出て、 その軍門に降った。 宿敵クライシュ族との積年の抗争に終止符が打たれ、 悲願とする聖市征服が、 無血の中に成就したのである。 宗教指導者としてのみか・・・政治家 ・ 軍略家としても稀有の天分を有するマホメットは、 民衆の熱狂的支持を受けて、 アラビア第一の実力者 の地位を確立しようとしていた。 メッカ入城を果たした彼が最初に命じたのは、 カーバ神殿 に祀られている 数百体からの偶像 を、 悉く破壊する事であった。 偶像中の最高神であるフバル神の巨像が、 大音響を伴って倒壊した時・・・。 マホメットは、 『コーラン』 の一節 (第17章83節) を叫んだとされる。 「見よ! 真理が到来し、 虚偽なる物は潰え去った!」
January 11, 2008
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第二章 擅権ノ罪 第三十五条 司令官外国ニ対シ故ナク戦闘ヲ開始シタルトキハ 死刑 ニ処ス 第三十七条 司令官権外ノ事ニ於テ已ムコトヲ得サル理由ナクシテ擅ニ軍隊ヲ進退シタルトキハ 死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ禁錮 ニ処ス 第三十八条 命令ヲ待タス故ナク戦闘ヲ為シタル者ハ 死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ禁錮 ニ処ス 陸軍刑法 (明治41年法律第46号) から抜粋。
September 18, 2008
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1月12日 愛と波乱の 【成人の日】 全国の成人式会場から、 新成人の晴れがましい姿がTV中継されるのは、 例年の事。 ・・・大人として自立したい。 ・・・日本の為に、 何か役に立てる人に成りたい。 いかにも新成人らしい、 期待と不安が入り混じった表情が映され・・・。 いかにも新成人らしい、 前向きの、 初々しい夢 ・ 抱負が語られる。 今年は、 その中継映像に、 渡辺議員の自民離党報道が交錯し、 チョッぴり波乱の気配を漂わせました。 1月15日 【芥川賞発表】 第140回芥川賞受賞作品は、 津村記久子 の 『ポトスライムの舟』 に決定。 直木賞受賞作は、 天童荒太 の 『悼む人』 と、 山本兼一 の 『利休にたずねよ』 。 両賞とも、 着実にキャリアを積み重ねている人達が Get! 有望な新人の登龍門としての権威は、 年々相対化しつつ有ります。 受賞作は、 多分・・・ 『文芸春秋』 三月特別号に全文掲載 (抄録の場合有り) される筈ですので、 チェックしたい向きは、 それを講読されると宜しいでしょう。 選考経過 ・ 受賞者インタビュー も併せて読めるし、 単行本より断然安上がりです。 又、 各選考委員の選評 (ぼやきが多い。 ・・・わたしは賛成しなかった・・・という類の) も中々に楽しめます。 (^.^)
January 18, 2009
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高級参謀 ・ 板垣征四郎大佐 は、 北大営の中国軍兵舎砲撃と、 奉天城内への進撃を同時に下令した。 既に、 北大営に照準を合わせ、 待機姿勢に在った 24糎榴弾砲 が咆哮。 中国軍兵舎は、 忽ちにして粉砕された。 この巨砲は、 謀略の決行に備え、 隠密裡に、 奉天に運び込まれていたものである。(山本薩夫監督作品 『戦争と人間 第一部 ・ 運命の序曲』 ) 奉天総領事代理の 森嶋守人領事 は、 急報に接するや、 戦闘行動の即時停止を要請する為、 奉天特務機関へ直行した。 特務機関には、 板垣大佐を始めとする関東軍参謀連が詰掛け、 今や・・・臨時の戦闘指揮所として機能していた。 「攻撃命令は、 司令官閣下が出されたのですか?」 「本庄閣下は、 旅順の司令部に居られる。 緊急突発事件であるからして、 自分が代行指揮を執っている。 我が重要権益たる満鉄線が攻撃を受けた以上、 即座に応戦するは当然至極なる措置ではないか? 軍は規定の方針通り・・・」 「中国側は無抵抗主義で行くから、 速やかに鉾を収めて貰いたいと、 総領事館に再三に渡って電話が入って居ります」 「もう遅い。 統帥権 は、 既に発動した!」 「いえ! 遅くはありません!!」 森嶋領事は、 食い下がった。 「今すぐ停戦命令を出していただければ、 我々が責任を持ち、 外交交渉によって解決致します」 「総領事館は、 統帥権に容喙干渉 するのか! ソレが総領事館の方針か?」 板垣大佐は、 矢庭に威丈高に成った。 一度腰砕けになったら、 計画全てが破綻する。 三年前の二の舞である。 軍の陰謀である事が露見する。 首謀者は、 免官程度では済まない。 陸軍刑法 による厳重な処罰が待っているのである。 特務機関長代理の 花谷正少佐 は、 軍刀を抜放つと咆哮した。 「統帥権に干渉する者は叩ッ斬る!」
