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5月だというのに、もう台風の心配をしないといけない。しかもその影響で梅雨入りだそうな。最近散歩していると街角で紫陽花を見かけるようになりました。昨日は一日中雨で外に出る気にならなかったが、今朝は雨も上がり曇天の空模様。千種区の茶屋ヶ坂公園まで紫陽花を見に出かけてきました。地下鉄名城線茶屋ヶ坂駅、自由ヶ丘駅の中間に位置し、毎年梅雨になると訪れる。目指す紫陽花園は公園内の茶屋ヶ坂池の東にあります。茶屋ヶ坂公園マップ。池沿いに歩道が整備され、視界が広がれば紫陽花園。雨上がりの雫を湛えた紫陽花が随分と咲き始めていました。相変わらずの植物図鑑、どれだけ撮っても紫陽花でしかないけれど、微妙な色の移り変わりが綺麗な花。正式名は知らないが紫陽花。一色に染まらないこのグラデーションが綺麗な花。同じような色合いに見えながらも其々違う。白一色。園内には紫陽花以外にも鮮やかな黄色のキンシバイも見られます。これがよく分からない「みなづき」?園内の紫陽花、まだ一週間は早い感じです。公園東側の歩道沿いもまだまだこれからです。因みに昨年の梅雨入りは6/14だったそうです、それが今年は5/29に梅雨入り。最近の天気は手加減をしらない、大雨の年にならなければいいのだが。差し当たっては北上中の台風は、このまま大陸に向かって、大谷さんのスイーパーのように離れて行って欲しい。茶屋ヶ坂公園 あじさい園所在地 / 名古屋市千種区鍋屋上野町訪問日 / 2023/5/30
2023.05.31
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前回記載した世界一の大きさの狛犬。駐車場からそちらに向かう途中、右側に鎮座するのが陶町大川の「八王子神社」社頭は国道419号線に面し、一対の常夜灯と石の明神鳥居を構え、鳥居右側に「指定村社 八王子神社」と刻まれた社号標があります。兎岩がある名も知らぬ山の西の麓にあたり、社殿は杉や広葉樹の杜に包まれ、国道からだと鳥居と境内に続く石段が目印になる。国道脇の常夜灯、竿には秋葉山、大神宮、反対側に牛頭天王、金毘羅山と刻まれています。社頭全景。燈籠が連なる石段は少し高みの境内に続きます。石段の前を一対の陶製の狛犬が守護する。色こそ違う物の先に見た大きな狛犬と姿が良く似ています。(寄進年未確認)にこやかな表情の狛犬は、互いを見つめ合っている様にも見える。阿形の近くに建てられた石標には「瑞浪市有形文化財 大川の美濃焼狛犬郡」とある。脇参道にずらりと並んでいた狛犬を含め、この神社の境内には多くの狛犬が見られそうです。鳥居の額は「八王子」明治12年(1879)に発足した岐阜県土岐郡の郡長を務めた水谷弓夫による揮毫とある。一説によれば瑞浪と名付けたのもこの方だという。石段の先に建つのは神楽殿。そこには「八王子」と書かれた木目の美しい額が掲げられています。境内は二段に築かれ、この境内には神楽殿、手水舎が建てられています。神楽殿は入母屋茅葺屋根に銅板が葺かれた四方吹き抜けのもので、棟飾りにも「八王子」とある。訪れた時は写真のモミジが瑞々しい緑色で輝いていた。靑紅葉と何気に使うのだが、この鮮やかな緑の色合いを「靑と形容してはいかんやろ」せめて萌黄紅葉(そんな言葉はない)だろうと感じた事はないだろうか。昔の色彩語彙が白・黒・赤・青と括っていた事もあり、緑が靑のグーループに含まれたことがあるにしても、大好きな青りんごや靑信号、靑紅葉しかり、どこかに「緑だろう」と思う自分がいる。という事で、境内は萌黄色に染まり美しい時期を迎えていました。社殿全景。左が社務所、拝殿、本殿両脇に境内社があり、陶製ではないが石造の狛犬の姿がある。由緒については以下の二点までしか掴めませんでした。1.岐阜県神社庁「元禄14年(1701)再建の棟札があり、昭和6年(1931)3月1日陶町大川字十三塚に鎮座した無格社天神社を合併」とありました。2.瑞浪市の資料「八王子神社の創建は寛永2年(1625)」とあり、本記事ではこれを創建とさせて頂きます。祭神は天之忍穗耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命の五男三女をお祀りします。境内社については社頭の燈籠に刻まれていたように、秋葉山、大神宮、牛頭天王、金毘羅山が祀られているはず。手水舎。社殿域左の石垣から滾々と清水が湧き、鉢に注がれます。拝殿正面全景。拝殿前の狛犬、社頭の狛犬とは違い、互いの視線は外し怪しい訪問者を見つめている。台座から寄進年は読み取り出来なかった。ここにも八王寺の文字が入っている。拝所の鈴紐は上に纏められていた。下は瑞浪市有形文化財美濃焼狛犬郡の解説。「狛犬は、中世では、多くが小型の石製や木彫のものが本殿左右の縁に据えられるのが普通であった。しかし彫刻が難しいところから、陶器に関係の深いこの地方では、江戸の中期以降に神社の氏子や信者たちが、 個人または共同で庇護や利益の祈願報謝の意味を込めて、陶製狛犬を奉納するようになったと言われている。しかしこれらのうち半数が無銘で、年代も作者も一部しか判明していないのは残念であるが、この大川八王子神社の五対余りのうちに「羽柴与左衛門景度作」在銘のものがあることは大変貴重なことである。この景度の先祖は室町後半期の文明6年(1474)、武蔵国久良岐郡(神奈川県横浜市付近)より移住してきた加藤左衛門尉景信で大川窯を開き、景光、景忠と続き、景度の時代で全盛を極め、その製品は「与左焼」と呼ばれ広く世間から、賞用された。その銘ある狛犬は、小型ではあるが与左衛門の元亀、天正頃の作と考えられ、その力作の素晴らしさを表している」加藤左衛門尉景信は、代々相馬焼を業としていたともされ、修行として全国を巡り歩き、窯業を営むうえで余程この地は適していたようで、四代目景度は天正2年(1574)には織田信長より朱印状も下され、後に羽柴性を名乗る事を許されたようです。拝殿内から本殿方向。八王寺神社には五対と二体の鉄釉狛犬が安置されているとあり、その内4対に羽柴与左衛門の銘があるという。この拝殿又は本殿に、そのひとつでも安置されているものと期待していたが、その銘は見つけきれなかった。社殿斜景。向拝、拝殿、幣殿、本殿と連なり、両脇の境内社が横に連なり本殿の姿は捉えにくい。右の境内社。覆屋の中に祀られているのが天神社。神社庁の記載にあった昭和6年に陶町大川字十三塚鎮座の天神社。檜皮葺の一間社流造で祭神は菅原道真。天神社の右に金毘羅大権現。詳細は不明。祭神は大物主大神。左手の境内社は津島神社。こちらも詳細は不明。祭神は八王子の父、建速須佐之男命。ここから本殿の姿を垣間見ることが出来ました。綺麗な曲線の海老虹梁と脇障子を持つ一間社流造、ここにも狛犬の姿はなかった。津島神社の左手に鎮座するのが稲荷社。小さな狛狐が沢山守護し、社を支える岩の前にも狐の姿と七福神の姿がある。祭神は宇迦之御魂神。本殿域から神楽殿と靑紅葉。手水舎の前から世界一の狛犬に続く脇参道が続く。その脇には幾つかの覆屋があり、そこには表情や色味の違う陶製狛犬が無数に安置されています。陶製狛犬のサンクチュアリ、そこは大川の八王寺神社です。八王子神社 創建 / 寛永2年(1625)祭神 / 天之忍穗耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津彦根命、熊野久須毘命、多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命境内社 / 津島神社、稲荷社、天神社、金毘羅大権現祭礼日 / 10月第1日曜所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町大川716参拝日 / 2023/04/11関連記事 / ・世界一の美濃焼狛犬、豊穣の壺・南宮神社(土岐市鶴里町柿野)
2023.05.30
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亀居山放光院大願寺を後にして、厳島神社宝物館の右手から多宝塔(修復工事中だった)の建つ高台に向かいあせび歩道から大聖院(だいしょういん)御成門に向かいます。上のマップでは入口が分かり難いかもしれませんが、宝物館の右手から多宝塔に続く石段が描かれています、黄色実線を通って向かいました。この道はあせび歩道に続き、厳島神社多宝塔を経て、大聖院仁王門の上にある御成門に続いており、普通に仁王門から向かうより人通りは少なく、しっとりとした雰囲気があります。大聖院本坊は厳島神社から白糸川上流に向け5分程の距離にありますが、弥山本堂、大日堂、霊火堂、三鬼堂など、関連する堂宇は宮島最高峰弥山(標高535㍍)の頂にまで及ぶ大きな伽藍を持っています。それらの堂宇を巡るには、白糸川の対岸から続く登山道を1時間30分程かけて登るか、ロープウェイで頂を目指す事になります。上は現在の大聖院本坊の境内マップ。大聖院は正式名称を多喜山(滝山)大聖院水精寺と号し、寺伝によれば空海が唐より帰朝後、宮島に渡り弥山で修行し大同元年(806)に開かれた寺で、一時期は多くの塔頭寺院を有し、明治政府による神仏分離令以前まで厳島神社の別当寺を務め、弥山を中心とした神仏習合の聖地宮島の中心的存在が大聖院と言って過言ではない。大聖院は皇室との関係も深く、鳥羽天皇勅命の祈願道場、また明治天皇行幸の際の宿泊先に、さらには秀吉が茶会を開いたこともあるお寺です。長い歴史を誇る大聖院は幾度も自然災害や火災に見舞われ、明治以降だけでも以下のように被災しています。明治20年(1887)火災で大部分の堂宇を焼失。明治21年(1888)火災で弥山の諸堂を焼失。平成3年(1991)台風19号で弥山、本坊共に被災。平成17年(2005)火災で霊火堂を焼失。霊火堂は弘法大師が護摩修行した当時から燃え続けている消えずの火と大茶釜の霊水を収めた堂で、不滅の霊火堂とも呼ばれていたもの。消えずの火は火災直後に蝋燭にともされ持ち出して難を逃れ、再建された霊火堂で今も護り継がれているという。現在見られる大聖院の伽藍の大部分は明治20年(1887)以降から昭和34年(1959)にかけて再建されたもの。下は江戸時代後期に安芸藩によって作られた芸州厳島図会に描かれている大聖院挿絵。右が仁王門、中央を御成門と見て行くと、現在の伽藍と違い随分とすっきりとしたものに見える。左に描かれているのが白糸川と思われ、下流で御手洗川に合流しますが、大聖院や下流の厳島神社は当時も今も土石流のリスクが付き纏う立地に鎮座しています。あせび歩道から訪れると挿絵にある御成門の石畳辺りに出ます。という事で、かみさんの御朱印待ちの間、一人で足早に仁王門まで戻り御成門まで写真に収めて来た。仁王門全景。昭和14年(1939)の再建で、左右の間に安置された仁王像と組物や彫物など見ごたえのある門。仁王像。仁王門入口付近の由緒と手水鉢。仁王門の梁には躍動感のある龍の彫飾りが施され、蟇股の彫物や斗組もなかなか見応えがあります。門をくぐるとそこから御成門まで石段が一直線に伸びている。この石段、訛った体の自分にはとても応える、足早に戻りたい気持ちとは裏腹に体がついてこない。御成門まで続く石段を分ける様に設置されているのは手摺ではなく摩尼車、その数は優に500巻はあっただろうか。仁王門をくぐった左に建つ下大師堂、芸州厳島図会が描かれた後に建てられたものだろう。この石段途中には左側に鐘楼堂もある。鐘楼堂。鐘楼堂右奥に小さな石の壺が置かれており、石段途中のこの場所から願をかけた願い玉を投げ、見事に壺に入れば願いは叶うらしい、かなりの難度で壺周辺には空しく的を逸れた願い玉が散乱しています。自分もかみさんもこうした類で的に入った例がなく、その確率たるやオラがドラゴンズの勝率を下回り、いつしか「願いは自分で叶えるもの」として近寄らなくなった。5百羅漢園。これも当時にはないもので、石段左から霊宝館まで苔むした石段が続き、その両脇に大小様々な石像が安置されています。石段を上り詰め境内から御成門を振り返る。大正3年(1914)に再建された入母屋銅葺屋根の門で前後に唐破風が配されている。ここから眺める瀬戸内は見晴らしが良くて気持ちがいい、海辺からここまで結構な高さを登った事になる。観音堂。御成門をくぐった右手に入母屋瓦葺の大きな建物が観音堂。この観音堂は天正18年(1590)に豊臣秀吉が大聖院を訪れ歌会を催した事で知られ、その様子は芸州厳島図会の挿絵にも描かれています。明治維新までは十二坊の末寺を有し、厳島神社の法会祭事を司る別当職を務めていた。伽藍の中では最も大きく、現在の建物は昭和7年(1932)に再建されたもので、こちらには厳島神社の本地仏だった行基の手による十一面観世音菩薩が安置されています。観音堂正面。ここにも力強い龍の姿があります。観音堂には「戒壇めぐり」もありますが、補助光もあり経験した中では一番人にやさしいものでした。併せて安芸四国霊場の2番札所、中国観音14番札所、山陽花の寺二十四ヶ寺の1番札所にもなっているようです。見事な曲線を描く虹梁、木鼻や肘木にも手の込んだ意匠が施され、垂木の連なりに幾何学的な美しさを感じる。上芸州厳島図会の和歌御会之図を再現した奉納額。下当日は堂内で宮島福よせ雛と銘打って現役を卒業したひな人形が展示され堂内に彩りを添えていた。上観音堂左に挿絵に描かれている小さな小池があり、そこには祈り鶴が建てられ、その後方には当時なかった二つの堂が建っています。右手が星供曼荼羅堂。左の社は参拝するも社名もアップも撮り忘れ今は分からない。小池を背にして祭られ佇む社は、雰囲気的には○○なんだろうがここは不明社としておこう。下施無畏堂。勅願堂右脇の釈迦涅槃堂の奥に建つ小さな堂で聖観音が祀られています、安産や子授けの御利益があるとされ、108観音霊場の18番札所。にこやかに微笑む金色の極楽観音が印象に残る。勅願堂(本堂)。大聖院の本堂で鳥羽天皇(1103~1156)勅願道場。秀吉の朝鮮出兵の際に、必勝・海上安全を祈願した本尊波切不動明王を安置する。右手の堂が釈迦涅槃堂で後方に見えているのが大師堂。入口左右には十六善神と常啼菩薩、法誦菩薩、玄奘三蔵、深沙大将の20体の像が安置されています。堂内には秀吉の御身仏で軍艦船宝丸に安置し海上安全と戦勝を祈願した波切不動明王が安置されており、周囲には千体不動が取り囲んでいます。千体不動の他に不動明王、釈迦如来坐像、金剛夜叉、降三世明王などの像が壁面に安置されています。八角万福堂。勅使堂後方の小さな池の中央に立つ八角堂で、堂内には木造の恵比須、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿、寿老人、布袋尊の七福神像が安置され、宮島七福神と呼ばれているそうです。広い境内ですが、勅使堂周辺は堂や石像が特に集中し、太子堂に向かう人の流れが滞る場所かもしれない。極楽観音を過ぎると右に烏天狗の石像が安置されており、そこから上に向かう石段があります。摩尼車を回しながら摩尼殿に向かう。この日は太子堂に向かう参道が混みあっていましたが、摩尼殿に向かう参拝者は少なく、こちらから薬師堂、愛染堂、阿弥陀堂を拝んで太子堂に向かいました。摩尼殿全景。弥山の守護神三鬼大権現(大日如来、不動明王、虚空蔵菩薩)の祈祷所で、弥山の頂の三鬼堂に登らなくてもここでお参りすればいい。宝形屋根の二層の堂で、前方に唐屋根の長い向拝が付く。唐破風向拝から堂内方向。建立時期は分かりませんが、大きく突き出た軒を支える斗供の巧みさ、向拝の木鼻、破風に施された彫物も見事なもの。内側にも獏の掛鼻が施されています。摩尼殿の額。張り出した軒を支える組物や蟇股の装飾が良く見え、堂内は外陣と弥山三鬼大権現を祀る内陣に分かれています。摩尼殿は挿絵には描かれておらず、江戸時代以降の建立と見られます。薬師堂。摩尼殿の左に建てられた寄棟屋根の堂で、内部に薬師如来と十二神将を祀っています。堂内の薬師如来と十二神将。薬師如来は病気平癒、身体健康の仏で、薬師如来を取巻く十二神将は薬師の12の大願に応じて、四六時中人々を護持する仏達。愛染堂。愛欲にまつわる煩悩から人々を救い、悟りの方向に導く愛染明王を祀り、欲情の浄化、災害除去、縁結びの御利益がある。ここは特に念入りにお願いしておく。相輪が施された阿弥陀堂。内部に阿弥陀三尊を祀られています。解説によると「この阿弥陀像は「本坊」観音堂にお祀りされていたが、平成5年8月の阿弥陀堂建立によりこちらでお祀りされた。」大師堂。大聖院本坊最古とされる建物で、真言宗の開祖、弘法大師空海が祀られています。この大師堂の堂のまわりには西国三十三観音や一願大師、稚児大師などが安置され、大師堂の下に遍照窟と呼ばれる人口の窟があり、内部には四国八十八ケ所霊場の本尊が安置されており、各霊場の本尊前はお砂場となっており、ひと回りする事で四国を遍路したのと同じ功徳が得られるとされています。上大師堂後方の五鈷杵。下手前が一願大師。秘鍵大師とも呼ばれ、願い事をひとつだけ念じることによって、叶えられる。後方の絵馬が吊るされた祠が稚児大師。香川県善通寺市で生を受けた空海7歳のとき、捨身誓願をした頃の姿を現した像で、子の健やかな成長に功徳がある。上大師堂の右の庭園に祀られていた祠。中に石仏らしき像が二つ安置されていたが内容は不明。下馬酔木観音堂の所で「山陽花の寺二十四ヶ寺」と記載しましたが、山口・岡山・広島の3県に其々1~8寺の札所を設け、計24ヶ寺の札所を花の開花時期に合わせめぐる花巡礼で2010年に開創されたもの。広島県の1番札所が大聖院で、この寺の花は馬酔木とモミジ、訪れた時には庭園各所で馬酔木の花が見頃を迎えていました。「大聖院(だいしょういん)」宗派 / 真言宗御室派大本山山号 / 多喜山院号 / 大聖院寺号 / 水静寺開基 / 空海(寺伝)創建 / 大同元年(806寺伝)本尊 / 三鬼大権現(本堂)、波切不動明王(勅願堂)、十一面観音(観音堂)札所 / 中国三十三観音14番、山陽花の寺二十四ヶ寺1番(アセビ、モミジ)、広島新四国八十八ヶ所霊場87番、安芸四国霊場2番、108観音霊場18番所在地 / 広島県廿日市市宮島町210参拝日 / 2023/03/03関連記事 / 亀居山放光院大願寺(広島県廿日市市宮島町)
2023.05.29
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名駅東側に鎮座し徒歩圏内で参拝できる神社巡りの3となります。今回は中村区名駅南2に鎮座する須佐之男神社。前回の柳里神社から須佐之男神社へは南に5分程の距離にあります。上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。この辺りに来ると南に下広井町線があるお陰か、圧迫感のあるビルの森もなくなり、見上げると空が広がる。社地周辺には西に住友生命名古屋ビル、北には特徴のあるスパイラルタワーが聳えている。須佐之男神社社頭の一区画東には青空のような外壁の名古屋四季劇場がすぐ近くにある。基準がもとめるのか、冷たい色合いのビルばかりですが、こうした色合いのビルがあってもいいと思うのだが。須佐之男神社社頭全景。ここまでの2社に比べると大きなビルが迫る事もなく、南向きの社頭の前と左がパーキングのため境内は明るく風が良く通る。社頭は右に「村社須佐之男神社」の社号標と一対の燈籠があり、石の神明鳥居の先の参道右が社務所、中央に社殿、左に小さな建物ある。燈籠は明治33年(1900)に寄進されたもの。須佐之男神社の由緒について地史や愛知県神社庁など調べて見ましたがこれといったものは見当たらなかった。上は大正4年に出版された名古屋市史社寺編、そこに須佐之男神社の沿革が記されていた。内容は以下。「下笹島町東側に鎮座し、勧請の年月は不明。当初は中笹島に氏神として祀られていたもの。明治12年(1879)、村社に列格。明治19年(1886年)、鉄道敷設に伴い米屋町と堀内町の境の徳川家所有地に遷座。明治23年(1990)頃、下笹島町の西、約110㍍の地に再遷座。明治32年(1899)、現在地に遷座、神殿を改造し遷宮。大正元年(1912)、神殿、神饌所、社務所を建設、境内の築地を落とす。祭神は須佐之男命。境内社秋葉社、金刀比羅神社は同町の氏神で明治23年(1990)頃本殿域に遷座、境内に須佐之男社が鎮座していたが移設の際に本社に合祀。例祭は10月17日」これによれば、一面葦が茂る湿地帯だったこの辺り、明治19年に笹島停車場の完成以降、鉄道整備や名古屋駅の開発に伴い目まぐるしく鎮座地を求め彷徨ったのが窺われます。それはこの地に住む氏子達も同様だったはず。現在も笹島再開発やリニア中央新幹線建設に伴う開発の波が収まる事はない。石灯籠は再遷座後に寄進され、ここに移設されたもののようです。社殿全景。参道は須佐之男社の門に続き、そこから左右の門に続きます。参道脇を守護する狛犬。狛犬の寄進年は昭和3年(1928)。戦火を経験した狛犬達だ、上の石灯籠やこの狛犬の一部に欠損や罅があるのは空襲によるものなのか。本殿域は板塀で囲まれ、三つの門は手前が金刀比羅神社、中央は須佐之男神社、左が秋葉社の門。本殿域の全景(2枚貼り合わせ)。左から銅葺流造の秋葉社、神明造の須佐之男神社、銅葺流造の金刀比羅神社。須佐之男神社本殿は6本の鰹木と水平カットの千木が付く、女神も祀られているのか?。境内右手の社務所と左の石灯籠。右手の鳥居の柱には大正7年(1918)と刻まれており、現在地に鎮座後に寄進されたもの。社務所横の石燈籠の竿には大正元年(1912)の寄進年が刻まれ、社殿再建時に寄進されたものようです。今も変貌を続ける名駅周辺。この神社も文明開化と高度成長期の荒波に翻弄されて来た神社のひとつ。それらを支え、今に繋げられているのも氏子をはじめとする熱心な崇敬者によるものだろう。須佐之男神社創建 / 不明祭神 / 須佐之男命境内社 / 秋葉社、金刀比羅神社参拝日 / 2023/04/27所在地 / 名古屋市中村区名駅南2-11-26関連記事 / ・迦具土神社・豊光稲荷大明神 (名駅付近の神社巡り)・柳里神社・白鷹龍神 (名駅付近の神社巡 2)
2023.05.26
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岐阜県瑞浪市陶(すえ)町、この町は猿爪、水上、大川と三つの地区に分かれており、陶町の字が示すように陶磁器産業が盛んな地域。今回はここ大川地区にある大きな狛犬と茶壷を掲載します。国道363号線と国道419号の交わる瑞浪市陶町大川付近の光景。4月中旬のこの辺りは、山々に芽吹き始めた淡い緑と山桜が入り混じり、春を迎えた山里の光景を見せていました。写真前方が瀬戸方向に続く国道363号線になります。「世界一の美濃焼狛犬」は二つの国道が交わる三叉路に安置されています。国道419号線沿いに鎮座する八王子神社の近くに「こま犬駐車場」があるのでそちらを利用します。八王子神社の社頭を通り過ぎ、世界一の狛犬がいる三叉路向かいます。この神社には瑞浪市有形文化財の「大川美濃焼狛犬郡」があり、社頭の狛犬も陶製狛犬で、まさに狛犬の群れが集まっています。三叉路の角にある巨大な美濃焼の狛犬。この巨大狛犬が焼かれたきっかけは、平成元年(1989)に瑞浪市と高浜市が姉妹都市として提携した事に始まるようです。瑞浪市政35周年を記念し、国道419号線の起点と終点にあたる瑞浪市と高浜市の交流を深める目的から故郷創生資金を財源に平成2年(1990)に焼かれたもの。写真に収めてしまうと大きさは伝わりませんが、名古屋方面から国道363号線を走ってくると、この姿が否応なく視界に飛び込んでくる。「世界一のこま犬」の入口付近は八王寺神社の境内に続く脇参道で、その参道脇にも表情豊かな狛犬達が安置されています。「世界一のこま犬」の入口に立つ狛犬。ボリューム感のある毛並みが表現されたスタイリッシュな狛犬。世界一のこま犬は瑞浪と大川、高浜の土をブレンドして作られ、制作延べ日数183日、延べ人員1000人が携わり、約12日間をかけて焼かれたもの。この狛犬を焼いた窯は、三叉路から国道363号線を少し入った左側に県内最大の六連房式の登り窯と云われる陶与左衛門窯で焼かれました。※六連房式の登り窯の規模の表記は一部に国内最大とありますがマップにある県内最大を引用しています。狛犬の前後には焚口も残されています。地元住民の協力によって作られたこま犬は、ギネスに『世界一大きいこま犬』として認定されています。覆屋に安置されている狛犬は、阿形・吽形共に高さ約3.3㍍もある。正面から見る狛犬。この狛犬のデザインは室町時代文明7年(1475)に開窯された大川窯の4代目羽柴与左衛門景度の美濃焼狛犬をモデルとして作られたそうです。大川の地には東窯と西窯の二つの窯があり、東窯だけでも40基はあったそうです。背筋を伸ばし遠くを見据える二体の大きな狛犬は年末・年始にはライトアップが施されるそうで、街明かりの少ない山間にこの狛犬が浮かび上がるようです。三叉路から国道363号線を恵那、瑞浪方向へ直進した右側にある「世界一の茶つぼ」こちらも覆屋に覆われ、その下に高さ5.4㍍、直径が4㍍のギネスに認定された茶壷が安置されています。狛犬から100㍍程東の斜面にあり、平成11年(1999)に製作日数365日、12,000人が作成に携わり、13日間をかけ焼かれた「豊穣の壷」。瑞浪市の陶町に点在する古窯のひとつ大川窯の陶工の茶壷をモデルにして制作されており、地元総出で製作に関わり形となった茶壷は、関わった人たちにとって、自分やその子供にも誇れるモニュメントとして残っていく。この下を走る国道363号線の向かいに6連房式登り窯があります。国道脇には「中馬街道」の道標と後方に見えるのが「大川馬頭観音」大正十年(1921)に彫られた馬頭観音は街道の安全を守護するとともに、瀬戸と明智を結ぶ中馬街道の道標も兼ねています。豊穣の壺あたりから西方向の三叉路を眺める。世界一の美濃焼狛犬、豊穣の壺所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町大川2023/04/11関連記事 / ・春の岐阜ドライブ日記・南宮神社(土岐市鶴里町柿野)
2023.05.25
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厳島神社の引き続きとなります。今回は境外末社「清盛神社」から御手洗川を渡った先に鎮座する大願寺を掲載します。大願寺はマップの赤丸部分にあたります。清盛神社からだと御手洗川に架かる石橋を渡り、徒歩で2分もあれば大願寺境内です。山門。厳島神社出口に建つ山門で、大半の方はこちらから大願寺を参拝し、清盛神社まで足を向ける人は少ないようです。木造瓦葺の山門左右の間には仁王像が安置されています。両翼に塀はなく山門だけがポツンと聳えています。大願寺の創建時期は寺伝によれば平安時代初期に空海(774~835)によって開かれたと伝わります。一方で鎌倉時代初期の建仁年間(1201~1204)に了海(1239~1319)によって再興されたともされるようで定かではないようですが、往古より厳島神社と深い関りがあるようです。現在の大願寺は元禄時代に建立された山門と本堂が主な伽藍で、境内の護摩堂などは平成18年(2006)に再建されるなど、古の佇まいを強く留めるものはこの山門かもしれない。今はポツンと聳える山門ですが、かつての門は左右を塀で繋がれ、複数の堂宇があったようで、海に浮かぶ大鳥居を舟でくぐり、御手洗川を経て大願寺から厳島神社に参拝していたとも云われます。ここは厳島神社出口と云われますが、実は入口だったのかもしれません。上は天保13年(1843)、当時安芸広島藩士だった岡田清により編纂された厳島図会の大願寺挿絵。手前が清盛神社の鎮座する西の松原で、その先が御手洗川と思われます。当時は山門に繋がる塀も描かれていました、描かれた当時の山門は現在の向きに対し右に90度振られていたようです。左右の間に安置されている仁王像。実はこの仁王様はもともとこの山門に安置されていたものではありません。元々は、厳島神社末社の今伊勢神社から尾根沿いに東に歩いた頂に建っていた仁王門に安置されていたもの。延宝6年(1678)9月、山県郡都志見村の香川七郎左衛門が建立した門に安置されていました、それも明治政府の神仏分離令に伴い取り崩されてしまい、像だけが大願寺の山門に移されたのだと云います。上は今伊勢神社から尾根沿いに続く山辺の小幹に残る石標で、痕跡はなにも残っておらず唯一それを伝えるのがこの石標だけです。この像を見る時、五重塔が聳え立つ対岸の、更に先から居場所を求めてやって来た、そうした目線で見てやってください。山門から先の境内に鎮座する厳島龍神。水が張られた小さな池の中央に巨岩が組まれ、その頂に厳島龍神の本殿が祀られています。この地で龍神信仰が根付いた背景に海や航海に関わる土地柄があるのかも知れないが、厳島と付くだけにこの龍神様は海を含めた島そのものの守り神なのだろう。厳島龍神の後方に伊藤博文が手植えした9本松が聳えていましたが、何年か前に枯れたらしく現在は残っていません。嘗てここに1本の松の根元が9本に分かれた9本松が写り込んでいたのでしょうが、現在は切株が残るだけで境内は妙にすっきりとし、本堂の全景が良く見て取れる。大願寺概説。真言宗に属し、室町時代末期に厳島神社の修理造営権を握り、道本・尊海・円海と相次いで傑出した住職が出て、厳島神社諸建築の建造や復旧に当たった。また鍛冶・番匠(大工)・檜皮師などの職人団を率い、筑前筥崎八幡宮・豊前宇佐八幡宮の修理造営にも当たった。当時厳島は内海の要港で、ここに集まる京・堺などの貿易商人らとの接触も深い。尊海が大蔵経を求めて朝鮮に渡った時の見聞を記した紙本墨書尊海渡海日記(国指定重要文化財)、銅製朝鮮鐘(重要美術品)、木造薬師如来坐像・木造釈迦如来坐像・木造阿難尊者立像・木造迦葉尊者立像(以上国指定重要文化財)、その他多数の中世古文書を所蔵する。清盛により現在の厳島神社の原形が築かれ、海に浮かぶ厳島神社が匠を育む結果にもつながったのだろう。護摩堂。明治時代に焼失し、平成18年(2006)に再建された裳階を持つ方型の建物。本尊は厳島弁財天。相模国の江ノ島神社、近江国の竹生島の宝厳寺とともに日本三大弁財天の一つとされます。堂内には不浄なものを焼き尽くす力を持つとされる真紅の火炎(迦楼羅炎)を背にした、総白檀で作られた約4メートルの本尊不動明王座像が安置されています。厳島大仏 不動明王総身一丈六尺(4m80㎝)、重量7t、総白壇明治の初期に焼失した護摩堂は、平成十八年四月に再建、落慶並びに開眼供養されました。総白檀の不動明王像としては日本最大の仏様です。不動明王のお姿は、右手に、智剣と呼ばれる我々衆生の悩みを断ち切る智慧の剣を持ち、左手には、絹索と呼ばれる正しい道から外れた衆生を引き戻して下さる縄を持ち、背中には、我々衆生の煩悩を焼きつくす人を背負っています。不動明王 御真言なうまくさまんだ ばさらだん せんだん まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまんこの御真言には、不動明王への讃歎と畏敬の念が込められています。本堂前を守護する狛犬。本堂。瓦には厳島神社同様の三つ盛り二重亀甲に剣花菱紋が入る。本堂には神仏分離令によって厳島神社から遷された弁才天像(毎年6月17日御開帳)や釈迦如来像など、多くの仏像を安置し、本尊は薬師如来、弁才天をお祀りする。大願寺は中国四十九薬師霊場22番、広島新四国八十八ヶ所霊場1番の札所でもあり、霊場巡りで訪れる参拝客も多い。本堂前にはピカピカに輝く賓頭盧尊者が安置されており、これまで多くの願を叶えて来たのだろう。本堂右の地蔵堂。堂の左から奥に進むと清盛神社に続きます。さて次に向かうのは山門から左に進み、小高い丘に建っている多宝塔(当日は修復作業中)方向へ向かい、あせび歩道から大聖院に向かいます。大願寺宗派 / 高野山真言宗山号 / 亀居山院号 / 放光院開基 / 空海(寺伝)創建 / 不明本尊 / 薬師如来、弁才天境内社 / 厳島龍神札所 / 中国四十九薬師霊場22番、広島新四国八十八ヶ所霊場1番所在地 / 広島県廿日市市宮島町3参拝日 / 2023/03/03関連記事・ 厳島神社 境外末社「清盛神社」・ 安芸国一之宮 『厳島神社』・ 地御前神社(広島県廿日市市地御前)
2023.05.24
