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今回は、前回分「有名進学高校経由・東大卒検事が冤罪の主因は検察にあると(2)。」からスピンオフした話題を取り上げさせていただきます。「広島地検の次席検事」についてです。 つい最近、大きく取り上げられた事件なので、皆様方もご存知かと思いますが、概略は、広島地検公判部に所属する、29歳の任官2年目の検事が、論告内容について次席検事に決裁を願い出た所、次席検事が机を叩いて「お前は司法修習生以下だ」等と怒鳴り上げるパワハラ行為を働いたため、この29歳検事が自殺したというものです。 圧倒的多数の市民だけではありません。自殺した29歳検事と一緒に広島地検で働いていたヤメ検弁護士、それに他の検事仲間、検事OBなど、検察関係者の多くが、パワハラ行為を働いた「広島地検の次席検事」には大きな責任があると言っています。 責任を取って、次席検事は辞職すべきだと言っている人達も少なくありません。 この「広島地検次席検事パワハラ問題」には、論点がいつかあるそうなので、以下に述べたいと思います。 まず、自らも次席検事の経験があるヤメ検弁護士が仰るには、「広島地検の次席検事は、あくまで形式上である畳重決裁の仕組みをよく理解していなかったのではないか?」とのことです。 畳重決裁とは、所属する組織の、直属の上司、その上司の上司という具合に、すべての上司の了解を取り付けることを言うそうです。ただし、検察内部ではこれは形式化しているそうです。 自殺した29歳検事は、まず、直属の上司である公判部長検事に決裁を求め、この上司からは了承されたので、今度は次席検事にお伺いを立てたのだそうです。 ところが、ここで、問題が起こったのでした。 次席検事の経験があるヤメ検弁護士は「ベテラン検事である地検の公判部長が決裁した案件を、普通、次席検事が覆すことなんてあり得ない。自分が次席検事だった時はそのようなことをやったことはないし、他からも聞いたことが無い」と驚かれます。 それで、多くの識者たちは、この広島地検の次席検事には、この29歳検事だけをとことん虐め抜いてやろうという意図があったのではないかと考えています。 論点の2つ目は、自殺した29歳検事が置かれていた広島地検公判部における先輩検事達による業務のサポート体制です。 この29歳検事は、任官後の1年間は東京地裁に勤務して、検察官としての基礎を勉強して、2年目に赴任した職場が広島地検の公判部でした。検事になって丸1年経った程度では、まだまだ未熟です。先輩検事から教えてもらうことが沢山あったはずなのです。 識者と検察関係者の多くは、サポート体制が不完全であり、このことにも次席検事に責任があると考えています。 そして、最後の論点ですが、それは、広島地検の杜撰な労務管理による長時間労働の放置です。 広島地検では、検察官に労働時間を手書きで申告させていたそうです。 この点について、既出のA検事は、少ない労働時間を書かされていた筈だと仰ったそうです。 このような労務管理についても、次席検事に責任があると多くの識者は見ています。 ところで、この29歳検事を自殺に追い込んだ広島地検の次席検事は、29歳検事が自殺する3か月前の9月11日に人事異動で着任しました。 その着任の際の会見で、「県民の皆様が安心安全な暮らしを送れる一助となれるよう、全力を尽くしたい」と言ったそうです。 広島地検の次席検事どの。 自殺した29歳検事にも、その精神で触れ合えば良かったと、今、内心では思っていますよね? ねっ、そうですよね。 自殺から1年以上経って、検察の内部調査も終わって、思惑通り、自殺した29歳検事の個人責任ということで表向き解決して、うまいこと、退職圧力をかわせて、すっかり安心していましたよね。 ところが、今年1月になって、自殺した29歳検事のご両親が公務災害を申請されたので、消えかかっていた貴方のパワハラ問題がまた再燃することになっちゃいましたね。 これは計算外でしたよね。 ねっ、そうですよね。「天網恢恢疎にして漏らさず」ってことですかね。 しかも、これは、先々の「検事正」昇格への大きな障害になると、内心、びびってますよね。 この不安がいつまで続くのか。そこも怖いところですがね。 でもね。 29歳で亡くなった検事とそのご両親の心の内を考えてみて下さい。 そして世論のことも。 今後、この件に由来して貴方が引き受けるであろう、あらゆる不幸の総計は、29歳で亡くなった検事とそのご両親の不幸に比べれば、とても釣り合いが取れない、微々たるものだと多くの人間が考えているんだよ。 かつて、高視聴率ドラマだった「HERO」。 このドラマは、東京地検城西支部刑事部で働く検事たち、それに、彼らを補助する書記官たちが事件解決までに奮闘する人間模様を描いていました。 中でも、木村拓哉さんが演じる久利生公平検事は、ラフなジーパンにダウンジャケットという姿の型破りな設定でした。こんな検事は、現実には検察組織の中には存在しないし、そもそも存在できません。 この久利生検事の最終学歴は中卒。高校を中退後、大検を経て司法試験に合格して、希望通り、検事に任官できたという設定でした。 しかし、久利生検事には、他の検事が誰も叶わない、独特の視点と洞察力がありました。それに、何よりも大切な正義心がとてつもなく旺盛でした。 故児玉清さんは、このドラマの中で、東京地検・次席検事の鍋島利光役を演じられました。 鍋島次席検事は、厳しさと優しさを併せ持つ人で、離れた所から久利生検事を見守る良き理解者でした。 実に味わいのある児玉さんの演技でした。こんな名優を亡くして本当に残念です。 広島地検の次席検事どの。 TSUTAYAに行ったら、「HERO」のDVDがあると思う。借りて視聴することを勧めます。
2021.02.28
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前回分「有名進学高校経由・東大卒検事が冤罪の主因は検察にあると(1)。」の続きです。 A検事(有名進学高校経由・東大卒)は「自分は、そういうことに関わることは1度も無かったが」と、流石、法務省での勤務歴があるエリート検察官らしく、問題のある検事衆とは峻別してくれと言わんばかりの前置きの後、次のことを話されたそうです。「そもそもな。ちょっと前まではな、今のように、新人検事を全員、東京地検に配属させて、仕事の基本を教えるってことは、やってなかったわけだ。以前はな、新人検事は、地方の荒っぽい検事の所に送り込まれ、良からぬ教育を受けていたんだよ」「ずばり言おう。地方の荒っぽい検事連中はな、新人検事に自白調書を捏造することを教えていたんだよ。それにな、連中は、被疑者に人権なんてねえんだよ、怒鳴ったり、脅したりして取り調べていいんだよ、って新人検事に教えていたんだよ。ヤメ検弁護士の市川さんがメディアに暴露したことは、全て、真実なんだよ」 A検事がここまで話すと、同級生の一人が、「何で、地方の荒っぽい検事連中は、ちゃんとした仕事をしないのか?」と訊いたので、またA検事曰く。「基本、連中はヤケッパチなんだよ。いつもイライラしてるんだよ。だから、新人検事に八つ当たりして、気を紛らわすしかないんだよ。もっとも、連中は、仕事を教えてるんだって、もっともらしいことを言うんだけどね。新人検事はな、最初、東京地検に配属されるが、その後、地方に送られる。赴任先に、どんな上司検事、先輩検事がいるか、新人たちは戦々恐々なんだよ。広島地検に送られちゃあ、最悪よ」 ここで、また、別の同級生が突っ込みを入れました。「なぜ、広島地検が最悪なの?」 すると、迷うことなく、A検事が即答。「そりゃあ、広島地検にはヤクザの親分みたいな上司検事や先輩検事がいて、新人検事にパワハラ行為を行うからだよ。これは検察法務省じゃ、みんな知ってる有名な話だよ」 この話を聞いた同級生の方々は唖然としたそうです。 そして、自然と誰かが口にしたことが、「秋霜烈日なんて嘘っぱちじゃねえか。検察の実態がこんなんじゃ、そりゃ、冤罪が無くならないわけだ」 話の最後にA検事は「誤解のないように」と前置きして、力強く、大声で言われたそうです。「昔から、こんなんじゃ、無かったんだぞ。検察は。明治、大正、昭和20年代くらいまでに誕生なさった検事の先輩方は、まさに秋霜烈日を実践しておられた。それ以降の世代が検察をダメにしちまったんだよ」「現場の検事だけじゃねえ。検察法務省の中枢にいるもんが権力者と親しくなっちまったことも悪い。いつしか、何処からともなく、検察の腐敗は始まり、進行して、もはや、どうにもならなくなっちまったんだよ」 公判部長が決裁した文書を次席検事が「司法修習生以下だ」と激しく叱責したことが原因で、広島地検の29歳の新人検事は自ら命を絶ちました。この検察内部の重畳決済の仕組みには、とても効率が悪く、前近代的だとの批判があるようです。 また、(自殺の原因は)パワハラ行為だけでなく、長時間労働を強いられていたことにもあるのではないかと疑われています。 両親は公務災害を申請するそうです。 ねえ、一つ、いいですか。広島地検の次席検事どの。 司法修習生以下だ、ってのは、アンタ自身のことじゃなかったのか。
2021.02.26
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前回分「有名進学高校経由の東大卒エリートたちの「科捜研」不信(5)。」に登場した現職の検察官がこっそり仲間内に零した話の続編です。 内容は、冤罪を作り出す検察組織の闇についてです。 まず、ここでも、お断り申し上げますが、前回までの分と同様、この話も、僕のオリジナルではありません。 なお、「有名進学高校経由の東大卒検事」と表記するのは面倒なので、以降、この方のことは「A検事」と書かせていただきます。 2009年(平成21年)、大阪地検特捜部が逮捕した村木厚子さんの事件は、翌年、その事件の主任検事が証拠を改竄していたこと、上司2人の検事もそのことを知っていて隠していたこと等が発覚したことにより、検察による組織的な「でっち上げ事件」であることが白日のもとに晒されたのでした。 このことを知った国民は強く憤り、今なお、検察に対する不信感を払拭し切れずにいます。 たまたま、村木厚子さんの場合、運良く、冤罪であることが発覚したのであって、他の容疑者たちは、そうならずに刑務所に行ったと考える人達も少なくありません。 この点について、A検事はこう仰ったそうです。「村木さんは女性だし、自民党の有力政治家と親しい付き合いがあったわけじゃない。だから、大阪地検特捜部の連中は、やりやすいと思って、捜査に着手したと思う。捜査の途中で、シロだと気付いた筈だが、突き進んだんだよ。手柄をあげるためにね。それに村木さんは東大卒でないから、村木さんをいじめても、東大閥は黙認するという計算があったと思う」「この事件の主任検事は抜けていて、後でばれるような証拠の改ざんをやった。率直な話、(証拠を保管している)検察官が証拠を改竄することは絶対にないと自分は断定できない。この事件の主任検事の他にも、過去、証拠を改竄したことのある検事は居たと思う。後でばれないように巧く工作してな」「検察官の自分が言うのも何だが、冤罪を作り出す主たる原因は警察にあるのではない。検察だと思う。全ての検察官がしっかりしていれば、冤罪なんて生まれないわけだ。検察官はその気になれば、不起訴処分にすることができるからだ」 村木さんは、その後、厚労省事務次官に昇格。 でも、事務次官になったからと言って、証拠を改竄されて、犯罪者にでっち上げられた際に抱いた、怒り、悲しみ、不安などのマイナス感情の履歴を全て記憶から消去することは出来ません。 人間の脳は、パソコンやスマホとは違うんですよ! 検察が犯した過ちも取り返しが付かないんですよ! それでも、なお、A検事は次のように仰ったそうです。「村木さんの事件の失敗は、検察にとって重かった。反省してます、改革しますっていうポーズを取らなきゃいけなくなった。でもね、この程度のことじゃ、検察は変わんないよ」 これを聞いたA検事の同級生の一人はこう反駁されたそうです。「結局、検察もな、酒を止めます、タバコを止めます、と言って、止めることが出来ない奴と同じじゃねえか。出来もしないことを、出来るように言うんじゃねえよ」
2021.02.25
