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あまりにも迷惑コメント等が多いので、もう失望しております。ミクシーに移行してブログを書いておりますのでそちら一本に絞ります。何かいいアイデアがありましたら伺います。あまりこちらに書き込みもしておりませんので、訪問して下さった方にはお詫びします。でもちゃんと旅は続けております。ではカパイ
2009年01月04日
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夏休みではないのですが、日記を長い間休みました。 書かないと借金したようで心が苦しいです。 すごい雨でした。夕方になってやみましたが、ずっと日照りと暑さが続いていましたので、この涼しさがありがたく、恵みの雨です。 でも洪水や被害にあっておられる方も多いので、そうばかり言っておられません。 本が出来上がりました。 自伝です。「井の中の蛙大海へ」と題しています。 プレイズ出版刊です。 読んでやってください。 写真載せます。 ほしい方メールください。 代金は後払いでよろしいから振込用紙入れて本送ります。 1500円です。 私が無銭旅行した冒険旅行のすえ、ニュージーランドで神様信じて帰国するまでの物語、実話ですよ。
2008年09月07日
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イスラエルからのシャハン博士の教えから先週私たちは、伊勢神宮と斎宮、そして四国の白人神社と倭大国魂神社を博士と同行した。そのときに彼の研究したLost Ten Tribesの学びを項目別にする。たいへん教えられるところの多い旅であった。1. 十部族はアジアを通過する前にウズベキスタン、キリギスタン、黒海付近にその痕跡を残しつつ現在に至っているが、日本の地にその痕跡は最も多い。2. 日本に十部族が来ているその証拠の最大の証拠は、神道にある。3. その通過した道筋は、二手に分かれて北のルート、ゴビ砂漠を通った危険な道と南の中国を通過した道がある。4. 北を通過した道は困難を極め、長い年月を要した。5. 彼らは東を憧憬したことは確かであるが、イスラエルに戻るつもりでその時の地形の知識をもってアフリカを目指した。そしてその向こうに祖国イスラエル、ユダヤの国があると信じて東に向かった。決して日本があると思っていたのではない。アメリカ大陸があるとは思ってもみなかったから。6. 韓国に着いたときには、海の向こうにある国は日本であることを知っており、日本に渡らなかった人たちは、北に向かってイスラエルがあることを信じて、なお東に向かった。コロンブスが西に向かってインドがあることを信じて渡航したように、アラスカをへて中央アメリカに到達した。メキシコ、グアテマラに十部族の痕跡がある。次回はそのつづきを書くつもり。
2008年06月21日
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私が紹介しているキリスト教主義の英語クラスが7月14日から始まります。ニュージーランドのオークランドから北へ100キロのところにあるライフウエイ・カレッジです。 4週間、8週間、12週間そして22週間コースがあります。まじめに英語の上達を希望している皆様へ学べる環境です。牧場にかこまれたここがニュージーランドだというところです。 資料のほしい人、質問のある人はどんどんメールをください。info@h-newlife.jp です。
2008年05月08日
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「里山を愛する会」となづけて、地産地消を目指して頑張っている。 馴れない長靴(田植え用)をはいて泥の田んぼにはいった。田植え機が見事に二列に苗を植えていく。 雑草が生えているのでゴム手袋をはめて抜いていく。 何から何まで初心者の感激。 昨年は草刈り機で畔の雑草を刈ったが、今年は田んぼに入って泥だらけ。 3反の広さが、今年は一挙に8反くらいに広がった。これで一年分のコメがみんなに配給されるとのこと。みんな無給の奉仕精神です。 自給自足の足がかりが今年からお米に関してはOKとなりそう。 これも天候が恵まれての話でありますけれども。 野菜はひとつひとつレパートリーを増やしていくことにしている。 今、ソラマメが半分くらい実ってきた。レタスも毎日庭からとって食べている。 近所の人が、竹林をもっている。その人から土曜日に電話があり 一緒に竹のこ掘りに行きましょうとのことで、1時間ほどで5,6本掘り当てた。 それを湯がいて昨日食べた。たけのこごはんのうまいこと。もう最高! 2月は近所の海岸で牡蠣を拾ってきて舌鼓! 海の幸、山の幸ですねと電話の向こうで名古屋市在住の友人がうらやましがっている。 「引っ越してきなさいよ!」と言ったら、まじめに考え始めている様子。彼だけでなく、アメリカ在住の日本人友人も考えている。 田舎暮らしの良いところは、空気がうまい、食べ物が自分で何とか作ろうと思えば作れる条件が整っている。 そのうえに、私の喜びは、足で土の上を歩けるという自然があるということです。 カントリージェントルマンを地でいった白州次郎の十分の一でも真似たいものと思って毎日を送っている。 いまに39%の食料自給率の付けが回ってくる時がやってくるようです。 これは、近所の農家のおばあさんが私に言ってくれたことです。 都会のスーパーにトイレットペーパーがなくなったように 食料がなくなる日が迫っています。 鳥インフルエンザの恐怖もあります。 空気感染するなら日本で64万人が死ぬと言います。感染者2400万人でそんな数になるということですが、その時 スーパーから品物がなくなるでしょう。 4年前に引っ越して私は幸いでした。 さて、あなたは田舎暮らしの不便さを今忍んで、都会の便利さを今享受しておりますか? 黙示録6章8節「青ざめた馬」のところは恐ろしいですね。 死病とききんが来ると書いてあります。 でも田舎暮らしはこれからの希望ですよ。 勝手なことを書きなぐりました。お許しを!
2008年04月07日
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クィーンズタウンからテカポ湖にいたる町で、 昨年NZでのFish & Chipsの全国大会で優勝した店に出会わした。 たまたま入った店が優勝した店だったのだ。 その町の名は忘れたが、みんなでぜひニュージーランドに行ったら食べたいとねがっていたFish & Chipsを初めて食べに入った店が、 ナント全国一の店であったとは、ラッキーそのもの。 そこで食べてみたが、私にはその味がそんなにうまいとは思わなかったのは、日本人の口の評価と彼らの評価基準が違うのだろう。 他のメンバーもそんなにうまいとは言わなかったから。 ほかの店で食べたFish & Chipsのほうがよほどうまかった。 食べ物の味は、個人差があるのは当たり前だから、一概に優勝したからという評価は、そんなに気にすることはないと思っている。 でも最大公約数的に考える評価も評価だから認めないと言っているのではないのですよ。 その店も写真で見てください。 そしてクライストチャーチについてので、その町を流れているエイボン川の素晴らしさは、天下一品でした。
2008年03月18日
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今年は違う年にする。2008年は2007年とは違う。今まで3年半、この伊勢志摩でとじこもり、近辺の人との親近感を大切にしてきた。その成果が稲作であり、畑の野菜作りだった。これからもそれは続いていく。自給自足が夢だが、毎年その割合は少しづつでも増えていくようにしたい。体は毎年衰えていくから思うようにはいかないかもしれない。今までスリッパをはいて活動してきた。今年は運動靴に履き替えて、自分の歩いてきた旅路の成果を蒔いていきたいと思っている。そこで15日、16日には東京と、栃木県に出かけた。そして明日から4日間、沖縄行きだ。そこで若い人たちに、語り伝えたいことを語りたい。残して去っていく者が、なさねばならないことをなさなければ後に続く者にバトンを渡せない。年寄りはまもなく消えていくが、消えゆく前に残していくものがあるはず。さもなくば何をして今まで生きてきたのか。 自問自答しながら今年を過ごす。沖縄でどんな風な足跡を残せるかがまた楽しい期待だ。 沖縄では、1.小さな集会がいちばん大事であること。 その小さな集まりをたくさん作ること。 2.日本には聖書的な遺産がたくさんあること。この二つを語りたいと思っている。
2008年01月25日
