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死んだ人間は、熱を失い冷たくなります 子供は、温かいです。しかし、大人になるに つれて、手足が冷えてくる冷え性の方が、多くなります。 美深の畑は、耕作放棄地を開拓しながらの 畑作りです。 土の硬いところ、柔らかいところで野菜の 育ち方も違いが出てきます 柔らかいところには、虫やミミズが沢山います 生き物達が、行ったり来たり、排便したりする 活動の中で、土はほぐされ、温かくなります しかし、農薬や化学肥料など、自然界になかった ものが入ると、今まで通りに活動出来る生き物が、 減ってしまいます。 人間の体も同じように感じました。 生まれたまま、自然の状態に近い子どもの頃は 体も温かく、柔らかい。でも、少しづつ、自然界に 無いものを体に取り入れていくことで、体の中の 生き物が住処を失い、死んでいく 活動する生き物が減ると、循環しないので、死んだ 生き物が溜まっていく 死んだ命は冷え、固くなっていきます 味噌や納豆には、生き物が生きています 私達の貊塩も、加熱処理されていない 天日塩なので、生き物が生きています 固まっている自分の体をほぐし、生き物が また住めるような生きた命を取り戻していき たいと願う日々です 北海道での子供達との生活から学ばせて頂いた ことが、多かったです どうもありがとうございました 明子
2012.10.06
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体の疲れた部分や、痛いところがあったら手で摩ります摩って撫でていくうちに、その部分が温かくなって熱を持ちます 手は、最も色んなイノチに触れる部分だと思います 普段、動かないモノも、人間の手によって使われることで道具としてイノチに変化します 食べ物のイノチも、人間の手で、収穫し、運ばれ、調理されそして、口の中に運ばれます イノチとイノチをつなぐ場所が、手、なのでしょうか エゴマの葉を収穫していると、エゴマと握手しているような気持ちになりました よく見ると、人間の掌と葉っぱが似ている気がします 葉っぱが、太陽の光を吸収し、二酸化炭素を酸素に変化させる光合成のように、人間の手も何かを違う何かに変化させることが出来るのかもしれません 最近、自分の体を全身撫でてあげるようにしています 全身を手で触れることで、自分の痛い部分、弱っている部分 ツルツルして気持ちいい部分など、普段気づかない体の様子を 確認することができ、いかに、無理をさせているかを感じます 自分自身を撫でること忘れず続けていきたいです 明子
2012.10.04
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北海道でも、遂にお米作りが成功しました 道のない土地を、草刈して道を作り、 田んぼの中の木をユンボで引き上げ、開墾され た、手作り田んぼ。 四年目の実りです 中々水が抜けず、ぬかるむので機械では なく、手で稲刈りです 今、共に暮らしている、子供達と、農体験の ウーフの方との共同作業 実が詰まった稲、枯れてカラカラな稲 まだ青そうな稲・・・ 「これだけ収穫して一体どれだけのお米になるのか」 「実が入ってなさそうな稲を収穫して何になるんだろう・・・」 無駄なことをしているのではないか、と思う自分が 一瞬現れました。 でも、転ばぬように一歩づつ進み、刈り取っていく。 そして、それをそりで運ぶ人、わらで束ねていく人 こうして、皆と協力して作業することが何とも楽しく 感じました。 収穫した稲をトラックに積み、30分かけて美深まで 運び、はさがけします 今年の半分は病院生活だったという、隣に住む御爺様 に、はさがけの作り方を教えて頂きました もう一軒向こうに住む御爺様も、3日前に退院された ばかりなのに、応援に来て下さいました。 「中身なーんも入っとらんじゃないかあ」と 言いながらも、テキパキとはつらつと、作業を お手伝いして下さる御爺様 夕方に刈り取ってきた稲をはさがけしていると 誰も何も言ってないのに、家から出てきて、最後まで お手伝いしてくれた小学生の女の子 段々暗くなり、寒くなっても、共にはさがけしてく れたこと 稲刈りということを通して、たくさんの発見や喜びを 頂きました。 現実に目に見える形の収穫としては、少なく見えるかも しれません。 しかし、目に見えない心の収穫が出来ました 自然界は、必ず変化しながら何かに繋がっています 一粒の種が、何万倍にも増えたり、たくさん種を蒔いても 何にも実らなかったり、何にもしていなくても、昔に蒔かれた 種が実をつけたりと、農の世界は、不思議だらけです お天気も変化の連続です 晴れていたと思ったら雨になり、休もうかと思えば また晴れたりします こうしたい、 ああしたいとか こうせねば、ああせねばなど、自我が多いほど 農の世界は辛い世界に変わってしまいます 晴れても良し、降っても良し 出来ても良し、出来なくても良しと よしよしと、自分にも他にも頭を撫でてあげる ことが出来るようになる世界が、農なのかなと 感じました。 稲刈りに、御協力頂いた皆様どうもありがとうございました 次は、福井県の田んぼの稲刈りです 明子
2012.10.04
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立ったまま星を見るより 寝転がって見る方が気持ちいい 服を着て足だけ川に入るより 裸になって頭まで潜った方が気持ちいい 包丁で切り分けられたイノチより 刃を入れず丸ごと頂く方が、美味しく 感じます 部分でしか感じることが出来なかったことが北海道では、全体として感じることができた気がします 暑い夏の日の作業後に入る川は最高です 人と人も、握手するより抱き合った方が心が、より結ばれる 身体の隅々のイノチと共に、日々の感動を味わっていきたいです 明子
2012.09.28
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八月初旬に、福井県から美深に移り、子供達と共同生活させて頂いています。 限られた空間の中で、大人と子供、男と女が共に暮らす日々の中には、それぞれ色んなドラマが刻まれています 子供から学ぶことは多いです。13歳のユウくんは、トイレはもちろん、閉じたドアを開けるとき、ちゃんとノックをします 私には、無かった習慣でしたので、ノックする彼の礼儀に、感動しました。 見えない世界に入るときの慎重さのようなものを感じました。 多くの命がお互いに心地よく暮らすためには、自分勝手な行動は、調和を乱すきっかけになります 見えない世界の相手に対して、ノックをして確認するそれは、家の中以外にもありました。 農作業で、土を掘るとき トントントン土の中の命がびっくりしないように 身体の中に、食べ物を入れる時 トントントン身体の整理は出来てますか?今、入れてもいいですか トントントン 見えない世界にお邪魔するときには一呼吸置く謙虚さの大切さを気付かせて頂きました 明子
2012.08.19
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昨日、子供3人大人3人で田植えをした。ここは、山の中に何十年もそのままにされていた場所を昨年、切り開いたばかりの田んぼ。周りは木々に囲まれ、耳を澄ますと小鳥、カッコウ、キツツキの声そして時折通り過ぎる風の音、横を流れる小川のせせらぎ、そしてカエルの大合唱。「このおたまじゃくし、大きい!」大量の小さいブヨも出迎える。「めっちゃさされたぁ、かゆい!」ここは田んぼの学校。「さあ、この跡がついたところに丁寧に根付いてくれるように植えるんだよ。」なんて彼らに教えたものの、彼らの列は見事に曲がっていたし、わやくちゃだった。この田んぼは平らではない。長く、休んでいたことで、元から平らではなかったし、トラクターで一度起こしてもらった近所のおじちゃんには、「もうこの田んぼには入りたくないなあ、抜けでれんくなりそうだった」と言われたほどの難ある田んぼ。代掻きは手でやったものの、起こしきれてない部分や深い部分やらあって、かなりの凸凹、深かったり、浅かったり。子ども達の植えた後を見てみると、恐ろしく曲がってはいるが、どうやら植えにくい個所を避けて、植えやすい個所に植えていたようだ。まっすぐにこだわっていても、それは所詮こちらの都合だったりのかもしれないことに気付く。稲にとって育ちやすい環境を考えることが不足していたようだ。子ども達はそれが自然とできていたんだなあ。ここは田んぼという学校の教室だ。この田んぼにも表情があるようだ。今日はひどくご機嫌のようだ。こんなに気持ちよく、ここにいられる、すなわち田んぼとの距離感の近さがそれを物語っている。子ども達を歓迎してくれているようだ。自然体に近づく為には田んぼは格好の教室なのだろう。
2012.06.19
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いただきぜんという生き方に出会って3年がたつ すべてのものにいのちが宿り、いのちはいのちを助けあう 今日の晩ご飯にいただいたかぼちゃは、私の一部となり私とともに動き、感じる 私と思っていたものは、じつは私が食を通じて頂いたいのちの思いかも・・・ じゃあホントの私はどこにいるの??? 本当の私に会いたい会いたい、とひたすら願う日々 本当の私と出会えるのなら、他のものは何もいらない 捨て続けてきた 物も、お金も、友達も、冷たいと思われるかもしれないが、家族すらいらない なぁんにもいらない、ただ本当の自分に出会い、生まれてきた意味を知れたら・・・ すっからかんに捨てた私に、今不思議なことが起こる どんどんどんどん、七福神が宝を担いで行進してくるように いろんな恵みがやってくる 素敵なもの、必要なお金、心の友、私と共に歩む家族 天は私に語りかける ”どんな小さな願いもすべてかなえるよ” そんな生き方したい方、どうぞ北海道にいらしてください はるやまあきこ
2011.12.14
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北海道は命が豊富に息づく場所です 今年はいつにまして、ねずみがたくさんでました 私たちの作ったお芋もずいぶん食べられてしまいました 我が家にも11月これでもか、というほどねずみがでました 排水管をかじられたり、ガスホースをかじられたり、そして彼らが出没したところは 例外なくうんちだらけにされました 何のサインか…と考えました きっと彼らも食べ物がないのだろう、とおうちの周りにお米をまきました そして毎日おにぎりをおそなえしました そうしたら、ねずみさんは静かになりました でもなぜかちょっと置いておいたかぼちゃの煮つけがなくなっていたり、 食べ物が不思議になくなることがありました もしかしてねずみさんかな、とその日からお家の中におにぎりを置くようにしました その日から毎日、おにぎりをいただきにくるねずみたち、 でも決してでたところをウンチだらけにすることはなく、また 手当たり次第に食べ物を食い荒らすようなことはありません 日本の昔話にそんなのあったっけ、とおもいだしますが 本当のことだったのね、とおもいます はるやまあきこ