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前回分「有名進学高校経由の東大卒エリートたちの「科捜研」不信(4)。」の続きです。 有名進学高校経由・東大卒エリートの方々の科捜研不信の理由を、詳しく記述してまいりました。 この方々の中に、現職の裁判官、検察官、弁護士等として、科捜研の鑑定証言に関わった経験がある人達や、詳しくは別の機会に詳述しますが、その鑑定の検証に関わったことがある大学の専門家などがいらっしゃることが、深刻な事実をより浮き彫りにしているのです。 有名進学高校経由・東大卒の現職検察官は、ずばり、次のように言われているそうです。「もはや、無条件に、科捜研の鑑定結果を有罪の決め手にできるような時代じゃないんだよ。科捜研の鑑定はインチキだと思っている市民が多い。我々、検察官だって、そうだ。全てじゃないが、一部には不正があると思っている。だから、有名な法医学教授にも科捜研鑑定を評価してもらうんだ」 ただ、この法医学教授による事後の鑑定の評価には、いろいろな問題点があるそうです。 有名進学高校経由・東大卒の現職検察官は、分かりやすく、具体的事件を例に説明されたそうです。 具体的事件とは、事件番号「 平成29(あ)882」、事件名「邸宅侵入,公然わいせつ被告事件」。 平成30年5月10日に最高裁で無罪が確定した事件だそうです。 この事件では、科捜研の2人の研究員によるDNA型鑑定と、その正当性を評価した法医学教授の鑑定が地裁で有罪の決め手とされました。 ところが、その後、大阪高裁と最高裁は、共に、この地裁の有罪の判断が誤りであったことを認め、被告人を無罪としたのです。 つまり、大阪高裁と最高裁は、有罪の決め手となった科捜研研究員2名と法医学教授の鑑定結果を全て否定したのです。 間違ったDNA鑑定が行われたきっかけは、警察官が複数の人間の分が混じったDNAの資料を採取したことでした。 そもそも、こんな資料では正しい鑑定など出来っこないのに、2名の科捜研研究員が、容疑者(被告人)の口腔内から採取した細胞のDNAと一致すると、もっともらしい鑑定意見書を作成しました。 そして、この2名の鑑定の正当性を示すために、法医学教授に再度、試料を鑑定依頼して、法医学教授も同じ結論に至ったものです。 いい加減な資料だったから、被告人の犯人性を示す鑑定結果なんて出るわけがありませんでした。 3名は、裁判官たちは理系の素人だから、自分たちの言いなりになるとばかりに、法廷で理屈をこね回わし、滅多に起きない現象を引き合いに出すなどして、現場から採取した資料と被告人の口腔内細胞のDNA型が一致することを力説しました。 これに地裁の裁判官たちは騙されてしまったそうです。 しかし、高裁と最高裁の裁判官たちは騙されなかったので、被告人は無罪放免となりました。 あわや、無辜の人が刑務所に送られるところでした。 この事件は、刑事裁判で定番の科捜研鑑定、そして大方、それをアシストする法医学鑑定の信ぴょう性について、疑ってかかるべきことを教示した事件であったと、ほぼ全員の弁護士が言っています。 有名進学高校経由・東大卒の現職検察官は、この事件のDNA鑑定について触れる前に、まず、次の一般論を吐露されたそうです。「そもそも、DNA鑑定が絶対に間違いがないと信用してもらっては困る。鑑定の精度が悪かった昔の話じゃないよ。鑑定の精度が格段に良くなった今でも、完璧じゃない。だから、科捜研の鑑定をアシストする法医学教授を探して、依頼するのも大変なんだよ」「法医学教授の全員が全員、検察側に有利な鑑定意見を述べてくれるわけじゃない。学者らしく、筋を通して、いい加減な鑑定意見を法廷で述べて、被告人を有罪にすることに加担することはできませんって、断られることが多いんだよ」 そして、会話の最後、有名進学高校経由・東大卒の現職検察官は、こう仰ったそうです。「現場から採取した資料を工作することなく、変な理屈を捏ねて、被告は犯人ですっていうDNA鑑定をやっただけ、マシじゃないか。こんなのより、もっと、ひどいケースを俺はたくさん聞いて知ってるんだぞ。そもそも、DNA鑑定に絶対的な正義なんて、無いんだよ。いくら、権威の法医学教授に鑑定してもらっても、試料を採取した警察官に問題があったら、あるいは、その資料を保管した科捜研に問題があったら、全てが間違っちまうだろうが。検察も、その点は、よく分かってんだよ」
2021.02.20
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前回分「有名進学高校経由の東大卒エリートたちの「科捜研」不信(3)。」の続きです。 有名進学高校経由の東大卒エリートの方々が、科捜研に不信感を持たれる理由の一つに、任用される段階の問題があるそうです。 科捜研研究員は、都道府県警の刑事部に所属しているので、身分は地方公務員です。 今でこそ、どこの都道府県警の科捜研も、博士を採用することが多くなりましたが、少し前までは、博士など採用せず、ほとんどが学士と修士の採用だったそうです。 ここで、「有名進学高校経由の東大卒エリートたちの「科捜研」不信(1)。」で述べた、博士でありながらドロップアウトされた、この方々の同級生の件と関連する話になります。 もう一度、申し上げますが、この方々は、ある程度、学問を究めた人間であれば、博士号を取得していることは当然であると、お考えになっておられます。 それで、この方々は、科捜研研究員に次のような不満を持たれるのだそうです。「東大を出て、博士になっても、将来を見出せず、低収入でどうにもならない同級生たちがいる。しかも、大手優良企業に入るには年を取り過ぎているから、彼らは敗者復活戦の医学部再受験を選ばざるを得なかったというのに、学士や修士で科捜研研究員に採用された者達は、公務員という安全な環境の中で研究が出来るうえに、博士号を取得すると警察組織から過剰な評価を受けて厚遇される。これには納得できない。科捜研研究員の採用は、原則、博士だけにすべきだ。科捜研は、有名進学高校経由東大卒の博士ドロップアウト組を積極的に採用すべきだ」 有名進学高校経由の東大卒エリートの方々の中には、現職の警察官僚の人達もいらっしゃいますが、警察庁から出向して県警の幹部になっても、容易には、科捜研職員の採用に口を挟むことは出来ないそうです。 同級生の博士ドロップアウト組を採用すべき理由について、有名進学高校経由の東大卒エリートの方々は、こう言われるそうです。「偏差値が高い、高校、大学を出ているから、法と倫理を守る程度も、必ず、高いとは断定できないが、その可能性は大きい。だから同級生の博士ドロップアウト組なら、有能な上、不祥事件なんて起こさないと思うからだ」 昨年は、1月に、常習的に女性の部屋に忍び込んだり、下着を盗撮していた埼玉県警の科捜研技術職員が逮捕されました。 そして、11月には、押収した覚せい剤などの品目と数量を法律で定める管理帳簿に記載せず、不適切に保管していた京都府警科捜研の幹部職員が処分されました。 この幹部職員は「研究のために持っていた」と釈明しました。府警が調べたところ、本人の使用と第三者への譲渡は確認されなかったそうです。 しかし、有名進学高校経由の東大卒エリートの方々は半信半疑だそうです。「本当に、本人は1度も使ったことはないのか? また、小遣い稼ぎに、誰かに売却したということも、全く無かったのか?」 8月に発覚した山梨県警科捜研の不祥事には、世間が度肝を抜かれました。 1974年から2012年までの約40年間に、警察署などから鑑定を依頼された101件、2565点の証拠品の鑑定をせず、放置していたというものでした。 いわば、不作為の怠慢。害悪です。 しかし、意外にも、この不祥事についての有名進学高校経由の東大卒エリートの方々の非難の程度は軽いのだそうです。 方々は次のように言われたそうです。「嘘の鑑定結果を提出したり、再鑑定を妨害するために証拠品を捨てたりする(作為の確信犯の)科捜研研究員に比べれば、遥かにマシじゃないか。捨てずに、ちゃんと保管してあるんだから、正しい鑑定を行える余地がある」 山梨県警科捜研がある建物。この中に、約40年に渡って、鑑定資料2500点以上が未鑑定のまま放置されていたという。 厳密に言うと、山梨県警は、このビルに、2013年(平成25年)11月に移転したので、未鑑定の資料2500点以上も、前の建物から引っ越してきたことになります。 その際、科捜研職員が誰も、こんな膨大な未鑑定資料があることに気付かなかったのでしょうか? この点について、有名進学高校経由の東大卒エリートの方々は、こう言われたそうです。「勿論、何人かは気付いていたさ。不祥事発覚を先送りしたんだよ。幹部が公表を決断する日まで、長年、ずっと、知らんぷりを続けていたんだよ」
2021.02.20
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前回分「有名進学高校経由の東大卒エリートたちの「科捜研」不信(2)。」の続きです。 有名進学高校経由の東大卒エリートの方々の中には、現職の裁判官や検察官、それに法医学関係の専門家などもいらっしゃって、科捜研の実態をよく知っておられるのです。 これまで、警察組織の不祥事は、概ね、現場の警察官が引き起こした規律違反の行為として一般市民に認識されて来ましたが、科捜研にも、そのようなことがあると異口同音に言われるのだそうです。 記憶に新しいところでは、例えば、一昨年2月の「乳腺外科医への無罪判決」があるそうです。 この事件では、DNA型検出の作業の際、決められているワークシート(実験ノート)に時系列で書き直すことなく記載しなければならないというルールと、未来の再鑑定に備えてDNA抽出液の残りを保存するというルールが破られたそうです。 科捜研研究員はワークシートに時系列でない記載をしたり、後から、書き直せるよう鉛筆で記入し、消しゴムで消して書き直していたそうです。また、DNA抽出液の残りを廃棄して、再鑑定をできなくしたそうです。 科捜研研究員は、証拠の微物に含まれるDNA量が裁判で重要な問題となることを知った上で廃棄したと、裁判長は断定。判決文の中で厳しく批判したそうです。 では、なぜ、科捜研研究員はこの重要な証拠を廃棄したのでしょうか? 絶対に間違いがない、正しい鑑定をしたという自信があるのだったら、このようなルール違反を敢えて犯す必要はなかったのではないでしょうか? この点について、有名進学高校経由の東大卒エリートの方々は、すんなりと、こう斬り捨てるのです。「やましいことがあるから、再鑑定をされちゃ困るんだよ。だから、DNA抽出液を廃棄したのさ。嘘っぱちの鑑定をやっていたってことの証左じゃないか」「これは氷山の一角さ。科捜研研究員の中には、ある割合で、こんな不正をやっている連中がいるってことは、俺の業界(法曹界)じゃ、常識だぞ」「昔は、精度が悪いDNA鑑定の技術と手法に問題があったが、今は、科捜研研究員の中の問題児に注意しろってか」 有名進学高校経由の東大卒エリートの方々の中には、革新系の人達もいらっしゃいます。その人達は、もっと辛辣に言われるそうです。「ただの問題児という個人の問題で済めば、いいけどな。(警察の)刑事部幹部の指示で、DNAの工作をやってないとは言い切れないだろ」 冤罪の匂いがぷんぷんする乳腺外科医事件。 東京高裁でまさかの逆転有罪判決。この判決には、憲法および判例違反という手続き的な問題だけでなく、「著しく正義に反する事実誤認」が複数あると言われています。 そんな判決でも、科捜研研究員の不正行為は、一審判決と同様に認定されました。
2021.02.19