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日本の神々の神は伊勢神宮のアマテラスであることは、皇室の先祖であるゆえ私たち日本人には、切っても切り離せないことがである。 もう一つの理由は、日本人は好き嫌いにかかわらず神道信者である。 日本人イコール神道は結びついている。 これはユダヤ人イコールユダヤ教徒という関係に似ているのと同じ。 そのアマテラスは天の岩戸にお隠れになって世の中が暗くなった。 そして天の岩戸から出てこられると世が明るくなった。 これはイエスの復活と同じである。 伊勢の徴古館にアマテラスが岩戸から出てこられたところの絵があるが、それを見たとたんに私は、イエスの復活の絵が描かれてあるのか、と疑ったほど・・・・、よく似ていた。 徴古館には伊勢神宮の説明が書かれてあるが、その歴史は2千年。 イエスの時代から今に至るまで2千年。 そして禊(みそぎ)が行われるのが五十鈴川。 禊は言わずと知れた清めの儀式。 イエスを信じて罪を清めて新しい生活のスタートをする儀式がバプテスマ式、 どちらも浸礼で水の中に浸るのである。 五十鈴川は昔から「イスス川」と呼ばれていたが、いつの日かに 今の濁って読む「いすゞ」に変わってしまった。 新約聖書がギリシャ語で書かれているのだが、イエスのことを 「イスス」という。イエスースという人もいるが 何千キロも離れてその言葉がイススと訛っても不思議ではない。 その伊勢神宮で最も大事にされているのが、 1.5メートルのただの一本の木の棒「心の御柱」である。 遷宮の時この心の柱を入れる館だけは、取り払われないで、 ひとつポツンと広い敷地に建てられている。 この木の柱は何を意味しているか、 イエスが木に掛けられた木を意味しているとすれば、納得がいく。 日本人は知らないで礼拝している。 それにもうひとつ、伊勢神宮には神としての像はいっさいない。 日本人は偶像を拝んでいないのだ。
2007年12月31日
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庭がかなり大きい家に引っ越して3年半がたつが、庭の木々を手入れすることもなく、放置していた。 その育ちぶりは素晴らしく、窓から英虞の海が見えなくなるほどになった。 梯子に登って切ることは危険なので庭師に頼んだ。後始末だけは私がやるとして安く請け負ってもらった。先週の木曜日から延べ3日かかって剪定して切りまくってくれた。 そのおかげで庭は木の枝で埋まっている。(写真)・・・デジカメとパソコンの連絡がうまくいかず、写真が貼り付けられません。調子が悪いのです。すぐに何とかしないと・・・・。 73歳のプロの剪定師が表の庭の“貝塚いぶき”を見事に長方形に刈り込んでいく。 庭師の腕のみせどころだ。なぜか私を気に入ってくれた職人で、裏庭の剪定だけを頼んだのだが、玄関の荒れ果てた素人の私が刈り込んだ一番目につくへんてこな椿などを、見るも見事に刈り込んでくれた。あまりにもへたくそな刈りかたをしたので目に余ったのだ。しかもその作業を無料でやってくれた。 裏庭の整理に1週間はかかりそう。木の枝を燃やすがあいにく今朝から小雨。庭の整理が遅れるが、天候回復の兆しを見せているので案外、今夕くらいは枝も乾いて燃やしやすくなるかも。 ここでひとこと: 裏庭の木々によって畑の日当たりも悪かったのが、大根、ジャガイモ、にんにく、たまねぎ、ソラマメさんたちが太陽に火をさんさんと浴びることができてその緑の葉っぱを広げて、恩恵を受けることができている。 人も人格の偏狭部分、短気、わがまま、怒り、貪欲、せっかち、自己中の枝を自分で刈り込み、栄養たっぷりの天からの恵みを受けて成長したいもの。 庭を見ながら年末のすす払いだ。 ここで一句: 幹から離れ 枯れいくさだめ 裏の庭 また一句: 裸の木々 天の恵みを 地にくれる
2007年12月16日
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12月入って再びチャペルに立つことができるようになった。10月11月の忙しい時に、休ませてもらって迷惑をかけた。健康を害して雑用的事務の仕事を引き受けてくださった人たちのせいで休養させてもらったから何とか元通りになりかけているので、今日から仕事?の再開。 一生に一度の決定的瞬間に立ち会うのだから、30分という短い間の緊張感は何度立ち会っても神経がすり減る。 今日も午前にひと組、午後にひと組の2式だ。明日も午後の12時からひと組ある。 健康で仕事ができることは、大変な幸せであることを2007年12月の初日に感じている。 今年もあと一か月。悔いのない月、年を過ごして来年に備えたいものです。
2007年12月01日
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12月入って再びチャペルに立つことができるようになった。10月11月の忙しい時に、休ませてもらって迷惑をかけた。健康を害して雑用的事務の仕事を引き受けてくださった人たちのせいで休養させてもらったから何とか元通りになりかけているので、今日から仕事?の再開。 一生に一度の決定的瞬間に立ち会うのだから、30分という短い間の緊張感は何度立ち会っても神経がすり減る。 今日も午前にひと組、午後にひと組の2式だ。明日も午後の12時からひと組ある。 健康で仕事ができることは、大変な幸せであることを2007年12月の初日に感じている。 今年もあと一か月。悔いのない月、年を過ごして来年に備えたいものです。
2007年12月01日
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昨夜帰宅。大会は私たちの志がどんなものか、はっきりと表に出た集会。新しく参加された10名ほどの人たちに大いに励まされました。初めての参加の若い青年が、自分たちの集まりにぜひ話に来てくださいと言ってくれたことばが、どれほど勇気づけられたか。参加申込者60名。当日参加5名ほど。日本の不思議、古墳の不思議。古墳が封印されたままと言う姿が、日本人のルーツや日本人のアイデンティティーの不思議につながるだけでなく、その素晴しさにも目が開かれる集会。こんな集会がそこかしこで開かれ、日本中が自信と希望にあふれるようになればどんなにか明るい光り輝いた日本国民になるかとふと思った。小さい集まりをこの国立公園、登茂山でもちたいものです。また報告します。
2007年11月25日
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9月初めくらいから、右指がしびれだし、それから右腕に虫が走るようにしびれた。同時に右肩が痛みそれが右ひじの上、下と移動した。 整形医師は、クスリをくれたが、何の改善も見られず1ヶ月が過ぎた。 首の骨の軟骨の突起が神経にあたる頚椎症の軽症とMRIは診断した。 首にワッカをはめて3週間、会う人がどうしたの?と聞くから 頚椎症だというと、私も、俺も、僕もと名乗りでる。 整形、針、マッサージと何件行ったかもしれんよ、とある婦人は歩けなくくらいの重症の腰椎、ヘルニアが治ったと話してくれたりした。 それらのアドヴァイスを聞きながら、もっぱら休養することにした。 事務局の仕事を手伝ってくれる人が二人やって来て 助けてくれているおかげで、快方に向かっている。 痛みがほとんどなく、しびれも指先だけかすかに感じるくらいになってきた。 同じ苦しみに会っている人が案外多いのに驚いている。 ゆっくり何事にも注意して動くこと、と尊敬する骨の権威の医者(85歳)の奥さんのことばがありがたい。 来週は大阪で大会が待っている。首にワッカをはめて参加することになるかも。
2007年11月16日
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マンネリズムほど臭いものはない。 よどんだ水にボーフラがわく。そして蚊が飛び立つ。 安眠を妨げられる。 私は旅が好きだ。日常の常軌を脱してハンドルを握るとき、また電車に乗って身をその揺れにまかせるときに感じる何とも言えない子供の時の遠足気分を思い出させる。 とくに信州が好きで穂高の嶺にかかる雪、安曇野の清流に心洗われる。 毎年訪れるニュージーランドに今年は行くことができなかった。 同じような日々が日常の忙しさにかまけていると心の池にボーフラがわいた。 すると体のそこかしこに蚊が毒を差し込む。 安眠を邪魔されてからだは自由を失った。 神経を侵され肩口、肘の上部と下部が痛みのために悲鳴をあげる。 神経は心につながる糸のようにその働きをかけ痛みを倍加させる。 心を楽しませるために努力せよと幸田露伴は言った。 それも努力だけではやりきれない。 「好んで為す」ことが必至である。 「好んで為す」といっても、その道中に好まざる妨害や災難、事故、悪意ある人々の言葉に合うのが常である。 そのとき、自分の感情に打ち勝って目的を果たすのが努力である。 コロンブス、ニュートン、ナポレオンのように目的を完遂した偉人、キューリ夫人、野口英世もたゆまない努力をした。 まして才覚のない者には、努力のみが唯一の味方である。 才覚も知恵もない、金もない者が旅をするには、目的地への憧憬を夢見てただ走る他ない。 海外旅行で飛行機に乗るが、 11時間もかかるニュージーランドへビジネスにも乗れないわが身にはエコノミーがこの歳ではきつすぎる。 エコノミーの座席に身を横たえるために、ものごとを「好んで為す」ことをマンネリズムの日常生活に身につけないならば、 日常生活そのものの旅は苦痛でしかない。 エコノミークラスに乗ってでも、ニュージーランドの友人たちとあいまみえたい。 大自然のパノラマを見て胸に春をもたらしたい。 日常のマンネリズムの生活そのものを「好んで為す」を肝に銘じ、 楽しみながら旅の夢を実現するために、モーテルの予約、フェリーボート予約、クライストチャーチからオークランドへのどんなレンタカーに乗って旅をしようかという準備を「好んで為す」。 旅へ行くまでがまことに楽しい。 今日も同じパターンの日課をこなすエネルギーが、旅への計画を立てる中にもある。 マンネリズムを打破するために皆さん、旅に出ましょう。旅を計画しましょう。 私の妻は、旅が嫌いだ。日常の何の変哲もない日が穏やかに過ぎていくことに何とも言えない幸いを感じているらしい。 マンネリズムが好きな人、それが妻?!
