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あれからあっという間に五日が過ぎた。引越し準備を進めていると「吉日に出立すれば縁起が良い」と婆様が教えてくれたので、その吉日なる日を待っていたのだ。 結婚式等、人生の節目は何事も良き日を選ぶものらしい。真に受けていると今度は吉日なる日がいつなのか教えてくれない。 楼で婆様を追いかけながらまた三日が過ぎ、なかなか出られない。そんな僕に苦笑しながら和菓子やが教えてくれた。「夏蓮ちゃんを引き止めたいのだよ、年寄りは我侭だねえ」(そうだったのか) 婆様には申し訳ないが、そろそろ追い出してくれないと僕も居座ってしまいそうだ。吉日では無かろうとも明日出る事を決めた。 朝から蝉が鳴いて賑やかな朝に父の墓参りを一人で済ませ、楼に戻ると布団を干す姫たちをよけて婆様に挨拶した。「おや、まだいたのかい。悠弥さんはとうに迎えにきていたよ」「えー! ど、どこに」「さあね。おまえさんの姿が見えないと言って、道を引き返した様子だよ」「では、あのっ! お世話になりました」 焦りながら頭を下げると婆様が、あははと手を叩いて笑ってくれた。「はいはい。またおいで、可愛い私の夏蓮」 慌てて離れに戻り七十五センチもあるキャリーケースを持ち出そうとしたら、重すぎてびくともしない。(しまった。荷物を詰めすぎたか?) この期に及んで失態だ。荷物を減らそうとして鍵を出したら、背後で明り障子の開く音と「失礼します」の声がほぼ同時に聞えた。(誰だろう?) 振り返った僕は、男なのに悲鳴をあげてしまった。そこには顔を腫らした桔梗が立っていたのだ。「ああ、すみません。久しぶりで」「久しぶりだけど、桔梗? 大丈夫?」 生きていたので安心したが、この姿は。組織で暴力を受けたのではないのか?「はあ。平気だからこうして会いに来たのですよ。幸せそうで何よりですねー。では夏蓮さんを見送って、親分さんに見代を届け終えたら、俺はここでまた雇ってもらいますよ。他の姫のお目付け役となりますので」「……桔梗。無事でよかった」 握手をしたら鉄の匂いがした。やはりケガをしているのだろう。「婆様に救急箱をもらってくるよ!」「あー、平気ですって、そのうち治りますから。俺は夏蓮さんより丈夫ですからねー。寝込みませんからねー」 そののらりくらりとした話し方で安堵したらなんと桔梗も微笑み返してくれた。「め、珍しい」 思わず見上げると、白い歯を出して豪快に笑った。「ははは。俺だって笑いますよ」 そして不意に真面目な顔をして腕を組んだ。「夏蓮さんこそ、笑っていてくださいよ?」「……ありがとう」 お礼を言うと頭の中は思い出が走馬灯のように駆け巡る。そういえば僕こそ、笑った事が無かったのだ。でもこれからは強くなる。笑顔で生きると決めたのだ。 桔梗に婆様をお願いして僕はキャリーケースを引きながら楼を出た。表の通りを歩くと和菓子やたちが来てしまいそうなので、人目を避けて裏道を通る事にした。細い道を過ぎ、掛橋の袂で足を止めて泥の川を見下ろした。(いつもここで泣いていたな) 逃げ方も知らず、ただ泣き喚くだけだった。 でもこんな僕でも助けてくれる人がいた。(もう、泣かないで生きよう) 陸橋を過ぎ、路地裏に入ると堀の上の猫が僕を見て耳をぴくぴくと動かした。(あれ、威嚇しないな) どうしたのかと見上げたら知らん顔をされた。僕には興味が無いらしい。しかし尻尾をぱたんと振り、どこかを見ている。誰かが来るのかな?耳を澄ますとサクサクと雑草を踏みながら歩いてくる足音が聞えた。(ああ!)「……夏蓮ちゃん! どこにいたの?」 悠弥さんだ、おかしいな、顔を見ただけで涙が滲んできた。「あ、ああ。夏蓮ちゃん!」 悠弥さんをうろたえさせてしまった。こんな始まりは良くない。さっと涙を拭いて顔を上げた。「悠弥さん、よろしくお願いします」「こちらこそ。ん。でも。……もう。そんな挨拶はいいから」 僕の濡れた頬を撫でて微笑む悠弥さんを見ていると自然と笑顔になれる。キャリーケースを堀に寄せて、互いのつま先が触れるよう一歩進んだ。悠弥さんが後ろに片手を回したまま少し膝を曲げた。その腰の辺りからミルクティー色のカーネーションがちらりと顔を出している。「あ、それは!」 開いた口が唇で塞がれた。悠弥さんの腰に手を回して抱きついたら花の香りが強くなった。何本もまとめて花束にしてくれたのかな。あの花も好きになりそうだ。堀の上の猫が邪魔するつもりか、低い声でにゃーと唸っていた。終わり。ありがとうございました。●拍手をありがとうございます●ドキドキしました…ありがとうございます!今までの連続更新と、この「むかえに行くよ」は去年書いたものだったのですが、次からは新作にしたいなあと思います。またお時間がありましたら、お立ち寄りください。今回は長い話ですみませんでした。
2008/11/27
「はい。一人では脱げません」 どきどきしながらおねだりをしたら屈んで唇を吸ってくれた。「この珊瑚と同じ色の唇をしているね」(来てくれるだろうか) 衣文に手をかけて、ぐいと開けて誘いをかけた。どうしても、感じたいのだ。「脱がせてあげるから」 悠弥さんが僕の手を遮り、唇を重ねて舌が絡み合い唾液が零れて行く。そして開けた衣文の中に悠弥さんが手を差し込み、指に掛けて肩から落とした。露になった胸元を撫で上げ、興奮して赤みを帯びた乳首を指で押した。「んっ、ああ!」 たまらず広げた両足の秘めた奥が熱くなった。僕では止められない、刺激を求めて起き上がった自身は出口を探す。「ん、ん……」 悠弥さんに乳首を弄られると感極まってしまいそう。特に吸われるのが……。「ァアッ! う、ううん。ん、あん。そ、それが好き……。もっと」 悠弥さんの羽織をぎゅっとつかむ。息が苦しい、だけどここで辞めて欲しくない。「ん、はあ。もっと……」 悠弥さんの舌がゆっくりと乳首を転がし、舐めて「ん」と吸い上げると、僕は喜びが全身を駆け巡る。「アアン、ああ、あ、立てない」 膝がガクガクと震えた。上体を揺らすと帯を解かれ、胸を撫でていた手がするすると下りておへそまで達すると同時にはらりと長襦袢が足元に落ちた。何も隠せず恥かしい姿なのに肌は上気していく。「あ、あ、気持良い。悠弥さん……」 脱がされたこの快感にわななき、いつ触れてくれるのかと期待と興奮でぞくぞくする。「綺麗な華だよ。もっと触れたくなる」 紐を解き、肩をむき出しにして羽織袴を脱ぎ捨てて悠弥さんが僕に体を見せてくれた。細身なのに男らしい筋肉があり、傷一つ無い綺麗な体だ。そしてボクサーパンツに隠されてきつそうな股間を見ていると無自覚に口が開いていく。(ああ、あの熱い自身を感じたい)「恥かしいなあ」と頬にキスされた。「そんなに見たいの」 小首を傾げて僕を見るから体が熱くなってしまった。「見たい、です」(触れさせて欲しい) 跳ねそうな胸を押さえていたら急に抱き上げられて、布団の上に寝かされた。「立ったままでは辛いだろうから」 僕の片足を上げて内腿に舌を這わせて吸ってくれた。そのキスが少し強く感じた、もしかして跡が残るのはこういうキスなのか。「柔らかいね」「ア、くっ、ウウン!」 よがる僕の為に腰を撫で、股の際まで潜りその敏感な皮膚も吸ってくれた。すっかり屹立した自身はビクビクと震えながら先走った。 こんなに丁寧な前戯をしてくれるなんて感激する。興奮の只中にいる僕は悠弥さんの吐息がかかるだけで胸を反らせ、足を開き、つま先を震わせてしまう。「あ、見ているだけで呼吸困難になりそう」 悠弥さんがようやく下着を脱いで自身を見せてくれた。それは反動もないのに屹立していて思わず「ァア」と喜びを漏らしてしまった。「さっき、見たくせに」 悪戯小僧のように微笑まれた。「ん、でも。それが欲しい……です」 悠弥さんは根元をつかみながら僕の上に体を乗せ、唇を重ねてくれた。「……可愛い」「えっ。あ、ん! ううんっ、んー!」 僕の中にぐっと熱いものが挿入されてきた。中にぐいぐいと進んでくるこの堅さがたまらない。「ン、ン、あ、クウゥ……」 ぐっと腿を持上げられてさっきよりも感度が良い、擦れる感触が凄く、凄く……。「激し……、ん、もっと、来て」 揺らされる度に喜びを感じて、じっとしていられない指が布団をつかみ、胸を反らさせる。悠弥さんは腰をひねり、ねじりながら進んでくれた。この動きも良い、僕の良い所を知ろうとしてくれる。「そこ、そこが良い、悠弥さ……擦って、あ、ああんっ、も、もっと」 既に僕の茎は液を漏らしていた。「夏蓮ちゃん。誘うのが上手」 悠弥さんが僕の腰をつかみ、ぐっと揺さ振る。この突き抜けそうな刺激も好き……。「ああん! も、もっと奥に来て、もっとしてください、あ、ァアア……」 肌の触れ合う音が小刻みになってきた。僕の体は熱せられて、自分のものではないみたい。突上げられてよがり、胸を反らしては肌を擦らせる。このまま離れたくない。「……く、ゥウン」 もっと奥に来てくれたのか。肌が痙攣する。「動いて……悠弥さん、ンッ!」 僕の我侭を聞き入れて腰をねじらせて動かしてくれる。気持がよすぎて涎が流れてしまう、息が苦しい!「は、ああ、イッ……」 体がぶるぶると震えた。「ん、夏蓮ちゃん」 悠弥さんの汗が僕の胸に落ち、流れていく。それを僕の液が受け取った。そしてドクンと僕の中に勢いよく液が放出された。「ん、ん、気持良い、悠弥さん」「俺も。はあ……夏蓮ちゃん、こんなに頬を染めて」 そして息を切らしながら僕に覆い被さると、そのままぎゅっと抱き締めてくれた。「この解語の華が愛おしい」 聞えた瞬間、わなないた。涙がじわじわと溢れた。「悠弥さん、あなたが好きです」 あなたに焦がれて、あなただけを心に描いて生きてきた。時に花にさえ嫉妬した、自分を卑下して何も話せなくて距離を作っていたけど、あなたはいつも僕に呼びかけてくれていた……。「あなたが……」 濡れた体は冷めず余韻に浸っている。湿った布団、交わる脚。汗に濡れた肌が離れるのを拒む。 満たされるとは、まさにこの瞬間なのか。 求める想いが合致したのか。ただ流されるままの僕を悠弥さんが見つけてくれた、そして失いたくない相手を僕は見つけた。(あなたの側で、僕は笑顔を咲かせたい) どんなに美しい花よりも、あなたを癒せる自分でありたい。きっと、なってみせる。ラストの33話に続く●拍手をありがとうございます●いつも背中を押していただいてありがとうございます!アヤですね…一時期、楽天さんでのUPが困難になったので、今はアメブロでギャグになっていますが、何となくいけない単語とかはわかったので…冬だし。アヤと遊んでくださいますか?
2008/11/26
突然一人になり、足を崩して僕はふと床の間を見た。「あ……」 それぞれ高さを変えた五本の白い八重咲きのトルコキキョウが流れを描き、その中心に白いシンビジュームがしなやかに流れに添って咲いている。艶やかであり独創的だ。静かな花に生命を吹き込み、動きを感じさせる活け方をするのはあのひとしかいない。 明り障子が開く音がした。あの人だと確信して振り返る。「夏蓮ちゃん、婆様は寝ていたよ」 やはり悠弥さんだった。「楽しい夢でも見ているみたいで、起こせなかった。皆も二次会だとか言って出て行ってしまったね」 悠弥さんは空になった膳を重ねて、使用人が片付けやすいように気配りしている。この膳は僕が売られる宴の為のものだったが、見事に覆すことが出来たのだ。僕も小皿をまとめ、座布団を集めて片付けた。「……悠弥さん。今日は本当にありがとうございました」「なに。改まってどうしたの」 そっと手を握る。この体温も声も姿もすべてが愛おしい。「頑張ったのは夏蓮ちゃんだよ。いつも泣き顔のきみが、ここぞという時に力を発揮した。見ていて、誇らしかったよ」 あれは僕一人の力ではない。悠弥さんの支えがあってこそ。そして亡き父が励ましてくれた気もする。助けられて難局を乗り切れたのだ。僕は感謝すると共に、もっと強くならなければと思う。「僕、悠弥さんの元に行ってもいいですか」「おいで。……迎えに来たって言ったでしょう、もう、泣かないで」 雫を指で受けながら悠弥さんが微笑んだ。「来て下さってありがとうございます。お蔭で最高の誕生日になりました」 床の間の花も、髪を飾る花も、すべて悠弥さんの気持がこめられている。暖かな気持に包まれながら、僕は生きていて良かったと・諦めなくて良かったと喜び、顔を上げた。「どうか、僕をあなたの想い描く未来に連れて行ってください」「うん。一緒に行こう」 悠弥さんに僕の住んでいる離れを見せてと言われたので、渡り廊下を並んで歩いた。いつもは桔梗に追い立てられるように歩いたこの廊下も、感慨深い。「鯉を泳がせているの。情緒があるね」 悠弥さんが川を覗いていた。「ええ。でも一匹桔梗が食べまして」「うそ。凄いね、あの人」 食用ではない観賞用の鯉なのに? と、悠弥さんが目を丸くしていた。「僕もその鯉の姿を毎日見て、気にかけていたのですが」「ふうん。鯉に嫉妬したのかな。夏蓮ちゃんが大事にしていたから、自分にもそうしてほしくて食べたのかも」「……そんな。桔梗はそこまで思慮深い人ではないと思いますよ」(病床の僕の側で無頓着にもがつがつと食事をしていたくらいだ、きっと本気で鯉を食べてみたくなったのだろう) 首を傾げていたら悠弥さんが僕の髪を撫でて「きみは誰からも愛されているのだよ」と耳元で囁いてくれた。……耳が熱い。 離れの僕の部屋に入ると、悠弥さんは古い蝶番のついた箪笥や漆絵のお盆を見て、良い趣味だと誉めてくれた。「あ、でも、多分これは元々遊廓にあったものだと思います」「そう。昔の職人さんも素晴らしい仕事をしていたのだよね。何年経とうと、使えるのだももあるのだね」 自分を育ててくれたすべてのものに感謝したい。お蔭で僕は良い人にめぐり合えたのだ。「古い道具には魂が宿るのだよ。この道具に護られたお蔭で夏蓮ちゃんはまっすぐに生きてこられた。ありがたいことだよ。きみも感じていたのだろう、道具に目立つ傷がないね。大事に使ってきたのがわかる」 悠弥さんが触れると物を言わぬ箪笥さえ息づいているようだ。「肌に馴染むね」と熱心に眺めているので、何故か寂しくなる。 そっと座り、行灯に明りを灯した。夜具の布団を照らし、じりじりと燃える蝋の芯のように僕の体も熱さを求め始めた。 悠弥さんは化粧台に置いた簪を手にしている。珊瑚珠をつけたその簪は僕が一目で気に入り櫛屋から買い求めたのだ。僕の髪型には似合わないのが残念だが、その磨かれた珠を見ていると落ち着くのだ……。しかし今、僕はその珠を眺める悠弥さんに焦がれていた。行灯を隅に置くと、僕は花に惹かれる蝶蝶のように悠弥さんの側に歩み寄った。「悠弥さん。お布団を敷きますので。あの。……泊まっていかれませんか」 袴姿に寄り添うと、どうしても衣が邪魔をする。さりと衣擦れの音を立てるだけでなかなか素肌に触れさせてくれない。体の芯が焦れてくすぶってくる。衣を通して僕の鼓動を響かせたいと、さらに体をぴったり寄せた。「汗をかいているの、夏蓮ちゃん」32話に続く
2008/11/26
「その風呂敷包みは、おまえさんの身代だよ。夏蓮」 金木犀の木の下で婆様が煙草を銜えていた。「桔梗が忘れ物として取りに来るだろうから、おまえさんが持っておおき」 風呂敷包みの隙間から一万円札の束がいくつも見えた。取引はされていたのだ。「ああ、上客を逃したねえ。明日からまた頑張るとするかいな」 婆様の吐き出した煙が金木犀の葉にかかった。深い緑の葉に濁った煙は浄化され、やがて消えた。煙の行方を見ていたら悠弥さんが手を握ってくれた。指と指を絡めて、そしてぎゅっと握ってくれた。「二人共、座敷に上がりなさい」 婆様の誘いに驚いて瞬きをしてしまった。「今宵の為に仕出しの料理が届けられていたのだよ。あれを片付けてから出て行きな」(えっ。婆様は許してくれたのか? いきなりどうしたのだろう?)「ああ、夏蓮。和菓子屋がおまえさんの為に粋な菓子を作ったそうだから礼を言うのだよ。それから花屋にも。今日の床の間の花は、上出来だよ」 婆様がこほこほと咽ながら土間に入っていく。その背中を見送ると皆が快哉を叫んだ。「格好つけて、あの婆様も嬉し泣きか。婆らしいことがしたいのさ、付きあってやりな」 しかしどういう心境の変化なのだ。「やり込めたな、夏蓮ちゃん、それにでかしたぞ、花屋の息子! 法律を出されたら後ろめたいことのある婆様は一網打尽だ」 和菓子屋たちが誉めてくれたが、僕は一安心だ。世を忍んで営業している楼だから、法律には関わりたくないのだろう。よかった、あっさりと引き上げてくれて。「それだけではないさ。夏蓮ちゃんには見えなかったかい、あの風が。悠弥も息を呑んだあの甘い風は夏蓮ちゃんの背中を支えていたよ。そんな事が自然界にあるものか。乱暴な客人を懲らしめようと線楽が来たとしか思えない。子を思う千楽の願いをようやく聞き入れたのさ、あの婆様が」 悠弥さんのお父さんは鼻を擦っている。かつての友人、と言っていたが何か特別な想いもあるのだろうか。 和菓子屋が暮れてゆく空を見上げて両手で手を振った。「夏蓮ちゃんはもう大丈夫だからな」「和菓子や、楽観は禁物だ。相手は私の息子だよ、大丈夫なものか。心配だよ。あいつはよく野良を拾うし、知っているかい、市場でも気に入った花しか仕入れないから赤字だよ、経営能力がないのさ……」 悠弥さんが頬を膨らませてお父さんの横腹を突くと笑い声が広がった。 折角なので皆で宴をしようと慌しくなった。始まる前に僕は座敷をそっと抜け出し、散らかった帳場を一人で片付けている婆様を訪ねた。どうしても聞きたい事があるのだ。「夏蓮かい」 僕が声をかける前に頬被りをした婆様が気付いてくれた。「婆様。署名をされなかったのは何故ですか、お金が入用だったのに?」 婆様は座布団を一枚遣してくれた。「もっと近くに座りなさい」 親しみのある声音に戸惑った。「あれは婆の気まぐれさ。……女手一つで切り盛りしているからね、舐められまいと生きてきたつもりだが。夏蓮、私はおまえが可愛い。玉石混淆の中で伝統を守ろうと張りを見せる姿がこの婆の頭痛の元であり励みだったよ」「婆様……」「昔の花魁の最高クラスである太夫もそう、金をいくら積まれても、その客人が気に入らなければ顔を見せもしなかったそうだよ。芸を売りにして華やかさを競う、浮世離れした世界を楽しませるのが粋な花魁だ。客人は綺麗な花魁と遊んで世知辛い世を忘れ、擬似恋愛を楽しむものなのさ。床が全てではないのだよ。そこが花魁の魅力であり、張りだ」 婆様の言葉に力があった。もしや若い頃に婆様も花魁として華を競いあったのではないのか……。「おまえを離れに隠し、床を嫌だというから多めに見てきた。綺麗な体のまま跡を継いでくれたらと願った日もあった。しかし苦労するのは目に見えている、私の代で楼を潰そうかともつらつら思い悩んだものよ。いっそ銭に執着するやり手婆になりきろうと踏ん張ったのにねえ」 婆様はため息をついた。そして自分の膝をぽんぽんと叩いた。それは昔見たことがある、父が死んだ時に喪主として気を張り続けながら、畳に座った瞬間に膝を叩いていたのだ。こみ上げる涙をぐっと堪え、無様な泣き顔を見せまいとするあの凛とした姿。「……年を取ったね。最後の最後で、売り渡す事はできなかったよ。いくら筆を持っても署名を書く気にならなくてね」 婆様が不意に天井を見上げた。その目は行灯の明りにきらりと輝いた。「札束を見たくなくて風呂敷に包み隠して桔梗に預けていたのさ。ああ、この弱さをよくぞ見抜いたねえ、花屋の跡取りは。たいした男だ、やつならこの華をくれてやっても良かろうな……」 帳場の隅に赤い花が飾られていることに気付いた。あれは……ダリアだ。「ふ。親戚になりますからと言う意味がようやく理解できた。粋な男だ。花を愛でる姿に芯の強さを感じ取ったよ」「悠弥さんが、婆様に? え、いつ?」「おまえさんが長湯していたときだろうね。逢引した仲なら最後の別れでもさせてやろうかと花屋から呼び出した私の前に、穏やかな表情で現れて見事な仕事を見せながら、口元を引き締めていたよ。覚悟を決めていた男の顔だった。まったく! こんな子供には勿体ない男前だ」 僕のおでこをチョイと突いてあははと笑った。婆様の笑顔を見たのは何年ぶりだろう。「婆様、笑っているのですか」「幸せになりなさい。そしてたまには顔を見せなさいな。おまえの知らぬうちにこの婆、あの世に呼ばれるかもしれないよ」「……婆様」「婆として、ようやく肩の荷がおりた」 長生きしてください。これからも僕の婆様には違いないのだから。 夜も更けて月の光が楼を照らしている。襖を取り外して十二畳に広げた座敷で宴は続いている。虫が入らなければ明り障子も開け放し、縁側の風情も楽しみたいところだ。「いやあ、本当は毒でも仕込んでやろうかと思っていたよ。そうでもして夏蓮ちゃんを護りたくてさあ」 小料理屋の店主は酒を飲んでよい調子だ。 鯛と鯨の刺身に季節の野菜の煮物、手鞠寿司と並んだ膳は食欲をそそるのだが、本当に毒の仕込みがないのか確かめたいのに店主はいびきをかいて寝てしまった。「夏蓮ちゃん、聞いたかい。あの婆様が今日は他の姫たちにお閑を出したそうだねえ」 櫛屋が満足そうにしている。「婆様も本当は夏蓮ちゃんを抱っこして可愛がりたいのさ、でもこの楼を受け継いだ以上、張りを見せたかったのだよ」 僕は婆様の気持を理解していなかった。不出来な孫だ。俯いていたら悠弥さんが側に来て髪を直してくれた。「あまり下を向くと花が萎れてしまうよ」「あ、はい」「ふふ。見事なお菓子の膳があるよ、いただこうか」 和菓子屋が誂えた今宵の上生菓子は薄紅色の練りきりを花の蕾にし、まるで尖らせた唇のように今にも花開こうと先がめくれた可愛らしい一品だ。添えられた金箔入りの錦玉が水滴を思わせる。これはもしや?「夏蓮ちゃんへ入魂の一品だよ。名はそのまま『泥中の蓮』としてみた」 和菓子屋が得意げに説明してくれた。「素敵です!」 食べるのが惜しくてどうしたものかとそわそわしていたら、悠弥さんが楊枝で一口分を取り「見て楽しみ、舌で味わうものだから」と食べさせてくれた。「美味しい?」「はい」 微笑みながら側にいてくれる、この心配りが嬉しい。沈む瀬あれば浮かぶ瀬ありとはこの事か。悪い事が続くものではない、僕は幸せに過ごす日々を迎えたのだ。「二人はまさに梅に鶯のあでやかさ。鹿乃子さん宅は賑やかになりそうでよろしいなあ」 見ていたのか、和菓子屋が頭をかいている。「夏蓮ちゃんは息子というよりもお姫様だな。あんなに綺麗な子が店先にいたら花も惚れ惚れするさ」 過剰な誉め言葉に耳まで熱くなった。それをやんやと騒ぎ立てるので困ってしまう。「ごめんね、皆、酔っぱらっているから」 人目を忍んでそっと耳朶を揉まれて、鼓動が激しくなる。じっと座っている体の奥が疼きだしてしまう。堪えようと瞼を閉じて首を振った。「婆様に挨拶しておこう」 悠弥さんがふらりと出て行き、それに釣られて皆がおやすみなさいねと出て行った。31話に続く一番長い話のような気がします…本当に、すみません
