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名古屋市中川区昭和橋通6に鎮座する春日神社。 社頭の目の前を国道1号線が東西に伸び、多くの車両が行き交う落ち着かない環境。今回はこの周辺の神社を訪ねてみました。市バス「東中島停」の前に社頭を構え、左に中島稲荷大神の鳥居と右に春日神社の鳥居が並んで立てられています。中島稲荷大神社頭から境内の眺め。 多くの奉納幟と鳥居が連なり、崇敬の厚さが伺われます。本殿は流造で外削ぎ千木と四本の鰹木が載るもので、その前を一対の狛狐が守護する。 本殿後方に風景写真のパネルが立てられており、ともすれば街中の神社の後方は住宅であったりして撮りづらいものですが、これなら撮り易いし雰囲気もいい。陽当たりに問題なければ、これはいいアイデアだと思います。春日神社社頭から境内の眺め。 市内にあって鎮守の杜こそないが、広い社地を持っており、余裕をもって社殿が建てられています。社頭左の手水舎はコンクリート製で比較的最近に建て替えられたものに見受けられます。拝殿正面全景。 石造の蕃塀を構え、その先に一対の狛犬が拝殿を守護する。腰板部分には獅子、欄干には龍が彫りこまれています。境内左から社殿全景。 スクエアな拝殿の大棟には7本の鰹木と外削ぎの千木が載り、平側に切妻の向拝が付くコンクリート造り。 拝殿正面の狛犬、寄進年は未確認。拝殿額は春日神社。 当神社の由緒は現地には見当たらず、以下の情報を掲載します。愛知県神社名鑑(1992出版) 『十四等級 春日神社 旧村社鎮座地 名古屋市中川区昭和橋通6-35 祭神 天児屋根命由緒 社伝によれば寛永八年(一六三一)鬼頭景義が中島新田開発時に村の安全と繁栄を願って勧請創祀した。明治五年七月村社に列格する。 例祭日 十月七日(第一日曜日)社殿 本殿 神明造、覆殿、拝殿、社務所』上は大正時代の鎮座地の様子。 当時はまだ国道一号線も作られていないころ、百曲街道から少し奥まった場所にある鳥居の印が春日神社で、今は住宅が広がる一帯ですが、新田開発が行われた江戸時代は広大な水田が広がっていた。 その新田・集落の鎮守として祀られたのが春日神社。この町の始まりから現在までの繁栄ぶりをずっと見続けてきた。拝殿内から幣殿、本殿方向の眺め。 神紋は春日大社の下り藤に中島の中の字が入ったもの、鞘殿に収まる本殿は流造。鞘殿から社頭の眺め、全体は新しく綺麗な印象を受けます。 この社殿の沿革はよく分からないが、平成八年の寄進者名の石碑があることから、恐らくこの時期に建て替えられたものかもしれません。境内右手の境内社。 本殿域の玉垣は昭和九年に建立されたもので、社名は定かにはならなかった。春日神社・中島稲荷大神(中川区昭和橋通)創建 / 寛永八年(一六三一)祭神 / 天児屋根命境内社 / 中島稲荷大神、不明社例祭日 / 十月七日(第一日曜日)氏子域 / 昭和橋通、東中島町所在地 / 名古屋市中川区昭和橋通6-35アクセス / あおなみ線中島駅から国道1号線を西に0.3km・徒歩5分ほど参拝日 / 2026/4/13
2026.05.22
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地下鉄名城線志賀本通駅2番出口から南1kmほどの名古屋市北区大杉3。 江戸時代の名僧豪潮律師(1749-1835)終焉の地とされ、この地に豪潮律師が葬られていた寺が鎮座したが明治初期に廃寺となっていた。後の豪潮律師没後百五十年を期に建立されたのが寺号からもわかるように一願山不動院豪潮寺。豪潮寺参道前から本堂の眺め。 右に「一願山不動院」、左に「南無大日聖不動明王(1960健之)」の石標が立てられています。左の奉納幟の影に隠れていますが、境内社の鳥居が立っています。境内中ほどから本堂と鎮守社の眺め。 左手の奥に五基の宝篋印塔がありますが、その中には相輪が欠けたものも見受けられます。豪潮は当時の社会不安を取り除き、平和をもたらそうと、生涯に多くの宝篋印塔の建立を発願し、各地に建立しますが、終焉の地にもその思いは留められれています。 宝篋印塔の後方には、普光寺の金色の大佛が見えています。境内左側には堂と石仏が安置されています。 堂の左側に黒ずんだ不動尊像が安置されていますが、空襲により砕け散った像を住民の手により修復されたもので、「火伏せ不動」とも呼ばれています。空襲により自らは焼かれ、バラバラになりながらも、不動像が見据えていた先の長屋だけは燃え残った事から、近隣では今も崇敬されている。 この像と相輪が欠けた宝篋印塔は、戦争の愚かさを伝える戦争遺構だ。参道入口の「豪潮覚海律師の終焉地」解説。 『豪潮覚海(1749-1835)、熊本の生まれで、幼少より仏門に入り、経典の会得など速く神童と呼ばれた。十六才で比叡山に入り、一食一采で難行苦行し、学徳共に磨き、顕密二教の蘊奥を極めた。 その後、熊本に戻り貴賎を問わず法益を施し、広く名声を高めた。尾張一〇代藩主 斉朝が重病の折、再三の懇請で来名、加持祈禱で全快したという。 豪潮は、詩書画にも秀で、無所得道人・八萬四千煩悩主人などと号した。豪潮の没後150年にその偉徳を偲び、当豪潮寺が創建された。名古屋市教育委員会』 「名古屋の史跡と文化財(1970)」には上記のように纏められていました。白壁に火灯窓が豪潮寺を印象付ける、現在の堂は解説からすると昭和60年頃のものだろうか。山号額。 本尊は大日大聖不動明王。堂内には木像の一願不動尊像が安置されており、この像には以下のような伝説がある。 『明治の中ごろ、美濃の御嶽教の修験者であった清覚の夢の中に一願不動があらわれ、「私は今、古道具の中でがらくたに囲まれている。私を道具屋から連れ出して、おまえのところに置きなさい」と言われた。 清覚は、翌日、さっそく古道具屋に行ってみると、夢の中で見た一願不動が店先にかざられている。だいじに前津小林町の御嶽教の教会に一願不動を持ち帰り、祭ったという。』当日は堂の扉は閉じられ内部は拝めなかった。鎮守社の飯縄白龍神。従来より境内に祀られていたが、平成9年(台座の寄進年)にここに遷されたようです。 由緒などの詳細はわからなかった。豪潮覚海律師終焉地「一願山不動院豪潮寺」創建 / 昭和60年頃本尊 / 大日大聖不動明王鎮守社 / 飯縄白龍神所在地 / 名古屋市北区大杉3-15-17アクセス / 地下鉄名城線志賀本通駅2番出口から南に1km・15分程。参拝日 / 2026/05/02
2026.05.19
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第十四回 歩いて巡拝 知多四国も八十一番札所龍蔵寺の参拝を終え、常滑街道をゴールの名鉄常滑線寺本駅に向かいます。龍蔵寺山門から70mほど先に、写真の神明社社標(大正13年寄進)が目に止まり、参拝することにした。 民家に挟まれた狭い参道を50mほど進むと、神明社の社地と八幡児童公園の広々とした空間が現れます。 入口に神明鳥居を構え、更に50mほど先に社殿が建てられています。社頭の由緒。『神明社鎮座地 知多市八幡字小根十七番地 境内面積 五四九九平方米祭神 天照大御神、豊受大神 末社 津島社、多賀社祭事 小正月祭 一月第二日曜日太々神楽祭 四月第二日曜日 祇園祭 七月第二日曜日由諸 創建の年代不詳なるも、天智天皇の御代(668-672)薬王山法海寺(知多市八幡平井23)の開基に伴い、同寺の鎮護として八幡宮(八幡荒古後86)並に当宮を創建し併せて寺本両宮と称した。 別名当宮を日暮宮とも称される。』愛知県神社名鑑(1992)では以下のように書かれていました。 『十四等級 神明社 旧無格社鎮座地 知多市八幡字小根一四番地 祭神 天照大御神 豊受大神由緒 創建は明らかでない。棟札に延宝三年(1675)建立とあり。 明治六年据置公許となる。字小根を崇敬者区域とする。 例祭日 七月第二日曜日社殿 本殿 神明造、拝殿、社務所』上は明治時代の地図に、神明社、八幡社、法界寺の鎮座地を記してみました、この頃は既に八幡村となっていますが、神明社が海辺に鎮座していたことが分かります。 神明社の別名日暮宮の由来は、天智天皇の御代、新羅国明信王の太子(道行法師)が舟でこの地に着いたころ、日暮れとなり舟路を諦め、上陸したことが法界寺の開基に繋がったと伝わり、そこから日暮宮と呼ばれるようになったという。鎮座地の小根や、駅名にもなっている寺本の地名は、江戸時代の地誌にも名が記された古くからの地域。 寺本の地名の由来は、今から1350年以上前に創建された古刹 法海寺を中心として多くの寺があったことからこの名がついたとされます。その法海寺の鬼門封じのために創建されたのが八幡宮と神明社という。鳥居から先の境内の眺め。 拝殿横に聳える巨樹が印象深い。拝殿前には一対の狛犬が安置されています。年代未確認の狛犬の風貌はなかなかのもの。境内の手水鉢は、約3世紀前の元文五年(1740)の先人達が寄進したものです。拝殿前の常夜灯は文政二年(1819)と刻まれています。 古来より漁業や農業で生業を得ていたと思われ、江戸時代に近隣の岡田で発祥した知多木綿の海運にも関わったのではないだろうか。社殿全景。 入母屋瓦葺の妻入り拝殿で、普段は蔀戸で四方は閉じられているようだ。沿革を調べてみるも定かにはならなかった。拝殿右側から本殿域の眺め。 右手に境内社二社が祀られ、その先の本殿域には神明造の本殿と流造の境内社二社が祀られている。右手の境内社は右が天満宮、左が浅間神社。本殿右の見世棚造の境内社は津島社。神明造の本殿には天照大御神、豊受大神の二柱が祀られています。左手の見世棚造の社は多賀社で、左には山神社が祀られていました。境内右手に聳えていた巨樹は御神木の大楠。 一本の幹が二手に別れ、それぞれが大きく成長したもので「相生の楠」と称されるもので、写真を見てもわかるように、夫婦の長寿や子宝・安産に霊験があると伝わる。街道から奥まった場所にあり、少し前は潮騒も聞こえたであろう境内は静寂に包まれていた。 さあ、寺本駅に向かい帰途に着こう。第十四回 歩いて巡拝 知多四国 神明社創建 / 不詳祭神 / 天照大御神 豊受大神境内社 / 天満宮、浅間神社、津島神社、多賀社、山神社氏子域 / 知多市八幡祭礼 / 7月第2日曜日参拝日 / 2026/03/28所在地 / 知多市八幡小根14龍蔵寺から神明社 / 常滑街道を70mほど寺本駅に向かい、社標で左折直進、約150m、徒歩2分。参拝日 / 2026/03/28関連記事 ・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十四番札所 雨宝山 密厳寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十五番札所 雨宝山 誕生堂・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十三番札所 雨宝山 正法院・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十七番札所 雨宝山 浄蓮寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 多度神社・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 八十番札所 海鳴山 栖光院・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉社・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 八十一番札所 巨渕山 龍蔵寺
2026.05.18
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前回記載した小根の秋葉社、その社頭を右に進み、一筋目を右に向かうと八十一番札所 龍蔵寺到着です。 第十四回歩いて巡拝 知多四国最後の札所になりますコースは常滑街道沿いの山門ではなく、南側にある裏口から境内に導いていました。 写真右手の寄棟の建物が弘法堂で、左側が本堂になります。弘法堂脇から境内に進んだ先の境内の全景。弘法堂正面全景。 西側から眺めた屋根は寄棟、正面から眺めると入母屋造で向拝が付く個性的な屋根の形をしています。向拝柱に吊るされた大きな草鞋が印象的です。 弘法堂内の眺め。寄棟瓦葺の本堂正面全景。 ガイドブックによる当寺の解説は以下のようなものです。 『八十一番札所 巨渕山 龍蔵寺曹洞宗 知多四国八十一番 巨渕山 龍蔵寺(りゅうぞうじ) 御本尊 地蔵菩薩 開基 天室春公首座 開山 黙道僊宗大和尚由緒 ここ小根の地に元和三年(1616)、地蔵菩薩に深く帰依する京の公卿が移り住んだところから龍蔵寺の歴史が始まる。ある年、近郷に悪病が蔓延し、苦しむ村民のために公卿が地蔵菩薩に平癒を祈ったところ、たちまち治まりました。 人々はその恩に報いるため、本堂、諸堂を建て、霊験あらたかな地蔵菩薩を奉安しました。後に出家された公卿こそが開基の天室春公首座で、開創当時は巨渕山龍蔵庵と号していました。その後、寛政二年(1790)に堂宇は炎上しましたが、三年後、八世 玄旨和尚の時に再建され現在に至っています。』山号額。本堂内の眺め、左にトイレの神さま烏枢沙摩明王が祀られています。山門に向かう参道の左に祀られている鎮守社は秋葉三尺坊大権現。常滑街道沿いに構える山門から境内の眺め。 門の両脇を二階建ての建物に挟まれており、門自体が歩道から少し奥に建っているので、街道を歩いてきても、遠目からでは分かりにくいかもしれない。この日最後の参拝を終え、常滑街道沿いにゴールの寺本駅に向かいました。 その途中、道路脇で神明社の社標を見かけ立ち寄ったので次回はそちらを掲載します。 むかしより やさしきものといいつたふ ほとけのみかお ふかきじひそう第十四回 歩いて巡拝 知多四国 八十一番札所 巨渕山 龍蔵寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 地蔵菩薩創建 / 元和三年(1616)開基 / 天室春公首座 開山 / 黙道僊宗大和尚札所 / 知多四国八十一番札所境内社 / 秋葉大権現所在地 / 知多市八幡字小根138秋葉社から龍蔵寺 / 秋葉社社頭を右に、一筋目を右に入って左側、約180m、徒歩2分。参拝日 / 2026/03/28関連記事 ・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十四番札所 雨宝山 密厳寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十五番札所 雨宝山 誕生堂・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十三番札所 雨宝山 正法院・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十七番札所 雨宝山 浄蓮寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 多度神社・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 八十番札所 海鳴山 栖光院・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉社
2026.05.17
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知多市八幡小根の袋小路に鎮座する秋葉社。鎮座地は知多新四国八十一番札所龍蔵寺付近の常滑街道西側にあたり、旧八幡村集落の北側に鎮座します。明治11年(1878)に平井村、中島村、迫間村、堀之内村が合併し、八幡村となり、大正11年(1922)に八幡町大字八幡、その後も編入を繰り返し昭和45年(1970)に知多市大字八幡となった町。 大正当時の地図では、ここから西は波打ち際が迫る海辺の町だったことが分かる、それも埋め立てが進むとともに海辺は見えなくなり、今では美濃川が当時の名残を感じさせる程度。今回取り上げる秋葉社は、国道155号線(常滑街道)の小根交差点から、漁師町を思わせる細い路地を西に入った交差点角に鎮座しています。 龍蔵寺を目指していたので、社頭前を通りがてら写真に収めたもので、詳細は良く分かりません。秋葉社社頭全景。 玉垣の寄進年「大正十三年」だけは目に止まりましたが、それ以外の寄進物の年代は不明です。神明鳥居の先には石垣が積まれ、その上の玉垣で囲われた本殿域の扉には、秋葉さんを象徴する赤い楓紋が入れられています。 石段の左に「正一位秋葉大権現」と刻まれた石標も建てられていました。本殿は瓦葺の流造のように見えます。 創建時期を調べたものの、愛知県神社庁に登録はなく、地史を見ても情報は得られず定かではなかった。秋葉社の左の社は、社名札がなく社名は分かりませんが、後方の祠の棟には「水」の文字が入っており、火伏の神 秋葉社と共に海辺で肩を寄せ合う集落の鎮守として祀られたのだろう。 右手の祠は地蔵堂だろうか。偶然通りがかった古い町並みに鎮座する秋葉社、今も大切な存在なんだろう。今回最後の札所となる八十一番 龍蔵寺は社頭から右に進んで、次の路地を右に入れば到着です。第十四回 歩いて巡拝 知多四国 秋葉社創建 / 不明祭神 / 秋葉大権現境内社 / 不明社あり所在地 / 知多市八幡小根44-1栖光院から秋葉社 / 常滑街道を越え800m、約10分。参拝日 / 2026/03/28関連記事 ・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十四番札所 雨宝山 密厳寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十五番札所 雨宝山 誕生堂・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十三番札所 雨宝山 正法院・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十七番札所 雨宝山 浄蓮寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 多度神社・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 八十番札所 海鳴山 栖光院
2026.05.14
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佐布里井洞脇前の多度神社から、八十番札所 栖光院までは、佐布里パークロードを1.5kmほど下流の阿原橋にむかいます。 阿原橋から左に進み、途中、八幡新町の御嶽神社の社頭を見かけましたが、石段の多さから横目に見ながら八幡字観音脇地内に鎮座する栖光院に向かいました。多度神社から八十番札所 栖光院までは40分ほどの道のりです。御嶽神社の西側で右に曲がり直進し、尾張観音池が見えてくれば、その先が八十番札所 栖光院です。 写真は尾張観音池の北側から眺めた栖光院の全景、境内に聳える楠の巨木がこの寺の象徴かもしれない。参道入口から眺める仁王門。 両脇に塀はなく、門だけがポツンと佇んでいます。門前には広い駐車場があるので、車で訪れても駐車場に困ることはないでしょう。左右の間に安置されている金剛力士像。 門の建立時期や像の制作年代など、調べておらず詳細は不明です。仁王門に掛けられた山号額、その先に樹齢850年ともいわれる大楠が聳えており、その根は地表にまで現れ、参道や石垣にまで及ぶ勢いを持っています。参道はここから緩やかな上りとなり観音堂・弘法堂に続きます。太い主幹は上で幾つかに枝分かれ、樹高は優に25mを超えるのではないだろうか。 この大楠の巨木は知多市の保存樹に指定されており、栖光院にはこの他に仁王門脇の黒松が指定されています。参道を上り始めると右側に本堂と庫裏が建っています。海鳴山 栖光院の由緒。 『栖光院は、元亀年間(1570~1573)頃とされ、往時、海鳴山真言寺と称し、栖光庵・慈林坊を末寺に持つ一山だった。天正五年(1577)、恵了和尚の時に栖光庵一寺に合併、曹洞宗に改められた。 寛文二年(1662)に建立された観音堂にお祀りされる、本尊聖観音像は仏師春日の作といわれ、三十三年毎に御前帳される秘仏。また、当寺から裏山に続く石段には「準四国八十八ヶ所」石仏が並んで安置されています。 栖光院の「姿弘法大師」は別名を「影弘法」と称される。大師像の祀られた茶所は巡拝者への接待のため、長年かまどの火を焚いていたとされ、ある時大師像を動かしてみたところ、煤けた白壁に像の跡が現れたことから、以来壁の補修の際はその部分を残して補修されてきたため、今も壁に残る像の跡は見ることができる。』参道の先は、白壁に挟まれた石段が観音堂に続く。石段脇の手水舎。 楠は本堂の棟を超え、この高さから見ても眼下には収まらない。石段正面の観音堂。寛文2年(1662)に建立された観音堂。堂内には釈迦誕生仏や十一面観音菩薩など複数の仏画が掛けられています。本尊の聖観音像は三十三年毎に御前帳される秘仏。観音堂(左)と弘法堂。弘法堂の額は弘法大師とあり、右に犬に導かれ高野山を目指す大師の奉納額が掛けられています。堂内の大師像。大師堂の右に安置される石像群。弘法堂右の斜面の上に堂が建てられていましたが、石段に躊躇い行くのは見送りました。ましませる さとのなさへも てらもとの ほとけのくどく よにもあまねし第十四回 歩いて巡拝 知多四国 八十番札所 鳴海山 栖光院宗派 / 曹洞宗本尊 / 聖観世音菩薩創建 / 元亀年間(1570~1573)開山 / 拙堂魯中大和尚開基 / 智翁恵了和尚札所 / 知多四国八十番札所所在地 / 知多市八幡字観音脇25番地多度神社から栖光院 / 信濃川沿いの佐布里パークロードを下流に向かい、約2.8km先の八幡字観音脇地内の栖光院まで40分。参拝日 / 2026/03/28関連記事 ・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十四番札所 雨宝山 密厳寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十五番札所 雨宝山 誕生堂・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十三番札所 雨宝山 正法院・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十七番札所 雨宝山 浄蓮寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 多度神社
2026.05.13
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佐布里五ヶ寺最後の七十七番札所 浄蓮寺の参拝を終え、門前の前の県道252号線を右に向かい信濃川に向かいます。コースは、信濃川に寄り添うように北へ延びる佐布里パークロードを進む設定になっていた。 護岸沿いの遊歩道には多くの樹木が植えられ、四季折々の花が楽しめるよう丁寧に整備されている。この時期の主役はやはり桜で、満開の並木道を歩いてもらいたいという意図が感じられる。 自然相手ゆえ思惑どおりとはいかなかったが、見頃には少し早いながらも、桜の花は参加者をやさしく迎えてくれた。しばらく進むと、右手に神社の社叢が視界に入ってきた。 残る札所はあと二つ。時間にも余裕があったため、立ち寄ることにした。 ただ、神社は信濃川の対岸にあるためすぐには渡れず、少し先の橋まで回り込んで渡り、県道254号線へ出て社叢を目指すことになる。神社は佐布里字井洞脇前に鎮座する多度神社でした。 上げ馬神事で知られる三重県多度町の多度大社の祭神を祀る神社。web情報に「上げ馬神事で有名」と書かれているが、こちらで上げ馬神事は行われていません。参道の入口には「村社 多度神社」と記された社号標が立ち、その先に石灯籠が一基据えられていた。 右手奥には手水舎があり、境内へ入る前にここで手を清めることができる。鳥居は石造の明神鳥居で、ここから石段を上がると社殿へと続いている。 周囲は木立に囲まれ、県道脇に位置しながら、奥へ向かう参道は静けさが感じられた。また、社地左側に境内社も祀られています、右手に写り込むのは佐布里会館で地域のコミュニティーの場になっています。石段の途中から拝殿を望む。 正面に拝殿が建ち、右手には社務所が続いている。参道脇には石灯籠が並び、境内の桜がちょうど花をつけていた。落ち着いた雰囲気の境内は、玉砂利の参道の先に篝火台が据えられ、拝殿の前には狛犬が一対置かれている。 社殿は背後の杜に寄り添うように建てられていた。拝殿の前には大正十二年に寄進された一対の狛犬が境内を見守るように据えられている。僅かに開いた扉越しに内部をのぞくと、腰壁から上は蔀戸になっているようで、正面に御幣らしきものが見える。 普段は暗い拝殿内も、祭礼時には蔀戸が開けられ、陽射しの差し込む明るい空間になると思われます。拝殿の背後には石垣の上に本殿域が設けられ、本殿と両脇の境内社が木立に囲まれるように鎮座している。本殿域全景。中央の本殿は流造で、左右に神明造の境内社が祀られています。 境内社は社名札が見当たらず不明です。尾張徇行記 (1976再販)には「一社二区、覚書ニ富士権現 山神社内六反五畝十歩 前々除 〇庄屋書上ニ 氏神二社 境内六反歩御除地一社ハ 富士浅間 此社勧請ノ年紀ハ不詳 大永七年丁亥再営アリ 一社ハ 多賀大明神 元和七年辛酉ノ勧請ナリ 山神社内五畝十歩御除地、寛永年巳丑ノ勧請ナリ」とありますが、いずれにも該当しないと思われ、周辺を検索したが諏訪神社はあるものの、ここに記されている神社は見当たらず定かにはならなかった。愛知神社名鑑(1992)は多度神社について以下のように纏めていました。 『十二等級 旧指定村社 多度神社鎮座地 知多市佐布里字井洞脇前五一番地 祭神 天津日子根命、於加美命由緒 創建は明らかでない。古くは五社明神と称した。慶応二年(1866)諏訪神社の多度権現社と合祀し、明治後五社ノ社は末社となった。 明治四十年十月二十六日、供進指定社となる。同年字上加世端 無格社 清龍神社を合祀した。 例祭日 十月十日社殿 本殿 流造、拝殿、社務所 特殊神事例祭日に当社と諏訪神社(佐布里森下地内)との間に隔年 渡御の神事あり』これからすると当社は五社明神としてはじまり、ここから0.5kmほど西に鎮座する諏訪神社(佐布里森下地内)の多度神社を迎えた後に、五社明神は境内社 五社ノ社として祀り、清龍神社が祀られたようだ。渡御の神事が現在も継がれているのかは定かではなかった。城壁のように積まれた石垣の上に鎮座する多度神社、拝殿左から下の境内に下りる石段が伸びています。広い境内の奥には養蠶(こかい)神社が祀られています。養蠶(こかい)神社本殿。 板宮造りで、稀に境内社のひとつとして小さな社を見かけますが、単独でこうして祀られるのは珍しいかもしれない。信濃川右岸の井洞脇前地区に鎮座する多度神社、対岸の高みに鎮座する諏訪神社とは古くから所縁があるようだ.....そちらも立ち寄っておくべきだったか。第十四回 歩いて巡拝 知多四国 多度神社創建 / 不詳祭神 / 天津日子根命、淤加美命境内社 / 不明社二社(五社ノ社、清龍神社か?)、養蠶神社氏子域 / 佐布里、佐布里台祭礼 / 十月スポーツの日所在地 / 知多市佐布里字井洞脇前51番地浄蓮寺から多度神社 / 信濃川沿いの佐布里パークロードを北に850mほど、約15分程。参拝日 / 2026/03/28関連記事 ・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十四番札所 雨宝山 密厳寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十五番札所 雨宝山 誕生堂・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十三番札所 雨宝山 正法院・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十七番札所 雨宝山 浄蓮寺
2026.05.12
