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たとえば視線が合ったりして。そんなときに相手の口元が緩んだら、意識せずにいられないのではないだろうか。僕はそんな瞬間を狭い教室の中で毎日繰り返している。「たかが簡単な科学の実験で白衣を着せられるとテンションが下がる」「何言ってんの、響(ゆら)。制服が汚れなくていいじゃない」不満な僕の背をぽんと押して白衣を着始めた、葉山貴実。気が付けば何故かいつもこいつは僕の近くにいる。それが悪く思えない理由が自分ではわからない。「ん?」「な、なんだよ」「俺ばかり見てるなと思って。教室内でもそうでしょ」「貴実が僕を見ているんだよ。いつも目が合うじゃないか」「あのさあ。響は前の席でしょ。後ろの席をいちいち振り返るなんて普通の事?」そんなに振り返っていただろうか、しかし言われてみれば後ろの席の貴実を振り返って見るなんておかしい。「でも視線を感じるから」噛みつくように発したが。「前見てて何が悪いの」貴実は吹き出して「先、行くね」と実験室へ入って行った。僕は貴実に敵わない気がしている。ぼんやりしていたのか、はたまたビーカーが濡れていたのか、僕は食塩水の入ったビーカーを誤って床に落として割ってしまい、中身が飛散した。破裂音に取り乱した先生が「慌てるな、念のためにハンカチを口に当てろ」などと叫ぶものだから、サイレンのような悲鳴と空気が凍り付く中、僕は焦って膝をつき、破片を拾おうとしたとき貴実が僕の震える手を取った。「手を切るよ。危ないから」そう言って僕を立たせ、ピンセットを持ち出して拾い始めるではないか。「僕が悪いんだ、止めてくれ」すると貴実は真剣な眼差しで「また粉々にされたら困る。響も下がっていて」貴実が中腰で作業を続けるせいか、さすがに先生が落ち着きを取り戻し実験中止、業者に清掃の依頼をして事は済んだ。僕は複雑な思いだった。貴実が僕をかばってくれたのか、それとも言葉通り二次災害を危惧したのか。まずは謝らなければならない、僕は教室内で貴実を探した。「響、怪我しなかった?」背後から声をかけられて驚いた。まさか探していた相手に見つけられるとは。大体、それは僕が言う台詞だし。「どこへ行っていたんだ?」「ちょっとね。で、怪我はしてない?」「うん、おかげさまで」「それは良かった。じゃあ」貴実が席に戻ってしまう、そのシャツの背中を握ってでも足止めしたい。「待って、お礼がまだだ。ありがとう」「どういたしまして」貴実が軽く頭を下げ、髪が揺れた。「でもあの場合は俺がたまたま近くにいたからだよ。気にしないで」会話が、僕の気持ちが流されてしまう。「あのさ、貴実は怪我しなかったの?」「うん? ま、これひとつ」薬指に絆創膏が貼られていた。「ごめん!」勢いでがばっと体を45度に曲げたので、ポケットに入れていた自転車の鍵を落とした。カランと鳴ったその音は僕の心の動揺であり、何も出来ないまま傷付けた罪悪感。そして二次災害が起こったかもしれない怖さが伝わった。「気にしないでって言っただろ。俺の指で済んで良かった。響に怪我させたくなかったから」自分が傷ついたのに不敵に笑う貴実の思惑が読めないし何より罪悪感が強かった。僕は、貴実を意識している。迷惑をかけた科学の実験で挽回しようと指折り数えて数日。「あんまり俺ばかり見てると誤解するよ?」貴実が試験管を数え終え、頬にかかる髪を耳にかけて僕に向き直った。「させたいとか?」どきりとした。そんな事は願っていないのだが敵意だと思われたら話がこじれる。「別に敵意は無い」「あ。見てるって認めたな。可愛い」可愛い? 何をいじっているのだ。「は、だからさ」「敵意が無いの、初めからわかってる」「なら、いいけど」誤解されていないならいいか。「はっきりしたらいいのに」「何が?」「敵意じゃないならさあ」「え?」「俺の事、好きでしょ」机にもたれかかり視線を真っすぐに僕へ伸ばしてくる。