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2012.08.01
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カテゴリ: 日替わり日記
ひやし中華、大好き

なかなかブログの更新ができずにいる。
忙しいというのは言いわけにしかならないのだが、事実うんざりするほど様々な問題と直面している。それのひとつひとつは紹介できれば、皆さんにとっても興味深く面白いとは思うのだが、プライバシーの問題があって、直接は書けない。
たとえば、すぐ近くに住む独身女性が筋の良くない男に入れあげて…。などというような話題はまだおとなしいほうで、毎日のように身体をはって人生相談のただなかをくぐりぬけているような状況なのです、しばらくあしからず。

しばらく前に書いたブログ「日本人とは?」について傾聴すべき意見を寄せてくれた木村洋さんから、今回も「日本人」たる我々と米国的外国人との文化的思考の違いを看破する意見を頂いた。
前回も紹介したが、木村さんは元世界銀行スタッフで、今は主にワシントン郊外で暮らしている。海外で生活したことから、卓見をもつ人は少なからずいるが、木村さんのようにみごとに客観分析できている人は少ないように思う。
引用つづきで心苦しいが、皆さんにもお役にたつと思うので紹介したい。


事柄と人柄の混同

シカゴの病院を舞台に救急病棟の医師や看護師たちの毎日の格闘振りを描いたアメリカのテレビ映画 「ER」 シリーズは、最近では日本でも人気を博しているらしいが、あれの日本語版の字幕を見ていると、対話の仕方をめぐるアメリカと日本の文化の違いをはっきりと感じることが出来る。

まず登場人物相互間のコミュニケーションが、日本的感覚からすると驚くほど短刀直入で、乱暴に聞こえる。あそこに出てくる人達は、実際にはとても暖かい心の持ち主が多いのだが、ああいう表現方法に慣れない日本人には、あらゆる場面で人々が噛みつきあっているように見え、個性と個性がぶつかりあって火花を飛ばし、実に恐ろしい場所だという印象を与える。 次々に運び込まれてくる患者の命を救うためには、正に一刻一秒を争う修羅場の連続であるから、関係者の物の言いようも当然飾り気のないものにならざるを得ないのだが、そうした修羅場が一段落して、みんながほっとする一瞬ですら、驚くほど厳しい言葉のやり取りが続く。

例えばあるコーヒータイムに、以前若い男の医師が犯したちょっとしたミスが話題になった時、チームリーダーの女医が彼に対し、いたわりの言葉をかけるどころか、逆に冷たく “You don’t consult your colleagues.” と言うシーンがあった。 直訳すればさしずめ 「同僚の意見を聞かないからああいうことになるのよ」 とでも言うところだろうが、何とそこの日本語の字幕は 「貴方は個人主義者なのよ」 となっていた。

字幕は一瞬にしてその場の状況を観客に伝えねばならないから、訳本として正確であるよりも、とにかく短かくて、印象的で、観客に最も的確にその場の状況を伝えるものであることが求められるのだが、その意味で「貴方は個人主義者なのよ」 という表現は、極めて効果的な翻訳と思われた。 こう訳すことで日本人にこの女医の言葉の批判的な響きが効果的に伝わるのは、日本社会では 「個人主義者」 という言葉が往々にして 「利己主義者」 「嫌われ者」 「仲間外れ」・・・といった含みを持って使われるからであって、翻訳者はその日本的心情に訴えることで、この女医の言葉の批判的響きをうまく伝えることに成功した。

然しこの言葉に対して同様の否定的感覚を持っていないアメリカ人に対して、「貴方は個人主義者なのよ」 と言ってみても、あの場の雰囲気はよく伝わらなかっただろう。 而も(アメリカ的感覚からすれば)あの時の女医は、文字通りその若い医者が、ちょっと同僚の意見を聞きさえすればミスをしないで済んだのだという、その 「事実」 だけを取り上げて、「次回からはもっと同僚に相談しろ」 と言っているに過ぎないし、言われた本人もその言い方の冷たいトーンには全く動じないで、その内容だけを額面通り受け取っていて、別に自分が 「貴方は性格がいじけていて、人の意見を聞くだけの謙虚さがないから、いつも問題を起す、駄目な人間なのよ」 と言われたなどとは、ゆめ思っていない。

