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ようやく春。暖かな日差しが降り注いでいます。明日は「春の高校伊那駅伝」が行われるということで、全国から集まった高校生ランナーが街中を走ったり、トレーニングをしています。アルプスはまだ残雪で真っ白ですが、選手も応援の父母等も早春の美しい景色を楽しむことができるでしょう。と、駅伝とはまったく関係ないひとつの詩といってもいい文章が目にとまりましたので紹介しましょう。作者は、秋谷豊さんという方です。 京都山岳会登山隊の白水ミツ子隊員が、第一キャンプからベースキャンプヘ下山中、ボゴダ氷河のヒドン・クレバスに転落、死亡したのは、1981年6月10日のことであった。 もちろん、この日、死亡がはっきりと確認されたわけではなく、救出が困難なままに、氷河の中に見捨てざるを得なかったのである。白水隊員は救出の断念を自ら望んだが、暗黒の氷の割れ目の中で、一条の生の先に望みを託しながら最後まで死とたたかっていたとすれば、その死亡日付はあるいは半日か一日、変更されることとなるわけである。 記録―6月10日午前11時20分、ボゴダ峰第一キャンプから30分ほど下ったアイスフォール帯直下の広い雪原状の氷河上で白水隊員はクレバスに転落した。 直ちに第一キャンプに緊急連絡され、第ニキャンプからかけつけた救助隊員が現場に到着したのは13時10分。彼女の生存は確認された。宮川隊員がクレバスヘの下降を試みる。 入口は80センチくらいの人間がやっとひとりくぐれるくらいの氷の割れ目だが、中に入るにしたがってさらに狭くなり、上から4メートルのところで少し屈曲して幅は50センチくらい。そこで下の方にひっかかっているザックが見えた。しかしそこからはさらに狭くなり、靴を真っすぐにしては入れず、アイゼンの爪が効かない。ザイルにぶらさがったままの状態で、少しずつ降ろしてもらい、ようやくザックに達する。「大丈夫かあ」期待をこめてザックに手をかけるが、その下に白水さんはいない。声をかけると、応答はあった。が、まだはるか下の方である。 そこからは氷の壁はまた少し屈曲し、真っ暗で、さらに狭くてそれ以上は下降できない。やむなくザイルの端にカラビナとヘッドランプをつけて降ろす。10メートル(上からは20メートル)降ろしたところで彼女に達したようだが、彼女自身どうにもザイルをつかまえることが出来ないのか、ザイルはかすかな手ごたえを感じるが、そのまま空しく上がってくる。 そういう作業を何度も「しっかりしろ」と大声で彼女に呼びかけながらやっている時に、 「宮川さあーん、私ここで死ぬからあー」 「宮川さあーん、奥さんも子供もいるからー、あぶないからあー、もういいよぉー」 という声。かなり弱った声だったが、叫ぶような声だった。彼女自身でもう駄目と判断してのことだろう。 まったくやり切れない気持ちだった。声が聞こえてくるのに助けられない。くやしさが全身を貫く。 16時、彼女の声はまったく聞こえなくなった。カメラ助手の新谷隊員、そして当日頂上アタックした山田、大野両隊員もクレバスに降りた。しかし誰も宮川隊員が降りた位置より下には行けず、21時ついに救助作業を打ち切った。(京都山岳会隊・宮川清明隊員の手記) 白水さんは二十九歳、独身だった。クレバスに落ちた瞬間、加速度のついた肉体は、通常なら途中で止まったかも知れない裂け目をもすり抜けて、滑り落ちて行ったのでしょう。同じ様には下降できない救助隊員が、それでも行ける所まで行き、やむ無く降ろしたザイルの先のヘッドランプ、その光は白水さんの目に映ったでしょうか。ザイルの先にちょっとでも触れることが出来たのでしょうか。想像の中で自分をクレバスの底の方に置き、もし落ちたのが自分だったら、その状況に置かれたら、と考えます。自分はもう死ぬ外ない、ここで死ぬ、と決めた時、ひとことの泣き言も漏らさずに、相手の立場をいたわり「もういいよ」と、最後に言えるだろうか。お前には言えるか?この文はそのことを繰り返し問いかけてきます。
2008.03.22
