愉しみなこと
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「はつくにしらす」が二人いる 記紀を読んでいて、どうにも腑に落ちない箇所がある。神武天皇は、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ばれる。初めて国を治めた天皇、という意味だ。ところが十代・崇神天皇もまた、御肇国天皇と書いて、同じくはつくにしらすすめらみことと呼ばれる。初代が二人いるのである。この矛盾は、出雲口伝とは無関係に、近代以降の歴史学が繰り返し指摘してきた。通説の処理は「崇神が実在の初代であり、神武はその投影にすぎない」というものだ。だが本書の立場からは、別の答えが見えてくる。建国が実際に二度あったのだ。村雲による磯城王朝の成立と、崇神による新王朝の成立。二つの実在する「初代」がいたからこそ、称号が二つ残った。そしてこの視点から神武東征の物語を眺め直すと、さらに奇妙なことに気づく。 噛み合わない二つの層 神武東征の物語を要素に分解すると、性格のまるで異なる二つの層が姿を現す。一つは軍事の層である。日向を発ち、瀬戸内海を東へ進み、浪速で敗れ、紀伊半島を迂回して熊野から大和に入り、長髄彦と戦って制圧する。西から東への、明白な軍事行動だ。もう一つは婚姻と祭祀の層である。大和平定の後、神武は媛蹈鞴五十鈴媛を皇后に迎える。日本書紀では事代主の娘、古事記では大物主の娘とされる女性だ。そして三輪山の大物主を祀る。この二つは噛み合わない。征服して終わりなら、被征服者の姫を正妃に迎える必要はない。奪った土地に、なぜ相手方の神を祀るのか。武力で決着がついたのなら、祭祀による正統化はむしろ不要なはずである。二重露光の写真を思い浮かべてほしい。一枚の印画紙に二つの像が焼き付けられ、輪郭が二重に見えている。神武東征の物語は、そういう写真ではないか。——と、ここまでは二枚重ねの話である。だが後に見るように、重なっていたのは二枚ではなかった。 出雲口伝が分けて持っていたもの この見方は、実は出雲口伝の伝えるところと符合する。出雲口伝によれば、初代大王・天村雲は丹波から大和へ移住し、そこで事代主の娘・五十鈴姫と結ばれた。記紀の媛蹈鞴五十鈴媛である。婚姻と祭祀の層は、この村雲の物語に由来する。一方、九州の物部勢力による東征は、別個の出来事として伝えられている。二世紀末頃、九州勢力の指導者はナギサタケ王の御子であるイツセ(五瀬)であり、彼は弟の三毛野・稲飯と協議して東進を決めた、という。ここで記紀を開いてみる。神武の父は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ヒコナギサタケウガヤフキアエズ)。兄弟は五瀬命・稲飯命・三毛入野命。父の名も、兄弟三人の名も、そのまま一致する。経路も対応している。物部軍は瀬戸内海を通れば吉備のフトニ王(孝霊天皇)の迎撃を受ける危険があったため、九州南部から四国の太平洋側を回って近畿を目指した。記紀が語る熊野迂回である。つまり記紀の神武東征とは、村雲の移住と物部の東征という二つの別々の出来事を、一人の初代天皇の物語に合成したものではないか。骨格は物部の東征から、着地点は村雲の婚姻と祭祀から採られている。そう読めば、噛み合わなかった二つの層が説明できる。 日向という二重の看板 この仮説には、一つ厄介な点が残っていた。日向という出発地が、どちらの勢力とも一致しないことである。村雲の出発点は丹波だ。物部の基盤は筑後川流域であって、南九州の日向ではない。合成説を採っても、日向は宙に浮いたままになる。だが、この地名を地名としてではなく、言葉として眺め直すと、様子が変わってくる。 「日向(ひむかひ)」は、古代において地名である前に普通名詞だった。日のさす方へ向かうこと、という意味である。万葉集にも「日向に行き闕くる靡く」という用例があり、方角ないし向きを表す語として使われている。その背景には太陽信仰がある。古事記の雄略記には、若日下王が「日に背きていでますこと、いと恐し」と語る場面がある。太陽に背を向けて進むのは恐れ多い、という観念が実在したのだ。