September 18, 2008
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露暦1865年7月16日。 ペテルブルグ市内。 繊細で、 豊かな感受性 を備えながら、 歪で、 尖鋭化した理論に支配される儘、 忌まわしい殺人を犯してしまった ラスコーリニコフ 。 犯行から七日目・・・。 苦悩する殺人者ラスコーリニコフが、 純真無垢なる娼婦 ソーニャ に、 自らの犯行を告白したのが、 是の日の事です。 「・・・殺人てものは、 あんなふうにするものだろうか? ・・・いったい、 ぼくはばばあを殺したんだろうか? いや、 ぼくは自分を殺したんだ、 ばばあを殺したんじゃない! ぼくはいきなりひと思いに、 永久に自分を殺してしまったんだ!・・・」 ・・・彼はひざの上に両ひじをついて、 くぎ抜きで締めつけるように、 両のてで頭を抱きしめた。( 『罪と罰』 米川正夫訳)
July 16, 2008
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明治の智恵と勇気が貴方を魅了する! ・・・と云うのが、 発刊当時のキャッチコピーでした。 御覧になられてましたか? 文芸春秋劇場。 (^.^) 狷介で固陋な軍国主義国家と思われ勝ちであった明治期の日本・・・。 その印象を払拭し、 若々しい創造的なエネルギーに満ちた新興国民国家の姿をアピール、 読者の圧倒的共感を呼んだのが、 本作品です。 是だけでも、 作者 ・ 司馬遼太郎の功績は絶大と云えます。 伊予松山出身の三人の若者。 秋山好古 ・ 真之兄弟と正岡子規を主人公に、 溌剌とした青春群像劇が展開します。
February 16, 2008
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1942 (昭和17) 年8月7日。 南東太平洋ソロモン諸島。 補給能力を度外視し、 不用意に推進された日本軍飛行場。 ・・・ ガダルカナル島 は、 局地反攻の機会を窺っていた米軍にとって、 格好の攻略目標であった。 是の日・・・。 同島に来攻した米軍は、 有力な海上 ・ 航空兵力の支援の下に、 上陸作戦を開始した。 優勢な装備 ・ 物量を誇る米上陸部隊は、 日本軍設営隊を圧倒し、 完成間もない飛行場を難なく手中に収めた。 ミッドウェーの惨敗以降、 連合艦隊の作戦構想は 見る影もなく萎縮 してしまいます。 改造空母三隻を含め、 尚六隻の空母が第一線へ配備可能でしたが、 最早攻勢どころではない。 無け無しの空母と航空隊の温存が図られるのですが、 戦局の推移はソレを許しませんでした。 是の・・・ ガダルカナル島争奪戦 の生起によって、 母艦航空兵力の全てを、 同方面へ投入せざるを得なくなる。 日本は、 最も警戒していた筈の 航空消耗戦 に、 易々と引摺込まれてしまったのです。 ソロモンの海と空を舞台に、 激しい攻防戦が半年に渡って繰広げられ、 夥しい数の 戦闘艦艇 ・ 補給船舶 ・ 作戦機 ・ 搭乗員 が失われる事となります。 超絶した工業生産力 を誇る米国が、 本格反攻 に向けて、 大規模な計画で、 空母群の建造 と 航空機の増産 及び 搭乗員の養成 を進めていた同じ時期・・・。 日本は、 その本格反攻に備えて、 是が非でも温存しなくてはならない戦力を、 一挙に滅儘してしまったのです。 日本の貧弱な工業生産力は、 是の致命的な損失を、 遂に補填する事が出来ませんでした。 昭和17年12月に大本営がガダルカナル放棄を決定した時点で・・・。 日本に有利な条件で、 戦争を講和へ導く可能性は、 完全に失われていたとされるのは、 是の故にです。
August 7, 2007