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車中泊で巡る#1「上野国一之宮貫前神社」と「前橋東照宮」からの続きとなる群馬県二日目。道の駅赤城の恵で迎えた二日目。昨晩は結構車中泊していた車も、既に多くが走り去って行ったようで、爆睡していた我家は出遅れ感があるか。二日目の最初の目的地は群馬県太田市世良田町に鎮座する「世良田東照宮」を目指します。その前に、ここから数分先にある吉野家の朝定食を食べて一日がスタートします。8:16食事を済ませ、道の駅から通勤時間で混みあう国道17号線を50分程南下。利根川左岸の田園地帯が広がる世良田町の新田荘歴史資料館の駐車場に到着。ここに車を停め世良田東照宮と徳川町の東照宮の二社を巡ります。上は太田市歴史公園マップ。園内には新田荘歴史資料館、世良田東照宮があり、参拝に訪れ駐車するにはありがたい。資料館には徳川家と所縁のある「長楽寺」や「世良田東照宮」に伝わる文化財はじめ、新田荘の歴史を伝える資料等が展示されています。下は資料館前の新田義貞像。稲村ヶ崎で剣を海に投げ、海の神様に祈願してから、海岸から鎌倉へ侵入して、倒幕をはたした故事に基づく銅像。新田荘歴史資料館所在地 / 群馬県太田市世良田町3113-9世良田東照宮小黒門から境内の眺め。門の前の通りから右を眺めると東照宮の別当寺を務めた長楽寺の太鼓楼と三仏堂も近い。東照宮境内から社殿の眺め。当日は本殿が修復作業中で全景を見ることが出来ず残念でしたが、さすが東照宮、拝殿に施された左甚五郎の彫飾りや狩野探幽の彩色は見応えがありました。世良田東照宮 由来寛永21年(1644)、三代将軍徳川 家光は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽く されました。東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と誘われました。御祭神主祭神 徳川家康 (東照大権現)東照大権現とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。配祀菅原道真公(学問の神) 、倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 、須佐之男命(愛、農業の神)、大穴牟遲命(招福、医療の神)、誉田別尊(安産、育児の神)、伊弉冉尊(結婚、火防の神)、火産霊命(車、縁結びの神)、建御名方神 (スポーツの神)、豊城入彦神(開運の神)。祭事一月元日 初詣1月4日 除魔神事 午後1時1月5日 御釿始め式 午後一時4月第一日曜日葵祭り 午前十時~4月17日例祭、10月17日春季祭11月 七五三祝祭太田市世良田は徳川発祥の地と云われ、町名にも徳川町と残る程徳川家と所縁のある地。徳川氏の祖は上野国新田郡を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされ、平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は関東に下り、その長子義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となりました。新田義重は、仁安3年(1168)に世良田などの開拓の地を四男義季に譲りました。新田義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷(太田市尾島町)に住んで徳川(得川)を称し、徳川義季と名乗りました。これが徳川氏発祥の始まりと言われています。その後、義季の子孫である親氏は、父有親とともに諸国を放浪し、三河松平郷(愛知県豊田市)に住んで松平を称し、松平親氏と名乗りました、その松平親氏の子孫が松平家康で、後に徳川氏を名乗り徳川家康となります。そうしたことから世良田東照宮は歴代の将軍から厚遇されてきました。大鉄燈籠。上野国総社藩主の秋元長朝が明暦4年(1658)に寄進した鉄燈籠で、他にも宝暦から天保の元号が刻まれた石灯籠が見られます。世良田東照宮創建 / 寛永21年(1644)祭神 / 東照大権現境内社 / 稲荷社、日枝社拝観料・開場 / 300円・9:00から道の駅赤城の恵から車移動で世良田東照宮 / 移動時間50分程所在地 / 群馬県太田市世良田町3119-1これだけゆっくりと参拝し拝観料は300円とは懐に優しい。時間が10:00という事もあるのか、意外に参拝者は少なく、何より大陸からの団体客に出会わなかった。次はここから南西の徳川町に鎮座するもう一つの東照宮に向かいます。世良田東照宮から徒歩で20分程という事なので見渡す限りの葱畑が続く道を歩き出しますが、あまりに単調で日差しを遮るものもなく、道半ばで引き返して車で向かいました。10:05駐車場から徳川町東照宮までは車で5分程、永徳寺前の縁切寺万徳寺遺跡駐車場に駐車し社頭までは徒歩2分程、最初っから車移動だったか。上徳川東照宮社頭全景。利根川支流の早川左岸に鎮座し、社地左は資材置場、右は小さな公園に挟まれています。公園の脇に家康が描かれた尾島かるたが掲げられていました。「徳川氏発祥の地尾島町江戸幕府将軍徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれています。新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。」とあります。社頭から見る社殿は神社と云うより寺の雰囲気が漂う。左の石標には「徳川義孝公館址」とあり、右の社標には「●●東照宮」と刻まれていました。下かつてのこの辺りは上野国新田郡得川郷と呼ばれる徳川家発祥の地とされ、徳川義孝の館があった場所。この屋敷址は後に正田家が所有し、そこに建てられたのが徳川東照宮とされ、代々正田家により護られて来たようですが、明治政府の神社合祀令により東照宮の社地は正田家から徳川郷に移り、郷内の神社は世良田東照宮に合祀されたようです。現在の入母屋瓦葺の拝殿は、車を停めた向かいに鎮座する永徳寺から大正3年(1924)に権現堂を移築し拝殿としたものとされます。世良田東照宮と徳川東照宮は葱畑を隔てお互いに見える距離にありながら、随分と境遇は違うようです。御朱印は世良田東照宮で頂けるようです。徳川東照宮創建 / 天正19年(1591)祭神 / 東照大権現所在地 / 群馬県太田市徳川町387-1世良田東照宮からアクセス / 徒歩20分、車で5分10:30群馬県の徳川東照宮を後に最終目的地埼玉県の「父父夫國総鎮守 秩父神社」の最寄りある「道の駅ちちぶ」へ向かいます。移動時間は約70分程。道の駅へはほゞ12:00到着。ここで一息入れ、売店で土産を探し求めながら、こちらの名物?豚みそ丼本舗で昼食を予定していました。ところが歩き足りなかったのか、かみさんの御楽しみだった豚みそ丼はとても食べられる状態ではなく、軽く蕎麦を食べる事に変更。上「道の駅ちちぶ」周辺には商業施設もあり、車中泊には便利かもしれないが、目の前を国道140号線が走るので夜はどうなんだろう?下駐車場脇の「ちちぶの水」、昼寝の時間も迫りボンヤリしてきた意識を秩父の冷たい湧水がリフレッシュしてくれる。PET容器持参で汲みにこられるようです。そば処入船。道の駅から秩父鉄道秩父駅方面に向かい、秩父神社社頭を通り過ぎて約10分歩きます。左手の風情ある佇まいの通りに面し「そば処入船」がある。既に開店しており、第一陣が入店した後なんだろう、店舗前に列は見られずラッキーと喜んだ。しかしウェイングリストを見ると結構待ちがあるようで、取り敢えず記名を済ませ店舗前で座っていると、次から次に客が訪れ始め、長椅子では足りず立って待つ状態に。30分程して店内の奥の座敷に通され山くるみそば¥900とまいたけ天ぷら¥800、くるみ天ざるそば¥1700をオーダー。30分程して、山くるみそばとまいたけ天ぷらが出て来た。やくみの下のくるみだれにたっぷり蕎麦を絡ませ味わう、口の中は出汁の効いた濃厚な胡桃と蕎麦の風味が広がり、なかなかいける蕎麦、くるみだれに蕎麦湯を入れても胡桃の風味は負けていない。舞茸の天ぷらもカラッと揚げられサクサクした食感で美味しかった。趣のある入船の店舗は「登録有形文化財秩父銘仙出張所二」として登録されています。大正時代から昭和時代初期にかけて、この地は秩父銘仙の取引で賑わい、近在近郷の織物工場の製品取引をするための出張所が建ち並んでいた。木造2階建、切妻造、瓦葺、平入、建築面積88平方メートルで、正面2階軒を出桁造、1階は下屋を設ける。正面は真壁造で外観は左右対称の2戸1棟形式で、当時の商業地区の景観の一端を今に伝えている。」秩父銘仙とは、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源とされ、山に囲まれた秩父の地形は、稲作に適さないことから養蚕業が盛んとなり、商品にならない繭を使い「太織」と呼ばれる野良着を生産、それが評判となり鬼秩父、秩父銘仙と呼ばれるようになり、庶民の普段着として重宝され、往事は住民の7割近くが繊維業界に携わっていたようです、番場町にはこうした出張所は3棟現存するようです。そば処入船所在地 / 埼玉県秩父市番場町100113:40多少時間を費やしてしまったが最後の目的地秩父神社に戻る事に。父父夫國総鎮守 秩父神社社頭全景。秩父鉄道秩父駅から徒歩10分ほどの秩父市番場町1に鎮座する古社。秩父神社の創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀国造本紀』によると、第10代崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされ、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。上は栞にある境内マップ。現存する権現造の社殿は、天正20年(1592)に徳川家康が寄進したもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。毎年12月3日に行われる例祭は秩父夜祭として、国の重要無形民俗文化財と重要有形民俗文化財に指定され、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられる。訪れた時は本殿北側の壁面が装飾の補修中で職人により漆の剥離作業が行われていました。上神門から拝殿の眺め。参拝客は多いが途切れるのを待っていれば人の映り込みの少ない写真も撮れなくもない。下拝殿正面全景。入母屋銅葺屋根で千鳥破風と唐破風向拝が施された拝殿。秩父神社は永禄12年(1569)に戦火で焼失、家康により天正20年(1592)に再建されますが、社殿全周に施されている彫刻とその彩色の美しさが見所といってもいい。拝殿正面の四面に描かれた虎の彫刻「子宝 子育ての虎」は、左甚五郎が家康の威厳と祭神を守護する神使として彫ったものとされます。拝殿両側面の装飾。左甚五郎による繋ぎの龍、子育ての虎、お元気三猿などの彫りもの一つ〃に物語があり、それら見ているだけでも時間は過ぎていきます。父父夫國総鎮守 秩父神社創建 / 崇神天皇10年祭神 / 八意思兼命(政治・学問・工業・開運の祖神)、知知夫彦命(秩父地方開拓の祖神)、天之御中主神(北辰妙見として鎌倉時代に合祀)、秩父宮雍仁親王(昭和28年に合祀)所在地 / 埼玉県秩父市番場町1-3秩父神社を14:30に後にして「道の駅ちちぶ」で鬼胡桃などの買い物を済ませ350㌔の帰路につく。世良田東照宮(右)と父父夫國総鎮守 秩父神社の御朱印。名古屋着はとっぷり日が暮れてしまうが、帰りも付かず離れず法定速度+10km/hの定速運転でひた走る。二日間の全走行距離790㌔、使用燃料80literと年代物の車ながら上出来の結果でした。訪問日 / 2023/05/11~12二日目走行ルート 関連記事 / 車中泊で巡る#1「上野国一之宮貫前神社」と「前橋東照宮」
2023.05.23
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先日秩父に出かけた際に地元で食べた胡桃たれの蕎麦。余程美味しかったのか、はたまた鬼胡桃は洋胡桃に比べ一層健康にいいとされる都市伝説に毒されているのか地元で安く手に入れることができた。かみさんがコストコなどでよく買ってきては食べているが、それは洋胡桃。殻はくるみ割りで容易に割る事ができるが、鬼胡桃は半端なく固い。銀杏割で割ろうものなら割るどころか握り手が曲がってしまい使い物にならなくなる、だから殻付き鬼胡桃は買わない、採らない。山間地の神社に訪れるとこんな実が成っていたり、落ちていたりします。これが鬼胡桃、キウイのようにも見えますが見慣れた胡桃の姿はこの果肉の中にあります。この実を地中に埋め腐らせたものが、あの胡桃。webなんかで実を削ぐとかありますが、それはやめた方がいいでしょう、土中で腐らせ肥やしにするのがお勧め。今回は頑固なまでに固い鬼胡桃の殻を、ハンマーで粉砕することなく割る方法と結果をお伝えします。まずやらない方がいい事を下に列記します。1.果肉を削ぐ(かぶれたり手が茶色に染まる)2.電子レンジでチンして割れ目を作る(レンジ内がウオールナッツのスモーク臭で満たされる・機器の破損要因)3.ハンマーで割れ目を目がけて叩き割る。(危ない・粉砕されるだけで胡桃バウダーになる)4.普通の銀杏割ではやらない。(柄が曲がるだけで効果がない)これらはwebで勧める向きもありますが、いずれも過去に経験済みで自分は勧めない。我家でやった事。1.買ってきた胡桃を水を入れたボウルに放り込み、上から皿を重しにして二日ほど胡桃を水没させる。2.二日後胡桃を取り出して中火で熱したフライパンで殻を炒る。3.パキンと音がすれば割れ目が開いた合図。4.手袋をしてキッチンバサミの握り手側に付いている突起を使い、割れ目に差し込みテコの原理で割る。買ってきてその日には食べれないかもしれませんが、鬼のように固い殻は写真のように綺麗に割れました。・・・が、ここから綺麗に取り出せるかが課題かもしれない。取り敢えずパウダーよりはましだろうし、二次加工して濃厚な風味を楽しむ気にもなるかぁ。※炒るためのフライパンは捨てようかな?と思っているものがあればそれを使うこと、念のため眼鏡を付けることをお勧めします。
2023.05.20
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5月11日~12日にかけて、久し振りに車中泊で一之宮を巡って来ました。かみさんが温めていたプランのひとつで、上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社を巡る総走行距離は約800㌔の行程です。名古屋を5時に発ち一路中央道をひた走り、岡谷ICで降りて立科、軽井沢方面に向け山越えの道を走る。初日の第一目標上野国一之宮貫前神社を目指しました。高速は工事規制もありましたが、全体の流れが法定速度+10km/hの巡行速度で、十分な車間距離を保つ流れだったのでブレーキを踏む必要もなく運転のストレスは少なかった。10:00国道142号線沿いの「道の駅 女神の里 たてしな」に到着。一面田畑が広がり浅間山が望める長閑な道の駅で、地元の野菜や珍しい山菜、苗などが販売されています。こちらの新トイレはとても綺麗、女性には受けがいい事間違いなし。国道は交通量はさほどでもないがトラックの往来があり、車中泊だと音が気になるか。「道の駅 女神の里 たてしな」所在地 / 長野県北佐久郡立科町茂田井248011:15奥多摩の山々を見渡す富岡町の山間に鎮座する上野国一之宮貫前神社に到着。一ノ鳥居の下に車を停め、石段を上り詰め大きな両部鳥居をくぐり、総門に向かう。総門前にも駐車場があるので石段を避けたい向きにはお勧めですが・・・総門から社殿の眺め。随分と下に社殿があります。下り参道と云われ、総門から楼門へは石段を下りていく事になります。上野国一之宮貫前神社拝殿から本殿。2009年から2013年にかけて「平成の大修復」が行われ、彩色も落ち着きを見せ、嫌みのない華やかな社殿。貫前(ぬきさき)神社の創建は安閑天皇元年(531)とされ、物部姓磯部氏が氏神の経津主神を蓬が丘綾女谷に奉斎したのが始まりとされ、祭神は経津主神、姫大神。樹齢1200年とも云われる大杉をはじめ、スダジイやイチョウの古木が聳え立つ広大な社叢に包まれた美しい神社です。富岡と云えば世界遺産「富岡製糸場」もあり、こちらを訪れた際に貫前神社は訪れるだけの価値はあります。上野国一之宮貫前神社創建 / 安閑天皇元年(531)祭神 / 経津主神、姫大神所在地 / 群馬県富岡市一ノ宮1535参拝を終え、丁度昼時となり10分程離れた登利平 富岡店で昼食としました。群馬では鳥めしがソウルフードだという事で、登利平は群馬県内各所に店舗があるようです。写真は胸肉とモモ肉を甘辛たれで絡ませた「鳥めし松重(¥900)」御飯にもたれが浸み込み、うなぎ程こってりでもなくさっぱりとした味わい。ここから一旦上信越自動車道に乗り、次の目的地「前橋東照宮」まで小一時間の移動時間。前橋公園駐車場へは15:10に到着。ここに車を停めて周辺を散策。まずは、公園東に隣接する臨江閣と庭園を散策。手入れの行き届いた庭園内には臨江閣本館、別館、茶室の国指定重要文化財三棟が建っている。明治期における近代和風建築の迎賓施設で、明治17年(1884)に群馬県を訪れる皇族や賓客の接待・宿泊施設として建てられたもの。臨江閣所在地 / 群馬県前橋市大手町3-15-3三時のおやつ。群馬県のソウルフード原嶋屋総本家の「焼きまんじゅう(¥240)」なんというのか、五平餅のたれを丸いパン(まんじゅう)に塗って焼いたもの・・・悪くはない。群馬県は名古屋同様に味噌文化が花開いているのか、味噌を挟んだ味噌パンなどスーパーで売られていた。もちろん「こんにゃく」も豊富で価格も安く、大量に袋詰めされた刺身こんにゃくを土産に買ってきました。原嶋屋総本家所在地 / 群馬県前橋市平和町2-5-20前橋公園駐車場から5分程南の大手町に鎮座する前橋東照宮。御覧の様にスタイリッシュな外観で、この建物自体が鞘殿で本殿は右側のガラス張りの部分にある。外部から本殿の全容が見れますが、映り込みもあり見えそうで見えない。前橋東照宮は江戸初期の大名松平直基公が幕府より賜った領地、福井県の越前勝山に寛永元年(1624)に創建されたもの。江戸時代中期には松平家が各地の国替え経て姫路城より前橋城に入城。その後洪水の被害を受けて、一時武州川越に居住しその川越に作られた社殿で、洪水による復旧を遂げた前橋に戻るに際し解体・移築されたもの。現在の社殿は明治4年(1871)に再築されたものだという。前橋東照宮創建 / 寛永元年(1624)祭神 / 東照大権現、木花咲耶姫、菅原道真、長壁様所在地 / 群馬県前橋市大手町3-13-19初日の行程は一通りコンプリート、そろそろ地元スーパーに立ち寄り今夜の酒と肴を買い込み今日の宿泊地「道の駅 赤城の恵」に向かいます。17:45赤城山の南麗にある「道の駅赤城の恵」に到着。この道の駅には「あいのやまの湯」が隣接し、お風呂も食事も済ませることができるので車中泊にはいい条件が揃っています。車を停め、車内をお泊り(宴会)モードにセットしてお風呂に向かう。久し振りの長距離走行で腰はパンパン、歩き疲れて足は重い、41℃のやや塩味を感じる湯に浸かり一日の疲れを癒し食事処で乾杯。入浴料は大人520円で、65歳以上は310円に割り引かれ、施設内には休息所もあるなどお得な施設。ここで20:00までゆっくりと休むことが出来ます。その後は車に戻り二次会、今夜の酒は地元のスーパーで見切り品だった「船尾瀧」。テレビの受信状況も良く、雉や鶯の鳴き声も聞こえるいいロケーションの道の駅でした。初日行程 / 名古屋~道の駅赤城の恵
2023.05.19
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奈良県桜井市三輪『恵比須神社』日本で最古の神社とも云われる大神神社、広大な三輪山そのものを御神体とするため本殿を持たない神社。桜井の町に聳える大鳥居が印象に残る神社で親しみを込めて三輪明神とも称される古社です。今回掲載する『恵比須神社』は、大鳥居から続く長い参道の一本南に伸びる上街道(伊勢本街道)沿いに鎮座します。上は観光マップに上街道を赤線、大鳥居と大神神社を青枠で示し、赤丸が恵比須神社の鎮座地です。大鳥居脇の大神神社第2駐車場に車を停め、綱越神社の前の三輪街道を東に進みます。街道の面影が残る三輪の町を歩く事10分弱で恵比須神社社頭に着けるはずです。恵比須神社社頭全景。訪れたのは4月4日、散りゆくばかりの枝垂れ桜が辛うじて残ってくれていた。「日本最初市場 三輪坐 恵比須神社」の社標と由緒が掲げられた左から境内に入れますが、鐘楼の建つ右側が正参道でその先に鳥居を構えています。左から車で入れそうですが、駐車が許されているのか定かではありません。「日本最初市場 三輪坐 恵比須神社由緒略記御祭神 八重事代主命、八尋熊鍔命、夜奈留美命御由緒当神社は八重事代主命(三輪明神の御子神)他二柱を奉斎し、日本最初の市場海石榴市(つばいち)の守護神として、悠久の昔創祀せられ「つばいちえびす」と称えられエビス信仰の本源をなす大和の古社であります。顕幽両界に亙って働かれるご神徳が敬仰されています。主要祭事初市祭 宵宮 2月5日、本戎祭 2月6日、御湯祭 2月7日夜市祭 8月13日例祭(秋の大祭) 10月14日」八重事代主命は大神神社の御祭神の大物主大神の御子神で、国譲りの談判交渉の際、大物主大神に代わって大役を務めたことが神話にも語り伝えられています。海柘榴市(つばいち)は三輪山南麓を流れる初瀬川(大和川)沿いの金屋の地で物々交換の市として始まったそうで、海柘榴市の守護神として神社も祀られましたが、延長4年(926)の大雨により初瀬川が氾濫、それを契機に市は三輪の地へ移され、守護神も三輪に移されたのが今日の恵比須神社のようです。市の賑わいは平安時代の「枕草子」や「万葉集」にも記され、市の始まりと共に三輪の繁栄を護り続け、市場神社や日本最初市場の神とも称され、商業や産業の守護神として、古くから伝わる祭りとともに現在も篤く信仰され続けています。参道から境内の眺め。まずは右側の桜と神仏習合時の名残を残す鐘楼に目が行きます。参道左が手水舎で正面に狛犬と石の明神鳥居が立っています。鐘楼。間近で梵鐘の銘を見ていないので年代は不明。手水舎と左奥に見えているのが社務所。大きな龍がいますが撮り忘れていました。手水舎脇の碑。内容は以下。「当神社の手水舎は、もと正徳2年(1712)に市場の繁栄を祈願して三輪村下市中の寄進によって造営されました。その頃の当神社は、おおいに繁盛した三輪市(上市・下市) の守護神として、また広く市の神として、商人達の崇敬を篤くし、特に初市には全国各地から参集した豪商達で賑わったと伝えら れています。三輪の茶屋を舞台とした近松の「冥途の飛脚」が初演されたのもこの頃のことです。このたび、氏子草敬者の寄進によって当時の手水盤を基に復元し、正徳の昔をしのぶと共に未来の繁栄を祈るものです。昭和7年(1932)10月日本最初市場 三輪坐恵比須神社」参道脇の狛犬と鳥居。蔓柏(つるかしわ)の神紋が入った前掛けを着けられた狛犬。誇らし気に微笑むかのような阿形の狛犬は、恵比須さんの表情にも見えてくる。鳥居の額は「恵比須神社」参道を覆う様な枝垂れ桜は鮮やかな葉桜に装いを変えていました。花の時期はさっぱり読めなくなってきました。境内右の恵比須神社社務所。当日は無人で御朱印は頂けなかった。左手に見える巨樹は樹齢600年とも云われる御神木の欅夫婦欅で、名の通り根元から幹が二つに分かれており、寄り添いながら共に大きく育つ姿から、この樹に触れ願をかけると良縁の御利益を頂けるようで、安産や子宝にも恵まれるという事です。拝殿左の琴平神社。拝殿正面全景。恵比須神社の由緒では創建について「延長4年(926)7月の大雨により初瀬川が氾濫、それを契機に市は三輪の地へ移され、守護神も三輪に移された」とあります。神社の社伝には「大風、長谷山崩レ、海石榴市ニ至リ、人烟悉ク流レシニヨリ、市場ヲ三輪ニ開クニ及ビ、市神モココニ遷シ祭ル。是レ即チ当神社ノ創祀ニシテ」と記されているようで、現在の惠比須神社の始まりは延長4年(926)としてもいいのだろう。大和川氾濫前の海石榴市は、大和川右岸を15分程遡った三輪山南麗の金山町にあったとされ、日本書紀では欽明天皇13年(552)、百済の使者がこの地に釈迦仏の金銅像や経典を献上したと記される事から、この地は仏教伝来の地として大和川沿いに顕彰碑が建てられています。山の辺の道や幾つかの古道が交わり、大和川を行き交う船着き場として、人・物が集まりやすい立地だったようです。惠比須神社の元となる護神が祀られた時期となると更に遡る事になる。拝所から拝殿、本殿方向の眺め。にこやかに微笑む大黒天とえべっさん。琴比羅神社社頭全景。琴比羅神社由緒。「御祭神 大物主神例祭 7月9日日本で最初に開けた海柘榴市(つばいち)ゆかりの流れを汲む恵比須神社の境内に祀られ、いわゆるエビス・ダイコクのダイコクとして、増殖・蓄財のご神徳が仰がれています。」本殿域全景。左の石灯篭の柱に寄進年らしき文字が見えますが、いろいろ加工しても読み取れなかった。本殿前を守護する小柄な狛犬には〇金の前掛けがかけられている。琴比羅神社本殿は銅葺屋根の流造で千鳥破風が付く。創建時期など詳細は不明。棟には5本の鰹木と外削ぎの置き千木が付き破風側の棟にも鰹木と千木が施されています。棟飾りには〇金。琴比羅神社左に佐藤春夫が海柘榴市を訪れ詠んだ「海柘榴市の 野道に飛び交ふ 蟲や何 」の句碑。三輪の初市「JR三輪駅の西に位置し、旧指定村社の恵比須神社がある。本殿には、天正15年(1587)銘の「上棟城上郡三輪市場恵美酒宮」と書かれた棟札が残っている。2月6日の初市祭は現在でもにぎやかで、この時にこの年の三輪素麺の価格が決められる。『日本書紀』の海柘榴市の伝統を残しているとの説もある。」古くは六日市とも呼ばれ、旧暦の正月6日の前後三日間で執り行われ、現在は初相場奉告祭として三輪そうめんの標準価格を神様に告げるようです。そうめんもピンキリで味音痴の自分にはその違いがよく分からない。三輪坐恵比須神社境内全景。恵比須神社創建 / 延長4年(926)祭神 / 八重事代主命、八尋熊鍔命、夜奈留美命摂社 金比羅神社創建 / 不明祭神 / 大物主神大神神社第2駐車場から徒歩 / 10分程所在地 / 奈良県桜井市三輪375参拝日 / 2023/04/04関連記事 / ・奈良 談山神社・岡寺・今西酒造本店『三諸杉』・「大和國一之宮大神神社」
2023.05.18
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名古屋市中村区名駅南1、柳里(りゅうり)神社・白鷹龍神。迦具土神社・豊光稲荷大明神の続きで、名駅東側に鎮座し徒歩圏内で参拝できる神社巡りとなります。今回掲載する柳里神社・白鷹龍神は上のマップの赤い矢印の位置になり、移動時間は15分前後です。鎮座地は笹島交差点南東の区画の南側に鎮座します。上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。社頭の前は柳街道が通り、嘗て街道周辺が一柳荘と呼ばれた荘園で、柳の樹が多く植えられていた事に由来するとも云われるようです。柳街道は佐屋街道から名古屋城下町へのバイパスとして整備されたもので、柳の樹を植えたくなるような土地柄だったようです。神社名の柳里もそうしたことから付けられたのかも知れません、今はその柳の樹は見かけません。柳里神社の呼称は「やなぎさと」や「りゅうり」などさまざまですが、ここでは「りゅうり」としておきます。柳街道沿いで三方をビル囲まれ、良くある街中の神社の佇まい。街道沿いの歩道を歩くと両脇を壁のようにビルが連なる一画に、玉垣と白鷹龍神の白い幟がはためく柳里神社が現れます。鳥居は少し奥に立てられているので目印はこの幟旗だろう。歩道から境内の眺め。右手に「柳里神社」の社標と常夜灯、鳥居と続き、左側に白鷹龍神の覆屋があり、手水鉢は本殿右側にあります。「柳里神社」の社標はセメントで塗り潰された痕跡もなく、常夜灯も比較的新しいものです。愛知県神社庁で柳里神社・白鷹龍神を検索するが属していないようで情報は得られなかった。どちらも大正4年(1915)とあるので無格社という事か。境内左の白鷹龍神覆屋と右に小さな祠が祀られています。板宮造りの社は社名札はないが恐らく白鷹龍神の本殿なのだろう。左右の祠其々に座布団が敷かれ、中に石像が安置されています。左の祠の石像。嫌な予感はしたが、やはり蛇。とぐろを巻き、鎌首をもたげこちらを睨んでいる。右の祠にも蛇らしき石像。とぐろの部分は蛇のウロコの様に表面が劣化、頭部に耳らしき突起があるも、もはや蛇なのか龍なのかイメージすらできない。これらの像が重軽石なのか、撫でるものなのか作法は分からない。白鷹龍神の謂れはよく分からなかったが、低地で湿地帯が多く、田んぼの広がっていた土地柄を考えると、水や天候を司る龍や蛇が祀られても違和感はない。事実、江川線沿いに鎮座する白龍神社や堀川左岸の須崎神社には白龍龍寿大神が祀られるなど、龍神の多いところかもしれない。五行説に於て白龍は西方を守護し、金運や仕事運、縁結びなどの御利益があるとされ、ビジネス街に鎮座する白鷹龍神に訪れる地元の方は多い。本殿域全景。背後と左右はビルの壁が迫り、小さな社地のこの一画の上だけが抜けている。右側に澄んだ水が張られた手水鉢、柄杓も置かれています。本殿全景。コンクリートジャングルの中にあって、本殿域には貴重とも思える緑の樹々が杜を形造り、境内は表通りに比べると体感温度も幾分低く感じる。小さな体で精一杯大きく口を開けている本殿域の狛犬。寄進年など見る事は出来なかったが、子犬の様にムチムチした体をしています。本殿と常夜灯。祭神は須佐之男命、火之迦具土神とされ、神明造の棟には6本の鰹木と内削ぎの千木が施されています。偶数の鰹木と水平カットの千木は女神と云われるがどうなんでしょう。左の常夜灯は随分古そうで、竿には「柳野天王〇」と刻まれており、嘗ては牛頭天王として祀っていた?創建時期や由緒が定かでなく、創建時からこの柳街道に祀られていたものか、明治以降の変貌著しい鉄道整備に伴い遷座したのか不明。ヒントは竿の裏側に刻まれているかもしれません。こぢんまりとした柳里神社の本殿域から上を見上げれば、コンクリートジャングルの隙間に空が広がる。本殿域から社頭の柳街道の眺め。忙しない街中の喧騒から逃れ境内に立ち入れば、そこにはゆっくり時を刻む特別な空間がある。柳里神社・白鷹龍神創建 / 不明祭神 / 須佐之男命、火之迦具土神所在地 / 名古屋市中村区名駅南1-24参拝日 / 2023/04/27関連記事 / ・迦具土神社・豊光稲荷大明神 (名駅付近の神社巡り) ・洲崎神社
2023.05.17
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岐阜県土岐市鶴里町鎮座南宮神社。国道脇363号線沿いに石鳥居を構え、参道は杉林の中に続いています。社頭前に駐車余地があるので駐車場に困る事はないかも知れない。国道と沿う様にかつての中馬街道が続き、名古屋から瀬戸を経て柿野、細野、曽木を経て飯田に至る街道があり、江戸時代に山間の農民が自家産物を馬に背負わせ山を下り、その帰りに塩などを積んで帰る駄賃馬稼ぎの習慣が生まれ、信州一円で行われていました。国道363号線を走っていると、道端に祀られた馬頭観音や石仏などの姿を見かけます。社頭全景。石の明神鳥居を構え、右に「南宮神社」社標、左に手水舎がありそこから先は上に向けて石段が伸びている。社頭正面、少し行けば社殿だろうと勝手に思い込み、石段を上り始める。鳥居の額は南宮社と刻まれているが、風化も進み読み取り難いけれど、鳥居の柱には大正8年(1919)と刻まれています。手水舎全景。湧水が導かれているのか、澄んだ清水が絶え間なく注がれていた。4月だというのに温かいを通り超して暑いと感じる陽気、清水の冷たさが心地よく感じた。広葉樹と杉に包まれた参道の石段は、氏子により2003年に整備されたもので、勾配はさほどでもなく、手摺も整備されておりありがたい。すぐに社殿は見えてくるものと思っていたが意外に道のりは遠い。幾つかの石段を上ると、その先は林間に参道が続く。前方を見渡しても社殿の姿はなく、これは奥が深そう、かみさんに怒られるパターンだ。木漏れ日が入る明るい杜の中からウグイスの鳴き声も聞こえ、解放感のあるなだらかな参道です。やがて右手に石段が現れ、それを上れば社殿がある。南宮神社社殿全景。大きな杉の杜に包まれた神秘的な雰囲気の境内は、拝殿とその先の覆殿が一体となったもので、雪深い土地柄なのが伝わってくる。南宮神社の詳細は調べきれなかったが、岐阜県神社庁の一覧に社殿の写真と共に以下の記載があった。「 主祭神 金山毘古神、祭礼日 10月初旬、創祀・縁由不明、摂末社祭神 空欄」情報が乏しいと捉えるか、これだけでも有難いと取らえるか人其々。どこぞの県の神社庁に比べれば、よっぽど把握に努めている。境内の常夜灯の竿には、識別しにくいですが明治12年(1879)と刻まれています。これが現地で見た一番古い寄進物になる。拝殿とその前を守護する狛犬。この狛犬の寄進年は未確認ですが、風貌から燈籠の寄進年と同時期かと。拝殿から幣殿、本殿。土岐市やお隣多治見、瑞浪の主要産業を支えるのが窯業・土石製品という事もあるのか、祭神は鉱山の神様金山毘古神を祀る。本殿の造りまでは分からないが、陶製の小さな角を持つ狛犬の姿が見える。頻繁に崇敬者が訪れているようで、山の中にある神社としてはとても綺麗に手入れされているのが印象に残る。拝殿左から覆殿方向の眺め。手前に石の社が祀られています。拝殿右手側は見ていませんが、こうした社が右にも祀られているのかもしれません。境内社。石の社の正面に社名が刻まれているようですが全文読み取れず不明としておきます。結局境内に由緒らしきものはなく、詳細は分からないままですが、燈籠の寄進年が明治12年である事や中馬街道も近い事から創建は江戸時代に遡るかもしれません。石段から社頭の眺め。創建や由緒等分からない事ばかりですが、杜の中に続く整備された参道や、手入れされた境内・拝殿など見る限り、この地に住む人々の生活と神社は今も密な関係にあるようです。蜜な関係?南宮神社創建 / 不明祭神 / 金山毘古神境内社 / 不明社所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野2829車移動 / 名古屋市役所から東へ約80分参拝日 /2023/04/11関連記事 / 春の岐阜ドライブ日記 (山菜料理・神社・世界最大美濃焼こま犬・日本最大の水車・ダム見学)