2007年10月27日
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ある牧師の奥さんが親戚の結婚式に出席したら、その式場の司式者がどう見ても牧師のように思えないので、声をかけてみたそうだ。 「牧師先生のお働きは大変でしょうね。いかがですか?」と。 そうすると 「いえ、私はこのホテルの従業員なんです。」 と答えが返ってきたというので、あきれ返ってしまったというのです。 私も開いた口がふさがりません。 おすし屋さんに入って、おすしを食べたら味がおかしい。 そこで握っている人に聞いたら 「いえ、私はここでアルバイの皿洗いをしている学生です。」というようなものではないか。 お寿司を食べる様な日常の人生で何度もあるような日ごろの行いではない結婚式=一生に一度といわれている決定的瞬間=感激的人生の華の「味」がにせものであったなど、結婚している本人はお金を返してもらうべきではないのか。 私は本ものの牧師の働きをしていると思っているし自負しているが、 私たちを愚弄しているし、それ以上に新郎新婦をコケにしているというほかない。 日本の若者がキリスト教式で人生の最高のスタートを切ろうとしている風潮にはうれしいかぎりである。 今まで先輩たちが築いて生きた清らかさ、聖なる誓い、幸せがここにあるという世界的、一般的に認められたものは、素晴しいと思う。 だが、それをただの儀式に終わらせ、金儲けの手段と考える風潮にすることだけは、結婚する本人たち、親たちは心しなければならないことだではないのか、そんな危惧を感じさせられる。 偽者をつかまされて、結婚式とはこんなものかと思って、 ただの入学式のようなもので、親の都合で転校するように、 すぐに調子が悪ければ離婚したらよいというようなものではないはず。 人生で男と女が一緒になって家庭を築いて子どもを育てることが いかに素晴しく、すごいことで、重要な意味をもっているかを心のそこで感じるとき、これが結婚式であるのではないか。 ただの式で終わらせないように、心をこめて二人の祝福を祈る牧師が多いことも知ってほしい。 私の友人の牧師のことば: 「私は今まで1300組の結婚式をしました。 しかし、どの結婚式も全て緊張して心こめてやってきました。 そのひと組ひと組の名前を全て書きとめて祈っています。」 今日もこれから私は、二組のカップルに祝福のことばをかけるに出掛けに行く。 「神が合わせしものを、人は離してはなりません。」
2007年10月08日
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9月上旬、三重ハートセンターにて24時間連続して不整脈が出ていると診断された。幸いに深刻なものではなく、心臓も右脚ブロック症状ではあるがこれもたいしたことはないと言われた。 しかし、頚椎に問題があり胸が痛むのはそのためであるとのこと。「手足にしびれは?」とドクターの質問。その時は何もなかったが、動脈硬化の恐れがあるために、心臓カテーテルで検査をしたほうがいいとのこと。 しかし、検査してことが解決するのではなく、安心のためといわれて検査はしないことにしていた。 そして、明日誕生日という今日、2週間前から右肩がだるく、右腕を切り離してちぎってしまいたい衝動に駆られていた。右手も人指し指から始まってしびれてきた。もう我慢ができず、近くの整形外科に飛び込んだ。 診断結果は「頚椎症」=主に片方の首、腕、手にかけての痛み、しびれ、力が入りにくい症状。これは脊髄の枝(神経根)の生涯によるもの(神経根症)という典型的、教科書にあるとおりの症状であり、お墨付きをもらった。 肩を冷やさないように、体を温めて、ゆっくり治療をしなければならないとのことである。ドクターは、プレッシャーを肩から抜け出させなさいと言う。頚骨に神経が触っているので、そのところに圧力をかけないことが必至だという。 そのためにリハビリに毎日着なさいと整形からリハビリの部屋に回された。そこで30分首をつる。 これから毎日首をつりに行かねばならない。電気治療もされて、その印が右肩にくっきり赤く痣のようなものが丸くいくつか着いている。「家に帰って首をつるようにします。そうすればもう全ての苦痛から解放されます。」と言ったら看護婦が笑った。
2007年10月01日
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この世に関することと天国に関することは区別しておかなければならないことです。しかし共通点は確かに存在します。 目的(目標といえば良いかも)という目指すポイントが違うのですが、その道程は類似しています。 さて、前イスラエル大使、エリ・コーヘン氏の最新の本「ユダヤ人に学ぶ日本の品格」から。 「・・・もしあなたが弱ければ平和へのチャンスは来ないかぎりか、利用されてしまう恐れさえあるのだ。 イスラエルの揺るぎない強さ、というものが平和を引き寄せ、その平和を定着させることができる。そこからは他の民族も学ぶことができるだろう。それは単に軍事力の強さだけでなく、強い社会、強い文化、そして教育や科学の発展などである。」 私は彼が日本を去る3日前に彼の手を握り、彼の大使としての数々の日本への働きに万感の感謝の念をこめて「また日本に来てね。」と言うと即座に「イヤー」と言った笑顔が忘れられない。 空手5段の彼の手は、強く母国のために戦った兵士の手であった。そして、日本を愛してやまない暖かい手であった。 編集
2007年09月10日
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昨夜、テーブル上、お茶碗に盛り付けられた白米から新鮮なお米の匂いが立ち込めた。 口に入れてひと噛みすると、米とはこんな味がするものかとただただその美味を堪能する。 うらやましく思ってほしいのだ。この日記を読む人が皆、「あんたはうらやましい!」とのたまいなさい。 これは誇りでも傲慢でもない。ただ恵みなのだ。うまいのだ。 私は50数年、毎日、お米を戴いて成長してきた。終戦の時は5歳であった。 それから5年くらいは白米を食べたこともなかった。 毎日サツマイモであった。それがもの心つくころに麦飯になり、白いご飯が少し混じり始めた。そしてその日が来た。 白い米だけが茶碗の中にもりつけられた。そのときその美味しかったこと今でも忘れたことがない。 それも茶碗に一食一膳である。めったにお変わりはしない。一度もしたこともないくらいだが、昨夜は違った。 「もう一杯いいだろうか?」 と茶碗を差し出したら、笑って家内が注いでくれた。 荒地を耕し、野焼きをした。 木の根っこを引っこ抜き、仲間と車座になってバーベキュウをして汗を流して楽しんだのは数ヶ月前だ。 2月に荒地に挑戦、3月野焼き、種まき4月、雑草との奮闘しばしば、電柵7月、 そして刈り入れ8月18日、脱穀が25日。茶碗から 立ち上る湯気 白い米 恵み与える サムシンググレート
2007年09月04日
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雲がまずまずの形であったので 夕食後家内と散歩。桐垣展望台からの夕日をカメラに。 20分ほど歩いたら、汗が噴きでた。 今年のお米のはさかけ 新米は全て脱穀終了。 まもなく胃袋に入る。 収穫後の一枚 カメラと心に納めて楽しむ 黄金に 稲穂も映えて はさにかかる豊かな実り すばらしきかな ほめたたえよ 土を踏みしめ流した汗も 忘れて仰ぐ サムシンググレート
2007年08月30日
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雷が落ちた。 昨夜8時ごろ、雷がなり嵐のような風が吹き、 激しい雨が突然降った。 私たちは水曜日の夜、聖書の学びと祈りをするためにこの研修センターで集まっている。 そのとき、私はユダヤ国家建国のシオニスト、志士トランペルドールの志の原点を話していた。 日露戦争の捕虜として日本軍に捕らわれの身となった彼は、敵国日本軍の人道的取り扱いに感激し心に誓った。 「小さな国が、大国ロシアを相手に勝つことができたのは、日本人の心が豊かだからだ。規律が正しく、勤勉で、愛国心が強く、互いに私欲を捨てて公のために生きている。新しく生まれるユダヤ国家は、日本のようでなくてはならない。」 彼の遺品がイスラエル記念館にあり、 「新しく生まれるユダヤ国家は、日本的な国家となるべきである。」 と彼の書いた文章が展示されている。 ユダヤ国家は1948年建国された。 その10年も前から、イスラエル建国のために祈った人たちがいた。プロテスタントのホーリネス教団、中田重冶先生とその仲間たち。 ただの祈りではなく、熱心な涙を流す祈りだった。 世界のどの国のクリスチャンがユダヤ建国のためにこれほど祈ったことか。 他に類のない国が日本だった。 第二次大戦中、ユダヤ人を助けナチス・ドイツのユダヤ人ホロコーストから逃れる人々を助けた樋口季一郎、杉原千畝は数万のユダヤ人を救った。 世界中がユダヤ人に重きをおかなかった時代に、日本がユダヤ人への救いの原点である、建国の姿を示し、祈り、助けていたかを話している最中に閃光と同時「ビシ!」と轟音が鳴った。 目の前が真っ暗になった。 右隣の家は150メートル離れているが明かりが見える。 500メートル離れている左隣家を訪ねた。 明るく電気は点いていた。 このセンターだけが真っ暗なのである。 研修センターを直撃したのだ。 私たちは、ローソクの明かりの中、目を閉じて、こんな日本の国に生まれた幸いと、イエスが建国された神の国に生まれたことを感謝した。
2007年08月23日
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6時半現場に着く。 すでに二人来ていた。はさかけを作る作業にかかる。 同時にあぜに生えていた雑草を刈り取る。稲刈り機が楽に入ることができるように。 三三五五仲間がやって来て、8時ごろには15名が集まった。 リーダーの掛け声もない。ただ皆それぞれが自分のやる分を見つけて声を掛け合って作業が運んだ。 3名以外は全部地元の人々。 そのうちのひとりが、私。しかし、よそ者という感じはまったくない。完全に仲間の一人。他の二人も同じ。 3反の背丈も穂も他の田んぼの実りをはるかにしのぐ稲穂が2台の稲刈り機が束にして行く。 その後をみんながはさかけを作ってそれに架けていく。 稲穂を十字にして横棒に架けていく。 午後4時、完全に終了した。 皆汗ぐっしょり。心地よい風が体のそばを過ぎていく。 一週間すれば干した稲穂を下す作業が待っている。 そして9月その甘露な味の自前の米が、胃袋の中に入る。 自分の作ったトマトを食べた時も感激したが 米となると格が違う感じがする。 やはり日本人の食べ物は、米!