2011.12.04
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美深にて。マイナス20度の朝。キンキンに澄んだ晴天に誘われなんの準備も無く歩き始めた雪道。長靴も履かずに歩いている事に気が付いた時はもう良い気分。畑に向かう森への道は除雪され雪が積っていなかったのでそのまま歩き続けた。そうして。除雪されていない『ぶどうの丘』への登り道。人の立ち入らないその道に、先客が道を付けてくれていた。鹿?私のために^^?蹄の跡のある幅30センチくらいの雪をかき分け進んだ道が、私にもちょうど良い。『濡れてはいけない。』という思い込みを捨て、心のままに跡を追ってみた。マイナス20度の世界では、靴もジーンズも雪が付いても凍るので、濡れるという感じではなく大丈夫だった。よろめきながらも順調に歩け、このままぶどうの丘へ行けるものだと思ったが、相手は野生動物でありそんなはずはなく、、、その道はひょいとカーブし、『ついてきて』っと道を逸れ森への谷を降りて行く。。。『農哲の畑が一望出来るぶどうの丘に行き、美しい美深の冬をカメラに収める。』そんな思いがあった私。ちょっと鹿さんに逆らい、ひざ上20センチの雪をかき分け自力で登ってみた。しかし、これが結構大変で・・・ほんの1m進むだけで全力疾走しているように疲れてしまった。鹿の足跡がどんなに有難いものだったのか知り、見えない導きを感じた。『行ってみましょう。』谷に向かう先人の声がし、その姿を感じた。感じたけど・・・谷を降りるのは怖いし、当ても無いし意味が分からない。ということで、導きに逆らって帰ることにした^^◎後ろ髪を引かれながらも、これが今の未熟な私なんだと言い聞かせながら坂を下っていたら、、、腰に巻いていたストールが無くなっている事に気が付いた。振り返っても、その紺のストールは全く見えない。消えた・・・?仕方なくまた登り登り、なんでそんなに気が付かなかったか不思議なくらい引き返し、、、ストールが埋まるように落ちていたのは、鹿が道を逸れ谷を降り始めたその場所だった。・・・。これはもう遭難することになっても、熊に襲われることになっても、、今の私に必要な事なんだと受け入れ、鹿に従って谷を降りてみた。怖さはもう微塵もなく、先人の見えない姿に着いて道を進んだ。::::::::::真っ青な空ときらきら輝く白銀の世界。ただただ心地良い。どんなに魅かれていても考えると出来ないことが、一歩踏み出すだけで素晴らしい世界が現れる。『ぶどうの丘に辿りつく!』というドラマティックな展開を思い、、ずんずん進む。登ったり、下ったり。二匹いるのか遊ばれているのか、時々道が分かれ、私に選択を迫る。木々の多い森に入ったり、銀世界が開けたり。軽快に進みながらも時々不安になり、これで良いの?と思う度に・・・鹿のフンが落ちていた。大丈夫◎森の命に、音に、色に、対話しているようだった。だいぶ歩き、数時間経っているかのような感覚。こんなに面白い展開なのに、なんでぶどうの丘に着かないのか不思議に思った。思ったら気が付いた。ぶどうの丘に辿り着くというドラマティックな展開は、ちっぽけな私の計らいに過ぎず、そんな現象はどうでもいいことで、もっともっとたくさんの恵みを受け取っていた。気が付いたら満たされてしまった。気が付いたら、一度も見ていないけど持っていたはずの携帯電話が無いことに気が付いた。有難い。完全な安心感から、生死に直結する雪山への畏怖が薄まっていた時。戻る時を、帰り方を教えてもらったようだった。ふわふわの真っ白い雪の中に埋まっているだろう、真っ白い携帯電話。なんの不安も無くちゃんと返してもらえると信じ、来た道を戻った。そして、探すことも無く、信じた通りの方法で目の前に現れた。有難う。長い長い旅をしたようだったけど、家を出てから2時間も経っていなかった。自分と周りの命の堺が無くなり、すべてと繋がるその世界は、命が生まれ生かされている導きに身を任せたら、本当の自分になれると知ったあの時の私の原点の世界。農哲学院で学ぶ今、堺が無い世界が当たり前なことで、感じるかどうかは自分次第であることだと知っている。こんなシンプルな世界だから分かりやすい事が、日常の現実の中でも起きている。遭難するのも良いし携帯電話を無くすのも良い。計らいも怖れも無く、目に見える現象を受け入れたら、本当の自分になるために今一番必要なことが与えられる。お任せして『誠実』に生きていたら、見守る命が助けてくれる。境の無いつながった世界は、信じるものを物質化する。何が起きても大丈夫な世界。どんなことも有難い世界。体知するたびに、自分が、現実が、どんどんシンプルになっていく。美しくクリアな美深の旅。ありがとうございます。ゆう
2011.12.02
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私の中にたくさんのいのちがいて、さまざまに感じているようです食事を通していただいたいのちが私の一部になるのを日々感じますですから沢山いただきすぎると、何だか自分でなくなるような、中心がぶれるような、感じがしますそして今一番大切なことをキャッチする力が鈍ります丁寧に少しずつ、有難くいただいたいのちは私に惜しみない協力をしてくれるようです不思議にいつもすべてギリギリのタイミングで間に合い、必要なものは目の前に集まり、みえないたくさんの応援団がいるようですいのちの応援団と共にいる私はかぎりなく幸せで、満ちあふれてます植物を育てるのが苦手だったのですが、最近彼らと近しくなりました植えるニンニクが、いずれ自分の一部になる子たちと感じた時、取り忘れて傷ついたジャガイモが自分の中の傷ついた感情と無縁ではないと感じる時わたしはけっしてひとりではないと確信したのですいつも私達のまわりに満ちている温かい恵みに気がつく一番の近道は、食事の取り方を、内容を変えることそれしかないなぁっておもいますはるやまあきこ
2011.10.11
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ついに旅立った。いつもながらの不思議な感覚。長らく更新していなかったが、こういう風にこれからは更新の機会に恵まれるかも。5月21日。千歳空港より羽田へ。そして5月22日成田よりモスクワ経由でロンドンへ。21日、東京に立ち寄った。内地は震災後、どんなものかと思ったが、驚くほど以前と変わらない。いつもながらの「日常性」に支配されていた。「自分」はいったい何者なのだろうか。そんなことを考える余地もないほどになんだか表向きの平和(?)みたいなものに覆い尽くされていたように感じる。彼らとの距離感をものすごいほど感じる。まるで違う生物であるかのような感覚。ただ、共通することはおなじ言語をしゃべっているということか。それがなければ、なんだか接点を見出すことが難しくなってしまっているようだ。誰がどうもてもこの放射能のことはただ事ではないはずなのに、それを認めたくない、そして今ある「日常」を崩したくない、だからそこにとどまり、何も変わらない「日常」の生活を送ろうと努力する。しかし、それでこの日本はよいのだろうか。日本人として与えられている責務は、今後、落ちていく日本を手遅れになる前にどう救い出すか。後の世代のために。日本の将来に目をつぶったまま、ただただ今の「日常」にすがるだけの生活はある意味での現実逃避のように映った。22日。ついにロンドンに到着。今回のイギリス行きは意義深いものになりそうだ。 Yasu
2011.05.23
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掃除機の音が苦手です。 絨毯の上を掃除するときには 便利ですが、やはり、ほうきと ちりとり、水ぶきのスタイルが 落ち着きを感じます。 水ぶきは、面倒で疲れますが やり終えた後の爽快感が、大きく 変わります。 いつの間にか小さな埃が積もります。 今年の冬から、身体の水ぶきを始めました まず、天日塩をひとつまみぬるま湯に溶かし シルクか柔らかい布を使い全身を拭きます。 次に、炭で浄化した真水で3回、全身を 拭きます。 使う水はおけ4はい 毎日、顔を洗い流すより、シャンプーを使って シャワーで洗い流すより不思議と爽快感があります 頭のかゆみも減りました。 塩の力は偉大です しんなりした野菜を塩水につけておくと しゃっきり復活します 天然キノコを収穫した時、塩水につけ 殺菌します また、塩の足りない漬け物は腐ります 中から外から天日塩を使って、 自分を塩漬けして殺菌力、保存力、 再生力、つけていきたいです 無量井 明子
2011.04.22
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イノチは変化の連続といいます 一滴の水が、10ヶ月の間に徐々に変化 しながら人間という形になって生まれます 人間は。他の場所で育ったイノチを食べ物として 頂き。食べ物は、身体の中で変化をします 血液、骨、脂肪・・・人間の中で変化出来なかった イノチは、便となって排出され、また自然の中で 循環されるために変化が始まります イノチ=変化 土は、たくさんのイノチのおうちのようです。 微生物、昆虫、、野菜、木の葉・・・・ いろんなイノチ達が、お互い譲ったり譲られたり しながら、形を変え生きています 海もまたたくさんのイノチのおうち。 海は塩にもなり、人間の源でもあります たくさんのイノチがいるということは たくさんの変化がおこなわれている。 たくさんのイノチが集まり、変化して いるお陰で、大きな変化を作るきっかけ にもなる。 土と、海はたくさんのイノチが共存できる 貴重な場所。 しかし、それにも関わらず、私達人間は 生活用水、工業用水を流し多大な汚染を 続けています 自然界になかったものだとしても なんとかまた、自然界に適応出来るように 他のイノチ達がドンドン変化させてくれています 放射能の冷却処置法に泥を使うことは、農の世界 にいる方なら誰もが納得出来ることだと思います 人間の力ではどうしようもないと思われることも 自然界のイノチたちが集合することで、いかようにも 変化は始まります。 今後、たくさんのイノチ達の力が必要とされます 私達の何万倍?も先輩な多くのイノチ達の智慧を 伺いながら、この時を越えていきたいです 無量井 明子
2011.04.20
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尿、便、涙、汗・・・人間から排出されるものが様々あります。身体の不純物は、汗として多く排出されるといいます。適度の運動が大切といわれるのは身体を温めて、汗を出し、身体の不純物を出すため 寒いと、動きが鈍り、気力も失せます熱があることで、細胞が循環し、命の変化が始まります 冷えた状態のままでは、蓄積されるばかりで、固まってしまいます。私達の身体の中で起きていることと外で起きていることと照らし合わせることが出来ます。 冷えた土の状態を温めることで、土の中の細胞(微生物)が、動きだし循環し変化が始まります 土の中に硫黄を混ぜ込むことで、土が熱を持ち、汗をかく つまり、余計な物を排出する力が生まれる。硫黄化合物を豊富に含む食品には、玉葱、にんにく、にら、大根などがあり、どれも血行を促進し、身体を温めてくれます。私達も、土も、温めることで、中の見えない命達が動き出し命のリレーが始まる 「土に硫黄を混ぜ込む」 命の動きが活発になり始める春 先人達の智慧を心強く感じます。 土も心も身体も、日々も抱きしめ 温めていきたいです 無量井 明子