2023.05.16
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厳島神社の参拝を終え、出口から右手方向に向かい、松並木と石灯籠が続く西松原を清盛神社に向かいます。赤丸部分が清盛神社なります。この一帯は砂が堆積した岬の様になっていて、波打ち際から望む海に浮かぶ大鳥居の眺めは絶景です。清盛神社はこの西の松原の先になります。西灯籠の左手は細い流れの御手洗川が流れており、この川で清めをしていたのかもしれない。西の松原から見る大鳥居と宮島桟橋の眺め。参道をしばらく歩いて行くと清盛神社の赤い社殿が見えてくる。現在の厳島神社を形作った平清盛をお祀りする神社なので、ここは参拝しておくべきところだろう。社地は周囲に瑞垣を廻らし、朱の鳥居とその先に檜皮葺流造の本殿が建てられている。社殿は随分新しく綺麗なものです。清盛神社全景。厳島神社は参拝者で溢れていますが、清盛神社まで訪れる参拝者は少ないようです。鳥居右の清盛神社由緒。「御祭神 平清盛公例祭日 3月20日御由緒平清盛公の没後770年を期に、御遺徳を顕彰しようとの気運が高まり昭和29年(1954)に創建された。」とあります、どおりで綺麗なわけです。島内に厳島神社の摂社三翁神社が鎮座していますが、そちらから分祀創建されたのが清盛神社です。「平氏にあらずんば人にあらず」、あまりいい印象を持たれない清盛ですが、この地方に於ては音頭の瀬戸を始めとした航路や港の整備などに貢献し、清盛の印象は変わり、寝殿造りの厳島神社の基礎を築いたのも清盛の功績なのかもしれません。社殿後方の眺め。厳島神社参拝のあとは、清盛神社まで少し足を伸ばして見るのも良いかもしれません。厳島神社境外末社「清盛神社」創建 / 昭和29年(1954)祭神 / 平清盛例祭日 / 3月20日所在地 / 広島県廿日市市宮島町28-1参拝日 / 2023/03/03関連記事 / 安芸国一之宮 『厳島神社』
2023.05.13
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愛岐トンネル群。春日井市と岐阜県多治見市間にある旧国鉄中央線の廃線跡で国登録文化財「愛岐トンネル群」に指定されています。明治33年(1900)国鉄中央(西線)として、名古屋から多治見間が開通し、日本の近代化から高度成長期を支えてきました。やがてSLによる単線の輸送は、日本の高度成長に追いつかず、新たに複線の電化されたJR中央線として開業を始めると昭和41年(1966)に廃線となり、その後はその存在自体忘れ去られていきました。平成17年(2005)に古老の記憶からトンネルの探索が行われ、土岐川沿いの藪の中に埋もれたトンネル群を発見、保全・解放されるまでになったもの。愛岐トンネルの建築に際しては難関があり、トンネル崩落や土砂の崩落、幾多の犠牲者を伴いながら近代化を歩み始めた当時の智恵と技術が注ぎこまれ完成を見たもの。玉野第四隧道。両サイドの壁柱や壁面、綺麗な曲線を描く迫石など、赤レンガを使用したもので、近代工法のトンネルにはない造形美と温もりがある。年二回、期間限定で一般公開されています。今回は愛岐トンネル群散策で見かけた「山の神とんがり岩と護り稚児地蔵」を取り上げます。玉野第四隧道解説。土岐川右岸の散策路入口から二つ目のトンネルで通称4号トンネル。山の神とんがり岩は4号トンネルを出た左の山肌にあります。山の神とんがり岩全景。土岐川右岸の岩肌に注連縄が巻かれた巨岩が聳え立ち、その下に素木鳥居が立てられています。左手からとんがり岩の直下に続く小路が作られており、間近で拝めるようです。遊歩道脇にも鳥居と解説板が設置されています。解説は以下。「“山の神”(とんがり岩)山の神は女性(女神)だと云われます。そのため昔は女性がトンネルに入ると女神が嫉妬して山が崩れるといわれ、女人禁制でした。またトンネル工事などで、作業員の妻が出産した時は、女神の嫉妬を恐れ一週間坑内に入らないという決まりもありました。正面のトンガリ岩を見あげると女神さまのお姿に観えませんか。周囲のトンネル群を見渡せる高台にあり、まるでトンネル通行の安全を祈って いるようです。ちなみに俗称・山の神とは、結婚後「ヤカマシクなった妻」のこと。特に怖い奥さんのことを「山の神が怒る!」と言います。「山の神」が短縮されて“カミさん”になったという説も・・・・。また、トンネルの山の神は、トンネル工事が無事貫通したことから“難関突破” ”初心貫徹”の意味につながり「合格祈願」にもなります。きっと拝んで損はありません!特例*箱根駅伝 山登り5区の “山の神” は男性である」女神の全景。山の神は多くの場合、男神なら大山祇命、女神の場合は木花咲耶姫をさす事が多く、この女神はやきもち焼きで、解説にある坑内女人禁制や産後の一週間…のくだりはこうした業界では知られた話の様です。今では草食男子に変わり女性技術者が多様な業種に活躍し、そんな縁起を担ぐことはないようです。「怖い奥さんをかみさんと言う」については全くその通り、女神は一旦怒らせると大魔神になり、一旦噴火するとしばらくは鎮まらない、息をひそめ少し離れて時の経過を待つしかない。護り稚児地蔵は4号トンネルを過ぎ、次の隠山第一隧道(通称5号トンネル)の入口右に安置されています。入口右の隠山第一隧道解説。玉野第四隧道と隠山第一隧道では右の壁柱から斜めにウイングと呼ばれる壁が作られているのが特徴で、山側の圧力を分散する地形に合わせた技法なのだろう。護り稚児地蔵はこのウイングに寄り添うように安置されています。護り稚児地蔵全景。赤レンガで小さな祠が作られ、赤い前掛けが付けられた小さな地蔵が安置されています。愛岐トンネル群の調査・整備中に付近の土中から少女形の地蔵が発見され、護り稚児地蔵として安置されたもので、祠に使われている赤レンガは明治期のものを用いて建てられています。「護り稚児地蔵トンネル群調査・整備活動中にこの近くの土中からモルタル製の少女のレリーフが彫られた「稚児地蔵」を発見しました。右側は「昭●二七●十二」の文字、左側の文字は「鈴木 仲二郎?」と読めます。どなた何方かのご供養か? どんな経緯で作られたものか定かではありませんが、「トンネルと廃線敷」一帯の安全と「豊かな渓谷の自然」が永久に続きますようにと願いを込めて、廃線跡から集めた明治の赤レンガで祠を作り安置させていただきました。 合掌平成22年5月 愛岐トンネル群保存再生委員会」銘が刻まれているとありますが、前掛けで隠れている事もあり、自分にはそれらしき文字は見当たらず、像の表情も伺い知れない状態でした。こうした思いの込められた地蔵や古い建造物が打ち捨てられ撤去されていく中で、トンネル保存整備中の偶然とはいえ、再び安置された事はトンネル保存会の思いも現れているようでもある。トンネル群を訪れる機会は年二回と限定されますが、トンネルを形作るレンガの造形美の他にも、こうした小さな見所もあります。愛岐トンネル散策路 「山の神とんがり岩と護り稚児地蔵」所在地 / 春日井市玉野町公共交通機関アクセスのみ / JR中央線定光寺駅から入口まで徒歩3分。訪問日 / 2023/04/28関連記事 / 新緑輝く旧国鉄中央線廃線愛岐トンネル群へ
2023.05.12
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相野山 八幡神社。3月7日、岩崎御嶽山を訪れた際の帰り道に相野山の八幡神社に立ち寄った。東名高速日進JCTから南東方向へ約1㌖程、周囲は農地が広がる相野山に鎮座します。高速の先に見える小高い山が岩崎御嶽神社が鎮座する御嶽山。車なら10分程の位置になります。JCTの建設以前は緑豊かな田園地帯の趣がありました。随分すっきり造成され、あと何年かすればこちらにも住宅の波は押し寄せてくるのだろう。相野山八幡神社社叢全景。この陽気につられ、土筆が頭を出している姿も見られるかと思いましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。相野山八幡神社社頭。社叢南側に石の明神鳥居を構えた社頭があり、右側に「村社 八幡神社」の社号標が立っています。「出没注意」だそうだ。社頭から境内へは舗装された緩やかな参道伸びており、その先に僅かばかり石段がある。参道の先に社殿が見えて…であればいいけれど、ここからでは見通せません。やがて視界は広がり、その先に「イノシシが」だけは勘弁してもらいたい。名古屋市内でも奴らは出没するだけに、農地の広がるこの一帯にいない訳がない。石段まで来ると社殿が見えてきます。広い境内の奥側に広範囲に石垣が積まれ、その上に社殿が建つ。社叢の西側から車道があり手前の境内に駐車できるようです。境内全景。視界は広がり、広い境内の正面に社殿が見える。周囲をしっかり見渡す、幸いにも「イノシシ」の姿はない。里山の頂の森を切り開き広大な境内が作られており、社殿域を囲う玉垣は広範囲迄取り囲んでいます。由緒によれば、この地の始まりは慶安元年(1652)、北新田開墾のため三河各地から来た9軒の入植者により開かれた。入住から10年後の明暦3年(1657)、須賀郡寺部より八幡宮を勧請したのが始まりで、岩藤新田も氏子となり両新田の氏神として現在に至る。明治5年(1872)に村社に列格。昭和37年(1962)に境内北の現在地に社殿を遷し今日に至るようです。往古は例祭で馬塔、棒の手を奉納していたようで、広い境内はそうした事もあるのだろう。祭神は応神天皇をお祀りする。境内左の手水鉢。社殿はこの石段の先に広がり、瓦葺妻切りの拝殿に幣殿が連なり、その先の流造の本殿が主な建物。拝殿左に一本の桧が真っすぐに聳えているのが印象的。拝殿全景。木造拝殿は四方吹き抜けですが、妻側以外は腰壁で囲まれている事もあり安定感を感じる。手前に狛犬が安置され、台座に寄進年も刻まれているようでしたが読み取れなかった。本殿左側に境内社が纏められていました。由緒御祭神 応神天皇例祭日 10月10日慶安元年(1648)、三河各地より9軒の人々ここに入植し北新田の成立をみる。うち4軒は来主渡辺氏の本拠たる三州賀茂郡寺部よりの転住者たりしため、入住10年の明暦3年(1657)9月、寺部の八幡宮をここに勧請、岩藤新田も氏子となり、当神社を両新田の氏神として今日に至る。往昔は例祭に馬塔・棒の手を奉納す。明治5年(1872)7月、村社に列格す。昭和57年(1982)10月、社殿を少しく北方に遷し、祝詞殿、玉垣を新設せり。境内左手の手水鉢。拝殿前の狛犬。妻飾りに八の文字が刻まれていますが、鬼や軒丸などの瓦に紋は見られなかった。拝殿から幣殿、本殿の眺め。参拝を済ませ境内東から社殿側面を眺める。本殿は檜皮葺きの一間社流造。境内左に纏められた境内社。上津島社。下左が鍬神社、右が熱田社。境内社後方から社殿全景。広々とした郊外の神社は陽射しは降り注ぎ、風が心地よく通り抜け解放感があり、いつ来てもいいものです。相野山 八幡神社創建 / 明暦3年(1657)祭神 / 応神天皇例祭日 / 10月10日境内社 / 鍬神社、津島社、熱田社所在地 / 日進市北新町相野山1286岩崎御嶽社から八幡神社車移動 / 東へ10分程参拝日 / 2023/03/07関連記事 / 岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社
2023.05.11
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地御前駅に戻り、ここから終着駅である宮島口駅に向かいます。厳島神社の表玄関だけに、途中の駅舎に比べて非常にお洒落な駅舎です。駅を降りれば目の前が宮島に渡るフェリー乗り場で、JR宮島フェリーに乗ることをお勧めします。乗船する際は右舷側をお勧めします。宮島口から宮島フェリーは目の前、そこから宮島まではフェリーで10分程。このJR宮島フェリーは、行きの途中に厳島神社の鳥居の近くを通過してくれるので、右舷側で待っていれば修復を終え海に浮かぶ両部鳥居と社殿を一枚に収めることができます。宮島港桟橋。宮島(厳島)を訪れる観光客は年間300万人を超える、その多くがこのフェリーで訪れます。宮島桟橋広場。宮島や厳島と呼ばれる神の島ですがどちらも同じ島を指していますが、国土地理院の定める正式名称は「厳島」です。厳島の由来はいくつかあるようで、ひとつに祭神の市杵島姫命の「いちきしま」から厳島(いつくしま)に転じたとされ、戦乱の時代が終わった江戸時代頃から厳島神社(お宮)のある島から、宮島と呼ばれるようになったとようです。これ以降は通称の宮島として記載します。宮島桟橋広場に出ると、神の使いとされる鹿が出迎えてくれます。もともと陸続きだった頃から宮島に生息していた野生の鹿で、禁足地だった頃から神の使いとして見守られてきたこともあり、人を恐れませんが飼いならされたものではありません。人が接し方を間違え、それによるトラブルが結構起きていると聞きます。昼寝の邪魔をしない方がいい。宮島は島全体が神、観光の中心は厳島神社になりますが、弥山を含め奥宮や奥之院、さらに海岸に点在する神社「宮島七浦巡り」などがあり、とても一日で巡ることは出来ません。今回は厳島神社とその周辺の寺社を中心に巡る事にしましたが、機会があればテントを張ってのんびり巡りたいもの。厳島神社が鎮座する宮島は日本三景の一つで、世界遺産にも指定される景勝地です。島全体が崇敬対象で往古は禁足地とされていた。御神体の宮島は、島の北東に聳える弥山を含め15%ほどが世界遺産に指定されていますが、海を含むその他は緩衝地帯として管理されています。宮島には厳島神社以外に、弘法大師が護摩修業した1200年前から「消えずの火」として受け継がれて来た不消霊火堂など多くの寺社が鎮座し、神仏習合の名残を留めています。フェリー乗船中の観光ガイドでこの島にないものとして三つ紹介されていました。一つは島内に一基も墓は建てられていません、同じ理由から出産も本土ですることが受け継がれています。二つ目は島内に信号がない。三つ目に島内にはコンビニがない。今回は厳島神社周辺を歩いただけで、宮島ロープウエイ方向まで廻れませんでしたが、確かに上の三つは目にしなかった。一ノ鳥居と狛犬。波打ち際の松並木が続く参道にある石造の明神鳥居で、一対の大きな狛犬が出迎えます。青銅狛犬。大正8年(1919)の寄進で、角付きの吽形と阿形は笑っているような。厳島神社の象徴といっても過言ではない海に浮かぶ大鳥居、2019年から修復が始まり、昨年修復が終了しましたばかりで現在のもので9代目と云われます。鮮やかな朱色の両部鳥居は干潮時には間近で見ることができ多くの人で賑わいます。やはり海に浮かぶ姿が一番。干潮を迎える厳島神社社殿。大半の建造物は国宝または重要文化財に指定されています。青銅狛犬の次がこの石造狛犬。主な伽藍は、入口側から客神社本殿、東廻廊、本社社殿、祓殿、高舞台、左右の客神社、西廻廊を経て天神社、大國神社、能舞台と続き、一番人が集中する場所でもあります。国宝厳島神社東廻廊入口。どこでもそうだろうが、陽も高々とあがってからでは人の映り込みは避けられません。拝観は6時30から出来るのでその時間なら本来の姿が見られるだろう。東廻廊から見る客(まろうど)神社。東廻廊。人波が途切れる事はありません。廻廊右の飛び出した部分は客神社の祓殿。客神社拝殿から見る幣殿、本殿。厳島神社最大の摂社で本殿、幣殿、拝殿、祓殿とあり、祭神は天忍穂耳命、活津彦根命、天穂日命、天津彦根命、熊野櫞樟日命の五男神が祀られています。本社拝殿から見る客神社と東廻廊。平清盛の厚い庇護を受け建てられ、鎌倉時代の仁治2年(1241)に再建されもので、本殿は前後に長い庇を持つ両流造で檜皮葺き。手前の祓殿の廻廊に付けられた白い波よけ板、正面の二間だけが付けられていないのは、往古の儀式などでここから海側へ昇降できるように配慮したものと言う。厳島神社には地御前社で少し記載した管弦祭や舟で海に団子を供えた藁船を浮かべ、烏がそれを食べに来れば吉兆と占う伝統神事「御島巡り」など舟を用いた祭礼が幾つもあり、そうした事もあるのかも知れない。後方に聳えるのは厳島神社・五重塔と左は豊国神社千畳閣。高舞台の左右を守護する青銅製の狛犬。寄進年は未確認ですが、個性的な尾と鬣を持つ風格のあるもの。高舞台から本社祓殿。厳島神社の創建は伝承では推古天皇元年(593)とされますが、定かではないようです。現在の海に浮かぶ社殿の原形は平清盛により築かれたとされます。祓殿の前に一段高い高舞台が設けられています、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄を廻らし前後に階段がつけられた舞台で、平清盛が大阪・四天王寺から移したという舞楽が演じられ、現在の舞台は、天文15年(1546)棚守房顕によりつくられたもので、国宝に指定されています。この日は挙式も行われ、居合わせた国内・海外から訪れた観光客からも祝福を受けていました。その光景を見てカナダバンフの片田舎にある教会で、二人だけで挙げた結婚式の様子が蘇ってきた。あの時も現地の人から祝福を受けたものだ。右門客神社と鳥居。高舞台から見て右の神社で切妻檜皮葺の覆屋内に流造の社殿がある。祭神は櫛磐窓神を祀る。両部鳥居。平舞台の沖に建てられた鳥居で、補修を受け色鮮やかに海に聳えている。鳥居の島木と笠木の内部は空洞で、内部に石が詰め込まれ、その自重で自立し、風や波の影響から耐えるようになっている。往古の鳥居は両部鳥居ではなく明神鳥居だったようで、両部鳥居に変えられたのは天文16年(1547)に再建された際からだといわれます。左門客神社と青銅製の灯籠。高舞台から見て左の神社で右門客神社同様の造り。祭神は豊磐窓神を祀る。客神社の脇に高舞台で舞が行われる時に使用される楽房がありますが、人の映り込みも多く掲載は見送りましたが、これも国宝です。高舞台から海に伸びる火焼前先端は、燈籠と鳥居を入れ撮影する映えスポットのようで、長い列は途切れない。三つの燈籠は寄進年がそれぞれ違いますが、いずれも細かな意匠が施されています。ここは左門客神社の青銅製の灯籠と鳥居を入れて一枚。祓殿、拝殿、幣殿の全景。平舞台から能舞台(左)と楽屋が見える。楽屋右奥の山の上に足場が聳えているのが多宝塔で現在修復作業中でした。本社拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。神紋は三つ盛り二重亀甲に剣花菱。なにを買って帰ろうかねぇ。大国神社。鎮座年代は不明、天文6年(1537)の記録に記述があるようで、祭神は大国主命で相殿神に保食神をお祀りする。由緒によれば本社にお供えする前に、ここに一旦安置した後に本社にお供えされたという。檜皮葺き両流造の本社。西廻廊から見る天神社と反橋。西廻廊から能舞台の眺め。慶長10年(1605)の建立とされ、延宝8年(1680)にも再建され、現在のものは1991年の台風19号で倒壊、平成9年(1944)に再建された切妻檜皮葺のもので、鏡板に描かれている松もその際に描かれたもの。全長24㍍、幅4㍍の反橋で、こうして見ると緩やかな曲線を描いています。橋脚部分は黒漆、高欄は丹塗りのコントラストの効いた橋ですが干潮時は今一つ趣がないか。往古は天皇の勅使しか渡る事が許されなかった事から勅使橋と呼ばれたそうです。廻廊から入口を見ると壁のように見え、とても渡れたものではない。高欄の擬宝珠には銘が残され、現存する橋は弘治3年(1557)に毛利隆元、元就父子により再建されたもの。潮もすっかり引いて地上に現れた社殿全景。潮が引いても燈籠の前の順番を待つ長い列は途切れることはないようです。上豊国神社千畳閣。名の通り、豊臣秀吉が千部経を読誦するために天正15年(1587)に発願、建立した入母屋瓦葺の大経堂で未完成のまま現在に至っています。廃仏毀釈により明治5年(1872)、神となった豊臣秀吉、加藤清正を祀る厳島神社の末社豊国神社に改められ現在に至るようです。堂内には大きなしゃもじが安置されていますが、しゃもじは御飯をすくい取る事から勝利をすくいとる縁起物として奉納されるようになったとか。下五重塔。室町時代の応永14年(1407)の創建で、千畳閣の境内に聳えています。もとは大聖院の子院(金剛院)の五重塔でしたが、廃仏毀釈にともない、厳島神社に附属する塔となりました。厳島神社のシンボル朱の大鳥居。平安時代から数えて9代目の現在の鳥居は、明治8年(1875)に再建され、修復を終えたばかり。鳥居の額は海側は「厳島神社」、本社側は「伊都岐嶋神社」と書かれています。間近に見るより海に浮かぶ姿が一番趣がある。鳥居は人が取り囲んでいますが、意外にこうして社殿を眺める人は少ないようです。こうして見ると客神社の脇の楽房や三つの燈籠も一望する事が出来る。「あのおやじ邪魔」なんて声が聞こえてきそうだ。次回訪れる際は腰を据えて海岸線に鎮座する宮島七浦巡りだけを訪ねたいものです、そこならさすがに人は少ない気もする。安芸国一之宮 厳島神社創建 / 推古天皇元年(593)祭神 / 市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命境内社 / 客神社、右門客神社、左門客神社、大国神社、天神社所在地 / 広島県廿日市市宮島町1-1参拝日 / 2023/03/03関連記事 / ・地御前神社・地御前・大蔵神社・智秀山西向寺・金光(きんこう)稲荷神社・広島東照宮・安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り 広島Day2
2023.05.10
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巨大な二つのビルが聳え立つ名古屋の玄関口名古屋駅、今も次々とビルの建設が進み、更に拍車をかける様にリニア建設に伴う工事が着々と進み、名古屋駅は益々変貌を遂げようとしています。迦具土神社・豊光稲荷大明神は、桜通り東口から徒歩2~3分程のビルの谷間にひっそりと鎮座しています。上の矢印が鎮座地。左が1898年の頃で、現在の名古屋駅から200㍍ほど南に名護屋駅として開設された頃で、これから急速に変貌しようとしていた時期。右がほぼ現在の地図、どちらにも鳥居の印は記されていません。出張帰りに一杯ひっかけるため、神社付近は何度か前を通りがかっていますが、日中に訪れるのは今回が初めてで、迦具土神社・豊光稲荷大明神の創建や謂れは分からなかった。迦具土神社(左)・豊光稲荷大明神(右)の社頭全景。ビルの谷間の僅かな一画に社頭を構え、神社を取り囲むように無数の自転車が置かれているのが印象に残る。名駅の店舗やビル群が聳え立つ一画にあって、小さな神社の社地が今も与えられているのが奇跡的とも思える。殺風景なビルに取り囲まれた小さな境内には、場違いと思える立派な御神木が聳え、社頭の神明鳥居と二棟の瓦葺の建物があり、この一画だけは時が止まったままのようです。神社側面の眺め。左の切妻の建物が迦具土神社の鞘殿。右の片流れの建物が豊光稲荷大明神社の覆屋で、その前に幾つかの奉納鳥居が連なっているのが分かります。左に迦具土神社社標、鳥居右の柱脇に小さな手水鉢がありますが、自転車が玉垣のように取り囲みよく見て取れなかった。鞘堂の鬼や軒丸瓦に神紋は見られなかった。こうした街中の神社は、背面に無機質なビルの壁が聳える光景がつきものですが、1本の御神木の緑があるだけで随分と印象は変わって見える。鳥居をくぐると目の前に賽銭箱と拝所が迫る。貫に御即位記念と彫られており、寄進年は大正4年(1915)とあります。大正天皇即位礼に合わせ寄進されものですが、これを持って創建時期とするには無理がありそうです。鳥居の下から迦具土神社に参拝。右の稲荷に進むが、赤い鳥居の入口には引き戸が付けられ、そこに開けられた小窓から賽銭を投げ入れ参拝するのが作法のようで、引き戸から覆屋へは進めない造りになっています。小さな神社の手水石は、ビルの森に住む鳥たちにとって絶好の水浴び場になっているようだ。変貌を続ける一帯で行き交う人は多いものの、誰からも見向きもされないのが寂しい感じがする。この一画が自転車に飲み込まれず、残っていければいいのだろうが。迦具土神社創建 / 不明祭神 / 加具土命豊光稲荷大明神創建 / 不明祭神 / 宇迦之御魂大神所在地 / 名古屋市中村区名駅2-42-5名古屋駅から徒歩 / 1番出口から北東へ2分程参拝日 / 2023/04/27
2023.05.07
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相模國一之宮寒川神社。訪れたのは2023/01/18、新たな年を迎えて間もない頃の事。疫病との付き合い方も分かり、まもなく海外から多くの観光客が訪れ、賑わう前に訪れておく場所のひとつとして、一泊二日で神奈川の一之宮巡りに訪れました。ここ相模國一之宮寒川神社でそれも終わりを迎える。そんな時期なので冬枯れた景色ばかりで彩りには乏しいかもしれない。上鎌倉から寒川神社へは江ノ電とJRを乗り継いで寒川駅で降車しました。寒川神社の最寄り駅は宮山駅になるかと思いますが、一駅前で降りて線路沿いを10分程歩いた踏切の先に立つ一ノ鳥居と社標から訪れる事にした。なんだぁ、意外に駅から近いじゃないかと内心喜ぶも、一ノ鳥居から松並木に挟まれた参道から遥か先を眺めても社頭らしき姿が見えない。寒川神社一ノ鳥居は相模川の左岸沿いに流れる目久尻川の左岸に位置し、昭和4年(1929)に寄進されたもの。下鳥居から10分程進んだだろうか、ようやくニノ大鳥居が現れる。その先になんとなく社頭らしき姿も見て取れる。実に長い参道、この鳥居を過ぎたあたりから社頭方向に向かう車が渋滞を始めた。この鳥居は、明治5年(1872)に老朽化し撤去され昭和41年(1966)に再建されたコンクリート製で、高さは16㍍もあり関東最大の鳥居とされます。上寒川町そのものが初めて訪れましたが、寒川の名物はどうやらこの水仙なのかも知れない。下ニノ鳥居から5分程で漸く神橋の先に三ノ鳥居が現れる。渋滞は社頭まで続き、その大半は寒川神社へ参拝に向かう車が大半のようで、社頭前の寒川神社前交差点は写真のように流れが滞っていた。当日は平日、特に祭礼日でもないが凄い列だ、さすがに相模之国一之宮という事か。神池に架かる神橋と噴水の先に銅像があり相模薪能石橋の銘があった。境内の由緒。内容は以下。「祭神 寒川比古命、寒川比女命の二柱の神を奉称して、寒川大明神という。例祭日 9月20日(9月19日例祭宵宮祭・流鏑馬神事) 当神社は日本総国風土記によれば、雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録が残る。神亀4年(727)社殿建立と伝わり、1600年以上の歴史を有す。以後、延暦16年(797)桓武天皇を始め、歴代奉幣の記録が残る。承和13年(846)に神階従五位下を始めとする神階授与がなされています。醍醐天皇の御代に制定された延喜式神名帳に相模国十三社の内、名神大社と定められ関東地方の信仰の中心をなす。中世、源頼朝、小田原北条氏累代による社殿造営、社領の寄進等あり、武田信玄からは武運長久を祈願し兜が奉納されるなど崇敬が篤く、徳川家代々においても社殿再建、社領の寄進など古来より武家からの崇敬の念は篤いものがあった。明治四年国費から幣帛料が奉納される国幣中社に列せられた。その後、大正時代の関東大震災、昭和の大東亜戦争終戦後、昭和21年神道指令により、神社の国家管理を廃され神社本庁の包括神社となる。戦後日本全体の復興とともに八方除信仰を中心として全国の崇敬者から崇敬、参拝されている。平成9年本殿、幣殿、拝殿、翼殿、廻廊等の増改築が行われる。神聖なる神嶽山を背に約1万5千坪を有し、平成21年に本殿奥庭の禁足地を「神嶽山神苑」とて開苑。」参道右側に古い鳥居の笠木と柱が置かれ、そこに鳥居の解説があった。それによれば寛政8年(1796)に寄進された一ノ鳥居で、安政2年(1855)の江戸大地震、大正12年(1923)の関東大震災と二度倒壊した明神鳥居だという事で、現在の一ノ鳥居に比べひと回りも二回りも小さなもの。人で溢れる参道を先に進み楼門の左に写真の大きな手水舎がある。寒川神社楼門全景とその前を守護する狛犬。筋骨隆々としたその姿は角を持ち、顔つきも勇ましいものがある。上楼門左の神馬舎。内部には神馬と手綱を引く木彫りの猿の像が安置されています。下楼門右の授与所。初詣もあるのだろう、祈願を希望する多くの参拝者の列が伸びていた。寒川神社楼門。平成5年(1993)に竣功した入母屋銅葺屋根の見るからに新しい門。この神社では毎年楼門に「迎春干支ねぶた」を掲げ、参拝者を迎えるのが慣例だされます。今年は国家安泰、五穀豊穣の神「瓊瓊杵尊」(左)と、安産の神「木花咲耶姫」(右)、中央に木花咲耶姫の子「火遠理命」のねぶたが架けられ、夜には明りが入り、このねぶたを楽しみに訪れる参拝客も多いと云う。日没から22時まで毎日灯され2月23日まで飾られるようで、どうやらこの楼門は陽が落ちてからが見応えがありそうです。楼門から社殿の眺め。寒川神社の正確な創祀年代は定かではなく、記録として残るものは以下の様です。・雄略天皇(456~479)の御代に奉幣。・神亀4年(727)社殿建立の記録。このことから少なくとも約1600年の歴史を誇る神社のようです。延長5年(927)に編纂された「延喜式」の相模國十三社(寒川神社、川勾神社、比々多神社、前鳥神社、寒田神社、高部屋神社、大山阿夫利神社、小野神社、有鹿神社、石楯尾神社、宇都母知神社、大庭神社、深見神社)のうち、唯一の名神大社とされています。祭神は寒川比古命と寒川比女命のニ柱で寒川大明神と奉称され、寒川大明神は相模國を中心に広く関東地方を開拓、衣食住などの根源を開発指導、関東地方文化の生みの親として敬仰される。現在の社殿は、大正時代から昭和にかけて竣工されたものが多く、神橋なども同時期に整備されたようです。この拝殿は東西に翼殿を連ねたもので平成9年(1997)に竣功されたようです。なので趣のある古い建造物は皆無と云っても良く、整備された荘厳な社殿です。拝殿とその奥に見えているのが本殿の大棟だろう、本殿や幣殿は神嶽山の社叢が包み込み全体は見通せなかった。拝殿唐破風と拝殿内のねぶた。一説には200人同時に祈祷できる広さがあるという。それくらいでなければあの長蛇の列はさばききれないだろう。あれで普段の平日なんだという。寒川神社は、相模國一之宮と称され、全国唯一の八方除の守護神として約1600年の歴史を持つ神社です。古くは朝廷をはじめ、源頼朝、武田信玄、徳川家代々、さらには民間と幅広く崇敬された。神社HPによると「拝殿の右側に配置された渾天儀のレプリカは、本来天体の位置・星等を観測する器具です。特に星の運行は、人々に方角を教えてくれるばかりではなく、国家の命運をもにぎると昔から考えられてきました。そのため、天体観測により暦が作られ、さらに暦によって日々の吉凶が占われたのです。寒川神社の渾天儀には、龍は天空を支えるという故事にならい四隅に龍が配置されています。」とあります。現在は八方除の神徳を戴くため全国各地から崇敬者が集まります。社頭の駐車場の空きを待つ長い車列、境内に入れば今度は授与所の前で長い列、さすが相模國一之宮。拝殿から楼門方向の眺め。本殿裏手に末社の御祖神社が鎮座するようですが、入口が見当たらず参拝は諦める。南門とその前を守護する狛犬。楼門前の狛犬に比べ幾分穏やかな表情。もともとの神門を移築したもので、旧本殿をしのぶ建物との事。訪れた時はこの南門をくぐった右側に御朱印受付が設けられ、かみさんによるとこの時期の通常御朱印はなく、写真の特別御朱印のみだとか。最後に本殿、神嶽山が見れないものかと社地外周をひと回りして見る。神嶽山後方に生垣が一部切り取られた裏参拝所があり、そこから禁足地の様子が見てとれるようになっていた。宮山神社。境内を出て、社頭左の道路沿いに鎮座する寒川神社の末社で、古くからこの宮山各地区に鎮座していた七社の小祠をここに合祀したもの。明治41年(1908)に琴平社に八剣社、雷社、祢岐志社、若宮八幡社の四社を合祀、大正3年(1914)に稲荷社、昭和44年(1969)に三峰社を合祀し宮山神社になった。一間社流造の宮山神社全景。由緒によれば、安産と母子の健康を願い崇敬され、白豆腐を御供し祈願すると母乳に恵まれるという事。その他にも家運隆昌、家内安全、無病息災、商売繁盛、五穀豊穣を司る神として地元から崇敬されているようです。関東大震災で被災、国の支援で昭和5年に修復されたとの事。境内左の平和塔。相模國一之宮寒川神社。創建 / 不明(雄略天皇(457~479)の御代に奉幣の記録)祭神 / 寒川比古命、寒川比女命(寒川大明神)所在地 / 神奈川県高座郡寒川町宮山 3916JR相模線「寒川」駅から寒川神社徒歩 / 約20分参拝日 / 2023/01/18関連記事 / ・鎌倉 円覚寺・鎌倉 建長寺・鶴岡八幡宮 今宮・白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓・北条義時法華堂跡・鶴岡八幡宮境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」・鶴岡八幡宮境内社「白旗神社」・「若宮」・鶴岡八幡宮
