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ここ数日、2時間に一度は携帯電話が鳴る。「どなたかレフリーいませんか?」、そう、菅平の練習試合のレフリーの依頼である。毎年、この時期には菅平に上がっているので「今年も」と思ってくれるようだ。しかし、今年は目の回るような忙しさ。電話をくださった皆様、ごめんなさい。この場を借りてお詫びします。閑話休題。数週間前、地元の新聞に同級生についての記事が載っていた。彼とは高校のラグビー部で一緒、3年生の時のクラスも一緒だった。今、彼はちょっとした「時の人」である。というのも、最近、DNA鑑定の精度が問題になり、被告人が逆転無罪となった裁判があったが、彼はその弁護団を構成する一人である。彼は高校時代、ルーズヘッドプロップだった。体が格別大きかったわけではなかったが、スクラムは強かった。だが、僕の彼に関する記憶の中でもっとも印象に残っているのはタックルである。試合の終盤、一番身体が苦しいであろう彼が、強烈なタックルで相手を倒すシーンを何度も見た。その度に、「負けられるか!」と闘志がよみがえってきたのを覚えている。彼自身はどちらかと言えばやんちゃな高校生だったが決していい加減なやつではなかった。少なくとも、仲間のために体を張ってくれる男であることは、同期の仲間が、そして、あのタックルが証明してくれるだろう。彼は「高校時代の苦しい練習を思えば、どんなことでも我慢できる」と語っていたが、記事を読みながら「そうだよなぁ」と思った。久しぶりに奴を見て「負けられるか!」という気になった。これだから、ラグビーは面白い。
2009.08.13
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むかーし(?)、「授業中に先生が『指導する』のはよくない」「学び手である子どもの主体性を尊重し、楽しく活動をさせるのが良い授業である」「授業が楽しければ、その後は子どもが進んで学習するようになる」云々という(教員への)指導が主流であった時期がある。僕がまだ駆け出しだった頃の話だ。 びっくりしたのは、指導計画の方針を示した教授案、通常は「学習指導案」というのだが、これを「学習『活動』案」と書け、というご指導まであったことだ。学校の先生になるような人たちは生来真面目な人が多いから、おかしいなとは思っていたのだろうが「ご指導だから」とこれにしたがっていた。 だが、教員ではあるが、生来の臍曲がり、かつ、思考的不良少年(?)である僕は、その手の話を聞くたび我慢がならず、あちこちの研究会で異論を唱えた。当然、(控えめに言って)煙たがられ、当時の管理職に「他校の校長から校長会で「黙らせろ」と言われたよ」と苦笑混じりに告げられた。 さて、現在。「教師の指導力が問われる」「基礎・基本の徹底」云々声高に叫ぶのが、教育界の「主流」である。「学習『活動』案」など、どこを探しても見つからないし、「くり返し○○ワーク」と銘打った反復練習帳が売れるなど、十数年前を思うと隔世の感がある。だが、僕は相変わらず面白くない。 「指導から支援へ」へのキャッチフレーズ(これだって誰が言い出したのかは不明である。当時の文部省の文章にはこの語は一度も登場していないのだ)の元に行われた当時の教育は(これもまた控えめに言って)お世辞にも成功したとはいえない。現在はその反動として「学力向上」が国家的スローガンになっているかのような風潮があるが、これは、過去に失われたものが如何に大きかったかを表しているともいえる。だから、これを取り戻すために学校が必死になるのも当然である。 ここからが本題。当時の教育に携わった多くの先生たちは「上意下達」つまり、ご指導があったから、それにしたがって教育活動を行いました、という話をする。当然といえば当然であるが、自らのしてしまったことへの「申し訳ない」という気持ちはどれくらいもっているのだろう。文部科学大臣が、いわゆる「ゆとり教育」を受けた世代に対し謝罪をしたことからわかるように、あの時代の歴史的位置づけは既に済んでいる。僕も含めて、あの時代に教壇に立った先生たちは失政に手を貸したわけだ。これに対しては、前述のように大臣が謝罪しているのだから、一教員が当時の教え子たちにいちいち謝る必要はない。でも、どうも気持ちに整理がつかないのは、「学習『活動』案」を積極的に広めることに手を貸した人たち、つまり、あの当時の研究主任とか学習指導主任クラスの教員たちが学校教育の中枢になり、当時と180°違うことを後輩たちに指導している点である。 くり返しになるが、彼らに責任をとれというのは酷であるし、彼らなしで今日の学校運営が成り立たないのは火を見るより明らかなので、職を去れ、とか腹を切れ、等と言うつもりは毛頭ない。僕だって同類と言われれば同類である。ただ、当時について頬被りをし続けるのはいかがなものだろうか。教員として、当時なぜあの流れに抗えなかったのか、あるいは積極的に関与したのか、その結果、何を失い、何を学んだのかを先輩たちから学びたいと思う。 太平洋戦争末期、海軍兵学校の入試及び授業から英語をなくそうという動きがあった。陸軍士官学校が授業で英語を廃し、入試からも外したために、優秀な人材がそちらに流れるのを危惧する教官たちの提案であった。会議の結果は英語の教官を除きこれに賛成であった。だが、校長であった井上成美中将は「英語を知らぬ海軍士官がどこにいる」「外国語の一つも学ぼうとしない者は、海軍の方からお断りである」と校長の独断でこれを排した。 井上校長は、終戦後「戦争が終わった後、日本の復興に役立つ人間を育てたいというのがその真意であった」と述懐したそうだが、教え子にしてみるとこれほどありがたいことはなかったろう。教育者たるもの、こういう信念を持ちたいものである、と思わされる話である。 なお、井上中将(後に大将)は、戦争責任から最も遠い位置にあったにもかかわらず、自らの責任を痛感、戦後一切の公職に就かず、限られた場にしか姿を現さなかったため、「沈黙の提督」と呼ばれる。責任をとるための「沈黙」もあれば、違った「沈黙」もあるということだろうか。