ここに単なる表面上の翻訳の違いだけではなく、二つの言葉の背景をなす 「文化」 の違いがはっきりと出ているように思う。つまり同じ事実を伝えるのにも、あからさまにその事実だけを、本人に正面からぶつけて、その点だけを変えろと迫る文化と、それをその人の日頃からの考え方や態度、個人主義者云々といった人柄の問題に置き換えて提示し、全人格的な対策を求めようとする文化との違いである。

山崎豊子の小説 「白い巨塔」 に描かれた程どろどろしたものではないにしろ、今でも 教授、助教授、助手、インターン、看護師、などの間に厳然たる身分の差が残っている日本の病院を見慣れている人々にとって、映画 ERで数分おきに起るように、地位や立場に全く無関係に、全員が平等にどなりあうようなシーンは、正に異国の情景という他はない。 またどんなに本気で怒っていても、彼等は常に個々の 「出来事」 を問題にしているだけで、決してその人の 「人格」 を非難しているのではないことも、日本人には中々分りにくい。

これは何も病院に限ったことではなく、例えば国際機関などでも、そこへ入ろうとする日本人のために、日本人の上司や教官が書いた推薦状には、その人がいかにいい性格の持ち主であるかが、繰返し強調されていることが多いが、採用する側からすると、そんなことより、その人にどんな能力・経験があって、具体的に何が出来るかの方が問題なのであって、それが書かれていないということは、性格がいいことぐらいしか取り柄がないのか、という風に、まるで逆に解釈されてしまう。 全人格的評価で人を動かす日本式のやり方が、個別の能力で勝負するアメリカの社会に通用しない、典型的な例といえる。

申込書を出す本人自身の態度にも、同様の差があって、日本人の場合には、「もし入れて頂けるなら、刻苦勉励勤務にはげみ、必ずやご期待に沿える様頑張ります」 ということが書かれているのに対し、アメリカ人の場合には 「私を採用しなければ貴方の組織は必ず損します」 みたいなことが書かれていて、初めから比較のしようがない。

こういう組織で日本人職員に注意を与える際にも、他の国の人々に対する場合とは違った慎重さが必要とされる。 というのは、こちらはそこにある事実だけを問題にしている積りでも、聞く側は自分の全人格を否定されたかの如く感じていることが多いからだ。 「そのやり方ではだめだ」 と言っているのが、日本人には往々にして 「貴方はだめな人間だ」 と言われているように聞こえる。 「もっと具体的な対策を出してくれ」 と言っているのが、日本人には 「貴方はいつも詰めが甘くていい加減な人だ」 という風に響く。

これは一つには、日本の文化が 「減点主義」 であって、完璧に出来て当たり前、それ以外は全てマイナスと
考える傾向があるからではなかろうか。オリンピックなどでも、緊張感で硬直しているのは日本人ばかりで、外国人は実にのびのびとプレーをし、楽しそうに見える。 競技に失敗した時でも、日本人はテレビカメラに向って深々と頭を下げ、国許へ泣いてあやまるのに対し、外国人は 「じゃ、またね・・・」 という感じだ。

仕事のストレスから神経衰弱になり、入院を余儀なくされても、外国人はけろっとしていて、退院すればまたすぐ次の日からオフィスへ来るし、周囲も何も取り沙汰することはない。 どうしたのと聞いても本人自身が、 「いやーちょっとブレイク・ダウンしてた」 などと答えて平然としている。 ところが日本人となるとそうはいかず、精神科へ入院した場合はもとより、心療内科にかかったり、カウンセリングを受けたことが知れただけでも、まるで精神異常をきたしたかの如く思われて、社会から隔離される。

