全308件 (308件中 1-50件目)
先日は次のように書いている。 ・・・・・・『神』は粒子から霊(スピリット、ネシャマー)を剥ぎ取る。『神』の存在を知った霊を使用して『神』はそれを粒子にくっつけて新しい高度な生命体を造る。・ ・・・・・・これを次のように書き改める。 物質は霊であり、霊は物質である。『神』はより高度に霊化した物質でより高度の生命体を造る。
2009/05/30
人は死ぬとその粒子は『神』(存在の根源)に戻される。『神』は粒子から霊(スピリット、ネシャマー)を剥ぎ取る。『神』の存在を知った霊を使用して『神』はそれを粒子にくっつけて新しい高度な生命体を造る。これを繰り返して生命体の霊性は高まり続ける。宇宙はこの目的にささげられている。ターミナルケア病院のT医師も次のように述べている。「死んだ人を見ると、これで終りだとはどうしても思えないのです。死んだ人の粒子はどこか無の基地に集まり、無の基地とは新しい有の発進基地ではないかと思うのです。河合隼雄三も死後の生は在るといっています。死に面した人を見るとそれが分かっているのではないかと思えるのです」
2009/04/26
『神』は無である。しかしこの無は何かをはらんだ無である。ビッグバンをさかのぼれば宇宙は限りなくゼロに近くなる。しかしゼロになりえない。この限りなく無に近い無を懐に抱いているのが『神』である。私たちが死んで霊(スピリット、ネシャマー)が『神』に戻るとき、そのような無に戻る。死んで無に戻るときの無とはこのような無である。
2009/04/16
B神父「霊肉分離はギリシャ思想です。聖書には霊肉を分ける思想はありません。体が無ければ霊もありません」AT注解(一つの仮説)霊(スピリット)は物質と不可分とすれば、霊は肉体と共に死体を離れる。この肉体をユングはsubtle body(霊妙体)と呼び、普段の肉体をcoarse body(粗雑体)と呼んだ。霊妙体は粗雑体の中に潜んでいるもう一つの体である。ここで霊に関して一つの仮説を立てたい。「『神』が天と地を創造し始めたとき―地は形無くうつろで、闇が深淵の面にあり、『神』の風が水の面に吹いていた」(創世記1-2)とある。無に何かが現れた。そして急速な膨張(ビッグバン)が始まり、りんご大のエネルギー・スープとなる。スープは拡張を続けエネルギーが物質へ転換し始める。素粒子が生まれ、宇宙が、物質世界が、生まれる。時と空間が物質にくっついて現れる。霊も物質にくっついてこの世に出現する。宇宙創造のときに霊も吹き込まれたのだ。物質と共に霊もいた。素粒子も原子も細胞も自分の判断で動いている。宇宙に満ちる超越的知性から情報を貰っていると考えられる。物質は霊性を帯びているからだ。霊性は物質の組み合わせが複雑になるほど強くなる。霊性の強度はこれまでに三段階ある。最初は宇宙の素が創造されたとき。二番目は生命が創造されたとき。三番目は人間が創造されたとき。これは創世記でバラー(創造する)が使用されたときである。バラーは無からの創造で『神』の直接介入を示唆する。次の段階は人類が地球を離れるときかもしれない。地球は滅び、人類は高度な霊体となって宇宙へ進出するのかもしれない。『神』は霊体を集めて高度な霊体を製造しているのかもしれない。何のために?それは分からない。ただ私たちは創られてしまったのだから、自分の仕事に最善を尽くし、霊性を活性化しなければならない。それが『神』への協力となる。『神』は人間の協力を求めている。
2009/03/26
1. 罪とは『永遠』を知らないこと。死とは『永遠』との回路が切れること。2. 真実は天にあり、地上の現象はそのコピーに過ぎない。科学は究極の真実に近づくために地上で立てる仮説から始まる。聖書は仮説の源泉である。
2009/03/12
9.あなたの受洗は天地創造前に決まったのです。10.地獄には一人もいないかもしれません。11.人は愛し合いながら傷つけ合います。人のエゴイズムはぬきがたいものがあります。『神』の愛がなければ愛は不可能です。12.わたしの祈りは「主よ、憐れみたまえ」です。13.「わたしを信じる者は、死んでも死なない」とイエスは言われました。(AT注解。聖書で言う「死」とは神との対話回路が閉じられる、ということ。仏教の「無明」に通じる)。14.日本人は哲学的に考える人が少ないです。仲間がいると動きます。15.「天にまします我らの父」を「我らの母」に置き換えてもよいのです。
2009/03/11
1.人は罪ゆえに死ぬのです。2.聖書にある父と子の関係が人間にもあるという考えから親子の関係を探る心理学がヨーロッパで発達したのです。3.いったん額に記された十字架は地獄の火に入っても消えることはありません。4.進化の奥に神がいるのです。進化させたのが神なのです。5.神は人こよなく愛したので、人が自分の意思で地獄に入ろうとしても止めないのです。6.物質的にあなたと同じ人間ができても、それはあなたではありません。なぜなら神はあなたを一回しか造らなかったからです。7.神は子供の養育をあなたに委託したのです。ですからあなたは子供を神に戻さねばなりません。8.このパンとぶどう酒はキリストの体であり血なのです。象徴でも思い出でもありません。キリストなのです。これをいただくと、あなたの体が成長するのではなくて、キリストの体が育つのです。
2009/03/10