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前回分「有名進学高校経由の東大卒エリートたちの「科捜研」不信(1)。」の続きです。 対馬放火殺人事件の控訴人弁護人だった3名の弁護士のうち2名は、久留米附設高校から東大文Ⅰに合格。法学部を卒業された方々です。 久留米附設高校は昔から、東大だけでなく、旧帝医学部、慶応医学部などにもコンスタントに多くの合格者を出し続ける名門校です。 その卒業生には、裁判官、検察官、弁護士のみならず、医師、大学教授、政治家、官僚、大手企業オーナー、会計士、作家、芸能人など、この社会で重要な役割を果たしている人達が多いのです。 卒業生から叙勲受章者も多く輩出するうえ、卒業生の平均年収は、若い段階で、優に1000万円を超えるのだそうです。 同様のことは、久留米附設高校より、さらに偏差値が高い、灘や開成、筑駒などを経由して東大に行った方々においては、もっと瞭然と妥当しているものと思われます。 僕が今から、お話することは、僕のオリジナルではありません。 僕とて、かつては、有名進学高校と有名大学に身を置いたことがあるので、感覚的には分かっていたことですが、実際に、僕を遥かに凌駕する方々から以降の話を聞いて、成る程と首肯したことなのです。 誤解されるといけないので、特記しますが、この話をされた方々は、控訴人弁護人のお2人ではありません。 繰り返しますが、控訴人弁護人のお2人は、科捜研の鑑定に異論をお持ちですが、この話とは無関係です。 実は、これら有名進学高校経由の東大卒の方々にとっては、法曹界や官界、或いは超優良大手企業等へ入る以外は、博士号を取得して、そこそこ有名な大学の教授になること、または、その教授並みに遇せられることが当然という認識があります。 ところが、近年、東大を出て、博士号を取得したものの、上手く行かず、教授になる道を断念して、この方々が仲間内で「駅弁医」と呼んでいる、地方の国立医学部を再受験して、医師になる人達が一定数いらっしゃるそうです。 この人達の学力からすると、18歳の時点で、はなっから、医学部を受験するのであれば、旧帝クラスの国立医学部に合格できたはずでした。 この人達は、「10歳以上も年下で、学力的には自分達より格下の、若造医学生たちから、舐めたことを言われるのが癪だ。博士号を取得しても、飯が食えないから、こんなことになった」と同窓会などで不満を露わにされるそうです。 また、有名進学高校経由の東大卒の方々の中には、国家公務員総合職試験(Ⅰ種試験)に上位合格を果たして、キャリア官僚になったにもかかわらず、重労働や働き甲斐の無さのために自主退職をして、他の道に転向する人達もいらっしゃるそうです。 この人達も、また、「高得点で国家公務員のⅠ種(総合職)に受かっても、たいしたことはなかったなあ、俺の人生はよお! これじゃ、Ⅱ種や地方公務員上級の連中の人生以下じゃねえか!」と同窓会などで零されるそうです。 ところで、科捜研に不信感を抱く、有名進学高校経由の東大卒エリートたちについて、読者の皆様方が誤解されないように、ご説明申し上げます。 この方々は、エリート人生を挫折して、医学部を再受験したり、官僚を辞めた同級生を憐れんで、同情から科捜研不信を口にされているのではありません。この方々は感情に流されるような人達ではありません。 感情に流されるような人達なら、激烈な受験戦争を勝ち抜いて、希望する職に就いて、その後も、ふるい落とされることなく、勝ち残ってはおられないでしょう。 この方々は、純粋に理を持って、可笑しいと判断されているのです。
2021.02.19
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女優の沢口靖子さん主演のドラマ「科捜研の女」シリーズの、京都府警科学捜査研究所がお茶の間で身近な存在となって久しいようです。 この番組の中で、科捜研は、「完全犯罪は絶対に成立させないぞ」と意気込んで捜査本部を立ち上げたものの、体育会系精神だけではどうにもならず、行き詰まった刑事たちが最後に恃む、警察組織の「頭の良い」集団として描かれています。 視聴者は、毎回、科学的知見をフル稼働して難事件を解決に導く科捜研職員(研究員)を正義の具現者だと崇めます。 同時に、完全犯罪を阻まれた(大抵の場合、平均的な視聴者のそれより、恵まれた容姿であったり、社会的地位にいたり、経済力があったりする)ドラマの中の犯罪者の凋落に(視聴者は)溜飲を下げるのです。 でも、警察組織の科捜研は、本当に、間違いのない、市民にとって、有益な組織なのでしょうか? 科捜研の鑑定結果に「常に正しいこと」までは求めないまでも、東京大学の入学試験の合格最低得点率並に、65%ないし70%程度は、(科捜研の鑑定は)これまでに正解を出してきたのでしょうか? 近年、例えば、DNA鑑定の精度が飛躍的に上がったことで、少し前に、科捜研が有罪の決め手となる鑑定をした事件が、実は冤罪事件であったということが明るみに出てきました。(ご存知の通り、実際に、再審無罪となった事件もあります) 科捜研の鑑定を、後日、学会の権威が検証した結果、その鑑定方法の精度が低かったことに加え、作業中の手順にミスがあったこと等が判明しました。(これが意図的だったら、別の意味で問題ですが、ここでは、意図的でないものとして考えます) もはや、科捜研の神話はテレビドラマの世界だけだと思う人が少なくありません。 もし、現在、再審請求がなされている事件のすべてのDNA鑑定を再度、やり直したら、再審無罪となるケースが続出すると、多くの識者は見ています。 日弁連は、その「やり直し」を呼び掛けていますが、検察は拒否し続けています。 識者はほぼ全員、やり直すと、再審無罪に直結するから、検察が抵抗しているのだと見ています。 ところで、驚くべきことに、最先端の事情に精通した、それぞれの分野の知的専門家であればあるほど、科捜研に不信感を抱く割合が高いのだそうです。「科捜研の科学捜査に科学は無い」と言い切っている人もいるそうです。 沢口靖子さん演じる(京都府警科捜研の)榊マリコ研究員は失敗することが無い。
2021.02.18
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前回分「福岡高検、上告断念の背景に「科捜研への不信感」か?(1)」の続きです。 この対馬放火殺人事件では、その犯人と思われる男が写った防犯映像を、民間の専門家が、長崎県警科捜研が(一審の裁判員裁判の法廷に)提出したもの以上に鮮明化することが出来ました。 この、より鮮明化された映像は、控訴人弁護人3名によって、証拠の申請がなされ、福岡高裁の裁判長から容れられて、法廷で再生されました。 冤罪論者のみならず、有罪論者の多くも、このことに仰天しました。 この控訴人弁護人3名が証拠として提出した、より鮮明化された映像は、冤罪論者からすると、優に、犯人と思われる男と被告人(受刑者)との同一性が否定されるものでありましたが、高裁裁判官はその主張には同調しませんでした。 ただ、福岡高裁の裁判官は、犯人と思われる男が咥えている長い棒状のものについて、次の控訴人弁護人の主張について、後述の判断を示しました。「この長い棒状のものは、白くて太くて長い、特定の銘柄の電子タバコです」(控訴人弁護人)「電子タバコではなく、長い種類の、普通のタバコにも見えます」(福岡高裁裁判官) 識者たちは、「この控訴人弁護人の主張と高裁裁判官の認識に、福岡高検の検察官たちは恐怖したはずだ。その恐怖が、死刑主張の障害となって、上告を断念したに違いない」と囁きました。 ずばり、「この電子タバコを巡る控訴審の出来事に触れて、対馬放火殺人事件は冤罪かも知れないと感じた高検検察官がいたはずだ」と断言する識者もいるのです。 その識者は「福岡高検は、検察のメンツを保つため、弁護側の無罪主張には同調できないが、死刑にすることだけは回避し、無期懲役刑で手を打った。それは先々の再審請求と再審無罪を見据えているからだ」とも言っています。 実は、長崎県警科捜研職員は一審の裁判員裁判で(既述のように)「どんな銘柄のタバコであるかとかは分かりません」と証言していましたが、この証言より1年前の逮捕後に、警察が受刑者宅に行って、「電子タバコ」を押収しようとした事実があったそうです。 しかも、この「電子タバコ」目当ての捜索は、逮捕と同時に執行された捜索差し押さえとは別に、10日以上経って、令状なしで行われたのです。 しかし、被告人(受刑者)宅には、(警察の)お目当ての電子タバコは存在しませんでした。 あったのは、電子タバコではなく、禁煙タバコでした。この禁煙タバコは、ヘビースモーカーである被告人(受刑者)を心配した母親が購入したものでした。 この禁煙タバコは、防犯映像の「白くて太くて長い」電子タバコとは明らかに色彩も形状も異なるものでした。 この事実を、控訴人弁護人は把握していたのです。 識者たちは、当然、福岡高検の検察官たちも、膨大な内部資料を見るうちに、遅くとも、控訴審のある段階では、それを知ることになったはずだと考えています。 そして、福岡高検の検察官たちは、長崎県警科捜研に対して、次のような思いを抱いたのではないかと言うのです。(識者たちが考える、福岡高検の検察官たちの心の声)「何で、現場の捜査員が、電子タバコに拘るんだよ。科捜研が解析して、教えてやったとしか思えないだろ。普通は、よお!」「民間の専門家が、映像を、科捜研以上に鮮明化できたってのは、まずいだろうが。電子タバコであることを隠すために、これ以上、鮮明化できませんって、嘘を言ったって、思われても仕方ないだろうが!」「たぶん、科捜研はこの映像を、民間の専門家より、もっと鮮明化できて、映像の男が被告人(受刑者)とは別人であることも、分かってたんじゃねえかって、疑われるだろうが!」「ちゃんと、令状を取ってから、押収しろや。任意じゃ、断られることもあるから、まずいだろうが! それに、被告人(受刑者)の家族は禁煙タバコだって認識なのに、押収目録に電子タバコって記載したのは、愚の骨頂だろうが! 結局、映像のものと一致する、白くて太くて長い電子タバコは押収出来なかったんだろうが! しかも、 被告人(受刑者)が電子タバコを吸っているのを見たことがある証人もいなかったんだろうが!」「そもそも、逮捕の日に、同時にガサ入れして、電子タバコについては家族に何も言わなかった。10日以上も経って、突然、電子タバコを任意提出して下さいって言うと、 県警科捜研が、防犯映像から電子タバコだと特定しましたよって、バレバレに思われるだろうが!」「一審の裁判員裁判で隠していたと思われたことも、かなり、まずい。判決後の記者会見で、有罪無罪の判断が際どかったことを裁判員の人達が話したことが、新聞に載った。裁判員も新聞記者も、科捜研が手を抜いた解析をしたり、何かを隠していたんじゃないかと疑えば、有罪の判断は間違いだったって、翻意するかも知れないだろ。そもそも、直接証拠がゼロで訴因変更を受けた事件だったんだから、よお!」「冤罪かも知れないって、再審があるかも知れないって、俺たち、エリート検事まで、悩むことになっただろうが! おい、分かってんのか!」
2021.02.17
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周知の通り、この対馬放火殺人事件は、一審の裁判員裁判で無期懲役刑が宣告されましたが、死刑を求刑した長崎地方検察庁はこれを不服として、福岡高裁に控訴しました。 逮捕時から一貫して無罪を主張する受刑者も、当然、控訴しました。 その控訴審。福岡高裁の判決は一審判決を支持する有罪の無期懲役刑。これも、当然、受刑者は上告しました。 ところが、ここで、検察らしからぬ、驚くべきことが起きました。 なんと、福岡高検は、死刑を主張していた長崎地検の判断とは一線を画し、被告人に死刑を求めず、無期懲役刑を受け容れて、上告を断念したのです。 この福岡高検の判断を「英断」と呼ぶ識者が、冤罪論者だけでなく、有罪論者にまでいるのです。 識者の多くは、「福岡高検の検察官たちが、長崎県警科捜研に不信感を持ったことは疑いようがなく、この感情が上告断念の背景にある」と見ています。 その不信感の対象となった事柄は、長崎県警科捜研職員が、対馬放火殺人事件で唯一、犯人と思われる男が捉えられた防犯映像の解析結果を、一審の裁判員裁判(長崎地裁)で証言した際の摩訶不思議な説明だったそうです。 その映像には、軽トラックの運転席で白くて長い棒のようなものを咥えた、犯人と思われる男が写されていましたが、ちょうど録画された時間が日の出の時刻だったため、軽トラのフロントガラスに光が反射して、男の人相、姿恰好などはぼやけていました。 この「ぼやけた映像」は事件発生後、長崎県警科捜研によって、いち早く、解析されました。 この「ぼやけた映像」を鮮明化した「長崎県警科捜研の映像」について、一審の裁判員裁判では、補充裁判員の男性が質問内容を書いたメモを裁判官に渡し、裁判官がその内容を代わって長崎県警科捜研職員に質問したのです。 そのやりとりは、以下のようなものでした。「この映像は、これ以上、鮮明にならないのですか?」(裁判官)「これ以上は、無理です。これ以上は鮮明化できません」(科捜研職員)「この男が口に咥えている長い棒状のものはタバコのように見えますが、どんな銘柄なのかとかは分かりませんか?」(裁判官)「(銘柄とかは)分かりません。タバコなのかどうなのかも分かりません」(科捜研職員)「この映像の男と被告人が同一であるのか、同一性の確認はしたのですか?」(裁判官)「いいえ、鮮明化の作業だけしかやっていません。同一性の確認はしていません」(科捜研職員) 『(これ以上は鮮明化)出来ません』 『(銘柄とかは)分かりません』 『(同一性の確認は)していません』 もし、これ以上の映像の鮮明化が、「出来たら」、科捜研の立場はどうなりますか? もし、(タバコの)銘柄とかが、「分かったら」、科捜研の立場はどうなりますか? もし、(映像の男と被告人の同一性の確認を)「していたら」、どうなっていたのでしょうか?