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佐布里五ヶ寺最後の寺となる、七十七番札所 雨宝山浄蓮寺は、正法院から徒歩2分程の地蔵脇地内の入口に鎮座します。写真は地蔵脇地内の車道から望む七十七番札所 雨宝山 浄蓮寺の伽藍全景。 後方は竹を含む雑木林になっており、地蔵脇を取り囲む里山の北外れに位置し、左に県道252号線が東西に延びています。七十七番札所 雨宝山 浄蓮寺門前から境内の眺め。 主な建物は、境内左手の手水舎、弘法大師を祀る本堂、右手の庫裏になります。今回の歩いて巡拝知多四国の梵字カードはこちらの境内で配布されました。寄棟瓦葺の本堂には、弘法大師像と本尊の不動明王が安置されています。 ガイドブックの浄蓮寺由緒から抜粋した内容は以下になります。 『浄蓮寺は、雨乞山如意寺の一坊として開創され、明治の初めの神仏分離により、真言宗豊山派浄蓮寺となりました。現在は札所五ヶ寺が並ぶ地蔵脇の入口に佇んでいる。 七十七番は喜寿に通じることから、そうした節目に参拝される方もあるという。本堂は、天明元年(1781)に建立され、天保十一年(1840)には屋根の葺き替え、さらに昭和六十年にも修復改築が行なわれた。 地元の人びとによって大切に守られてきたと伝えられる建物は、平成十五年より節分行事が再開されたことから、平成十八年に参拝者を風雨から守るため本堂の庇を大きくした。浄蓮寺は、かつて、弘法大師が立てた杖から芽が出たという裏山の竹藪から採った竹を、砂で磨き天日干しし、御祈祷した後に参拝者に授けたという「中風除箸」で知られる。』浄蓮寺本堂の寺号額と鰐口。堂内中央には本尊の不動明王、右側には弘法大師像が安置されています。 こちらの参拝を終えると、次の第80番札所 栖光院は、すぐ東側を流れる信濃川沿いを4kmほど下り、知多市八幡観音脇地内に向かいます。きよきはす うてなのうえにうまれんと うごかぬこころ ほとけともみん今回頂いた梵字カード。 溜まる一方だった梵字カードの台紙引換券、今回こちらで休憩中に当たりと縁遠い方にお会いし全て差し上げた。第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十七番札所 雨宝山 浄蓮寺宗派 / 真言宗本尊 / 不動明王創建 / 元暦元年(1184)開基 / 不詳中興 / 憲誉法印札所 / 知多四国七十七番札所所在地 / 知多市佐布里地蔵脇30参拝日 / 2026/03/28正法院から浄蓮寺 / 地蔵脇地内の車道を右に徒歩2分。関連記事 ・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十四番札所 雨宝山 密厳寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十五番札所 雨宝山 誕生堂・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十三番札所 雨宝山 正法院
2026.05.09
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前回掲載した七十五番札所・雨宝山誕生堂から、正面の石段を下りると七十三番札所・雨宝山正法院の境内に降り立ちます。正法院の手入れされた境内には、梅の名所・佐布里を思わせるように梅が植えられており、開花の季節には写真とは異なる華やいだ表情を見せてくれるだろう。正面から眺める入母屋瓦葺の本堂は、軒先へと緩やかに下る屋根勾配が印象的で、端正な姿を見せている。由緒 正法院は、後鳥羽天皇の勅願寺として元暦元年(1184)に創建され、如意寺一山九坊の本坊を務めた寺院で、当時は壮大な伽藍を有し、多くの傑僧を輩したと伝わる。室町時代の応永年間(1394〜1428)には風害により寺門が大破したが、憲誉僧都が再興に尽力し、中興の祖となった。しかし、その後幾多の兵火で古書や寺宝など焼失したとされます。明治の廃仏毀釈により一山四坊となったが、今も佐布里の地で法灯を守り続けています。本坊である正法院は、現在、七十六番札所如意寺と七十五番札所誕生堂の管理も行っています。本堂は平成に入り、天井や襖に龍や花鳥風月、六地蔵などの絵が描かれ、内部の趣が大きく改められています。黄金色に輝く厨子の中に本尊の地蔵菩薩、その前に大師像が安置されています。拝所に吊るされた紐は大師像と結ばれており、それを手に取ることで大師と結縁できるとされる。境内から手水舎、山門の眺め。 手水鉢の横には素朴な表情の地蔵が安置され、訪れた参拝者を見守っています。山門入口にも地蔵堂が祀られています。七十三番札所 雨宝山 正法院の門前の眺め。地蔵脇地内の車道から伽藍全景を望む。右手の高みに直前に参拝した誕生堂が写り込んでいます。 佐布里五カ寺最後となる雨宝山浄蓮寺は、ここから150mほど左の地蔵脇地内入口に鎮座します。ひとすぢに ただしきのりの みちゆかば まよいのゆめも やがてはれなん第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十三番札所 雨宝山 正法院宗派 / 真言宗本尊 / 地蔵菩薩創建 / 元暦元年(1184)開基 / 不詳中興 / 憲誉法印札所 / 七十三番札所所在地 / 知多市佐布里地蔵脇30参拝日 / 2026/03/28誕生堂から正法院 / 誕生堂から徒歩1分。関連記事 ・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十四番札所 雨宝山 密厳寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十五番札所 雨宝山 誕生堂
2026.05.08
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前回掲載した雨宝山 密厳寺、今回は薬師堂裏手の高みに鎮座する七十五番札所 雨宝山 誕生堂になります。 道は密厳寺境内の薬師堂から左に出て、農道を右に向かうとすぐ右手に細い参道が続いています。そこを上っていくと誕生堂に至ります。写真が農道から見た坂の入口で、左側に「第七十五番」の石標が立てられています。 農道正面に見えている建物は七十三番札所 雨宝山 正法院で、そのまま直進すれば正法院境内に続いており、境内には誕生堂に続く急な石段もあります。誕生堂へ続く坂沿いには、年代不明の石仏が連なっています。誕生堂全景。 愛知用水の調整池、梅の名所として知られる佐布里池の西側に位置し、里山に囲まれた地蔵脇地内の如意寺一山四坊の中では最も高い場所に鎮座します。傾斜地を開いた僅かな境内に、入母屋瓦葺きの小堂が建っていますが、仰ぎ見る堂は見た目以上の存在感を感じます。 七十五番札所 雨宝山 誕生堂は本尊に弘法大師をお祀りする真言宗の寺院で、誕生堂の名の由来は本四国霊場七十五番札所の善通寺が弘法大師誕生の地とされることに由来するという。知多四国が開創された当時の七十五番札所は、如意寺一山の泉蔵坊に置かれた。 明治六年(1873)、当時無住無檀の泉蔵坊は廃寺となり、如意寺の本坊である正法院境内の山上に堂が建てられ、大師像を安置したことが誕生堂のはじまり。護摩堂の様相が強い薄暗い堂内、その中央に厨子に納められた弘法大師が安置されています。 参拝を済ませ、堂の前の急な石段を下り正法院境内に向かいます。境内から見上げる油断ならない石段と誕生堂。 納経印はこちらの正法院で頂きます。 いつまでも いろはにほへど こうぼうの とくはことばの はなぞめでたし第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十五番札所 雨宝山 誕生堂宗派 / 真言宗本尊 / 弘法大師創建 / 明治六年(1873)開基 / 不詳開山 / 不詳札所 / 知多四国七十五番札所所在地 / 知多市佐布里地蔵脇30参拝日 / 2026/03/28密厳寺から誕生堂 / 薬師堂から徒歩1分。関連記事 ・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十四番札所 雨宝山 密厳寺
2026.05.07
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前回掲載した佐布里5カ寺ひとつ如意寺。 朱色の山門を出た向かいに鎮座するのが七十四番札所 雨宝山 密厳寺になります。密厳寺伽藍全景。 伽藍は写真の山門と正面の本堂(大師堂)、薬師堂、右側の庫裏が主要なものになります。南側は白い袖壁が写真の薬医門につながり、真言宗雨宝山密嚴寺の寺号標が立てられています。 もともとは一山八坊の密嚴坊が現在の密嚴寺の前身になります。山門をくぐった境内右側の白山社、天神社。 天神社の建替時、古い社から元禄時代のお札が見つかったようで、古くから崇敬されおり、絵馬掛けには合格祈願の絵馬が多数掛けられています。寺宝解説板。 御本尊の木造十一面観世音菩薩立像は、平安時代後期の作と推定される一木造。高さは62cmで、見るからに愛らしく、目も鼻も口も一木造のよさをいかし人間味あふれる表現がされているとのこと。知多市指定文化財となっています。本堂(右)と薬師堂。 ガイドブックより密厳寺由緒抜粋。密厳寺は、後鳥羽天皇の勅願寺として元暦元年(1184)に創建された雨宝山 如意寺の一坊として開創された。 今は山間に水田と一山四坊が並ぶ当地で、如意寺本堂の次に奥まった場所に立地しています。古くから、近郷には「佐布里の祈願所」としてなじみ深く、多くの村人の祈願を受けてきたという。 明治十年には、この地区にあった薬師堂が当寺の境内に移され、「家内安全」「諸病平癒」「安産祈願」など、諸願成就の寺として信仰を集めている。また、御本尊の十一面観世音菩薩は、知多市で最も古い仏像のひとつで、市文化財に指定されている。 境内には、白山社、天神社も祀られており、天神社には学業成就を願った多くの絵馬が奉納されています。本堂には本尊の十一面観音菩薩、弘法大師、不動明王を安置する。薬師堂。 名の通り薬師如来を安置する堂で、外壁に干支の守り本尊が祀られている。次の七十四番札所は薬師堂の左から細い道に出て左に進み、右手の斜面に続く石段を上った先になります。知多の里梅咲き香る蜜厳寺 現世の利益受けぬ者なし第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十四番札所 雨宝山 密厳寺宗派 / 真言宗本尊 / 十一面観世音菩薩創建 / 不詳 (元暦元年(1184)ともされる)開基 / 不詳開山 / 憲誉上人札所 / 知多四国七十四番札所所在地 / 知多市佐布里地蔵脇24参拝日 / 2026/03/28朝倉駅から如意寺 / 如意寺山門から徒歩1分。関連記事 ・第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺
2026.05.04
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春にしては温かすぎる3月28日、第十四回 歩いて巡拝 知多四国を巡ってきました。上が今回のルートです。 スタートは名鉄常滑線朝倉駅。駅前から南東の佐布里池方面へ4.5kmひたすら進み76番札所如意寺に向かいます➡74番札所密厳寺➡75番札所誕生堂➡73番札所正法印➡77番札所浄蓮寺➡80番札所栖光院➡81番札所龍蔵寺➡ゴールの名鉄常滑線寺本駅に向かう約10km、七つの札所を巡る比較的平坦なコースです。 スタートから4.5kmを歩きますが、如意寺に着きさえすれば、佐布里5カ寺と称される五つの札所が隣接しています。そこから先の札所はゴールの寺本駅付近になるので、再び同じ距離を歩くことになります。朝倉駅から1時間強、知多市佐布里西之脇の地蔵脇地内の入口に到着。 3月末の当地は、里山が佐布里5カ寺の周囲を取り囲み、寺だけが鎮座する地蔵脇地内は桜の見頃を迎える時期となり、時代から取り残されたような空間が広がっています。最初の札所如意寺はこの道の突き当りに鎮座します。左に77番札所浄蓮寺を眺めながら奥に進みます。右側の竹藪の中に石地蔵と78番札所福生寺へ導く丁石が立てられていた。少し進むと正面に76番札所如意寺の山門と本堂が視界に入ってくる。76番札所如意寺山門から境内の眺め。 如意寺に庫裏のない無住寺院、境内には本堂の他に十王堂と朱に塗られた四脚門がある。元々76番は一山八坊の一つ実相坊(實相坊)が選定されていたが、明治初めに廃寺となり、如意寺に札所本尊の弘法大師を奉安して76番札所となった。正式には雨宝如意寺正法院と称する真言宗の寺院。境内に入ったすぐ左が十王堂。 昭和63年(1988)の火災で焼失し平成16年(2004)に再建されたもの。普段無住の如意寺ですが、イベントの時は境内で納経印を頂くことができる。 左後方に見えているのが74番札所密厳寺で、佐布里5カ寺はこれくらいの距離感で隣接しています。十王堂右の観音堂。本堂全景。 入母屋瓦葺妻入りの本殿は昭和63年(1988)の火災で焼失し、平成6年(1994)に再建されたもの。軒下に左から「興教大師」、中央に山号額、右側に「弘法大師」の額が掛けられています。由緒。 如意寺は、後鳥羽天皇(1180-1239)の勅願寺として創建されたと伝わり、往時は、一山八坊の本堂をはじめ、御供田数百畝におよぶ寺領を有し、隆盛を極めたと伝えられる真言宗の寺院。応永十五年(1408)、風害により大破した伽藍を憲誉法印が再建し、中興開山の祖となりました。 しかし、戦国時代に兵火に遭い、伽藍や寺宝のほとんどを焼失、一山八坊の唯一本堂だけが焼失を免れ、法灯をつないできたが、知多市内最古の建物とされた本堂も昭和63年の火災で失われてしまった。後の平成6年に本堂が再建され、同16年には十王堂が建立されるなど、佐布里の南に位置し、宝山一山四坊の最奥にあって、風格を漂わせている。本尊は「雨乞い本尊」と称される地蔵菩薩を祀る。史料により由緒は表記の揺れや変遷が見られます。知多郡誌(1893)3巻では以下のように伝えられている。『雨寶山如意寺正法院。 佐布里村字地蔵脇に在り。境内三百九十二坪、真言宗、中島郡長野村萬徳寺末たり。 創建年月詳ならず。往古後鳥羽天皇(1180-1239)の勅願所にして、初め天台宗なりしを、應永年中(1394-1428)憲誉法印再興の後今の宗となす。 累年の兵火に由り諸堂宇多く焼失して唯だ地蔵堂(此堂もと当院の本堂たり、本尊地藏は運慶の作なり、今当寺境外に在り故に官将に〇せしめんとす、僧徒等之を遺憾とし、官に請して一寺となし別に雨宝山如意寺と称し当院の末寺とす。時に明治十五年壬午一月三十日なり)一宇を存するのみなりしを、後漸く密院を焉すに至れり。 もと一山八坊あり、法性坊、松本坊、法蔵坊、成就坊、泉蔵坊(此の坊明治6年癸酉三月まで在す)、實相坊(同上)、密嚴坊、浄蓮坊と曰く、今存するもの密嚴・浄蓮の二坊宇のみ。古鰐口(地蔵堂)にあり、銘に曰く明應七年戊牛五月十日檀那平朝臣宗宣と其他寺宝数多あり。』というもの。本堂左の寺宝解説。本尊は雨乞いに霊験あらたかな地蔵菩薩を本尊とする。 堂内は左に興教大師、右に弘法大師、中央に運慶作とされる地蔵菩薩を安置する。朱塗りの四脚門の山門は、昭和63年の火事で唯一焼失を免れたもの。ありがたや ろくどうのうげじぞうそん しょぶつにまさる じしんきとし第十四回 歩いて巡拝 知多四国 七十六番札所 雨宝山 如意寺宗派 / 真言宗本尊 / 地蔵菩薩創建 / 不詳 (元暦元年(1184)ともされる)開基 / 不明開山 / 憲誉法印札所 / 知多四国 七十六番札所所在地 / 知多市佐布里地蔵脇13-1参拝日 / 2026/03/28朝倉駅から如意寺 / 駅から佐布里池方向の南東へ4.5km、約一時間ほど。関連記事
2026.05.03
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白髭神社。 神明神社から犀川左岸堤を下流の墨俣一夜城で知られる墨俣歴史資料館に向かいます。墨俣歴史資料館全景。 犀川と天王川に挟まれた中洲に建てられ、二つの川はひとつとなり東側の長良川に合流する立地で、古くは美濃街道と鎌倉街道が交わり、陸上・水運の交通の要衝となった場所。信長の美濃攻めの拠点ともなり、秀吉により三日三晩で建てられたとされるのが墨俣一夜城。 実際の一夜城は、この姿とは程遠く高櫓を備えた簡素な砦だったようです。当時は犀川や五六川などが複雑に流れ込み、荒れた湿潤な土地で、荒方とも呼ばれていた。 そんな場所に突如砦が現れればさぞかし脅威に感じた事だろう。こうして眺める墨俣歴史資料館は、大垣城の天守を模して平成3年(1991)に建てられたものです。今回の白髭神社は墨俣歴史資料館の建っている中洲の北側に鎮座します。資料館の入口には秀吉像や周囲に秀吉にあやかって、太閤秀吉出世の泉や瓢箪の絵馬掛けなどがあります。中洲は墨俣一夜城址公園として整備され、公園東側に写真の一夜城址の石標が立てられています。歴史資料や古文書に基づき作成された一夜城の概略図。信長の美濃斎藤氏攻略の足掛かりとして、墨俣に拠点を置きたかったが、斎藤氏の支配下での拠点造りは何度となく失敗に終わっていた。その後を継いだ秀吉が拠点を築くことに成功し「墨俣一夜城」の伝承が残されますが、この古文書からみても、城とは程遠い実に簡素なもので、一夜にして現れたものでもなく、戦をしながら築城を進めていたのが伺えます。城の北側に天王川を引き込み堀が作られ、馬柵が設けられたようです。 この場所に、築城犠牲者の墓が纏められています。その先が白髭神社境内となります。 入口には明神鳥居と右に「村社 白髭神社」の社号標が建てられています。 手水舎全景。 左の社標は境内社豊国神社のもの。白髭神社拝殿と豊国神社本殿(右)。 入母屋瓦葺の平入拝殿で大棟に鯱が飾られています。拝殿前の狛犬。 白髭神社の由緒は史料によって表記の揺れや変遷が見られます。岐阜県神社庁の白髭神社解説は以下のようなもの。 □『創立年紀不詳。延喜式内社安八郡荒方神社の説あり。天保の頃迄社人今村氏奉祀。 然るに此の家故あって今絶す。明治十二年六月村社に加列す。 犀川開鑿の為移転を命ぜられ、昭和十三年七月五日移転を了す。文化二年濃陽村々明細記墨俣村の條に左の記録あり。一、白髭大明神 社二尺五寸二尺五寸 境内御除地。』 西町 八幡神社と並び荒方神社の論社とされる。墨俣町史(1956)では以下のように記されていた。 □『もと白髭大明神と言い、社家今村氏が代々つとめたと云う。寛文七年天和二年の文書に大明神とあって、明治七年七月白髭社として届け、更に明治九年荒方神社と届出たが、信徒がない神社式内神社の社名を公称すべきではないとして許されず、明治十三年に白髭神社として神社明細帳に記した。 しかるに明治十四年明細帳に荒方神社と書く、後白髭社と改む。しかし、この城の越の地一夜城の旧地で、その先き室町時代には寺院があった所である。 この廃寺(寺号不詳なるも或は白髭大明神の別当寺か又は白髭大明神は廃寺の鎮守か)跡に五輪石塔多く在り、土地の人 戦乱の時の戦死者の墓であると言う。連続五輪に「 善徳 」と刻するのがあり、又連続五輪地の部残存には「〇隠梵清上座 明応二年十二月十一日 」とあって、梵清はこの廃寺の住職であることを知る。 明治十二年村社に加列し、明治十三年氏子二十八戸と報告した。社殿造営等の史料存せず、境内付近一円は墨俣の公園とし。この地一夜城の史跡である。』室町時代より荒方の地に鎮座する白髭神社、荒方神社と称したかった思いは認められなかったようです。 境内で見かけた築城犠牲者の墓もここに記されていました。犀川北側の堤外に鎮座していた白髭神社は、昭和13年(1938)に犀川改修工事のため現在地に遷されたようです。拝殿前の現地解説。□『白髭神社 祭神 猿田彦命。もとは白髭大明神と言い、代々今村氏が社家を務めていたという。 寛文七年(1667)と天和二年(1682)の文書に、大明神とあって、明治七年(1874)に白髭社として届け、 明治十二年(1879)に村社となった。続いて明治一三年(1880) には白髭神社と して神社明細帳に記された。 白髭神社は舟運の無事を祈って建てられた神社であって、長良川沿いには多い。』本殿は神明造で本殿右側に社名不明の境内社が祀られていました。豊国神社。 現在の歴史資料館建設に伴い、大阪城公園の豊国神社から平成四年(1992)に分祀されたもの。本殿前を守護する狛犬。豊国神社現地解説。 □『豊国神社は、豊臣秀吉(豊国大明神)を祀る神社である。 秀吉の生涯に縁のある各地に鎮座する。 各地の事情により、合祀されている諸神や摂社の諸神に特徴がある。豊国神社は、出世開運の神様として知られる大阪の豊国神社より分社し、豊臣秀吉公を祀っている。 大阪の豊国神社は、豊臣秀吉公、豊臣秀頼公、 豊臣秀長公を奉している。』流造の本殿は豊臣秀吉を祀る。藤吉郎の馬柵。 社殿後方は天王川が流れ下り、ここで分流され城を巻くようにして犀川と合流します。右手の堤の先は長良川で、15kmほど上流の稲葉山の頂には、斎藤氏の居城 稲葉山城(岐阜城)も視界に入ってくる。白髭神社創建 / 不明祭神 / 猿田彦大神境内社 / 豊国神社祭例 / 不明所在地 / 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1735-1神明神社から白髭神社所要時間 / 犀川堤を墨俣城まで、約350m・徒歩5分。参拝日 / 2026/03/12関連記事・春の苦味を求めて ― 犀川堤にて・西町 八幡神社・瑞穂市祖父江 神明神社
2026.05.02
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前回掲載した墨俣の八幡神社。 鎮座地は大垣市の墨俣輪中の北側にあたり、堤の先の犀川堤外地から眺める対岸は瑞穂市になります。犀川堤外地から対岸を眺めると、堤の先に見える神社が今回掲載する神明神社になります。 鎮座地の瑞穂市は2003年に穂積町と巣南町が合併して誕生した新しい市。地名のアップデートが進まない自分には本巣郡の方が馴染み深い。上は明治時代と現在の比較で、安八郡式内社 荒方神社の論社とされる八幡神社と白鬚神社の二社と神社の位置を示しています。 左側の明治時代の地図では五六川と犀川の二つの河川が曲がりくねりながら長良川へ注いでいました。地図では現在の新犀川橋付近に鳥居が記されていますが、赤丸部分の鎮座地には鳥居の印は見られません。 当時の川筋は現在では直線的なものとなり、堤防道路も整備されており、地図から神明神社の創建時期を推測できません。犀川左岸堤防道路から眺める神明神社境内の全景。 綺麗に舗装された堤防道路沿いに、白く輝く玉垣や鳥居と綺麗な社殿が連なる。地図から消えた鳥居に拘るのは、この神明神社ではないかと勝手に推測します。主な建物は手前の拝殿と後方の神明造りの本殿で、道路側に境内社の鳥居があります。本殿後方の堤防道路から社頭の眺め。白い鳥居から拝殿に続く参道脇の常夜灯も白く輝いています、手水舎は参道右側にあります。 鳥居は昭和2年建立のもので、常夜灯は平成になって建立されたものでした。この地にあって近代に創建されたとはとても思えない。 消えた鳥居や新しい寄進物の疑問は拝殿前の由緒碑で払拭されます。拝殿左の由緒碑になります。 石目が邪魔をしてよく読み取れず、読み取れた一部を以下に抜粋。■由緒碑文。 「祭神天照大御神で伊勢神宮の御分霊を祀る、相殿に八幡大神と春日大神を祀る。・・・・土地の名により荒方神社とも称し、延喜式神名帳に記載された名社である。 この神社は祖父江中島の氏神で、治水・舟運・諸産業の守護神で遠近各地からも崇敬されている。社宝 元和五年(1619)九月二十八日創祀・・・・その他古札多数。 犀川大改修により新地に移転を余儀なくされた。・・・・平成二年吉日」確実に読めたのはここまでです。■岐阜県神社の記述を現代語訳にしたものは以下となります。 「当村の字「堤外」の土地は斎川の北側に位置し、南側には墨俣城の城の腰の地があり、川を挟んで白髭神社の鎮座地と向かい合っている。そのため、この堤外の地も昔は「荒方(あらがた)」と呼ばれており、当時このあたりに住んでいた祖父江村の民家は、古くは白鬚神社の氏子であったという。 祖父江村の棟札も、昔は白髭神社の境内にあったと、村の古老の語り伝えに残っている。昔、斎川は墨俣村の西南へ流れており、この荒方の地には達していなかった。 ところが元和元年ごろ、斎川の流れが東の長良川方面へ付け替えられる工事が行われ、その結果、荒方の地は斎川によって南北に分断されることになった。南側は安八郡墨俣村の城腰、北側は本巣郡祖父江村の堤外となり、祖父江村の堤外に住む民家は、川を隔てて白髭神社を氏神とする形になった。 そこで元和五年九月、祖父江村堤外に新たに神明宮を勧請し、氏神として崇敬するようになった。これが現在の神明神社である。宝暦年間以降、社殿の造営や葺き替えがたびたび行われた。」というもの。これらから犀川の付け替えで分断された堤外の中島に、元和五年(1619)に天照大御神、八幡大神、春日大神を祀ったことが神明神社のはじまりのようです。 水との鬩ぎあいから生まれた輪中や複雑に流れ下る川の付け替えの歴史は、堤外に祀られていた周辺の神社の遷座の歴史でもあるようです。切妻瓦葺の拝殿正面全景。 拝殿右側から眺める神明造の本殿。 棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が施され、傷みもなく綺麗なものです。本殿前には白い狛犬が祀られています。本殿左の境内社は秋葉神社。 鳥居の建立年度は見忘れました。境内から社頭の眺め、この先の堤の下は一本に纏められた犀川が墨俣城の前を流れ下り長良川に注がれます。神明神社創建 / 元和五年(1619)祭神 / 天照大神、八幡大神、春日大神境内社 / 秋葉神社祭例 / 不明所在地 / 岐阜県瑞穂市祖父江1098-2西町 八幡神社から神明神社所要時間 / 犀川堤から新犀川橋を超え、対岸の堤を上流へ、距離約1km、約10分。参拝日 / 2026/03/12関連記事 ・春の苦味を求めて ― 犀川堤にて・西町 八幡神社
2026.04.29
