M17星雲の光と影

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2006.08.06
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カテゴリ: その他
完璧な洗脳装置がもしもあるとしたら、それはどういう形をとるだろうか。

完璧さを実現するためには、あらゆる弱点を克服しなければならない。洗脳の弱点とは何か。それはやはり「強制」を伴うということだろう。洗脳者になんらかの「強制」を感じさせるとしたら、この装置は完全さからはほど遠い。だから、この弱点を克服するには、使用者の自発性の涵養、あるいは偽装を自然に行う必要がある。

その装置を強制することは避けたい。無償配布もできるなら避けたほうがいい。理想は装置の使用者に自主的に購入されること。それに尽きる。

完璧なる洗脳装置に欠かせない次の条件、それは「これは洗脳装置ではない」という思い込みだ。オウムの信者がつけていたウォークマンのような脳波コントロール装置のようなものでは話にならない。誰も洗脳装置などと思ってもいない装置。そういう形態をとることが望ましい。

朝、起きる。誰に命じられたわけでもないのに、ほとんど無意識状態でその装置のスイッチを入れる。そして、その装置の前に、一日最低でも3~4時間は縛りつけていたい。しかし、この条件はさまざまな娯楽があふれる今の社会ではクリアするのが絶望的に難しい条件だ。でも、この拘束時間は最低限必要だ。しかも、できるならば、当人がそれを束縛と感じない状態で実現できれば、それが理想である。

誰からも強制されず、自発的にその装置を購入する。地方から都会へ出てきた貧乏学生でも、まずこれだけはうちに備えなければという気持ちをもたせる。しかも、その装置の前に最低でも3~4時間は座らせる。いや、座らせる必要は必ずしもない。少なくとも、とりあえずその装置のスイッチだけは入れさせる。後は何をしていてもかまわない。BGMでその装置から出力される情報が室内にただよっていれば十分。それだけで基本的な機能は十分に果たされる。肝心なのは、スイッチの入出力にいっさい本人の自発的な意志が関与しないこと。それさえ実現すれば、最低限、洗脳装置としての機能が損なわれることはない。

もしもこの装置が機能しはじめたとしたら、次のようなことが起きることが予想される。

まずこの装置は各家庭のリビングに置かれることを想定している以上、コンパクトな形状をとらざるをえない。コンパクトな装置では、その音響環境は当然ながらかなりの機能的制約を受ける。重低音から高音までの音響を再現する装置を装着することは不可能になるだろう。おそらくは低音と高音をカットし、比較的音の通りやすい中音を主体にした起伏のないのっぺらぼうの音を発するしかない。もしも、その装置に洗脳された人間がこの社会にあふれ出したとしたら、彼ら、彼女らの発する声は、低音と高音をカットした中高音主体の平板な、しかし耳障りなけたたましいものとなるだろう。これがこの装置の浸透度を計るひとつの目安となる。

次にその装置が絶対に何者かの強制によるものではなく、あくまでも購入者の自発的な意志による選択であるということを担保するためには、ある付属品が必要になる。それは、使用者のどんな些細な意志も忠実に反映する意志選択装置を付属させることである。


もしもその装置が十分に機能しているとしたら、おそらく次のようなことが観察されるだろう。電車に座る。隣に見知らぬ人間が座る。その人間はものの一分もしないうちに落ち着かない素振りを見せる。そわそわと体を動かし始める。かばんのなかを開け、中味を引っかき回す。さまざまなものを引っ張り出しては、また元に戻す。その行動には一貫した意志が感じられない。洗脳者に特有の行動パターンだ。そのパターンはいつでも任意に自分の意志を反映させることができる小さな付属品を使うことで醸成されたものだ。小刻みに自分の意志を反映させることのできる小さな機械。しかし、それは小さな衝動を次々と起こさせることによって、自発的な意志を形成する時間と落ちつきを奪う機能を果たしているのである。もちろん洗脳者の大部分がそうであるように、彼ら、彼女らは、それが他者からの強制によるものであるということなど、想像することさえできない。彼ら、彼女らは、ただなんとなく落ち着かず、ただなんとなくごそごそとかばんの中を引っかき回しているだけだ。主体的にはそう感じられている。その洗脳装置はそれほど完璧に機能しているのである。