口元に笑みを浮かべて「ね?」と小首を傾げた。「はああ?」自分でも驚く程大きな声が出た。動揺して口をおさえ、周りを見渡す。幸いな事に僕の裏返った声は気に留められていない様子。科学の授業だ、薬品を扱う以上、皆手元に集中している。「手元を狂わせないようにね、響」「勝手な事ばかり」「注意しているの。それに好きなの、図星でしょ。俺は歓迎するよ」歓迎・それって。僕の事を好きなのだろうか?先生が実習室に入って来て皆が着席した。しかし僕は浮ついた気分で、ともすればお尻が椅子から離れて体ごと横倒しになりそうな感覚だ。「貴実、放課後ちょっといいかな」自分から切り出さないと答えが出ないと思った。「いいよ?」机に頬づえをついて気だるそうにしていた貴実は、僕を見上げて即答した。「今じゃまずい話なんでしょ」物分かりが良すぎる相手は面倒くさくなくて助かる。くるりと背を向けて自分の席についたが落ち着かない。気付いたら振り返っていた。そして貴実が微笑んだ。ほらね、という感じだろうか。こんなとき手でも振れたらお笑いにできるだろうに、僕にはそのセンスが無い。放課後の教室、閉じたカーテンの隙間から暖かい日差しが注ぐ。帰宅を急ぐ皆の声が遠ざかって僕は貴実とふたり、静寂の中にいた。こんなに静かな場所に変わるのだな、しかしそれが余計に言葉を詰まらせる。「響って変わった名前だなと思ったのがあの時。教室のドアを偶然一緒に開けようとして俺が引いたら友人が「ユラ」って呼んで。ああ、そういう名前なんだって」先に話し始めたのは貴実だ。「いい名だよね。たまゆらって言葉あるじゃない。古風でさ」「僕の名前の話はいいよ」話したいのは別件だ。そのつもりで残ってもらったのだ。「響がちっとも切り出さないからじゃない。あと20分もしたら見回りの先生が来て早く帰れって怒られるぞ」「--あのさ、貴実。僕が貴実を好きだと言ったら何か変わってしまうかな」指の先まで緊張で震える。「僕をかばってくれた時。あれから僕は気になるんだ」「それなら俺の勝ち。俺は同じドアを開けようとした名前も知らなかった響が好きになったからね」「どうしてそんな事で好きになるんだ」「爪が綺麗だし顔も可愛いって思った。で、何となく汚してしまう気がして手を引いてしまった。悪い?」僕は人に好かれる容姿だろうか。自分ではわからない。「あ、この子を好きになるって直感。当たったよ、俺は響を目で追ってどうしたら捕らえられるかと考えた。視線を感じるって言ったじゃない。通じて良かった、俺を見る目が変わっていったもん」変わった・だろうか。「物欲しそうな目」貴実が前髪をかきあげた。「俺もそんな目、してるでしょ」僕は吸い付くように貴実の胸に触れた。冷静な鼓動が伝わる。「とりあえずさ、これから毎日一緒に帰らない?」「貴実の家、どこ」「ここから2駅先。響はたしか自転車の鍵を持っていたな。近いの?」「いや、1駅電車に乗って、そこから家まで自転車」「1駅は一緒か。そこから始めよう」この感じは悪くない。足元が地についている感覚、ようやく手に入れた。「帰ろう、響」差し出された左手に手を伸ばす。細くて長い指に誘われたようだ。「響から話してよ、今からさ」指を絡めたら貴実が足早になった。追いついていけるだろうか、いや、絶対一緒に歩くのだ。視線を捉えたのだから。そして話をしよう、それだけでは伝わらない熱さを。おわり●春の嵐とか●ご無沙汰しております、柊です。はじめましての方もよろしくお願いします。葉桜になったと思ったら春の嵐で、寒いのか暖かくなるのかわからない今日このごろ。季節の変わり目、でしょうか。拍手とメッセージをありがとうございます。のろのろ更新なうえにひっそりしているので、見つけていただいて感謝です。また、のんびり更新になりますが、気が向かれたら読んでいただけると幸いです。よろしくお願いします。柊リンゴ
2017/04/19
