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仕事の関係で、小学生の2年間同じクラスだった男性と会うことがある。元クラスメートは私に気がついていない。そういう私も、気がついていなかった。姓名は知っていた。それでも同級生だと思わなかった。休日に本箱の整理をしていたら小学校の卒業文集が出てきた。懐かしく思いながら、手にとって見た。「あれ?」仕事で会う男性と同じ名前が目に入った。アルバムを広げて、学級写真を見た。「あっ!」と、思った。手足が長く、すごく細い男の子が写っている。子どもの頃の体系と今とでは随分と変化があるのでわからなかった。それでも、面影が残っていた。同級生とは出勤途中や帰宅時に偶然に会うことが度々ある。会えば気軽に挨拶を交わす。卒業文集で名前を見つけてから数年が経つ。いまだに私が元クラスメートであったことを同級生はわかっていない。いつか気がつくこともあるのだろうか。それにしても、私もそれだけ変化したということなのだろうか。うれしいような悲しいような・・・複雑な思いが交差する。
2007.01.31
娘と一緒に、バーゲンをしていた店に入り服を見ていると、声をかけられた。声のする方を見ると、近所の奥さんだった。小学校1年生の息子さんがお店の近くのスポーツ教室でトレーニング中だとか。その間、買い物をして待っているとのことだった。3歳の可愛い女の子を連れている。わが家の家庭集会に、よく来てくださっていた。ひとりで買い物をする時間もほしいだろうと思い私が3歳の女の子と遊んで待っていることにした。店の前には、ちょうどベンチもあった。娘は店の中で服を見ていた。「これ、お母さんにどう?」と言いながら店の中から、選んだ服を手にして私に見せる。私は、「あの服がいいね」と娘の似合いそうな服をすすめる。買い物のすんだ娘も加わり3歳の女の子と遊んで待っていた。しばらくして買い物を終えたお母さんと一緒に車でスポーツ教室へ迎えに行った。トレーニングを終え出口に出てきた小学生の男の子は私たちが一緒にいるのを見て、とても驚いていた。「おばちゃん、あのね。」と、私に会うといつも人なつっこく話しかけてくれる。同じように、娘にも、「おばちゃん」と呼びかけた。「おばちゃん」と、言われたのは初めてのことで「お姉ちゃんだから」と、笑いながら言っていた。家庭集会に初めて参加してくださったときまだ、2歳のかわいい坊やだった。牧師にとてもなつき、牧師の膝に座り降りようとしなかったのが、この間のことのように思える。
2007.01.30
「今日」を大切に生きてください。与えられているのは「今」です。これまでの幸いを感謝して明日のことを望みましょう。過去のことをいつまでも後悔しないで神様にゆだねましょう。未来を信じて、期待しましょう。「今日」すべきことをできる知恵を望みましょう。幸いな人生だったと言える日々でありますように。あなたが幸せであることをお祈りしています。
2007.01.29
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネの福音書 15:16)「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(第一コリント人への手紙1:26~28)「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5:13)「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3:15)「これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。」(第二コリント人への手紙5:18)「悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、かえって祝福を与えなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのだからです。」(第一ペテロの手紙3:9)「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。」(ヨハネ5:19)「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、また、多くの証人たちの前でりっぱな告白をしました。」(第一テモテへの手紙6:12)祝福、お祈りしています。
2007.01.28