二次大戦は聖書のユダヤ性をめぐる戦いだった。日本とドイツはある特定な人間を神として賛美し、自らを選民と位置づけた。『神』はこの妄想を砕くために英米ソ連などを興して日独を倒した。『神』の意図は自然と人間の歴史を通して現れる―これは聖書の歴史哲学。『神』は直接介入しないで自然法則と人間の行動を通して一定方向に導く。宇宙と人間文明の歴史を俯瞰すれば『神』の意図がおぼろげに見えてくる。過去の線を未来に伸ばせばどの方向に向かうのがよいか大いに参考になる。「人間の行為は空しい繰り返しのように見えるが、歴史が押し上げてきたものが一つだけある。それは神概念の拡大である。」―トインビー日本文化の原点は伊勢神宮にあるという。ビートたけしは、伊勢神宮の森に立つと永遠を前にした感じになる、と言う。森の中の粗末な木造神殿と永遠。この感覚に沿って進めば『永遠』は『永遠』への入り口の一つとして伊勢神宮と日本を認可するだろう。
2009/01/16
先日NHKの「ノーベル賞の知に挑む」という番組で分かりやすくこの理論を紹介していました。シュローダー博士もこの問題に言及していました。ヘブライ語の神はエロヒームで神々と複数形ですが動詞は単数形です。多にして一つという不思議な表現です。これにはいろんな解釈があるようですが一つでありながら現象としては複数という解釈も可能です。神は被造物が一つであることを忌み嫌います。「人が一人でいるのは良くない」と言って男と女に分けてペアにしました。一つでいると他の被造物が人を神として信じる危険があるからです。これはユダヤの伝統的聖書解釈にあります。ビッグバンでエネルギーが物質に変換し始めたとき、クオークは陰陽のペアで現れ消滅しましたが、なぜかペアでないものが時たま現れ、これが現在の宇宙を作ります。なぜ一つのものを造らない神がこれを許したか。神の直接介入があった、すなわち奇跡があった、といえます。ヘブライ語は「バラー create」という語で神の直接介入を暗示しています。この語は天地創造と生命の創造と人の創造にだけ使われています。他の場合はmake, formに当たる語が使われています。一つであること、独裁、一極集中は、破綻します。神は男と女を対立者として造りました。主従ではありません。対立者を消せば自分も消えます。一つであることは神のみに許された権限です。宇宙創造において神は特別な計らいをしました。この宇宙は神の特別認可を得て成立しているのです。
2009/01/08
暴力について考えました。暴力は生命に組み込まれているように見えます。一昨年、入院したとき、自分の細胞がバクテリアと戦っているさまを想像しました。飢えたトラにわが身を食べさせた話を聞いたことがあります。その教えに従えばバクテリアにわたしの肺を食べさせるべきです。しかし生命の歴史は弱肉強食です。細胞にも共生や利他的行為があるかもしれません。人間も自由選択範囲は広いので一概に言えません。しかしどんなに奇麗事を言っても力の庇護があるから言えるではないか?暴力に無抵抗でわが身を差し出すのはガンジー、お釈迦様、キリストでないと無理かも?このことを身にしみて知っているのは、国際的被差別民といわれるユダヤ人かもしれません。ユダヤ人とはどんな民かと言われると私は、キリスト、マルクス、シャイロック(架空の人物ですが)、アインシュタインを見なさい、といいます。共通点は何かと聞かれると、抑圧された人々の代弁者だ、と答えます。抑圧をまぬかれる道をそれぞれが示しています。そして人類の歴史を変えた人々です。
2009/01/06
地球人は宇宙人に進化する。役割を終えた地球は消滅する。その宇宙人は宇宙外生命体に進化する。役割を終えた宇宙は消滅する。宇宙外生命体は進化を繰り返しながらオメガ・ポイントへ向かう。「永遠(主)は一つと唱えながら。
2008/11/20
一なる永遠がその一部を縮めるとこの宇宙が出現した。それゆえこの宇宙はすべて相対的で一なるものはありえない。なぜならそれは一なる永遠・絶対存在の自己振動の結果だから.You are therefore I am.I amthereforeyou are.ONE is ManyMany is ONE.
2008/10/22
『永遠』はアブラハムにどこに行くように命じたか。オメガ・ポイント(究極点)である。それは宇宙の外のどこかにある。あなたも地球も宇宙もすべてそこに向かってささげられている。
2008/07/25
ビッグバンの原初のエネルギー宇宙が素粒子に移行しこの宇宙とぼくらになるすべて原初のエネルギーが形を変えたものぼくらのエネルギーもビッグバンから受け継いだものすなわち創造主から受けたものぼくらはどこに向けられているのか、分からない。しかしモーセ五書をはじめとする聖書にヒントが隠されている。字面でなく、奥を読みなさい。
2008/06/27
地球の外はほぼ摂氏マイナス二百七十三度すべての分子が静止する凍てつく世界このような宇宙空間の一隅になぜ生命が動いているのかそれは永遠に分からない『永遠』のなぞ。
2008/06/17
創造主(永遠)は自己を認識させるために人間を創った。そして一定の時間を与えた。これは創造主(存在そのもの)の自己運動の結果である。
2008/06/07