2021.02.16
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本ブログの昨年(2020年)12月8日分「判決宣告後、苦悩を吐露する裁判員たち。判決の翌日の新聞記事。 」と12月11日分「判決後の記者会見。補充裁判員2人のコメントに冤罪論者が驚愕。」で触れたことに関する重大なお話です。 2018年(平成30年)3月27日の裁判員裁判の判決後の記者会見において、補充裁判員の女性が評議を振り返って述懐した次のコメントを、冤罪論者、有罪論者の両者が、問題視しているというのです。「間接証拠を積み重ねた判断で、いろんなストーリーが考えられるものだった。多くの人数で常識に照らして判断した」 この対馬放火殺人事件の裁判員裁判では、当初、正裁判員6名と補充裁判員6名が選任されましたが、公判廷が始まって、早い段階で、1位の補充裁判員の男性と4位の正裁判員の男性が相次いで辞めました。 それで、早々に、一定数の識者たちは、この対馬放火殺人事件の裁判員に選任された人達の資質を疑問視しました。 また、長崎地裁で裁判員裁判が始まって以来、最長という、3か月に渡る長い公判廷の中で、正裁判員6名の誰かが証人に質問した場面は僅か1,2度に過ぎず、正裁判員だけでは、裁判員裁判の呈をなしていませんでした。 しかし、1人だけ、ほぼ全ての証人に質問する補充裁判員がいたので、救われたのです。(僕のことですがね) この補充裁判員が質問内容を書いたメモを渡して、左陪席判事が代読していたわけですが、その質問内容には、法曹三者(弁護士、検察官、裁判官)も気付かない盲点を突くものが再三あったので、メディア関係者の間で話題となっていました。 このようなことから、一定数のメディア関係者は、物言わぬ(質問しない)正裁判員6名は、評議室でも、評議に加わって、意見を述べることから逃げているのではないかと考えていました。 判決後の記者会見にしても然りです。 この記者会見は、写真撮影禁止かつ匿名という条件で開かれましたが、4名の補充裁判員は全員出席したのに、正裁判員は2名が出席しただけでした。(この2名のうちの1人が、唯一、法廷で証人に質問した正裁判員です。ちなみに、僕は、この記者会見を欠席した4名の正裁判員の欠席理由を知っています) このようなことから、この対馬放火殺人事件の裁判員裁判については、正裁判員よりも補充裁判員の方がやる気があって真摯に取り組んでいるという印象を一定数のメディア関係者は持ったのです。 そこに、上述の、女性補充裁判員の発言。 その発言の「間接証拠を積み重ねた判断で・・・多くの人数で・・・判断した」という箇所が問題なのだそうです。 そもそも、補充裁判員とは、その名の通り、裁判の途中、正裁判員に欠員が出た際、その穴を埋めるために(代わって正裁判員になって、審理や評議に加わるために)控えている存在なので(補充裁判員には)評議に加わる資格はないのです。 ただ、例外的に、評議の最中、裁判官から意見を求められた場合にのみ、補充裁判員は発言しても良いこととされています。 ところが、この女性補充裁判員の言葉を普通に聞くと、有罪無罪の判断をする際の評議に、この女性補充裁判員を含む補充裁判員全員が加わっていたかのように聞こえると、一定数のメディア関係者は言うのです。 そして、もう一つ。 こちらが、重要なことかも知れませんが、別の一定数のメディア関係者は、この女性補充裁判員が、あえて「多くの人数で」と発言したのは、「少ない人数の」反対意見(無罪主張)があったことを伝えたかったからだと理解したそうです。 つまり、裁判官3名と正裁判員6名の計9名のうち、1名ないし4名の無罪主張があったか、それとも、補充裁判員4名を加えた13名のうち、1名ないし6名の無罪主張があった、と見ているのだそうです。 ところで、既述の通り、○○新聞社の○○さんは、正裁判員6名、補充裁判員4名のほぼ全員が、有罪とすべきではないと主張したのに、裁判長が説得、誘導して、翻意させて、有罪判決に向かわせたと見立てています。 ○○さんのお話によると、この「有罪とすべきではない」という主張には、積極的な無罪主張の他、消極的な無罪主張(疑わしきは罰せずという主張)も含めるのだそうです。
2021.02.15
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前回分「僕のプロフィル的な話(19)「 将来、同窓会の案内は出すな」と。」の続きです。 M等の暴力行為による怪我のため、第1志望から第3志望までの大阪と福岡の進学高校の入学試験を全て受けることが出来なくなり、やむを得ず、(通っていた塾の方針で受験して合格した)青雲高校に入学したことは既述しました。 今回は、その後のことについて、お話いたします。 青雲高校に行ったのは、僕の中学からは、僕1人だけでした。(これも既述の通り)僕以外に受験した2人は共に不合格だったからです。 それで、青雲高校入学後、僕は、親元を離れ、青雲高校の寄宿舎(後に青雲高校近くに下宿)で生活することになったので、中学時代の同級生達とは原則、顔を合わせることがなくなりました。 厳密に言うと、絶対に害の無い、一部、例外的に関わりを持っていた同級生数名はいましたが、彼らとは(僕が)夏休み冬休みなどで家に戻った際に、雑談をする程度で、親しい付き合いをしていたわけではありません。 しかし、(これも、また既述の通り)中3時のクラスメート達とは、後期(2,3学期)のクラス委員長に言明したように、「この命が続く限り、2度と関わらない」という方針を貫いていました。 どんなに時間が経っても、家で寝ている所を急襲され殴られて負傷。怪我は治っても、その恐怖と志望していた高校を全て受験できなかったという心の傷は癒えることはありませんでした。 中学校を卒業後、M達がどうなったのか、僕は知りませんでした。知りたいとも思いませんでした。 上記、例外的に交流があった害の無い同級生たちも、僕を慮って、M達のことは話さないし、また、僕も、M達のことは訊ねませんでした。 僕は、M達の攻撃から、完全に逃げ切ったと安心し切っていました。 しかし、それは甘いことでした。 程なくして(中学卒業後、青雲高校に行って1年も経たないうちに)僕は母から、驚愕の事実を知らされて戦慄したのです。 母が言うには、僕がいなくても、Mが時々、僕の家の前に来ていたそうです。 そのMの行動は不自然で気持ちが悪いものであったそうです。 僕の家に面した道路を、Mは自転車で通行していたそうですが、僕の家にさしかかると、どういうわけか自転車から降りて、自転車を支えたまま、立ち止まって、じっと僕の家を覗き込んでいたのだそうです。 Mは僕の家の敷地に入って来たわけではありません。終始、公道上での振る舞いだったので、母は抗議が出来ませんでした。 Mに「何か用ですか?」と話しかけて、「ちょっと、足をつったもので」と言われてしまえば、それ以上、もう、何も言えなくなってしまいます。 このことを知った父は、Mがこのようなことを繰り返し行うということであれば、問題であるから、後で証拠とするために、写真を撮るように母に言ったそうです。 なぜ、Mは、このような不自然で奇妙なことを行っていたのか? Mは僕が家にいないことを知っていた筈なので、このようなことをやられても、僕は痛くも痒くもありません。 ひょっとすると、僕の代わりに、僕の家族に危害を加えるための準備行動だったのか? Mはまっとうな思考をする人間ではありません。計り知れない人間なのです。常識の枠を超えて、筋の通らないことをやったり、突然、感情を爆発させます。 Mのことは被害者である僕が一番良く分かっているのです。 だから、このMの不自然で奇妙な行動を知った僕は、恐ろしくなったのです。 僕をこういう気持ちにさせることがMの狙いだったのかとも当時は憶測しました。 兎に角、対応するのが厄介なことを仕出かすMでありました。
2021.02.11
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前回分「僕のプロフィル的な話(18) 確信犯を炙り出した合格報告。」の続きです。 僕が受けた被害は、本当は、担任から金銭を賠償してもらえば「チャラ」になるというようなものではありませんでした。 後々の人生にまで響く、重大な損害でした。 僕は、塾の先生から、第1志望から第3志望の大阪と福岡の高校を全部受験すれば、必ず、何れかに合格する。全滅するということはないと太鼓判を押されていました。 だから、暴力事件で怪我をしなければ、青雲高校に行くことはありませんでした。 もし、大阪の某国立大付属や府立の某高校、福岡の久留米附設高校に行っていれば、どうなっていただろう。 これまでの人生で、毎年、そのことを考えなかった年はありません。 世の中には、僕のような体験をした中学生に、「理不尽なことに苦しめられて、良い勉強になったな。大人になって、人の痛みが分かる、思いやりのある人間になれるぞ」などとトンチンカンな慰め言葉を送る人が一定数いるわけです。 僕は、暴力行為のために、あわや、片目を失明する所だったのです。 しかも、体調を崩して、薬を飲んで寝込んでいる所を襲われた。 殺されるかもしれないという恐怖と、連中への激しい怒りしか、僕にはありません。 暴力事件から、何十年、時間が経とうが、「良い勉強したな」なんて感じたことは1度もありません。 そもそも、僕は、このような被害体験が無くても、法や倫理を遵守して謙虚に振る舞い、その上、自分と異なる他人の価値観を尊重することができる人間でした。 暴力事件後、連中とその親達が全く謝罪しなかったことにも、納得できませんでした。 新任教師の年収と同額の賠償金を貰うことを条件に、担任と校長に「表には出さない」と約束したものの、連中とその親達からは謝罪があって然るべきかと思っていました。 連中の1人は、2,3学期(後期)の男子のクラス委員長でした。 この2,3学期(後期)のクラス委員長はおとなしい性格だったので、事件の時、僕を暴行せず、暴言を吐いたわけでもありませんでした。このクラス委員長は、生徒会長が僕を罵り、Mが僕に暴力を振る際、黙って近くにいただけです。 しかし、この「黙って近くにいた」行為を、担任と校長は「見張り」の行為だと認定しました。 既述の通り、僕は青雲高校に合格した後も卒業まで登校拒否を続けましたが、その期間、このクラス委員長は何度も僕の家に来て、「卒業文集に載せる文章を書いてくれ」と言い続けました。 僕は断りました。 彼から謝罪がなかったからです。 僕は、彼の立場が分からないわけではありませんでした。 クラス委員長だから、僕の家に来たくもないのに来ているわけです。 これは、担任による罰ゲームの可能性がありました。 控えめでおとなしい性格だから、僕へのバッシングの扇動者だった1、2学期(前期)のクラス委員長Kや、言葉巧みに僕を責める生徒会長、それに乱暴なMの行動を止めることが出来なかった。内心では「こんなこといけない」と思いつつも、不本意ながら、暴力行為の現場に居合わせることになったのかも知れない。 でもね。2,3学期(後期)のクラス委員長。ダメなものはダメだと、はっきりと意思表示をしないと一味だと思われてしまうのだよ。 その上、謝罪の言葉が無いとなると、悪意のある確信犯だと思われても仕方がないわけなんだよ。 君が僕の立場なら、このように考えることはないと断言できるかね? また、このようの考える僕に落ち度があると、君は言えるかね? 担任が、新任教師の年収と同額の賠償金を払うと言った対象に、暴行現場で君が何もせず、ただ居ただけのことも含まると、担任自身が言っていたことを、君はどう思うかね? 僕の怒りは、登校拒否をしたり、卒業式をボイコットする程度では収まりませんでした。 それで、この2,3学期(後期)のクラス委員長に言ったのです。「僕は、この命ある限り、お前ら、中3時のクラスメート達とは関わらない。だから、先々、同窓会には絶対行かない。案内状は出すなよ」と。 同じことは担任にも伝えました。 僕は、数十年経った今でも、こう言い切った自分は間違っていなかったと思っています。
2021.02.08