およそ20年ほども前になるだろうか。新入社員だった私は毎日、小論文のテストゼミの手伝いをすることが仕事だった。先生からもらった解答例の原稿を印刷所に発注し、プリントにして、当日、生徒に配布する。きわめて単純な仕事だ。

仕事柄、その解答例の文章を読むことになる。いや、その文章のひどいこと。60過ぎのくたびれたじじいがセーラー服を着て、妙な品(しな)を作って書いているような気色の悪い文章の氾濫である。「ったく」ーー私は深く絶望し、自分の仕事を呪った。

その私に新しいテストゼミの仕事が来た。「またか」ーーつくづくうんざりしていた。今日のテーマは?「オモテとウラ」、うわ、来た、またあれだ、「日本人特有の本音と建前」、凡庸で陳腐などこかで聞いたことのある一般論の受け売り。私は心底へきえきしながら、そのプリントの校正を始めた。

しかし、しばらく校正を続けるうち、「いや、まてよ、これはちがうぞ」と私は思い始めた。これはちがう。そこに書いてあったのは、腐った一般論とはおよそ違った内容だった。

「オモテとウラ。その二つを決定する絶対的な条件などない。一方をオモテと決めた瞬間に、自動的にウラが決まる。その逆もまたしかり。その決定は恣意的だ。しかし、その一方で人間は二面性を生きる存在だ。それは必然である。必然として二面性を生きながら、恣意的にどちらかをオモテに、どちらかをウラに選択するしかない。それが人間にとっての生であり、宿命である。」

自分の記憶力にはぜんぜん自信がない。しかし、おそらくそこにはそういう趣旨の文章が書かれていたように思う。私はその原稿を手渡した女子事務員に「これ、書いたの誰ですか」と聞いた。「あー、それ、ちょっと変わった人なんだけど、T先生よ。」その女性はけだるそうにそう答えた。

T。私はその名前を心の中に刻みこんだ。この固有名詞を忘れまい。そう思った。

しかし、小心な私がその先生と一対一で話ができるようになるまで、それから10年以上の月日が必要だった。先生はおどろくべき読書家だった。その当時、先生は予備校の売れっ子講師でもあった。どうしたら、そういう生活をしながら、これほど充実した読書生活が送れるのか。それが私の疑問だった。

幸い仕事の関係で先生と一対一で向きあう機会があった。

「先生、前から思ってたんですけど」

「先生、これだけ忙しい時間を過ごしながら、どうしてこんなに本が読めるんですか」
「ああ、そのことか。べつに何の不思議もないよ。授業の準備はちゃんとしてるし、映画も見る、ビデオも見る。音楽も聴く。子供とも遊ぶ。でも、ふつうの人がしてることをひとつだけしてない。ただそれだけ」
「なにをしてないんですか、先生」
「テレビ、見ない。まったく。それだけは守ってる。」
「……」

「……」

完璧な洗脳装置。その名前をTELEVISIONという。

最近、ようやくT先生の忠告を実行できるようになった。そして、すこしだけまともな文章が書けるようになった気がする。

私はT先生に洗脳されているのだろうか。それとも何者かの洗脳から解放されたのだろうか。

よくわからない。いや、ほんとうはよくわかっているんですけど。

スイッチ切ってみませんか。あなた。同志よ。










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Last updated  2006.08.07 07:45:16
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和久希世@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) >「彼はこう言いました。「それもそうだ…
kuro@ Re:「チャンドラーのある」人生(08/18) 新しいお話をお待ちしております。
あああ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 非常に面白かったです。 背筋がぞわぞわし…
クロキ@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光2(03/03) 良いお話しをありがとうございます。 泣き…
М17星雲の光と影@ Re[1]:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) まずしい感想をありがとうございました。 …
映画見直してみると@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 伊集院がトイレでは拳銃を腰にさして準備…
いい話ですね@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) 最近たまたま伊丹作品の「マルタイの女」…
山下陽光@ Re:大江健三郎v.s.伊集院光1(03/03) ブログを読んで、 ワクワクがたまらなくな…
ににに@ Re:非ジャーナリスト宣言 朝日新聞(02/01) 文句を言うだけの人っているもんですね ま…
tanabotaturisan@ Re:WILL YOU STILL LOVE ME TOMORROW(07/01) キャロルキングの訳詩ありがとうございま…

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