指をぎゅっと握られた、そのとき僕の中で箍が外れたのか視界が半分ぼやけた。「おまえ、寂しいの?」「え?」「涙出てる。左目だけ」ぬぐうと「俺も寒い日は片目だけ涙で滲む。多分、両目で泣いたら歩けなくなるから脳が指令を出しているんだ」膝を曲げて微笑みながら僕を見るケイに弱点を見つけられた気がして紅潮した。「今は寒くないし」「だから。寂しいんでしょ。両目で泣いたら俺の顔が見られなくなるから」「2組の佐藤、かわいいよな」「ああ、そうだね」空返事の僕。最近気付いた事だが男の言うかわいいと、女の言うそれとは微妙に意味が異なる。女はひらひらふわふわ、綺麗なものでもとにかくかわいいの表現。しかし男は性的な意味を持つ。クラスの連中の女子を見る目が羨望ではなく値踏みしていると気付いてから、どうも僕は群れるのが苦手になった。かわいいと本気で言えない僕。毎日爪を磨き髪をとかして、隙の無い女子力を高めようと努力しているであろう彼女たちが気の毒に思えたし、何より狩りでもしているような気分なのか欲望が目に映し出されている連中が、あさましく、変態ではないかと感じる。そう、僕は男というより女に近い感覚がある。口コミサイトで話題になったグッズはチェックするし、人気のサロンも毎回予約だ。両親健在だがお弁当は自作。お風呂に入るときは森林の香りの入浴剤は欠かせない。そして寝る前にアロマキャンドルで心を落ち着かせる。思春期特有の体臭は最も忌むべき因子だ。僕は思春期だ。反抗期なのかもしれない。しかし悪い気持ちはしない、自分を高める時間で精一杯なのだ。「おまえ、なんかいい香りがする」「は? 嗅ぐなよ。失礼だな」いきなり声をかけてきたこいつ……たしかケイと呼ばれていたな。苗字は知らない、ただいつも取り巻きに囲まれて賑やかなおしゃべり会をしていた。僕は一切、関わっていない。「そこはありがとうと言うんじゃないの? 誉めているんだからさ」「あ、ああ。誉めてくれていたのか、ごめん。ありがとう」慌てて意味なく首筋を片手で覆い隠した。ケイは僕より5センチは背が高い。無意識の行動だろうか、耳が熱い。「拡(ひろむ)さあ、放課後いい?」僕の名前を知っていたのか。「特に用事は無いから構わないけど」しかし何の用事だ。思い当たる節が無い、それはそうだ、関わりが無いからだ。ぼんやりしながら放課後、廊下を歩いていると「スルーするなよ」と背後から声がした。「あのさあ。何の用事?」「ま、歩きながら話そうか」「はあ?」校門を出て暫くすると散り急ぐ桜並木が続く。新緑の季節か。しかし、こいつは本当に何の用事だ、校門を出てから何も話さない。「人に慣れていないというか。人が嫌い?」よくわからないな。「群れたくはない」「ひとりでお店に行けちゃう?」「どこもコンビニみたいな感覚だよ。欲しいものを買う。店員さんの顔も覚えていない」「結構、話すね」「聞かれたから返しただけだ」「俺といてさあ、楽?」「ん? わからないな」何を言い出したんだ。「教室の中と違って表情があってよく話す。少しは俺に気を許したかな」「自分ではわからない」「思春期だもんね。お互い」そうだ。皆、同じなんだ。僕だけだと思い込んで見下していた。「手、出して」長い指が際立つ右手を差し出された。「なんだよ?」するとぎゅっと力強く握られ、僕の思考は寸断した。「おまえさあ。教室内でもきらきらしているんだよね。友人と何を話しているか知らないけど、そのときだけ上の空で。自分を磨くのが楽しくて他を置いてきぼりにしている。それでも、友人に失礼だけど俺は自我を持ったおまえが好きだよ」
2017/03/17