エントロピー・秩序から混沌へ・宇宙の熱死(熱力学的死) 私たちが回りに見出す秩序、無機物と有機物の絶妙な合奏が生み出す生命の交響楽、は宇宙全体に存在するものではありません。生命の特色である物質の複雑微妙な規則正しい配列は、宇宙のいや増す混沌と対照的です。 この混沌は迫り来る宇宙の「熱力学的死」と呼ばれます。何か一つの行為が行われると、それが核反応のような単純なものであれ、親が子供をくすぐるような複雑なものであれ、いくらかのエネルギーか物質が、もしくは両者が、有用性を秘めた秩序ある状態から、有用な仕事が不可能な無秩序混沌状態に移行するのです。 組織のエネルギー・レベルは、バクテリアであれ、銀河であれ、熱力学的特性によって説明可能です。この特性は三つの「熱力学法則」として呼ばれるのですが、これまでに観察されたいかなる状態においても有効な法則です。 第一の法則は、閉じられたシステム内でどんな反応が起ころうともシステムのエネルギーと質量は一定である、というものです。この法則は日常生活で観察できます。断熱された容器内の水に熱湯を混ぜると、熱湯は冷め、水はぬるみます。しかし熱の総量は同じです。 熱湯の分子は速く動き回ります。水の分子はのろのろと動きています。この分子の運動速度、分子の運動エネルギーが物体の温度を決めるのです。分子運動が熱なのです。 速く熱い分子がのろのろ動く分子と混ざり合うと、二つのグループの衝突が起こりエネルギーは全体に分散してすべてが適度に動くようになります。こうして熱湯を混ぜた水はぬるいと感じるのです。熱湯の最初の高エネルギーは水の低エネルギーで薄められますが、このシステムの総熱量、総エネルギーは変わっていないのです。 熱力学の第一法則は私たちが今扱っている論議に最も適切な基礎を与えます。エントロピー増大の法則。これが熱力学の第二の法則です。熱力学の法則を暗記する簡単な方法は次のとおりです。第一の法則は、勝利はない、第二の法則は、引き分けもない。(第三の法則は、ゲームから抜け出せない!です)。 熱湯を水に混ぜた後に、ぬるま湯の分子を熱い分子グループと冷たい分子グループに分ける方法はありません。分けるには余分なエネルギーを使わねばなりません。 熱湯という有用エネルギーを取り戻すためには、システムにさらにエネルギーをつぎ込むしかないのです。すべての動きは、化学的、物理的、核的、何であれ、将来の行動に必要なエネルギー量の減少をもたらします。 太陽の中の核反応は太陽の質量をエネルギーに変え、エネルギーは宇宙空間を旅して、地球を暖めます。地球の低温度を最初の核反応を生み出した元素に戻す有効な手段はないのです。 宇宙で億に億を重ねる恒星群はその質量を放射エネルギーとして送り出しています。この宇宙の質量とエネルギーの量は一定です。それが熱力学の第一法則です。 しかし高熱状態の有効エネルギーを生み出す宇宙の潜在力は減少を続けています。太陽の温度をはるかに上回る高温度で燃えていた恒星も、今は核エネルギーを使い果たして凍りついた鉄の塊になっているのです。 物理学に基づくと宇宙は摂氏マイナス二百七十三度の凍てつく温度へ向かっています。この温度に達すると作用は起こりません。熱の流れを引き出す温度差がなくなるからです。 作用の基盤を提供するのは高温度から低温度への熱の流れです。作用が生じるための潜在力がなければ、私たちの宇宙の熱力学的死が完成していることになります。 エネルギーが集中組織化された形から乱雑無秩序に分散した状態への移行はシステムのエントロピー増大と呼ばれます。エントロピー増大は観察可能なすべてのシステムに見られます。 宇宙が向かっているのはカオスであってコスモスではありません。 しかし宇宙の限られた一角に高度の秩序を持つ構造が出現したのです。私たち人間がそのような局所的秩序の最も極端な一例です。私たちの生命システム、あるいは最も単純な単細胞のバクテリアや藻ですら途方もなく複雑で、熱力学の第二法則は本当なのかと疑いたくなるほどです。 生命の過程を環境との文脈で見るときにのみ全体的なエントロピーの増大が明らかになるのです。 さてここで重大な物理哲学的な問題に遭遇します。もし宇宙がカオスに向かっているなら、なぜ秩序が存在するのか?なぜすべてが乱雑に向かわないのか? シュローダー『創世記とビッグバン』より
2008/06/03
そして『神』は自ら造ったすべてのものを見ると、はたして、それは統一された秩序で あった。―創世記一・三一、オンケロス訳「夕べがあり、朝があった」。この言葉は、言い回しにわずかな違いはあっても、創世記の六日の一日が過ぎるたびに繰り返されます。 人々は創世記のこの言葉の解釈に戸惑いました。夕べ、そして朝と続き、そして一日が過ぎる、とは?太陽も地球もできていないのに、創世記がこの言葉を繰り返しているのはなぜ? 聖書の一日は夕べから始まります。ヨム・キプール(贖いの日)(レビ記二三・三二)に次のように明記されています。「それはあなたたちにとって、特別な安息日である…その夕暮れから(翌日の)夕暮れまで、あなたたちはあなたたちの安息日に安息を守らねばならない」。 祝祭日は夕方から始まり次の夕方まで続きます。しかし夕べと朝は地球ができた後に生じる現象なのに(創世記自体が最初は地球はなかったと述べています)、夕べと朝があったのはなぜか、この疑問は解けません。 古代の聖書学者は地球の昼と夜のサイクルを理解していました。ナフマニデスは言います。「地球上には夕べと朝が常に存在する。地球上は常に場所が変化している。ここが朝のとき、反対側は夕べである」。1西洋人のほとんどが地球は平らで果は崖崖ぷちだと思い込んでいた時期に地球は球体で太陽がどのように地球を照らすかを正確に把握していました。 ナフマニデスは創世記の六日は一日二十四時間だったと断言しています。第二章で述べたようにこれは『神』の視座の一日です。一日が『神』の一日であるにせよ、なぜ「夕べがあった、そして朝があった」を毎日繰り返すのでしょうか? オンケロスと似た見解ですが、ナフマニデスは聖書の言葉を掘り下げてすばらしい洞察力でこの難問を解きました。彼の解釈はヘブライの伝統的知識から来ています。