2023.05.06
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岐阜県郡上市八幡「野中稲荷神社」町内を長良川と支流の吉田川の二つの清流が流れ、城下町の趣が漂う落ち着いた静かな町。3/25、例年より早い桜の満開を迎える名古屋を離れ、電車と気動車を乗り継いで長良川鉄道「郡上八幡駅」に降りたった。名古屋に比べ少しばかり標高の高い郡上八幡。周囲の景色は随分と変わり、郡上の町はこれから春本番を迎えようとする時期で、上着が一枚欲しくなる。吉田川右岸の郡上の町を見下ろす八幡山の頂に建つ郡上八幡城。低く垂れこめた雲海の上に浮かぶ城の姿を求め、郡上を訪れる人も多いといいます。城は昭和8年(1933)に再建されたもので、現在は耐震化工事が行われており入場は不可。郡上八幡は水の都とも呼ばれる事もあり、町内には宗祇水をはじめとする湧水や水舟、御用用水が巡らされています。豊かな水は日常生活と密接し、軒を連ねる町並みの消火のためにも使われてきました。写真は「やなか水のこみち」清らかな流れの水路沿いに川石を敷き詰めた小径が作られており、芽吹き始めた柳の鮮やかな緑と紅殻格子の建物が風情のある佇まいを魅せてくれ、暑い日に涼むには絶好の場所。野中(やなか)稲荷神社はこの「やなか水のこみち」沿いに鎮座します。野中(やなか)稲荷神社。二つの鳥居を構え、左に水舟があり、「やなか水のこみち」の名はこちらの稲荷から付いています。一ノ鳥居に架けられた額は「野中稲荷神社」水の都らしく、冷たい水は絶え間なく水舟に注がれ、その水は再び台地に戻る。境内から一ノ鳥居に刻まれた寄進年を見ると大正10年(1921)と刻まれています。正面の「やなか水のこみち」沿いにも水舟が作られ、水舟は身近な存在として活用されています。二ノ鳥居から本殿の眺め。シックな色合いの街並みの中で、この鳥居と本殿の朱色が一層鮮やかに見える。野中(やなか)稲荷神社由緒。内容は以下。「野中(やなか)稲荷神社はこの一帯に郡上藩三代藩主遠藤常友の弟大助が家臣とともに住んだ長屋群があり、その遠藤家の屋敷と土地を守る屋敷神であったとされる。左側の奥一帯は江戸時代初めの遠藤氏時代からの藩屋敷があり、この長屋群は三筋の町並み(現在の稲荷町1~3丁目)をつくり、新長屋・中長屋・片長屋と呼んだ。江戸時代後半の青山氏時代には、ここはすべて足軽屋敷となり、全部で五十八戸があった。尚、「やなか水のこみち」は昭和63年(1988)に小公園ポケットパークとして整備され、野中稲荷神社にちなみ命名された。参考文献 歴史探訪郡上八幡」遠藤大助(常昭)の生没は1629~1692年とされ、徳川家綱の小姓衆として仕え、延宝元年(1673)に隠居し郡上に戻り、城下の願蓮寺南に大助様屋敷が与えられ晩年を過ごし、元禄5年(1692)に64歳で亡くなったと言います。そうした事から、野中稲荷神社は江戸時代前期に伏見稲荷から勧請し創建されたものと思われます。常夜灯の竿には嘉永6年(1853)寄進と刻まれています。本殿全景。扉の前には小さな狛狐が守護しています。右手の柱に白い札は、毎年4月20.21日、ここから少し東に鎮座する日吉神社に大神楽を奉納した事を示すもので、日吉神社大神楽は重要無形民俗文化財に指定されているとか。子孫繁栄、息災延命等の御利益がありそうです。「稲荷町」とありますが、現在の町名は稲荷の鎮座する側が八幡町新町、小径を挟んで左が八幡町島谷に分かれ、稲荷町としては残ってはいないようです。新緑の時期を迎え、郡上の町は見所やご当地グルメもあり、日帰りで散策するには持ってこいの場所です、散策で通りかかった際には足を止めて見るのもいい。表通りとは違い、この小径は車の往来もなく、暑い日には水舟に注がれる水音が癒してくれそうです。野中(やなか)稲荷神社創建 / 江戸時代前期祭神 / 倉稲魂神所在地 / 岐阜県郡上市八幡町新町931参拝日 / 2023/03/25関連記事 / ・願連寺・郡上八幡 『左京稲荷神社』・郡上八幡 『神農薬師』・長敬寺・慈恩禅寺・蓮生寺・安養寺・八幡神社・天満宮
2023.05.05
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岩崎御嶽山の岩崎御嶽社から中之院と訪れてきましたが、今回は御嶽社最後となる奥之院です。中之院から民家のある三叉路に戻り、奥之院までは三叉路を西に進み、民家の立ち並ぶ高台の頂に向かいます。奥宮に至るまでの道を緑のラインで示します、直線距離にしたらたいした事はありませんが、見ての通りです。三叉路から概ね15分程の上り坂となります。三叉路を西に向かい、住宅が立ち並ぶ右手の高台の頂を目指します。ほゞ円錐形の高台を周回するように道路が続き、近道を探したくなりますがここは我慢。訪れた3月は樹々の間から池も見えていましたが、今頃は新緑も生い茂り見えにくくなっているかもしれません。分かれ道まで来たら右の上り坂を進みます。上は奥之院が鎮座する高台の頂付近。左手のフェンスのある坂を上ると奥の院に至ります。写真中央の石垣に石段がありますが、そこを進んでも奥之院には行けません。奥之院参道口。正面に見えているのが岩崎御嶽山、周囲は傾斜地に住宅が立ち並び別荘地の趣がある。見晴らしもよく良い環境ですが、下からここまでは坂なので車が必需品かもしれない。生活道路で、さほど幅員もないので路駐は避けた方がいい。緩やかに上る整備された参道を上り切れば奥之院です。中之院までの道のりの様に余計な不安を抱く事はないと思います。奥之院が見えてきました、奥之院登頂まであと少し。頂きには赤い幟や鳥居が立てられ、ひっそりとした雰囲気のなかに佇んでいた中之院と比較すると随分賑やかです。奥之院全景。境内は概ね三つの神域で成り立っており、手前の鳥居が御嶽社、中ほどに不動明王、奥に心願講と其々に神明鳥居が立てられています。最初に記載しておきます、奥之院の寄進物の寄進年は見ていません。御嶽社奥之院。万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされる神社で大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社。岩崎御嶽社そのものが地図上に記されるのが大正9年から、奥宮に至っては現在も記されていなかった。奥宮がいつ頃から存在したか定かではなく、奥宮で唯一目にした本殿域の大正9年と記された玉垣しか見ていません。地図上の印の有無で創建時期と推定する根拠にならないだろうが、地図に現れる年号と玉垣の年号が奇しくも同じ年なのはただの偶然だろうか。奥之院鳥居扁額。三つの扉がある本殿の中央に鏡が置かれ、その左右に小さな陶器の狛犬が置かれています。本殿は三柱を祀る相殿でこの両脇に石像が立てられています。奥宮左の明治天皇尊碑。互いを見合う様に陶製の狛犬が碑を守護している。中央が唯一二つの鳥居を構える不動明王、参道は突き当りの石窟に向け伸びている。一ノ鳥居の不動明王の額。ニノ鳥居のすぐ前に人の手により作られた石窟がある。石窟(仏窟)内部は屈まなければ入れないほどの高さしかなく、床に敷物が敷かれ、正面に粗削りな大日大聖不動明王や地蔵、弘法大師や仏像などの石像が安置され、香炉には不動明王講とある。岩崎御嶽山には心願講、誕生講、福寿講、出生講など良く耳にする有力講社の他に、この地域や名古屋市内に活動拠点を置く講社の霊場があり、岩作御嶽山(安政5開山)と共に御嶽信仰の一大聖地のひとつで、講員は其々の霊場で御座儀礼や読経を行い、霊峰御嶽に戻った先人達と繋がりを持つのだろう。不動明王の左に複数の石碑や像が安置され、狛犬の姿もある。さほど広いとはいえない奥宮境内に神と仏が一つに融合されています。境内西側の神願講霊場。鳥居の先には神願講開祖の明寛霊神像が安置されています。奥之院から西を眺めれば、名古屋市内第二位の標高(約111㍍)の親鸞山(極楽山)があり、高針心願講の霊場のひとつ高針御嶽山(1949年開山)が間近に見られ、その先には東山スカイタワーやセントラルタワーズも一望できる。北方向に目を向けるとモリコロパークや猿投山の山々も望め、空の澄む時期には雪を頂いた霊峰御嶽の眺望が広がります。気持ちだけは今でも山は登れるつもりでいますが、若い頃は気にもしなかった坂が、最近ではやたらと急登に思えるようになり、岩作御嶽山から標高133㍍の奥之院までの道のりが遠く感じる。岩崎御嶽社 奥之院創建 / 不明祭神 / 国常立尊、大己貴命、少彦名命所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山中之院から徒歩ルート / 西へ約15分参拝日 / 2023/03/07関連記事 / ・岩崎御嶽社中之院・岩崎御嶽社(日進市岩崎町竹ノ山)・功徳天満宮(岩崎御嶽社)・八大龍王(岩崎御嶽社)・岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社・岩作『御嶽山』
2023.05.04
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Bクラス、最下位が指定席のドラゴンズ、久し振りに観戦に出かけて来た。この日は観戦チケットがあればWBC優勝トロフィーの展示や昇竜レプリカユニホームが配布されるのでそれを目当てに訪れた。晴なのか雨なのかはっきりしない空模様のなか、試合開始4時間30前にバンテリンドームに到着。WBC優勝トロフィーの展示は9時から始まっており、WBC優勝トロフィーを一目見たい人の列は自分の許容範囲を既に超えていた。「折角だからこの目で見たい」かみさんの意志は固く、列に加わった。その時点で2時間待ちのプラカード、その後も列は伸び続け、最終的に「今からでは試合開始に間に合わない」プラカードまで出ていました。展示ブースの前まで辿り着くのに2時間を超えていたが、あと少しで見れるところまで来た。ブース内は自撮り撮影は禁止、立ち止まらず動画か連写でと繰り返し案内がある。あの時の感動の余韻は一瞬で通り過ぎていった。2019年の愛・地球博で見たマンモスの冷凍標本より短い時間だった。そして我らがドラゴンズは…いまだ永久凍土の地中深くに留まったまま。小粒な苗ばかりの畑に実が付くのはいつだろうか?自分が観戦する場合の勝敗率は既に3割を下回っている。おらが来たばっかりに…いやぁそれは違う最下位の現実は数字が全てを物語っている、ここは代打で送りバントか。早目に見切りをつけて外に出てみれば、はっきりしなかった空模様は雨。今日は頑張ろう、目指せ最下位脱出
2023.04.30
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26日~30日まで、旧国鉄中央線廃線の愛岐トンネル群の片道1.7㌔を散策に出かける。新緑の時期を迎え、涼しいトンネル群とトンネル出口に広がる瑞々しい新緑がとても眩しく、清々しい気分を味わうことが出来ました。JR中央線定光寺駅。その昔は土岐川沿いの観光旅館や定光寺の紅葉を愛でに訪れる乗降客で賑わったこの駅も、旅館の廃業や移動手段の様変わりもあり、今では土岐川沿いの崖っぷちに建つ秘境駅の趣に変ってしまったようです。そんな秘境駅も春と秋の年二回は乗降客で賑わいを見せます。普段は閉じられているトンネルの門が開放され、愛岐トンネル群(3~6号トンネル)を徒歩で通り抜けることが出来ます。但し、料金100円が必要になりますが、涼を求めつつ、途中の野外演奏や展示物を見ながら、往復3.4㌔散策でき、トンネル群整備に充当されると思えば安いレジャーです。新緑を迎えた土岐川、今日は陽気も良く、盛んにウグイスの鳴き声が聞こえてきます。駅を降りて土岐川沿いを上流に向かう事数分、トンネル群の入口が見えてきます。春日井市と岐阜県多治見市間にある旧国鉄中央線の廃線跡で国登録文化財「愛岐トンネル群」に指定されており、この入口のレンガ発見からトンネル群の記憶が呼び起こされた。1900年の開通当時のまま残されたトンネル群は全14のトンネルがあり、その内の3~6号トンネル1.7キロが開放されています。写真は最初の3号トンネル(玉野第三隧道)、こちらでボランティアの方に料金を手渡しいざ散策開始。3つのトンネルには、其々間接照明や蒸気機関車の効果音が流されるなど演出が施され、小さい子供達が恐怖感を感じる事無く散策できるように配慮されていますが、足元は石がゴロ〃なので子供にはライトを与えた方がいいかも。赤レンガ造りのトンネル内はこうして明りが灯され、規則正しく積まれたレンガが浮き立って見えます。薄暗いトンネルから抜ける時が樹々の緑が外光に照らされ一番綺麗に見える瞬間。廃線跡には多くのもみじが自生し、秋の紅葉は真赤に染まります。写真は4号トンネル出口に聳える県下最大の大もみじ。5号トンネル出口のSL(C57)の動輪。後方に自転車がありペダルをこぐとこの動輪が回る仕掛けがあり、動輪一回転させると5.5㍍進んだことになります。ここはお子様に受けるかもしれないな。愛岐トンネル全体図。明治33年(1900)国鉄中央(西線)として名古屋から多治見間が開通し、昭和41年(1966)に廃線となるまで日本の近代化から高度成長期を支えてきましたが。その後はその存在自体忘れ去られ、平成17年(2005)に古老の記憶をもとにトンネルの探索が行われ藪の中に埋もれたトンネル群を発見、保全・解放されるまでになったもの。トンネル以外にも遺構が多数残り、明治の香り漂う構造物を見られます。また周囲の自然も廃線後手つかずのままにされていたので、豊かな自然が残されています。6号トンネル出口、目印は正面に生える1本の椿。ここから先は整備が進まず、現状はここから来た道を戻る事になります。5号トンネルまで戻り、ここから左手の川沿いの道を進み暗渠を見学に向かいます。道には案内板や解説もあり整備が行き届いています。ただ、崖沿いに手摺や柵はないので子供や高齢者の方は要注意です。川沿いから暗渠内の眺め。入口から注ぐ外光が暗渠内を照らし、幻想的な雰囲気を見せています。暗渠内は直ぐに行き止まり、そこから上を見上げると鮮やかな新緑が。駅に戻る土岐川(庄内川)沿いの道筋は、廃線散策路を上に見上げながらの帰り道になりますが、川も近くなることから爽快感も得られる。廃線散策路には新緑の山々を背景に大きな鯉が泳いでいました。高額の料金を支払う管理されたものと違い、安全は自己管理が問われます。散策路には飲料等売店が開かれていますが、食事は弁当持参をお勧めします。公開時間 午前9時半~午後3 時(入場は2時半まで)雨天は中止となります。アクセス公共交通機関のみ / JR中央線定光寺駅から徒歩3分。2023/04/28詳細は愛岐トンネル群保存再生委員会のHPを
2023.04.29
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鶴岡八幡宮境内社「白旗神社」・「若宮」からの引き続きとなる今回。若宮から左の舞殿(下拝殿)と、その左の杜の中に鎮座する祖霊社、そして源実朝が暗殺の場として知られる大石段を上り鶴岡八幡宮本宮(上宮)と境内社の丸山稲荷を巡ります。上の境内案内図の赤い実線の丸部分が舞殿・祖霊社・本宮(上宮)・丸山稲荷の位置になります。参道から望む舞殿(下拝殿)と本宮(上宮)、右手が若宮(下宮)。治承4年(1180)、頼朝が歴史上初の武家政権である鎌倉幕府を鎌倉に構え、源氏の氏神である八幡宮を遷し、鎌倉幕府はじめ東国の守護神として崇敬されてきたもの。昨日は人波で写真に収める気になれなかったけれど、朝の境内は静寂が漂う落ち着いた姿を見せています。舞殿は文治2年(1186)静御前が義経を慕う思いを込めて舞った場所として知られ、ここから若宮(下宮)に続くかつての廻廊跡に建っており、下拝殿とも呼ばれるそうです。建久2年(1191)の鎌倉大火後、建久4年(1193)に再建された入母屋平入での四方吹抜けで、前後に唐破風屋根を持ち、前側には唐破風向拝が施された朱塗りの建物で、金色の飾り金具と垂木全てに垂木飾りが付き、着飾った女性の姿にも似ている。現在の建物は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊し、昭和7年(1932)に再建されたもので、その際に茅葺き屋根から銅葺屋根に葺き替え、四方吹き抜けのものに姿を変えたようです。上は享保17年(1732)に描かれた境内図鶴岡八幡宮境内絵図から神仏分離以前の舞殿、本殿域を切り取ったもの。現在は広々とした印象のある舞殿周辺の境内を思うと、鶴岡八幡宮寺として仏教施設が立ち並んでいた頃は荘厳な境内だったことが伺われます。調べた限りでは神仏分離令以降、これら施設は近隣の寺に移築されることなく破却されたようです。舞殿正面全景。女性的な印象を持ってしまうのも静御前のイメージからか。舞殿側面全景、綺麗な姿はどこから見ても綺麗なもんです。現在は全く立ち入る事は出来ませんが、建替え後の古い写真を見る限り、一時期に於ては舞殿の間近まで近づけたようです。大石段と左側の「親」銀杏と「子」銀杏。承久元年(1219)、雪が降りしきるこの場で三代将軍実朝は公暁により討ち取られた場所。石段左に聳えていた樹齢1000年とも云われた隠れ大銀杏、公暁はここに身を隠したとされます。天然記念物にも指定されていた大銀杏も2010年に倒伏してしまい、現在は注連縄で囲われ、その根から芽生えた子銀杏が樹齢を重ねています。祖霊社。舞殿左の杜の中にひっそりと佇んでおり、社頭は舞殿手前の左に写真のような参道が伸びています。大石段を上る前に祖霊社に参拝、参道はこの先で右に伸びています。朝の祖霊社周辺の杜は聞き慣れない鳥のような鳴き声が周囲から聞こえてきます。かみさんと二人で鳴き声の主を探していると、覆い被さるような樹々の枝を駆けまわる小さな影を見付けました。なかなかじっとしてもらえず、漸くとらえたのが上の写真。ふさふさとした尾を持つリスらしき姿を捉える事ができた、鳴き声の主はどうやらこの方らしい。群れをなし、樹々を駆け回り、お互いに「怪しい二人組が来たぞ」とばかり鳴き合っている。その動きの速さに動体視力が追い付かない。しんと静まり返った杜の中に佇む祖霊社。鶴岡八幡宮の氏子崇敬者の祖霊と護国の英霊を祀り、昭和24年に建立されたもの。例祭日 春分の日・秋分の日参拝を済ませ本宮(上宮)に向かう事にします。舞殿から見る大石段とその先の鮮やかな朱塗りの楼門。仕事とはいえ毎日この大石段を上る巫女さんの足取りは幾分重く見える鶴岡八幡宮にあって唯一ともいえる長い石段、その前を一対の狛犬が守護しています。左が「親」銀杏側の吽形、右が阿形の狛犬。寄進年は見ていませんが、全体は白化し、鬣や毛並みはデフォルメされた素朴な姿は、頼朝によってこの地に鎌倉幕府が開かれ、鶴岡八幡宮(若宮)を還座、繁栄から滅亡までの約300年の盛衰を伝えるかのような悲哀に満ちた佇まいをしている。楼門。三間一戸の八脚の門で、左右の間に随神が安置されています。石段も中ほどまでくるとこの随神の視線を感じる。楼門に掲げられた扁額はお馴染みのもの。八幡神の使いとされる二羽の鳩で八の字を描き、源氏の幟旗の八幡大菩薩の八もこれが使われています。蟇股の虎、この他にも鳩を描いたものも見られます。大正12年(1923)の関東大震災では舞殿同様に倒壊し、昭和7年(1932)に再建されています。この随神が倒壊後修復されたものか新造されたものか詳細までは分からなかった。楼門と廻廊。建立当初鶴岡八幡宮は幾度も火災や自然災害に見舞われ、火災だけでも建久2年(1191)、弘安3年(1280)、永仁4年(1296)、正和4年(1315)、文政4年(1821)、現在の門は文政4年(1821)の火災で焼失後、文政11年(1828)に徳川11代将軍家斉により再建されました。現在の門は関東大震災で倒壊後に再建された、入母屋銅瓦葺で門の両袖は廻廊と繋がっています。楼門横の解説は以下。「本殿(上宮)・廻廊・楼門御祭神 応神天皇、比売神、神功皇后 例祭日 9月15日本殿建物は幣殿・拝殿を連ねた流権現造で、 廻廊が東西に 延びて本殿を囲む形になっている。廻廊は内部が区画され往時はさまざまな神事、法会の場として機能していた。楼門中央に掲げられた八幡宮の扁額 「八」の文字は八幡大神の神使とされる鳩を象っていて、寛永6年(1629) 曼殊院 門跡良恕法親王の揮毫によるものである。本殿内外の上部壁面には鳥獣草木が描かれ、精巧な彫刻も施されているが、細部にわたり見事な彩色が施されている。現在の社殿は文政4年(1821) 本殿火災後、同11年(1828)、徳川十一代将軍家斉による幕府あげての事業として再建され、江戸時代末期の幕府作事方による代表建築の一つと評されている。 平成8年(1996)には国の重要文化財に指定された。武内社御祭神 武内宿禰例祭日 4月21日武内宿禰は応神天皇の重臣として側近くに仕えた為、全国 の八幡宮に於いては末社の神として本殿の傍らに祀られる ことが多い。極めて長命であったとされることから、特に延命長寿のご利益があると云われている。 平成8年(1996) には国の重要文化財に指定された。」楼門の右側の廻廊。楼門と左右の廻廊の間には脇戸が設けられています。脇戸から見る拝殿。脇戸から見る本殿と武内社。楼門内の写真撮影は禁止されていました。楼門左側の廻廊。この廻廊が本殿域を取り囲んでいます。この左側に大分県に鎮座する八幡宮の総本社宇佐神宮の遙拝所がありましたが、丸山稲荷社の赤い鳥居に魅かれすっかり忘れていました。丸山稲荷社。鳥居右に解説があり内容は以下。「丸山稲荷社御祭神 倉稲魂命例祭日 4月9日 初午祭、2月初午の日、火焚祭11月8日。建久2年(1191)の本殿の鎮座以前からこの地に祀られていた地主社である。社殿は夷社本殿が江戸時代に柳営社となり、更に明治時代に入って稲荷社として現在の位置に移築されたものである。 形式は一間流見世棚造で、室町期の神社建築の貴重な遺例として高く評価されており、境内に現存する最古の建造物でもある。 昭和42年(1967)に国の重要文化財に指定されている。毎年11月8日に執り行われる火焚祭では、当宮に古くから伝わる鎌倉神楽が奉納され、大勢の崇敬者で賑う。」商売繁昌を祈願し多くの奉納鳥居が連なり、中には有名人の名も見られた。本殿は鳥居から左に上がった先に鎮座します。丸山稲荷社斜景。見世棚造と流造の違いを分かっていない、となれば辞書に頼るしかない。それによれば「きわめて小規模の社殿で、土台の上に組まれ、正面に階段のないもの」とあった。けっして小規模とは思えない社殿は、これまで流造と書いてきたなかに、この見世棚造が含まれているのかもしれない。丸山稲荷社の正面全景。確かに土台の上に社殿は組まれ、正面に階段はない。二対の狛狐が守護していますが何れも年代は未確認。某有名タレントも崇敬する丸山稲荷社を参拝し、鶴岡八幡宮の締めくくりとしました。大石段から由比ヶ浜に続く若宮王路の眺め。一時はここが鶴岡八幡宮の中心で、火災による社殿焼失を受け、新たに大石段を造り、その場を切り開いて作られたのが現在の本宮とされます。災いから学び、同じ場所に建てないところが、自分が思う疑り深い頼朝らしさのような気がする。相模国一宮 鶴岡八幡宮創建 / 康平6年(1063)本宮祭神 / 応神天皇、神功皇后、比売神。武内社祭神 / 武内宿禰丸山稲荷 / 地主社祖霊社 / 氏子崇敬者の祖霊、護国の英霊所在地 / 神奈川県鎌倉市雪ノ下2-1-31参拝日 / 2023/01/17関連記事 / ・鶴岡八幡宮境内社「白旗神社」・「若宮」・鶴岡八幡宮境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」・北条義時法華堂跡・白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓・鶴岡八幡宮 今宮・豊前国一之宮 宇佐神宮(大分県宇佐市)
2023.04.28
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2023/04/04奈良県の多武峰、明日香村方面に訪れた際の帰り道。桜井市三輪の大神神社付近に寄り道。三輪といえばそうめんや大神神社の印象が強いですが、目的は酒蔵にあります。奈良県桜井市三輪の大神神社大鳥居、いつみても大きな鳥居です。この場所の無料駐車場に車を停めましたが、以前コロナ禍の際に訪れた時でさえ、大鳥居から社殿に近い駐車場に入れるため、長い車列が出来、歩道は参拝者で溢れていました。平日とはいえ、アフターコロナで嘸かし海外から訪れた多くの観光客で賑わっているかと思いきや、拍子抜けする程閑散としていたのには意外でした。酒蔵前の通りは生活道路で幅員も狭く、尚且つ酒蔵の駐車場が分からない事もあり、いつものようにここに車を停め、参道の一本南に鎮座する綱越神社から、並行して伸びる三輪街道を東に進み、目的地今西酒造本店に向かいました。駐車場から寄り道しなければ10分もからないと思います。古い道標や神社、宿場町の雰囲気が漂う街並みを眺めながら今西酒造本店に到着。訪れた時は仕込みで使う酒米を搬入する作業で大忙し。裳階屋根の店舗入口。入店するのも気が引ける状態、ここから奥の仕込み蔵まで人出で搬入されている。三諸杉の銘柄で知られ、1660年にこの地で酒造りをはじめ創業360年の老舗酒蔵。日本酒の歴史は諸説ありますが、縄文時代後期から弥生時代には日本に稲作が伝わっており、米を原料とする酒の原形もその頃とされ、今から2000年位は遡るとも云われるようです。実りを授けてくれた神様に米が供えられますが、その米がいつしか変色して行く過程から酒造りに転じて行ったようで、やがて神に酒を捧げる様になっていきます。その酒造りの起源が三輪から始まったといわれるようです。三輪にある大神神社は日本最古の神社とされ、本殿を持たず、三輪山をご神体とする神社で、三輪山は古来から三諸山と呼ばれ、「うま酒みむろの山」と称され、「みむろ」は酒のもとの意味で、 酒の神様としての信仰からの呼び名だとされます。大神神社では毎年11月14日に全国から蔵元・杜氏が集まり「醸造祈願祭」が行われます。酒蔵の軒先に吊るされている「杉玉」は大神神社から全国の酒蔵に届けられていると言います。その証に「新酒できたよ」の合図として酒蔵で吊るされる杉玉、その下に吊るされている札には「三輪明神・しるしの杉玉」と書かれていると言います。気にして見た事はないが、これからはそうした目線で見てみようと思います。青々とした杉の色合いは、一年かけて徐々に茶色に変色し、それが酒の熟成具合を現している云われます。銘柄の三諸杉の由来は、古来より三輪山を「三諸山(ミムロヤマ)」と称していた事や三輪山は「杉」に神様が宿るとされている事からきているそうです。今西酒造では自社田での米作りの他、契約農家による米を使用し、特に「みむろ杉 木桶菩提酛」に用いる酒米は奈良県産の自社田・契約栽培米のみを使用する拘りを持っているようです。店内の今西の暖簾。この蔵では今では少なくなった杉の木桶を使用し、木桶に宿る微生物が生み出す複雑味と香りを生かし全て手作業による酒造りをしているようです。三諸杉店内では当然店頭販売もされており、試飲も出来ると思われます。「・・・思われます」、車で来ている以上飲めるはずもなく。こちらの酒蔵を訪れる動機となったのが、2021年の暮れに唐招提寺へ訪れた際に怪しい酒屋で出逢った上の「三諸杉 濁り酒」が始まり。今回4月だというのにひょっとして残っているのでは?なんて期待を抱いて訪れたものの「本物のとぶある?」と尋ねて見るも「12月には全て完売」との答え。そうだよねぇ、今年はその時期に買い出しにこよう。今回こちらで手に入れたのが上の「春酒ものがたり 純米吟醸 無濾過生原酒 おりがらみ」ほんのり白濁し、グラスに注ぐと僅かに発泡し、濁りやどぶとも違った名の通り春らしい爽やかな飲み心地のお酒で、ここの酒は我が家の嗜好と相性がいいようです。今西酒造本店所在地 / 奈良県桜井市三輪5102023/04/04関連記事 / 奈良 談山神社・岡寺、ほんとに注意「三緒杉 濁酒」
2023.04.27
