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たまごを漢字で書くと「卵」か「玉子」となります。一般的に生物学的には卵が使われ、食材としては玉子と記載されるという使い分けが行われていますが、食材であってもイクラは鮭の卵であり、同じくウズラも卵となっています。 生物学的な意味での卵は子孫を残す目的を持つ物で、孵化するという事ができるため、普段、身近に接している鶏の卵は食用を目的とした無精卵である事から玉子と書きますが、ちゃんと温めれば孵化する有精卵であっても料理に使う際は玉子と記載されてしまい、その境の曖昧さを感じてしまいます。 玉子の語源は「玉のような子」、もしくは「子供になる玉」にあるとされますが、玉子という言葉自体が登場するのは室町時代以降の事とされ、普通に玉子で通るようになるのは江戸時代に入ってからの事とされます。 それ以前の呼び名は殻を持つ事から「殻(かひ)の子」という事で「かひご」と呼ばれていて、当時は卵も「かひ」と読まれ、かひごには「卵子」の文字が当てられる事もありました。 「たまご」という呼び名が生まれた頃から卵と玉子の境は曖昧であり、そのまま明確な使い分けも決められないで今日に至っている事が判るのですが、少なくとも食材として調理される鶏のたまごが玉子、鶏以外の動物や鶏であっても食べない場合は卵という事だけは確実なように思えます。 最近、何かと話題になる事が増えてきている玉子かけご飯ですが、殻子かけご飯でなくて良かったと思いながら、TKGではなく玉子かけご飯と呼んでほしいと思ってしまいます。
2015年12月01日
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インドで始まり中国へと伝えられた仏教において、僧侶の日々の糧を得るために、大切な戒律であった生産行為と労働行為の禁止を破る代わりに生まれた生活の全てが修行であるとする「作務」という概念ですが、食料を得るために僧侶自らが作物を育て、日々の食料を確保するという事が修行の一環とされた事で、全面的に肯定されたかというとそうでもない事が、「必ず罪があるというとそうでもなく、全く罪がないかといわれるとやはりそうでもない。罪があるかないかは本人のあり方しだいだ」という唐の時代の高僧の言葉に伺う事ができます。 また、食事回数に関する戒律もインドにおいては、朝食と昼食だけの一日二回、午後は一切何も食べないというものが守られていましたが、中国では一日三回という風習が根付いていた事や、温暖なインドとは異なり、寒さが厳しい高山に建立された寺院において、日々厳しい作務を行う僧侶の体を維持するには二食ではエネルギーが不足する事から、一日三食を摂るようになっています。 食に関する部分から戒律が崩れてきた事もあり、食に関する新たな戒律が加えられ、菜食主義が採り入れられて酒や肉、魚、ネギなどの香りが強い野菜を食べないという精進料理の根幹の部分が成立しています。 中国において菜食主義の戒律が成立した背景には、古くから「医食同源」といった考え方が根付いており、食材の効用に関する高度な知識の蓄積があった事や、日常の食事も健康を保ち、命を養うものであるという思想がすでに存在していた事が考えられます。 その後、仏教は日本へ伝えられるのですが、日本では仏教伝来よりもはるか以前に肉や魚を食べる事を避けて心身を清らかにするという、「潔斎(けっさい)」という考え方が神道の影響で根付いており、精進料理は抵抗感なく浸透していきました。 675年には天武天皇の勅命によって僧侶の肉食が禁止され、食事内容が定められた事によって精進料理発展の土台が作られるのですが、当初の精進料理はまだ調理方法が発達しておらず、平安時代の中期に書かれた「枕草子」には、「そうじものいとあしき」と記載されていて、僧侶が食べていた「そうじもの(精進もの)」が「いとあしき(すごく不味い)」物であった事が判ります。 不味い物として後世に残されてしまった平安時代の精進料理ですが、形式や作法の原型が成立したのがこの頃で、急速に民衆の間に広まって寺院でさまざまな行事が行われるようになると、その際に出される正式な料理としての位置付けを得ていきます。 日本における精進料理が本格的に発達するのは鎌倉時代以降の事で、鎌倉時代に禅宗が盛んになってくるとそれまでの和食の薄味と比べ、厳しい作務に対応した精進料理はしっかりとした味付けがされており、武士や庶民の好みに合う物となっていました。味噌やすり鉢、根菜類の煮しめ、豆腐、高野豆腐、コンニャク、浜納豆、ヒジキといった和食の基本的なものは、精進料理からもたらされています。 日本の精進料理の発展に最も大きく貢献したのは曹洞宗の開祖である道元禅師で、仏教をより深く学ぶために宋へと渡った道元禅師は、現地で修行と食事の関わりの強さを目の当りにし、それまでの食に関する誤った認識を反省する事となります。 徳の高い老僧が食事係に当たる「典座和尚」に就いている事について、「食事の支度など若い僧にさせるべきで、高僧は座禅や仏法の議論に当たるべきでは」という道元禅師に、「日本の若い人よ、あなたは修行とは何であるかが、まるで解っていない」といわれ、日常の実践を修行として重視する禅の考えが充分に伝わっていなかった事を認識し、食材に対する敬意を持つ事や整理整頓を心掛けて道具を大切にする事、食べる人の立場に立って料理する事、作る事やもてなす事への喜びを忘れない事、とらわれや偏りを捨て、深く大きな心で作る事、手間と工夫を惜しまない事など、多くを学んだとされ、帰国後、食を重要視した事が精進料理発達の原動力となっています。 江戸時代に入ると明の衰亡に伴って中国の禅宗の一つであった黄檗宗が伝来し、「素菜」と呼ばれる中国式の精進料理がもたらされ、普茶料理として新たな精進料理の流れを形成します。 普茶料理は、それまでの精進料理が個別に一膳を供されていた事に対し、一つの卓を四人で囲み、大皿に盛られた料理を皆で食べるというそれまでにないスタイルが特徴となっています。 普茶料理は精進料理として以上に異国情緒を味わえる料理として広まり、黄檗宗の寺院だけでなく一般の料理屋でも食べられる物となり、特に長崎では卓袱料理と影響し合って独自の世界観を作り出し、それまでの和食では使われる事のなかったテーブルクロスやガラス製のワイングラス、水差しや洋食器などが用いられる華やかなものとなっています。 室町時代から江戸時代の前期にかけて普及した本膳料理に大きな影響を与えた永平寺式の精進料理と普茶料理、二つの大きな流れが今日の洗練された精進料理へと繋がっていく事となります。
2011年09月24日
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