彼らは論理的に聖書の原文自体から解答を求めました。 言葉の順序とヘブライ語の語根に答えがあったのです。解釈のたびに私たちは基本的原則に立ち返ります。すなわち聖書は人の言葉で、普通人の言葉で、語るのです。賢者たちは隠れた意味を掘り出さねばなりません。 夕べがあった、そして朝があった… 「夕べ」のヘブライ語は「エレブ」です。これは表面的な意味です。エレブの語根は太陽が沈む以上の意味を持ちます。 夕べには何が見えますか?何を感じますか?物はすべてぼやけ、闇が訪れます。エレブの語根はまさにそれで、「ごちゃまぜになる、秩序が崩れる」です。 「朝」のヘブライ語は「ボケル」で、意味はエレブの反対です。朝は光がさします。夜の闇でごちゃ混ぜになっていた諸物は明確な存在として現れます。これがボケルの原義です。「明確に識別できる、秩序ある」です。 原文が「朝があった、そして夕べがあった」と述べているなら、私たちの一日の感じにぴったり合うでしょう。少なくとも一日の光が含まれます。 しかし原文がこの人間的論理に沿っているなら、その宇宙的メッセージは失われたでしょう。原文は宇宙内物質の流れに関する重要な何かを告げているのです。巨大組織との接触と、その内部の下部構造に起こる何か、です。 この現象は実に重要で夕べから朝への流れとして六回繰り返されています。人類が根付くことになるこの宇宙空間の一角に、乱雑、カオス、「夕べ」から、秩序、コスモス、「朝」へ向かう組織的な流れが存在したことを告げているのです。 この混沌から秩序への流れが滅多に起こるものではないことを知るために、熱力学とエントロピーを理解しなければなりません。 シュローダー『創世記とビッグバン』より。
2008/05/17
チリは地に戻り命の息吹は『永遠』に戻る『永遠』が息吹を与えたのだから コーヘレトの書 12・7 ******** 何かあればご質問を
2008/04/27
現代の主要な宇宙科学者によれば、今の宇宙はビッグバンの結果であり、現在の拡大の自己制御は存在しない、拡大は続く、のです。 宇宙は拡大縮小の循環を繰り返す状態にはないのです。一つのビッグバンで宇宙は創られたのです。 詩篇一四八・四―六は歌います。「かれを賛美せよ、諸天の天よ、天の上なる水よ。彼らは賛美するがよい、『神』の名を。かれが命じて、彼らは創られたのだ。かれは彼らをとわにとこしえに立たせ、掟を与えて、それを過ぎ去らないようにした」。 この言葉に基づいて、(ユダヤの)賢者たちは宇宙は永遠に存在できると述べています。もし宇宙が壊れるならば自然の結果ではないでしょう。創造が『神』の業であったように、崩壊も『神』の特別な力の業として起こるでしょう。 天は永遠です。聖書の宇宙に関する叙述もそうです。科学の最善の推定もそう語っています。 シュローダー『創世記とビッグバン』より
2008/04/14
『永遠』を知るために『永遠』を愛するために生きる『永遠』に会うために死ぬ
2008/04/05
ビッグバンに関する諸現象を発見するには精密な電波望遠鏡、光学望遠鏡、高エネルギー粒子加速器に関するテクノロジーなどが必要です。このようなものは最近の五十年で実現したのです。データーを集め、関連付け、そして推測したのです。 千年前のユダヤの聖書学者、ナフマニデスとマイモニデスは発見という作業に従事していたのではありません。すべて聖書の啓示から引き出されました。ナフマニデスが言ったように、「他になにがあるのか?」でした。 千年前に自然科学を教えている先生が、今の宇宙は最初は一粒のからしほどに押し込められていたのだ、と言ったとしましょう。一人の生徒が先生の前に水の入ったグラスを置いて、これを半分に縮めてください、と言います。人間の体験内では不可能です。まして地球と全宇宙がからし一粒の空間に圧縮されるとは? この質問への解答は証明できるものではありません。啓示は正しいという信仰によるものです。科学が発展する前に―科学は結局それを確認したのですが―啓示への信仰によるものでした。 啓示は詳細な描写を与えなかった、科学が詳細な点を描いています。正常な温度と圧力では物質は分子の配列です。圧力が増大すると分子構造は破壊され、原子が残ります。さらに圧力が加わると原子構造は壊れ原子核と自由な電子となります。最後に原子核も圧縮され壊れます。素粒子の静止エネルギーを超える温度になると、すなわちEがmc2よりも大きくなると素粒子はその質量からエネルギーに変わります。 人類はビッグバンの初源のエネルギーから形成されました。そのいきさつは物理学から知ることができますが、聖書の啓示からも知ることができたのです。
2008/03/21
宇宙の空間、時間、物質的存在の間の緊密な関係はアインシュタインの相対性理論によって量化されるまでは、思索によって扱われる対象でした。 不思議だが納得できる類似性によって、相対性理論は( 聖書解釈の)伝統的文献が論じる三つの量、空間、時間、質量の認識方法を扱います。 絶対無からの天と地が創造、こらは聖書に基づく信仰の根本です。「これを信じないで天地は永久に存在してきたと考える者は[聖書の]宗教の本質的、基本的原理を否定する者である」。7このようにマイモニデスは述べています。「創造」のヘブライ語はバラーで、これは無から何かを創造することを意味する唯一のヘブライ語です。聖書においてはそれは『神』の行為のみに使われます。それは聖書に二番目に出る言葉です。
2008/03/04
