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以前掲載した「平安山正信寺、津島神社」から国道22号線を西に少し歩き「上更東」交差点を左に進みます。一つ目の交差点を過ぎた右側に民家と工場があります。 歩道沿いに玉垣があり、民家と工場の僅かな空間に小さな覆屋が建てられています。西区栄生1の不明社。 覆屋が少し奥に建つので通りからだとこの玉垣が目印となる。この神社、不明社としたけれど、どなたかに聞ければ分かったのかもしれないが、炎天下に外を徘徊するのは自分だけ。 現地や自宅でも色々調べて見たが結局社名や沿革など分からなかった。境内左の皇紀2600年記念碑(1938年(昭和13)健之) 神武天皇の即位(紀元前660とされる)から2600年にあたる1940年(昭和15)、当時は長引く日中戦争と資源確保のため、翌年の太平洋戦争に突き進もうとしていた時期。そうした戦時下で国民は資源不足の統制下におかれ、全てにおいて軍事が最優先されていた。 「贅沢は敵、欲しがりません勝つまでは」等のスローガンのもと、根底にあったであろう国民の閉塞感を一時的に開放し、戦争に対する国威発揚を図るために各地で行われた国家規模の式典。軍事輸送最優先もこの時ばかりは、国民の移動自粛が解かれ、明治神宮・橿原神宮・伊勢神宮など皇室に関係する神社や各地の式典への観光が許されたとされる。 皇紀2600年記念碑もその一環で各地に建てられ、この碑もその一つ。この神社の創建はいつ頃か、左下が1932年(昭和7)頃の鎮座地。 地図だけでを見れば周辺に民家は少なく、それ以前は田畑が広がっている。そして昭和13年と刻まれた皇紀2600年記念碑から大正末期から昭和初期に祀られたものかもしれない。 西区は屋根神様が多く、住宅事情から地上に祀られた社もある、こちらは周辺の移り変わりの過程からみると屋根神様ではないのかも知れない。覆屋としたものの、これは覆屋ではないようで、拝所又は祭礼時の御供を置くための神饌所の様にも見えます。 境内入口の扉に神紋はないものかと見渡して見るも、特に社名に繋がるものはなかった。本殿は銅板葺の流造のようで擬宝珠の付いた高欄が付き、両脇の脇障子に繋がっている。 木鼻や蟇股に飾りが施され、小さいながら手の込んだ本殿です。供えられた榊は鮮やかな緑をしており、手間がかかる事が多いけれど、地域または個人で大切に護られているのがよく分かる。 記念碑(1938年(昭和13)が健之された時期からでも約100年、約2世代に渡って継がれて来た神様。賽銭を投入、どなたか分からないが「万事平穏」で拝んでみる。 通りすがりに訪れた参拝者には詳細は分からないが、それでいいのかも知れない。不明社創建 / 不明祭神 / 不明所在地 / 名古屋市西区栄生1-16-2最寄りの神社 / 「平安山正信寺、津島神社」そこからの徒歩ルート / 国道22号線を西に徒歩5分程公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」駅から徒歩20分程
2022.07.29
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栃木県日光市今市『追分地蔵尊』 鬼怒川公園駅から東武鬼怒川線で約35分程の移動時間でここ今市駅に到着。ここからJR日光線に乗り換えのため市街を歩く。上は東武鉄道下今市駅の駅舎。 日光山への表玄関であり、裳階屋根のレトロな外観は好感が持てる。この駅には登録有形文化財の跨線橋やSL展示館と転車台(全国一ノ宮巡り栃木県day2)があり、跨線橋を渡れば無料で見学でき、運が良ければSL「大樹」を間近で見る事が出来る。 この地は日光街道、日光例弊使(れいへいし)街道、会津西街道の分岐点にあたり、室町時代末期には「今村」と呼ばれる小さなだったという。江戸時代には日光山の寺領になったのを期に毎月定例日に「市」が開らかれた事から、「今市」といわれ今市宿としても賑わったと云われ、当時は上町・中町・下町とあり、下今市の下はそこから来ているという。周辺で見かけたマンホール。 中央は旧市章で周囲に市の花「カタクリ」、市の木「スギ」、市の鳥「カワセミ」が描かれていた。どれも豊かな自然が残る日光を象徴するもの。下今市駅からJR今市駅に移動の際見かけた「今市追分地蔵尊」の案内板。 さほど遠回りでもないので日光街道、日光例弊使街道の分岐を見がてら道草してみた。下今市駅から徒歩5分程、今市追分地蔵に到着。 写真は追分地蔵右手の日光例幣使街道。左手に国道121号線、旧日光街道が続き、その分岐に鎮座するのが今市追分地蔵。 国道を行き交う車は多いが例幣使街道を行き交う車は以外に少なく、杉並木の続く道には街道の面影が強く残る。この街道は江戸時代、家康没後東照宮に幣帛を奉献する勅使(日光例幣使)が通った脇街道。追分地蔵尊。 その名の通り街道と街道の分かれ道にあることから追分地蔵尊と呼ばれ、地元では古くから崇められ、吉宗の日光社参時にはこの地に祀られていたともされる。堂内に安置される石造りの座像のお地蔵様は日光市の有形文化財に指定され、像高は2.9㍍あると云う立派なもの。 堂は銅板葺の入母屋平入の大棟から直角に棟が接続し軒唐破風が付く手の込んだ屋根構造で地蔵を安置する堂としては立派なもの。 今市追分地蔵尊制作年代は鎌倉時代から室町時代とも云われ定かではなく、丸彫り坐像の石地蔵として東日本有数のものだと云う。 地蔵は一般的に錫杖と宝珠を持つ姿を見かけるが、こちらの地蔵様は左手の上に右手を重ね、両手の親指の先を合わせ、他の指は伸ばす法界定印(ほっかいじょういん)の手印を結んでいる。解説によれば1673年(延宝元年)の頃、日光憾満ヶ淵から流されここに来たものとされ、一時期(1886年頃)に於て近隣の如来寺に移されたと伝わるがその後再びこの地に戻されたと云う。一方で以下の様な伝説が伝わる。 「昔、大谷川の川原で石切り職人が仕事をしていると、ふと触れた石の肌から血が流れだした。不思議に思い何度か叩くと、どんどん紅の血潮がほとばしり、驚いた石切り職人は人を呼び懸命に彫り出したという。 それは坐像の地蔵尊でその評判は近郷にまで広まった。一先ず地蔵尊は追分に安置したが、野天に曝すのは恐れ多いと二日かけて如来寺に移された。 以降、町の人達の参詣が絶えることがなかったとされるが、やがて妙な噂がたつようになったと云う。夜遅く地蔵の前を通りかかるとすすりなく声が聞こえ、夜中になると町の中に火柱が立ち、火柱は場所を変え多くの人々に目撃されたと云う。 以降、地蔵尊の怪として地蔵様に近づくものはいなくなり、町の長老達の協議で「あの地蔵は日光憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されてきたものだ、日光が恋しくて不思議な現象を起こすに違いない、元の様に小倉町の日光が望める所に安置するのが良かろう」となり、ここに移されたと云う。それ以降不思議な現象はなくなり、再び参詣者で賑わう様になったそうだ。」 日光憾満ヶ淵から今市に流れ着いた地蔵様、日光が見えるこの追分はお気に入りのようだ。流れ着いた頃は一人ぼっちだった地蔵様だが、今では多くの仲間も増え寂しい事はないだろう。 堂の左側の二十三夜尊(左)、くさ地蔵尊(右)がある。二十三夜尊は月待講の一つで、くさ地蔵尊は子どもの皮膚病を治してくれる地蔵様だと云う。 僅かな時間でしたが、お地蔵様を拝みに訪れる参拝客は一人、また一人と後を絶たなかった。 今市追分地蔵尊所在地 / 栃木県日光市今市117東武鉄道下今市駅から徒歩 / 追分地蔵尊まで徒歩5分程関連記事 / 全国一ノ宮巡り 栃木県 day3、藤原町護国神社、鬼怒川温泉神社
2022.07.28
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北区下飯田町「屋根神」 昔の人はよく言ったもので「向こう三軒両隣」や「遠くの親戚よりも近くの他人」など近隣との結びつきを表す言葉があった、近頃はあまり耳にする事はなくなった気がする。 良くも悪くも壁一枚で繋がった昔の長屋スタイルが今も残っていた。「生活音が筒抜け」でプライバシーがないとされてしまうが、それが日常の事。 それ故に互いの事情がよく分かり、お出かけの声掛けや消耗品の貸し借り、時に犬・猫の餌やり、夫婦喧嘩の仲裁など、困ったときには助け合う文化があった。我家の近隣はそうした言葉も死語に近くなった。 古い家は解体され細かく分けて分譲され、高い壁で家を取り囲み、あっという間に家が建つ。施工業者や引っ越し業者が挨拶に訪れ、気が付けば知らぬ間に営みが始まっている。 表札もなく、顔も知らないなんてことは珍しくない。世の中変わったもので、壁をもって周囲との関りを避け、町内の子供会にも加わらない。 来るべき災害が訪れた場合、隣の世帯人員も分からない。希薄になったものだと実感するのが我が町の現状。 上は北区下飯田町で見かけた街並み。 良くも悪くも壁一枚で繋がった昔の長屋の街並みが今も残っていた。「生活音が筒抜け」でプライバシーがないとされてしまうが、それが日常の事。 それ故に互いの事情がよく分かり、お出かけの声掛けや犬・猫の餌やり、消耗品の貸し借り、時に夫婦喧嘩の仲裁など、困ったときには助け合う文化があった。昔の面影が残るこの街並みにはそうした文化も残っていそうだ、よく見ると軒下に小さな祠が祀られていた。 「屋根神様」と呼ばれ、愛知県や岐阜県などこの地方独特の祭祀形態で、戦禍を免れた旧街道沿いの街並みで見かける身近な神様。こうした神様は個人が祀り、地域で「神様当番」を決めてみんなで面倒を見る事が多く、玄関先に当番札が掲げられている光景も目にすることがある。 壁一枚で軒を連ねる街並みはある意味運命共同体、どこかで火を出せば他人ごとではない。そうした事もあり屋根神様の多くは秋葉神社、熱田神宮、津島神社が祀られることが多いようだ。そうした屋根神様も老朽化した建物の建替や、分譲住宅の建築に伴い、運が良ければ新たな家屋にも祀られたり、地上に降ろされ引き続き地域に受け継がれ残るものもあるが、一方で廃社の道を辿り数は減少傾向だと云います。 これも地域の結びつきが薄くなってきた表れなのかもしれない。ここ下飯田町の屋根神様の今がどうなのかは定かではないが、屋根の朽ち方を見ると少し痛々しい。 寄り添うように軒を連ねる街並みにあって火難や疫病から難を逃れたいのは誰しも願う事だ そこに熱田さんも加わえ三社を祀り、地域の禍い除けとして盤石の護りを築いたものだろう。この屋根神様が祀られるようになったのはいつ頃かとなりますが、それは集落の形成を見て行けば概ね分かるかもしれない。 上は明治、大正、昭和、ほぼ現在の集落が町に発展していく様子。右上の1920年(大正)頃に大きな集落は記されていない、左下の1947年(昭和)に入り急速に住居が広がっている事から祀られたのは大正末期から昭和に入った頃だろう。 屋根神様の多くはこの時期に祀られたものが多く、集落の発展の過程とともに祀られたもの。こうして高い場所に祀られた社は梯子をかけて世話する事になり、住民の高齢化に伴い世話も行き届かなくなるもの。 今も御札が納められているものなのか外観からは分からないが、天王祭の時期に訪れると今日とは違った光景が見られるのかも知れない。梅雨は明けたはずなのに降り続く長雨、通りに人影はなく妙に景色も沈んでいる。 そろそろかみさんの診断も済む頃だ、病院に戻る事にしよう。北区下飯田町「屋根神」創建 / 不明祭神 / 迦具土神、熱田大神、建速須佐之男命所在地 / 名古屋市北区下飯田町3-18参拝日 / 2022/7/19公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線「平安通」駅降車徒歩5分程
2022.07.25
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2022/7/23かみさんの体調も回復し、予定していた春日井市民納涼まつり花火大会を見物。二人で花火見物なんて何十年ぶりだか。打ち上げ場所は春日井市の落合公園。この日ばかりは車で市内に踏み込めばどこも渋滞、近づきたくはない。混まなくて花火が見える場所はないかと守山SAとか検討したが、選んだ場所はJR神領駅の北側の内津川左岸堤防。駅から5分も歩けば堤防に到着、近くにコンビニもあり申し分なし。最初は我が家だけだったったが打ち上げ開始の7:30近くには近隣の方が続々見物に。空気を震わせて打ち上がり夜空を彩る花火、二人だけで眺めるのは……記憶がない。体調が悪ければ中止と云っていたが、余程見たかったのだろう。見事に体調も良くなり、こうして二人で見ることが出来た。難を言えばもう少し高度が欲しいところだが、それだけで満足だ。この日だけかもしれないが、内津川の堤はおやじの気持ち同様に心地よい風が通り抜け、蚊の心配もなく快適に眺めることが出来た。帰りの電車も混みあう事もなくガラガラ、夕涼みがてらの花火見物にはなかなかいい場所だった。
2022.07.24
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名古屋市西区則武新町「津島神社」 国道22号線沿いの「西区1丁目」交差点角に鎮座します。遠目に見ると「正信寺」の立派な本堂が目立ち、津島神社の存在感はあまり感じられない。神社はこの「正信寺」境内に鎮座しています。東側から「正信寺」境内の眺め。 右手が「津島神社」社頭で、常夜灯の右に社標と少し奥に鳥居がある。左手は「正信寺」入口で左側に寺号標がある。 入口は分かれ、寺と神社を分けているが、同じ敷地を共にし両社を隔てるものはありません。南側の弘法堂から境内の眺め。堂内は左に弘法大師、右に観音菩薩像が安置されている。入母屋瓦葺の本堂。宗派は真宗高田派、平安山 正信寺。上は1893年(明治23)とほぼ現在との比較。 赤いラベルが正信寺・津島神社の位置で当時はまだ名古屋区平野町。当時は美濃路が主要道でラベル付近に集落はあるが寺社の印は記されていおらず、ここに寺社の印が現れるのは昭和に入ってから。 印だけで創建の推測にはならないが、津島社には明治、大正に寄進された手水鉢や幟立てなどがあり、江戸時代まで遡りそうだ。 本堂の山号額。 開け放たれた扉の先から元気な子供達の声が聞こえてくる、とても開放的な印象のお寺だ。「ご自由に」と書かれ、開け放たれると逆に入りづらいものがある。本尊は阿弥陀如来。 開山・開基等の詳細はよく分からなかった。平安山 正信寺宗派 / 真宗高田派本尊 / 阿弥陀如来右手の津島社参道、常夜灯前の旗立ては1912年(明治45)寄進のもの。石の神明鳥の先が社殿。 右手前の建物は舞殿か、祭殿かな。津島神社では毎年5月第4土曜・日曜日、大きな太鼓と鉦を鳴り響かせ三台の石取山車が神社に集まり、町を曳き回す石取祭が行われると云う、その際はこの引き戸も開け放たられるのかな。参道の先には赤い前掛けを付けた2対の狛犬が守護する。 手前の手水鉢は1925年(大正14)寄進のもの。2対の狛犬は手前が2005年(平成17)玉垣の先の一対は不明。 赤い前掛けが目をひくものの風貌は見慣れたものだ。阿形の先に大きな忠魂碑が立ち、右奥に境内社が祀られている。 正面の本殿域は透塀に囲われ、その先に流造の社が見えるが、賽銭箱がここにあるのでここで参拝。玉垣の中の狛犬。 年代は分からないが、手前に比較すると風貌に個性が感じられる。津島神社の創建時期は不明。 少なくとも平野町の前進となった尾張国愛知郡押切村の頃、美濃路の南に集落が生成され始め、それとと共に祀られたものだろう。祭神は須佐之男命。忠魂碑右の境内社。 板宮造りの三社相殿の様ですが社名札は見当たらず、正信寺、津島神社ともに境内で由緒らしきものが掲げられていなかった。22号線の歩道側から見た境内社と津島神社本殿。 すっきりしない事ばかりで、地史など見る必要がありそうですが、正信寺住職を訪ねるとすっきりするかもしれない。 津島神社祭神 / 須佐之男命創建 / 不明境内社 / 相殿不明社所在地 / 名古屋市西区則武新町1-21-12公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」から西に徒歩約20分程関連記事 / 『八坂神社』名古屋市西区八坂町八坂神社から徒歩 / 南へ10分程
2022.07.24
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今のタイミングでマスクの人の国葬には反対だ。 適当な人材が見つからず長期政権となり、適当な政党がないから与党でいられるだけで、怪しい団体とする組織から金銭授受や票の取りまとめ疑惑を弁明否定しなければならない現実と同様の組織を黙認、放置しているような連立与党の姿勢には賛同できない。政教分離、国葬の定義すら定かでない今のタイミング、たかが国民一人当たり10円如きの税金と云う向きもあるだろうが、少なくとも国葬反対のデモすら起きているなか、腑に落ちる説明と実績評価もされていない状況で国葬を推し進めるならば提案しよう。ひとまず国葬費全て議員700名強の議員報酬(それとて税金だが)から50万でも捻出し、経費を負担し立替でお願いたい。それだけでも1億になるだろう、誰も反対しないだろう。好きにすればいい。身を切る強硬な姿勢があって、各国から訪れた要人と弔問外交で成果が見いだせれば国益に叶う、誰もそれに対して反対は唱えないだろう。自分達は一切身を切らない議員さん達。国葬ありき、国民の懐ばかりあてにせんとやりたきゃそれ位の意思と行動力を示せばいい。 こんな記事が流れるような姿勢で要人を招く意味があるのか。700名の国民を代表する議員の中で誰か一人でも、今の現状改善に向けたコミュニケ―ションは取っているのか?当事者が来日したい気持ちを拒否するような懐の小さい国。弔問外交の機会を自ら手放すような今の姿勢なら、ひとまず立替でお願いします。我が国は食糧もエネルギー自給率も飛びぬけて高く他国に依存しなくても自立できている?国。「遺憾だ」「強く抗議」と唱えていればいい。国会議員、野党しっかり国のために纏まれ。 比例代表なんか無くして議員を減らせ、小さな国に無駄飯食いで利権の密に群がる議員は不要だ。来日する要人から国益になる成果が見いだせれば、税金から戻してあげよう。国葬の意義を明確に示し、見える形で成果を示してほしいものだ。それが報酬に値するものであれば税金でお支払いしましょう。その際には明細書をきっちり示してください。少しは身を切ったらどうか?他に優先すべきことがありゃしないか。故人を悼む気持ちは持っているし、彼がそれに値する人物であれば反対もしない。因みに我が町の町内会長、適任者不足で10年以上やらされている。
2022.07.23
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栃木県の下野國一之宮「日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社」を二泊三日で訪れ、最終日の三日目は鬼怒川温泉から始まる。上は鬼怒川温泉の「くろがね橋」から鬼怒川上流の眺め。 この地を訪れたのが2022/5/12、周囲の樹々は新緑が鮮やかで、鬼怒川の水も澄み清涼感漂う時期を迎えていた。 朝が早いのは毎度の事。 食事前の時間を利用し宿から徒歩5分程西にある鬼怒川温泉ロープウェイ付近に鎮座する藤原町護国神社と鬼怒川温泉神社を訪れた。上は朝の爽やかな空気に包まれた社頭と右のロープウェイ麓駅。 朝6:00だったが、行き交う人や車もなく町はまだ静かなものだった。社頭の大きな明神鳥居から一段高い境内の正面が藤原町護国神社で右側に鬼怒川温泉神社が横並びに鎮座しています。 所在地で云うと日光市鬼怒川温泉滝になります。現在の日光市は1960年、当時の今市市、旧日光市の2つの市と足尾町、藤原町、栗山村の3つの町村が合併したもので、当地は以前の塩谷郡藤原町大字滝になる事から社名に藤原が付きます。一ノ鳥居をくぐり参道の左に社務所と手水舎があり、石段の先にはニノ鳥居を構えています。 時間が時間なので授与所はクローズ、当神社の神職が常駐なのか、祭礼時のみなのかは不明。手水舎の左奥を眺めると複数の石碑が立っていた。 右は「大山 石尊山」、中央が「湯殿山」、奥は「男体山?」と彫られ、自然への畏敬の念が窺われる。ニノ鳥居。 その先に茅の輪が準備されています、早いものでそんな時期も近づいてきた。(5/12時点)ニノ鳥居から先の境内は右手に広がり、鬼怒川温泉神社に続く石段と神楽殿がある。 藤原町護国神社。創建は1956年(昭和28) 祭神は地元藤原町から出征した日清・日露・太平洋戦争により亡くなられた英霊256柱をお祀りする。例祭は4月18日、8月10日(追悼式) 御神徳は家内安全、良縁、厄祓石段上で社殿を守護する狛犬。訪れた当時、拝殿の二つの鈴紐は降ろされ、鈴を鳴らし参拝する事が出来た。温泉寺から眺める社殿。 拝殿は入母屋銅板葺の平入で、拝殿後方の急峻な斜面に本殿?がある。由緒によれば拝殿先には流造の幣殿、本殿とあったがよく分からなかった。社殿右に星 藤太翁の胸像がある。 栃木県議会第28代副議長や藤原村村長を務め、地元の鉄道、道路整備、温泉発掘、旅館経営など鬼怒川温泉街の発展に尽力した方と云う。鬼怒川温泉神社。 創建は定かではなく、万病を癒す鬼怒川温泉の効力を神格化し祀られたようだ。由緒は以下。祭神 / 大己貴命(おおあなむちのみこと)、少名彦命(すくなひこのみこと)例祭 / 4月吉日御神徳 / 家内安全、身体健全、勝運本殿 / 流造の銅板葺「湯薬の神は湯の神、出湯の神」ともいい、温泉の霊力を神格化し崇敬され温泉神社が建立された。 鬼怒川温泉宿地の温泉神社を現地に遷座(温泉の守護神を祀る)祭神は医療・禁厭の神とされ、温泉には不病を癒す効能がある為、全国より大勢の人々が欲湯を楽しむ」石段左の常夜灯には「温泉大権現」と彫られている。拝殿正面。 寝ぼけ眼には朝陽を浴びた朱色と新緑が鮮やかに飛び込んでくる。石段右に由緒沿革の掲示板。 鬼怒川温泉神社の右の鬼怒川温泉ロープウェイで山頂に行くと、そこにも「温泉神社」「双龍門」が祀られているようですが、当神社との繋がりはここには記されていなかった。拝殿扁額と拝殿から幣殿、本殿方向の眺め。 拝殿は入母屋銅板葺の平入で拝殿後方は直ぐ石垣となっていて、本殿は拝殿内のこの先に祀られているようだ。社殿は嵩上げされた上に建てられ、下は倉庫のような造りだ。 ゆとりのある境内にあって、この嵩上げは何か意味があったのだろう。 そろそろ朝食の時間も近い、ホテルに戻ろう。境内を見渡すと桜の樹が沢山植えられていて、花の咲く頃に訪れると鮮やかな桜色に染まるのではないだろうか。 清々しい一日の始まりだ。藤原町護国神社創建 / 1956年(昭和28)祭神 / 藤原町出征戦没者256柱例祭 / 4月18日、8月10日(追悼式)鬼怒川温泉神社創建 / 不明祭神 / 大己貴命、少名彦命例祭 / 4月吉日参拝日 / 2022/5/12所在地 / 栃木県日光市鬼怒川温泉滝 公共交通機関アクセス / 東部鬼怒川線「鬼怒川公園」から滝見橋経由徒歩15分程関連記事 / 全国一ノ宮巡り 栃木県 day3
2022.07.23
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先回掲載した備後國一ノ宮吉備津神社 #1「厳島神社」からの引き続きとなります。 今回は胡神社から先の吉備津神社。参道の先の石の明神鳥居とその先の随神門。 参道はまっすぐに続き正面に見える石段へ続きます。社頭右に「国幣小社吉備津神社」の社号標、左手に由緒書きが掲げられています。 扁額は緑青で見えにくいけれど「吉備津一宮」と記されています。柱には慶安元年(1648)の銘が刻まれていた。社頭の由緒書き「備後國一宮 吉備津神社由緒当社は吉備開拓の恩恵神 吉備国の総祖神 大吉備津彦を奉斎し 霊験あらたかにして光輝き 国家安寧 護国豊穣 交通安全 延命長寿 開拓招福の守護神として備後國一宮・一宮さんと親しまれ広くそのご神威を仰がれている。例祭 市立大祭 (11月23日及びそれに近い日曜を含む3~5日間)」 とある。吉備津神社境内。 虎睡山東麓斜面に伽藍が広がり、多くの境内社と本殿裏山には吉備津神社裏山遺跡も発掘されている。図でお分かりの様に随神門から一直線に伽藍が配されていますが、随神門を二つ構えているのは珍しいかもしれない。吉備津神社下随神門。 入母屋瓦葺の八脚門で、鎌倉時代の「一遍上人絵伝」では楼門として描かれており、室町時代の「備後一宮大明神絵図」では八脚門に描かれ、現在の門は後者を建替えたものされる。 当社には上随神門、下随神門の二つあり其々に随神が安置されている。その理由が社伝に記されている。 10月の神無月は全国の神〃が出雲に集まる、しかしここの大吉備津彦命のだけが欠席したという。そこで出雲から2人の使者が吉備津神社に派遣されたが、歓待を受けそのまま吉備津神社の門守として仕えた事から上下に随神門が作られたいう。下の随神門をくぐると視界は一気に広がり、イチョウの巨木が聳える広大な駐車場が現れる。後方の山は虎睡山。 このイチョウの巨木、樹高は22㍍で幹回りは6㍍を越え樹齢は300年とも云われるが、木の勢いは衰える事無く丸い樹形の立派なもので、駐車中の車と比較するとその大きさが想像できるのでは。実を付けるのか定かではないが、仮に実を付けたとすると凄い量の銀杏だろうし、広い駐車場は黄色の落ち葉で染まるのではないかな。参道右の桜山神社。 注連縄柱の先に瓦葺の平入拝殿と瓦葺の入母屋平入の本殿の伽藍。境内左に見頃を過ぎた桜とその奥に桃太郎の像が立てられている。 備前国一ノ宮「吉備津彦神社」境内の桃太郎のセメント像は色合い、シルエット共にシュールだったが、こちらは安心して見られる。1488年(長享2)頃、桜山城に創建されたが、1765年(明和2)の暴風で倒壊、現社殿は1911年(明治44)桜山城跡から移築・再建されたものという。拝殿前を守護する狛犬は双方玉持ちで表情は随分とやんちゃな顔つきに見える。 拝殿から本殿は渡廊で結ばれている。明治に移築されたこともあり伽藍全体傷みは少ないようだ。 本殿は入母屋瓦葺の平入で向拝が付く。 祭神は桜山茲俊命、他23柱。鎌倉時代末期元弘元年(1331)後醍醐天皇が討幕を計画し失敗、笠置山に逃れて兵を募った時に、楠正成に呼応して桜山四郎入道慈俊も挙兵、備後一之宮に拠って一時は備後半国を従えました。 しかし、同年九月に笠置山が落城し天皇が捕らえられ、十月には千早城も落城、楠正成は戦死した。桜山方の見方は離散し慈俊は一族郎党二三人とともに、翌二年正月に吉備津神社に放火して自刃したと伝わる。一説によれば桜山茲俊は吉備津神社を崇敬していたと云う、その社殿の荒廃が進み、幾度か再建を志すが財政が伴わず念願は叶わなかっという。 後醍醐天皇に協力したのも根底には吉備津神社再興の目論見があったと云う。彼らが自刃前に神社を焼き払ったのは、再興を願っての事だっという。上随神門に続く石段脇の手水舎。 龍口の奥には水神が祀られている。石段の中ほどに、左右に境内社が祀られています。上左が大山祇神社で手前は神馬舎。下右側が秋葉神社と四所神社の相殿。上随神門。 下随神門と造はほぼ同じで、手前の間に安置される随神は出雲から遣い。親近感が沸く表情だね。門をくぐって裏の間に………解説とかなかったような気がするが、不思議なものが安置されていた。門をくぐって右が社務所、随分立派なものだ。 こちら方向に進むと境内社が複数祀られている。門の正面が神楽殿。1673年(寛文13)に建てられ、入母屋瓦葺で四方は吹き抜けのもの。 屋根は銅板が葺かれているが以前は檜皮葺だったという。境内はここから二段に造営され、石段の先が拝殿になります。 この日はタイミングが悪く、祭礼に向け幕やテントを張る工事の真っ最中で、ここから先は気が引ける状態だった。取り敢えず内部の写真だけ撮影し、作業の妨げになるのでやむなく右側から回り込み本殿に向かう。境内右側の境内社。右が彰徳宮、祖神社、白髪神社の三社を祀る覆殿。その左の覆屋は吉備津天満宮。 祭神は菅原道真。内部には願いが記された無数の絵馬で一杯だ。吉備津天満宮左側にも境内社が続く。上厩戸皇子神社。 祭神は聖徳太子。下右、武内神社。祭神は武内宿弥。左、疱瘡神社。祭神は少名彦名命。突き当りの山の斜面の先に祀られているのは十麻里二柱神社(とまりふたはしらじんじゃ) 祭神は吉備津彦命、その親族12柱が祀られている。旅人の安全と交通安全に御利益があるという、まだ先は長い、帰途無事に戻れるように。吉備津神社本殿。眼にも鮮やかな朱で彩られた本殿は江戸時代の1648年(慶安元年)に初代福山藩主水野勝成による造営された入母屋桧皮葺で大きな千鳥破風と唐破風向拝の付く豪華な造りだ。(国重要文化財)創建は806年(大同元年)で主祭神は大吉備津彦命。相殿神に大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細比売命、稚武吉備津彦命。一宮さんの名で親しまれ、備後國一宮として現在も崇敬されている。旧国幣小社、現在は別表神社。一年の2月と9月に正中の光という、不思議な現象が起こると云う。ご神体が朝日を反射し正中を貫き、ここまで見て来た拝殿、神楽殿、上随身門、下随身門の建造物の中をすり抜けて石鳥居付近まで照らし出すという。その時期の日の出の方角と伽藍位置を織り込んで設計されたという事、昔の人は凄い事を考えるものだ。本殿前には2対の狛犬が守護する。 備前焼の狛犬は妙に痛々しい姿、表情は冴えないようだ。下はやんちゃそうな風貌だ、何れも寄進年度を見忘れた。本殿の千鳥破風と唐破風向拝で額には「虎睡山」とある。 鮮やかな朱色が唯々鮮やか。公孫樹乳房神。 祭神 / 乳房神下、吉備津神社本殿裏山遺跡解説。吉備津神社本殿裏山で焼失した建物が見つかり、平安時代の瓦や土器などの出土品が多数発見されたという。 そのきっかけは1985年の大雨による土砂崩れでその際偶然に発見されたと云う。鎌倉時代に描かれた「一遍上人絵伝」では本殿の背後に多宝塔が描かれていて、前進的な建物の可能性が強いと云う。神社の伽藍は現在より更に広大なものだったと見られている。多理比理神社。 右側の石碑に記された由緒は以下。「御祭神 多理比理神(息長帯姫神(姉)・息長日子王(弟))由緒 古事記に記載してある右の神々を祀ると見るのが至当。 延喜式神名帳に記載してある神社(式内社)二千八百六十一社の一つで、西暦七百年代には既にかなりの伝統を有していた備南随一の神社」とあり、かなりの古社のようだ。十二神社。 鳥居扁額には大名持神社とあるが、大己貴神を祀る十二神社でいいようだ。 祭神 / 大吉備津彦命の一族12柱と大名持神。干支の石像が参道両側に並んでおり厄除け、縁結び、そして大願成就として知られる。 三日、七日、二十一日の期間に願(がん)かけすると道が開けるとされる。この右手に吉備津稲荷神社もあるが、この一画は時間の都合で鳥居から先には進まなかった。多理比理神社から左手に下りていくと左手に二社。左が山雷神社で祭神は雷神。右が真名井神社、祭神は御井神、前にあるのは井戸。更に先に進むと大山祇神社が鎮座する。 石段左側に見えていた社です。祭神 / 大山祇神その右に神馬舎。 ここから上随神門に続く石段を下り境内を後にする。境内から下随神門、御池方向の眺め。 かみさんは既に車に向かったようです。・・・・広島焼き間に合うか。備後國一ノ宮吉備津神社創建 / 806年(大同元年)祭神 / 主祭神は大吉備津彦命。相殿神 / 大日本根子彦太瓊命(孝霊天皇)、細比売命、稚武吉備津彦命境内社 / 桜山神社、大山祇神社、秋葉神社、四所神社、彰徳宮、祖神社、白髪神社、吉備津天満宮、厩戸皇子神社、武内神社、疱瘡神社、十麻里二柱神社、公孫樹乳房神、多理比理神社、十二神社、吉備津稲荷神社、山雷神社、真名井神社、大山祇神社所在地 / 広島県福山市新市町宮内400公共交通機関アクセス / JR福塩線新市駅から徒歩30分ほど参拝日 / 2022/04/20関連記事 / 備前国一ノ宮「吉備津彦神社」、備後國一ノ宮吉備津神社 #1 境外社「厳島神社」、全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2