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前回分「僕のプロフィル的な話(17) 事件後、校長の要請で1日だけ登校。」の続きです。 その時、まだ暴力行為から、それほど日数が経っていなかったので、頭痛と首の痛み、それに耳鳴り等が断続的に続いていました。 担任は、僕を教室に連れて行こうとしますが、そもそも、校長が僕の親に言ったのは、先生方の祝意に応えるために顔出しするということであって、暴力を振るったM達がいる教室に行くということは聞いていませんでした。 M達だけではありません。 教室には、バッシングに踊らされた、圧倒的多数のクラスメート達がいたのです。 僕の心が「そんな所には行きたくない」と思うだけではありませんでした。僕の体が行くことを拒みました。 それで、校長室の前の廊下で、担任と「教室に行く行かない」で揉めました。 ここでも、担任は、僕の気持ちを逆撫でするようなことを言いました。「似蛭田妖くんは青雲高校に合格したんだから、気分が楽になったろう。これから受ける大阪の高校が不合格になっても、結果オーライじゃないか」「先生は、似蛭田妖くんに、新任教員の年収と同額の賠償金を払うんだから、先生の言うことも聞いてくれよ」 この担任の主張に反論すると、まず、青雲高校に合格しても、僕の気持ちは楽になっていません。 それに、担任が僕に払う賠償金の対象となった期間は、暴力事件が起きた時を含む、その時より以前であって、暴力事件より後のことは、賠償金とは無関係です。 しかし、担任が発した次の一言で、僕は教室に行くことに同意しました。(いつまでも校長室の前で言い合っていても、仕方がありませんでしたし)「似蛭田妖くんが教室に行って、もし、精神的に苦痛を受けるようなことあったら、その分の損害は、別途、先生が、即、現金で払うから。金額は似蛭田妖くんが決めてくれれば良いから」 教室には、担任に続いて、教壇近くの出入り口から入りました。 僕は、担任と並んで教壇に立ちました。 そして、顔を上げて見渡すと、クラスメート全員の顔が一望できました。 僕は、意識して、MとK、それに生徒会長とは目を合わせないようにしましたが、否応なしに、その刹那、少しは見ることになってしまいました。 連中は、快活でなく、暗く曇った表情をしていました。 同様の雰囲気の者達が、クラスメートの総数のうち、3割程度いたでしょうか。 しかし、半数を超えるクラスメート達は目が輝き、晴れやかな笑顔で、嬉しそうに僕を見つめていました。 僕は驚きました。「青雲高校に合格した本人である僕自身が、こんなマイナーな気分なのに、なぜ、君らは、そんなにハイな気分なの!」と。 ちなみに、僕は中3時代、笑ったことなんて、ほとんどありません。それは青雲高校に合格した後も同じでした。 同時に、僕は初めて知りました。 クラスメートの大半は、心底、僕を打ちのめそうと意図していたのではなく、僕をバッシングする雰囲気に流されていただけだったのだと。 とことん、僕をバッシングしようとしていた連中は、この時、浮かぬ表情をしていた3割程度のクラスメート達にすぎませんでした。 しかし、読者の皆さん方にもご理解いただきたいのです。 1クラス43名の約3割に当たる12名ほどのアンチ連中と、1年間、同じクラスで過ごすことの大変さ、辛さを。 後年、社会人になって、僕は、何度も何度も、この、中3の3学期、登校拒否する以外に適切な方法がなかったろうか、考えに考えました。 でも、そんな方法に思い当たることは皆無でした。 僕の登校拒否は仕方がなかったのです。 すでに、クラスメート達が、僕の合格を知っていたことは明らかでした。 そして、担任が正式に合格を伝えると、至る所から、まばらにパチパチと拍手が起き始め、須臾の間に、それらは、ほぼ全員の拍手を誘発し、大きくなった音は、教室のガラス窓を振動させんばかりに響き渡りました。 拍手は長く続きました。 見ると、確信的に僕をバッシングしていた約3割のクラスメート達もほどんど、つられて拍手をしていました。 ただ、MとK,それに生徒会長、その他数名は、拍手をせず、濁った目で、僕を睨んでいました。 この後、僕は帰宅して、その後、学校には2度と行かずに中学校を卒業しました。 校長先生と約束し、了承を受けたことを実行させていただいたわけです。 僕は卒業式にも出席していません。既述の通り、このことも事前に校長が了承しました。 実は、卒業記念アルバムのクラス全員の集合写真にも、僕は写っていません。 その撮影日、僕は登校拒否していたからです。 まあ、連中と一緒の集合写真に納まらずに良かったと、今でも思っていますが。
2021.02.07
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前回分「僕のプロフィル的な話(16) 青雲は受験できたが、怪我は深刻。」の続きです。 青雲高校の合格後、中学校の校長先生から、「1日だけ学校に登校できないか?」という打診が僕の親にあったそうです。 既述の通り、M達による暴力行為は表に出さず、一切の損害を担任教師が1人で私的に賠償することで決着しましたが、済んでしまったことではなく、今後起こり得る暴力行為の再発を防ぐため、学校はM達と僕を接触させない措置を講じてくれました。 つまり、校長先生から「もう学校に来なくても良い。卒業式にも来なくて良い。そのために似蛭田妖くんが不利になることはありません」と約束してもらっていました。 校長は(この後、僕が受験する大阪の高校の合否とは無関係に)青雲高校に合格したことのみでも、学校にとって名誉なことである旨。自分だけでなく、青雲高校合格にお祝いを言いたい教職員が大勢いるから、似蛭田妖くんに1日だけ登校して、職員室に顔を出して欲しい旨を(僕の親に)話したそうです。 僕の両親は「圧倒的多数のクラスメート達と担任教師には問題があるが、それ以外の学校関係者には問題があるわけではないから、ここは、素直に校長の依頼を受けた方が良い」と言いました。 それで、僕は、久しぶりに制服を着て、病院に行った帰りに登校しました。 昼食時間に、直接、職員室に行ったので、教師全員が揃っていました。 ハイテンションで「おめでとう!」と大声を出す先生。駆け寄って握手をする先生。中1から3年間、お世話になった先生たちの満面の笑みがありました。 既述した、僕に辛い点数を付けていた教科の先生までも、声をかけて来ました。 僕も、これで、この先生達と顔を合わせるのも最後だろうと思い、感謝の言葉を述べました。 率直な話。学校の先生達は、僕の学力上昇に全く寄与していません。 僕の学力が上昇したのは、100%、塾の先生のおかげです。 でも、これは極めて消極的な感謝の要因ですが、学校の先生達は、ただ存在する。校舎内にいるというだけで、僕をバッシングする連中への抑止効果がありました。 学校の先生達の『眼』が無ければ、連中は、もっともっと、やりたい放題の乱暴を働いたと思います。 僕は殺されていたかも知れません。 職員室を後にすると、校長から校長室に招き入れられて、座って、しばらく、話し込みました。 そして、疲れたし、頭痛と耳鳴りがして来たので、帰ろうとすると、校長室を出た所で、担任が何かを言ってきました。 最初、担任が何を言っているのか、よく聞こえませんでした。 担任は「お願いだから、教室に顔を出してくれ」と言っていたのです。
2021.02.07
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前回分「僕のプロフィル的な話(15) 平身低頭で「暴力事件は内密に」。」の続きです。 Mの暴力行為によって、僕が、頭部と首と目に負った怪我は深刻でした。 まず、Mの指が突っ込まれた片目は、出血し、視力が低下。しばらくの間、使えなくなりました。 そして、殴られた頭部の箇所は内出血を起こし、こぶ状に腫れました。 さらには、耳鳴りと頭痛、首痛もひどく、これらの症状はなかなか治まりませんでした。 一時は、予定していた全ての高校の受験が駄目になることも覚悟しました。 僕が受験を予定していた高校は、全て、偏差値が70を超える高校です。 灘や開成のように偏差値75オーバーの高校の受験生のレベルには劣りますが、それでも一般世間の感覚では、かなり勉強が出来る中学生じゃないと、受験が出来ない高校だったのです。 青雲高校の受験日前後は、たまたま、ひどい症状は無く、無理をすれば、机に向かうことが出来ました。 それで、青雲高校については受験できたのですが、寒い中、片目が見えず、その上、耳鳴りがするような状況で試験問題を解いて、何とか合格をすることが出来ました。 青雲高校については、何度も受けた模擬試験で全て「余裕で合格する」という評価でしたが、僕には、このような暴力事件の後遺症というハンデがあったので、試験の最中には「余裕」なんてありません。全ての科目で、終始、必死でした。 入学試験終了後、僕は合格を確信しました。例年、最低合格ラインとなっている点数を優に超える点数を取れていることが実感できたからです。 このような実感は、塾で何度も受けた模擬試験によって培われたものです。 僕の試験が終わった瞬間の感覚は当てになるのです。 ○○点くらいだろうなと感じたら、実際の点数は、そのプラスマイナス3,4点以内です。 ところで、青雲高校の受験から帰宅すると、また症状が悪化しました。それで、また僕は寝込むことになりました。 合格発表も見に行けませんでした。 合格を知ったのも、リアルタイムではありません。 怪我の治療のために、病院に行ったら、主治医の先生から、「おめでとう」と言われて知りました。 青雲中学、青雲高校は、僕の地元では、開業医の子供たちも多く受験するので、合格者した子供の話は、医療関係者の間で話題になるのです。 祝意を示された主治医の先生には申し訳ありませんが、既述の通り、長崎県の青雲高校は僕の第1から第3に入る志望校ではありませんでした。 僕は、中3の早い段階から、両親、それに大阪や福岡の親戚たちと協議して、長崎県を出て、大阪か福岡の高校に行くことを志望していました。 青雲高校は「塾の方針で受験する予定であった」に過ぎなかったのです。 僕が通っていた中学からは、僕以外に2人が青雲高校を受験しましたが、2人とも不合格になりました。 うち1人は僕の「塾友」だったので、僕は苦しくなりました。 この「塾友」も、僕と同様、塾の方針で青雲高校を受験したのですが、「塾の方針で受験しただけで、合格しても入学はしない」と言っても、実際に不合格になると良い気持ちにはなりません。 彼は、僕をバッシングしなかった、心ある「塾友」であったために、僕は気の毒に思ったのです。 青雲高校の受験が終わっても、まだ、本命の高校の受験が幾つも控えていました。 結局、これらの高校を受験することはなかったのですが、この時、僕は、これらの高校を受験するために、早く怪我を治すことしか考えていませんでした。
2021.02.07
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前回分「僕のプロフィル的な話(14) 学力が肉薄したら生徒会長が牙を!」の続きです。 ただし、今からお話することは、時系列では「僕のプロフィル的な話(13) 事件発生。暴徒を差し向けた担任。 」で触れた暴力事件のすぐ後のことです。 僕の寝所から加害生徒達が撤収して、替わりに担任教師が入って来た直後、母から連絡を受けた父も、仕事を早退して帰ってきました。 この時、僕の出血は止まっていたものの、母は僕を病院に連れて行くところでした。 でも、病院に行く前に、母は、父と共に、担任教師に猛烈に抗議しました。 僕は、そのやり取りを傍で聞いていました。 父母の猛烈な抗議に、開口一番、担任が出した言葉は、「お願いします。警察にだけは通報しないで下さい」 次に、担任は謝罪の言葉を述べ始めました。「責任はちゃんと取ります。損害はちゃんと賠償します」「似蛭田妖くんの不利になることは絶対にありません」 そして、担任は、当宅の固定電話から学校に連絡して、校長先生に事情を説明しました。(当時は、携帯もスマホもありません) 父が電話に出ると、校長も同様に、謝罪の言葉を繰り返したそうです。 ただ、この時の担任のセリフで1つだけ、怒りを更に増大させるものがありました。 それは「許してください。これは、ちょっとした行き違いです。生徒達に悪意はありませんでした」「行き違いなわけないだろうが! 悪意ありありじゃないか!」と、僕はそのセリフを聞くやいなや、叫びました。 そもそも、常日頃、教室で僕をバッシングしている連中に、担任が「見舞に行け」と言った時点で、このような事が起こることは必定でした。 担任。お前も、僕と連中が険悪な関係にあることを知っていただろうが! 結局、この暴力事件は、警察に通報せず、担任教師がすべての責任を取る。つまり、担任教師が僕に損害分の金銭を支払うということで、決着しました。 僕と両親は、最後まで、加害生徒達、すなわち、実行犯のMとその幇助犯の他3名については、その保護者達に、担任と連帯して、損害賠償をさせるべきだと主張しましたが、最終的には、担任が「全員分の責任を、自分が1人で償う。似蛭田妖くんとご両親も、納得できるだけの金銭の賠償を受けることが出来れば、問題ありませんよね」と言ったことを呑みました。 学校で波風が立つことを嫌う校長先生も、この担任の提案を呑みました。 もとより、僕と僕の両親は、中3の1月という高校受験直前期に騒ぎを起こし、暴力事件とは無関係の受験生とその親達にまで影響を与えるようなことをするつもりはありませんでした。 担任の言う通り、僕が受けた物質的精神的損害を、金銭で完全に賠償してもらえれば、僕は文句はありませんでした。 この後、まもなくして、暴力事件による怪我のため、大阪の某国立大付属高校と府立の某高校、それに福岡の久留米附設高校の受験を断念することが決まって、僕の損害額は確定しました。 担任教師は、加害生徒達のバッシングと担任の失態によって僕が受けた損失を「大学を卒業した1年目の新任教諭の年収くらいである」と認め、「自分はその金額に達するまで、毎年、支払いを続ける。10年以内に払い切る」と断言しました。 そう言い切った担任は、その旨を自筆で書いて署名捺印した「覚え書き」を僕の親に渡しました。 この1年目の新任教師の年収と同額の賠償金は、担任が1人で被らず、加害生徒達の親達と連帯して支払えば、あっという間に弁済できたはずでした。 しかし、「1人で払う」と言ったのは担任だし、この賠償額を決めたのも担任でした。 僕や僕の親、校長の前で言い切った以上、その言葉には責任を持ってほしかった。 この約束(債務)を履行させるために、中学校を卒業後、10年以上、僕はこの担任と定期的に話をすることになります。 中学卒業後の担任との関わりについては、別の機会にお話をさせていただこうと思います。