2011.04.01
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昨年の夏は、北海道もとても蒸し暑い日が 多かったです。 自家用に、ジップロックにお米や豆を保存して いました。 ふと、気がつくと袋の中で虫が飛んでいました・・・ 何故、口を閉めてある袋の中に虫が発生したのか 不思議でした。 しかしよく考えてみました 豆の中に、虫の成分が含まれていて、温かい袋の中で 豆が変化して虫になった。 虫はいつか、死に土となります 土は、いろんな微生物の死骸、糞、木の葉 そこから、植物が育ちます。 虫が、土となり、土が野菜となり、野菜は人間にも なります。 穀物から虫が発生しても、特に臭いはしません しかし、水分のある野菜が腐ると、悪臭になります かぼちゃ、白菜、玉葱・・・野菜をずっと放置して いると、まるで氷が溶けるように、野菜も形を崩し 溶けていきます。 野菜は水だったのか!と、思いました。 水分が多いと、腐敗します。 容器が濡れていると、中の物が腐りやすい 漬け物も、水分が多いと腐りやすい つまり、密封された状態、水分の多い状態を 避けると、長持ちするのだとすれば 私達の日々も、しっかり呼吸で体内に風を送り 水分も調整することで腐敗せず、静かに枯れていく ことが出来るのかもしれないと、思いました。 いろんな命の変化を知ることで、自分にも照らし合わせ ることが出来る。 水、木、火、土、氷・・・・どの漢字もちょっとくっつい たり、離れたり、曲がったりしているだけで、どれも基本は 似ているようです みんな違って見えるようなことも、実はみんな同じなのかも しれません。 無量井 明子
2011.03.29
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札幌市内で私達の紹介している天日塩、貊塩を 取り扱って頂いている自然食品店があります。 40年前に札幌で初めて自然食品店を開いた87才の 社長さん。 毎年、400本の大根の漬け物を作っていらっしゃった そうですが、今年、初めて失敗してしまったそうです 漬かりきらず、カビがはえてしまったそうです せっかく作ったものを捨てるに捨てれず困っているとの お話 以前、たくわんを干したら、イカの珍味のような おもしろい味になり、長時間の運転の時など、ガム の代わりに重宝しました その経験を活かし、今回の震災のこともあり 少しでも保存食を蓄えていけたらと思い、企画しました 「保存食を作って、野菜銀行に貯金を」 突然の、企画にも関わらず、3名の女性が野菜貯金に 参加してくださいました かびた部分を水で洗いながし、乾きやすい大きさに切ります 店の三階の空きスペースをお借りして、乾し場にします 廃材で干し棚を作って頂き、すだれに並べていきます 古い建物で隙間風があり、干し場には最高な条件です 女4人でひたすら、大根を並べます ふと、沈黙になります 初めて、顔を合わした人と、黙々と保存食を作る いつ、どこでどなたが口にするかわかりません この一切れの大根が、持つ可能性 見た目には、一口サイズの干し大根 しかし、そこには、87才の社長の命、干し場の 掃除を手伝ってくれた方の命、加工してくれた方の 命・・・数え切れない命が集合して一切れの大根と して形を表しています 私達人間も、一人の中に数え切れない命が詰め込まれて います。食として、頂いた命、体内で活動してくれてる細胞 内臓の命、食べた命の中にも、その命を支える命がある 命だらけです 決して一人ではない、気がします 一は、一ではない。 廃棄野菜をどんどん干し野菜に加工し、各町に野菜銀行が 出来たらと願います 今日の女4人で干した沈黙の時間 とても心に残るひとときでした。 御協力頂いた皆様、どうも有り難うございました 無量井 明子
2011.03.27
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加工作業をしています。 一本ずつ新聞にくるんでおいた大根 めくると、ふやけてグチュグチュに なっていました。 一般的にそんな状態のものを見たら 「 腐ってしまった、気持ち悪い、捨てよう。」 と感じると思います。 今までの私だったら、駄目だ土にかえそうと 廃棄していました。 しかし、今回の震災を受けて今までのように 簡単に判断して捨ててはいけない気がしました 見てすぐに、気持ち悪い、と目を反らさずに 相手の状態をよく見て、向き合ってみました。 グチュグチュしたかびの部分をそっと、包丁で 取り除き、中の使えそうな部分を分けてミキサーに かけ、大根おろしのような状態にしました。 よく熟した大根は、甘くておいしかったです おろし大根は、麺類とあえたり、おからと米粉と 合わせて大根もちにしたり、用途は様々です また、すの入ってしまった水分の抜けたような 大根。これも、どうしようもないと思っていました。 しかし、ビート飴のように大根飴にすればよいと 先人の知恵を頂き、作ってみました。 2センチくらいづつ輪切りにした大根一本を中鍋に入れます 鍋一杯に水を入れ20分くらい煮出します。 ほんのり甘みが水に移ったら、大鍋に大根シロップ液を あけます。 中火から弱火で煮詰めていきます。そして、また新しく水を 中鍋に入れ、また20分くらい煮出します。それを5から6回 程度繰り返し、シロップ液を煮詰めていきます。 昔は、樹液、ビートのシロップを薪ストーブの上でグツグツ 煮詰めていたそうです。 約一日煮詰めて、一本の大きな大根から採れたシロップは 大さじ3杯程度の僅かな量。 しかし、大根からもシロップがとれるということに 感動しました。 自分の勝手な判断で行動せず、出会った 命とじっくり、よーく向き合うことで 新たな発見と喜びがありました。 面倒臭がらず、一つ一つのいのち達と 向き合えるようになりたいです。 人間の役割は偉大です 芽を出し実を結び、種を残したとしても その植物の生きる範囲は限られています。 植物は人間に食べられ、一緒になることで 一気に無限の可能性を得ます。 海外、宇宙にも行くことが出来ます。 そしてまた、人間も先方の命を頂くことに よって先方の力を頂くことが出来る気がします 厳しい条件の中で育ったものからは、厳しい 条件の中で生き抜く力を、氷河期、熱帯期、あら ゆる時代を越して生きてきたものからは、あらゆる 時代に適応する力を。 米、雑穀、豆、海草・・・古くから伝わる食べ物 達の中にいろんなヒントが詰まっている気がします 無量井 明子
2011.03.22
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今年の美深町は、積雪が少なく例年の半分の量と いわれています。 雪が少ない分、温度が低い日が多いようです -15度、25度・・・そんな中でも存在できている ことが不思議に感じます。 寒い日には、窓ガラスに結晶がつきます。 様々な水の結晶達、まさに芸術です。 寒くて水が変化して凍ったから目にすることが できた結晶。普段は見えないし、わかりません。 数十センチ積もった雪の上を歩く。 いつも見てる景色より、少し高い目線で周りを見れる ことが嬉しく感じます。 水が凍っていてくれるから、宙を歩いているような気分 になれます。 流れたり、固まったり、宙に浮いたり、いろんな姿に水は 変化します。 寒いと、自分の吐く息が白く見えます。言葉を話しても 白い息が出ます。 水が蒸発して集まると、白い雲となって目に見える 存在となる。 気体の白い雲が集まると、液体となって雨が降る。 自分が発する息、言葉、それは普段目には見えません。 しかし、空に雲が浮かぶように、自分の息、言葉も集まると 雲となり、雨となり降り注ぐとしたら、愚痴や嘆きの雲を 他の誰かの上に流すより、嬉しい楽しい、ありがとうな雲を 作って流していきたいと思いました。 ここ美深で寒さを経験させてもらうことで、今まで見えなかった こと、気づかなかったっことと出会えている気がします。 今、見えているもの、見えていないもの 水の変化の世界と照らし合わすことで、実は みんな一つの存在で、ただ寒いか暑いかの違いで見えたり見えなかったりする。 それだけのこと。 だから、日常の見えること、見えないことに それほどこだわらなくても大丈夫なのかもしれ ません。 なぜなら、変化の過程に過ぎないということですから。 これからも、変化する日々を観察していきたいです 無量井 明子
2011.03.11
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唐突ですが、イタリアでの体験を踏まえた報告会をささやかながら開催することになりました。せっかくの自分のこの体験を少しでも知ってもらいたいという思いとせっかくの素敵な空間を少しでも有効活用したいという思いが重なってこの度、開催することになりました。 イタリア報告会~イタリアから日本の農の現状と未来を考える~プレゼンター: 山田 靖也 (美深町・農哲学院)「イタリアで米作り」という、この貴重な経験を通して、得たこと・感じたこと、そして何より驚きと感動を日本の農業の将来像と照らしあわせて報告させていただければと思います。 日時 :7月31日(土) 17:00~ 場所 :名寄市日進駅前 まごころカフェ(日進カフェ) (ORTOさん隣) 連絡先:01654ー2ー7800当日は、いただき膳の料理もごくごく一部ですが用意させていただく予定です。よろしくお願いいたします。by Yasu
2010.07.28
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日本に帰国してはや2週間がすぎた。もう、イタリアにいた事が思い出になりつつある今日この頃。帰ってきたときに、気づいたことが一つ。それは、このあたりの「緑」の濃さ。イタリアにはない、まして他の日本の地域にもないのかもしれない。この緑の濃さがこの辺りの地域がいかに生命力あふれる自然に囲まれているかがわかる。彼らは「おかえり!」と歓迎してくれただろうか。「ただいま」と呟いてはみたが。やっぱり、どこにいっても住む場所があるというのはうれしい。すぐにまた北海道のペースへと戻ることができた。次の日には挨拶回り、そして草刈りなんかもした。帰ってみると、やっぱり北海道は怒濤の展開。気がつくとカフェがオープンしていた。北海道メンバーの多くの時間がこのカフェへとさかれるのは至極当然のことなのかもしれない。すごく貴重な場所。僕たちの料理を提供できる場が期間限定とはいえできたのは大きい。まだまだ、そんな段階ではないのかもしれないがこの巡ってきたチャンスを逃すわけにはいかない。流れが変わってきた。空気が変わってきた。それは、この「自分自身」が生み出すもの。そう、すべては、自分次第なのだ。今までは、何かに集中するのは良いのだがそれに集中しすぎて応用が利かないというか他を退けようとする力が大きかった。例えば、「農作業で忙しいのに、なんでそこに行かなければならないんだ!?」みたいなことが、言葉にでたし、態度にも出ていただろう。今ももちろんそれがなくなったとはいえない。でも、少し冷静になって「それはそれで、なにか意味のあること。」と思えるようになってきた。その人の誠心をなんとか受け入れたい。そんなことを少しはその瞬間に思えるようになってきた。ここ、北海道に戻ってきてみてやはり煩雑な作業も多いのだが、それはそれで意味のあることだと思えるし、また楽しくもある。とにかく、自分がからっぽになればなんでも楽しいと思えてくる。その「自分」になれることがなによりも大切。ほんと、周りを見渡せば可能性にあふれていることに気づく。やっぱり、いいですね、ここは。今までつもりつもっていた2ヶ月分のブランクをこれからの濃すぎる毎日で埋めていくとしますか。by Yasu