2022.07.20
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三重県四日市市西町「延命地蔵堂」過去に掲載した四日市市久保田の「窪田神社」から三滝川右岸堤防を30分程下流に向かいます。 ここまでは国道477号線沿いに歩く場面が多いので車には注意したい。近鉄名古屋線の橋脚をくぐり、その先の歩道橋を上ると堤防沿いに一本の巨樹が聳えています。 最近はでかい樹を見るとなんでも楠に見えてくる。傍でじっくりと見ていないのではっきりしませんが、立派な幹は艶々で楠ではなさそう。 保存樹リストには載っていなかったが威風堂々した立派な樹だ。四日市市西町の「延命地蔵堂」は右の堤防道路の右に見える杜の中に佇んでいる。「延命地蔵堂」は赤のラベルの位置。 残念ながら地図に記されていないのでいつ頃祀られたものなのかは推測が出来ません。地蔵堂の前の通りは三滝川沿いに東西に延びる「菰野道」と呼ばれる旧街道。 かつての東海道四日市宿の陣屋があった四日市市北町交差点から始まり、西方の菰野町菰野に至る約11㌔の街道で、そのほとんどは三滝川と金渓川沿いに続いています。四日市側から「菰野道」、菰野側からは「四日市道」と呼ばれていたようです。「延命地蔵堂」全景。 瓦葺の方型の堂は地蔵堂としてみれば立派なもので、手入れも行き届き地元で大切に守られているのが窺われる。右側の建物は西町会館、住民のコミュニティーの場となり人の往来も多いだろう。堂前には二つの手水鉢が置かれており、樹々の間に隠れるように龍がいる。 生憎お休みの様です。拝所から堂内の眺め。 軒下に吊るされた鰐口は小さいがいい音色をしていた。ここ何年か鰐口にしても鈴にしても満足に鳴らしたことがなかった、久し振りかもしれない。 もう紐は巻き上げておく必要はないように思うし、龍に仕事をさせる時期に来ていると思うのだが…堂内は中央に金色に輝く厨子の中に一体、両脇に二体の三体の延命地蔵が安置されています。中央の延命地蔵顔王大菩薩像。 厨子の中に納められ像の大きさや表情などは読み取れないが彫は浅く、年代は古そうな感じがします。左右の地蔵も赤い帽子と前掛けが付けられ、綺麗な羽織が掛けられ姿は拝めない。 僅かに顔が見えるが、穏やかで優しそうな表情をされているようだ。延命地蔵の御顔の様に穏やかな人生を歩みたいものだ…家族分賽銭奮発、合掌。延命地蔵建立 / 不明本尊 / 延命地蔵顔王大菩薩所在地 / 三重県四日市市西町12−12参拝日 / 2022/06/10関連記事 / 「窪田神社」
2022.07.19
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土曜日の朝の事。 普段ならとうに起きてくる時間になってもかみさんが起きてこない。声をかけると「明け方から熱が出て…」という。 この時期発熱となると流行の「BA5?」と疑いたくなる。体温は38.3℃、こりゃしんどい、酸素飽和度は問題なしだ。 医者の開業時間まで頭、首、脇に冷却材を巻き付け、経口補水液を用意し休ませた。この三日間、買い物含め行動を共にしていたが、感染するような密集には踏み入れていなかった、何処だ? 唯一密と云うと「とすとこ」か? ならば自分もなんだろう。マスクもせず介抱していると「マスクした方がいいよ、部屋分けよう」と気遣ってくれるが今更一緒。 ただPCがありチョコチョコ出入りすると寝てられんだろうから、部屋だけは変えた。やがて開業時間となり、☎すると「駐車場に来て待って下さい」という話。 駐車場には同様の方が複数台駐車し、PCR、問診、処方、会計全て屋外対応。当然だろう。先生曰く「判定結果は明日、陽性ならそこから先は保健所の指示に……解熱剤とBA5の症状に対応する薬5日分を渡すので……」という事だった。先生に尋ねてみた。 増えてますか?先生曰く・「発熱し受診に訪れる患者は確実に増大している」・「BA5は発熱と喉に症状が出やすい」・「とにかく感染力が強いので買い物でも感染する」という。……出るなと云うことかな。パルスオキシメーターはBA5では意味がないとされるが?・「症状推移のモニタリングとして所有していれば体温測定時に合わせて測定するのも無意味な行為ではない」そうだ、そして薬を頂き自宅に戻る。今朝、院長先生から「陰性でした、夏風邪です」と結果を頂くが、解熱剤を服用しても上がったり、下がったりで今一つ改善しない。 そもそもがBA5ありきの対応となり、多角的な診察はされていない。……これで院内に入れるのでその後診断するつもりだろうか?「陰性でした、夏風邪です」は喜ぶべき事実で一つの不安は払拭された。されど根本原因の診察が後回しで、熱が引かないのは喜んでいいのかどうなんだか。 素人の考えでカルテを見れば、せめて検尿くらいは出来るのでは?何れにせよ休み明けまで解熱剤で経過観察、要因分析のため受診を依頼する。 この時期だから仕方ないとは思うのだが、見ていて視野の狭さばかりが気になる、この状況は広く起きている現実なのかもしれない。何事も無ければ白川郷にキャンプ予定でいたが、それどころではない。 今はキッチンの何処に何があるのか探し回る日々が続いている。そろそろ晩御飯のメニューを考えるか、食欲はあるようだ。 迂闊に熱も出せない。皆さんご自愛ください。
2022.07.18
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名古屋市西区八坂町 先回掲載した榎白山神社、その社頭の前を東西に延びる美濃路を西に向かう事10分程。美濃路沿いの住宅と商店街連なる一画に『八坂神社』の社頭が現れます。 通りから少し奥まった位置に神明鳥居を構え、その先に拝殿か神楽殿らしき建物が見える。上は使い回している枇杷島周辺の新旧の地図。 左上に続く道が美濃路で庄内川に向かって続いています。 鳥居の先の正面にコンクリートの壁のような建物は商業施設。この神社は初めて訪れましたが、古社でありながら神社より、例大祭として行われる提灯祭りが有名なようで、そちらを取り上げた記事が多いのに驚きます。 祭りの際はこの参道は吊るされた奉納提灯で埋め尽くされ、氏子はじめ近隣、遠方から山笠提灯、大提灯を見に訪れるようです。神職は常駐ではないようで、広い境内は静まり返っていました。社頭から続く参道は左右に建物が迫り狭い印象を受けますが、鳥居を過ぎると左右に広い境内が広がります。 その広い境内の右に複数の収蔵庫が建てられ、ここに祭で使用する提灯が保管されているのでしょう。収蔵庫から西の境内全景。 手前は四方吹き抜けの切妻瓦葺の拝殿?で鬼瓦には「水」の文字と波が施されている。その先に本殿域が続き、右手に境内社が祀られている。 杜の樹々は本殿域に集中し、提灯祭りが行われることもあり、拝殿から東側の境内に木陰はない。妻壁や蟇股にも波。 火の禍から逃れたい現れですが、その思いは昔も今も変わらない。 拝殿から幣殿の眺め。 八坂神社について幾つかの記録を見付けた。神社由来は以下「八坂神社の歴史は古く、文治元年(1185)、平家の武者が現在地の北方約100㍍の村外れに住み着き、一ツ池と称する沼田の中に祠を建て、建速素之男命を祀ったのが初めとされる。 後の慶長15年(1610)那古野開府となり、美濃路と云われた現在の八坂通りの両脇に商い店が集まり町屋が形成され、一緒に祀る様になる。幾度か修復を受け、元禄15年(1702)に現在地に造営正遷宮を行い、この頃から祭りも盛大に執り行われる様になった。 この祭礼は長寿延命、豊作祈願でありますが、特に子供の守り神様としても有名。祭礼は従来の6月14・15日を、平成7年から5月第三土曜日・日曜日と改めた。 初日は午前10時から神事が行われ、その後、山笠提灯、大提灯等各種提灯を掲げて献灯をする。夕方には全提灯一斉に火が入り、祭は最高潮に達して壮観である。 山笠提灯は元禄15年(1702)からと云われ、現在の山笠は文化11年(1814)作とされる。高さは20㍍あり、最上段は縦に5個で「五穀」を表し、その下に5段構えに880個の提灯を掲げ「米」を表し、米寿にも肖るとされる、大提灯は高さ5㍍、周囲は10㍍あるもの。 祭礼二日目は御神葭船流しが行われる。 この神事は諸々の禍事、罪とがを葭に托し、これを御神船(長さ1.8㍍、巾0.6㍍)に積み氏子大勢がお見送りする中、町内の惣兵衛川にお流しする儀式をもって祭りを終える。」とある。また別の記録によれば「東向きの社は当初南向きであったが、この神社の前の美濃路は新川の刑場で処刑される罪人が裸馬に乗せられて通る道筋でもあり、神社の前を通るたびに鳥居前で落馬した。 人々はこれを神の祟りとして、神社の向きを東向きに作り替えると罪人は落馬しなくなったと云う」また、「もとは牛頭天王宮、あるいは天王社と呼ばれていた」などが見つかったが、これらは由緒に書かれていない事から、興味深い話と受け止めて下さい。八坂神社幣殿、本殿方向の眺め。 七本の鰹木、外削ぎの千木が付く神明造。社殿の左右に境内社3社が祀られています。 大きな御神木の木陰に祀られた二社は右側が祖霊社、左が神明社。幣殿、本殿側面。 本殿は覆殿の中に納められている様に見える。社殿正面全景、玉垣内には一対の狛犬と銅製燈籠が立てられ、それらの年代等は見る事は出来なかった。 参拝はここからとなります。神域を守護する狛犬と燈籠。 吽形の左目や全体の黒ずみは何かを物語っていそうだ。 この規模の伽藍で立派な銅製の燈籠は珍しいかもしれない。幣殿に掲げられた「八坂神社」の額。幣殿左の境内社は秋葉神社。 玉垣の扉が閉じられている理由は中央の注意書きが原因なのかナ。子供の頃こうした神社で遊ばせてもらったものですが、流石に燈籠は登らなかったが、今や管理責任を強く問われる世の中になりリスク回避の結果なのかな。秋葉社全景。 これら境内社の創建時期などは定かではない。八坂神社創建 / 不明(元禄15年当地に遷宮)祭神 / 須佐之男命境内社 / 秋葉社、神明社、祖霊社例大祭 / 5月第三土曜日・日曜日(山笠提灯、大提灯等見応えあり)所在地 / 名古屋市西区八坂町1-20公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」駅降車西へ徒歩約20分榎木白山社から徒歩ルート / 西へ10分程参拝日 / 2022/06/03関連記事 / 西区押切町「榎白山神社」
2022.07.17
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素戔嗚神社から車で10分程北上した福山市新市町、ここに鎮座するのが備後國一ノ宮吉備津神社。 二日にわたって訪れてきた愛媛・広島一ノ宮巡りもここで終わりを迎える。駐車場は随神門の左にも広い参拝者駐車場がありますが、敢えて御池の畔にある駐車場に車を停める。 上は駐車場脇の境内マップ。神社は虎睡山東麓斜面に広い社地を持ち、多くの摂末社が祀られている。 今回は鳥居前の御池の畔に鎮座する厳島神社と胡神社を掲載します。駐車場付近の御池と桜山城跡の解説。「桜山城跡を含む吉備津神社境内周辺は『太平記』によると、鎌倉時代末期元弘元年(1331)後醍醐天皇が討幕を計画したが失敗、笠置山に逃れて兵を募った時に、楠正成に呼応して桜山四郎入道慈俊も挙兵、備後一之宮に拠って一時は備後半国を従えました。 しかし、同年九月に笠置山が落城し天皇が捕らえられ、十月には千早城も落城、楠正成は戦死した。桜山方の見方は離散し慈俊は一族郎党二三人とともに、翌二年正月に吉備津神社に放火して自刃したと伝わる。1934年(昭和9)三月一三日に史跡一宮(桜山慈俊挙兵伝説地)として国の史跡に指定。 桜山慈俊挙兵の地とされる桜山城跡は、吉備津神社南側の標高81㍍の低丘陵頂部全体を空堀で区切って城郭としたもので、中央に長さ約50㍍の主郭、その東・西・北三方の尾根上に一段下げて曲輪を配置、各曲輪の規模大きくはないが、かなりの比高を持ち、盛土と削平により壁面を切り立たせた賢固なもので、実戦的な色彩が強い城郭。また、これらの曲輪群の西側は尾根を空堀で分断し、東・西ともその外側に平坦地を続け、更にもう一重空堀を巡らせ守りを固くしている。 西側に延びる尾根続きの標高156㍍のところに鳶尾山城跡がある。この地は、吉備津神社と門前町を中核として、輪倉の谷から御池を堀とし、三方を山に囲まれ一方に開けた「城郭都市一宮」が考えられる」御池中央には長い太鼓橋が対岸の鳥居に向かい架けられている。御池南側から石造の太鼓橋をとその先の鳥居の眺め。石の明神鳥居のピンク色の額には「厳島神社」、右に「美嶋紅垣祠」、左に「眉目秀麗神」の石標が立ち、正面の大きな石標に「厳島神社」とある。 赤い社殿の厳島神社は島の様に見えますが陸続きになっています。駐車場(写真左)から橋を渡ることなく厳島神社へ参拝できますが、やはり入口から参拝したいもの。 初めて訪れた者から見ると最初から陸続きなんだナと思いますがどうもそうではないようです。上は江戸時代後期の代表的漢詩人であり備後国神辺で私塾「黄葉夕陽村舎」を開いた儒学者菅茶山とその一族が収集した資料群の一つ「黄葉夕陽文庫」に「備後國一宮社」の挿絵。 下に御池が描かれ中央に太鼓橋、その先に厳島神社の社殿が描かれています、こうして見ると今も当時と変わりはないように見えます。しかしよく見ると社殿は陸続きではなく小島であったのが見て取れます、小島の上に架かる小さな橋(現在も残る)の右手が駐車場になるので、埋め立てられ陸続きになったようです。 また、小橋の先に小さな社も描かれています。もう少し調べて見ると、室町時代当時と思われる御池の様子を江戸時代の初めに描いた絵図を見付けました。 絵図には御池と当時の吉備津神社全体が描かれており、上は御池全体を切り取ったもの。当時の御池には4つの小島が存在していたようで、それらは太鼓橋で結ばれ、右手の小島に建つ多宝塔に繋がっている光景が描かれていました。 塔のあった小島は現在埋め立てられ「福山市交流館あびき」の東側、塔畑荒神社が祀られているあたりかと。厳島神社を島と見なしても御池の3つの島は全て姿を消してしまい、現在でも大きな池ですが当時は今の倍の大きさはあったようです。厳島神社正面全景。 赤い透塀に囲われた本殿域、その右の小さな覆屋は幸神社、左側の厳島神社の石標の付近に水神と五穀神が祀られている。透塀は近年補修の手が入れられたのか朱が鮮やかだ。 塀の四隅に「鳩」。当初本物が羽を休めていると思い込んでいたが、近づいても逃げる気配がない、よく見れば鳩の飾り瓦だ、飛び立つわけがない。備後國一ノ宮吉備津神社境外社「厳島神社」 社頭左の石標に以下が記されていた。祭神は多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命。 美人で名高い三姉妹、特に市寸島比売命を別名弁天様とも言う 眉目秀麗神、美嶋紅垣祠、ピンクの扁額、鮮やかな朱色と小ぢんまりとした社殿。 美人で名高い三姉妹に相応しい。厳島神社の創建は定かではないが、室町時代(1336年~1573年)とされる絵図に記されている事からかなり古そうだ。本殿は瓦葺の流造で棟瓦には波が描かれている。両サイドには美人を怒らした時の・・・社殿左。 社標の影に水神社と左が五穀神、御池の水がらみという事でしょうか。厳島神社創建 / 不明祭神 / 市杵島姫命 田心姫命 湍津姫命参拝日 / 2022/04/20所在地 / 広島県福山市新市町419素戔嗚神社から車 / 北方向に10分程公共交通機関アクセス / JR福塩線上戸手駅から徒歩30分ほど関連記事 / 備後國一ノ宮 素戔嗚神社、御池から吉備津神社への参道方向へ。 県道26号線を挟んですぐの道路脇に瓦葺の覆屋の胡神社が鎮座しています。蟇股に金色に輝く鯛を持つ小さな恵比寿さんと小槌を持った大黒さまが施されています。 由緒等掲示されていなかったので詳細は分かりません。そして拝所前には大きな額の中でにこやかに微笑む恵比寿さんと大黒さま。 なんだか目が△になる事ばかり起る世の中、眉間にしわを寄せていても何も変わらない。せめて笑顔だけは忘れたくないものだ。胡神社創建 / 不明祭神 / 不明広島県福山市新市町350-2今日帰らなければならないのに道草ばかり、かみさんは既に参道の遥か先。 この後広島焼きも食べなければ、急いで追いつかねば。
2022.07.14
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「日光の二社一寺」 二荒山神社、輪王寺と参拝、最後の日光東照宮に参拝。かみさんの思いで始めた全国一ノ宮巡り、ボチボチ各地を巡り始め、その際には各地の東照宮もルートに入れて欲しいと要望していた。 よもや大元の日光東照宮にこれ程早く訪れるとは思ってもいなかった。いつ来ても道は混み、人出も多い、そんなイメージが付き纏う日光、訪れるタイミングを見計らっていたが、海外からの団体客が途絶えたこの時期はいいタイミングだったのかも知れない。日光東照宮参道。上いかにも東照宮らしい金色に輝く葵の紋が入った立派な社標。 「東照宮」の揮毫は渋沢栄一の手によるもので、1924年(大正13)に建立したもの。下大きな石の明神鳥居とその先に鮮やかな表門が見えてくる。 この石鳥居、筑前福岡藩初代藩主の黒田長政が奉納したもので、鳥居の石材は福岡から運ばれて来たという。東照宮創建の翌年の1618年(元和4)に造営されたもので、笠木までの高さは9.2㍍と見上げるばかり大きさで、扁額の「東照大権現」は後水尾天皇の勅筆で額の大きさは畳1枚分もあるという。 さすが徳川家康、境内は全国各地の大名から寄進されたもので溢れている。五重塔。石鳥居をくぐった左に聳える絢爛豪華な五重塔。 1650年(慶安3)に若狭小浜藩の初代藩主・酒井忠勝が寄進したが、1815年(文化12)に焼失。この塔は、1818年(文政元年)に若狭小浜藩10代藩主・酒井忠進により寄進されたもの。 五重塔特別拝観期間中は東京スカイツリーと塔が印刷されたクリアファイルが漏れなく付いて来た。最新技術を結集したスカイツリーと五重塔、縁がなさそうですが縁がある。 この塔の建つ標高が634㍍だという、スカイツリーと同じ高さ。そして五重塔の免振構造がスカイツリーにも生かされていると云う、拝観券を買って初層をぐるっと見て廻ると最後に心柱を見ることが出来る。そもそも神社に五重塔となるかも知れないがそうした事はどうでもよくなる。 唯々この美しさに見入るだけ・・・・・言葉がない。 また、初層4面の蟇股には十二支の彫刻が配されています。上は塔の東側(入口)の彫飾り。下は西側。上は塔の南側の彫飾り。下は北側。 上入口に掲げられた五重塔の解説。下中央が心柱。表門。日光東照宮は1617年(元和3)徳川初代将軍徳川家康を祭神として建立された神社。 現在の絢爛豪華な社殿のほとんどは鎮座から20年後の1636年(寛永13)に徳川家光により建替えられたものという。この八脚門もその一つで、1636年(元和3)に家光により創建された門で、左右の間に仁王像が配されるため、仁王門とも呼ばれています。法眼康音作の仁王像、その高さは4㍍もあるという。 明治政府の神仏分離令に伴い仁王像は大猷院に遷されていたが、1897年(明治30)、再び表門に戻されたという。獏に、獅子、牡丹・・・・・首が疲れる。裏側の間には金色の獅子、吽形には大きな角がある。 東照宮の建物は一棟一棟が呆れるほどの技術と惜しげもなく手間が注がれ、時間が過ぎるのが早い。表門をくぐって正面と左右に現れるのが三神庫。 表門の右側から下神庫(修復作業中)で正面が中神庫、上神庫の三棟が配されている。下神庫、中神庫には祭礼で使用する裝束や祭具を収蔵、上神庫には御神宝が収蔵されているという。 中神庫は入母屋造り、他の二棟は切妻造で何れも校倉造。 下は中神庫から神神庫、中鳥居、御水舎方向の眺め。上神庫(側面)妻壁の「想像の象」 日光東照宮の伽藍のほとんどが1636年(寛永13)年に建替えられたもので、妻壁に彫られた二頭の象は狩野探幽の下絵によるものとされます。象が大陸から献上された記録は遡ると幾度かあるが、探幽の生没年(1602~1674)の間に象は献上されていません。 探幽が生まれた1602年(慶長7)に家康に象が献上された記録があるそうです。象の寿命を約60年と想定した時、探幽に象を見る機会が全くなかったかと云うとそうでもないのかもしれない。 この向かいに三猿で知られる神厩舎があり、人波が途切れる事はありませんが「想像の象」は以外に立ち止まって見上げる人は少ないかも知れない。 上神庫正面からの眺め。神厩舎。 表門をくぐった左にあり、東照宮の煌びやかな伽藍の中にあって素木造りの厩舎。長押(なげし)上に8面に渡り猿の彫刻が施され、左から右に人の一生を風刺したものという。母猿と子猿の彫物で、母親が手をかざして眺める先は子猿の将来を見ていると云う。上見ざる、聞かざる、言わざる。 幼い頃は周囲からの影響を受けやすい、世の中の悪い事は見聞きせず、悪い言葉は使わせない。この時期に良い物を身に着ける事は、人生に訪れる悪いものに対しても正しい行いが出来る。下孤独に耐えつつも将来を考え、やがて立ち上がり独り立ちする。上二匹の猿が上を見上げる様が描かれ、希望を持って上を見上げる青年期を描いたもの。 下右の木の上と左の岩の上に正面を向いた二匹の猿。 岩の上には下を向いた猿、何があったか分からないが仲間を思いやっている光景だろうか。左の一面は正面を向き坐っているのが結婚の意志を固めた姿で、左はそこに至っていない姿という。 中央の一面は青い部分は人生の荒波で、二人で協力すれば乗り切る事ができる。右の一面はお腹の大きい猿が描かれ、二人が平穏な家庭を築けば、やがて子宝に恵まれ親となる。 そして最初の面に戻り、それを繰り返し受け継がれていく。猿が描かれた長押の高さは、独り立ちすると一段高くなる。 構造上からだろうが、なにか人生の階段を表しているかのように思える。 ニノ鳥居と陽明門。 正面に陽明門、石段の左右が太鼓楼と鐘楼。団体客の記念撮影スポット、人波が途切れる事はない。 この時は小学生の修学旅行が多かった、コロナ禍で見送られてきた大切なイベントも動く様になってきた。御水舎。水盤は1618年(元和4)肥前佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂の寄進されたもので、御水舎自体は1636年(寛永13)に建てられたもの。 正面の唐破風下の虹梁に波が描かれ飛龍の透かし彫りが施されている。経蔵。陽明門に続く石段左にある方型の経を収蔵する建物で1620年(元和6)に建てられたもの。 二層に見えるが下の屋根は裳階で内部に回転式の輪蔵が収められているというが非公開。嘸かし大きく煌びやかな物なんだろう。鼓楼と鐘楼。 陽明門の前に対称に建てられ、陽明門に向かって右が鐘楼、左が鼓楼。袴腰が施され、どちらも似てはいますが施されている彫飾りは其々に特徴を持たせている。 目の前に陽明門があり人波をやり過ごすのにここをじっくり見るか、鼓楼から奥に進むと本地堂があるので、鳴竜の天井画や拍子木の音が天井に反響し恰も龍が鳴き声を上げる様が体感するのもいい。 陽明門。上 唐破風下の「東照大権現」は後水尾天皇の宸筆によるもの。日暮門の別名があるように、細部を見ていれば日も暮れてしまう、カメラのバッテリーやメモリーも切れてしまう。下西廻廊の透かし彫り、こちらも一面〃見ていると時間はあっという間に過ぎていく。表には随神、門の中の間二面に雲竜図が描かれ、裏には黄金色の獅子が守護する。中の間の天井絵。唐獅子。門の全てに故事逸話や聖人賢人、子供の遊び、霊獣、植物、鳥類、人物、雲、波、虫等の彫刻が施され、家康の干支の虎も至る所で見られる。 当時の職人の最高の技と素材が注ぎこまれている。上「魔除の逆柱」胡粉と呼ばれる貝殻を焼き、すり潰した白色の顔料で塗られた柱には、ぐり紋が施されていますが、門をくぐった左側に意図的に上下逆に紋を施してあります。 完成したものは次に崩壊が始まる「満つれば欠ける」の諺から、あえて逆にして完成させていないという。陽明門を支える16本の柱のうち3本が逆柱になっています。手前と奥では紋の上下の向きが揃っていませんよね。下陽明門の逆柱を探し求める人波と正面に見えているのが神輿舎。神輿舎。3基の神輿を収蔵する建物で春秋の渡御祭(5月18日、10月17日)に使われる。 