時宜にかなって励ましの聖書の言葉を携帯に送ってくれる友がいる。大切な日を覚えてくれていて朝早い時間にメールが届く。多くの言葉がなくても彼女の思いがずっしりと伝わってくる。祈りで支えてくれる友がいる。お互いが弱いとき支え合える友がいるのは幸いだ。あなたが弱いとき・・・私が弱いとき・・・祈りの友として祈れることは感謝なことだ。
2007.01.27
コンビニで品物を選んでいるとお母さんと一緒に店に入って来た3歳ぐらいの女の子がそばに来た。店内では「世界でひとつだけの花」が流れていた。そばに来ていた女の子が音楽に合わせて、リズムをとりながら手足を動かし、踊っている。愛らしいしぐさに、笑みがこぼれる。私のまなざしにも気がつかず楽しそうに踊っていた。そう言えば、私の携帯の着メロも「世界でひとつだけの花」だった。
2007.01.26
所用を済ませた帰りに食料品を買いに、近くのスーパーに行った。清算を済ませ袋に買ったものを入れているとき目の前にあったトイレから出てきた男性と目が合った。酔っ払っているのが一目でわかる。目があったので、まずいなと、思った。「可愛いい顔して。ぶさいくな顔して」そう言いながら、こちらの方に歩いて来た。私は知らないふりをしたまま買ったものを袋に入れていた。「可愛いい顔して。ぶさいくな顔して」4回、5回とそばに来て繰り返す。「ん?可愛いい顔して?ぶさいくな顔して? いったいどっちなのかなぁ?どういう意味なのかわからないなぁ。」私は笑いながら、娘に言った。心配げに見ておられたお店の方々や周りにおられたお客さんたちから笑い声があがった。どうなることかと、緊張感に包まれていた雰囲気が一度に和んだ。品物も袋に詰め終わり迎えに来てくれる主人の待つ所へと娘といつもと変わりなく、歩いて行った。
2007.01.25
「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこからくるのだろうか。私の助けは天地を造られた主から来る。」(詩篇121篇1節-2節)祈っています。必ず、勝利します。すべてのことが益となりますように今から私も祈ります。
2007.01.22
日曜学校の子どもがゲーム機を手にしていた。紙芝居を見ている間も遊んでいる。終わってから遊ぶようにと言ったのだがなかなかきかない。「それじゃ、終わるまで預かります」そう言って、私が手に取った。そのゲーム機がなんであるのか、わからなかった。後で聞くと、DSだということだった。DSというゲームを大人でも熱中している人が多いのは知っていた。私は初めて手にして見た。小学生でも多くの子どもたちが持っているとか。ファミコンやプレステが流行ったように今は新しいものが流行っているのだろう。プレステのソフトが出たとき平日であるにもかかわらず、手に入れるために学校を休んでまで、子どもたちが開店前から店の前で並んでいたのを思い出した。主人と用事があって大阪まで出かけたときだった。車で通るときに、たくさんの人が並んでいるのが見えた。なんなのだろうと、二人で話していた。今日は学校が休みなのかなと言いながら。その夜のニュースで、学校を休んでまでゲームソフトを買いに行った子どもたちが多かったことを知った。主人と見た光景がそうだったのだ。そのことがあって、次回は予約販売となり整理券が出されるようになったときく。ゲームソフトを手に入れるためにあれだけの人が並ぶとは、思いもしなかった。常にかわるものをそこまで熱心に求める人が多くいるのに驚く。いつまでもかわることのないものをもっと熱心に求めればいいのに。
2007.01.21
長男と一緒に、私の小学生時代からの友人の家に出かけた。友人の、中学3年生の息子の家庭教師をうちの長男がしている。子ども達が勉強している間友人と話しながら、食事の支度を手伝った。忙しい人なので、かなり疲労がたまっている。食事を途中まで作って「後はお願い」と、私に頼み、他の用事をしていた。気やすく頼めるのはいいことだ。一緒にいても、気疲れしないのがいい。友人の子ども達が生まれたとき我が家の子ども達がよく子守をしていた。我が家に来るたびに、一緒に遊んでいた。まさか、家庭教師をすることになるとはその頃は思いもしなかった。変声期を迎えた友人の息子の話し声を聞き「大きくなったな」と、改めて思った。友人が、子ども達を見ながら「私たちも歳をとるわけだ」と。お互いの顔を見て、思わずふきだした。
2007.01.20
ほとんど毎朝出会う青年がいる。「おはようございます」といつも笑顔で挨拶を交わす。以前から、クリスチャンではないだろうかと思っていた。今朝、挨拶に続けて、思い切ってたずねた。「もしかして、クリスチャンの方ですか?」と。すると「はい。両親も僕もクリスチャンです」と返事が返ってきた。やはり・・・「私もクリスチャンなんです」と、言った。「えっ。そうなんですか」と、驚いていた。「日曜日は礼拝に行かれているの?」重ねて聞くと・・・「はい。日曜日には礼拝に行っています」とうれしい返事が返ってきた。さわやかな青年だと思っていた。大学を卒業して間がないだろう。笑顔を残して、青年は通り過ぎて行った。キリストの香りのすばらしさを、あらためて実感した。