「半透明のものが好き」水色に染まる夏空を見上げながら玲(れい)が呟いた。「突然、何を言い出すの」風がシャツの襟をそよがせる、しかし日差しは暑い。そんな中で突拍子も無い事を言われて安芸(あき)は戸惑った。「ほら、安芸の家みたいに障子の向こうにぼんやり人影が映るみたいな」「ああ、うち、日本家屋だから。和室の事でしょ。俺にしてみたらマンション暮らしの玲のほうが羨ましいけどね」「建物の話じゃないよ。透明でなく濁ってもいない。どちらでもない曖昧な感じの事」それは何を意味しているのだろう。いつもふわふわと風に漂うような口調の玲の横顔を見つめても、安芸には何も読めない。安芸と玲は幼稚園からの幼馴染で中学までは同じだった。家族ぐるみな気心の知れた間柄で、互いの家に泊まったり食事をいただく事も違う高校へ通う今でも珍しくない。似たような性格と互いの親は口にするが、安芸は玲に対してだが面倒見が良く、人当たりも悪くなく接客のバイトをする程だ。しかし玲は好みは曖昧でも自己中心的なところがあり、安芸を振り回すし、その性格ゆえかはたまた親が甘やかしているのか、バイトはしていない。「ネイルカラー、欲しいな」玲がそんな事を言いながら、暑いのかハーフパンツの裾を捲りあげようと中腰になる。「そんな趣味があったの?」安芸はそんな玲の背中を軽く押して窘めた。「違うよ。女装とかじゃなくて。ただ綺麗だからさ。透明じゃなくて色が濁って綺麗な部分だけ淘汰されたような感じ、あれがいいと思う。女の子ってそう感じて付けているのかな」「自分の爪・と言うか自分を綺麗に飾りたいんでしょ」「ふうん、そうか。別に飾らなくても女の子って男を引き寄せる甘い蜜を出しているじゃない。十分だと思うけどね」玲も安芸にとっては、一種の蜜だ。意識し始めたのは中学2年。進路が異なる事を知り、今までずっと隣にいた玲と離れてしまうと急激な不安、そして離れたくない欲。安芸は単なる幼馴染として玲を見てはいなかった。気持ちに白黒つけたいと思いながら告白を先送りしたまま卒業し、違う高校へ通い始め、初めての夏だ。『曖昧な感じって、まさか。この関係か?』「そろそろバイトの時間じゃない? 頑張ってねー」そう、時間と言うものは刻々と過ぎていく。今日も思いの丈を言えぬまま、安芸は玲に手を振った。「柳田さん? ゴミ出しですか」床にしゃがみこんでポリ袋にガツンガツンと音を立てて物を放り込む先輩社員の姿を見て、安芸は思わず声をかけた。「ゴミ出しなら、バイトの俺が行きますよ? あれ、商品でしたか?」「試供品よ。もう廃番になった色を処分するの」柳田が苦笑しながら「手間のかかる仕事よね」とネイルカラーを1瓶振って見せた。それは白濁した色合いで、安芸は玲の言葉を思い出した。「あの。1つもらえます?」「彼女に? うふふ、いいわよ。何色にする? やっぱりコーラルピンクかな。オレンジとピンクの中間みたいな暖かみのある色。春先に流行ったのよ」くすんだ色がいいと安芸は思っていた。しかし残っているのはクリアや人気のあったピンク系。それならばいっそと片隅に置かれた色を指した。「あ-。黒をください」「黒。個性的ね。ああ、でもしている子いるね」「お礼にコーヒーでも奢ります」「あほ」柳田が安芸の耳たぶを軽く引っ張った。「見返りなんて求めていないわよ。そもそもこれは廃棄するものだし。私は元々、人に何かをあげてもお返しは期待しない。過剰な期待を寄せて何もなかったらその人を恨むでしょう。そんなさもしい生き方をしたくないの」優しい口調だが言葉は厳しかった。自分にも他人に対しても。柳田が眩しく見え、安芸は掌のネイルカラーを握りしめた。そうでもしないと自分が何をしたいのか忘れそうだったのだ。「おつかれ。おかえり」安芸の家の土間に玲が立っていた。しかも満足げな表情である、これはと思い、安芸は玲の襟首を掴んで唇の匂いを嗅いだ。「なに。勝手に人の家にあがって晩御飯まで食べたわけ?」「安芸の帰りが遅いからだよ。おばさんも食べてって言ってくれたし。おばさん、ごちそうさまー」能天気な玲に安芸は溜息をついて鞄からネイルカラーを取り出した。「これ」「わ。ありがとう」玲は瓶を横に数回振り「向こうが見えない濃さ」と笑った。その笑顔こそ、安芸が欲したものだ。