少し屈んで天井を見上げると、そこには天女が描かれています。狩野派の絵師が描いたこの天女は日本一美人の天女といわれるという。本殿唐門。 陽明門の先に建つ門で黒漆と胡粉の白のコントラストが美しい唐門。細かな装飾と金の飾り金具は陽明門とは違った落ち着いた豪華さがある。 天下統一を成し遂げた者のみ許されたものだろう。1636年(寛永13)の造営以来屋根の葺き替えを除き当時の姿を伝えている。 主祭神は徳川家康公、相殿に豊臣秀吉公、源頼朝を祀り、この門から先は幕臣、大名等限られた者のみが通ることのできた門。陽明門と大きさを比較するとひと回り小ぶりな門ですが、そこに施された彫飾りの数は陽明門を凌ぐと云う。 中国の八仙人や竹林の七賢などの賢人が描かれ大陸の香りが強く漂う外観。後方が拝殿と本殿。神楽殿。 陽明門をくぐり右側に建つ建物で内部は二間に別れ神楽を舞う舞台と後方に装束を改める装束の間の二つに分かれていると云う。上祈祷殿。 1635年(寛永12)に建てられた入母屋、銅瓦葺きの建物は当初は護摩堂として建てられたようですが、廃仏毀釈により仏教色の強い建物は取り壊しの運命にあったといい、上社社務所とすることで取壊しわ免れたと云う。 現在は結婚式や初宮詣、七五三、家内安全、商売繁盛などのご祈祷を行う祈祷殿として存続している。下拝殿、石の間、本殿からなる権現造の伽藍で1636年(寛永13)に造営されたもの。 祈祷殿から左に進むと拝観でき内部撮影は禁じられていた。拝殿内はの格子天井には龍の絵が 拝殿左右には「将軍着座の間」に「法親王着座の間」があり、高い天井に描かれた葵の紋の下は将軍以外は着座が許されず、高い天井構造や床には忍びなどが潜めないような構造が施されているという。 庶民には落ち着くことが出来ない空間だ。祈祷殿の右から奥社に続く入口に建つ坂下門。 その昔ここから先は将軍以外立ち入ることが出来なかった。門の入口には二羽の鶴、格子天井に牡丹、そして門をくぐって上を見上げると・・・そこには透かし彫りの二羽の雀が蟇股に彫られています。 有名な眠り猫は坂下門の手前にある潜り門の蟇股にあり、訪れた時には「眠り猫↑」表示されています。坂下門の前で眠り猫を探す子らも見られましたが、彼らは表示を見逃したのかも知れません。 ここから先は杉木立の中、奥社に続く207段の石畳と階段が上に伸びています。階段は一段毎に一枚石が用いられ、傾斜部分の石柵は笠、柱、土台一枚の石から削り出されています。 上石段を上り詰めた先に銅製の明神鳥居が現れる。 当初は石鳥居でしたが慶安年間に地震で倒壊、1650年(慶安3)に徳川5代将軍綱吉により銅製に建替えられたもので、扁額の文字は後水尾天皇の宸筆によるもの。下鳥居右側の銅板で包まれた銅神庫。 嘗ては家康所縁の甲冑、刀剣や書状等が保管されていたとされ宝蔵とも呼ばれたそうだ。所蔵されていたものは現在東照宮宝物館に移され保管されている。神社東照宮にあって神仏習合の名残は多くみられるが、銅神庫壁面に施された輪宝にもそうした名残が色濃く残っている。奥社に続く石段脇の狛犬。 松平右衛門大夫正綱、秋元但馬守奏朝による寄進で、家康の遺臣であり寛永建替の際に造営奉行を務めた事から特に奉納が許されたという。小振りながら骨太で吽形には大きな角を持つもの。奥社拝殿。 参道を上り詰めた先にあり、拝殿、鋳抜門、御宝塔からなり、1617年(元和3)に二代将軍秀忠が、駿河・久能山から日光に改葬し創建した家康の廟。当初は質素な堂だったが、三代将軍家光による寛永の建替えで煌びやかな伽藍に建て替えられた。 この拝殿は1617年(元和3)の創建で、1636年(寛永13)に再建されたもの。銅瓦葺の入母屋造で平側の前後に唐破風が付き、煌びやかな伽藍の中にあって奥社は創建当初の落ち着いた雰囲気が漂う。拝殿の奥には鋳抜門と神となった家康を祀る宝塔がある。 拝殿右から鋳抜き門方向の眺め。鋳抜き門 創建当初は石造りであったとされ、地震で倒壊後、1650年(慶安3)唐銅製の鋳抜き門に再建されたと云う。扉以外は一つの鋳型で作られている事から鋳抜き門と呼ばれる。時の将軍以外立ち入れなかった奥社、こうして拝観できるようになったのは1965年(昭和40)以降からという。 門の前には銅製の狛犬が守護する。奥社宝塔。 8角5段の石の基盤上に更に3段の青銅で鋳造し、その上に宝塔が立てられていて、創建当初は木造で、その後石造に改められたが、1683年(天和3)の地震で倒壊後、鋳工椎名伊豫が制作したものが現在の唐銅製の宝塔。 唐銅製とは金・銀・銅の合金を指し、宝塔の前には鶴の燭台、唐獅子の香炉、花瓶の三具足が揃えられている。墓所はぐるっと一周でき、御神木の叶杉や鋳抜き門、拝殿後方等見渡す事が出来る。 これで日光東照宮の最深部まで参拝してきました。次は一旦、大鳥居まで戻りそこから左に進み御仮殿に向かいます。大鳥居の左から奥に続く参道がありそちらを進むと御仮殿に至ります。 御仮殿は本社を修理する際に御祭神を一時的にお移しするための御殿で、1639年(寛永16)に建立されたもの。創建以来19回ほど御仮殿に遷宮し、その間の神事は全てこの御仮殿で執り行なわれています。 江戸時代の終焉とともにその後は使われていないと云う。仮社殿は修理が終わると取り壊されるのが一般的ですが、日光東照宮では本社の修理が頻繁に行われるため取り壊すことなく常設されていると云う。 伽藍は入口に銅製鳥居と周囲を掖門が付いた透塀が取り囲み、拝殿、相の間、本殿の権現造りの伽藍。とても仮とは思えない立派な伽藍。 絶大な力を象徴する豪華絢爛な東照宮と大猷院、そんな中にも平穏な世を願う思いや驕りを戒める家康や家光の遺訓が随所に込められ、今を生きる者に共感を与えてくれるものがある。「人の一生は重荷を負て 遠き道をゆくが如しいそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なしこころに望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし 堪忍は無事長久の基いかりは敵とおもへ 勝事ばかり知りてまくる事を知らざれば害其身にいたるおのれを責て人をせむるな 及ばざるは過たるよりまされり」日光東照宮所在地 / 栃木県日光市山内2301公共交通機関アクセス / 浅草 ~ 東武日光線関連記事 / 日光山輪王寺と大猷(たいゆう)院廟、全国一ノ宮巡り 栃木県 day2
2022.07.13
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三重県四日市市伊倉。 既に掲載した窪田神社から南西に10分程の住宅地の広がる一画に「井具羅神社」が鎮座する。社頭に続く道は御覧の様に右に畑、左に幼稚園と挟まれるように社地かある。 南側の通りから眺める社頭は、狭い通りの先に鳥居があり神社の存在は分かり難いかもしれない。上は前回使用した1898年(明治31)の当地の地図とほぼ現在の地図。 北を流れる三滝川の南に広がる水田地帯に伊倉村の集落があり、村の西外れに鎮座しているのが分かります。現在の伊倉は1889年(明治22)に赤堀村、中川原村、芝田村、伊倉村、久保田村、大井手村、松本村の7ヶ村が合併して三重郡常磐村になったという。 石垣井堰の解説にあった「常磐のまち」はこの常磐村を指しているのだろう。その後1941年(昭和16)に四日市市に編入され常磐村は廃止、常盤地区と呼ぶ様だ。伊倉に鎮座する井具羅神社、伊倉が転じ井具羅神社になったのか、井具羅神社から転じ伊倉となったのか定かではないけれど何か関連がありそうです。 狭い通りを抜けると境内が広がり、その入口に白い狛犬が安置されている。 左の阿形は葉に遮られ顔を見せてくれていない。社頭全景。 神明鳥居の先に広がる境内は左側が公園にもなっているようです。隣が幼稚園という事もあり子供達の活気のある声が良く聞こえてくる。境内に入り左の建屋は井戸の様に見えますが、全周玉垣で囲われた手水舎のようです。 ここに来るまで目にしなかった井具羅神社の社標もここに立っていた。左に案内板もある。囲われた手水舎の中の手水鉢、余程古い物かと屈んで側面を眺めるもそんな感じでもないようだ。 脇に立つ案内板は「井具羅神社由緒」 内容は以下。「神社は伊勢国三重郡大字伊倉村字川嵜にある。 祭神は「健速須佐之男命」。勧請年月日は不詳だが古来より現在の東隣の巨大老松の中にあった。 明治2年(1869)11月井具羅神社と改称。明治6年(1873)3月20日に伊倉村村社となる。 明治21年(1888)町村制公布、明治22年(1889)4月1日、伊倉村は中川原村、久保田村等7ヶ村連合で常盤村へ。 後に明治政府の一村一社の令により明治40年(1907)9月26日、三重郡大字伊倉字浄裕の無格社山神社、祭神は「大山津見神」を合祀、井具羅神社と単稱とした。明治40年(1888)町12月12日、赤堀村の八阪神社(常盤村村社)に合祀された。 以後氏子は遠離につき参詣が遠のき、敬神の念が次第に薄らいだ。昭和2年(1927)3月12日、この地に井具羅神社を新築、八阪神社から分祀し現在に至る」八阪神社はここから赤堀方向へ歩いて30分程の位置になる。 由緒にある「東隣の巨大老松」は何処を見渡しても名残らしきものは見当たらなかった。身近にあってなんぼの集落の守り神、分祀した動機はよく分かる。拝殿。 切妻瓦葺のシンプルな趣が漂う。昭和2年(1927)に新築とあるので建物は綺麗、手入れされた境内と相まって心地いい環境です。 子供らを遊ばせるにはいい空間か。伽藍全景。 拝殿から本殿は壁でぐるっと囲われ本殿域の様子は窺うことが出来ない。本殿。 棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が付く。ひと昔前は田んぼが広がっていた伊倉、今はその姿はなく、舗装された道路と住宅が広がるベッドタウンに変貌したようだ。 この陽ざしを受けていると、水の張られた田んぼの光景が妙に恋しくなる。井具羅神社創建 / 不明祭神 / 健速須佐之男命、大山津見神所在地 / 三重県四日市市伊倉2-8-5参拝日 / 2022/06/10窪田神社より徒歩ルート / 南へ10分 関連記事 / 「窪田神社」三重県四日市市久保田
2022.07.12
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名古屋市西区押切町「白山神社」 前回訪れた児玉白山社から南に徒歩10分程の旧美濃路沿いに鎮座する神社。周囲の通りには嘗ての街道の趣を漂わせている。白山神社社頭。 訪れたのは6月3日、境内の杜に植えられた桜の樹も青々と茂り、境内は緑に覆われていた。社頭に一際大きな「白山神社」の社標が目に付く、街道沿いは橋の欄干をイメージさせる玉垣が社地を囲んでいる。 右手の案内板は美濃路を語るもの。境内から玉垣の眺め。 注連縄の巻かれた榎と境内社、奥に手水舎、境内社。社頭左に「名古屋十名所」の社標。 なんでも、1924年(大正13)に新愛知新聞社が、名所として選出した10名所の一つにここ白山神社が数えられているという。因みに10名所は名古屋城、熱田神宮、笠寺観音、圓頓寺、久屋金刀比羅、山田元大将之社、天理教々務支庁、闇ノ森八幡社、櫻田勝景とここ榎白山神社。 社地を取り囲む玉垣には権現橋と刻まれている。 嘗て児玉の町あたりから笈瀬川が流れ、白山神社の脇を流れていたと云う、そこに架けられていたのがこの権現橋。川は都市化に伴い埋め立てられ既に姿はありませんが、過去を伝える意味もあり玉垣として再利用したものでしょう。美濃路「美濃路は、江戸時代に東海道と中山道を結ぶ脇街道として発達。 その経路は宮の宿で東海道から別れ、名古屋、清州、稲葉、萩原、起の各宿場を経て美濃国の墨俣、大垣を経由し垂井宿で中山道と合流した。その距離57㌖と云われ、五街道と共に道中奉行管轄の主要街道、大名行列、朝鮮通信使、琉球王使などの他多くの庶民も往来し街道は賑わった。立て場・白山神社界隈 白山神社の前は立て場と云って、人夫が杖を立てて休息する所から来ており、宿と宿の中間にあり旅人のための茶店等が作られた。白山神社は「尾張名所図会」にも記され、「社内に榎木一株あり、是即ち白山の神木なれば、榎権現の称ここに起る」と記録が残る。 神社西側の笈瀬川には権現橋という石橋があった。現在は川も橋もないが、嘗ての橋の欄干は白山神社の垣根の一部に使われている」 記録には俗に抜の権現と称され、文禄年中の建立。別当は榎本山福満寺と称し紀伊国高野山金剛三昧院の末寺で鰐口には正長2年(1429)と記されているとあった。 挿絵には当時の美濃街道沿いに玉垣が築かれ、右側には東向きに鳥居も描かれているが、名の由来となった肝心の榎木は朽ちた株として描かれている。常夜灯。 1856年(安政3)寄進のもの。末社 田道間守社。 祭神 菓祖 / 田道間守、薬祖 / 大己貴命例祭 / 四月一七日お菓子と薬の神様を祀る社は、外削ぎ千木に三本の鰹木が施されている。 詳細は分からないが挿絵には描かれていない。枝葉が茂る榎木と由来。 略記に榎木について伝承が記されているが、この樹は村人が雉を埋め、そこから芽吹いたのがこの榎木だという。ただ、挿絵で朽木として描かれているので現在の榎木が何代目なのか、樹齢などは語られていない。手水舎、手水鉢。 流れる水と緑の苔にシダ、緑豊かな白山を連想させる。手水舎左に小さながたいの狛犬が守護する境内社。 年代不明の愛嬌ある顔つき。左から天神社、金刀比羅社、戸隠社の三社が祀られている。白山神社の石の明神鳥居、参道の随分先に立っており、社頭からの鳥居は樹々の葉に隠れてしまう。 帰り際にもう一度正面から撮るつもりでいたが、忘れていた。 鳥居前の狛犬。鳥居から拝殿に続く参道。 この辺りにも狛犬が隠れている。鳥居前に比べると少し怖げな狛犬だ。右手に赤毛の神馬、拝殿前にも狛犬の姿がある。境内には紫陽花が多く植えられ、丁度見頃に近づいていた。拝殿、本殿はコンクリート造り。 黒ずみの残る狛犬にコンクリートの社殿、空襲で焼けているようだ。上拝殿前の狛犬、個性派が揃っている。下拝殿から本殿方向の眺め、鰐口は見当たらず。 👏👏。祭神は菊理姫命、天照皇大神、豊受大神。 戦国時代、桶狭間の戦いを前にした信長が戦勝祈願に訪れたとも云われる歴史のある神社だ。神馬の後方に置かれた手水鉢、そこには1739年(元文4)と刻まれていた。本殿右側に鎮座する少将稲荷社。 創建等の詳細は不明。上拝殿、幣殿の眺め。 少将稲荷社の東は脇参道がある、挿絵にあった鳥居はにこに立っていたのかナ。下少将稲荷社から見る本殿。美濃路沿いに鎮座する白山神社、社殿に長い歴史を偲ばせる趣はないかもしれないが、信長も訪れたとされ、お菓子や薬の祖神を祀り、個性的な面構えの狛犬にも出会う事が出来る。榎白山神社創建 / 1429年(正長2)祭神 / 菊理姫命、天照皇大神、豊受大神、少将稲荷社境内社 / 田道間守社、天神社、金刀比羅社、戸隠社、所在地 / 名古屋市西区押切町2-5-2児玉白山社から徒歩ルート / 南に徒歩10分程公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浅間町」駅降車徒歩約15分関連記事 / 児玉白山社、加賀國一之宮白山比咩神社
2022.07.11
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2019年の投票率「48・80%」だそうな 過半数に満たない声で選ばれた議員に重みはない若い衆の声を投票で示そう 何も自国で賄えない国ながら、選挙権は与えられている、7月10日は選挙に行こう。期日前投票だってある。 総務省期日前投票サイト
2022.07.08
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愛媛県・広島県の一之宮巡り二日目。 鞆の浦から次の目的地「備後國一ノ宮の素戔嗚神社」へは県道22号線で福山方向に向かい、芦田川の左岸を遡る約1時間の移動時間だった。素戔嗚神社の駐車場は社頭前と社務所後方の二か所に無料駐車場が用意されています。 私達は社務所後方の駐車場に駐車、社地北側の銀山街道(旧山陽道)沿いを社頭まで歩く事にした。素戔嗚神社西門 (相方城移築門) 素戔嗚神社南西の芦田川右岸に聳える城山に、嘗て存在した相方城から城門2棟と櫓1棟が素戔嗚神社に移築されたと云う。戦国時代の山城の城門としては最古級とされる城門2棟は、神社北門、西門として移築されこうして現存するが、櫓は1970年代の火災で焼失したと云う。 街道沿いに小さな堀が続き右手が境内。素戔嗚神社北門 (相方城移築門) 切妻の薬井門で建築年代は不明という、建築様式と部材の風化具合から16世紀末から17世紀初めではないかと云われている。北門の前に安置されている狛犬は躍動感があり、阿形は球の上で逆立ち、吽形は二本足で立ちあがった姿。街道沿いの社頭右に「縣社」「式内社」の石標。 素戔嗚神社社頭。 石の明神鳥居と左に由緒書き、参道の先に随神門と遥か先に神楽殿が小さく見える。右手が参拝者駐車場。社頭の素戔嗚神社由緒、内容は以下。 「式内社・備後一宮 素戔嗚神社、茅の輪くぐり発祥の地御祭神 / 本殿 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八王子 天満宮 / 管原道真公蘇民神社 / 蘇民将来 疱瘡神社 / 比比羅木其花麻豆美神疫隈の郷(江ノ隈の里) この付近は江熊の里と呼ばれたところ、古くは江隈とも記された。 「江」は入江であり、「隈」はかたすみとも読め、江ノ隈の読みから穴の海の入江であったことが伺われる。奈良時代は古山陽道がこの辺りを通り、海陸交通の要所となり、人の往来につれて市(江熊市)が栄えた。 茅の輪神事 備後の國の風土記に疫隈の国社。昔、北海に坐します武塔神…南海に出てまししに日暮れぬ、その所に将来二人ありき。 兄の蘇民将来甚く貧しく、弟の巨旦将来富て屋倉一百ありき…即ち、詔詔りたまひしく「吾は速須佐雄の神なり、後の世に疫気あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。蘇民将来「茅の輪」伝承発祥の地として、文献上最古の記録を残すほか「疫隈の國社」として延喜式神明帳にみえる古い歴史をもっている。 現在も無病息災・厄除けを願って、この伝承に由来する「茅の輪くぐり」の神事を行っている。素戔嗚尊は武塔天神或いは祇園牛頭天王とも称され、出雲神話の祖である。 本社は備後三祇園社の一社で七月の祇園祭は備後地方の夏祭りとして有名であり、祭り終了日の深夜、吉備津神社の宮司、彌宜が当神社に参詣し「無言の神事」が行われている。 明治初期までの神仏習合の一時期「早苗山天龍院天王寺祇園社」と呼ばれた事もあり、早苗の松の伝承を残した」鳥居の額は「素戔嗚神社」、相変わらず笠木の上には石ころが乗っかっている。石の明神鳥居の先には注連柱鳥居が立ち、その先に随神門と神楽殿が見通せる。 注連柱に刻まれた八紘一宇、武運長久。寄進年は見ていないけれど、日本に勢いのあった頃に寄進されたものだろう。1820年(文政3)に寄進された狛犬。 垂れ耳のドングリ眼で尾は九尾狐のように彫り出されている。随神門。1764年(明和元年)に当時戸手村だった庄屋により奉納されたもので、櫛岩間戸尊(左)と豊岩間戸命(右)の門守が安置されている。境内は正面に神楽殿、拝殿、本殿、拝殿左に蘇民神社、疱瘡神社、拝殿右の正面が社務所、天満宮が主な伽藍。 境内は幅・奥行ともにゆとりがあり解放感がある。参道右の手水舎。 鉢の側面には一面に大きな龍が施された大きなもので、その鉢を下で支える邪鬼の表情がいかにも辛そうな表情をしています。北門から見る神楽殿と社殿。 素戔嗚神社の創建は天武天皇の御代(673~686年)頃の創建とされ、「延喜式神名帳」には「備後國深津郡一座 須佐能袁能神社」と記された古社。神仏習合により牛頭天王を祭神とした「早苗山 天竜院天王寺」とも呼ばれたが、明治に入り明治政府が発布した神仏分離令により祭神は素盞嗚尊になり現在の素盞嗚神社に改められた。 地元では親しみを込め天王さん、祇園さんと呼ばれていると云う。訪れた4月20日はこの時期にしては強烈な陽射しが降り注ぎ、広い境内に参拝で訪れていたのは我が家だけだった。神楽殿。 入母屋瓦葺で四方吹き抜けのもので、内部天井は防鳥ネットが張られ、その先には複数の奉納絵馬が掛けられているのだが上手く撮れず載せられなかったのが残念。右手の社務所と天満宮。素戔嗚神社拝殿。 注連柱の両脇で毬を持った狛犬が本殿域を守護している。1909年(明治42)寄進の狛犬で、耳は横に、尾はピンと上に立てた姿で頭が小さく俊敏そうな姿。 入母屋瓦葺の拝殿は建立年代不明ですが、全体は派手な飾りを避け落ち着いたもの。向拝の鬼瓦には五瓜に桔梗?の紋が施され、兎毛通には羽を広げた鳥の姿が彫られていた。 その下には上を向いた姿の龍が彫られている。拝殿、幣殿、本殿方向の眺め。上備後國一ノ宮 素戔嗚神社社殿の眺め。 社殿を遮るものが無く全体が良く見通せる。本殿は入母屋檜皮葺の平入で大棟から大きな破風が付き、棟には5本の鰹木と外削ぎの千木が乗せられている。 社地周囲の杜は樹々が生い茂っているが、境内に樹々が少ないので真夏の炎天下は木陰が恋しくなる。本殿の鰹木と乗せ千木。 派手な彩色や光物もなく、個人的にはこの落ち着いた佇まいに魅かれるものがある。拝殿左に鎮座する蘇民神社と疱瘡神社の相殿。 向かって左に蘇民神社、右が疱瘡(ほうそう)神社。 「茅の輪くぐり」発祥の地 蘇民神社 「備後風土記によれば、昔、素戔嗚尊がこの地を訪れた時、一夜の宿を求め大きな屋敷を構え栄えていた弟の巨旦将来を訪ねたが断られた。 次に兄の蘇民将来を訪ねたところ蘇民は貧しいながらも快く宿を貸し暖かくもてなした。歳を経て、蘇民将来は素戔嗚尊より疫病厄除けの茅の輪を授けられ、この地に恐ろしい病が流行った時、蘇民将来の一族は病にかかることなく生き延びる事が出来ました。 この伝承が基となり、素戔嗚尊をお祀りする神社では「茅の輪くぐりの神事」が行われる様になりました」とある。一説によればこの社地は茅の輪を授かる機会を逸し病にかかり途絶えた巨旦将来の屋敷だと云う。 また由緒にある「疫隈國社」とは蘇民神社を指すと云う話もあるようだ。疱瘡神社。 疱瘡と聞くと疫病神のイメージが先に来ていい印象はないけれど、全国各地に祀られている事から単にそうとも言えないようです。疱瘡とは天然痘を指すようですが、広い意味で伝染病を指し、記録に残るものでは天平の疫病大流行や戦国時代にも大流行しています。 周囲を海で囲われた島国の住民は大陸から持ち込まれる疫病に対し免疫は脆弱です。昔は感染すれば処置も出来ず、江戸時代に緒方春朔が行う種痘まで打つ手はなかった。 それまでは自然治癒するのを待つか、天に祈るしかなく。禍をもたらす疱瘡神ですが、時にその禍を持ち去ってくれる事もあるようで疫病退散を祈願し祀られたようです。 素戔嗚尊から茅の輪が授けられなかった巨旦将来、案外天然痘に伝染したのかも知れない。因みに疱瘡神は赤が苦手だという、何年か前に着た赤いチャンチャンコや赤丸神事の赤の意味にはそうした意味合いもあるのだろう。 天満宮。 向拝下に吊るされた提灯と賽銭箱に梅紋の入り一目でそれと分かる。入母屋瓦葺で向拝が設けられている。「元は戸手祇園社(早苗山天王寺)の本地堂(観音堂)。1748年(縁起5)に再建されたもので、明治の神仏分離令の際、須弥壇等を撤去、神座を作り天満宮として取壊しを免れた。 現存する本地堂は、全国的にも二十例しかなく、広島県内でも二例だと云う。又、全国の祇園社で本地堂が現存するのは素戔嗚神社のみで、本来の祇園信仰の祭祀形態を留めている。 18世紀初期の三間堂の寺院建築様式が良く残っている建物で、素戔嗚神社本地堂として福山市の重要文化財の指定を受けている」祭神 / 菅原道真毎年7月15日には祇園祭が3日間行われるという、その最終日はけんか神輿が行われます。境内北側に神輿の収納庫があり、祇園祭にはこの静かな境内は人で埋まるのだと云う。 ガラスの反射で良く見えなかったが、少なくとも3基の神輿が保管されているようだ。備後國一ノ宮、それは素戔嗚神社だけではありません、二社が一ノ宮を称しています。 それも、ここから車で10分程西の神谷川上流に鎮座する吉備津神社も備後國一ノ宮です。一ノ宮の御朱印全制覇を目指すかみさんにとって、「一ノ宮一つでいいんじゃない」となるんだろう。 備前、備中、備後として考えれば備後の一ノ宮は吉備津神社、二つあるのには大人の事情があるのだろう。備後國一ノ宮 素戔嗚神社創建 / 天武天皇年間(673~ 686)祭神 / 素盞嗚尊、櫛稲田姫命、八王子天満宮 / 菅原道真公蘇民神社 / 蘇民将来疱瘡神社 / 比比羅木其花麻豆美神参拝日 / 2022/04/20所在地 / 広島県福山市新市町大字戸手1-1公共交通機関アクセス / JR福塩線上戸手駅から徒歩5分ほど関連記事 / 鞆の浦に鎮座する「住吉神社と胡神社」、全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2
2022.07.07
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三重県四日市市久保田「窪田神社」 近鉄名古屋線四日市駅から徒歩30分程西の三滝川右岸堤防の手前に鎮座する。三滝川。(久保田橋下流から上流の眺め) 西方の御在所から湧き出た水は窪田神社の背後を流れ、四日市市内を経て四日市港に流れ下る2級河川とか。堤から川面を眺めると以外に澄んだ流れ、神社に向かう前に河原に下りて涼んで見た。 四日市はどうしても過去のイメージが付きまとうが、こうして見る空も水も青々として今では四日市港から三滝川を遡上するアユの姿も見られると云う。過去の負のイメージは微塵も感じさせない。 この写真の堰堤、御存知の方も多いと思いますが、風船のように内部に空気満たし堰を形作るもの。こうして溜められた水は導水口から取り込まれ田畑を潤し、町内に流され涼感を与えてくれる。上は1898年頃の久保田橋界隈(左)とほぼ現在。 当時は久保田橋もなく、三滝川右岸の久保田集落と左岸の野田集落以外は田んぼの広がる一帯。先程の堰から取り込まれた水はこれらの水田を潤す事になる。 随分と寄り道してしまったが窪田神社の話に戻そう。上の地図に窪田神社の位置をマーキングしてみた、明治31年の地図にも鳥居の印を見ることが出来た。 三滝川右岸堤防道路。 なんとこれで国道(477号線)なんだと云う。窪田神社は右手側道の横になります。側道を下りた久保田町。 柳通りから北に入った道路に面し窪田神社の社頭がある。堤防と柳通りの間に鎮座し、社殿は大きな樹が聳えた杜に包まれている。 駐車場は見当たらなかった。社頭から境内の全景。 社標としては立てられていないが、右の幟立てに「窪田神社」と刻まれていた。常夜灯の先に石の神明鳥居、その先が拝殿、本殿の伽藍。境内右に手水石。拝殿正面全景。 切妻瓦葺で軒先を長くして向拝を設けている。神紋は鳥居に刻まれていた左巴の紋だろう。社殿全景、といきたいところですが左右に樹々が迫り本殿の姿まで入り切らない。 窪田神社の創建等の詳細は定かではなく、一説によれば1926年(大正15)に四日市市赤堀の八坂神社から分祠したとある。地図が発行された明治31年には既に鳥居の印、境内の燈籠の1854年(嘉永7)などから八坂神社から分祀されたことは事実だと思いますが、それ以前から存在し江戸時代まで遡る神社のようです。 それは何だとなるが分からない。拝殿横から本殿域。 神明造の本殿は鰹木5本、千木は外削ぎで、本殿域には燈籠、狛犬が安置されているようだ。祭神は健速須佐之命の一柱とされるようです、分祀年度や地図の履歴から一柱ではないような気がする。社地左側から社殿の眺め。 左手に澄んだ小さな流れが続き、そこには小魚も泳いでいる。右手の看板が神社の由緒?と期待したがそれは外れだった。三滝川「石垣井堰」からの取水口「農業用水に供するため、三滝川に堰を造り、そこから左岸の野田側と右岸の久保田側に水を取り入れている。 ここで取水した水は、久保田と芝田の田を灌漑している。この堰は「石垣井堰」と呼ばれ、河川改修に伴う井堰を造り替える工事が、2000年(平成12)から始まり、2003年(平成15)に完成した。 現在久保田、野田の自治会が維持管理している。堰はゴム堰で、いわば風船を膨らませた形で川に堰を造り取水している。 表面水、伏流水両方の水を取り入れているが、きれいな水が流れ込んでおり、上流部では源氏ボタルのえさにもなるカワニナが生息している。この川の流末は阿瀬知川になっている」市内を歩いていると阿瀬知川を至る所で見かける。 街で見かける淀んだ汚い水ではなく、三滝川の澄んだ水が導かれ適度の流れを持つもので、横を歩いていても酷暑が続く毎日ですが、見た目体感ともに涼やかだ。淀んだ汚い川には蓋を被せ暗渠にして見えなくする手法より、川を綺麗にして絶え間なく水を流してやる前向きな取り組みだと思う。 子供の頃身近にあった川も今や三面コンクリートになり、遠ざけられ危ないものの様に扱われている。親水の中から学ぶ事は多いのだが・・・学ばせるより排除する方が容易だし金を生まない事もあるんだろうね。 ひょっとすると四日市市内に蛍が飛び交うのも夢ではないのかもしれないね。窪田神社創建 / 不明祭神 / 健速須佐之命所在地 / 三重県四日市市久保田2-17-18公共交通機関アクセス / 近鉄名古屋線四日市駅西に徒歩30分程訪問日 / 2022/06/10関連記事 / 四日市来来憲の大とんてき