2010.07.22
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ここに、移り住んで、3年目。 音楽が大好きで、毎日必ず、何か好きな ものを聞いていました。 しかし、こちらにきて、一枚のアルバムを 全部聞く、ということが出来なくなりました。 聞いても一曲で、十分という感じになりました。 音楽がないと生きていけない、というくらい 音楽が好きな自分なので、CDを聞かなくなった 自分に驚いています。 静かな美深で、聞こえる音。 川の流れ、何種類もの鳥の声、雨の音、風の音・・・ 音の無い暮らしだからこそ、気づける音。 水一適が響く世界があります。 星空も、電気の灯りがないからこそ、その多さに 驚きます。 情報、物、音、食べ物・・・、あまりにも全てがあふれて 無の世界に、触れにくくなっています。 減らそうとしても、どんどんあふれてきます。 片づけが追いつきません。 ほこりのように、次から次へと、溜まっていきます。 掃除した瞬間から、また汚れていきます。 24時間掃除しても、片付けきれない、身の回りと身体の中。 相当強く、意思を持っていないと、すぐにあふれる世界に 溺れてしまいます。 無いからこそ、響く世界。 お腹が、ぺこぺこになってから食べると その、食べたもののおいしさや、力が身に しみます。 心も身体も無に近づいたとき、どんなものが 自分の中で、光り、響きだすのか・・・。 整理整頓は、難しいですが、そんな響きを 感じられる自分を楽しみにしています。 明子
2010.06.04
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事情により、4月末から名寄市郊外に住んでいます。数日前からこのあたりでも田植えが始まりました。周りは田んぼと牧草地。風向きによって、牛のにおいが漂ってきます。夕方になると始まるカエルの合唱。そして、日の入り前後、空が虹色に彩られ、西の空に宵の明星が輝く。金星。サナートクマラ。思わず両手を挙げて万歳!晴れた日には、こんな景色を毎日のように堪能できる。有り難さがこみあげてくる。生きていて良かったと思える瞬間。ひそかに「プレシャス・タイム」と呼んで、愉しんでいます。ほんとうは日の出を見たいけれど、それは4時前。ちょっときつい。昨晩は、窓の下で、キツネらしき鳴き声が。自然な環境に近いところで暮らしていることを実感します。いくつかの畝に、それぞれ真ん中に大豆、小豆、白花豆などの種、カボチャの種、そして、それぞれの両端にエゴマ、紅花、大根葉の種のミックスを蒔きました。作業していると、あちらこちらから、ぴーちく、ぱーちく。また人間が土に何かを埋めているぞ。あそこにぱらぱら蒔いている種はおいしそうだなあ。芽が出たら、食べちゃおうね!どうやらウワサの的になっている様子。スズメ、カラス、トンビ、など、鳥たちがかわるがわる作業を見物にやって来ます。稲藁を敷いていると、待ってましたとばかり、近くの畝に降りてきて、藁に僅かに残っていた稲穂をついばみ始めました。このあたりは密度的に人間よりも鳥の方が多いのでしょう。人間を恐れていないというか、のんびりしているというかさて、畝間にはじいておいた石ころを拾っていると、なにやらフニャリと柔らかいものが…ヒナの屍骸でした。どうしてこんなところに?すぐそばに樹木はないから、巣から落ちたとは考えられず…畑の隅っこに埋めました。合掌。-|-昼休みにボーっと外を眺めていたら、トンビとカラスが飛んでいました。トンビを執拗に追い回し、攻撃しているように見えるカラス。トンビは、カラスのヒナを狙っていたのでしょうか?とすると、ヒナの屍骸はトンビの落とし物だったのかもしれません。(てる)
2010.05.29
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美深センターの周りの土地は石ころだらけです。 大人の頭より大きな石が、うじゃうじゃと埋まっています。 建物を造るときに、そこに埋まっていた石ころを捨てたのも原因ですが、もともと石の多い土地柄のようです。 住所の“辺渓(ペンケ)”は、アイヌの言葉で川上という意味だそうです。近くには、川下を指す“班渓(パンケ)”があります。 山間である仁宇布(ニウプ・ニップ/森林)から流れるペンケニウプ川が、悠久の時の間に蛇行を繰り返し、ときには氾濫して、大量の石を運んできた…。 トラクターで起こした大地のあちらこちらから、ひょこひょこと頭を出している大小の石ころたち。 ひとつひとつ拾っては放って、集め、積み上げていく。 こういう単純作業をして、無心になっているときが最高に愉しい。 この石がたどってきた軌跡を想像する。 大きな岩が水の流れによって削られて、ごろりごろりと動いていく。 仲間たちと激しくぶつかり合い、格闘し、擦れ合い、葛藤し…。 そんなことを繰り返し、繰り返しするうちに、次第に角がとれて丸くなっていく。 そう、人間もまた然り。 北海道に来なければ出会うこともなかった石ころたち。 トラクターの刃が何本も折れてしまうほど硬いけれど、丸みを帯びた形にはひとつとして同じものはない。 邪魔もの扱いしているけれど、次第に愛おしくもなってくるから不思議です。 そしてもちろん、農哲学院は集めた石を無駄にはしません。 いつの日か、彼らは石釜の一部となってくれることでしょう。 掘り起こされた大地から石を拾いながら、これからここを使わせていただきます、種を蒔きます、宜しくお願いします、と知らず知らずのうちに大地に挨拶しているのかもしれない。 倭人とは一体全体どの人たちを指している言葉なのか分かりませんが、「倭」という文字は、農耕を女性に“委ねる人”を意味していると聞いたことがあります。 万世一系の民族がこの列島を支配する以前の、母系制の時代に生きていた人たちのことなのかもしれません。 「母系制の時代、女性たちが畑にいた理由は、そこで育つ植物たちに歌をうたって聞かせる必要があったからだと聞いたことがある。植物たちは話しかけられ歌を聞かされることで育ち方が全然違う」(北山耕平さんのTwilogより) のんびりとマイペースで作業しつつ、無意識に植物や道具たちに心の中で語りかけているような氣がします。 広大な大地で誰にはばかることなく大声で唄える環境ですので、そのうち歌のほうも試してみようと思います。^^ (てる)
2010.05.22
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ある日、近所の方から立派な切り株を 頂きました。 「農哲学院の看板にどうだ?」と。 頂いてから約一年、なかなか字を彫ってくださる 方と、出会えず、ずっと保留となっていました。 が、春山パパさんが彫ってくださることに! みるみる内に、出来上がっていく農哲学院の看板。 この切り株がどこから来て、どなたが切って運んで くれたのかわかりません。 でも、知らない、見えないたくさんの命の働きの おかげで、今、ここでまた新しい”いのち”と なろうとしています。 食べ物にしろ、着ている洋服、住んでいる家、自分の身体 身体を支えているたくさんの細胞・・・ 存在する全ては、一つではなく、数々の”いのち”が連なって 繋がったり、離れたりして変化しながら存在しているようです。 この看板を設置すろことで、また新たな”いのちのつながり”が 始まりそうな予感です。 この場を借りて、素敵な切り株をどうもありがとうございました! 明子
2010.05.12
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美深に異動して1ヶ月が経ちました。到着してから今日まで、実にたくさんの人たちと出会いました。樹液サミットのお手伝いをしたり、地元の名士の方々にご挨拶に伺ったり、日帰りで夕張へ、当別へ、札幌へと出かけたり、麹づくりから始めて3日間かけて味噌づくりをしたり、9日間レストランのお手伝いをしたり…。文字通り、アッという間に時が過ぎていきました。しかも、ものすごく濃厚な時間です。^^ AkkoちゃんとYasuくんが、こつこつと紡ぎ、しっかりと結んだ、ご縁の賜物です。感謝です。-|- 今朝、名寄ピヤシリスキー場の近くにある田んぼに案内していただきました。このところずっと屋内で作業していたので、久しぶりに解放感を味わい、氣がつくと、ワー!とか、ヤー!とか、歓喜の声をあげていました。^^ 田んぼに通じる道は熊笹に覆われ、知らない人は通り過ぎてしまうでしょう。 そんな道を分け入って進んで行くと、川のせせらぎが聞こえてきます。 時折、うぐいすも鳴いています。 数分後、目の前がパッとひらけて、田んぼが3反ありました。 こんなところに田んぼがあるなんて! 開拓した人々の熱意を感じました。 ところどころ雪が残る畦道には、至るところ何かの芽(苦笑)が出ていて、踏まないようにして歩くのにひと苦労。 まさに、自然の中に入らせていただく、という氣持ちです。踏んでしまった芽たちには申し訳なさでいっぱいになりました。 道を隠していた熊笹も、雪の重みで折れ曲がっているものもありましたが、雪が解けたら起き上がるのでしょうね。 踏んでしまった芽のいくつかも、何事もなかったかのように伸びていってくれることを願いつつ…。 熊笹に足をとられたり、新芽ニョキニョキの道をおっかなびっくり歩いたりしているとき、こんな状態が「とおりゃんせ」の歌詞の意味なのではないかと思いました。 “ご用の無い者、通しゃせぬ” 神聖な新芽を踏んではいけないから。 神社の禁足地も、おそらくはそんなことが由来だろうし…。 天神様は、菅原道真とかじゃなくて、大いなる自然を指しているのではないかと…。 “行きはよいよい、帰りはこわい” おかげさまで、無事にもどることができました。^^¥(てる)
2010.05.11