『神』が七日目に安息した、という意味をシュローダー博士は次のように語っています。 聖書を研究していた聖者たちは創世記の最初の六日とアダム以後の時は違っていると理解すべきだとずっと前から警告していました。 彼らは十戒の安息日に関する記述からこのことを知ったのです。出エジプト記二〇・一一をゼカリア五・一一、サムエル記下二一・一〇と比べると同じ語が休息の意味で使われてます。 このことから、安息日に「休んだ」のは『神』ではなく、最初の六日間で『神』が造り上げた宇宙全体を一つにまとめる測定に休息を与えた、一休みさせた、という意味です。 マイモニデスによれば、この『神』の休息以降、自然法則は、時の流れを含めて、「正常に」動きます。 対照的に天地創造の最初の六日間の出来事は、時と自然の法則が無視されたかのように、非論理的に見えます。 初期の宇宙に関する聖書と科学のそれぞれの見解の不一致はつとに早く聖者たちによって預言されていたのです。
2008/02/18
『永遠』=無時間から吹き込まれたネシャマーは電磁波のように非物質である。 しかしアダムというチリの塊に吹き込まれたために物質による変異を受けたと考えうる。 『永遠』は人が死んだ結果、手元に戻ったネシャマーの変異状態を調べて、スーパー・ホモサピエンスを創造するときに再利用する。 このスーパー・ホモサピエンスはさらに進化を遂げ宇宙をくまなく行き来し全宇宙に『永遠』の栄光を告げ知らせ、『永遠』を賛美するように導く。 なぜ『永遠』はそんなものを必要とするのか。存在そのものである『永遠』は存在であるために非『永遠』を生み出さざるを得ない。 『永遠』が望むのは宇宙的被造物へと進化する要素を人間が育むことである。 ネシャマーを受精卵のように大事に育てる人間である。 こうして私たちの努力は『永遠』を『永遠』たらしめる『永遠』との協力作業にささげねばならない。
2008/02/09
時が流れるとは、物質が古くなる、ということである。物質が無ければ時は流れない。すなわち時は存在しない。光のトンネルには時が無い。物質が無いから。死ねば肉体は物質の元素に戻るがネシャマーは時の無い世界へ引き取られる。そして、より高度な、より宇宙的な、生命形態を活動させるエネルギーとして使われる。付加価値の無いネシャマーは使われない。
2008/02/08
人が死ねば肉体はチリに戻るネシャマーは『永遠』に戻るでは生きた意味は何か?ネシャマーに付加価値が付いたことだ。『永遠』は付加価値が高いものを新しい生命形態のために使う。生きて死ぬことは『永遠』にとって付加価値の高い者になる努力を意味する。
2008/02/08
創造主は宇宙を支配する法則を与え、万物は法則を通して形成されるようにしました。 ですから「…あれ」「…を引き出せ」という言葉で万物は出現しました。 創造主が「(無から)創造した」のはすでに述べたように三回きりです。最初の原宇宙(一・一)、五日目の生物(一・二一)、六日目の人間(一・二七)です。「造った」という表現は「広がるもの」と「人間」の二つに関して使われています。 人間に関しては「造った」と「創造した」の二つの動詞が使われています。これは重要な意味を持つのですが、また後で説明します。 ところで「…あれ」に加えて「造った」と記されているのはなぜでしょうか。 ラムバンが言うように、このなぞはまだ分からないのです
2008/01/24
古代・中世のユダヤ賢者たちは「広がるもの(蒼穹)」を大気としています。 それは二日目に創造主の命令でしっかりしたものになったのです。 ラムバンは二日目の創造主の命令は異常で、神秘が隠されていると言います。 他の被造物は創造主の言葉で造られたのです。「光あれ」と創造主が言うと「光があった」のです。しかし「広がるものがあれ」と言った後に「一なる神々は広がるものを造った」とあります。「一なる神々は造った」は四日目、六日目にも使われています。ラムバンは、この解答をベン・ゾマは知っていたが秘密を明かすのを望まなかったのかもしれない、と考えています。
2008/01/10
もし私が私のために存在しなければ誰が私のために存在するのか私が私のために存在するのであれば私とは何者か今でなくていつなのか私とは『永遠』の思いの一つである『永遠』は一つ(アドナイ・エハッド) 2008 CE 5768 JC
2007/12/31
上にある水と下にある水とは何でしょうか。 聖書は「水が地下から涌き出て、土の面をすべて潤した」(二・六)、「闇が深淵(テホム)の面にあった」(一・二)、「大いなる深淵(テホム)の源がすべて裂けた」(七・一〇)とあるように大量の水が下から湧くことを強調しています。 以前、科学者は大海の水は原初の雲に宿った水蒸気から由来した、と考えていました。 しかしその後、二十世紀半ばに、十四億立方キロメートルの大海の水を雲からの水滴が満たすのはほんの一部だけという計算の結果が出ました。 巨大な水の量は溶岩の冷却収縮によって吐き出されたものと考えられています。 火山の噴出する蒸気と海水との科学的組成が類似していることも大海が冷却していく地球から排出されたものであることを裏付けるようです。 聖書は、水は下から、を暗示する言葉が多いのです。これも水の出所を教えているのでしょうか。
2007/12/20
創世記のは七十七億五千万年前から三十七億五千万年前まで四十億年です。この期間に私たちの渦巻く銀河の星の大部分が形成されます。太陽は四十六億年前に現れます。私たちの銀河の中で最も古い星は螺旋状円盤の外にあって肉眼では見えません。聖書は第二日に天と呼ばれる広がるものが造られた、と述べています。今見える天のほとんどは私たちの銀河の主要螺旋状円盤をなす星々なのです。
2007/12/12