2022.07.06
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「二社一寺」 よく聞くWordですが、その内訳は輪王寺、二荒山神社、東照宮を指します。どうしても日光と云えば「東照宮」となりますが歴史的に云えば東照宮は一番新しい。 栃木DAY2の始まりは日光二社一寺の中心的存在の日光山輪王寺を訪れます。 幸運にも宿泊場所が輪王寺、二荒山神社、東照宮の目の前だったので朝一番に神橋から輪王寺に向かう。 旧日光街道から東照宮へはこの橋を渡っていく事になる。この橋を渡るには神橋渡橋受付を介さねばならないが、web情報では8:00からとあったが当日だけかもしれないが8:30入場開始で入場クローズ。 目的地輪王寺は既に8:00から拝観窓口が開いているが、日光入口の神橋渡受付が寺社より遅れて始まるのは何か噛み合っていない。神橋渡は諦め輪王寺に向かう。上神橋から国道の渡った先にある輪王寺に続く参道。下深沙王堂 神橋を渡った国道沿いに聳える太郎杉、その脇に鎮座する。深沙大王は毘沙門天の化身とも言われ、勝道上人が日光入山の際、大谷川に足を止められた時に対岸に深沙大王が現れ助けてくれたという。 現在の社は1978年(昭和53)に再建されたもの。上観光バスが連なって走り去る国道を渡り「世界遺産日光の社寺」の石碑から輪王寺に続く石段を上り始める、ここを道なりに進めば輪王寺本堂にあたる「三仏堂」に続きます。下長い石段の途中で見かけた社。 詳細は分からなかった。上重要文化財 東照宮御旅所。 解説によれば「本殿、拝殿、神饌所が重要文化財に指定。 日光東照宮春季例大祭(5月18日)と秋季大祭中の10月17日に百物揃千人武者行列と称される神輿渡御があり、三品立七十五膳と呼ばれる豪華な神饌が供えられ、拝殿で八乙女の舞、本殿前の石畳上では東遊の舞が奉納される祭典が行われる」左の入母屋造の唐破風が付いた建物が本殿、中央の建物が拝殿で1617年(元和3)に造営されたもの。 1636年(寛永13)に3代将軍家光によって社殿の改修を受けたという。下日光開山勝道上人像 日光山は766年(天平神護2)、勝道上人(しょうどうしょうにん)に開山以来、平安時代には空海、円仁ら名だたる高僧が来山したと伝えられる。鎌倉時代には源頼朝の寄進などを受け、江戸時代になると家康を祀る東照宮や、三代将軍家光の大猷院廟が建立されるなど一大霊場として栄え、日光二社一寺の中核をなす寺院。 勝道上人像から左手に進むと輪王寺本堂(三仏堂)に繋がる。日光山輪王寺本堂。 訪れた時はバスを連ね修学旅行で訪れた生徒の列が多かった、長い期間封印されてきて久し振りの光景が戻ってきた。ここは集合写真の撮影スポット、長い列ができていれば黒門や宝物殿と逍遥園を拝観しタイミングを見計らうのもあり。 これでインバウンド観光が増えてくれば日光は人で溢れるのだろう、いいタイミングで日光を訪れたのかもしれない。本堂(三仏堂)の右前の一際大きな樹は金剛桜と呼ばれる樹齢500年の桜の古木。日光山輪王寺本堂(三仏堂)。 輪王寺は天台宗の寺院で三仏堂、大護摩堂、大猷院、慈眼堂、常行堂、中禅寺、四本龍寺等とその他のお堂や本坊、支院を含め日光山輪王寺と総称しています。本堂(三仏堂)は木造建築物では東日本最大級(間口33㍍、奥行22㍍、高さ26㍍)とされ、国の重要文化財の指定を受けている。 輪王寺の長い歴史の中で過去幾度か本堂は場所を変えているという。始まりは瀧尾神社付近に創建され、江戸時代に新宮(二荒山神社)、1881年(明治14)に現在の地に移築されてきました。 朱で彩られた荘厳な建物の内陣には高さが7㍍を越える日光三所権現の本地仏「千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音」の三体の大仏と東照宮創建後は東照三所権現の本地仏「薬師如来、阿弥陀如来、釈迦如来」の懸仏が安置されていて、そのことが「日光山全体の総本堂」と呼ばれる由縁。銅瓦葺で入母屋裳階付の巨大な建物は1645年に徳川家光により建替が行われ、その後も幾度か修復を受け近年では2007年~2018年にかけて大規模な修理が行われたという。上本堂左の鐘楼。 三角コーンが立てられ近寄りがたく梵鐘は見られなかった。下相輪塔。 本堂と大護摩堂の間にある青銅製の供養塔。1643年(寛永20)、徳川三代将軍家光の発願により建立されたもので東照宮の鬼門除けとして建てられたという。 13.2㍍の塔の内部に1000部に及ぶ云われる経典が納めらていると云う。後方の建物は大護摩堂。 堂の内陣には、平安中期の作とされる本尊「五大明王」や「七福神」や「十二天」等30体の仏像や祖師像が祀られている。大護摩堂左の光明院稲荷。 鎌倉時代中期(仁治元年)、日光山総本坊として光明院を創建、その鎮守として建立された稲荷社。光明院は戦国時代衰退、江戸時代に入り再興されたが明治の神仏分離の混乱で焼失したという。 学業成就、家業繁栄の守護神として崇敬されている。ここから左は東照宮に続く参道。東照宮参道。 本来の姿ではないだろう、東照宮方向を見渡しても人波は皆無。杉木立の続く参道はかえって厳粛な雰囲気が漂う。 ここ東照宮社頭から左に進み、二荒山神社方向の大猷院へ向かう。常行堂。 二荒山神社社頭の左に鎮座する方型造りの朱塗りの堂。嘉祥元年(848年)に慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって、比叡山延暦寺の常行堂(にない堂)に模して建立されたと云う。 右隣の唐様の法華堂とは歩廊で繋がっていて、こうした構造は延暦寺常行堂と輪王寺が代表的なものと云う。常行堂の本尊は平安時代末期に作られた宝冠阿弥陀如来(国重要文化財)で、宝冠を頂き孔雀に乗った像要で、周囲に配された法・利・因・語の四菩薩も孔雀に乗った姿。 拝観は無料で内陣まで見ることが出来る。常行堂と法華堂を結ぶ歩廊。 朱で塗られた歩廊と屋根の銅瓦と黒漆、彩色された彫飾りの鮮やかな色合いが美しい。緩やかに曲線を描く唐破風も優雅なものだ。 常行堂と法華堂の目立つ建物を結ぶこの歩廊も見所の一つかも知れない。法華堂(法華三昧堂)。 現在の建物は江戸初期の1649年(慶安2)に再建されたもので歩廊を含め国指定重要文化財。本尊は普賢菩薩で、脇侍に鬼子母神、十羅刹女が祀られていますが非公開となっています。 朱で彩られた建物はそれ自体が派手、手挟にはこれでもかと言わんばかりに鮮やかに彩色された彫が施されている。延暦寺常行堂を真似たとされるが、派手さは延暦寺にはない物かも知れない。日光廟大猷院。 1651年(慶安4)に48歳で亡くなった徳川三代将軍家光の廟所。大猷院は後光明天皇から賜った家光の諡号から来ている。 伽藍は後方の大国山の斜面を生かし複数の門をくぐりながら拝殿、本殿に続き、墓所のある皇嘉門に至る。家光の遺言は家綱に受継がれ、東照大権現(徳川家康)を凌ぐ派手な建物の建造を戒めたとされますが、建立された拝殿などは黒漆が塗られ、その上に金箔を押した極彩色に彩られたもので、その姿から金閣殿とも呼ばれると云う。まず最初に現れるのが仁王門(国指定重要文化財)。 左右の袖塀には密迹金剛力士と那羅延金剛力士の阿吽の仁王像が安置され、ここから先に邪悪なものが入り込まないように立ちふさがっている。切妻銅瓦葺きの八脚門で1653年(承応2)に建てられたもの。 鮮やかな朱が目に飛び込んでくるが、梁から屋根にかけて塗られた黒漆と金箔で彩られた全体の外観は以外に落ち着いた佇まい。上宝庫。仁王門をくぐると左手にあり、江戸時代初期の1653年(承応2)に建てられ、国の重要文化財にしていされている。 入母屋銅瓦葺きの平入で、正面に施された向拝の蟇股や斗供には鮮やかな彩色が施されています。大猷院で受け継がれて来た宝物を保管する為のもので、そうした性格の建物だからか定かではないが校倉造で作られています。下龍光院続く参道(立入禁止)に建ち並ぶ石灯籠。 大猷院には300基を超える燈籠があるという、それらは182家の大名からの奉納されたもので、多くが1653年(承応2)の奉納と云う。龍光院前に建ち並ぶ灯籠は10万石以下の大名から奉納されたものばかり、彼らはこの先の二天門から先に立ち入る事すらできなかったという。 境内の高さは格の高さでもあるようだ。因みに東照宮を越えてはならない家光の遺言に対し、燈籠の数では東照宮の倍を超えるという。御水屋。仁王門と二天門の間にあり1653年(承応2)に建てられたもので国の重要文化財に指定されています。 切妻銅瓦葺きで唐破風が付く、屋根を支える柱は三本柱の四つ脚。下水屋の天井には江戸初期の狩野派の絵師狩野安信の手による墨絵の雲龍が一面に描かれている。 別名鏡龍や水飲み龍とも呼ばれるようで、手水鉢の水面に天井の龍が映し出されたその姿からその名が来ていると云う。現在は御覧の通り劣化が著しく図柄は分かり難い状態で、水面に龍が映し出される姿を見たいものです。二天門。1653年(承応2)の建立とされる入母屋銅瓦葺の八脚楼門で前後の屋根に唐破風が施されている。 朱を基調として、上層は黒漆に金箔、組物は極彩色で彩られていて、東照宮の陽明門より重厚感が漂うが派手〃には変わりないか。正面に掲げられた金色に輝く「大猷院」の扁額は後水尾天皇宸筆のもの。 二天門の名から分かるように、両脇の間に持国天(左)、増長天(右)の二天が安置されています。二天門裏側。裏側の間には風神と雷神像のレプリカが安置されています。 オリジナルは修復され輪王寺宝物殿で一般公開されています。風神と雷神像はもとは東照宮の陽明門に安置されていたという。 明治政府による神仏分離に伴い、仏式の色合いが強い大猷院は輪王寺に組み込まれ、風神と雷神は二天門に遷されたと云う。二体の険しい顔はもの言いたげな表情にも見えてくる。二天門から石段を進むと境内が広がり、左右対称に立つ鐘楼に視線が行く。 左側が「太鼓楼」、右が「鐘楼」で入母屋銅瓦葺で袴腰が施されている。夜叉門。鼓楼と鐘楼の先に一段高く石垣が積まれた境内に建つ門で仁王門と同様の作りの八脚門。 門の左右は回廊で繋がれ、名の通り四体の夜叉が安置されている。正面の間に安置されている毘陀羅、阿跋摩羅。 間の壁面は金色に輝く牡丹の花が彫られている。極彩色の妻飾りとキンピカの組物に木鼻飾り。 二天門から先に立ち入りが許されなかった小大名から見たら何と思う事か。格差の違いは今も同じか。後方には烏摩勤伽、犍陀羅を安置する。 こちらも牡丹で埋め尽くされている、そうした事から夜叉門は牡丹門とも呼ばれるそうだ。唐門。境内は一段上に上がり瑞垣に囲われた入口に建つ。 後方に拝殿、相の間、本殿と伽藍が続く。手前に立ち並ぶ銅燈籠、ここまで来ると燈籠は更に立派なものになる、ここは徳川御三家から奉納されたものばかり。上向唐門の正面。 辰年生まれの家光という事で破風の下には黒漆地に金の波が描かれ、中央に玉を握りしめた白龍が彫られている。「青海波に玉取りの白龍」と呼ぶそうだ。更に上には羽を広げた二羽の白い鶴が彫られている。下裏側も同様に白龍と鶴が施されている、細かく彫り込まれた飾りはこれに留まらい。 こちらの白龍は金地に靑の波が描かれていた。上大猷院拝殿から本殿方向の眺め。 拝殿は内部の拝観ができ解説もしてもらえる、内部の写真撮影はNG。内部は狩野探幽の手によって描かれた唐獅子の障壁画や格子天井には狩野一門による140枚の龍の絵が描かれている。 その他にも家光が着用した甲冑なども公開されていた。興味深い話が聞けたのだが思い出せない、解説の録音は許してくれるのか聞けばよかった。 金色のこの空間は歴代の将軍が参詣するための建物、そこに座り内部を見られるちょっとした将軍気分が味わえる。下本殿(金閣殿)から拝殿方向の眺め。 東照宮と同様の権現造ですが東照宮に比べ落ち着いた佇まいに見えてくるから不思議だ。皇嘉門。 本殿域右の斜面に立つ大陸の香りが漂う門。シックな白漆喰と上層や扉の煌びやかさから「龍宮門」とも呼ばれるという。 家光の廟所に続く門で、一般公開されているのはここまで。この右手の最上段に最後の門となる鋳抜門があり、その先に家光の眠る宝塔が立てられている。 祖父家康を凌ぐ派手な建物の建造を戒めた遺言は伽藍を見る限り受け継がれた様にも見える。 東照宮の主家康の遺言は「臨終したら体は久能山へ納め、葬礼は増上寺で行い、位牌は三河大樹寺に立て、一周忌以後に日光山に小堂を建て勧請せよ」だったと伝わる。家康の思い描いた小堂が東照宮だったのだろうか、それ次第で大猷院もまた別の姿になっていたのだろう。東照宮の胡粉の白と金を基調とする分かりやすい装飾に対し、黒漆と金を基調にした大猷院は落ち着いた印象を受ける。 身分制度の底辺の者の視点でこれらを見た時控え目と云われてもどうなんだろう。日光山輪王寺宗派 / 天台宗山号 / 日光山創建 / 766年(天平神護2)開基 / 勝道上人本尊 / 阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音大猷(たいゆう)院廟建立 / 1653年(承応2)所在地 / 栃木県日光市山内2300関連記事 / 『比叡山延暦寺』弾丸ツアー、日光二荒山神社本社、
2022.07.05
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長野県飯田市座光寺市場2516 元善光寺から県道229号線を1~2分程西に向かう、県道沿いに麻積(おみ)神社の大きな石鳥居が目に止まる。県道沿いの鳥居から北西に見える社叢に向かい参道がまっ直ぐに続いていきます。 参道は車の往来がある生活道路も兼ねている。駐車場はこの参道突き当りの左と右上に無料の参拝者駐車場が用意されています。 麻積(おみ)神社の鎮座地は、南の天竜川から北は標高1270㍍の座光寺富士までの細長い座光寺地区のほぼ中央に位置します。 麻積(おみ)の由来は、飯田市松尾から松川町一帯にかけて麻の栽培に適した場所で「麻を績」からきているそうです。麻積神社鳥居の扁額 。 内大臣三条實美の揮毫によるもの。この石鳥居は1888年(明治21)に建てられたもので、使用された石材は上郷姫宮と高森町大島山の石材から作られ、高さは5.6㍍、笠の長さは9㍍余りで飯田・下伊那地区では最大の石鳥居という。上駐車場から望む麻積神社社頭。下座光寺周辺観光マップ。 社地には麻績学校第一次校地校舎や麻績の里舞台桜、神社後方には400年程以前に築城された南本城跡などがあり、このマップから左に進むと石塚第一、第二古墳などが点在する。旧学校大石垣館か砦をイメージさせる長く続く石垣。 1898年(明治31)に麻績学校校舎拡張に伴い作られたもので、以前は傾斜地にクヌギの木が生えた子供の遊び場だったという。石段左の大きな枝振りの樹は麻積の里舞台桜。 その先に麻積神社ニノ鳥居。上「麻績の里 舞台桜」シダレザクラの一本桜で、この時期は濃い緑の葉が生い茂っている、花の時期にはライトアップもされると云う。 樹齢は定かではないようで350年~400年と推定され、5~10弁の花が交じり合って咲く「半八重枝垂れ紅彼岸桜」と呼ばれ、市の天然記念物に指定されていという。下旧座光寺麻績学校校舎(長野県指定有形文化財)1873年(明治6)には麻績神社境内に建てられたもので、舞台校舎と呼ばれていた。 飯田や下伊那では人形芝居や歌舞伎が盛んな地で、入母屋瓦葺二階建ての建物は学校と舞台の2つの機能を持ち一階が歌舞伎舞台として作られたもの。ニノ鳥居と石段右の手水鉢。ニノ鳥居をくぐると正面の石段と左右に参道が伸び、左の参道を進むと南本城に続く。 ここから右に進むと二つの神霊碑がある。鳥居左に琴平大神と秋葉大神の大きな石標がある。秋葉大神石標の側面には切り出した時の鑿跡が残っていた。石段を上り詰めた先の狛犬は昭和3年寄進のもの。 深い社叢を持っているが社殿周辺は開けて明るい、ある意味容赦なく陽射しが差し込む。 境内は社務所から拝殿に続き、左に島三社と境内社が主な伽藍。拝殿全景、切妻平入の瓦葺の建物で創建年代は不明。 伝承では天正年間(1573年~1593年)より以前の開創とも伝わり、天正年間以前は八幡社、天和2年(1682)に大宮社の社殿が建立されたという。呼称も八幡社、大宮大明神社(江戸後期からは諏訪大明神)と呼ばれたそうですが、1867年(明治6)から「麻績神社」と呼ばれるようになったと云います。 参道は二つに分かれ拝殿に続く。向かって左が麻積諏訪社、左に麻積八幡宮とあった。 参拝を終え内部を窺うも本殿の姿は望めず、拝殿の先にある鞘堂も見通せなかった。祭神は八幡宮の祭神で産土神の誉田別命と、諏訪社祭神の建御名方命を祀る。拝殿左の島三社拝殿。 切妻瓦葺の妻入り拝殿で吹き抜けの外陣と内陣に分かれている。妻壁や木鼻などに彫が施され、頭貫には見事な龍が描かれている。 扁額の島の文字も個性的なもの、島で良いのか今一つ自信が無いがここは島としておこう。外陣には奉納された弓が飾れていた。 内陣左に掲げられている扁額「島大明神社」から調べて見たが創建祭神などの詳細は分からなかった。地史を調べるしかなさそうだ。 島三社拝殿左奥に7社を祀る覆屋がある。左から受持神、伊雑皇社、秋葉社、社宮司社、子安社、疱瘡神社、浅間社の7社で、境内に舞台校舎が建設される以前は、そこに「九つの境内社」が祀られていたそうです。 これがそれにあたるのかは定かではないが、この一帯にはこの七社の他に複数の社が祀られています。 覆屋左脇に境内社が二社。 その前にも一社祀られている。間違っても触れたくない絶妙なバランスの石灯籠。 竿に当たる部分に文字が刻まれていたが元治の元号(1864~1865)以外は読み取れなかった。この社も詳細は分からなかった。 後方は島三社拝殿、その横にも一社祀られているがこちらも詳細は分からない。上絶妙なバランスの石灯籠の左側にも・・・・・下ニノ鳥居から右に祀られていた神霊碑。麻積神社境内から南の眺め。 眼下には氏子の住む座光寺地区が広がり、その先には天竜川と南アルプスの山並みが連なる。神社入口の南本城遊歩道の案内板。 駐車場から往復1時間程の距離にあり、車輪や土塁、空堀などが残っているという。麻積(おみ)績社創建 / 不明祭神 / 建御名方命、誉田別命境内社 / 受持神、伊雑皇社、秋葉社、社宮司社、子安社、疱瘡神社、浅間社、島三社、琴平大神、秋葉大神所在地 / 長野県飯田市座光寺市場2516参拝日 / 2022/5/25元善光寺駐車場から車アクセス / 所要時間2分程関連記事 / 妙琴公園キャンプ場、元善光寺御開帳
2022.07.04
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児玉 「白山社」 御嶽神社を後にして、東に向かい国道22号線を越え15分程の西区児玉の白山社に向かう。上は、6月3日に枇杷島を訪れ参拝した神社を落として見ました。 この日の陽差しは夏モードに変わっていない体に堪えるばかり、気持ちが萎えてしまった。見ての通り、足取りは既に地下鉄浄心駅を目指しています。白山社が鎮座する児玉町、名古屋城の北西に位置し、西春日井郡児玉村から名古屋市編入後西区児玉町になった。 一帯はつい最近までは田畑が広がり、メリヤス生産が盛んだったようですが、今は住宅街に変貌しそうした名残を感じる事はない。丹羽長秀邸跡。 白山社の社頭の南にあたり、曹洞宗薬師寺の前に石碑が立つ。丹羽長秀は丹羽長政の次男として尾張国春日井郡児玉に生まれ、織田信長その後の豊臣秀吉に仕えた織田四天王の一人、そんな彼を語る解説板は見当たらなかった。白山社社頭。 社号標、常夜灯は1912年(大正元年)寄進の物。参道は駐車場になっていますが参拝者用のものではなさそう、周辺の道は狭く駐車余地はないので車で訪れると厄介かもしれない。参道を抜けた右側の石標。 1852年(嘉永5)の年号が見える。神明鳥居(明治37)から境内。 社地は南北に長く、拝殿と幣殿、本殿が主要な伽藍のようです。街並みの中に緑の杜を持ち、街中でよく見かける佇まい。 社地を取り囲むように児玉白山稲荷大明神の赤い幟と児玉白山社の白い幟がはためいていた。境内右の手水舎。 綺麗に掃き清められた境内は氏子から大切にされているのが伝わってくる。境内の杜は手前のイチョウと奥の楠の木が主に形造っている。 拝殿は瓦葺の切妻で四方吹き抜けのもので大きな白山社の額が目に入る。拝殿前の狛犬。 毬持ちの阿形と子持ちの吽形、その後方に白山常夜灯、児宮堂の石標があるが何れも寄進年を確認し忘れていた。拝殿は装飾を押さえたシンプルな外観、それだけに金色で書かれた「白山社」の額が強調される。 神門は左三つ巴か。拝殿前の縁起。「白山社(児玉の鎮守・産土神) 創建(勧請) 不詳(1700年代)伊弉諾命、伊弉冉命、天照大神、大物主命」 ・・・とある、幟の児玉白山稲荷大明神は境内社かな。これだけ教えて頂けるだけでもありがたいものだが、白山比咩神社のHPで児玉白山社の記述が見つかった、そこには以下の記述があった。「御祭神 伊弉册尊他11柱、氏子数2,388世帯。創祀は不詳であるが、安永2年(1773)の木札があり、大正12年の報告文書に「祭神伊弉冊尊ニシテ加賀白山御分家トナリ云伝フ。」とある。「尾張徇行記」(150年前)には「白山社内一畝御除地、観音寺ノ支配ナリ」とだけ書かれている。明治時代、児玉には白山社の他に五社あったが、大正7年に合祀され、祭神は11柱あります。現在の本社末社は昭和24年に改築、拝殿は大正6年に改築されたものである。現在は児玉学区に唯一の氏神様であり、宮司はじめ氏子総代31名で秋の例大祭他、九の祭事と月次祭の行事を町内一帯となり行っております」児玉の市街化に伴い白山社に纏められ、その中の一つが稲荷社なのだろう。 それにしても稲荷社の社殿が見当たらない。 拝殿右の奥に境内末社が三社。 金毘羅社、神明社、秋葉社とある。稲荷社に拘るつもりはないが拝殿左奥も見たが稲荷社は見当たらなかった。社地西側からぐるっとひと回り。北側から本殿、拝殿方向の眺め。 本殿は神明造で鰹木は6本、千木は水平に切られている。拝殿右の境内末社。 奥から金毘羅社、神明社、秋葉社が祀られている。縁起の4柱と末社を合わせても11柱には及ばないが本殿域に祀られているのかナ。 それにしても綺麗に手入れされ、参拝に訪れても気持ちがいい。 ひと回りして社頭に戻る際に鳥居東で見かけた覆屋。これが稲荷社?と期待するがこちらは名古屋市指定史跡「しゃんしゃん馬・碑」由緒と覆屋。「昔、戦国時代に白山社東に児玉と云う姫の家があり、他の娘と一緒に押切へお針の稽古に行く途中、走ってきた馬に突き当たったのがもとで死んでしまった。 しかし連れの娘たちはその馬の姿が見えなかった。その後児玉村から徴発された馬が戦死したという知らせがあったので、あれはその馬の霊が帰ってきたのだということになって碑を建てて馬の霊を祭ったという。※歯痛がなおると言い伝えがあり、お参りすると、身体健全を、見守って頂けます。 児玉白山社氏子総代会」碑の建てられた通りはとても細く、入り組んでいます。 不思議な話ですが、帰ってきた馬はともかく、車で訪れるのはお勧めしません。歯に御利益があるのであればお参りしておこう。覆屋の中の祠。 子安地蔵が安置され元文元年八月一五日日、丙辰(1736)と刻まれていると云う。当時の念仏講中で創建され、今も大切に受け継がれている。 穏やかな表情をした子安地蔵。覆屋左手に役行者。 像の裏側には嘉永七年(1854)と刻まれていると云う。由来は定かではないようですが、毎月二十四日には地蔵尊と共にお祭りが行われると云う。児玉白山社創建 / 不明祭神 / 伊弉諾命、伊弉冉命、天照大神、大物主命他境内社(確認したもの) / 金毘羅社、神明社、秋葉社所在地 / 名古屋市西区児玉3-19-6関連記事 / 西区枇杷島4 御嶽神社、加賀國一之宮白山比咩神社徒歩ルート / 御嶽神社から東に向かい国道22号線を越え15分程公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」下車、西に15分程
2022.07.01
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岐阜県瑞浪市明世町戸狩「津島神社」先回掲載した水の木 秌(秋)葉神社から下街道(赤線)を西に進むとすぐ先で県道352号線に合流します。 水の木津島神社と塚の地蔵堂はその三叉路に鎮座しています。水の木津島神社。 下街道と岩屋不動尊に続く三叉路の角に鎮座する小さな石の社。この向かいに「塚の地蔵堂」があるので見落としやすいかもしれない。 背後にある建物の敷地の一部が神社の社地に与えられているようだ。石の祠には「津島神社 戸狩」と書かれた葦簀がかけられている。 この祠が立つ辺りから西側が戸狩集落で、津島神社祠は集落の東外れに位置し、集落に立ち入る禍いをここで鎮めている。 創建時期は不明。道路を挟んで津島神社の向かいに塚の地蔵堂がある。 後方は県道352号線が東西に延び、瓦葺の堂は県道からでもそれと分かる。堂の右に手水鉢も置かれている。堂内。 中央にベストを着せられた一体の地蔵さん。着ぶくれしているせいか像長と頭部の大きさに対し妙に胴が太く見える。手前にも黒光りした地蔵さんとその両脇にもこけしのように小さな地蔵さまが安置されている。 日々お参りに訪れる方がいるのだろう、両脇に供えられた生花は新しいもの。瑞浪市のMAPに目を通しこの地蔵さんの謂れを調べてみた。 「昔から地蔵尊は少年の形となって現れ、人間を救済するとも言われ、特に子どもの安全を守ってくれるものとして地蔵信仰が盛んになった。ここの地蔵尊もそんな願いによって建立されたと伝えられている」 この地蔵さんの情報はここまでしか書かれていなかった。塚の地蔵とあり、古墳を連想させるがそれ程盛られているわけでもない。 ここ瑞浪は土岐川沿いに古くから人が居住し多くの古墳が残り、ここ戸狩にも古墳が残っているものの古墳とは関係なさそうだ。いつ頃安置されたものか定かではないが、鼻を除いて表情は読み取れなくなっている。 お地蔵さまには「子安地蔵」、「身代わり地蔵」、集落や村の境界や辻を守る「道祖神」などありますが、像の背後の額に謂れが書かれているのかもしれない。地元の方に尋ねるしかなさそうです。酔い覚ましで歩いてきた下街道もここをお参りしてひとまず瑞浪駅に向かう事にします。 まだ〃一帯にある寺社の一部を参拝したにすぎません。時間はかかるだろうがゆっくり回っていきたい。水の木 津島神社創建 / 不明祭神 / 素盞嗚命所在地 / 岐阜県瑞浪市明世町戸狩853-3塚の地蔵堂建立 / 不明祭神 / 地蔵菩薩所在地 / 岐阜県瑞浪市寺河戸町1168-1公共交通機関アクセス / JR中央線「瑞浪」駅から北西に徒歩10分程参拝日 / 2022/04/30関連記事 / 水の木 秌葉神社 、「小左衛門 春のお披露目会」
2022.06.30
