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2011年3月11日金曜日の午後、私は松本教会で教会員と話をしていました。集会室のパーティションが大きく揺れ、長時間にわたる大きな揺れを三回感じました。"すごい地震だな!新潟かどこかが震源なのだろうか?"と思いました。連れ合いが「東北のほうがすごいことになっているよ。津波があるみたいだよ!」と叫んできました。私は岩手県大船渡市で小学生から高校まで暮らし、大学も仙台で過ごしました。何度も東北での地震や津波注意報を経験しましたので、「津波なんてたいしたことないんじゃない」と愚かにも答えてしまいました。しかし、経験したことのないようなことが起きていました。ニュースでは、仙台空港や陸前高田の映像が頻繁に流れていました。大船渡や仙台の友人たちも心配でしたが、一番気になったのは、釜石の教会で牧師をしている弟のことでした。釜石のニュースがあまりない中でも、津波が街を襲ったことを知りました。釜石の教会は、海からの直線距離で五~六百メートルでしたので、津波の被害は間違いないと思いましたが、教会の裏手の高台に逃れてくれれば、と願いました。確認する術はなく、インターネットで消息情報を探したり、消息を求めていることを掲示板に載せたりしました。弟の消息を求める彼の友人たちからも電話やメールが寄せられました。大槌町や気仙沼での火事や福島第一原発の恐ろしい事故が報道され、日曜日の礼拝準備もほとんど手につきませんでした。東北地方一帯の大停電のため、山形にいた両親はじめ妹弟との連絡も途絶えていました。釜石の弟家族の誰かは、命を失っていてもおかしくはない、と変な覚悟もしました。12日土曜日の夜、岩手県内陸北部に住むもう一人の弟から、電話がきました。釜石の弟の無事が分かりました。自分にとっては長い一日半でした。連絡をくれた弟は高校教師ですが、就職説明会が新日鉄釜石であったとのこと。説明会途中で地震に遭い、車を捨てて高台に逃れたところ、偶然にも釜石の弟と出会い、夜、ヒッチハイクのようにして自宅に戻ったとのことでした。電話を受けて涙があふれました。その後3月の終わりから3回、釜石に救援物資を運んだり、ボランティアとして出かけました。
わたしの弟は教会の牧師ですが、「被災地で何が必要か?」との多くの問いに「人と人とのつながり」と答えていました。その教会には「モノよりもつながり、さぎょうよりえがお」という幕が掲げられています。物があっても、人と人とのつながりがなければ、ふさわしいところに配られることはないし、物を介して人と人とのつながりを知ることで、不安から解放され希望を持ちやすくなるからだと思います。ですから「人と人とのつながりを届けるつもりで、物やお金を届けてほしい」と訴えていました。人とのつながりのために教会は、道路際にテントを設置して、人々が休める場を用意します。ボランティアや作業する人が慌ただしく動く中で、必ずホッとする場が求められていると弟は信じたからです。「みんな殺気立っていて疲れちゃいます」と言って休んでいった子連れの母親がいましたし、地域の交流の場となっていました。
一方で、弟は、津波があった日の夜、町が真っ暗になるなかで、"夜空の星がこの上もなく美しかった"と述懐しています。そして、復興が進むにつれ、"あの星のような輝きが失われてはいないか"と問いかけ続けていました。津波があった日の晩、見ず知らずの人たちが寒さに震えてはいたものの、互いに肩を寄せ合いながらわずかな食べ物を分かち合っていたからです。
さらに、原子力発電所事故からも見えてくることがあります。津波前は、中央の経済や生活のために、過疎化する地方に重荷を負わせる構造がありました。ですから、単純に津波前の世界に戻すのではなく、新しい世界や枠組みが求められているのだと感じさせられています。その例として、長野北部地震の被災地の一つ 栄村
や、原子力発電所の事故で政府指定の計画的避難区域となった飯舘村のことに触れます。栄村の地域連携による地域循環型経済や飯舘村の「 までいの力
」といった考え方が、過疎に悩む東北沿岸地域の希望となるように思えます。復興後の世界をイメージすることは、被災地だけの問題ではなく、わたしたちみんなの問題です。
さらに、わたしの弟は、被災者として"時が止まった感覚がある"と言います。復興のスピードが叫ばれる中、時間が止まってしまった心にどう寄り添えるかが問われます。実際に、半年経ってようやく店舗を片付ける気になった商店のオーナーもいました。また、被災者の思いを聞くにしても、被災者には、あの時のことを分かってほしい、という思いと同時に、あれだけの体験をそう簡単に分かってほしくはない、という思いがあるようです。その思いにどれだけ寄り添えるかは、とても難しい課題だと感じています。
釜石ではだんだんと津波の傷あとがなくなっていきます。岸壁に打ち上げられた貨物船も撤去されました。そのことを喜ぶ人がいますし、元どおりを望む人が多くいます。しかし、釜石の教会は、"傷あとをなくそうとするのではなく、傷があっても癒される場所"を目指しています。象徴的に、被害にあったピアノを修復しようとしていますし、壁を張り替える際にも津波の跡が分かるようにするつもりのようです。そのことを『壁のない教会』という象徴的な事として受け止めています。人々の"心の壁、意識の壁、宗教観の壁"を取り除くからです。その壁もなく傷ついた教会堂で、八月終わりにボランティア同士の結婚式が行われました。傷ついたからこそ、人と人とを結び付け、人の心の傷を癒す力も与えられています。弱さが力となり、弱さが絆をつくっているのです。強い立場からの希望ではなく、"弱さにあってなお希望を持つということが、被災地の人びとと共にいる"ということになるのではないか、と考えさせられています。
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