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既に掲載した地御前・大歳神社を少し先に進むと山陽本線の踏切が現れます。今回取り上げる「地御前神社」は踏切を越えた右側に見える杜に鎮座しています。地御前史跡MAPの寺御前神社の鎮座地は☆の位置になります。山陽本線踏切から見る地御前神社の杜。公道が境内を横切り、左側に鳥居、道路を挟んで社殿が鎮座します。地御前神社社殿。右手に大きな石碑が建てられ、道路はその先の拝殿前を横切っていきます。国道開鑿碑、ここに道路の解説が記されていた。内容は以下。「明治維新以降、嶺・峠・坂が続く往還から平らな道の必要性が生まれた。明治六年より新道建設が小己斐峠(井ノ口)より始まった。明治十年には宮内村四郎の嶺を越える旧街道に代わって、串戸から港に沿って御手洗川を渡り、地御前村に通じる海岸沿いに新道が建設された。そして明治13年2月にはついに大竹まで新道が開通した。工事費は当時の金額で三万円余りを費やし、その殆どが民間 有志の寄付金で賄われた。道路にかけた当時の民衆の熱意の高さをうかがい知ることが出来る。碑文では、「明治時代中期、佐伯郡廿日市の住民は地域を挙げて新道を建設するための大運動を展開した。結果、神社前の国道2号線が完成した。」と伝えている。明治18年8月 明治天皇西巡の際、聖駕(天子の乗り物)をお通しし歓呼して天皇をお迎えした。明治20年の国道開鑿碑建立に当たっては有栖川宮熾仁親王に「地平天成」の書を賜り、碑文上部の四篆字とした。(この四篆字は、先の元号「平成」の由来の一つと言われている。)碑の裏面には当時の佐伯郡東は己斐村より、西は大竹に至る86ヶ村の世話役修路従事者510名の芳名が刻されて感謝の意が表されている。明治20年(1888)2月成立 令和2年(2020)5月復元令和2年11月 地御前地区自治会地御前郷土文化保存会地御前市民センター企画運営委員会」以下は地御前の明治頃とほぼ現在の地形を比較した地図。当時の地図には山陽本線や広島電鉄の線路はなく、海岸線は地御前神社の前まで迫り、地御前・大歳神社に至っては社頭の前に海岸は迫っていた様子が分かります。その後、海岸線は埋め立てが進み、陸地は海に〃迫り出し、その上に現在の国道や鉄道路線、漁港が作られ地域の発展にもつながったようです。石碑後方の境内に鎮座する境内社「胡子(えびす)神社」。解説がなく創建など詳細は不明ですが、その名から祭神は蛭子神と思われます。五間社流造の本殿。背後を山陽本線が行き交い、遮断機の音や振動でゆっくり落ち着かないか?祭神は厳島神社の本宮と同じく、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命の宗像三女神で、非常に大きな入母屋の拝殿があります。厳島神社の鎮座する宮島の対岸に位置し、厳島神社の外宮として同時期に建立されたとされたのが地御前神社。往古は19の神殿舎屋があったされますが、現在の本殿は宝暦10年(1760)に再建されたもの。こうして見る社殿から往時の面影を感じる事はなく、手前の拝殿と本殿、本殿左に隣接する客人(まろうど)殿、拝殿右側の境内末社の胡子神社が主な伽藍になります。拝殿は大正3年(1914)に再建されたもので、往古の厳島神社は一般の上陸が許されなかったため、対岸の地御前に外宮として社殿が建てられ、拝殿から厳島を遥拝していたようで。当時は拝殿前の鳥居から先は海岸線で、一説には祭礼のひとつで旧暦6月17日におこなわれる管絃祭では神職を乗せた御座船はこの拝殿横まで舟が着けられ、そこから拝殿に上がる事ができたとも云われ、その場所がこの場所にあたるようです。その痕跡だろうか、拝殿の妻を支える柱の一部に途中で切られたものがあり、恰も舟を繋ぐ目的と思われるものがあります。手前の石段など見ていると船着場の雰囲気が感じられなくもない。地御前神社は宝暦5年3月(1755)北ノ町の大火で民家共々焼失し、宝暦10年(1760)に再建され、この舟形の手水鉢はその際に寄進されたもの。火災は安政5年(1858)正月6日にもあり、その際は拝殿、お旅所、お供え所、神馬屋、釈迦堂を焼失、現在の拝殿は大正5年(1916)に再建された。拝殿前には石の明神鳥居が立ち、かつては鳥居の前まで海岸が迫り、拝殿に舟が付けられたというのも頷ける。今は鳥居のすぐ先を広島電鉄の線路と国道2号線が横切り、かつて拝殿の前に広がっていた海や沖に見えた厳島の姿は、今では国道の防波堤に阻まれ、容易に拝めない。この鳥居はもともとは仁治元年(1240)に木造の大鳥居が建立されており、享和元年(1801)に再建され、現在のものは明治31年(1898)に建立されたもの。線路のフェンス際から眺める拝殿。この辺りがかつての明神が浜になるのだろう。ここまで下がっても拝殿と両脇の狛犬が一枚に収まり切れない。横長の拝殿は軒先の反りとのバランスが良く、どっしりとした安定感のある姿をしています。狛犬(阿形)。見つめる先は海ではなく、誰も訪れることないフェンスで区切られた線路と国道。吽形、電車がやってきた。上入口側の石の扁額は「厳島外宮社」下境内側の扁額は「地御前神社」拝殿全景。銅葺屋根の入母屋で平側が10間、妻側は3間の吹き抜けで、大正3年(1914)に再建されたもの。拝殿左から見る拝殿と客人殿。棟には三ツ盛り亀甲花菱の紋が施されています。社殿後方の杜は通称桃山と呼ばれる社叢で、山陽本線の先まで続き、その先には住宅地と社頭同様に変貌しています。客人殿。全景が良く見えないけれど恐らく、三間社流造のように見えます。祭神は天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命。拝殿脇の社記「厳島神社摂社 地御前神社々記 広島県佐伯郡廿日市町地御前鎮座1.御祭神御本宮は嚴島神社の御本宮の御祭神と同じく、市杵島姫命を中心として、田心姫命、湍津姫命 所謂宗像の三女を奉斎せり。御客人宮の御祭神は厳島神社の御客人宮の御祭神に同じ。2.御由緒御鎮座の年代は祥らかならざるも、社伝には厳島神社、(御本宮、内宮)と同じと云ひ伝えられ、即ち御本宮御鎮座の年、推古天皇の端正元年大歳葵丑の年である。明治維新までは、厳島神社(御本宮・内宮)、地かたの御前の御本宮を厳島外宮と称えたり。御奉斎の厳島大明神は「道主貴」と称え奉り、専ら、天孫を助け奉り、常に天孫の為めに、海陸の安全を斎ひ奉り給ふ神なれば、古来皇室及国家の鎮護、海陸の守護神として、盛んに、上下の尊信敬拝を受けさせ給ふ。厳島御本宮の御鎮座記によれば、佐伯の郡の住人佐拍鞍職に幽事を治め、百王を鎭護す」と示現ありしと云ふ。この御鎮座の所を合浦といふ。3.祭日 陰暦5月5日御陵衣祭。 雅楽舞「後の舞」。流鏑馬神事あり。端午の節句。陰暦6月15日管絃祭御洲堀神事。6月17日、厳島御本宮管絃祭。」板張りの広い拝殿内。右手が拝所正面にあたり、奥が客人殿になります。拝殿内には奉納絵馬や額が掲げられていますが、いずれも脱色しており拝所からは窺い知れません。右の額の奉納年はなんとか大正5年と読めますが、何が描かれているのか・・・流鏑馬か?上大正13年に奉納された額で厳島神社の鳥居と舟が描かれた管弦祭の様子だろうか。下平成に入り奉納されたもので鶴と鳥居が描かれていました。左は昭和に奉納された美女、琵琶を持っているので弁財天か。吹き抜けの拝殿には、他にも幾つか掛けられていますが、脱色するのは早いようです。拝殿左から地御前神社の全景。普段は訪れる参拝客はなく、この村から出兵し亡くなられた方の名が刻まれた皇威輝八紘碑や神社の前を時折車が通り過ぎる程度の静かな通りですが、流鏑馬神事が奉納される時には、この通りは多くの観衆で賑わうのだろう。有府川に架かる外宮橋。ここを渡り海側に向かいます。また走ってきた。地御前神社前の堤防から宮島方向の眺め。厳島神社の奥宮は外宮の地御前神社から真南に鎮座します。ここから国道沿いに降車駅の地御前駅に戻り、電車に揺られ宮島口に向かいます。厳島神社摂社 地御前神社創建 / 推古天皇元年(593)主祭神 / 宗像三女神客人宮 / 天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野櫞樟日命例祭 / 御陵衣祭(旧暦5月5日)管絃祭 / (旧暦6月17日)境内社 / 胡子神社所在地 / 広島県廿日市市地御前5-17参拝日 / 2023/03/03地御前駅から徒歩 / 地御前・大蔵神社から約2分関連記事 / ・地御前・大蔵神社・智秀山西向寺
2023.04.26
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岩崎御嶽社「中之院」こちらへ向かうには大きく二通りの道がありそうです。一つは駐車場に戻って来た道を下り、三叉路をひたすら右に右に車止めまで進み、右手に見える参道付近に車を停め、徒歩でひたすらで車止めをまっすぐ進むか、本殿右脇から東に続く参道を歩くかの選択肢になるかと思います。今更駐車場に戻る気は更々ないので、本殿の南側にある写真の道筋を下っていきました。道筋には幾つも枝道がありますが、この道をひたすら下っていきます。道すがらで見かける光景、こうした不動明王や石像が連なっています。杜に包まれた道沿いには、御嶽講を支える心願講や誕生講といった多くの講社の霊神場があり、参道から枝道が作られ、杜の奥に開かれたものなど、岩崎御嶽山全体で400を超えると云われます。一帯は御獄信仰特有ともいえる霊神碑と呼ばれる石碑が全山に立ち並び、一種異様な雰囲気を感じるかもしれません。霊峰御嶽に生まれ、死後は霊神となり霊峰御嶽に戻るとされ、御山に戻った霊神の遺徳を偲び講社の人々により神号を刻んだ「霊神碑」を立て依り代とするもので、遺骨を納めた墓とは少し性格は異なり、忌み嫌う対象のものではないようです。霊神碑は町から遠く離れた、標高3067㍍の霊峰御嶽に戻った行者と身近に語らえる場所なのでしょう。御嶽社西に平成展望台がありますが、その傍らにある三笠山神社も御嶽の三笠山を象徴するもので、ここは正に霊峰御嶽そのものです。参道沿いにはそれ以外にも、上の写真のように「ニ之池白体龍王大権現」のように立派な鳥居を構えた神域もあり、とても興味深い参道です。とは言え初めて訪れた道だけに枝道に踏み込む余裕はなく、中之院を目指してひたすら道なりに左方向に進む。途中の道の分岐には「立ち入り禁止」のバリケードもあり、それさえ守れば道に迷う事はないでしょう。道なりに6分(写真データ)ほど左方向へ進むと杜から出て上の写真の場所に到着します。目の前は住宅が立ち並ぶ奥乃院が鎮座する高台、左には舗装された道もあり、若干心細く不安になった気持ちから解放される。冒頭にもう一つのルートとがあると書いたのはこの場所を指します。ここから写真の道を進みます。「この先道が狭いため…」の警告は信用してください。余程バックに自信がない人以外は車で踏み込むのはやめた方がいいでしょう。ホラね。見通しの効かないこうした道を独りで歩くとどうしても不安になります。なかでも一番不安なのが視界が広がった先で、得体の分からない黒い四つ脚の動物や、足を持たない長いものと鉢合わせになる事が一番不安にさせる。中之院まではここから約2分(写真データ)で辿り着ける距離で、この先の小さな池を左に見ながら、坂を上れば左手に中之院が見えてきます。中之院全景。尾根部分を切り開いて、周囲を玉垣で囲われた本殿域、その奥に小さな石の祠が祀られています。周囲に霊神碑や石佛などなく独立した形で鎮座します。鬱蒼とした杜も、中之院周辺だけは陽射しが良く入り、明るく浮かび上がっていました。中之院正面全景。彩りの寂しいこの時期の杜、本殿の左と右に植えられた2本の椿の花が彩りを添えていました。ひっそりと佇むとはこの事を指すのかもしれない。本殿域の祠と中之院の社名札。中之院が岩崎御嶽社創建当初からあったのか、祭神が誰かについては分かりません。岩崎御嶽社社務所で尋ねればこの疑問の回答は得られると思います。御嶽山の鬱蒼とした杜の中でスポットライトを浴びて鎮座する中之院。御嶽社からここまで約10分の不安な道のりを一気に取り払ってくれる。岩崎御嶽社 中之院創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 日進市岩崎町四ツ池岩崎御嶽社本殿から中之院 / 今回のルートはグーグルマップでは示されておらず、グーグルマップの徒歩ルートは現在通行止め(2023/3/7時点)でした。なので、今回歩いたルート又は岩崎御嶽社駐車場から車でのルートになります。参拝日 / 2023/03/07関連記事 / ・岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社・八大龍王(岩崎御嶽社)・功徳天満宮(岩崎御嶽社)・岩崎御嶽社(日進市岩崎町竹ノ山)
2023.04.25
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名古屋市熱田区大宝「西町神社」前回掲載した大宝の八幡神社から西町通りを渡り、目的地の西町神社までは徒歩10分もあれば辿り着けるはず。上が大正時代とほゞ現在の地図になります。南を東西に延びる国道1号線の6番町交差点から北上する江川線と1番1丁目交差点から北上する西町通りは、日比野交差点で一つに交わり、地図で見ると国道一号線を底辺とした見事なトライアングル(靑破線)を描き、その頂点辺りに鎮座するのが西町神社。西町神社と町名を冠する神社ですが、所在地は熱田区大宝になります。この一帯は西を走る江川線の東側から東側を走る西町通りの東を含め大宝町で、堀川沿いの白鳥公園の一画が社名でもある西町。大宝町に鎮座する西町神社同様に大宝町内の少し南に、西町の名が残る西町公園があり、一帯は随分と編入が行われた名残が残ります。今回、縁あってこのトライアングル周辺に鎮座する神社を歩いて巡ってきました。トライアングルの頂点に鎮座する西町神社をもって最後の参拝先としました。西側から見る西町神社の社地全景。社地の東と西に道路が伸びており、左に見える本殿の先で交わっており、社地そのものもトライアングルになっていて、本殿正面にはビルもある事から、本殿正面に境内入口が作れない事から、この西側と東側の二か所のに入口があります。其々の入口に「西町神社」の社標がありますが鳥居はなく、境内の本殿前に石の神明鳥居を構えています。歩道沿いに本殿後方まで進むと…トライアングルの頂点に本殿が祀られています。ここから右に伸びる道は江川線沿いに国道1号線の6番町へ、左を進めば西町線沿いに同じく一番1丁目方向に伸びています。三角形の頂点に南を向いて本殿が祀られ、ある意味限られた敷地を有効に活用しているのかもしれない。大宝の西町神社はここから眺めるのが一番いい姿をしている。昭和12年(1937)頃の地図では、当時も今も地図上に西町神社の印はないものの、当時のこの辺りは熱田西町の北外れに位置し、ここから南が熱田西町となっており、西町神社は熱田西町一帯を見据える様に鎮座しています。東側から西町神社境内を眺める。境内に神明鳥居が立てられ、右側に大きな社標が立てられています。鳥居正面から本殿を収めるには、鳥居の左に奥行きがなくとても無理。西町神社の由緒や創建は、残念ながら引用できる資料や地元の方の話も聞けずさっぱり掴めません。ここからは推測でしかありませんが、この辺りの町名の遍歴を見て行くと、明治40年(1907)に名古屋市に編入され、熱田西町となっており、これ以前の明治初期では一帯は水田地帯で集落すら見当たらないので、熱田西町になった以降に祀られたものかもしれない。西側からの境内全景。左に手水鉢、参道の両脇に常夜灯、狛犬とあり、限られた社地を有効に活用され、境内は見た目に反して意外に広く感じます。自然石をくり抜いた手水鉢には、いまどき珍しく絶え間なく清水が注がれていたのは嬉しい。都会に暮らす野鳥にとっても嬉しい水場かもしれない。本殿域正面全景。石垣が積まれ一段高く盛られた本殿域を玉垣で囲い、常夜灯が立てられ、その先に6本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造の本殿が建てられています。参道を守護する一対の狛犬、寄進年は未確認。本殿域の玉垣に祭神を記した解説が掲げられています。その内容は以下。「西町神社祭神 西町の大神相殿 伊勢の大神、熱田の大神、津島の大神」とあります。境内に由緒を記したものは見当たらなかっただけに、こうして祭神が記されているだけでも有難いものです。さりとて祭神の西町の大神、自分は全く知らない。人が集まり、町となり、それにともなう禍から護ってもらうことが目的だろうから、火之迦具土大神が祀られていても違和感はないけれど、ここは「西町の大神」として受け入れておくものだろう。最近は空を妙な飛翔体が飛び交ったり、身近で不気味な地震も起きている。そんな中でも毎日平穏な日々が送れている事に感謝。僅かな賽銭・大きな願い、本日最後の参拝。最近は小銭を取り出す機会も減り、寺社の賽銭が主になって来たように思う。さりとて両替も手数料がいる妙な時代。管理される側には迷惑かも知れないと考えるようになったのは自分だけでしょうか。とはいっても電子決済ですか? なにかしっくりとしない。燈籠と鳥居には「皇紀2600年記念」と刻まれており、皇紀2600年が西暦1940年に相当するので、昭和15年に寄進されたものでしょう。もう少し廻りたいところですが、説明会に遅刻しかねない。何より、先に説明会を受けていたかみさんの雷が落ちかねない、そろそろ会場に向かう事にしよう。神社東側で見かけた海抜表示「0.4㍍」、短い足の膝までしかないんかい。数値に驚くと共に妙に納得するものがある。西町神社創建 / 不明祭神 / 西町の大神、伊勢の大神、熱田の大神、津島の大神」所在地 / 名古屋市熱田区大宝3-3-10大宝 八幡神社から西町神社徒歩ルート / 西へ徒歩10分程参拝日 / 2023/02/12関連記事 / ・神野神社 (熱田区神野町)・おさすり佛(熱田区神野町)・社名不明社(名古屋市熱田区西野町)と無縁地蔵菩薩 ・熱田社 (名古屋市熱田区二番) ・熱田 八剱社 (名古屋市熱田区一番)・水天宮社(名古屋市熱田区白鳥)・八幡神社(名古屋市熱田区大宝)
2023.04.24
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岩崎御嶽社東名日進JCTの西側にあたりの日進市岩崎町竹ノ山、そこに聳えるのが標高131mの岩崎御嶽山。かつて広大な田畑が広がり、長閑な農村の風情がありました。近年は急速な宅地化により、住宅が立ち並び、その勢いは山の西側まで迫っています。岩崎御嶽山のほゞ全体が岩崎御嶽社の境内といっても過言ではなく、山中には岩崎御嶽社、中之院、少し離れた住宅の立ち並ぶ高台の頂に奥之院が鎮座します。上は中腹にある駐車場に掲げられている観光マップ。あじさい遊歩道を歩き、八大龍王、功徳天満宮と上ってきました。今回は功徳天満宮の東向かいにある岩崎御嶽社とお助け穴不動を紹介します。社頭全景。岩崎御嶽山のほゞ山頂に鎮座しその始まりは、万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされる神社で大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社。社頭から山頂に向け「御嶽大神」の白い奉納幟がはためき、山頂の社殿に向け石段が続きます。石段の両脇には数えきれないほどの霊神碑や石仏が安置され、恰も木曽の御嶽山に来ているような雰囲気に包まれています。上り口左の堂。中には八海山大頭神王、不動明王、子供の守護神十二大権現が安置されています。右側には飛騨地方で見られる「さるぼぼ」に似た、色とりどりの「さるぼこ」が無数に安置され、それを持ち帰りお守りにすると子宝を授るらしい。自分のイメージでは女の子を授かりたいなら赤、白は男の子と勝手に思い込んでいたが、黄色や水色などもあり考えを改める必要がありそうです。鳥居から続く石段の両脇には、無数の霊神碑やこうした不動明王像や行者像、小さな鳥居を構えた稲荷が立ち並ぶなど神仏習合色の強い境内です。境内は岩崎御嶽山八十八ヶ所霊場にもなっており、表情や年代の違う石仏が安置されており、八十八ヶ所の石仏を究めたい向きには楽しめるかも知れない。鳥居から見えていた石段を上り詰めると、ニノ鳥居を構え、手水舎、社務所、開祖殿などが建つ開かれた境内に出ます。ここから一段上に拝殿、本殿の社殿に続きます。禊舎。日頃下界で暮らし、自ら犯した罪や穢れにまみれた体を清める場所だろう。それはさすがにここは手水で清めよう。生憎、大きな龍の口からは清水が注がれていなかった。上社務所。下左が開祖殿で正面奥が社殿。開祖殿。すべての瓦に山丸三の紋が入る。普寛行者が考案した紋とされ、上から山の意匠は霊峰御嶽を現し、三本の線を囲む〇は宇宙を現すもので、三本線の真ん中の線が宇宙の根本とされる大日如来、上の線が不動明王、下の線が摩利支天を表している。開祖殿前の狛犬(寄進年未確認)。石段を上り詰めた先の御嶽社拝殿。手前の香炉の上には羽を広げた鳳凰があしらわれ、香炉から漂う線香の香りからして神仏習合の香りは漂っています。左に穴不動の案内板があります。徒歩1~2分程で山肌に作られた穴の奥に不動尊像を祀った「お助け穴不動」に至ります。岩崎御嶽社拝殿を守護する狛犬。(寄進年未確認)。上拝殿額。下拝殿内の額。上本殿の千木鰹木。軒丸瓦などここにも山丸三の紋が入ります。下拝殿左から回り込んだ本殿全景の眺め。※中院に続く道はこのエリアではなく、写真左方向の本殿の左下(正面からだと右)に道が続いています。拝殿に戻り、参道と開祖堂方向を振り返る。ここから写真右手の穴不動に向かいます。拝殿前の案内板に従い、心細くなるような山道を下っていきます。途中には案内板も整備され迷うことなく2~3分で辿り着けます。訪れたのが3月7日という事もあり、木漏れ日の差し込む明るい杜でしたが、若葉が芽生える今の時期は少し表情は変っているかもしれません。上分岐看板から下に見える穴不動全景。訪れる前は素掘りの洞窟をイメージしていましたが、実際に訪れて見る佇まいは若干ギャップを感じるものでした。こうして見るとコンクリートのトンネルの様に見えなくもないですが、素掘りの洞窟の入口部分を崩落防止のためこのような形で補強しているようです。下穴不動内部。入口から少し入ると地盤が露わになり素掘りの洞窟となりますが、足元はセメントで固められ不安はありません。防空壕の様にも見えますが、薄暗い穴の奥に石像や蝋燭台が置かれ、ここで修行を積む目的だけのため掘られたもの。子供の頃、学校や親から「絶対に近寄るな」と云われていた近所の防空壕跡に悪ガキ一同で探検に行った時の事が蘇ってくる。その探検隊の結末は案の定、おまわりさんに補導され、親や先生からこっぴどく叱られた。今のようにゲームや携帯もない時代、子供の好奇心を掻き立てるものは家ではなく外にあった気がする。この岩崎御嶽社は、杜の中を網の目のように作られた枝道や石像群など、歳を重ね冒険心を忘れた元悪ガキにとって好奇心を掻き立てる雰囲気があります。次回は、本殿正面から見て右にある写真の道を奥に進んだ先に鎮座する中之院を掲載します。岩崎御嶽社創建 / 万延元年(1860)祭神 / 大己田貴命、少彦名命所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山参拝日 / 2023/03/07関連記事・功徳天満宮(岩崎御嶽社)・八大龍王(岩崎御嶽社)・岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社
2023.04.21
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鶴岡八幡宮の境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」から舞殿方向に進むと、左右に伸びる流鏑馬馬場が現れます。そこから右に進んで鶴岡八幡宮境境内社の末社「白旗神社」・摂社「若宮」に向かいます。境内マップ上の白旗神社、若宮の位置は〇で囲った位置になります。鶴岡八幡宮の朝は通勤・通学のため流鏑馬馬場を通り、鎌倉駅に向かう人々の姿から始まり、その多くが本宮に一礼し足早に駅に向かう光景が印象に残ります。流鏑馬馬場を進むと左側に鳥居と石畳の参道が奥に伸びています。この先が「白旗神社」に続きます。参道右に控え柱の付く手水舎。かつての鶴岡八幡宮は神仏混交の一大伽藍を持ち、境内には大塔などの仏教施設がありました。享保17年(1732)に描かれた境内図鶴岡八幡宮境内絵図では、明治以前(神仏分離以前)の境内の様子が描かれていますが、それらは後の神仏分離により取り壊されます。この手水鉢には神仏混交時の名残を感じさせるものがあります。手水舎から流鏑馬馬場方向の眺め。鶴岡八幡宮末社「白旗神社」広い鶴岡八幡宮の境内、上宮に向かう大石段の右手側に鎮座します。訪れたのが1月18日という事もあり、周囲の樹々はまだ〃冬枯れたものですが、今頃は芽吹きを迎え、鮮やかな緑一色に包まれているでしょう。朝とは言え、上宮へ参拝に訪れる方の姿はありますが、大石段の右に鎮座する若宮や白旗神社を訪れる方の姿はほゞ見かけず、静かな一日の始まりを迎えています。白旗神社全景。同じ社名の大蔵「白旗神社」は頼朝公をお祀りしていましたが、境内の白旗神社の御祭神は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝と子で三代将軍の実朝公の二柱をお祀りし、「武衛殿」とも呼ばれる。社殿は黒漆塗りで、一部に金箔の貼られたシックで落ち着いた外観が印象的です。社殿は銅葺屋根の切妻平入の社殿に長い唐破風向拝が付くもので、所謂拝殿に該当する建物は付属していません。右手の解説。白旗神社御祭神 源頼朝命、源実朝命例祭日 5月28日必勝、学業成就の御神徳があり、今も篤く崇敬されているようです。柳原神池側から見る社殿、向拝の長さを強調するにはもう少し横から見たいものです。黒塗りの破風に金色の笹竜胆がアクセントになっている。弁柄で塗られた向拝の内側は梁や斗供は黒漆で塗られ、黒地に施された彩色がより鮮やかに見え、品のよさを感じさせるもの。白旗神社の創建は、正治2年(1200)に朝廷より「白旗大明神」の神号を賜り、源頼朝を祭神として、北条政子が上宮西側に創建したと伝わるようですが、これには諸説あるようです。現在の鎮座地は、明治以前までは薬師堂が鎮座していたようです。後の神仏分離令に伴い、明治18年(1885)に実朝を祀っていた柳営社を合祀し現在地に遷座したようです。その後の修復暦は分かりませんが、一部に彩色の剥離などありますが全体的に綺麗な社殿です。白旗神社創建 / 正治2年(1200)遷座 / 明治18年(1885)祭神 / 源頼朝命、源実朝命例祭日 / 5月28日所在地 / 鎌倉市雪ノ下2-1 鶴亀石(左)と由比若宮遙拝所(右)白旗神社から若宮方向に続く参道左側にあり、鶴亀石と称する二つの石が安置されています。神社の解説によれば、この石を水で洗うと鶴亀のような紋様が現れるそうで、天保12年(1841)に編纂された「相模国風土記稿」の中にも鶴亀石は記されているようです。由比若宮遙拝所は八幡宮の元宮である由比若宮をここから遥拝する場。更に左に進み若宮へ。大石段の右側に鎮座する若宮全景。入母屋造りの拝殿と幣殿が連なり、その奥の切妻造りの本殿へ連なる権現造りのようで各々銅葺屋根。何処から見ても本殿の全容が掴めませんが、文化庁DBによれば五間社流造と記されていました。黒を基調としたシックな外観の白旗神社に対し、朱で彩られた若宮は、そこかしこに金色の飾り金具が施され、華やかな外観の印象を受けます。若宮に祀られる祭神は応神天皇の御子、仁徳天皇、履中天皇、仲媛命、磐之媛命の四柱が祀られ、ご利益は子授け・安産・子宝、必勝、安全祈願などのようです。手前の授与所と若宮妻側の眺め、若宮には左三つ巴の紋が入る。若宮は源頼朝が治承4年(1180)に鶴岡若宮新宮として創建、一時期に於て鶴岡八幡宮の中心的な建物だった。治承5年(1181)、鶴岡八幡宮の本格的な社殿の建立の後に鶴岡若宮と改められる。建久2年3月(1191)、鎌倉大火で多くの社殿と共に若宮は消失、すぐに再建に動き出す。建久2年11月(1191)、再建を終えると共に、京都岩清水八幡宮の御神霊を改めて勧請する。現社殿は、江戸幕府2代将軍の徳川秀忠により行われた鶴岡八幡宮の大改修時のもので、寛永元年(1624)に建立されたものとされ、直近では令和元年(2019)に塗りなど補修の手が入っているようです。鶴岡八幡宮摂社若宮創建 / 治承4年(1180)元社殿 / 寛永元年(1624)祭神 / 仁徳天皇、履中天皇、仲媛命、磐之媛命所在地 / 鎌倉市雪ノ下2-1参拝日 / 2023/01/18関連記事 / ・鶴岡八幡宮境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」・北条義時法華堂跡・白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓・鶴岡八幡宮 今宮
2023.04.20
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厳島神社の外宮「地御前神社」へ向かう道すがら、西光寺の天蓋松に見惚れ一旦足を止めました。その西向寺を後に地御前神社を目指し南へ5分程進むと、高台に鎮座する「地御前・大歳神社」に出会い、ここでも再び足を止め立ち寄らせてもらいました。(若干かみさんの目は△になってきたような)社頭の目の前に山陽本線と広島電鉄宮島線の線路が続き、更に先の海岸線を国道2号線と三つの動脈が並行して伸びている。その先の海岸からは厳島神社が鎮座する宮島も目と鼻の先。社頭には石の明神鳥居と両脇に石灯籠が連なっています。三段に分け築かれた石垣の中ほどに、境内に続く石段があり、注連縄鳥居の先に拝殿の姿が見れる。かみさんには少し待ってもらい足早に参拝に向かいます。高台に造成された境内の西側の奥に入母屋瓦葺の拝殿が建てられています。僅かに高いだけの境内ですが、眼下に地御前の町や港を望み、タイミングが良ければ社頭を通り過ぎる電車の姿も見られる。拝殿右側から幣殿と瓦葺流造の本殿の眺め。何れも木造で、木の温もりを感じる色合いを留めたもので、建物に目立った傷みも見られず綺麗な外観でした。境内をひと回りしましたが、社殿以外に境内社の姿は見当たらなかった。拝殿前を守護する狛犬。燈籠の陰になり、樹々に包まれ見落とすところ。狛犬の外観は風化により劣化し、どちらも毬を持っているようですがもともとの姿はイメージできない。台座の寄進年を探して見ましたがはっきりせず、年代も不明てす。境内に神社の由緒は掲示されておらず、創建など詳細は分からなかった。取り敢えずひと回りを済ませ、参拝させてもらいました。拝殿に掲げられた「神威○○の額」に昭和30年の元号が見える。神輿を安置する拝殿から幣殿、随神が守護する本殿方向の眺め。幣殿入口の額は「大歳神社」とある。神社詳細は分からないが広島県神社庁の地御前・大歳神社の紹介は以下となっていた。「祭神は大國魂神を祀る。由緒は明治15年(1882)、佐伯郡地誌編集控によると、寛政元年(1789)の勧請とされ、現在地に鎮座と考えられる。それまでは、地御前村神賀の平原(現在、この地名は使われていない)に鎮座され、『芸藩通志』には、嚴島外宮(地御前神社)鎮座以前、地御前村(現在の廿日市市地御前、地御前北、阿品、阿品台)一村この社を同じく祀るという里人の伝承があるという。例祭(10月第2日曜日)」とある。後日、自宅で調べて見ると、地元の方が郷土を語り継ぐ目的で編纂した地御前郷地史に辿り着き、もう少し詳しい内容が記されていたので以下に紹介します。「地御前地域の守り神で、地御前の氏神さんとして高台に鎮座され、詳細は不明であるが地御前神社と変わらない歴史がある。現在地の前は、田屋地区の奥深い平原(仮称大歳)の地に祀られていた。寂しい谷間に民家も少なく、地御前地区は火災も多く地区を守るためにも町場におろしてくれと、お告げがあったため、江戸時代寛政元年(1789)9月25日に現在の地に鎮座された。氏神様は、各地域の集落の高台に鎮座されており、部落全体を見渡し世の中の景気が良くなれば、祭りも盛り上がり村全体が潤ってくるといわれている。大歳神社の祭神名は、大国魂命(おおくにたまのみこと)である。守り神は、農業から国土経営に協力された神で、大国の御魂といわれる記録が残っている。現在の社殿は、石鳥居をくぐり石段を登った高台にあり、前側が段差4段の桟敷に築かれており、流鏑馬 (馬飛ばし) の観覧席で、海岸の砂浜で馬を(流鏑馬)走らせ、沖側に観客が棒で追いやり水際に追いやるほど豊作といわれた。昭和26年(1951)に社殿の地を1段削り落とし、その砂を村上家の蔵の跡に埋め立て、講堂・青年会館が建築された。よって、現在の社殿は、昭和30年に再建された。大歳神社の境内には、桜の木が植えられ 4月の花見の季節には、地域の方の憩いの場である。秋祭りには、青年会が神輿を担いで年1回の御神幸が行われます。昭和25年(1950)頃までは、急な石段を登り二つ山の上段で祭典が執行されていたが、 現在は今市稲荷神社で御神幸御旅所祭が執行される。秋祭りの前日(ヨゴロと呼ばれています)には、御祓い行事として御獅子が町内を廻ります。秋祭りは、5ヵ町村が合併されるまでは、中の九日の10月18・19日、 今では10月第2土・日曜日に行われている。」と紹介されていました。自分には「奥深い平原(仮称大歳)の地」の場所は特定できませんでしたが、人里離れた北部丘陵地帯から海辺の地御前地区の火災を見るに見かね、自らこの地に遷座を命じたという内容です。遷座が寛政元年(1789)とあるので、創建時期は更に遡る事になり、拝殿の額や社殿が綺麗なのも1950年の再建によるもの。少し気になっていた社頭の石垣が、まさか流鏑馬を見るための桟敷とは思ってもみなかった。大きな境内で目を見張る社殿ではないですが、綺麗に手入れされた神社を見るに、地御前に住む人々からとても崇敬されているのが伝わってきます。石段から東側の社頭の眺め。社頭の向かいの方形屋根の建物は釈迦堂で、創建時期は不明ですが、地御前神社の神宮寺の本尊で室町時代に作られた像高が2.9㍍もある釈迦如来坐像を安置するようです。地御前の町を歩いていると、こうした堂が多い事に気付きます。・・・かみさんの姿が見えない、目と鼻の先の地御前神社に向かったようだ。地御前・大歳神社創建 / 不明遷座 / 寛政元年(1789)再建 / 昭和30年(1955)祭神 / 大國魂神所在地 / 広島県廿日市市地御前4-12-12参拝日 / 2023/03/03関連記事 / 智秀山西向寺 (広島県廿日市市地御前)、
2023.04.19