2008/11/25
離れの窓が開いていたのだろうか? しかし蓋を開けた覚えも無い。花弁をぎゅっと握り、今の僕を支えてくれる人の名を心の中で繰り返し呼んだ。(あの人がいてくれるから、僕は大丈夫だ)「夏蓮ちゃん!」 振り向くと悠弥さんが走ってきたのが見えた。手には白い四つ折の紙がある。「遅くなってごめんね。最初から帳場にしか無いと踏んでいたから」 息を切らしながら見せてくれた四つ折の紙は誓約書だった。僕を売買する旨を書き記した、存在自体が罪の証拠になる文書だ。「本来なら書き残す事はしないのでしょうけど、帳簿ですものね。実際に金額が動いたのなら書き記さねばなりません。伝統ある楼なら危険を冒してまでも書き記すでしょう、それが楼を護る事だとお考えのようですから」「なんだね、この若造は」 天網様は脇にいた男性を突き飛ばし、僕にぶつけようとした。しかし悠弥さんが僕の前に素早く立ち、男性を片手で伸して僕を助けてくれた。「これは契約書の形を取っていますから、本人である珠洲矢夏蓮の署名が無ければ無効です。しかも婆様、立会い人のあなたの署名も何故か抜けている。伝統ある身請けも、これでは不成立です。客人、お引取りください」「なんと!」 天網様がその誓約書を悠弥さんから奪い取ると舐めるように見直した。そしてぐしゃぐしゃに丸めて地面に叩きつけると、怒り心頭に発した様子で僕に向ってきた。口から泡を吹き、額には大粒の汗を噴出している。「金を返せ、そして迷惑料としてこの夏蓮を好きにさせろ!」 無粋な人だ。胸倉をつかまれるかと構えたが、なんと婆様が僕の前に現れた。「あやうく、一文惜しみの百知らずになる所だったよ。大事な孫をこんな野暮天に売ろうなんて」 婆様、この変わり身はどうしたことだろう。僕を売る気でいたはずなのに、肝を据えたこの態度、僕を護ろうとするこの枝のように細い背中に固唾を呑んだ。「牛若楼は<ちょんの間>ではございませんよ。特にこの夏蓮はおいそれと体を開く安い姫ではありません、粋を知らず欲望のまま激怒されるなら遊廓遊びはご趣味に合いませんのでお引取りください」 婆様が懐から扇子を出し、さらっと広げた。 富士山の絵が描かれたその扇子を悠々と仰ぎ、天網様を見据えている。さっさとお帰りなさいと言わんばかりだ。「流石はやり手か。千楽も手に入らず、その息子さえも拒むとは……。先の言葉は千楽そのものだった。奴は、私にそう言い放ったのだ……。嫌な事を思い出させる、忌々しい、これが格式か」 悠弥さんが杖を拾い天網様の手に握らせた。「若造、似合わぬ身なりだな。癪に障る」 礼の代わりに嫌味を言うとは呆れさせる。「申し送れました。鹿乃子悠弥と申します」「鹿乃子……。聞いた事があるぞ。ああ、そうか。絆とは断ち切れないものか。私のような成り上がりには見えなければわからぬが、しっかりと根を這って、そして互いを結び付けたか」 天網様が呻いて地面に頭を垂れた。「奴は……そんな報告を一度もしてこなかったな。気が回らないやつだ。おい、誰か奴を連れて来い」(奴?) すると野次馬の集団の中から桔梗が姿を現した。奴、とはまさか、桔梗のことなのか?「ここに全部揃っていますよ、彰人様」 風呂敷包みを抱えた桔梗は、それを無造作に地面に置いた。重みで砂埃が舞う。「あなたの大好きなお金ですよー」「口が過ぎるぞ、桔梗! 下端の分際で彰人様に対して……」 胸倉をつかむ男性を軽く放り投げると、両手を払った。「ははは。俺は夏蓮さんよりも誰よりも力がありますのでねえ」手を腰に当てて豪快に笑うと、僕に歩み寄り深く頭を下げた。「夏蓮さん。今日までお世話になりました。あなたの想いを遂げられるよう、俺も力を尽くしますよー」 いつもとは雰囲気が違うので面食らった。それに元々、天網様の手の者なのか? 桔梗は何も言えない僕に今一度礼をすると悠弥さんに向き直った。「その心意気に負けました。夏蓮さんをお願いします」 悠弥さんも驚いて目を丸くしている。「桔梗さんは客人の身内だったのですか?」「はあ。親分さんの貪欲な性のお蔭で色色な遊廓を渡り歩きお相手を探す密偵でした。どうも夏蓮さんが良さそうだと白羽の矢を立てましたが」 やれやれ、と両手を広げて見せた。「そこらの姫のように客人と適当に相手をして、世の中を上手く渡り歩けばよいものを、強情に行為を拒む。そして三十分も歩いて花屋の息子に会いに行く。恋をする普通の子ですよ、健気でねえ。見ていたら情が移りそうで参りました。あーあ、俺には親分さんの妾探しは向かないですわ、さっさと辞めて楽に生きますわ」 はははと楽しげに笑うが、その筋の組織ならそう簡単に抜けられないだろう。「桔梗」 どうにか助けてあげられないだろうか。僕にできる事は無いのか?「夏蓮さん、幸せになってくださいねえ」 桔梗は天網様を抱えあげると車内に押し込んだ。そしてドアを閉めると、脇にいた男たちが桔梗を別の車に乗せてしまった。 僕は風呂敷包みを抱えて車に駆け寄ったが、悠弥さんが車道側に立ち「危ない」と僕を引き止めた。車は突然発進し、排気ガスを浴びせながら走り去った。30話に続く
2008/11/25
「この婆を監獄にぶち込みたいと?」「そんなことはしたくない! 僕の唯一の肉親だから。お願いです、身代を天網様に返してください」「もう、遅いのだよ。哀れな夏蓮」 ゴゴゴと唸る音が響き、使用人が力任せに大門を開いた。午後三時を過ぎたばかりだというのに、冷やかしの素見が集まっていた。「おやおや、美人がお出迎えか」「やり手の婆様。この子はいくらだい?」 冷やかしが門をくぐろうとしたら「これ」と婆様が一喝した。「一見さんはお断りだよ。由緒正しき場所だからね、馴染みの紹介が無ければこの子の名前も明かさないよ」「ちぇっ、お高くとまりやがって」 ざわつく門前にクラクションが鳴り響いた。銀色の光りを放ちながら漆黒の車が突き進んできた。「危ない! こんな狭い道に車は入れないだろうが!」「どこのどいつだ! 人を轢きたいのかい」 冷やかしが壁に張り付いて車を除ける。「この道は通行禁止のはずなのに……」 父の千楽が事故死してから二度とこの道は車両の侵入は許さなかった。もとより道幅の狭さから車両は通行禁止になっているのだが、法律を護らないその黒い車に唖然としていた。「道を開けなさいな。そんじょそこらのお人ではないのだからね」 婆様の指示で使用人が群がる野次馬を蹴り散らかした。目立つ騒ぎになりつつあるので警察の巡回が来ないか不安にかられた。 喧騒の中、車から降り立ったのは屈強な男性たちだった。この張り詰めた空気に隠し切れないのは火薬に近い硝煙の匂い。僕を買った人はやはり堅気ではなかった。「出迎えご苦労様です、夏蓮さま」 恭しく頭を下げる屈強な男たちに身構えた。「どうなさいました。彰人様はこちらです、さあ、ご一緒に座敷へ行かれないと」 後部座席のドアが開き、好色そうな赤ら顔で天網様が現れた。「夏蓮。今宵は一段と艶めいておるな」 杖を頼りにぬっと立ち上がり、黒いスーツを着た男性が両脇を抱えた。酒臭い息が充満している。かなり呑んでいるようだ。「病床にあったと聞いたがなんとも、色気が増しておる。しかもどうだ、この気高き瞳は。まるで私を睨みつけるようで興奮するぞ」 一歩、また一歩と僕に近づいてくる。先日のような恐怖は無かった。僕には迷いが無いからだ。「天網様。身請けの件はお断りいたします」 垂らした帯を両手で持ちながら僕ははっきりと断った。「……なんと申したか、この私を袖にするとはいかな覚悟だ?」(聞えないなら何度でも言ってやる) 息を吸い込むと、不意に背中をどんと叩かれて前のめりに倒れた。裸足のつま先に小石が当たり赤く腫れた。顔を上げて誰の仕業と思えば、やはり婆様だ。「ささ、座敷を用意してございますよ。今宵はい続けなさいませ。その為にこの夏蓮、磨きをかけております」「婆、黙れ。のう、夏蓮。先の暴言はどのような意味だ。正して見せなさい」 天網様が杖を投げつけた。座り込んでいたので除けきれず肩にグリップが当たり重い痛みを感じた。野暮な客人を相手に、どうしてこんな酷い目に遭わなければならないのか。しかし怯んではいけない。「申し上げたとおりです」「はあー。聞えぬなあ? もっと大きい声で言ってみろ」(肩が痛い、それに僕を蔑む目つきが嫌だ) 悔しくて唇を噛むと、どこからか柔らかい風が吹いてきた。それは僕の着物の裾を包み、袖を持上げ、ゆっくりと立ち上がらせてくれた。頬にかかる髪さえも風が煽り、乱れを直してくれたようだ。まるで誰かが側にきて助けてくれたような錯覚がした。(悠弥さん? 違う、これは) その風は甘い匂いがした。これも錯覚の一つなのか、でもこの蜜のように甘い匂いには僕は覚えがある。あの日だ、羽織袴を着ていたあの日、折角貰ったのにボキボキと形無く折れた千歳飴……。 父と共に僕の元に二度と帰らなかったあの匂いだ。瞼を閉じると泣いてしまう、いけない、ここはどうしても退くわけにはいかない。(……お父さん、力を貸してください)「何度でも申し上げます。身請けはお断りです。僕の人生を金で買う人は相手にいたしません」 その声は僕なのか。唸る風のせいで声は二重に響き、言い切った僕は放心していた。 今、自分がまっすぐ立っているのかさえわからない。足の力が抜けて不意に座り込みそうになった。しかしたちまち向い風が吹いてきて、僕を支えてくれた。(これは、一体) やがてどこからか嗚咽が聞えてきた。見渡すと和菓子やと櫛屋が泣いていた。人目を憚らず悠弥さんのお父さんも鼻を鳴らし涙を流しながら頷いている。そして小刻みに震える両手を合わせて拝んだ。「そうだよ、金ではないのだよ。なあ、千楽。おまえの息子は、ここまで我慢したぞ。大きくなっただろう、誉めてやってくれ!」 声はやはり僕のものではなかったのか。(お父さん? お父さん!) しかし姿はこの目に見えない。芙蓉の木の葉を揺らす風は僕の頬を撫で、髪をふわりとかきあげてダリアを結んだおだんごの髪にも触れた。 そして肩を包むように風は下りていき、不意に胸の下で結んだ帯が押された。まるで『しっかり立ちなさい』と言われているような感覚。あの時と同じだ、七五三のお参りの帯を締めてくれた……。「お……父さん?」(お父さんなら行かないで! 僕を残して行かないでよ、ここに……) 震える唇に何かが付いた、手に取ると花弁だ。この色には見覚えがある、とても珍しくて人気があって……。(悠弥さんのくれた、フラワーボックスのクチュリエだ)29話に続く
2008/11/25
いよいよ壁の時計が三時を指した。その針の動いた音が聞え、婆様が再び櫛を触った。「夏蓮は渡せないね」「婆様!」 悠弥さんが僕なんかの為にここまで決意してくれたのに。「夏蓮は我が事ばかりに気を回し、いつまでたっても自分で行動すらできない甘えん坊だよ。いつも誰かが助けてくれるのを待つ、独り立ちができない子さ。だからこそ妾なら勤まるとこの婆は考えてやり、良い縁談があるのにどうしたことか!」 とうとう婆様は立ち上がった。しかし逃がすわけにはいかない。「婆様、待ってください。僕の離れを潰してください。少しは足しにはなるでしょう? それに今までの小遣いを全部渡します。僕の我侭をどうか許してください。悠弥さんの元に行かせてください」 婆様が僕を見上げた。馬鹿馬鹿しい、と履き棄てる声がした。「子供のお使いではないのだよ、夏蓮。この婆が芸のないおまえをこれほどまで思いやったのに、面子を潰す気かい」 目尻の皺は幾重にも重なり、その一つ一つをこんなに詳細に見つめた事はなかった。もはや粉の乗らないくたびれた肌に哀れみを覚えた。すると気丈な婆様がまるで猫のように自らを大きく見せようと胸を張り威嚇する姿に変貌した。「使用人はどうしたのかね。使えない奴らだよ。お二人さん、もはや大門を開く時刻だからねえ、下がった、下がった」 着物の裾を蹴り、慌てて出て行こうとする婆様に悠弥さんがすくと立ち上がり行く先を塞いだ。「なんだい、まだグダグダと話すつもりかい。聞きたくないよ」「婆様。今日は夏蓮の誕生日ですよ。お忘れですか」 悠弥さんは姿勢正しく婆様に向いて淡々と説き伏せた。「それなのに、売るのですか」「……は。……花屋風情が、何を言い出すかと思えば!」 婆様が畳の上で足を鳴らした。「犬や猫ではないのだよ。この年まで育てたこの夏蓮、おまえさんが予想する以上の代価で買われたのだからね! 諦めることだよ」「諦めません。そんな薄い感情ではありませんから」 激する婆様に動じない悠弥さんの態度に僕は胸が熱くなる。(こんなに想って貰えたなんて……。悠弥さん、僕はあなたに似合う相手でしょうか? 僕なんかで良いのでしょうか?) 落涙した僕に婆様が息を呑んだ。しかしすぐに般若の面に戻り足を踏み鳴らした。「……さあさあ、おどきよ。おまえさんの器量ならいくらでも良い女がつくだろうさ」 老いの一徹で耳を貸そうともしない。何度も櫛を押さえていた鬢から、はらりと髪が乱れ、意地を張ったその首には青筋が浮かんだ。「婆様。……卑怯だ」「なんと? 夏蓮」 ぜいぜいと荒い息を吐くその老いた姿には立ち向かえない。ヒステリックに言葉を打ち返す姿に怯んでしまう。 僕はどんなに軽んじられても育てて貰った恩がある、乱暴は出来ない。一瞬の躊躇で婆様を廊下へ逃がしてしまった。「そこをおどき! 大門を開くのだよ!」 土間を陣取った和菓子やたちが婆様を落ち着かせようとするが、狂気に満ちた婆様に圧されまんまと駆け出させてしまった。 牛若楼の石灯籠に明りが灯っていた。橙色のそれは外壁に施された孔雀の飾りつけを照らし出し、大門のしびを睨み上げていた。「大門を開けるのだよ。上客のお見えだ」「婆様! やめてください」 婆様を追いかけて裸足のままで出ていた僕を般若は勝ち誇った顔で見上げた。「私の孫なのに躾が足りなかったね。姫支度といい、天網様に詫びを入れねば」 婆様は息を切らしながら衣文を正した。この老いたくせに女を忘れぬ身振りが僕を憤らせるのだ。この腹黒さ、一筋縄ではいかないが、負けられない。「いくらいただいたのですか」「何のことだい」「身代を返したいのです」「まだそんなことを言うのかい。勘弁しておくれよ」 のらりくらりとかわしにかかる。これでは交渉にならない。ならば……。 僕は喉元で堪えていた言葉がある。それはいくら伝統とはいえ、身請けは人身売買に当たる事実だ。 互いの育んだ愛ゆえに身請けされるのは表向きは晴れがましいが、対価が支払われるのは犯罪だ。しかも僕の場合は本人の承諾を抜きにして話を進めていた。やはりおかしい。僕は覚悟を決めた。「この身請けは不成立ですよね、婆様」「……おや」 僕の声色は無意識に低くなっていた。漠然とした不安の中で、僕は疑惑を口に出していた。不成立、その言葉に反応した婆様は草履で落ち葉を潰した。「婆の言う事に逆らいながら、逃げ方も知らない野鼠と思いきや、どうしてそこに気がついた?」「……僕は未成年ですから児童買春法違反です。そして婆様は売春あっせん業者として、労働基準法違反、売春防止法違反で楼の閉鎖及び三十万円以下の罰金刑が課せられるはずです」 学生時、友人のいない僕は学校で教科書や資料を読みふける時期があった。それは悠弥さんに出会えてからも続いた。悠弥さんと話がしたくて花の本を読み知識を得ながら、資格勉強も始めた時にふと法律に手を伸ばした。 僕は楼の古い慣習に捕らわれているが、現実の社会とは異なるものばかりだ。その最たる児童福祉法を見つけたのはすぐの事だ。牛若楼が世間をあざむいて売春行為をあっせんしている。家業を恥じる気持に油をさした結果ではあったが、僕は自分を護る法律がある事を知ったのだ。先に悠弥さんが話してくれたのも、この事実を指しているに違いない。 しかしそれは諸刃の剣だ。僕が警察にその旨話せば犯罪が明るみに出て、婆様は当然だが僕やここにいる姫たちも片棒を担いだので犯罪者となり、この楼は取り壊しになる。 婆様は自慢の楼、そして住む家を失うのだ。いくら気丈とはいえ、高齢の婆様を追い込む事はできないと僕は口に出さずにいたのだが。28話に続く
2008/11/25