2007年08月18日
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2月に荒地の草を刈り、野焼きし、 切り株を掘り起こし、全てを燃やして 3月種を蒔いた。 実るほど頭を垂れる稲穂かな という名言以上にたわわに実った稲穂が 先ほどの雨で自分の実りに耐え切れず倒れてしまうほどに実りに実った田んぼに感激もつかの間。 明日その稲刈りの日を前に、田んぼのあぜの草を買った。 その写真で倒れた稲穂が見えるでしょう! 隣の田んぼの稲穂は倒れていません。 わが生涯初めて自分たちの手で栽培したお米を刈り取る日が明日なのです。 大阪から息子が駆けつけて手伝ってくれます。 その息子が生まれて初めて草刈り機を手にして 太陽が沈んだ後にひと言。 「きれいになっていく田んぼが楽しい」 一日中パソコンにらんで働く毎日から離れて 田んぼの真ん中で草刈り機を握り締める両手が響く感触に感激していた。 空は真っ赤に染まる雲 黄金の無数の稲穂が草刈り機の音を聞くのも今夕が最後 都会の若者がポツンとひと言 「楽しい」 今年の収穫は750キロ 来年はその十倍に挑戦 地産地消費をかけ声に 集まったボランティア男性約10名。 家族メンバー合わせて30名。 来年はその30名が一年分のお米を自分の手で作る夢 夢を現実のものとする第一歩 「じゃ、明日な」 お手を上げて家路に着いた その明日が刈り取る初年度の喜びの日。
2007年08月17日
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明日は大阪へ行く。大阪の仲間が西区に集まる。 そこで2時間ほど一緒に時を過ごす。昼食を一緒に食べる。 そこでみんなが聖書のことばに耳を傾けたり、それぞれの信仰体験を話す。意見を自由に語り合ったりするが、 日本人の慎み深さが表に出て、なかなか発言が活発にならない。 むしろこれは喜ぶべき言挙げの文化とお世辞を言って自分に言い聞かすのだが、もっと自信をもって疑問点や自分の失敗談などを話してもらいたいと思う。でも成功談の方が聞きたい。 午後2時40分の新幹線で東京に行く。 6時に東京の仲間と夕食。 その翌日、国会議事堂の敷地内で開催される集会に参加。 数百人が参加されるそうだが、旧知の間柄の人たちと再会するのも楽しみの一つ。二日にわたる集会でどんなことが起こるかまたこれも楽しみ。 火曜日の夕方東京駅から名古屋、そして近鉄に乗り換えて 伊勢志摩まで帰る。 田舎にじっとしている方が、世の中の動きが鮮明に見えると白洲次郎氏は言った。 「カントリージェントルマン」の真骨頂を歩いた氏の生涯には程遠いが、田舎の端で毎日晴耕雨読を理想とする者にとって 明日の大阪、明後日の東京はずいぶんストレスである。 ひっこんで じっと潜んでいる蛙でも 出かけて時には ジャンプする
2007年08月04日
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この日記のタイトルをあるニュースレターで読んだ。 「暴力に頼らず、軍隊も戦争もなくし、世界を平和にすれば、人の命もエネルギーもムダにはなりません。」と書かれていた。 その記事の中には次のような説明もあった。 「最大の環境破壊は戦争&軍隊」というタイトル。 戦車の燃費は約0.25km/リットル。ホンダのフィット100台分、戦闘機の燃料は最高速度時0.005km/リットル(ドラム缶1本で10km!)」 この記事を具体的にもっと説明できる人いたら教えてほしいのですが、よくわかりません。 また、「世界中がうらやましがる平和憲法9条を世界に広げれば、戦争のない世界が実現します。」とも書かれていた。 現実を見ないで理想ばかり唱えていれば、理想が実現すると言っているように思えるのですが、世の中はそんな甘いものではないのではないでしょうか。 牛肉とラベルに書けば、豚肉でも通ると思っている人がいるし、消防団員が放火をし、警察官が泥棒をする人もいることを知らないのでしょうか。皆が皆そうではないのですが、確かにそんな人がいるのです。他人の妻と娘を殺しても、来世は私の妻となるのですと悲しみに打ちひしがれている夫の前で給う人もいるのです。 原発は絶対事故を起こしてはなりません。しかし起こるのです。現実に起こりました。戦争は起こしてはならないことはどこの国の人でもそう思っています。でも起こるのです。現実に起こってきました。 「何があっても戦争はしない」、と言う人のことばはすばらしく美しい。私も大賛成です。そしてそのように努力します。 何があってもという修飾語について、誰か説明をして欲しいのですが。 私の庭で採れたデカきゅうり!(写真)
2007年07月30日
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今まで野党が勝利をしたのは、2度あった。 前回は社会党が政権をとって、村山首相が立った。 その直後阪神淡路大震災が襲った。 そのとき、彼の言ったことばが脳裏から消えない。 「なんせ初めてのことでどうしたらよいのかわかりません。」 テレビで流れたそのことばを聞いて、一国のリーダーのことばかと耳を疑った。 自衛隊の出動をさせなかったその愚挙のために、 何千人の人が神戸の町で火に包まれて死んでいった。 国民が選んだ首相であった。国民は自分で自分の首を絞めたといえばそのとおりかもしれない。 しかし、その立場に立った者ならば、自分の信念を貫く姿勢だけはもっていてほしい。 命を救うために、村山は政治家になったのではなくて、 自分の主張をただ言うだけに留まったのではないか。 人は右も左もない。国民の命と財産を守るために舵取りを年金問題のような、枝葉のことではなく、この国に生きていくためにもっと根幹に関わることを明言するリーダーとしての、 舵取りをしていってもらいたい。 安部首相が続投すると言っている。 橋本首相は責任を取ってやめた。 宇野首相も2ケ月の座を責任を取ってやめた。 また再び、阿部首相もその歴史を繰り返して、動き出した船を捨てるのではなく、舵取りの多い民主党(参議院では野党であった)に日本の船の頭を挿げ替えるだけで処理するのではなく、過去の轍を踏まないようにがんばってほしい。 日本の船は大きい。政局を不安定にして時間の浪費をするときではない。北朝鮮問題、台湾への中国への圧力、アメリカのイラクでの混迷から来るエネルギー問題、などの世界の荒波での安全航行のために、 「初めてのことでどうしたらよいのかわかりませんから、・・・」 と言って退陣しないで、そのまま居座わった村山首相のように日本国民のいのちをただテレビで見ていたような、リーダーにだけにはなってほしくない。
2007年07月30日
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絶対に事故は起こってはならない。チェルノブイリが日本で起こるならもう日本は全滅寸前になる。 戦争による被害も絶大ではあるが、敵国があってこそ成り立つが、原子力発電は自分たちが何とかできる自分の問題である。 日本の全世帯が白熱電球をたった1個、省エネ電球に換えれば、 車が20万台、5個取り替えると、100万台が消える(年間排出二酸化炭素量)のと同じだけのCO2が減る。 それをLED電球にすると電気代は10分の1。 寿命が5万時間もあるから、ごみも減る。電気代をへらすコツは、「家庭消費電力四天王」をチエックするといい。 一般家庭の電力使用量の約67%がエアコン、冷蔵庫、照明器具、テレビだ。 それらを省エネ性能の優れた新製品に買い換えることも電力消費を抑えることができる。 これらの努力をすることによっては、原子力発電を中止するにはまだ足りないだろう。 電力を市民生活、工業等の産業活動に供給できる態勢を調えることができるとは思えない。 しかし危険な時限爆弾を抱えて歩き回るバカはいない。 自分で爆弾の安全装置を管理できればいいが、 発電所が火事なのにそれを管理していり人たちが、自分たちの消防設備をどう扱ったらよいのか知らなかったといって、 物陰に隠れて自分の身の安全を図っていたというではないか。 もう開いた口がふさがらないが、口を開けたまま安眠するわけには行かない。 原子力電気を使わないとすると、火力発電、風力発電、地熱発電、 その他安全な発電能力を開発する方が先決ではないかと思う。 日本国民全員の意識革命を訴えたい。 それは夜12時以降ノーテレビ番組運動である。 朝は6時からスタート運動である。 もうひとつ夜10時以降のノーネオンサイン運動である。 赤字の米沢藩を日本有数の黒字藩にした上杉鷹山を見習おうではないか。 取り返しのつかないことが起こる前に、自粛する以外に道はない。 放射能に汚染されて子どもの頭の毛が抜け始めたり、甲状腺癌が蔓延し、子どもから死んでいくようなことが起こる前に、テレビを少し我慢しようではないか。 代替エネルギーが出来るまでの我慢くらいしようではないか。 広告塔を見ないでも生活は十分快適に出来るはず。まだ足らなかったら、自給自足運動を発展させて、荒れた地を耕して地産地消運動を起こそうではないか。 自分で自分の食べるもののひとつ、インゲン豆くらいをプランタンからでも作ろうではないか。 恐ろしい事故は必ず起こる。自分たちの怠慢、責任感不足の危険性だけではない。 外国からの攻撃を発電所に受けるなら、原子爆弾を落とされたと同じことになるわけだから、 自衛のためにも日本人の国民が心ひとつにして、 自粛する態度を示す時、世界の光とじゅうぶんなりうると私は思う。 その意識は国防の意識にもつながり、外国からの攻撃にも十分備える心が育つこと確かである。 なぜこんな運動を展開する必要があるかといえば、答えはひとつ。 人は信用できない動物であるからである。 お互い信頼し合えると言っても、完全な人などいないからである。
2007年07月25日
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年金生活者としては、すずめの涙でも命の綱です。天幕伝道者として30年ほどがんばりましたので、何とかその資格を得ておりますが、今振り返りますとよく納めていたと自分なりに自分をほめています。 子どもが幼児の時、お菓子を買う余裕もなく、ひもじい思いをさせてきたものですが、それでも法律は守ってきました。そして収めた領収証、その印を手放すこと、おろそかにすることは考えも及ばないことでした。 30年の間で6回も引越しをしました。どさくさにまぎれてしまうことも十分考えられます。でも国は、正直者の見方であることを期待しています。 ここで、政治家も一般大衆もマスコミも年金をどのようにするかで喧々諤々ですが、もっと日本国民の命を保障する論議を戦わしてほしいです。 自給自足をしないと現状の食糧事情では到底日本は成り行きません。 自立する国としてサヨクもウヨクもなく、日本国に生きるものとして、そのアイデンティティーを大切にするためにも国防も議論してほしいものです。 憲法改正に道をつけようと、その根幹に手をつけようとしている阿部首相の「美しい国」云々にいちゃもんをつけて、知識人ぶっている輩に、真正面から論議する人材の少ないことを憂います。 日本国に生きていてこそ、年金です。どこかの国の思想に踏みにじられたり、力の傘に骨抜きなって日本人として生きていて年金生活を夢見るなど、本末顛倒していると思うのです。 大和魂の根性をもっている人がひとりでも叫ばないと、路傍の石が叫びます。
2007年07月23日
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台風が去った後、前庭に花が咲いた。名を知らない小さな花。 思わずシャッタを切った。一緒に楽しんでください。