柳田と会話をして『自分は玲の笑顔を見返りに期待しているんだ』と気づき、その焦がれる思いを振り切るようにバスに乗らず速足で歩いて帰宅したのだ。帰りが遅くなるのは当然。しかし玲が家にいるとわかっていたらどうしていただろう。「もう遅いから送っていくよ」「いいよ別に。500メートルくらい歩くだけだし」「夜道は危ないよ。ライトをつけない自転車が暴走するし、コンビニの誘惑もある」「よくわからないけど。お供してもらおうかな」玲の住むマンションまではコンビニもあるが、抜け道のような手入れのされていない雑木林もある。蝉は夜でも活動中だ。その鳴き声を聞くだけで体感温度が上昇する。しかし玲は涼し気な表情だ。安芸は汗をかいた自分が匂わないか今になって慌て始めた。「なにしているの」「いや、汗かいたからさ」「歩いていると僕も汗をかくよ。同じ、同じ」玲はシャツの裾をまくりあげて風を誘うようにばたばたと仰いでみせた。無邪気なのか、邪気なのか。安芸は固まってしまいそうだった。「おばさんの作る麻婆豆腐は最高。痺れる辛さって言うの?昔から変わらないなー。子供相手に大人向けの料理を作ってくれるもん。そういうところ、好きだな」「ああ、俺も帰ったら食べるよ」そんな話をするつもりではなかった安芸は焦れてきた。のんびりと歩く玲は隣にいる。しかし気持ちの距離が計り知れない。「玲は幼稚園の頃も家に来て2人でビニールプールに入って遊んだよな」「ああ、覚えてる。2人だと狭いし水がぬるいし、でも面白かった」思い出し笑いをする玲を横目で見ながら安芸は足を止めた。「ねえ、俺達さあ」「蝉が煩いね」「真面目に聞いてくれる?」「どうした、急に」「付き合わない?」「……付き合っている気でいた」「えっ?」玲が思わぬ事を口にしたので安芸は戸惑ってしまう。「いつからそう思ってた?」「幼稚園の頃から」「それ、幼馴染だろう。俺が言いたいのは、さあ。玲の望む事を何でも叶えてあげたいって。いつも一緒にいたい、そういう気持ちでいるの」「いつも叶えてくれているし。そばにいるじゃん。僕は高校が違っても安芸が1番だと思う。理解者だし、一緒にいると楽なんだ。気負いしないのは大事。だけど、これでもさ、安芸に捨てられないように自分を磨いているつもりだよ」このままでは玲のペースになってしまうと悟った安芸は、玲の腕を取り、振り向かせると強く抱きしめた。「ずっと好きだった」「蝉が煩いね」反らされてしまうのかと安芸が不安に苛まれ、逃がすまいと抱きしめる力を強く込めた時だ。絡んだ玲の足が凛として迷わない思いが伝わって来た。「玲のことが本当に、好きなんだ」「なんかさ、はっきりしているのもいいね。僕は安芸に言われなくてもこのまま流れて行けばと思ってた。でも濁ってた。わかってた。先に言ってくれてありがとう。僕も好きだよ」2人が手を繋いで歩いたのは何年ぶりだろう、互いにそう思ったに違いない。夜道は暗いものをより濃く映す。そして、人の思いを隠さない。「すっきりした」「安芸、今そういう顔をしているの?」「明日。また学校帰りに会おう。そうしたら解る」「了解」ありがとうございました
2016/08/11
LINEがちっとも既読にならない。『今日、花火だってさ』そう呼びかけたのはお前だろ。調べたら5時から開始なので『4時半に待ち合わせしよう』と打った言葉は、彼に届いていないようだ。今の時刻は4時40分。待つのが苦手な俺には苛立ちが募るばかり。花火も心配だが、雲行きが怪しい。家を出るときから曇り空だったので面倒だが傘を持ちだした。しかし慌てていて、1週間前に父さんが酔っ払って帰宅した際に握りしめていた番傘、こんな古風なものを手にしてしまっていたのだ。番傘は紙で出来ていると聞く。果たして雨に耐えられるのか。いや、その前に彼が来るのか。4時50分。……絶望的だな。彼はもともと時間を守らないし、俺が決めた約束事を聞いてくれた試しが無い。