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乗り継ぎで訪れた岐阜県多治見駅。 この日の最高気温は14:09に37.9℃に達したという。 2022/06/28 Tajimi TVクルーも陣取っていたが昨日の全国一位は山梨県で多治見は2位。イメージだけで云うと長野・山梨は避暑地のイメージなんだが・・・ 梅雨の晴れ間を狙っていく予定だった所ばかり梅雨も明けたがこの気温で出歩くのは危険だ、車中泊・・・とんでもない どこか涼しい所は・・・家か空梅雨で開けてしまったが 川の流れを見るにつけ水不足と農作物が心配になる節電、節水を心がけたい 2022/06/29 Hida-Kanayama
2022.06.29
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二泊三日で訪れた栃木県一之宮巡り初日、華厳神社から東照宮方向へ小一時間のバス移動。 西参道入口で降車、「良い縁坂」の微妙にきつい坂を上っていく。 今日の最終目的地「下野國一之宮二荒山神社」に向かう。良い縁坂を上り詰めるとそこが二荒山神社の社頭。 右には金色に輝く左巴紋が施された大きな社号標「下野國一之宮二荒山神社」その先の明神鳥居から始まるなだらかな石段はその先の神門に続く。 左の参道を進むと徳川三代将軍「家光公」の廟所がある日光大猷院。ここは既に拝観終了、明日参拝とする。社頭付近の由緒。「御祭神 二荒山大神、大己貴命(大国主命)、田心姫命(妃神)、味耜高彦根命(御子神) 御鎮座 太古より二荒山(男体山)始め、日光連山八峯を二荒山の大神と崇め奈良時代の末に創建。延喜式名神大社に列し関東総鎮守・下野國一之宮として朝野衆庶の崇敬を集めている。御祭典 弥生祭(例大祭) 四月一三日より一七日まで(本社)、男体山登拝講社大祭 七月三十一日より八月七日まで(中宮祠)御社殿 本社・別宮(日光市山内鎮座)世界遺産登録二十三棟、中宮祠(男体山登拝口鎮座)、奥宮(男体山登山頂鎮座)、その他境内及び日光連山山頂に摂末社が多数鎮座御境内 日光連山主峯男体山始め八峯に亘り、華厳滝、いろは坂等が含まれる。日光国立公園の中枢をなし、広さは3,400㌶に及ぶ」社頭右に「むすび大国」 「大国様が座っている袋には、むすびの宝がいっぱい!大国様と大きな袋に触れて、良い縁を結んでください」とある。男女、友人、家族、健康、仕事、学業等幅広い縁が結ばれる、らしい。 ここはひとつお願いしておくか・・・。実はこの大黒様は二荒山神社新宮のオープニングにすぎなかった、小銭だけはしっかり用意しておくといいかもしれない。西参道鳥居に掲げられた額。杉木立に包まれた参道と神門。縁結びの御神木。 杉の巨木に楢の木が共生したもの。すぎとならに肖って「すぎなら一緒に!」という事で多少訛りがあるが縁結びの御利益があるという。神門。 瓦葺で妻切りの木造四脚門。1977年(昭和52)に建立された真新しい門。まずは境内を左から伽藍を見て行きます。 境内左の手水舎。手水舎後方の神楽殿。 毎年4月2日、国の興隆を祈願し神楽が奉奏される。神門中央は拝殿、その右に社務所と続く。社務所と拝殿(左)更に右に鳥居と楼門があり、その先は東照宮方面へ続く。鳥居から境内全景。楼門。 こちらの楼門も1978年(昭和53)建立と新しい物。二荒山神社新宮 拝殿。勝道上人が767年(神護景雲元年)二荒山(男体山)の神を祭る祠を建てたことに始まり、782年(延暦元年)奥宮、784年(延暦3)中宮祠と神宮寺の中禅寺を建立した。 祭神 / 二荒山大神、大己貴命(大国主命)、田心姫命(妃神)、味耜高彦根命(御子神) 重要文化財 / 本殿、拝殿、日枝社、朋友神社、神輿舎、大国殿、銅燈籠(化灯籠)等 祭典 / 例祭 (弥生祭)四月一三日より一七日本社、 男体登拝大祭 七月三十一日~八月八日中宮祠瓦葺の入母屋平入拝殿で内部は外陣と内陣に分かれているようです。 拝殿は、1619年(元和5)に建立され、1645年(正保2)に本殿移転に伴い再建されたという。 外観は鮮やかな朱塗りですが以外に装飾は少なく、本殿と比較するとシンプルな建物。拝殿内の眺め、金色の左巴紋が入る大きな賽銭箱。拝殿左の神輿舎方向から本殿の眺め。 化灯籠(手前)は鎌倉時代の1292年(正応5)鹿沼勝綱の寄進とされる青銅製の燈籠。江戸時代に夜警が燈籠の炎を亡霊の炎と見誤り刀で切りつけた刀傷が残る。 後方は透塀で囲まれた本殿。入母屋に千鳥破風、唐破風向拝が付くもので八棟造と呼ぶようだ。 拝殿同様1619年(元和5)に造営され、1645年(正保2)に僅かに移転された。掖門側から本殿の眺め。 栃木県日光市の世界遺産「日光の社寺」で現存最古の建造物とされ、2020年に7年をかけた大規模修理を終えたばかり。黒漆塗りの屋根や弁柄漆塗りの柱、彫刻など鮮やかだ。 今回の修理は銅瓦、垂木、錺金具など全て取り外し修理する大掛かりなものだったようです。訪れた時は神輿舎がシートで覆われ補修作業の真っ最中、伽藍は何れも綺麗な状態が維持管理できるようだ、流石世界文化遺産。ここから更に奥の「良い縁鳥居」方向に進む。鳥居をくぐり少し斜面を登ると本殿が見渡せる。 国重要文化財の本殿は徳川2代将軍秀忠が造営したもので、東照宮と見紛うばかりの華やかな本殿です。日枝神社。 848年(嘉祥元年)により創建され、現在の建物は1644年(寛永21)頃再建。祭神は山の神、健康の神とされる大山昨命、京都日吉大社から分祀されたものという。 訪れた時は各所の賽銭箱の回収に追われていた、参拝中にこうした光景を見たのは初めて。せめて参拝者が去ってからにはならないものか、妙に冷めた気分になった。・・・健康を祈願して賽銭投入。上「良い縁鳥居」ここから少し登ると本殿が見渡せるのでお勧めはここまでか?下鳥居から先は左に参道が続き、恒霊神社や七福神の石像が安置される賽銭、御朱印スポットだ。右、恵比寿神、左、福禄寿。上大黒様。下弁才天、特別朱印スタンプ7枚組で1,000円。日光連山遥拝所。 男体山と奥白根(左)手前の山並みは古賀志山日光連山の男体山奥宮、女峰山神社、太郎山神社、大真名子山神社、小真名子山神社、赤薙山神社、前白根山神社、奥白根山神社磐座として集約され、足腰が弱くてもここで参拝すれば登拝しなくても大丈夫。 男体山頂には大きな剣が立てられている。若子神社遥拝所。 御祭神は下照姫命。二荒霊泉鳥居。 本殿背後の恒霊山から湧出する「薬師の霊水」と滝尾神社の畔から湧出する「酒の泉」が引き込まれ、酒の泉で酒を仕込むと味がよくなる事から、毎年春と秋には全国各地の酒造所から仕込みの種水を汲んでいくそうだ。 境内右手に並んでいた酒樽はそうした酒造所から奉納されたもの。 古くから若返りの水、美人の水と呼ばれる「美容と愛情のパワースポット」のようだ。 霊泉不動明王、ここまで色々像を見てきたが一番御利益がありそうな趣だ。桧皮葺流造の朋友神社。 夕陽に照らされ朱色が鮮やか、向拝柱の脇にいるのは蛙か。知恵と医学の神・少彦名命を祀る。 二荒山神社の主祭神大己貴命の二本統治を助けた神とされている。創建時期は不明、手水鉢に1753年(宝暦3)の年号が刻まれている。 鳥居の前は狛犬? 蛙の様に見えなくもない。失礼しましたね。 この個性的な狛犬、右は無病息災、左の狛犬は知恵の狛犬と呼ぶようで1832年(天保3)寄進されたもの。 大国殿建立1745年(延享2)の方型檜皮葺の建物。 格子天井に絵が描かれているが、博物館的要素が強い。殿内に展示されている「宝刀 大太刀 太郎丸」 個人的に見るものはこの二つくらいか、刀身に穴が開くほどに眺めさせていただいた。神門から鳥居、良い縁坂方向の眺め。 左右の杉の巨木は右が親子杉、左が夫婦杉。初日はこれまで、今日の宿までは良い縁坂を下り10分程、あと一頑張りだ。 下野國一之宮 日光二荒山神社本社創建 / 767年(神護景雲元年)祭神 / 二荒山大神、大己貴命(大国主命)、田心姫命(妃神)、味耜高彦根命(御子神)境内社 / 日枝神社、朋友神社、恒霊神社、大国殿、滝尾社遥拝所、日光連山遥拝所、若子神社遥拝所所在地 / 栃木県日光市山内2307参拝日 / 2022/05/10華厳神社から日光二荒山神社 / 公共交通機関アクセス関連記事 / 全国一ノ宮巡り 栃木県 day1、下野國一之宮 二荒山神社中宮祠、「華厳神社」
2022.06.29
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広島県福山市鞆町。 陸奥稲荷神社を後に潮の香漂う鞆の港沿いを左に見える常夜灯方向に進む。港の船着き場に鳥居も社標もない小さな神社が鎮座する。 港の通り沿いに唐突に小さな狛犬が神社を守護している。神域は石垣が積まれ玉垣に囲われているが、通りと社地の区切りがないので、社頭前を通り過ぎる車や観光客など、小さな狛犬に息抜きする暇はないだろう。 出勤や登校時の通りすがりに何気に手を合わせて行ける日常生活に密着した身近な神社の姿。鳥居はないと書きましたが、過去には鳥居があったようで、阿形の狛犬の前に置かれた笠木はそれを物語ります。 こうなった経緯は分からないが社地と道路の区切りがないだけに鳥居は建てにくいだろう。 働き者の小さな狛犬。 尾をピンと上に立て、大きな球に両前脚を乗せた姿。台座には1877年(明治10)と刻まれていた。本殿は銅葺屋根の入母屋平入で向拝が付く。 社名札はないものの本殿前に嘗ての鳥居に掲げられた扁額が立てかけられていた。そこには「住吉大明神、蛭子神社」と刻まれていた、二社相殿のようだ。鞆ノ津の力石。 尾道の住吉神社で見かけた力石、ここ鞆の住吉神社本殿域にも安置されていた。力石は重要民俗文化財に、玉垣の黒いプレートから神社が伝統的建造物(89)に指定されているのが分かる。 こうした黒いプレートは鞆の町を歩いているとそこかしこで見かける事になります。 神社の創建由緒等、広島県沼隈郡誌(大正12年発行)の頁をめくって見た。 社名の記述はあったものの欲しい情報は得られなかった、狛犬が寄進された1877年(明治10)が一番古い物か。福山観光協会の紹介では「現在の社は鞆の名士、林家が建立した」とあった、創建は江戸時代まで遡るようです。住吉神社、蛭子神社創建 / 不明祭神 / 住吉三神、所在地 / 広島県福山市鞆町鞆865陸奥稲荷神社から徒歩 / 港沿いに5分程住吉神社から雁木が続く港沿いに進むと焼き板塀の黒と白壁のコントラストが新鮮な蔵が現れる。 なんでもドラマのロケとして使われた場所らしく、ここだけにとどまらず鞆の町にはこうしたロケ地が各所に点在するようです。 この案内板の先にも一社祀られています。胡神社。 鳥居の痕跡は見当たらず、こちらも住吉神社と同じ佇まい。町内の氏神さまのようで、西町氏子中と刻まれた玉垣が誇らし気だ。胡神社の本殿は銅板葺の流造。 通りと社地を隔てるものはなく、住民にとっては身近な神社だ。この神社も伝統的建造物(121)に指定されているようです。 玉垣の前の狛犬は、大きさ・容姿ともに住吉神社の狛犬とよく似ています。同時期に寄進されたものだろうか。 このちびっこい狛犬、神社を守護しながら路上駐車にも気を配らなければならないようだ。胡神社の創建についても広島県沼隈郡誌に名はあるがそれ以上のものは得られなかった。 胡神社について以下の記述を見付けた。 「江戸時代前期の古史にも記述がある神社で西町の氏神様として崇敬されている。港を生業とした商人たちの商売繁盛を祈願して祀られたもの」どうもスッキリしない、伝統的建造物としてシリアル番号が打たれているので指定内容等問い合わせしています、そこで教えて頂いた内容は後日加筆しておこう。胡神社創建 / 不明祭神 / ゑびす所在地 / 広島県福山市鞆町鞆859住吉神社から徒歩 / 港沿いに1分程 上は鞆の町なかの人一人通るのがやっとの狭い路地で見かけた神社。鳥居には1862年(文久2)と記されていたが詳細は不明、この神社に至っては所在地すら思い出せない。 昔の風情が残る歴史の町鞆は見所満載、朝陽や夕陽を浴びると全く違った表情を見せてくれるだろう。各所に案内板やマップが整備されていますが、マップにも記されない小さな神社含め全てを訪れるには一日では到底足りないだろう。 滞在最終日、まだ一之宮を二社参拝する予定だ、そろそろ鞆の町を後にしよう。訪問日 / 2022/04/20関連記事 / 「陸奥稲荷神社」広島県福山市鞆町、全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2
2022.06.28
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名古屋市西区枇杷島3の秋葉神社から北に進み、幼稚園南の筋を左に進むと左側に石鳥居が立っています。 神社である事に違いはないのでしょうが社号標などがなく社名は分からない。グーグル先生に聞けば「神社」としか表記されずつれない返事だった。通りから神社の眺め。 住宅街の路地左側に石鳥居が立てられています。「神社」全景。 石の神明鳥居があり、そこから右の境内に小さな山が築かれその頂に流造の社が祀られています。鳥居正面の石標には「四国八十八ヶ所、西国三十三ヶ所御砂」と刻まれ、社号標ではなかった。 社地が民家の敷地の中にあり、ずかずか立ち入るのは気が咎め社頭から眺めさせて頂きました。弘法大師と所縁のある西国遍路。 歳と共に足腰は衰え、遠く離れた西国霊場を踏みしめる事は出来なくなるものだ。ここは各霊場の御砂と本尊又は掛け軸を纏め、地方にいてもここで拝む事で巡礼したと同等の御利益を得る事が出来る御砂踏み道場とみえる。右手の小山は御嶽神社でいいだろう。 麓から頂にかけて複数の行者像と霊神碑が安置され、山丸三の紋が見られる。右側には1930年(昭和5)に寄進された「御嶽開山覚明霊神 150年祭記念」の石標が立つ。 霊峰御嶽は覚明霊神が行者として1782年(天明2)に黒沢口登山道を開き、後の1792年(寛政4)に普寛行者が王滝口登山道を開いた山、それにより御嶽信仰や講が全国に広まり一般にも登拝が浸透していった。 講は大きく分けて開山した覚明系と普寛系の二つに分かれ、宮丸講、福寿講、心願講、日出講などの講社に分かれていくようです。覚明霊神の俗名は丹羽仁右衛門、1719年(享保4)、現在の春日井市牛山町で生を受けます。 春日井市牛山町の天神社には覚明霊神の像をはじめ生誕地の石標と顕彰碑などが見られます。また、ここから南に鎮座する清恩寺には覚明行者が剃髪した「覚明行者剃髪道場舊跡」の石標もあるようで、枇杷島と御嶽開山の祖覚明霊神は所縁の深い土地柄。 生誕地の春日井や周辺で御嶽神社をよく見かけるのもそうした事もあるのだろう。御嶽神社本殿。 左右に小さな狛犬がいますがこれ以上寄れず寄進年度や表情などは分からなかった。山岳信仰では宗教観を絵に表した曼荼羅が描かれます。 御嶽なら御嶽山曼荼羅、白山なら白山曼荼羅、冨士なら・・・・曼荼羅は多い。実際に御山に登拝し、目の前の雲海に後光のさす姿が現れれば神仏の存在を感じたに違いない。 難しい言葉や文字で見た事もない宗教観を語られてもわからない、絵や自然がもたらすそうした事象は何より神仏の存在を受け入れやすい、山に登るとなんとなくそんな気にさせるシチュエーションに出会った事はないだろうか。枇杷島の御嶽神社全景。 岩の積まれた小高い御山は、里と山に生まれ山に戻る故郷の霊峰御嶽を繋ぐ扉なのかも知れない。御嶽神社から西に進んだ三叉路の角に延命地蔵尊が祀られていた。詳細は分からないが堂内に二体のお地蔵さまが安置されていました。 左のお地蔵さまは表情も読み取れず古さを感じる、ここは二人分の賽銭を奮発しお互いの無病息災をお願いしておこう。延命地蔵尊から御嶽神社方向の眺め。上は今回枇杷島を訪れ参拝した三社を地図に落として見ました。「御嶽神社」創建 / 不明祭神 / 不明参拝日 / 2022/06/03所在地 / 名古屋市西区枇杷島4-6-17公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」降車、西に30分前後(神明社👉秋葉神社経由)関連記事 / 「神明社」名古屋市西区枇杷島4、「秋葉神社」名古屋市西区枇杷島
2022.06.25
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三重県四日市市松本2丁目7-24国道477号線(湯ノ山街道)から松本街道を東へ 松本郵便局の前にある「まつもとの来来憲」しごく普通の中華料理店の店構えでありながら、地元では知られた人気店だと云う。 お昼時だった事もあるのだろう、店の前には長蛇の列ができ全景を撮りたいところですが無理。ウェイティングボードに名を連ね取り敢えず呼ばれるのを待つ。 ・・・先は長そう、神社はないかと探して見るが生憎見当たらない。中華料理屋なのにとんてきが人気の店だけに店舗入り口のキャラクターはブタだ。 退屈な時間ブ~ブ~言いながら待っていると待望の呼び出しがあり店内へ。店内はいかにも中華屋さん。 座敷とテーブル席があり足にハンデがあっても大丈夫。上はテーブルに置かれたメニューの一部。 ランチ時にオーダーされるのは中華ではなく「大とんてき」ばかり。「チャーラー」を頼める雰囲気はない。噂には聞いていたのでオーダーに迷いはない、大とんてき定食で決まり。 その際「グローブotカット?」と尋ねられる、・・・・グローブ?。知らぬは我が家だけ、聞けばカットはカット、グローブは一枚肉の端を一部カットしたものを指すらしい、その姿がグローブに似ているから専門用語で「グローブ」と称すようだ。二人ともカットでお願いした。 250gの豚肩ロースのとんてきにライス・漬物・とん汁が付き1,760円なら妥当な価格か? 定食だとライス・漬物・とん汁がお代わり自由。とんてきはにんにく多めのオーダーも可能と云う。 見た目は脂っこくて味付けも辛そうなんですが見た目に反しさっぱりとした油で甘みを感じるやさしい味付け。付け合わせのキャベツとたれの相性が良く山盛りのキャベツも食べきれる。 250gの豚肩ロースに圧倒されるが柔らかくさっぱりしているのでぺろりと食べきれる。御飯もお代わり自由と云うが・・・食べきれない。 これは現役世代にしてみれば有難いだろう、但し食後しばらくは仕事に復帰する気にはならないかも。キャベツが美味しく頂けるのはとてもありがたい、キャベツお代わりはないのかもしれない。 とは言っても、なんでも値上げの情勢下そこまでは期待はできないか?現役で独身ならば月一には恋しくなる「大とんてき」かもしれない。 それにしても豚とはいっても250gは強敵だ。四日市を通りがかったら話のタネに一度味わってみては如何だろう。 見た目ほど辛くなく、しつこい油じゃないので完食いける。四日市とんてき、いろいろ店は多いようで究めて見たい気もするが初めての「とんてき」は我家的に五つ星評価で星3.5か。 「まつもとの来来憲」所在地 / 三重県四日市市松本2丁目7-24TEL / 059-353-0748営業時間 / (昼)11:00~14:00、(夜)17:00~20:00定休日 / 月曜・火曜、祝日休業車アクセス / 国道477号線(湯ノ山街道)から松本街道を東へ 松本郵便局の前公共交通機関 / 近鉄「伊勢松本駅」から徒歩で3分下は店舗裏に24時間営業の自動販売機が置かれていました。
2022.06.24
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5月24日~25日 長野県飯田市の元善光寺の御開帳を見に車を走らせました。 前日は近くの妙琴キャンプ場で昨年の乗鞍以来となる久し振りのキャンプ泊を楽しみ朝一番で参拝に訪れた。 日帰りで全然行って帰れる距離なんですが、軽にキャンプ用品一式積み込んでどんな感じか試してみようという目的もあった。軽で車中泊は流石にきつい、コンパクトで快適にキャンプが出来ればキャンプで遠征も出来る。 肥大化した用品の中で何がダイエットできるのか不用品チェックも兼ねていた。快適なキャンプを楽しみ朝一番に撤収、キャンプ場から東に20分程の元善光寺へ。元善光寺無料駐車場には9:00を少し回ったころに到着、元善光寺の拝観時間が9:00からなので丁度いい感じ。 既に参拝者の車が見られましたが、余裕で正面駐車場に駐車できました。ここに至る途中で複数の観光バスに遭遇、嫌な予感がしたが見事に外れた。 団体客がいない分落ち着いて参拝できる。駐車場から境内に続く石段。 まず目にするのが立葵の紋で、良く知られる長野市の善光寺の紋と似ているが元善光寺の立葵は丸で囲まれています。 この紋は善光寺、元善光寺を開いた飛鳥時代の人物「本多善光」の家紋。元善光寺の栞の縁起には以下のように書かれています。 「お釈迦様のご在世当時、天竺国(現在のインド)の月蓋(がっかい)長者の願いによって此の世に出現された阿弥陀如来様は、今からおよそ千四百年前、欽明天皇の御代に百済国から日本へ渡ってこられました。 しかし、物部氏と蘇我氏の争いの後、物部氏によって難波の堀に沈められてしまいました。 その後、推古天皇十年(602年)に信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人本多善光(ほんだよしみつ)公が、国司の供をして都に上がった時に、難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。その後、阿弥陀如来様の御告げにより芋井の里(現在の長野市)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん」との御誓願を残されました。 善光公は山中にて授かった霊木をもとにして自ら一刀三札の、御本尊様と同じ大きさの御尊像を彫られたのが元善光寺の御本尊となりました。そもそも善光寺の名は善光公の名を以って付けられたものです。 御詠歌「月半ば毎にきまさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来長野の善光寺と、こちら飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われております。」 約1,400年前の出来事、お告げでこの地に持参した阿弥陀三尊像は自宅の一室に臼を台座として置き、そこに阿弥陀三尊像をお祀りしていたという。やがて再びのお告げから本尊は善光寺に移され、本尊を失った台座の臼からは不思議な光が放たれていたとされる、「座光の臼」と呼ばれ、元善光寺創建時に霊宝として今も受け継がれています。 ここは善光寺の発祥の地。長野市の善光寺御開帳は全国的な知名度も高く、満員電車に乗っているようで何ともならない程混みます。 それと比較すると元善光寺の御開帳にあの混雑は見られない。「一度詣れよ 元善光寺 善光寺だけでは片参り」の由来には、ほかの意味も込められているような気がしてならない。 石段右の元善光寺の寺標。 善光寺発祥の地ながら至って質素な大きさのもの。境内へ続く石段は御開帳の幟がはためき、その先には山門が見えている。山門。 小高い丘陵地の中ほどに築かれた石垣と瓦葺の薬医門の佇まいはどこか城門に通じるものがある。「定額山 元善光寺 境内図」 山門左に矢場があり、山門をくぐり一段上がった境内左から客殿、本堂、裏門とあり、更に上には宝物殿、平和殿、稲荷閣の伽藍。善光寺と比較するとコンパクトな伽藍。山門から矢場方向の眺め。矢場。1906年(明治39)に境内を整備し造られ、現在の建物は2016年(平成28)に射場を改修、2018年(平成30)に的場を更新したようです。 元善光寺で3月の春分の日と9月の秋分の日の年に2回、射会が開催されるという。山門右には複数の供養塔がある。山門扉に御開帳のポスター。 期間・令和4年4月3日~6月29日行事日程・開闢大法要4月3日・中日大法要5月1日、結願大法要6月29日 蓮華座の上で光り輝く「座光の臼」が描かれている。御開帳とは 七年に一度秘蔵の仏像を納めた厨子や仏舎利の扉を開け、帳を上げて法会を行うもので、元善光寺の御開帳は長野善光寺と同じく七年毎に一度行われ、丑年と未年に行われます。往古の御開帳は今の様に明確に定まっていなかったようです。 現在は十二支を丑年で二つに分けると裏は未年、「丑に引かれて善光寺参り」で覚えておくといいかもしれない。元善光寺の御本尊様「一光三尊阿弥陀如来」は、一つの光背の中に中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩の三体の仏様が並ぶもので、善光寺仏独特の形をしています。 御開帳となった前立本尊の手に金糸が結ばれ、五色の綱となり回向柱に繋がっています。回向柱に触れる事で直接仏と繋がり御利益を授かるとされています。 元善光寺本堂、正面には回向柱が立っています。回向柱から続く五色の綱はここから本堂の本尊の手に繋がります。 長野善光寺の御開帳では回向柱へもなかなか辿り着けなかった記憶もあるが・・・回向柱に触れる前の消毒、触った後にも消毒、禍で学んだ新しい手水の習慣だ。 時間も早い事もあるのだろう、同じ善光寺とは思えない御開帳の光景だった。 上本堂左の「元善光寺宝物の紹介。・「座光の臼」・涅槃像、元善光寺には二体の涅槃像が安置され一体は飯田市の文化財に指定。・薬師三尊像、薬師如来と脇侍の日光菩薩、月光菩薩の三像はこの地域では最大の物。・他に仏像、仏画など80点程が宝物殿に収蔵。下伊那出身の日夏耿之介の歌碑。「花散る夕 心経を誦して 俟ち給へ」「魚一寸 草三寸のかすみかな」境内にはこの句碑はじめ、裏門付近には芭蕉の句碑など複数見られる。境内右の鐘楼と手前に手水鉢。 梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれ、元々の梵鐘は戦時中に供出されたという。敗戦後の昭和25年に平和を祈願し新たに鋳造されたものがこの「平和の鐘」 二度と同じ道を歩まないように後に語り継ぐ思いが込められた梵鐘ともいえる。・・・・・きな臭い世の中になったものだ。 鐘楼の建立年度は不明ですが、格子天井には龍が描かれ鋭い目つきで下を睨んでいます。手水鉢。 鉢一杯にガラス玉が敷き詰められ陽ざしを受けて光り輝く光景は実に綺麗。映えが必須ともいえる昨今、花手水とは一味違う映えを求めて訪れるのはどうだろう。 映え後方の仲睦まじい道祖神。上裏門横に芭蕉の句碑、「うらやまし 浮世の北の 山桜」 車もない時代、よくぞ全国各地歩いて廻ったものだ。下本堂脇の元善光寺由来。 手前の馬頭観音は1838年(天保8)に寄進されたもののようだ。棟の鬼瓦に輝く寺紋は善光寺同様の立葵。元善光寺は1788年(天明8)火災に見舞われ、現在の建物は後に再建されたもののようです。 入母屋瓦葺の妻入り本堂で垂木など部分的に補修の手が入れられている。奥に写り込んでいるのは客殿。五色の綱に導かれ本堂に進む。本堂に掲げられた額「元善光寺」外陣でまず目にするのは大きく赤い奉納提灯、その先の内陣入口に掲げられた額には「本多善光誕生霊地」とある。本堂内で参拝と御朱印を頂き、外陣右側のびんずる尊者像の横から戒壇巡りへ。 ソーシャルティスタンスを取るのが目的だろう、入口に用意された砂時計の砂が落ち切ってから戒壇に下りていくルール。明るい世界から徐々に暗闇に包まれた仏の胎内に入っていきます、一寸先も見えなくなり頼りは手摺のみ。 暗闇の中、極楽往生・開運の錠前を探し求め手探りで前に進む、仏と深い縁を結ぶため本尊直下にある錠前に触れる、目的はただそれだけだ。長い暗闇の先の前方に外光が差し込み、少しずつ現実世界に立ち戻る。 戒壇巡りは明日をも知れぬ今を生きていく縮図そのものかもしれない。長野善光寺の戒壇巡りでは、暗闇に怯える息子達を導くのが精一杯、錠前に触れることすら出来なかったが今回はしっかりと錠前に触れることが出来た。 ここ元善光寺の戒壇巡りにお布施は不要、有難いことだ。 暗闇から眩いばかりの境内に舞い戻る。 まだ本堂後方に宝物殿、平和殿などありますが次の目的地に向かうため今回は拝観は見送りました、栞によれば平和殿(拝観料500円)では西国三十三番の札所の観音像や霊場の御砂踏みが出来るらしい。 元善光寺御開帳は6月29日まで。 元善光寺宗派 / 天台宗山号 / 定額山創建 / 伝・ 602年(推古天皇10年)開基 / 本多善光本尊 / 善光寺如来境内社 / 稲荷閣所在地 / 長野県飯田市座光寺2638参拝日 / 2022/05/25車アクセス / 中央自動車道飯田ICから20分関連記事 / 妙琴公園キャンプ場