2007年07月19日
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悲しいニュースです。精魂こめて苗から作って植えたボランティア団体の「里山を愛する会」の稲作の横に百本植えたヤーコンが冠水で、全滅した。水が引く兆候もない。 昨日田んぼの片隅の愛するヤーコンを1本1本見たが、しおれて泥をかぶり死滅していた。
2007年07月17日
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台風は直撃予想をはずれて、東よりにずれた。 東よりに少しでもずれると、高台にあるわが館も安心。すばらしい緑が映えて、田んぼも畑も安心。 でもヤーコンが水浸しだった。すぐに太陽が照ってくれて乾燥してくれると大丈夫なのですが果たしてそうなるのか、という心配がもちあがってきた。 中心が西に上陸すると、まずダメ。もう田んぼもきゅうりもトマトも吹き飛びます。 昨日、太平洋の荒波を見たくて、布施田の海岸に車をとめて波を見ていると、あらめが打ち上げられて砂浜を飾っていた。拾って畑の肥料にするといいのだが、そんな暇もなく、荒波のせいもあってあきらめた。 風は夜中の2時半頃最高潮に達したが、館が揺れるところまでは行かなかった。南に向かって建っている2階は、英虞湾を越えて吹きあげてくる嵐に揺れ動くのが、これまでの脅威。 それは四国、大阪付近を通過する場合だが、今回は伊勢志摩半島の東側を通過したのが幸いだった。 4時には嵐もやんで静かになった。 それ以後は、心配させた報道がうそのよう。 マスコミは、ことの後に判明することが多いが、大げさに騒ぎすぎるのは、彼等の常套手段のよう。 自然現象の災害は、危険性を過度に報道しても、 その警告に対処して、準備万端整えるので、それにこしたことはないかもしれないが、 その他のことに関しては、全てがそんな風なのだから、マスコミに踊らされない知恵が要る。 台風の嵐のように、日本の国に吹き荒れている国民年金に話題がさらわれているが、日本国民が安全に将来過ごすことができるために、マスコミは違う観点に人民の視点を向けさせる報道がなされてしかるべきではないか。 まず、北朝鮮、中国の脅威。 台湾問題の民主主義への擁護。 憲法改正の利益と危惧なる点を国民に開かれた資料の公開。 日本国の主張を国益に沿った発言をする政治家の姿勢の有無などは、今後の舵取りに我らの将来の希望がかかっている。 マスコミの偏った報道 人民のこころを不安にする報道 そんな務めに日夜精を出している仕事に 生きがいを求めているマスコミ人種たちは 自分の働きによって、一生かけて人生が終わった後に 「私の人生はよかった」と、報われる確信をもっているのだ ろうかと ふと思ったりする。
2007年07月15日
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血液検査の結果、3ヶ月前の検査のとき、体重を7キロ減らしなさいと医者に言われた。そこで4キロ減らした。 そして二日前、再び血液検査したら、コレステロールの値がなんら変化なし。悪玉菌も変わらず、総コレステロール値が少し減ったのは善玉が減ったからだった。 野菜ジュースを飲みまくったらいいのかな。どうして減らすのか成功した人いたら教えてください。よろしく
2007年07月12日
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先月の28日といえばもう2週間くらい前になるが、そのころからこの伊勢志摩の黒潮流れる風光明媚なところが、 水蒸気にすっぽり包まれている。 28日というのは、私が水蒸気に包まれていると感じたことをこのmixiに書いた日。 近所の同じ歳のアウトドアの権化のような人と親しくなったが、その人とすぐそばの英虞湾でカヤックを乗ろうと約束。 だがその日がめぐってこないほど、どんより日がつづく。 パソコンのキーをたたいて原稿を書いたり事務の仕事ばかりしていると、足が萎えてくる。立ち上がったらまともに歩けない。 庭に出て長く垂れ下がっているきゅうりを昨日は5本ももぎ取った。 家内は、それをキムチにするらしい。 自家製のきゅうりで自家製のキムチ、なんと水蒸気がもたらした野菜の成長の結果である。 ヤーコンの葉っぱを剪定してきた。お茶にする。 ヤーコンの茶は、ポリフェノールイッパイの健康茶、それに高価だ。 段ボール箱、3箱イッパイに詰めた葉をジェット吹き付けて洗って、干すところまで準備が終わったが、 水蒸気の中で干すことが出来ない。 夏の晴天やーい、と天を仰ぐ。
2007年07月09日
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6月28日 私の視点にもの申す。生命の進化をどの子も学んでもらいたくない 6月28日の朝日新聞、私の視点で生命科学者、エッセイスト柳澤氏の生命の進化を読んだ。あまりにも真面目に取り組んでいる視点なので、読む人々の敬服する度合いが深ければ深いほど一牧師の視点も深く目を泊めて欲しい。 人の生命が、約40億年前、誰も想像だにできない昔、地球を構成していた粒子から、海水熱によって自己増殖した結果であると考えられている。進化論が科学であるなら、なぜすべての論の末字が「考えられている」となるのかその視点を凝視してもらいたい。 科学は証明されて科学としての立場があると思われる。しかし、柳澤氏も言われているとおり、単細胞から多細胞生物が生まれた過程を明確にはまだ分かっていないと言うならば、進化を結果論から割り出しているのであって、その過程の証明がなされていないことを信じて、生命の尊さを述べることは科学に反するのではないか。 科学では証明されないところに生命の不思議さがある。ゆえに、進化を土台にすることは、それ自体生命の尊さをのべるにはふさわしくないとするほうがよほど科学的な論理としか思えないのだが、皆様はどうお感じになるのであろうか。 氏は、やがて恐竜が出現して、哺乳類は夜、食物を採るように進化した。大型動物による捕縛を逃れて、われわれの祖先は進化した。奇跡的と幸運の積み重ねであるとする運命論者的視点は、どう見ても科学とは相容れない結論である。だから今生きている生物すべてのいのちが尊い所以とは、真面目に子どもたちにどう説明して納得させられるのか私には全く自信がもてない。 偶然の積み重ね、幸運の積み重ねを真面目に取り上げることが、子どもの成長に欠かせないとするならば、もうおみくじの世界であり、人様を頼ること、地球の自然に任せてその恩寵にただひたすら頭を下げよという世界に生きよと言うに等しいのではないのか。自立心の確立はその論理の反対ではないのか。 氏の論理により、私たちの存在意義を高らかに歌うことができる人は、まれであると私は思う。小学生に分かることなのではなく、偶然ことが運ぶ信仰心を抱いている自然破壊をものともせず共生社会の逆を生きる愚かな大人以外理解できない論理であるのではないか。 奇跡的な歴史を知ることは、大切である。子どもたちの健全な人格形成にとって非常に大切なことは、氏の論理の全く逆であり、天と地、そして人類を造られたのは、神さまであるとして、インテグリティー(高潔さ、義、正直、いのちの尊厳さ)の大切さを植え付けるには、人に自然を愛する心を植え付けてきた日本人の昔から培ってきた「神ながら」精神の発揚しかないと私は声を大にして叫びたい。
2007年06月28日
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この伊勢志摩に引っ越して満2年になる。 初めの年は惨めな収穫であったが、 今年は少しは要領がつかめてきたのか、我が家の生もの残飯の発酵したものが栄養になっているのか、EM菌の効果なのか、出来が良くなってきた。 ヤーコン畑 ヤーコンを栽培して5年になる。 当初3年は奈良の五月橋付近の土地を借りて仲間と一緒に栽培した。 大阪からの車で1時間半の道のりはやはり遠い。 引っ越してからは10分位のところを貸していただいて栽培し始めた。 そして今年は3回目のヤーコンが葉っぱを茂らせ始めて、 もうすでにその葉っぱからお茶を作るために現在干している。 ポリフェノールとオリゴ糖がふんだんに含まれている健康野菜は、やっと最近脚光を浴び始めてきたところだ。 人手がないので昨年の半分の土地に減らしたが、残念ながら150坪くらいしかない。 この田舎には、いくらでも土地はある。 3日前、親切な市会議員さんが自分の土地を私に見せて、「この百坪の土地好きなようにしてください。」と畑に提供してくださった。 ヤーコンの種は、地下室(室といっても塀はないので階下というべき)で眠っているがその数百個いや千ははるか越えているかも、これが全て無駄になる。人手がない。
2007年06月26日
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李登輝台湾前総統は、22才まで日本人であった。精神的葛藤を経て彼はクリスチャンになる。イエスを信じて恵みのすばらしさを知った。そして日本の武士道の素晴らしさをも知った。彼の名著「武士道解題」は、同じくクリスチャンである新渡戸稲造の「武士道」を称えているが、日本人の根底に流れている精神構造を神の恵みと見ている。この滅私奉公が回復する時、日本は自信に満ちて世に「天の御心が地にもなされますように」と祈りなさいと言われたことが実現する国になると私は信じてやまない。 李登輝の著した「台湾の主張」(PHP研究所)から引用する。「私にいわせれば、日本人はあまりに自信を喪失して、こうした世界でもまれな条件を生かせなくなっている。もう少し、冷静に回りを見回し、そして自分たちを見直すべきだろう。アジアの国々もそのことを望んでいるし、世界もまた同じ思いなのである。」 続けて彼は言う。「かつて学生として教えを受け、さらに実務家として多くを学んだ私としては、日本がもてる力を十分に振るえず停滞している姿をみているのはつらい。また、国際社会において、意外なほど幼い行動をとるのを目撃するのは、実に残念思いがする。」 日本人が日本のもっているものを回復することが先決だと思う。そうする時に自信がつく。では日本自身がもっているものとはなんなのであろうか。 物質的なものをもっていることは世界が認めている。この物質的な祝福は、精神的財産がなければ決して表面には出てこないものであることは、だれでも知っている。例えば親孝行心があるから、母の凝っている肩をもむのである。子を愛するから誕生日にプレゼントを買って帰るのである。いい機械を作るために、根気を働かし、情熱をもって取り組むのである。精神的力である継続して取り組む姿勢などは、精神的力である。その力なくして、経済の発展はない。 人のためになることは、とりもなおさず自分のためという図式は、日本人がもつ財産である。 勤勉をないがしろにする風潮は、国を滅ぼす。自信を失わせる教育(自虐史観などそのものずばり、左翼的思想)は、国を滅ぼす。 その前に一個人を滅ぼす。ひとりが滅びて、家庭が滅びる、そして社会が倦怠感を抱き、国が内部から崩壊する。これが古代のイスラエルであり、ローマであり、近代のアジア諸国の西洋列強による植民地となった例である。人も家庭も社会も国もすべて一個人の精神的崩壊からくる。 「罪人(つみびと)を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうものだということを、あなたがたは知っていなさい。」と新約聖書のヤコブの手紙の最後のことばは、深遠である。 私は信じてやまないが、私が心の中で犯す罪を心の中で処置する時、家庭を保護し、社会を守り、国を健全にすると信じている。だから自信をもって自分の中の私を殺し、公に生きるのである。 李登輝が言う前に、イエスは言われている。「己が十字架を負って私についてきなさい。」 彼に従ったかつてはクリスチャンを殺していた敵対者のパウロは、述懐している。「日々私は死んでいる。」と。 そして彼は、人を殺すのをやめて自分の古き肉を殺して生きた。そのところにこそ復活があると断言した。肉を殺す時に霊が生きると。その霊こそが人の行動の動機となり、モチベーションとなり生きる自信につながる、と人々に手紙を書き続けた。それが新約聖書になり世界を変えていったのは、世界の誰でも知っていることである。 ここまで読まれた人はもうお分かりになったと思う。 日本人は、日本人を回復したらよいのである。西洋人になる必要なない。東洋人であることもない。世界中からやってきて、住み着いたところ、掃き溜めのようなところ、多民族国家として始まり、和をもって尊しとして、17条憲法を発布した世界最初の法律国家として始まった独特の精神構造を造り上げた国家、地の果て、日の上る国、東の端にたどり着いたシルクロードの終着点で、自分たちが作り上げてきた精神の堆積を自覚したらよいのである。 これは公に殉じ、私に死ぬ色が染み込んでいる魂の心意気、空気、土着心を汲み出せばいいのである。これをリバイバル、精神復興、回復と言う。 ことばの羅列ではなく、力そのものをもっていることを公言し、自信をもって一歩踏み出せばよい。