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墨俣一夜城で知られる岐阜県大垣市墨俣町。 町内の北側を犀川が流れ、東に長良川、木曽川、西に揖斐川の木曽三川が流れ、分流される以前は網の目のように洲が自然形成された地域で、古くから水害に悩まされ、江戸時代から集落全体を堤で囲う輪中が作られてきた。西町 八幡神社の鎮座地は墨俣町の北端で、犀川右岸の墨俣歴史資料館を望む、さい川さくら公園駐車場から南側の堤を降りた美濃路墨俣宿入口に鳥居を構えます 美濃国安八郡式内社 荒方神社の論社の一つとされる小栗判官ゆかりの神社です。社頭の前を美濃路が横切り、鳥居からの眺めは、右手に八幡神社社標が立っており、鳥居の先は常夜灯、太鼓橋、唐破風が印象的な拝殿の姿があります。鳥居の額は「正八幡宮」。境内にある「小栗判官伝説ゆかりの宮」解説。『小栗判官(おぐりはんがん)は、伝説上の人物で、これを主人公として中世以降に伝承されてきた物語。 物語は常陸(ひたち)の国(現茨城県)の小栗判官小次郎助重は、相模(さがみ)の横山郡代の娘照手(てるて)に恋をし、結ぶも横山一族に殺される。地獄に落ちた小栗は、閻魔大王のはからいで餓鬼阿弥(がきあみ)の姿となるも、藤沢の上人の力により助けられ、土車に乗せ美濃青墓へ。 その時、青墓の宿(萬屋)に売られていた照手がそれを見かね大津の関寺まで引き、その後も多くの人々の手で、熊野本宮へ向かい、湯の峰の薬湯につかると元の姿になって、京都で両親と対面し、美濃国青墓の照手ともめでたく再会。 その後、都に上り、天皇より死からの帰還は稀であるとたたえられ、常陸、駿河、美濃の国を賜ることになる。大垣市をはじめ、各地に「小栗判官と照手姫」の伝説は語り継がれており、説経節、浄瑠璃、歌舞伎にも取りあげられている。 小栗の死後、現人神としてこの八幡神社に祀られ、照手姫も結びの神として結神社に祀られていると伝えられている。なお、神社本殿の南北の壁面には、馬と龍が一体化して彫られた不思議な彫刻が据えられている。 馬は男性を龍は女性を象徴したものと伝えられている。』 掲示の内容は、各地に伝わる小栗判官と照手姫の物語の広がりを伝えるものであり、「ゆかり」という言葉の捉え方についても様々に考えさせられます。 物語の舞台として伝わる美濃青墓の地とはやや距離があるものの、美濃路沿いに西へ三十分ほど歩いた先には照手姫を祀る結神社も鎮座しており、地域の中で両者の名が結び付けられてきた様子もうかがえます。太鼓橋から拝殿の眺め。 開け放たれた扉の先に本殿の姿が見えます。太鼓橋から右手に回り込み拝殿に向かいます。右手には写真の手水舎と複数の境内社が祀られています。見上げるような犀川堤の下に鎮座することもあり、水には恵まれているようです。手水舎の後方の小さな泉の畔には七福神像、左の石標は道標だろうか、「こゝよしと石」?「こゝより右」?違うなぁ、わかりません。 美濃路が続く堤を背にして建つ秋葉神社。津島社。産神、五輪塔のようにも見え、梵字らしき文字が刻まれているが読めないところが悲しい。堤側から眺める拝殿、入母屋瓦葺の平入唐破風付きの木造で、手前に一対の狛犬が安置されています。年季を感じさせる風貌が漂う狛犬。拝殿唐破風周りの意匠と正八幡宮の額。西町 八幡神社の由緒は以下。 創建の年代は不詳である。往古の鎮座地は、犀川右岸上流の本巣郡と安八郡の境の河川敷に鎮座していたとされます。 「延喜式神名帳」に記載された安八郡四座の一つである荒方神社であり、また『美濃国神名帳』に記載された安八郡十九座のうちの一つ、従一位荒方明神にあてられる著名な古社であるとされる。社号は荒方八幡宮とも称した。 当社に伝わる古い額面には「八幡宮」とあり、その肩書に「荒方神社」と記され、鎌倉時代の古物であると鑑定されている。天保三年四月および同五年の棟札には「荒方八幡神社」と記され、さらに神祇伯が当社神主・大江豊前時房に宛てた継目相続許可書(安政二年二月二十一日)や、神葬祭式次第授与書、安政四年二月の宗門改免除書、嘉永二年の西町出火記など、いずれの史料にも「荒方神社八幡宮神主」と記され、式内社の荒方神社とは当社のことであるとされる。当社には安政二年、天明七年、天保十年、嘉永四年の旧記が現存する。 天明七年五月二十五日には、松平土佐守家老・泰○髴○が初穂料を奉献し、代参して祈願を行った。嘉永四年には高須藩主が毎月二度、五穀豊穣の祈願を行っている。 天明五年八月十五日および同七年八月十五日には、岐阜町奉行・黒田六一郎、同役人の勝田定兵衛、伊藤丈右衛門らが祭礼に際して当社を参拝し、山車芸の検分を行った。明治二十四年十一月十日には、小松宮彰仁親王殿下が参拝され、本殿階下に自ら松をお植えになり、その松は今も青々と繁っている。また、『墨俣町史(1956)』にも以下のように記されています。 『もと式内社荒方神社であったが、八幡神社と改称した。八幡神社神額(鏡倉末期より室町時代初期頃迄のもの)あり、その額右上部に荒方明神とあって、中央部に正八幡宮とあり、これ荒方明神を八幡宮と改称の史実を物語るものである。 社殿の造営並修繕の記録として、元和七年八月、享保十一年十一月、宝暦十二年八月、文化元年七月、寛保二年十二月、弘化三年三月の棟札が現存する』とも記されていた。延喜式神名帳(927)の荒方明神の論社として、墨俣歴史資料館敷地内の白髭神社もそのひとつだが、いずれにせよ歴史はかなり古そうだ。拝殿から望む本殿域。 拝殿内には年度不明の奉納額が掛けられていましたが、手振れが酷く掲載を見送ります。本殿域の全景。 高く積まれた基壇の上に築かれた本殿域に、一対の狛犬と唐破風のついた流造の本殿が建てられています。祭神は応神天皇を祀ります。本殿左にも3社の境内社が祀られています。手前左は南宮神社。奥の二社は左が御鍬神社で朱の鳥居は古渡稲荷。境内の太鼓橋から美濃路が横切る社頭の眺め。西町 八幡神社創建 / 不詳祭神 / 応神天皇境内社 / 津島社、秋葉神社、その他祭例 / 10月10日所在地 / 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1名古屋から所要時間 / 県道128号、県道23号線経由、約40km・80分。参拝日 / 2026/03/12関連記事 ・春の苦味を求めて ― 犀川堤にて
2026.04.28
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第十三回 歩いて巡拝 知多四国も次の二十九番札所 正法寺が最後の目的地となります。大井集落から県道281号線を西に向かい、大井西交差点で右折し、県道7号線沿いに北上し馬道交差点を目指します。大井集落から馬道交差点までの約2kmは地味な登りが続きます。馬道交差点から右に進み、すぐ先を左に折れて直進を続けます。 周囲は見渡す限り畑の広がる、開放感のある一帯を歩きます。2つ目の交差点を左に折れて、10分ほど下れば正法寺の山門に至ります。知多四国 二十九番札所 大悲山 正法寺門前の眺め。 門前左に「知多四国廿九番札所」、右に「開運毘沙門天王 正法寺」の寺標が立っています。門前から眺める正法寺の第一印象は左に見える多宝塔だろう。薬医門をくぐって、境内から伽藍の眺め。 象徴的な多宝塔は正法寺本堂、それと共に境内中央に安置される高さ6mを越える厄除観音が巡礼者を出迎えてくれる。伽藍は左からコンクリート造の本堂、入母屋妻入りの弘法堂、入母屋平入りの客殿と右手の庫裏が主なものでいずれの建物も新しいものです。正法寺由緒。 正法寺は、平安時代の源義朝の家臣の鎌田兵衛正清の居城跡に建てられた天台宗の寺院です。正清(正家)は野間で舅の長田忠致の謀略により義朝と共に殺されました。天副元年(1233)、正清の供養のため、比叡山の徹円阿闍梨が護摩堂を建て、正清の念持仏の毘沙門天を奉安したのが西法寺のはじまりです。 昭和五十年には御本尊の毘沙門天を祀る本堂が多宝塔造りで再建されたが、平成九年十二月二十四日、不審火により鉄筋の本堂を残し、弘法堂、客殿、庫裏を全焼、火災は翌朝になりようやく消し止められ、灰燼の中から黒焦げの大師像だけが発見された。その後、平成十三年に弘法堂が再建され、翌年三月に開眼。客殿も『三味堂』として再建された。 お祀りされていた仏像など、火災前の姿を取り戻す努力が今も続けられています。西法寺では千枚通しと呼ばれる護符が頂けます。 「南無阿弥陀仏 法忍」と書かれた薄い和紙でできた護符を呑むもので、病気の平癒や安産にも霊験があります。本堂の多宝塔前に立てられている文化財大般若経の解説。 永徳二年(1382)から応永十一年(1404)にかけ、六人の僧侶により写経された大般若経200巻を所蔵する。本尊の秘仏毘沙門天は、毘沙門天と吉祥天の夫婦霊像で行基菩薩の作とされ、寅年にお開帳されます。弘法堂。堂内の眺め。中央に安置されるのは弘法大師。堂内右にお祀りされている弘法像。 火災による熱で金属の仏具は溶け落ち、黒焦げの像は顔と手を補修し今の姿を留めている。堂内左の不空羂索観音、正法寺は南知多観音霊場9番札所でもあります。客殿の眩いばかりに輝く阿弥陀如来像。まよはずに ただしきのりのみちゆかば やまだにのこすびしゃもんのとく今回の梵字カード配布は正法寺、頂いたカードはいつものように二枚一纏めにして家で開封。 ゴールドカードが出るかどうかは帰ってからのお楽しみです。正法寺の巡拝を終え、コースは1.2km先の鯛祭り広場に集まり、スタートの名鉄知多新線「内海駅」まで臨時有料バスに乗り一気に移動しゴールとなります。写真は内海駅からの眺め、あんな近くに神社があったとは知らなかった。第十三回 歩いて巡拝 知多四国 二十九番札所 大悲山 正法寺宗派 / 天台宗本尊 / 毘沙門天創建 / 天副元年(1233)開基 / 徹円阿闍梨開山 / 徹円阿闍梨札所 / 知多四国 二十九番札所・南知多観音霊場9番札所所在地 / 知多郡南知多町豊丘本郷7参拝日 / 2026/02/28性慶院から正法寺 / 性慶院から西に向かい県道7号線大井西交差点を右折直進、馬道交差点で右折しその先を左折。距離2.7km・約40分。関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十五番札所 神光山 成願寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 稗田 神明社・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 聖跡上陸大師・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十番札所 宝珠山 医王寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十一番札所 宝珠山 利生院・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十二番札所 宝珠山 宝乗院・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十三番札所 宝珠山 北室院・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十四番札所 宝珠山 性慶院過去記事・第4回 歩いて巡拝知多四国 五十番札所 大御堂寺帰ってからのお楽しみ、一纏めにした二人の梵字カードを開封すると一枚がゴールドカード。 どちらが引き当てたか分からないので、当てた・外れただの言い争いになることもない。
2026.04.27
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4月20日、長野県下伊那郡阿智村にある花桃の里と伊那市内を徘徊してきました。 この日の予定は名古屋を朝6時に出て中央道に乗り、途中駒ヶ根SAで朝食、伊那市内の越後屋菓子店で買い物をしたあと、伊那市駅周辺を徘徊し、夕刻に阿智村の花桃の里を訪れて帰宅する予定でした。 この時期は花桃の里の最寄りインターとなる園原ICや周辺の道路はとんでもなく混雑します。酷い時は恵那山トンネルを抜けてすぐに現れる園原IC手前から渋滞することもあります。新東名の事故も記憶に残り、長い恵那山トンネルでは渋滞を予想し、いつも以上に車間を取り走行していた。Googleマップの混雑状況を見ると、園原ICを含め、そこから先の県道は赤くなっておらず、予定を変更し園原で降りて、先に花桃の里に向かうことにした。写真はインターを出て花桃の里に向かう県道沿いに最初に現れる臨時駐車場の観光マップ。花桃の里から一番遠い駐車場で、不便な場所にあり、眺めたい場所はここから徒歩30分ほどかかる。そんな場所でも到着時は既に満車に近く、辛うじて停めることができたので、最大の難関はクリアした。入れない車は奥の駐車場に突き進むことになる。普段から駐車時の空き待ち、出待ち渋滞だけは無駄でしかないと思っているので、離れた場所を選ぶのだが、想定以上に朝早くから押し寄せるようだ。因みに駐車は有料(1000円)で駐車料金名目ではなく、花桃保全協力金という名目で村に支払うものです。写真は駐車場付近から7:40頃に撮影した本谷川と県道沿いの眺め。 恵那山を源にする本谷川は、釣りやキャンプもでき、県道を突き進めば恵那山登山口に続き、恵那山登山の起点にもなっています。昔はこの山系の荒れた林道を経て木曽谷に抜けることもできた。7:50、花桃の里入口の神橋付近に到着。本谷川と新橋の眺め。 訪れた観光客はこの橋を渡り対岸の花桃並木を目指します。このあたりから奥に通じる県道は近隣施設利用者と住民以外の車両通行が禁止されています。沿道の売店の方の話によれば土・日は車が数珠つなぎになり動かなくなるということです。花桃の色合いを背景に鯉幟が渡されています。 以前はGWに見頃を迎えた花桃ですが、年々早くなっているようです。色の好みもあるでしょうが、花は日中の鮮やかな色合いより、早朝のしっとりとした色合いの時の方が魅力的だと感じます。ここから橋を渡らずに、右側の県道を10分ほど上り、目的地に向かいます。長い上りの途中の畑で見かけたつくし。Googleマップはほぼ平坦と表示しますが、とんでもありません。 どんどん標高を上げ、本谷川を見下ろすところまで上っていきます。上り始めて10分、眼下を見下ろせるスポットに到着。 あの坂を上って来る方はこの場所を目指します。よく知られた花桃の里はこの眺望から切り取ります。ありきたりの花桃の里ですが、一度は写真に収めておきたかった。 希望は早朝のモヤッとした時間帯でしたが、そんな時間に付き合ってくれるはずもない。伊那の菓子店に開店前に着く目的で、運よく渋滞していなかったので、ドピーカンになる前の時間帯に寄れたが、渋滞していれば夕方に訪れるつもりでいました。帰りに花桃保全協力金を支払うと、チケットの半券でヘブンス園原ロープウェイの割引券が付いており、そちらも観光目的に入っているならお得なのかもしれない。花桃の里所在地 / 長野県下伊那郡阿智村智里阿智村観光協会ライブカメラ園原ICから臨時駐車場まで車で1km。さて、ここから伊那方面の高速に乗るには、昼神温泉経由で20分ほど下った飯田山本ICから乗ることになります。10:30、伊那市のJR伊那市駅前に到着。 伊那は桜の名所高遠城址や南アルプス仙丈ヶ岳・中央アルプス宝剣岳への玄関口でもあり、馴染みのある土地ですが、駅周辺に立ち寄って歩いたことはなかった。駅には花まつりとあるが、園原や高遠城址など、ソメイヨシノは既に終わり、新緑の山々に山桜が咲く時期に移り変わり、新緑が鮮やかな時期を迎えたといえますが、一方で野生動物の出没も気になる時期です。伊那市駅前に店を構える越後屋。 花より団子のかみさん、名古屋を6:00に出たのも、花桃よりもSNSの口コミで「開店前に行列ができ、すぐに売りきれる」菓子を買うためだった。開店時間は9:00からで、案の定長蛇の列はできていない(既に終わったか?)。 SNSの口コミは全く当てにならないとは分かっていても、一部インフルエンサーの過度な書き込みに煽られ、そうした時間に訪れるのは、食べてみたいという欲求に支配されているのだろう。 かみさんの目当てはこのお菓子。 特に真ん中の「まゆ」が食べたかったとかで、いろいろ力説してくれるが、要はホイップクリームを最中で包み、チョコでコーティングした欧風和菓子。月夜唄はくるみが入った、香ばしい風味の焼き菓子。 この香ばしい風味も、人により「焦げている」と問い合わせる事例もあるという。個人的に「香ばし」くてこんなものじゃないのと感じた。 転売品を買って食べなければならないものではない、SNSの口コミや星の数は信用してはいけない。観光で伊那谷を訪れ、覚えていたら立ち寄ってみて実感すればいいのでは。越後屋菓子店所在地 / 長野県伊那市荒井3473JR伊那市駅の南側に杉玉を吊るす春日酒造。 中央アルプスと南アルプスに挟まれ、天竜川の流れる伊那で大正4年に創業された春日酒造。地方徘徊の楽しみの一つが地元の酒蔵を訪れ、味わって買い求めることでもあります。 車で来てしまうと、自分は味わえず楽しみはないが、助手席のかみさんが利き酒した酒を家で飲むのもお楽しみかもしれない。 仕込み水を飲ませていただいた。とてもまろやかな軟水で、普段それほど「!」と感じないが、二人とも美味しいと感じる水だった。試飲できるいくつかの中から、お店の勧めるお酒ではなく、純米・無濾過の誘惑に負けて選んだこのお酒。 まだ口にしていないが、どんな香りと風味なのか開けるのが楽しみだ。春日酒造所在地 / 長野県伊那市西町4875-1さて次はどこに行くかと聞いてみると、車で10分ほど南に下った「かんてんぱぱガーデン」に寄るという。かんてんぱぱガーデン。 寒天製品を手掛ける伊那食品工業の本社周辺を洋風庭園として整備、食事処や植物精密画などの展示スペースの他、自社製品販売・試食ができる施設などが付属したテーマパーク。無料施設でありながら庭園は山野草や季節の花で彩られ、水場では水芭蕉も見られ一時の癒しの時間を与えてくれた。かんてんぱぱガーデン所在地 / 長野県伊那市10695-1遅い昼食は「道の駅 花の里いいじま」で馬か丼と味駒丼(写真)を食べる。 白飯と甘ダレは主役の豚肉がなくても箸が進む。馬肉が主役の馬か丼。 どちらもボリュームも有り、美味しいものだった。道の駅で併設販売されているアップルパイ。 外すことの多いアップルパイ、ここのしっかりした食感の果肉がゴロゴロ入り我家的には好印象。この他、売店コーナーでは朝取れの山菜も販売されており、何種類か土産として買い求めた。道の駅 花の里いいじま所在地 / 長野県上伊那郡飯島町七久保2252食事を済ませ、帰路となる県道15号を南下しつつ、道すがらの地元スーパーをはしごして地の食材を買い求めて座光寺スマートICから帰途につく。今回の道中で買い求めた牛乳パン。 牛乳パンとはパン生地にミルククリームを挟んだだけの昭和を感じさせる素朴なもの。各地でご当地パンとして販売され、メーカーによりパン生地や中のクリームに個性があり、松本で口にして以来、長野に来るといろんなメーカーのものを買っている。そもそもの発祥は今回訪れた伊那市なんだとか。 右は小林製菓舗、左がアガタベーカリーの牛乳パン。どちらも普通に美味しいが、この二つではパンダの図柄の方が当たりだった、忘れないように印をつけておこう。今回走ったルート、走行距離は約350km。高速は車線規制が多く、速度規制もあるので速度と車間には注意したい。
2026.04.24
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パロマ瑞穂スタジアム フィールド見学会。2026年4月21日、新たに完成したパロマ瑞穂スタジアムのフィールド見学会に参加した。新スタジアムの本格稼働に合わせて設けられた一般向けの見学会で、会場入口には「順路」を示す案内板が立てられ、スタジアム内部へと誘導されていく。写真は121・122ブロックから客席とフィールド眺め。通路から一気に視界が開け、緑のフィールドが広がる瞬間は、スタジアム特有の高揚感を生む。オラがドラゴンズは今年も独走体制にあり、心なしかプレーにも精彩がない。新しいスタジアムで躍動するグランパスに乗り換えるか、誘惑に駆られる。スタジアム外観や内部の一部には、コンクリートの硬さを和らげるためか、木材を使った意匠が施されている。パッと見はIGアリーナと同じ設計者の手が入っているのかと疑いたくなるが、どうやら違うらしい。堅牢なコンクリートの外装に、耐用年数の短い木材を防腐処理もせず装飾として貼り付ける手法は、維持管理に税金が使われる公共施設として合理性に欠ける。彼が木を使うこと自体否定するつもりはないが、木を使いたいのであれば、本来は木造建築として成立させるべきだと思う。木造建築には、腐食しにくい構造や、腐った部材を交換しやすい仕組みなど、長い歴史の中で培われた知恵が組み込まれている。しかし彼のデザインからは、そうした知恵や構造的配慮がほとんど見えず、そこに否定的な印象を抱いてしまう。自然素材を使えばエコという発想にも同意しがたい。新しいスタジアムも外部に鳥の巣のように木が組まれているが、その上には大屋根があるので、まだ考えられているのかなと思う。ただ、通路の天井に吊られた木の格子とチープな吊り照明は確かにアクセントだが、いざ大きな揺れが来たら不安を覚える造りだ。しかしロッカー室などの木の使い方は落ち着きがあっていい雰囲気を出していた。見学会ではフィールドレベルまで降りることができ、スタンドの傾斜や屋根の張り出しを下から見上げると、観客席が競技に近く感じられる構造になっているのがよく分かる。大型ビジョンも稼働しており、スタジアム全体はすでに臨戦態勢の雰囲気を整えていた。今年はアジア大会も開催され、新しい瑞穂スタジアムはIGアリーナとともに存在感を示している。その舞台を体験できたことは、記憶に残るものになった。2026/04/21パロマ瑞穂スタジアム所在地 / 名古屋市瑞穂区山下通5-1
2026.04.24
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三十三番札所北室院の仁王門から、築地塀沿いに25mほど西に向かった先の路地を入ると大井五ヵ寺最後となる三十四番札所 宝珠山 性慶院の山門が見えてきます。東向きに薬医門を構え、参道正面に本堂が鎮座します。門前から境内の眺め、主な建物は、正面の本堂と左に朱の鳥居を連ねた福寿稲荷大明神です。境内の手水鉢に「安政五年(1858)」の年号があり、ペリーの再来航や安政の大獄が起きた激動の年に寄進されたものです。右手の方形屋根の建物が本堂、左側の入母屋造の建物が福寿稲荷大明神です。 知多郡誌、南知多町誌などから抜粋した性慶院由緒は以下。『行基菩薩(668~749)によって、医王寺十二坊のひとつ「円蔵坊」として開創され、弘仁五年(814)に弘法大師(774~ 835)により一山が再興されました。 建暦二年(1212)に医王寺とともに現在地に移転。いつの頃からか性慶院と名を改めて今に至っている。 医王寺ともに、関ヶ原の戦いで功を挙げた高木氏が後にこの地の地頭になり、当院も外護を受けてきました。当院境内には、高木氏嫡男十一代の墓石が安置されている。』上は江戸時代の知多郡大井村絵図、上ノ山の東側にオレンジ色の除地区画が見えます。 ここが医王寺を中核とした大井五ヵ寺に当たり、右下が聖崎になります。五ヵ寺の区域を東西に横切る道は見当たりません、昭和三十年代に入り、医王寺ほか四院の敷地を県道281号線(大井豊浜線)が通ることになり、性慶院と三十三番札所宝室院は、医王寺および三十一番札所利生院、三十二番札所宝乗院と道を隔てる形になりました。 県道沿いの各寺院に巡らされた長い塀は色が統一され、一山の形式を今に伝えています。写真は本堂内部を捉えたもの。 中央に本尊と左右に像が安置されています。中央は本尊の青面金剛。左に地蔵菩薩。右が弘法大師で、左手に握る結縁紐を介して大師に触れることができます。本堂左手の福寿稲荷大明神。 堂前に三対の狛狐が安置されていますが、この狐の一部を持ち帰ると賭け事にご利益があるという迷信が伝わっており、そのため像は見るに忍びない姿をしている。今の時代それは流石に許されない行為だろう。堂内の眺め、豊漁を祈願して多くの白狐が寄進されています。効率よく大井五ヵ寺の参拝を終え、この日最後の29番札所正法寺に向かうため県道281号線を西に進みます。 正法寺までは約3km、長い登りの続く40分の道のりになります。 きてみれば せうけいいんにははなざかり ばたいのたねをむすぶうれしさ(来てみれば 性慶院に花盛り 菩提の種を結ぶうれしさ)第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十四番札所 宝珠山 性慶院宗派 / 真言宗豊山派本尊 / 青面金剛創建 / 神亀二年(725)開基 / 行基菩薩開山 / 弘法大師札所 / 知多四国 三十四番札所所在地 / 知多郡南知多町大井丘ノ下1参拝日 / 2026/02/28北室院から性慶院 / 北室院から県道281号線を右に、25m先の路地を右に。関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十五番札所 神光山 成願寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 稗田 神明社・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 聖跡上陸大師・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十番札所 宝珠山 医王寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十一番札所 宝珠山 利生院・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十二番札所 宝珠山 宝乗院・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十三番札所 宝珠山 北室院
2026.04.23
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宝乗院から左に向かい、県道281号線を渡った先に白壁が左に続いています。写真の白壁の先に見える仁王門が三十三番札所 宝珠山 北室院になります。 いかにも新しい外観の門と山号額は平成四年に建て替えられたものです。その際に建立された独特の顔立ちの金剛力士像、まだ新しい像ですが、これから風格を増していくのだろう。北室院境内から本堂(右)と大師堂の眺め、後から知ったことですが十王堂も建立されているとのことです。医王寺十二坊のひとつとして、行基菩薩(668~749)によって開創され、浄光坊と称された護摩堂としてはじまり、弘仁五年(814)、弘法大師(774~ 835)がこの地に留錫され、護摩供を奉修されたという逸話が残っています。 弘法大師によって中興され、建暦2年(1212)医王寺とともに現在地に遷された。本堂においては、今も護摩法を修して法灯を伝えています。 山門を入ってすぐ左手に弘法大師ゆかりの「明星井」があり、江戸時代に編纂された「尾張名所図会」にも「明星水、弘法大師此井ヲ掘リテ護摩ヲ修セラレシトゾ」とその由来が記されており、現在もこの明星井の水をお供えに用いているとのことです。 平成四年に山門を再建、両脇に阿吽の仁王像が安置され、同十年には本堂の屋根の葺き替えなど、大規模な改修が行なわれました。 聖崎は、弘法大師が知多半島にはじめて足跡をしるされた場所とされ、「上陸大師尊像」が建立されていますが、当院は「上陸大師」の納経所になっています。参道左に弘法大師ゆかりの「明星水」、黄金色の灌仏像、お釈迦様の手形「仏手石」を安置。方形の瓦葺き屋根の本堂全景。 本尊は聖観世音菩薩。瓦葺き切妻屋根の大師堂。 初訪ということもあり、当初はこちらを本堂と思い込んでいた。右側の納経所では三十三番札所医王院と聖崎上陸大師の納経印も取り扱っています。 また、北室院は南知多観音霊場十番札所にもなっています。 堂内に安置されている弘法大師像。北室院の参拝を終え、次の三十四番札所までは仁王門を出て右に向かった25mほど先になります。ひがしにし みなみとこころまよへども まいるじょうどは きたむろのてら(東西 南と心 迷えども 詣る浄土は 北室の寺)第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十三番札所 宝珠山 北室院宗派 / 真言宗豊山派本尊 / 聖観世音菩薩創建 / 神亀二年(725)開基 / 行基菩薩開山 / 弘法大師札所 / 知多四国 三十三番札所・南知多観音十番札所所在地 / 知多郡南知多町大井真向11参拝日 / 2026/02/28宝乗院から北室院 / 宝乗院から左に向かい、県道281号線を渡った先。関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十五番札所 神光山 成願寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 稗田 神明社・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 聖跡上陸大師・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十番札所 宝珠山 医王寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十一番札所 宝珠山 利生院・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十二番札所 宝珠山 宝乗院
2026.04.22