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鎌倉の中心といえる鶴岡八幡宮の境内社「旗上(はたあげ)辨戝天社」三ノ鳥居をくぐり、参道を挟んで左右にある二つの池「平家池」と「源氏池」その源氏池の中の島に鎮座します。前日は人波が途絶えなかった段葛も、朝一番は子供達の通学路に変わり、三ノ鳥居から境内も一望できます。平日の朝8:00の太鼓橋から舞殿(下拝殿)と本宮(上宮)の眺め。この時間の鶴岡八幡宮は静まり返った朝の表情を魅せ、境内を通り通勤・通学に向かう人影と参拝に訪れる地元の方が玉砂利を踏みしめる音が聞こえてくる。日中とは別の趣ある光景が広がっています。鶴岡八幡宮の開門・閉門時間は季節で違うようで、10月〜3月は6時〜21時、4月〜9月が5時〜21時のようです。上は鶴岡八幡宮の境内マップ。左上の破線は前日に参拝を済ませた今宮で下の二つの丸が今回掲載する、太鼓橋と旗上(はたあげ)辨戝天社。鶴岡八幡宮境内絵図享保17年(1732)に描かれた境内図で、明治以前(神仏分離以前)の境内の様子を示した絵図である。将軍徳川秀忠の命により寛永元年(1624)から寛永3年(1626)にかけ描かれたもので、当時の諸社・諸堂の姿を伝えています。参道を挟んで水路で結ばれた二つの池があり、右の池が源氏池で左の池が平家池。平家池には4つの小島、源氏池には三つの小島が見られ、当時も今も変わることはない。太鼓橋。現在は通行は出来ませんが、仮に通行禁止でなくともこの急な橋を好んで渡る気にはなりません。こうして見る石造の太鼓橋は、1923年の関東大震災で崩落後の昭和2年(1927)に架け替えられたもの。橋脚や橋桁などはコンクリート製で、その上の床板や欄干は石造で欄干に青銅製の擬宝珠が施されたもの。側面から見る太鼓橋は綺麗な曲線を描き、眺めるにはいいが、実用的とは思えない程の勾配があります。往古の太鼓橋は石造ではなく、朱塗りの木造橋でその姿から赤橋と呼ばれていたようで、絵図にも朱の橋が描かれ、太鼓橋の右に木造橋が架けられいたのも分かります。太鼓橋は現世と神々の世界を結ぶ架け橋で、ここから先は例え将軍といえども下馬しなければならない。太鼓橋右の源氏池と中の島に鎮座する辨戝天社の全景。昨日は本宮に向かう多くの参拝客の姿がありましたが、辨戝天社に訪れる参拝客はさほどでもなく、写真撮影や参拝もスムーズ。人影のない中の島の全景だけは朝くらいしか望めないかも知れません。訪れたのが1月という事もあり彩りは寂しいですが、桜の樹々が多く、桜の時期には華やかな光景に変わる事でしょう。ここから下の写真は前日に撮影したもの。旗上弁財天社が鎮座する中の島に架かる神橋。橋の手前、島全周に白地に二引きの奉納幟がはためき、頼朝が平家掃討の旗揚げする光景を感じさせる。旗上辨戝天社御由緒記(一部抜粋)「治承4年(1180)8月、源頼朝公は伊豆国に源家再興を上げ、石橋山の戦いに敗れ房総に転じ、10月鎌倉に移るや直ちに鶴岡八幡宮を創建、居館を定め平家打倒の本拠地とした。頼朝の妻北条政子は平家滅亡の悲願を抑えがたく、寿永元年(1182)大庭景義に命じ境内の東西に池を造らせ、東の池を源氏池と称し三島を配し、三は産なりと祝った。西の池は平家池と称し四島を造り、四は死なりと平家の滅亡を祈った。そして源氏池の中の島に辨戝天を祀ったのが旗上辨戝天社の始まり。明治初年の神仏分離により、境内にあった堂塔と共に辨戝天社も排除されたが、後の昭和31年(1956)篤信家の立願により再興される。同55年9月(1980)、鶴岡八幡宮創建800年を記念し、江戸末期文政年間の古図に基づき現在の社殿が復元された。因みに辨戝天信仰は、鎌倉時代には既に盛んに崇敬され、妙音芸能の女神、福徳利戝の霊神として広く仰がれている。当社に祀られていた辨戝天像(重文)は鎌倉彫刻の代表傑作と評され、種々の御神徳が如実に具現化された人間味溢れる御神像(鎌倉国宝館所蔵)である。祭日 例大祭 4月初巳の日、祈願祭 毎月巳の日。政子石拝観。古来より縁結びの霊能があり、姫石とも称し広くしられる。」太鼓橋と左右の橋は二つの池を繋ぐ水路に架けられているもので、鶴岡八幡宮境内絵図が描かれた当時は太鼓橋(赤橋)と右の橋の二つだったのが分かります。中の島の入口に建つ朱の明神鳥居から境内の眺め。頼朝の旗挙げに際しては、家運長久の守護神辨戝天が現れ、源氏再興の霊験を授けたと伝えられる。全面朱で彩られた小さな社殿は、3柱の女神を祀るに相応しい佇まいをしている。祭神は由緒にある様に多紀理昆売命、多岐都比売命、市寸嶋比売命の宗像三女神をお祀りします。全体に派手な装飾はなく、正面蟇股の琵琶を奏でる天女の透彫りがアクセントになっています。旗上(はたあげ)辨戝天社は鎌倉七福神のひとつをなす弁財天ゆかりの地で、鎌倉の七福神をお祀りする寺社は以下。・毘沙門天 鎌倉市小町の宝戒寺。・布袋尊 同市山ノ内の浄智寺。・寿老人 同市小町の妙隆寺。・夷神 同市小町の本覚寺。・福禄寿 同市坂ノ下の御霊神社。・大黒天 同市長谷の長谷寺。・辨戝天 ここ旗上辨戝天社。これに江ノ島の江島神社の辨戝天を加えたものが鎌倉・江の島七福神となるようで、専用の御朱印帳も用意されています。かみさん曰く一つ頂くと残りの空白が埋めたくなるので見送ったようで、今思えば一之宮巡りも西国三十三所巡礼もこうして始まって行きました。ただこの七福神巡りは全て鎌倉でコンプリート出来るので、滞在時間に余裕さえあれば巡れない事はなさそうです。白いパイロン沿いに社殿後方に回り込むと、赤い玉垣に囲われた一画があり、そこには政子石が安置されています。頼朝が政子の安産を祈願したとされる陰陽石で、子宝、夫婦円満、恋愛成就の御利益があるという。政子石。子宝を授かるご利益以外にも縁結びや夫婦円満のご利益も授けて頂けるようです。縁あって結ばれ、二人の子宝を授かり、今更これ以上…夫婦円満?一度角が生えだすとそりゃ恐ろしいだけに、ここはご利益を授かろう。作法は仲良く二つ並んだ石を両手で同時に撫でることらしい、さすればたちどころに角は消え失せる、らしい。鶴岡八幡宮の御朱印を頂きにいったかみさん。人波に巻き込まれたくないおやじは太鼓橋で忠実に待っているはずだった、これはやばい!戻ろう!鶴岡八幡宮境内社 旗上辨戝天社創建 / 寿永元年(1182)再建 / 昭和31年(1956)祭神 / 多紀理昆売命、多岐都比売命、市寸嶋比売命所在地 / 神奈川県鎌倉市雪ノ下1-8-31関連記事・白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓・北条義時法華堂跡・今宮
2023.04.18
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2月3月4月6月
2023.04.17
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八幡神社水天宮から次の目的地熱田区大宝に鎮座する八幡神社に向け堀川左岸を上流に向かいます。すぐに先の御陵橋を渡り白鳥公園方向へ。御陵橋。人道橋の御陵橋は地下鉄神宮西駅方面と白鳥庭園を結ぶため、昭和62年(1987)に架けられた橋で、白鳥御陵になぞらえてその名が付けられたようです。朝な夕なには、橋の中ほどの踊り場から眺める堀川と水面に写り込む街並みは趣のある表情を見せてくれます。この橋と上流の熱田記念橋が架けられたお陰で、歩く者にとっては対岸に渡るには便利になりました。八幡神社は対岸に見えている国際会議場方向を目指します。対岸に渡り白鳥公園へ。公園の中央に広い水場があります。1610年に福島正則により開削された堀川、名古屋城築城の資材やその後の物流を支え活躍しました。ここはかつて堀川を遡る資材の荷揚げや船の係留場所として作られた太夫堀と呼ばれた大きな入江で、その後は木曽の山々から切り出された木材を集積する白鳥貯木場として利用されていました。しかし、1959年の伊勢湾台風ではここに係留していた流木が被害を大きくしたことから、埋め立てが進み、現在は白鳥庭園、白鳥公園、名古屋国際会議場などに姿を変え、堀川と貯木場をつないでいた三つの水門も中水門だけとなり貯木場の名残を感じさせます。かつて浮かべられていた丸太はなく、海鳥たちの憩いの場となっています。国際会議場の西側が目指す八幡神社で赤のマーカーの位置になります。この辺りは熱田神宮の神領で、大正9年(1920)時点でも周辺は水田が広がる地域、当時の地図に八幡神社の鳥居の印は見られません。ここに鳥居が記されるのは、北から急速に田畑が消え宅地に変わり、現在の名古屋市中央卸売市場への引き込み線が消える少し前の昭和8年(1933)発行版からとなります。この八幡神社の詳細はよく分からず、印だけ見れば大正末期から昭和初期に創建された様に捉えられます。大宝第一公園の西の区画に鎮座する八幡神社全景。一帯は高層住宅や住宅、商業施設が広がり、一面水田だった面影は微塵も感じさせない。八幡神社社頭から境内の眺め。右に無人の社務所、鳥居の先に拝殿、本殿とあり、本殿の左右に境内社があります。手水鉢は参道左にあり寄進年などは見られなかった。右が社務所、銅板葺の切妻拝殿は四方吹き抜けのもので、その先に渡廊があり本殿域に繋がります。拝殿とそれを守護する狛犬、左右の境内社。訪れたのが2月中旬という事もあり、境内に雑草一つなく、境内はとても綺麗に維持され、参拝に訪れても気持ちがいい空間があります。頻繁に人の手が入っている事を窺わせます。狛犬は鋭い牙を持つ子持ち毬持ちで、一部彩色され臼化粧が施されたもの。(寄進年未確認)ここまで見た寄進物で一番古いものは、社頭の社号標が大正9年(1920)で一番古いものでした。先の地図は大正9年に測図され、大正12年に発行されたものなので、やはり創建は大正9~12年なんだろうか。建屋も社務所は綺麗で、100年を経たものとは思えず、一度補修の手が入っているようです。賽銭を投入、まずは参拝。拝殿右から境内社の秋葉社と八幡社本殿の眺め。秋葉社。社名札はありませんが、たまたま通りがかった地元の御婆ちゃんによれば、「右が秋葉で左が津島」との事なのでその言葉を尊重させてもらいます。八幡社本殿。銅板葺の流造で飾りは少ないけれどしっかりと作られたもの。祭神は応神天皇。こちらも祭神や社名を示す札がなく、願わくばそうした札が架けられていると有難い。本殿左の津島社と脇参道の鳥居。社名札を探す怪しいおやじに声をかけてくれたのが御婆ちゃんで、彼女に出逢わなければ不明社ですましていただろう。近頃は寄進物の損壊や窃盗など起きる変な世の中になってきた、寺社でキョロ〃しようものなら不審者に思われかねない嫌な世の中になってきた……そんな気がするのは自分だけか。ボランティア説明会の時間まであと少し余裕がありそうなので、もう一社参拝していこう。八幡神社創建 / 不明祭神 / 応神天皇境内社 / 秋葉社、津島社所在地 / 名古屋市熱田区大宝1-8参拝日 / 2023/2/12水天宮社から八幡社 / 北へ徒歩20分強関連記事 / 水天宮社(名古屋市熱田区白鳥)
2023.04.15
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春の陽気につられ、岐阜県の恵那市方向の春の山々と土岐川支流の小里川上流の小里川ダムまでドライブに出かけてきました。今回はその工程のトピックスを掲載します。出かけたのは2023/04/11、名古屋市内から庄内川を遡り、定光寺から瀬戸方向に向かいます。みくに茶屋国道363号線沿いにある郷土料理のお店で四季折々の素材を用いた食事を提供する店。かみさんが一度行ってみたいと言っていたお店でここで少し早目の昼食。店舗入り口の看板にあるように、通年でじねんじょ料理が楽しめ、この時期は山菜を提供してくれる。じねんじょが苦手のかみさんが敢えて行きたいと言ったのは、こちらの山菜天ぷらで春の苦みを味わいたかったのだろう。看板の後方はテラス席があり、樹々に囲まれた庭にはハーブが植えられ、ラベンダーも植えられるようです。また、店舗入り口で五平餅や川魚を焼いており、その魅力的な香りに誘われそうになる。店内。古民家をリノベした店内は、立派な梁を現した木の温もりを感じさせるもので、照明も好感がもて落ち着いた雰囲気のもの。キャンプ用の唯々眩しいLEDランタン、こんランプシェードを作りたいのだが一向に形になっていない。お品書き。じねんじょ推しのお店だけにこうなる。じねんじょアレルギーのかみさんにはつらいお品書きですが、「菜めし田楽定食」などもあり困る事はない。ねばねば大好きおやじは「自然薯定食」単品メニュー。この中から「花山葵の醤油漬け」と「山菜天ぷら」をオーダー。自然薯定食。このとろろの量に対して、御飯の量は若干少ないが迷うことなく一気にぶっかける。家で自分が作る時はもう少し固めなのですが、これは食べると云うより飲み物感覚でおいしく頂ける。田楽と山菜天ぷら。本来は5本で提供されますが、お店が気を利かせてくれ1本サービスしてくれました。天ぷらはタラの芽、旬の筍やウドはじめニラの根の天ぷらなど。この中でニラの根の天ぷらは絶品だった、たかが根っこがここまでニラの風味を主張するものとは。次回は秋の味覚きのこを目指して訪れる事にしよう。みくに茶屋所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野3038-1みくに茶屋の前を走る国道363号線を東に少し行ったところで見かけた南宮神社。国道脇に石鳥居を構え、石段が続いており、少し行けば社殿だろうと勝手に思い込み、一人で参拝に向かう。幾つかの石段を上ると、その先は林間に参道が続き社殿は見えない。これは奥が深そうで、かみさんに怒られるパターンだ。参道の先に怪しい影もないので先に進む、ウグイスの鳴き声が妙に心強く感じる。林間の参道を進むと右側の頂に続く石段があり、そこを上った所に境内が現れる。大きな杉の杜に包まれ神秘的な雰囲気の境内は、拝殿とその先で覆殿につながり、雪深い土地柄なのが伝わってくる。詳細は調べきれていないのではっきりした事は分かりませんが、鳥居の寄進年が大正8年で祭神は金山毘古神を祀るようです。南宮神社祭神 / 金山毘古神所在地 / 岐阜県土岐市鶴里町柿野2829国道363号線と国道419号の交わる瑞浪市陶町大川付近の山々。芽吹き始めた淡い緑と山桜が春の山里の光景を見せていました。春とは言ってもこの日の気温は22℃を示し、北側のお隣の多治見では25℃と初夏を思わせる陽気。今回の道のりには「○○一」と銘打つ見所が幾つかあり、ここは世界一大きな「美濃焼の狛犬」と世界一大きな「茶壺」のあるところ。国道の交わる三叉路から少し右に行ったところに、駐車場があり駐車には困らないでしょう。ここには二つの世界一と八王子神社があり、立ち寄っても時間の無駄にはならないだろう。三叉路の角にある巨大な美濃焼の狛犬。周辺にはこの他にも美濃焼の大小様々な表情をした狛犬が置かれています。そもそもが瑞浪市政35周年を記念し、国道419号線の起点と終点の瑞浪市と高浜市の交流を深める目的から故郷創生資金を財源に平成2年(1990)に焼かれたもので、阿形・吽形共に高さ約3.3㍍もある巨大なもの。使用された土も瑞浪と高浜の土をブレンドしたもので、こんなところにも趣旨が盛り込まれている。狛犬の前後には焚口も残されています。見上げるばかりの狛犬は、なにかエジプトにでも来たような妄想に陥る。一つ目の「世界一」世界一の美濃焼こま犬所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町大川この場から国道363号線を少し歩いた右の斜面に次の「世界一」があります。「世界一の茶つぼ」豊穣の壺と呼ばれ、瑞浪市の陶町に点在する古窯のひとつ大川窯の陶工の茶壷をモデルにして、平成10年(1998)に委員会を立ち上げ、地域住民総出で製作日数一年を要して作られたもので、高さ5.4㍍、直径が4㍍もあるギネスに認定された茶壷。製作に関わった人たちにとって、自分やその子供にも誇れるモニュメントとして残っていく。豊穣の壺所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町八王子神社。集落を見下ろす山の中ほどに鎮座する八王子神社。鳥居の先にはここにも陶製の狛犬が安置され、愛嬌のあるお互いの顔を見合っています。岐阜県神社庁によれば「元禄14年(1701)再建の棟札があり、昭和6年(1931)3月1日陶町大川字十三塚に鎮座した無格社天神社を合併」とありました。もう少し調べたうえで後日改めて掲載します。社名の通り、祭神は天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命、田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命をお祀りする神社。境内社は社頭の燈籠の竿には「牛頭天王・秋葉山・大神宮・金毘羅宮」と刻まれており他に天神社、稲荷社が祀られているようです。境内の今は拝殿左の靑紅葉が逆行に透かされ美しい時期を迎えていました。境内右から兎岩登山道の案内板が掲げられ、登山道は杉木立の比較的明るい山奥に続いています。気持ちの良さげな道の雰囲気ですが、入口に「熊出没注意」の看板があるので、こちらに参拝し、熊鈴をつけて歩いた方が気持ちは落ち着くかと。八王子神社所在地 / 岐阜県瑞浪市陶町大川716さて次は「道の駅おばあちゃん市・山岡」に向かい、地元でとれた山菜を買い出しに向かいます。写真の看板を363号線の右に向かい、小里川を下り小里城大橋を経由して車で15程の移動時間。運転手なので写真はありませんが、小里城大橋は一般道に架けられた無料の橋にしては、目を見張る規模のもので、これにより稲津の町の上空を一気に渡る。長さは420㍍、最大高は約80㍍ととても壮大な橋で余程の有力者か企業がいると見える。道の駅「おばあちゃん市・山岡」県道33号線沿いの小里川ダムの湖畔沿いの高台にある道の駅。ここでは地元のおばあちゃん、おじいちゃんの育てた野菜や御餅、この時期の山菜が手に入ると聞きゴールと位置づけて訪れた。到着したのは間もなく14:00、平日なので商品は残っているだろうと甘い考えでいたが、駐車場は多くの車が駐車し、道の駅は多くの客で賑わい、野菜や山菜は既に売り切れ状態。「こごみ、ワラビ、ウド、コシアブラ、タラの芽」の札だけが空しく掲げられていた。残念、帰りに他の道の駅にも寄ってみよう。この道の駅はそうした目的以外に、目的地にしてもいいだけの「○○一」があります。それがこの「日本一の水車」この地区は明治から大正にかけて、陶石を粉末にするための石粉水車が利用されていたそうで、小里川ダムの建設で水没した地域は特に多く水車が多かったらしい。今は湖底となり、地場産業を支えた水車を象徴するシンボルとして平成16年(2004)に完成したのがこの水車。観覧車と見紛うばかりの大きさは実物を見ないと伝わらないかも知れません。水輪の直径は24㍍で水車を支える柱脚は約14㍍もある。周囲を山々に囲まれた景観に高層の建築物がない事もあり、その大きさは数値以上に大きく感じられます。この水車も先程の橋もダム建設による恩恵なのでしょう。道の駅と水車の光景。つり橋を渡って歩いて10分もかからない距離にある小里川ダムに向かいます。橋からダムの提体は間近に見えますが、巨大な構造物なので歩くとそれくらいの時間はかかります。1日5000歩は歩きたい我家は、こうした目標でもなければ達成なんてとても無理。「歩きたくない!」向きの方はダムの提体脇に駐車場もあるので車で行くのがお勧めです。小里川(おりがわ)ダム。一級河川庄内川(土岐川)の支流小里川に平成16年(2004)に完成した多目的ダムで、今どき流行のダム印が手に入る。技術の粋を結集したダムの提体の右岸・左岸の両脇には、青龍、白虎、朱雀、玄武と名の刻まれた巨岩が置かれ、ダムを守護している。ダムの提体の上は一般道で両脇に歩道があり、中央にエレベーターがあり無料で提体内の見学ができます。提体上部からおりがわ湖と道の駅と水車の眺め。これから木々の緑は一層濃いものに変っていきます、ある意味今が一番の見頃なのかもしれません。提体中央にあるエレベーターホール。ダム本体の長さは約331㍍、堤高は114㍍、提体の底面は約170㍍に及ぶコンクリートの要塞。このダムが溜める水の量は12,900,000㎥と全く実感の湧かない量。提体の中央のエレベーターで展望テラス、最下部の下流広場を見学でき、そこに向かう通路には構造や工事の様子、湖に住む魚類、湖底に沈む村々の映像が公開されており子供の社会勉強に向いている。堤内は常時室温は15℃前後で、夏場の避暑に最適な場所かも知れない。提体上部から左の展望テラスと下流広場を覗き見る。冗談でも後ろから押されたくない。それにしても山々の淡い緑と山桜の色合いが美しい。エレベーターホールは無人で、記名した上で2階、一階を見て廻ります。ただこの案内の最下部の「乗り遅れると戻れなくなる」の注意書きだけは見ておいてください。最悪の場合提体の左岸脇の非常階段を114㍍登る事になるやも…114㍍下の下流広場からダム天端を見上げる、人影は点でしかない。無料で普段味わえない貴重な体験ができるのでお勧めしたい。道の駅おばあちゃん市・山岡、小里川ダム所在地 / 岐阜県恵那市山岡町田代1565-169さて、本来ならばここで帰途に着く予定でしたが、山菜を諦めきれず、もう一つ道の駅に寄ってから帰る事にしました。道の駅上矢作ラ・フォーレ福寿の里。道の駅おばあちゃん市・山岡から国道418号線を約30分程東進した、矢作川水系の木の実川沿いにある道の駅。ここでなければ潔く帰ろう。かみさんは直売所へ直行、おやじは対岸のモンゴル村方向の景色を写真に収め合流する。木の実川右岸の桜、見頃は過ぎていますが、まだ〃綺麗に見られました。護岸整備中で川に重機が入り、吊り橋しか入れれませんでしたが流れは綺麗でした。かみさんと合流、唯一残っていた葉付きのウドを買い求め晩御飯の一品としました。道の駅上矢作ラ・フォーレ福寿の里所在地 / 岐阜県恵那市上矢作町3566-1・ウドの葉は天ぷら、皮をきんぴら、茎は軽くあくを抜いてから、からしマヨネーズ和えで楽しみました。となれば酒が飲みたくなるもの、滋賀で買い求めた藤井本家の旭日大吟醸で乾杯、今日一日を締めくくりました。久しく動かしていなかったおやじの車も、快調に動く事が確認できた、さあ車中泊で遠征しようか?2023/04/11今回の走行ルート市役所から道の駅上矢作ラ・フォーレ福寿の里一般道ルート / 77km、約2時間
2023.04.14
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藤居本家琵琶湖東岸に注ぐ愛知川右岸に建つ老舗酒蔵「岡村本家」創業は天保2年(1831)と江戸時代から続く酒蔵です。直売店舗から道路を挟んだ北側に蔵があり、見学はこちらへ案内されます。蔵の入口の左は大隴神社が鎮座しています。蔵入口。丸に剣片喰の紋の入った暖簾をくぐり酒蔵見学へ。蔵の一部が「かくれ蔵藤居」として予約制の飲食スペースが併設されており、酒蔵の入口にしてはお洒落な雰囲気が漂っています。貯蔵庫の一部。隣の蔵の大棟を支える欅の柱は、今では容易に手に入らない見応えのある太い柱が連なります。趣のある蔵はTVのロケでも使われたといいます。年輪を重ねた欅は酒蔵の棟を支える柱に生まれ変わり、倉の歴史と共に新たに時を刻み酒を育んできました。薄暗く古い酒蔵には木の妖精と酒を育む妖精が住んでいる。かくれ蔵藤居営業日は不定休で、予約のみのようで昼は12:00~14:00、夜は17:00~22:00のようです。酒蔵に手を加え、落ち着いた雰囲気の中、料理を食べながら美味しい酒が楽しめる。カウンターは長く倉を支えてきた欅をテーブルに転用し、あらたな時を刻み始めたもの。樽を利用したテーブル席もあり酒蔵らしい演出がされています。直売店舗の試飲スペースでは藤井本家の製品が勢揃いし、何れも制限なく試飲させてもらえました。但し、飲み残しは絶対にやめて欲しいとお願いされます、丹精込めて育てた製品に対する作り手のプライドを感じる。どれも個性のある製品で何を買っていくか迷う事間違いない。結局こちらでも何銘柄か買ったものの、写真を撮るのを忘れ全て飲んでしまい、ここに載せる事はできませんが、個人的な好みですが「旭日」は美味しく楽しめました。5月3・4日には蔵開きも予定されているようです、ここは宿も近くにあるようですし、電車に揺られて酒訪れたいと思っています。藤居本家所在地 / 滋賀県愛知郡愛荘町長野793 訪問日 / 2022/12/27関連記事 / 岡村本家(滋賀県犬上郡豊郷町) 、大隴神社
2023.04.13
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北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓。白旗神社(大蔵白旗神社)と頼朝墓を後に、山裾沿いを東に向かうと左手に北条義時法華堂跡に続く石段が現れます。石段両脇に常夜灯が立てられ、石段の先が北条義時法華堂跡がある。安政5年(1859)に寄進された毛利家の一文字三星の紋が刻まれた常夜灯。石段を上り切ると視界が開け、右側に源頼朝墓で見かけたものと同じ「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」と記された石標が立っている。右の解説の内容は以下。「貞王3年(1224)、北条義時の没後、供養のために建てられた墳墓堂(法華堂)の推定地とされ、平成17年(2005)の発掘調査で堂跡の遺構が発見された。堂は鎌倉時代後期には廃絶したと見られ、背後は宝治合戦で敗れた三浦一族にゆかりがあると伝わり今も供養されている「やぐら」や江戸時代以降に整備された大江広元等の墓所があります。」吾妻鏡に記されていた北条義時法華堂の位置と、遺構の位置が合致する事から北条義時法華堂と推定地されるようです。法華堂(義時の墳墓堂)跡。遺構調査から分かった柱や縁束の礎石部分に杭が立てられ、屋根に降った雨を流すための溝(雨落ち溝)を白い線で表しています。頼朝の法華堂跡に比較すると規模は大きかったように見えます。正面に見えている二つの石段の先が白旗神社の石標に刻まれていた「大江広元、毛利季光、島津忠久の墓」へ続きます。鳥居左の山肌には「やぐら」と呼ばれる洞窟の入口が見えます。この発掘調査の写真がある事で説得力がありますが、これがなければ今一つ実感が湧かない。解説によればここから瓦や土器などが発見され、それらから幾たびか焼失、再建を繰り返し、13世紀末から14世紀初頭には堂は廃絶したと推察されるようです。石段左洞窟。ここは13~15世紀頃の横穴式墳墓で鎌倉幕府の御家人三浦氏が供養されている。宝治元年(1247)に起きた宝治合戦で、北条時頼に攻められた三浦泰村以下276人が頼朝の法華堂に籠り自害したとされ、ここで三浦一族の供養が行われていたと云う。「やぐら」と呼ばれる洞窟は入口は狭いけれど、内部は左右に広がりがあり、供養塔へは屈まなければ近づけません。訪れる方は今も絶えることはないようです。石段の右に解説があり内容は以下のようなもの。「近世に造営された3つの墓所この階段の上には、毛利季光、大江広元、島津忠久の墓所があります。これらは、元々は古墳時代後期に造られた横穴墓であったものを転用し、江戸時代以降に島津氏及び毛利氏が造営したもの。左 毛利季光の墓毛利季光(生年不明~1247没)、鎌倉幕府の御家人で、幕府の創設に貢献した大江広元の第四男で、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物。朝廷と幕府が争った承久の乱(1221)で武功を挙げ、幕府の要職である評定衆に就くなど重用されました。しかし、北条氏と三浦氏が争った宝治合戦(1247)で妻の実家である三浦氏に味方し、戦に敗れた三浦氏一族とともに源頼朝の法華堂で自害したと伝わります。季光の墓所は、大江広元の墓が造営されたのと同じ文政6年(1823)に、毛利斉煕により鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷の地)に造営されたが、大正10年(1921)にこの地に移設された。中央 大江広元の墓大江広元(生年不明~1225)、鎌倉幕府の政所初代別当を務め幕府の初代将軍源頼朝の側近として鎌倉幕府の創設に貢献した。公家出身の広元は、鎌倉幕府と京都の公家との間の交渉で活躍し、頼朝の死後も、遺された正室北条政子や第二代執権北条義時とともに幕府の運営を支えた。広元の墓の左隣の墓にまつられている毛利季光は、大江広元の四男であり、代々長州藩主となる毛利氏の祖となる人物です。この墓は、その縁から、文政6年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕が造営したものです。右 島津忠久の墓島津忠久(生年不明~1227没)、鎌倉幕府の御家人で、代々薩摩藩主となる島津氏の祖にあたる人物。忠久の祖母が源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用され、平家追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘の惣地頭に任ぜられる。島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説が伝わっており、安永8年(1779)、時の薩摩藩主島津重豪が頼朝墓に近いこの地に忠久の墓を造営」毛利家の一文字三星紋が入った常夜灯があるのも分かるような気がする。石段脇の手水鉢には寄進年や文字、家紋などの痕跡は見られなかった。石段の先は三つの横穴式墳墓があり、奥から毛利秀光、大江広元、島津忠久の墓が並んでいます。左側の島津忠久の墓。中央の大江広元の墓。左側の毛利秀光の墓。鎌倉幕府を支えた三氏の墓はこうして残りますが、石標に書かれていた義時の墓は見かけない。上は現地VRから法華堂のCGを現地写真に貼り付けたもので、瓦葺の方形屋根の堂だったようです。霊屋としての法華堂は消失を繰り返し荒廃していったようですが、堂の再建はともかく、義時の供養塔のひとつが立てられなかったのだろうか。頼朝により開かれた鎌倉幕府150年の歴史の中で、頼朝亡き後、執権政治を確立した北条家は権力の集中ととも、鎌倉幕府終焉の地東勝寺へ向かっていきます。北条義時法華堂跡、三浦泰村、大江広元、毛利季光、島津忠久の墓所在地 / 神奈川県鎌倉市西御門2-5頼朝法華堂碑から徒歩ルート / 東に1分程関連記事 / 白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓
2023.04.12
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熱田区一番の八剱社から白鳥橋を渡り、堀川左岸沿いを遡り、自動車販売店の裏の路地に入り込む。住所で云えば熱田区白鳥1丁目、こちらに水天宮社が鎮座しています。八剱社から徒歩15分もあれば社頭に辿り着けます。上は白鳥橋から右手にある白鳥古墳(白鳥御陵)方向を望む眺めで、水天宮社は右手のひと際高いビル付近に鎮座します。水天宮社の鎮座地は赤いマーカーの辺り。左の大正時代の地図には、堀川右岸に幾筋も水路が見え、帝室林野管理局貯木場とありますが、これが白鳥貯木場で、現在は白鳥公園や名古屋国際会議場として埋め立てられました。ここが江戸時代から木曽の山々から切り出された丸太の貯木場だったと感じることがないかもしれません。往時の白鳥は白鳥駅も作られるなど、一大集散地として木材を取り扱う多様な産業で賑わったようです。しかし大きな被害をもたらした伊勢湾台風では、ここに係留、貯木していた大量の木材が被害に拍車をかけたことや、木材輸送の形態の変化から徐々に衰退し、現在の姿へと移り変わってきました。水天宮社頭全景。右手に由緒が刻まれた石碑、左手の社標は「水天宮社」とあり、石段先の境内に石の神明鳥居(2006)があり、その先に社が祀られています。境内左の手水舎。手水鉢には深い緑色をした龍の姿もある。岩の上に全身を乗せた陶製のもので、清水は注がれていませんでした。本殿域全景。参道両脇に子持ち毬持ちの狛犬が守護しており、本殿域には三つの社が祀られています。左は伏見稲荷大明神、中央が水天宮、右に一社ありますが詳細は分かりません。参道脇を守護する狛犬(寄進年度は未確認)。水天宮社。福岡県の久留米市に鎮座する水天宮(久留米水天宮)を総本宮とする全国的に知られる神社で、祭神は天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮・二位の尼をお祀りする神社。この地方であまり見かける事のない神社と云えるかもしれません。地史から水天宮社、伏見稲荷大明神を調べましたが、具体的な事は分からず詳細は分かりません。幸いにも社頭に由緒が刻まれていたのでそれが唯一の情報となるでしょう。以下は由緒からの抜粋。・久留米市鎮座の水天宮より安政4年(1857)に勧請。・白鳥町字中島守随氏邸内に祀られていたが昭和4年(1929)にこの地に遷座した。・水神また安産の神として崇敬されている。・例祭は7月5日・境内社は秋葉社、稲荷社をお祀りする。実にありがたい、右の社が分からずにいたが、秋葉社である事がはっきり記されていた。秋葉社、伏見稲荷社の勧請年度は由緒には書かれていませんが、昭和4年に水天宮がこちらに遷座するにあたってその際に勧請されたものかも知れません。白鳥町字中島守随(しゅずい)氏邸内の所在までははっきりしなかったが、守随家とは江戸時代に設置された衡制統一を図る目的から、東の江戸に守随家、西の京都の神家の両家に秤の製造、販売、調整を一元管理させ、それら管轄エリアに出張所の秤座を展開し衡制統一を図っていた。この熱田は東の守随家管轄で出張所が設けられていたのだろう。現在でも中川区にその技術を継承し会社として存続しており、そこが邸宅だとは思いませんが、東を拠点とした守随家のお膝元には、本社水天宮の分社にあたる水天宮もある事からこちらに勧請されたのかもしれない。水天宮本殿域全景。左が伏見稲荷大明神、水天宮、秋葉社が整然と祀られています。背後には、かつて多くの材木が集積されていた堀川と貯木場だった白鳥公園が控えています。今は姿を変えたこの辺りですが、子供の頃の記憶にそうした光景は残っています。貯木場が姿を消したのは昭和58年(1983)頃、つい最近の事で記憶にあってもなんら不思議ではない。水天宮社創建 / 安政4年(1857)祭神 / 天御中主神・安徳天皇・高倉平中宮・二位の尼境内社 / 伏見稲荷大明神、秋葉社所在地 / 名古屋市熱田区白鳥1-4公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「熱田神宮西」降車、南西に徒歩10分程関連記事 / 熱田八剱社 (名古屋市熱田区一番)