2021.02.06
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前回分「僕のプロフィル的な話(13) 事件発生。暴徒を差し向けた担任。」の続きです。 今回は、暴力事件に関わった生徒会長について、いろいろとお話をしようと思います。 既述の通り、彼(生徒会長)は、僕が中2の後半、通い出した塾に、僕より早く、中1時代から通っていた同級生でした。 中3のクラス編成で同じクラスになりましたが、小学校5,6年時も同じクラスでした。 小中学校時代、厳密に言うと、中3の11月までですが、彼(生徒会長)は、僕が尊敬する同級生でした。 なぜなら、小学校低学年時から、彼(生徒会長)は抜群の成績優秀者であり、かつクラス委員長を務める常連だったからです。僕への姿勢も悪くはありませんでした。 例えば、クラスで容儀検査があった際、僕がうっかりティシュを携帯していないのを見ると、無言で自分のティッシュを数枚、こっそりと渡してくれるような人物でした。 これが、もし、Kだったら、「似蛭田妖くんがティシュを持っていませーん」と大声で騒ぎ立てることは必定でした。 ただ、彼(生徒会長)はプライドが高く、勉強もスポーツも、自分が本気で取り組むことには、全て、「1等賞」という成果を志向していました。 彼(生徒会長)にとっては、学校の主要5科目(英語、数学、国語、理科、社会)においても、その全てにおいて、学年で1番の成績を修めることが、当然であるという感覚だったそうです。(本人が言っていました) 僕達が通っていた小学校、中学校の先輩に、ラサール高校に行って、その後、受験業界の最高峰である、東大理Ⅲ(医学部)に合格した人がいましたが、彼(生徒会長)は「自分も(その先輩に)あやかりたい」と僕に言いました。 実際に、彼(生徒会長)が、東大理Ⅲを目指していたのかどうかは分かりません。 中2の夏休みが終わって、英語の塾に入った際は、彼(生徒会長)は「成績が良くなるように、一緒に頑張ろうね」と励ましてくれました。 中3の1学期の中間試験と期末試験。2教科で彼より良い点を取りましたが、5科目の総合点では、彼(生徒会長)に10点以上負けていました。 しかし、2教科でも、僕に1番をさらわれたことが、彼(生徒会長)には不満だったようです。「3点配点のあの問題を落とさなければ、俺が1番だったのになあ」等と後々まで拘っていました。 このように、この頃は、まだ、彼とは円満な人間関係でした。 ただし、彼(生徒会長)は、僕がKとその扇動に踊らされたクラスメート達によってバッシングされている際、僕を庇うということをしませんでした。 彼(生徒会長)は、バッシングには、一切、関わらない立場を貫きました。 生徒会長なんだから、連中を注意したり、宥めてやっても良かったではないかと、僕は恨めしく思いました。 彼(生徒会長)は、僕を庇うと、自分まで、Kとその扇動に踊らされたクラスメート達と対立することになるのではないか、恐れたと思います。 実は、彼(生徒会長)こそ、僕以上に「成績優秀であること」に価値観を覚えていた権化であったわけですが、彼(生徒会長)はクラスメート達の前では、一切、そのことを悟られないようにしていました。 彼(生徒会長)との関係がこじれ出したのは、中3の9月と11月に2度行われた出題範囲無制限の実力試験でも、(範囲のある)定期試験同様に、僕が高得点を取ったことを彼(生徒会長)が知って以降です。 しかも、9月の試験では、500点満点で20点ほどあった、彼(生徒会長)と僕の得点差は、11月の試験では10点ほどに縮小しました。 そして、彼(生徒会長)との人間関係が破綻する決定的な事件が起こりました。 11月下旬のある日、彼(生徒会長)から、「今度の日曜日、学校・塾以外の場所で行われる(ある業者の)1日模擬試験を受けに行こう」という誘いを受けました。 僕はこの誘いを快諾しました。 もうすぐ、実際に、学校・塾でない場所で行われる、本番の入学試験を受けるわけですから、それに慣れておくのも悪くないと思ったからです。 彼(生徒会長)は僕以外にも、同じ英語塾に通っている3名を誘いました。 その日曜日、5人でバスに乗って、模擬試験が行われる会場に弁当持参で行きました。 この時受けた模擬試験は「公立高校型」と言われる難易度は低い試験でした。レベルは九州管内の県立高校入学試験と同程度。 この1日模擬試験は、受験したその日のうちに、受験者が会場にいる間に、全科目の答案が採点されて、模範解答冊子と一緒に戻ってくるというものでした。 だから、僕達5人は、模擬試験の最後の科目が終わった後、採点が終わるまで、1時間近く試験会場にいて、この試験がらみの話をしていました。 5人のうち、出来が悪かったのか、浮かぬ表情だった者達がいました。僕と彼(生徒会長)以外の3名が全員そうでした。 そして、5科目全ての答案が返却されました。 今、僕が、おぼろげながら、記憶しているところによると、僕の点数は、英語97点、数学90点、国語91点、理科95点、社会97点の総合点470点ほどだったと思います。 5人の中で、英語、理科、社会の3科目については、僕が1番。数学と国語は、彼(生徒会長)が一番でした。 しかし、総合点では3点だけ、僕が負けていました。 彼(生徒会長)は数学が満点だったので、数学だけで10点差あったことが、総合点勝負に響いたのでした。 でも、僕と彼(生徒会長)の得点差は500点満点の試験で、僅か3点だったのです。 一緒にいた3人は、驚嘆し、それぞれ、思った通りのことを言いました。「この次、試験を受ければ、総合点でも似蛭田妖くんが1番になるかもな」「似蛭田妖くんは、あと、ちょっと、数学と国語を勉強するだけで、最強になるやん」「凄いぞ! 似蛭田妖! 小中学校通じて、ずっと首席の生徒会長と肩を並べるなんて!」 しかし、彼(生徒会長)は、顔を真っ赤にして、目を血走らせて、黙ったままでした。 彼(生徒会長)は、その後、試験会場を後にして、バスに乗って帰る際も、一言も話しません。 それは、翌日以降、学校と英語塾で顔を合わせてからも変わりませんでした。 記述通り、彼(生徒会長)は、ラサール高校から東大理Ⅲ(医学部)に行った、同じ小中学校の先輩にあやかりたいと言っていました。 それで、僕は、こう思ったのです。「おい、生徒会長。お前が尊敬する先輩だったら、お前のように、たったこれだけのことで口をきかなくなるなんて、こんな、みっともないことはしないぞ」と。 既述のように、彼(生徒会長)は、自分が1番の点数を取ることが当然であると口外していました。 このような思い上がった料簡があれば、ラサール高校も理Ⅲも絶対無理です。 ラサール高校どころか、久留米附設高校も青雲高校も無理。 理Ⅲどころか、理Ⅰ、理Ⅱも無理。旧帝の医学部も全て無理です。 自分など、まだまだ、たいしたことないと思って、謙虚に邁進するピュアな心が無いと、学力を伸ばすことはできないのです。 彼(生徒会長)は、この後、KやMと同調し、要所要所で、KやMをアシストするようになります。 彼(生徒会長)は頭が良いので、明瞭なバッシングの加害者にはなりません。 もし、僕に何かあった際、全ての責任をKやM達に負わせるために、自分は彼らの背後にいるのです。 バッシングを開始するのは、毎回、KやM達ですが、その際、彼(生徒会長)はこう言って、ある意味、僕へのバッシングはやむを得ないという空気を醸成しました。「似蛭田妖くん。原因は君にもある。君が我儘をして和を乱すから、皆と仲良く行かなくなるんだろうが。そして、先生にも父兄にも、生徒会やクラスの委員にも、迷惑と心配をかけるんだろうが」 僕は反論しました。「我儘やってるのは、そっちだろうが!」と。
2021.02.05
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前回分「僕のプロフィル的な話(12) 毎日家に来て、登校を迫った担任。」の続きです。 いよいよ、今回は、「僕のプロフィル的な話(2) 高校受験の直前、集団暴力の被害に。」でも触れましたが、「僕のプロフィル的な話」シリーズの中で最大の悲劇、寝所に急襲された事件のことについて、お話しようと思います。 この事件について説明する前に、お断りいたしますが、当時、被害者である僕は、体調不良で医師から処方された薬を飲んで寝ていました。 また、僕は登校拒否をしており、クラスメート達と関係を切っていたので、彼らの動きを知ることはできませんでした。 だから、以降にお話することは、事件後、母親や担任以外の教師、塾友(他クラスの同級生)等から情報を得て、僕も初めて知ることが出来たことなのです。 事前に、暴力生徒が押しかけて来ることが分かっていたのなら、どんなに具合が悪かろうが、一方的に被害に遭わないように、寝床から出て、何らかの抵抗手段を講じていました。 この事件発生もまた、軽薄で杜撰な担任教師に由来することでした。 事件発生に至る、学校側の動きは次のようなものであったそうです。 まず、僕が長期間、登校拒否を続けていることについて、職員室の会議で話し合いが行われたそうです。 その結果、教頭が担任に「原因を解決して、登校しやすい環境を作れ」と指示したのだそうです。 既述の通り、僕の登校拒否の原因は、クラスメート達から成績急上昇を逆恨みされ、1学期から謂われ無きバッシングを受け続け、2学期になると、その勢いが増し、教室で勉強することを露骨に妨害されるようになったこと。このような実態を担任に何度も相談したにもかかわらず、担任は何もしなかったこと。さらには、このような理不尽な行為に関与した関係者全員の謝罪がないこと等です。 これらのことが解決しない限り、僕の登校はあり得ません。 担任教師には、教職員の会議で、素直に自分の失敗と落ち度を認め、善処してほしかったです。 僕の件については、担任では対処できないから、他の先生に代わってもらうべきでした。 ところが、担任は自分の不利になることは隠して、その会議では、次のように発言したそうです。「教頭先生。すべて担任の私にお任せ下さい。私が責任を持って似蛭田妖くんを登校させます。なーに、生徒同士、話し合わせれば、解決できます。似蛭田妖くんの家にクラスメート達数名を差し向けてみましょう。ちょうど、今、似蛭田妖くんは体調を崩して寝ているそうですから、見舞いということで、クラスメート達数名を行かせましょう。行かせる生徒達は、私が選びますから」 そして、僕の家に、1学期(前期)のクラス委員長だったK、他3名の計4名が来訪することになったそうです。 ただし、担任は事件後、傷害行為実行犯のMについては、「差し向けていない。Mが勝手に見舞いを指示した生徒達に加わったんだ」と言い訳をしました。 Mは勝手に加わったのか、それとも担任に指示されたのか、という点は、何れの場合であっても、担任教師の責任を軽減する事由にはなりません。 他クラスの生徒だった塾友から聞いた話によると、僕のクラスでは、僕が登校拒否をして不在であっても、僕のことを悪く話すクラスメート達がいたそうです。 塾友の話では、「似蛭田妖に当たってストレスを解消したいんだが、本人が学校に来ないから、この怒りをぶつけようがないから困る」と言っていたクラスメートもいたそうです。 他クラスの塾友が、このような、僕のクラスの不穏な動きを、事件前に知ることができたのです。 しかし、担任教師は、このことを・・・ 連中からすると「似蛭田妖を叩きのめすことができる千載一遇のチャンス」を無駄にするわけはありません。「この際、心身に深いダメージを与えて、高校受験を妨害してやれ。似蛭田妖を偏差値の高い高校へ行かせるもんか」と思ったでしょうね。 そして、この傷害事件は起きました。 その日、午後3時から4時の間のことだったと思います。 僕は、その前、病院に行って帰宅して、薬を飲んで寝ていました。 病院には僕の母がついてきてくれました。母は、帰宅後、溜まっていた家事をこなしていたそうです。 その家事の最中、母は、突然やって来た、強引な生徒4名に驚きました。 生徒達は「先生からお見舞いに行け、と言われたから来ました。お母さんには関係ありませんから。