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三十一番札所 宝珠山 利生院の路地向かいに、今回の札所である三十二番札所 宝珠山 宝乗院が鎮座します。利生院の参道から、路地を隔てた向かいの宝乗院の薬医門と参道は図ったかのように一直線に続く。 大師像を安置する堂もお互いを向かい合うように建っています。趣のある薬医門から境内の眺め。このあたりに5つの札所が纏まっているため、どの札所も見られない巡礼者で溢れます。 宝乗院もまた、医王寺を中心とした十二の塔頭の一つとして開かれた寺院です。宝乗院の由緒は以下のようなものでした。 『真言宗 豊山派 第三十二番 宝珠山 宝乗院御本尊 十一面観世音菩薩、別堂 金毘羅大権現 開基 行基菩薩開山 秀傳法印大和尚 由緒宝乗院もまた、三十一番札所利生院と同じく、宝珠医王寺の一坊「宝珠坊」として開かれ、医王寺とともに建暦二年(1213)現在地に移転しました。 利生院とは路地を挟んで大師堂が向かい合って建てられています。別堂の金毘羅大権現は、海上安全の守り神であり、漁業関係者の多い地域にあって、常に厚い信仰を集めています。 二百年以上前から縁日が始まり、旧暦十月十日の縁日には、今も魚を持って集まる信者で賑わいます。露地には屋台が並び、普段静かな町は祭りの雰囲気に包まれる。また、知多四国開創当時には、当院住職の広修法印が、開山の一人である武田安兵衛行者に宿を提供するなどの協力をされています。平成十四年、本堂右手の位牌堂を再建。』 尾張徇行記 第6巻(1976再版)には「一宝乗院、書上ニ 境内東西十九間 南北十六間 草創易地共ニ医王寺同年ニアリ、往古ハ宝泉坊ト号セシカ 何レノ比カ今ノ院号ニ改ム。」とある。伽藍は右手に庫裏と客殿、参道正面に本堂、左の金毘羅堂が主な建物になります。宝乗院本堂。 寄棟瓦葺きの建物で、大棟の紋章瓦に十一面観世音菩薩を表す梵字のक(キャ)が入れられています。堂内の眺め。 中央に本尊の十一面観世音菩薩、左側に大師像が安置されています。写真では切れていますが、右側に不動明王も安置されています。境内中央の靭堂。 堂内には土地柄を表すように恵比須明神・大黒天が安置され、一月五日には餅投げ行事も催されるという。金毘羅堂。 入母屋瓦葺きの堂で、大棟の紋章瓦に金の文字が入れられています。向拝周りの彫り細工は一手間かけられています。 旧暦の十月十日の縁日には地元漁師さんが獲ってきた魚が奉納され、夜になると縁日が始まるといいます。向拝には大きな龍と鶴の透かし彫り、木鼻には獏と獅子が施されています。 これで「大井五ヶ寺」の三寺を参ったことになります。次の三十三番札所は山門を出て左に向かい、県道281号線を渡った先になります。ほうじやうの みねにたなびくしらくもは わがみをのせて はなのじゃうどへ第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十二番札所 宝珠山 宝乗院宗派 / 真言宗豊山派本尊 / 十一面観世音菩薩創建 / 神亀二年(725)開基 / 行基菩薩開山 / 秀傳法印大和尚札所 / 知多四国 三十二番札所 所在地 / 知多郡南知多町大井真向34参拝日 / 2026/02/28利生院から宝乗院 / 利生院山門の向かい。関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十五番札所 神光山 成願寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 稗田 神明社・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 聖跡上陸大師・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十番札所 宝珠山 医王寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十一番札所 宝珠山 利生院
2026.04.19
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医王寺を出て、漁師町特有の細い路地を左へ進むこと約50m、右手に赤い薬医門が視界に入ります。 こちらが三十一番札所 宝珠山 利生院になります。細い路地を挟み、利生院と三十二番札所宝乗院の二つの薬医門が向かい合って建っています。 利生院は正式には宝珠山 東光庵 利生院と称し、医王寺を中心とした十二の塔頭寺院のひとつ「東光庵」として開かれた寺院になります。門から先の境内の眺め。 奥に長い境内の左に本堂・庫裏、正面の大師堂が主な建物です。 ガイドブックによる利生院の由緒は以下の通り。「第31番 真言宗 豊山派 宝珠山 利生院 御本尊 不動明王開基 行基菩薩 開山 秀園法印由緒 利生院は、行基菩薩によって神亀二年(725)に開基された宝珠山医王寺にあった、十二坊の塔頭「東光庵」として開創された。その後、建暦二年(1212)、医王寺とともに現在地に移転し、以来、諸悪災難解除などを願って信仰を集めてきました。 寺宝として守られる両界曼荼羅は、昭和九年(1934)、大師の千百年の御縁忌に大和室生寺の丸山貫長師より授けられた畳三畳大のもので、行事の折などに御開帳されます。昭和五十七年(1982)、信者、檀家、町民の浄財によって本堂が再建された。 御本尊は不動明王で、毎年一月二十八日の初不動では、息災護摩供養が修されます。曼荼羅と同じく、寺宝の孔雀明王図は、元の版画から写した彩色の軸が掛けられ、本堂で拝むことができる。」尾張徇行記 第6巻(1976再版)では利生院について以下のように記している。 「一利生院、書上ニ 境内東西十六間 南北十四間 草創易地共ニ医王寺同年ニアリ、往古ハ東光坊ト号セシカ何レノ比カ今ノ院号ニ改ム。」とあり「大井五ヶ寺」のひとつ。愛くるしい表情のお地蔵さんが、参拝者を出迎えてくれる。 利生院の本尊は不動明王、残念ながら本堂の扉は閉じられ姿は望めなかった。目的の大師堂はコンクリート造で方形屋根の瓦葺きのもの。 昭和五十七年に本堂再建とあり、この大師堂も同時期に再建されたものか?向拝の先に掛けられた「第三十一番 弘法大師」の額は大師堂としては立派な額が掲げられている。堂内厨子に安置される大師像はふっくらしたお顔をしたもの。 納経印は向かいに鎮座する三十二番札所宝生院で頂きます。利生院境内から三十二番札所宝生院山門の眺め。あじのはら たへなくやつのかぜふけど りせうのちかひ ふどうばんじゃく第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十一番札所 宝珠山 利生院宗派 / 真言宗豊山派本尊 / 不動明王創建 / 神亀二年(725)開基 / 行基菩薩開山 / 秀園法印札所 / 知多四国 三十一番札所 所在地 / 知多郡南知多町大井真向27参拝日 / 2026/02/28医王寺から利生院 / 医王寺から路地を左に50mほど先の右側。関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十五番札所 神光山 成願寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 稗田 神明社・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 聖跡上陸大師・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十番札所 宝珠山 医王寺
2026.04.18
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弘法大師が知多に上陸した聖崎から、国道を超えて西側の漁師町の趣漂う細い路地を進むと、三十番札所 宝珠山 医王寺が見えてきます。 背後の小高い山は上ノ山と呼ばれ、大師像が建立された公園として整備されています。今回は上陸大師含め9つの札所を巡りますが、内心、随分欲張った行程だと思っていましたが、実際に歩いてみてその理由がわかりました。 三十番札所医王寺の鎮座地周辺100mの範囲に利生院(第31番)、宝乗院(第32番)、北室院(第33番)、性慶院(第34番)が纏まって鎮座します。車で大井を訪れても、聖崎の駐車場に止めておけば、車で移動しなくても効率的に巡拝できる。後方に上ノ山を控えた三十番札所 宝珠山 医王寺参道口から伽藍を眺める。 医王寺は往古七堂伽藍十二坊を有した大寺院であったと記録が残ります。 しかし現在の医王寺は無住の寺となり、主な建物は正面の本堂と鐘楼、参道脇の手水舎と観音堂が中心となります。無住ということで、現地に納経所は設けられておらず、隣接する札所の利生院、宝乗院、北室院、性慶院が持ち回りで行っているという、当日はお隣の三十ニ番札所宝生院で頂きました本堂は寄棟瓦葺で、平側に大きな向拝を持ち、木鼻や手挟みの意匠に拘りが見られます。 無住寺院伽藍としては痛みもなく、築後間もない印象をうけます。調べてみると現在の建物は平成24年(2012)に刷新されたものという。医王寺の由緒について尾張志 知多郡(1893再版)やガイドブックは以下のように伝えています。「由緒 医王寺は、神亀二年(725)、行基菩薩が現在地の西方にある「仏山」に草庵を結び、薬師如来を安置して開基されたと伝えられます。弘仁五年(814)には、三河から舟で知多半島に渡った弘法大師が、当寺で七日間の護摩を修法したと伝えられ、大師の開山とされています。 当地に移されたのは建暦二年(1212)のことで、寺領百八十貫を拝領して、七堂伽藍十二坊を有する知多半島屈指の大寺院だった。しかし兵火や寺領没収などから、寺勢は衰退し一山四坊が残る。現在は無住の寺で、一山形式で配置される利生院(第31番)、宝乗院(第32番)、北室院(第33番)、性慶院(第34番)の真言宗豊山派四院が、交代で法灯をお守りする、大井五ヶ寺のひとつに数えられる。境内には知多四国霊場開山の一人、武田安兵衛行者の墓がある」尾張徇行記 第6巻(1976再版)から本尊・寺宝に関する記述を以下に抜粋。 「本尊は薬師如来で、お前立の日光・月光菩薩と十二神将はいずれも行基の作とされ、弘法大師の真筆とされる画像一幅あり」と記されています。 内部は三つの間に別れ、中央に本尊、左に弘法大師、右に千手観音を安置します。御本尊。厨子に安置されている本尊の秘仏薬師如来像と脇立の日光・月光菩薩・十二神将は行基作とされる。 秘仏薬師如来像には、中世の兵乱で暴徒乱入の際に矢を受け、像の左脇に鏃の痕を留めているという。ご利益は病魔退散、身代り、厄除の霊験ありと伝えられます。右側の千手観音。左側の弘法大師と右に聖徳太子像の姿もある。本堂左側に鎮守社が祀られているが詳細は不明。鐘楼と後方の小堂。吊るされた梵鐘は昭和丗八年(四八かも)鋳造されたもので、池の間や草の間に仏画が描かれていた。小堂に安置されている阿弥陀如来像。本殿から境内の眺め、本開催のため実際は多くの人で溢れていました。観音堂には34尊の石仏が安置されています。 細かく見ていないが、なかなか巡拝できない西国三十三観音霊場の本尊だろうか。おほいがた ぐぜいのふねに さおさして わたるもうれし のりのいわうじ第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十番札所 宝珠山 医王寺宗派 / 真言宗豊山派本尊 / 薬師如来創建 / 神亀二年(725)開基 / 行基開山 / 弘法大師札所 / 知多四国 三十番札所、南知多観音 十番札所 所在地 / 知多郡南知多町大井真向38参拝日 / 2026/02/28上陸大師から医王寺 / 大井漁港の南岸壁を国道247号線に向かい、国道の向かいに見える師崎街道を直進、二筋目の路地を左折、100m先の路地で右折・直進左側。1km・15分ほど。関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十五番札所 神光山 成願寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 稗田 神明社・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 聖跡上陸大師
2026.04.17
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前回掲載した稗田 神明社から、国道247号線沿いに1.1kmほど北上した大井漁港に向かいます。 今回の目的地は弘法大師が三河から船出し、知多半島の土を踏みしめた最初の地・聖崎です。大井漁港の入口に、海風を遮るように聳える小高い丘が聖崎。 聖崎の港側から堤防沿いに進むと、目的の上陸大師像が沖に立てられています。コースは、なぜか聖崎の頂きまで登り、聖崎公園を経て眼下の大師像に下るルート。「回り込めばいいんじゃない」などと内心ブツブツ言いながら階段を登り、頂に立つ。 頂からの三河湾の眺望と、見頃を迎えた河津桜はなかなかのもので、敢えてここをルートに選んだ理由も分からなくはない。個人で上陸大師像を見に訪れるなら、迷わず大井漁港側から訪れるだろう。 聖崎の東端に下る散策道から、眼下の上陸大師像の眺め。 弘仁5年(814)、三河での修行を終えた弘法大師は、船で当地の双子岩に辿り着き、聖崎から知多に上陸したという。この像は大師上陸の言い伝えを元に、昭和59年に建立されたもの。散策路を降り、堤防から沖合の双子岩の上に立つ弘法大師像の眺め。 潮の満ち引きで大師像まで地続きとなり、歩いて間近から仰ぎ見ることができる。この地に第一歩を踏みしめた弘法大師は、景観が四国に似ていることから「西浦や 東浦あり 日間賀島 篠島かけて 四国なるらん 」と詠われたという。 その後、聖崎から成願寺を経て山海の岩屋寺に留錫、護摩修法された後、野間を経由し、陸路北上し伊勢路に向かったとされる。この聖崎には、宝暦のころまで大師上陸の第一歩を印されたとされる僧形の大石が立ち、村人たちは礼拝を続けていたとされ、時とともに波に削られいつしか海中に没したということです。三河湾の左手に西浦を望み、右手に浮かぶ島は佐久島。 弘法大師縁の地を巡る知多四国、沖に浮かぶ篠島や日間賀島にも札所は及び、八十八寺の札所と開山所三寺、番外札所七寺を含め九十八寺を巡りますが、上陸大師は特別番外として位置づけられており、今回のルートで巡拝する三十三番札所北室院で御朱印が頂けます。聖跡上陸大師 尾張巡錫第一歩。当日は聖崎公園の河津桜が見頃、公園駐車場にキッチンカーも出ており、花見団子など買い求め、しばし花見を楽しんでから次の札所を目指すことにした。第十三回 歩いて巡拝 知多四国 聖跡上陸大師建立 / 昭和59年所在地 / 知多郡南知多町大字大井字聖崎5−4参拝日 / 2026/02/28稗田 神明社から聖崎 上陸大師 / 国道247号線沿いに1.1kmほど北上、徒歩15分ほど。関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十五番札所 神光山 成願寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 稗田 神明社
2026.04.14
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成願寺の東隣に隣接する稗田 神明社、今回はこちらを掲載します。 鎮座地は知多町片名稗田(ひえだ)、成願寺に隣接するように鎮座します。社頭の眺め。 社号標は「村社 式外 神明社」とある。参道中ほどの二ノ鳥居と右手に三棟の建物。 外見は袴腰の鐘楼のようでもあり、常夜灯のようでもある。それぞれ電源が引き込まれているので常夜灯か?、近づいて確認しなかったのが悔やまれる。参道左側に古びた恵比寿と大黒さまらしき石像が安置されていました。 海と山が迫り、漁業と農業を営む片名の土地柄を物語っている。社殿全景。 拝殿は神饌所と思われる建物とひと続きになっており、拝殿左に境内社、後方の本殿域に複数の境内社が祀られています。境内では由緒は見当たらず、愛知県神社名鑑(1992)より当社由緒を引用。『十二等級 神明社 旧指定村社 鎮座地 知多郡南知多町大字片名字稗田一番地 祭神 豊受大神 由緒 創建は明らかでないが、應永三十一年(1424)建替云々の棟札がある。明治五年、村社に列格、大正十二年十月五日、供進指定となる。 例祭日 旧九月十五日 社殿 本殿:神明造、幣殿、拝殿、社務所、覆殿、神庫』尾張徇行記(1976復刻版)には境内社について記されていた。『一社三区、覚書二 社内五畝廿歩 神明 山神 荒神前々除 〇祠官 磯部新助書上ニ 神明社内東西十間 南北二十間山神 東西五間 南北十間 三孤神社内 東西五間 南北五間 荒神社内 東西五間 南北十間共二前々除、四社共ニ勧請ノ年紀ハ 不伝覚書ヨリモ書上一社多シ』拝殿正面の眺め、三方の戸は閉じられ、内部は見通せなかった。拝殿額は「神明宮」。拝殿左の境内社。 右手は津島社、左手が秋葉神社、この奥の本殿左にも相殿の社が祀られています。拝殿右側から幣殿・鞘殿の眺め。 手前に一社、鞘殿の横に相殿の社が祀られていますが、社名はわからなかった。左手に狛犬の姿もあるが近寄れなかった。境内右側の山よりに一社だけ離れて祀られた社がある、雰囲気としては山の神だろうか。境内から社頭の眺め。 右手は成願寺境内で、尾張徇行記の双方の内容から、かつては神仏習合の関係にあり、神明社は片名集落の氏神として崇敬されている。さて次は鳥居から左に向かい、弘法大師上陸の地とされる聖崎に向かいます。第十三回 歩いて巡拝 知多四国 稗田 神明社創建 / 不詳(應永三十一年建替)祭神 / 豊受大神境内社 / 津島社、秋葉神社、その他氏子域 / 南知多町片名例祭 / 旧9月15日所在地 / 知多郡南知多町片名稗田1参拝日 / 2026/02/28成願寺から稗田 神明社 / 成願寺右隣。関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十五番札所 神光山 成願寺
2026.04.13
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前回の番外札所浄土寺から、水仙ロードを東に向かい、次の35番札所成願寺に向かいます。 ルートは、知多半島を横断する形となり、県道7号線までは地味な登りが続く約4km、50分ほどとコース中では一番きつい区間に入ります。峠を越え、片名集落に続く里道の途中に35番札所 神光山 成願寺の参道が現れます。 北側の山を背にして成願寺、その右には稗田 神明社が並んで鎮座する。南知多三十三観音霊場の幟がはためく参道から、寺標と山門を望む。 当寺の由緒について知多郡史など幾つか目を通したが、詳細は不明でガイドブックに記載された由緒を下に掲載します。 「曹洞宗 神光山 成願寺本尊 阿弥陀如来 開基 龍喜参公和尚開山 笑山恵誾大和尚 由緒左手に海を眺めながら、国道247号線を知多半島の先端、師崎に向かう道すがら、「この門をよけて通れよ風神、とおりに姿のあらん限りは」と成願寺の参道入口を示す石碑が建てられています。 この歌を詠んだ弘法大師は、知多半島に上陸した弘仁五年(814)悪病が流行っていた片名の地を訪ね、当寺は天台宗だったといわれる当寺で、厄除けの法を修行しました。 やがて大師の加持祈祷によって救われた村人は、大師の霊跡として別堂に修行大師像をまつりました。時は下って、元和元年(1615)笑山恵誾大和尚がこの霊跡の荒廃を惜しみ、堂宇を再興して曹洞宗に改宗しました。 平成七年に本堂の瓦を葺き替えるなどの全面改修が行なわれ、境内には、先の本堂にあった鬼瓦が「風吹不動」として残されています。」弘法大師が上陸したとされる聖崎は、ここから15分ほどの距離になります。入母屋造の本堂と切妻造の大師堂(左)の眺め。 境内に聳える一本のヤマモモの樹が成願寺のシンボルかもしれない。尾張徇行記(1976)では以下のように記されています。『成願寺、府志曰、在同村、号神光山、曹洞宗、属師崎延命寺 ◯覚書二寺内 五畝歩前々除 ◯当寺書上二境内一反七畝歩備前検除、此寺ハ 龍喜誉公ノ開基ニテ 正保二乙酉八月廿二日没ストナリ ◯境内鎮主白山社 聖徳太子堂アリ又村中寺控 秋葉社内六間四方村除、役行者堂 境内四間四方村除』ここに書かれている鎮守社について、境内を見渡してみたが見つけられないものもありました。ヤマモモの樹の手前に祀られる大峯山役行者と水子地蔵(左)。その後方に安置されている恩推観音。 年代は読み取れなかったが、穏やかな表情で瞑想にふける姿が印象に残る。阿弥陀如来を祀る本堂内の眺め、左の間に弘法大師が安置されています。 成願寺の寺宝に延宝四年(1676)に円空が彫ったとされる「善女竜王像」があります。像高約90センチほどで、胸のところに宝珠を口で支えた登り龍の体や角、髭が衣文の中に透けるように彫られており、背面に「竜王献宝珠之像 黙室胆礼謹認」の墨書があり、当寺三世胆礼の筆とされている。 町指定文化財に指定されており、有料拝観が可能。当寺は知多四国第35番札所・南知多観音霊場第11番札所ですが、近年、円空に所縁のある成願寺「善女竜王像」・如意輪寺「薬師如来像」・慈光寺「弁財天」の三寺で南知多円空三佛霊場を立ち上げたとのこと。堂内の大師像。本堂左手の大師堂に安置されている修行大師像。 悪病除け・災難除けに霊験があり、「修行大師厄除御札」を授かることができる。弘法大師は「我が姿を門口に貼り置かば、その家悪病災難なからしめん」と大師自らの誓願があったといわれ、いただいた御札は家の門口に貼ります。堂内の聖徳太子像。 知多四国の寺には聖徳太子開基とされる寺や太子像を見かけることが多い。厄除け御札の先に、左手でしっかり子を抱えた子安大師像が安置されています。慈悲深き 弥陀をと頼む成願寺 利益をうけよ思ふまにまにさて次回はお隣の稗田 神明社を訪れます。第十三回 歩いて巡拝 知多四国 三十五番札所 神光山 成願寺宗派 / 曹洞宗創建 / 不詳本尊 / 阿弥陀如来開祖 / 龍喜参公和尚開山 / 笑山恵誾大和尚札所 / 知多四国第35番札所・南知多観音霊場第11番札所・南知多円空三佛霊場所在地 / 知多郡南知多町片名稗田9参拝日 / 2026/02/28浄土寺から成願寺 / 水仙ロードを東に向かい約50分ほど。関連記事 ・第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺
2026.04.12
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2026/02/23~24、かみさんが予てから行きたいと言っていた草津温泉に行ってきた。 白根山の南麓や西麓までは何度か行く機会はあっても、東麓の草津温泉までは縁遠かったが、今回は一泊二日のバスツアーで草津温泉を訪れた。 ツアーは初日の午後に草津温泉のホテルに直行、翌日までフリータイム。翌日は、ホテルから長野善光寺を訪れ名古屋に戻る至ってシンプルなもの。 それにしても名古屋から草津温泉まで約5時間はじつに遠く、一泊二日で温泉三昧とはなかなかいかないかもしれない。写真は宿泊先の草津温泉ホテルヴィレッジ。 草津温泉街から少し東外れの森に包まれたロケーションに建てられていた。こちらに荷物を預け、温泉街を散策に向かう。 ホテルから1.5km離れた湯畑まで、送迎バスが運行されているので足の心配はない。私たちは約30分ほど歩き湯畑・温泉街・西の河原に向かう。 途中、いくつも入浴施設があり、湯巡りもいいだろうが、なにぶん時間が足りない。ホテルから15分ほどで草津温泉湯畑到着。 草津温泉といえばこの湯畑、ここを取り巻くようにホテルや飲食店が連なり多くの観光客がここに集まる。ここでコンビニに寄り、缶ビールを買おうとしたが、ここも大渋滞でレジまでには遠い道のりだった。 草津温泉のもうひとつの名物は、最寄りの熱乃湯で行われている湯もみショー。当初は見る予定でいたが長蛇の列で諦め、先に進むことにした。松むら饅頭。 湯畑から「西の河原通り」沿いに店を構える「松むら饅頭」。かみさんは迷うことなく店に吸い込まれていった。 目的は写真の饅頭で、ほんのりと温かい素朴なものでした。古い歴史を持つ草津温泉、当地の饅頭の歴史は比較的新しく、「松むら饅頭」の創業は昭和20年(1945)ということだ。 群馬県吾妻郡草津町草津389。草津穴守稲荷神社。 西の河原の入口付近に鎮座する稲荷社で創建は比較的新しく、明治40年(1907)で湯治に訪れ病気平癒のお礼に穴守稲荷を分霊したもので、祭神は豊受姫命。 群馬県吾妻郡草津町草津西の河原公園。 河原のいたるところから湧出し、川全体が足湯といってもいいだろう。写真は西の河原不動滝と不動明王、滝の上流は西の河原露天風呂。 群馬県吾妻郡草津町草津。地蔵堂(目洗い地蔵尊)。 顔湯の正面に鎮座する堂で、地蔵堂は文化5年(1808)に創建されたもの。草津温泉を支配した湯本氏の一族・細野氏と深い関係を持ち、かつては「常楽院」と称した修験寺院で、 白根山修験や山号の「葛城山」から、金峯山寺(蔵王権現)との関係も推測される。 本尊の石地蔵(像高25cm)は木曾義仲の護持仏と伝えられ、草津周辺には義仲にまつわる落人伝説も残る。寺勢が盛んだった頃は堂宇が多く、門前も賑わったが、明治初期の神仏分離と修験道廃止により衰退し、大日堂は解体、不動堂は光泉寺へ移された。 境内の湯畑前には「目洗い地蔵」があり、安政期に徳兵衛という人物が夢のお告げに従って目を洗い眼病が治ったことから、その功徳を讃えて建立されたとされる。 除菌効果のある温泉の湯気を浴びる顔湯は、保湿や美肌効果が期待できるとある。傍らにコロナ不活化率の比較データがあり、水道水と比較して30倍の効果があるという。 自分も試してみた、確かに保湿効果はありそうだった。群馬県吾妻郡草津町草津3 お肌もすべすべになり、昼間の散策はここまでとして、送迎バスに乗りホテルに戻りチェックインを済ませ、草津の湯を堪能しよう。ホテルで夕食を済ませ、再びバスで湯畑のライトアップを見に出かける。 気温も下がり、一面湯気に包まれた湯畑は昼間とは違う幻想的な表情を魅せていた。クリスマスイルミネーションもこの日が最後ということでフォトスポットとして賑わっていた。 その夜景の中で、ライトアップされた山門と五重塔が目に止まり足を向けてみた。光泉寺。 湯畑を見下ろす高台に鎮座する真言宗豊山派 草津山 光泉寺の寺院。地蔵堂にあった不動堂が移された寺院でもある。石段中程の仁王門。両の間に安置されている仁王像、ライトアップされ昼間とはまた違う威厳を感じさせる表情を魅せていた。仁王門から先の境内。手水舎右奥に鎮座するのが不動堂。 弘法大師像の先が本堂。光泉寺の開山は養老五年(721)、行基菩薩が草津温泉を発見し、薬師堂を建立したことにはじまる。 本尊は薬師如来像で有馬・道後と共に日本三大薬師といわれる。光泉寺は白根明神の別当寺として、正治2年(1200)に草津領主・湯本氏によって再建されたと伝わる真言密教寺院である。 鎌倉幕府からは地頭職と白根庄の寺領を与えられ、強い勢力を持っていた。鎌倉幕府滅亡後は南朝方に属し、僧兵を率いて合戦に参加し、護良親王・新田義貞・楠木正成・名和長年・北畠親房ら南朝の重臣が白根大明神に神礼を奉納している。 その後、南朝衰退に伴い北朝に帰属し、文明13年(1481)には近衛道興の斡旋で勅願寺となり、後花園天皇の勅額や柏原天皇の震翰を賜った。また宗祇・宗長・近衛龍山らが草津湯治の際に逗留した寺としても知られ、戦国期には光泉寺僧職・草津氏が猿ヶ京合戦で功を立て、上杉輝虎から感状を受けている。堂内の本尊薬師如来像。 個人的に寺院の夜間拝観はあまり好まないが、ここまで明るければ忌み嫌う必要はないかもしれない。本堂左の五重塔。 建立は令和5年と新しいもので、湯畑からライトアップされたこの姿はよく見え、ランドマーク的な存在だ。釈迦堂。 元禄十六年、江戸の医師外嶋玄賀宗静の発願によって建立され、施主は草津村湯本 弥五右衛門。 この本尊は奈良東大寺公慶上人の作。東大寺大仏修造に貢献のあった玄賀に、上人が大仏内腹の骨木から二体の釈迦像をつくり、その一体を賜ったという。 玄賀は夢に「藁屋二間四面の堂に安置せよ」とのお告げから、十五年を経て光泉寺境内に建立した。安置されている像は遅咲き如来と呼ばれている。草津山 光泉寺群馬県吾妻郡草津町草津甲446夜間の拝観を終え、酒のつまみを買い求め、バスでホテルに戻る。翌朝のホテル周辺の眺め。 湯けむりの上がる付近が湯畑だろうか。草津温泉ホテルヴィレッジ群馬県吾妻郡草津町草津618番地草津温泉街散策ルート二日目は草津から2時間ほど西の長野市の善光寺に向け走り出す。善光寺 山門。 キャンプや温泉、ご開帳などで長野を訪れ、おなじみのお寺という感がある。参拝を済ませ、そそくさと昼食がてら表参道周辺の散策に向かう。長野県長野市長野元善町492善光寺参道の一筋西で酒蔵を見つけ吸い寄せられるよう入っていった。善光寺では土産に酒を買おうと決めていたが、どうかするとお決まりの銘柄になってしまい、散策がてら酒蔵を探していた。 古い酒蔵を抜けた先は洗練された外観の建物が建っていた。寛永年間創業のよしのや、代表銘柄は「西之門」。 飲んだ経験がなく、さりとて試飲もせずに買うのはなかなかできないもの。 ところがこちらの「西之門よしのや」は、平日ながら試飲ブースではほぼ全種類が試飲できました。 買う気満々の者にとってはとてもありがたい。試飲するだけで帰りにくいと思うかもしれないが、それを振り払えば参道のコインで利き酒できるところより、ある意味楽しめる。 味の好みは人それぞれ、我が家的にはどんな食事にも合う飲みやすいお酒ということで西之門を土産として買い求めた。にごりの試飲もできたのでこちらも購入。西之門 よしのや長野県長野市西之門町941左 : いろは堂 おやき右 : おかき処 寺子屋本舗 ぬれおかき七味唐辛子参道に店を構える滝屋本店。 コインを買い求め日本酒やワインの利き酒ができる。口コミやセールストークで何度も裏切られているだけに、味わって納得したうえで買えるのはありがたい。長野県長野市長野元善町482大切なお酒達をリュックに収め、ほろ酔い気分で集合場所に向かい、名古屋に向かう。 短い滞在時間ですが、今回の草津温泉をもって日本三名泉はコンプリートできた。訪問日2026/2/23.24。旅行から随分時間が経ってしまい、記憶が薄れる前に写真を纏めようとしていて気がついた。 長野善光寺の過去の記録がまったく残されておらず、それどころか現PCの写真データにも残っていない。おそらく人の映り込みが多くて見送ったものと思いますが、写真を探し出し今更ながら纏めないとまずい。