天地創造の最初日を聖書は「一つの日」と表現しています。 これは地球時間に基づくと百五十七億五千万年前に始まり七十七億五千万年前に終わると考えられます。 「一つの日」は八十億年です。 これはビッグバンの名残とされる宇宙背景放射に基づく計算から割り出されたものです。 すでにお話したようにビッグバンは最初から物質を作ったのではなく、高温度の放射エネルギーを生み、ビッグバン後十万分の一秒単位で安定した物質に移行します。 物質の出現が時間の始まりですが、この時の宇宙は現在より百万×百万倍ほど小さく温度は百万×百万倍ほど高く、光の周波数の平均は百万×百万倍速かった、すなわち時間は百万×百万倍速く過ぎていたのです。 八十億年が創造主の「一つの日」です。 もちろん二日目以降、宇宙が膨張し温度が下がるにつれて時間はのろくなります。二日目は四十億年、三日目は二十億年、四日目は十億年、五日目は五億年、六日目は二億五千年です。 聖書によれば、「一つの日」に、宇宙の原物質が創造され、光が闇から分離されました。科学によれば、ビッグバンによる宇宙の出現が記され、電子が原子核に結ばれて、光は解放され、そして多くの銀河の形成が始まります。「一つの日(ヨム・エハッド)」は不思議な表現です。創世の二日以降は「二日目である」というように序数が使われていますが、ここには「一日目」と書かれていないのです。「ヤハウェ[永遠]は一つ」(申命記六・四)とあるように、「一つ」はヤハウェ[永遠]です。「一つの日」は「ヤハウェ[永遠]の日」です。「ヤハウェ[永遠]」以外に何も存在しないことを宣言し、原初のエネルギーが物質に移行し、光が分離されたという、壮大な宇宙叙事詩の始まりを告げる日です。「はじめ」を告げる創造主は、同時に終りの日を見極めていることを忘れてはいけません。
2007/12/06
「夕があった。そして朝があった。一つの日である」。 この時点で太陽系は形成されていません。「夕」も「朝」も「日」も無意味と思われます。 しかし語源からいうと「夕(エレヴ)」は「混沌」を、「朝(ヴォケル)」は「秩序」を意味します。「混沌があった。それから秩序があった」というわけです。「夕があった。そして朝があった」は創世の一日ごとに、繰り返されます。 初源のビッグバンから、混沌と乱雑さの中から、秩序が取り出されていく姿が浮かんできます。 自然は放置しておくと無秩序に向かうものです。 宇宙に一貫した法則が存在し、その結果、人間のような複雑な構成が出現しました。 すべては偶然にできたという主張は、数学的にありえないとされています。 未知な力が働いたとしか言えないのです。
2007/11/29
「『神』は光を昼と呼び、闇を夜と呼んだ」ですが、この時、地球はまだ出来上がっていないので、昼、夜という言葉は不適切といえます。 人間が出現し、光と闇を見分けるようになると光と闇は異なる二つの神が造ったという誤った考えが行き渡ります。 ヤハウェ[永遠]は光も闇も自分が造ったものであることを教えています。先ず闇を創造し、それから光を造ったのです。それが、人間の生活において、昼と呼ばれ、夜と呼ばれているのです。 元は一つです。それゆえ、ユダヤ人は朝の祈りで朝と夜を造った創造主を讃え、夜には夜と朝を造った創造主を讃えるのです。
2007/11/24
ところで三節の「光あれ」の「光」と四節以降の「光」は違います。 ラビ・エレアザルによれば、最初の光は地の果てから果てまで見渡せる光でした。しかし人間の腐敗を見た創造主はこの光を隠しました。それは「良い光」なので「良い人」すなわち「義人」のために取り分けたのです。それは後に(メシアの時代に)現れる正しい人が使えるようにしたのです。(タルムッド・ハギガ一二a) また、この光は地を見渡す創造主の目に近い能力を人間に与えるものでした。しかしそれはネシャマーの遺伝子が活性化する人だけに与えられるものなのです。 最初の光は創造主が隠したので見えない光となった、というユダヤ賢者の解釈は、現在も見えない光が存在し、見えない光をはじき出した物質と、物質のもととなったエネルギーが隠された状態で宇宙に充満していること意味しています。 それは暗い光、暗い物質、暗いエネルギーです。それは世の終りにヤハウェ[永遠]が義人とみなした者に現されると言われています。 この点に関して、シュローダーは次のように述べています。 タルムッドも現代宇宙学も、最初の「光」は強烈過ぎて人間の目には見えなかったことを認めています。それはガンマー線のエネルギー領域内に入るもので目には見えません。光子の熱エネルギーが三千ケルビン度に下がり電子が水素とヘリウムの原子核の軌道に落ち着いて光子は宇宙の物質から開放されて目に見える「光」として出現するのです。こうして神学的にも科学的にも、光は光となり、闇は闇となったのです。これを聖書は「一なる神々は光と闇の間を分けた」と述べているのです。
2007/11/15
ラムバンによれば「『神』は言った」の「言う」は潜在していた可能性を現実に現す行為を示し、「一なる神々は見た」の「見る」は存在の継続を意味します。 すべての存在は創造主の承認によって存続し、創造主の承認がなければたちどころに消えるのです。 四節で「『神』は光を、それを、良いと見た」と「光を、それを」と繰り返しています。他の個所は「『神』は良いと見た」とあるように繰り返しません。ラムバンによれば「光」を挿入しないと、天と地の創造を良いと見た、と誤解されるからです。
2007/11/09