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クアラルンプール。トランスファーでの飛行機の待ち時間。なぜだかここにもスタバがある。昨日入った東京のスタバとほとんど何一つ変わらない気がする。もっとも日本語はもちろん通じないが。東京。昨日久々に一泊する。時がとまったよう。ほとんど何一つ変わらない気がした。この都市は行き着くところまで行き着いた感がある。一つところで過ごしているともちろん見えてくるものも多いが何やらそこに安住してしまうものがある。今回、美深を離れてみるということがどんなにか天の恵みであることか。機内食。決まった時間に配給される。ほとんど身動きできない状態で昼食・おやつ・ドリンクと結構な頻度で定期的に配給される。そこに感謝は生まれるのか。どうやら、美深ではこの上ない幸せな日々を過ごしていたようだ。しかし、その幸せがゆえになにか不満を探してしまっていたのかもしれない。だから、こうして離れてみることが時には必要なのかもしれない。違った環境だからこそ気づけること。たった、まだ一日だが、たくさん、たくさんあった。これからどんな発見があるのだろうか。「言葉が通じない幸せ」みたいなものがあるのかもしれないし、「孤独であることの幸せ」なんていうのもあるのかもしれない。なにより、「田んぼに素足で入ることの幸せ」というのを期待してしまうがどうなりますやら。まだまだ、旅の途中。明日にはついに初ヨーロッパだ。Yasu
2010.05.05
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先日初めて、牛の出産に立ち合わせて頂きました。走り回っていた子供たちも、命の生まれる瞬間にはちゃんと静かに集中します。 まず、子牛の足が出て、次は、顔が出てきました。足に鎖をつけて引っ張りだします。赤ちゃんといえども、大きくて驚きました。 意外に静かに、あっけなく出てきたように感じましたが、子牛が出てきた瞬間は、脳裏に焼きついています。32年生きた私が、これだけ焼きついているから、4歳から、10歳の子供たちにとっては、より衝撃的に心に刻みこまれたのではないかと思います。 ブログで紹介しようと、出産の場面を写真に収めましたが、全部ぶれていました。 実際、写真を撮るかどうか迷いました。厳かな瞬間に、カメラを向けるとその、大切な瞬間が失われてしまう気がします。プロのカメラマンは、瞬間に全神経を注いでいるから作品が写し出される。 心から、残したい、写したいと思わずに撮ると、ぶれてしまう。デジカメで、取り直しが出来ると思うと、集中する必要も減ってしまいますが、人生の瞬間は今、あるのみ。 大切な瞬間に、ぶれぬよう集中力を磨きたいです。 生まれた子牛にサクラと名前をつけて、春山家の子供たちが毎日、子牛のお世話をさせて頂くことになりました。 北海道に越して一ヶ月の春山家。私も、改めて、こちらの暮らしを満喫させていただいています。動物のいのち、野菜のいのち、自然にあふれる北海道は命のつながりを学ぶ最高の場所だとつくづく感じました。 明子
2010.05.04
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ついに日本を発つときがきた。イタリア出発まであと3日。今年の美深農苑の雪解けは遅く、やっと地面が見え始めたところ。そして、昨年相当こぼれたであろう大根葉の種のごく一部が発芽し始めたところ。ようやく春を迎えた。なんとか、ハルさんやAKKOに引き継ぎをすませる。美深での開墾・種まき・山菜採りなんかは今年は少しお預け。変わりに、恋いこがれていた米作りをしにイタリアに行く。イタリアで米、というはまた驚くべき話だが実はイタリアのピエモンテ州は米どころなのだ。決まったのはつい3週間ほど前であったし、まさか自分がいくことになるとはと思ったが、納得するような流れ。少し、ここを離れるべきなのではとは心のどこかで思っていた。-常に多種多様な学び場を経験する-イタリア語もままならない日本人がイタリアの片田舎の、まったく日本人のいないところに、これまた突然に日本式の米作りをしにいく-考えただけでわくわくする。どうなるかはまったく想像つかないが、元気に走り回れそうなことだけは確か。だって、それは心の底から望むことであるような気がするから。一応、2ヶ月ほどで帰ってくる予定。向こうでの悪戦苦闘の様子はイタリアブログで更新できればと思います。それでは、行ってきます。Arrivederci!Yasu
2010.05.02
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2年前に建てたビニールハウスの骨組み春から人手も増え、ビニールも頂いたので張ることにしました。 雪があることで、上に登りやすいので周りをユンボで掘り下げ、フックを見つけます。 4月に引っ越してきた春山家の長女のつーちゃん上に登るのが得意!と、 スルスルと上がって、大人一同感動。身軽で自由な子供、いつの間にか、重く不自由になっている自分に気づきます・・・。 福井の農苑から移ったテルさん。昨年は、靖也君と二人の時間が多かったためみんなの存在がとてもありがたく感じます。 くいにひもを縛り、向こう側に投げ、フックに引っ掛けていきます。 一投げで向こう側まで届かないので、中継役のツーちゃんの存在が光ります。 皆と協力して何かをつくる、というのは本当に楽しい時間でした。 出来る、ということは嬉しいし、自信となります。 最初の年は、エンジンかけるのに30分費やしていた草刈機、ブルルンとスムーズにかけれるようになりました。チェンソーで木を切ったり、ロープで荷物を縛ったり、今まで出来なかったことが、出来ていく。 頭ではなく身体を使って身につけることがとても気持ちよく感じます。 全身をつかって、つくる、出来る、喜びをパソコンやテレビなどで、指先しか使ってないような子供たちと、分かち合いたいです。 みんなの力でやっと完成したビニールハウス。でしたが、強風で一晩にして崩壊してしまいました。家、木、野菜・・・人間、何かをつくるのには時間がかかります。 しかし、壊したり、殺すのは一瞬。自然の力は偉大です。 壊れたことで、また、誰かと協力してつくる機会を得たのだと、思いコツコツ生きていきたいです。 明子
2010.04.29
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近所に何でも芽を出させて、部屋を彩らせているおばあちゃんがいらっしゃいます。みかんの種、柿の種、人参のへた、パイナップル…。 私も影響を受け、いろいろ実験しています。 中でも、驚いたのは、キャベツの芯です。 思いもよらぬところから芽が出てきました。 水だけでもこんなに伸びました。土に植えたら、花が咲きました。 土から離れ、ナイロン袋に入れられ、蛍光灯の灯りの下で何日も置かれて…。 しかし、それでも野菜はまだ生きています。 ものすごい生命力だと思います。 土から離れても、これほど生命力が残っているのだから、多少料理して人間の中に入ったとしても、野菜の生命力というのは残っているのかもしれない…と思うと、すごく愛しく、ありがたくなります。 30歳で畑作業を始めて、いかに私たちは多くの恵みの中で生かされているのかを知りました。 太陽の光、風、雨、土、虫…今まで気にしていなかった身近な自然の存在が、どれほど貴重で有難いことかを感じます。人間がどれだけ、ゴミを投げたり、傷つけたりしても、けなげに芽を出し、育ち命を与えてくれる野菜の存在は偉大です。 生かされていることを感じられる、農の暮らしが出来る今を大切に生きていたいです。 明子
2010.04.25
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桃栗3年、柿8年。種を蒔いて、二十日で食べられるもの、半年かかるもの、二年目に食べられるもの、様々です。 今年もいよいよ樹液の季節がやってきました。白樺が、成長するために大地から吸い上げる養分を少し分けていただきます。 とろーりと、ほんのり甘いお水のような樹液。本来、木が育つための大切な栄養分。それを、人間が木に穴をあけてよこどるのだから、本当に贅沢で恐れ多いことです。20年、40年という長い歳月が一杯の樹液を頂くことで、自分の身体に刻みこまれる。 自分も一気に白樺の木の高さまで伸びることが出来そうな氣持ちになります。限られた短い期間に生を燃やす北海道の植物たち。冬が長い分、待ちわびていたかのように、一気にあふれる生命力。 山菜採り、土作り種まき…雪解けと同時に私たちも一気に動きだします。 しかし、今日の天気は吹雪。春が待ちどおしい今日このごろです。 明子
2010.04.14
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昨日は年度最後の日。天候も雪→みぞれ→雨、ということで中の集会室を大掃除することにした。いつ、誰がきても受け入れられるようにとは常日頃思っているのだが中々思い切った模様替えや大掃除はできずにいた。昨日は、そんな絶好のチャンスがやってきたようだ。窓側に簾を設置したり、寝床を新たに作ったり、そして使うもの使わないものの整理。今日から4月。そして、農哲学院の新たな年度が始まる。今年度は農哲学院に人がたくさん訪れるだろう。2日には福井より、メンバーのてるさんが加わり、3日にはいよいよ春山ファミリーが加わる。そして、樹液祭り近辺には札幌からのお客様、ついに始まったウーファーの受け入れ、などなど。昨年とはおよそ違った雰囲気。ひと冬越したのが大きい。北海道の冬を過ごすことでいろんな可能性が見えてきた。いろんな縁が広がった。この気候はほんとうにありがたい。なにはともあれ、今年度もよろしくお願いいたします。by Yasu
2010.04.01
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あの人に会いたい あの場所に行きたい いろんな願望が今までたくさんありました 月に二回は通っている札幌 行くごとに御縁が広がり深まっています。 未熟な自分たちにも関わらず、温かく快くもてなしてくださる方も増えて、本当に嬉しく思います。 自分の歩むべき路と出会え、それを実践させてもらえてる今をとても幸運に思います 出会った方それぞれが多様な人生物語を持っていて、何かとぶつかり、悩み、乗り越えていらっしゃることを知りました そして、だからこそ魅力があふれてるのだと どこに行っても行かなくても、身近な命との関係が深まれば、そこには世界遺産ともなるような美しさ、 雄大さがあったりします 実は全てが世界遺産で、重要文化財で、誰もが人間国宝。 日々の中で発見や喜び、安らぎと出会えたら 変化の連続に気づけたら 毎日が、世界旅行、宇宙飛行している気分になってきます。 広げるだけでなく 深める面白さのようなものを感じました。 明子
2010.03.28
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本当に本当に、傲慢な自分に気づく。不思議なことに会う前はその人に対して勝手な想像が膨らんでくる。レッテルを貼ってしまうというか、「この人はこうだから」というようなある種の壁。まるで悪魔のようなささやき。「あいつのことを悪く思いなさい。」別に悪く思ったところで、何にも得することはない。それは百も承知だが、人の欠点みたいなところを見つけて自分と比較して自分に安堵する心を得ようとしてるのだろう。しかし、会って話をした瞬間にそういった「偏見」みたいなものはなくなってしまう。そして、同時に、その人の誠心に触れることで今までの自分が恥ずかしくなってしまう。毎回毎回こういうことの繰り返し。何かに不安で、誰かを落として自分を高めようとすることで安心しようとする。よほど自分をしっかりと保たないと彼らに飲み込まれてしまう。今回の札幌出張。2泊3日とはいえ、今回は今まで一番「時が飛んだ」出張だった。一瞬のようにも感じたし一ヶ月のようにも感じた。センターに帰ってみて、入り口に30センチほどの新雪が積もっていたこともそれに拍車をかけたのかも。「一体、何日間留守にしていたんだ??」年度末、ということもあってか、昨年札幌に出張をはじめてからの縁のあった方と総まとめのようにお会いすることができた。「人と接する」ということが、どれほど貴重で反面、どれほど怖いことか。会う人会う人が温かい心を持って接してくれたし、なんだか自分が恥ずかしくなった。そして、なんと自分たちは恵まれているのだろうと改めて実感する。真剣に今を生きれば生きるほど時の感覚はなくなるのだろうし例の悪魔のささやきも減ってくるのだろう。雪の季節があることで農とは違うまた別の実践をさせていただいている。今日も外は吹雪。美深の春の訪れは、もう少しお預けだ。by Yasu