2026.04.09
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春日和となった2月28日、第十三回 歩いて巡拝 知多四国を巡ってきました。 上が今回のルートです。 スタートは名鉄知多新線内海駅。駅前からバスに乗りバスで10kmほど先の小佐まで移動➡番外札所浄土寺➡35番札所成願寺➡上陸大師➡30番札所医王寺➡31番札所利生院➡32番札所宝乗院➡33番札所北室院➡34番札所性慶院➡29番札所正法寺➡鯛祭り広場からバスで内海駅に戻るもの。 コース全長は約11km。アップダウンの多いコースでした。駅から師崎方向に向け、海岸線を20分ほどバスに揺られ、南知多町大字豊浜字小佐郷の「うみっこバス小佐バス停」付近に到着。 そこから道路沿いの小佐郷『神明社』の路地を左に入れば最初の目的地番外札所浄土寺です。境内入口に「新四国 手引大師 龍亀大菩薩」と「新四国 龍亀霊場」の石標。 「龍亀」とはなんだろう?調べたところ、小佐郷には亀にまつわる伝承が伝わり、その中心的存在が浄土寺なんだという。余談だが、小佐には内海方向のバス停はあるものの、師崎方向のバス停は見当たらなかった。 ここから先へバスで進む場合、反対車線側に立っていれば停まるのだろうか。また、過去の巡拝ではかみさんの移動サポートで車でここに送り届け、自分は小佐郷『神明社』を含め近隣の神社を巡ったことはあるが、実際に歩くのは初めてだ。浄土寺伽藍全景。 この時期は梅が咲き誇り、境内に彩りを添えてくれる。こちらの寺院は、この伽藍の他に右手の梅の影にある亀石と崖に掘られた岩窟も見どころ。梅の後ろに左を向いた大きなウミガメの石像が安置され、後方の岩肌には岩窟が作られ、入口には龍亀燈と刻まれた灯籠が立てられています。 ここが「龍亀」の核心部分なのだろう。青泰山 浄土寺は曹洞宗の寺院で、本尊は薬師如来をお祀りする。 創建は明治23年(1890)とされ、開基が天野兵左衛門、亀岳鶴翁大和尚により開山。「龍亀」のいわれは以下。『「わしの若い時ゃ小佐まで通ふた小佐の薬師堂で夜があけた」と古謡に歌われた小佐薬師の旧跡に建つといわれる浄土寺。 お亀さんと親しまれています。明治四十二年(1909)、開山 亀岳鶴翁大和尚が、霊亀が白髪の老人となり現れる夢を三晩見た後、小佐の海岸に打ち上げられた海亀を龍亀大菩薩として祀ったことに由来する。 この亀の甲羅には「奉大海龍大神」の文字とともに、伊賀上野 谷村佐助と名前が書かれていました。長年の病に苦しんでいたこの人物が、夢に現れた霊亀の「我を供養すれば平癒すべし」の託宣に従い、二見ケ浦で網にかかった亀を買い取り供養したところ病気が平癒し、感謝の後、甲羅に大書して再び海に放ったとのこと。 別堂に祀られる龍亀大菩薩の脇には谷村氏の書状と亀の写真が額に掛けられている。』漂着した海亀は境内のけやきの根本に葬られたという。岩窟は奥行きこそ浅いが、正面の岩盤に石の祠が安置されていました。正面の本堂と龍亀大菩薩を祀る別堂。 本堂額は「浄土禅寺」本堂内の眺め。本堂に安置されている弘法大師。別堂内の眺め。 中央に額に収められた海亀の写真が安置されています。南知多町誌によると漂着した海亀の甲羅には、「谷村佐助の他十一名の名が記されていた」とあります。 その霊験が広まるや、龍亀大菩薩の霊験を授かろうと多くの参詣者が訪れるようになったという。なみのね みのりのこえぞおさのみさき うかぶこころの かめぞまつれる浄土寺の参拝を終え、水仙ロードを東に向かい、次の35番札所成願寺に向かいます。 ルートは、知多半島を横断する形となるので、地味な登りが続く約4km、50分ほどのきつい区間に入ります。第十三回 歩いて巡拝 知多四国 番外札所 浄土寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 薬師如来創建 / 明治23年(1890)開基 / 天野兵左衛門開山 / 亀岳鶴翁大和尚札所 / 知多四国番外札所・知多百観音48番札所・南知多観音霊場16番札所所在地 / 知多郡南知多町大字豊浜字小佐郷1参拝日 / 2026/02/28うみっこバス小佐停から浄土寺 / 徒歩1分ほど。関連記事 過去記事・小佐郷 『神明社』
2026.04.08
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前回の廣覚寺が鎮座する愛西市から、再び日光川を渡り、来た道を戻り蟹江町へ。尾張温泉で湯に浸かり、足の疲れを癒して帰途に着く。 帰りも国道一号線で名古屋に戻ろうと、県道65号線を南に走り出す。走り始めて直ぐ、国道に出る道案内を見落とし国道の上を通過してしまった。 やむなく、新蟹江小東の交差点で左折し、その先から国道に入ろうと細い道に入り込む。佐屋川に架かる夜寒橋を渡った左に鳥居の姿を見かけ立ち寄ってみた。鎮座地は蟹江新田鹿島。 佐屋川の左岸に南向きに社頭を構える神社は鹿嶋神社。起伏の少ない土地柄で、大きな松を主とする社叢は鳥居以上に目立つ存在です。 車は鳥居の右に僅かなスペースがあり、そちらに停めさせて頂いた。社頭右の鹿嶋神社解説板。『祭神 武甕槌命由来 寛永十三年(1636)、蟹江新田の開発がはじまる以前は、当地は大きな川筋が入り組、潮の干満により干潟が現れる地域で、人々は自然堤防洲の葭山を開き定住し、漁業や農業を営んでいた。 慶長十五年(1610)、この地に嵐で漂着した船の船神「鹿嶋大明神」祀ったのがはじまり。尾張徇行記には、寛永十八年鹿嶋大神を勧請と記載されている。 境内社には天照皇大神・秋葉社を祀る。寛政十二年地蔵堂、文政十一年観音堂建立。 明治四年、村社鹿嶋神社・祭神は武甕槌命となる。昭和四十三年より境内に文学苑を整備、句碑26基が建てられている。地名のいわれ 蟹江新田は、「蟹江新田由緒」によると、寛永十三年(1636)より開墾、元禄七年(1694)に検地とされたとあるが、それより早く開墾されたともいわれる。一村立ちの新田で、本郷は日光川の東西両岸にあり、枝郷として上芝切・下芝切・中川原・金野・西野新田の六ヶ村があった。 蟹江新田の各字の地名の由来について、芝切村は小島で群生する芝を切りに行ったことから、大海用(おおみよ)は暴風雨の際に大きな溝(みよ)が切れたことからついたものとされる。江戸時代末の「名区小景」に描かれている「夜寒橋」付近の鹿島という地名は、川島という小島のあとに寛永十八年(1610)鹿嶋神宮を迎え、以降鹿島島と名が付いた。 蟹江新田村は風水害による堤防破壊・塩害に悩まされ、米・麦を中心に農業と河川や近海での漁業で生業を得ていた。日光川改修後は大型船の着岸が可能となり、大海用地区を中心に商業を営むものもあった。 江戸時代の蟹江新田村戸数及び人口。寛文十一年(1671)戸数49戸・233名、寛政四年(1792)〃215戸・945名。』と書かれています。上は名区小景の夜寒橋。 佐屋川左岸の朱の鳥居が鹿嶋神社、神社に訪れる際、佐屋川を渡った橋が夜寒橋になります。愛知県神社名鑑(1992)は、当神社について以下のように記していました。『十等級 鹿嶋神社 旧指定村社 鎮座地 海部郡蟹江町大字蟹江新田字鹿嶋185番地 祭神 武甕槌神 由緒 社伝に慶長十五年庚戌創建という。 明治四年村社に列格する。昭和四年十一月五日、指定社となる。 字鹿島を氏子区域とする。 昭和三十九年五月十四日社名を鹿嶋社から鹿嶋神社に改称する。 例祭日 十月二十日社殿 本殿流造・幣殿・拝殿・社務所・神庫』鳥居から長い参道の眺め。 佐屋川と蟹江川に挟まれた中洲のくびれに位置する鎮座地は、南北に150m程の社地を持ち、参道中ほどに車道が横切り、東側の鹿島集落のすぐ先は蟹江川が迫っています。鳥居の先の参道脇には複数の石灯籠と句碑が続きます。社地中程の二ノ鳥居。 鳥居の右に鹿嶋神社の社標と、すぐ脇に観音堂が建てられています。二ノ鳥居から社殿の眺め。 右手に手水舎、正面の社殿は拝殿・幣殿・本殿が主なもので、社殿左側に皇大神宮、秋葉社の境内社が祀られています。切妻銅葺の四方吹き抜けの拝殿で、妻壁の大きな拝殿額が印象的。妻壁の額と装飾、意匠は控え目のようだ。拝殿の先には一対の狛犬が幣殿を守護する。左側から眺める社殿全景。幣殿。狛犬は小型ですが、立派な歯が特徴的。本殿域。 本殿の手前にも狛犬の姿が見られます。本殿域側面の眺め、流造の本殿以外に社は祀られていないようです。本殿左の境内社。秋葉社(左)、天照皇大神。本殿後方から拝殿方向の眺め。 風や陽光がよく届く、明るい印象の境内です。拝殿から社頭の眺め。 はるばる茨城からこの地にやって来た鹿島集落の氏神様です。蟹江新田 鹿嶋神社祭神 / 武甕槌神創建 / 慶長十五年(1610)境内社 / 天照皇大神、秋葉社例祭 / 10月第2日曜日 氏子域 / 蟹江新田所在地 / 海部郡蟹江町蟹江新田鹿島185参拝日 / 2026/02/14 廣覚寺から車アクセス / 尾張温泉東海センターから東へ、県道65号線学戸交差点右折直進、新蟹江小東交差点左折、佐屋川を超えて左折。3.6km・約10分関連記事 ・源氏島 八幡社・源氏塚(源氏塚公園)・硴場 神明社・記念橋の袂に鎮座する不明社・蟹江新田 風之宮社・愛西市大野町 大野神社・愛西市大野町 海東山 廣覚寺
2026.04.07
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前回掲載した愛西市大野町の大野神社。 今回は日光川左岸の蟹江町を超えないつもりでいたが、対岸の愛西市の大野神社まで足を伸ばした。写真は大野神社の社頭。 その参道右側に見えている寄棟造の建物が今回取り上げる廣覚寺の本堂になります。蟹江に戻る道すがら立ち寄ってみた。社頭から本堂方向に向かうと、そのまま境内に入れ、優美な屋根の勾配を魅せる本堂が現れる。境内右側に手水舎と鐘楼があり、その背後に山門を構えます。手水鉢の側面には「寛政七年(1795)」と刻まれていました。 境内に由緒の掲示はなく、『佐屋町史』や『尾張志』などを調べたところ、かなり古くから続く寺院であることが分かりました。『佐屋町史 史料編』(1989)には、廣覚寺(大野字郷裏四三)について次のようにまとめられています。 ■『尾張志』は広覚寺について「大野村にありて海東山といふ。参州野寺 本証寺の末寺なり。 文禄年中 (1592~1596) 僧 定善中興す。もとは古瀬村(現佐織町古瀬)にありしを明暦年中 (1655~1658) ここに移す。 本尊は阿弥陀如来の木佛像なり」としています。また、廣覚寺縁起も記載されており、要約すると以下のようになります。 ■『尾張国海東郡富吉庄大野村にある海東山広覚教寺は、もとは同郡古瀬村にあったが、後に現在の地へ移された寺である。以来、住職は代々受け継がれ、法灯は絶えることなく、浄土真宗東派の寺院として発展してきた。 七世善龍師は延宝年間(1673〜1681)に本堂を建立したが、時を経て建物は老朽化し、屋根は雨漏りし、堂内も荒廃していた。これを憂えた当時の住職・香厳権律師は再建を志し、門徒に呼びかけたところ、多くの賛同を得た。 嘉永二年(1849)、再建事業が始まり、斧入れの儀を経て工事が進められた。旧堂で報恩の法会を営んだのち取り壊し、新たに基礎を築き、名工の手によって堂宇は完成した。 同年十一月には新堂において供養と報恩講が盛大に営まれ、寺は再びその威容を整えた。この再建は、仏祖の加護と住職・門徒の尽力によるものであり、 今後ますます寺運は栄え、教えも広まっていくであろう。本記録は、その由来を後世に伝えるために記されたものである。』■廣覚寺のあゆみ(略年表)・文禄年間(1592〜1596)僧・定善により中興・明暦年間(1655〜1658)古瀬村より現在地へ移転・延宝3年(1675)頃 七世・善龍師により本堂建立・天保9年(1838)香厳権律師、本堂再建を発願・嘉永2年(1849)本堂再建(9月完成)・11月供養および報恩講写真の手水鉢は延宝3年本堂再建後に建立されたもの。■文中の本寺「三州野寺 本証寺」とは、現在の愛知県安城市野寺町にある、建永元年(1206)創建の古刹である。当初は天台宗の寺院であったが、後に浄土真宗へ改宗し、真宗本願寺派の有力寺院として隆盛した。上宮寺・勝鬘寺とともに三河三ヶ寺に数えられ、三河真宗の中心的存在であった。境内は二重の堀と土塁に囲まれた城郭伽藍として整備され、永禄六年(1563)の三河一向一揆では本願寺方の拠点となるなど、戦国期の地域史にも深く関わった寺院である。上は佐屋町史 史料編に添えられていた弘化4年 (1848) 当時の村絵図(右)と町史編纂時の鎮座地の比較。 絵図からは大野神社、廣覚寺は読み取れなかった。■現在では島の印象は薄い土地柄ですが、このあたり一帯は、戦国時代に織田信長と一向一揆が争った長島一向一揆(1570~1574)の舞台にも近く、当時の緊張した歴史の空気を今に伝えている。 廣覚寺もまた、そうした歴史の中で地域とともに歩んできた寺院である。本堂正面全景。 軒先に向け伸び伸びと下る勾配は寄棟造の醍醐味かもしれない。山門側から眺める入母屋造の鐘楼と本堂。 梵鐘は見ていないが、年代物かもしれない。現在の伽藍がいつ整備されたのか定かではないが、氏子や檀家の減少が進む今どきの社寺事情からみると絆は強そうだ。 山門は切妻瓦葺きの薬医門、右手に「海東山 廣覚寺」の寺標が立つ。 海東山 廣覚寺宗派 / 真宗大谷派本尊 / 阿弥陀如来創建 / 不詳中興 / 文禄年中、明暦年中現在地へ所在地 / 愛西市大野町郷西256 参拝日 / 2026/02/14 大野神社から徒歩アクセス / 大野神社社頭東隣関連記事 ・源氏島 八幡社・源氏塚(源氏塚公園)・硴場 神明社・記念橋の袂に鎮座する不明社・蟹江新田 風之宮社・愛西市大野町 大野神社
2026.04.06
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前回の風之宮社から日光川堤を上流の観音寺橋を渡り、対岸の大野神社に向かいます。 今回は日光川左岸を境にしていましたが、移動時間は徒歩15分、距離にして約1.0kmほどと近いので足を伸ばして見ました。日光川に架かる観音寺橋からJR関西本線の眺め。 水と空の色は随分春めいてきた。日光川を越え、県道29号線を300m程西に向かい、そこで左に進むと大野神社に辿り着きます。 社地には目標となる大きな樹々はありませんが、周辺は見通しが効くので神社の存在はすぐに分かる。写真は常夜灯から境内全景の眺め、ここから100mほど南に鳥居を構えている。南北に長い社地の右側に写真の手水舎がある。水は張られていなかったが、大きな龍がいる。碑文『大野神社は、鎮守の神・五穀豊穣の神として古くから崇められ、親しまれてきたが、度重なる大地震や伊勢湾台風等、未曾有の大災害に加え、長年の風雪により腐食・老朽化から放置できぬ状態になったため、平成十六年に修復委員会を設置し本殿、祭文殿、拝殿、神楽堂等を新築・造営した。』碑文には、大野神社への深い感謝と、大野町の発展、氏子の繁栄を願う気持ちが刻まれ、地域の人々の思いが形になった一枚の石碑です。境内由緒。『十三等級社 大野神社 由緒 鎮座地 海部郡佐屋町大字大野字郷裏四五二番地御祭神 神明社 天照皇大神 八幡社 誉田別命(応神天皇) 秋葉社 迦具土神由緒 創建はあきらかではないが、神明社棟札に、「明和六年(1769)」とある。八幡社棟札に、「元禄七年(1694)」とある。 府志に「八幡祠 神明祠 倶在 大野新田村」の記載がある。明治五年村社に列せられる。 大正三年、八幡社 神明社、秋葉社の三社を合祀、神明社から大野神社に改称。天照皇大神は皇室の祖神、国民の総祖神として崇め祀られる。 誉田別命は護国の神として伊勢神宮と並び二所宗廟と称され、母子神として海人の住むこの地の守護神として祀られた。迦具土神は火の神、火は水と共に万物生成の霊力を持ち、農耕守護として虫送り等の田の神と火の守護神として祀られた。 社殿 本殿・神明造、拝殿、幣殿、神庫。祭礼 元旦祭 一月三日 春祭 二月第一日曜日 湯立祭 五月十日 例大祭 十月第二月曜日 月並祭 毎月十日』愛知県神社名鑑(1992)は由緒同様の記述でした、由緒の記述が充実しており割愛します。社殿の全景。 手前の拝殿と幣殿、神明造の本殿が主な建物で、本殿左に神庫がある。平成に入り社殿が刷新されたことから、外観は至って綺麗で、整備された境内と相まってすっきりした印象を受けます。拝殿正面全景。 拝殿前には一対の狛犬が守護しています。鎮座地を明治の地図でみると、当時は南側の大野集落の北外れに位置し、ここから北は関西線を越えて水田が広がる眺望が広がっていた。垂れた大きな耳と、鼻に特徴がある狛犬。妻壁を見上げる。 木造瓦葺の切妻造で妻壁の拝殿額は「大野神社」。妻壁には鳳凰や波などの装飾が見られ、破風を飾る懸魚の鰭も波の意匠が彫られています。懸魚は外観のデザインポイントでもあり、多様な種類がありますが、大きな目的のひとつは破風板同様躯体の保護の目的で付けられます。 もうひとつの目的は建物の火除けとしてのまじないの意味もあります。岐阜の神社には、この部分に魚の装飾を施し、文字通りの魚を懸けた懸魚もあります。 中心の六葉から突き出た棒(樽の口)にも火伏せの意味があり、樽酒の栓のように水を注ぎだすの意味があり、大棟の鯱や鬼瓦、水と書いた板が載せられるのも同じ思いが込められています。本殿後方から社殿の眺め。 神明造の本殿には天照皇大神、誉田別命、迦具土神の三柱が祀られています。境内から鳥居が立つ参道の眺め、向かってみるか。社頭から社殿に続く参道の眺め。 右に見える寄棟の建物は、真宗大谷派の寺院 海東山 広覚寺になります。大野にはかつて蟹江合戦(1584)の舞台となった大野城があり、ここから南東1kmほどの日光川右岸に城址碑が立てられていますが遺構などは残っていません。 今回は日光川左岸の風之宮社を境としていただけに、これ以上西に進むのは別の機会にします。来た道を戻り、尾張温泉で湯に浸かることにします。愛西市大野町 大野神社祭神 / 天照皇大神、誉田別命、迦具土神創建 / 不詳(旧社名の神明社棟札に1769年と記される)境内社 / ・・・例祭 / 10月第2日曜日氏子域 / 大野町所在地 / 愛西市大野町郷裏452番地参拝日 / 2026/02/14 風之宮社から徒歩アクセス / 西に向かい、観音寺橋で日光川を渡り、大野神社まで約1.0km、徒歩15分関連記事 ・源氏島 八幡社・源氏塚(源氏塚公園)・硴場 神明社・記念橋の袂に鎮座する不明社・蟹江新田 風之宮社
2026.04.03
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水戸市の中心部、車の往来が絶えない県道50号線沿いの、商業店舗と飲食店が立ち並ぶ喧騒の中、細い路地の入口に木造の大鳥居が建っています。 その姿は、喧騒から切り離された別世界への入口のようでもあり、この先の石段の上の二ノ鳥居へ導いています。ここは水戸東照宮。 水戸藩初代藩主・徳川頼房が、父・家康の遺徳を偲び創建した社になります。ここに立つと都市のただ中にありながら、水戸という土地が歩んできた四百年の歴史が漂ってくる。水戸市宮町の高台に鎮座する水戸東照宮。 社地は南向きで、南側のこの社頭が表参道にあたり、東側の国道50号線側にも東参道と鳥居を構えています。鎮座地が高台故に、どちらから訪れてもこの石段は避けられない。石段を上りつめると二ノ鳥居。 鳥居前に狛犬と石灯籠、鳥居の後方に銅製灯籠があります。鳥居を守護する狛犬は子持ち鞠持ちの見慣れたもの。水戸東照宮の手水舎。 東照宮といえば豪華絢爛な装飾をイメージします、ましてや水戸の東照宮ということからキンキラの絢爛豪華なものを想像していましたが、意外にも、想像していた絢爛さではないが、落ち着いた品格を感じさせる。社殿はこの唐門と透塀で囲われ、その先に拝殿、幣殿、本殿を連ねています。 水戸東照宮の歴史は元和七年(1621)、水戸初代藩主徳川頼房が、父徳川家康の御霊をこの地に祀ったのがはじまり。当初は神仏習合ではじまり、地名は霊松山といわれたが、元禄12年(1699)第二代藩主光圀によって常葉山とあらためられた。 天保14年(1843)第九代藩主 斉昭は従来の仏祭から神道による祭祀にあらためた。 昭和十一年(1936)に水戸初代藩主徳川頼房が配祀されます。 創建当時の社殿は戦災で焼失してしまいましたが、焼失以前の社殿は国宝に指定されるほどの威厳のある権現造の社殿だった。現在の社殿は、戦後の昭和37年に再建されたコンクリート造ですが、姿は変われど、この地に宿る歴史の重みは変わらない。 焼失前の社殿の姿を見ると、現在の社殿も当時の雰囲気は継承されているように見えます。水戸東照宮は東日本大震災でも被災し、令和となった現在も鐘楼門など整備が行われ、今も形を変えています。 特に唐門と唐門から拝殿をつなぐ回廊の柱の装飾は、沈金を思わせる意匠で三つ葉葵や虎の文様が装飾され、天井には梅に鶯など、外観からは目立たない箇所に豪華な意匠が施されています。拝殿から幣殿の眺め、格子天井には葵の紋を取り囲むように花の絵柄が描かれています。拝殿から唐門、二ノ鳥居方向の眺め。 鳥居前に見える一対の銅製灯籠は、慶安4年(1651)に頼房公により奉納されたもので、全高は約3mほどで市の指定文化財になっている。拝殿全景。 千鳥破風の付く入母屋造で、妻側に神饌所が付属する。幣殿と本殿は棟続きで本殿の棟には3本の鰹木と外削ぎの千木が施されており、こちらに徳川家康と徳川頼房の二柱が祀られている。本殿後方に東向きに境内社の天満宮、大國宮、稲荷宮が祀られている。覆屋の中には二つの社が祀られており、社名札がなくどちらが稲荷か定かではない。 右の大きな社は二社相殿だろうか。常葉山時鐘。 境内左側に新たに建立されようとする鐘楼門で、吊るされる梵鐘は常葉山寺鐘と呼ばれ、市の指定文化財になっている。もともとは水戸城で時を知らせる太鼓に変わり、寛文7年(1667)に徳川光圀が鋳造させたもので、後に鐘から太鼓に戻された宝永元年(1704)、東照宮に遷された。更に時は流れ、明治に入ると、政府の命で1872年から4年間、旧県庁で時を知らせた。 しかし、2011年の東日本大震災で鐘楼を失い、梵鐘が鳴る事はなかったが、この楼門が完成すれば水戸の町に「常葉山時鐘」が再び鳴る事になる。この門から石段を下れば、宮下銀座商店街を経て東の国道50号線側に通じます。写真は国道沿いに建つ東参道の鳥居。 控えめな装飾の社殿に対し、この新しい鳥居はなかなか押しの強い意匠が施され、東照宮らしさが漂うもので、水戸の街の中で、今も静かに時を刻み続ける場所である。茨城県水戸市 水戸東照宮祭神 / 徳川家康、徳川頼房創建 / 元和七年(1621)境内社 / 天満宮、大國宮、稲荷宮祭礼 / 一月一日 元旦祭、二月節分の日 節分祭、四月一七日 例大祭、八月水戸黄門祭など参拝日 / 2026/01/30所在地 / 茨城県水戸市宮町2-5-13関連記事 ・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY1『香取神宮』・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY2『鹿島神宮・大洗磯前神社』・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY3『神磯の舞台・別雷皇太神・水戸東照宮』・風神様(龍田神社)・渕生稲荷神社・御霊宮・千葉県香取市 沖宮神社・忍男神社(東の宮)・千葉県香取市 瞻男神社(西の宮)・茨城県東茨城郡大洗町 大洗磯前神社・大洗磯前神社末社 與利幾神社・茨城県水戸市 別雷皇太神・茨城県水戸市 常磐神社
2026.04.02
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桜も盛りを迎えた3月27日、用事もあって岩倉の五条川へ花見に出かけてきました。 この日は風もなく、暑いくらいの陽気。用事を済ませたあと、五条川をのんびりと散策しました。かみさんは屋台へ、おやじはビールを探し求め、腰を据えて花見と決め込んだ。物価高の影響で屋台の商品は軒並み1000円札が飛んでいく。 そんな中、神明太一社の東隣にある地域交流センター「お祭り広場」の屋台は良心的だった。屋台の缶ビールが600円に対し、こちらでは生のカップが600円、缶なら400円。 生ビールとつまみを買い求め、腰を落ち着けて今年の桜をしっかり目に焼き付けた。五条川の桜も老木が増え、枝の伐採も進んでいることから、川面を覆い尽くした往時の姿とは少しずつ変わりつつあるようだ。 平日ではあったが、堤には円安の追い風を受けた大陸からの観光客が多く、至る所でポーズを取る姿が見られた。このあと名古屋城の桜も見ていこうということで、名古屋へ向かう。浅間町に降り立ち、名古屋城へ向かう道すがら、かつて訪れた屋根神さまが町並みから姿を消していた。 ホテルも様変わりし、周辺の町並みも少しずつ移り変わっている。関連記事・名古屋城西の二つの屋根神様久しぶりの名古屋城。 とうに姿を消すはずの天守も、いまもなお聳え続けていた。ここは五条川以上に観光客が多い。 桜に加え、天守や本丸御殿など、海外観光客に受ける素材が揃っていることもある。内堀に生息する「やまむら」と「もみじ」の二頭も元気そうだった。 よその鹿を移送し放獣する話もあったが、妙な理由から中止となり、大阪で捕獲され受け入れ先を探していた奈良の迷い鹿を迎えるかと思いきや、名古屋は手を挙げず、新しい仲間はやってこなかった。一方で名古屋東部丘陵地では、鹿は普通に害獣として生息している。 内堀に限らず、鬱蒼とした外堀などに何頭か放してやればいいと思うのだが。やまむら・もみじは寂しいだろうが、仲間は増えそうにない。桜が咲き誇る名古屋城を訪れ、豪華絢爛な本丸御殿や特別公開の西南隅櫓も拝観した。 しかし、おやじには、やまむら・もみじの姿のほうが強く印象に残った。
2026.04.01