では、と軽く頭を下げて悠弥さんは僕を連れて歩き出した。見返ると桔梗は平伏したまま動かなかった。 桔梗は婆様の指示どおりにしか動かず、たまに口を開けば僕を貶める事しか言わなかった気がする。不器用だったのだろうか。僕は悠弥さんが言うように桔梗から想われた明確な記憶はないのだが……。「さてと。真打は帳場に見えるのかな」 悠弥さんがまっすぐ前を見ていた。タイル貼りの土間の脇に婆様の部屋を兼ねた五畳の帳場がある。いつもそこで煙草を楽しみながら帳簿をつけているはずだ。「よく、ご存知で……」 階段を下りながら驚いていると、悠弥さんは余裕があるのか微笑んでくれた。「親父に聞いて、この楼の見取り図は頭に入れてある。しかし見事な建物だよね。明治時代の建築には貴重な材木を惜しみなく使っていたと聞いたけど屋根瓦がありながら魔よけの朱塗りの壁とか独特で、外国文化を取り入れた当時の開国ぶりを思わせる。立派だよ。これを守る婆様には畏敬の念を抱くよ」 楼の歴史背景も調べたのであろう悠弥さんの言葉には暖かな響きがあった。それは僕の唯一の肉親である婆様に対し、きちんと話をしたいという真摯な気持の表れだった。 僕ならまた感情的になり平手打ちになるところだっただろう。(年の差、かな。いや、人柄だろうな) 帳場へ行く為に土間を過ぎようとしたら、そこには呉服屋と櫛屋、和菓子や等出入り業者が勢揃いしていた。悠弥さんのお父さんの姿もある。「皆さん、どうして?」「なあに、賭け事よ。夏蓮ちゃん。鹿乃子のせがれがやり手の婆さまに勝てるかなとね」 憎まれ口を叩きながら、土間を埋め尽くし、客を入れない構えだとわかる。そこまでしてもらえるなんて……。「いざとなったら、飛び込んでかき回してやるからなあ!」 いつも見事な和菓子を出してくれる和菓子やの店主が力瘤を見せてくれ、賑やかな声が背中を押してくれている中で悠弥さんのお父さんが咳払いをして皆を静かにさせた。「二人でここに戻って来い。そして花屋に帰ろう。それまでは何があろうとここから頑として離れやせんよ」「どうしてここまでしてくださるのですか」「一矢を報いたいのさ。さあ、行きなさい」 力強い言葉を発しながら目元を擦る。「千楽が見ていれば……」と聞えた気がした。 明り障子は開いていた。文字を書く時は眼鏡を手放せない婆様は、あの騒ぎが聞えていただろうに、平然とした様子で座卓の前に座り、南天模様の硯箱を手にしていた。「失礼します」 悠弥さんが畳に手をつきお辞儀をした。「鹿乃子悠弥と申します。先だっては仕事の依頼をありがとうございました」 しゃんと背筋を正し、足も崩さずに婆様を見つめている。こころなしか空気が変わったように感じた。いつもの悠弥さんの香りがするのだ。ほのかな花の香り、そして葉をちぎり体裁を整えた軸のあの青い香りが、この銅の匂いの染み付いた帳場に生気を流し込んでいるのだ。婆様もそれに気付いたか、悠弥さんを見、そして僕を見た。「おひな祭りかね、今日は。二人して、綺麗なものだよ」 ため息混じりに婆様が硯を置いた。そして僕に矢を射るごとく照準を合わせた。「仕込みまで頼んだ覚えは無いのだけどね。しかし、何と熟れた瞳になったものだろう。今朝方は青いまま売られる果実のごとく食えやしない体だったのに、これはとんだ姫君だよ。このまま張見世に座らせれば稼ぐだろうねえ……」(金の事ばかり。この婆様には僕なんて金の成る木にしか見えていないのだ) 真正面に対峙して座ると、身内とはいえ憎憎しい感情しか沸き起こらない。「さてと、夏蓮。その険しい眉を下げないか。天網様の前でその顔をぶら下げるつもりかい、鑑を見ることだね。それから鹿乃子の跡取り。この楼を重んじて羽織袴で来た事に感服したよ。若いのに、出来た者だね。そこまで相手方を重んじる事が出来るならこんな姫を相手にせずともよかろうに。間がさしたのかい」 頭ごなしの否定ではないが、婆様の言葉が攻撃を始めた。「おまえさんの事を知らぬ体ではない。夏蓮の父親である亡き千楽の友人、鹿乃子の一人息子となれば関わりを持たずともこちらは警戒する。この楼に立ち入らせなかったのはその為だ。しかし報告を怠るお目付け役のせいでねえ、夏蓮がおまえさんに会いに行っていたと知ったのはついさっきさ。親子二代の因縁を感じたよ。千楽が夏蓮を連れて楼から逃げようと画した時、頼りにしたのは鹿乃子、おまえさんの親父さんだからね」 婆様が櫛を指先で押して鬢を整えた。落ち着かないのだろう、もうすぐ天網様も来るはずだから。「知っていたかい、跡取り」「いいえ。千楽さんは見かけたこともございません。俺は幼少時隣町で母と住んでおりましたので」「お亡くなりになったそうだね」「はい。それで父に引き取られ、この町に来たのが十年前になります」(そんな事があったのか) 僕は悠弥さんのことをまるで知らずにいた。 自分が素性をひた隠した引け目で何も聞けずにいたのだ。初めて会った時でさえ赤い目をした悠弥さんを労わる事も慰める事もできず、それからも只会うだけで過ごしてきたのだ。 悠弥さんにしたら素性の知れない僕に自分の事を話す気になれなかったかもしれないが、壁を作っていた僕にいつも優しくしてくれたのだ……。その気持こそ形のない無償の……。「湿っぽい話は切り上げよう。さて、跡取り。如何な用事だい。店開きの時間が迫っているので手短に願うよ」 少しは聞く気があるのだろうか。婆様は煙草盆を取り出した。「では。婆様、お願いに上がりました。珠洲矢夏蓮さんを俺にください」 婆様はちらりと悠弥さんを見、そして煙草に火をつけた。しかし格好だけだ、落ち着かないのだろうか……。「あえて野暮を言うが、この夏蓮は客人に半端な額で買われたのではないのだよ」「俺は夏蓮を金で買うなんて無粋な真似はしたくないです。しかし遊郭の仕来りならば全財産を投げ出しましょう。店を潰します。あと隣町に土地もあります」(そんな覚悟で……。申し訳ない) 僕はこの無謀な決意を翻すように悠弥さんの横顔に無言で訴えたが悠弥さんは動じない。そして婆様は瞼を閉じて違う、違うと言いたげに煙草を揺らした。白い煙はあてどなく漂い、うっすら広がる。「惜しくないか、跡取り。しかもあの店はおまえさんの名義ではないだろうに」「いずれは」 悠弥さんの迷いの無い口ぶりに、婆様は額に皺を寄せて煙草を揉み消した。「幼い時分に辛さを知ると人に優しく出来るという。まさしくおまえさんがそれか」27話に続く
2008/11/23
その為に羽織袴を持ってきてくれたのか。悠弥さんの揺ぎ無い想いに心が熱くなる。この牛若楼の仕来りを重んじて正装になってくれるとは。「ありがとうございます、でも……」 悠弥さんの気持が嬉しいけど、あの婆様が承知するだろうか。代価はどうするのだ、もしや店を売る気では? 「無理をしないでください。僕が一人で婆様に話をしてきます」「夏蓮ちゃん、それはいけない」 制する悠弥さんに寄り添うと、つま先立ちでそっと唇を重ねた。「悠弥さん、あなたに抱かれて僕は勇気が持てました。あなたと生きたいです、僕にはあなたしかいませんから」 ……僕が何を言おうと婆様は却下するのだろう、しかし諦めるわけにはいかない。愛する人と一つになれたこの喜びを、どうして他の人が与えてくれようか。生きる意味を知った。僕は悠弥さんと一緒にいたい、その為に古い慣習に捕らわれたくはない。「泥の中で俯いていた僕を救い上げてくれた悠弥さんを愛しています。あなたはかけがえの無い人です。僕はあなたの側にいたいから自分で楼との縁を断ち切って見せます。あなたに迷惑をかけたくないのです」「迷惑なんて無いよ、夏蓮ちゃん」 なんてありがたい声だろう。身も心も預けたい人は悠弥さんだ。この人と共に生きられるように、僕は自分の気持を揺るがせない。 この着物の代金も育てて貰った恩も手持ちの金では不足だろう、だけど。「悠弥さん、僕が身一つでも受け入れてくれますか」「当たり前だ」 悠弥さんが抱き締めてくれた。それは狂おしいほどに強く、息が苦しくなるまで胸を圧迫し、真実の想いに涙が零れた。「よく聞いて、夏蓮ちゃん。きみを貰うのだから俺が婆様に挨拶をするのは当然だ。そこで何が起ころうとも、俺はきみを花屋に迎え入れるからね」 細い腕なのに頼もしい。僕の手に触れたのはどこまでも羽ばたいていける背中の翼だ。「婆様の元に行こう」 悠弥さんが僕の涙を拭きながら、とあることを話して聞かせてくれた。「楼と似た部分がある気がして」 それは最近、目抜き通りにある外国人パブが警察の家宅捜索を受けたニュースの話だ。不法入国者は全員強制送還されたが、どうやら人身売買のブローカーが存在したらしい。「人を売買するのはいけない事なのだよね。人も、その気持もお金には変えられないのだから」 神妙な一言に、僕は明りを見出した。学生時に僕の頭の中に入れた知識と符合した。(いざとなれば……。僕も監獄に入る覚悟で挑もう) 顔を上げると悠弥さんが「そんなに怖い顔をしないで、喧嘩をするのではないから」と僕の右手を握ってくれた。 誇らしい横顔にときめいた。僕の愛する人は誰よりも強く揺ぎ無い精神の持ち主だ。 この先、鬼が出るか蛇が出るか。まずはこの明り障子の向こうにいる桔梗だ。あの大男をどうかわせばいいだろう。しかし屈したくない。僕に会いにきてくれた悠弥さんのこの暖かい手を話すものか。明り障子を開けると果たして桔梗は縁側に腕を組んで仁王立ちをしていた。僕を見下ろすその冷めた目つきに、蔑む感情を読んだ。「そこをどいて、桔梗」「……夏蓮さん。どくのは構いませんが、この男はどんな価値があるのですかね? あなたの色香に負けた、いわばこの牛若楼に来る客人となんら違わないでしょうに」「桔梗、おまえにはわからないのだよ」「いいえ。よくわかっていますよ。朱に交われば赤くなるとは言ったものだ、あなたも牛若楼の姫ですからねえ。その貪欲な性が証拠ですよ。そうか、この人がどんなに清らかであろうとも、見事に誑かしたというべきでしたか……」ぐっと拳を握りその腹を突こうと構えたら悠弥さんが制した。(悠弥さん? この桔梗はあなたを侮辱しているのに)「桔梗さん。同じ男だから考えるよりも先に動く、衝動的な性欲があるのはおわかりですね。処理しなければ耐え切れない男の性質の為、遊廓は存在している。娯楽と欲望を満たす浮世離れした空間は男には必要だ。しかし俺の気持は力で求めお金で取引するほど安くも浅はかでもないのです。夏蓮を抱くのが目的ではない、側にいて共に生きたいのです。この気持に代価などありえない。計ることはできないのだから」 悠弥さんは遊廓の存在を肯定した。一般の人には悪所と言われ眉を寄せる存在なのに、男の性として必要だと言ってくれた。 この言葉は僕がこの十九年間恥じていた人生を覆してくれた。「桔梗さんも同じと見ましたが、俺の勘違いですか? 愛する人の泣き顔を見るのは辛い、笑顔を護りたい。自分の気持で動けるはずだ、それが生きる証でしょう? それなのに誰かの言いなりに動く人生なんて、悲しいと思いませんか」 黙ったままの桔梗に悠弥さんは語りかけた。桔梗はそれを静かに聞き、腕組をやめてふらりと腕を下げた。悠弥さんの言葉に思い当たる節があったのか、天井を仰ぎ瞼を閉じた。「俺を雇った婆様の言いつけを護るのが俺の仕事です。夏蓮さんをかばおうとも思わず。……金か、それがあれば幸せになると思っていたが俺は楼に来てから一度も満たされた気持にはなりませんでした。嫌がる子を無理やり座敷に閉じ込める仕事は楽しくないですよ。床の間の花よりも愛らしい夏蓮さんは、いつも俯いていたからねえ。それを見て嫌味の一つも言ってしまう。自分の考えを信じて俺は夏蓮さんを傷付けてばかりいた」 ぼそぼそと呟き見るからに力を無くした大男をよけるのはたやすいが、悠弥さんは桔梗をまるで今にも崩れ逝く砂の塔を見守るごとく、その姿を見つめていた。静かな空気が流れ、今までの言動を風が攫うのを待っていた。 悠弥さんは侮辱されても、この桔梗を許そうとしているのだ。本心に気付いた人間が膝をつき、その手で自分の立っていた位置を確かめると、それはあまりにも狭い世界だった事だろう。 殺伐とした人間関係を象徴するかのように廊下の板は知らぬうちに所々へこみ、塗装もはげていた。 僕が嫌う匂いを漂わせる老朽化した楼に、桔梗は何を求めて舞い込んだのか。「僭越ながら桔梗さん、あなたの体格ならいかような仕事にも就けるでしょう。そこでいつか、護りたい人に出会ったら間違えないでください。俺はあなたが夏蓮を憎からず思っていたと感じています。だから、あなたは悪い人ではない」26話に続く長いなあ。すみません。
2008/11/23
「滑らかな肌をしているのだね」 僕は意を決しその手を握ると、自分の奥に誘った。どうしても触れて欲しい秘所へ導くと僕は悠弥さんを失礼して跨いで膝を畳につける。悠弥さんの指はいよいよ足の付け根に触れた。「ん! 夏蓮ちゃん、下着は?」 驚いた悠弥さんが少し大きな声を出した。「着物のときは、付けない……のです」 返事をするのも苦しくなってきた。体が火照ってしまう。「そう。ん、夏蓮ちゃん。これ以上は」 悠弥さんの頬も紅潮していた。「俺も男だから止められない」 その指は僕の茂みに触れ、際まで弄っている。「あ、ア……」 口元を袖で覆い隠し、喘ぎ声が漏れないように耐える。しかし悠弥さんの指が僕の感じる箇所を丹念に触れてくれるから、体が疼いて息が荒くなってしまう。まるで糸を伝うように僕の欲望は確かに悠弥さんに伝わり、叶えてもらえたのだ。「あ、あの。僕、声を堪えます。自信は無いけど、我慢しますから。だから……」 おねだりの一言が恥かしくて言えない。鼓動が早まるだけだ。どうかわかって欲しい。「夏蓮ちゃん。俺は着付けもできるから」 腿を撫であげられて体が反った。誘いの声を受けてようやく勇気を出せた。「……この体に、先の約束を刻み付けてくださいますか」 懇願に悠弥さんが動いた。僕を抱き寄せると唇を吸い、首筋を舐めていく。そして衣文をずらして露わになった胸をそっと揉んだ。 親指で乳首を擦り、起き上がったそれを指で扱く。「ア……ああん、んっ」僕は思わず漏らした声を両手で抑えた。「夏蓮ちゃん、喘いでいいよ」 悠弥さんが乳首を口に含んで舐る。その舌の感触が心地よい、零れる唾液が体を伝い小袖を濡らしていく。優しくて暖かい愛撫に下半身まで疼きだす。「んっ、ん……気持いい……あ。あ、蕩けそう……ん、クウウン!」 悠弥さんに乳首を吸われて、僕の理性は飛び、芯に炎が燃える。興奮して猛る自身が顔を出し、先を濡らしていた。「はあ、アアン……いや、も・もう」 腰をひくつかせる僕に悠弥さんは唇を重ねた。何度もキスをしながら僕の自身を扱き、ぐいぐいと駆り立てた。息が苦しい、声も出せなくて涙が滲む。でも凄く嬉しい……。(んっ! あ、もう出ちゃう、……ああっ) 興奮して体を大きく反ってしまった。慌てて畳に手をつき、倒れずに済んだが息が切れそうだ。「は、はあ……いや、暑い……」 帯は既に解けて小袖もめくれてしまい、長襦袢をわずかに残しただけで、もはや僕は何も隠していなかった。 上気した肌は僕の荒い呼吸に合わせてうねり、おへそに汗が染みる。じっとりと湿った茂みに支えられた自身は放出を願い、いきり立っていた。(恥かしい) 羞恥心で体が一層熱くなったのに、僕は股を閉じることができない。(悠弥さん、触れて欲しい!) 声に出せず、ただ焦れていた。目尻に涙が浮かび、つと流れた。震える内腿にようやく悠弥さんが掌を当てた時、僕は我慢しきれず先走ってしまった。「あ、ああん……」 どろどろと流れる液が空しい。悠弥さんに触れられてから出したかった。「いや、あ……」 流れる液が重ねの小袖を汚し、悠弥さんの指も濡らした。「綺麗だよ、夏蓮ちゃん。こんなに綺麗な華を俺は初めて見た」 そしてベルトを外し、ジッパーの奥から悠弥さんの猛る自身を見せてくれた。僕のよりも大きく突上げた逞しいそれに腰がわなないた。「震えないで。……怖い?」「……いいえ、嬉しいのです。僕は……ずっとこうしたくて焦がれていました」「俺も、ずっと一つになりたかった」 悠弥さんが椿油を取り出した。それを丁寧に僕の秘部に塗り始めて、その弄る感覚だけでも失神しそう。「ううん、あ、あん。ん……あ、止めないで、あ、そこっ。ん、んー……」 吐息が混ざる声はかすれていた。あんな所を愛する人に弄られているなんて、じっとしていられなくて指を噛んだ。「お願い、もっと奥に……。悠弥さん」「夏蓮ちゃん、感じているのだね」「……は、アア! な、なに?」 悠弥さんが僕の袋を揉んでいた。この痛みに唸りながらその先の快楽を見出そうとする。急に腕の力が抜けて体は畳に受け止められた。「艶かしい」 悠弥さんの自身がようやく僕の中に入ろうとしたが、股を割くような痛みと熱さが……!「あ、ああん! 悠弥さん、悠弥さん!」「夏蓮ちゃん、大丈夫だよ、落ち着いて」 濡れた秘部が自身を進ませ、悠弥さんが突上げる度に僕はたらたらと液をこぼした。弾けあう肌と畳に擦れる衣擦れの音が耳に響き、僕を煽る。「もっと、もっと来てください……。ア、アアア! く、ウン。ん、ん……」 揺さ振られる体が心地良い。吐息が悠弥さんの髪にかかり、悠弥さんの汗が僕の胸元に落ちる。「あ、ああっ。も、もう・い・イク……悠弥さん、悠弥さ……ウン、んー!」 悠弥さんの腰がガクガクと小刻みに震えて、僕の上にどさりと体重を乗せた。「あ、ん……」 荒い呼吸が聞える。そして僕の臀部がぐっしょりと濡れているのもわかる。「夏蓮ちゃん……大好きだよ」「僕も、あなただけなのです」 愛する人と抱き合って互いの体温を感じる事がこんなに満たされる行為であり、照れながらも自然に微笑む事ができるのは幸せだと初めて知った。僕は、悠弥さんを愛している。僕にはこの人だけなのだ。「ああ、目が腫れてしまう」 手桶の水で濡らしたタオルで僕の瞼を冷やしてくれた。淫らに滴る股間は、悠弥さんが沢山の花弁を浮かべた冷水で清めてくれて香りがうつった。それにしても優しく洗い流してくれるので屹立してしまい、慌てて隠す僕の手を開き、悠弥さんが胸にしがみつかせてくれた。僕は腰を震わせながら悠弥さんに導かれて花弁の中に液を放出した。「恥かしい……」 股を閉じようとしたらそっと手を差し込んで開かせて「艶やかな花だよ」と僕の自身をタオルで包み、水滴を拭き取ってくれた。 鼓動が激しいままで落ち着かない。悠弥さんは僕の指先にキスをしてなだめて、身支度を整えるのを手伝ってくれた。 汗や液のついた部分は霧吹きをかけて馬毛のブラシで丁寧に応急処置をし、見栄えを保てた。 液を放出したせいかぼんやりしながら花や手桶を片付けていると、悠弥さんが楼では見かけないタトウ紙をおもむろに開いた。(何をしているのだろう) 見ると羽織袴だった。悠弥さんは手際よく一人で着付けると後ろ髪を縛り、僕と同じダリアの花の蕾を結んだ。「婆様に話をするから一緒に行ける?」「話って……」「夏蓮ちゃんをくださいって」25話に続く
2008/11/22
唇が重なった。僕が悠弥さんの腰に手を回すと同時に舌が口の中に入ってきた。それは僕の舌を突いては撫でて、唾液を吸った。「あ、ん……」 離れた口から名残惜しげに漏れる自分の声に顔が熱くなった。「あ、あの」と目があわせられなくて戸惑うと、悠弥さんが僕の耳に触れて、そして首隙を撫でた。「あ、悠弥さん」 顔だけではなく体も熱くなりそうだ……。「夏蓮ちゃん、返事を聞いてもいい?」「え、返事?」「この街を一緒に出てくれる?」「それは……」 今晩、天網様に貰われてしまう僕にそんなことを言ってくれるのか。「悠弥さん、もう会えなくなるかもしれないのですよ。僕は買われたのですから「一年早いけど迎えに来たのだよ。俺と一緒に暮らそう」 強くて優しい光りを秘めた瞳だ。僕を励まして包み込んでくれる。一緒に町を出たい、共に暮らせたらどんなに幸せだろう。「遊廓の仕来りがどうであろうと時代が違う。買われたなんて、身請けなんて無効にさせてみせる。何にも負けないよ、夏蓮ちゃんは俺の大事だから」「……悠弥さん」 生きていて良かった。悠弥さんに会えて、僕は救われたのだ。可能なら今すぐから悠弥さんと暮らしたい。 しかし天網様が僕の代価をいくら払ったか知れない。『山が一つ買える額』とは見当がつかないが牛若楼が代価を受け取った以上は、僕は天網様のものとなるのだ。それを返却しなければ無効にはならないだろう。その代価は婆様が保管しているのだろうか、やはり婆様を説得するのが不可欠だが、しかし真っ向勝負で勝てる相手ではないのだ。「折角だから夏蓮ちゃんの花を選ぼうね」 僕の不安を他所に、悠弥さんは僕を畳に座らせると手桶に挿してある沢山の花を見せてくれた。美しい花を眺めると心が落ち着いていく。なんて素敵な力を持ったものだろう。 悠弥さんが一輪の百合を手にした。それはいつも床の間で僕が目にするものより大輪の百合だ。「この季節に、こんな綺麗な百合が?」「うん、シベリアといってね。豪華な花弁でしょう? 結婚式でブーケによく使われるのだよ。だから季節を問わない温室育ち」 手桶の中で花首の下を切り、僕の顔の横にかざす。「大きすぎるね、でも派手にしたほうが良いのかな」と笑う悠弥さんにつられて噴出した。「頭から落としてしまいそうですよ」「ふふ。やはり赤い花がいいね」 手桶から選りすぐられたのは赤いダリアだ。花弁がワインのように濃い赤色で中心は黒く見える。「これは? 初めて見る色です」「黒蝶という名前の大輪のダリアだよ。飾るのに丁度良いかと思って。花弁の先が矢車草と同じで尖っているから、優しい印象の藤袴を添えて、ね」 まるで小さなブーケだ。ダリアを二本と藤袴を手際よく束にして水切りをした。「きっと似合うから。髪に編みこんであげる。濡らすといけないからその打掛を一度、脱げるかな」「はい」 するりと畳に落とし衣桁にかけた。紅色に菊と扇をあしらった小袖姿で改めて悠弥さんに向き直ると「綺麗だよ」と微笑んでくれた。「華奢な体だから着付けが大変だっただろうね。少しは肉があると貫禄がついたのに」 確かに、小袖は三枚重ねているのだが、みすぼらしい胸元にタオルを仕込まれそうだった。「ここにお座りよ」 悠弥さんは自分の膝を指していた。「あ、あの。でも」「おいで」 両手で迎えられてしまい、その瞳に誘われるように膝に乗った。「背中を向けたほうが良いですか?」「んー。残念だけどそうだね。前で帯をしているから」「……花魁は前帯らしくて」「そう、素敵な風習だね」 ふわりと椿油の香りがした。悠弥さんが櫛を使い、僕の髪を束にして編みこみを始めたようだ。「こういうことも花屋さんがするのですか」 髪のセットなら美容院かなと思ったが。「サービスで小さいお嬢さんにはしてあげるよ。本人は鑑を見て照れているけどね、親御さんが感激してくれる」「良いなあ……」 そういえば少し前に、悠弥さんの店でお客様がお嬢さんの髪を花で飾って貰おうと話していたのを聞いた。幸せそうな、暖かい家庭が垣間見られるようだった。「夏蓮ちゃんも覚えて、誰かにやってあげたら良い。喜ばれるから」「あ、あ・あのう。僕の客人は……おじさんなのですが」「ふふ。夏蓮ちゃんの未来はそこで終わりではないでしょう。俺が迎えに来たじゃない」 急に恥かしくなってきた。「あー。動かないでね?」「あ、はい。すみません」 鼓動が高まってしまう。一緒に住む事が現実味を帯びてきた。本当に叶えば……。「不甲斐なさを感じているよ。ごめんね、何も悟れなくて。……それでも俺の未来は夏蓮ちゃんしか考えられないのだよ」「勿体無いです、僕なんかにやさしい言葉を掛けてくれて」 婆様が相手では逃げられないだろう。それでもどこまでも逃げてしまいたい。「悠弥さん、僕は」 悠弥さんが好きだ。今も焦がれている。簡単に諦めがつくものではなかった、僕はこうして一緒にいるだけで感情がこみ上げてしまうし、口を開けば悠弥さんの名しか呼べない。 それにじんわりと汗をかいてきた。水断ちをしたのに、こんなに近くで体温を感じるせいか。なんだか耳まで熱い。「おだんごにして、ここに挿す・と。はい、出来たよ。この手鏡で見てごらん」「あ」 僕の黒い髪に深みのある赤い色のダリアが妖しく輝いていた。添えられた藤袴もややアイボリーな色で互いが溶け合うようだ。「こんなに綺麗にしてくださって、ありがとうございます」 複雑な心境だが、悠弥さんの仕事には感激した。手鏡を置いて改めて向かい合わせに座りなおした。「うん、凄く綺麗だ」 悠弥さんが微笑んでくれている。この笑顔も好きだ。今は僕だけを見ているこの瞳に捕らわれてみたくなる。「少し動いたくらいでは取れないように編みこみもしてあるからね」「動く?」「夏蓮ちゃんの事だから、着物姿で走りそうだもの」「そんな。はしたないことはしませんよ」 悠弥さんが僕を元気付けようとしているのがわかるので努めて明るく振舞った。 本当はこの胸が張り裂けそうなくらいに不安で、狂おしいほど行き場の無い気持にさいなまれているのに。「そうだね。でも着物は気をつけないといけないよ。あのね、ほら」 言いにくそうな悠弥さんが僕の足に触れた。「え?」 裾が乱れて腿が丸見えになっていた。「わ、すみません。見苦しいものを」 ぐいっと裾を引っ張るが重ねた小袖は融通が利かない。腰を上げて、もたもたしながら裾を治していたら腿がヒヤッとした。(あ、冷たい) 見ると悠弥さんの手が裾の奥に差し込まれていた。それはためらいながら指がぎこちなく僕の肌を触れていた。「気付いていたのだよ。夏蓮ちゃんが凄く熱いなあって、でも」「あ。……あの」24話に続く長くてすみません…