2007.01.19
震災の前夜、わずかな揺れを感じた。3度目の揺れを感じたとき印鑑や通帳など、貴重品を袋にまとめた。それを見ていた家族は、笑っていた。いつもならしないことだった。翌日の1月17日午前5時46分にドーンという音と共に突き上げてくる揺れに驚いた。いつもなら起きている時間だった。前日、早朝まで資料を作っていてそのままうたた寝をしていた。これまでには経験したことのない地震だった。すぐに2階に駆け上がった。「地震!起きて!」と、叫ぶのが精一杯だった。その声で、揺れで目を覚ましていた家族が飛び起きた。何事が起こったのかわからないでいたようだ。突き上げてくるような揺れを体感することはめったとない。何度も起こる大きな揺れの度に家具が倒れてくる危険性があり家の中のどこにいても、安全な場所と言える所はない。玄関のドアが開くのを確認し、階段の下に、家族でいた。私が2階に上がったときには電気は点いていたがその頃には、電気は消えていた。まだ、外も暗く、パジャマ姿の子供たちも寒さで震えていた。上に羽織るものをと思って部屋に入ろうとしたら食器が飛び散り、ガラスが散乱していた。主人が靴を履いて室内に入り、毛布を持ってきた。子供たちが毛布をまとって暖をとっていた。大きな揺れの間隔が開いてから近くに住まれている高齢のご夫妻の家に走っていった。奥さんは、毎週教会に来てくださっていた。子どもさんたちは関東に転居されているので二人だけで生活をされていた。何事が起こったかわからず押入れの中に入っていたということだった。怪我もなく、無事だったことに安堵した。そのまま、教会に走って行った。正面のドアと壁には、ほとんど外傷はなかった。ドアを開け、中を見ると礼拝堂のドアが外れている。礼拝堂に足を踏み入れると唖然とした。外が見える。椅子は大きく動き、床は傾いている。壁はなくなっていた。2階に上がって行くと物が飛び散り、通路はふさがれていた。大きく傾いているのがわかった。通路をふさぐ大きな物だけ動かした。続いて起こる揺れを感じ、教会を出た。震災後も礼拝を欠かすことなく持つことができたのはメンバーの婦人のご主人で大工をされている方がすぐに教会に来てくださり応急的に補修をしてくださったからだった。その間、私たちは、飛び散っていた物を片付けていた。教会も家もそれぞれが大きな被害を受けた。そのことを忘れることはない。そして多くの方々の尊い励ましと祈りと多くの捧げものとに、私たちは感謝している。
2007.01.18
震災から12年。過ぎた日は早いというが、早いと感じる。震災の出来事を風化させてはいけないとよく耳にする。震災のあった直後、あちこちで火災が発生した様子が映し出されている。焼け野原となった地域を見てもどこがどこだか、忘れてしまったと言えばいいのかわからなくなったと言えばいいのか。よく目にするのは瓦礫の山と化した被災当時の模様と現在の様子を対比させている映像だ。あまりに違いすぎて、その地域を知る人たちが見てもわからなくないと口にするのを聞くことが増えてきた。全焼した地域の一部では道路が広がり、新しい家並みになっている。歩いていると、以前はこの場所に何があったのか私も思い出せないことがある。見慣れた街並みは、今はない。12年過ぎた今も、震災の傷跡は大きく心の傷がいやされないままの人も多い。震災を通して学んだ教訓を、忘れてはいけない。
2007.01.17
うれしい電話があった。ちょうど1年前に思いもかけない大きな試練に会った方からだった。忍耐して、よく祈り、頑張ってこられた。はじめて聞かされたときどのようになぐさめ、励ませばよいのか・・・言葉を失うようなできごとだった。電話があると、うれしい出来事より苦しくつらいことが多い。私が経験したこと。経験をはるかにこえたこと。実にさまざまなケースがある。たとえ、どのような試練であったとしても耐えられないものはない。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10:13) 試練の中にある人にはこの言葉を必ずと言っていいほど話すようにしている。「それは、艱難(かんなん)が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと 知っているからです。」(ローマ5:3~4)この1年、よく祈り、耐えられたことを知っている。忍耐に忍耐を重ね、そして道が開けた。試練がなければ、練られることもなかっただろう。陶器士が土を練りあげてよい作品を造りだすように試練を通して、神の器なる作品として1人ひとりがさらによりよい者へと磨かれていく。