2009.04.29
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運動会の季節である。もっとも僕の職場は6月に終わっている。休日の早朝に花火が上がると「ああ、やっているなぁ」と思う。ところで、ある学校で「障害物競走」を実施したいと届け出た先生に対して、「『障害』とは何事か、『障がい』と書け!障害と書くのはこれから許されないんだ」と怒った管理職の方がいると聞いた。補足するなら、「障害者」という表現を「障がい者」と書くように、という通達が出ているから、それを受けての指導である。公立学校は役所だから、通達には従うのは当然である。だから、管理職が部下を指導するのは当然である。だが、少々情けない。「害」という字が何か害を為すような印象を与えるというのが「『害』使用禁止」の理由だそうだ。なるほど「障害者」と書かれた側にしてみれば面白くない。 僕は、「害」の字を用いないという判断を支持する。確かに「害」の印象は良くない。ただ、「障がい」とかなを交ぜて表記するのはどうかな、と思う。そもそも、「障害」は当て字なのだ。 もともとは「障礙(碍)」と書いて「しょうがい」と読んだ。礙(碍)は「障りがある」という意味である。それが漢字の制限のため「害」を当てているというわけだ。先に書いたように、学校は公的機関なので、制限を受けている字を用いられない。加えて今は、先生も、漢字(あるいは漢文学)に関する素養が極めて乏しくなってきている。だから「上がダメと言っているんだから使うな」程度の指導しかできない上司が多くなるのは仕方がない。でも、何だか情けない。子どもの時、「なぜ、植物の組織なのに『師管』と師の字を用いるのか」と質問したら「よく見よ、『ふるい』のような形をしているだろう。これは本来『篩管』と書いたのだ。『篩』はふるいと読む。それが、漢字の制限のためにこの字が使えなくなったのでやむなく『師』を用いているのだ」と教えてくれた理科の先生がいた。かっこよかったなぁ。
2008.09.21
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早起きしてウォーキング。こんなもの発見。
2008.08.01
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数週間前、町の教員研修会があった。おそらくその世界では名の知れた研究者と思しき方を招いての講演だったのだが、全く得るもののない2時間を過ごした。せっかく話をしてくださった講師の方には本当に申し訳ない言い方だが、それ以外に表現の仕様がない。 誤解のないように言えば、講師の先生の人柄や研究実績を非難するつもりは毛頭ない。おそらく、聞く人が聞けば面白いところもあったのだろうと思う。ただ、あの講演会は話す方にとっても聞く方にとっても時間の無駄であったと断言できる。 私達の身の回りには「話の面白い人」というのが一人や二人はいる。そういう人の話を聞くと「よくもまぁ、この人の身近なところでは次から次へと面白いことが起きるものだ」と感心してしまう。 しかし、実際には、彼等の周りで面白いできごとが頻発するというよりも、彼等が(意識するにせよしないにせよ)大したことのないできごとでも愉快な事件に仕立て上げている、つまり、彼等は「ツボ」を心得ていて、必要に応じて事実を加工しているから話が面白い、という方が真相に近いのではないか。僕は、こういう技術は大勢の人を前に話す際には必須であると思っている。 「話術の大家」と言われる大先生の講演を聞いたことがある。笑いあり、しんみりさせる話あり、それでいて大先生からのメッセージは聞き手の胸にずしんと響く。至福の時間はあっという間に過ぎていった。 大先生と同じような経験をした人はたくさんいるだろうが、それを感動的に人に伝えられる人は多くはない。「話がうまい」とまとめてしまっては簡単すぎる。「聞き手を喜ばそう」とする心配りとそのための技術が備わったときに初めてこれが可能になる。 冒頭の講演会に戻る。講師の先生は我々に対し、研究成果を一生懸命説明してくださった。しかし、その内容が我々の実態からかけ離れたものだったため、関心が持てた人は極めて少なかったし、この話を聞く必然性を感じていない僕にとっては中身の濃い話も文字通りの「馬耳東風」であった。せめて我々がおもしろがるだろう事柄を一つか二つでも織りこんでくれればまた違った2時間になったと思う。 こうやって人のことを批判したが、授業や集会での僕の話にも同じことが当てはまるかもしれない。聞き手、つまり生徒を喜ばせる話術は我々にとっても「必須」である(と思う)。
2008.08.21
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仕事の休憩中に、懇意にしているラグビーショップの方から電話があった。「常総学院高の石塚さんが…」。一瞬耳を疑った。先月末、横浜でお会いしたばかりだったからだ。 僕がラグビーに興味を持ち始めたころのジャパンのキャプテンが石塚さんだった。また、初めて秩父宮でオフィシャルの仕事をしたのは早稲田対帝京の試合だったが、そのときの早稲田の監督が石塚さんだった。3月には、宇都宮高校のラグビー部を連れて常総にお邪魔して一緒に練習をさせていただいた。本当にお世話になった。 心からご冥福をお祈りします。
2009.08.06
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