2008/11/22
午後の日差しを避ける為に離れに簾が掛けられた。薄暗がりの中で化粧師が僕の唇に紅をさし、帯を締めた体に孔雀の舞う刺繍を施した打掛をまとわせた。 裸足のつま先も隠すこの金襴緞子を羽織った僕は香を焚き染めた座敷に移る為、化粧師に付き添われて渡り廊下を歩き、牛若楼へ入る。「……夏蓮。よく出来たね」 連れられた先、二階の座敷の前で婆様が僕を待っていた。僕を眩しそうに見上げるその目は七五三のお参りの時のよう、孫の僕を愛でる穏やかな光に満ちていた。「では仕上げだよ。その黒髪に飾る花を選びなさい」 明り障子をすっと開いた座敷から信じがたい香りが漂った。それは香を焚き染めたものではなく、まるで草原に放たれたような草木の香りだ。盆に置かれた色とりどりの花、そして見慣れた鋏。それらを前にして畳に座して深々と頭を下げているその姿……。息を呑み、足元が崩れた。 「……楼で代々贔屓にしている花屋だよ。本来ならその店主に任せるのだが、どうやら息子のほうが夏蓮に似合う花を知っているようだから」 婆様の声で全身に寒気を感じた。僕の思いは今再び踏みにじられたのか。婆様の半襟があざ笑うかのごとく光りを帯びた。「わざわざおまえさんの為に呼んだのよ。のう、鹿乃子さん?」「婆様、いつもご贔屓にしていただきありがとうございます」 悠弥さんの落ち着いた声が座敷に響いた。「……婆様! よりによって、こんな……酷い」「夏蓮」 威圧する声に体が震えた。表向きは姫支度だが、これは折檻だ。僕の恋心を知った上で、こんなにいやらしい罰を与えたのだろう。これが世間には後ろ指を指される家業・遊廓を仕切る主の張りか。「この期に及んで取り乱すのではないよ、見苦しい。金襴緞子に恥じないよう、このさんばらの髪を飾ってもらいなさい」 冗談ではない、立ち上がり踵を返すと真後ろには桔梗が立塞がった。「逃げられませんよ、夏蓮さん」「……おまえはどこまでも付いて回るのか」 桔梗を睨み上げながら、悔しくて唇を噛んだ。「夏蓮、夕刻までに仕上げなさい」 とんと背中を押され、敷居を越えると明り障子が閉められた。静寂の中に取り残されたのは悠弥さんと派手な姿の僕だけだ。 真新しい畳の井草の匂いと、まるで悠弥さんの店と同じ瑞々しい香りがする。悠弥さんと二人きりなら嬉しいはずなのに今は悔しくてたまらない。 背後の閉められた明り障子の向こうには桔梗が張り付いているのだろう。進む事も下がる事もできず、僕は呆然としていた。顔を上げない悠弥さんに、どうか人違いであってほしいとさえ思う。「ゆ……やさん」 かすれる声しか出なかった。すると悠弥さんがゆっくり顔を上げた。そして前髪をかきあげ、頬にかかる髪を耳にかけて正面から僕を見た。「夏蓮ちゃん。綺麗な着物を着せてもらったね。まるでお嫁さんみたいだ」 その表情からは何の感情も読み取れない。僕を嫌悪するのでもなく、異形のものを見るような冷めた目つきでもない。(気持が変わらない?) 迷惑をかけたのに詰る様子も無い。謝りたいのに声が出せなくて胸を押さえる僕の前で、悠弥さんは畳に手をついて立ち上がった。「夏蓮ちゃん」 いつもの声がする。泣いている僕をなだめる、あの声だ。「あれから婆様に呼ばれて、初めて楼に来たよ。ここが夏蓮ちゃんの育った所か。そう思うと憎みきれないなあ。俺は甘いね」 手を腰に当てて前屈みになっている。いつもと同じだ、僕に目線を合わせて話してくれる。「……悠弥さん。すみません、遊廓の姫の髪を飾る花だなんて仕事を……」「誇りを持っているよ。俺しかできない仕事だもの」 穏やかな声が心に染み入る。花やの誇りを持つ悠弥さんに焦がれていたのだから。「俺は夏蓮ちゃんが好きだから。きみを飾る花なら俺が選ぶ」 悠弥さんが髪を撫でて、そっと指に絡ませた。「柔らかい髪。ここにどう花を飾ろうかなあ……」「悠弥さん!」 僕はその胸にしがみついた。シャツを強くぎゅっと握り、顔を埋めると青々とした葉の香りに涙が滲んだ。「ごめんなさい! 迷惑なのはわかっています、でも少しの間でいいからこのままいさせてください」「……どうしたの」「悠弥さんが好きです。……あなたにだけは僕のこんな姿をみられたくなかった、嫌われたくなかったのに……」 諦めたはずだった。思いを打ち明けた所で、どうにもならないとわかっていたのに僕は悠弥さんから離れたくなかった。拒まれるとわかっていても、この胸にしがみつきたくて仕方がなかった。「泣かないで、夏蓮ちゃん」 いつもの暖かい声の響きに瞼を閉じると雫が頬を伝って流れていくのがわかる。この声を忘れまい、ずっと覚えておこう。「……え」 衣擦れの音と共にぎゅっと抱き締められた。僕の耳元に悠弥さんの息がかかる。こんな近くに悠弥さんを感じる。「あ、あの。悠弥さん」「このまま連れて帰りたい」「……悠弥さん」「靴を脱いで裸足だったのに。……いつも俺に会いにきてくれたのに、肝心な所でどうして俺はきみを攫えなかったのだろう。ごめんね、夏蓮ちゃん」 悠弥さんは何も悪くないのだ。むしろ、今こうして抱き締めてくれることが凄く嬉しい。でもこんなに涙が出るのは何故なのだろう。「ゆ、やさん」 声が出ない。嗚咽ばかりで息が苦しい。ぼやける視界は悠弥さんを映せない。「好き、です。ずっと、ずっと」 しゃくりあげるせいで声が続かない。もどかしくてシャツを握りしめた。「僕は、こんな・汚らわしい、けど。あなたのことが、ずっと」「夏蓮ちゃん、汚らわしくないよ。夏蓮ちゃんはこの家に生まれて育ったのだから、俺さえ知らないものを見てきたかもしれない。辛かっただろう、でもそれで自分を蔑む事は無い。夏蓮ちゃんが恥じることは何も無いよ」 僕を肯定する人は初めてだ。驚いていると悠弥さんが苦笑して僕の頬を撫でた。「お化粧が落ちちゃったね。でもそのほうが良い。いつもの夏蓮ちゃんだ」 悠弥さんの指に白粉がついていた。「夏蓮ちゃんに初めて会った時から俺は惹かれているのだよ。護りたいと思っている。おかしいな、こうしてお嫁さんみたいな着物を着た夏蓮ちゃんにこんな告白をするなんて。……でもね」 悠弥さんが僕の頬を両手でそっと包んだ。「どこにも行かせたくない」23話に続く長くてすみません…
2008/11/21
「その器量を生かせば、もっと前からお金が手に入ったのにねー。まあ、相手が地主なら楽な生活でしょう。この流れに身を任せる、それが幸せな人生と違いますか?」 陸橋の下を流れる泥の川。あれが僕の人生そのものなのだろう。僕の求めていたものは何だったのか。狩られた心は冷えて凍り付いていた。 牛若楼に着くと僕は離れに戻され、すぐに湯に入れられた。口を閉ざした僕を見ながら桔梗が浴槽の前で手持ち無沙汰にしている。「目が腫れてしまいますよ。冷やしてくださいよー」 知るものか。僕はもはや俎板の鯉だ。「俺を嫌いになりましたか」 好意を持った覚えも無い。「あまりお湯に浸かっていると皮膚がふやけますよ」 溶けて消えられたらどんなに良いだろう。この桔梗に心を踏み荒らされた僕は悠弥さんを諦めようと思った。それは人として生きることを放棄したのと同じ意味だ。「長湯をしたところで逃げられませんよ」「もう、逃げないよ」 睨むと桔梗は驚いて頭を下げた。調子付いた態度はすぐに消え、おたおたし始めた。「すみませんでした、夏蓮さん」 背中を丸めて桔梗が出て行った。桔梗が悪いのではない、そう言えと命じた者が悪しき存在なのだ。世間に恥じる場所で働いている桔梗の身の上を思いやりたいが、僕は自分の心の修復に必死だった。しかし荒地に植える花を知らない。僕の心は砂漠のように乾いていた。 今宵は僕を貪るだけの行為が待ち構えている。愛の無い行為を受け入れるのだ。もはやすがるものは無い。悠弥さんの事は諦めるのだ。……只の姫になるのだ。 湯から上がり離れに戻ると、婆様の手配で呉服屋と櫛屋が揃っていて恭しく頭を下げた。「夏蓮ちゃん、おじさんを覚えているかい」 呉服屋が声をかけてきた。記憶の中での呉服屋は青年だったが、その丸い顔には八の字の法令線ができていた。「七五三の羽織袴を作らせていただいたのだよ。大きくなったね、懐かしい面影があるが綺麗になったものだ」「その節はお世話になりました」 すると呉服屋が鼻を袖で拭いた。「年を取ると涙もろくていけないね。幼い頃を知る夏蓮ちゃんの身請けの打掛を誂えることになるとはどんな因果だろう」「私たち商いは、この牛若楼に仕事をいただいて生計を立てている身の上だ。喜んでしかるべきなのに、夏蓮ちゃんを見ると父上の千楽さんを思い出してしまうのさ。本当によく似ているこの顔立ちを見ると……逃がして遣れなくて済まない、不憫だよ」 櫛屋が飴色の髪飾りを見せてくれた。「これが千楽さんの好きだった、べっ甲の細工だよ、夏蓮ちゃん」 僕は自分の名を呼ばれているのに、まるで他人事の気分だった。その櫛を陽にかざす。透き通る部分と濁った部分が混ざり合うこの色合いも生気を感じない。「……失礼して、寸法を見させてもらうね」 呉服屋が僕の肩幅や胸囲を測り始めた。「父はこの仕事が好きだったのでしょうか」 呟いた言葉に櫛屋が静かに首を振った。「好きなものかい。辛抱して耐えたと思うよ。しかし私たちは微笑んでいた千楽さんしか知らなくてね。張りのある人だったのさ」「生きていたら、僕を見てどう思うのかな」 僕の口を突いて出たのは諦めの感情だ。「逃がしてやりたいと思うさ! だってわが子だよ? 夏蓮ちゃんには姫をやらせたくないから七つの年に楼を出ると決めて、千楽さんはこつこつお金を貯めていたのに! なんて運命だ、夏蓮ちゃんは千楽さんの望まない格好を強いられて……」 なんとも湿った時間だった。呉服屋と櫛屋の言葉が僕の気持を深く陰鬱にさせてしまい、直に届けられた見事な金襴緞子の打掛と京友禅の振袖を見ても気が晴れない。 携帯を手にしてみた。悠弥さんの携帯番号とアドレスが記録された僕の宝だ。ふと思い出してあのカーネーションの花言葉を検索して、息を呑んだ。「……悠弥さん」 それは『純粋な愛情』だったのだ。はらはらと雫が落ちた。どんなに泣いても叶わない願いが、報われない恋があると僕は知った。22話に続く
2008/11/21
「夏蓮ちゃん?」 僕は悠弥さんに貰ったフラワーボックスを抱えて、草履を脱いでつま先立ちで歩き出した。勿論、桔梗の元に。「行かなくていいのだよ! 脅しに屈しないで、俺は平気だから!」 僕の肩を抱いてくれる悠弥さんの髪が頬に触れた。愛おしい、僕はこの人が何よりも大事だ……。「靴をください……」「渡せない。ここにいてよ」 悠弥さんの吐息がかかる。なんて熱いのだろう、生きている証だ。生気に満ちた、この人が僕の支えだ。「では、抱えていきましょうかねー」 腰をつかまれ、僕は悠弥さんからひきはがされてしまった。「夏蓮さん、忘れ物は無いですか。今生の別れになりますからねー」 何て残酷なものの言い方をするのだろう。 吹っ切ろうとした僕の心は砕けそうだ。「今生の別れなんて認めない!」 店に響く悠弥さんの声が僕を支えてくれる。だけど、あなたに迷惑をかけたくない。本気であなたが好きだから。「悠弥さん、あなたは楼の仕来りをご存じないでしょう? 世間とは違い、惚れた感情一つで通せるものではないのです。もう聞かれたでしょうが、夏蓮さんは楼の姫・いわば商品なのですよ。それも、売約済みで。お相手が引き取りに来るのです。渡さなければ詐欺扱いは免れないでしょう? 大体どうしてそんなに一生懸命になるのですかねー、恋だの愛だの、あんな所にいたら気持なんて幻と気付くでしょうにねー」 桔梗も婆様と同じか。この世のすべては金を対価に考えている。でもそうではないはず。人に恋をして愛する気持に対価はありえない。無償の愛を注ぐことこそ喜びなのに。 再びチャイムが鳴った。道具を抱えて入ってくる姿に悠弥さんのお父さんだと気がついた。店先で迷惑をかけてしまっている。どう詫びればいいのだろう。「……牛若楼の。いつもお世話になります」「店主、こちらこそ」 桔梗が僕を抱えたまま深く頭を下げたので僕のつま先が御影石の床に触れた。「その子を、下ろしてもらえませんか」 意外な声が聞えた。「珠洲矢千楽の息子の夏蓮さんでしょう。近所の人に『見目麗しい子が遊びに来ている』と聞いていた。まさか千楽の息子とは……。楼で見かけて気にはしていたのだが」 桔梗が返答に困った様子で頭をかいている。「私は千楽の同級生で、親しくさせて貰った仲だ。その息子が嫌がっているのに無理やり押し付ける家業は見るに耐えない。千楽があの世で忍び泣くだろう。弔う意味でも夏蓮さんは私どもで立派に成人させてみせる。婆様に取り急ぎ伝え願います」 悠弥さんのお父さんまで、僕を助けてくれようとしてくれる。ありがたい、でも、迷惑をかけたくない。「店主まで脅すつもりはなかったのですが仕方ないですねー。夏蓮さんを買ったお人はこの辺りの地主と聞きましたが、どうもその筋の方らしいですよ。お店が潰されても構いませんか。先代から継いできたお店でしょう。若気の至りに加勢する事は無いですよ」 そう言えと、婆様に指示されたのだろうか。いつも肝心な用件を忘れる桔梗が能弁で、しかも脅しまでかけている。「若いのに大層な言い方をするね。かつての友人である千楽の苦労を知る者に対して、そんな脅しは効かないよ。相手がこの辺りの地主なら尚更だ」(そんな啖呵を切らないで)「……め、迷惑をかけられません! 行って、桔梗」 戻りたくは無い、しかし僕はここを出なければならない。悔しさと悲しさでとめどなく涙が溢れた。「い、今まで、ありがとうございました」 僕が去る事でこの店も悠弥さんも救われる。こんな泣き顔を見られたくなくて両手で顔を隠しているので悠弥さんが今どんな表情かわからない……。面目無い、顔を見ることができない。「では。失礼しますよー。よかったですね、これでこのお店も安泰だ」 桔梗は僕を抱きかかえたままのし歩き、店を出ると路地裏に入った。涙の枯れた僕を塀の上から野良猫が凝視した。「散々人に探させて、しかも愛する人に迷惑をかけて満足ですかー? 夏蓮さんには珠洲矢の血が流れているのだから、認めたら良いのに足掻くから無様な結果になるのですよ」 皮肉を浴びせ続ける桔梗に刃向かう気力が萎えていた。僕は全身からあらゆる思考、生きる為の気力が抜けていくのを感じた。気を張って生きようとしても所詮は姫。自分の生きる意味を考えても無駄であり、愛する人と結ばれようが無い。21話に続く
2008/11/21
僕を大事だといってくれた悠弥さんの真心が僕には眩しすぎる。箱を持ったまま震える指を、悠弥さんがテーブルに乗せてくれた。「僕には……勿体無い言葉です。悠弥さん」 僕は牛若楼の姫だった。それを明かせば嫌われるかもしれない。でも僕には悠弥さんしかいない。悠弥さんだけが僕の生きる支えなのだ。失いたくない。「泣かないで。俺に甘えなさい」 悠弥さんに手を握られると不思議だ、悩んでいるのが間違いのような気がしてくる。「あの、悠弥さん。僕は……」 この街を出るつもりだった、最後に一目会いたくて橋の袂まで来た、しかし顔を見ると離れたくないと心が叫んでしまう。「うん」 僕の指に悠弥さんの唇が触れた。どきんとして体を硬くすると「怖い?」と囁かれた。頬を撫でて首筋に降りていく。顎を持たれてどうしたらいいのかわからず目を閉じると、瞼にそっと何かが触れた。それはとても暖かいものだった。「悠弥さ……」呼びかけた唇にも触れられ、じっとしていたら唇が濡れていった。「目を開けて」 耳元で囁かれて鼓動が高まる。「ゆ、悠弥さん」 体が熱い。まるで蝋燭の芯に火が灯るように、じわじわと何かが高ぶっていく。「話を聞かせて。……俺は夏蓮ちゃんを護りたいのだよ」「でも、でも……」「話しづらいのかもしれないけど、俺は受け止めたい」そっと重なる唇に雫が零れ落ちた。「僕、嫌われたくない……」「嫌わないよ?」 心に染み入るような暖かい声に体がほぐれていく。閉じ込めていた心が潤いを求める。「きみが好きだから」 花を愛でるあの瞳が僕を映していた。そして僕の手を取り、自分の胸に押し当てた。「ここにおいで」 シャツを通して悠弥さんの体温が感じられる。僕を包み込むような暖かさに胸が震え、気持が高ぶってしまって声が出しづらい。「ゆ、やさん。僕……」 嗚咽ばかりで言葉にならない声を悠弥さんは辛抱強く待ってくれた。家業は遊廓で自分は客人をもてなす姫として座敷に上がっている事。売春行為の床は拒み続けてきたが、今夜自分を買った客人が僕を迎えに来てしまう。末は愛人か玩具か知らないが愛の無い行為は勿論、楼の生活にもはや耐えられない。そのくせ、家出する度胸もない自分が嫌で仕方ないと……。胸のつかえを吐き出すように僕はありのままの素性を話した。(……嫌われるだろう) しゃくりあげる僕を、悠弥さんが「よく話してくれた。ありがとう」と抱き締めてくれた。そして僕の頭を胸元にぐいっと押し付けて僕の体を包み込んでくれた。「……この家の子になる?」(そ、それは?)「……夏蓮ちゃん、そのままでいいから聞いて。前にも話そうと思っていたけど、俺と一緒に住まない?」(突き放されると思ったのに?) 僕は意外な言葉に顔を上げた。「ふふ。嬉しそうな顔をしちゃって。でも二人きりになるのは後一年待って欲しい。この店は親父が死ぬまで頑張るらしいけど、のれん分けで俺はよその町で花屋を持つ事になっているのだよ。もう土地はあるし、この秋には建設も始まる。俺が独立したらこの街を一緒に出ない?」「悠弥さん……」 悠弥さんがこの街を出るなんて初めて聞いた。それに僕を連れて行ってくれるなんて。「それまでこの家にいたらいいよ。親父も反対しないさ。居候が嫌なら、その笑顔で店の手伝いをしてくれたらいいよ」 こんなに良くしてもらっていいのだろうか。悠弥さんといられるのなら。それが叶うなら、どんなに嬉しいだろう……。「もうすぐ親父がお得意先から帰ってくるから、話そうね。そうして三人でご飯を食べよう。そうだ、俺の手料理を食べさせてあげる。親父が誉めてくれるから少しは自信があるのだよ、楽しみにして」 暖かい家庭の中に加われるのか。許されるのか、こんな僕が。 不意にチャイムが鳴った。お客様が見えたのかなと慌てて悠弥さんから離れたら、御影石の床をザリザリとなぞる音がする。靴ではない、これは草履の音だ! まさか……。「お邪魔します、鹿乃子さん」 息を切らせながら桔梗が現れた。「ああ、まだここにいましたか。良かった、さあ、帰りますよ。夏蓮さん」 桔梗が僕の靴を差し出した。これを持って走り回ったのだろう。必ず連れ戻すつもりで。「楼の方ですね。申し訳ありませんがお引取り願います」悠弥さんが毅然とした態度をとった。「いずれ楼には挨拶に伺います」「……鹿乃子の息子の悠弥さん、でしたよね。それでは困るのですよ。俺は夏蓮さんを連れ戻せと言われているので」 いつもの調子だ。言われたことだけをこなそうとする。「桔梗、僕はもう帰らないよ。そのつもりで楼を出たのだから」 桔梗は腕組をした。そしてちらと僕を見て何故か悲しげな顔をした。桔梗のそんな表情は初めて見た、どうしたのだろうか。「俺もこのまま手ぶらで戻って、見つけられなかったと言えたら楽ですけどねー。夏蓮さんの痛々しい姿を二度と見たくないので」 そして悠弥さんに僕の靴を渡した。「履かせてあげてもらえますか、誰かの草履をはいて飛び出してきているはずです」 桔梗は僕を見ながら呟いた。「歩きにくかったでしょうに、ここまで来ていたなんて。逃がせてあげられたらどんなに良いでしょうねえ、でも俺は見つけてしまったので」 桔梗の立場としては連れ帰らないと婆様に怒られるのだろう。いつも口癖のように『俺が婆様に怒られるので』と言う始末だし。 でも帰りたくない。この暖かい家庭に加わりたいよ。「桔梗、お願いだから」「夏蓮さん、よく考えてください。俺がこのまま黙って楼に戻っても他の者がここへ探しに来ますよ。……鹿乃子さんは出入り業者ですからね、必ず追求されます。いいのですか、夏蓮さん。あなたの大事な悠弥さんが酷い目に遭いますよ」「桔梗……」 桔梗は正しい。僕がここに逃げ込んだら迷惑をかけてしまうことはわかっていたはずなのに。僕は……どうかしていた。悠弥さんに迷惑をかけたくない。20話に続く●拍手をありがとうございます●アヤかな―…アヤのことだろうな―アヤは二年前から書いていますが、「好き」と言っていただけて嬉しいです。笑って楽しんで貰えたら幸いなのです。