2007.01.15
昼食後、牧師と話をしていたのだが肝心の個人名が出てこない。「えーと・・・」と言ったきり名前が出てこない。喉元まで出ているのだが、その後が続かない。「最近、少し・・・」と、牧師が笑いながら。「名前が出てこなくて」と、私も笑い出した。家で話をしていても「あれ、それ」が、増えてきた。「あれが、それで」と言うと「僕でもそれではわからない」といつもわかってくれる長男があきれることも。テレビに映る歌手の名前はさっぱりわからず、何度も聞いている。母が私に度々聞いていたのを思い出す。「それだけ覚えられないなら、聞かなければいいのに」とよく言っていたものだった。かつての母と同じことを私がしている。
2007.01.14
子どもの頃から豚まんが好きだ。誕生日には、主人が仕事の帰りに豚まんを買ってくることもあったほど。子どもたちが幼い頃はおやつによく作ったものだった。私が作ると、甘さを抑えたしょう油味の強いものになってしまう。それでも子どもたちはおいしいと言って食べていた。「お母さんが作った。」それだけで、おいしいと思えたのだろう。最近は、発酵を必要とするパンや豚まんなどあまり作らなくなっている。次男が、帰宅するなり「お母さん、おみやげ。もう冷めているけど」と言ってテーブルの上に、紙袋を置いた。私の好きな店の豚まんだった。「僕は明日食べるから、1個置いていて」そう言いながら、2階へと上がって行った。たまには豚まんを作ろうかと久しぶりに思った。
2007.01.13
私の好きなサイトの1つにアキヨシ♪さんの「出会いと別れの交差点」がある。アキヨシ♪さんのサイトに行ってアクセスカウンターを何気なく見ると10万の数字まで後少しだった。「キリバンはしないの?」と、書き込みをしたら「リクエストにこたえてキリプレします」と翌日の日記には、書かれてあった。こういうしゃれっ気のあるところが私は好きだ。お互いに以前のサイトからの交流なので長い付き合いになる。以前のアクセス数を合わせたら10万という数字ではないのだが。これまでにも幾度となく、キリプレやクイズを正解してプレゼントをいただいた。今回のキリプレが何なのか、まだ、私も知らない。以前のサイトのときに、朝早くに書き込みをする方が多かった。早い方で3時台の方もいたほど。5時台や6時台の交流が、一番多くあった。どなたが言い出したのか、記憶にはないのだがシャレで「早起き倶楽部」なるものを作ろうということになった。すぐにリンクバナーを、作ってくださる人が現れリンク集を作ってくださる人が現れた。アキヨシ♪さんも早起き倶楽部の当初からのメンバーだったので、その頃からのお付き合いになる。私が楽天の登録を一旦解除した後は早起き倶楽部のメンバーの中でも休止中の方や、止められている方が多くなった。今では掲示板の書き込みではなくメールのやり取りに変わっている方が多い。これからも、細く長く、アキヨシ♪さんとは楽天での交流が続けられたらいいと願っている。
2007.01.12
18日に、用事で近くまで行きます。最近すれ違いばかりだったけどお店の方に伺うことになると思います。お客さんになると思うのでよろしく。突然だと、びっくりするでしょうからね。これ見た方がびっくりしたかも(笑)保護者同伴予定です。
2007.01.11
「子どもの帽子とマフラーの編み方を教えてほしい」と友人に頼まれた。私が編んだ帽子とマフラーを見て同じものを編みたいということだった。教えてということだったが編み物をした経験がなく結局、私が編むことになった。話をしながら帽子は完成した。マフラーを幅が広く、長さもあるので時間がかかったが、とりあえず完成した。子どもが手編みの物を身に着けているとあたたかな雰囲気になる。編み手はお母さんの場合やおばあちゃん親戚の人、近所の人、いろいろだろう。子どもたちが幼い頃に機械編みを近所の方に教えていただいた。元々凝り性なところがあるので朝から深夜まで、時間を見つけては編み機の前に座っていた。子どもたちのサイズなら1日もあればセーターなどは完成する。家族の物だけにとどまらず友人知人、近所の子どものものと頼まれると、うれしくて編んでいた。連日連夜、編み機を動かし続けある日、手首が痛くて動かせなくなった。バレーボールで傷めた手首の痛みが再発した。腱鞘炎になっていた。1日、1枚のペースで編んでいたら弱い部分に負担がかかりすぎるのは当然のことだった。熱中しすぎると、そういうことも忘れてしまう。それからは機械編みをひかえ今では、動かすこともなくなった。最近、機械編みをしたいと思うことがある。特に変わったものを編めるわけではない。1本の糸が、いろんな形に出来上がっていくことが、とても好きだ。編み手次第でどのようなものにも自由に形作られていく。人間を造られた神様は自由意志を与えられた。自分をどのように形作っていくか。与えられた自由意志の選択による。唯一残っている主人と私のセーター全体が引き上げ編みで2本の縄編みがポイント子どもたち3人も同じものがありましたが小さくなったので友だちの子どもへと・・・ 子ども用の帽子とマフラークロス長編み
2007.01.10
久しぶりに主人と2人で電車に乗った。外を流れる景色の中に中学時代からの友人が嫁いでいる家があった。ひときわ大きなアマチュア無線のアンテナが立っている家だ。歴史を刻んだ住宅街の中にあり家が建て込んでいるのだが電車の中からでも、大きなアンテナがよく見える。アマチュア無線を盛んにしていた頃友人のご主人と主人は、交信していた。今は、主人はアマチュア無線をしていない。我が家からアンテナをおろして随分経つ。「アンテナ、立っているな」と友人の家を見て、主人が言った。ご主人がアマチュア無線を続けられていると友人から聞いている。「シーク、シーク(CQ CQ)」とかたことを話す長男が、ハンドマイクを持って交信している主人の真似をしていたものだった。幼い頃の可愛いしぐさを思い出し電車の中で笑いがこみ上げてきた。
2007.01.09
知人の幼い子を抱いて車の後部座席に乗っていた。咳き込んでむせたのか、嘔吐した。とっさのことだったので抱いている私の服で受け止めた。何度か嘔吐した後そのまま、すやすやと寝ている。私の脳裏に、次男が幼い時のことが浮かんだ。風邪の治りかけの頃だった。突然、鼻血を出した。どくどくと、血が噴出すように出てくる。鼻の上を押さえても止まらず、休日だったので救急病院に主人の運転する車で連れて行った。その車の中でも私の腕の中で鼻血が続けて何度も噴出すように出た。当てていたタオルも、服を通して私の下着までも鼻血でまたたく間に、真っ赤になっていった。「何か悪い病気なのでは」とあまりの鼻血の量に、私が生きた心地がしなかった。診察を受けるまでに、30分は経過していただろうか。その間もずっと止まらないでいた。手当て後、しばらくして鼻血は止まった。「風邪で炎症を起こしていたので血管が傷ついて切れたのだろう」という診断だった。心配で凍り付いていた私だったがそれを聞いて安堵した。そのときのことを、今でも子供たちはよく覚えている。「お母さんの服が真っ赤になっていた」と次男もそのときのことを、話すときがある。鼻血を出して止まらなかった次男自身も不安な気持ちでいっぱいだったのだろう。その当時は、私はクリスチャンではなかった。その時に、クリスチャンであったなら祈って、「大丈夫!」と次男の不安を少しでも和らげることができただろうに。
2007.01.08
連日、スパムメールが携帯に届く。1日に何通も届く。深夜から朝方にかけて、特に多い。「今の携帯は3年経つけど1度も迷惑メールは届いたことはない」と次男が言った。長男や長女も同じように言う。携帯アドレスでは何も登録していないしメールのやり取り以外には使ったこともない。あまりに頻繁に届くので子供たちが心配してメールアドレスを変更するようにと私にすすめた。しばらく様子を見ていたのだがあまりに頻繁なので思い切ってかえることにした。どういうアドレスにしようかと悩み「これにしようと思うけど、どう?」と主人に、聞いた。「いいんじゃないか」と笑いながら主人が答えた。笑うはずだ。私の独身時代の会社でのニックネームをつけてみた。社内恋愛で結婚した主人もそれで私を呼んでいた。「これだけ長くなると、大丈夫じゃないの」と子供たちも言った。これでも届くようになったらその時に考えよう。
2007.01.07
「あなたはいつ会ってもいつも変わらないままでいることにあなたの貫禄を感じる。」友人からの年賀状には書かれてあった。「落ち着いた生活ぶりからだろう。」とも書かれてあった。いつ会ってもかわらない。そういう友だちでいたいと思う。年月と共に変わっていく友人関係もある。ハリネズミのように、近づくとお互いが針を出し、攻撃しあうというそんな友人関係にはなりたくないと思う。おだやかな環境の中におかれている時とばかりは限らないだろう。どのような状況であったとしてもかわらぬ態度で接することのできる友人関係がいい。
2007.01.06
減塩のお味噌を作っていた。カメに入れて床下収納庫に保存していた。教会の婦人メンバーに教えていただきながら初めて作ったお味噌だ。大豆もゆでて、一から始めた。市販されているお味噌よりかなり塩を減らした分量ということだった。大豆をつぶすのに力がいるのでそれは男性が手伝ってくださった。「私が作った」とは言えないお味噌かもしれない。大豆がお味噌になるまでしばらく寝かせていた。やっと出来上がってお味噌になり料理に使えることがうれしい。夜の食事にお味噌汁を作り、早速、出した。