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1781年10月17日。 英国領バージニア州。 バージニア植民地に於ける英国軍最後の拠点である ヨークタウン要塞 は、 七千名の将兵を擁した儘、 ジョージ ・ ワシントン 率いる植民地政府軍 ・ 仏軍の重囲下に孤立。 連日、 海陸からの熾烈な砲撃に曝され、 食糧 ・ 弾薬の欠乏に喘いでいたが、 是の日・・・。 司令官 チャールズ ・ コーンウォリス将軍 は、 遂に降伏の軍使を差遣。 攻囲戦は終結する。 ヨークタウン要塞の陥落が決定的打撃となって、 英国本国政府は戦争継続を断念。 植民地政府との講和・・・ 米国独立の承認 を余儀なくさせられる。
October 17, 2008
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市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を舞台とする、 三島由紀夫の 暴挙 から三十八年が経過します。 戦後事件史に特筆される 愚劣極まりない事件 でした。 自己の観念のフィルターを通してしか現実を見る事の出来ない人間・・・。 十分な計画性もなく、 具体的な建設プランもなく、 空想的なヴィジョンに牽引される儘、 一線を踏み越えてしまった人間が、 現実世界からの痛烈な拒絶の意思表示に遭い、 凄惨な立往生を遂げた記録です。 当時、 私は中学校の二年生。 当然ながら、 三島由紀夫の人と思想について、 十分に理解が適っていた訳ではありません。 現代日本文学の第一人者としての名声と、 その異常な行動との余りの落差に、 戸惑いを禁じ得なかった事は覚えています。 三島事件に関して、 自分なりの考察を廻らし、 自分なりの結論を得るのは、 いくらか後年の事となります。 '70年代前半は、 二つの反体制運動・・・。 いわゆる 右翼 ・ 左翼 なる概念が、 或る程度のリアリティを有していた、 日本で最後の時代と呼べます。 日本を取巻く諸情勢の激変が醸し出すリアリティでした。 しかし、 三島由紀夫の思想を、 純正右翼の思想と比較してみると、 明らかに異質なものである事がわかります。 また、 その行動は、 些かもリアリティを伴っていませんでした。 その当時・・・。 大学紛争 ・ '70年安保闘争 ・ ベトナム反戦闘争 ・ 沖縄返還闘争 ・ 基地反対闘争 ・ 三里塚の住民闘争等々・・・白熱した映像が、 ブラウン管を通して、 連日茶の間に流れ込んでいました。 そうした時代相を反映して・・・。 教室では、 ホームルームの時間になると、 必ず国内外の重大事件が議題に取上げられ、 活発な意見の交換が行われていました。 同世代の、 政治 ・ 社会問題への関心は、 決して低くはなかった筈です。 私達の多くは、 いわゆる 新左翼運動 に対して、 或る面で共感を覚え、 或る面で支持する所が有ったかと思います。 しかし同時に、 決定的な距離の存在を意識していました。 声高に “反戦 ・ 平和” を叫びながら、 社会秩序を破壊し、 市民生活に混乱をもたらして、 躊躇う所のない、 その闘争方針に対しては、 一様に疑問を呈さざるを得ませんでした。 反体制の旗幟の下では、 如何なる無法も容認され得るなどと、 そんな短絡した論理に惑わされる者は、 誰一人としていなかったのです。 少なくとも、 私の周辺では。 私達は、 反体制的 概念と 反社会的 概念の区別が付かない程愚かではない。 両者の本質的相違を、 十二分に認識していました。 反体制を偽装して、 公秩序の破壊をもくろむ徒輩に対しては、 呵責容赦のない態度で臨む。 そう云う思考上の訓練を、 端なくも経ています。 従って、 三島事件から受けた印象は、 決して好ましいものではありませんでした。 ブラウン管の前で事態の推移を見守っていた一中学生の眼には、 滑稽なパフォーマンス集団の座長としか映ってはいなかったのです。
November 25, 2008