2008/11/20
髪を優しく撫でてくれる悠弥さんからも元気を分けて貰っている。本当は僕の事を誰かに聞いたのか問いたい気持もある、しかし聞いていなかったり、知らぬ振りをしているなら寝た子を起こす真似は避けたい。「ちょっとごめんね、アレンジの注文を受けているから」 悠弥さんは可愛らしいウサギの陶器に手際よく薔薇を挿し始めた。それはイタリアントマトと同じ鮮やかな色をした薔薇だ。幾重にも重なり合う花弁はまるでベルベットのように艶がある。「これはエルトロという名前だよ」「……気品のある名前ですね」「そうだね。中世の貴婦人が似合いそうだ」 高さを揃えたエルトロの周りに白い星型の花弁のホワイトスターをあしらい、ふんわりと広がる枝を赤いリボンで纏め上げた。「娘さんの十歳のお誕生日プレゼントを探していた親御さんからの注文で、ませた子だから綺麗な薔薇を使って欲しいといわれたのだよ。どう? これを貰う娘さんのはにかむ顔が見たくなるね」「こんなに綺麗な花を貰ったら大人と認められた気分でしょう!」 よく見かけるガーベラやチューリップを使わずに、あえて薔薇とは粋だ。まるでドレスアップした淑女に差し出す花のようだ。ウサギの陶器という所が微笑ましい、喜んでくれるだろう。 幸せな家庭を想像した。誕生日を迎えたお嬢さんはお気に入りの服を着て父親の帰りを待つのだろう。そして花を受け取り照れると、母にも声をかけられて笑顔で応える。自分は生まれて良かったと思うだろう。それはとても暖かで、羨ましい光景だ。「さてと、もう一つ」 悠弥さんは軽快に店内を歩き、並んだ花たちを見回して「んー」と物色している。「忙しいのですね、悠弥さん」「あはは、そうでもないよ。夏場だからね、こんなに暑いと花がすぐに痛んでしまうからあまり注文も来ないのだけど……」 レジ台の奥から眺めていると悠弥さんの全身がよく見える。細い体なのに僕を軽々とおぶった背中、それに腰の位置が高い。スリムなジーンズを履いているすらりと伸びた足。「大事なものだからさあ」 手にしたカーネーションを愛おしそうに眺める横顔を見て、どきんとした。あの花にも嫉妬してしまいそうだ、あんなに悠弥さんに愛されている花たちが羨ましい。僕は花になりたい、ここにずっと並んでいたい。悠弥さんになら手折られても構わない。「どうやらこの花がいいみたい」 悠弥さんはカーネーションをバケツごと持上げてテーブルに戻ってきた。バケツにはどう見積もっても五十本近くの花が入っているのに、これを全部使うのだろうか?「大きな花束なのですか?」「ううん、気持は大きいけど見た目はささやかに」 どんな花束なのだろう? 興味を惹かれてみていると、悠弥さんがチョコレート色をした小箱を取り出した。それはCDケース並みの大きさで、高さは十センチくらいだろう。これを使うアレンジなのか? 悠弥さんがバケツからカーネーションを抜いた。それはミルクティーの色をした花弁で、うっすらとピンクが混じっている。大人しい色合いがアンティークな雰囲気で造花と見間違いそうだが、控えめな香りが漂う。そして薔薇とは違い、まるでレースが広がるような柔らかな印象を受ける。これを貰うのはどんな人だろう?「これはクチュリエという名前で、人気があるから品薄でなかなか市場に出回らないのだよ。今朝の仕入れで見かけた時は念願叶った気分だったな」 悠弥さんは花首から三センチ下に鋏を入れて軸を落とした。そして花首をチョコレート色の小箱に仕込んだオアシスと言うスポンジに隙間無く挿していく。「何が出来上がるのですか?」「さあ、何だろう?」 軸を切られたカーネーションは二十を超えた。箱の中にびっしりと敷き詰められた花にパールを施してレースをあしらった。「綺麗ですね……」「まるで指輪を渡す気分だなあ」「……え?」(誰に渡すのだろう?) 悠弥さんは花弁を傷付けないようにそっと蓋をするとリボンをかけた。この状態では中に花が入っているとは到底思えないだろう。「粋なアレンジですね! こんな素敵なものを貰える人はどんな笑顔で応えるだろう!」 このリボンを解き、蓋を開けたその驚きと喜びに溢れた顔が見たい。花束のように派手ではない、胸にこっそりとしまえるようなこのささやかでありながら気持の詰まった箱。僕はすっかり魅了されていた。「はい、夏蓮ちゃん」「え?」 その箱が、僕に差し出された。「え? あ、あのう?」 戸惑っていたら、悠弥さんが「んん」と咳払いをした。そして両手で改めて差し出しながら微笑んだ。「十九才のお誕生日おめでとう。これが俺の気持だよ、受け取ってくれますか?」 小首を傾げている姿にときめいてしまう。「……え、本当ですか? あの、いいのですか、こんなに綺麗なものを!」 すっかり取り乱してしまった。悠弥さんが僕の誕生日を知っていた事にも驚いたし、まさかこの綺麗なフラワーボックスが僕に贈られるとは思いもしなかったのだ。目の前で作り上げられたこの綺麗な花が自分の為に誂えたなんて、感激だ……。「男の夏蓮ちゃんに花はおかしいかもしれないけど、カーネーションは俺の好きな花で、それに花言葉が……。ま、いいか」「ゆ、悠弥さん?」 両手で受け取ろうとしたら互いの指が触れ合い、恥かしくて目を閉じたら、箱の下で指が重なった。「俺は夏蓮ちゃんが凄く大事だから。只の友人とか知り合いの人ではなくてさ。もっと心を開いて俺に甘えておいで」19話に続く
2008/11/20
「夏蓮兄さん、靴が欲しいならあげるよ」 何を企むのか、奥歯に衣を着せたような言い方をする。「アザミが持っているの?」「うん。その代わり、三回は抱かせてよ」「お断り」「へえー? 桔梗とはしても俺はだめ? 差別じゃないか、許せないな」 陰から顔を出し近寄ってきた。どうもアザミは苦手だ、この鞄で抵抗しようと身構えた。「俺、良い体を持っているよ?」 自慢げに捲くりあげた長襦袢の下は赤い跡が無数に付けられた肌だった。「……近寄るな。大体、桔梗とは合意の上ではないし、僕はこんな行為は汚らしくて嫌いだ! 寒気がする」「へーえ? 好きそうな顔をしているのに」 アザミが僕の顎をつかんだ。「小さい顔だなあ。これを股座に封じたいや。泣かせたいし、喘がせたい」「放せ!」 胸倉を突き飛ばして裏口を裸足で駆け抜け、間口で誰かの草履を見つけたのでそれを履いて往来へ駆け出した。「あ! 婆様、婆様―!」 アザミの叫びが聞えたが、僕は無我夢中で逃げた。ともすれば十九の年まで育った我が家を逃げ出す身の上が情けなく、侘しさが込み上げてくるがそれすらも振り切った。 赤信号で渡れず迂回する。どこをどう走っているのかわからなくなってきた。 しかもこの草履のサイズが大きすぎて、スピードが出せず無駄に汗をかいて息が苦しい。膝に手をついて周りを見れば、走った割にまだ目抜き通りに出たばかりで、これでは追っ手に見つかってしまう。このまま南に進めば私鉄の駅があるが電車待ちをして捕まるのは嫌だ。 僕は自然と北に向った。それはいつもの散歩コースで、悠弥さんの家がある方向だ。最後に一度だけ、遠くからでもいいから悠弥さんの顔が見たくなった。この街を出る前に、あの笑顔をこの胸に刻みつけたいのだ。(好きでした、といえたらなあ) しかし思いは秘めたまま出ていこう。僕は鞄を抱えて早歩きをした。この草履では走れないと学習済みだから。 日差しは強く帽子を被っていても汗をかき喉も渇いてしまった。ようやく掛橋の袂まで来た所で地面にぺたりと座り込んでしまった。足が重いし、軽いめまいがする。そういえば二日間寝たきりで何も食べていなかった。 座り込むとなかなか立てない。妙に悲しくて鼻をグスンと鳴らして膝を抱えて俯いた。なんだか疲れた。考えるのも体力が必要なのだろうか……。 どこからか華やかな香りがしてきた。甘いこの香りは沈丁花だな。春に咲くはずのこの花が初夏に咲くとは狂い咲きか。 確か花言葉が『歓楽』だった、その意味を知って楼にも植えられているのだろう。牛若楼を思い出し、背筋が震えた。しかしこの香りがまるで鼻先に突きつけられたかのようになかなか遠ざからない。近くに咲いているのだろうかと顔を上げると、まるで鞠のように丸く纏まった赤紫と白の花弁が僕を覗き込んでいた。「……夏蓮ちゃん?」 まさかの声がした。僕の前に片膝をついたあの人がいた。「夏蓮ちゃん。どうしたの、立てる?」 声の主はいつもと同じく僕に目線を合わせてくれる。そして開いた唇からミントの香りが漂っている。「……悠弥さん」 その名を呼んだだけで僕は不覚にも泣き出しそうだった。唇が震えて肩がわなないた。「こんなにやつれて……。おいで、俺の家で休めばいいから」 悠弥さんが僕の髪を撫でて頬に触れた。「さあ、おいで」 優しい言葉だけでも救われるのに悠弥さんのシャツから沈丁花の香りと共に葉をちぎったばかりのような草の香りが混じっていた。なんて生命力に満ちたものだろう。「あ、あ。夏蓮ちゃん」 僕の視界が朧げになる。そしてぽとんと僕の膝に雫が落ちていく。「よし。おんぶしてあげる」 悠弥さんが僕に沈丁花を預け、背中を向けながら後ろ手で僕を呼んだ。「俺が運んであげる。ほら、おいで」「……濡れちゃいますよ」 頬を指で拭いながらしゃくりあげた声で呟くと悠弥さんが見返りながら微笑んだ。「いいから。甘えなさい」「……はい」 その背中に体を預けると上腕骨に触れた。 細身なのに、桔梗と比べ物にならない頼れる翼があった。「ちゃんと乗った?」「はい」 悠弥さんの後ろ髪がこんなに近くにある。「そらっ。行くよー」 悠弥さんがゆっくりと体を起こして、僕の体を上げた。「ずり落ちないでね」と言って僕の足を持上げた。「僕、重くないですか……?」「何を言っているの、こんなに華奢な体をして。肘が当たると痛いくらいだよ」「あ、すみません」 悠弥さんの腕に当たらないように腕を上げようとしたら「落としちゃうでしょう」と肩で寄せてくれた。おんぶして貰いながら路地裏を抜け、やがて軒先に並んだ朝顔が見えてきた。海を思わせるその藍色の花弁に見蕩れていると「はい、到着」と鹿乃子生花店の自動ドアの前に立った。「あれ、また故障かな? こういうときこそ、スムーズに開いて欲しいのにね」「すみません、降ります」「いいから、ちょっとごめんね、飛ぶよ?」「飛ぶ?」 僕をおんぶしたまま、悠弥さんがぴょんとジャンプした。するとドアがようやく開いた。「はい、どうぞ。入って」「お邪魔します」 悠弥さんの背中から降りて、一歩中に入るといつもと変わらぬ沢山の花たちが出迎えてくれた。鮮やかな黄色の向日葵もある。見ていると元気になれそうだ。それにこの清清しい空気に癒される。「花を水揚げしたばかりで床が水浸しだからレジの奥に座るといいよ」 レジの奥はラッピング作業用の大きなテーブルがある。摘んだばかりなのか生き生きとした千日紅がグラスに生けられていた。「……可愛い花ですね」「近所の子供さんが家で育てたのを分けてくれて。グラスで飾ると良い感じ」 まるで髪飾りのような愛らしい花を見ていると和んできた。「あ、顔色が良くなってきた」 悠弥さんが冷たい烏龍茶を僕に渡しながら嬉しそうだ。「お花から元気を分けて貰いなさい」18話に続く
2008/11/20
ようやく湯に浸かると桔梗が誉めそやした。「本当にすべすべの肌ですよねえ。俺が道を間違うわけです」「自覚があるなら側に来ないで」「はあ、夏蓮さんがそう言うのなら」 言う事とは逆に僕の体に触れようとするので両手でお湯をすくい、その顔に何度も浴びせて遠ざけた。桔梗こそ危ないのではないか。 一緒にいてはいけない。僕は湯船から出て体にタオルを巻きつけ離れに戻った。髪を拭きながら、ふとそのタオルを握り締めた。(僕の住む世界は汚れて荒んでいる。性を売り物にして生きるのは羞恥の極みだ) タオルが箪笥の蝶番に引っ掛かり、忌々しくて乱暴に引いたら箪笥の上から何かが落ちてきた。デスクサイズのカレンダーだった。「……今日は僕の誕生日だったのか」 十九歳になるのだ。世間的にはもう独り立ちしても構わない年だろう。 婆様には恩を感じている。幼い孫をおんぶしながら牛若楼を運営するには計り知れない苦労があったことだろう。 本来なら孫の僕は率先して客人を呼び、請われるままに春を売って楼を繁盛させるべきなのだろう。 天網様の座敷の時のようにわざと高価な膳を取り寄せて客単価をあげていくのも一つの方法だが、馴染みであれば床を求める、それを受けて満足させるのも礼儀。 だけど僕にはできない。好きでもない男に素股を開脚された挙句、自身を挿入されるなんて屈辱だ。 ならば生きる道は一つだ……。この家を出よう。自分一人で生きるのだ。今までの座敷で得たお給料はほぼ手付かずで残っている。大金ではないが、よその街で部屋を借りることならできるかもしれない。 悠弥さんにあえなくなるのは耐え難い辛さだが、いっそ黙って行こう。事情を話した所で藪蛇だ。いくら穏やかな悠弥さんでも僕が姫と知ればその瞳を曇らせるだろう。 僕は悠弥さんが好きだ。だからこそ拒絶されるのだけは避けたい。もう、これ以上傷つきたくないのだ。 上着を羽織り財布の中身を確認し、通帳を鞄に詰め込み始めた。「何の支度だい、夏蓮」 冷たい声に体が震えた。「熱が下がったと聞いてわざわざ出向けば家での準備かい。開いた口が塞がらないよ」「婆様。僕にはこの家業は向いていません。僕は今日で十九才になりました。ここから先は僕の自由に生きます」 何も迷わなかった。まっすぐに婆様を見て自分の気持を告げた。これでわかって貰える、そう信じた僕は鞄の持手を強く握り、一歩踏み出した。「今宵は天網様がおまえを迎えに来ますよ」「……だから! 婆様、僕は!」 婆様が扇子を突き出した。しかし僕はそれを払い除けた。「おや。強くなったものだ」「姫はもう沢山です。強引な行為なんて、誰が楽しいのですか」「この間抜けが。天網様が楽しいのだろうよ。おまえさんは天網様のお眼鏡に適ったのさ、言う事さえ聞いていれば楽に生きられるよ。桔梗に仕込まれたのだろう? ならば存分に喘ぐがいいさ」「……婆様!」 その頬を打とうとしてしまった。寸での所で理性が止めて、僕は暴走した感情の愚かさに震えが治まらない。「腹を決めな。年貢の納め時だよ」 婆様が僕の頬をぴしりと平手で打った。「こんなやんちゃの何処が気に入ったのだろうね、やはり器量かいな。綺麗な顔と体に産んでくれた親に感謝することだね」その親とも血が繋がっているのだろうに、どうして孫の僕を虐げるのだ。「夏蓮。今宵でおまえは望どおりこの牛若楼を出られる。天網様に貰われるのさ」 婆様に打たれた頬を押さえながら僕は信じられない言葉を聞いた。「果ては愛人か、それとも玩具か知らないがねえ。代価はおまえさんが寝込んでいる間に頂戴したよ。大げさではなく山が一つ手に入る換算さ。それとは別に見事な錦鯉も川に放流されたから見ておいでよ」 僕は返事もせずに走り出した。牛若楼へ続くこの渡り廊下、その下の川を覗き込んだ。すると金色に輝く大きな鯉と赤い鯉が悠々と泳いでいる。(いつもの、あの鯉は?) 僕の顔を見て口をぱくぱくさせていたのに見当たらない。嫌な予感がする!「婆様! 婆様!」「なんだい、煩いねえ」「前からいた赤い斑点を持つ鯉はどうされましたか」「鯉が好きだったのかい。これは初耳だ。あの痩せた鯉なら桔梗に食わせたよ」 僕は手摺をつかんだままその場に力なくへなへなと座り込んだ。「桔梗が鯉こくなる料理を食してみたいというのでね。ああ、それは夏蓮の仕込みをした礼だよ。そんな地味な事でいいなんてねえ、桔梗の奴は欲が無い」 口元を着物の袖で隠しながら笑うが、歯が見えている。そんなに面白いのか。(もう、おしまいだ) 僕はなにもかもが許せなくなった。猛然と走り出し、離れに戻った。鞄をつかんで携帯も手にして裏口から出ようとした。(靴が無い?) 下駄箱に入れていたはずのスニーカーはおろか、ブーツまでなくなっている。まさか婆様の指図か?「勘がよくなったか。さ、諦めるのだね。午後からは呉服屋と櫛屋が来る。その髪はどうにもならないねえ。ああ、化粧師も呼んだからね。綺麗なお姫さんにして貰うのだよ」 婆様が胸を張って渡り廊下を歩いていく。その柱の陰からアザミが僕の様子を伺うのか指を舐めながら、じっと僕を眺めている。17話に続く
2008/11/19
蝉の鳴く声が聞えてきてぼんやりと目を開けた。父を失ったあの日を思い出すなんて夢見が悪い。 寝起きのせいかだるい体を起そうとしたら、なにやら臭う。枕元に置かれた白湯や食べ散らかした林檎の芯を見てため息をつくと、無精髭を生やした桔梗がびわを食べながら「おはようございます、夏蓮さん」と普通に挨拶をした。「二日も寝込まれるとはねえ。このまま起きないのかとひやひやしましたよ」「二日?」 片膝を立ててぼんやりとする。思考が定まらない。「……本当に?」「嘘は言いませんよ。俺は付きっきりでここにいましたからねえ」 桔梗が体温計を持ち僕の脇に挿そうとした。「自分でやるから」「はあ、そうですか」 体温計を差し込むと朦朧としたままの頭の中を整理した。僕はこの離れで二日も寝ていた原因は何だろう。「僕は熱があったの?」「はあ、なかなか下がらないものですから、てっきりクラミジアなる性病をうつされたかと婆様がてんやわんやでして。あの騒ぎでも起きないから、お医者様の見立てでは、まあ、知恵熱だろうという事ですが」 桔梗が僕の裾をめくった。「何をするのだよ!」「その自身が腫れ上がって痛みを伴えば性病だそうですよ。気をつけてくださいねえ」 おぞましい事を平気な顔で言う。しかも汗に混じり僕の嫌いな匂いも感じた。「臭い」「夏蓮さんと俺の匂いでしょう。その自身を念入りに扱きましたからね。夏蓮さんが夢の中にいながら喘いでくださるから楽しかったですよ。俺は男色の気がないつもりでいましたが、あなたには違うのかなあ」「いっ。今、何て言った?」 背筋に戦慄が走った。体温計を抜いて枕元に置くと身を硬くして布団を寄せた。「仕込みです。アザミさんは嫌なのでしょう。じゃあ、俺しかいませんよねえ。だから眠れるお姫様に手ほどきをしましたよ。体温も正常の様子、今宵からは楽に床の仕事ができるはずです、安心してくださいねー」 枕を投げつけて立ち上がった。「そんなことは頼んでいない!」「はあ、婆様からの命令なので。天網様を待たせているので、早々にと」「……僕の体は僕のものだ。あんな好色家のものではないよ」 着替えを持ち風呂場に向った。まだ湯焚きの準備が整わず、僕はタオルをぶらぶらさせながら廊下で待っていた。「夏蓮さん、俺も湯に入ります」 桔梗が追いかけてきてしまった。「悪いけどしばらく顔を見たくないよ」「はあ、そういわれましてもねえ。俺がいないと楼の姫たちが押しかけてきますよ? 夏蓮さんが姫開きを終えたと皆が知っていますからね。手練手管をしこみたい輩もいますよ。どうします? あなた一人では立ち向かえないでしょう。ほら、高校生の時は先輩に襲われたではないですか」 嫌な事を思い出させる。しかしこの桔梗はいつから僕のお目付け役だったのか。「……いつも僕の後をつけていたのか」「そうですよ。器量の良い夏蓮さんの身を案じた婆様の命令で、中学も高校も四六時中監視していましたよ。だから夏蓮さんが学校で嫌な思いをした事も、クラスメートに冷たくされたことも知っていますよ。ははは」「おまえも僕を蔑んでいたのか」「いいえ、そうではなくて。自覚なさるといいと思っていました。自分だけは清らかな存在だと振舞っても無駄ですよ。俺があなたの自身を銜えた時あなたは花屋の息子の名を呼んだ。さぞや抱かれたいと願っているのでしょう? あなたは生まれついての姫ですよ」 桔梗はずけずけと僕の心に土足で入り込み、僕が綺麗に・大事にしていたものを荒らした。自分で気付かぬよう閉まっていたのに。 僕は恋を知った。同性など恋愛の対象ではなかったのに、心惹かれる人に会ったのだ。(悠弥さん、僕はあなたの心に住みたい。誰よりもあなたの側にいたい) しかし僕の雄はそれ以上を求めている、繋がりたいのだ。花を愛でるように、どうかこの体を隅々まで撫でてほしいと疼くのだ。こんな自分の思いの行き場の無さに指を噛んだ。16話に続く
