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4年前に畑に植えたグミの苗木。2年目から花は咲いていたが実成りが少なくヒヨちゃん(ヒヨドリ)のエサにもならないくらいだった。4年目の今年は枝も十分に茂り花もたくさん咲き、その時からメジロやヒヨちゃんが花蜜を吸いに来ていた。実はたくさんなったので毎日彼らが食べに来ているが、こちらも食べる分は十分にある。渋みが残るグミの甘さが記憶をよみがえさせる。小学校1年の同級生稲戸君の裏庭にグミの木がたくさんあり誘われて訪れ、「いくらでもとっても良かよ」と彼のお母さんに言われ おやつ代わりに採って腹一杯食べた。もうひとつの記憶は小学校の5年生の時 周りに田んぼが広がる集落に住んでいた。同級生3人(確か春日君と柴田君-二人とももう鬼籍)でしめしあわせ 近所の庭のグミの木の実を1人を見張り番に立て無断で素早く採って見つからないように逃げた。。そこのお母さんはうちの母親と友だちで『グミはいくら採っても良かばってん畑は踏まんといてね』と言われた。狭い集落、完全にお見通しだった。宝石のような真っ赤に熟れたグミたった4年で1本の苗木がもう背丈の2倍くらいに大きくなった
June 10, 2023
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福岡の姉から今年も”きんこうじみかん”が贈られてきた。正月のかつお菜とこの金こうじ蜜柑は故郷の味を思い出させてくれる。さっそく故郷の味がじみたみかんを頂いた。
February 17, 2023
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今年は豊作ということで又、博多の金柑子(きんこうじ)みかんを姉が送ってくれた。もう何度送ってもらったか覚えていない、さっそく頂いた。やはり昔ながらの味で、手がとまらない。こちらではスーパ-には売ってないし久々の味に舌鼓をうった。来年も豊作を願いたいがミカンの木にも都合というものがあるだろうから思うようにいくかはわからない。。
February 26, 2022
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今年は例年より1っ週間以上早いようです。この家が出来たあくる年から家の前で毎年律儀に花を咲かせている久留米つつじです。お祝いに小郡市(福岡県)の叔父がほかの苗木と共に送ってくれたものです。他の苗木は残念ながら残ってはいませんがこのツツジは毎年開花するたびに優しかった叔父を思い出させてくれます。
April 24, 2018
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今年は沢山とれたからと博多の姉から金柑子(きんこうじ)みかんを段ボール一杯送ってきてくれた。忘れていた蜜柑の名前を聞いて頭の中はタイムスリップした。「夏みかんより金柑子(きんこうじ)の方が酸いいなかし、食べやすかばい。」「うちもこっちの方がおいしか」私は小学生だった。昔からの品種で夏みかんに較べ酸っぱくなく文旦(ぼんたん)の様な食感だが大きさは夏みかんくらい。食べると、口の中でなつかしい味がはじけた。
February 13, 2014
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今年は同窓会があるというのでそれに会わせてお盆に帰福することにした。朝9時40分頃の「のぞみ」で新神戸から博多へ。そして地下鉄で西鉄電車の始発駅天神町へ。天神町から小郡へ行きそこからタクシーで西福童へ。このあたりは行くたびに道路が造成されたり、小川が拡幅のため単なる排水溝になったりしていてその変わり様にて面食らうことが度々。5年ぶりに叔父の家を訪れたのだ。従兄弟の嫁さんがつくってくれた子供の時から好物だった焼き茄子に感謝しながら2時間ほど歓談。叔母さんからは帰りのタクシー代まで貰ってしまい恐縮。再び西鉄に乗り久留米へ。駅前の久留米ホテル”エスプリ”にチェックインした後、会場の六ツ門にある「古賀久」に徒歩で向かう。途中の商店街はお盆休みが多く閑散としていた。会場には10分前に到着。卒業生は33名だったが当日参加者は中途退学者3名を含んで15名。一人の親友を除いてあとは皆40年ぶりだったが、成人してからの年月なので誰であるかは殆どすぐに分かった。 昔の話は楽しい話と苦い想い出などがないまぜであったが、皆の性格は変わらないということを再認識させられた。3時間の宴の後の2次会に途中まで参加し10じ過ぎにはホテルに帰り眠りについた。
August 14, 2010
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秋野菜の植え付け時期です。真夏に較べればましなものの日中の日射しはまだまだ厳しく農作業中は汗が吹き出します。水を真夏は2L、今は1L持っていきますが時々足らなくて帰りに喉が乾きます。帰り道沿道の自動販売機で見つけた懐かしい飲料がありました。「三ツ矢サイダー」です。子供の頃にはラムネより高級で口当たりが良いサイダーはなかなか飲めませんでした。家に客があったりしてたまに飲める機会があったりすると喉をならしたものです。今は勿論瓶ではなく缶入りですが喉の乾きを癒してくれ、その味は昔の記憶を呼び起こしてくれます。三ツ矢サイダー
September 12, 2008
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稲尾和久氏がなくなりました。二年前なくなった仰木彬氏につぎ西鉄黄金時代の灯が又ひとつ消えました。私の小学生時代、西鉄ライオンズで投手として活躍していた彼は、福岡では「神様、仏様、稲尾様」といわれ大スターでした。当時は小学校でも、野球のルールも知らない熟年の女先生が朝の授業が始まる前の第一声に、「昨日も西鉄が逆転勝ちしました」なんていって大フィーバーぶりでした。なんといっても鮮烈な記憶に残っているのは巨人との日本シリーズ確か第5戦。投手である彼が自らさよならホームランを放ち勝負を手中のものとしました。これに勢いを得て4連続完投勝利をものにし3連敗後の大逆転をしたのです。日本シリーズでの11勝は今でも最多記録です。その他シリーズ最多42勝など今時の野球界では考えられない、数々の記録をうち立てました。球団の酷使(本人は喜んで投げていたと手記にあります)に耐え14年間の選手生活でした。その後も監督や解説者などやっていましたが、何と言って彼の場合は稲尾投手、背番号24です。ということで、一時は西武ライオンズファンになっていましたが、未だに西鉄ライオンズの呪縛から逃れられずにもがいているhanadaiです。
November 13, 2007
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