それでも好きだから離れられないのだけど、彼には俺はどう映っているのだろう。「好きだ」と伝えたが好意としか受け取らなかったようで。翌日からも彼の態度は変わらなかった。俺1人が空回りをしているのだ。潮時だろうか。我儘に付き合うのもしんどくなってきた。わざわざ花火を伝えておいて、読まないどころか現れもしない。俺は、多分大勢いる学生の中の、友人の1人だ。そう思うと空しい、しかも小雨が降って来た。慌てて番傘を差すとぽつぽつと軽快な雨音がする。「悪くないな」思わず独り言が出た。紙でも雨をしのぐことはできるらしい。昔の人の知恵か。よく見ると傘に『万亭』と書かれている、何処かの料亭のものだろうか。そういえば父さんが料亭で飲みすぎたと母さんに言い訳をしていたな。料亭。どんな場所だろう。「お兄さん、良い傘をお持ちですね」突然声をかけられて驚いた。「この雨空に合う松葉色の番傘、なかなか古風です。自分のは差し掛けという雨にはそぐわないもので」声をかけてきたのは俺より2.3歳は年上のショートカットの男性だ。身長も高く180はあるだろう。顎が尖っていて、この薄暗がりでもわかる黒目。それに佇まいがどこか上品だ。学校にいる連中とは雰囲気が違う。傘のせいだろうか。顔色がいい。差し掛けといった朱色の番傘、よく和装の結婚式などで見かけるその名のとおり差す傘だ。「これ、父が借りてきたものみたいで」「わかりますよ。それ、自分の家のものですから」「えっ? きみ、いや、あんた。いや、あなたの?」「そうです。最近では番傘を差す粋な男衆は見かけません、うちでは急な雨など、お客様にお貸ししていますが。7日程音沙汰が無いので、そろそろお返しいただこうかと思っていたところです。貴重なので」「高いんですか、これ」色合いも地味だし傘は紙のはず。2千円というところか? 高くても。「お話ですが3万円はくだりませんよ」「え」俺の驚きに青年が吹き出した。「ご存じないので?」「ええ、無知ですみませんでした。でも乱暴には扱っていませんので!」「見ればわかります。ずっと閉じたままでしたでしょう」え、どこか傷んでいるのか、3万円だぞ?「お、お返しします」「今これを返したらあなたは濡れて帰る羽目になります」「コンビニでビニール傘を買いますから平気です!」番傘を閉じて青年に渡すと首を振り「今度にしましょう。御贔屓にして下さるお客様の息子さんに風邪でも引かれたら大事です」今までになかった労わり。それに明らかに年下の俺に敬語で話すなんて、新鮮だ。育ちが違う、これだけでも惹かれる。しかも仕事をしている男の張りのある顔立ちだ。「あの、あなたの名前を教えてください」必要かな? と思ったのか青年は瞬きをした。「……万亭健司です」「ありがとうございます、俺の名は」万亭は興味が無いのか手を空にかざした。「ああ、雨が本降りになりそうですね。気をつけてお帰り下さい。花火でも見に来られたのでしょうが中止でしょうし、この辺りは物騒です」「また会えますか?!」「はあ?」「傘、これを返さないと」「……この先の道は蛇行しています。それに沿って歩くと20分ばかりでしょう、万亭という料亭に着きます。でもあなたのような学生さんには金額的に無理な場所ですよ。お父様にお預けください。傘が無事なら今日のところは引き返しますので」背中を追うように腹に力をこめた。「あなたはそこの従業員ですか」興味が膨らんできてしまったのだ。万亭は見返り、俺をしげしげと眺めた。「跡取り息子です。面白い方ですね、今度名前をお伺いしましょう。この町でお会い出来たら」何年先だろう。俺が料亭に出向くなんて。雨が本降りになりスニーカーが濡れ始めた。アスファルトを叩く水滴が煙のように遠ざかる万亭の姿をぼんやり映し、やがてかき消した。ありがとうございました●前書いた分の書き直しです●
2016/07/29
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