2008/11/19
離れに戻ると湯に入り体を洗い流した。しかしお尻がお湯に染みて痛い。(どうしてこんな目に遭わなければならないのだろう) 父が生きていたらどうなっていただろう。 僕を産んですぐに他界した母の面影すらないから、頼れるのは父だけだったのに。あの事故のせいで僕には婆様が唯一の肉親であり、頼らざるを得ないのだ。その婆様の手の甲を見ると皺だらけで……僕は逃げるのが申し訳ないと決心が鈍るのだ。(しかし、もう耐えられない) 湯船に浸り俯いていたらざぶざぶと音がする。振り返ると浴衣姿の桔梗が立っていた。「こんなところまで来るのか!」「はあ、お目付け役ですので。それに一晩見張れといわれましたし」「……ああ、そうか」 忠義心なのか、なんなのか。がさつな桔梗を見ていると、悠弥さんがいかに清らかな人か思い知らされる。(明日、会いにいってもいいかなあ……。悠弥さん、僕はあなたに会いたくてたまらない。この胸のうちを話さずとも、あなたの側にいられたら、それだけで僕は救われるのです) 膝を抱えて目を伏せた。水面にぽとぽと雫が落ちる。「夏蓮さん、のぼせますよー」「構わないで」「……傷に障りますでしょう」 その一言で現実に引き戻された。僕はよろよろと立ち上がると湯船から出た。その体に桔梗がバスタオルを巻きつける。「面倒を見すぎだよ」 見上げて呟くと桔梗が「はあ、お目付け役ですから」と同じ事を繰り返す。まるで人ではなくて機械を相手にしているようだ。「もういいよ。おやすみなさい」 明障子を閉めて髪を拭きながら携帯を見ると着信があった。その点滅に胸が高まる。友人のいない僕の携帯のアドレスには悠弥さんの番号しか登録されていないのだ。 着信は二回ある、悠弥さんが二回も電話を掛けてくれていた。嬉しくてすぐに掛けなおそうとして、ふと指が止まった。(知られたのではないか……?) 僕の素性を知って確認の為にかけてきたのだろうか? そうだとしたら……。僕の指は携帯を離してしまい、それは畳の上にどんと落ちた。(会いたい、こんなに会いたいのに! もう遊びに来ないでとの知らせだったらどうしよう。そんなことを言われたら耐えられない) 夜中に僕は体が熱くて目が覚めた。全身が汗で濡れていて、息苦しい。布団から這い出ようとしてお尻に激痛が走り、どさりと畳の上に倒れてしまった。それでも腰を押えながら何とか布団に戻り、僕は天井を仰いだ。(悠弥さん、会いたい……) 今すぐに会えたらどんなに救われるだろう。髪を撫でて欲しい、抱き締めて欲しいと口に出せない思いがこみ上げて、涙が頬を伝い布団を濡らしていく。 僕は婆様の指示どおりに春をひさがねばならないのか。愛の無い行為は痛みを伴い僕を玩具にするだけで、人としての扱いからはほど遠い。 もはや生きていれば同じ事の繰り返しに違いない。僕は自分の生きる意味がわからない。ごわついた布団の上で瞼を閉じ、必死で寝ようと試みた。――何年前だろう。僕は紋付羽織の袴姿で父親に手をひかれている。この帯をしめたのは父だ。僕と同じ黒い髪をして、背が高く男前な父は僕の自慢だった。 父は家業の手伝いで忙しく、僕はなかなか遊んで貰えなくて寂しかった。でもこの七五三のお参りは父と果たせた。千歳飴も貰い、ご機嫌な僕は父を見上げながら「父さん、父さん」と用事もないのに呼び、父はそれに微笑んでくれていた。「夏蓮、婆様を呼んでおいで。皆で記念写真を撮ろう」「はあい」 父に千歳飴を預け、先に牛若楼の大門をくぐり「婆様、早くー」と呼んだら背後でバツンと大きな音がした。強い風が吹き大門を震わせ、砂煙が舞った。 牛若楼から使用人が駆け出してきた。婆様もいた。大門の前には外車が停まっていた。だけど父の姿が見当たらない。「早く降りて来い!」 運転手に対する怒声が響く中、僕はタイヤに潰された父の手を見つけた。助け出そうとその手に触れたら氷のように冷たかった。 僕の足元には赤い水溜りが流れてきた。それは僕の袴を濡らし、じわじわとしみこんだ。裾をたゆませ、なおも這い上がるそれは綺麗な赤色ではなく錆びた臭いを伴う泥と化していた。ずぶずぶと僕の足元が沈んでいく。「父さん、嫌だ。僕をひとりにしないで」15話に続く
2008/11/19
「これを見てどうだ。体が疼くだろう」(同じ男のものとは思えない。臭い!)「その初心な肌を火照らせよう」 お銚子を手にしたので殴られるかと思ったら、そこからたらたらと酒をこぼしている。(な、なに?) 黒い男根を酒で濡らしていたのだ。「この口に飲ませてやろう」(正気ではない!) 僕の片方の腿を持上げ膝を折る。僕の茎に触れる濡れた自身に皮膚が引きつる。「ははは。姫開きとは乙なものだ。しかしやさしくはできぬ」 無理やりに突き立てられて激痛が走った。 まるで串刺しにされたかのよう、全身に響き渡るこの痛みは止むことはない。抵抗してすぼめてもまだなお進もうとする。「……いやあ!」 突き進む激痛に負け、閨紙を落とし畳に爪をめり込ませていた。指先にも鋭い痛みが走り、そして皮膚が食い破られるのがわかる。「力を抜け、作法を知らぬか」 罵りながら荒々しく進む。しかし僕の片足を抱えてぐいぐい押し込むには体力がいるらしい、天網様の額に脂汗が浮かんだ。(行為は愛の証だ、金で買おうなんて間違うから無駄な労働になるのだ) 僕は激痛の中で確信した。先端が入ろうともそれ以上は許すものか。「きつい、何と……!」 僕の足を畳に叩きつけ、肩を上下させて荒い呼吸をしている。 僕は慌てて股を閉じて逃げようとした。しかし裾はまくれ上がったままで引っ張っても容易には戻らない。「おお。その姿勢なら」 猫のように畳の上を這って逃げていた僕は再び捕らわれた。腰を捕まれ、そして強引にお尻を揉みしだかれてぐいっと割かれた中に自身が突き上げてきた。「いっ! いやああ!」「啼け。いいぞ、夏蓮。この角度は良い」「いやあ、痛い! 入らないでください」 しかし肌が弾きあう音が始まった。同時にぐいぐいと僕の中で突上げられ、奥まで貫かれた。声を殺し痛みに耐えようとして気が遠くなってきた。「ウッ、ウウン! なんて、しまるのだろう、夏蓮! うぐう……良いぞ、もっと抗え、締めてみよ」 ぐんぐんと力任せに動かれてしまい、畳に突っ伏して肩を震わせると視界が潤む。僕は悔しさのあまり、涙を流していた。畳と袖を濡らしすすり鳴く僕に「かははは」と征服者の笑い声が高らかに響いた。「楽しめたぞ、夏蓮。これこそ姫開きの醍醐味だ。しかし明日はもっと慣らして参れ」 天網様は僕を残して明り障子を開け、高笑いをしながら出て行った。花魁やお付の男たちも慌てて後を追い、足音が響いた。(明日……? また来るつもりなのか) 天網様が持上げていたせいで片足は痺れ、股間は激しい振動の後でがくがくと震えている。ふと、秘部に手を伸ばしたら印のように鮮血がついた。「……いっ。嫌だー!」 大声を上げた僕に桔梗が駆け寄った。「夏蓮さん、落ち着いてください」「来るな、誰も僕に近寄るな!」 桔梗の胸をどんと押すがびくともしない。「アザミさんに仕込みをしてもらえばよかったのですよ、無茶をされましたねえ」「……この場でそんなことを言うのか!」 睨んでも桔梗は平気らしい。汚れた打掛ごと僕を抱きあげると、座敷を出た。「下ろして!」「離れで眠るのでしょう? お連れしますよ、歩けないでしょうから」 珍しい、気遣ってくれるのか……。「……悪いけど。お願い」「はあ、俺は夏蓮さんのお目付け役ですからねえ」 桔梗は階段を下り、のしのしと歩き渡り廊下を目指している。僕は桔梗に抱かれながら土間の喧騒を聞いた。「……夕刻には迎えにあがる」 憎憎しい天網様の声だ。あれは信じがたい行為だった。……強引だ。思わず拳を胸に当てていたら桔梗がため息をついた。「夏蓮さん、あなたも懲りない人ですねえ」 珍しく桔梗が話題を振るので驚いた。「遊廓の孫だから状況を受け入れて床を取るか、嫌なら家出したらよいものを居座って行為を拒絶する。滑稽だと思いませんかー?」 悔しいけど桔梗の言うとおりだ、でも僕の婆様への恩返しのこの気持なぞ桔梗には理解できないだろう。「出て行く勇気がないのか、それとも自分だけは清らかな存在でありたいとでも思うのかなあ。そうそう、花屋の息子に恋するなんてさ、笑ってしまいますよ」 笑えばいい。そんなことくらいであの人への思いは揺るがない。(会いたい……。会いたいよ、悠弥さん) 渡り廊下の下で鯉が僕を見上げていた。ぱくぱくと口をあけて餌をねだる。(夜も更けたのに、元気だな) あの鯉が羨ましい。気ままに過ごして生きるなんて、どんなに自由だろうか。「あの鯉は何歳なの?」「あー。あの鯉、料理にしたら美味しいですかねえ?」 桔梗に腹が立ち頬を叩いた。14話に続く●拍手をありがとうございます●いつも元気をありがとうございます。これで明日も頑張れます。
2008/11/18
抗おうとしても簡単に前帯を解かれてしまう。「この平安美人とは比較にならぬ美しさだぞ、夏蓮。恥らえ、そして大胆に股を広げて私を誘え」 裾をたくし上げて奥に手を伸ばそうとする。許すまいと、体を突き飛ばした。「触らないでください。僕は誰が相手であろうとこの体を売りません」「……夏蓮。客を振る声が他の客に丸聞こえだぞ?」「僕を試しておいでですか。今宵の客はあなた様だけです」「ほほう。その強気、ますます私を昂ぶらせる。美しく気高き姫だ。なんとしても衣文の中の素肌が見たい」 僕は胸元の衣文を押さえながら後ずさりをした。逃げなければ、ここで屈するわけにはいかない。しかし後ろ足に打掛の裾がまとわりつき、尻餅をついてしまった。「痛い……」 すると獣のように手を畳につけながら天網様が近づいてくる。目をかっと見開き、だらしなく開いた口元は涎で光っている。気色が悪い、触られたくない!「おまえの体を隅々まで貪りたいぞ」 ゆらりと立ち上がり、今にも僕を狩ろうとする獣の眼が見下ろして光る。「いっ!」 僕の両足の間に天網様の足が乱暴に分け入り、着物の裾を割らせると足首のひねりで内腿まで露にした。暴かれた奥には僕の自身が縮こまっている。「ほう、そこにお隠れか」 中腰になり、まじまじと僕の怯える自身を眺めている。「乱暴な!」 咄嗟に袖で隠すと自然に前のめりになる。そこを狙ったのか衣文の中に片手が差し込まれてしまった。「アッ!」 親指が鎖骨を擦り、中指が胸を、そして小指が乳首を突いた。「や、嫌です」 拒否をしているはずなのに、僕の体は無意識に前に突き出していた。目覚めた雄が全身を操り僕を興奮させていたのだ。「イヤ……」 やがて衣文は形を成さず肩から落ちた。露出した胸にはうっすら色づいた乳首が震えていた。「ほほう。初心とは床で娼婦となりうるのか、頬を染めるその媚態。ここまで美しいとは」「んっ。ん……」 天網様の指が執拗に乳首を嬲り、指先でぴんと弾いた。「ァアっ! いやあ!」 どうして息が苦しくなるのだろう。股間も熱くて、僕の両手ではすべてを隠せない。立ち上がった先端を天網さんにぐいと押されてしまい「ううん!」唸りとともに滲んだ。「ふふ。実に美しい。しかしな、夏蓮」 天網さんが懐から閨紙を出してそれを僕に銜えさせた。「声を出さないのが礼儀だ」 そして僕の髪に触れようとしたので首を振り抵抗した。この髪は悠弥さんに撫でてもらうためにあるのに!「今更拒もうとも、この体は私のものだよ」 天網様は僕の両足を持上げてお尻を空の膳に乗せた。だらしなくずり上がる打掛が僕の胸元に襞を作るが下半身は一糸まとわぬ姿だ。 なんて屈辱的な格好を強いられてしまったのだろう。抵抗しようにも天網様の体を挟むように股を開かされてつま先がかろうじて畳に触れる程度で力が入らない。僕の手が届かない下半身は行灯に照らされ天網様が隅々まで眺めていた。「誰も触れていないと一目瞭然」 背骨が折れそうで、しかも頭に血が昇って息が苦しい。しかしなんて下品なのだろう! だから一見を通すのは間違いなのだ! 遊廓での遊びを知らないとは。ここは擬似恋愛を楽しむ場なのに。「ほほう、夏蓮。睨む目つきも良いものだな。知っているか、有名な平安時代の書物の性表現は無理強いな表現ばかりだぞ。行為の快楽は理屈ではない、狩りの本能だ」(違う!) 愛があってこそ求めて体が火照るのだ。だから僕は悠弥さんには抱かれたいと願うのに、獣の欲望のままに汚されてたまるか。「扇情的な肌の色だ。この紅は羞恥心か、それとも欲情か」 天網様がアマリリスを手にしている。それは先刻まで床の間に飾られたものだ。悠弥さんのお父さんがいけたであろう……。「この花言葉を知っているか? おしゃべりだよ、夏蓮……」僕の秘部にぐっと何かが入り込んだ。「んんっ?」 閨紙を銜えているので話せないが、進入させたくなくてつぼませる。「初心な反応だな。しかしここをおしゃべりにさせろ。固く閉ざさずに私を誘え」 なんとアマリリスを僕の秘部にいれては出す行為を連続させてきた。「んんー!」 粒粒とした蕾の感触に怯えた。腿を震わせ、つま先までひきつり、ぐいと畳を擦った。「良い香りがするぞ」 鼻先を僕の股間に近づけている、とんでもない好色家だ! 「閨紙を噛んでいろ。飲み込んだら窒息するからな」 天網様が僕の自身を強引に扱いた。根元から折ろうとするかのごとく乱暴な扱いに堪えきれず涙が零れた。 こんな屈辱的な行為が許されるのか。天網様は僕を奴隷のように扱う、それはやはり軽んじているからなのか。「良い景色だな。楽しませろよ」 天網様が自らの屹立した自身を見せ付けた。それは黒くよどんだ色をしており、手入れをしていないヘアと相まって掘り起こした長薯のように見えた。 そして早くもむっとする雄の匂いを発しながら生き物のごとく僕の秘部を覗いている。(気持ちが悪い!)13話に続く
2008/11/18
奥の座敷は明り障子が閉められていた。やけに静かな空気を感じながら襟足を整える。打掛の前裾を軽く持ち、膝を曲げて正座をする。裾が乱れぬよう膝下を押さえた。「失礼いたします」 明り障子の前で三つ指をついてお辞儀をする。すると「参ったか」と低い声が響き、がらりと明り障子が開けられた。「彰人様。姫君が参られました」「ようやくだな」 昇り龍を彫った欄間の下、襖を取り払い十二畳に広げられた座敷の上座で、脇息に肘をかけ退屈そうに膝を崩している男性がいた。 年は四十を超えるだろう、干上がった大地のごとくの張りのない皮膚が赤茶けている。そして黒い髪をオールバックに調え、顎に黒い髭を生やしているその姿に威圧感があった。 両脇には着物を着崩した女性が煙管をくゆらせながら科を作り、柱の前には体格の良い男性が数名背筋を正して立ち並んでいる。ここは男色の楼なのに女性を連れ込むとは、どうも場違いな客筋だ。「これは愛くるしい姫君だ。今は蕾の姿だが行く末は見事な花が咲くと見た」 上座の男性が僕を一瞥した。そして柱の前に並んでいる男性たちも無言のまま僕を見下ろしている。(その筋の者ではないか?) もしそうであれば有り金を全部使わせてしまえと、幼い頃から婆様に仕込まれている。その筋・極道者は見栄を張るので、上手く転がせば手持ちの金は一晩で使い果たす性分らしいのだ。(なるほど。総仕舞ができたわけだ) しかし、その筋の者と対するのは初めてだ。挨拶もしない顔合わせだけの初会の仕来りを破り、会話の一つもするべきだろうか。「坊。天網様のお近くへ来なんせー」 煙管をくゆらせている女性が妙な言葉で僕を呼び、上座の男性の前に座らせた。(やはり、この方が天網様か。しかし遊廓での作法をご存知なさそうだな、座敷では姫が上座に座り客人は下座だ) 遊び方を知らない一見は適当にあしらうのが跡腐れない。総仕舞にしたのは単に見栄を張っただけなのかもしれない。 「むう、漆黒の髪と瞳か。初めて見る顔なのにどこか懐かしい。おまえの名前を言え」 細い眼は矢のように僕を見つめている。源氏名を持たない僕は「珠洲矢夏蓮です」と本名を告げた。 すると突然天網様が笑い出した。「ははは、噂を聞いて寄れば海千山千の婆が『醜悪ゆえに見せられぬ』と拒んだ牛若楼の姫・夏蓮。噂に違わぬ美童だ」 天網様がゆっくりと姿勢を正した。「しかも姓が珠洲矢とは。俄に信じがたいが蜜を撒けばその姿、蝶々に転じて披露か」(何を言っているのかな?)「夏蓮。膳を並べよう。おまえの欲しい物を取り寄せるが良い」「はい、では」 両手を打ち、使いの者を呼ぶ。僕が頼む膳は決まっている。この牛若楼の出入り業者の一つ、和菓子屋の上生菓子だ。 今宵は『水牡丹』と称して、ねりきりに紅の水羊羹を花弁のようにまとわせた愛らしい品が届けられた。三口で食べられてしまう小さな菓子だが、これが一つに上がり花の抹茶がつくだけで河豚の刺身並みに値が張るのだ。砂糖が高価だった時代の名残であり、楼の伝統だ。「菓子とは。これもまた粋な」 目を細めて僕を見るが、この膳の高額さに気付いていないのだろう。しかし女性が気づいたらしく僕を凝視して「したたかな坊ざんす」と呟き煙管を落とし、つま先で行灯を蹴るので、あわや畳を燃やす所だった。「花魁。そそうをするなら下がれ」 天網様が花魁と呼んだ女性を追い出し、ついでに立ち並んでいた男性たちも下がらせてしまった。広広とした座敷には天網様と僕だけにされて静かなものだ。「さて、夏蓮。その打掛は見事だが、いつもその花嫁衣裳を着るのか?」「いいえ、上客のお相手をする時だけです。普段は質素ですよ」「私を上客としたか。はは、地獄の沙汰も金次第とはよく言ったものだ。夏蓮、今宵は私の思うままに咲くのであろうな?」(いやらしいな) 返事もせずに菓子をつまんだ。「もっと近くに来ないか」 やはりこの天網様には仕来りは通じない。初会は言葉も交わさず二回目でようやく膳を囲み、三回目で馴染みとするのが楼の倣いなのだが。「つれないな。その素振りも親譲りか?」 不快なのか、なんと膳を足で倒し、畳の上をお猪口が転がっていく。唖然としたら手首を取られ、無理矢理に側へ引き寄せられた。「乱暴はおやめください」 責める僕を見て満足そうににやにやと笑い「座れ」と膝の上に僕の腰をぐいと押し込んだ。酒臭いし男の膝は座り心地が悪い。「夏蓮、いくつになった?」「十八です」 答えると僕の頬を無骨な手が撫でた。思わず身震いする冷たさだ。「ほほう、若い肌とは瑞瑞しくこの手に吸い付くようだな。さすがは遊廓の血筋か。それとも先代の姫・千楽の息子だからか?」(千楽?) 僕の父親の名前が出たので驚いて天網様の顔を見返った。しかしよく顔を見ても覚えが無い、この人は父の知り合いだろうか。「ははは。訝しげな目つきだな。夏蓮が私を知らぬは当然だ。私は天網彰人、おまえの父親・千楽を気に入り、随分通ったものだが座敷に上げず、つれない奴だったよ」(父は振ったのか。わかる気がする)「その瞳、髪、すべてが千楽譲りだ。ふふ、震えおって、男を知らぬか。初心な姫によい土産があるぞ」 機嫌を直した天網様が傍らに置いていた巻物を広げた。古びたそれはカビの匂いがする。「先に花魁どもに見せたら高笑いしおった」 広げるうちに屏風が見えたので風俗画かなと思った。そして色の具合から江戸時代の作品と当たりをつけた。現在の絵の具とは違い、墨や紅花、酸化水銀で描かれた絵は独特の鮮やかさだが、絵の内容が尋常ではない。「まさか!」「勘が良いな。見たことがあるのか」 逃げようとしても腕を取られた。するすると畳の上で広げられるその巻物には、平安美人が十二単を乱され胸を露出し、恥らうように口元を袖で隠してはいるものの、大きく股を開いて坊主の言いなりになっている姿が露骨に描かれている。 しかもその大きく広げた股には坊主の顔と同じ大きさの自身が潜り込もうとしていた。ありえない大きさの自身の表現に顔がひきつる。「これが春画だ。どうだ、夏蓮。おまえの着物もこのように乱してみせよ。この絵を再現してみようではないか」(変態だ!)12話に続く