後は自分達がやりますから」と言って、玄関から一直線に、僕が寝ている部屋に行きました。 僕の部屋の位置は、担任が教えたのだと思います。 なぜなら、この4名の生徒達は全員、僕の家の中に入るのは初めてでした。 驚いた僕の母は、生徒達と一緒に、僕の部屋に入ってきましたが、生徒達から「お母さんは、部屋の外に出て行って下さい。後は自分達でやりますから」と、これまた強引に追い出されました。 多勢に無勢だったそうです。 中学3年生の男子4人に、か弱い女性である母は、腕力負けして、何もできません。 それで、母は、即行で学校に連絡。 電話口で担任が「すぐに、来ます!」と叫んだそうです。 連中が部屋から母を追い出した後、何も知らない僕は、まだ寝ていました。 僕が気付いたのは、頭と顔面に激しい痛みを感じて目覚めたからです。 目を開けると、掛布団が剥されようとしていて、真ん前に拳を出す瞬間のMの顔がありました。そして、すぐ隣には、1学期(前期)のクラス委員長だったKの顔が。 大声で僕を威嚇する者もいました。クラスメートで生徒会長を務めていた人物です。 生徒会長は「似蛭田妖、お前は、みんなに迷惑をかけている。お前はみんなの和を乱す」と叫びました。 この生徒会長は、もともとは、僕が中2の後半から通い出した英語の塾で親しくしていた人物でした。 ところが、彼は、僕の成績が急上昇すると、僕を疎むようになり、挙句の果てには、僕をバッシングするKやMに同調するようになりました。 この生徒会長のことについては別の機会にお話します。 Mは僕に暴力を振う際、「寝たふりするから、こんなことになるんだ!」と叫びました。(僕は、真実、寝ていたのですが) Mは力尽くで僕の掛布団を剥そうとするので、僕は剥ぎ取られまいとして抵抗しましたが、その時、Mの拳が僕の頭と顔に何度も当たり、Mの手の指が、僕の目の中に入りました。 この事件の後、Mは「意図して、似蛭田妖くんの頭や顔、目を狙ったのではない。似蛭田妖くんが寝たふりをしていたので、腹が立って、布団を剥そうとして、意図せずに、そういうことになった」と言い訳をしました。 しかし、僕は、Mは僕の高校受験を妨害するために、意図的にやったと考えています。 そもそも、具合が悪く、病院から帰って薬を飲んで寝ている人間の枕元で騒ぎを起こし、布団を剥ぎ取ろうとする行為が暴挙なんですよ。 仮に、僕の頭、顔、目が無事であったとしてもだ。 勿論、M以外の3人は、このようなMの暴力を止めるなんてことはしませんでした。 M以外の3人は、僕の母を部屋から追い出し、母が戻ってこない様に見張り、あるいは僕の寝床の周囲を固め、僕が逃げ出さないようにして、Mの乱暴な行為を見守っていました。 連中が行為を止めたのは、僅かながらでも善意があったからではありません。 担任がやって来たことに1人が気付き、「担任が来たぞ」と言ったからです。 連中は、担任が入ってくる前に、蜘蛛の子を散らすように素早く撤収しました。 担任が僕の部屋に来た時、僕は目から出血し、頭にはコブが出来て、顔は腫れていました。そして、シーツのある部分は血で真っ赤に染まっていました。 担任は、僕の母から概略を聞いて、一部始終を把握したはずでした。 担任が開口一番、僕に言ったことは、「似蛭田妖くん。本当にすまなかった」 でも、その後に担任が続けた言葉に、僕は猛烈に腹が立ちました。「似蛭田妖くん。ごめんな。裏目に出てしまって」 僕は叫びました。「100%、裏目にしか出ないだろうが! うまく行った可能性があるかのようなことを言うな! 馬鹿か、 あんたは!」
2021.02.04
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前回分「僕のプロフィル的な話(11) 仕方なく3学期、登校拒否を選択。」の続きです。 既述の通り、高校受験期、1月中旬にインフルエンザに罹患して以降、僕が登校拒否をしていたのは、我が儘や気まぐれによるものではありませんでした。 登校拒否をしていたからと言って、遊んでいたわけではありません。 率直な話。学校に通っている時以上に、効率的に勉強が出来ました。 1人で家で勉強した方が、勉強がはかどること。はかどること。 勉強しながら、運動も、ちゃんとやっていました。 暗記カードを持って、人気(ひとけ)が無い所を歩きながら、口でもごもご言って、覚えました。完璧に頭に詰め込むまで、相当な距離を歩きました。それで冬場なのに、下着が汗でびっしょりになりました。 後年、テレビドラマの「ドラゴン桜」で、運動しながら勉強すると脳が活性化して集中力が向上することが紹介されましたが、僕は、このドラマが放送されるより遥か昔、中学3年生の時には、この極意を会得していたのです。 塾の先生は、教材を持って定期的に訪問されましたが、この頃はもう教えてもらうことなんてありません。 塾の先生は、専ら、僕を精神的にくじけさせないために来られていたと思います。 有り難いことでした。 一方、有り難くない訪問者もいました。 担任の教師でした。 担任は、毎日、訪問しては、「気は変わらないか。学校に出て来ないか」というセリフを繰り返すのです。 それで、僕も、最初のうちは、同じセリフを繰り返していました。「このまま、受験が終わるまで、学校に行かずに家で勉強します」と。 しかし、ある時、激高して、叫びました。「先生、くどいですよ!」と。 担任は、僕から何を言われようが、文句を言えない立場にありました。 このような事態を招いた責任の半分程度は、この担任教師にあったからです。 担任が3者面談での約束通り、僕が受験する高校名を伏せていれば、クラスメート達のバッシングはエスカレートすることはありませんでした。 家に来ても、中に入れてやらず、拒むことも出来たのです。 でも、僕と僕の親は、寛大にも、受け入れてやったのです。 ただし、僕は勉強で忙しかったので、「ご自由にどうぞ。適当にやって下さい。邪魔はしないで下さい」としか言えませんでした。 毎日、担任は、僕が机で勉強している所や運動しながら暗記カードと睨めっこしている所に来て、しばらく居て、母が出したお茶を飲むと帰って行きました。 そんな中、僕は、また体調が悪化して寝込むことになりました。 罹患したが治ったと思ったインフルエンザが、実は治癒していなかったのか、あるいは、別の型のインフルエンザに新たに罹患したのかは分かりません。 受験ツアーに出かける数日前のことだったので、僕は不安になりました。 この時、僕の頭の中には、一刻も早く、体調を回復させることしかありませんでした。 まさか、こんな、僕にとって最悪のタイミングで、暴力事件の被害者になろうとは、夢にも思いませんでした。 僕は連中を甘く見ていました。 学校に行かないことで、僕をバッシングする連中の脅威から逃げ切れたと安心していました。
2021.02.03
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前回分「僕のプロフィル的な話(10) 宝くじ当選者を守ることと同じだ!」の続きです。 今回は、担任教師が(僕が)青雲高校を受験することを口外したため、ただでさえ(僕の)成績急上昇に不満を持っていたクラスメートたちの(僕に対する)バッシングがエスカレートして行ったこと。そして、3学期には、やむを得ず、登校拒否をして自宅で勉強せざるをなくなったことについて、お話しようと思います。 担任が約束を破って口外した翌日から、バッシングは勢いを増して行きました。 授業の合間の10分間の休み時間、先生の都合で自習になった時間、弁当を食べ終わった後の昼休み時間などに、僕が塾の先生から貰ったプリント類に目を走らせていると、連中は、用件もないのに、僕に寄って来て、嫌がらせをしました。 ほとんどの奴らは、次のように、直接、文句を言ってきました。「おい、似蛭田妖! こっちを向いて、話を聞け! お前はもう、とっくに俺たちの成績を抜き去ったんだから、これ以上、成績を伸ばす必要はないだろうが! いい加減、勉強するのは止めろ! 勉強だけが人生じゃなかろうが!」 1学期(前期)のクラス委員長だったKは、相変わらず、「誰かさん」式で僕を非難していました。僕の近くに来て、僕と視線を合わせて話すのではありませんでした。「あーあ。誰かさんみたいに、青雲高校を受験する人とは、俺たちは違うからなあー。俺たちは、ほどほどに勉強させてもらうよねー。誰かさんみたいに、みんなから嫌われる欠陥人間になりたくないからねー。俺たちは、誰かさんと違って、クラスの和を大事にするからねー」 そもそも、休み時間に何をやろうが、個人の自由なわけです。 中3の10月にもなると、僕以外でも、休み時間に、真剣に勉強に取り組む者達を目にするようになりました。 しかし、連中は、個人の自由を侵害しました。連中は、勉強している他の者達のことには触れません。連中は、僕だけしか攻撃しませんでした。 僕は、中3の2学期、気が気ではありませんでした。 なぜなら、塾の模擬試験の結果では、青雲高校は「余裕で合格する」という判定でしたが、久留米附設高校は、ただの「合格」という判定だったからです。 また、第1志望の大阪の某国立大付属高校と、第2志望の府立高校も、久留米附設高校と同様、「余裕で合格する」という判定ではありませんでした。 青雲高校以外の3つの高校については、3つ受験して「全滅」することはないと、塾の先生は仰いました。 でも、僕は怖かったのです。 だから、3つの学校全てについて、「余裕で合格する」という模擬試験の結果判定を得ておきたかったのです。自信を持って、受験に臨むために。 受験勉強においては、①「偏差値50の学力を偏差値60の学力にすること」は、そんなに難しい事ではありません。短期間の努力で十分に達成可能です。 しかし、②「偏差値60の学力を偏差値70の学力にすること」、そして③「偏差値70の学力を偏差値75の学力にすること」はとんでもない努力と時間を要するのです。 僕の実感では、①の労力と時間を「1」とすると、②は「5」、③は「10」くらいかと。 だから、僕は、学校の休み時間であろうとも、無駄にしたくはなかったのです。 そもそも、既述した通り、上記の高校受験用に大量のプリント類を塾の先生から貰い、「学校の休み時間に目を通して、覚えておけ」と言われたので、僕はそうせざるを得なかったのです。 このような中で、クラスメートMによる勉強妨害事件が起きました。 Mは、早い段階から、1学期(前期)のクラス委員長Kに同調していた奴です。 用も無いのにやって来て、(僕の)机を「ぼん」と手で叩いて、僕を威嚇するのです。 そして、Mは毎回、概ね、下ネタの内容をほざきました。「おい、似蛭田妖! お前はマ○ター○ー○ョンはやらないのか! お前はやったことがないんじゃないか!」 Mがこう言うと、周囲で笑いが起きて、塾の先生から「学校の休み時間に覚えろ」と言われていた作業を行うことが出来なくなりました。 勉強に、全く集中できません。 これは、もはや、完全な「勉強妨害」ないし「受験妨害」です。 勿論、このことも、担任教師には訴えましたが、改善のために何もしてもらえませんでした。 そして、3学期が始まった1月。 冬休みが終わって登校しても、僕へのバッシングは続きました。 クラスメート達の多くは、願書を出せば、ほぼ全員が合格できる市内(地元)の県立高校を受験するので、僕のような「一生懸命さ」がありませんでした。だから、僕に嫌がらせを行う余裕があったのです。 ただ、そんな県立高校受験であっても、入試で高得点を取って、上位合格を果たしたいと考える者達は真剣に勉強していました。 この頃、Mは教室内だけでなく、終業後、下校するために靴を履き替えて、校舎を出ようとする際にも、僕に絡んで来ていました。 早く帰って、学校の宿題を終えて、塾に行かなければならないので、とても迷惑なことでした。 僕は、1月の中旬頃、運悪くインフルエンザに罹患して、学校を休みました。 そして、これを機に、もう学校には行かず、自宅で勉強して、受験ツアーに出かける段取りを、両親と親戚、塾の先生などと協議して決めました。 学校には行かず、塾にだけ通うことは可笑しいので、塾にも行かず、塾の先生が僕の家に学習教材を届けて下さることになりました。 中学校を卒業するために必要な出席日数は既に満たしていました。 仮に1月中旬から3月中旬まで、全て休んだとしても、問題はありませんでした。 既述の通り、担任教師にも、このような事態になった場合、登校拒否することは事前通告していました。こうなったことの責任は担任教師にもあったのです。 インフルエンザ自体は1週間程度で完治しましたが、その療養中、担任教師が見舞に来たので、はっきりと「これが治っても、僕はもう学校には行きません」と伝えました。 すると、担任は「先生に何か出来ることはないか?」と訊いてきたので、僕はまた、明瞭に言いました。「先生にやってもらうことは何もありません。この後のことは、親と親戚、それに塾の先生にやってもらうので、先生の出番はありません。先生が絡むとロクなことにならないので、お願いですから、先生は何もしないで下さい」と。 このブログの読者の皆様方。 普通、これだけのことがあって、これだけのことを僕から言われると、さすがに担任教師も反省して、迂闊な言動を自粛するだろうと思われるのではないでしょうか? ところが、そうではなかったのです。 この担任教師は、この後も、再三、僕を苦しみのどん底に突き落とす失態を仕出かすのです。 そのことは、次回、お話しいたします。 僕が大阪の某国立大付属高校、府立の某高校の次に志望していた福岡県久留米市の久留米附設高校。