2010.03.28
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キャベツを掘った。といってもうちのではないが。雪の中に野菜を埋めておくと本当に甘くなる。人間も雪の中で暮らせば甘くなるのかもしれない。ここはとある農家の方のキャベツ畑の中。冬はこうして雪の中に野菜を埋めておいて保存しておくのが常套手段なのだがさすがにこの時期になると地温が上がり雪解けもはじまり、キャベツも腐れはじめてくる。雪中保存の限界の時期。それは、春の訪れでもある。7~8割は腐れていて出荷できないというがその腐れている部分を除けば問題ない。生で食べたが、その甘いこと甘いこと!まるでアイスクリームみたいだ。何も問題ないものが、ただただ見た目とか傷がついている、とかちょっと腐れている、なんかで投げられてしまう・・・。やはり加工の必要性を感じる。そうすればこの投げられてしまうキャベツも有効に活用できるし、そして逆にたくさんの量を生産しなくとも必要量を確保することができる。一体、野菜そのものと加工したのではどれくらい価値の差がでるのだろうか。キャベツの場合ではないがハクサイの場合で、ごく単純計算をしてみた。ハクサイキムチにして売った場合とハクサイそのものを売った場合とでは実に約75倍もの差があった。(50万の売り上げを出すのにどれくらいのハクサイが必要かで計算。)もっとも、単純にハクサイだけの計算であるしキムチに必要な他の材料は含めていないが。数にすると5000個対67個。5000個のハクサイを作るのにはそれなりの面積が必要だが、67個のハクサイを作るのには0.1反(30坪)くらいあれば十分だろう。ひょっとしたら、農薬・肥料・手間・油代なんかを合わせると加工にかかる費用とおんなじくらいになるのかもしれない。「農家には加工をしている暇なんかない。」という人もいるが結局、野菜自体の引き取られる単価が低すぎるからどんどんどんどん大規模化していくうちに時間に追われて気がつけば深夜までライトをつけて仕事をする・・・なんてこともザラ。大規模な面積を作って、夏場に20時間労働で超過酷な労働に追われるより、面積を減らして、その分、加工や営業にまわすほうが結果的に長続きするし、今の農家にとっては自然のような気がする。そして、なにより大切なことを見失いがちになってしまう。それは、食べ物を作るという尊い行為が単なる「仕事」になってしまい、野菜をひとつのイノチとしてみてあげられなくなってしまうこと。それは野菜に対して失礼ではないのだろうか。せっかくこの世に生を受け大きく育った彼らを機械的に処理することがどれだけの悲劇を生むことか。今日お会いした方がこんなことをおっしゃった。「自給率40%というけれど、日本人全員が一日3回食べているのを1回にすれば100%超えるんじゃないの・・・」そりゃそうだ。自給率を上げるためにさらなる生産力UPや大規模化を目指そうとする風潮もあるがそれよりもこの方のおっしゃった方向性にみんなを導いていくことの方がどうやら自然のような気がする。つまり、5000個のハクサイを深夜までライトを照らしながら「仕事」をするよりも67個のハクサイを毎日でも観察してハクサイ一人一人の個性を見てあげる方が心がワクワクするし、体にあっているし、元気が出るような気がする。もっとも、5000個のハクサイでもそれができるのなら理想といえば理想なのだが。何はどうであれ、農業が「仕事」になってしまうことが一番恐ろしい。いや、たとえ「仕事」であったとしてもいい。彼らのイノチさえ感じられていれば。by Yasu
2010.03.21
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4月の美深農苑の主なスケジュールです。・4月上旬 木の剪定 私たちの畑は木々に囲まれています。 耕作放棄されてすでに数十年、自然に生えてきた木々達。 彼らの存在は私たちの畑に欠かせない存在です。 どう畑と調和させるか・・・春先の澄んだ青空にピッタリの作業です。・4月初旬~中旬 白樺の樹液取り 農苑内の白樺から樹液を少しだけいただきます。 白樺樹液はほんとうに甘く、この樹液で炊いたご飯はまた格別。 ・4月16日(金)~18日(日) 第四回国際樹液サミット(16、17日) および白樺樹液祭り(18日) 私たちも事務方としてお手伝いします。 そして18日(日)の白樺樹液祭りでは出店を出す予定です。 美深の春の訪れを感じることのできるイベントです。 くわしくは→第四回国際樹液サミットチラシ・4月19日(月)~21日(水) 味噌作り 今年も美深町内、農業振興センターを借りての味噌作り。 貊のお米・貊塩・無農薬国産大豆を使用。 お手伝いいただいた方にはもれなくその味噌をプレゼント。 (といっても来年になってしまいますが・・・) 昨年のみそ作りの様子。・4月下旬~ 山菜取り いよいよ美深でも山菜のシーズンが始まります。 最初はふきのとう、ヤチブキ、徐々にアイヌネギなどが出始めます。 もちろん今年も山菜博士のMさんにご登場してもらいます。 昨年の山菜取りの様子。4月上旬に私たちの新メンバーである春山さん一家が美深町に越してきます。4月からまた新たなる展開が始まります。イノチのつながりを実感するための場所-農哲学院。随時、農哲学院体験を募集しております。01656-2-4555bifuka@agro-philosophy.com
2010.03.20
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3月16日~18日。今回はついに札幌よりも南下して洞爺湖方面へ出張した。「たつかーむ」という福祉ファームの方と前回の札幌出張で縁ができ、雪解け前のこの時期ならば、まだ行けそうだということで農哲学院のお話会とたつかーむの見学をさせていただくことになったのだ。思えば来た当初は何にも縁がなかった北海道であるが今ではこうしてはるか400キロ先の方々とめぐり合え、お話をさせていただくことになるとはなんともありがたいことであるし「縁」の吸引力の強さを改めて感じる。17日の夜。農哲学院のお話会。前回までは「農哲学院」の説明を前面に押し出していた。しかし今回はまず自分が何者で、どこから来たか、なぜ今農哲学院に在籍をしているのかを話すことからはじめようと思った。それが「生きた言葉」になると思ったから。集まった方々は約15名。イス・ソファーを囲んでの説明。しかし、何かが違ったみたいだ。途中、頭が真っ白になる・・・。すかさず、AKKOがフォローをしてくれるがやはり彼女もなんだかまとまりがなくなってきた・・・後半、いつものように農哲学院の画像を見てもらうことに。その時何かが変わった。大根の花の画像。彼らを見た瞬間何かが変わった。力が沸いてきた。そこからの説明は無我夢中ではあったが「爽快」の一言。大根の花が力を与えてくれた。たとえ、画像であっても彼らは相当な力を持っているようだ。僕の姿を見るに見かねて「しょうがない、手を貸してやるか。」なのかもしれない。そして、大画面で見たせいなのかもしれない。でも、言葉ではない、そして物質的ななにかでもない力の存在は感じたのは確か。7月のある時期、自由気ままに畑一面咲き乱れた大根の花。うれしいことに色んな存在が手助けをしてくれる。by Yasu
2010.03.19
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何故「農哲学院」という名前か。それは昔の大多数の人、いわゆる百姓に敬意を表してのこと。彼らが持っていたモノ・智慧・技術・思考・生き方・・・それは「農哲学」と言って良いほどに昇華されたもの。それを学ぶ場所なのだ。というより、今現在の人達はそれをわざわざ「学ぶ」という形式をとらない限り会得することが難しくなってきた。一昔前までならば、誰もが大地から・周りの人達・環境からわざわざ教えられるでもなく、自然と身についていたものなのに。「生き方」を学ぶということ自体、よく考えれば不思議なこと。それくらい、この世の中の価値観というものが急変化したことの現れ。人がこの地球に誕生して以来、脈々と受け継がれてきたものが、ここたった何十年かで失われつつあるのだ。「今を生きる」それは僕たちが実践しようとしてること。4、50年前の百姓がもし今現在の地に降り立って、現代人に接したら、びっくり仰天するだろう。「これが同じ人間か?」「彼らは何かに取り付かれているのでは?」それが、今全く逆転してしまっているのだからなんとも滑稽だ。僕は残念ながら、それほど昔の時代には生きていない。だから、あくまでこれは想像の域をでない、けれどもこの冬、何人もの7、80代のおじいちゃん、おばあちゃんに会ってお話を伺うたびに、そう感じるのだ。彼らの話で共通することは「まったく世の中が変わってしまった」ということ。もちろん、これはいろんな意味を含んでのことだが。「今」と比較すると、昔は手作業が多くて、朝から晩まで働いて・・・さぞかし大変だったろうとほとんど誰もが思っているかもしれない。でも、その当時に生きた人にしたら、それが当たり前であって大変とか大変でないなんて感じていなかったと思う。あくまでも「比較」することによって、「今に比べたら昔は大変だ」と思うようになったのだ。ただただ、今を懸命に生きていただけ。それには、つらいつらくない、大変だ大変でない、ではなかったと思うのだ。それよりも「生きる」ということに必死で、そうでなければ生きていくことができなかった。それだけだと思う。「趣味は?」と聞かれて困ることがある。今を懸命に生きていれば「趣味」なんていうものは存在するはずもないし、しいていえば、「すること成すことすべてが趣味です」と答えざるを得ないような気がする。「趣味」をまた別に求めなければならないほど現在の人達は「仕事」が「仕事」になってしまったのかもしれない。そもそも、今でいう「仕事」なんていうことが存在すること自体ある種滑稽のように思える。脈々と人間が受け継いできた、ちょっと前までの大多数の人達がごく普通に持っていたモノ。それを実践を通して感じ取って、身につけていくんだなと明確に思うようになった。大地から遠ざかってしまった僕たちにとって農をベースとした生き方がやっぱり一番の近道というか、肌に合っている気がする。要はシンプルに、今を感謝の心で生きるということに尽きるのだろうけれど。どれだけ、土に触れられる生活が尊いことか。雪解け前のなんともいえないこのウズウズした気持ち。北海道でこそ感じられたこの気持ち。もうすぐ待ちに待った農三昧の生活が今年もやってくる。考えるだけでワクワクする。by Yasu