2007年06月22日
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さて、日本のクリスチャンの愛国心である。 国家忠心というものは問題外としても、それすらもなく、まして祖国愛というものまでもないような有様である。 いかに自分たちが神の愛に浸り、霊的な天の家族に属していると自覚していても、 祖国愛を度外視した言動は無意味であり、 薄弱であり、 幼稚であり、 世界各国の一般的な人は言うに及ばず、 クリスチャンからも冷笑されてもいることすら知らない。 ヨハネは黙示録の最終の天国での光景を次のように描写しているが、 日本のクリスチャンだけが、その祖国の栄光と誉れを携えてこないと預言してはいない。21章26節を見よ。 「こうして、人々は諸国の民の栄光と誉れとを、そこに携えて来る。」 わたし自身の体験から言うなら、日本以外の国のクリスチャンで日本人のように祖国をないがしろにするようなクリスチャンにいまだ会ったことがない。 軽々しくグローバリズムに乗り、 市場原理などという価値論を振り回し、 祖国の経済ばかりか、 文化、伝統、習慣を損なっている、 と数学者藤原先生の唇を借りなくてはならないほど、 残念無念そのものである。 そのまま日本のクリスチャンに当てはまると私は思う。(藤原正彦著「祖国とは国語参照」) 挙句の果てには日本古来の神道のもつ神ながらの精神を知らずして、 偶像と決めつけ、 悪霊と同類にする無知蒙昧にいたっては、 もう開いた口がふさがらない。 根無し草とはそういう人のことを云うのである。 だから根のない日本人キリスト教世界の実らしてきた伝道からの実は、皆無と言っていい。 0.1%のクリスチャンとはなきに等しい。 まるで今の銀行の利子である。 誰が財産を預けそこから恩恵を受けようとするだろうか。 イエスが、愚かなしもべが主人から預かったお金を地面に埋めておいたのを責めて、 銀行に預けておけば利子でもついたのに、と言われたがその例話をもち出すこともできないほどのていたらくである。 自分を正等に愛し、 自国を愛することが自立になくてはならない条件である。 自立しない人は大人ではない。 大人でなければ子どもは産めないし、育てられない。 これは当然の理屈である。 神を愛するということは、祖国を愛することとなんら矛盾はない。 まして自然を愛し尊んできた日本国民なら、 この美しい国は神の賜物であることをちゃんと知っているから。 今窓を開けて空を見て驚いた。見事な星空だ。 天の川がくっきりと流れている。美しい。実に美しい夜空である。
2007年06月19日
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沖縄より友人が1週間我が家に滞在。 ホームページを作成してくださるために手を貸してくださることになって、その2日間で約10時間、私の知人の知人であるパソコン先生の指導の下、がんばってくださった。 横で見ていて、その方の飲み込みのよさに関心。 こんな作業は、10年前なら私も何とかこなしていたのだが、もうよる年波には勝てず、手をこまねいているだけ。 若さはそれだけに力のような気がする。 (ここでいう若さとは、だいたい60歳までのことですのであしからず。) パソコンに歳が行き過ぎているなんて信じておりませんが、その内容の程度によっては、やはりパソコンのハード面などは、歳に関係あるといわざるを得ないように思う。 彼女は沖縄から駆けつけてくださったのだが、中部のセントレアから帰られてその翌日、アメリカより連絡あり。 今度はアメリカから友人(日本人)が突然、日曜日すなわち昨日私たちの日曜集会に来られた。彼はオレゴンで奥さんと住んで30年。 友、遠方より来るということほどうれしいことはない。 夕刻、石鏡の魚食堂(海岸べりにある)で刺身の美味をもうひとりの友人と家内との4人で腹いっぱい食った。 新鮮なとれとれのマグロ、ハマチ、それにどっさりの白く光ったイカ、でかいサザエはもう次の1ヶ月は、魚アレルギーをおこすほどだ。 この肉体を面倒見ることも大切であるが、歩む道、目的、志を同じくするものとの会合ほど、その日の価値を増大させるものはない。 遠方より 友来たりて 座して語らん いのちの実 この輪の広がり 明日の夢
2007年06月18日
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日本の悲劇は、愛国心ということばで国家的排他的自国愛と祖国愛ともいうべき全く異質の愛をひっくるめてしまったことにある。 これは江戸時代の鎖国がもたらした日本国民への恩寵でありまた弊害でもある。 それまでは、愛国心はひとつしかなかった。 今世界がグローバル化して国際的視点なくして物事が成り立たない状況のもとでは、この相違を極めて明確にしておかなくては、国家としても一個人の日本人としても自立はとうていありえない。 祖国を愛しイエスを愛した内村鑑三は、「二つのJ」を愛すると言った。 JesusとJapanである。 パウロはふたつのJということばを使わなかったが、彼が愛したのは、JeusuとJewである。 私は許してもらえるなら、二つのJとひとつのI(愛)を愛する。JesusとJapanとIsrael(イスラエル)である。 断っておくがユダヤではない。 ユダヤはその一部である。これにはもう少しつけ加えておかなくてはならない。まだ聖書の預言と解釈がクリスチャン仲間にあっても、一般的常識となっていないからであるが、こういうことである。 イスラエル国家は今(AD2007年)から2729年前に北イスラエルが滅亡、2593年前に南イスラレルが滅亡した。一時的に南イスラエルがイエスの時代ごろはローマの支配されていたとしても存在していたが、全イスラエルは、AD70年に壊滅する。そして南イスラエルは1948年に奇跡的に国家として回復した。実に2000年に及ぶ離散の末現在のイスラエルとして復興した。しかし、これはごく一部のイスラエルであり、全イスラエルではない。 イスラエルのユダヤ人組織アミシャーブは、北イスラエルの帰還運動を推進活躍中であるが、本隊のエフライムの行方を追って、2007年3月ふたりのラビが日本を訪れた時、私たちは同行させてもらって、日本のイスラエル的痕跡を説明し、主だった神社に案内した。宮中の女官の作法などを説明した。特に穢れからの清めは、古代イスラエルのそれと酷似している。 今のイスラエルが失われた十部族を探している事実をもってしても、イスラエルは南イスラエルすなわちユダヤ国家が回復しているだけなのである。 そして現実に北の十部族が世界中から帰還し始めている。エレミヤ、エゼキエルの預言書には、終末にはその二つの権威ある国家である全イスラエルが統合し、回復する預言が書かれている。 パウロは神の約束として全イスラエルが救われると明言して、希望を表明している。 旧約聖書に精通しているイエスの福音に預かったユダヤ人でありながらクリスチャンである者として、神の霊感に啓発された彼の信条であり、愛国心である。 彼はこの世における国家としてまた霊的な天的永遠の国としての意味合いでの愛国心をもっている。 今日はこの辺にして明日結論を書いて見ます。 写真:昨日の夕刻前、磯辺の高嶺園のバラ園に行きました。 時機を逸したのでしょう、ほとんどのバラが弱弱しく悲しそうでした。その中でひときわ美しい真っ赤なバラでした。
2007年06月13日
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日本のクリスチャンは、愛国心と国家への忠心のこの両方を失うこと、これがクリスチャンである資質であると思い込んでいる。 先の戦争で悪用された「愛国心」後遺症がいまだに続いている。ある国宝級の神刀が盗まれたことがあった。その盗まれた刀が強盗殺人に使われてしまった。ある人は悪いのは刀であると言った。またある人はいやそうではない、悪いのは盗まれたのだから保管していた人の落ち度だと言った。またある人は、刀そのものがあること自体いけないことであり、それを作った人であると言った。ある人は盗んで殺人をした人であると言った。クリスチャンならどう発言するのか。さしずめ、「悪いのは罪であり、人ではない。罪を憎んで人を憎まず」と黄金律をもちだすのだろうか。 英語で愛国心にあたることばがふたつある。ナショナリズムとペイトリオティズムである。前者は他国を押しのけて自国の国益を優先する。国家主義者というべき排他的自国愛というのが適当だと思う。後者は祖国の文化、伝統、習慣、歴史、自然などに誇りをもつ祖国愛であり、その根は家族愛、友情、郷土愛であろう。 自他とも認めるニュージーランドの親友の聖書教師ジム・ピーコック先生に日本の文化、伝統のすばらしさを話していた時、彼は面白半分に私に言った。「君はナショナリストだ。」私は彼の冗談をすかさず見抜いたが、間髪をいれず反論した。「私は絶対にナショナリストではない。ペイトリオットだ。」そして笑ったら、彼はうなずいて笑った。当たりまえだという顔をしていた。 (つづく)
2007年06月12日