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901 (昌泰4) 年1月25日。 京都 ・ 御所内。 宇多天皇 の絶大な信頼を得て、 重用され、 国政の枢要に在った 右大臣 ・ 菅原道真 は、 藤原一門の陰謀によって、 役職を解任され、 太宰府権帥への配転を命じられる。 菅公左遷 として、 往古から語継がれている一幕である。 比類のない学識を謳われ、 一文章生から文章博士を経て、 国政の柱石として重用され、 右大臣の地位にまで登り詰めた道真であったが、 その破格の栄達を不服とする者、 改革に反感を抱く者達も増大していた。 就中、 天皇家の外戚としての地歩を固め、 国政壟断の機を伺っていた 藤原一門 にとって、 道真は・・・どんな卑劣な手段を用いてでも、 排除しなくてはならない存在であった。 左大臣 ・ 藤原時平 を中心とする勢力は、 道真が醍醐天皇廃位を企んでいると云う、 嫌疑を捏造したのである。 なんら謂れのない罪科を蒙った道真は、 自らの悲境を一首の和歌に託し、 宇多上皇へ哀訴する。流れ行く われは水屑 (みくづ) と なりはてぬ君 柵 (しがらみ) と なりてとどめよ 思わぬ事態に宇多上皇は驚愕し、 急遽・・・参内の手筈を整える。 醍醐天皇を説諭し、 道真に対する処分を撤回させる意向であった。 然し、 警護の士に通行を阻まれ、 帝への謁見は叶わなかった。 二年後・・・。 道真は、 配流の地にて病没する。 菅原氏追放をもって、 藤原氏が多年に渡って推し進めて来た、 他氏族排撃の陰謀は略・・・完了する。 最早、 藤原氏の専横に異を唱える勢力は、 廟堂に全く存在しなかった。 平安文化は、 やがて爛熟期を迎え、 藤原一門の栄華の幕が開く。 同時に、 古代律令制国家は精神的背骨を失い、 急速に崩壊へと向かうのである。
January 25, 2008
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戦争を避ける道 は・・・絶対にないのか? 万一の事態に陥る時・・・。 皇祖皇宗 に対し、 四千万国民 に対して、 申し訳が立たぬぞ! 1904 (明治37) 年2月4日。 帝都 ・ 東京。 義和団事件後、 満州全土に大軍を駐留させ続ける ロシア帝国 は、 更に朝鮮半島へ進出する形勢を示し、 日本の国防方針と真向から対立した。 開戦の声が、 日増しに高まる中・・・。 日本の国力を熟知する 元老 ・ 伊藤博文 ら政府首脳は、 戦争回避の外交努力を重ねるが、 ロシア政府から誠意ある回答の得られない儘、 虚しく日時のみが経過していた。 そして、 是の日・・・。 御前会議は、 満場一致で開戦を決議。 明治天皇 は、 是に裁可を下す。 この決定に基いて、 陸海軍統帥機関は、 対露作戦の第一段階を始動させるのである。 日本の国運を賭した 日露戦争 の幕が、 将に上がらんとしていた。
February 4, 2008
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1837 (天保8) 年2月19日。 大坂天満市中。四海困窮いたし候はゞ天禄ながくたゝん小人に国家を治めしめば災害並至と昔の聖人深く天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候( 「檄文」 から) 打ち続く飢饉・・・。 加えて特権的大商人による買占めは、 米価の異常な騰貴をもたらし、 大坂市内には飢餓に瀕した細民が群れ、 凄惨な情況を呈していた。 更に、 老中 ・ 水野越前守忠邦 の実弟である 跡部山城守良弼 が東町奉行に任じると、 情勢は決定的に悪化する。 跡部は、 水野からの指令に従い、 唯でさえ深刻な供給難に陥っている米を、 専ら江戸表へ回送し始めたのであった。 是が又、 大商人の買占めを一層煽る結果となる。 元大坂東町奉行所与力で、 陽明学者の 大塩平八郎 は、 跡部に対して、 緊急に飢民救済の施策を打出す様、 必死の嘆願を重ねていたが、 全く聞入れられなかった。 私財を擲って救済費用に充て、 懸命に奔走する大塩であったが、 個人的努力も最早限界に達していた。 そして、 遂に是の日・・・。 予て盟約を交わしていた門人二十数人と共に、 檄文を飛ばし、 近郷の農民 ・ 都市下層民を組織し、 救民の旗を掲げて、 武装蜂起に踏み切る。 市中細民の窮状を余所に暴利を貪る悪徳商人 ・ 無為無策に終始する貪官汚吏の誅滅を目的とする兵を挙げたのである。 平八郎を領袖とする一党数百人は、 大砲二門を引回しながら、 意気揚々と行進を開始した。 鴻池 ・ 三井 ら名立たる豪商の屋敷が襲撃対象となり、 相次いで炎上していく。 