ところで「『神』の風(ルアハ・エロヒーム)」はエジプトを脱出したイスラエルの民を守るために吹いた「風(ルアハ)」とは違います。 モーセが海に手を差し伸べると、強い東風が一晩中吹き続け、水が割れて乾いた土地が現れます。こうして創造主はイスラエルを救いましたが、この救いは自然法則を通して救ったのです。 創造主が介入して奇跡を起こしたのではありません。その証拠に、道を開くために、強い東風が一晩中吹き続けなければならなかったのです。創造主が介入したなら一瞬のうちに道ができたでしょうに。 創造主が自ら創造した自然法則をねじまげて奇跡を起こすことはないのです。 創造主の直接介入による創造の奇跡は三度行われたと創世記に書かれています。このことはまた後に触れるでしょう。
2007/11/05
この精度をもう少し詳しく見てみましょう。 宇宙は拡大していましたが、光子は素粒子と衝突を続け、混沌の嵐のようなスープ状でした。中性子と陽子は衝突しながらもヘリウムやもっと重い元素を作り出そうととするのですが、光子放射が形成途上の原子核を粉砕して中性子と陽子を元の自由奔放な状態に戻すのです。宇宙温度が10の9乗(十億)ケルビン度まで下がったとき安定した核が形成されます。 創造の最初の温度が一度異なっていたなら原子核が安定する温度はビッグバンの約一秒後に10の10乗度となり、高密度の宇宙における素粒子の融合が急速に進んで、水素を重い元素に変え、水素が全く存在しないか、ほとんど存在しない宇宙となったでしょう。 太陽をはじめ無数の恒星溶炉は燃えることもなかったでしょう。私たちがこのように存在することもありえないでしょう。 宇宙温度が10の8乗ケルビン度に下がるまで核安定が遅れたなら、逆に水素だけの宇宙になったでしょう。核形成に必要な中性子は自由奔放な状態だと放射性なので十五分の半減期で崩壊します。108ケルビン度になるまでに三百分が経過し、この間に中性子は全滅します。 結果は水素以外の元素が存在しない宇宙となり、生命は出現しなかたでしょう。
2007/11/03
ヘブライ語は「水の面にメラヘフェト(舞っていた)」と言います。「メラヘフェト」は親鳥が雛鳥の巣をかばうように、養うように、はたはた舞う動きです。 この「水」は宇宙と生命を生み出すもとです。何よりも生命の発生に不可欠のものです。 この時期に水はまだ現れていないのに「水の面」と言う表現を使ったのは、生命の創出を目指した微調整が、この時期に行われたことを示しているといえましょう。 宇宙に生命を出現させるための微調整とは、ビッグバンのエネルギーが10の120乗分の一狂っても、生命は存在しない結果となったであろうとされる、それほど精密なものでした。 10の120乗分の一の狂いも許されない微調整は、比喩的に言えば、宇宙の端から端へダーツを投げて直径一ミリの目標を射抜くほどの精度なのです。
2007/10/31
「『神』の風(ルアハ・エロヒーム)」の「風」は「霊」とも訳されますが、創世記ではこの個所に一度だけ使われる表現です。「『神』の風がその水の面に」は、科学的には膨張を引き起こした一回きりの不可解な現象に相応します。 宇宙の始まりから10―35(十万×百万×百万×百万×百万×百万秒分の一)秒後、宇宙は10―24 (百万×百万×百万×百万分の一)センチの大きさになります。 この瞬間、一度きりの不可解な力―一種の反重力―によって宇宙はグレープフルーツの大きさに膨張します。 この一回きりの力は、何がなぜどこから発生したのか分からないので、単に膨張と呼ばれています。膨張を引き起こした不可解な一度きりの力が微小な不可視的な混沌としたエネルギーの塊に働きかけていたのです。
2007/10/28
「闇が混沌の海の面にあり」の「闇」は、光と闇が分離されたときの「闇」とは違います。 ユダヤの賢者によれば、この「闇」は最終的に生命を生み出した諸力の源泉エネルギーです。 「わたし[創造主]は光を造り闇を創造した」(イザヤ四五・七)とあるように、ヤハウェ[永遠]が創造したのは闇であり、光ではありません。 この闇は黒い火です。この火から光は現れないのです。光子と陽子が衝突を繰り返しているかぎり、宇宙から光は出現せず、真っ黒な宇宙、ブラックホールのような宇宙があるだけでした。 「混沌の海(テホム)」はこのような、創造主が創造したブラックホールのような原初空間です。
2007/10/26
「トフー」は「形がなく」の訳でいいのですが、「茫漠(ボフ)」は「中身のない空の」では不十分です。 タルムッド・ハギガ一二aによれば、「ボフ」は「混沌の石」です。シュローダーによれば「ボフ」は物質の基本的構築素材です。「地は形がなく茫漠であった」は、「地は形もなく混沌の状態であったが、物質の基本的構築素材に満ちていた」と訳せるでしょう。 これを科学的に説明すれば次のようになります。 宇宙の拡大に伴い原初エネルギーは希薄となり温度も落ちていきます。ビッグバンの0.00001[十万分の一]秒後、エネルギーは物質の基本的構築素材である陽子と中性子に移行し、陽子と中性子から水素とヘリウムが形成されます。 この時期も現在も宇宙の元素の比率は水素七十五パーセント、ヘリウム二五パーセントです。これがいかに重要な意味を持つかは後で説明します。現存のすべての物質は「ボフ」から始まったのです。時間も物質の出現と共に始まりますから、時の流れも「ボフ」から始動したといえるのです。
2007/10/24