2010.03.15
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衣食住。その中で一番目に位置する「衣」。そういえば「衣」を大切にする心が少し足りなかったのかもしれない。今日はとある人に会ってそのことを気づかせてもらった。生まれたての赤ん坊にまず最初にすること、それは産着を着せること。人間、裸のままでは生きていけない。常に身にまとっている「衣」。無頓着になりがちだった常日頃の衣装。しかし彼らだって生きているのだ。おばあちゃんからもらった衣装。一日着たらしわくちゃになった。しかし、大事に掛けておいてしばらくたったらシャンとしていた。そう、服だって生きているのだ。「衣」が使い捨てになって久しくなった昨今。彼女のつぎはぎだらけの前掛け。手に取った瞬間、温かさを感じた。昔の人はハレの日とケの日で明確に衣装をわけていた。もちろん、今だってそうだけれど、どちらかというと世間体を気にしてのことが先行してると思う。しかし、一昔前は、何かそうしなければいけない理由が他にあったような気がする。「衣」にも魂が宿っていて人間がその場その場にあった力を発揮するのにその「衣」の力を借りていたのかもしれない。今、十分着る服はあるし、これ以上買ったりすることもなくある程度は直してもらったりして長く着続けいたりもする。でも、24時間僕の体に触れているんだという認識に欠けていた。そう、誰よりも何よりも一番長い間共にするモノだったんだ!なんだか、こうなると穴のあいた靴下では表を歩けなくなりました(笑)by Yasu
2010.03.13
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1月、2月に歩く雪道。まだ、誰も通ってない新しいミチ ズボ、ズボと足が雪に埋もれるので小股で、一歩一歩踏みしめないと転びます。 行ったり、来たり何度か歩く内に段々と、踏み固められ歩きやすくなってきます。 収奪型農業から生命畏敬型農業を目指す私たち。まさに、ゆきみち。 何度、踏み固めたとしてもまた、雪が積もれば、その道もまた消えてしまいます。 今年、初めて越した美深の冬。降ろしても降ろしても積もる、屋根雪。 除雪して、出発しようとした瞬間に通る除雪車。除雪車がよけた雪が、入り口に溜まるので、また除雪しなければならなかったり・・・ すべてを白く包みこんでくれる美しさしんしんと積み上げてく静かな力 改めて、人の小ささを感じた気がします。 3月の雪はまた違います。固くなってるので、あまりごぼりません。 だから、どこでも歩いて行けます。普段、上れないところ、笹だらけで歩けないところ自由です。 雪が降って、通れなくなる不自由さ。 雪があるからこそ、通ることができる自由さ何事も、悪いことだけがあるわけではない。それと同じくらい、良い面もある。 また、その反対もあるかもしれません。何かと、一方的な感情、考えになりがちですが「一つのもの」ということはないのかもしれません。私一人の人間も、60兆の細胞の命の集合体こうでなければ!と、ひとつにまとめようとすると何か、偏って息苦しくなったりします。 自分の想いも、くるくる巡って目が回りそうになるけど、それも自然なことなのかもしれない、と思うと何か楽になれます。 ユキミチの散歩は今が一番おすすめです。美深に暮らせて幸運だなと、思う今日この頃です。 明子
2010.03.09
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3月に入り、雪が少しずつ解け始めてきた。春の訪れに先立ち、ネコヤナギの花も咲いてきた。今はようやく木の剪定作業に取り掛かり始めている。北海道の冬、特にここ美深町では雪のため4月中旬くらいまで田畑での農作業はできない。とはいうものの、その他の事での外作業はいくらでもある。今年の最初の外作業は農苑内の木の剪定。本来ならば一番寒の時期、1月末~2月中旬あたりに行うのがベストではあるが、先月は札幌出張やらなにやらで気がつけば終わっていた。中作業・加工作業なんかをしているととかく食べ過ぎたりしてしまう最近。そんな体を引き締めるべく、そして今年もお世話になる畑に挨拶すべく、時間が空くたびに木の剪定に出かける。雪がまだ1メートルくらいは積もっていてさらにカタ雪のおかげで歩いてもごぼらない。普段では高くて届かない枝にも手が届く。枝を剪定するには最高の時期なのかもしれない。どの枝を残し、どの枝を切り落とすか。それ如何で、見た目から木の生命力まで変わってしまう。真剣勝負だ。ものはいわないが彼らはほんとうにやさしい。ただ、じっと剪定されるにまかせている。木の剪定後はなんともすがすがしい気分になる。雪・青空・木。周りにある色がシンプルだからなんだかこっちもシンプルになっていくようだ。by Yasu
2010.03.04
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昨年から始めている、農哲学院といただき繕のお話会 何だかんだで10回以上は、話す機会を頂いてきました。 毎回、終わるたびに参加者の方から頂く質問。 「なぜ、農哲学院と出会ったのか?」 「どこからきたの?」・・・・。 だいたい同じことをよく聞かれます。 一年経ってやっと気づかせてもらいました。 今までいかに一方的な話し方をしてたかということ。 私たちは、農哲学院のことでいっぱいです。 今までの経験話、これからの農哲学院、農哲学院と しての農の営み方・・・。 いかに、短時間の中で農哲学院を紹介できるかと 毎回、靖也君と思案しながら、少しでもわかりやすくと 写真や資料を徐々に増やしていました。 しかし、参加者の方にとっては、まず、目の前にいる 私たちが、謎です。 どこからきたのか、なぜきたのか・・・・ 疑問だらけだと思います。そこへ、どんどん農哲学院の ことを話しても、川の向こう側に一生懸命石を投げている ようなもので、届かずに川に落ちてしまったものが、ほとん どだったかもしれません。 見事に逆でした。 まず、自己紹介、どこからきて、何しにきたのか、経緯を 伝えて初めて、相手の方とこちらに橋が架かるのかもしれません。 同じ目線に、近づくからこそ、今、私が見ている農哲学院の世界 を感じてもらえるのだと思います。 写真や資料を見せる時間がなくなったとしても、 自分自身に興味を持って頂ければ、次に繋ぐことができます。 今までは、橋もない川を泳いで来てくださいと、いってたような もので、大変不親切なことを続けていました。 この場を借りて、お詫び申し上げます。 どんなに光輝く宝石も、汚れた手で持つと、光もくすんできます。 自分自身を磨くことで、宝石は何倍にも光るのかも、と思うと、 自分がここにいる責任の大きさにも気づきます。 自分自身は自分で見にくいです。 だからこそ、他の命が代わりになって気づかせてくれます。 もっともっと、まわりを観察する力が必要だ、とまた同じ 壁にあたりました。 また、チャンスを頂きました 3月25日木曜日 午後2時から(ワンオーダー制) 札幌市中央区北1条西18丁目1-52 cafe ICHIDA カフェ市田さん 011-614-3487 また御縁が広がり、新しいお店と出会いお話会をさせて頂くことに なりました。 今回の反省を生かし、より相手の立場を尊重できるように、気を 付けていきたいです。 明子
2010.03.01
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日曜のこと。ドーナツをいただいた。それも結構な量。たしかにおいしい。しかし、恐ろしいことに食べだしたら止まらない・・・体はもうストップをかけているのに止められないのだ。体と心が分離した感じ。そして、お昼。とある方のお誘いで久々の外食。やってきた。連鎖がはじまった。その脂っこさに驚きながらもおいしく野菜のドリアをいただいた。そしてその方から「私食べないから食べて」といただいた肉。これがとどめだった。夜。体全身が痒くなる。痒くて痒くてたまらない。しばらくの間、かきまくった。食べ物が食べ物を呼ぶ。それも似たような種類のものが。こうなることはなんとなくはわかっていた。なら断ればよかったのではと人は言うかもしれないが先方の好意を断ることはできない。だから、後悔は全くしていないし楽しいひと時を過ごすこともできた。そして、幸運なことにこうして体が反応してくれて体に不必要なものを強制的に出そうとしてくれたのだ。身をもって体験する。しばらくはこの痒さとともに過ごすことになるのだろうが反応してくれた体に感謝。by Yasu
2010.02.23
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神奈川県から4泊滞在していかれたH一家。雪が大好きという、小学5年生のツーちゃんと2年生のヒ~ちゃん。 こちらでスキーをするのを楽しみにしていた子供たち。しかし、車の都合で当初の予定がずれてスキーは翌日に。 スキーを楽しみにしてたツーちゃんはガッカリ。代わりに図書館に行きたいと言い張るツーちゃん。しかし、この日は車がなく、バスも一日4本程度・・・「歩いていく」というツーちゃん。「歩いたらどれだけかかるかわからないよ、遠いから行くまでに凍ってしまうかもよ」とわたしの、忠告も力なく、断固として意思を曲げないツーちゃん。こちらにきて3日目、だんだん退屈になってきたのか子供たちのやり場のない気持ちが部屋を包む。 なんとか、空気を変えたく「よし、じゃあヒッチハイクで図書館までいってみよう!」と、私なりの精一杯の知恵。ホワイトボードに”図書館”...しかし、いまいち反応が鈍い子供たち。そして、いざ外に出ても、通る車は・・・ない。「じゃあ、みんなでかまくら作ろう!」ノリノリなのは妹のヒ~ちゃんだけ。お姉ちゃんのツーちゃんは、部屋で読書することに。 積もった雪山に穴を掘ってヒ~ちゃんとかまくらを作る。しかし、雪が固くてなかなかうまく掘れません。 結局力尽きて、部屋に戻ることに・・・。いかに、他の命と共に気持ちよく過ごすか・・・ どうしたらいいのかぁと部屋で悶々してたら、「ああっスゴーイ!」と声と共に外に飛び出した子供たち。 雪かきします、といってずっと戻らなかったお父さん。気が付くと、一人でせっせとかまくらを作ってました。かまくらというか、イーグルといってエスキモーの人たちが氷を切って積み上げてくというやり方。 聞くと子供の頃から作りたかったけど住んでた所の雪が、足りなくて出来なかったとのこと。半分出来上がったイーグルに子供たちもおおはしゃぎみんなテキパキ動いてお父さんを手伝います。あまりに嬉しくて、楽しくて、お隣のおじいちゃんにも見にきてもらって撮影大会。夢が出来ました。「次は、もっと大きなものを作って、中でご飯たべよう! 」「次は、もっとたくさん作って、イーグル祭りしよう!」「お店で売れ残ったお花、野菜を凍らせて、いろんな氷の窓、タイル・・・」考えるだけでワクワク、みんな、にっこにこ。 自然が生み出す、喜び、創造性、絆、心を無条件に動かす力そして、伝導するということ。長年の想いを形にしていくお父さんの心からの喜びが子供たちにも伝わる。私の、取り繕いのものは、子供たちに響かない。子供たちは敏感です。自分の適当さ、不安な気持ちはすぐに伝わりはね返ってきます。 ここで、いろんな方と共同生活する中で、いろんな自分がはね返ってきます。どこで、誰といても変わらない自分の殻を感じます。冬は、中にいることが多く、逃げ場がありません。小さな、弱い、醜い自分の姿なんとか精一杯向き合っていくのが、この冬の時間なのかなと思いました。 明子