2023.04.10
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0409今日は名古屋市議会議員選挙・愛知県議会議員選挙投票日。騒がしかったウグイス嬢の選挙カーもなくなり、漸く本物のウグイスの鳴き声が聞こえるようになった。いい加減引退したら?、綺麗ごとばかりで具体策の候補者、よほど美味しいものなんだろう。半数にも満たない組織票で当確を決めさせることは、有権者としては絶対に放置はできない。我家なりに与党の行い含め、期待する候補者に一票を投じてきました。全ては投票から始まるだけに、棄権だけは避けたいもの。投票所からの帰り道。近くの公園の藤棚を通りかかると、4月も始まったばかりなのにもう藤が見頃を迎えていました。その下の植え込みではサツキ、八重桜が咲きなんと季節感のないこと。花咲く順番があっただろうに一斉に花開きだした。この温もりの中でみんな咲きたいばかりのようだ。開花時期のズレた花はなんともできないけれど、旬を過ぎた候補者の選定が出来るのは我々の一票。
2023.04.09
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広島滞在二日目宮島に向かう広島電鉄宮島線の地御前駅で一旦下車し、地御前神社に向け街並みを歩いて見ました。地御前駅から踏切を越え、左手の地御前の街並み方向に向け歩きだす。地御前の町の入口に掲げられた地御前史跡マップ。駅が〇、マップの場所が⇩。今回の目的地「智秀山西向寺」は☆印の位置になります。因みに駅からこのマップまでの所要時間は2~3分程、ここからマップに従って西向寺までが2~3分程です。山陽本線の北側にあたるこの通りは、どことなく旧街道のような趣のある通りで、狭い道沿いには家々が立ち並び、地御前神社に続きます。マップから2~3分程で左に観音堂があり、その斜め向かいに写真のような鐘楼門が見えてきます。立ち寄る予定はありませんでしたが、門の前を通りがかり、このまま通り過ぎるには惜しい光景が目に入り、かみさんには先に進んでもらい、少しだけ道草してみました。智秀山西向寺鐘楼門。この鐘楼門は明治44年(1911)に建立された瓦葺の門で、平成13年(2001)に現在の本瓦葺きに改修された威厳のあるもの。浄土真宗本願寺派の寺院で、伝承では僧玄正が寛永2年(1625)旧大野町東部に開基したのが始まりとされ、当初宗派は違っていたようです。後の四世宗玄が貞享(1684~7)頃に浄土真宗本願寺派に改宗、高取の正傳寺の末寺となり、地御前神社の参道改修に伴い、現在の地に寺基が移転されたようです。現在の伽藍は、鐘楼門、本堂、経蔵が主な伽藍で平成に入り補修の手が入れられたようです。さて、通り過ぎるには惜しい光景とは上の写真にある1本の赤松。「天蓋松」や「蓮華松」と呼ばれるようで、樹齢が260~340年とも云われるようです。どっしりとした太い幹、上は止められていますが、そこから枝の見事な事。鐘楼門から本堂に続く石畳の参道の上を、まさに天蓋の如く覆うように伸びています。あまりに長い枝振りは、多くの支えがなくては自重を支えきれないほど見事なもの。地御前史跡マップにも一際目に付くように描かれ、地御前のシンボル的な存在なのだろう。地元の郷土史は「天蓋松」について「晴れの日には木陰を作り、地面に本堂の格天井のような影を落とし、雪が降っても天蓋松につもり、本堂まで雪を踏むことがない」とも書かれています。正に天蓋松は地元の誇るべきシンボルのようです。境内にはもう一つのシンボルとも云える大木が聳えています。山門左に聳える公孫樹がそれで、こちらも上が止められていますが、樹齢は天蓋松より更に半世紀ほど古いとされます。二本の巨木が聳える西光寺、秋は秋で境内が黄色一色に染まる事でしょう、地御前神社を訪れる際には、西向寺の「天蓋松」は一見の価値ありです。智秀山西向寺宗派 / 浄土真宗本願寺派開基 / 寛永2年(1625)本尊 / 不明参拝日 / 2023/03/03所在地 / 広島県廿日市市地御前3-22-23関連記事 / 安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り 広島Day2
2023.04.09
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前回の美濃白鳥・北濃に次ぐ二回目となります。チャギントンラッピング列車で郡上八幡駅に戻り今回の最大のテーマである長良川鉄道の観光列車「ながらかわかぜ」に乗り、車窓から桜を眺めながら奥美濃の酒を飲み美濃太田に戻ります。尚、この観光列車は当日が今シーズン最後の催行で次回は来年になります。北濃から郡上八幡到着は「ながらかわかぜ」の発車二時間前に到着。「ながらかわかぜ」は16:01発、約2時間は郡上八幡の散策と土産を買い求め調整します。郡上踊りで知られる郡上八幡ですが、町内を流れる清流吉田川はアユやアマゴなどの渓流釣りのメッカでもあり、上流には水芭蕉の群生地もある郡上八幡のシンボルです。綺麗な川の上流にはそれを育む豊かな自然があり、ひと昔前は24H無料の露天風呂があり、地元の人とも繋がりが持て、荘川のけいちゃんや山菜の見分け方など色々と教えて頂けた地元の師匠との有難い出会いにも恵まれました。仕事終わりにテントと竿を積み込んで沢に分け入っては釣や山菜を取り、疲れたら風呂に浸かり、日曜の夜に名古屋に戻る、そんな天国のような時期もありました。地元の師匠も亡くなり、コミュニケーションの場であった露天風呂も少し下流に有料の游星館が出来てからはすっかり縁遠くなりました。郡上のもうひとつのシンボル郡上八幡城。廃城令で取り壊され、石垣だけの状態だったものを、昭和8年(1933)に木造の模擬天守を再建したもので、日本最古の「木造再建城」という事です、郡上に住む人にとってシンボルといっても過言ではないものです。町屋玄麟。郡上の町には郷土料理を食べさせてくれるお店は今も残りますが、昨今はこうした新しい取り組みをしたお店が多数出店されています。マイクロブルワリー兼店舗の中庭で地下の醸造所から注がれた3種のクラフトビールを飲み比べられるのみ比べセット(1000円)をオーダーし、摘みのスモークチーズで喉を潤す。左がクリームエール、中央がビターエール、右がペールエールの三種で、多少重みのある口当たりが好みの我が家は1.ビターエール、2.ペールエールでクリームエールは個性がなく除外となった。町屋玄麟所在地 / 岐阜県郡上市八幡町新町939宮ヶ瀬橋から上流の新橋方向の眺め。子供から一人の男として認めてもらうための試金石がここにある。なんでもかんでも「危ない」として取り上げてしまう街とは違い誰も止める事はしない。次の目的地は宗祇水のある場所のすぐ横にある宗祇庵。宗祇水の横に甘味処がある事を自分は知らなかったが、かみさんは当初から目的にしていたようです。宗祇水の横から店舗に続く石畳があり店内に案内される。小駄良川に架かる清水橋を望む窓際の席に案内される。テーブルにはこうしたランチョンマットをセットしてくれます。今思えば眩しいばかりのLEDランタンの発行部分、シェードにするための素材としてもらっておけば良かったと後悔しています。オーダーしたのは単品の抹茶庵パフェ。極甘苦手の自分ですが見た目とは違い上品な甘さで意外にぺろりといける美味しいもの。テーブルの演出とパフェの彩りに抹茶のWordは、幾つになっても乙女心を持つかみさんにはたまらなく魅力的なもののようです。3月25日、窓の外の郡上八幡の樹々は春を迎え色付き始めていました。これが少しずつ、冬景色の北濃駅へと標高を上げていきます。宗祇庵所在地 / 岐阜県郡上市八幡町本町862-10野中稲荷神社。野中(やなか)稲荷神社。駅に向かう途中で見かけたお稲荷さんで、江戸時代のこの一帯は郡上藩主遠藤常友の弟大助が家臣と共に屋敷を構えた地域で、遠藤家の屋敷、土地を守護する屋敷神がありその跡地に勧請されたものが野中(やなか)稲荷神社のようで、詳しい内容は現在持ち合わせていません。16:01分発観光列車「ながらかわかぜ」がホームに到着。その1分後に通常列車が来るらしい、僅か1分でそんな運航が出来るのか?噂の通常列車503型が同一線路上にやって来た。合体!なるほど、こういう事ですか。ダイヤ上同一とすることは出来ないようで、車両の違いが1分の違いの様ですね。連結する現場を目の前にしたのは意外に初めてのことかも知れない。「ながらかわかぜ」車内。当日は川風号「ほろ酔いプラン」6,300円の今シーズン最後の運航で数種類の地酒から一人2本を予め選択、地元食材の肴を味わいながら花見を兼ねて地酒も楽しめるという酒好きにはたまらないプラン。我家の選択したお酒。右から純米酒半布里戸籍、純米吟醸あさひの夢、大吟醸百春、母情の4種。肴は郡上八幡の川合地区の農家お母さん組合『土里夢(どりーむ)』が「ここだけ、いまだけ」をテーマにして作られた「奥美濃の幸」。嬉しかったのがフキノトウ、口に含んで広がる苦みは春の訪れを感じさせるものでした。この酒の量と肴は丁度いい加減、通常車両の先で赤ら顔で酒を飲むなんて妙な気分ではある。季節ごとにプランやボリュームが変わり値段も変わりますが、楽しいイベントなのは間違いない。社内では郡上八幡から終点の美濃太田までコンシェルジュの方がお世話や意外に知らない観光名所の説明をしてくれ、新たな発見もあり6,300円は決して高いものではないと感じました。一人2本の酒で物足りなければ追加でオーダーも出来ました。到着までの約1時間半は自由に席を変え、車窓からの眺めを堪能する事ができ、僅かな距離ながら標高の違いにより桜は表情は変えていきます。これからの時期、長良川沿線はひと時の鮮やかな緑を楽しむことが出来るでしょう。それに合わせて長良川鉄道は新しいプランを再び用意してくれるでしょう。郡上八幡から美濃太田までの通常運賃は1380円なので実質約5000円を高いと捉えるか否かだと思います。個人的にはこの赤い車両に一度は乗ってみたいと思っていただけに飲み鉄には満足のできるプランだと感じました。出来る事ならこのまま家まで届けて欲しい・・・関連記事 / 「長良川鉄道」奥美濃の桜とけーちゃん買い出し(美濃白鳥・北濃)利用日 / 2023/03/25
2023.04.08
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4月4日、奈良県桜井市の多武峰に鎮座する「談山(たんざん)神社」と明日香村に鎮座する「岡寺」を車で訪れてきました。談山神社、岡寺の伽藍など改めて掲載するとして、今の多武峰と明日香村を彩る花の状況を掲載します。名古屋を6時に高速に乗り、法定速度+10km/h(違反だナ)の定速走行で一路東名阪自動車道で針ICまでひとっ走り。平日という事で高速は空いていますが、相変わらず速度と車間を制御できない「人」が操る車の多い事。警察には徹底した取り締まりを望み、どんどん反則金を徴収してもらいたい。「道の駅針テラス」で朝食を取って再び桜井市に向け走り出す。周囲の山々は芽吹きを迎え、萌黄色に染まる「山笑う」時期を迎え、ソメイヨシノも散り始めを迎えていますが、名古屋に比べまだまだ咲き残っています。9時過ぎ、談山神社東大門に到着。緑が鮮やかな時期になってきた。駐車場から緩やかに続く参道を上った先の談山神社社頭。鳥居の右側には散り始めた桜並木。談山神社。写真は総社拝殿から見た権殿・十三重塔・神廟拝所。天武天皇7年(678)創建とされ、藤原鎌足を供養の為、妙楽寺の講堂として始まったのが談山神社で、権殿・十三重塔・神廟拝所 (旧・講堂)・舞台造りの拝殿が主な伽藍。紅葉の時期は錦の山々に社殿が包まれとても綺麗な光景が見られ、それを愛でに多くの人で賑わいます。秋だけではなく、実は山々が芽吹きを迎え、山桜の咲くこの時期が一番美しい表情を魅せてくれます。その昔、この辺りの四季を通じてスライドに収めた頃がありました。少し離れた高台から霞に包まれた萌黄色の山を背景に、手前の白い桜に埋まれる様に佇む談山神社が実に美しく、あの光景を再びデジタルに収めたくてかみさんを口説いて訪れました。やはり足繁く通わなければ、あの光景は見られないようです。訪れた時には既に桜のピークは過ぎ、かつて絶好のスポットだった場所?は周囲の樹々が成長し、当時の面影はなく、何処で撮ったかすら分からなくなっており、遠景を収めることは出来なかった。談山神社は新緑、紅葉の美しい時期に、このけまりの庭で古の装束を身にまとい蹴鞠祭りが行われ、その光景を見に訪れる観光客も多い。神廟拝所内の祭神である藤原鎌足像。神廟拝所はかつて飛鳥時代後期の白鳳8年(679)に定慧和尚の父・藤原鎌足の供養の為、妙楽寺の講堂として創建したのが始まりとされ、仏教色の強い神社でもあり、内部の壁面全周には羅漢や天女の像が描かれています。内部の撮影は許されていますが、ストロボ撮影は控えたい。総社拝殿から見る十三重塔。こうして見る塔は天文元年(1532)の再建で、木造の十三重塔としては世界唯一のもので、藤原鎌足の供養のために建てられたもの。風が吹き抜ける度に桜吹雪となる。拝殿廻廊から見る桜、既に葉桜になろうとしていました。多武峰談山神社由緒より「御祭神 藤原鎌足公飛鳥・法興寺で行われた蹴け鞠まり会えにおいて出会った中大兄皇子 (後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。鞍作くらつくり(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を陳のべよと。中臣連、皇子を将ひきいて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の謀を談ず。」と記されています。この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり「大化改新設合の地」の伝承が残りました。現在の社号の「談山神社」もここからきています。天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いと知った大皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏は、ここから始まります。鎌足公の没後、御墓は摂津国 阿威あい山(現在の大阪府高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678)唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙楽寺と称しました。さらに、大宝元年(701)方三丈の神殿を建て、鎌足公の御神像を安置しました。これが談山神社の始まりです。」随分久し振りに訪れましたが、少し離れて眺める姿は今も趣があっていい。多武峰談山神社所在地 / 奈良県桜井市多武峰319名古屋から車アクセス / 東名阪自動車道・名阪国道・国道25号経由奈良市針町の針IC・国道369号・県道198号・国道166号・県道37号で桜井市多武峰街道・県道155号で3時間程度 談山神社から車で石舞台古墳を経由し15分程の距離にある「岡寺」へ。岡寺は奈良県明日香村の東にある岡山の中腹に位置し、綺麗に公園化された石舞台古墳からもほど近い。真言宗豊山派の寺院で西国三十三所観音霊場第七番札所。四季折々に趣を変え、美しい景観を見せてくれる寺。昨今は花手水の岡寺として知名度が高いようで、手水舎や華の池はじめ、境内の小さな鉢などにも花があしらわれ参拝者を迎えてくれます。華の池にもこうして花があしらわれ、水面一面に散りゆく桜の花弁が埋め尽くしています。…花弁がピンクなら一層いいのだろうが、そんなタイミングは一瞬です。ソメイヨシノは間もなく葉桜も近く、当日は枝垂れ桜が綺麗に咲いていましたが、それも風が通り過ぎるたびにひらひらと舞い落ちています。本堂全景。以下は岡寺由緒からの抜粋。「昔には日本の首都、飛鳥京の中心地 飛鳥板蓋宮(大化の改新が起こった場所)、現在は明日香村行政の中心地「明日香村役場」の東に位置します。過去においても現在においても政(祭りごと)・行政の中心地のすぐそばに位置しております。『東光山 真珠院 龍蓋寺』、古来より土地の名から『飛鳥の岡にある寺』⇒『岡寺』と親しみをこめて呼ばれており、宗教法人名も『龍蓋寺』ではなく『岡寺』となっており、『岡寺』の名で知られております。西国三十三所観音霊場の第七番札所として西国霊場草創1300年来、第七番の観音様として信仰を集めており、また日本最初やくよけ霊場としても知られています。現在は真言宗豊山派に属しておりますが、創建当初より江戸時代までは開山の義淵僧正が法相宗の祖であったことから法相宗興福寺の末寺であり、興福寺から別当(住職)を選出しており、室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務しておりました。江戸時代に長谷寺第32代化主(住職)法住が岡寺に入山して中興第一世となって以来、長谷寺の末寺となり今日に至っています。同じ西国札所の興福寺・長谷寺とは昔から深いかかわり合いがあるお寺です。」主な伽藍は仁王門、楼門、本堂、奥之院、三重宝塔、大師堂、鐘楼堂が主な伽藍。八重の椿は幾分落花していますが、まだしばらくはこうした艶やかな姿を見せてくれそうです。この他に境内ではシャガがひっそりと咲き誇っています。岡寺の境内の桜が葉桜になろうとするこの時期から5月にかけて、境内を彩る花は石楠花に移り変わっていきます。4月に入ったばかりだというのに境内の石楠花はつぼみも膨らみ、既に咲き始めていましたが、牡丹は流石にまだ〃。以前に比べ花が咲く時期が早くなっている気がしてなりません。5月に見頃を迎えていた室生寺も既に開花しているかもしれません。境内は今、靑紅葉が綺麗な時期を迎えています。岡寺本尊 / 如意輪観音座像所在地 / 奈良県高市郡明日香村岡806談山神社から岡寺車アクセス / 約15分程奈良。うんざりする人込みの京都に比べ、静かで落ち着けるところなのかもしれない。今は吉野の桜に向かう観光バスも、間もなく石楠花や牡丹の花が咲きだすこの辺りを目指してくるのかな?2023/04/04
2023.04.07
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2月8日バスツアーで高山の町を訪れ、市営神明駐車場から舩坂酒造店の試飲を終え、そこからフリータイムとなり其々の高山を目指し解き放たれる。我家の目的は飛騨の小京都とも称される高山市街にある酒蔵巡りでしたが、その途中で幾つかの秋葉神社を見かけました、今回は古い街並みの中に佇む社を取り上げます。高山の歴史は古く、奈良時代には国分寺と国分尼寺など建てられ飛騨の中心として栄えていた、現在見る城下町の礎が築かれたのは、戦国時代の金森長近(1524~1608)による高山城の築城より形作られたといっても過言ではないでしょう。高山城のあった城山の西にあたり、古い木造建築が軒を連ねる町並は四季折々に趣を変え一大観光地となっています。中橋。市内の中央を流れる宮川に架かる朱の欄干が印象的な高山を象徴する橋。この正面には高山陣屋もあり人通りの多い観光スポットで、お天気カメラでも宮川と中橋の絵を良く見かけると思います。所在地 / 岐阜県高山市川原町49日枝神社御旅所。中橋から高山陣屋方向に渡った左側に日枝神社御旅所が鎮座してます。宮川右岸の城山に鎮座する日枝神社、旧高山城下町の南半分の氏神様で地元高山では山王さんと称され、古くから親しまれてきた神社。飛騨路に春の訪れを告げる日枝神社の春の例祭(山王祭)、秋の訪れを告げるのが櫻山八幡宮の秋の例祭(八幡祭)で二つの祭りを高山祭と称し、飛騨の匠の技を凝縮した12台の屋台が曳き揃えされることで知られます。この日枝神社御旅所は春の高山祭(4月14・15日)で重要な役割を持っています。例祭では日枝神社御祭神(大山咋神)が神輿に収められ、獅子舞や闘鶏楽、裃姿の多くのお供を引き連れ町を神幸行列したあと、神輿は中橋を渡りこの御旅所に据えられ一夜を過ごされます。華やかな屋台も曳き回された後、中橋を渡りこの御旅所の前に集結、この広場の前で御祭神にからくりが奉納されます、この御旅所は春の高山祭の中心となる場所です。御旅所の左に授与所もあり日枝神社に足を伸ばさなくても御朱印を頂けるようですが、普段はひっそりと佇んでいます。日枝神社御旅所所在地 / 岐阜県高山市川原町49御旅所の向かいに鎮座する琴高台組秋葉神社。広い歩道の中央に玉垣で囲われた神域に常夜灯と神明造の三社相殿の社が祀られています。三社を祀るこの趣はどことなく屋根神様に通じるものがあります。地元であれば秋葉さん、熱田さん、天王さんとなるところでしょうが、三社が何かや創建時期等の詳細は不明です。琴高台組 秋葉神社所在地 / 岐阜県高山市川原町50-4高山の町を歩いていると、こうした秋葉さんを祀る社が町割りごとに祀られているようで、市営神明駐車場から中橋、上三之町、上二之町の限られた範囲だけでも、複数祀られています。上三之町秋葉神社。琴高台組秋葉神社から中橋渡った右側に鎮座し、高い基壇の上に琴高台組秋葉神社と同様の社が祀られています。社は上三之町の通りを見通す場所に鎮座し、あたかもこの通りを見守る様に佇んでいます。こちらの社には5本の鰹木と外削ぎの千木が施されています。上三之町 秋葉神社所在地 / 岐阜県高山市神明町4-14-14上二之町 秋葉神社。旧高山町役場の右に鎮座し、歩道から石橋と石段が設けられた先に鎮座しています。こちらの社は上三之町の秋葉神社と同様の造りになっています。こちらの社が見つめる先は、上二之町の通りを見据えています。上二之町 秋葉神社所在地 / 岐阜県高山市上二之町97-97上二之町にある酒蔵二木酒造の軒下にも三面ガラス張りの屋根神様が祀られています。試飲で立ち寄っていたので入店時に気付けば教えてもらう事も出来ただろうに。二木酒造所在地 / 岐阜県高山市上二之町40上二之町 南車台組 秋葉神社こちらは牛の握りを食べた金乃こって牛から南に進んだ右側の赤い屋根の覆屋に祀られていた秋葉神社。上二之町 南車台組 秋葉神社所在地 / 岐阜県高山市上二之町28-28上一之町 秋葉神社。上一之町交差点南角の公衆電話の裏側に鎮座し、上二之町、上三之町の秋葉神社とは同じ造りの社。こちらの秋葉さんが見守る先は上一之町の通りを見通す事が出来る。所在地 / 岐阜県高山市上一之町110金森長近が礎を築いた高山の街並み。木造家屋が軒を連ねる事から、高山の町は江戸時代からでも幾度も大火を経験し、享保14年(1729)には975軒、天明4年(1729)には2342軒を全焼する大火を経験しており、一度火が出れば延焼を防ぐために周囲の建物を壊すことが当時の消火のセオリーだったはず、火に包まれなくとも火元の近くの我家は壊されていく。城下町に住む者は運命共同体として火に対する意識は高かくなって行き、意識だけで補いきれない不安を火伏の神を祀る事で心の安心を得てきたのだろう。今回見かけた秋葉さん以外にも高山市内には多くの秋葉さんが祀られ、それらは今も変わることなく身近な存在として大切に護られています。地元名古屋の旧城下町も同様で、火伏の神は減ったとはいえ、四間道などでは屋根神として軒下に祀られる姿が残ります。伝統的建造物群保存地区として観光客には趣のある城下町の光景ですが、町角に祀られている小さな社にはそこに住む者にしか分からない意味がある。隣近所の付き合いや運命共同体の意識は希薄になり、密集した個の集まりになった街には火伏の神は煩わしいものでしかないのかもしれない。訪問日 / 2023/02/08関連記事 / バスツアーで蔵元巡り#2 『高山の蔵元』
2023.04.04
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岐阜県美濃市の小坂酒造場から始まったツアーは、目的地高山まであと少しの所までやってきました。美濃では晴れていた空模様も雪雲が垂れこめてきた。高山に繰り出す前に飛騨高山まつりの森で昼食を頂く。広い駐車場を持て余すかのように駐車場はガラガラの状態。まだまだ山には雪は残り、駐車場の片隅にも除雪した雪が山のように積み重なっている。ツアーの昼食はすき焼き。昼にしてはボリュームがあり、ツアーの食事にしては肉も予想以上の質の良さ。これだけ並ぶとやはり飲みたくなる、ここはビールで乾杯。飛騨高山は、岐阜県北部に位置する歴史と自然に恵まれた観光地で、戦国時代には飛騨を平定した金森長近により城下町が形成され、飛騨の政治・経済の中心地として栄えてきました。江戸時代の面影を留めた商家や、歴史の中から生まれ受け継がれてきた高山祭などの伝統行事、飛騨の匠で知られる伝統工芸などが継承されるなど、飛騨の小京都とも言われ海外からの観光客で賑わっています。市内を宮川が流れ、高山の古い町並みには高山陣屋や合掌造りの民家を移築した飛騨の里など日本の原風景を感じることができる他、高山ラーメンやみたらし団子などの多様なB級グルメなど楽しめますが、飛騨高山は日本酒の産地でもあり、200年以上の歴史を持つ酒蔵が数多くあります。伝統的な技術と地元の水や米を用い造られた酒は、多くの愛好家の喉を潤わせてきました。今回は飛騨高山の古い町並みにある五つの酒蔵(舩坂酒造、原田酒造、二木酒造、平田酒造、平瀬酒造)を掲載します。上は三之町の光景、国内に留まらず海外から訪れた多くの観光客で賑わっていました。今回バスツアーで高山を訪れましたが、ツアーの中に舩坂酒造店の試飲見学が含まれており、こちらの中庭で試飲させていただけました。舩坂酒造は、高山の上三之町で200年以上続く酒蔵で、大文屋として酒造りが始まったそうです。代表銘柄は深山菊や甚五郎などです。店舗入り口には飲兵衛横丁があり、有料のコインサーバーから色々な銘柄を楽しむことができます。ツアー用の試飲として出してくれたのが「しぼりたて生酒 深山菊」と「ゆず酒 ゆず兵衛」の二つです。冬「しぼりたて生酒 深山菊」は冬の醸造の一番最初に作られる酒で、この酒の出来栄えからその一年の酒質を知るバロメーターになる。「ゆず酒 ゆず兵衛」は日本酒とゆず果汁をブレンドしたリキュールで、女性に好まれる味わいかもしれません。舩坂酒造店所在地 / 岐阜県高山市上三之町105舩坂酒造で試飲を終えると、ここからフリータイムとなり其々の高山を目指し解き放たれる。我家は主に酒蔵を巡る。原田酒造場。舩坂酒造店と道を挟んだ向かいにあり、江戸末期の安政2年(1855)に、徳川幕府直轄地「飛騨」の旧城下町「三之町」で酒造業を始めた蔵元。元々は国府の庄屋で、灘・伏見の酒造りに注目した初代当主・打江屋長五郎が酒造業を営んだことに始まり、銘柄の山車(さんしゃ)は高山祭の山車からきている。酵母に拘りを持っており、多様な花から得られた花酵母を用いた酒や酒を用いた地酒チーズケーキなど個性豊かな製品を提供している。原田酒造場所在地 / 岐阜県高山市上三之町10上二之町にある二木酒造、創業元禄8年の酒蔵で玉乃井、氷室の名は個人的に馴染みのある銘柄。暖簾の左に加賀屋の屋号が書かれていますが、初代当主が石川県出身だったことから加賀屋の屋号を付けたようです。玉乃井の名は、建物の中央にある井戸水を酒造りの仕込みに使っていたことに由来するようで、明治初めの大火で建物の大部分を消失したそうですが、江戸時代の図面をもとに再建されたのが現在の姿。こちらでも有料試飲ができます、但し12:00から13:00と16:00以降は受付していないようです。二木酒造所在地 / 岐阜県高山市上二之町40二木酒造から通りを少し北に進んだ左にある平田酒造場。飛騨の華の銘柄は見かけた事はあったが、味わう機会がなく蔵元も初めて訪れました。無料で試飲も出来るので品定めして買う事ができます。平田酒造場のルーツは江戸時代に飛騨高山の中心部で鬢付け油とろうそく屋を営む商家の5代目当主が、明治に入り酒造業を始めたそうで、今回訪れた蔵元では比較的創業は新しいようです。試飲させて頂いた「極辛口 特別純米酒 飛騨の華」は日本酒らしく自分には合っていたが、かみさんの好みではなく、自分用に小瓶を買い求める。平田酒造場所在地 / 岐阜県高山市上二之町43平瀬酒造所。創業年代は定かではないようですが、江戸時代の造酒屋帳の高山の造酒屋56軒の記載の中に平瀬の名が残ると言います。久寿玉の語源は、「薬玉」から由来し、百薬の長「久寿玉」に置き換えたものだとされます。飛騨の国道沿いでは久寿玉の看板も良く見かけ、高山方面の民宿や旅館などでも良く口にするもので、飲みやすく、特に久寿玉の濁りは我が家では馴染みのあるものです。平瀬酒造所販売店内の様子。店内では平瀬酒造所を代表する銘柄から三種類を500円で試飲できるスペースもあり、思う存分きき酒を楽しめます。今回はお酒を圧力をかけ搾る前に自然に流れ出た生原酒の「あらばしり」と久寿玉特別純米「純米生酒」の2本を土産に買っていく事にした、リュックは既に酒で満杯状態。平瀬酒造所所在地 / 岐阜県高山市上一之町82上二之町にある川尻酒造所。天保10年(1839)創業の飛騨正宗の銘柄で知られ、昔ながらの手作りを主体にした酒造りに拘り、熟成古酒に特化した製品を提供する蔵のようで、こちらも飲んだことはありませんが、古酒に特化した製品と聞くとみりんのような色身を帯びたものが多くなるのだろう。有料試飲もありますが、高山でのフリータイムは1時間、見学は諦めて次回の楽しみにしておきます。川尻酒造所所在地 / 岐阜県高山市上二之町68バスに向かう道すがら、上二之町の「金乃こって牛」で飛騨牛握りを摘まんでバスに向かう。上の品揃えの中からAを注文、店頭は長蛇の列で会話を聞いていると大半は海外からの観光客。結構待たされ、手にした塩と醤油の二種類の握りはなかなか美味しく、昼を食べてそれ程時間も経っておらず、一人二貫は難しいと感じ一つの注文にしたが意外にペロッと行ける美味しいものでした。これは竹炭塩の握り、酒のすすむ一品でした。金乃こって牛所在地 / 岐阜県高山市上二之町76高山での1時間の自由時間は実に短く感じます。あわよくば高山東照宮参拝も考えていましたが、もう少し、せめて2時間は欲しいかな。19:10に名駅に戻る事を考えれば致し方ないか。それでもこの日だけで美濃の小坂酒造含め6蔵を巡り、其々味わうことが出来、土産も手に入れた。帰りの渋滞を心配することなく、飲みながら帰れるのはバスツアーならではもの。しかも一人2000円のクーポンと昼食が付く事を考えればお得なツアーだったと思います。あれから一か月、写真を残す前にほゞ飲み切ってしまい、写真に残す事ができたのこの二本のみ。(右の白真弓は酒屋さんで買ったもの、まったりとして米の風味を感じられる飲みやすいにごりです)またお値打ちなツアーがあれば買い出しに行く事にしよう。ツアー日 / 2023/02/08関連記事 / バスツアーで蔵元巡り 『小坂酒造場』
2023.04.03