然しながら、 準備不足は明らかで、 蜂起への参加者は予想外に少なく、 幕府の軍勢が出撃すると、 忽ち壊乱状態に陥った。 後図を策すべく、 平八郎は逃亡する。 暴乱は僅か半日で鎮圧されたものの、 発生した大火の勢いは止む事なく、 市中の四割が灰燼に帰した。 大塩平八郎の乱 が、 幕閣の面々に与えた衝撃は激甚であった。 大塩の本意とする所は、 姦吏姦商 の誅殺であって、 決して幕府に対して叛旗を翻した訳ではない。 封建制度打倒を目指したのでもない。 大塩にとっては、 何処までも封建制度を擁護する立場から成された 義挙 であった。 然し、 大塩個人の思想とは裏腹に・・・。 その行動は、 図らずも徳川幕藩体制の抱懐する構造的矛盾に対して打込まれた、 痛烈な楔となったのである。
February 19, 2008
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1860 (安政7) 年3月3日。 府内 ・ 江戸城桜田門外。暗殺者が歴史に寄与することはないが、 桜田門外の変は例外で、歴史を躍進させた。(司馬遼太郎 『幕末』 ) 朝廷を差し置いて、 独断で列国との条約に調印。 是に異議を唱える公卿 ・ 諸侯を強権で捻じ伏せ、 在野の攘夷派志士達の活動に対しては、 苛酷な弾圧をもって臨み、 有為の士を多数死に至らしめた 大老 ・ 井伊掃部頭直弼 は、 是の日・・・。 登城の途次、 尊攘派水戸浪士 を主体とする暗殺者の一団に襲撃される。 折からの降雪・・・。 警護の士の太刀は束袋に覆われ、 厳重に緊縛されている。 積雪を蹴立てて襲い来る刺客群を目前にしながら、 抜合わせる事が出来ない。 行列は、 忽の内に斬立てられてしまう。 大老の首級が挙げられたのは、 十数分後の事である。 幕閣に在って、 比類のない権勢を誇っていた人物の突然の死は、 公儀の威信を大きく失墜せしめる事となる。 「馬鹿が・・・! 今拙者を斃さば、 三百年続いた徳川の世は打ッ潰れる! それは、 この日本から侍が無くなる事だゾ!!」
March 3, 2008
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第一次世界大戦終結の日に始まり、 第二次世界大戦終結 (欧州戦線) の夜に終わる物語。 カルト的人気を誇る サミュエル ・ フラー 監督による異色戦争映画 『最前線物語』 (1980年度作品) 。 1918年11月11日。 最前線を偵察中の 米軍下士官 (リー ・ マービン) は、 両手を頭上にかざし、 降伏を叫びながら近付いて来る、 一人のドイツ兵に遭遇しますが、 躊躇いもなく刺殺してしまいます。 歴戦の古兵である彼は、 それが、 独軍が此方を油断させる為に用いる常套手段である事を知っていました。 この時も、 見え透いた芝居を打っているに違いないと判断したからです。 ・・・殺られる前に殺る。 一瞬の躊躇が死を招く戦場で、 自己の生存を全うする為の鉄則であり、 生き延びる事こそ、 彼にとって、 戦場での殺人行為を合理化し得る唯一の大義名分でした。 然し、 原隊へ戻った彼は、 既に 休戦協定が成立 していた事を知らされ、 愕然とします。 人間的感情を棄却し、 非情に徹する事によって、 戦場の苛酷さに耐えて来た彼が、 初めて殺人の意識に囚われたのです。 湧き上がる様な戦勝の歓喜は微塵もなく、 名状し難い、 暗澹たる気分の底に沈み込むしか有りませんでした。 それから二十年余の歳月が流れ、 新たな大戦の炎が世界を覆っていました。 米国参戦の翌年・・・1942年。 件の下士官の下に、 補充兵として、 グリフ二等兵 (マーク ・ ハミル) ら四人の若者が配属されます。 戦場を知らない四人に、 下士官が 戦訓 として叩き込んだのは、 生き残る事。 そして、 戦場で敵兵を殺す事に、 躊躇も、 一片の感傷も抱いてはならないという事でした。 抽象と戦うためには・・・抽象に似なければならない。 敵を非人間化する事は、 自身の存在をも非人間化する事でした。 四人の新兵は、 下士官と共に、 北アフリカからシチリア島、 ノルマンディー海岸、 ベルギー・・・と、 激戦地を転戦しながら、 戦訓 を忠実に実践し、 独軍将兵を殺戮していきます。 麻痺してしまった感情の回復。 失われた人間性を取り戻すのは、 戦争が終わってから取り組むべき問題として先送りした儘・・・。 そして、 他の班員達が相次いで斃れていく中で、 五人の曹 ・ 士は、 常に命を長らえるのです。