2008/11/18
「おや。乱暴な足音がすると思えば夏蓮かい。ようやくお目見えか」 涼しげな風体で婆様が座敷から現れた。顔はおろか赤襟の見える項も白い粉を塗った姿に狂い咲きの花と感じた。 そのせいか目元に寄る皺までも年期の入った娼婦のよう。齢六十を越える老体なのに遊廓を営むとは気の張りが違うのだろう。老いてますます盛ん、背筋も曲がらない凛とした姿に気骨すら感じる。「婆様、僕はまだ十八です。床は勘弁してください」「数えの年では十九になろう? 大人だよ。それよりもまったく、何時間待たせるのだい。さぞや体を磨いてきたのだろうね?」「応えになりませんよ、婆様」 今の時代で数えの年を確認する人なんていないだろう。「そうだ、夏蓮。今宵の出来次第で明日は呉服屋がおまえさんの寸法を測りに来るからね。ああ、あと髪結いか」「意味がわかりません」 婆様が目を細めて僕を眺めている。「天網様はおまえさんを相当お気に入りのようだ。まだ顔も見ていないのにねえ。しかしそのさんばらの髪もおまえの顔立ちなら似合うが、この牛若楼の伝統を守った着物姿となれば……鬘でも調達するかね?」「後ろ髪を残したミディアムウルフの髪型は僕の趣味です。構わないでください」「その髪型に合う櫛を婆は知らないよ。花でも飾るかい?」「花……ですか」 片付け忘れたのか縁側に萎れた百合が捨てられていた。それが自慰をしていた姫の萎れた自身と記憶の中で重なる。「顔色が悪いね」「薄気味悪いところにきたせいです」「夏蓮が自分で来たのだろうに」 婆様がそういいながら着物の袖で鼻を覆った。小菊をあしらった色留袖は派手で、年にそぐわない。「性の違いか、この楼に漂う臭いに婆は鼻が曲がりそうだよ。一日中消えやしないし。今頃綺麗なおまえさんを見て手淫する奴もいるのだろうが、体を汚されないだけありがたいと思いなさいな」 僕の住む世界は汚れている。しかもそれを受け入れろといわれているのだ。「そうだ夏蓮。アザミを拒んだそうだね。おまえさんに手ほどきをしていない事がこの婆の不安材料だよ」「お気遣い無く」「抗うが、天網様が床を取るのはわかっているだろう。夏蓮、泣くのはおまえさんだよ」 その気丈な言い方に苛立ちを覚える。どうして床を取る事を前提としているのだろう。「さあさ、桔梗、その我侭姫様を下ろしなさいな。大体、おまえさんは下ろせといわないと離さないのかね」「はあ、そうですねえ。言われていませんので」 桔梗が僕をするりと下ろした。先のアザミの扱いより大人しいので驚いた。「頭が固いというか張子の虎か。まあ、夏蓮には丁度良いお目付け役だね」 婆様が腰をぽんと叩いて声を張った。「いいかい、桔梗。夏蓮を一番奥の座敷に連れていきな。くれぐれも逃げ出さぬよう一晩中縁側で見張るのだよ」「はあ。では夏蓮さん、参りましょう」 帯を持つ僕の手を取り、強引に歩き始めた「き、桔梗! 婆様もどうして? いつもは馴染みしか上げないくせに」「……子供だねえ、夏蓮。家の事情を察しなさいな。それにおまえさんに会いたいと何度も通ってくださったのだよ、ありがたくお礼を言ってその帯を解けば宜しい」 孫に体を売れと薦めている。それが身内の言う台詞か。「楼の事情はわかります。だけど僕は!」 びしりと僕の口元に扇子が指された。それは婆様がいつも懐に忍ばせ、幼い頃の僕を威圧する為に使われてきたので、今でも指されると条件反射で口を噤んでしまう。「否が応でも引き受けて貰うよ。早くお行きなさい」 命令され俯くと視線の先に婆様のつま先があった。年を隠せない角質層で荒れた肌に、はっとする。 僕を育てる為に無理をしてきたのだ、その婆様に僕は従わざるを得なかった。10話に続く。
2008/11/17
湯を浴びて嫌々ながらも座敷へ上がる支度をする。婆様には育てて貰った恩があるので座敷には上がるが床だけは拒みたい。 素肌に湯文字をぐるりと巻いてお腹の辺りで隅を挟む。その上に長襦袢、間着の小袖を二枚重ね、胸のすぐ下で帯を締めてだらりと流す。 これだけでも相当暑いが、さらにこの上に古くは花魁・現在は姫の張りを表す為に華麗な内掛を二枚重ねるのだ。 僕は余程の馴染みでなければ内掛は一枚で通す。今日も縞繻子と呼ばれる縞模様に織られた粋な一枚で済まそうと思っている。 そして小袖を着たら汗をかかないよう、水を一切飲まない。汗の染みで着物の価値が下がってしまうからだ。 この夏でさえ汗をかかないよう、着物を着ると決めたら早めに水を断つ。喉が渇こうと気合で座敷を努めるのが姫の張りと婆様に教わり、確かに汗で着物を駄目にして楼に負担をかけるよりは良いと思い実践している。 他の姫たちは次に白いお粉をはたき、紅をさすのだが、僕はとても化粧をする気にもなれない。洗顔後に化粧水をつけ、髪は濡れた感じを表現するようワックスで整えるだけだ。 前髪はランダムに鋏を入れて長めに残し、後ろの髪は外側にはねるようにカットした今時の髪型で着物を着るのだから滑稽なものだが、どうも目立つらしい。「失礼します。夏蓮さん、支度はできましたか。お供します」 またしても桔梗が明り障子を開けながら話しかける。きちんと教えた方が良いのか迷うが、今の所は害が無い。「行けるよ」 ため息混じりに返事をして振り返ると桔梗が打掛を手にしている。障子紙に差し込む日差しに輝くそれは、金糸で牡丹を刺繍した上客相手の打掛で僕は目を疑った。「それを着るの?」「はあ、婆様の指示ですし、客人はもうお見えだそうですので」 馴染みならいざ知らず、初会相手にこれを着るなんて納得がいかないが婆様の言いつけなら仕方ない。さらりと羽織ると離れを出て牛若楼へ通じる渡り廊下を目指した。 距離にして五十メートル、杉の板で作られたこの廊下の下は鯉が泳ぐ人工の川だ。廊下を軋ませながら歩く僕を眺めてのんびりと泳ぐ白地に赤の斑点の鯉が見えた。(気ままで良いなあ) あの鯉は馴染みからの贈り物らしい。年中その鯉を照らす石灯篭を越せば、ようやく牛若楼の入り口だ。 楼に入ると景色は変わる。時代を経た木造建築は柱こそ健在だが、縁側の手摺は手垢が染み付いたのか鈍く光り所々磨り減っている。これは昔の栄華の名残だろう。 一階の座敷は姫が並ぶ張見世と、客人と婆様が金額交渉をする場を兼ねており、その間は格子で仕切られている。 これを過ぎ、土間のすぐ脇の階段で二階に上がると六畳ごとに襖で仕切られた個別の座敷がある。ここで姫は客人と応対するのだが、僕は何気なく見た床の間に飾られた背の低い赤い花に足がすくんだ。「あれ……」 動けない僕を桔梗が急かして袖をひいた。「夏蓮さん、早く行きましょう。俺が婆様に叱られるので」(アマリリスではないのか?) 再び心がざわつき始めた。悠弥さんのお父さんはアマリリスをいけたと言っていた。それは大人の遊び場、と。まさか牛若楼の出入り業者だったのか? 悠弥さんに僕の素性が知られてしまう! 僕は汚れた子だと蔑まれ拒絶されてしまうのか。 動かない僕に業を煮やしたのか、桔梗が僕の帯の上に腕をまわした。「離して! 少しは考え事をさせてよ」「無理ですよ、夏蓮さん。もうお待ちかねなのですから」 桔梗に軽々と抱きあげられてしまい、慌てて裸足のつま先を打掛の裾で隠した。「艶っぽいですよねえ、夏蓮さんは。ここにいる姫たちの中で一番の器量で体も綺麗と来た。しかしそれも今宵限りでしょうかねえ」「僕は床を取らない」 ずかずかと勇み歩く桔梗の腕の中で僕は不安の念に苛まれていた。悠弥さんに素性を知られたくない、嫌われたくない……。「どこの座敷ですかねえ」 桔梗は悩んでいる僕に無頓着で、しかも僕を抱えたまま頭をきょろきょろと動かした。客人の待つ座敷の場所を忘れたのだろう。「……婆様に聞こうよ」「そうですねえ」 桔梗が首を傾げているのを見ていたら急にどこからか生々しい匂いが漂ってきた。(臭い!) 足元に姫が二人、廊下に座り込んでいた。アザミと同じ年くらいだろうか、細い足を投げ出して寄り添っている。「おまえさんたち、そんな所にいたら踏みつけてしまうぞ」 桔梗が注意すると一人が立ち上がった。「だって今日は総仕舞と聞いたよ。客はひとりしか来ないのだろう、することが無いよ」(なんだって?) 天網様は今宵の牛若楼を貸切ったのか!一晩の楼全体の稼ぎ分は勿論、姫や使用人全員に祝儀を出すのが総仕舞だ。遊廓遊びは道楽なのにサラリーマンの年間所得ほどの金額を納めるとは、一体、どんな人なのだろう。「あー! 夏蓮だ! 婆様の孫の姫だ!」 立っている姫の姿に声を失った。乱れた長襦袢から腿を伝う白濁の飛沫が見えたのだ。 しかも僕に向けて伸ばした指に滴る液体から匂いが直に放たれて、胃液がこみ上げる。「……早く行って、桔梗」「どこに行きましょうねえ」「奥まで行って!」 桔梗が早歩きになった。遠ざかるあの姫はアザミと同じ目だった。年中発情して、性欲に脳を支配された愚か者の姿だ。 せめて伝統ある遊廓の姫として誇りを持てないのか。初回の客人にも金次第で抱かせるようでは<ちょんの間>だ。客人に伝統とは上面だけと蔑まれてしまうだろう。 この品性の無さが僕の家業を厭う感情に拍車をかけている。淫猥な者が姫だなんて、これを生業とするなんて最低だ。9話に続く●拍手をありがとうございます●書いていてよかったなあと、しみじみ思います。元気をありがとうございます。まだまだ書き物をしたいので、お時間がありましたらお立ち寄りくださると嬉しいです。
2008/11/17
姫は花魁の伝統を守り、下着はつけない。裾を乱せば腿が見えてしまうのに裾を捲り上げて団扇で扇ぐ姫を見て眉をひそめた。「婆様を知らない?」「庭掃除かな」 漂う男の匂いに吐き気がする。この建物には下卑た匂いが染み付き、そして毎日上から重ねて塗られているのだ。 楼を避けて中庭を通り離れに戻った。僕は他の姫のように牛若楼に部屋を持たない。婆様が孫可愛さなのか、誂えてくれた中庭にある離れに住んでいるのだ。 明り障子を開けると僕の部屋なのだが、招かれざる先客がいた。それは長襦袢の前を大きく開いて寝そべりこわく的な眼差しを向けていた。「夏蓮兄さん、待ちくたびれたよ」 姫の一人、確か名前がアザミ。僕より二つ年下と聞いているが盛りがついているらしく淫乱で、一晩で客を三人もまわすらしい。「ああ、暑いなあ」 衣文をぐいと開けて焦れた様子で足をくねらせた。なんといやらしい姿態だろう。アザミのせいで牛若楼の品格は下がった気がする。この楼は<ちょんの間>と呼ばれる挿入行為目的の場ではないのに、最近は座敷に上がると膳では無く床を取りたがる野暮が多くてうんざりしてしまう。「早く、ここに来て。ああ、桔梗の奴は気が利かないな。障子を閉めなよ」 アザミが何故興奮しているのかわからない。「ここは立ち入り禁止だよ。出て行って」「違うよ、今日は婆様の言いつけだからね。夏蓮兄さんの仕込みを僕がするのさ! ああ、前からその肌に触れたくてたまらなかったよ。腰を舐め回して存分によがらせてあげるから、早く脱いでよ、ねえねえ!」「……仕込み?」 桔梗を見やると首を振っていた。仕込みは聞いていないらしい。もしくは忘れたか。 仕込みとは客人が滑らかに挿入できるように初心な姫の体を慣らしておく事で、僕が避けているいわゆる床の準備だ。「仕込みは結構だよ」 アザミの腕をつかんで廊下に出そうとした。しかし足をばたつかせて暴れ、裾から頭をもたげた自身が見えてしまった。驚く僕にアザミはいやらしい含み笑いをする。「初心な夏蓮兄さんを抱けると思っただけでこうなるのだよ? ねえ、これがどうなるのか知りたくない? 楽しもうよ」 多淫なアザミに恐怖を感じ、腕を離して桔梗を見返った。「……アザミを追い出して」「はあ、夏蓮さんがそういうのであれば」 桔梗はアザミの半襟をつかむと、軽々とその体を廊下に放り投げた。「乱暴だよ」 眉をひそめると桔梗は誉められたと思ったのか「俺は夏蓮さんより腕力がありますからねえ」と笑った。「怪我をさせないで、そのまま牛若楼へ送り返して」 桔梗が「はあ。失礼します」と言いながら明り障子を閉めた。すると充満していた男の匂いが鼻先に突きつけられたようで、慌てて窓を開けた。 これほど嫌悪している匂いだが、僕はアザミと同等なのかもしれない。僕も悠弥さんに欲情したのだから……。思い出しただけで頬が熱くなる。悠弥さんを思うと体が痺れてしまいそう。僕は悠弥さんに焦がれて側にいたいと願いながらも、この体も繋がりたいと密かに望んでしまうのだ。 これは遊廓の血筋のせいなのか。僕は穢れたこの血に憤り、力を無くすのだ。8話に続くのだ。
2008/11/17
「ああ、日傘を持たされていました」「差さないで、目立つから」 しかし桔梗は日傘を差して僕を招いた。「日焼けしたら俺が婆様に叱られるので」 悠弥さんの店から離れたので良いだろう、諦めて僕は日傘の下におさまった。「……桔梗、まさか婆様に僕の行き先を告げてはいないよね」「夏蓮さんが花屋の息子に会いに行っている事ですか。俺は報告の義務はありませんのでねえ。ああ、それにあなたは同性の匂いを嫌悪しているから誰にも抱かれないでしょう、言わずもがなですよ。お友達と遊んでいると思われていますのでねえ」(ぬけぬけと言うなあ。僕に友達がいない事くらい知っていそうなのに) しかし明るい声から悪意は感じられないので黙っていた。 楼を仕切る婆様にもしも僕が悠弥さんに好意を持っていると知れたら只では済まないだろう。『男が好きなら床を取れ』と命令されるのは勿論、折檻は元より覚悟の上だが、悠弥さんに迷惑がかからなければ良い。「ああ、思い出しました。今宵の客人は馴染みの他に、天網様だそうですよ」「……どうして?」 それは僕をしつこく探す一見の名だった。「婆様が根負けしたの?」 気丈なやり手の婆様が一見を許すとは。「金でしょう。婆様は金に弱いから大枚積まれたら畳に額を擦り付けますよ」「桔梗、口がすぎる。婆様は僕の唯一の身内だよ」「はあ、すみません」 大きな体を曲げて謝るので「もういい」と俯いた。実際、桔梗が皮肉を言うのも無理はないのだ。婆様は客人に大金を払わせても楼の古い建物の維持費をひくと利益の無い経営状態に悩んでいる。 ときに魔がさしたのか格式を忘れて、大枚さえ積めば一見でも座敷に通してしまうのだ。 天網様という客人も一見だ。本来なら馴染みの紹介がなければ座敷には通さないので、門前でお帰り願っていたら「夏蓮を出せ」とお付の男性が騒いだという。 婆様が「騒ぐ輩はますますこの楼には上げられぬ」と毅然とした態度で追い返したのだが懲りずに度々現れたとは聞いていた。呆れたのか、きっと婆様は魔が差したのだろう。「僕を指名するのだろうね」「はあ、そうでしょうねえ。よく騒いでいましたからねえ。そういえば婆様は花屋の店主に珍しい花を注文していましたよ。いつもとは違う客が来る合図なのでしょう?」「珍しい花か……」 確かに、座敷の床の間を飾るのは正月飾りの椿を除けば年中白い百合の花と決められている。以外の花を飾る時は上客・もしくは正体の知れない一見が上がる合図になるのだ。(まさか) 心がざわついた。そして口に出すのはさらに恐ろしかった。「どんな花かわかる?」「さあ、知りませんねえ。話の途中で俺はあなたの後をつける為に楼を出てしまいましたから」 目抜き通りに最近建ち始めたスーパーマーケットやパチンコ店等の大型店舗のせいで昼間でも日が差さない裏道を進むと、やがて朱塗りの壁と瓦屋根に鴟尾を頂いた牛若楼の大門が見えてきた。 何度見ても異国への入り口か地獄に通じる扉としか思えない。中央に右から書かれた牛若楼の看板があるが、普通の人は逆から読むだろうし、まず料亭には見えないだろう。「やっと着きましたねえ。しかしよくもまあ三十分もかけて散歩されますねえ」 大門は既に開いていた。間も無く明かりが灯る石灯籠を過ぎると庭園が見える。小指の爪ほどの小さな花弁の沈丁花に青々とした葉を茂らせる金木犀、蕾を膨らませる芙蓉の木を横目で見ながらため息をつく。 花をさかせる木であるのに、どうして悠弥さんの店の花々とは雰囲気が違うのだろうか。楼が日影のせいなのか黙り込む木々は誂え物のように生気を感じない。 蝶々さえ見かけない簡素な庭を抜けて中央に座した木造三階建ての楼閣へと進む。締め切った窓に嵌められた格子が時代を思わせる。二度の戦火を免れたのは奇跡だと馴染みが誉めていたが、店先の土間だけは近代の作りらしい。漆喰で固めた外壁に色鮮やかな孔雀の模様の飾り付けを施し、内装はタイル貼りで昭和モダンの香りを漂わせていた。「お帰り、夏蓮兄さん」 土間の半分を占める細格子の向こうから、支度を終えた姫たちが挨拶をしてきた。小袖を重ね、簡易な内掛を羽織る姫や、暑いせいか浴衣姿の姫もいた。7話に続くのだ
2008/11/17
そっと枕元に手を伸ばし、シーツに顔を埋めて悠弥さんの温もりを感じようとした。「ゆ、やさん……」 今朝もここに寝ていたであろう、悠弥さんの姿態を思い描く。何を着て寝ているのだろう。そして仰向けなのか、うつ伏せなのか。 シーツにキスをすると体のどこかがズキンと痛む。それは平常時の体温を越えてより熱く、僕をじわじわと急きたてる。(痛い……) それがどこかはわかっていた。僕はそこに手を伸ばし、ジーンズの上から突き出ようともがく物を片手で覆う。堪えようとして息を止め、静かに吐き出す。しかし再び息を吸うと悠弥さんの香りが鼻腔から体に流れ込む。僕の自身は敏感に反応して嬉しがり、屹立してしまった。「悠弥さん……」 助けを求めるのか懇願なのか呟く僕にもわからない。確実にいえるのは悠弥さんの姿を脳裏に描くと「欲しい」と答えが出てしまう。 悠弥さんのベッドで僕は自分の淫らさを恥じた。男の匂いや欲に駆り立てられた者を嫌悪して、代価で取引する行為を屈辱として拒んできたのに、僕は自らの自身の目覚めを知った。 下着の中に差し込んだ手は切り揃えた茂みを抜け、固く屹立した自身を捕らえる。「……ア、い、いやぁ……」 なんとしたことだろう、僕は自分が嫌悪している男の匂いを自らまき散らそうとしているのだ。それも心惹かれる悠弥さんを想像の上とはいえ汚そうと、最早先端を濡らしていたのだ。「クウゥ……」 自分の声とは思えない鼻にかかった甘い声が漏れた。額から汗が流れ、僕の髪を頬に張り付かせる。唇にも触れたそれは自由に動けない僕の濡れた心の縮図だ。雄は放出を求めて疼き、脳に動けと指示を出す。(止まれない!) 汗ばんだ僕の肌は熱を帯び、そして刺激を求めていた。僕は悠弥さんを求めているのだ。心を預けたい人に、僕はこの体も繋がりたいと切望していたのだ。(知られたくない、こんな思いも知られるわけにはいかない!) 拒絶されるのが怖い。荒い息を吐きながら、それでも股間を落ち着かせようと震える。しかし焦っても自身は静まらない。本能に反した僕に怒張していた。 こうしている間にも悠弥さんがいつこの部屋にくるか知れたものではない。こんな姿を見られでもしたら……。 慎重にジッパーを上げる。一安心したが、うっすらと出来た染みを見て心臓が跳ねた。羽織っていた薄手のカーディガンを脱ぎ、それを抱えて前を隠しベッドから降りた。やや前屈みになりながら、よろよろとドアの前まで行き階下の様子を探ると話し声が聞える。 今のうちに挨拶をして帰ろう。しかし上気した頬が熱い。この狂おしい欲情に気付かれなければ良いのだが。 ゆっくりと階段を下りると悠弥さんの明るい声が聞えてきた。お客様がお見えなのか。「お誕生日おめでとう。十一月には七五三のお参りだね」「いやあだ、この子ったら照れちゃって! まだ七つなのにませているでしょう、悠弥くんが好きなのよ。この間もピアノの発表会に素敵な花束を届けてくれたでしょう。もう、喜んじゃって。ねえ、お参りの時の髪は悠弥くんにお花を飾って貰おうね?」 親子連れのお客様か。お母さんらしい女性の声も楽しげで、悠弥さんがお客様にいかに慕われているかわかる。「お化粧をして晴れ着を着るのかな」「そう、それが舞妓さんみたいに振袖に結び帯をして、ぽっくりも履かせたいのだけど、 どうかしら。