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3月25日、長良川鉄道で奥美濃の桜とけーちゃんの買い出しに出かけてきました。この日はJRの事故もあり、乗り継ぎに全く余裕がなくなり、長良川鉄道の始発駅美濃太田までは余裕のない出だしとなりました。始発駅美濃太田から一旦美濃白鳥駅で降車し買い出しと昼食、そこから終点の北濃駅まで行き折り返して郡上八幡に戻り、観光列車「ながら」に乗って美濃の酒を楽しみながら美濃太田に戻ってくるもの。天気は曇り時々雨、そして晴というなんでもありの天気。名古屋では既に満開を迎えた桜も長良川を遡っていくと、車窓から見える桜の開花状況は徐々に時が遡っていく。上は郡上八幡駅付近の桜。長良川鉄道は昭和61年にJR越美南線から第三セクター長良川鉄道として生まれ変わり、個人的に越美南線の方が馴染み深い。スキーやキャンプの行き帰りで滅多につかまらない踏切でつかまると、妙に外した感が漂ったのを覚え、1両または2両の車両が過ぎるのを待っていたものです、当時はこんなカラフルな車両もなかった。郡上八幡駅。この辺りの桜は開間もなくという開花状態で、桜の枝はまだ少し見えています。郡上八幡を後に長良川を遡る。自然園前駅付近の長良川と右岸の桜並木。川の色は雪解けの水が僅かに混じったいかにも早春の色模様、桜は咲き始めたばかりで木のシルエットが露わになっている。春とはいえ寒そうな光景に変ってきましたこんな。今思えばこんな時期にシラメ(航海型のアマゴ)を追いかけ釣りに来ていたものです、今はただお~寒ッ。美濃白鳥駅と300型303号車両。美濃白鳥駅全景。春の陽気が漂う名古屋と美濃白鳥では周囲の樹々の様子は随分変わりようやく春めいて来たかな。駅前の白鳥おどりの銅像。郡上踊りは全国的にも良く知られますが、白鳥町の白鳥おどりもまた長い歴史を持つものです。美濃白鳥駅から西に向かい、長良川に架かる白鳥橋を渡り写真の看板を目指す。ここで最大の目的「いちまのけーちゃん」を買い求める。けーちゃんは名古屋でもいろいろ買えるようになりました。こちらの取り扱いは見た事がなく、何かのついでで美濃を訪れた際に買い求めるか、ネットで買い求めるしかなく、以前は郡上の街中の市場でも手にすることは出来ましたが、いつからか市場もなくなり、街から少し外れたスーパーまで行かないと手に入らなくなりました。今回の工程の中では白鳥のこちらのスーパーが近いので訪れました。鶏ちゃん合衆国 加盟店 高山市 飛騨荘川いちまの けーちゃん 260g 2〜3人前 冷凍便 / ケイチャン けいちゃん 鶏チャン価格:480円(2023/05/21 11:01時点 )感想:15件保冷バッグにしっかり買い込み、これでしばらく庄川の味を楽しめそうです。ここ白鳥で昼の時間を迎え、国道158号線沿いの「麺屋そわか」に立ち寄って昼ご飯。複数の飲食店が連なる一画に店を構える「麺屋そわか」。この日は名古屋で暑く感じた上着も、白鳥ではやや寒く感じるほど、温かいものが食べたい気分。若い夫婦が営み、こちらの息子さんがお手伝いするアットホームなお店で、親御さんの教育がいいのか、この息子さんの言葉使いと対応がとても丁寧で、我家の息子達に爪を煎じて飲ましてやりたいくらいだった。店内の券売機でお好みの品を選び子供店長にお渡しするシステム。写真は特製塩らぁめん。塩にしては鳥油がしっかりとスープに浮かび、穂先メンマとチャーシューに胸肉のハム、味玉がトッピングされたもの。全粒粉らしき中細麺はほのかに小麦の風味が漂い悪くはなかった。スープは意外にインパクトがあり、言い方を変えると塩気が強いと感じるもの。かみさんがオーダーした特製塩らぁめん。こちらは一見すると醤油辛そうな印象ですが、意外にさっぱりとして、高山ラーメンに通じる味わいか。明るく綺麗な店内にはテーブル席とカウンターがあり、昼時だった事もあり訪れる客が多いのには驚いた。白鳥でこうしたラーメンを食べれるとは、昔と比べ変わったものだ。麵屋そわか所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町向小駄良733 美食館高速が整備される以前は国道158線のこの辺りは、奥美濃へスキーに訪れ宿泊するための民宿やレンタルスキーの店が立ち並んでいましたが、高速の整備以降随分と寂れた印象を受ける様になったものです。布屋 原酒造場。創業元文5年(1740)とこの辺りでは老舗の酒蔵で、花酵母を用い元文の銘柄で知られます、ここで1本買いたかったが当日は休業日で諦める。ここから長良川を遡り、長良川鉄道の北濃駅の対岸には以前、平家平スキー場がありました。その名から分かるように平家と縁のある土地柄で、布屋の歴史の中にも平家と源氏に纏わる謂れが残るようです。布屋 原酒造場所在地 / 岐阜県郡上市白鳥町白鳥991美濃白鳥駅に戻り、折り返し駅の北濃駅まではここから3駅先で時間にすれば10分程か。300型307号がチャギントンラッピング列車を連ねホームに到着。北濃駅到着。名古屋は春の陽気にうかれていますが、北濃駅周辺の樹々はまだまだスイッチを入れるタイミングを見計らっているようです。ここが長良川鉄道の終着駅。本来はここから山を越え越美北線と結ばれ、美濃路と日本海側を結ぶ目論見でしたが結局叶いませんでした。ここまでです。海抜は446㍍で周囲の樹々の光景も僅か10分程下の郡上八幡とは随分違います。ここから峠を越えた荘川方面にかけて春めいてくるは5月も間近な頃になります。北濃駅の転車台。現在は使われていませんが、明治35年(1902)にアメリカで製造された転車台で、現存するアメリカ製転車台としては日本最古のもの、現在はこうして観光用に保存されています。北濃駅駅舎というか食堂というのか…、素朴な雪国の駅舎の佇まいを感じさせます。冬枯れた山肌にフキノトウが芽吹く時期。300型307号がチャギントンラッピング列車。何度か乗る機会はありましたが、今回初めて始発駅から終着駅までの2時間半を制覇した。ここから再びこの車両に乗って郡上の町に戻る事にする。チャギントン自体知らないが、息子達に誘われこんな電車に乗ったよなぁ。今時の子供達はこのキャラクターに包まれることがたまらないのかもしれない。おやじとおばんには、ただ〃「景色が見えん」2023/03/25
2023.04.02
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鎌倉市西御門に鎮座する「白旗神社」鶴岡八幡宮の境内摂社の白旗神社と混同されるかもしれませんが、こちらの白旗神社は鶴岡八幡宮のニノ鳥居から東へ徒歩15分程の大倉山麓に鎮座する神社。大倉白旗神社や白旗神社西御門などと称され、境内摂社の白旗神社と区別されるようです。清泉小学校南角から白旗神社や頼朝の墓方向に続く石畳の眺め。交差点の角に大きな看板と観光名所への案内表示もあるので、これさえ見つかれば迷うことはないでしょう。右側の大きな石碑には「大蔵幕府舊跡」の碑が建てられています。この辺り一帯は鎌倉幕府を開いた源頼朝の御所や諸役所が置かれ、鎌倉幕府の中枢があったとされる場所です。左の「よりとも児童遊園」から西に一筋行くと、西御門の石碑も立てられていることからもそれは伝わってきます。石畳の路地の突き当りが目的地白旗神社で、正面の石段を上り詰めた先に頼朝の墓が立てられています。左には「法華堂跡」の石碑があり、右手には「頼朝公顕彰碑」が建てられ、頼朝を称える歌が刻まれています。大蔵白旗神社はこの参道左側に鎮座しています。顕彰碑には「君出でて 民もしづまり九重の塵もおさまる 世とはなりにけり」大正13年に建立された「法華堂跡」の石碑。碑文は以下。「堂は元々は頼朝の持仏を祀っていたところで、頼朝の死後は頼朝の廟所となる。建保5年(1217)5月、和田義盛が反乱を起こし幕府に火を放った時、将軍であった実朝が難を避けるため避難した場所。宝治元年(1247)6月5日、三浦康村はここに籠もり北条軍と戦うも、刀は折れ矢も尽き、一族郎党500人余りは自害し、庭を赤く染めたところ」と記されています。大蔵幕府跡推定地の北隅に位置するこの場所は、頼朝の守り本尊を安置する持仏堂として始まり、正治元年(1199)に頼朝が亡くなるとこの地に葬り、持仏堂は頼朝の墓所として法華堂と呼ばれるようになった。頼朝の命日には時の将軍により仏事を執り行い、多くの武将も参列したといいます。その後も鶴岡八幡宮が祭祀を続けたが、明治維新の神仏分離にともない法華堂は明治5年(1872)頼朝を祭神とした白旗神社に改められ現在に至っています。「白旗神社」、源平合戦の際に源氏は白の御旗、平家は赤の御旗を掲げていました、そこからこの名が付いていたのかもしれません。ここにも解説が掲げられています。「薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ法華堂跡」解説は以下。「法華堂跡の東谷奥には大江広元、広元の四男で長州毛利氏の祖・毛利季光、薩摩島津氏の祖・島津忠久の墓が並び、いずれも江戸後期に薩摩藩・長州藩により整備された。」とあります。この辺りには地元小学校の児童の手による解説や、他にも鎌倉には多くの石碑が立てられ、頼朝は今も地元から慕われているのが窺われます。白旗神社境内全景。左に白旗大明神の社標、参道口に一対の常夜灯と個性的な容姿の狛犬が参道を守護しています。社頭から境内の眺め。石の神明鳥居の先にこぢんまりとした社殿が建つ。参道の素朴な容姿の狛犬。明治5年(1872)創建とされる白旗神社、150年の年月は風貌をここまで変えてしまう。外削ぎの千木が付く切妻の拝殿は実にシンプル。額は白旗明神。授与所や社務所はなく、多くの参拝客が訪れる鶴岡八幡宮と比較すると、大蔵白旗神社を訪れる参拝客は少ないようです。波乱の人生の末に武家政権の礎を築いた頼朝、こちらの御利益はもちろん勝運。そんな頼朝は相模川橋の供養の帰途に落馬し、それが要因(諸説あり)で正治元年(1199)に亡くなります、その頼朝の墓所が正面の石段を上った先にあります。ここにも解説が。この大倉山一帯が頼朝の墓の跡とされます。石段の左に「源頼朝公法華堂之舊跡」の石標が立てられています。墓所に続く石段。中ほどには神明鳥居が立てられています。石段を上り切った目の前が頼朝の墓。解説によれば、現在の塔は後の島津藩主・島津重豪(1745~1833)が整備したものとされます。香台には頼朝の家紋笹竜胆の紋と島津家の轡十文字の家紋が見られます。頼朝の墓を整備したのが島津重豪とありますが、そもそも整備前から頼朝の墓があったのか、そんな気になってくる。頼朝の墓の右に「希義公の土と石」の解説。頼朝と弟希義は平治の乱(1159)で源氏勢の敗北以降、一度として兄弟の再会は果せなかったと伝わります。希義の墓は高知市介良に残り、1994年に頼朝の墓の土と石を希義の墓の物と交換し、兄弟の再会を果たす催しが行われたようです。頼朝墓全景。頼朝の墓から少し外れた場所に、島津の名が刻まれた石標があり、頼朝との繋がりの深さを誇示するかのようでもある。手水鉢。なにか刻まれていないか探してみるも、自分の目には見当たらなかった。手水鉢の右の空間。ここにも「史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」の石標が立つ。あたかも義時の墓の様にとれなくもないですが、義時の法華堂跡や墓があったとする場所は、ここから100㍍程東に歩いた先にある、毛利秀光、大江広元、島津忠久、三浦泰村が供養されるその場所にあたるようです。この左奥に山肌に付けられた細い山道があり、そちらに続くのかと思いましたが、当日は縄が貼られ踏み入る事が出来ませんでした、石段を下りて少し東に向かう事にします。白旗神社(大蔵白旗神社)と源 頼朝墓創建 / 明治5年(1872)祭神 / 源 頼朝ご利益 / 勝負運例祭日 / 1月13日所在地 / 神奈川県鎌倉市西御門2-1-14関連記事 / 鶴岡八幡宮 今宮参拝日 / 2023/01/17鶴岡八幡宮から徒歩ルート / 東へ徒歩15分程公共交通機関アクセス / JR鎌倉駅から徒歩約20分
2023.04.01
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陽気に誘われ名古屋市昭和区の鶴舞公園まで花見に出かけてきました。どっしり構えて桜を眺めるのはじつに久し振り。地下鉄鶴舞線の鶴舞駅は平日にもかかわらず多くの人で混雑を見せ、人波が続く先は鶴舞公園だ。地上に出る前から芳しい香りが漂ってくる。鶴舞公園は1909年(明治42)、名古屋市で初めて作られた公園で、花見の名所として市内では知られる場所。公園内には多くの屋台やキッチンカーが並び、足を止めたくなりますが、どこも長い列ができ食べ物を調達するのには多少時間が必要。園内の桜はほぼ満開、以前は桜の下にレジャーシートを広げるのが定番でしたが、桜の周囲はフェンスで囲われ、以前とは一味違った視野での花見になっていました。レジャーシートを敷いてくつろげるのは市指定文化財の噴水塔東側の芝生広場、なので結構埋まっていました。陽気もいいので噴水塔近くに椅子とテーブルをセットし腰を据える。花見となると屋台のB級グルメや酒はつきもの、久し振りに訪れ、キッチンカーや屋台の多さに驚いた。肝心の桜はほぼ満開、風が通り抜けるとひらひらと花が散りはじめていました。ほぼ手ぶらで来ても飲み食いに困る事はありません。長い冬の時期を乗り切り活気が戻ったのは歓迎すべきですが値段の高さには驚いた。このご時世なので致し方ないけれど、ビールにはとにかく驚いた、泡ばっかりでカップの半分ほどしか注がれていない、これで500円とは、注ぎ方を忘れてしまったのかナ。飲み物は缶を買うかコンビニで買っていくのが正解。温かい陽射しを受けながら、おもいおもいの桜を楽しんでいました。間もなく入学式、桜はつきものでしたがどうやら桜吹雪の入学式になりそうです。鶴舞(つるま)公園2023/03/27所在地 / 名古屋市昭和区鶴舞1
2023.03.28
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広島東照宮北側から双葉山麓に鎮座する金光(きんこう)稲荷神社を経て、山頂に鎮座する奥宮に続く参道が伸びています。今回は東照宮境内社の金光(きんこう)稲荷神社と奥宮を掲載します。上東照宮北側の朱の鳥居、ここから石段を上り、一般道を越えれば金光(きんこう)稲荷神社です。下道路を渡ると脇参道の入口が見えていますが、正参道は道路を右に進んだ左側になります。上金光稲荷神社社頭。右に金光稲荷神社の解説が立っています。ここから石段を上り、まずは本殿に参拝し、奥宮を目指します。下金光稲荷神社の解説。例祭 月次祭 毎月1日、15日春季大祭 4月1日、秋季大祭 11月1日祭神 宇迦之御魂命由緒 元禄(1700年)の頃より当権現山(二葉山)に祀られる、遠き昔より商売繁盛、家内安全など諸願成就の大神として神徳を得られ金光稲荷大神として称えられている。」解説によれば奥宮へは約8分で辿り着けるとある。それ位なら仏舎利塔は無理としても、奥宮までは行けそうです。上石の神明鳥居に掲げられた額は金光稲荷神社とある。下石段中ほどから見る拝殿。社殿の建つ境内は意外に小さく、全景を入れるには自分のレンズではここまで後退しなければ入らない。本殿も鬱蒼とした杜が遮り全く見通せなかった。拝殿に掲げられている額と下が境内右側の境内社。後方の鳥居は奥宮遥拝所。社殿の鎮座する境内には三つの社が祀られており、上は境内左の流造の社で外削千木と5本の鰹木。下は拝殿右奥の社、造りは同様で内削千木と4本の鰹木。何れも社名札がなく社名は分からなかった。東照宮の朱の鳥居脇には奥宮までの参道にお産稲荷社、出世稲荷社、三狐呂稲荷社、玉成稲荷社、玉秀稲荷社、高彦稲荷社とありますが、結論から言えば奥宮までには無数の社が祀られています。二葉山の頂に鎮座する奥宮まで約8分とありますが、くねくねと方向を変え高度上げる参道は、約8分では奥宮に辿り着けなかった。写真の時間情報から見ると奥宮までは、足元の悪い参道を20分程登った事になります。そんな参拝者向けにこの奥宮遥拝所がある、ここで拝めば上に上らなくとも同じ御利益を得られます。参道入口の光景。これならば行けそうな気はしますが、奥宮にかけては更に参道は荒れていきます。参考時間を書きますが、この写真撮影時からものです。16:33。登り始めて1分程で神輿舎と参道右側の社。お産稲荷社大神、ここで16:36上出世稲荷大神、16:38三狐稲荷大明神16:40上、三狐稲荷大明神の右側にも鳥居を構えた稲荷社。玉成稲荷大神、16:42上、玉秀稲荷大神、16:46下、高彦稲荷大神、16:48スタートが16:33なのでここまでが15分です。ここまで来れば左手の高みに鎮座する奥宮も間もなくです。奥宮鳥居到着、16:49それまで杜に包まれ遠景は見通せなかったが、参道の左側に西陽が差し込み空が開けた一画が奥宮。上、鳥居の右の手水舎。下、奥宮の社殿右側の山肌には巨岩があり、そこにも社が祀られていて、山肌には古い石垣が積まれ山城の趣があります。参拝後もう少し上まで登ってみます。奥宮社殿から山側の眺め。ここにも一枚の巨岩が聳え、岩の下側に穴が開いており、その前で狐が守護する社が祀られています。狐は穴を好みます、奥宮までの小さな社にも穴を社にしたものもありました。狐の巣穴として意味もあるだろうが、この巨岩自体が神秘的な磐座のようにも思えます。岩の上を良く見ればそこにも祠が見える。狐の巣窟です。金光稲荷大神奥宮。大きな一枚岩の上に祀られる社は流造。眼下には広島市街を一望でき、原爆投下以降、ずっと街の繁栄を見続けています。奥宮への約500段近くある急な道のりは正直言ってとてもきつい、しかし山肌に祀られた大小の社や数えきれない奉納鳥居、参道の整備状況を見ると多くの崇敬者に護られているのがよく分かります。奥宮から眺める市街の眺望や遥か先には広島湾を望むことも出来、お勧めするには辛すぎますが、眺望は一見の価値があります。奥宮への道のりは正直言ってとてもきつい、ここの登拝で全ての余力を使い果たした感がありました。それでも奥宮からもうひと登りして更に上を目指します。上奥宮社殿全景と眼下の広島東照宮方向。下広島市街と瀬戸内海の眺望。標高139㍍権現山(二葉山)、奥宮から上に出ると尾根の上は城址のような光景となります。幾つかの大きな窪みが作られ、壁は石垣が積まれています。ここは高射機銃陣地址で第二次世界大戦の戦争遺構として保存され、当時の様子が開設されています。広島市街を見下ろす二葉山には、こうした陣地や兵舎が築かれていたそうですが、一発の原爆で全滅しました。大量殺戮の智恵を絞り、資源や資金を次ぎこむエネルギーがあるなら、一つの星として纏まる事にエネルギーを費やすのが道筋ではないだろうか、広島東照宮と金光稲荷、いや広島はそうしたことを考える機会を与えてくれる場所でもある。そろそろ参道を下りるとしよう、こんな道が続くので油断は禁物です。広島東照宮境内末社 「金光(きんこう)稲荷神社」創建 / 元禄(1700年)頃祭神 / 宇迦之御魂命所在地 / 広島県広島市東区二葉の里2-1境内社 / お産稲荷社、出世稲荷社、三狐呂稲荷社、玉成稲荷社、高彦稲荷社他関連記事 / 広島東照宮(広島市東区二葉の里)
2023.03.28
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功徳天満宮は、日進市にある岩崎御嶽社が鎮座する、岩崎御嶽山のほゞ山頂に鎮座しています。前回掲載した八大龍王からあじさい遊歩道をものの1~2分程向かった右側に鎮座しており、目の前は岩崎御嶽社と云ってもいいでしょう。あじさい遊歩道から見る功徳天満宮全景。境内に続く石段の右に「功徳天満宮」と刻まれた石標が立ち、石段を上った境内の右側に二つの社が建てられています。功徳天満宮が鎮座する岩崎御嶽山の始まりは、万延元年(1860)、明心・明寛の2人の御嶽行者が夢のお告げを受け、木曾から御嶽大神を勧請して開山創建したのが起りとされ大己田貴命、少彦名命をお祀りする神社でほゞ全山に霊神碑や功徳天満宮のような社が鎮座しています。上が境内の全景で右手に手水鉢、正面の神橋の先に天満宮、左に社名不明の社が建っています。功徳天満宮の詳しい由来や歴史は不明ですが、社名からは菅原道真公をお祀りする神社であることがわかります。菅原道真は平安時代の学者、政治家、歌人で、様々な分野から崇敬されていますが、特に学問や合格祈願にご利益があるとされる神社で、全国各地に天満宮や天神社が建てられています。境内右の手水鉢、後方に見える建物は御嶽社社務所。左の社名不明と功徳天満宮。鬱蒼とした樹々に包まれた神秘的な雰囲気の漂う境内の神橋から功徳天満宮の全景。一対の石灯籠から神橋を渡ると、左に霊神碑と右に石碑があり、覆屋の下には5本の鰹木と外削ぎ千木が付く神明造の社がある。良く見れば社の左に小さな撫牛の姿があり、漸く天満宮らしさを見ることが出来ました。この天満宮がいつ頃建てられたか分かりませんが、岩崎御嶽社が万延元年(1860)に開かれたとされるのでそれ以降、大正から昭和にかけてからかもしれません。岩崎御嶽山の功徳天満宮は、普段目にする天満宮の趣とはやや異なり受験祈願の絵馬や梅紋、境内には梅の木の姿も見当りません。功徳天満宮創建 / 不明祭神 / 菅原道真公所在地 / 日進市岩崎町竹ノ山参拝日 / 2023/03/07八大龍王から功徳天満宮 / 徒歩約1~2分関連記事 / 八大龍王(岩崎御嶽社) 、岩崎御嶽社散策と相野山八幡神社、
2023.03.27
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広島市東区にあり、東照大権現(徳川家康)をお祀りする広島東照宮。JR広島駅の北口から徒歩10分程の二葉山の麓に鎮座し、広島の玄関口を代表するのが広島東照宮かもしれません。江戸時代の慶安元年(1648)、広島藩主浅野光晟により建立しました 。広島城の鬼門(北東)に位置する二葉山の山麓に鎮座しており、城下町広島の総鎮守として信仰されてきました。社頭左に由緒書きがあり、以下内容です。「広島東照宮広島二代藩主浅野光晟(みつあきら)は、生母振姫が徳川家康公の三女であったことから東照宮の造営に熱心で、家康公没後三十三年の慶安元年(1648)に、城下を一望できる二葉山の山麗に華麗な朱塗りの社殿を造営しました。昭和20年(1945)8月原爆により本殿・拝殿を焼失しましたが、御神体は駐屯していた兵士達により運び出され難を逃れた。また焼失を免れた唐門、翼廊、本地堂、手水舎などは、370年余りの歴史を伝え、広島市重要有形文化財に指定されています。」境内には、御産稲荷社、祖霊社、福禄寿の像、二葉山の山麗から頂にかけて、東照宮境内社の金光稲荷社や奥宮が鎮座する広い神域を持っています。慶安元年(1648)、三次藩主浅野長春寄進の鳥居。原爆投下により広島、長崎は人類史上最も悲惨な経験をし、人も都市も焼き尽くされ、それは今も終わる事がない。今年で78年を迎え、被爆地広島、長崎の平和宣言の趣旨に対し、今だ一つになれず終末時計は進むばかりで後退の兆しはない。原爆ドームはそれを悟らせる遺構であるように広島東照宮もそのひとつ。広島東照宮は、1945年8月6日に原子爆弾が投下された際に全壊を免れた被爆建物の一つです 。境内には被爆者を慰霊する塔や碑が建てられており、平和への願いが込められています。この鳥居も原爆投下による甚大な被害から免れたもの。鳥居から見る唐門と左右の翼廊。伽藍の中で被爆による焼失を免れた唐門、翼廊、手水舎、本地堂、神輿などは広島市の指定重要有形文化財となっています。被爆当時、境内に多数の避難者や救護者が身を寄せ合ったとされます、広島出身の詩人で小説家だった原 民喜もその一人で、その経験を後の作品の中に残しています。被爆前のこの参道の両脇には桜並木が続き、広島城下唯一の桜の名所(桜の馬場)として知られたそうで、社頭南の二葉の里第二公園の入口には当時の様子を伝える「復活記念碑」が建てられています。唐門。日光東照宮の陽明門に相当する一間一戸向唐門で、唐破風の下に「長尾山」の額が掲げられています。呆れるほど絢爛豪華な陽明門と比較するのはどうかと思いますが、家康を祀るだけに意匠には手が掛けられ、最近訪れた各地の東照宮の中では威厳のある姿のものです。唐門表。欄間に鶴、破風板には花文様の彫飾りが施されています。唐門裏。こちらは色彩豊かに彩られた鳳凰?だろうか。唐門から眺める広島駅。70年は草木も生えないとも云われた広島は今も発展を続けています。門の左右の翼廊。原爆投下の爆風を受け、全体が北東側に傾いた翼廊は、原爆による爆風、火災にも耐え、昭和23年(1948)に保存修理を受け創建当時の姿を留めています。翼廊は左右10間ずつ建てられた切妻のもので、戦後桟瓦に葺き替えられていたものを平成20年(2008)に本瓦に葺き替えられ、この姿が創建当初の姿だという。東照宮の伽藍配置。ほゞ南を向いて正面に翼廊と唐門、その先に拝殿、幣殿、本殿と並び、境内左に手水舎、御供所があり、境内右側には現在修復作業中の本地堂、本殿東側に神輿舎、本殿後方に境内社が主な伽藍配置。手水舎。切妻瓦葺で慶安元年(1648)、広島藩主浅野光晟により造営。総漆塗りで蟇股の月と兎など桃山時代の様式を伝え、昭和64年(1989)に解体修理が施された。手水鉢は慶安元年と刻まれています。ここまでは葵の紋より巴紋を見ることが多かったけれど、境内に入ると葵の紋が目に付くようになります。御供所。手水舎の後方に建つ入母屋瓦葺のこの建物は、神に供える神饌を整える厨房として使われ、全国の東照宮にあって独立した御供所が現存するのは多くはない。現在の建物は原爆投下50周年記念事業として東照宮350周年記念として平成9年(1997)に解体修理を受けた。本地道。境内右側に建つ、慶安元年(1648)に造営された方形の瓦葺で、家康の本持仏薬師如来を祀り神仏習合の名残を伝える建造部。総漆塗りで極彩色の蟇股などが見事らしいが、昭和59年(1984)に復元補修を受け、訪れた時も復元修理を受けており全容は見られなかった。この修復工事は2024年3月完了を目指しているようです。拝殿全景。現在の建物は原爆投下により焼失し、昭和40年(1965)に350年式年大祭を記念し再建されたもの。入母屋銅板葺で唐破風が施され、焼失前は檜皮葺の社殿だったようです。金色に輝く葵の紋。拝殿額は「廣島 東照宮」、徳川宗徳(1897~1989)の揮毫によるもの。本殿は銅板葺の一間社流造で唐破風付きのもので棟には外削ぎの千木が付く。現在の本殿は昭和59年(1984)再建のもので、被爆当時は境内に陸軍第二総軍通信隊が駐在しており、消火活動により御神体だけは焼失を免れたと言います。本殿右側に社が祀られていますが栞などに目を通しても社名は分からず、ここでは不明社とします。社後方の松は「原爆ゆかりの赤松」三本の鰹木と外削ぎの置き千木が施された不明社と東照宮本殿。原爆ゆかりの赤松。原爆投下後本殿、拝殿、瑞垣は焼失、70年は草木も生えないとされたが、翌春に本殿の焼け跡から数本の赤松が自然発芽し移植したものが本殿域で今も成長を続けている。本殿は彩色された手の込んだ彫が施され、脇障子にも彫が見えます。神輿庫。東照宮が創建された慶安頃(1648~51)の製作とされる神輿を保管。原爆投下による焼失から免れた神輿の重量は800㌔と言われ、50人で担ぐとされそれを保管する為の建物です。本殿から幣殿、拝殿方向の眺め。御産稲荷社祭神の徳川家康は寅年の天文11年(1542)の寅の日、寅の刻に愛知の岡崎城で誕生したとされ、母於大の方は家康を身ごもると無事に生まれて立派な武将になる事を薬師如来に祈願されたと言う。そのことから東照宮にお参りすると安産のご利益があると伝わるようになり、「お産さん」とも称されるそうです。傍らにある亥子石と花手水。後方の亥子石と彫られた石標の上に丸い石が乗せられており、それを撫でる事で小授、安産、子育、豊作、安栄の御利益が得られるという。左の覆屋には福禄寿が安置されています。円満な人格、誰からも信頼され、尊敬される徳を与えて頂け、特徴のある長い頭は慎重に物事を考え行動する事を表しており、福禄寿の福は幸福、禄は高禄、寿は長寿を指し、この三徳を兼ね備えたのが福禄寿。二葉山山麗七福神巡りというものがあるようで、近隣の寺社を巡るコースもあるようです。祖霊社。祭神は大之御中主大神。例祭3月21日、9月23日。祖霊社付近から見る本殿。祖霊社の左に朱の鳥居が立っており、ここを上り車道を越えた先が二葉山に鎮座する東照宮境内社の金光稲荷社と多くの奉納鳥居が立ち並ぶ奥宮に続く険しい参道は、自分には遠く厳しいものでした。尚、御朱印は16時までとなっています。金光稲荷社、奥宮は別途掲載します。午前中は日本の防衛にあたる呉の艦艇や大和ミュージアムを見てきただけに、原爆の爪痕を残す広島東照宮を訪れると、諸国を纏め天下泰平をもたらした家康に変わり、世界を一つとして捉え、残り90秒となった終末時計を遅らせることが出来る現代の家康は誰なんだろうと考えさせられる。広島東照宮創建 / 慶安元年(1648)祭神 / 東照大権現境内社 / 金光稲荷神社、御産稲荷社、祖霊社など所在地 / 広島県広島市東区二葉の里2-1-18広島駅から徒歩 / 所要時間10分程参拝日 / 2023/03/02関連記事 / 安芸国一宮厳島神社とB級グルメ巡り 広島Day1
2023.03.26
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建長寺から鶴岡八幡宮末社「今宮」へは、県道21号線沿いに鶴岡八幡宮に続く下り坂を徒歩10分ほど進みます。鶴岡八幡宮参拝者駐車場の手前で左に進み、突き当りを左に進みます、両脇に点在する住宅に続く路地の突き当りが今宮の社頭になります。聳え立つ樹々が背後に迫り、鎮座地は鶴岡八幡宮境内の最深部に位置します。社頭。左に史跡鶴岡八幡宮境内「新宮」の案内板があり、朱の明神鳥居の先に社殿がひっそりと佇んでいます。社殿正面全景。想像していたより新しく綺麗な社殿で、右手に今宮の祭神が記された案内板が立つ。源頼朝亡き後、北条義時・北条政子と後鳥羽上皇が争った承久の変(1221)、戦に敗れた後鳥羽上皇、土御門天皇、順徳天皇は流罪となり、延応元年(1239)後鳥羽上皇が隠岐で亡くなると、天変地異や飢饉、疫病が起こり、鎌倉でも北条泰時が病に伏せるなど、承久の変で京都に関わった北条泰時(1242)、北条時房(1240)、三浦義村(1239)など次々と他界。後の宝治元年(1247)の宝治合戦の争乱、天変地異や飢饉、疫病は続き、度々改元されましたが、これらの禍の根源が亡くなった上皇達の祟りだとされ、その怨霊を鎮めるために祀られたが社が今宮とされます。今宮の鎮座地は人で溢れ喧騒とした雰囲気の鶴岡八幡宮境内とはかけ離れ、同じ境内ながら訪れる参拝客はなく静寂に包まれた空間が広がる。ここに至る道筋にそれらしい案内板も見当たらず、ここが鶴岡八幡宮の末社とは思えない。唯一それと分かるのは、この鶴の紋と文化財の看板くらいだろうか。現在の社は令和元年(2019)の台風で被災し、同3年に再建された素木の銅板葺一間流れ造りのもので、木の香りが漂う新しい社。江戸時代の徳川光圀が当地を訪れた際に記録、編纂された「新編鎌倉志」、ここに今宮の記述があり、「社の後ろは深谷なり、一根にして六本に分かれた大杉あり。魔境にて、天狗ここに住むという」と記されていると云う。訪れた時には、六本に分かれた大杉は存在しませんでしたが、深い杜は今も保存され、天狗が住みそうな雰囲気は漂っています。境内に建てられた「今宮」の石碑。昭和4年(1929)に建てられたもので、碑文の内容を要約すると以下のようなもの。「四條天皇の時代である延応元年(1239)、鎌倉では様々な諍い事があり。特にその年の5月22日には大騒動が起きたと云う。この日は後鳥羽上皇が隠岐にて崩御し、こうした諍いはその怨念だとされた。宝治元年(1247)4月に大臣山(鶴岡八幡宮が鎮座する山)の西麓に今宮を建て、尊霊を勧請し、順徳院と護持僧長賢の霊を合祀。長賢は、承久の役の官軍(後鳥羽天皇側)に属し奮戦、後に捕まり陸奥に流刑されたと云う。今宮は新宮と書く」後鳥羽上皇が配流先の隠岐で亡くなったのは延応元年2月22日で、2月25日に埋葬とも言われます。今宮を取巻く社叢。多くの観光バスが行き交う県道から少し入っただけですが、今宮の空間は時が止まった様に静まり返っていました。鶴岡八幡宮末社 今宮創建 / 宝治元年(1247)祭神 / 後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇所在地 / 神奈川県鎌倉市18建長寺から今宮徒歩ルート / 県道21号線沿いを鶴岡八幡宮方向に約10分関連記事 / 『建長寺』
2023.03.25
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