November 11, 2011
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1918 (大正7) 年9月29日。 非立憲内閣の異名を奉られ、 圧倒的不人気を博した寺内正毅内閣退陣の後を受けて、 是の日・・・。 衆議院多数党である 立憲政友会総裁 ・ 原敬 を首班とする新内閣が発足する。 原内閣は、 外務と陸 ・ 海軍以外の全ての閣僚が政権与党議員によって構成される 日本最初の本格的政党内閣 であった。
September 29, 2008
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『源氏物語』 の作者 ・ 紫式部が仕えたのは、 一条天皇の中宮 ・ 彰子。 左大臣 ・ 藤原道長の長女でした。 その彰子が待望の皇子を産み、 生誕五十日を祝う宴が、 道長邸で盛大に催されたのは、 1008 (寛弘5) 年11月1日の事です。 その日から千年目の今日・・・。 【源氏物語千年紀】 記念式典が京都市内で開催され、 11月1日を 【古典の日】 とする宣言が行われました。 紫式部ら平安女性の偉業を讃え、 『源氏物語』 を始めとする古典を日本の誇りとして後世に伝えていくため、 古典に親しむ日・・・と謳われています。
November 1, 2008
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1935 (昭和10) 年2月18日。 帝都 ・ 東京。 国家学説のうちに、 国家法人説 というものがある。 これは、 国家を法律上ひとつの 法人 だと見る。 国家が法人だとすると、 君主や、 議会や、 裁判所は、 国家というひとつの法人の 機関 だということになる。 この説明を日本にあてはめると、 日本国家は法律上はひとつの 法人 であり、 その結果として、 天皇は、 法人たる日本国家の 機関 だということになる。 ・・・これがいわゆる 天皇機関説 または単に 機関説 である。(宮沢俊輔 『天皇機関説事件』 から) ↑ 画像は、 発禁処分に付された美濃部達吉博士の著書 『憲法撮要』 大日本帝国が 立憲君主制国家 として正常に機能していた時代・・・。 議会の権能を保障し、 政党政治を可能ならしめる、 法理論上の根拠とされていたのが、 憲法学の権威 ・ 美濃部達吉博士 の唱導する憲法学説でした。 同学説は、 日本の憲法学会に在って、 三十年余に渡って主流を成していたもので、 昭和天皇 も支持者の一人であったとされていますが、 是の日・・・。 貴族院本会議場に於いて、 美濃部博士の学説・・・ 天皇機関説 は極めて遺憾であるとの、 排撃運動の狼煙が上がりました。 神聖不可侵の存在 である天皇を、 国家の一機関と定義する学説など、 日本の国体に適合しないとする、 国家主義的立場から成された論難でした。 そして、 斯かる不逞の論を成す者は 叛逆者 ・ 謀反人 に他ならないと、 矯激な・・・時代錯誤の言辞を用いて、 美濃部博士個人 (貴族院議員の一人でもある) をも糾弾します。 戦前の国内政治から、 社会 ・ 思想 ・ 教育 ・ 文化に至るまで、 国民生活を一変させてしまった (・・・と云っても過言ではない) 天皇機関説事件 の端緒でした。 是の事件は、 議会制度を無力化させ、 国民の権利を抑圧し、 自由主義的な思想 ・ 言論を根絶しようとする勢力にとって、 突破口を開く為の、 絶好の機会となります。 反動政治団体 や 在郷軍人会 を主要な担い手とする機関説排撃運動の炎が、 凄まじい勢いで、 全国へ燃え拡がっていくのです。 そうした最中・・・。 一身上の弁明に立った美濃部博士は、 憲政史に語り継がれる名弁論を披瀝し、 論敵を退けますが、 結局・・・皇室に対する不敬の罪を犯したとして、 告訴されるに至ります。 恐らく、 皇室の藩屏たる貴族院議員の中でも、 美濃部博士程に尊皇の志の厚い人物は稀であったろうと推量されるのですが・・・。 昭和天皇は、 侍従長 ・ 鈴木貫太郎に対して、 次の様に語っています。 ・・・美濃部のことをかれこれ言ふけれども、 美濃部は決して不忠な者ではないと自分は思ふ。 今日、 美濃部ほどの人が一体何人日本にをるか。 あゝいふ学者を葬ることは頗る惜しいもんだ(原田熊雄 『西園寺公と政局』 から)