2022.06.23
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瑞浪市寺河戸町「秋葉神社」 金刀比羅神社から下街道を西に進んだ三叉路の突き当りに鎮座する。秋葉神社全景。 左の秋葉常夜灯が鎮座地の目印になるのでは。常夜灯は石垣が三段に積まれ、その上に台石が乗せられ、その上に常夜灯が乗っています。 くびれた竿から宝珠まで高さはそれほどでもないが、下からの全高は見上げる高さ。境内の大半はこの常夜灯が占めている、右に寄進者の名が刻まれた石標があり、秋葉神社はその奥に祀られています。注連縄が張られた切妻の赤い屋根の小さな社。 賽銭箱はなく扉の前に。境内は清掃され、社も傷んだところもなく綺麗に保たれ、町内の方々の目が行き届いているようです。 祭神の秋葉三尺大権現は本地観世音菩薩が俗界の世界に現れた姿とされ、修験を積み自在に空を飛ぶ技を会得、秋葉山へは白狐に乗り飛来し鎮座したという。 後に圓通寺で火を操る奥義を会得した事から火伏の神として広く崇敬されている。人は火を自在に扱う事を覚え、それにより進歩してきた。 反面、当時の建物は茅葺や木造なので容易く火災に繋がり、火は有難いものであり恐怖そのものだったに違いない。そうした事もあり火伏の神を祀る秋葉さんは人の集まる集落や寺の鎮護社などに祀られ、火伏と五穀豊穣など人々に浸透し崇敬されたのだろう。 秋葉さんは集落の消防施設的な位置付けもあったのかもしれない。ここ寺河戸町も下街道を挟み多くの民家が連なり、火災に対する意識は強いのだろう。常夜灯。 竿には1903年(明治36)建之と刻まれていた。冒頭から秋葉と記載していますが、竿には「秌」葉神社と彫られています。 秌葉神社の創建は分からない。旧字体の秌が新漢字の秋に切り替わり始めた(1950年頃?)から竿に残る1903年くらいだろうか? それともさらに遡るのか?何れにしても100年以上も前から地域で受け継がれてきた秌葉神社。 火袋に灯される明りは電灯に変わり、夜の下街道でその存在を示すのだろう。秋葉神社の南側は県道352号線の「水の木」交差点に繋がります。 名古屋方面から車の場合「水の木」交差点を左折すれば社頭に出ますが駐車余地はありません。下街道は車を諦め自分の足で廻るのが一番。上は下街道周辺の地図にこれまで訪れた所をマーカーに落として見ました。 まだまだ多くの寺社があり先は長い。 水の木 秌葉神社創建 / 不明(常夜灯は1903年(明治36)寄進)祭神 / 秋葉三尺大権現参拝日 / 2022/04/30所在地 / 岐阜県瑞浪市寺河戸町1258-1公共交通機関アクセス / JR中央線瑞浪駅下車 北東に徒歩5分関連記事 / 「金刀比羅宮」瑞浪市寺河戸
2022.06.22
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「華厳神社」 日光二荒山神社中宮祠の参拝を終え、中禅寺湖沿いに続く国道120号線を大鳥居方向に歩く。目的地の華厳神社と華厳滝観瀑台までは約20分ほど。国道沿いの「日光自然博物館」の看板とツキノワグマのモニュメントが現れれば目的地は近い。 ・周辺のクマ目撃情報 周辺のマップ。ここから余談になるけれど、標高1,269㍍に水を湛える中禅寺湖は日本一標高の高い湖とされる。 山を登る方だと素直に受け入れにくくないかい、霊峰御嶽の二の池は2,900㍍付近、みくりが池ですら2,400㍍はあるだろう。今更だけど湖の定義を環境省のHPで調べて見た。(1)湖沼及び河川の定義 「湖沼」及び「河川」は、法令上の定義が置かれている例はない、我が国では一般には以下の意に解されている。ⅱ湖沼:「みずうみ」(四面を陸地でかこまれて中に水をたたえたもの。池・沼などより大きく中央部に沿岸植物の侵入を許さない深度(5~10 メートル以上)を持つもの) ・・・・・。とあった。ニノ池は水深が足りないの? 水深のあるみくりが池は?火山湖だから・・・・・。 因みに成立要因の頁には下の記載も。「人工湖は河川を堰き止めることにより造成したダム貯水池等や造成池に用水等を導入したため池等に区分される。 人口のダム湖は池?・・・・・黒部池、中禅寺湖にも中禅寺ダムがあったりするが・・・・「法令上の定義が置かれていない」カオスな世界だ。華厳第二駐車場付近で見かけた花。 クリンソウの葉に似ているが花の付き方が違うような、調べて見たが分からなかった。綺麗な花だ。「華厳神社」 華厳第二駐車場の西外れに鎮座し、真新しい赤い玉垣は駐車場からもよく目立つ。それもそのはず「華厳神社」の創建は2020年6月、二荒山神社の末社として神霊が祀られ新たに創建されたばかり。 日光二荒山神社の境内地は華厳の滝、いろは坂、日光連山を含む約3,400㌶と広大。華厳滝観瀑台エレベーターや駐車場といった人が集まる場所でもあり、この一画に新たに末社が創建されても何ら違和感はない。 新に参拝客を呼び込むには絶好のロケーションで御朱印(中宮にて頂ける)もある、なかなか上手くできている。華厳神社全景。 令和に入り創建された新しい神社だけにピカピカです。神社後方の断崖の先が華厳の滝の滝口になる。華厳神社御祭神 / 二荒山大神、華厳滝大神、水の神御利益 / 開運・悩み解消例祭日 / 6月21日午前10時「華厳とは、ヤシオの華が岩壁美しく咲き誇る様をいい、そこから流れ落ちる滝を「華厳の滝」と云う様になった。(一説には「華厳経」から名付けられたとも云われる) 古くより、この地域は二荒山神社の御神域として守られております。令和を寿ぎ、華厳の滝と並び神宿る滝と称え神社を創建。 神域である清浄なる滝を拝し幸運をお祈りください」因みにヤシオとは、春頃になると華厳の滝周辺などで白やピンクの花を付けるヤシオツツジというツツジの事。 ここから有料の華厳滝エレベーターで降下、長いトンネルを抜けると絶景が広がる。観瀑台の右側は柱状節理の断崖が迫る、そこはイワツバメの天国でもある。滝口。ここから一気に97㍍の高さを流れ落ちる。 滝口右側に一株のヤシオの姿があるが、時期が早いのか滝全体にヤシオのピンクは目立たなかった。中禅寺湖から中禅寺ダムを経て唯一流れ出る川の名はここまでが大尻川、滝から下流は大谷川、更に下流で鬼怒川に名を変える。 ダムで水量調整された滝とも云え、観瀑台には滝から流れ落ちる毎分流量が表示されています。巨大な岩盤から流れ落ちる滝、そればかりか岩盤の隙間からも湧き出している。 遥か昔、深刻な干ばつに見舞われた事があったという、その時日光開山の祖とされる勝道上人が江尻滝で雨乞いを祈願し雨を降らしたと云う、それが華厳の滝だとも云われるようです。 勝道上人が初めて滝と出会った時、自然が作り出した圧倒的な光景に神の存在を感じたのも分かるような気がしてくる。二荒山神社末社「華厳神社」創建 / 2020年祭神 / 二荒山大神、華厳滝大神、水の神所在地 / 栃木県日光市中宮祠2479-2参拝日 / 2022/05/25関連記事 / 二荒山神社中宮祠日光二荒山神社 中宮祠から徒歩ルート / 国道120号線沿いに華厳滝観瀑台方面へ20分程
2022.06.19
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愛媛・広島を一泊二日の車中泊で訪れた最終日。 阿伏兎観音から県道47号線を鞆の浦方面に向け走らせる、広島県営鞆町鍛冶駐車場までの移動時間は15分程。瀬戸内海国立公園鞆の浦。 鞆の浦はいろは丸事件でもよく知られ、歴史好き、ドラマ好きには魅力的な町だろう、寺社好きにとってもそれは同じ。観光案内に紹介される知名度の高い寺社以外にも小さな町内の狭い路地には多くの神社が鎮座する。 今回掲載する陸奥稲荷神社もその一つ。鞆と云えばやはり鞆の港に立つ常夜灯か、駐車場から海岸沿いを南下し港に向かう。 途中には江戸時代に朝鮮通信使が来日した際に宿舎となった対潮楼やいろは丸事件の際に紀州藩が宿舎として使用した圓福寺などが鎮座している。写真は圓福寺が鎮座する岬の西側にある大波止から鞆の浦と常夜灯の眺め。 写真は大波止から船番所、圓福寺方向の眺め、岬の先端に見える赤い鳥居が穴葉稲荷、陸奥稲荷神社の鎮座地。 圓福寺が鎮座する岬は往古は大可島と呼ばれた小島で、鞆の浦を行き交う舟や鞆の港に出入りする舟の監視が効く立地から村上水軍の砦が築かれ、大可島城も築かれた。現在は陸続きとなった大可島に嘗ての面影を感じる事は少ないかもしれない。水産加工場の敷地を通り抜けると正面に赤い鳥居が立てられている。 社頭には稲荷神の使い狛狐が一対、鳥居に額はあるが文字は退色し読み取れなかった。護岸沿いに奥に長い境内で、左側にも鳥居が二つあり、その先に社殿、更に奥に進むと鳥居を構えた境内社が祀られています。この神社の創建等詳細を調べて見たが定かにはならなかった。 狛狐の台座に刻まれた「明治10年(1877)玉光講」が創建に繋がる唯一のものだった。境内に入ると赤い鳥居が二つ並んでいます。 Gマップでは穴葉神社とあったが裏付けが見つからずここでは不明社としておきます。鳥居の先の二社は屋根の傷みは少ないけれど躯体は朽ち果てお札は納められていない。 既に廃社されたものだろうか。その右にも赤い鳥居がある。 鳥居の柱にはロープが張られ、綺麗に積まれた石垣の上にはあるべきはずの社の姿がない。石標や玉垣などに神社を特定するものは刻まれておらず、社が祀られていたであろう台座の正面に稲荷玉が見られるので恐らく稲荷社・・・だった?陸奥稲荷神社全景。 入母屋妻入り鞘堂に切妻の拝所が付くもので、建替られたのは比較的新しいように見受けられます。拝所や鞘堂の内部の様子は窺えなかったが拝所の鬼瓦に稲荷玉が施されている事から陸奥稲荷神社で間違いないだろう。 稲荷神は五穀豊穣の神として崇められ農耕のイメージが強いけれど、商工業や航海の安全なども司る事から港を見守るこの場所に祀られたものかもしれない。地元からは「あなばさん」と呼ばれて大切にされているようで、社殿改修に伴い寄進された方々の家紋が天井に描かれているという。 広島県沼隈郡誌から穴葉神社と陸奥稲荷神社を調べて見たが創建や祭神など記されていなかった。狛狐の台座か明治初期だった事を思うと遡っても江戸時代までだろうか。 陸奥稲荷神社の右の不明社。 三社相殿の社が左右に祀られているが、社名札はなく扉は閉ざされ今もお札が祀られているのか外観からは分からなかった。中央の銅板葺の小さな社、そこには小さな狛狐が安置されていた。 陸奥稲荷神社含めて祭神は宇迦之御魂大神と思われます。この一画には何匹の狐が住んでいるのだろうか? 境内はここで終わり、この先は岩礁帯になる。陸奥稲荷神社常夜灯の火袋から淀姫神社方向の眺め。 鞆の港に出入りする舟が良く見える、現在の舟に風待ち潮待ちは無縁だ。陸奥稲荷神社創建 / 不明祭神 / 宇迦之御魂大神境内社 / 不明社複数所在地 / 広島県福山市鞆町参拝日 / 2022/04/20阿伏兎観音から広島県営鞆町鍛冶駐車場 / 県道47号線を鞆の浦方面に15分程鞆町鍛冶駐車場から陸奥稲荷神社まで徒歩ルート / 15分程関連記事 / 全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2、海潮山 磐台寺「阿伏兎観音堂」
2022.06.18
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5/28に茶屋ヶ坂公園を訪れ、あれから結構時間も経ち、その後紫陽花の開花はどんなものか寄り道。茶屋ヶ坂公園西側から園内へ。前回に比べ紫陽花の花は増えてはいるものの、一面紫陽花で覆われるところまでは咲いていないか。陽が傾き涼しくなると大勢の方が紫陽花を見に訪れます。 公園南側(右)も紫陽花で染まるはずなんですが・・・まだ早い感じ。来週くらいかな? 動画はこちら
2022.06.17
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名古屋市西区枇杷島4の神明社から東に5分程。 白菊公園の西の住宅街、建物に挟まれた奥まった場所にひっそりと「秋葉神社」が佇む。道筋に掲げられた「秋葉神社 白川二部町内会」の看板を見逃すと恐らく気が付かないだろう。秋葉神社正面の眺め。 社は左の民家の奥まった場所に祀られているようだ。近付いて見て初めて分かる、身の丈程の高さに櫓が組まれ、その上に覆屋が設けられている。覆屋を支える高さのある櫓の下はかがり火台が置かれるなど、奥行きを有効に生かすための策なのかもしれない。 入口の扉は施錠されていないものの気が引ける雰囲気がある。精一杯寄った社は鰹木が4本、内削ぎの千木が付く神明造のように見えます。 社名札は見当たらないが「秋葉神社」とあるので火之迦具土大神を祀るものと思われます。いつ頃祀られたものか調べて見るも定かにはならない。 左が明治26年頃の枇杷島周辺、美濃路沿いに集落が連なり、秋葉神社の鎮座地は美濃路の北外れにあたり、当時まだ町割りもされていない事から遡っても大正、昭和に入ってからかもしれない。 何れの時期にしても、ここに集落が集まりだし火伏の神が必要だったのだろう。高い場所に祀られた社ですが綺麗に手入れされ、今も町内で神社当番を回しているのだろう。白菊公園付近で見かけた白菊町の謂れ。 過去に瑞穂区『嶋川稲荷』で白菊の琵琶と枇杷島の由来について触れたことがあります。「藤原師長は1138年(保延4)藤原頼長の次男として生を受け、保元の乱のあと土佐に配流された 後に白河院政のもとで太政大臣、従一位となるも、1179年(治承3)平清盛のクーデターで当地に配流された配流後の龍泉寺で理覚と改め出家、仏門に入る。 箏、琵琶の演奏に優れた才能を発揮、彼の琵琶は「白菊の琵琶」と呼ばれ、1181年(治承5)清盛の死後、京へ召還となります師長に仕えた村長の横江氏の娘に白菊の琵琶を形見として残します 娘は現在の枇杷島まで師長を見送り、悲しみから琵琶と共に身を投じました。それと共に師宣の琵琶は幻の琵琶となります。(後に白菊の琵琶は宮内庁所蔵と判明) 1192年(建久3)55歳死去。法名は理覚、号は妙音院。妙音通、師長町、枇杷島の町名や神社から南の山崎川に架かる「師長小橋」などこれらは藤原師長にちなんだものと云われます。」 この地が分かれの場となった場所と言い、一部に残る白菊の名はこの白菊の琵琶から来ているもの。「秋葉社」創建 / 不明祭神 / 火之迦具土大神参拝日 / 2022/06/03所在地 / 名古屋市西区枇杷島3-17-18公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」降車西に徒歩25分前後関連記事 / 「神明社」名古屋市西区枇杷島4、瑞穂区§2『嶋川稲荷』、「秋葉山本宮秋葉神社」
2022.06.17
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2022/06/11、愛西市立田町福原にある、国営木曽三川公園「船頭平河川公園」の船頭平閘門(こうもん)と河川公園の蓮を見に出かけてきました。工事渋滞が出来る高速を避け、下道を利用し立田大橋を渡り「立田大橋西」交差点から左折、そこから堤防上に伸びる県道168号線を下流に向け5分程走る。 右側に細い道が現れたらそれを進むと駐車場に辿り着きます。東に木曽川、西に長良川と揖斐川が流れ、その先には養老山系が聳える。 今でこそ綺麗に三つの川として流れてはいるが、往古は一つに合流し多くの分流が出来ていた。川は豊かな土壌の平野を作り稲作に都合のいい土地をもたらしてくれた反面、一帯は常に水との鬩ぎあいの場だった。御囲堤や三川分流、輪中や水屋など治水や独特の施設が生まれる事になる。 船頭平河川公園の最大の見所に船頭平閘門がある。三川分離で治水が出来て一安心、反面それまで舟で自由に行き来できた隣の川は「ちょっと待てぇ、河口まで行くんかい?」となる。 それを解消する手段として1899年(明治32)に着工、1902年(明治35)に竣工した施設が閘門。舟のバイパスだね。閘門から長良川を眺める、閘門を隔て隣り合う木曽川は長良川とは水位が違っています。 閘門は二つあり、門で仕切られた空間「閘室」に舟を入れ、扉を閉じ其々の川の水位に合つたところで出口の閘門を開け航行するものです。閘門の下部に小さな門があり、閘門全体を開放せず閘室に緩やかに水を満たす事ができるので舟に乗っているとエレベーターのような感覚かも知れない。閘門前に着いた舟は閘門前でドアのインターフォン押して開けてもらいます。 写真中央の紐がそれで、神社よろしく鐘を鳴らして担当者に知らせ、スピーカーでコミュニケーションを取ります。「開けてくれぇ」今も現役の閘門、施設の詰所には担当者が詰め、扉の開閉をコントロールする。 「毎度、開けるわな、開いたら中で待ってや水入れるんで」・・・なんてやり取りがあるのかもしれない。閘室から長良川側の閘門の眺め。閘室全景。 ここへ舟が侵入し水位調整が済み閘門が開くまで待機する。目的の川の水位と等しくなると巨大なギヤを介して閘門が開かれ航路が現れます。 通行料がいるのか定かではないが一般には無料開放され料金箱やETCなど見られなかった。生活や物流の舟の利便性を高める目的から始まった閘門、今ではレジャーボートや水上バイクの利用が多いようです。 長良川河口堤にもこうした閘門が設けられていますが、規模は大きく閘室に水が満たされる際は結構荒々しく、カヌーで水位調整を待つときは結構怖かった記憶がある。その頃のカヌーは今も物置で眠っているけれど、今も使えるようであれば一度通って見たい気にさせる・・・が若くはないか。 閘門扉。木曽川と長良川の間をつなぐ船頭平閘門、明治以降1994年(平成6)に手動から電動化、改修工事が行われ建設以来現役で稼働している閘門で、2000年(平成12)に国の重要文化財に指定されています。指定理由は・ 数少ない明治期に建造され現在も使用されている閘門である事。・ 複閘式閘門として最も初期のもの。写真は木曽川側の閘門脇に改修工事の際交換された初期の扉が保存展示されている。園内には船頭平閘門の建設に貢献したオランダ人土木技師ヨハネス・デレーケの銅像が立つ。長良川左岸にある国営木曽三川公園船頭平河川公園。 駐車場の目の前にあり、広大な芝生の園内には水生植物が植えられていて、これからの時期は蓮の開花が近づいてくる。上は2022/6/11時点の蓮園の様子。 ぐるっとひと回りしてみたが蕾を付け出したくらいでまだ〃気が早いようです。広い園内で唯一見かけた蓮の花、小雨が降る生憎の天気の中、淡いピンクの一輪の花がとても印象に残る。 森川花蓮田とは一味違ってしっとりと落ち着いた雰囲気の中鑑賞できる。因みに帰宅の際に森川花蓮田や周辺の蓮田を通りがかったが一輪も咲いていなかった。 どれくらい気が早いのかなぁ、一週間待てばもう少し咲いてくれるかナ。堤防道路はガードレールもなく、車は結構な速度でかっ飛んで行くが、ネズミ捕りにかからない程度の速度違反で留める事をお勧めします。 どうせ橋の信号や橋を渡るのに必ず渋滞する場所です。船頭平閘門と国営木曽三川公園船頭平河川公園休園日 / 毎月第2月曜日(休日の場合は直後の平日)、8月は第4月曜日 12月31日、1月1日開園時間・4月1日~6月30日 9:30~17:00・7月1日~8月31日 9:30~18:00・9月1日~11月30日 9:30~17:00・12月1日~2月末日 9:30~16:30・3月1日~3月31日 9:30~17:00☎ / 0584-54-5531所在地 / 愛知県愛西市立田町福原272訪問日 / 2022/6/11・駐車場無料、徒歩圏内に神明社、八幡神社等車アクセス / 名古屋から東名阪自動車道利用 / 約40分、名古屋から一般道 / 約60分
2022.06.14
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梅干しづくり緑がかった若い梅、ざるにとって風通しのいい場所で追熟している光景を見たかみさん手作りの梅干し 梅干し造りには熟した梅を使うのがセオリーという食べる専門だったおやじにすれば、こうした手間がかけられていた事に改めて驚く 日に日に全体が黄みがかり、梅の色合いの移り変わりが綺麗な事それとともに梅の芳醇な香りが家中に漂う様になってきた 美味しくなぁれ
2022.06.13
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「そば勝縁」中央自動車道園原ICから15分、昼神温泉からでも5分程の国道153号線沿いに店舗を構える。元善光寺御開帳に合わせ当地を訪れ、美味しい蕎麦と口コミでは評判はいいので立ち寄ってみた。 国道沿いに10台ほどの駐車場があり、営業時間の11:00を20分程過ぎ現地到着。写真は国道153号線から昼神方向を眺める。既に駐車場は多くの車が駐車していた。 幸い蕎麦は売り切れていないようで店舗入り口には「開」とある。開店後20分でしかないのになぜ売り切れを心配するのか? そもそも一日の蕎麦の絶対数が少ない様で開店後すぐに「閉」になる事も多いようだ。幸いすぐに店内の座敷に案内されメニューを見る、実にシンプルだ。 営まれているのが老夫婦という事もありメニューのシンプルさは潔い。かみさんは天ぷら蕎麦(1,500円)、自分はざる蕎麦(900円)と葉ワサビ蕎麦(1,100円)で迷った挙句葉ワサビ蕎麦(1,100円)の大盛(+500円)をオーダー。店内は木をあしらった内装で奥に広いガラス窓があり緑を眺めながら食事が摂れる。 席はテーブル席と座敷があり車椅子でも支障はない。既に先客が3組、私達の後に2組が入店したがそれ以降入店客が途絶えた。 途絶えた理由は蕎麦が無くなり店先の看板が「閉」になった為だった。上に書いたようにこの店は蕎麦の絶対数が少ない、 栽培から脱穀、乾燥、製粉、製麺迄全工程を老夫婦自らが行っていることもあるのだろう。ここからは個人の主観。 提供された葉ワサビ蕎麦は細くて更科蕎麦に通じる白みのある蕎麦。田舎蕎麦の香り高く、黒くて太い蕎麦が好みの自分には上品過ぎて風味が良く伝わってこなかった。 個人の5点評価で2.5。つゆは少し醤油辛い印象で葉ワサビや蕎麦の風味はつゆの強さに負けていた。 シンプルにざるだったか? 天ぷらの塩をサラッとふって食べた蕎麦は風味が伝わり美味しい物だった。天ぷらは季節の野草を主としたもの。 カラッと揚げられ口の中で広がる僅かな苦みに野生を感じさせる。うどの芽やどくだみの天ぷらはなかなかいける。 我家の庭にもどくだみが自生する、婆さんが亡くなる前はお茶やリキュールなどで利用していた。カラッと揚げてしまえば癖も抑えられ実に美味しいものだ、使ってやらなければもったいない。 静かな山間地に店を構え、落ち着いた静かな店内で蕎麦を頂くなら「そば勝縁」いいかも。注意点・開店後すぐに売り切れる。・男性には盛りが少ないので大盛がお勧め。「そば勝縁」所在地 / 長野県下伊那郡阿智村智里829-5中央自動車道園原ICから車ルート / ICから昼神温泉方向へ約15分定休日/月曜・木曜営業時間/11:00~13:00電話 0265-43-3711
2022.06.12
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岐阜県瑞浪市寺河戸町「金刀比羅宮」 耳ノ木神社から下街道を西に2~3分程歩いた右側の個人住宅の一画と思われる片隅に鎮座する。金刀比羅宮と刻まれた常夜灯が立てられ、縦長の敷地に縦に4社の石祠が祀られていました。 それらに合わせる様に奥に長い覆屋が建てられている。詳細を語る看板などは見当たらなかった。 4つの祠が綺麗に一直線に祀られている。山里で海の神様金刀比羅宮が祀られるのは特に珍しい事ではないかもしれない。 祭神の御神徳が開拓の守護、五穀豊穣、農業、漁業の守護、航海安全、厄除開運、勝利祈願など幅広い。漁業や航海は場違いな印象を持つけれど、目の前は土岐川が流れているので何ら不自然でもない。 祀られた動機がそれらの一部、或いは全ての守護を祈願して祀ったものか分からないがここに必要だったのだろう。さて、金刀比羅宮の祠はどれ?、一つずつ見て廻る。 先頭は小さな狐が安置されているので稲荷社で良いだろう、二番目の祠は文字も確認できず不明。三番目の石標は二十二或いは二十三と刻まれているように見える月待塔か? 下に大神と読めるので月待講の二十三大神かもしれない。最後尾の一際大きな石標が金刀比羅宮となります。金刀比羅宮がいつから祀られたのか定かにはならなかった。 当日健之年度まで見ておらず、今になってコントラストを変え何とか明治廿弐まで読めるようになった。明治12だとすると1789年、随分古いものです。 その年に讃岐國金刀比羅神社より勧請された、ともいえないので江戸時代にまで遡るのだろうか。 我が町では家すら継がれることなく一代で廃屋になっていく、今ではアライグマや韓国イタチが世帯主となっている。 金刀比羅宮が地域で護られてきたものか、個人なのか定かではないけれど、何代に渡って綿々と継がれきた。今の姿を見るとこれからも先人の思いは継がれていくのだろう。 我家はどうなることだろう・・・見てるかい息子達金刀比羅宮創建 / 不明祭神 / 大名持命境内社 / 稲荷社、二十三大神、不明社参拝日 / 2022/04/30所在地 / 岐阜県瑞浪市寺河戸町1262徒歩ルート / 耳ノ木神社から下街道を西に2~3分程関連記事 / 耳ノ木神社
2022.06.11
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さあ、遣唐使。 税金に群がる議員さん達、回答をしてほしい。日本自動車連盟要望 これだけに限らず、他にもまだまだある。数の論理でこうした声を封じ、行動しないのか? 血税の使われ方、しっかり示してほしい。どこぞの老人議長やピンボケ総裁・・・・ 検討使、 挿げ替えるには絶好の機会。 この機会を生かし若返りを図ったらどうか? 数を減らしたらどうか?個人資産の総額ばかり当てにせんと、内訳の分布と数を基にやるべきことを検討する! 老眼の船頭に老人ばかりで漕ぎ手は減る一方。泥船はますます重くなる。 もうすぐ選挙だ
2022.06.10