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水戸市の中心部、西側の高台に広がる偕楽園。その園内の東端、梅林を抜けた先に鎮座するのが、徳川光圀公と徳川斉昭公を祀る常磐神社です。写真は偕楽園駅側の大鳥居から社殿に続く参道の眺め。日本三名園として賑わう偕楽園に寄り添いながらも、境内に一歩足を踏み入れると静けさの中に水戸の精神文化が息づいているのを感じます。その立地と成り立ちをたどることで、この神社が近世に創建された意味が見えてきます。そしてその意味は、単に水戸藩の歴史を振り返るだけにとどまりません。水戸学が育んだ「公を重んじる心」や「社会のために自らを律する姿勢」は、個人主義が広がり、自己を律する姿勢や家族・地域を大切にする感覚が揺らぎがちな今、あらためてその意味を考えさせられる。常磐神社は、私たちが水戸学からどのような心のあり方を受け継いできたのかを、そっと思い返させてくれる場所である。写真は石段から大鳥居の建つ社頭の眺め。水戸学は、御三家(尾張・紀伊・水戸)の中で水戸藩が将軍継承の対象外とされたという立ち位置の矛盾から生まれた思想である。「日本の中心は天皇であり、将軍はその任命を受けた存在にすぎない」という尊王思想を軸に、朱子学の影響を受けた道徳と秩序を重んじる保守的な理念を持っていた。その思想的な土壌は光国が築き、斉昭が文武忠孝の世界観として結実させたものである。写真は石段を上った先の境内に安置されている一ノ狛犬。この思想は幕末に広まり、長州藩にも影響を与えたが、長州はそれを過激な行動原理として用い、暴力へと転化させてしまった点で水戸学本来の精神とは異なる。一方、最後の将軍となった水戸藩出身の徳川慶喜は、水戸学の影響を受け、尊王思想を背景に武力ではなく大政奉還という穏やかな手段を選択した。結局のところ歴史の評価は勝者によって大きく左右される。長州は朝廷を掌握し、倒幕の密勅を得て「官軍=正義」の立場を確保した一方、慶喜は旧体制の象徴として政治的に朝敵とされた。「勝てば官軍」という言葉は幕末に生まれたわけではないが、その意味がこれほど鮮明に形になったのはまさにこの時である。思想の純粋さよりも、どの勢力が天皇を利する側に立ち、天皇の名を握ったか、そしてその結果どのような政治的帰結を生んだかによって歴史的評価は変わってしまう――そのことを、水戸学の尊王思想がよく示している。常磐神社は、偕楽園・弘道館とともに、斉昭が描いた文武忠孝の世界観を今に伝える場でもある。御酒殿、日本酒好きには絶好の情報源です、月の井しか飲んだ記憶がない。水戸光圀 学問の土台を整えた藩主。弘道館の設立を支援し学問の振興を推進。藤田東湖 思想を深めた主要な学者の一人。水戸学の理論的基盤づくりに貢献。水戸斉昭 水戸藩の領主として教育と学問を後押し。思想と実践の橋渡し役となる。弘道館 水戸学の学習拠点。後の世代へ思想を伝える場として機能。境内の常磐神社由緒と茨城県神社誌(1973)を引用した沿革。 『祭神は大日本史編纂の祖、高譲味道根命(徳川光国)、偕楽園開園の祖、押健男国御楯命(徳川斉昭)。はじまりは明治元年旧氏族によって偕楽園内に義公、烈公を祀る堂の創立からはじまる。 同六年県社に列格。明治七年(1874)、現社殿を造営。 明治十五年(1882)別格官弊社に列格。昭和二十年戦災により社殿を消失。 同二十三年別表神社に列格。同三十二年現社殿が竣工。 昭和四十三年表参道・東参道の鉄筋コンクリートの大鳥居・燈籠を建立。境内社 東湖神社(藤田東湖命)、常磐稲荷神社(宇迦之御魂命)、三木神社(三木之次命・三木武佐命)』 というもので、境内右に義烈館があり、当日は時間の余裕もなく拝観できなかったが、水戸学関係の資料が収蔵展示されている。 二ノ鳥居前に安置されている狛犬。常磐神社社殿全景。 昭和三十二年竣工ということもあり、社殿に趣きを求めてもいけない。主な建物は拝殿・幣殿・本殿と社務所が主なもので、拝殿右側に常磐稲荷神社、本殿左側の境内に三木神社が鎮座、一ノ狛犬の左に東湖神社が鎮座する。シャープなデザインの拝殿は3本の鰹木と外削ぎの千木が施されたもの。拝殿左の常磐水神社。 創建は平成27年(2015)と新しく、祭神は水を司る神、弥都波能売神。渡廊から社殿後方に回ることができる。本殿左側の境内に東向きに社殿が祀られており、祭神は三木之次命・三木武佐(むさ)命。 三木夫妻は黄門さまの育ての親で、武佐は水戸藩初代藩主徳川頼房の乳母。安産・子授けにご利益があるとされる。創建は昭和40年と新しく、松下幸之助氏の建立。 本殿後方の備前焼狛犬。 どこか見覚えがある、大洗磯前神社の随神門を守護する狛犬と同じものです。本殿後方の二つの石碑。 上は万生に伝う碑、下は仰景碑。拝殿右側の常磐稲荷神社。 鳥居右側の推定樹齢150年の楠の切株は、今も新芽が芽吹き成長を続けている。 創建は昭和37年と新しく、五穀豊穣を司る宇迦之御魂命を祀る。東湖神社。 一ノ狛犬の左に東を向いて鎮座する摂社。藤田東湖は斉昭公の重鎮として藩政改革や兵器建造に尽力された方で、光国が礎を築き、斉昭が開花させた水戸学を更にまとめ上げた人物を祀る神社。本殿はシャープな切妻で祭神の藤田東湖を祀る。 こちらも創建は昭和18年と新しいもので、合格祈願・学業成就にご利益がある。境内右の能楽殿方向の眺め、この先に水戸学関係の資料を収蔵展示する義烈館がある。 内部には、大日本史はじめ大砲や近代に制作された黄門さまの木像など展示されている。大日本史は光国が着手し、その後も水戸藩で受け継がれ、編纂を終えたのは明治39年という、水戸学の精神そのものが結実したものといって過言ではないだろう。そんな大日本史も、今や国立国会図書館のwebから自宅で読むことができますが、偕楽園・常磐神社を訪れたなら、訪れておく必要があったのかもしれない。茨城県水戸市 常磐神社祭神 / 高譲味道根命(徳川光国)、押健男国御楯命(徳川斉昭)創建 / 明治七年(1874)境内社 / 東湖神社、常磐稲荷神社、三木神社祭礼 / 2月17日 祈年祭、2月20日 梅花祭、4月4日 烈公誕辰祭、5月12日 例祭 (側近日曜 神幸祭)、7月11日 義公誕辰祭、旧7月11日 国旗祭、11月23日 新嘗祭参拝日 / 2026/01/30所在地 / 茨城県水戸市常磐町1-3-1関連記事 ・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY1『香取神宮』・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY2『鹿島神宮・大洗磯前神社』・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY3『神磯の舞台・別雷皇太神・水戸東照宮』・風神様(龍田神社)・渕生稲荷神社・御霊宮・千葉県香取市 沖宮神社・忍男神社(東の宮)・千葉県香取市 瞻男神社(西の宮)・茨城県東茨城郡大洗町 大洗磯前神社・大洗磯前神社末社 與利幾神社・茨城県水戸市 別雷皇太神
2026.03.29
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前回掲載したかつての源氏島東端の西之森才勝の不明社から、今度は西に向かい佐屋川を超えた日光川左岸の蟹江新田に向かう。目的地は尾張温泉の西側、日光川左岸堤防の下に鎮座する風之宮社で、移動距離は約1.5km、徒歩25分ほど。 明治時代の地図で見ると、右に佐屋川と左に日光川に挟まれた中洲の中に鳥居の印が見えます。風之宮社は尾張温泉から直線距離で約500mほど西の蟹江新田佐屋川西に鎮座します。 佐屋川西の地名が示す通り、まさしく佐屋川の西にあたり、視点を変えると日光川東でも通用しそうな立地です。上は尾張国絵図(1838)から鎮座地を赤枠で囲ったもので、黄色が源氏島になります。上は同時期に描かれた蟹江本町村絵図(1841)から赤枠を拡大したもので、二つの川に挟まれた現地に風之宮社が記されています。 風之宮社は蟹江本町の飛地だった当地の集落の鎮守として歴史は古いようです。いつものように愛知県神社名鑑(1992)から調べてみる。『十五等級 風之宮社 旧村社 鎮座地 海部郡蟹江町大字蟹江新田字川東二六番祭神 志那都比古神、志那都比売神 由緒 創建は明らかでない、明治五年、村社に列格する。例祭日 十月四日 社殿 木造 流造、拝殿』とあり、風を司る男神と女神が祀られています。蟹江町史 本編(1973)では以下のように記されていた。 『現在の大字蟹江新田字観音寺に風之宮社がある。観音寺新田は、江戸時代、行政的には蟹江本町村に属していた。 飛地の新田であったから、本町村とは別に新田の鎮守神を勧請したのであろう。郡村巡行記によると、「観音寺新田内風宮、境内二畝、御除地、創建年紀不伝、慶安四卯年修造ス」とある。 明治五年二月の「第八拾五区海東郡社寺調」では、まだ蟹江本町村内の神社とし、「尾張国海東郡第六大区六小区神社調」になると、西ノ森村の神社とし、社格は無格社で、境内地は無税地で東西六間、南北十五間、そこに松十本・雑木一本があった。』としている。社頭から境内全景。 蟹江町史にあるように、スッキリとした境内に10本ほどの松が植えられており、少し奥に社号標と鳥居が立てられています。社号標は「村社 風之宮社」と石造明神鳥居はいずれも昭和4年(1929)に建立されたもの。雑草が生い茂ることもなく、手入れされた境内参道から一対の常夜灯と拝殿の眺め。風之宮社のはじまりは、慶安四年(1651)修造とあるように、中世、或いは義朝が源氏島に訪れた頃まで遡るのかもしれない。社殿は瓦葺妻切の四方吹き抜け拝殿と、高い基壇の上に本殿を収める鞘殿が主なもので、右側に社務所がある。すっきりと整理された社殿全景。鳥居や拝殿に額は見られないが、鬼板はじめ軒丸瓦、あらゆるところに風の1字が入れられています。鞘殿全景。本殿の造は確認できなかったが、神社庁によると流造のようで、こちらに風の神が鎭まっている。 鞘殿前を守護する狛犬、建立年代は確認し忘れました。鞘殿後方から社殿を望む拝殿から社頭の眺め。 前方に見えている堤の先は日光川だ。堤に上がり上流を眺める。 往古より水と鬩ぎ合ってきた当地。それを物語るように、日光川の水面は堤の下の住居の屋根の高さにあり、廃川となった佐屋川の水面は更に下になります。 時代は変わり、強靭な堤防と無数の水門、排水施設により護られているとはいえ、鬩ぎ合いの場に変わりないようだ。蟹江新田 風之宮社祭神 / 志那都比古神、志那都比売神創建 / 不明(慶安四年修造)境内社 / ・・・例祭 / 10月3日氏子域 / 蟹江新田所在地 / 海部郡蟹江町蟹江新田佐屋川西参拝日 / 2026/02/14 不明社から徒歩アクセス / 西に向かい、日光川堤下の風之宮社まで約1.5km、徒歩25分関連記事 ・源氏島 八幡社・源氏塚(源氏塚公園)・硴場 神明社・記念橋の袂に鎮座する不明社
2026.03.28
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前回掲載した硴場 神明社から5~6分ほど平坦な道を東に向かう。 正面に蟹江川の堤防道路が現れます。川に囲まれたかつての源氏島、東西どちらに向かっても堤防で守られています。源氏島と蟹江川対岸を結ぶ記念橋。 橋の欄干の竣工銘板には架けられたのが昭和57年とあります。上の地図は鎮座地の西之森才勝。蟹江川右岸の堤防には現在に至るまで、ここに神社の印が記載されることはない。記念橋そのものが、航空写真の撮影年で見ると昭和26~36年頃に架けられたようで、それ以前に橋の姿は見られなかった。橋の竣工銘板の昭和57年と航空写真の年代に相違があるが、昭和中期から後期頃に架けられたようだ。 今回の不明社は記念橋の袂の堤防道路脇のわずかなスペースに鎮座しています。 現地に由緒はなく、地図からも創建時期の推測はできない。記念橋の袂に整然と社地が整えられており、橋の完成に合わせて創建されたものだろうか? 愛知県神社に登録はなく、蟹江町史(1973)に目を通したが当社の記述は見られなかった。才勝は西之森の枝村で、郡村巡行記が編纂された江戸時代中期でも「才勝に八戸あり」と記録があり、古くから鎮守として祀られてきた可能性もある。社頭には幟立と木造の明神鳥居、その先の本殿域が主なもの。 社地と本殿域それぞれ玉垣で囲われており、玉垣を見る限り、昭和に入って創建されたとは思えない歴史を感じさせる。本殿域には板宮造の本殿が祀られているが、社名札はなく、社名を示す寄進物も見当たらなかった。どなたを祀り、いつ頃祀られたのか定かではないが、日々参拝に訪れる方は見えるようで、境内も手入れされています。源氏島の東端、蟹江川の堤に祀られるこの神社、川を超えて集落に入ってくる除災のためか、水を鎮めるためか、あるいは才勝の鎮守として祀られたものか想像が広がる。 地元の方に伺うか、幟旗がはためく姿に出会わなければ、もやもやしたままで終わりそうだ。記念橋の袂に鎮座する不明社祭神 / 不明創建 / 不明境内社 / ・・・例祭 / 不明氏子域 / 不明所在地 / 海部郡蟹江町西之森才勝156参拝日 / 2026/02/14 硴場 神明社から不明社へ徒歩アクセス / 東方の蟹江川方向の記念橋まで400m・5分前後。関連記事 ・源氏島 八幡社・源氏塚(源氏塚公園)・硴場 神明社
2026.03.27
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かみさんのwin10 PC、延長セキュリティ更新プログラム(ESU)で延命措置を図り使ってきました。それとていつまでも使い続けるのはリスクが大きい。次なるPCの模索はじめ驚いたのは昔ながらのデスクトップPCの価格高騰。モデル更新時期もあるのかもしれないが、webの販売サイトでは、手頃な価格帯の在庫なしが目立ち選択肢も少ない。レアアース・原油価格高騰の影響もあるのだろう。まずは、ダメ元で、アップグレードの要件を満たさないPCをwin11にしてみた。いつものように画像はないが、要点としては以下だ。1.ISO イメージからインストールメディアを作成する、オープンソースの「Rufus」https://rufus.ie/ja/から最新版のダウンロード。2.Microsoft公式サイト(https://www.microsoft.com/ja-jp/software-download/windows11)から以下をダウンロード。3.データの入っていないUSB、自分は64GBを使用(webでは8GB以上推奨)を用意しPCに挿入。4.ダウンロードしたrufusを起動、以下のように設定し「スタート」。開始するとrufusが「usbデバイスのデータ消去されます」の警告がでるが「ok」押して進める。作成が始まると緑のバーグラフが伸び始め、すべて完了すると緑に反転し「準備完了」となる。※終了してもスタートボタンは消えない、心配になってスタート押すとふたたび始まるので押さない。 閉じてください。これで、要件を満たないPCにも正規win11をインストールする準備が整った。5.開いているウインドーはすべて閉じる。6.usbのrufusファィル一覧から「setup.exe」をWクリックしてwin11インストール開始。 途中のメッセージ・「デバイスが変更加える・・・」は「はい」・「win11インストール・・・」は「次へ」・「更新プログラム・・・」では「今は実行しない」を選択し「次へ」 (更新プログラムは後から手動でやればいい)・「適用されるライセンと通知」は「同意する」・「次の作業が必要です」では「承諾する」・「インストール準備完了」では「インストール」これで時間は相当かかるがインストールは完了する?はずだった問題進捗率46%でどんだけ待てど暮らせど進まない「46%の壁」に直面。・インストールキャンセル、クリーンアップ終了後PC再起動・再インストールで46%の壁を超えてインストール完了。確認・検索バーに「winver」とタイプし、win11にアップグレードされていることを確認した。・既存アプリの動作機能確認(遅くなったが正常動作)・Cドライブ容量に大きな違いは見られない・メモリは明らかに不足しており、増設や無意味なウィジェット表示をなくす必要があるが、何が不要で必要かは本人次第なのであえて実施せず。現状の動作はVistaよりましか。・使い終わったISOファイルは削除感想・長時間かかったがwin11に移行できたのは一安心。・何もしなければoffライン専用・外付けHD、もしくは下取り廃棄の道を辿る運命のPCが再利用できる。これが一番か。注意・買い替える腹づもりであり、復旧できなくなることを承知の上であること。・個人で実施した内容の概要であり、誰でも移行できると推奨するものではありません。過去記事・Windows 10延命措置完了
2026.03.24
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水戸市元山町の県道342号線沿いに東を向いて社頭を構える別雷皇太神、今回はこちらを掲載します。別雷皇太神 社頭の眺め。 歩道沿いには「別雷皇太神」の社標と、「関東三雷神 別雷皇太神」と書かれた縦看板が寄り添うように建っている。鳥居を奥に控えるせいか、遠目には社標や鳥居よりも縦看板の存在感が際立つ。 そして縦看板同様に目立つ存在なのが「向町の散々楽」の解説。 室町時代から続く別雷皇太神例大祭の伝統芸能「棒ささら」について書かれている。底抜け屋台の下から、竹竿の先端につけた親子獅子の人形を操り舞わせるものを「棒ささら」と呼ぶようで、全国でも茨城県内に数例しか伝わっていない珍しい祭りなんだそうだ。 散々楽は露払いの猿田彦を先頭に、矛を持ち、神事面を被った八人の童子が市内を練り歩くもので、喜怒哀楽を表すとされる神事面の中には、室町時代から受け継がれたものもあるという。 江戸時代には水戸東照宮の祭礼や、明治天皇の水戸巡幸の際にも上演された記録が残るという。ここにある向町は旧町名で現在の大工町交差点の西、国道50号線沿線辺りだという。 我が町を含め、街から祭礼が消え、近所付き合いが希薄になっていく中、水戸の街中にこうしたものが受け継がれているのは羨ましい限りだ。 一対の石灯籠と鳥居が建てられ、歩道から境内に向け石段が設けられている。 参道を鳥居に向け進み、目に止まったのは一対の常夜灯。右手のものを見ると竿のない不自然なもので、空襲や震災の爪痕を物語っているとしか思えないもの。 茨城県神社誌(1973)から由緒を調べた際、社殿は戦時中の空襲で焼失したとあり、灯籠はそれを伝える戦争遺構のようだ。 これ以外に拝殿前の灯籠も基壇の上に笠が載せられたものが目に付く。不自然さを感じるが、左右共にこうした形で揃っていると、平和ボケした昨今、こうした種類の灯籠なんだろうと思えるくらい普通に思えてくる。 仮に戦争を伝えるものであれば、次の世代に伝えるのも必要なのかもしれない。境内全景。 訪れたのは1月30日、遅い朝食の時間帯、境内で鶏を飼っているのか、どこからか鶏の朝泣きが聞こえてくる。境内に入ると、目の前の社殿より左のカエルの石像に視線がいく。 当神社の社名からも分かるように雷様を祀る神社ということで、雷は雨をもたらすことから、雨乞い・水稲耕作の神として信仰される。カエルは雷神の使いとも云われるようで、ここは狛犬よりこのカエルが主役になってくる。六福六蛙(ろくふくむかえる)。 石像は親カエルの背中に5匹のカエルが載るもので、御利益は「無事かえる」・「金かえる」・「若がえる」・「良く考える」・「もとにかえる」の他、卵からオタマジャクシとなりカエルになることから「出世」にも御利益があるという。御存知のように、カエルの卵は数えきれないほど産卵することから子孫繁栄も期待できるかもしれない、もう一匹背負わせてみるのもどうだろう。 授与所では金色のカエルのお守りが授かれるようで、金色大好きなどこぞの人に「良くかんがえる」の意味を込めて贈ってやりたいくらいだ。社殿全景。 戦後に復旧された社殿は、左に手水舎があり、正面に入母屋造で千鳥破風・唐破風向拝が付く拝殿と幣殿、本殿が続くもので、右手に境内社が纏められています。茨城県神社誌(1973)によれば当社の創建は第45代聖武天皇神亀元年(724)。 勅命により常陸国主藤原宇合が蝦夷征伐におもむく際、東北地方鎮護の神として、京都の「加茂別雷神社」の御分祀を当地に祀ったことが創始。現在の水戸地方に鎮座する神社では第一の古社とされる。 由緒によると、この地方を治めた佐竹氏、徳川氏の産土神として信仰され、特に雷難消除、武運長久の守護神として崇敬され「水戸の雷神さま」として関東一円に知られたという。また、桜田門外の変の水戸浪士たちは別雷皇太神で祈願成就を祈ったともされます。 明治六年(1873)村社に列格。 大正13年東京上野の「電気博覧会」では、会場鎮護の神として、当社の御分祀が祀られ、その後は東京都電気局の守護神として祀られ、当時の市電や市バスには当社の御神札が祀られていたという。 現在は、茨城県東海村に遷されて電気、原子力の守護神として祀られている。当社は昭和20年の水戸戦災により、社殿・社宝・資料のすべてを焼失。 戦後の混乱期に再建されたが狭隘となり、昭和四十五年に現在の社殿に生まれ変わった。境内神社は淡島神社(少彦名命)、聖徳神社(聖徳命)、青麻神社(青麻命)、稲荷神社(宇迦魂命)を祀ると記されていました。手水鉢。 カエルの姿はここにもある、さながら蛇に睨まれたカエルだろうか。拝殿前の灯籠。 これはこれで形になって見えるところが平和ボケの証かもしれない。拝殿前の狛犬。 建立年度は見忘れましたが、茨城県神社誌では昭和八年寄進とあり、空襲前のものと思われます。狛犬の尻尾と言えば、上に伸びたものや、扇のように広がったものなど、多様なデザインがある。 ここの狛犬の尻尾のデザインはあまり見覚えのない面白い形をしています。 向拝。 鳳凰、松に鹿と老僧、龍の透かし彫りはなかなかのもので、飾り金具は外に向かって葉を広げる尻合わせの三つ葉葵が施されている。拝殿左から社殿の眺め。別雷命を祀る本殿は流造で棟には外削ぎの置き千木と5本の鰹木が飾られています。 本殿と幣殿は屋根と壁で繋げられているように見えます。境内社を纏めた拝殿右側の眺め。 この一角に聖徳養蠶神社、電気神社、淡島神社が祀られています。苔むした参道の正面に鎮座するのが電気神社。 祭神は別雷命、御神徳は電気守護・電気業務安全・電力安定供給・通信守護。インフラに係る事業主から崇拝されているという、この辺りだと東電だろうか。 因みに当地を訪れた当日、JR常磐快速線の上野駅で起きたケーブル断線から関連する路線は大きな影響を受けており、ここを訪れていた頃は上野までの移動に支障が出ていた事は知る由もなかった。事業主には潤沢な事業費とたゆまぬ整備の後の神頼みであって欲しいものだ。 電気神社の左から後ろに回り込むと聖徳蚕養神社が祀られていますが、社ではなく石標でした。電気神社の右に鎮座する淡路神社。 祭神は少彦名命、縁結びや婦人病平癒、手芸上達に御利益があり、右手に供養針と刻まれた鉢があり、こちらに納めるようで、二月八日に針供養が行われる。 電気神社から本殿の眺め、左側にはなかった中央の建物はよく分からないが神饌所だろうか。 この一角に聖徳養蠶神社、電気神社、淡島神社が祀られています。社頭の縦看板にあった「関東三雷神」とは金村別雷神社(茨城県つくば市)、雷電神社(群馬県邑楽郡)と当社 別雷皇太神を指すという。 そういえば前橋東照宮を訪れた際にも雷電神社があった、北関東一円には雷神を祀る神社が多い地域のようだ。 近頃あまり耳にしなくなった「地震・雷・火事・おやじ」、時代は変わり、雷おやじは絶滅種となったが「地震・雷・火事」だけは今も消える事はない。茨城県水戸市 別雷皇太神祭神 / 別雷命(わけいかずちのみこと)創建 / 神亀元年(724)祭礼 / 節分祭2月3日、春季大祭3月3・4日、秋季大祭11月3・4日神輿渡御参拝日 / 2026/01/30所在地 / 茨城県水戸市元山町1-1-57関連記事 ・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY1『香取神宮』・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY2『鹿島神宮・大洗磯前神社』・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY3『神磯の舞台・別雷皇太神・水戸東照宮』・風神様(龍田神社)・渕生稲荷神社・御霊宮・千葉県香取市 沖宮神社・忍男神社(東の宮)・千葉県香取市 瞻男神社(西の宮)・茨城県東茨城郡大洗町 大洗磯前神社・大洗磯前神社末社 與利幾神社過去記事・村社 雷電神社(群馬県前橋市平和町1)
2026.03.24
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與利幾神社。 太平洋の潮風を受けて聳える大洗磯前神社の大鳥居から、左の丘陵地大洗山に向け常夜灯が連なる車道を少し上ると左側に與利幾神社の鳥居が現れます。上は大洗磯前神社の大鳥居で、大洗海岸を見下ろす左の大洗山に社殿が建てられています。 與利幾神社はこの丘陵の西端に鎮座します。写真は大洗山の上に続く車道の光景。 この坂を上りきれば大洗磯前神社の駐車場へ、そこから右に進めば大洗磯前神社の随神門に至ります。車道左側に与利幾神社の社頭がある。 与利幾神社と刻まれた社標と石造明神鳥居(一の鳥居)が佇んでいる。そこから丘陵地の上に向け参道は続いています。しばらく上った先のニノ鳥居。 この辺りの鳥居や常夜灯は、建立されて間もないのか、やけに石の白さが際立っていた。鳥居の額は「與利幾神社」となっています。 與利幾の「與」は「与(あずかる)」の旧字にあたり、「利」はまさしく「り」で、「幾」は「願う」という意味があります。字の違いはありますが、込められた意味は「利にあずかることを願う」意味となります。 ニノ鳥居にきてやっと拝殿の姿が見えてきます。與利幾(与利幾)神社拝殿全景。 ここから右の境内には鳥居と茶釜稲荷神社の参道が続いています。 拝殿は銅板葺の入母屋造りで、正面に一間向拝が付くもので、外見は、特に人目を引き付けるような意匠は少ない落ち着いた佇まいをしています。そんな外観ですが、向拝に近寄ると木鼻の獅子がこちらを睨み、頭貫と桁の間には透かし彫りの龍が彫られており、海老虹梁にも拘りが込められています。拝殿額は「與利幾神社」。祀られる祭神は、大洗磯前神社の主祭神である大己貴命の子であり、諏訪大社の主祭神である建御名方命を祀ります。拝殿前の與利幾神社由緒。『御祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと) 例祭日 旧暦十一月十八日由緒 古くからの言い伝えによると、安永六年(1777)、十一月十八日に大洗海岸の平太郎磯の近くに異木が流れ着いた。平太夫という漁師が早朝これを見付け薪にしようと斧を入れるとその木がパッと光り輝いたので平太夫は驚き卒倒した。 その時、神が人に憑いて「この木は信濃国諏訪の諏訪明神の霊木である、厚く祀るように」とお告げがあった。 (これには諸説あり、大洗磯前神社の巫女が湯を奉ったが、巫女がこれは信濃国諏訪の神木であると語ったという説「磯浜誌」や平太夫が夢でお告げを聞いたという説「與利幾神社由来」などがあります。)平太夫は村人達と計って平太郎磯の真上の丘の大洗磯前神社境内に寄った木を御神体としてお祀りしました。 それからの浜は大漁が続き、平太夫も漁に出れば大漁となり、商いをすれば繁盛し、事業をすれば成功し子孫もそれぞれ繁栄して今日に至る。これを伝え聞いた近隣の人々も五穀豊穣・大漁満足・家内安全・商売繁盛を祈願して参拝する人々が列をなした。』長文ですが後半部分は明治十八年の大洗磯前神社境内摂末社細帳に同様の記載が残るというもの。つまり諏訪湖の諏訪大社の御神木が、天竜川を流れ下り、黒潮に乗って父が鎮まる大洗海岸まで流れ着いたというもので、それを祀ったのが與利幾神社のはじまり。 與利幾神社正面の海岸には平太郎磯がある。以下は大洗磯前神社HPから與利幾神社の解説。 『境内の西に鎮座する境内末社。安永6年(1777)11月18日、明神町の漁老平大夫という者が大洋で一つの霊木(楠木)を見つけ、渚に引いて置いたところ、常のものにはあらず怪しい光を発したので、里人はかしこみてこれを祀ったという。 このとき、大洗磯前神社の巫女が湯を奉ったが、巫女はこれが信濃国諏訪の神木であると語ったと伝えられる。』と「磯浜誌」にあります。御祭神の大己貴命のお子様である諏訪大社、建御名方命の御神木が父神様のところに「寄ってきた」とされ「寄木」、さらに縁起のいい漢字を使い「與利幾」になったと伝わります。 拝殿の彫刻は幕末から明治期に活躍した後藤縫殿之助の手によるものです。」とあった。この他「大洗町史 通史編(1986)」・「茨城県神社誌(1973)」など調べたが、大洗磯前神社の記述は詳細に記されていたが、與利幾神社や隣接する茶釜稲荷神社について詳細情報は得られなかった。拝殿右側から本殿の眺め。 屋根は大洗磯前神社の本殿と酷似したもので、大棟に3本の鰹木が載せられています。向拝には拝殿同様の意匠が施されています。本殿側面。 妻壁の波の彫や曲がりの大きい海老虹梁が印象に残る。本殿後方の高台に祀られる社は石尊宮。 祭神などの詳細は分からないが、禍除けの目的から祀られるようです。石尊宮から本殿・幣殿・拝殿の眺め。茶釜稲荷神社。 與利幾神社境内の右の鳥居を抜けた左に鎮座します。全周は玉垣で囲われ、南向きに社頭を構えており、本殿を収める入母屋銅葺屋根の社殿一棟が建つ。 社殿左奥に小さな石祠があったが詳細は不明。鳥居から境内社殿の眺め。 拝所に続く参道脇には狛狐、手水鉢や石標が建てられています。狛狐(寄進年未確認)。 右側の狐、鼻が短く狐らしくない顔立ちで写真に収めたが、拡大すると先端は欠損しているようです。稲荷との関連は分からないが蛙の像も置かれていました。参道右には「櫛形山神社、茶釜稲荷神社、大甕磯神社」と刻まれた石碑が建てられています。 推測になりますが、中央の茶釜稲荷神社、左奥の石祠が櫛形山神社、右側に大甕磯神社が祀られているのかもしれない。社殿正面全景。 社殿の建立時期は定かではないが、濡れ縁部分はかなり腐食が進んでしまっています。境内に由緒の類は見られず、創建時期、祭神などの詳細は不明。 ただ、大洗町史通史編で與利幾神社の記述を見ていたところ、往古の與利幾神社は非常に多くの参拝客で賑わい、通りには茶屋が立ち並んだということ、社名の茶釜から察するに、そうした茶屋の主たちが伏見より勧請し創建したものかもしれません。社殿に掛けられた額は「茶釜稲荷神社」。 紋幕には伏見稲荷と同じ抱き稲紋が入る、祭神は宇迦之御魂大神でいいのかな。拝所から内部の眺め。 白い狐が守護する先に本殿の姿はあるが造りなどは分からなかった。境内右側の大甕磯神社石標。 石標の奥に社があったのか確認していませんが、後方が駐車場なので、そこから社地後方を眺めれば見渡せるものと思います。茶釜稲荷神社の右に赤い鳥居を構えた小社が祀られています。 Gマップでは福神社とあるが、社に社名札はないので定かではない。参道を更に進み、小さな鳥居を抜けると視界は開け、写真の茶釜稲荷神社社頭に至ります。 駐車場に続くあの坂の頂上付近に立てられており、駐車場から簡単に茶釜稲荷神社、與利幾神社に参拝できるようです。車を停めた参拝客の大半は大洗磯前神社を目指しますが、かつて大洗磯前神社より賑わったとされる與利幾神社に足を向ける人影は少ない。大洗磯前神社末社 與利幾神社祭神 / 建御名方命創建 / 安永六年(1777) 境内社 / 櫛形山神社、茶釜稲荷神社、大甕磯神社、不明社所在地 / 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町参拝日 / 2026/01/29関連記事 ・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY1『香取神宮』・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY2『鹿島神宮・大洗磯前神社』・風神様(龍田神社)・渕生稲荷神社・御霊宮・千葉県香取市 沖宮神社・忍男神社(東の宮)・千葉県香取市 瞻男神社(西の宮)・茨城県東茨城郡大洗町 大洗磯前神社