目の前の事実を事実としてのみ問題にする習慣があれば、こうした 「事柄と人柄のすり替え」 は起らない筈なのに、日本ではそれが起るのは、その背後に横並びを正常とし、異端を抹殺する文化があるからだろう。 そうした 「横並び文化」 の下では、人々は常に何となく社会から監視されているように感じていて、一定の 「期待されたビヘビア-」 に従って行動しようとする。 そうした処方箋を外れた行動をすればすぐ目につくし、それにはどんな事情があろうと、先ずその人が悪いという想定がなされる。 事柄の如何に関わらず、常にそれを人柄の問題として捉える癖がついている人々が、ERに出てくるような人間関係を見ると、単なる事実をめぐる意見のぶつけ合いにすぎないものが、あたかもその人の全人格を否定しあう闘いのように見えて、とても恐ろしい気がするのだ。

アメリカへ来たばかりの日本人の多くは、職場でちょっとした問題があってもすぐ差別されたと感じるらしいが、これも本当の意味の差別というより、上記のような意味での 「文化の違い」 であることが多い。 現にそういう不満を訴える日本人がいた時、相手方のアメリカ人を呼んで話を聞いてみると、二人の間の問題の把握の仕方が全く異なっていたことが明らかになるだけでなく、差別などとはそのアメリカ人にとっは最も意図しなかったことであって、今度は彼の方が本気で怒りだすことも少なくない。

日本的な 「事柄と人柄の混同」 は、一見人間性を重視した総合的アプローチのように見えながら、実際にはこのように眼前の問題をそのままの形で捉えて処理することを妨げるばかりでなく、不必要に事態を複雑化し、人間関係を悪くする恐れがある。 ERの登場人物達があれほど激しく怒鳴りあいながら、その場その場の事態が終ると、またけろっとして親しい同僚であり続けられるのは、彼等がとりわけ鈍感だからでも、悪者だからでもなく、単に眼前の事実だけをありのままに捉え、それだけを最も直接的に解決する癖がついているからにすぎない。 その場その場でいくら激しく言い争っても、それは患者に最適な医療を施すという共通の目的に向ってみんなが 「同格で」 意見を出し合っているからに過ぎず、そうした身分を越えた 「発言の機会均等」 の重要さを、みんなが了解しているから、あんなに激しくやり合っても、あとには何のしこりも残らないのだ。

こちらがそれを知って付き合う時のアメリカ人の気持には、驚くことに、日本人相互間の、穏やかで思いやり豊かな人間関係と殆ど変わることがない暖かさが秘められていることが多い。 アメリカ人の荒削りな外見の裏に、我々がしばしば日本人独自のものと錯覚しているような、暖かい実質があることは、長く住んでみないと中々分らないが、思い切ってそういうものだと自分に言い聞かせて接してみると、意外に嬉しい経験をすることも、まれではないのである。

(木村 洋)






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Last updated  2012.08.01 23:10:19
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Re:木村洋氏の卓見…(08/01)  
friendly0205  さん
「罪を憎んで人を憎まず」ならぬ「ミスを憎んで人を貶めず」ですよね。
私もつい仕事などでミスを指摘されると全人格を否定されてるように感じてしまうのですが、ミスしないように改めればいいのですよね。でも、相手もそう言ってる様な感じがするのですが、それはやはり日本人同士だからでしょうか。 (2012.08.01 23:50:33)

Re[1]:木村洋氏の卓見…(08/01)  
msk222  さん
friendly0205さん
>「罪を憎んで人を憎まず」ならぬ「ミスを憎んで人を貶めず」ですよね。
そう、そんな感じですが、寛容と言うより最初から人としてどうのという判断ではなく、目の前の物事だけを議論するという習慣でしょうか。
>私もつい仕事などでミスを指摘されると全人格を否定されてるように感じてしまうのですが、ミスしないように改めればいいのですよね。でも、相手もそう言ってる様な感じがするのですが、それはやはり日本人同士だからでしょうか。
-----
日本人同士の場合、人格も含めて仕事を判断する癖がある。
だから、そういう前提で発言したり、聞いたりしてしまうということなんですね。
それがすべてダメとはいえなくも、仕事の遂行ということになると合理性に欠けるということですね。
(2012.08.02 09:49:29)

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