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栃木県日光市中宮祠 下野國一之宮 二荒山神社東武日光駅から湯元温泉行のバスでザ・リッツ・カールトン日光バス停で降車。 中禅寺湖から流れ出た大谷川に架かる二荒橋を渡り、国道120号線を左に折れ下野國一之宮二荒山神社中宮祠を目指す。社頭までバスで訪れるなら二荒山神社中宮祠停が便利。 国道120号線を跨いで建つ二荒山神社中宮祠の大鳥居。 後方の綺麗な稜線を見せる山は標高2,486㍍の男体山。穏やかな表情を見せているが中禅寺湖の生みの親はこの男体山。 訪れたのは2022/5/10、周囲の山〃はやっと新緑が芽生えだした頃。巫女石大鳥居の脇に一本の松の老木があり、幹の周囲は玉垣で囲われています。 巫女石(左)はその内側に安置されている。この地は平安時代より霊峰男体山登拝の霊場として開け、明治以前まで厳しい掟があった。 馬返しから先は牛馬は禁則、女人禁制の結界で、掟を破った者はもれなく御山の罰が下されたと云う。キュッとくびれたウエストを持つこの岩は神に仕える巫女さん。 女人禁制の男体山、神に使える身なので登拝しても大丈夫と登拝を試み、山の神の罰が下って岩(巫女石)に変えられた姿だという。これと同じように牛馬禁則の掟に従わず牛を引いて結界を越えた者がいた。 掟を破った彼?は二荒山神社中宮祠の神門をくぐった左側で伏せ牛の形をした岩(牛岩)に姿を変えられたという。グレーな幕引きしかできない、岩に変えたい人物が沢山いる昨今、何と云う厳格な対応だろう。 今は二荒山神社で登山届を出し参拝すれば岩(石)に変えられることもない。周辺のマップ 大鳥居の位置は赤丸、目指す二荒山神社中宮祠は点線の赤枠。縁熊 国道沿いの大きな樹の下に置かれ、二荒山神社の御神木で作られた熊。この熊の手を思いを込めて握ると千里の恋も叶うそうだ。 神社までは中禅寺湖湖畔をフラ〃しながら20分程。 やがて右手に鳥居が現れる、脇参道で神門の先の境内に繋がっています。 社頭はここから左の国道沿い、もう少しで到着です。下野國一之宮 二荒山神社中宮祠社頭。 大きな明神鳥居と右に大きな社標が立つ、周辺は参拝者駐車場で車でのアクセスも容易。鳥居右の水神の碑。 1921年(大正10)建立で中宮祠湖の水神に感謝と湖上の安全を祈願して建立された。祭神 / 水波能売神神徳 / 湖上安全、開運、晴雨祈願 二荒山神社中宮祠境内マップ。 神門から直線上に拝殿、本殿と続き、稲荷社、山霊宮、登山口となる登拝門が主な伽藍のようだ。登拝門から男体山山頂の奥宮へは山支度が必要。 日光二荒山神社は山頂の奥宮、中禅寺湖畔の中宮祠、東照宮の西に鎮座する本社の三社で構成されています。下野國の一之宮はここ二荒山神社と宇都宮の二荒山神社の二社があり、識別化のために日光二荒山神社と宇都宮二荒山神社として区別している。鳥居から先は石段が神門に続く。朱で彩られた八脚神門。正面に伽藍が広がる。境内は大きく四段に分かれているようで、神門のある境内は右に進むと牛石や宝物館。 一段上がると手水舎と稲荷社、最上段に社殿の伽藍。牛石。掟を守らなかった結果の姿。一段上がった境内右手の手水舎。左手に稲荷神社と金色のモニュメント。 願い叶えマス。 中禅寺湖は元々殺生禁止の霊場で魚は住んでいなかったという。明治に入り宗教戒律が解かれ、中禅寺湖に魚の放流が許可され、二代目宮司自らも放流を行ったと云う。 その由来を伝えるためこの碑が立てられたという。黄金色の鱒は触れると願いが叶うという。 中禅寺湖はフライフィッシングの聖地と云われた時期もあり、今も多くの釣り客が訪れます、二匹のアルビノの鱒に釣果を祈願するのもいいのかも。稲荷神社。 二荒山神社末社で1863年(文久3)京都伏見稲荷大社から宇迦之御魂大神を分霊、地元氏子から崇敬されている。3月28日の例祭は福引大会など神振行事が斎行され賑わうという。 五穀豊穣、延命長寿、産業振興、商売繁盛、家内安全を司る。稲荷神社本殿。 本殿とそれを守護する狛狐も大きな覆屋の下に祀られている。神門は左三つ巴だろうか。中門は透塀と一体となり、門前で大きな狛犬が守護する。 分厚い胸板で彫の深い逞しい姿の狛犬。重要文化財中門。 屋根は滑らかな曲線を持つ平唐門。中門蟇股の透彫りは鯉がモチーフになっている。蟇股には鮮やかに彩色された鯉は裏と表で真鯉と緋鯉に分けられていた。 緋鯉の顔つきは妙に愛嬌のあるもの。 拝殿・本殿全景。中門からは拝殿まで屋根が付けら入母屋瓦葺の拝殿軒下まで続く、向拝はないが雨天時に濡れる事はなさそう。 拝殿は1701年(元禄14)の建立で総弁柄塗り。拝殿額は中宮祠。 下は拝所から拝殿内を眺める。中宮祠由緒。 ・二荒山神社は神鎮まる御山として信仰される霊峰男体山(二荒山)を御神体とする。 ・782年(天応2)男体山山頂に祀られたのが始まり。 ・祭神は二荒山大神で主祭神 大己貴命、妃神 田心姫命、御子神 味耜高彦根命の親子三神を祀る。 ・男体山山頂の奥宮、中禅寺湖湖畔に中宮祠、東照宮西奥の本社の三社が鎮座。 ・二荒を「にこう」と音読みしたことが日光の語源。 ・境内地は華厳の滝、いろは坂、日光連山が含まれ約3,400㌶に及ぶ。 ・本殿と拝殿ともに1701年(元禄14)に建立国の重要文化財に指定。 ・主祭神大己貴命は大黒様として親しまれ境内には所縁のある七福神が祀られている。 ・登拝道は登拝門から山頂まで片道約6㌖あり、4月25日~11月11日まで。 ・宝物館には日本最大級の太刀「袮々切丸」など多数の刀剣類、南北朝時代の神輿、男体山山頂遺跡の出土品を展示。拝殿左の神楽殿から本殿方向に鎮座する山霊宮。 覆屋後方に聳える巨木は御神木のいちい、栃木県の天然記念物で、県の名木百選に指定されている。いちいの巨木は登拝門脇にも聳え樹齢は1100年を超えるとも。上山霊宮。 比較的近年に建てられたもので、男体山はじめ日光連山の信仰に貢献された方々を祀るもの。下七福神(福禄寿) 幸運と子孫繁栄、金運にも恵まれ長生きできると云われる。山霊宮から見る本殿域。 一段高く石垣を積み本殿域が作られ、周囲は透かし塀で囲われ薬井門に繋がっている。ここから見る本殿は反りの強い瓦葺の流造。神楽殿。 拝殿左に建ち、山霊宮から全体が眺められる。神楽殿は大国殿とも呼ばれるようで、毎朝大黒様に八乙女神楽が奉奏されるという。 2016年、学生の授業の一環で3.5年をかけ天井画を描き奉納された、彼らにとって後世に残る素晴らしい経験になった事と思う。拝殿右の登拝門の眺め。奥宮登拝口ここから霊峰男体山(標高2,486㍍)の頂に鎮座する奥宮へ繋がる。 古くより、霊峰二荒山(ふたらさん)として神の鎮まる山として尊崇され、御神体山と仰ぐ神社で、日光の氏神様。ここから奥宮は山支度の装備でしか辿り着けません。 周辺には石楠花の名残がチラホラ見られ下界とは季節感が随分違う。重要文化財の鳥居は1769年(明和6)寄進のもの。登拝門。 ここから先は修験の道に表情が変わる。登拝者を見守る狛犬。 苔を纏い、中門の狛犬に通じる風貌の持ち主ですが昭和生まれ。鳥居付近から見る三間社流造の本殿。社務所。 御朱印、登山届はこちら。社務所付近の手水鉢、奥宮への登拝はここで清める事から始まる。下野國一之宮 二荒山神社中宮祠創建 / 782年(天応2)祭神 / 大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命の親子三神境内社 / 稲荷神社、山霊宮参拝日 / 2022/05/10所在地 / 栃木県日光市中宮祠2484公共交通機関アクセス / 東武日光駅から湯元温泉行のバスでザ・リッツ・カールトン日光バス停降車徒西へ徒歩20分程関連記事 / 全国一ノ宮巡り 栃木県 day1
2022.06.10
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広島県福山市沼隈町能登原阿伏兎『海潮山 磐台寺』「道の駅 アリストぬまくま」で車中泊、迎えた二日目は県道47号線を10分程南下した阿伏兎観音に向かう。阿伏兎観音無料駐車場の目の前は阿伏兎の瀬戸と呼ばれる水道。 遥か先に広島県福山市の沼隈半島と田島を結ぶ全長832㍍の内海大橋が望める。狭い水道は干潮の潮止まりだったのかもしれないが実に穏やかな表情をしていた。 阿伏兎ノ瀬戸阿伏兎岬と田島の間の水道で幅は約500㍍、長さ約1㌔に渡り急激に海が狭められ、干満差が大きく満潮時には左方向、干潮時は右方向に潮流が生まれ速い潮の流れは美味しい魚を育む事にもなる。 動力のない昔の船は潮任せ、風任せで自然を利用し航海していた、潮や風が動いていない時は港でその時を待つ潮待ちを行っていた。駐車場背後の阿伏兎山は海に向かって急激に切れ落ち、露出した岩は海岸にまで達している。 ここから阿伏兎山森林自然公園の散策路入口があり、阿伏兎灯台や展望台に繋がるようですが、入口のルート案内の状況を見ると整備状況はいいとは言えないかも知れない。 この駐車場まではトモテツバスが繋がっていますが、ダイヤを見ると本数は少なく車で訪れるのがいいかも知れない。旅館を通り過ぎた先にも4台ほどの駐車場はあるが、歩く時間は2~3分程しか変わらないだろう。駐車場から『海潮山磐台寺』へは海岸沿いの車道を5分程歩いていけば突きあたりが目的地。道沿いの1795年(寛政7)の銘のある宝篋印塔と右に薬師如来坐像。『臨済宗妙心寺派 阿伏兎観音 磐台寺』 拝観時間は朝8:00から石段左の境内マップ 阿伏兎山が切り立った海岸に切れ落ち、伽藍はその僅かな空間に作られています。白壁の右は切れ落ちた海岸になっている、奥行きはあるが細長い境内。拝観料100円を納め境内へ。磐台寺境内。 正面の朱の建物が観音堂で左手の廻廊と結ばれている。左手の客殿全体がフレームに入らないほど境内は狭い。海潮山磐台寺客殿。 磐台寺は臨済宗妙心寺派の寺院。本尊は木造薬師如来。備後七ヶ所巡禮の瀬戸内三十三観音霊場第24番、備後西国三十三観音霊場第4番札所でもある。暦応年間(1338~1342)覚叟建智が開いたと伝えられ、一時衰退し建物は荒廃したという。 元亀年間(1570~1573)、毛利輝元により観音堂と共に再建されたとされる。入母屋瓦葺で内部は仏間を中央に左右に書院と奥の間を配した方丈建築。 後方の社は鳳凰稲荷、ここから左に参道が続く。阿伏兎 名勝 鞆公園内 大正14年10月8日指定 けわしい海食崖が続く沼隈半島の南端、阿伏兎岬は奇勝として知られ、岬突端の断崖に立つ磐台寺観音堂は阿伏兎観音と呼ばれ、昔から海上交通の人々の信仰を集めて来た。 観音堂は、寛和の頃(986)花山法皇が一帯の海上を往来する船の航海安全を祈願し岬の岩上に十一面観音石像を安置したのが開基。 後に毛利輝元が再興、福山藩主水野勝種によって伽藍が整えられた。観音堂と客殿は室町時代の建築様式で知られる。 本尊の十一面観音は小授け・安産・航海安全の祈願所として広く信仰を集めてきた。朱塗りの観音堂は、海からの眺望は絶品で、眼下に広がる燧灘の展望も素晴らしい。 観音堂を支える石垣はまるで城壁。もともとの岩盤に石を積み上げたものですが、境内側と海側の積み方の巧みさには目を見張る。白鳳稲荷。 銅板葺の流造で外削ぎの乗せ千木と三本の鰹木が乗る。佇まいは稲荷を感じさせない。手前に手水鉢、地蔵菩薩。 ここから廻廊を経て観音堂に続く。 廻廊から観音堂(大悲閣) 阿伏兎岬先端部の岩上に石が積まれその上に観音堂と廻廊が建つ。境内側は大小様々の石が積まれた乱積みだったが、海側の石積みは成形された岩が巧みに積まれたもの。 仰ぎ見る巨岩の上に建つ観音堂は一見すると方型の様に見えるが、小さな大棟を持った瓦葺の寄棟造。大棟には鯱が乗せられている。 廻り縁はあるものの高さは低く怖そうな予感がする。廻廊から海の眺めは絶景だが、下は垂直に切れ落ちている。観音堂廻り縁、ここからは土足厳禁。 なんですが写真の縁側の傾斜を見て欲しい、僅かに外に向け傾斜している。多くの参拝客が訪れ縁側の表面はツルツルに磨き込まれ、高所恐怖症でなくても立って歩くのは引けてしまう。 左は断崖、立ったまま眼下を覗き見ると体が吸い込まれるようでもある。廻り縁から見る燧灘と手前に足摺山の石塔。観音堂から望む足摺山の石塔、こちらも巨岩の上に立てられている。観音堂内。 本尊は天正年間(1573~1592年)に阿伏兎沖の海中で、鞆津江の浦の漁師三山次郎右衛門の網にかかり引き上げられた観世音菩薩の石像。堂の格天井には天井絵が描かれている。 小授け・安産のご利益がある事からユニークな形の絵馬には母ならではの願いが書かれていた。廻り縁から阿伏兎ノ瀬戸方向と精一杯下を覗いてみる、・・・・怖いかも。 今は阿伏兎灯台が岬の高みに立っているが、往古の海を行き交う船にとって、断崖の頂に建つ朱塗りの堂は絶好の山たて(道標)になったことだろう。 磐台寺と観音堂の全景を撮影するには内海大橋を渡り、田島側から撮るしかないのだろう。廻廊を下り右手の石段から足摺山の石塔に向かう。廻廊降り口は鐘楼になっていて、梵鐘の鋳造年度は1984年(昭和59)と新しいものだった、その先に六地蔵が祀られている。 断崖沿いに鎖が張られた歩道があり、突き当りが足摺山。足摺山石塔。下には1903年(明治36)に鞆の石工により彫られた千手観世音菩薩坐像が安置されている。 力こぶを見せつける様な姿は印象的だ。ここから眺める観音堂が境内で一番綺麗に見える場所かも知れない。 航海の安全を祈願する、その思いから建てられた観音堂、どれだけの岩が積まれたのか分からないが思いを持った時の人の作り出すものには目を見張るばかりだ。 ・・・・角っこは宙に浮いていたのねぇ、積まなかったのには意味があるのだろう。 広島県沼隈郡誌によると現在の観音堂は1738年(元文3)、鞆奉行加藤杢兵衛忠保が藩命により改築し、その後幾度が補修が行われた。観音堂の天井絵は松林により描かれたとあった。 また面白い記述として観音堂の沖を往来する船舶は海上安全を祈願し賽銭を投じていたという。 今から200年ほど前、晩年の歌川広重が六十余州名所図会に描いた備後阿武門観音堂。 朝が迫る阿伏兎観音を描いたものだろう、観音堂の上には落ち行く月が描かれている。この絵を見る限り当時は舞台造りだったのが分かる。 広重は船から眺めた観音堂の姿を描いたのだろう。写真などない時代、見事に特徴が描かれている。境内の端っこでひっそり安置されている十一面観世音菩薩立像。 網にかかった石像はこんな姿をしているのだろうか、実に穏やかな表情をしている。磐台寺を後にする際に写真に残しておきたかった表情です。海潮山 磐台寺宗派 / 臨済宗妙心寺派開基 / 花山法皇本尊 / 十一面観音創建 / 986年(寛和2)所在地 / 福山市沼隈町能登原阿伏兎1427-1参拝日 / 2022/04/20道の駅アリストぬまくま👉磐台寺無料駐車場関連記事 / 全国一ノ宮巡り 愛媛・広島、 全国一ノ宮巡り 愛媛・広島 day2
2022.06.09
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名古屋市西区枇杷島4「神明社」 庄内川沿いに走る県道106号線を走っていると左岸堤防の上に小さな杜を持つ神社を見かける。県道は名鉄犬山線と名鉄本線の橋脚をくぐるアンダーパスとなるので気付いた頃には通り過ぎてしまう。枇杷島から県道に出る車道はあるが車の往来もあり路駐はし辛い、気にはなっていても長年縁がなかった神社の一つ、今回は自分の足で訪れて見た。 地下鉄鶴舞線の浄心から西に向かい庄内堤の神社まで徒歩30分程。歩き出した事はいいがこの日は真夏のような陽気、日陰を探しながらの道行きだった。 土手の向こう側は県道、すぐ先を赤い電車が通り過ぎて行く。神社の下側にも社があるようで、堤防道路からは目にすることのないものだ。 堤の斜面に石段が作られ、その先に基壇が作られ社が祀られている。社全景。 赤い屋根の三つの扉が付く相殿。上の神社とフェンスで区切られているので境内社ではなさそう。 どなたの三世帯住居なのか知りたいところですが、表札もなく扉は閉ざされさっぱり分からない。基壇は意外に新しく、後方に複数の看板が置かれている、これひょっとして屋根神様かも? 西区は屋根神様の多い地域、古い街並みは残るものの建替が進んでいる。建替に伴い居場所がなくなり地上に降ろされたものだろうか。 扉が三枚となるとそう勘繰りたくなる、扉をノックしたいがそうはいかない。上の神社との関係はよく分からないが三世帯分の賽銭を上げ参拝させてもらう。歩道を左に進むと神社に続く石段があり、堤の上に大きな切株と社標が立っている。 長年気になっていた神社の正体は「神明社」だった。堤防の上に鎮座するので津島さんか龍神さまと決め込んでいたがそうではなかった。堤の下から上を眺める、大きな切株は神明社の歴史を語っているかのようだ。 それにしても堤防上の巨木の切株、相当な根を張っていたと思うが、根が朽ちた後の空洞は堤防の強度を下げたりしないものだろうか。上は1891年頃の枇杷島界隈。 随分と川の様相は違い、周辺には大きな中洲も見受けられる。神明社について後日地史を調べて見たが創建に繋がる確かな記述は見つからなかった。枇杷島と県道106号線を結ぶ車道から下流の眺め。 往古の庄内川や矢田川の堤は幾度となく切れ、特に1700年代の明和の洪水、宝暦の洪水など大きな被害に繋がっている。ここに神明社が祀られた思いは分からないが、川の氾濫による禍除けからかもしれない。 この周辺の川の様子を知るものとして尾張名陽図会の挿絵を載せておこう。枇杷島橋下流から上流方向を眺めたもの。 当時の枇杷島橋は美濃路への要衝ともなり、現在の橋より少し上流の中島黒體龍王大神社が鎮座する辺りとされ、名鉄の橋脚から少し下流あたりになる。広い川幅に橋を架けるため中州を利用し二つの橋(枇杷島大橋と小橋)が架けられた。 挿絵には上流の堤防の様子も描かれ、右手の堤防上に神明社の姿を期待したが描かれていなかった。当時は堤防から富士山も綺麗に見えたようだ。 ここに描かれた木造橋や中洲、集落など現在は姿を消しその名残はない。暴れ川といっても過言ではない庄内川、輪中や水屋、横堤など人は知恵を絞り生活して来た、それでも最後は神が必要だったのかも知れない。堤防から眺める社殿全景。 鳥居はなく形跡も見られなかった。左の神明社の社標は1937年(昭和12)に寄進されたものだった。 後方に手水鉢と正面に瓦葺で四方吹き抜けの神楽殿、本殿域。手水鉢。神楽殿から本殿域の眺め。 常夜灯の先に神明鳥居が建てられている。境内の寄進物の中では手前の常夜灯が一番古そうで、竿に文字は刻まれていたが読み取れなかった。鳥居から本殿域。 枇杷島に繋がる道は対面通行で社地左側に玉垣はなく線引きがないので車には要注意。鳥居の寄進は1931年(昭和6)と刻まれていた。 鳥居の向きから見ると現在の車道が参道だった気にさせる、その後右手に石段が作られた?本殿域全景。 周囲は玉垣で囲われ、小さな狛犬の姿がある。本殿には扉が二枚。 神明造で内削ぎの千木と6本の鰹木が施された二社相殿。祭神は神明社とあるので天照皇大神、もう一社が分からない。 読み取れなかった常夜灯に手掛かりがあるのかも。取り敢えず二世帯分の賽銭を投入し参拝。狛犬。 小振りながら整った容姿の持ち主で昭和生まれの様だ。本殿から拝殿方向の眺め。堤防道路から本殿側面の眺め。 いつも通り過ぎてしまうあの姿は神明社だった。 ここに神社を祀った動機は分からないが、すぐ先に見える住宅の屋根の高さは随分下。 技術と知恵でおとなしくなった川と云っても一カ所でも切れれば他人事では済まない。祈るだけで願いが叶うなんてことはない。 技術と知恵で対策は施しているものの、時に自然がみせる荒々しい姿を目の当たりにすると神頼みしたくなるものがある。神明社創建 / 不明祭神 / 天照皇大神、不明境内社 / ---所在地 / 名古屋市西区枇杷島4-20-22参拝日 / 2022/06/03公共交通機関アクセス / 地下鉄鶴舞線「浄心」降車西に徒歩25分前後
2022.06.06
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岐阜県瑞浪市土岐町「御嶽神社」 前回掲載した「不明社、御嶽山鳥居」の中で御嶽神社参道は結局🐍が怖くて立ち入れなかった。後日元善光寺御開帳の際、帰り道に瑞浪を通りかかり再び訪問する事にした。 今回は松阪町西交差点の北角に建つ不明社の裏から上に続く細い上り坂から向かってみた。坂を上り切ると左に注連柱があり中は広場になっていたので車はこちらに停めさせていただいた。 社頭には社標もなく一抹の不安が残るがかみさんに待ってもらい一人で御嶽神社に迎う。広場から奥に杜の中に向かって参道が続く、右手の常夜灯から参道は右に折れているようだ。 杜の中に踏み込む事だけは避けられそうだ。鳥居から境内の全景。 普段なら参道の先に拝殿が・・・・で書く所だがここは少し様相が違う。個性的な鳥居の形状に視線が行き見惚れてしまう。 普通なら柱の上に貫、島木、笠木と乗っていくのだが御嶽神社の鳥居は少し違う。貫きから飛び出た二本の柱の先端には島木や笠木はなく、山型が乗せられている。 しかも中央の山型は額束の上に山型が乗せられ、三つの山型が笠木の様に配されている。しかも一体物ではなさそうで、絶妙のバランスで笠木の形を作っている。 その形は御嶽神社らしい御山の形を作り出している。額束には御嶽山とある。 下街道沿いの鳥居はここに繋がるものだろう。それにしてもこの額束と山型、どう見ても一体ではない、願掛け石が乗せやすいからと云って安易に乗せるといつかバランスを失うような気にさせる。境内から見る鳥居。 表からは樹々に隠れ分からなかったが柱の左右に脇柱を持った三輪鳥居の形状をしている。笠木の緩やかな曲線が美しく、御嶽山を強くイメージさせる印象的な鳥居だ。 笠木。三つの山型が並び、御嶽講の山丸三の紋を強く意識した外観。 こうして斜めから見ても其々単独で乗せられている様にしか見えない、斬新な造りの鳥居。額束は裏側にも御嶽山とある。 寄進年度は大正6年(1917年)とある。建立後100年を経て、この間の自然災害でもこのバランスは崩れていないようだ。 鳥居ばかりに目が奪われていては先に進めないので先に進もう。境内左の天徳天神社。 詳細は分からないが天徳と聞くと自然崇拝色の香りが漂う。常夜灯後方に手水鉢。御嶽神社社殿全景。 入母屋瓦葺妻入りで大きな向拝が付く。創建・由緒等の情報はなく調べて見たが分からなかった。拝殿に掲げられた大きな額「御嶽神社」 額には「三河國西加茂郡本城村日面 明治36年(1903)講社中」とある。創建は不明ですが、御嶽講自体江戸後期から大正後期にかけ最も流行ったとも云われます、創建はその時期かもしれません。 拝殿内を窺うがガラスに景色が映り込み内部の様子は掴めなかった。拝殿斜景。 拝所左には「修行道場」の大きな木札が掲げられていました。ここでふと気が付く、御嶽神社の個人的の印象は岩と多くの霊神碑が立ち並ぶ印象があるけれど、こちらにはそうしたものを目にしない。 山岳信仰でいう修業は個人的主観で云えば自らの足で御山を訪れ、登拝するイメージが強い。ここ瑞浪は御山に続く道沿いとなりひょっとすると修験者たちの坊的な位置づけなのか? 御嶽講は霊峰御嶽を崇敬対象として大きく覚明系と普寛系に分かれている。この御嶽社がどちらの流れをくむものか定かではないが、人の手に負えない巨大な山の姿と山が育む木や草花、森がもたらす水、雲や風など、そうした事象に人は神や仏の存在を感じるのだろう。 すべての根源は山に生まれ、山に戻る、そうした自然崇敬の素朴な宗教観なのかもしれない。山岳民族などそうした宗教観があり、先祖に会いに険しい山に登拝し手を合わせ礼拝する。 年寄りなど日々朝陽に向かって手を合わせ拝んでいる姿を見た事があると思う、自然に対する素直な畏敬の念の現れなのかもしれない。山岳信仰もある意味それに似ているような気もする、山が育む自然の一つに人も含まれているのだろう、御嶽神社は忌み嫌う対象ではない事だけは間違いない。参拝を終え個性的な鳥居をくぐり下を覗いてみる、なんとなく下街道の鳥居に続く踏み跡らしきものはあるがやはり降りる度胸はない、自然の中のパズルの一つおやじ、🐍の傍には入れて欲しくない。 行き先が分かっただけでもスッキリした、まさかその先で見事な鳥居が待っていたとは、立ち寄って正解だった。御嶽神社創建 / 不明祭神 / 御嶽大権現境内社 / 天徳天神社参拝日 / 2022/05/25所在地 / 岐阜県瑞浪市土岐町関連記事 / 「不明社、御嶽山鳥居」
2022.06.05
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以前掲載した一日市場八幡神社から下街道を西に下っていくと街道は県道352号線と出会う。県道と街道の分岐には「下街道」を示す看板が立てられています。左に進めば一日市場八幡神社の西参道に至ります。目の前の県道352号線松阪町交差点沿いの歩道を右に進みます。県道沿いを少し進むとすぐに写真の松阪町西交差点に至ります。 下街道はここから県道を外れ交差点北角から一本北側を県道に沿う様に細い道が続きます。今回はこの交差点角の小さな覆屋と、下街道沿いに鎮座する耳ノ木神社方向で見かけた覆屋の二つを掲載します。 まずは交差点北角の覆屋。 最初は空き地と思い気にも留めなかった、近づくにつれ覆屋の存在に気付き立ち寄ってみた。覆屋全景。 祠が建つ一画は左に用水が流れ、上手に育てられた野菜が栽培される畑。おやじが油を売っている間にかみさんがグーグル先生に問いかけ「ここは津島神社」と教えてくれた。 「津島神社」とあるが社名札はなく御札も分からない。 後日、瑞浪市の下街道マップを見ても紹介されておらず、創建など詳細は全く分からなかった。ここでは不明社としておこう。 地域から今も崇敬されているようで、御幣のついた注連縄も新しい。下街道は左の県道から右に別れ、不明社の後方から西に伸び集落の中を続いて行く。 集落に降りかかる禍をここで見定めている様にも見えなくもない。思いあって祀られたものながら、通りすがりの者に思いは推し量れない。不明社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / -----所在地 / 岐阜県瑞浪市土岐町664参拝日 / 2022/04/30車アクセス / -----不明社から下街道を進む。 道は狭くなり下街道は地元の生活道路として生きている。先に掲載した耳ノ木神社、そこに至る少し手前にも不明社が祀られていた。 道の右側に建つ小さな赤い屋根の覆い屋がそれです。赤い屋根の覆い屋の中には社が祀られいた。 後方に石の明神鳥居があり手前には神橋が架けられている。 赤となれば身近な印象では津島社か天王社のイメージがあるがここは瑞浪、そのイメージも通用しないだろう。 こちらも先程同様下街道マップに紹介されておらず詳細は分からない、こちらも不明社としておこう。後方の鳥居。 社標はなく鳥居から先の参道は荒れ果て、踏み跡もなく立ち入りがたい雰囲気が漂う。しかし鳥居には注連縄も架けられ人の温もりは感じられる。鳥居の額には御嶽山とある。 地図で見るとこの山の頂に御嶽神社がある事からそこに至ると思われます。鳥居から先の参道は御覧の通り。 御嶽山への道は厳しそうだ、これ以上進めば🐍と遭遇しそうな予感。この日はこれ以上立ち入るのは諦めましたが、後日再び瑞浪を通りがかり御嶽神社に立ち寄ってきましたので改めて掲載する事にします。 この鳥居と手前の不明社が関りがあるのかそれすら分からなかった。不明社創建 / 不明祭神 / 不明境内社 / -----所在地 / 岐阜県瑞浪市寺河戸町訪問日 / 2022/04/30車アクセス / -----下は周辺のマップ。 下街道(緑色)を西に進みJR瑞浪駅方向を目指して歩いています。関連記事 / 「小左衛門 春のお披露目会」行ってきました、一日市場八幡神社、耳ノ木神社、中切地蔵尊、栄町三社鞘堂
2022.06.04