創造主は宇宙の歴史を約百五十億年ほど書き終えました。 宇宙の結末も創造主の構想の中で出来上がっているはずです。テーマも筋書きも、登場人物も、場所も、結末も、創造主の想念の中に存在しています。私たちに分からないだけです。 ただ創造主はヘブライ聖書を通して、創造主の想いにある宇宙史の概略を始めから終わりまで、人間に理解できる言葉を使って、語りかけているのです。しかし創造主の想いの秘め事を聞き取れる人が少ないのです。 永遠なる主がエゼキエルに「アダムの子よ、これらの骨は生き返るだろうか」と問いかけたとき、エゼキエルは「永遠なる主よ、あなたはご存じです」(三七・三)と答えます。 私たちも未来に不安を感じるとき「あなたはご存じです」とエゼキエルにならって答えるのがいいかもしれませんね。
2007/10/18
「地は空漠として」の「地」は「世界」とも取れますが「人間が住むことになるであろう乾いた土地」とも取れます。「乾いた所」は三日目に現れるので、この初源には存在しなかったはずですが、聖書は過去現在未来を一緒に語ることがあります。なぜでしょうか。 創造主には宇宙の始めから終わりまでのすべてを一つに見ることができるからです。 創造主は時間と空間のないところ、すなわち永遠無限に存在します。ゼロタイム、ゼロスペースの世界を私たちは想像すらできません。 強いて想像すれば、作家の想念に存在する長編小説の構想に似ています。テーマもあらすじも登場人物も場所も結末も分かっているのです。しかしそれは時間を追って紙の上に少しずつ現れるだけです。時には登場人物が思わぬ方向に動き、微調整を余儀なくされるでしょう。しかし大綱は変わりません。創造主から見た宇宙の歴史もこのようなものでしょう。創造主は「はじめに終りのことを告げる」(イザヤ四六・一〇)のです。 一つ具体的な例をあげましょう。 一九八七年二月二十三日午前三時、超新星一九八七Aの爆発の光が十七万年かかって地球に到達しました。この間、地球では様々なことが起こりました。 さて仮に光速宇宙船が超新星爆発とともに出発し、爆発の光と共に地球に着いたとしましょう。十七万年間、宇宙飛行士の時計も十七万年を刻んだでしょうか。いや、いや、答えはゼロ。一秒も時計は動いていないのです。 光速の世界では時間は止まります。光は時間の外にあるのです。 ではゼロタイム世界の光速宇宙飛行士には地球の十七万年の出来事はどのように映るのでしょうか。すべてが同時に起こるのです。過去、現在、未来は『永遠の今』となり一つになるのです。創造主から見た宇宙の歴史もこのようなものでしょうか
2007/10/14
次に「天と地(エト・ハシャマイム・ベエト・ハアレツ)」です。ここで問題になるのは「エト」という語で、これはここではなくてもよいものなのですが、これがないと、ヘブライ語の語順からいって、「天と地」が『神』と同じものに取られるおそれが出てきます。 天と地はよく神と間違えられます。確かに荘厳な星空や不動の大地に聖なるものを感じます。天壌無窮とか永遠なる天地などの言葉もよく使われます。しかし天地も被造物です。被造物を一なる神々と混同しないように「エト」を置いて「創造した」の目的語であるとことを明確にしたのです。 さらにタルムッドは次のように述べています。「余分なエトが付いているのはなぜか。ラビ・アキバは答えた。エトがなければ、天と地がほむべき聖なる方の名と誤解される」。(タルムッド・ハギガ一二a、ミドラッシュ・ラバ一・一四) また、「エト」は追加・拡大を示す、と同じ個所で述べられています。すると「天とその諸々および地とその諸々」と解釈できます。さらに「天に向けて拡大するもの、地へ向けて拡大するもの」すなわち「はじめに創造されたものは天と地を形成する擬似物質だった」とラムバンが述べたように、現代のビッグバン論に沿った解釈も可能です。
2007/10/12
「『神』(エロヒーム)」は「エロハ(永遠)」の複数形です。しかし「エロヒーム」に呼応する動詞は単数形ですので、「エロヒーム」は複数でありながら一つという矛盾する概念を表現する不思議な言葉です。 文法的には尊厳の複数とされますが、ユダヤの賢者たちはもっと深い意味を読み取りました。 一なるエロヒームは万物に宿る永遠の相、万物に宿る神聖、その根源は唯一のヤハウェ[永遠]から来ることを表しています。《一なる永遠》なしに何も存在できません。
2007/10/10
『永遠』の最初のツィムツムは宇宙の物質的多様性とそれに伴う様々な法則を生み出したのです。 次のツィムツムは生き物の魂(ネフェシュ)を、三つ目のツィムツムは、人間の魂(ネシャマー)を生んだのです。これは今後何度も扱うことになるでしょう。 (The Science of God, pp.16-17参照)
2007/10/09
イザヤは次のように述べています。「わたし(創造主)は永遠である。他に何も存在しない。わたしは光を造り闇を創造する。私は平和を造り悪を創造する」(四五・六―七)。 これは光と闇、平和と悪は異なる源泉を持つ、すなわち善と悪の二つの神が存在するといいう二元論への反論です。 しかしなぜ対立物が一つのものから出現するのか。ユダヤのカバリストはツィムツム理論(縮小論)を生みました。光の無限の源が縮小すると闇が創造され、平和(完全・充満)の無限の源が縮小すると悪(完全の欠落)が創造されます。
2007/10/07
「神は…創造した(バラー)」について見てみましょう。「創造した(バラー)」とは何でしょうか。このヘブライ語は「無から創造した」を意味します。 それは一なる『永遠』の縮小行為(ツィムツム)と呼ばれ、無限が自らの一部を取り除くのです。 切り離された領域に多様性が出現します。多様性が大きいほど、不完全性も増大します。
2007/10/06
全308件 (308件中 1-50件目)