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昨日の続き8.パリサイ人たちは、人々に自分たちの規則に従いなさいと言いました、 さもなければ我々はあなたと係わり合いはないと宣言しました。 仲間に入れないといって、神の裁きが下ると教えました。 律法主義は神を超えてルールを作り、 人に対して必要以上のルールを押しつけます。 ルールを守ろうとする厳格なライフスタイルは、霊的奴隷状態をもたらします。 律法主義は未熟な人を作り上げ、人に頼りすぎるようになり、心理的な害は恐ろしいほどです。 9. 律法主義は孤立主義を奨励します。 外部からの説教者はめったに呼ばれませんし、もし許されても慎重に選びます。 他の教会の人々は霊的に劣っているとリーダーたちは、見なし、 普通の教会の人とびとの交わりを避けさせようとします。 教会は、キリストの世界的な群、キリストのからだとして考えられていません。 その代わりに自分たちのグループは他の人たちのグループより優れているので、 交わりを持つ必要などないと考えています。そのような心理状態が、そのグループにはあります。 10.イエスは、さばき主義に走ることを警告しています。「さばいてはいけません。(あなたが)さばかれないためです。」(マタイ7:1 第1コリント4:5、ローマ14:4,10、 ヤコブ2:13.) これらの聖句はクリスチャンが正しい健全なものかどうかを見分ける力と判断をする力を養うことを避けるという意味ではありません。 しかしながら、ある教会はこれらの聖句のもつ霊的な意味合いを間違って取っています。 マイナーな問題と良心から発せられる疑問に対して、私たちは意見が違うからと言って、 他の群の信者をさばいてはいけません。 否定的な判断(さばきとか意見)は、往々にして聖書がまったく述べていない事がら、 また歪曲したことばの解釈などからやってくる意見の相違がほとんどです。 11.律法的であることは、人々を攻撃します。 なぜなら宗教的ルールを並べ立てることによって自己修養を要求させ、そんな人を霊的だと思わさせます。 けれども行き着くところは、霊的プライドのかたまりとなります。宗教的な規則は、人の心を良い方へ変えることはできません。 ただ神の霊だけがそれ(コロサイ2:23)をすることができます。 今日は一挙に後半を書いてしまいました。 論文みたいなものになってしまいましたが、こんなブログもあってよいのではないかと、自分勝手に悦に入っております。 ちょっと常識を働かせれば、どんな教会が良くてどんな状態の教会が悪いかは、すぐに見分けがつくと思います。 でも問題は、見分ける側の人の心が真理を求めている時に限りますけれどね。 自分勝手な教師を寄せ集めて、耳障りの良い話をキリスト教会がしているのではないかと思われるほどです。 それが困りものです。 ご愛読感謝します。
2007年06月09日
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6.「Legalism 律法主義は、神への従順のわい曲であり、それはけっして真に良い働きを産み出すことはできません。 最初のボタンのかけちがいは、そのままの自分を見てもらうより、もっと神に気に入られようとして善行を積もうとする動機、そして目的をゆがめるところにあります。 その2番目の間違いは横柄さです。 自分の働きによって神のお気に入りを勝ち取とろうとするので、同じようにしない人たちを軽蔑します。 その3番目の間違いは、愛の欠如です。 それは自己進歩を目的としますので、心から謙虚な親切と心から生じる創造的なあわれみを締め出します。」 7.パリサイ人たちはモーセの律法の解釈に基づいて綿密な人間の作成したルールに従うことによって、 自分たちの救いを勝ち取ることができると考える律法主義者たちです。 彼らの強調するのはみせかけです。 演劇、映画、スポーツクラブ、ダンス、に行くことは悪いことだとする教会もあります。 また「クリスチャン安息日」を維持しようとして、日曜日にレクリエーションの活動を禁じたり、服装、アルコールご法度を聖書の規則として押し付けています。
2007年06月07日
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「クリスチャンカルト」あるいは不健康教会の特徴:1.牧師あるいは指導者は神の代弁者だと見なされています。信者が自分で決断したり考えたりするその能力は、リーダーやグループが考えることに取って代わられます。 そこには責任の所在はありません。 リーダーは「イエスマン」によって囲まれます。2.罪意識、恐れそしてメンバーをコントロールする脅迫観念を用いて、人々に低い自己イメージを持たせます。人が作り上げた規則によって抑圧感を抱かせます。そして自分自身を主張することは霊的ではないと教えらます。 普通そのプロセスは非常に霊的化されているので、メンバーは何が起きているか判断できません。3.抑圧的に順応すること、リーダーの教理や規則を問題視しようとしない低い雅量は、真理の教えか偽りの教えかを正しく見分けることを実に難しくさせています。 リーダーの判断を疑問視する人たちは、反抗的な者としてまた高慢な者、トラブル・メーカーとして公にあざけられます。4.排他的教会はそのリーダーに完全な従順と服従を強調します。牧師に同意しないことは神に服従しないことです。 教会への忠誠はまず重要なことなのです。 このタイプの教会は、通常メンバーに抑圧的なほどの奉仕を要求し、とどのつまりメンバーは情緒的に精神的に燃え尽き症候群となります。5.厳格な権威主義の指導体制は、内面的な弱さ、未熟さそして不安定さを覆い隠そうとするため外見的な見せかけに気を使います。 そのようなリーダーは、聖書の知識に長けていて外見上良さそうに見えていますが、人々との友好関係はうまく行かず、誠実に人々に愛をもって接することに失敗します。 今日のところは五つ書き出しました。後六つ書いて一応終わりにします。あまり楽しい題材ではありませんね。
2007年06月01日
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5.大使徒の行動は牧師としての働きとはまったく逆だった。 パウロは、彼を通して信じた回心者が彼の働きと「大使徒」(c.f. 1 テサロニケ2:5-12)の働きとの間の比較をして欲しいと思っていた。 彼はすでに経済的自立をしていた(コリント第2 11:7-12) そして彼は自分の信仰態度としてけっして主人のようなふるまいはしなかった。(コリント第2 1:24). コリントの人々向かってにせリーダーのふるまいは、彼らの福音がにせものであったという証拠だった。 彼らのふるまいは、十字架の神の力ではなく、人の強要の力でした。 6.パウロは、攻撃的、貪欲、そして権威主義であった教会のリーダーを記述しました。 彼らは神の相続財産(ペテロ第1 5:3)を「支配して威張って」いました。 彼らは自らの権威を築き上げて他を攻撃しました。 自らの宗教的な帝国を築くために、プライドで高ぶるようになり、自らに従うものだけを集める危険性があるものですが、それが現実に誠実なクリスチャン指導者にも見うけられます。 パウロは決してそのようには行動しませんでした。 キリストの柔和さと優しさ(コリント第2 10:1)それは彼の働きの特徴でした。 それは愚かなコリントの人々によって弱さのサインだと誤解されましたけれど。 7. 非聖書的教会権威が、群の上に絶対的指導態勢を築き上げるのと同様、教会指導者の絶対依存をさせるのです。 新約聖書は信者の平等を教えるのですが、にせ教師は通常専制君主です。 8.ある解説者がパウロの最初の動詞“enslaves”はユダヤの legalism律法主義のことを指しています。 たとえパウロがコリント第2の手紙でユダヤの legalism 律法主義について直接何も言っていないとしてもです。 この動詞がただ1回新約聖書で使われています。 ガラテヤ書で legalism律法主義に関して使われています。2章4節です。 コリント第2の手紙11章4節では、「異なった福音」として使われています。ガラテヤ1章6節。 legalism律法主義 は霊的ないじめの典型です。 実際教会いじめと言うことばは大嫌いです。問題にしたくない題材ですが、カルトに陥っているへんてこは集団で行われていることが案外その実によって、見極められやすいのです。 けれども いわゆる普通の教会で、イエスの時代に見られた律法学者、パリサイ人たちと同じことをやっている教会が目に付くものですから、一般的信者は目覚まして自分で聖書をしっかり調べて、 自分の教会のリーダーたちは、その律法的傾向に陥ってないかよく判断しないといけないのです。 これは、自分自身のことであり、自分の健康は自分で管理するのが筋ですから、少し調子がおかしいと思ったときは、よき医者に見てもらわなくてはなりません。 良い医者は、ごく身近にいるはずです。 ではまた。
2007年05月29日
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1.第一コリントの手紙11章20節に焦点を当てますと、横柄さと組織的な搾取は霊的はいじめを言っているのではなく、コリントのクリスチャンの懐の深さや寛容さ、忍耐力はあるが、だまされやすい純真さに言及しているのです。 コリント人の若干の人々は、キリストではなく自分自身をたかめていたのだけれども、彼らの強力なリーダーを誇りにさえ思っていました。 2.霊的はことばで表される時、支配と圧迫を識別して、それに抵抗することは難しいことです。 3.外見はミスリーディングを引き起こす可能性があります。 クリスチャンは、神からのものだと言う主張をする聖書教師の皮相的な魅力によって容易に心を動かされるべきではありません。 正確に調べられなければなりません。テストされるべきです。 :彼らは何を教えますか? 彼らの性格と生活態度は聖書のメッセージと合致していますか? (マタイ7:15-22 ;第2テモテ3:10-17; 第一ヨハネ4:1-5; 第2ヨハネ7-11) 4.心理的な観点でを見ますと、コリントの人々はマゾヒストであったとみなされるかもしれません。 (虐待されたい、または他の人たちによっていじめられたい願望)、そしてにせ教師がサディスト[邪悪で、そして残酷]だったと。 そのような傾向を示す徴候やしるしがないかどうか、あなた自身とあなたの教会のリーダーを調べてください。 5.大使徒の行動は牧師としての働きとはまったく逆だった。 結論として6以下はまた明日。 信者が成長しないのは、その教会のリーダーたちの責任ではありますが、そうとだけは言いにくいところがまた難しい点です。 信者に真理を求める姿勢がなければ、使徒か“大使徒”当然見分けがつきません。それと同時に常識豊かであるかどうかも問われます。 聖書を調べていた使徒時代の信者の姿勢が今の日本のクリスチャンの姿勢であれば、必ず正邪の区別がつく人たちがそこかしこに現れてくるでしょう。
2007年05月28日
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4.自負と横柄 コリント第2の手紙、第11章の20節のところの続きです。 にせ使徒たちは自分自身を持ち上げた」(KJV)。 他の訳では「気どって歩き回る」(CEV)あるいは「あなたを見下げる」(メッセージ)あるいは「自分はそうではないのに何者かのように自分を見せる」(RSV)あるいは「あなたをこき使う」(エルサレム聖書)あるいは「傲慢にあなたを扱う」(F・F・ブルース)です。 ギリシャ語の「epairo」、は「出しゃばりであること、気どる」の意味です。 それは他の人へ横柄に自己主張する人間のプライドです。 彼らは横柄にコリントの人々に向かって彼ら自身を偉い者のようにたかめました。 このにせ教師たちは自分たちを過大評価したとパウロは受け取りました。 彼らはコリントの教会で権威と指導的地位を厚かましくも手に入れていました。それは非聖書的です。 5.侮辱 パウロはこの詐称者たちが「あなたの顔をたたく」、あるいは「あなたを威嚇する」と言います(ノックス)。 ギリシャ語の「dero」は、「皮をはぐ、皮をむく、激しくむち打つ、たたく、あるいは打つ」の意味です。 これはことば上の侮辱と脅迫を物理的暴力用語使ってまたは比喩として表現したのかもしれません。 「平手であなたの顔を打つ」(Barclay ; RSV)というその表現は、、これ以上の侮辱や屈辱的なたとえはなく、慣用句であることでしょうか。 顔に加えらる強打あるいは平手打ちは、つばきを顔にはきかけられるように、古代の世界、人に恥をかかせる方法として人の名誉に対する重大な侮辱(ヨハネ18:22 ;使徒23:2)でありました。 コリントの人々はおとなしく侮辱を耐えました。 現在もこのようにおとなしく黙々と耐えている信者は多くいます。狼の搾取やいじめや強奪に素直に従って自らをささげていることが、信心深いと心底信じ切っている人がいます。 なぜなのか。これは恐れがあるからであり、法則や規則、教会運営に従わなければ地獄の火で焼かれると教えられ、聖書のことばを歪曲して暗示をかけられているからです。 真綿で首を絞められと言う表現がありますがまさにそのように、徐々に閉められると窒息していく様に気がつかないのです。 首の真綿をはずすと、楽に息ができますので、初めて気がつくのです。 まさに私が13年前に体験したことです。