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5/10~12二泊三日で下野國一之宮「日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社」を訪れた。最終日の三日目は鬼怒川温泉から大谷資料館、宇都宮二荒山神社を巡る。いつものように目覚めは早い。 朝風呂に浸かった後に一人ホテルから徒歩10分もかからない距離にある鬼怒川温泉ロープウェイの山麗駅まで散歩。 ホテル西側を南北に伸びる国道121号線を渡れば山麗駅は目の前。 上は藤原町護国神社、山麗駅に隣接し右に鬼怒川温泉神社も鎮座する。朝の爽やかな空気に包まれた二社を参拝。 藤原町護国神社創建は昭和28年。 日清・日露・太平洋戦争により亡くなられた地元藤原町の英霊256柱をお祀りする。 鬼怒川温泉神社。 創建は不明、万病を癒す鬼怒川温泉の効力を神格化し祀られたようだ。祭神 / 大己貴命(おおあなむちのみこと)、少名彦命(すくなひこのみこと) 寝ぼけ眼に朝陽を浴びた朱色と新緑が鮮やかに飛び込んでくる。清々しい一日の始まりだ。所在地 / 栃木県日光市鬼怒川温泉滝834鬼怒川温泉ロープウェイ山麗駅。 標高700㍍の丸山山頂まで約4分で送り届けてくれる。山頂の展望台から鬼怒川温泉街が一望できるという。 そろそろ朝食の時間も近い、ホテルに戻ろう。昨晩もそうだったが朝食も多様な料理を提供してくれるバイキング。 よく聞くホテルと比較すると質が高くて美味しいもので食べ過ぎ。眺めの良い露天風呂や内湯などいい一晩を過ごさせてもらった。 湯は弱アルカリ性の単純温泉で無色透明、無味無臭、温泉としては個性がない。お腹も満たされ8:00チェックアウト。あさやホテル所在地 / 栃木県日光市鬼怒川温泉滝813ホテルから腹ごなしに滝見橋を渡り、対岸にある東武鬼怒川線「鬼怒川温泉公園」駅まで歩く。滝見橋から鬼怒川左岸の廃墟となったホテル群の眺め。 美しい鬼怒川の流れと新緑に包まれた光景にこの眺めは対照的だ。高度成長期のイケイケ日本時代とこれからの日本を象徴するモニュメントかもしれない。鬼怒川温泉周辺マップ。 過去の慣例となった感のある慰安旅行、社会人となり訪れた頃の宿泊客で賑わう鬼怒川温泉のイメージはなく、寂れた光景ばかりが印象に残る。ホテルから滝見橋を渡り15分程で鬼怒川公園駅到着。ここから下今市駅まで移動。あさやホテル🚶鬼怒川公園駅東武鉄道鬼怒川線鬼怒川公園駅👉下今市駅9:15下今市到着。レトロな外観で温もりのある色合いの駅舎。 コンクリートの味気ない質感より遥かに趣があっていいものだ。ここから旧日光街道沿いの今市追分地蔵に寄り道してJR今市駅へ。9:30近くともなると歩いていると暑い。 雨天を想定して来ただけに一枚脱ぎたい陽気となった。今市追分地蔵 日光例幣使街道と旧日光街道の分岐に鎮座する今市追分地蔵。街道と街道の追分にあることから追分地蔵尊と呼ばれ、地元では古くから崇められている。 3㍍はあろうかと思われる座像の製作年代は不明で室町時代ではないかと推測されるようです。記録には8代将軍吉宗が日光参拝時には既に祀られていたとされます。 ここから次の目的地「大谷資料館」に向かいます。大谷資料館へは宇都宮方面からのアクセスがいいが、ゴールを宇都宮とするためJRに乗り換えて宇都宮市大谷町の最寄り駅鹿沼駅に向かいそこからタクシーで向かいます。徒歩 / 東武鉄道下今市駅🚶追分地蔵尊🚶JR日光線今市駅JR日光線今市駅👉JR日光線鹿沼駅10:15JR鹿沼駅到着。 バスはあるものの本数が少ないので駅前からタクシーで「大谷資料館」に。10:30「大谷資料館」到着。 JR日光線鹿沼駅👉タクシー大谷資料館 コロナで委縮していたのは過去の事、資料館には修学旅行で訪れた子供達を乗せた多くのバスが駐車し資料館は活気のある声に満ちていた。資料館周辺は緑の山々に剥き出しの大谷石が露出し一帯が一大採掘地なのがよく分かる。 採掘抗は地下深く延々と宇都宮市街地方向にも続くと云う。資料館から採掘抗地下深くへ。 坑内の温度は7℃ほど、採掘されてできた大きな地下空間が幾つも連なっている。ライトアップされた岩の殿堂は幻想的でもある。 こうしてできた空間は音楽イベントや撮影、結婚式などにも使われているという。坑内の至る所に機械化されるまえに人によって採掘された鑿跡が残る。 坑内の安定した気温は米の備蓄やワインなど寝かせるのに最適だろう、明りが無ければウドなんかも栽培できそうだ。きな臭いこのご時世、この広い空間はシェルターとしても使えそうだ。地下空間にはこうしたオブジェが展示、ライトアップされ地上とは別世界。 涼しい異空間を後に地上に出るとメガネは一瞬で曇る。所在地 / 栃木県宇都宮市大谷町909 時間は11:50この後はバスで宇都宮市街地に向かい、宇都宮二荒山神社と宇都宮餃子を食べに向かう。資料館入口バス👉馬場町バス停12:20 宇都宮みんみん本店 神社参拝は後回しにして先に餃子で昼ご飯。空いてるじゃんと思ったのは大きな間違い、向かいの立駐が待機スペースとなっていて、整理券をもらって呼びたしを待つ10組ほどの先客。 この待ち時間を利用して二荒山神社と摂社下之宮の社頭を撮りに行く。この日は生憎と二荒山神社参道で翌日から開催するFIBA3×3宇都宮オープンの設営でてんてこまい。 どちらの社頭も資材やら人やらでごちゃごちゃ、数枚撮ってみんみんに戻る。みんみんのメニューはいたってシンプル。 左のヤキ(焼き餃子)と右のアゲ(揚げ餃子)にスイ(水餃子)のみで一人前各300円。この三種を一枚ずつ頼み、忘れてはいけない冷えたビールで少し早いお疲れさんの乾杯。 とにかくこの日は暑かった、冷たいビールがおいしい。野菜たっぷりで肉汁を吸い込んだジューシーな宇都宮餃子を堪能し二荒山神社へ。 所在地 / 栃木県宇都宮市馬場通り4-2-313:00二荒山神社。 明日からの開催に向け会場設営は急ピッチで行われていた。社頭の社号標は「式内二荒山神社」、その先に両部鳥居の大鳥居。 参道は封鎖され、左のビルの脇から石段に向かう。鳥居付近の雑踏に対し石段から先の境内は人気もなく静かさに包まれていた。 神門からから望む拝殿。下野國一之宮二荒山神社の創建は過去幾度かの火災で記録を焼失定かではないが、社記には仁徳天皇の御代に毛野国が上下の二国に分けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられ、この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりという。その後承和5年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられる歴史のある神社。この地の祖神、総氏神さまとして広く崇敬されている。祭神 / 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)相殿神 / 大物主命(おおものぬしのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)創建 / 不明所在地 / 栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1これで二泊三日の下野國一之宮「日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社」巡りはコンプリート。 宇都宮駅から新幹線で一路東京に向かい帰路に・・・・ではなく東京駅の地下にある酒造所によって行く。はせがわ酒店グランスタ東京店、駅から出る必要もなく美味しい酒が飲め、隣接する店舗では販売も行っている。 出張帰りに何度か探してみたが結局見つからくて縁がないものと思っていたが、かみさんの方向感覚は絶大だ。迷うことなく辿り着けた、おらには東京の地下の雑踏や地上の雑踏と狭い空は向いとらん、忙しないところや。 ここで飲んでおいしいと感じたのが上のどぶろく。 爽やかでヨーグルトのような風味のものでお土産に小瓶を買ってきた。店員に「絶対横にしないでください」と念を押され大切に持ち帰ったものの小瓶では役不足だった。 まぁいい、他にも買ってきた、おらのザックは酒で重い、買い出しツアーか?それにしても楽しい三日間だったがそこで感じた事は確実に世の中動き出している。 海外観光客の少ない時期にベタな観光名所に行って正解だったかもしれない。関連記事 / 全国一ノ宮巡り 栃木県 day2宇都宮👉東京👉名古屋
2022.06.03
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昨晩からの雨も上がりかみさんと千種公園ユリ園に訪れる。 雨雲レーダーでは雨は降らないはずなのに途中から霧雨となりやむなく傘をさす。西には青空が見えているのだが・・・ まぁドピーカンより霧雨の中のユリもしっとりしていいものだ。公園北側 かみさんはユリを見る目的で公園を訪れたのは初めて、「正直一面咲いているかと・・・」確かにそうかも知れない、以前はこの入口や道路際にも植えられた頃もあったが多少減った感じはする。 とはいっても身近に10,000球とも言われるユリが見られるのは千種公園くらい。平日ですがユリを見に訪れ、写真を取られる方は多く見えました。園内南側からの眺め雨後の怪しい空模様の下鮮やかな色合いのユリが咲き誇っています。毎年楽しませてくれるユリ、今は黄色や赤系の花が勢いのある蕾を沢山つけ咲きだしています。雨の滴が花弁に残るしっとりした雰囲気、ほのかに甘い香りを漂わせています。身近にユリを楽しむことが出来る名所である事は間違いない。 この土日見頃を迎えるのでは?園内に残る戦争遺構。 名古屋空襲の痕跡がコンクリートの壁を突き抜けた幾つもの穴となり残されている。過去の事のように思うが、現実に今も繰り返されている。 ユリ園脇に置かれた思いにふける少女像の姿、何を思うのだろうさて、かみさんの最大のお楽しみ近くの小さなレストランのランチに行くか。2022/5/31千種公園ゆり園所在地 / 名古屋市千種区若水1丁目1アクセス / 市営地下鉄東山線「今池」下車、北へ徒歩15分程訪問日 / 2022/05/31
2022.05.31
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広島県尾道市東土堂町「千光寺」 艮神社社頭脇の千光寺ロープウェイ麓駅から大宝山の山頂駅まで3分の空中散歩。途中艮神社を上から眺めながら山頂駅を目指す、山頂から千光寺までは徒歩で参道を下っていく。ゴンドラから眼下の尾道の町と約200㍍対岸の向島、それを隔てる尾道水道が一望できる。 手前の森は艮神社の楠の杜。ゴンドラからは尾道水道に切れ落ちる急峻な山肌に建てられた舞台造りの千光寺本堂が良く見渡せる。 狭い参道が続く千光寺、本堂の全景が一番よく見渡せるのがゴンドラからの眺めかもしれません。玉の岩 これもゴンドラからの眺め。解説によれば千光寺に多くある巨岩の中では三番目の大きさを誇る岩。 宝珠岩又は烏帽子岩とも呼ばれると云う。昔、「岩上宝玉あり、遥かに海上を照らす故にこの名あり、尾道を古来玉の浦と云い、山を大宝山、寺を千光寺と云う、亦是によると云う」 月明りで照らされた宝玉は光り輝き、尾道水道を行き交う舟の山たて(道標)、灯台になったという事だろうか。玉の岩の頂には宝玉が取り付けられていた痕跡が今も残るという。 現在この頂きに付いている丸い宝玉は夜になれば内部照明で明るく輝くようだ。山頂駅を降りるとこのスロープに出られる、ここから眺める尾道の街並みと遥か先に続く尾道水道の眺めは絶景。 陽も傾きだしオレンジ色の陽差しとスロープの影のコントラストが印象に残る。千光寺へはここから文学の小道を下っていく事になります。 千光寺に続く山肌には多くの岩が点在し、それらに名の知れた文豪たちの名句が刻まれ、解説も置かれている。最初はそれを詠んで行くのだが数の多さに途中で折れてしまった。千光寺に続く(下る)参道には千光寺に導く看板が整備され迷う事はないと思います、ただしアスファルト等で整備されていないので履物は考えた方がいいかもしれない。 写真は千光寺に向かう途中の注連柱、奥には左から金丸明神、勝七大明神、勝義大明神、祐七大明神。更に下ると千光寺裏門の石標が現れ境内に至ります、参道は舗装路に変わり一段と狭くなります。 鏡岩。 裏参道から境内に入りすぐ右手の山肌に聳える巨岩。その最上部は岩肌を丸く平滑に削り取り鏡に見立て神が宿る崇敬対象として崇められている。上鏡岩の下にある守り本尊。下守り本尊の祀られている裏参道。 右手は客殿、太子堂、鐘楼の伽藍が連なるが、何れも断崖の上の僅かな平坦地に寄り添うように建てられ、建物の全景は捉えにくい。上太子堂。堂から右に進むと鐘楼があるが撮り忘れたようです。下太子堂前の壁のような巨岩が玉の岩、その下にお願い地蔵が祀られていた。 千光寺で感心したのは線香や蝋燭など購入時に電子決済(paypay)が利用できるが、境内は無数の地蔵が安置されているので大量の小銭が必要。上太子堂から少し進むと右手の岩肌に護摩堂が聳えている。・宝永七年(1710年)の建立とされる。・本尊の不動明王、東脇壇の地蔵菩薩は運慶作と伝わる。・300年ほど前までは当山城主杉原民部太夫元恒の守り本尊毘沙門天を安置する三重塔があったが落石により崩壊、護摩堂はその跡地に建てられたもの。本堂を筆頭に伽藍全体はいつ落石が起きてもおかしくない、そんな立地に建てられている。 それらの巨岩が何百年も安定していること自体が不思議なものを感じる。下護摩堂から玉の岩と太子堂。 玉の岩には「昔、この岩の上に宝珠あり、夜毎に異光を放ちて、遥かに海上を照らせし」と伝わる玉の岩伝説が残る。寺名の千光寺や山の名の大宝山はそこからきていると云い、風光明媚なこの地を玉の浦と呼ぶのも玉の岩伝説によるものらしい。上護摩堂から本堂全景。 後方にくさり山の巨岩群が迫っている。巨岩の下の僅かな空間に入母屋瓦葺の本堂が建てられ、外陣は舞台造りで岩壁に浮いた錯覚を覚える。下本堂側面、参道は外陣を通り抜け先に続く。千光寺略縁起。・大宝山権現院千光寺は標高140㍍、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、(大同元年・806年)弘法大師の開基で中興は多田満仲公と伝えられています。・本堂は貞享三年(1686年)の建立とされこの地方には珍しい舞台造り。・堂内に置かれた須弥壇は応永から永享(1394~1440年)頃の作で、和様に唐様を取り入れた様式で、ここに安置する本尊は聖徳太子作の千手観世音菩薩を祀る。・俗に火伏の観音とも云われ、多田満仲公の守り本尊。・西脇壇の阿弥陀如来も聖徳太子の作、脇侍の不動明王、毘沙門天は覚鑁作とされる。本堂外陣の山号額と外陣格子天井に描かれた天井絵。 近年山紫陽花など一部補修されたようで鮮やかさは歴然としている。額後方の壁をよく見ればそこにはこちらを睨む龍の姿がある。天井絵は内陣にも描かれているが流石にそこまでは許してもらえなかった。本堂外陣を過ぎると石の明神鳥居と目の前に三重岩と呼ばれる巨岩が現れる。 以前はここから先のくさり山は修験の場で参拝者は立ち入れなかったそうだ、現在は一般の立ち入りも許され参拝が出来る。巨岩が幾重にも積み重なり一つの岩山を築いている。 大正時代ここに石鎚蔵王権現が祀られ、大正15年に石鎚山に登る女鎖と男鎖が取り付けられたそうです。それも戦時中の供出でなくなり、後に女鎖のみ復元取り付けられ一般客の登攀が許されています。 男鎖は復元されていませんが、岩の下に祀られた石鎚大権現の社後方に男鎖跡として鎖場の後が残っています。右側巨岩をよく見ると熊野権現の神使とされる烏天狗が刻まれている。 岩の下の社は熊野大権現、石鎚大権現を祀る社がある。社の横を通り抜けた先の男鎖跡。 鎖場からくさり山にかけては手摺も整備され最低限の安全対策は施されていますが、ここは修業の場であり奉納料100円に保険料は含まれていません、一つ間違えば後悔する事になりそうです。上鎖場から見下ろす本堂と尾道市街。下瓦葺の入母屋の本堂を下で支える舞台造り。 外陣から下を見下ろすと体は自然に持っていかれる感覚になる。本堂の下に建つ三十三観音堂。・寛保3年(1743年)の建立。・西国観音霊場各札所の本尊三十三躰の観音菩薩を安置。ここから麓に向けどんどん下っていきます。途中で見かけた摩崖仏と解説。・山と一体化した千光寺の石造物を代表するもの。・一つの岩に阿弥陀三尊像が彫り込まれた摩崖仏で室町時代のもの。一番奥に千光寺阿弥陀三尊像。 写真から表情は伝わりにくいけれど肉眼では素朴な表情や輪郭が伝わってくる。平安の時代を生きた先人の思いは今も形となって残っている。(尾道市重要文化財)上毘沙門堂。・現在の建物は宝暦4年(1774年)に再建されたもの。・本尊は毘沙門天。・本尊の毘沙門天、脇侍の𠮷祥天、善膩師童子ともに仏師鞍作止利の作で、当山城主の杉原氏の守り本尊。・中国観音霊場十三番札所、備後西国観音霊場七番札所。下参道を下り注連柱付近から千光寺伽藍の眺め。注連柱から左方向に進み、目の前の多宝塔方向に向かう。上天寧寺三重塔 もともとは五重塔として1388年(嘉慶2)に建立されたと云い、1692年(元禄5)塔の上層部の劣化が進み三重塔に改築されたもの。一見すると下層と上層のバランスに違和感を感じるのはその為のようだ。(重要文化財) 塔と尾道の街並みを一望できる光景は尾道を代表する光景とも云われ、直下から見上げる姿よりこの光景が美しい。下直下から相輪、宝珠を見上げる。 水煙の装飾はシンプルなもので、落ち着いた佇まいの塔外観にマッチしているかもしれない。塔の手前で小道は二手に別れ左の猫の細道方向に下りて行きます。上福石猫神社。 白い陶器製の福猫があり、願をかけながら三回撫でると福がやってくるらしい。下猫の細道 一帯には多くの猫が住んでいるようで、猫の顔写真が貼られたマップを頼りにお気に入りの猫を訪ねるもの。住民や観光客からも可愛がられているため警戒心はなく、容易に触る事が出来る。 デフォルメされたマップですが千光寺から艮神社までのルートを黄色で示しておきます。この道を更に下ると艮神社の脇を通りロープウエイの麓駅に戻る事ができます。 山頂駅から麓駅まで参拝、観光込みで50分程で降りてきました。千光寺、巨岩ひしめく岩山に同化するように建てられた伽藍、赤い舞台造りの本堂や玉の岩など尾道の顔と云っても過言ではない歴史を持つ寺院でした。大宝山権現院千光寺山号 / 大宝山院号 / 権現院寺号 / 千光寺開基 / 806年(大同元年)本尊 / 千手観世音菩薩所在地 / 広島県尾道市東土堂町15-1参拝日 / 2022/04/19公共交通機関アクセス / JR山陽本線「尾道」降車👉千光寺ロープウェイまで徒歩20分程関連記事 / 「艮(うしとら)神社」、全国一ノ宮巡り 愛媛・広島
2022.05.31
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5月28日 買い物帰りに地下鉄名城線自由ヶ丘で降車、茶屋ヶ坂公園の紫陽花の咲き具合を見に寄り道。公園西側から見た紫陽花園はまだ〃葉の緑ばかり 一部に咲き始めた株も見られますが一面花で染まるにはまだ〃早いようです紫陽花は探せば写真に残せますが、今は園内に僅かに植えられたユリが綺麗に咲いていたので紫陽花より 千種公園のユリが綺麗に咲く頃かも知れません千種公園のユリが終わると茶屋ヶ坂公園の紫陽花は見頃を迎える関連記事 / 0605千種公園のユリ (いい感じです)と茶屋ヶ坂公園の紫陽花
2022.05.29
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岐阜県瑞浪市土岐町「耳ノ木神社」 一日市場八幡神社から下街道を10分程西に向け進む。途中の松阪町西交差点の津島社、御嶽神社の鳥居を過ぎ間もなくすると右手に常夜灯が見えてくる。「耳ノ木神社」社頭全景。 街道筋の民家の間に山の斜面に石段が続きその最上段に覆屋が建つ。常夜灯の寄進は明治の頃、四十とあるがその下がよく分からなかったが1900年代初期に寄進されたもの。境内右の石碑。 耳ノ木神社建立に伴い寄進された方々の名が刻まれている、表には寄進年度は見当たらなかった。碑の表面は時の経過により苔むし趣のある姿をしている。 後方に「一日市場区 耳ノ木神社」の看板が立てられている。社標も鳥居もない社頭、神社名を知る術は唯一「土岐地区まちづくり推進協議会」の地道な活動によるこの看板のみ。覆屋に続く石段。 訪れた当日は石段中央に朽ちた木が置かれていた、丸太鳥居の名残かも知れない。石段の右にも寄進者の名が刻まれた碑が立てられている。覆屋右の斜面に石の祠が祀られています。 「山神社」とある。祭神は大山津見神かと思われますが、いつ頃祀られたものかなどの詳細は不明。岐阜県神社庁で耳ノ木神社の由緒として以下のように記されていた。「常盤姫の哀話に因むお社耳ノ木神社という珍しい名前の神社ですが、それには次のような言い伝えがあります。 今から約700年程前、明智の豪族の娘、常盤姫がこの地を領していた土岐頼兼の妻となりました。或る時、姫の衣擦れの音をおならの音と聞き違えた家臣達から嘲笑を受け、それを苦にして川に身を投げてしまいました。 その時、杉の若木を切って杖にしていたのを川岸に突きさして置いたのですが、それが根づいたのを見て、人々は姫の潔白を知ったのです。そして自分たちの耳の誤りを深く恥じ、そこに耳木神社を建てたというのです。 祭神は高御産巣日之神(タカミムスビ)という古事記の最初に出てくる神。天文9年(1540)奉上葺耳木大明神の棟札があることからも古い由緒をもつ神社と云える」 高御産巣日之神は天地創世・天地開闢(かいびゃく)神話のなかで、天地のはじめに高天原に出現した造化三神で、天之御中主神(アメノミナカヌシ)の次に現れた第二の神で五穀豊穣、無病息災・延命長寿にご利益があるとされる神とされる。覆屋の中に祀られる檜皮葺きの流造の社は大きなものではないが、高欄や脇障子がつき、木鼻に獅子と象、向拝に龍の透かし彫り、脇障子に彫など施され手間をかけたもの。 訪れた時は雑草が茂り、奥に踏み込む気になれなかったが、往古の先人達や多くの寄進者の思いから祀られた神社、本殿や覆屋を見る限り今もその思いは受け継がれている。耳ノ木神社創建 / 天文9年(1540)の棟札が残る祭神 / 高御産巣日之神境内社 / 山神所在地 / 岐阜県瑞浪市土岐町476-1訪問日 / 2022/04/30徒歩アクセス / JR中央線「瑞浪」駅下車西に10分程、 一日市場八幡神社から西に津島神社👉御嶽神社経由徒歩約10分関連記事 / 一日市場(ひといちば)八幡神社
2022.05.28
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解体を一時中断していた江南市の久昌寺。継続的に維持管理する財政面のビジョンが描けず歴史的価値のあるとされる部材の単体保存で着地したようです。一時中断していた解体は25日から再開され、部材は江南市民俗資料館で保管・展示されるようです。やはりここまでの様です。中日新聞Web(5月26日 05時05分) / 江南・久昌寺、本格的な調査せず解体 古材のみ保管、展示へ関連記事 / 久昌寺 解体一時中断
2022.05.27
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5月24日~25日 長野県飯田市の元善光寺の御開帳を見にキャンプしがてら出かけてきました。今回は拠点とした妙琴公園キャンプ場について掲載します。まずは場所・長野県飯田市鼎切石5247-1車アクセス・中央自動車道「飯田」ICから県道15号線で駒ケ根飯田方向に北進、切石体育館前交差点を左折「さわやかロード」で10~15分とアクセスがいい。ロケーション・キャンプ場入口手前に中央新幹線の南アルプストンネル松川工区の入口がある。・笠松山東山麗にあたり清流松川の右岸沿いの小高い場所に作られた一面芝生の公園。・天竜川支流の松川のせせらぎが心地よく、樹々が生い茂っていない分明るく、空が広がり夜間は星空が広がる。写真は「さわやかロード」を松川沿いに北上したキャンプ場入口付近の光景。左が南アルプストンネル松川工区、手前に見える橋を越え看板の左を直進した道路脇がキャンプ場入口と駐車場。橋の左側にも駐車場がある。予約利用方法・小人数であれば予約(連絡)不要。飯田市管理課(電話0265-22-4511)・料金無料、通年営業。・サイトはエリア分けされていないので気に入った場所に設営。・キャンプサイトでの直火、花火厳禁、焚火台等で発生した炭は持ち帰り厳守。・ゴミ箱はないのでこれも持ち帰り厳守。・一切のショップはないので焚火台で使用する薪や炭は持参。入口の案内板。周辺にRVパークなどの施設もある。看板後方がキャンプ場で、オートキャンプ場ではないので道路沿いの駐車場から装備を運ぶ必要がある。上直進した道路沿いの駐車場と右がキャンプ場。下場内は赤松が残され、奥にトイレ、炊事棟、休憩スペースがあり、洗い場が一カ所用意されている。傾斜地を造成した広場で松川に向かって緩やかな勾配があり、松川沿いはフェンスで囲われているので子供たちが走り回るのに支障はないだろう。施設全景。管理棟はなく無料でありながら施設が充実していて、良識ある利用者の振舞いが問われる。左がトイレ、中央が休憩スペース、右が炊事棟。炊事場、場内の洗い場は水道水、各施設の御願いは守ろう。トイレ多目的トイレ、ベビーシートもあり無料とは思えない程綺麗に管理され、異臭もしなかった。夜間照明はセンサーで必要時に点灯する。休憩スペーステーブルと椅子が用意されているが、調理や食事は禁止であくまでも休憩スペース。夜間照明は虫以外にも寄ってくるものがいたようで、以来電源が切られている。炊事棟。ステンレス製のシンクと焚き台がある。流しに残飯もなく下手なキャンプ場より綺麗に保たれていた。場内に一カ所ある洗い場。シンクには残飯もなく、自分で出した残飯は回収してサイトに持ち帰っている。こちらも水道水で「スイカ冷やすな」の注意書きがあった。松川の流れはよく冷えていた、共有施設で水道使ってスイカ冷やすかぁ、そりゃあ書かれる。設営地、ペグは簡単に入るが一部に石が入っており苦労するかもしれない。松川沿いの道路際に近い場所に設営。子供達は相手にしてくれないので、昔の物を補修し使って来たが素材自体の目開きで雨が防げない、大きすぎるなど課題が多かった。軽で行く事を前提に二人で使える小型のテントとメッシュタープを今年新たに買い揃えた。かまぼこタイプの一体テントには魅かれたが結局は設営が楽な従来仕様を選んだ。一人で行く事があればテントと上にタープがあれば事足りる。今回はそのデビューとなる。これ以外の主な装備にテーブル×2、椅子×2、インナーマット、シュラフ、エアベッド、焚火台、クーラー、薪など軽に積み込んでもまだ〃余裕が出来た。 道が悪くなければパートタイム四駆の軽で十分徘徊できそうだ。ましてここ妙琴公園キャンプ場は悪路もない。キャンプ場周辺。上松川沿いの公道、キャンプ場と公道はこのフェンスで区切られている。下キャンプ場と松川に架かる妙琴橋。上橋から先に進むと手打ちそば「のんび荘」、ここを右に進むとRVパーク、左の人道を進むと松川に架かるつり橋妙琴橋があり、キャンプ場に戻る事が出来る。下手打ちそば・和食・宿の「のんび荘」、こちらで初日の昼食に蕎麦を食べる予定でいたが月・火曜日が定休日で縁がなかった。駐車場の松川堤に古びた六地蔵が祀られている。つり橋を渡り松川上流の眺め。リニアの工事が進んでいますが土砂等も流れこんではいない、高速の工事なんか入ると川や周辺の林道の様相が一変するが、ここではさほど荒れた様子はなく松川の流れは澄んでいた。松川は渓流釣りでも知られる川、有料証を買えば気難しい魚と知恵比べも出来る。サイトに戻るとかみさんが作った花冠が飾られていた。子供のころ作った記憶があるが、作れと云われると思い出せない。サイトではTVは入らない、ラジオも何とか入る、携帯も取り敢えずアンテナは立つ。ここは自分のなりの楽しみ方を実践するか、静かさに包まれ何もしない事を楽しむ所でもある。自分なりの楽しみ方・・・地元の酒を飲んで寝る。地元スーパーで菊水酒造の濁りと生貯蔵酒を買い求めたが、どちらも癖もなく飲みやすく美味しい物だった。云い方変えると危ないお酒かも知れない。双方とも家飲み用に大きい瓶を買って帰ってきた。陽も沈むとキャンプ場は真っ暗。場内に街灯は全くないのでランタンと焚火の明りが頼り、携帯照明は必需品。ゆっくり晩御飯を摂りながら静かに夜は更けていく。当然気温も下がりシャツ一枚では肌寒い。今夜はカセットコンロで鍋と雑炊、簡単で暖かいのが嬉しい。明日は9時に元善光寺の御開帳を見に行く。翌朝の松川と妙琴橋。既に釣り人の姿がある、川幅は広く、瀬の多い流れで遡り易そうです。ただ、川の両面は護岸が作られ、堰堤が多く川へ降りる場所は少ないかもしれない。降りてしまえば釣果に関わらず楽しめそうな川です。ただ、上流に松川ダムがあり水位には注意が必要。次回はフライを持って訪れたい、遊漁料は一日券1,000円(コンビニで買える)、現場徴収だと1,500円のようです。ゴミのない綺麗な川でした。無料のキャンプ場に綺麗な川、また訪れる機会もありそうだ。さて、テントを撤収し忘れ物チェック、炭はアルミ箔で一纏めにすれば持ち帰りも苦にならない。有料で?の付くキャンプ場は数々あれど、利用者のマナーによっては無料でもなんとか維持できる有難い存在です。ありがとうと言いたいくらいだ。ひとつだけ、ハサミムシは多かった。ここから元善光寺までは20分もあれば辿り着く、妙琴公園キャンプ場は伊那谷徘徊の拠点に絶好のキャンプ場でした。妙琴公園キャンプ場所在地 / 長野県飯田市鼎切石5247-1連絡先(大勢で利用の場合) / 飯田市管理課(電話0265-22-4511)車アクセス / 中央自動車道「飯田」ICから県道15号線で駒ケ根飯田方向に北進、「さわやかロード」で10~15分。今回新たに購入した焚火台。ステンレス製で溶接もしっかりされ、底のプレートと焚火台はがっちり固定でき安定感がある。収納時の厚みも気にならず長く付き合えるツールの一つになりそうだ。waku fimac 焚き火台 ソロ アウトドア キャンプ コンパクト 軽量 焚火台 ファイアスタンド 折りたたみ 初心者 用品 道具 おすすめ ランキング 一式 セット 人気 鉄板 コンロ価格:6,980円(2022/05/26 20:28時点 )
2022.05.27
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