牧師の一人遊び

牧師の一人遊び

PR

プロフィール

Preacher

Preacher

コメント新着

式神自然数@ Re:聞きなれない言葉。ネガティブ・ケイパビリティをめぐって。(12/14) 時間軸の数直線(『幻のマスキングテープ…
心はすべて数学である@ Re:聞きなれない言葉。ネガティブ・ケイパビリティをめぐって。(12/14) 時間軸の数直線は、『かおすのくにのかた…
絵本のまち有田川@ 自然数  自然数は、[絵本]「もろはのつるぎ」…
あこーすてぃっくぴあの @ Re:『暁の円卓』(02/15) レベッカがさらわれたのがショックすぎて…
esuteru5407 @ Re:政府はかならず嘘をつく(01/30) 嘘つきですよね。 わたしなぜか今日眠れま…

カレンダー

Aug 7, 2011
XML
カテゴリ: 平和
2011年6月16日に、松本平タウン情報に掲載された文面です。宗教者の独りよがりでしかないかもしれませんが。

http://flat.kahoku.co.jp/u/flat05/aITXFP6RC7qodGZsBc3b

意味ある「なぜ」(第38回・2011年6月16日号)

 「もし神がいるのならば、なぜこのようなことが起こるのか、この出来事にどんな意味があるのか」と問う人が多いと思う。「人間は意味のない苦しみには耐えられない」(V・E・フランクル)のであり、苦しみの中に意味を求めるのは自然なことだ。

 震災後、弟のいる岩手県釜石市や縁のある同県沿岸に行ってみた。懐かしい風景が破壊されているのを目にし、愛する人を失った方の話に耳を傾けた。「なぜ、この場所でこの人々に対してこんな出来事が起きたのか」と、問わざるを得なかった。しかし、絶望的な中でも神がいないと考えることはできなかった。むしろ、そうした時ほど神を求め、祈らざるを得なかった。


 私の弟が牧師をしている新生釜石教会は、「今こそ祈りの時」と掲示し、いつも「心を騒がせるな。神を信じなさい」という歌で礼拝を始めていた。神がいないとなれば祈ることはむなしくなり、人の考えを超えた希望はますます見いだすことはできないだろう。

人の業を超えた力を信じるならば、どんなに現実が悲惨で絶望的であろうとも、生かされていることと出会いは感謝と喜びの源泉となる。苦しみや悲しみにある人の中に、苦しみを共にする神の姿を見いだすことができる。

「なぜ」という問い自体が、決して無意味ではないと考える。真摯(しんし)に問う「なぜ」は、信仰の対象を深め、自分を変え、世界を変えるものになるからである。
(松本市の日本キリスト教団松本教会牧師・柳谷知之さん)


 中信地方(松本市、安曇野市、塩尻市、大町市、木曽郡、北安曇郡)と呼ばれる長野県西部地域をエリアにした地域紙で信濃毎日新聞朝刊に折り込まれる形で週3回発行しています。タブロイド版で通常は16ページで、発行部数は11万部余。
http://www.townjoho.co.jp/

【畠山から】
 ここ数年「そもそも」ということを、私はよく考えていました。それが「なぜ」という言葉を使うとするならば、今回の震災は誰に問いかけたらいいのだろうと思いました。神に対しての問いかけも大切ですし、内なる自分に対しても等しく大切だと感じています。



字数に限りがあり、だいぶカットされましたが、カットされない元の原稿は以下のとおりでした。

信仰を持つものとして、この大震災を考える。
柳谷知之(日本キリスト教団松本教会牧師)
 いわゆる「不幸」と思われるような出来事が身近に生じたとき、ある人々は何かの警告や罰として受けとめていることがあるに違いない。それは苦しみに対して意味を求めているからだとも言える。特に今回の東日本大震災における地震・津波・原子力発電所による惨事を前に、もし神がいるのならば何故このようなことが起こるのだろうか、この出来事にどんな意味があるのかと問う人が多いのではないだろうか。「なぜ子供も、こんなに悲しい思いをしないといけないのですか」という少女の質問に対するローマ法王の答えは、「私も同じように自問しており、答えは見つからないかもしれない。イエスも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる」というものだった。V.フランクルは、人間は意味のない苦しみには耐えられない、と述べているが、ここに苦しみの中に意味を求める人間の姿を見ることができる。
 一方、この震災の後、わたしたちの教会が使っている讃美歌のあるものに次のような歌詞がある。「大地震も、嵐も、稲光も、 創られた方に 助けを求める」(『讃美歌21』425番)。ここには、神に創られたものが助けを求める姿として、大地震や嵐が語られている。例えば、ある人間が無差別殺人事件を起こしたとしても、それが神の業ではないことは明らかであるように、大地震も津波も神が引き起こしたものではなく、創られた物としての地球・大地・海原の営みの一つなのだと考えられるのではないか。ただ、神が全知全能だとすると、なぜその事件を知りながら阻止できないのか、という疑問が生じる。そこで、わたしは、神は被造物の行動や出来事を強制的に阻止することはしないと考えている。人間がある出来事に対して責任的に応答することを求めているからだと思っている。神は人に促しや選択肢を与えることをするに違いないが、最後は人間の意志により応答することを求めていると考えているのだ。
 この震災後に弟の暮らす釜石や縁のある岩手県沿岸に行ってみた。懐かしい風景が破壊され、愛する人を失った方の話に耳を傾けたり、破壊された人々の生活を前に言葉を失うと同時に「なぜ、この場所にこの人に対してこんな出来事が起きたのか」と問わざるを得なかった。しかし、その絶望的な環境の中でも、わたしには神がいないと考えることはできなかった。むしろ、そうしたときほど神を求め、祈らざるを得なかった。私の弟が牧師をしている新生釜石教会には「今こそ祈りの時」と掲示してあったし、礼拝ではいつも「心を騒がせるな。神を信じなさい」という歌で始まっていた。神がいないとなれば祈ることはむなしくなり心の落ち着きどころは失われ、人の考えを越えた希望は意味を持たなくなるのではないか。むしろ人の業を超えた力を信じるならば、どんなに現実が悲惨で絶望的であろうとも、生かされていることと出会いは感謝と喜びの源泉となり、苦しみや悲しみにある人の中に、苦しみを共にする神の姿を見出すのである。








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  Aug 7, 2011 04:43:43 PM
コメント(1) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: