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常陸への旅。一般道を使い、常陸国までの距離を実感しながら車を走らせた。鬼怒川(毛野川と書かれることもあった)の大河、その他幾多の川を渡り、八溝山地を越えた遠い異国である。吉ヶ谷式と樽式を地元とする者には常陸の十王台式は何ともエキゾチックな土器だ。常陸の旅の初回は、茨城県埋蔵文化財センター(いせきぴあ茨城)を紹介する。いせきぴあ茨城は、旧北方小学校の建物を利用しており小学校の雰囲気がそのまま残っている。見学者には説明の方が付いて案内してもらえる。入り口には付近で発掘された縄文土器数点と、弥生土器(十王台式の広口壺)三点が展示されていた。奥の展示室には縄文から近世までの遺物が多数展示されている。弥生時代の割合は少ない。また、古墳時代は中期以降のものとなる。展示室の弥生時代の遺物はすべて水戸の偕楽園の西側の見川塚畑遺跡から出土したものだ。見川塚畑遺跡からは弥生後期の竪穴式住居が27軒検出されており、この地方の当時としては大きめの集落である。見川塚畑遺跡(みがわつかはたいせき)[PDF]((公財)法人茨城県教育財団)個々の土器を見る前に、茨城県北部に分布する十王台式土器の典型的なスタイルを確認しておこう。器形は壺だか甕だかよく分からない縦長の形で、典型的な文様構成は以下の様なものだ。常陸大宮市の上岩瀬富士山遺跡1号住居出土の広口壺の図[1]に説明を加えた。展示されていた土器を観察していこう。映り込みが激しすぎて残念。口縁部が波状文と付加条縄文、頸部文様帯の下の連弧文が横走文という違いはあるがこれも典型的な図柄。やや小ぶりの壺だろうか、窓の部分が綾杉文になっている。折り返し口縁のようにも見えるが、隆帯が口唇に近いだけか。頸部の文様帯がなく、口縁の開きも小さいがこれも十王台式土器である。写真は全て見川塚畑遺跡のものだが、見てきたように施文や器形にはかなり幅がある。時期差もありそうだ。[1] p.10、茨城県教育財団『上岩瀬富士山遺跡』にほんブログ村
2018.05.03
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平出博物館の次は松本市立考古博物館を訪れた。松本市立考古博物館どの遺跡のいつ頃の物という表示は確か無かったと思ったが、遠賀川式と条痕文土器なので弥生前期か中期前半という所だろうか。こちらは弥生時代中期の百瀬遺跡の土器。こちらも詳しい情報の表示が無くて残念だが弥生時代。打製石鏃、磨製石鏃、鉄鏃が一緒に展示されているので共伴?というわけでもないだろうが、おそらく弥生時代のある時期にはこれら全てが併用されていたのだろう。松本市立考古博物館には弘法山古墳出土品が多数展示されている。弘法山古墳の編年上の位置を直井雅尚氏は土器編年から庄内3式・布留0式と推定している[1]。植木文雄氏は弘法山古墳を3期とし、箸墓古墳を4期としている[2]。箸墓古墳と同時期か、やや先行する古墳ということになる。弘法山古墳の墳丘復元図[3]。弘法山古墳出土、東海系の高坏。弘法山古墳出土、手前は小型高坏。弘法山古墳出土、近江が発祥ともいわれる手あぶり型土器。弘法山古墳出土、パレス風の何かかっこいい壺。弘法山古墳出土、鉄剣。弘法山古墳出土。鉄鏃。24点もの鉄鏃が出土した。弘法山古墳出土、銅鏃。前期古墳にしては副葬品に占める武器の割合がやや多いように感じる。『成塚向山1号墳』の発掘調査報告書では古墳時代の両鎬造柳葉式銅鏃の4段階の編年が示されており、この弘法山古墳の銅鏃は岡山浦間茶臼山古墳例の銅鏃と共に第一段階のものとされている[4]。第一段階の特徴は以下。S字のカーブについては、ふくら幅と内湾幅の差を見るとあまり大きくなく、強調度が弱い。鏃身部の最大厚と最少厚の差は大きい。関の厚みや高さは共に大きい。やや細身を示している[5]。弘法山古墳出土、三角縁神獣鏡。弘法山古墳出土、ガラス小玉。弘法山古墳後方部からの眺め。松本盆地を支配する大王になった気分になれる。古墳は丘陵先端に構築されている。墳丘が構築された尾根の左右は急な傾斜で上からの眺めは270°遮るもののない視界が広がる。埋葬施設の上からの視界を意識することは想定しにくいとも思えるが、現地案内板にある通り、支配地域を視界に収める立地を意識したという考えが説得力があると感じた。麓から見た墳丘。上からの眺望は圧倒的だが、下から見た墳丘は山に比して小さく見えて視覚的に訴えるものはないように感じた。おまけ。墳丘上で昼食。心地よいです。[1] 直井雅尚 1993 第2章―第2節「土器」松本市教育委員会『弘法山古墳出土遺物の再整理』 p.20[2] 植木文雄 2007『「前方後方墳」出現社会の研究』p.89-90[3] 斎藤忠 編 1978 『弘法山古墳』 松本市教育委員会 p.18 より[4] 杉山秀宏 2008「両鎬造柳葉式銅鏃について ~群馬県内の資料を中心に~」『成塚向山古墳群』p.472-484[5] 杉山秀宏 2008 p.473にほんブログ村
2017.08.12
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坂戸市歴史民俗資料館を最近見学した。坂戸市立歴史民俗資料館(坂戸市)古い校舎(昭和13年建設 勝呂小学校)を移築したこの建物が坂戸市歴史民俗資料館。あまり目立たないので2度建物の前を素通りしてしまった。弥生時代から古墳前期では上の地図に示した遺跡の土器が展示されている。今回おぢさんが注目するのは く・ち・び・る?弥生中期の木曽免遺跡の高坏と壺。器形は弥生後期の樽式土器とそれほど変わらないように見える。頸部に簾状文と波状文を付ければそのまま樽式として通用しそうだ。高坏の口唇部には細かい刻み目が斜めに施されている。壺の口唇部には指抑えが規則的に施されている。下の写真は弥生後期前半に比企丘陵を中心に分布した岩鼻式土器。岩鼻式は群馬を中心に分布する樽式の一部と思っていたので、群馬からかなり離れた坂戸の方までしっかりと岩鼻式が分布していたのはやや意外だった。柊遺跡の甕。左の甕の波状文は波というよりm字の連続に近い。右の甕には簾状文はなく非常に整った波状文が施されている。柊遺跡の壺。長い頸部がほぼ直立する、あまり見かけない形の壺。口唇部に施された様々な刻み。細い線の刻み、非常に整った刻み、折返し口縁下端の刻み。口唇部にとても神経を使っているのが分かる。大河原遺跡の高坏と甕。西窪遺跡の壺。吉ヶ谷系と外来系が共伴する古墳時代初頭の興味深い時期。可愛い埴輪さん達もいました。にほんブログ村
2017.06.09
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長野県立歴史館は長野の弥生時代を知りたい人には外せない場所です。長野県立歴史館(公式ホームページ)弥生中期、中野市七瀬遺跡の「えぶり」。今日でも見かける完成された形の農具を見て、弥生中期に広まった農耕は完成された形で移入されたものだったのだろうと想像した。農耕が広く行われていたことを示す、石包丁や木製農具が多数展示されている。左:千曲市力石条里遺跡群出土「貝殻条痕文土器」(弥生時代前期)右:長野市松原遺跡出土「栗林式土器」(弥生時代中期)左の弥生時代前期の壺には貝殻による条痕がほぼ器面全体に亘って施されている。この文様がもし櫛描によるものであれば右の甕のように一気に弥生中期や後期の土器のようになる。この櫛描文は条痕文から施文具が変わることにより在地で発達したものなのか。櫛描の先進地から伝播したものなのかという疑問を持った。長野市篠ノ井遺跡群「箱清水式土器」(弥生時代後期)簾状文ではなく櫛描横線文。後期のどの段階のものか気になる。長野市篠ノ井遺跡群「箱清水式土器」(弥生時代後期)飯田市丹保遺跡「座光寺原・中島式土器」(弥生時代後期)左の甕には座光寺原・中島式土器の文様の特徴である櫛描短斜線文が施されている。飯田市丹保遺跡「座光寺原・中島式土器」(弥生時代後期)廻間式の高坏に似ている。廻間Ⅱ式ぐらいか。なんじゃこりゃあ!!!ジブリのカオナシに近いにもかかわらず人面付き土器?目・鼻・口が省略されて最早「人面」と呼べる代物だろうか?本当に人?なのか。先日、ブロ友KUMA0504さんのブログ記事『「カミとヒトのものがたり」展 日本の神には顔がない? 』にコメントしてその返信も頂いた。KUMAさんの説は「縄文・弥生時代の日本人は神の姿をハッキリと描けなかったのではなく、描かなかった」というものだ。「カミとヒトのものがたり」展 日本の神には顔がない? (再出発日記)言い方を変えると神の姿をハッキリと描くことを避けていたということになる。そうすると、なぜ避けていたのかということが大きな問題となる。ここで思い当たるのが実名敬避俗や、神の名をみだりに読んではいけないという習俗だ。名前の不思議―(1)(おぢさん)強力な神の姿をあまりにも似せて作ることは「恐れ多いと同時に恐ろしいこと」と考えてわざと簡単につくるというのは確かにありそうなことだと思う。そうした時にこの顔面の主要部を欠落させた土器は顔を描くことを見事に避けており上記の説に良く適合する。私も土偶の顔の簡単すぎる表現が劣った技術によるものだとは思っていない。今のところおぢさんはそれは手抜きであり形代か玩具ではないかと考えている。にほんブログ村
2017.08.23
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庄内期から布留期にかけての中河内地方の小型壺の変遷。「II久宝寺遺跡第1次調査(KH84-1)」(『財団法人八尾市文化財調査研究会報告37』)を再構成して作成。〔小型壷A〕 球形の体部に外反ないしは内彎気味に伸びる口縁部が付く。 底部は平底である。〔小型壷B〕 いわゆる小型丸底壺。 B1 口径と体部最大径がほぼ等しい。外面調整はヘラミガキ。布 留IV期以降のものはハケナデ。 B2 口径が体部最大径を凌駕する。外面調整はヘラミガキ。 B3 半球形の体部に大きく開く口縁部が付くもの。外面調整はヘ ラミガキ。 B4 B3に比して体部高が増大したもの。外面調整はヘラケズリま たはハケナデ。 B5 体部が球形化し、体部最大径が口径を凌駕したもの。外面調 整はハケナデ。〔小型壷C〕 球形の体部に斜上方に短く伸びる口縁部が付く。〔小型壷D〕 やや偏平な体部に上外方へ伸びる短く伸びる口縁部が付く。 底部は小さな平底ないしは丸底である。関連記事:土器―弥生中期後半~古墳前期の近畿の土器の様相(資料)土器―弥生中期後半~古墳前期の近畿の土器の様相(資料2)土器-近畿地方(中河内)の庄内期から布留期―壺類
2016.04.19
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今年の大河ドラマ「おんな城主直虎」は良かった。舞台は戦国時代だが、北朝鮮のミサイル、シリア、クリミア、南沙諸島、尖閣などなど相変わらず軍事的問題に悩む現代に向けたメッセージとも受け取れた。一番印象に残ったのは次の言葉。「戦わずして生きていける道を探る。」孫氏の兵法でも一番の原則。原則を受け入れるとしても、軍事力を縮小することによって平和を実現しようというおぢさんのような立場と、軍事力を拡大することによって平和を実現しようという安倍晋三氏のような立場がある。軍事力を拡大しているのは相手だと言うかも知れないが、それは有史以来繰り返された軍拡競争というゲームに陥っているのであり、拡大を志向しているのと変わらない。ソ連の崩壊を以て軍事力拡大(所謂抑止力)の有効性が示されたという考えもあるだろう。広島長崎以来核兵器が使われていない事実を以て抑止力の有効性を肯定する意見もある。そう考えると軍拡の平和理論は戦後およそ70年の裏付け(とりあえずベトナムなどの無視し得ない惨禍を無視するとすれば)があるということになる。どうだろうか、その理論は先の大戦、更にその前の大戦、いや歴史上繰り返された有史以来の無数の戦争によってその無効性は見事に証明されている。さてと、80年前に戻るか。この頃の雑誌の論調を見るがよい。如何に皮肉な文章の多くなったことよ。哲学概論一冊読んだことのないような政治家が、「自由」を論じ、「個人」を論ずるのだからたまらない。聞かされた方では皮肉になるのも無理はない。 思ったより日本国民は賢明であるということを知らなければならない。p.207 昭和13(1938)年「近々抄」『近きより』第2巻第2号<二月号>この頃のブログの論調を見るがよい。如何に皮肉な文章の多くなったことよ。盗聴法やら共謀罪法やら戦争法案を生み出す政治家が、「自由」を論じ、「平和」を論ずるのだからたまらない。聞かされた方では皮肉になるのも無理はない。思いつきやら、行きがかりやら、乃至は、自己の旧式な趣味やらを、強行するようなことが少しでもあると、国民は政府の為すところ全体に対し、甚だ不信の念を抱くに至る。p.206 昭和13(1938)年「近々抄」『近きより』第2巻第2号<二月号>今日に至っても教育勅語とか八紘一宇など旧式な趣味を持つ人がいるようだが、当時はそれが強制された。忠君愛国者を製造するために、高等試験に国史を必須科目にする由、形式主義の弊、終にここに至る。歴史は知らなくとも田舎のおやじさんは忠君愛国者であり、歴史を研究して足利尊氏を崇拝する者もある。愛国者は一定の型から生まれる者ではない。p.208 昭和13(1938)年「近々抄」『近きより』第2巻第2号<二月号>旧式趣味な上に思い付きの教育。歴代天皇を暗記する教育はさぞかし国力を増強したことだろう。南朝を正統としたため、尊氏は逆賊とされていた。ダンス・ホール禁止、パーマネント・ウェーブ禁止、広告用日ノ丸の旗禁止々々々々[1]。国民はまるで感化院に入れられたるが如し。p.210 昭和13(1938)年「近々抄」『近きより』第2巻第2号<二月号>[1] 一九三七年一〇月、国民精神総動員中央連盟結成以後、市中には国粋主義と偏狭な排外思想が横行して、国民生活の統制と著しい干渉が本格化した。太平洋戦争を始める約四年前からこの有り様。たまんないね。この不自由さが終戦まで八年間、悪化しながら続くことになる。息が詰まりそうだ。ウヨクのファンタジー小説を読むと、日本は戦況が悪化するまで、自由な理想国家だったらしいが、そういう空想力は他のことに使った方が日本人の為になる。「正木ひろしは反日スパイだ。日本を貶めるような発言しやがって」という方もいるかもしれない。「どう思います?宇垣大将」宇垣一成(画像:国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)不拡大、現地解決の主義も敗れて大戦争となり、速戦速決の方針も壊れて、今や三転して長期戦となる。希図外の事を仕出かして今後に如何なる対策やある⁇ 挙国一致の体好き掛声で現当局の施為によかれ悪かれ追随、時に盲従を強ゆる傾あるは国家を誤る本にして甚だ不可也。《後略》(《昭和十三年》一月二十六日)p.1216 宇垣一成『宇垣一成日記2』ほぼ同時期の宇垣一成の日記。元陸相でさえ「行きがかり」に流される軍部を批判している。しかも「盲従を強ゆる」政府には「甚だ不信の念」を抱いているようだ。「宇垣一成も反日スパイだから・・・」スパイが陸相や首班候補になる国家ではどのみち終わりだ。にほんブログ村
2017.12.23
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『韓国・朝鮮と向き合った36人の日本人』1/2読 ★★★★朝鮮に対する立場態度も様々な人物36人を取り上げている。日本人の全般的な朝鮮人観というのも浮かび上がってくる。下記人物を扱っている。各章末に参考図書が若干あり。 西郷隆盛 布施辰治 山辺健太郎 福沢諭吉 安倍能成 織田楢次 伊藤博文 秋葉隆 旗田巍 樽󠄀伊藤吉 柳宗悦 森田芳夫 海老名彈正 浅川巧 槇村浩 斎藤実 村山智順 田内千鶴子 内村鑑三 中西伊之助 田中英光 木下尚江 矢内原忠雄 西順蔵 金沢庄三郎 村山知義 小林勝 福田徳三 中野重治 梶山李之 内田良平 金子文子 梶村秀樹 吉野作造 古賀政男 澤正彦自衛隊は尖閣紛争をどう戦うか [ 西村金一 ]価格:864円(税込、送料込)1/4読 ★★★★基本的内容がコンパクトにまとめられている。用語解説が随所にあり予備知識無く読める。前半はシナリオ分析、後半は海上・航空・地上戦力やその運用・作戦についての解説。新書一冊の分量なのでシナリオは具体的なものではない。戦力分析も簡単なものであくまでも一般向けの本。秩父事件 [ 秩父事件研究顕彰協議会 ]価格:1,748円(税込、送料込)1/3読 ★★★1884年(明治17年)3千人超の農民が蜂起した秩父事件のドキュメンタリー。事件の背景には松方デフレによる農産物価格の暴落があり、身代限(しんだいかぎり(破産))が相次いでいた。高利貸への返済に苦しむ農民は高利貸や警察、郡役所などに再三にわたり負債据置、利子引下げを求める請願を行うが相手にされなかった。農民たちはあちこちで集会を開き秩父困民党と呼ばれた。彼らは止む無く蜂起し警察分署や高利貸を襲い郡役所を占拠した。日記や裁判記録などには、次のような農民の言葉が書かれています。 「圧政を変じて良政に改め、自由の世界として人民を安楽ならしむべし」 「恐れながら天朝様へ敵対するから加勢しろ」 「総理板垣公の命令を受け、天下の政事を直し、人民を自由ならしめんと欲し、 諸民のために兵を起こす」(1)彼らは十日間の戦いの末に鎮圧され、中心人物たちは死刑に処された。自由民権運動に危機感を抱いた政府は1882年に改正集会条例を公布した。曰く「政治に関する事項を講談論議するための旨趣を広告し、または委員もしくは文書を発して公衆を誘導し、または支社を置きもしくは他の社と連係通信するを得ず」。「足を上げて一歩すれば集会条例にたちどころにこれに向かい、筆をふるいて一言すれば、新聞条例たちどころにこれを縛す。すでに言論集会交通の自由を欠く」(2)このように言論での改革の途を塞がれたなかで困窮農民の不満は自由党員を中心とした自由民権運動と結びついた。そして各地で激化事件が起こる。 板垣遭難事件(岐阜事件) 福島事件 高田事件 群馬事件 本庄駅列車襲撃計画 加波山事件 秩父事件 名古屋事件 飯田事件 大阪事件 静岡事件参考:映画『草の乱』は秩父事件を描いた映画。秩父事件ホームページ(秩父事件研究顕彰協議会オフィシャルサイト)(1)秩父事件研究顕彰協議会『秩父事件』 p.4(2)遠山茂樹『自由党史』
2016.03.26
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庄内期から布留期にかけての中河内地方の高坏A~Dの変遷。「II久宝寺遺跡第1次調査(KH84-1)」(『財団法人八尾市文化財調査研究会報告37』)を再構成して作成。〔高杯A〕 弥生V様式の系譜を引く高杯。 A1 杯部下半が内彎気味に伸びた後、口縁部が大きく外反する。 A2 水平な杯底部から口縁部が大きく外反する。 A3 口縁部が外反せず直線的に伸びる。 A4 A3に比して杯部が深い。 A5 A4に比して小型化したもの。 A6 杯部の屈曲部が丸味を帯びたもの。 A7 杯部が半球形を呈するもの。 A8 杯部が椀形を呈するもの。 A9 口縁部が外半するもので、屈曲部に段や稜を有するもの。 A10 A9に比して大型の口縁部を持つ。〔高杯B〕 二段に屈曲する杯部を持つ。 B1 杯部上位で外折する口縁部を持つ。加飾を加えるものが多い。 B2 杯部中位で外折し、口縁部が大きく広がるもの。〔高杯C〕 椀形の杯部に低い脚部が付く。 C1 深めの杯部を持つ。脚部径と口径がほぼ等しい。 C2 浅めの杯部を持つ。脚部は大きく広がる。大半が精製品である。〔高杯D〕 「ハ」の字形の脚部に逆三角形の杯部が付く。 D1 脚部が低いもの。 D2 D1に比して脚部が高いもの。関連記事:土器―弥生中期後半~古墳前期の近畿の土器の様相(資料)土器―弥生中期後半~古墳前期の近畿の土器の様相(資料2)土器-近畿地方(中河内)の庄内期から布留期―壺類土器-近畿地方(中河内)の庄内期から布留期―小型壺
2016.04.24
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最近、発掘調査報告書に掲載されている鏃を地域ごとにワークシートに集成していく作業をしている。鏃の図や写真を全て集めるのはおぢさんには無理があるのでやるつもりはないが、おおよその形をワークシートに記録したいという思いがある。そこで鏃の形態を類型化して記号で表すのが良いのではと考えた。よくある石鏃の分類としては凹基無茎鏃、平基無茎鏃、凸基鏃、有茎鏃がある。鏑川上中流域の打製石鏃をこの分類で分けると殆んどが凹基無茎鏃のカテゴリになってしまい分類の意味を成さない。何とかならないかと考えて、無茎鏃を中心とした分類試案を作成した。実際に運用してみて、使い勝手の悪いところがあれば修正していきたい。(修正案)セクション②の縦横比は比のままで表した方が良い。3:2であれば1.5などにしてセクション①と入れ替えが良いか。(2017/9/17 追記)システムとしては左側から①②③の3つのセクションで鏃の基本形態を表現し、さらに詳しい情報を付加したい場合は④⑤のセクションを使用する。セクション①基部の基本的形状を表す。Ⅰ(凹基)、Ⅱ(平基)、Ⅲ(凸基)、Ⅳ(有茎)とする。Ⅰ(凹基)を以下のように細分する。 Ⅰa:基部の抉りの浅いもの。概ね全長の1/4未満。 Ⅰb:基部の抉りの深いもの。概ね全長の1/3程度まで。 Ⅰc:基部の抉りの特に深いもの。(全体が縦長になる程、全長との比が少なくても抉りは深くなるので、1/4に達していなくてもその場合はⅠbに分類)セクション②縦横比を表す。A(横長)、B(やや縦長)、C(縦長)とする。目安としては、正三角形程の横長のものをA、正三角形より縦長のものをBとし、縦横比が3:2を超えるものをCとする。※ 刃部形状よる分類、「1:直線的なもの」は省略。セクション③左右の刃部の形状を表す。 1:直線的なもの(内側に弱く屈曲するもの含む)。 2:湾曲するもの。 3:湾曲し、基部より上に最大幅があるもの。 4:屈曲するもの(平基の場合五角形鏃となる)。 5:基部近くに横への張り出しのあるもの。 6:下半に抉りのあるもの(アメリカ式石鏃)。セクション④基部の形態の特徴を表す。 a:先が丸いあるいはいびつな形の脚を持つ。抉りの部分は狭くなる。 b:脚の先が途中で切ったように直線的なもの。 c:基部の抉りが尖っているもの。 d:基部の抉りが四角いもの。(問題点)「c:基部の抉りが尖っているもの」にも抉りが直線的なものと、湾曲したものがある。両方を含めておく。セクション⑤凸凹の度合いを表す。 α:凸凹が少ない。 β:普通程度の凸凹。 γ:大きな凸凹ががある。(問題点)故意に均一で整った凸凹をつけている場合などどうするか、とりあえず精製と粗雑の差と考えられるものに限定する。にほんブログ村
2017.05.01
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阿曾岡・権現堂エリアの鏃分析を3回に分けて行う。今回は東八木遺跡、阿曾岡・権現堂遺跡を対象とする。エリア区分は「鏑川上中流域の弥生集落分布」に従う。土器の編年は樽式の一般的な編年と並行する「鏑川上中流域弥生後期土器編年」に従う。以下のスプレッドシートで鏃と住居数推移をまとめた。阿曾岡・権現堂エリアの鏃鏃をエリアごとに集計していて気付くのは、その偏在性である。遺跡によって石鏃が多数出土する遺跡もあれば、住居は多数あるのに石鏃は殆んど出てこない遺跡もある。あるいは、集落の殆んどの住居には石鏃が見いだされない中で或る住居に集中して石鏃が見出されたり、集落内の或る住居には黒曜石の石鏃が数点ある一方で、他の住居に黒曜石以外の石鏃が集まるというようなあり方をしている。土器のように多くの住居にちょっとづつ違った物が存在し、或る程度時間的空間的つながりを推測できるようなあり方とは異なっており、そこから何かを読み取るというのが難しい。東八木遺跡、阿曾岡・権現堂遺跡からの縄文遺構および遺物の出土は少なく、日常生活の場としては考えにくい[1]とされている。したがって、縄文時代からの遺物の混入は少ないと思われる。東八木遺跡東八木遺跡Ⅰ区は弥生時代後期から古墳時代前期の住居址が7軒検出されている。6号、11号住居の遺物は2号住居(弥生後期初頭)とほぼ同時期と考えられている[2]。東八木遺跡Ⅰ区の2号住居跡からは4点の磨製石鏃が報告されている。磨製石鏃は床面近くから出土した[3]ということなので住居に伴うものと考えていいだろう。2号住居の土器は弥生時代後期初頭のものと考えられている。また、報告書に図示されてはいないが同時期の6号住居からは3点の磨製石鏃の出土[4]が報告されている。阿曾岡地点25号住居出土の黒曜石製打製石鏃は欠損しているが有茎と考えられている。埋土からとはいえ縄文遺物の少ない当遺跡の弥生住居から出土したこの石鏃は弥生時代の石鏃である可能性が高い。62号住居址は土器から3期と推定した。74号住居は古墳時代後期の住居であるが、同住居出土の石鏃は同住居が切っている78号住居(4期?)または98号住居(3期)の混入遺物の可能性が高いのではないか。出土位置は書かれていないが埋土からの出土となっている。権現堂地点162号住居出土打製石鏃権現堂地点のⅢ区162号住居からは打製石鏃が出土している。先端を欠損しているにもかかわらず長さは4.2cmに達する。珍しい形なので類例を探してみると、米原町立花遺跡の石鏃が形がやや似ていると思ったが、立花遺跡例は下呂石であるのに対してこちらは黒曜石製である。田井中洋介「滋賀県における弥生時代の石鏃の変遷についての素描」『滋賀県文化財保護協会 紀要 第11号』(PDF)162号住居の埋土中より出土した遺物は、ほとんどが遺構に伴うものと考えられている[5]。しかしこの打製石鏃は古墳時代中期の162号住居に伴うものとは考えられていないだろう。ただ、162号住居は弥生後期の165号住居(土器掲載なく時期詳細不明)と重複しているほか一部が調査範囲外となっている。この打製石鏃も弥生時代の物である可能性が高いだろう。各遺跡の住居の年代を土器から推定し、住居数推移を表にした。これらの遺跡の磨製石鏃と鉄鏃の推定時期。阿曽岡遺跡の74号住居出土(3期または4期住居からの混入?)磨製石鏃と権現堂Ⅱ区102号住居(古墳中期)出土の磨製石鏃未成品は表に含めていない。縄文時代の遺物の可能性の少ない当遺跡で見いだされた打製石鏃は2つとも有茎鏃であった。[1] p.243 富岡市教育委員会 1997 『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』[2] p.243 富岡市教育委員会 1997[3] p.9 富岡市教育委員会 1997[4] p.243 富岡市教育委員会 1997[5] p.228 富岡市教育委員会 1997参考文献富岡市教育委員会 1997 『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』にほんブログ村
2017.06.11
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南蛇井増光寺C区の土器106点の分類試行のつづき。高坏15点の分類を行った。南蛇井増光寺エリアの土器(分類試行)(おぢさん)高坏については「太田地域編年」[1]の分類に従おうと考えていたのだが、口縁端部内面の面取りを指標としており、報告書の図と観察表からの分類には適さないと思われた。また大きさが分類指標の一つとなっている点も、大きさによる作り分けがあり、器形もそれと連動することを考えれば合理的ではあるが、大きさについては一旦別個に考えたいという思いがあったので、止む無く以下の独自の分類を考案した。独自といっても形態など「太田地域編年」の分類指標を踏襲した点は多い。※各階層はそれぞれ独立に設定する。高坏では、杯部のみあるいは脚部のみ残存という場合も多い。杯部と脚部の分類を独立させ、不明な部分を保留したまま片方だけの分類を可能とした。分類結果 集計結果では B??b と ?4Nb が2点づつだが、特に目立って多い類型はない。杯部だけに注目すると一番多いのは「E. ハの字状に開く杯部。」次が「B. 深めの鉢状の杯部。(樽)」という結果になった。この二つの分類に関しては、更に内湾の度合いで細分することも考えたが、過度の細分化の懸念からやめた。《杯部形態B(左)とE(右)の例》〔左〕C14号住居45 〔右〕C22号住居22右の高坏Eはよく見ると口縁部がわずかに外反している。南蛇井増光寺報告書の分類[2]ではこの高坏は「高坏B:体部は直線的に開き、口縁は緩く外反する」に分類されている。おぢさんの分類にも口縁部が外反する分類を設けたが、この程度の外反は外反する分類には含めない。高坏Bと高坏Eはどちらに分類すべきか迷うケースが多かった。以下はその例。〔左上〕C22号住居23 〔右上〕C22号住居24〔左下〕C38号住居10 〔右下〕C22号住居27上段の高坏を「B. 深めの鉢状の杯部。(樽)」、下段を「E. ハの字状に開く杯部。」に分類した。坏の底部から口縁端を結び水平からの角度を測ると上段は40度程度であるのに対して、下段は35度程度となっている。[1] p.448-471、深澤敦仁 2008「太田地域における古墳時代前期の土器編年試案」 群埋文『成塚向山古墳群』[2] p.706-707、大木紳一郎 1997「第5章 まとめ 第2節 弥生時代の遺構と遺物 1.弥生土器について」 群埋文『南蛇井増光寺遺跡V C区・縄文・弥生時代 本文編』 土器の図はいずれも群埋文『南蛇井増光寺遺跡V C区・縄文・弥生時代 本文編』から採った。にほんブログ村
2018.04.29
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30日、香港で「雨傘運動」を主導したリーダー2人と、民主派の議員3人が逮捕された。香港の権力は民主化を求める人々を、秩序を乱すもの、暴力的なものとして位置づけ、あたかも過激派を取り締まっているかのような顔をしている。実際に過激なのは香港警察と背後の中国共産党であることを人類は忘れてはならない。権力が秩序あるいは社会の安定という言葉を使うとき、それが権力者の為の秩序や安定となってはいないか監視していくことが重要だ。深圳の武装警察の映像が公開されたり、装甲車が香港に入る映像が中国の国営テレビで放送されている。この状況に天安門事件(中国共産党政府が民主化を求める自国市民を多数殺傷した事件)を思い出した人も多いだろう。中国共産党に求める「天安門殺戮を繰り返すな」。 Don’t repeat Tiananmen Square.中国本土も香港も監視社会、警察国家の度合いが酷いものだが、どちらも一朝一夕でこうなったわけではない。徐々に悪化していく。中国、香港そして日本を含む世界の多くの国民がこの過程を追っている。一見香港の方が状況は悪そうに思えるが、日本国民には権力に対する警戒心が全くないという点は明らかに香港より劣っており、簡単に状況が悪化する恐れがある。話題を変えて。。。田圃の片隅で育てていた里芋が猪の襲撃を受けて全滅した。今度見つけたら猪鍋にして食ってやる。あまりにも悲しいので、80年前に戻ろう。80年前の8月23日に独ソ不可侵条約が締結された。この条約は、日本がソ連と戦争した場合に、ソ連の負担を軽減したり、そのような条約をソ連と締結することを禁じた日独防共協定に違反していた。しかもこの条約は日本とソビエトがノモンハンで激しく戦っている最中に締結されたものだった。アンケート回答でこの不可侵条約締結に言及したものがあった。<アンケート> 公私の生活において 一、最近愉快だったこと 二、最近不愉快だったこと 三、その他の偶感中 原 東 吉一、独逸がなければ夜が明けず、日も暮れないように独逸を尊重して居た人が独ソ不可侵条約成立を聞いた時の様子、ナニ独逸は前世界戦争に於て日本の敵だから日本の利害などに頓着するものかとこの始末予見して居ったような人の様子共に見ものでした。――筆者は弁護士――p.232 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>秋 田 雨 雀一、独ソ不戦条約の締結の問題には可なり驚かされました。これは独ソ両国にとっては避けがたい必然性であったろうとは思いますが、これが世界に与える影響は相当大きいことと思います。《後略》二、不快なことは独逸の背信行為。――筆者は伊太利の声楽家――p.232-233 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>小 佐 井 清 平《前略》日本の面目玉を全くつぶした独蘇条約が発表された時、彼等《おぢさん補:日独親善に浮かれていた人々》はどんな顔をしましたか。私はそれ見たことかと思いましたが、実は人一倍憤激せずにはいられませんでした。――日本新聞記者、美術之日本主幹――p.234 昭和14(1939)年『近きより2』第3巻第8号<9月号>日本人一般に驚きを以って迎えられた独ソ不可侵条約締結は、その後の世界を変えていく。当時オーストリアを併合し、チェコスロバキアを飲み込んだナチスドイツを抑止するために英ソ間の条約が模索されており。四月以来、日本の紙面でも頻繁に報道されていた。独ソ接近説も報じられることはあったが回数は明らかに少ない。この条約締結で陸軍や内閣の面目は丸潰れとなり英米協調派が一時盛り返した。平沼騏一郎は「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」と発言し、内閣は総辞職した。親独反英米の心情がこの頃には陸軍だけでなく日本国民一般に相当浸透しており、そういった人々には大変なショックだったことが上のコメントからも伝わってくる。しかし、秋田雨雀のように必然とみる向きもあった。宇垣氏も同様の見方だ。独蘇の不可侵条約締結の報は何だか霞ヶ関や三宅坂〔陸軍〕辺には晴天の霹靂であり様に見へる。驚天し狼狽し憤慨し怨恨するなど取り取りの形相が現れて居るが、余は何も驚くには値せぬ、来るべきものが当然に到来したのであると考えて居る。《後略》(《昭和十四年》八月二十三日)p.1353 宇垣一成『宇垣一成日記3』平沼氏の発言は「想定外です」と白状したようで名言(迷言?)だ。平沼内閣の辞職理由は言辞抽象的なるも、責任感を表明せるものにして内閣更迭の理由を公表せざる我国近時の慣例を破りたる好例と謂ふべし。ただ独逸の不信行為に出逢ひて国際情勢複雑怪奇なるに驚きたりと云ふは、余りに純朴らしく、外交史に通ずるものの苦笑を禁じ得ざる所なり。国際信義の必ずしも頼むに足らざるのみならず、詭計を憚らざる独逸外交の流儀は過去数十年に於ける昭著の事実にあらずや。(昭和二十年二月記)p.41 深井英五『枢密院重要議事覚書』独ソ不可侵条約締結前から日独伊の軍事同盟を目指す動きがあったが、日本はソ連をその対象としようとしていたのに対して、独逸は英仏を対象としようとしていた為、初めから軍事条約締結には無理があった。各国の関係を独ソ不可侵条約締結前と後で図にしてみる。独ソ不可侵条約締結によって、ソ連はドイツと日本というファシズム国家との二正面作戦を回避するとともに、英独の潰し合いを高みの見物するという、この上ないポジションに立つ事が出来ている。ドイツもやはり英仏とソ連を同時に相手にするという二正面作戦の危険を回避し、英仏に集中できるということを考えると、この条約締結は意外というよりむしろ当然と思えてくる。この独ソ不可侵条約は日本と米国との戦争の可能性を高めたのかもしれない。芦田均は「確実性」とまで表現している。日本政府部内の苦悩に満ちた論議が、もはやどんな結果を生んだとしても、ドイツとの同盟の主目標は、いまや無断で修正されつつあった。当時までは、日本の主目標は、反ソヴィエトの同盟国を獲得するということであった。この時以来この目標は、日本がロシアを味方と認めて、ドイツとともに西欧列強にくってかかる計画に加わるかどうかという問題に変わっていったのである。 注目されるべき点は、このような事態の逆転は、つきつめれば最後に日米間に戦争が起こるというほとんど完全な確実性を包蔵していたことである。なぜなら、日本とソ連が結び付けば、日本の膨張政策は南方にしか向かうことができなくなる。南方に向かえば、日本は、アメリカにとってきわめて重要な原料源や連絡路を脅かし、かつフィリッピンを包囲することになるからであった。p.126 芦田均『第二次世界大戦外交史』芦田の見解からすると、独ソ不可侵条約は南進の要因であり対米戦争へと繋がっていたことになる。スチュアート・D・ゴールドマン氏はノモンハン戦争が独ソ不可侵条約をめぐるスターリンの意思決定に影響を及ぼした可能性があるとしている。そうするとノモンハン戦争は結果的に独ソを結び付け、それにより日ソ関係を改善させ、日本に北進よりも南進を選ばせるという、巡り巡って意外な影響を及ぼした戦争であったのかもしれない。この他にもノモンハンでソ連手強しという印象を持った、辻政信や服部卓四郎が参謀本部作戦課に返り咲き、南進を主張し対米開戦を主導したということからも、ノモンハン戦争は南へ、そして対米へという影響を与えたように見える。引用文中の旧字体は適宜、新字体に改めた。にほんブログ村
2019.08.31
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鏑川上中流域を対象として土器の編年作業を行ってきたが、雄川以西に限定するとS字甕の調整がハケ目からケズリに移行する段階(暫定編年4期)以降の例が少なく、時期的に限定されてしまう。古墳前期の後半は実際にこの地域の人口が希薄だったのかということ自体も興味深いが、古墳前期全体をカバーする編年を行いたいので鏑川流域全体に範囲を広げて検討を行うことにした。今回は鏑川流域内で最東端に位置する竹沼遺跡の土器を検討する。竹沼遺跡は鏑川の支流鮎川の左岸に営まれ、吉ヶ谷式土器が分布する埼玉県の児玉地方と神流川を挟んで隣接している。同時期の児玉地域の吉ヶ谷式との比較もしてみたいところだが、それは今後の課題とする。 鏑川流域の遺跡地図 鏑川流域弥生~古墳前期集落 分類結果 「竹沼」 土器分類の類型(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類古墳前期の遺構で発掘調査報告書に詳細な報告がなされているのはEH-20号住居のみ。そのほかに五領式期の住居1軒がEH-20に隣接し、和泉式期の住居と詳細時期が触れられていない住居それぞれ一軒の計四軒で集落内一支群を形成していたと報告書は見ている。以下EH-20号住居の土器を見ていく。EH-20号住居出土の甕EH-20号住居の土器は殆どが床直上または覆土でも床面に近いところから出土しており、一部を除き一括出土品と見られている。上に示したような甕をおそらく併用していた。横刷毛がないか、あったとしても低い位置のS字甕はおそらくF3タイプ。41の甕は頸部がまっすぐ立ち上がり密な輪積みを持ち、胴部には文様がなくヘラミガキが施されている。43は無節縄文Rが施されている。竹沼遺跡の壺壺1は折り返しの口縁部と肩部に二条の単節縄文LRが施され、胴部は球形を呈している。やはり折り返し口縁の壺40は文様を持たない。これらがF3のS字甕の時代に併存していた。竹沼遺跡の鉢、器台等鉢38が輪積痕を残すところは吉ヶ谷式寄りか。小型壺の頸部は短く屈曲している。同住居から出土した小形台付甕もやはり屈曲する短い頸部を持っている。赤彩で折り返しであるところは鞘戸原Ⅰ-8号住居鉢19と共通する。器台は2点出土しており、既に確立していたことが分かる。権現堂Ⅲ区153号住居器台6、南蛇井増光寺C59号住居器台59などがやや似ているだろうか。竹沼遺跡の高坏高坏2点は片方は強く湾曲した杯部を持ち、もう片方は広く広がる杯部をを持つ。いずれも樽式の系統から脱却している。阿曽岡65号住居の高坏の様相に近いように見える(下図)。器台も高坏も脚部穿孔を施すものと、施さないものが一点づつであるのは、古墳前期でも時期的にやや早いことを示しているのだろう。参考文献 群馬県藤岡市教育委員会 1978 『竹沼遺跡』にほんブログ村
2020.02.11
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弥生時代から古墳時代にかけて、古墳と土器の推移がどのような関係になっているのかシンプルに図にしてみた。※上図は箸中山古墳を最初の古墳とみなし、それ以後を古墳時代とするもの。纏向型前方後円墳を古墳とする立場もある。その場合は、庄内式土器は土師器となる。弥生時代から古墳時代にかけて土器も弥生式土器から土師器へと推移している。この土師器とそれまでの弥生式土器の間には器の厚みの違いや、各地の土器の斉一性が高まったことなど違いを挙げることもできるがどちらも軟質赤焼き土器で本質的な違いはない。 「土師器」は、『延喜式』など古代文献にみえる名称を用いて、広域の斉一性が現れる古墳時代以降の酸化焔焼成の土器を指す考古学用語としたものである。土師器の体系的な編年は、1940年代にまず東日本で基本的な枠組みが提示された(杉原 1943など)。さらに東日本では、平安前期までを考古学的には「土師時代」という名称でよび、その古相段階を「古墳文化」としてとらえる時代区分の試みが一時提唱されたこともあった(杉原・小林 1972など)。 p.3 福永信哉「古墳時代研究と時間軸」 『古墳時代の考古学1 古墳時代史の枠組み』 1960年代後半には、古墳時代の開始を土器から導こうという試みもなされたがその試みは破綻する。 古墳時代初頭に関わる編年は精緻をきわめていった。しかし、何をもって古墳時代の開始とするかを、土器から導くことは、結局無理な議論と判明した。 つまり、古墳時代の開幕を定義するには出現期の古墳を認定し、それにともなう土器を最初の土師器とせざるをえなくなった。 p.24 高橋克壽「(2)研究の流れ:戦後」 『古墳時代の考古学1 古墳時代史の枠組み』このように、古墳時代の軟質赤焼き土器を土師器と呼んでいるだけで土器自体に明確な特質があるわけではない。これに対して朝鮮半島から流入した技術による須恵器は1000℃以上の高温で焼かれ硬質で吸水性を持たず、それまでの列島の土器にない特質を持っていた。 須恵器が導入された後も土師器は存続する。須恵器が出現する前の土師器は古式土師器と呼ばれる。参考サイト:遺跡の年代を表す「時間の物差し」としての土器編年(Don Panchoのホームページ) 庄内式土器、 布留式土器の写真があり、クリックすると拡大します。【送料無料選択可!】古墳時代の考古学 1 (単行本・ムック) / 一瀬和夫/編 福永伸哉/編 北條芳...価格:6,480円(税込、送料別)
2015.11.07
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