日向とは、この信仰を体現する言葉だった。さらに「東」もまた、古くは「ひむかし」と読み、「日向かし」が語源とされる(諸説あり、『古事記伝』は末尾の「し」を風の意と見る)。日向と東は、同じ根から出た言葉なのである。とすれば、「日向を発って東へ向かう」という物語は、語義に戻した瞬間に奇妙な文になる。日に向かう地を発って、日に向かう方へ行く——出発点と目的地が、同じ言葉で名指されているのだ。地名として読むから通るのであって、意味に立ち返れば、この文は自転を始める。 ここで、もう一つの層の存在に気づかされる。日本書紀の天孫降臨の場面で、その地はこう描写される。朝日の直刺す国、夕日の日照る国である、と。これは地理の説明ではない。太陽との位置関係の説明である。天孫すなわち日の神の子孫が降り立つ地は、太陽に向かう地でなければならなかった。神話の内的な要請から選ばれた名なのだ。そして記紀は、この神話の着地点を、そのまま歴史の物語の出発点に流用した。つまり継ぎ目は、二つではなく三つある。天孫降臨から日向という出発地を、物部東征から軍事の経路を、村雲から婚姻と三輪山祭祀を。三つの異なる由来を持つ部品が、一人の初代天皇の一代記として組み上げられている。先に二重露光と呼んだが、正確には三枚が重なっていたのである。 そう考えると、日向が選ばれた理由も見えてくる。この語の便利さは、地名としても方角としても読めることにある。読者が地名として読めば、九州の実在の土地から東征が始まったことになる。語義として読めば、太陽に向かう聖なる地から天孫が降ったことになる。どちらの読みも成立し、どちらも記紀にとって都合がよい。日向は、実在の権力から遠いから選ばれたのではない。二重に機能させるために選ばれたのだ。遠くから見るのと近くから見るのとで違う文字が浮かぶ看板のように、この地名は二つの物語を同時に支えている。なお、日向国そのものは実在する。『日本書紀』推古二十年条に「譬武伽(ひむか)」という表記が見え、七世紀には地名として確立していた。だから日向がまったくの創作だとは言えない。言えるのは、実在する数多の地名のうち、なぜよりによって日向が選ばれたのか——その問いへの答えとして、この語義があまりに都合よく整っている、ということである。 祭祀に敗れた物部 もう一つ、出雲口伝は興味深い後日談を伝えている。この第一次物部東征は、失敗に終わったというのだ。物部勢力には巫女がいなかった。三輪山祭祀の姫巫女は広い地域の人々の尊敬を集めており、巫女を持たない物部は大和の民衆に支持されなかった。彼らは星の神カカセオを祀ったが、人気を得られなかったという。結果、物部勢力は磯城王朝に飲み込まれ、九州へ帰る者も多かった。武力では勝てても、祭祀を握れなければ大和は治められなかったのである。村雲が三輪山を選んだ判断の正しさが、二世紀後に、負けた側から証明されたことになる。本書が繰り返し述べてきた「出雲の祭祀を大和に移植する」という一手の重みは、ここに現れている。 残された課題 最後に、この仮説がまだ抱えている問題を正直に記しておきたい。第一に、年代の開きである。村雲を紀元前一世紀頃、物部第一次東征を二世紀末とすれば、両者は約三百年離れている。記紀はこれを一人の天皇の一代に畳み込んだことになる。なぜそれが可能だったのか——記述が極端に乏しい「欠史八代」の存在と、あるいは関わるのかもしれない。第二に、東征の経路に丹波の痕跡が一切ないことである。合成であれば村雲側の経路も何か残りそうなものだが、物語は瀬戸内一色だ。ただしこれは、経路を物部側から、結末を村雲側から採ったと考えれば整合する。そして最後に一つ、本書が先に述べた見立てを訂正しておかねばならない。長髄彦は、古事記において登美能那賀須泥毘古、あるいは登美毘古と呼ばれる。この「登美」は、東出雲王家である富家(登美家)に連なる名である。とすれば長髄彦自身が出雲系だった可能性が高い。物部が大和で戦った相手もまた、出雲系だったのだ。国譲りの構図は、渡来系と在地系の対決という単純な図式では捉えきれない。
Aug 1, 2026
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