2007.01.05
届いた年賀状の中に「長男が結婚しました」と書かれてあった。以前に住んでいた地域の元ご近所さんからだった。可愛い小学生だったのがついこの間のように思える。大学を卒業後、海外で語学を学びたいと放浪とも言える旅に出たと聞いていた。日本に戻ったと、聞いていたがこんなに早くに結婚するとは思ってもいなかったので、驚いた。ホッとした心境でもあるだろうが一抹の寂しさも覚えているのことだろう。来年の年賀状には孫の誕生を知らせるものかもしれない。これからだんだん、知人友人の子供たちが結婚したと耳にすることが増えていくのだろう。
2007.01.04
「もし運命が判っていても、また出逢い、一緒に歩みたい。妻は僕と子供達の心に笑顔で生きています。妻が愛した全てを、教えてくれた全てを、大切に生きたい。」シングルファーザー&ホームオフィスワーカー兄さんのProfileには、そのように書かれてあった。「同居の両親の手を借りて子供達と楽しく頑張り過ぎない日々」を送っているとも書かれてある。「はじめにお読み下さい。」ブログのトップページにはこのように明記されてある。それをクリックすると下記の文章が現われる。「私は妻を亡くしてシングルファーザーになりました。リアルでの繋がりからご覧頂いた方には、お伝えする場が無かったことご容赦下さい。2005年、妻の病気が判ったとき、長男2歳、次男0歳。妻は同年11月、家族・親友の見守る中、旅立ちました。子供達のこれからを見られず旅立った妻の無念は、言葉に表せるものではありません。私の今の最大の夢は、子供達が笑い楽しく豊かに、独立も経て生きていくこと、それを生きて支えることです。妻の分もです。当事者になって気付く事があります。いま生きていることは、当たり前のことではありません。あの時、ああすれば良かったのか?あの時、どうすれば良かったのか?あの時、もっと出来たんじゃないのか?思えば、幾らでも浮かぶ数々のポイントが後悔というなら、ずっと持っていたら、後悔は他のモノに変わるのだろうか?過去を変えることは神様にだって無理。でも生き方で自身の未来を、過去の意味を変えることは無理じゃない。妻は、私は、子供達は不幸なのか?恵まれていることと、幸せであること、それは決してイコールではない。このブログは2年が経過しました。これからも前向きに生き、リアルに人生を綴って参ります。どうぞ宜しくお願いします。」このように書かれたあった。他の方のブログを経由してひょんなことから伺うことになった。まだ青年とも呼べるような30歳そこそこのシングルファーザーが書かれている。2歳と4歳の息子さんのことを中心に日記を書かれている。幼い子どもさんたちの目を通すと日々のことが、このようになるかとほのぼのとした思いがわいてくる。父と子の会話もユーモラスで楽しい。最近は、パソコンを立ち上げると自然と、最初に伺うようになった。仕事の関係もあり日記が更新されていないことも多い。子どもさんと過ごされる時間を大切にされていることも伝わってくる。子どもさんたちの成長の記録としてもこれから先もずっと続けてほしいと願っている。
2007.01.03
新年のあいさつと共にうれしいメールをいただいた。クリスマスのキャンドルサービスの時にお嬢さんがイエスさまを信じバプテスマを受ける決心をされたとのこと。文面には喜びがあふれていた。ご主人と死別された後シングルマザーとしてお嬢さんをひとりで育ててこられた。喜びもひとしおだったことだと思う。すばらしい知らせを受け取り私も幸せな思いに満たされた。
2007.01.02
昨日は2006年最後の礼拝となり1日が明けて2007年元旦礼拝があった。いつもとかわらぬメンバーと顔を会わせるのはうれしいこと。元旦礼拝ということもありご家族の中でも、集ってくださる方がおられた。昨年、教会に数回来てくださった年配のご主人が「あなたに励まされて、何度か教会に来た」そのように言ってくださった。「直接誘ってほしい」と、奥さんから言われご主人と携帯で、メールのやり取りを何度かさせていただいた。もちろん、それだけではなく何度かお越しくださったうちの数回に当たる。「もっとお誘いすれば、よかった」とそう思った。私のメールは、ひとつのきっかけにすぎない。もっと、お誘いすればもっと来られていたかもしれない。きっかけを作るべきだったのだ。「これからは、メールをもっと送ってお誘いさせていただきますね」そう言いながら、私から手を出し握手をして挨拶を交わした。
2007.01.01
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