2010.02.18
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5日、6日札幌でお会いした方々に温かく見送られ、思いがけず祝福の花束までいただき、大変華々しく出発させていただいた私。 心あれば言葉の壁は乗り越えられる。・・・のはずでしたが、あまりにも、未熟だった私の英語力と応用力のなさで、入国させてもらえずまた、ここ、美深町に帰ってきました。 イギリスへの入国は年々厳しくなっていたようで、入国拒否される方も増えているそうです。 イギリスへ旅行に行かれる際はくれぐれも下準備を綿密に! 明子
2010.02.12
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札幌出張。もうこれで何度目になろうか。AKKOを空港で見送る直前の札幌。今回も2度ほど報告会をさせていただいた。2度目の熊谷邸での報告会では「これで安心だ。」とAKKOに言われたくらいたしかにしっくりいった説明ができたのかもしれない。こうやって報告会を何度も繰り返していく度に自分たちのやろうとしていることが整理されていく。そして心もお腹いっぱいになっていく。これも実践。そういえば、今回説明をしながら思ったのだがこんなことが農哲学院とはどんなところか端的に示しているのかもしれない。それは、機械を使うということ。僕達は特に絶対に機械を使わないという考えはない。結局、「農業」という行為自体が自然に手を加える、言ってみれば自然破壊の行為に他ならない。機械で土を起こすのももちろんそうだし、たとえ鍬一本で土を掘り返すことも同じ。そこにどうしても、どうにもならない気持ちが生じる。そして、どうやったらそのギャップを埋めるのか?それは、機械を絶対使いませんとかなら絶対不耕起でやります、とかではなく申し訳ないという心とありがとうという心しかないと思う。そう心から思うことしか、もう方法はないようだ。人が生きていく以上は。ではないならば、あきらめて自分の命を絶つしかないと思う。だから、そこに「祭り」という行為が生まれた。そして、大地を、農作物を、自然そのものを祭った。神をやどらせた。そこでお祈りをした。そこには、大地に手を加えるという恐れ多い行為に対して申し訳ないけれど許してください無事収穫できました、ありがとうございますという人間のなんともいえない心情がにじみ出ている。ユンボなんかを使っているとその心情というものがほんの少しだけどわかってくる。いとも簡単に大地に手を加えることができる・・・。笹の根を簡単に掘り起こすことができる・・・。それでも彼らは、何にもものをいわずにただなされるがまま。申し訳ない。しかし、彼らのいわば自己犠牲により将来的にはそこに別のたくさんの命が生まれたりそして、たくさんの命を救うことができる。だからこそ、彼らは今のところ何もものを言わないのだろうしそう心から願うことで何とか大地に手を加えることに対して、許される、というより、味方してくれていると思う。何が良い悪いではなくてそれよりももっと大事なこと。それを実践から学んでいる。農哲学院はそれを学ぶ場所。雪景色の中のこの一人の時間はとても貴重だ。なんだか、自分も雪の一員になっていくみたい。by Yasu
2010.02.08
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昨年の夏、札幌でのいただき繕の会に参加してくださった ある店のオーナーのダイスケさん。 札幌での拠点を広げるためダイスケさんのお店でも、お話し会させてもらえませんかと、お願いしました。 すると 「ではカヌーMTはいかが」との返答。 まだお会いして間もなくどういうつもりなのかも、さっぱりわかりませんでしたが、とりあえず、流れに身をまかせました。 午前3時に支笏湖での待ち合わせ。 薄暗い中、 自前のカヌーを用意してくださっていたダイスケさん。 夜明け前の支笏湖に舟が浮かびます。 静かに流れる波の音 ユラリユラリ 揺りかごのように揺れる舟 少しづつ夜が明け始め 空と湖が色づいていきます 生まれて初めてのカヌー 広がる朝焼けの光 あまりに美しく、幸せで 涙が止まりませんでした 静かに湖を一周し、岸に戻ります。 ミーティングは終了しました。 学びました。 ことばを並べなくとも 時間をかけなくとも 最高の瞬間を共有することで、心と心が深くつながるということ 自然が結びつけてくれる力があるということ 確かにお互い心が繋がれたら、余計な説明はいらない 資料もいらない 私達も、見ただけで想いが届くような畑、家、料理 を表していきたいと思います。 英語力は中学生以下な私ですが、お陰でそれほど不安はありません。 変化の日々 まさか自分がロンドンで 料理を学ばせてもらう機会がくるとは、思いもしませんでした 新しい自分の可能性 心も身体の中も、まだまだ自分で気づいていない 可能性にあふれる世界が あるのかもと思うと 本当に 、ワクワクしてきます。 命 、 生きているということは、チャンスの連続なのかもしれないと思いました 貴重な学びを頂きましたどうもありがとうございました。 明子
2010.02.07
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昨日は第二センターの3度目の雪下ろしをした。「今年は雪が多い」と町の人は言う。案の定、第二センターの屋根の雪も過去最大級に積もっている。今年から改装に入る第二センター。大事に大事にしなければ。途中、休憩をするためにセンターに戻ることに。しかし、つけておいたストーブを消し忘れた。「すぐ戻るからいいんじゃない。」「いや、でも万が一何かが起こったら・・・」気にはなったが、そのまま一旦センターに戻った。小一時間後、第二センターに戻り、特に何も起こった様子もなかったので雪下ろしを再開。そして、帰る時間になり、さあストーブを消して帰るかと第二センターの入り口に差し掛かる・・・と扉が開かない・・・。縛れていた・・・。口に出すべきではなかったが、つい「しまったなあ、やっぱりこういうことか・・・。」と愚痴めいたことをもらしてしまった。ちょっとよくない雰囲気。しかし、縛れた部分を削り、扉は開いた。さあ、気を取り直して、家路につくかあ、と車に戻りエンジンをかけようとする。・・・が、かからない。バッテリーがあがってしまった。道端に駐車させたのでハザードランプをつけていたのだがこれがいけなかった。いつも車の件でお世話になっているM口さんにヘルプを頼むことに・・・。なんとか無事解決した。そして、おかげでAKKOの出発前にM口さんにも会うことができた。しかし、ここまで大事になってしまった。それは、ほんの少しのことが原因。それも気持ち的なことのような気がする。イメージしたことが現実化する・・・。そして、その不安な部分をやつらは突っついてくるようだ。心の隙間をついてその穴を拡大しようとする。そして、事件は連鎖していく。なんとなくそんな風に感じた。だからこそ、常にどんと腹に据えた一本筋の通った気持ちは大事なのだ。これくらいで済んだのはまだいい。あのスリップの一件からもほんとにいろんなことが起こるがおかげさまで、僕はすこぶる元気だ。やはり、冬の北海道。雪や寒さに関することでアクシデントはよく起こる。それもちょっと油断して、傲慢な気持ちが出る時に。おそらくいただき繕をはじめて以来、それも、特にここ最近の小食断食を始めて以来、なんだかいろんなことが反応しやすくなっているようだ。by Yasu
2010.02.03
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美深町からイギリスへの留学生が出た。それはここ農哲学院から。AKKOがしばらくロンドンへと旅立つことになった。いうならばロンドンのいただき繕レストランへの武者修行。そしてそれを終えた後、一回りも二回りも成長して帰ってくることだろう。今後、日本でいただき繕レストランができるときに指導的立場に立つのは間違いない。「生産・加工・サービス」農哲学院の目指しているシステム構築にはこのサービス部門が欠かせない。農哲学院の一人一人はこの3つのことすべてができるようになる。今はその実践途中。こんなに恵まれた場所もないのではないだろうか。そして、何よりも一番の根源である「生き方」を学ぶことの出来る場所。畑や田んぼで生産することを学び、キムチやふりかけ、ビート飴つくりなどで加工することを学び、いただき繕レストランでサービス(料理)について学ぶ。そして、一番大切な「イノチのつながり」をそれらの実践を通して学ぶ。さらには古民家改装などで「創る」ことを学び、農哲学院やいただき繕の紹介でプレゼンすることを学んでいる。はっきりいって農哲学院を卒業すれば世界中どこへいっても通じる人材になるだろう。(そういえば、ロンドンに行けば英語も自然と学べる)こんな環境にいるのだから毎日ワクワクしないわけがない。最初は何をしているのかわかっていなかったこともこうしてふと立ち止まって、今していること、なされようとしていることをちょっとみてみると「おいおい、これはひょっとしたらすごいことになってるんじゃないのか」ということに気づく。あらゆる可能性を引き出してくれる場所。何事も実践・実行すれば何らかの答えが返ってくるしそれがたとえどんなことであろうとも自分の成長へとつながる。それがわかるようになるとだんだんと変化に対して壁がなくなり常に謙虚な気持ちでいられるようになる。(まだまだだけど・・・)それを教えてくれたのが「農哲学院」。今年は大きく動きそうだ。まずは、ここ美深町から留学生が出たことに感謝しようではないか。by Yasu
2010.01.30
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先日のお話会に参加して頂いた、皆様、足元の悪い中、はるばる誠にありがとうございました。 「噂を聞いた」と、いう方も少しづつ増えているようで、嬉しく思うのと同時に慎重に誤解のないように、と自分の発言に注意しなければと思います。 7日に千歳空港からロンドンに出発する前にまた札幌で、農哲学院といただき繕の紹介をさせて頂くことになりました。 2月5日(金) 菜食café 広 ひろ 札幌市中央区宮ヶ丘1-2-28 ジュエル宮ヶ丘1階 011-614-7704 午後 3時より (ワンオーダー制) 畑づくりや、家づくり、そして、自分の身体づくり興味のある方は、お気軽にお越し下さいませ。 冬の時期の過ごし方、また、今、私たちが実践中の小食断食の体験報告なども紹介できれば、と思っています。 皆様との出会いを楽しみにしています。 明子
2010.01.28
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