February 18, 2009
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1859年 ジョン ・ ブラウンの叛乱。 急進的奴隷制廃止論者ジョン ・ ブラウンの徒党、 政府兵器庫を襲撃。 1850年代後半・・・。 合衆国国内では、 奴隷制度の存廃をめぐる議論が異常な高まりを見せていたが、 それは度々・・・奴隷制度廃止派と擁護派との暴力の応酬へとエスカレート。 多くの州で流血の抗争が繰り返され、 かつてない政情不安が醸造されていた。 南部 ・ 北部の対立を抜き差しならないものとし、 南北戦争 へと収斂されていく、 巨大なうねりが生じつつ有ったのである。 ジョン ・ ブラウンの叛乱 が起きたのは、 そうした最中の事であった。 奴隷解放運動の急進的指導者で、 予てから非合法闘争を提唱 ・ 実践していた ジョン ・ ブラウン は、 是の日・・・1859年10月16日未明。 同志二十一名と共に、 ヴァージニア州ハーパースフェリーに在る、 合衆国政府の兵器庫を襲撃 ・ 占拠。 当初の計画では、 それと同時に、 近郷の黒人奴隷を解放 ・ 組織化し、 強奪した銃器を供与して、 大規模な武装蜂起へ発展させる手筈であったとされる。 然し、 現地住民の反撃は迅速かつ果敢で、 一党は守勢に立たされ、 兵器庫に封じ込められてしまう。 奴隷達を糾合している間はなかった。 ブラウン一党は、 早くも孤軍に陥りつつ有ったのである。 17日。 政府兵器庫襲撃という事態を重大視した合衆国大統領ブキャナンは、 合衆国海兵隊の分遣隊をハーパースフェリーに急派。 陣頭指揮には、 合衆国第二騎兵連隊の ロバート ・ E ・ リー大佐 が任じた。 18日早朝。 攻囲を完了した部隊は、 一党の立て籠る施設に突入。 既に、 16日来の銃撃戦によって、 ブラウン一党の戦力は半減していた。 突入部隊は、 抵抗する者数名を刺殺し、 至短時間で制圧作戦を完了した。 一連の戦闘による、 ブラウン一党の死者は十名 (重傷を負い、 後日死亡した者を含む) 。 ブラウンを含む七名が捕虜となり、 五名が逃亡した。 ジョン ・ ブラウンの叛乱は鎮圧された。 内乱を企図した決起としては、 拍子抜けする程に不首尾な結果に終わった。 奴隷解放の炎は燃え上がらず、 初期消火で食い止められてしまった印象が有る。 蜂起の勢いは、 地域住民の果敢な抵抗に遭った時点で、 大きく削がれた。 一党は、 包囲を打ち破れず、 孤軍奮戦を余儀なくされ、 政府軍の到着とともに、 その命運は極まった。 計画自体が無謀であった。 戦術面の拙さも際立っている。 綿密なリサーチもなく、 周到な準備もなく、 作戦は場当たり的に強行された。 兵力は決定的に不足していた。 頼むところは現地の奴隷達で、 彼らがブラウンの呼び掛けに応じるか如何かが重要なポイントであったに違いないが、 事前に根回しが行なわれた形跡はない。 ともかく檄を飛ばせば、 大勢の奴隷達を取り込めるものと楽観していたかの様である。 仮に、 局地的に奴隷解放が実現したとしても、 当然出撃して来る州軍や政府軍を相手取って、 解放区を維持出来ると考えていたのか。 解放したばかりの奴隷に銃を執らせ、 俄か訓練を施しても、 戦闘集団として機能し得るまでに相当の時間が必要であったろう。 ブラウン自身は、 カンサス州で州軍を散々に翻弄した経験から、 十分な成算が有ると見ていたのかも知れない。 然し、 長期的な展望を保持していたか如何かは覚束ない。 蜂起がもたらす破壊と混乱を如何にして収拾するつもりでいたのか。 具体的な建設案は用意されていたので有ろうか? ジョン ・ ブラウンは信念と行動の人であり、 筋金入りの闘士であった。 然し、 原理主義運動家の常として、 彼もまた現実から乖離した、 空想的なヴィジョンしか持ち合わせなかったのでは有るまいか。 同年12月2日。 首謀者ジョン ・ ブラウンは、 叛逆罪で絞首刑に処された。 彼と共に捕われた六名も、 前後して、 処刑された。 叛乱の火は吹き消されたが、 事件がもたらした衝撃は決して小さいものではなかった。 それは、 全米を覆いつつ有る政情不安をいっそう煽り、 対立を深める南北間の未来に不吉な影を投げ掛けるものとなったのである。