2026.03.23
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前回の引き続きとなる今回、源氏塚公園から東へ250m、徒歩3分ほどの西之森硴場に鎮座する神明社を取り上げます。鎮座地周辺は車の往来も少なく、社地を取り囲むように閑静な住宅地となっています。周辺道路は幅員の狭い生活道路で、駐車余地は全くないため徒歩がお勧め。静かで開けた境内は、一部が公園になっており、小さな子を遊ばせるには良い環境が整っている。社頭前から境内の眺め、高い土台の上に立てられた神明鳥居がこの神社の特徴かもしれない。社頭を南側に構え、ここから50mほど南に行くと「村社 神明社」の社号標が立っています。境内右の手水鉢(1995)から社殿全景の眺め。 建物は拝殿と後方の本殿が鎮座する本殿域が主なもの。 愛知県神社名鑑(1992)には、神明社について次のように記されている。 『十五等級 神明社 旧村社鎮座地 海部郡蟹江町大字西之森字硴場(かきば)三五番地 祭神 天照皇大神由緒 創建は明らかでない。慶応四年(1868)西ノ森村方神社書上には「カキハ分一、神明宮老社右境内式拾歩村除キ」とある。 明治五年七月、村社に列格する。例祭日 十月四日 社殿 本殿 神明造、拝殿』上は今から400年ほど前の当地の絵図、この頃の源氏島(赤丸)はまだ独立した島となっていた。 この辺りの新田開発が盛んに行われるようになったのは江戸時代初期、その頃の源氏島には小規模ながら集落が作られたはずで、拠りどころとなる神様も必要だったはずだ。創建は新田開発、源氏島が陸続きとなる頃まで遡るのかもしれない。 海抜の低い当地は、水との鬩ぎあいの歴史から新田が生まれた。鳥居の土台の高さは鬩ぎあいの歴史を伝えるものだろうか。また、尾張志 下巻(1979年復刻版)には、江戸時代の西森村について次のように記されている。 『西森村 金柳の西南 各古屋よりも同じ方四里にあり。枝村三ケ所 才勝 北脇(北新田といふ) 源氏島といふ。 才勝は皀莢(さいかち)の多くある地故よひそめしとぞ。源氏島には義朝朝臣の宇都美落の時いてひ給ひし地故かく号く。』ここに記されている「皀莢(さいかち)」という名は聞き慣れないものであったため、調べてみると、川原などに自生し、幹に鋭い棘を持ち、ソラマメ状の実を付ける木であった。 名は知らなかったが、かつて不用意に幹に触れて痛い思いをした記憶のある木である。木曽三川の氾濫原で湿潤な環境だった当地には、記録に残されるほど皀莢が自生していたようだ。拝殿は瓦葺の切妻造の妻入りで妻壁の意匠はシンプルなもので、掲げられている神明社の額もシンプル。 額には銘が記されているようだったが、大正の元号以外どなたの揮毫なのか判別できなかった。鳥居前の常夜灯の建立が大正4年、その時期に社殿も手が入れられたのかもしれない。拝殿から本殿域の眺め。 ここまで狛犬の姿は見られなかったが、玉垣(1994)に囲まれた本殿域に一対の狛犬がある。拝殿は四方吹き抜けで、地震対策で太い補強材が入れられ近づきにくい印象を受ける。本殿域後方から本殿、拝殿の眺め。 天照皇大神を祀る本殿は、棟に内削ぎの千木と6本の鰹木が付くもので、造りは未だに良く分からないが、神明造とあるものの、象徴的な棟持柱が外に現れないもの。水と鬩ぎあい田畑が広がっていた当地も、いまでは田畑から住宅地に変貌し、水門や排水施設の整備で先人達の苦労を感じられない土地柄となり、水の怖さは風化していくのかもしれない。硴場 神明社祭神 / 天照皇大神創建 / 不詳境内社 / ・・・例祭 / 9月第4土曜日氏子域 / 西之森(大字)所在地 / 海部郡蟹江町西之森硴場25参拝日 / 2026/02/14 源氏塚公園から神明社徒歩アクセス / 源氏塚公園から東へ250m、徒歩3分。関連記事 ・源氏島 八幡社・源氏塚(源氏塚公園)
2026.03.22
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源氏島 八幡社から見えていた水門方向に徒歩2分ほど進むと、住宅街に広々とした公園があります。 こちらが今回取り上げる源氏塚のある源氏塚公園になります。公園南側から眺める全景。 広い公園は遊具やトイレもあり整備され、訪れた時には紅梅が咲き始めていた。その公園の南東角に源氏塚はある。 塚と言われてもその趣きはありませんが、宅地化が進む前に撮られた白黒写真では、田畑の中にポツンと佇む姿は塚の趣が残っていました。「源氏塚 源義朝が平治の乱(1159)で平清盛との戦いに敗れ京都から知多半島へと舟で逃れる途中、当時小島であったこの地へ立ち寄ったと伝えられている。それ以降この辺りは源氏島と呼ばれるようになったとされている。」上は江戸時代に作られた尾張国絵図(1838)の海東郡。 絵図には埋め立てが進み、陸続きとなった源氏島の名(赤丸)が描かれています。義朝が訪れた平安時代末期は、木曽三川はじめ河口一帯は迷路のように自然の水路ができていたのは容易に推測できる。 関ケ原を抜け、漸く海も眼前に迫り、知多への敗走の道筋も見え、義朝の心中もほっとしたことだろう。尾張名所図会や尾張誌9 海東郡・海西郡(1898)にも源氏島について記されており、尾張誌では以下のように記されていました。 『源氏島西森村にある。平治の乱のとき、左馬頭・源朝臣(源義朝)が都を落ちて東国へ向かい、美濃国青墓の長者のもとから身を忍んで、この知多郡野間へ至った際、川舟をここに留めて休息したという。 そのことから、この地を「源氏島」と名付けたと里の古老が伝えている。また、義朝公が通られた道筋には古跡が多く残っており、美濃国多芸郡榛木村には「源氏橋」や「源氏柳」と呼ばれる場所もあるが、これらもすべて同じ時の出来事に由来するという。』とある。源氏塚公園の南東角に立てられている石碑。 碑の建立時期は調べていないが、比較的新しいものと思われ、この地が源氏と深いかかわりを持つことを語り継ぐために建てられたのだろう。源氏島の名も公園に名を留めるのみとなり、他方からこの辺りを通りがかり、源氏という地名を見るにつけ、胡散臭いと感じるかもしれないが、地史に記された歴史ある土地柄であることがわかってくる。 北西の蟹江町源氏に源氏公園がありますが、碑があるのは源氏塚公園です。源氏塚(源氏塚公園)所在地 / 海部郡蟹江町学戸7-131訪問日 / 2026/2/14源氏島 八幡社から源氏塚アクセス / 水門方向へ徒歩190m・2分関連記事・源氏島 八幡社
2026.03.19
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今年もウィメンズマラソンのボランティアを控え、熱田区で説明会を受けてきました。 説明と言っても、中身はボランティアジャンパーとキャップを受け取りに行くのが主なもの。これもねぇ、毎年配布されるのはいいが、ご丁寧に年度まで印刷してあり、開催日を過ぎると使い道もなく、無駄な金使ってんなというのが正直な感想。アジア競技大会にも参加しますが、こちらは一回限りなので税金大盤振る舞いの感は否めない。 選手を間近で見られるのは魅力だが、そろそろ辞退したいと思いながら、かみさんが積極的なのでそうもいかない。本題に戻そう。 説明会後に尾張温泉へ浸かり行き、その道すがらで見かけた神社を掲載します。今回は、海部郡蟹江町の佐屋川左岸に鎮座する源氏島 八幡社を取り上げます。 佐屋川に架かる県道65号線の蟹江高架橋の脇に鎮座する八幡社社頭の眺め。 西側の県道に沿うように鎮座し、社地の東は佐屋川に注ぐ水路が流れています。社頭に掲げられている源氏島 八幡社のいわれと由緒。 非常に長文なので割愛しますが、源氏島の謂れは、その昔源義朝が平治の乱(1159)で平清盛との戦いに敗れ、京から知多半島へ舟で逃れる途中、当時小島であったこの地に義朝が立ち寄り休息したとされ、すぐ東の源氏塚公園が源氏島とされる。その後、義朝は知多の野間に辿り着き、長田忠致を頼ったが法山寺の東隣にある湯殿で長田親子の裏切りにあい、東国への帰還叶わず最後の地となった。野間大坊にはその義朝の墓が現存する。社頭の源氏島 八幡社由緒から一部抜粋。 祭神は京都石清水八幡宮の祭神八幡大神(応神天皇)源氏島 八幡社 棟板八幡力大菩薩 御再興正保四年(1647)吉日とある。 また、源氏 秋葉社創立とあり、本殿域の小社がそれにあたるようです、非常に詳細に書かれており、ここは愛知県神社名鑑(1992)から引用します。 『十五等級 八幡社 旧村社鎮座地 海部郡蟹江町大字西之森字源氏島105 祭神 應神天皇由 緒 創建は明らかでない。 慶応四年(1868)、西ノ森村方神社書上之覚によると「源氏分一、八幡宮壱社 右境内二十八歩御除地」とある。張州府志では地名の由来について「源義朝が京の軍に敗績し微行して尾州に赴く時、船を此に駐した故の名なり、開墾して田となったが、なお源氏島という」伝説を紹介している。 文政十二年(1829)八月吉日の張り幕が残されている。明治五年七月村社に列格する。 例祭日 十月四日社殿 本殿流造・拝殿・神庫』社頭から境内の眺め。 南北に細長い社地は、目の前の佐屋川を向き昭和十六年建立の鳥居を構え、その先に狛犬、拝殿、本殿域と連なる。鳥居をくぐると右隅に「八幡社移転記 昭和四十五年十月」と刻まれた石標が立てられています。移転記が気になり今昔マップから鎮座地を明治まで遡ったが、鎮座地にある鳥居の印は動いていないように見受けられ、移転の内容は分からなかった。明治頃は蛇行を繰り返す川と川の間の土地は海抜はほぼ0㍍に近く、古くから水と鬩ぎあいながらも豊かな水田地帯を築き上げてきた。境内左の手水鉢から東の眺め、すぐ横に水門を備えるのも土地柄を表すもの。 水門の先が源氏塚公園になります。拝殿前で守護する狛犬と切妻瓦葺の拝殿の眺め。昭和63年建立された子持ち・毬持ちの狛犬。妻入り拝殿の妻壁には水面に蠢く龍の姿とその上には獅子の親子の姿が彫られている。四方吹き抜けの拝殿から本殿域の眺め。一対の狛犬(昭和63年)が守護する本殿域は、石垣で一段高く積まれ、塀が四方を囲い神門に繋がるもの。本殿は流造とあったが板宮造に向拝が付くものに見え、右側に境内社が一社祀られており、これが秋葉社だろうか。かつては八幡大菩薩と呼ばれたが、神仏分離後は八幡社に改称、現在まで氏子らにより受け継がれてきた。 義朝が東国敗走の際に立ち寄ったとされる源氏島に、源氏の氏神八幡神が祀られたのは自然の流れかもしれない、それがいつ頃なのか定かではないが、棟札や記録が見られる江戸時代を遡っていくものとおもわれます。境内から南側の県道65号線と蟹江高架橋の眺め。 水田が少なくなった今でも水郷の趣きは漂うけれど、信長や義朝の時代、当地の水路は更に複雑で周辺もそこまで開拓されていなかったことだろう。源氏島 八幡社祭神 / 八幡大神(応神天皇)創建 / 不詳境内社 / 秋葉社例祭 / 9月第4土曜日氏子域 / 西之森(大字)所在地 / 海部郡蟹江町学戸7-17参拝日 / 2026/02/14 車アクセス / 白鳥橋からR1を西進、芝切交差点右折、佐屋川を越えて源氏交差点で右折、一つ目の信号を右折、源氏塚公園付近の八幡社まで12km・30分前後関連記事過去記事・第4回 歩いて巡拝知多四国 五十五番札所 曇華山 法山寺
2026.03.18
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前回掲載した御幣土の八柱神社から、西へ150mほどの高台に鎮座する八十六番札所 大悲山 観音寺。 今回最後の札所となります。 神社からすぐ先が三叉路となり、斜め左に進むと写真の参道が現れます。 参道入口に「細井平洲先生遺蹟 新四国八十六番霊場 潮音閣 観音寺」の寺標が立っており、緩やかな上りの参道が上に伸びています。参道を進むと眼下に半田街道、名鉄常滑線、その先に巨大な製鉄工場の眺めが広がっています。 鎮座地は知多半島の西端の段丘の上になり、明治・大正時代には半田街道から西は田畑が広がる一帯で、その先は波打ち際が迫っていました。昭和に入り海岸の埋め立てが進み、海岸線はどんどん遠のき、今では海も望めないほど変貌を遂げています。標高約30mほどの高台に鎮座する大悲山 観音寺の伽藍全景。 参道脇には地蔵堂と見上げんばかりの大楠が聳えています。■ガイドブックから大悲山 観音寺の解説。『第86番 真言宗智山派 大悲山 観音寺 本尊 聖観世音菩薩・別堂 奥之院虚空菩薩/大日如来開基 不詳 開山 昌増法印(中興)由緒 大悲山 観音寺は、亀山天皇の文永三年(1266)開創と伝えられる。天文年間(1532~1555)には昌増法印によって中興され、伽藍も整えられたが火災によって堂宇は悉く焼失。 天正十三年(1585)、大須・宝生院の鏡融宝印の助力を得て再興。後柏原天皇の勅願所、さらに豊臣秀頼の祈願所となり、居屋敷一円五町歩下付のお墨付きを賜る。 これにより、興隆する寺勢にあやかろうと除災招福を祈願する参拝者が後を絶たなかった。昭和二十年、空襲で堂宇を焼失。 同三十年本殿を再建。同五十年に客殿、同五十五年庫裏を再建し今日に至る。 尚、当地出身の幕末の儒者、細井平洲は観音寺で学び、後に米沢藩主 上杉鷹山や尾張藩主徳川宗睦に招かれた。境内には本四国お砂踏み霊場や即身成仏大師像、細井平洲が幼少時に登って遊んだ草紙懸の松(二代目)がある。名木観音寺の大楠、高さ約二十三メートル、幹回り約十メートルの巨木で、根元には白竜照玉大明神が祀られています。祭礼毎年八月十日に行われるちょうちん祭りは、ほうずき提灯を付けた孟宗竹が夜の集落を練り歩き、祈祷が終えるとその提灯を奪い合うもので、今は規模は縮小されたが受け継がれている。』■東海市史(1990)観音寺 『荒尾町加家の、見晴らしのよい丘の上にあり、真言宗智山派に属する。創建は文文三年(1268)とか、『張州雑志』に「名古屋大須真福寺の末寺に属し、知多巡礼第二十四番地、中興開山昌増法師、天文十辛丑年示寂」と、また、堂の西は海岸であり、眺望がすばらしい、と記されている。 秘仏聖観音立像は、檜の一本彫りであり、鎌倉初期の作とみられている。境内には大きな楠があり、市の天然記念物となっている。 また、今は見られなくなったが、ヒメキバヤドリギの群落地ともなっていた。細井平洲が幼少の頃、この寺で九世義寛に学んだことはよく知られている。 尾張三十三観音の第十一番霊場として、知多新四国八十八カ所の八十六番札所となっている。春には、バス等で訪れる参拝者で、大変にぎわいを呈している。』地蔵堂に安置されている地蔵像。 肝心の年号は隠れて見えなかった。参道脇の大楠 観音寺の観音堂正面に聳える寺のシンボルで昭和45年に東海市の木に選ばれています。東海市天然記念物一覧によると、樹齢は700年以上といわれ、幹回り9.6m、枝張りは東西29.5m、南北31mで高さは約23mほどとあった。 真下に立ち見上げた実感は、数値以上のもので恰も楠の懐に抱かれているような錯覚に陥る。根元には「白竜照玉大明神」が祀られ、毎年3月31日には竜神祭が催されるという。大楠の脇の石段を上れば観音寺の伽藍が見えてくる。境内右側の手水舎と鐘楼。境内で見かけた観音寺文化財と平洲の歴史を感じる散策路の解説。 細井平洲は享保20年から元文7年(1735~1737)にかけて、義寛和尚が開いた寺子屋で学んだという。正面右の寄棟瓦葺の建物が観音堂で壁に弘法大師・聖観世音菩薩・薬師如来の額が掛けられています。左から弘法大師、虚空蔵菩薩、薬師如来と書かれた奉納提灯が吊るされている。 中央の額には聖観世音菩薩とあったが、遠目から見ると虚空蔵菩薩のようにも見えるのは気のせいかな。左の建物も十一面観音を祀る観音堂のようです。堂内の十一面観音像の眺め。観音堂側面の眺めこうして見ると一見方形屋根のようにも見えてくる。 この観音堂の右側に本四国お砂踏み霊場と高い基壇の上に即身成仏大師像が祀られている。観音堂後方のこの建物が大日如来を祀る所謂本殿にあたるのだろうか。 内部を撮って見たがガラスの反射が著しく、掲載するのはやめました。ここから左に進むと草紙懸の松(二代目)があり、そこから先の西側の眺望はなかなかのもので、今は工場が連なっているが、往古は海辺が迫る絶景だった事だろう。尾張名所図会には加家観音寺として挿絵に描かれています。 右には熱田湊から木曽三川桑名、左には錫杖ヶ岳に二見浦、熊野山の絶景が広がっていた。いっしんに ねがひをかけのかんのんじ みちびきたまへ このよのちのよ今回頂いた梵字カード。 因みに、今回3度目の金色カードを引き当て、これで台紙は三枚となった、当たらない方に差し上げよう。第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十六番札所 大悲山 観音寺宗派 / 真言宗智山派本尊 / 聖観世音菩薩創建 / 文永三年(1266)中興 / 昌増法印札所 / 知多四国霊場86番札所・知多西国観音21番札所・知多百観音97番札所所在地 / 東海市荒尾町仏供田45参拝日 / 2026/02/17八柱神社から観音寺 / 聚楽園方向へ北上、1.3km、徒歩20分ほど。関連記事・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十二番札所 雨尾山 観福寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十三番札所 待暁山 弥勒寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十四番札所 瑞雲山 玄猷寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十五番札所 慈悲山 清水寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 村社 八柱神社
2026.03.17
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2026/03/12 前日から「明日は風がなければ、つくしを探しに行こう」と話していた。期待どおり、当日の朝は風もなく、やわらかな陽ざしが差し込む春らしい一日の始まりだった。 通勤車両が増える前に市内を抜け、渋滞に巻き込まれないうちに長良川の堤防へ向かう。名古屋の朝の運転マナーは相変わらず、無灯火の割り込みや無意味な車線変更、信号無視など、気の抜けない時間帯だ。 通勤時間帯の取り締まりや公共交通機関の利用促進が進まない限り、あるいは税金投入なしでリッター200円にでもならない限り、道路が整然と流れる日は遠いのだろう。ガソリン値上げの報せもあったが、この日の朝の市内のレギュラー価格は最安で149円を見かけた。 しかし帰宅の際には見事に180円台に跳ね上がっていた。原油輸入量が減り、食品や加工品の値上がりに拍車がかかる中で、無駄な浪費だけは相変わらずだ。 マイカーへの給油制限は考えるべきだろう。トイレットペーパーが消えた第一次オイルショックを知らない世代も増えたが、過去にそうした措置は実際に行われた。あの頃は愛車を休眠させ、デート以外はチャリや電車で通った時もある。そんな時代が再び訪れようとはねぇ。東側から眺める伊吹山は美しい姿を見せているが、西側からの眺めは採掘により痛々しい姿を曝け出している。訪れたのは長良川に注ぐ犀川右岸のさい川さくら公園。 これから桜が咲く時期になると花見客で賑わうようになる。今日の目的は桜ではなく、春の山野菜つくしだ。 春になると毎年摘みに出かけるが、造成が進み、僅かに残った緑地も犬の散歩コースとなってしまい、今年はここまで足を延ばした。 駐車場(桜まつり期間以外は無料)から対岸の眺め。 対岸に鎮座する神社は神明神社。下流に目を転じれば墨俣一夜城、1993年に鉄筋コンクリート造で建てられた歴史資料館。 大河ドラマで稲葉山城攻略に墨俣一夜城が出てきたばかりですが、実際のところ写真のような天守はなく、複数の簡素な櫓だという資料や、一夜城そのものが存在しなかったとする説もあり幻の城といってもいい。このあたりは鎌倉街道、美濃街道が通り、ここから少し南に墨俣宿跡や脇本陣もあり、水運・陸路の要であったことは事実だろう。まだ冬の装いの犀川護岸、草むらの中を注視すると写真のように芽吹いたつくしが頭を出していた。 既に穂先の開いたものが多いが、少ない雨でも次の準備を整えている。穂の開いていないものを選んで摘んでも、一回分の春の苦味を味わうには十分な量を摘むことができた。 原油から作られた肥料を与えられ、温室で育てられた訳でもない、自然の息吹は実に力強い。それに比べて人の営みは脆弱だ、トランプとネタニアフが起こした混乱は長引くだろう。 備蓄放出・税金から補填も結構だが、個人的には商用目的・過疎地以外の支援は不要と考える。消費者もこれまでのような使い方を改める必要に迫られている。 オイルショック当時はテレワークなんてものはなく、もれなく出社だった。通勤も距離によって公共交通機関へシフトされた。 暫定税率がなくなり、燃費のいい車に買い替え、これで一ノ宮めぐりも行きやすくなると期待していたが、今後は公共交通機関で行かざるを得なくなるだろう。因みにこの日の走行距離は103km、燃費は28.1km、3.6リッターを消費した。地元野菜の調達と昼食を済ませ、道の駅 クレール平田に立ち寄った際、トイレで見かけたポップを見て落胆した。「〇月〇日トイレットペーパーが盗まれました」「〇月〇日水栓器具が盗まれました」 個人の日記・独り言として記しています。内容に対する非難や攻撃的なコメントはご遠慮いただければ幸いです。
2026.03.16
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八十六番札所 観音寺に近い荒尾町御幣土地内の道筋で八柱神社の社頭前を通りがかりました。 第十二回の札所巡りも、ここから西へ150mほど先の観音寺でゴールとなるため立ち寄る事にしました。今回はこちらの村社 八柱神社を掲載します。清水寺から、名和養父線の二本木交差点を左折し、住宅地の中を西に向かった右側に八柱神社は社頭を構えています。鳥居はこの一ノ鳥居から三ノ鳥居を構え、奉納幟が連なる長い石段の先に社殿が広がっています。一ノ鳥居の額は八柱神社。この石段を見てかみさんは参拝をパス、一人で境内に向かいます。石段中ほどのニノ鳥居。 右側に参道が続き、境内社の香良須神社に続きます。香良須神社、創建時期等詳細は不明で祭神は伊邪那美命が祀られています。三ノ鳥居の先は社殿ではなく狛犬が出迎えてくれた。三ノ鳥居の額は金文字で八柱神社と彫られている。鳥居から少し左寄りに参道が伸び、その先に社殿が建てられている。狛犬の寄進年は見ていませんが、まだ正月モードのようです。参道左側の由緒碑。『八柱神社■祭神 高御魂神・神魂神・生魂神・足魂神・玉留魂神・大宮比売神・大御食都神・事代主神■境内由緒 文永二年(1265)、伊勢国安芸郡生まれの修験者 高神則武が諸国の神社、仏閣を遍歴中この地に至り風景美に心を引かれ、去るに忍びず是の地に住居を構え、村人らに敬神の道を説く。二年後の文永四年(1267)正月、八柱大明神として一社を創設したのが始まりである。 後に御神徳の高さを尊び加家、寺中、渡内、平嶋の四か村の氏神となる。慶長十年(1605)、熱田羽城の城主 加藤図書助により社殿拡張・造営が行われる。■境内末社 津島神社 須佐男命 源太夫社 乎止興命 神明社 天照皇大神 香良須神社 伊邪那美命』愛知県神社名鑑(1992)では由緒・例祭について以下のように纏めています。■由緒 社伝に文永二年(1265)、伊勢国倭姫庵藝郡 神戸荘高神則武の創建という。慶長六年(1601)、熱田の郷土加藤図書之助此地を領し、同八年社殿改造。 尾張志に「八柱明神ノ社 加家むらにあり」とある。明治五年、村社に列格、同四十年指定村社となる。 大正二年、八柱神社と改称した。■例祭日 十月第一日曜日■社殿 本殿流造、幣殿、拝殿、社務所』創建年代に多少の相違が見られます、この記事では境内由緒を尊重し文永四年(1265)創建として記載しています。参道左の手水舎と社務所。正面の拝殿全景。 一対の狛犬が守護する拝殿は木造切妻造の妻入りで、後方の本殿は左右に境内社が祀られています。拝殿前の狛犬。 こちらも寄進年は見ていない。妻壁に掛けられた拝殿額と懸魚の意匠。 鬼板には金色に輝く菊紋と五七の桐紋が入れられています。派手な意匠は少ない渋い外観をしています。拝殿から幣殿方向の眺め、普段は正面以外は戸板が入れられ、外光が入らず薄暗い幣殿の先に金色の御幣と鏡が鈍く輝いている。幣殿の左右には写真の狛犬が守護する境内社が祀られています。左側には源太夫社(左)と神明社。右側には津島神社が祀られている。 右側の石灯籠は、尾張藩の儒者 細井平州(1728-1801)が寄進したもので、東海市の文化財に指定されている社殿全景。 本殿は見て取れなかったが、五男三女の神を祀るため、恐らく流造の相殿と思われます。往古、八柱大明神と呼ばれていた頃は、この高台から海岸線も間近に見えた事だろう。境内で見かけた散策マップ。境内の東側の舗装路から八柱神社の杜の眺め、標高30mほどの高台の頂に神社は鎮座する。 明治の頃は、山と田畑が広がっていたこの辺りも、造成され住宅街となっています。第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 村社 八柱神社祭神 / 高魂日神・神魂日神・生魂日神・足魂日神・玉留魂日神・大宮比売神・大御食津神・事代主神創建 / 文永四年(1265)境内社 / 津島神社、源太夫社、神明社、香良須神社氏子域 / 荒尾町、新宝町、東海町、富貴ノ台祭礼 / 10月第1日曜日所在地 / 東海市荒尾町御幣土63-1参拝日 / 2026/02/17清水寺から八柱神社 / 聚楽園方向へ北上、1.3km、徒歩20分ほど。関連記事・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十二番札所 雨尾山 観福寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十三番札所 待暁山 弥勒寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十四番札所 瑞雲山 玄猷寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十五番札所 慈悲山 清水寺