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萩本とみゆきの間は音信不通のまま約4年ほどが過ぎた。それぞれ別の人生を歩み、ふたりの関係は完全に過去のものとなったかに見えた。テレビをつければ、コント55号の活躍が目に入る。萩本とスチュワーデスの結婚のうわさも週刊誌には書かれている。納得して別れたつもりであった。しかし、みゆきは萩本の華やかな活躍や、追い打ちをかけるような噂にこらえ切れずに、勤め先では自棄に浸るかのように酒を飲んでいた。憔悴しきっているようなみゆきの姿を見かねた古くからの共通の知人が、思いあまって萩本に連絡した。萩本も自分から別れを切りだしたのだが、みゆきが消えてしまってからは、どうしているのか心配する気持ちをずっと引きずっていたのだという。意を決して萩本はみゆきに会いに行った。自分をいつも励ましつづけてくれた彼女のあまりにもみじめな生活に、なんとか援助してあげたいと思った。そして、このときから少しずつまたふたりの交際がはじまったようである。萩本はみゆきに金を渡し、少しでも恩返しをしてゆきたいと考えたようである。だが、単に金を渡すだけでは、かつて援助してもらったことに対して、金でカタをつけるように受け取られかねない。彼女が自分を支えてくれていた頃の気持ちを、金で汚してしまうような失礼な行為になりはしないかと悩んだようである。みゆきのほうも萩本の温かい気持ちを理解し、素直に受け取りたいとは思っても金を受け取ると手切れ金を受け取るようで、ためらったのであろう。そこで萩本は、ひと月に一度、会いに行って生活に必要なぶんくらいを黙って置いてくるということをつづけていたようだ。みゆきは湘南地方のアパートの小さな一室に住み、花を飾ってこころ穏やかな生活に戻っていった。萩本は芸能界での忙しく身も心もすり切れるような仕事に疲れ果て、くじけそうになると人目を忍んではみゆきのもとへ通ったという。萩本はみゆきのもとでは、あらためてやさしさに包まれ、母のふところに戻ったかのような懐かしさを覚えるのだった。華やかな芸能界のなかではけして得ることのできなかった心からの安らぎ、癒されるひとときをみつけることができた。そんなある日、萩本はみゆきにこう尋ねた。「君を幸せにしてあげたい。どうしたら幸せになれる?」みゆきは冗談のように答えた。「それならあなたの子供が欲しい、それだけでわたしは幸せよ」それで萩本は覚悟を決めた。もし子供ができたら、神様からみゆきと結婚しろと命じられたことだろう、と考えた。そして、愛し合ったふたりに希望どおりに子供ができた。そして、この翌年、萩本はひとりで電撃的な結婚発表をした。その様子はテレビや週刊誌で大きく報じられた。萩本欽一35歳、高峰みゆき37歳であった。「すみません、ボク、もう結婚しています。子供もいて、今7ヵ月です。浅草で13年前に知り合い、ボクをずっと支えてきてくれた年上の女性です。子供があまりかわいくて、一緒に外に連れて歩きたくてしかたないんです。それで発表させていただくことにしました。彼女には婚姻届けを送ってあるんですが、それを役所に届けてくれたかどうかは、まだ知りません。この発表のことも知らせていませんから、聞いたらきっと驚くと思います。彼女は普通の人になっていますから、取材は僕だけにしてください、お願いします」テレビには、照れて上がりまくって、真っ赤な顔をくしやくしゃにした萩本欽一の顔が映し出されていた。それを見た視聴者も、マスコミ関係者もこれをゴシップとして萩本の足をひっぱろうという人は誰ひとりいなかったことだろう。テレビを見て思わずもらい泣きしたという人もいた。みんな心から萩本欽一を祝福し声援を送った。ヒモだろうか、有名人だろうが、自分のために尽くしてくれた女を幸せにしてやる。これこそが、男である。萩本欽一は、ホンモノの男であった。良かったらクリックをこれは老人の話に、当時のテレビや雑誌で読んだ記憶と、僕が推測を加えて創作したものです。したがって、かならずしも事実をつなげてあるわけではありません。駆け出しコメディアンとストリッパーだった女性が、初恋をそのまま成就させるような純愛があったということを知って貰いたかったわけです。
2010.02.12
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