2021.02.03
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前回分「僕のプロフィル的な話(9) 最悪!足を引っ張り続けた担任教師。」の続きです。 僕が青雲高校を受験することをクラスメート達には秘密にすると約束しながら、うっかり、教室で口外してしまった担任教師に抗議した際の詳細です。 まず、既述したことの確認ですが、担任は「約束を破ったことは悪かったが、すでに、うすうす、クラスメート達は似蛭田妖くんが青雲高校を受験するんじゃないかなと思っているようだから、話しても問題ない」と言いました。 この担任の見解について、僕は次のように反論しました。「先生! あなたがやったことは、うすうす思っているだけの状態のクラスメート達に、これは確定的事実ですよ、と明らかにしたんじゃないですか。問題はあるじゃないですか! 単に約束を破ったことだけが悪いんじゃありませんよ! よく考えて下さいよ! 例えば、政治評論家が衆議院を解散すべきだとテレビで言っていることと、解散権のある首相自身が解散を口にする事は、全然、違うことでしょうが!」 この僕の主張内容について、担任は何も言い返しませんでした。正当すぎて、何も言えなかったのだと思います。 しかし、担任が僕を宥めようとして、次のように言ったことが、さらに僕を熱くさせたのです。「すんでしまったことは仕方が無い。でもな。似蛭田妖くん。もとは優等生でなかった君が、一生懸命に頑張って成績を急上昇させたことは素晴らしいことだし、君が青雲高校を受験することは、先生にとっても、誇らしいことなんだよ。これは、悪いことじゃなくて、良いことなんだから、隠す必要はないと、先生は思うけどな」 僕は即行で反論しました。「確かに、成績急上昇も、青雲高校を受験することも、僕と先生にとっては、良いことですよね。でも、先生。クラスメート達にとっては、良いことなんでしょうかね? 僕は、クラスメート達は、悪いことだと認識していると思いますよ。先生、よーく、考えて下さい。良いこと悪いことなる価値判断は、それを評価する人の立場によって異なるじゃないですか。それでは分かりやすく説明しますよ。もとは農民だった豊臣秀吉は、織田信長から取り立てられて大出世して、信長の死後、天下を取りましたが、このことを織田家の重臣だった人達は全員、良かったねと認めてくれたのでしょうか? 先生達もそうですよ。今、職員室にる先生達の誰かが抜擢されると、他の先生たちは、そのことを素直に認めて、全員が、良かったね、ということになりますか? 僕は、そうはならないと思いますけどね。宝くじだって、そうじゃないですか。宝くじの1等に当選することは、良いことですよね。悪いことじゃありませんよね。でも当選者の氏名は秘密にされているじゃないですか。どうして公表しないんですかね?当選者にとっては良いことでも、周囲の人達の中に、悪いことだと認識する人がいるから、事件が起こらないように、秘密にしていると僕は考えています。僕の考えは間違っていますか!先生!」 ・・・宝くじ。 まさに、その宝くじの当選者の氏名を秘密にする理屈と、僕の場合も考え方は同じであったのです。 厳密に言うと、宝くじの当選者ですら、氏名が伏せられて、様々な脅威から守られるのだから、それ以上、優に、僕のことは秘密にされて守られなければならないと、考えたのでした。 だって、そうじゃないですか。 もとは非優等生だった僕が、久留米附設高校や青雲高校を受験できるような学力に達するまで、毎日毎日、物凄い努力を重ねてきたのです。でも宝くじの当選者は努力なんてしていないのですから。 この時の抗議で、最後、担任は僕にこう言いました。「似蛭田妖くん。君は中学生のくせに、年寄りのような考え方をしているな。君は理屈っぽいぞ。若者らしい素直さが無いぞ。それに君は、心が狭いぞ。大らかな心を持とうよ」と。 この担任の言葉も的外れなものでした。 僕は、もともと、地は、明るく素直で理屈をこねない、寛容で無邪気な子供だったんだよ! それが、クラス委員長Kとその扇動に踊らされた圧倒的多数のクラスメート達によるバッシングに対応するうちに、変容を迫られたんだよ! それなりの考え方をして対策しないと、敵の攻撃から、防衛することができないでしょうが!
2021.02.02
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前回分「僕のプロフィル的な話(8) 模試で県内20位なのに校内では5位。」の続きです。 中3時代、僕の担任だった教師は、既述の通り、「生徒間でどんな揉め事が起きても、話し合えば分かり合える。解決できる」という自らの楽観的信条を生徒に押し付ける、おめでたい中年男でした。 クラス委員長Kが僕を打ちのめそうとして悪意を持って作出した(既述の)「トイレ掃除」事件と「球技大会練習」事件についても、それぞれ、僕が真剣に相談したにも拘わらず、「話し合えば分かり合える」と言って、解決してくれませんでした。 進路相談を巡る、担任と僕ないし僕の親とのコミュニケーションも最悪のものでした。 そもそも、中3のクラス発足直後、家庭訪問に来た担任に、僕の母親は「うちの息子は高校は公立私立すべて市外の学校を受験します。市内の高校には行きません」ということを伝えていました。 そして、受験する高校について、僕と母と担任が話し合う、第1回の3者面談の際も、僕と母はこのことを繰り返しました。 第2回の3者面談の際には、僕サイドの最終決定として、次の3点を、担任教師に申し入れました。特に③については、繰り返し、お願いしました。担任は僕と母の前で「約束は守る」と断言しました。 ①地元の(市内の)県立の進学高校には行かないから、絶対に受験しません。 ②受験する複数の高校の選択は、今後の学力の伸び具合、塾で受ける模擬試験の結 果次第等で変わる可能性がありますが、大阪の某国立大付属高校と府立某高校、 それに久留米附設高校と青雲高校は必ず受験します。 ③クラスメート達には、僕が受験する高校名は絶対に秘密にして下さい。このこと をクラスメート達に知られると、受験を妨害されることが予想されます。もし、 そのような事態になれば、僕はもう学校には来ません。 それは、第2回の3者面談が終わってから数日後のホームルームの時間のことでした。 起こってはならないことが起こりました。 担任が「似蛭田妖くんは青雲高校を受験するよ」とクラスメート達の前で、うっかりと口外してしまったのです。 あれほど、「秘密に」と言ったのに! 何てことだ! その担任の言葉を聞いたのは瞬間的であったのに、僕の頭の中では、いろいろな考えが浮かんでは消えました。 その時、教室にどよめきが起き、静まった後には、いたるところから舌打ち音が聞こえてきました。 この日以降、クラスメート達の僕へのバッシングは激しさを増し、僕の学校での学習環境は悪化の一途を辿ることになります。 約束を破った担任には、当然、猛烈に抗議しました。 すると、担任は、概略、次のように言い訳しました。「約束を破って、ばらしたことは悪いと思う。でも、クラスのみんなは、うすうすは似蛭田妖くんが青雲高校を受験するんじゃないかなと思っているようだから、話しても、問題ないと判断した」 この時、担任にぶつけた僕の抗議の詳細については、次回、お話します。 実は、僕は、親しくしていた「塾友」にすら、受験する高校名は伏せていました。 それで、この出来事の後、「塾友」からは「自分にも隠しやがって、水臭いぞ」と言われました。 僕は「敵を欺くには、まず味方から」を実践していたわけです。担任教師の約束違反のおかげで駄目になりましたがね。
2021.02.01
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前回分「僕のプロフィル的な話(7) 同じ月の「球技大会練習」事件。」の続きです。 既述の通り、中1時代の僕の成績順位は、学年約300人中、100番にも入っていませんでした。 中2の夏休みに、親戚2人による、心に響く説諭があって、勉強する気持ちになったこと。初めに英語だけを教える塾に通い、中3になってからは全科目を教える塾に通ったこと。そして自宅でも猛勉強を続けた結果、学力が急上昇したことなども述べました。 今回は、この学力の部分について、具体的なお話をしようと思います。 まず、最初に本格的に勉強し出した英語ですが、勉強開始から数か月で結果が出ました。 なんと、中2の2学期の成績は「5」でした。同時に、過去の英検3級(中卒程度)の問題を解いて、優に合格ラインを突破する実力をつけるに至りました。 英語については、中2の終わり頃の学力で、あらゆる進学高校の入試過去問を解いて、合格ラインを超えていたのです。 中3になると、英語の学力はさらに伸びて、英検2級(高卒程度)の過去問を解いて、合格ラインを超えました。 ただし、僕は中3の時、英検2級は受験できませんでした。英検の試験日が、塾で行われた高校入試模擬試験の日と被ったからでした。 中3になって、本格的に勉強を始めた英語以外の科目も、概ね、英語の成績と同様の経過を辿りましたが、公立高校型模擬試験を受けて、数学と国語については、英語、理科、社会のように100点とか98点を取ることができませんでした。 数学と国語は90点程度しか得点することが出来ませんでした。この2科目は私立進学高校型模擬試験だと70点台を取るということもありました。 その理由は、中2の後半という、本格的に勉強を始めた時期が遅すぎて、全科目を完璧にするには学習時間が足らなかったのです。 塾の先生は「数学と国語は90点程度で良い。この2科目で100点とか98点を取ろうと考えるな。この2科目で、それをやろうとすると、相当な勉強時間を取られて、今度は英語、理科、社会の3科目がダメになる。要は5科目の総合点で高得点を取ればいいんだから」と言われました。 当時の公立高校型模試では、概ね、こんな結果でした。 英語98点 数学90点 国語90点 理科100点 社会96点。 私立進学高校型模試では、こんな具合でした。 英語90点 数学75点 国語75点 理科87点 社会90点。 中3の夏休みの時点で、長崎県、熊本県、福岡県などの高校入試過去問を解いて、余裕で9割の450点(500点満点)を超えました。 また、この頃、青雲高校の入試過去問を解いても、楽に合格ラインを突破する学力がついていました。 中3の8月から12月にかけて、通っていた塾が提携していた関係で、数多くの模擬試験を受けましたが、長崎県内での僕の成績順位は、概ね、20番前後でした。 これらの模擬試験には、公立では修猷館高校、鶴丸高校、熊本高校、長崎西高校などを、私立ではラサール高校、久留米附設高校、青雲高校などを受験する生徒たちが参加していたので、その結果による学力評価は信頼されていました。 僕の学力評価は、九州管内の公立高校は全て余裕で合格圏内。青雲高校も余裕で合格圏内。久留米附設高校はただの合格圏内。ラサール高校は合格不合格が半々、というものでした。 もともと僕は勉強を始めるのが遅かったので、ラサール高校合格は無理だと思っていました。塾の先生もそう仰っておられました。 だから、狙いを、九州管内については、久留米附設高校に絞ったのでした。 ところで、このブログの読者の皆様方におかれましては、「中3時代に何度も受けた広域模試の結果、似蛭田妖の学力は長崎県内で20位前後であったのに、どうして、通っていた中学校の試験では5位だったのか?」という疑問を持たれたのでないかと思います。 このことについては、本ブログ1月29日分「僕のプロフィル的な話(3) 暴力被害の発端は成績の急上昇。 」において、前振りをしています。 それは、つまり、僕が通っていた中学校で僕を教えた教科の先生方の中に、僕の成績急上昇をネガティブに見ていた人がいたからです。 その人の教科では、僕については試験の点数の付け方が厳しかったのです。 最初の頃は、抗議していましたが、ある時から止めました。 なぜなら、抗議が通って、その先生が改心してくれて、その教科の試験の点数が5点とか7点とか上がって、学年で5位だった席次が2位や1位になったところで、僕の高校受験には何らプラスにはならなかったからです。 僕が通っていた中学校で席次が1番になったところで、そんなことは、僕が志望していた大阪の国立大付属高校や府立高校、それに福岡の久留米附設高校などに合格することを保証してくれるものではなかったのです。
2021.02.01
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