2026.03.14
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「大洗磯前神社」。 JR大洗駅から東の大洗海岸方向へ徒歩30分ほど、茨城県東茨城郡大洗町磯浜町に訪れた。大洗下交差点から東へ望むと、太平洋の潮風を受けて聳える大鳥居が、海と街の境界に静かに佇んでいる。 訪れる人を神域へと誘うようなその姿は、大洗海岸を見下ろす丘上に鎮座する大洗磯前神社への入口となっている。大鳥居をくぐり、道路沿いに連なるアンコウ料理のお店やホテルを過ぎると、道路左側にニノ鳥居が聳えており、そこから長い石段が丘上の社殿に続いている。石段脇の狛犬。 いつからここで見護ってきたのだろう、もはやディテールすらはっきりしないほど潮風で浸食されてしまっている。そんな老体に願掛けの積石が山のように積まれている。石段の右側に鳥居がふたつ。 左の鳥居は清良神社のもので、社に祀られている祭神は小幡宥円命。江戸但馬守通泰により大洗明神下で殺害された小幡城の城主小幡義清の霊を鎮めるために祀られたもの。もう一つの鳥居は神池のもの、海岸に近い段丘の下に滾々と真水を湛えており、金魚が生き生きと泳ぐ姿がある。長い石段。 途中に踊り場は何カ所かあるものの、遥か上に見える三ノ鳥居まで一気に登りきるほど若くはない。石段を上った境内右側の手水舎。三ノ鳥居の傍らにある大洗磯前神社の解説と境内マップ。「祭神 大己貴命、少彦名命。由緒 『日本文徳天皇実録(879)』によると、平安時代の斉衡三年(856)、神磯に大己貴命、少彦名命の二神が降臨されたのが創建と記されている。古くは大洗磯前薬師菩薩明神社とも呼ばれ、福の神様、医薬の神様として慕われています。 江戸時代には水戸徳川家の尊崇を受け、光国公の命を受け現在の本殿・拝殿等が造営された。光国公は大洗を訪れ、神磯の景観を「荒磯の 岩に砕けて散る月を 一つになしてかへる浪かな」と詠んだという。」その昔は三ノ鳥居から神磯も良く眺められたのだろう、現在は道路際に建物が立ち並び、この場から神磯に建てられた鳥居も見通せなくなっている。随神門(町指定文化財)。 切妻銅板葺の桁行三間、梁間二間の随神門で正面や妻壁に施された透彫りは手が込んでいる。享保15年(1730)、水戸藩2代藩主徳川光国の命により建てられたもので、両の間には随神が安置されています。明治3年(1870)に建立された備前焼の狛犬。 岡山では珍しくないがこの地で赤い狛犬は珍しいかもしれない。随神門から随神像と拝殿の眺め。両の間に安置されている随身像。 比較的綺麗な像で、詳細は不明で、大洗町の文化財一覧の中には含まれていなかった。 随神門の透かし彫り、鷹と松、千鳥らしき姿が彫りこまれていた。随神門から境内を望む。拝殿は入母屋平入で千鳥破風と1間の唐破風向拝が施された、桁行5間、梁間2間のもので、向拝虹梁や手挟など鮮やかな彩色が施されています。袖壁や手挟、木鼻に蟇股など、ポイントを絞った装飾が施され、上品な趣が漂います。拝殿から本殿方向の眺め。 祭神は先に記載した大己貴命、少彦名命の二柱で、大己貴命に所縁のある兎の装飾も各所で見られます。こうして見る拝殿も、享保15年(1730)に光国公により建立されたもの。 拝殿で参拝を終えると、大方の参拝客は随神門に向かいますが、拝殿左から本殿後方へ回り込んでみたいもの。拝殿左側に回り込むと、塀越しに茅葺屋根の本殿を間近に見ることができます。 棟には三本の鰹木と外削ぎの置き千木が載るもので、屋根の形は銅板で覆われた与利幾神社本殿の屋根形状に酷似するものです。伝統素材をそのまま表したものは、手間もかかり、なかなか目にする機会がすくなく魅かれるものです。 荘川郷の合掌集落、これが全て銅板で覆われたら果たしてどうだろう。本殿左に流造の三社相殿があります。 本殿を挟んで東西にこうした相殿があり、西側にあたるこちらを西殿と呼ぶようで、左から大杉神社、水神社、八幡宮が祀られています。拝殿後方から社殿の眺め。右側から見る本殿。 落ち着いた色合いの外観に、彩色された桁隠しや手挟・木鼻、金色の飾り金具がアクセントになっています。本殿右側の東殿。 こうして見ると流造の特徴が良く分かります。三間社流造の左から大神宮、静神社、水天宮の三社が祀られている。境内から随神門の眺め。 この日は夕方にかけて雲が湧きだし寒い一日でしたが、境内の梅は開花スイッチが入ったようで白い花を付け始めていました。明日は朝日に照らされた神磯ノ鳥居を眺めるため、近くに宿をとってあります。翌日の早朝の神磯ノ鳥居。 水平線に雲が湧き日の出は見られなかった。しかし、朝焼けに染まる大海原と砕け散る波しぶきの先に立つ神磯ノ鳥居の姿は、光国が詠んだ「荒磯の 岩に砕けて散る月を 一つになしてかへる浪かな」、その世界観が感じられ忘れられないものになった。 昔の人は、こうして僅かなひとときに訪れる自然が魅せる光景を見て神を感じたのだろう。信心深い方ではないが、目の当たりにみると無意識に合掌する自分の姿がある。大洗磯前神社のニノ鳥居と三ノ鳥居が神々しく輝き、長くて辛い石段もこころなしか暖かく感じる。茨城県東茨城郡大洗町 大洗磯前神社祭神 / 大己貴命・少彦名命創建 / 斉衡3年(856)境内社 / 清良神社、大杉神社、水神社、八幡宮、大神宮、静神社、水天宮所在地 / 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町6890参拝日 / 2026/01/29関連記事・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY1『香取神宮』・下総国一宮・常陸国一宮巡拝 DAY2『鹿島神宮・大洗磯前神社』・風神様(龍田神社)・渕生稲荷神社・御霊宮・千葉県香取市 沖宮神社・忍男神社(東の宮)・千葉県香取市 瞻男神社(西の宮)
2026.03.13
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前回掲載した八十四番札所玄猷寺から県道55号線を北上、後田交差点を左折し、しばし先の北見田交差点で右折直進し、昔ながらの細い路地が続く住宅地を進んでいきます。 左右に住宅が迫る路地はその先で左側が抜け、写真の八十五番札所 慈悲山 清水寺に至ります。路地と接する境内は塀などがなく、広い間口を有しており、本堂正面には少数ながら駐車スペースもあります。 境内左に観世音菩薩像が建立され、鉢植えの蓮が幾つも置かれており、今は彩りの乏しい境内に華を添えてくれるものと思います。境内右側に「新四国八拾八所 八拾五番札所 観音堂」の寺標が立てられており、正面には木造瓦葺寄棟造の観音堂と右手の納経所、庫裏がつながっています。寺標脇の百度石と地蔵。 清水寺は元禄八年(1695)以前は現在の東海市立中央図書館の北側辺りの里道沿いに鎮座していたとされ、その後半田街道沿いの現在地に遷されたとされています。 これら紀年銘は見ていないが、その当時のものがあるのかもしれない。清水寺境内の文化財解説。 本尊の聖観世音菩薩像は右手に蓮華を持つもので、鎌倉時代のものとされます。10年に一度御開帳されるようです。画像は東海市文化財聖観世音菩薩像リンクからどうぞ。知多四国ガイドブックによる清水寺概説は以下のように記されています。 『慈悲山 清水寺清水寺の創建は定かではありませんが、江戸時代初期の文書には、かつて現在地の南西・丸根にあったと記されています。 現在地に移ったのは元禄八年(1695)のこと、滋覚大師の作とされる御本尊「聖観世音菩薩」にまつわる言い伝えが残されています。元禄年間(1688〜1704)、村の庄屋六兵衛の家が大火に遭って全焼した際、村人が丸根にあった観音様を当地に迎え堂宇を建立。 以来、村からは火事がなくなったため、火防せの観音様と篤く信仰されるようになったといいます。本尊の御開帳は十年に一度、前回は昭和六十三年のことで本堂・庫裡の再建が重なり、盛大な行事が行われました。 なお当寺の寺号は、寺の南西三十メートルの場所に清水の湧く野井戸があり、この水が宮中に献上されたことに由来するといわれています。昭和六十三年再建の本堂欄間には、尼寺ということもあるのだろうか、天女が優雅に舞っている。 本尊:聖観世音菩薩開基:不詳 開山:順蓮社清誉和比丘』また、東海市史 通史編(1990)の清水寺解説は以下であった。 『清水寺知多新四国第八十五番の札所で春の巡礼期には、参詣者でにぎわう。 「寛文村々覚書」には、「浄土宗平嶋村西方寺末寺、普門寺内、三畝拾五歩、前々除、右之地之内、観音堂有」と記されている。この寺は現在の中央病院の辺りにあった。 時代は不明だが、のち現在地(荒尾町西川)に移された。観音堂にあった仏像、仏画は現在の本地の寺に保存される。 なかでも秘伝の聖観音立像は、鎌倉時代の作といわれている。昭和六十三年秋に、本堂が新築、法要が営まれた。』清水寺観音堂全景。 大きな向拝の下に賓頭盧さんと石仏が安置され、堂の左に小堂が建てられている。相当すり減っているねぇ、多くの苦悩を受け入れてきた証だ。こちらは、まだ酔いが醒めていないようだ。 ・・・最近我家のお釈迦さまから酒量を控えるように言われた。ぐい飲み一杯なんだが・・・家にいれてもらえるだけまだましかぁ。観音堂の山号額は慈悲山とある。 寺号の由来となった野井戸、あまりに変貌し過ぎた現在どうなっているのか気になるところです。堂内の眺め。 弘法様は左の厨子に安置されています、中央が火防せの観音様。その上の欄間には天女の姿が色鮮やかに描かれていました。観音堂左の小堂。左の地蔵像と役行者、上の小社とガラス張りの堂内の詳細は分からなかった。みほとけの くどくながらも いわしみず くみてこころのけがれあらわん第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十五番札所 慈悲山 清水寺宗派 / 浄土宗本尊 / 聖観世音菩薩創建 / 不詳開基 / 不詳開山 / 順蓮社清誉和比丘札所 / 知多四国霊場85番札所所在地 / 東海市荒尾町西川60参拝日 / 2026/02/17玄猷寺から清水寺 / 玄猷寺から県道55号線を北上、後田交差点を左折、しばらくして北見田交差点を右折直進。1.5km、徒歩20分ほど。関連記事・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十二番札所 雨尾山 観福寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十三番札所 待暁山 弥勒寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十四番札所 瑞雲山 玄猷寺
2026.03.12
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八十三番弥勒寺から今回掲載する八十四番玄猷寺へは、県道243号線を東へ向かい、1.7kmほど先の東海市富木島町北島地内まで約25分程度、ほぼ平坦な道のりになります。県道の姫島交差点で右に進むと写真の玄猷寺西門に至ります。 右側に楼門を構えた大きな伽藍を持つ玄猷寺ですが、当日は楼門が補修工事のため、この西門から境内を訪れました。曹洞宗 瑞雲山 玄猷寺の寺標と工事中の楼門。 正門の前には広い駐車場があり、車で訪れても駐車場に困る事はない。西門から境内に入るとすぐに手水舎があり、その奥に巨大な涅槃仏が安置されています。涅槃像は平成二十五年(2013年)、福岡県にある南蔵院の涅槃像を模して1/4の大きさで、旧本堂・旧位牌堂の跡地に設けられたもの。 陽当たりの良いこの場所で心地よく昼寝をしている様にも見えるが、入滅直前に最後の説法を説く姿を現したもの。実に穏やかな表情をしており、眉間にしわを寄せることの多い昨今、こうした表情を心がけなければいかんのかもしれないが、今朝は今朝で新たな戦争のはじまりを告げる報道を目にして、学べない世の中に眉間にしわを寄せる自分がいる。伽藍は南向きに東西に配置されており、西門側から大師堂・本堂・庫裏と並ぶ。東海市史、知多四国ガイドブックを基にした玄猷寺の概説は以下。■由緒 曹洞宗 瑞雲山 玄猷寺(げんにゅうじ)玄猷寺は、臨済宗天龍寺派の開祖夢窓国師が後醍醐天皇を追悼し、暦応2年(1339)に勅願所として建立されました。 草創以前は草庵で、弘安二年(1279)に建立とされる石碑がかつての境内墓地にあったという。夢窓国師は、国、帝の師として仰がれる高僧に贈られる国師号を七つ持ち、寺号はそのうち「玄猷国師」に由来しています。 慶長五年(1600)、現在の本寺である普済寺(現東海市加木屋町)五世在室岱在大和尚が開山となり、曹洞宗寺院として復興されました。その後、幕末の慶応三年(1867)には大火に遭い全山ことごとく焼失し、昭和を迎えるまで衰退期が続いた。■沿革 昭和九年(1934)の弘法大師一千百年御遠忌を記念して弘法堂新築を皮切りに、伽藍整備が進むも、太平洋戦争によって中断。戦後の昭和二十八年(1953)から伽藍整備が再開、医王山如意寺(廃寺)の本堂や庫裏の移築、開山堂や位牌堂、瑞応寺にあった書院を移築し、伽藍が整えられた。 その後、伽藍の老朽化に伴い、平成十九年(2007)から弘法堂を除き、本堂をはじめすべての伽藍の再建が再開される。本堂が建設された際には、建材の檜の端材から三万体の握り仏が彫られ、本尊の分身「握り観音」として参拝者に配布されたという。 平成二十三年(2011)に現在の寺観となった。平成二十三年には新たに山門(楼門)が建設され、両の間に仏法の守護、邪鬼退散の役目を持つ極彩色の四天王が安置された。■本尊 十一面観世音菩薩■寺宝 聖徳太子童型像 元は延暦寺の鶏足院の寺宝とされ、信長が比叡山焼き討ちの際に羽柴筑前の足軽が故郷へ持ち帰り、納めたという言い伝えがあり、玄猷寺近隣の廃寺となった神護山三盛庵の本尊とされる。この他に室町時代の作と思われる阿弥陀仏木像を所蔵する。 いずれも東海市文化財一覧には登録されてはいないようだ。境内左側の本堂と庫裏の眺め、境内の庭園は広々として、手入れが行き届いた印象を受けます。大師堂正面全景。昭和九年(1934)に建設された、木造の入母屋瓦葺堂で、向拝右側に鎮守社の秋葉三尺坊大権現が祀られています。大師堂内の眺め。堂内中央の朱塗りの厨子に弘法大師、右側の黄金色の厨子に薬師如来坐像が安置されています。本堂正面全景。 2007年に完成した入母屋瓦葺木造の建築で、内部には本尊の十一面観世音菩薩の他、脇侍に毘沙門天、不動明王を安置するという。楼門。 何の工事なのか定かではないが、当日はこのような状況で、極彩色の四天王像の拝観はお預けでした。楼門前の手水。 椿の隙間から顔を覗かせる龍口から清水が注がれていました。つみふかき にょにんをすくふ みほとけの なさけ(?)やさしきひめしまのさと第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十四番札所 瑞雲山 玄猷寺宗派 / 曹洞宗本尊 / 十一面観世音菩薩創建 / 天平勝宝元年(749)開基 / 夢窓国師開山 / 在室岱在大和尚札所 / 知多四国霊場83番札所、知多西国二十二番札所、梅花観音十五番札所所在地 / 東海市富木島町北島28参拝日 / 2026/02/17弥勒寺から玄猷寺 / 弥勒寺から県道243号線を東へ、1.7km、徒歩25分ほど。関連記事・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十二番札所 雨尾山 観福寺・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十三番札所 待暁山 弥勒寺玄猷寺の参拝を終え丁度昼時となり、姫島交差点から北に200mほどにある「麺処 うきとみ」でラーメンを食べることに。「麺処 うきとみ」の外観と店舗前のメニュー。 この日の気温は覚えていないが、こうしたものが恋しい気温だったのだろう。左が魚介しょうゆそば、右が油そば、どちらも税込1030円。 魚介しょうゆそばのスープは魚介の出汁が効いては好きな味だった。小麦の風味を感じさせる色合いの麺だったが、そこまでのことはなかった。 油そばを頂いたかみさんの感想は「特別感激するほどのものではない」と辛口だった。学生時代お世話になったスガキヤも、昔に比べ高価になり、税込1030円が安いと感じるようになった。麺処 うきとみ所在地 / 東海市富木島町伏見1-17-1ムーンストーンビル1F
2026.03.09
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第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国の二寺目は、弥勒寺から一旦東に向かい、名和養父線沿いを左に進みひたすら北上します。太田川を渡った寺下交差点で左折、150m先を右折すると八十三番札所 待暁山 弥勒寺の参道に至ります。移動距離は1.3km、徒歩20分ほど。名和養父線を北上し太田川を目指す。 この道は新しい事もあり、歩道は広く、通り過ぎる車に驚かされることは少ない。上は前回から使い回しの明治の地図とほぼ現在の航空写真の比較。 当時は県道も名和養父線も整備されておらず、太田川にかけて一面田畑が広がっており、常滑街道から弥勒寺に向かったのだろう。太田川に架かる「とい橋」を渡ったら左折し、県道243号線を150m先で右折すると写真の弥勒寺参道が現れます。 後になって知りましたが、この坂の入口から右に続く細い車道が伸びており、その先に立派な仁王門を構えた正参道があります。鎮座地は標高20mほどの小高い丘の上に鎮座し、G先生は「この坂を上れ」とのお導き、従ってみたものの、先の見通せない急な上り坂は、精神的にも辛いものがある。坂を上りきると八十三番札所 待暁山 弥勒寺の伽藍が現れる。 左に「新四国八十三番 御霊塔霊場 弥勒寺 是より四丁」と刻まれた石標が立っていた。恐らく名和養父線工事または近隣の区画整理に伴いここに移されたものだろう。境内左の手水舎。境内の文化財解説。解説の金剛力士像は、境内の庫裏横から東側に下る参道の先の仁王門に安置されています。 門は平成二十年、知多四国霊場開創二百年を記念し改築されたもので、市指定文化財の金剛力士像は愛知万博でも公開されたということです。当日は境内設備工事のため、この参道は通らなかったので実物は見ていません。以下は知多市文化財一覧から金剛力士立像の解説抜粋。「金剛力士像:市指定/弥勒寺 阿形は高さ272.6cm、クスノキ(一部桧)の寄木造、吽形は高さ273.1cm、クスノキの一木造り。本像は、長年の風雨による浸食を受けて破損、腐食が進んでいますが、彫刻性は古像の風格が感じられ、平安時代の像に共通する要素が多く、平安時代末期、12世紀頃の作と考えられています。 寺伝によれば、もとは運得寺のもので応仁2年(1468年)に本寺へ移されたといわれています。過去に少なくとも二度の修理を受けており、県内では豊川市財賀寺、新城市富賀寺につづく平安期の金剛力士立像として貴重な存在。」弥勒寺本堂。 木造瓦葺の寄棟で、棟には鯱が飾られている。正面からだと良く分からないが、中央の軒は僅かに伸ばされ向拝になっています。 当寺の由緒について『東海市史 通史編』(1990)をもとに加筆した概要です。第83番 待曉山 弥勒寺 ■真言宗 智山派■本尊 弥勒菩薩■開基 行基菩薩■開山 顕昌上人■由緒 天平勝宝元年(749)、行基の開基といわれている。その当時は、一山六ヵ寺堂伽藍の大寺であったが、関が原の合戦の時、石田三成方の鳥羽城主九鬼義隆の軍勢の兵火に遭い、本尊弥勒菩薩と仁王尊を残して、全部焼失してしまった。 その後、藩主光友の寄進によって、元禄年間(1688-1704)に再建復興された。真言宗智山派に属し、本尊弥勒菩薩座像(秘仏)は、三つ葉葵の紋のある、一間四面の権現造りの厨子内に安置してある。 境内の中央の八角の拝殿は宝暦五年(1755)、当寺十一世の発願によって建立されたもので、「お塔さま」と呼ばれる宝篋印塔がお祀りされており、このお塔さまを回向しながら願い事をすれば必ず御利益を授かるとされている。大正末頃から、霊験に恵まれた人びとの噂が広がり、市内・遠方から御利益を授かりに訪れる参詣者や四国八十三番札所としてにぎわっている。向拝から本堂内の眺め、多くの風鈴が吊るされた先に、黄金色のお前立の姿がある。堂内は弥勒菩薩の提灯が吊るされ、正面にお前立の弥勒菩薩像が安置されています。本尊の弥勒菩薩坐像。(画像は知多市文化財より) お前立後方の本尊を安置する厨子には、三つ葉葵の紋が彫られているという、弥勒菩薩坐像は高さ80cm、ケヤキの寄木造で平安中期以降の作という。毎年5月8日御開帳され、実物を拝むことができます。本堂右に鎮守社の伏見稲荷(左)と虹梁に梅の透彫りが施された天満宮。右側に祀られている不明社一社と観音堂。堂内の火灯窓の扉の奥に安置されている観音像。年代不明のこの像は邪鬼を踏む馬頭観音と思われます。境内北側の客殿と宝塔堂(右)。 宝塔堂は八角形の形をしており、内部中央に宝篋印塔があり、その外周を祈願しながら右回りに三周すると願いが叶うとされる。入母屋瓦葺で白い壁の両側に火灯窓が施された趣のある建物で、内陣中央には弘法大師、右側に不動明王、左側に興教大師をお祀りしています。客殿軒下の山号額。この中に弘法大師が祀られている。内陣中央が弘法大師。金色の厨子に安置されている弘法大師。右側の不動明王坐像。左側の興教大師像。かぎりなき みろくのみよにおおさとの のりのみにはにとなふしょうみょう第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十三番札所 待暁山 弥勒寺宗派 / 真言宗 智山派本尊 / 弥勒菩薩創建 / 天平勝宝元年(749)開基 / 行基菩薩札所 / 知多四国霊場83番札所、所在地 / 東海市大田町寺下4参拝日 / 2026/02/17観福寺から弥勒寺 / 観福寺から東へ、名和養父線を左に進み太田川を渡り、寺下交差点を左折、150m先を右折、1.3km、徒歩20分ほど。関連記事・第十二回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十二番札所 雨尾山 観福寺
2026.03.08
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2月17日(火)、後開催で第十ニ回 歩いて巡拝 知多四国を巡ってきました。上が第十ニ回後開催のコースマップ。 スタートは名鉄常滑線太田川駅。駅前から東に向かい➡82番札所観福寺➡83番札所弥勒寺➡84番札所玄猷寺➡85番札所清水寺➡86番札所観音寺➡名鉄常滑線聚楽園駅をゴールとするもの。コースは全体に比較的フラットで全長9km、五つの札所を巡拝するもの。まずは駅から南東へ1.2kmほど先の小高い丘に鎮座する82番札所観福寺を目指す。丘の南側に仁王門を構える八十二番札所・雨尾山観福寺の門前の眺め。 車の場合、この門前の少し左手前の上り坂を進むと本堂前に至ります。鎮座地の大田町天神下ノ上は、周囲よりわずかに高い標高10m前後の微高地に位置しています。 この高まりは、知多丘陵の裾野が大田川の浸食と堆積によって舌状に残った地形で、古くから洪水に強い安全な場所として人々が集落を営み、寺院が建立される基盤となりました。知多四国の札所の中でも、観福寺はとくに立派な仁王門を備えている寺院として知られています。 以下は『東海市史 通史編』(1990)をもとに加筆した由緒の概要です。雨尾山観福寺は、大宝二年(701)に行基が知多三山(南知多の岩屋寺・常滑の高讃寺)を開いた際の一山と伝えられており、この地方の古刹とされています。 開山後しばらくは荒廃していたようですが、宝徳二年(1450)に慶山によって再興され、十二坊を備える大伽藍が整えられたと伝わっています。 その後、慶長年間(1596〜1615)に火災に遭いましたが、慶安年間(1648〜1652)に再建され、寛文五年(1665)には尾張藩主・徳川光友の寄進により現在の本堂が再建されたとされています。仁王門は、棟札によると延宝二年(1674)の建立とされ、入母屋造・本瓦葺きの堂々とした門です。 金剛力士像の前後には金剛柵が設けられ、上部を竹格子で囲む構造になっており、寺の格式を示すものと考えられます。本堂内陣には、国・県指定文化財の厨子と須弥壇が安置されています。 厨子は鎌倉時代の手法を伝える柱間一間四方の入母屋造とされ、本尊の十一面観世音菩薩立像は藤原期の作と伝えられています。脇侍の毘沙門天立像・不動明王立像は市指定文化財で、十七年に一度御開帳が行われます。 このほか、両界曼荼羅、涅槃図、三千仏図など十四点が文化財に指定されています。昭和三十四年の伊勢湾台風では中門が倒壊し、客殿・本堂・庫裡にも大きな被害が出ましたが、昭和四十年に現在の姿へと復旧したとされています。仁王門前には、文化六年(1809)亮山阿闍梨が知多四国開創の記念にお手植えされたとされる紅白の椿があり、その後共に桧の芽が出てくるという奇跡が起こり、現在も枝を広げています。仁王門の両の間に安置されている金剛力士像。 作者や年代は定かではないが、凛々しさのなかに力強さが漂う均整の取れた像で、門が延宝二年(1674)ということから、その時代のものだろうか。仁王門から緩やかに上る参道は、両脇に生垣が続き正面の本堂に至ります。 本堂は入母屋瓦葺で桁行・梁行共に五間のもので正面に一間向拝が付くもの。八十二番札所 雨尾山 観福寺本堂脇の文化財解説。本堂は江戸前期に建造されたもので、県の文化財に指定されており、多くの文化財を所蔵している。本堂外陣入口の眺め、額は・・・観音堂と読めばいいのかな。外陣と内陣は格子戸で仕切られ、外陣天井には多くの奉納額が掛けられています。 内陣は良く見通せませんが外陣に木札が掛かっており、中央に本尊の十一面観音、脇侍の右が不動明王、左が毘沙門天、本尊右に六観音、一番右に弘法大師、本尊の左に六地蔵、その左に行基菩薩が安置されているようです。薄暗い内陣中央の一枚、ピントも甘いがお前立の十一面観音像らしき姿が現れました。 17年に一度の御開帳、前回がいつだったか調べがつかず、次回御開帳は問い合わせるのが一番確かかもしれない。軒先が優雅に広がる本堂の眺め。本堂右側のこの建物は、幟からすると観音堂と思われます。手水舎。本堂左側に三十三観音と方形の堂。内部には中央に愛染明王、左右には像はコントラストを変えると火炎光背が見えるので不動明王だろう。ぼたいしん おこりてきたの かんふくじ にせのあんらく このほかになし(菩提心 起りて木田の観福寺 二世の安楽 この外になし)第十ニ回後開催 歩いて巡拝 知多四国 八十二番札所 雨尾山 観福寺宗派 / 天台宗本尊 / 十一面観世音菩薩創建 / 大宝二(702)開基 / 行基菩薩札所 / 知多四国霊場82番札所、知多西国三十三所霊場21番札所所在地 / 東海市大田町天神下ノ上5参拝日 / 2026/02/17太田川駅から観福寺 / 名鉄常滑線太田川駅から南東へ1.2km、徒歩20分ほど。関連記事
2026.03.07
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