2007年05月17日
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初めに断っておきますが、これはキリストが非難された律法主義、教会権威主義、運営の実体であり、神の御心ではないことです。2000年前のコリントで実際なされていたことであり、今も引き続いていることです。 霊的に目が開かれた人(永遠の世界に目が開かれた人)でも、おとしめられる罠ですので、霊的盲目の人にとっては、どれほどの恐ろしいところにいることでしょう。2.搾取コリント人は「利用されていました」(NIV)。 他の翻訳が「あなたをはぎとる」(メッセージ)あるいは「あなたをだます」(CEV)、あるいは「あなたの費用で生きる」(Weymouth)、あるいは「あなたが持っているすべてを奪い取る」(リビングバイブル)あるいは「家と家庭からあなたを食い尽くす」(F・F・ブルース)あるいは「あなたを犠牲にする」(ノックス; RSV)。 ギリシャの「katesthio」、は「比喩的に破壊するまたは火で燃やしつくす」を意味しています。 パウロはコリントの信者に対しておそらく大使徒に言及しているのでしょうが、金銭的に私利私欲のために利用したことを言っているのです。彼らの律法主義、教会権威を保持するために。 にせ使徒は居候のようにコリントの人から経済的搾取をして生きていたのです。3.罠 これらのキリスト教徒は「利用されました」(NIV ; NASB ;ノックス)。 他の訳では“わなにかける”(Barclay)、あるいは「あなたから強奪する」(F・F・ブルース)あるいは「あなたから盗む」(CEV)あるいは「あなたの財産を持ち逃げする」(Weymouth)あるいは「・・・に乗じる、つけこむ」(エルサレム聖書)あるいは「彼の手中におちいる」(NEB). ギリシャ語の「lambano」は、「悪賢い策略でハンターや漁師が使う巧みなわな、詐欺であなたを落し入れる」、あるいは「あなたを捕り入れる」を意味しています。 その感覚としては、えさを付けて捕らえる、疑いもしない人たちを捕らえるということです。 意味としては、「罠を張った」です。ルカ5:5のように。 単語「lambano」は、ずる賢く捕えること、あるいは陥れることによって己の統治、支配の下に連れてくるという意味です。 パウロの警告は、現在の日本のみならず世界の教会のリーダーたちへの喝でありましょう。 新興宗教によくみられる経済的搾取は、現キリスト教会によって同じことがなされているのです。収入のいく割りかというような旧約聖書と変形したトーラーの罠にかからされていることなどまだ小さいことがらのように思えてならなりません。 ちょっと常識があれば気がつくことですから。 もっと酷いトラップ(わな、いじめ、平手で横面をひっぱたかれるなど)があります。 次回に回します。
2007年05月14日
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第2コリントの第11章の20節で、パウロは「大使徒」がコリントで信者につけ込んだ5つの例をあげています:「事実、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか。」 (NIV) 5つの動詞が、使われております。従順なコリントの人がにせ教師から経験した攻撃的な独裁権威主義を表しています。 コリント人信者へのいじめぶりは皮肉っぽく知恵のことばとして描写されています。1.支配 これらの欺く者たちは彼らを「奴隷にしました」。 他の翻訳は「奴隷にする」(KJV)あるいは「あなたの魂をコントロールする」(モファット)あるいは「あなたに暴威を振るう」(NEB 、ノックス)、あるいは「あなたの自由を取り去る」(フィリップス)あるいは「あなたの自由を盗む」(メッセージ)があります。 ギリシャ語「katadouloo」は「むりやりに奴隷する」、「その人に隷属させる」という意味です。 完全な従属あるいは独立を失わせる意味として使わています。 いじめられた信者がキリストにある自由を放棄したとき、にせ教師はコリントの人の魂をコントロールしました。2.搾取この動詞については明日に回します。 あまり気が進まない題材です。でも、たいへん多くのキリストの教会といわれているところで、function(作用)されていることなのです。 その中にいる信者にとって多くの場合、気がついていません。むしれそれが信心深い行い、聖なる生活だと思い込まされている場合が多いのです。 ましてやこの世の教育界はもちろん、家族の子育て、会社や社会での規範、等々においてや霊的盲目ぶりは問題提議以前であります。 まず何が真理かを知ることから始まるからです。真理が自由を与えるのですから。 ヨハネ8:32
2007年05月12日
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日本の神秘はへんてこな霊とはまったく関係ないことを感じ取ることの出来た研鑽会、講演会、そして学びであった。 美しい日本の土台がそこにある。 イエスの心がまっすぐに形作られている感じがするのは、 集ったクリスチャンのみならず、一般の人も感慨深く印象を語っておられた。 およそ30畳の部屋に30人が集った。 牧師が約10名、会社員、引退教師、画家、引退ビジネスマン、現役バリバリの世界をまたに駆けている大会社のエリート社員、お菓子職人、自動車関連会社副社長、保険外交員とその諸種は種々雑多である。 そこでひとつ明確にわかったことをひとつあげてみる。 国家神道と古神道(神道の真髄の心)はまったく違うということ。 国が神道を用いて国家を統一しようとした神道は、国家神道であってその精神は神道そのものではないと言うこと。 ごっちゃ混ぜにして論議しているところが、不必要な誤解を招いている。 物知り顔でいわゆる神学者として知識人の言う神道云々によりキリスト教を迫害したという論理はナンセンスそのものであり、違う引き出しを開けて論を展開している。 神道を学べば学ぶだけ、いかに日本人の心に培われてきている教えが、聖書的であるか驚くほどであった。 その内容の深さは、言葉でまた説明できないのがおもしろいところである。 「言挙げしない」日本人の心が、イエスの心であるということを再確認する二日間であった。 このことをインターネット上で、まもなくホームページを作成して全世界に発信する日もま近いと出席者の意見が一致した。写真は総会の模様
2007年05月10日
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夜の10時過ぎに虎ノ門JRのプラットホームにいた。 電車が入ってきたら満員でした。 かばんを持ってやっと乗って身動きできない。 夜10時は、家で家族一緒に寝る時刻ですよ。 都会だからある人々は夜中でも働かなければならないかもしれないが、ラッシュアワーではないはず。 夜に講演会があって帰宅する人もいるので 私もその中の一人だが、それでもおかしい状況だね。 講演会の内容は、彼の本のままであったが、生きた声は聞くに値した。 その内容は後日機会を見つけて書いてみたい。 次の日、14日。4時間に渡ってヘブル語から英語、英語を日本語、日本語から英語、またそれをヘブル語と 英語圏の人の英語でないので聞き取りにくく、 スムーズに分かってもらえず、通常の2倍も3倍も疲れた。 で日本人の考え方、ユダヤ人の考え方、思考姿勢のあまりにも違いすぎが、ものすごい類似点のように思える不思議な錯覚に襲われた。 東京でラビをしていたトケイヤー先生の先生であるアビハイル師は70数歳。同伴していたミカエル師は66歳で1940年生まれは私と同年。彼はまるで津川雅彦の生き写しだ。 彼にそう告げると翌日、私は日本の俳優ですと自己紹介した。鼻の形、輪郭、目も瓜二つ、真っ白のあごひげ、口ひげもそのまんま津川である。 大変親しくなったので諏訪湖で別れるのがつらくなった。 「君は日本の神社、神道をそこまで勉強し、旧約聖書を学び、 ユダヤ教から日本の類似点からイスラエルとの関連を証明しているにもかかわらずなぜクリスチャンなのだ。」 の質問を何度も浴びせてきた。 その理由を旧約聖書から、また救い主イエス自身を説明しても咬みかわず、わかってもらえず議論の末別れたので、なおつらかった。 諏訪の御頭祭ミシャクチ神の祭りは、彼等にとって神秘でしかなかったようだ。イサクを神に捧げるアブラハム神事が 2千数百年に亘っておこなわれている奉献祭の事実を彼らはどう捉えて帰国するのであろうか。 23日にTV東京で放映されるらしい。 みのもんたはどう言うか楽しみだ。 諏訪湖の彼らを追っかけてカメラは回りっぱなしであった。 でも3分しか映らないとか言っていた。 私が「やまと」とはヘブル語で何と言う意味ですか? と問うた時、 しばらくアビハイル師とミカエル師が考えて、 両者とも、相談しながら 「ヤ、マウトウ」ならNation of God(神の国)であると答えた時には、回りにいた数人の日本人は声を上げるより 息をのんだ。
2007年03月19日
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イスラエルから失われた10部族を探し帰還運動をしている代表者ラビ・アビハイル師と会う。 昨年3月、お家に伺い2時間ほどお話を聞いた。 そのとき来年、日本に行きますということであった。 つい先日東京に着かれて元気とのこと。明日から3日間ほどお話を聞き、また日本のイスラエル的事項を教え伝えるつもりでいるが、さて彼が日本をどのように思うのか実に興味深い会見になりそうだ。 ユダヤ人が思っている。 日本は自分たちのもっている多くのものが同じであるのは、不思議だと。 それを気づき始めて久しいが、 当の日本人自身はほとんどそのことを知らないのは、これまた不思議である。 昨年12月6日にみのもんたが「日本のミステリー」と題して放映した番組を見た方も多いと思う。 その中での全ては、表面だけのことであった。 その精神的なこと、もっと深いところを描くなら 驚天動地の騒ぎになると思われる。 ユダヤ人自身が驚くこともたくさん出てくるだろうから、 2作目に期待している。 昨日、スカイプで話し合ったが、大阪の男性が 血が騒いで、頭をガツンとやられた感じがしますと話していた。 このことを知るとなぜ一応に心が燃えるのか、日本人としてそんな気持ちを抱くのだから、理性では捕らえられないものが含まれているのかもしれない。 明日の夕刻の3時間の彼の講演や 彼との面会の模様、そして諏訪大社への訪問状況を来週このところで書いてみたい。 明日からそういうわけで留守します。
2007年03月12日
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