October 16, 2011
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・・・上野介はただ当面の手段にすぎない。 敵は その背後のもの である。 亡君が天下に示そうとなされた御異議をたたき付けるのである。 (大仏次郎 『赤穂浪士』 ) 1702 (元禄) 年12月14日深夜。 江戸府内 ・ 本所松坂町。 大石内蔵助良雄 を頭目とする、 浅野家遺臣 47名は、 高家筆頭 ・ 吉良上野介義央 の邸宅を襲撃。 吉良家家臣団との間に争闘を繰広げ、 是を制圧。 吉良の姿を求めて、 邸内を隈なく探索し、 遂にその首級を挙げる。 前年・・・江戸城中松の大廊下で発生した刃傷事件に際して、 喧嘩両成敗の原則に反し、 一人断罪された旧主 ・ 浅野内匠頭長矩 の無念を、 もう一方の当事者である吉良義央を討つ事によって、 晴らしたものである。 それは取りも直さず、 幕府政道の歪に対して成された、 断固たる抗議表明でもあった。 翌日の江戸市中は、 浅野家遺臣の “義挙” を賞讃する声で、 沸騰していた。 苦節一年有半・・・。 見事に本懐を成し遂げた “赤穂義士” への讃辞を、 人々は惜しまなかった。 幕閣からも、 彼らの行為は主君への忠義に基くものである。 将に 武士道の亀鑑 であると、 賞揚する声が上がる。 徳川五代将軍 ・ 綱吉 と側用人 ・ 柳沢吉保 は、 彼ら浅野家遺臣の処分を廻って、 苦渋の決断を迫られる事となるのである。
December 14, 2007
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「CBSネットワークが今宵、 皆様に御送りするのは、 オーソン ・ ウェルズとマーキュリー劇場による ラジオ ・ ドラマ ・・・H ・ G ・ ウェルズ原作の 『宇宙戦争』 です」 ハロウィン前夜午後8時・・・。 ニューヨーク市CBS放送局から、 SF小説の大家 H ・ G ・ ウェルズ の代表作品をドラマ化した番組 『宇宙戦争』 が全米に向けて放送されました。 番組の仕掛人は、 当時 23歳の新進俳優 オーソン ・ ウェルズ 。 企画 ・ 構成 ・ 演出を、 彼が一手に引受けた意欲作でした。 処が、 放送が開始されると、 実況中継形式 の物語進行と相俟って、 その余りにも真に迫った効果 ・ 演出は、 聴取者の一部をスッカリ惑乱させてしまいました。 (コレは・・・フィクションなんかではない。 現実に進行している事態 に違いない!) 当夜から翌朝にかけて、 全米各地で凄まじいパニックが捲起こったと伝えられています。 火星人襲来 を現実と信じ込んだ人々による狂騒劇が、 至る所で演じられたのです。 パニックは、 ドラマの舞台に設定されている ニュージャージー州 に於いて、 最も顕著でした。 ニューアーク市では、 市内から避難しようとする人々が、 大挙して車で繰出したため、 道路は通行不能に陥ってしまいました。 火星人出現の地として描かれたグローバーズ ・ ミルでは、 銃武装した住民達が、 戦々恐々として屋外を徘徊。 闇の中に浮かび上がった給水塔を 火星人のトライ ・ ポッドと誤認 。 一斉射撃を浴びせ、 破孔だらけの廃物に変えてしまいました。 騒乱を鎮静化するため、 知事は遂に・・・州軍の出動を命じます。 一介の ラジオ ・ ドラマ が何故・・・是程の大混乱を惹起するに至ったのか? その理由については、 社会心理学の面から、 今日まで様々に説明が試みられて来ました。 最も代表的なのが、 第二次世界大戦前夜の緊迫した国際情勢との関連を指摘するもの。 ナチス ・ ドイツの軍事的膨張に象徴される、 不穏な世界情勢の醸し出す危機感・・・ 戦争の恐怖 が、 集団ヒステリーを誘発する契機として、 人々の意識下に伏在していたから・・・という考察です。 この事件を描いた作品としては、 『アメリカを震撼させた夜』 (’75) というTV映画があります。 当時の世情が克明に再現された秀作ですので、 機会がありましたら御覧になって下さい。 コチラの方は、 記憶に新しい スピルバーグ の 『宇宙戦争』 です。↓
October 30, 2008
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