似合いそう?」 そんな事は身内に聞けば良いだろうに。女性の裏返った声とこの和やかな雰囲気に、顔を出しづらくなり階に座った。「きっと似合うよ」「……ママー!」「あららら、この子ったら! 悠弥くんに見つめられて恥かしい?」(良いなあ) 僕にはほど遠い暖かな家庭の雰囲気が垣間見られた。こうして階に座って膝を抱えている僕と、姿は見えないがさぞや嬉しがっているお嬢さんは産まれた場所も育ちが違う。だから珍しい舞妓さんの格好をして飾りたいのだろう。(僕は毎晩させられている。しかもその姿を誰にも見られたくないとさえ思っている) 話し声を聞いていると自分が世間とは違う異端の者と思い知らされる。それに悠弥さんは僕だけに優しいのではなくて、お客様にもやさしいのだ……。 へこんでいたら萎えてしまい落ち着いてきた。出るなら今だろう。僕は階段を静かに下りて店に顔を出し、接客中の悠弥さんにお辞儀をしてようやく店のドアにたどり着いた。「また、おいでね」 手を振る悠弥さんに再び頭を下げて店の外に出た。しかし自動ドアがなかなか閉まらない。お蔭で僕が店先を離れていくのにも関わらず、店内の話し声が漏れ聞えた。「可愛い子ねえ、まだ高校生くらい? 悠弥くんのお友達かしら」(友達。そう紹介して貰えるのだろうか)「ふふ。大事な子です」(え?) どきんとして足が止まった。恐る恐る振り返るが丁度ドアが閉まっていた。もう会話の続きは聞けない。店先に日差し除けもかねて育てられている朝顔の蔓を通りすぎながら、ため息をついた。(大事な子。どんな意味だろう。期待してはいけないな、だって僕は……) 見上げた空の夏の日差しが眩しい。足早に路地裏へ入り、両堀の上を野良猫が陣取る小道を歩く。今日も猫は僕に警戒を解かない。その痩せた背中の毛を逆立てている。「夏蓮さん、そろそろ帰りませんと」 いきなり背後から声を掛けられて驚いた。 振り返ると牛若楼の使用人の大男、桔梗が突っ立っていた。「どうしてここにいるの?」「はあ、そういわれましてもね。俺はあなたのお目付け役ですから」 お祭りでもないのに浴衣を着ている百八十センチを越えた大柄の男は目立つ。筋骨隆々の体格の良さを見込んで婆様が僕のお目付け役を命じたのは良いが、平日の昼間に浴衣を来た大柄の男と並んで歩いたら人の眼につきやすい。万一素性を問われでもしたら僕の恐れている事が露呈してしまう。「婆様から、散歩をするのは構わないが牛若楼の大事な姫に何事かあってはならないと、言われていますので」 でも少しは僕を気遣ってほしい。「離れて歩いてくれる?」「はあ、夏蓮さんがそう言うのなら従います。だけど少し急いでくださいねえ? 今宵は上客が見えるので、夏蓮さんには大門が開く時刻から早々に二階の座敷へあがるように婆様から伝言がありましたので」 大門が開くのは午後三時だ。そんな早くから客人はまず来ないものだが。「……誰が来るの?」「さあ、忘れました」「え?」 子供のお使いではあるまいし、忘れたで澄まさないで。きちんと内容を聞いて伝えてこそ伝言が成り立つのに。桔梗の年は二十代と聞いているがその割に頭が回らない欠点があると見た。悪い人では無さそうだが。「夏蓮さん、日焼けをしてしまうから上着を羽織ってください。俺が叱られるので」「うん」 ボーダーのタンクトップの上に手にしていたカーディガンを羽織った。染みが丁度隠れる丈だったので安心した。「後ろから見ると女の子ですねえ」「嬉しくない」 細い道を抜けて掛橋の袂まで来た。泥と化した水面を見ると複雑な想いにかられる。今からまた泥の中に戻るのだ。それが自分の変えられない生き方なのだろうか。6話に続く
2008/11/17
お兄さんが体を起こしてベッドの脇に寄りかかるように座った。僕からはお兄さんの頭しか見えないが……綺麗な髪だ。今時の髪型をしっとりと落ち着かせたその艶から、きちんと手入れされているのがわかる。「あの、お兄さんの名前は?」「明日教えてあげる。今日はもう寝たら?」 お預けにして僕に布団をかけてくれた。僕はそれに驚いた。僕に布団をかけてくれる人など今までいなかったからだ。 親が生きていたら、かけてくれたかもしれない。暖かな手が僕に布団をかけてくれる姿を想像して切なくなった。にじむ涙を堪えて、お兄さんの優しさに感謝した。 翌朝は雨が上がり、明るい日差しを受けて早々に目覚めた。お兄さんにお礼を言って帰ろうとしたら、急に僕を抱き締めてくれた。「側にいてくれてありがとう、夏蓮ちゃん。お蔭で眠れた」そして耳元で囁いてくれたのだ。「ごめんね。昨日は何も聞いてあげられなくて。俺でよければいつでも話においでよ。俺の名前は鹿乃子悠弥(かのこゆうや)。悠弥、と呼んで」 死ぬなとか飛び込むなとまっすぐな言葉でとめられたのではない。僕は人の優しさを感じた。側にいてくれたのは悠弥さんなのに、『いてくれてありがとう』なんて。僕は抱き締めてくれるその腕の暖かさに、人の温もりと優しさを知った。 それから僕は学校帰りに散歩と偽り、家から遠く離れたこの鹿の子生花店にお邪魔するようになった。花屋の居心地が良いのもあるが、悠弥さんに会いたかった。楼や学校で嫌な事があっても、悠弥さんに会えると心が弾むのだ。 何度かお邪魔して季節が変わった頃、はたと気がついた。悠弥さんの清らかな光りを湛える瞳に見つめられると息が苦しくて、どこかが焦れるような感覚に襲われたのだ。 悠弥さんが僕の髪を撫で、頬に触れてくれるのが嬉しいからだろうか。 まるで花を愛でるその仕草に似ていて、気持が高揚する。悠弥さんにしてみれば拾った野良猫や犬を可愛がる心境と同じかもしれないが、僕は悠弥さんに甘えてみたいし、可愛がってほしくなる。僕は野良よりも花よりも悠弥さんの心を占める存在になりたい、その瞳に住みたいと願っている。 ぱさりと足元で軽やかな音がした。「俯いたままでどうしたの」「あっ」 僕は無意識に悠弥さんのシャツを握っていた。両手で持っていたはずの紫陽花のブーケは御影石の床の上に転がってしまっていた。「す、すみません」 折角の白い花が汚れていないだろうか?僕は慌てて拾い上げたが花嫁さんに傷をつけてしまったような罪を感じた。「気にしないで。これは見本にするつもりでいたから」 心ここに在らずの僕を見透かしたのか、許して微笑んでくれた。「それより、夏蓮ちゃん」 悠弥さんが僕の顔を覗き込んだ。最近、悠弥さんは僕に顔を近づけてくる。嬉しいけど、どこを見ていいものかわからず戸惑う。「そらさないで」「えっ」悠弥さんは僕の肩をきゅっとつかんで視線も捕らえようとする。「あ、あの。何ですか……」「んー。俺、話したいことがあるのだけど」 改めて、どうしたのだろう。思い当たる節が無い……、いや、まさか僕の素性を知られたのか? ずっと黙っていたのに。体を硬くしていると店のドアのチャイムが鳴った。「おーい、悠弥! 今、戻ったぞ。道具を下ろすから手伝えー」 悠弥さんのお父さんの声だ。「あ、はーい。お帰りなさい」 振り向きながら返事をしている。後ろ髪の隙間からちらっと見えた項にもどきんとした。「ごめんね、夏蓮ちゃん。二階の俺の部屋に上がっていてくれる?」 お得意先から帰った悠弥さんのお父さんの仕事道具を片付けるには、僕が店内にいては邪魔らしい。お父さんの顔を見て挨拶をする余裕もなく僕は店の奥の階段を駆け上がった。「親父、今日はアマリリスを持っていったのか? しかも赤なんて珍しいね」「おおう! 今宵は内内でめでたい事があるらしくてね。背の低い可憐な赤い花を床の間に飾ってくれって言われて、十二の座敷に全部アマリリスよ」「へえ? 座敷って、何処に行っていたの」 悠弥さんとお父さんの会話が聞える。アマリリスか、可愛い花だな。「昔から贔屓にしてくださる元気な婆様の店だよ」「ふーん。料亭だっけ?」「おまえはまだ顔を出したことがなかったな。まあ、知らなくてもいいのさ。その趣味があるのなら教えるが大人の遊びは高くつくぞ」「何だよ、勿体ぶって。俺はもう二十三なのだけど?」(まさか) 背筋に戦慄が走った。しかし悠弥さんのこの店から牛若楼は僕の足で三十分はかかる距離だ。しかも目抜き通りを避けて路地裏に大門を構える牛若楼へは車での侵入は不可能、細い道ゆえに車両通行禁止の標識もあるほどだ。距離があるし交通も不便だ、縁があるとは思いたくない。 立ち聞きを止めて悠弥さんの部屋のドアを開けた。すると店内と同じ香りが僕を出迎えてくれた。葉をちぎったような青い草の香りにほのかな花の香り。部屋のどこかに花が咲いているのではないかと思わせる安らかな香りが広がり、清清しい気持にさせてくれる。(この香りが好きだ。とても落ち着く) 店にあった小菊の香りだろうか? 葉の青い香りの混じる清楚なこの香りも好きだ。 僕は最近花が好きになった。それは悠弥さんに会う口実の為に図書館で花の本を読んで勉強している成果だ。悠弥さんと季節ごとに変わる美しい花の話をし、時には簡単なアレンジも教えて貰う。 実に楽しい時間だ。お客様が来店されたら僕はそっちのけにされてしまうが、それでいい。空いた時間に構って貰える事が僕には嬉しくて仕方が無い。 しかし僕は花の話以外はしない。家業は隠したいので口を滑らす事のないよう気をつけている。それに感づいたのか裕弥さんは僕の素性はおろか身の上話を聞かせてといわないし、いつも笑顔で迎えてくれる。(このまま知らないでいてくれたらな) 壁際に置かれたベッドに座る。一年前の秋のあの日、僕に使わせてくれたベッドだ。5話に続く
2008/11/17
「もう雨が降り出すから、早くお家に帰ったほうが良いよ」 今にも身を投げようと切迫した人に言う台詞だろうか。タイミングを逃し手摺から手を離すと「帰りたくないのです」と呟いた。 こんな事を言っても聞いてくれないだろうし、相手にされないとわかっている。でも、行き場の無い憤りとこみ上げてくる悲しみはとめられなかった。「そう。んー。傘を持っていないみたいだし。ここにいたら濡れるだけだから、おいで」「……え」「俺の家がすぐそこだから。雨が止むまでいたらいいよ」「まだ、降ってもいないのに」「夕立を舐めるなよー?」 ふふっと微笑んで、顔を覗き込んだ。「おいで」 白い小菊を抱えたお兄さんは瞳が赤かった。初対面だけど、このお兄さんに悲しい事があったのだろうかと心配になり、先を歩く背中を追った。 しかしどう話しかけて良いものかわからない。陸橋を渡り路地裏へ入ると狭い道になった。両堀の上に痩せた猫が居座っており、お兄さんにはミャアと甘い声で挨拶したくせに僕を見て耳を立てた。「あの」 猫に怯えながらお兄さんの背中に呼びかけると「なあに?」と返事をする。でも僕を見返ったのは小菊だけだ。「何か、あったのですか?」「きみは優しい子だね。泥の中に飛び込もうとしながらも、俺を気にかけてくれるの」「それは……」 僕は自分の悩みや憤りを棚に上げて、お兄さんの赤い瞳が気になっていた。「ああ、急がないと。降ってきたね」「えっ?」 痩せた猫が堀から飛び降りて駆けていく。金木犀の葉を揺らす大粒の雨が降り出した。「ついておいでよ」走る背中を追いかけて飛び込んだのは花屋の店先だった。「早く入って」 僕を出迎えてくれたのはバケツに入った沢山の花だ。白や黄色の小菊にココア色の大輪菊。夕焼けを思わせる茜色のダリアにアプリコット色のストック。控えめに咲くピンクの藤袴の隣には、花弁を幾重にもまとった真紅の薔薇と共に優雅さを競う透明感のある白いカラー……。 どの花も花弁が瑞々しくて葉も青く、生命力に溢れている。華やかな存在と清らかな香りは僕の気持を浄化していく。歩く度に軽い音を鳴らす御影石の床も僕を和ませ、思考を落ち着かせてくれた。「親父にまた拾ってきたなと怒られるかな」「は? 拾った?」「うん。俺はよく猫や犬を拾うので、親父に怒られてばかりさ。こんな時期によろよろ歩く野良は死が近いって。俺もわかってはいるのだけど捨て置けなくて……今日も見送りをしてきたのだよ。ああ、なんだかまた悲しくなってきた」 レジ台に頬杖をついて物思いに耽りそうな雰囲気を醸し出したので、僕は慌てた。「あ、あのう。帰ります……」「どうして。雨が降っているのに」 頬杖をついた先の指が唇に触れている。寂しさを隠す事無くその仕草に表している。「僕は……野良ではありませんし」「親に承諾がいる年では無いでしょう。良ければ泊まっていって。俺のために」 大粒の雨が舗装された道を激しく打っていた。その跳ね返りの音もすさまじくてお兄さんの声を弱々しく感じさせた。(お兄さんのために?) 聞かれないから自分の事を話さない、そんな素性の知れない僕を部屋に入れて、その上自分のベッドを使わせてくれた。 先輩に襲われた直後で警戒したが杞憂だった。お兄さんは床に転がり、寂しそうに天井をただ見上げていた。『見送りをしてきた』とは拾った猫か犬が他界したのだろう。どう慰めたら良いのか、言葉が見つからない。「そういえば名前を聞いていなかったね」 お兄さんの声はかすれていた。「珠洲矢夏蓮(すずや かれん)です。夏の蓮と書きます」「そう。綺麗な名前だね」 お兄さんの穏やかな言い方に心がすっと癒されていくのを感じた。何故だろう、名前を誉められただけなのに。「可愛い顔をしているなと思ったけど、名前も良いね。泥の中から身を起こして見事な華を咲かせる睡蓮か……」4話に続く
2008/11/15
<牛若楼>と看板を掲げる僕の家は、表向きは料亭なのだが元々は遊廓で今もその伝統を密かに守っていた。 遊廓は牛若楼の主・齢七十を越える僕の婆様が生まれる前、明治時代から先祖が継いできた家業で、太平洋戦争後は俗に<赤線>と呼ばれる歓楽街の一角を担っていた。 当時の賑わいは知る由もないが、風俗業である遊廓は昭和三十三年の売春防止法施行の際、取締りを免れる為、表向きに料亭の看板を掲げたそうだ。 この作業が間に合わなかった妓楼は軒並み取り壊され、牛若楼は当時の面影を残す唯一の建物となった。婆様曰く、そろそろ登録文化財に指定される見込みらしい。格式のある遊廓だと婆様の自慢の種だ。 しかし営業内容は昔と変わらぬ風俗業なので公にならぬよう、陰間と呼ばれる男色に衣替えをして遊廓の営業を続けている。 現在、花魁に代わって『姫』と呼ばれる器量の良い男性が座敷に上がり、客人と会話を楽しみお酒の相手をし、求められれば宿泊もある。姫は同性を愛する体質の人で構成され、その性癖ゆえに家を捨てた者や相手を探す孤独な人ばかりだ。 幸いにもお客との間で愛が育まれればこの牛若楼を出て共に暮らす事が出来る。その際には楼に肩代わりして貰った着物代の他に、代価として自分の体重分の金を納めるのが仕来りだ。 そして楼の存在を決して他言しないよう誓約書も書くらしい。伝統を重んじながら陰の文化ならではの決め事だ。 この牛若楼の血筋で男子が生まれれば作法を躾けられて姫と成るのは当然と、僕は十五の年から座敷に上げられている。格式を守る遊廓ゆえに、小袖の上に打掛を羽織り、当時の花魁を再現した姿の僕は自分でも滑稽だと思う。 それに加えて僕は男色の自覚は無いので、座敷は我慢するが床を取るのは拒んでいる。いかな客人に二度三度と熱心に通われて、お金を積まれても僕は体を売らない。その振り方が初心だと勝手な評判がつき、僕が座敷に呼ばれる頻度は増えていた。 しかし頑として床を拒否する僕に「秘部に閨紙を仕込み、実際には挿入をさせないが感じた<ふりをつける>方法がある」と婆様が教えてくれたが、それすらも拒んだ。 好きでもない客人に抵抗できずに組み敷かれるのは屈辱的だ。しかも僕は牛若楼に染み付いた雄の臭いに吐き気を覚えるのだ。なんと獣じみた臭いだろうか。僕はその匂いが体に染み付くのを恐れていた。 婆様のお陰で高校まで通わせて貰えたが友人は出来なかった。人の口に戸は立てられず、どこからか僕の家業が知れると、皆は離れていったのだ。 姫は事実だが床は取らない、僕は汚れてはいないのだ。汚名返上に躍起になったが、噂は尾鰭がつき「淫乱」だの「気色が悪い」と面と向って言われてしまい友達作りは諦めた。 せめて穏便に過ごそうと思ったのに、高校二年の秋に部活の先輩が流し目で誘ってきた。相手にしない僕に腹を立て、彼は突然獣に変わり僕を地面に押し倒した。そして性急に僕の股間を弄り自らの自身を突きたてようとしたのだ。僕は恐怖の中で雄の匂いをかいだ。途端に胃から液体がこみ上げ「うッ」と両手で口を押さえると獣は油断をした。 その隙を狙い腹を蹴り上げ、全速力で逃げた。辛かった。どこまで走っても逃げられない、いつまでも追われている感覚が付きまとった。後ろを振り返れずにただ走り、ふと段差でつまずいて無様に転んだ。 そこは家からも遠く離れた陸橋だった。昔は綺麗な川だったのにいまや汚染されて消えない泡を流す泥と化した川を見て、僕はいよいよ力を無くした。 僕はあの牛若楼でだれかれ構わず足を開く多淫な姫や、その客人たち低俗な人間と同じ男だと認めたくなかった。 ふらふらと橋の手摺から身を乗り出し泥と化した水面を眺めた。僕はまるでこの川のような汚濁の中に呑まれ生きているのだろう。その体は汚れているのだ。 なんと恥ずべき生き様だろう。普通の人間を装うとは傍から見たら愚の骨頂だったに違いない。僕は自分の生きる意味がわからなかった。 自分を嫌悪して憤った僕に夕立前の湿った空気がまとわりついた。それすらも僕を卑しめ、蔑んでいると感じ、目尻に涙が浮かんだその時だ。 草叢を駆け抜けたような青々とした香りが漂ったのだ。「どうしたの」 穏やかな声と瑞々しい葉と清らかな花の香りが漂った。どきんとして顔をあげると知らないお兄さんが隣に立っていた。白い小菊の花束を抱えて、夕陽に映える茶色い髪を風に揺らしていた。3話に続く
2008/11/15
「綺麗でも主役にはならない奥床しさがあるのだよ。花は触れずに愛でるものだから」 細い指先が白い紫陽花を束ねながらふと、香りを確かめるようにその花弁に鼻先を寄せた。茶色い髪が白い紫陽花に映えて小麦色の肌を際立たせる。 瞼を閉じたその横顔を見上げながら僕は頬が紅潮した。あの花が僕であればと、物を言わぬ紫陽花に嫉妬したのだ。僕の視線をかわすように淡い桃色の紙に巻かれる紫陽花は花弁が色づいて見えた。「悠弥(ゆうや)さんは花がお好きなのですね、さすが花屋の跡取り息子さん」 感情を読まれたくなくて、唇に指を当てながら呟いた。 「花もその気持がわかるのでしょうか、僕には恥らうように見えます」「ありがとう、夏蓮(かれん)ちゃん。俺はお客様からアレンジやブーケの注文を受ける度に、これを貰う人が喜んで欲しいなあと思うのだよ。笑顔が観たいよね」 微笑む悠弥さんにつられそうになる。「ふふ。夏蓮ちゃんは黙っていても、可愛いけどねー」「あ、あの。からかわないでください……」 高まる鼓動を悟られたくなくて、胸の辺りでぎゅっと握った拳が震えた。体が熱くて腰掛けた椅子の上で足を組んだ。「赤い色が似合うね」「え?」 悠弥さんが紫陽花を手にしながら僕の目の前に来た。そしてやや前屈みになり目線を合わせてくれた。「髪が黒いせいかな、頬に赤い色をさすと元気に見えるよ。恥らっているのは紫陽花だけではなさそうだ。夏蓮ちゃんもそんなに花が好き?」(花ではなくて!) 口には出せない思いがあった。まっすぐに見つめるこの瞳に僕は心を奪われているのだ。 花を愛おしいとするその清らかな心に憧れ、こうしてふらふらと遊びに来た僕を邪険にせずに構ってくれる穏やかな人となり。 肩まで伸ばした茶色い髪はゆるいパーマでエアリー感を持たせていて今時のおしゃれな美容師さんのよう、とても一介の花屋の店員には見えない。髪と同じ色の飴玉のような瞳、尖った顎。それに僕より十センチ以上も背が高くて、花屋の仕事は肉体労働なのにやけに細い体で……。今もはだけた襟元から覗く鎖骨に、そして張りのある肌に吸い込まれてしまいたくなる。「なんか、夏蓮ちゃんを見ているとドキドキしちゃうな。そうだ。これを持ってごらん」 渡された紫陽花を持つと「寂しい感じがするね。ボリュームが足りないかな」と駆け出して、別の白い花を持ってきた。「八重咲きのトルコキキョウを紫陽花の隙間に入れて、デンファレを添える。ほら。これでクラッチブーケだ」 僕に持たせたまま茎を縛ると両手を叩いた。 ガクの重なり合う紫陽花とふわりと花弁の巻きあうトルコキキョウ、そして広い花弁の中央に突起を持つあでやかなデンファレの組み合わせは実に個性的で、清楚な乙女よりも、花言葉とおりに『移り気なお姫様』が片手で持つのがふさわしいかもしれない。なんとも躍動感に溢れたブーケだ。「うん、良い感じ。リボンはオリーブとアイボリーの二色使いかな」 光沢のあるサテンリボンを贅沢に使い、大きなリボンを結んだ。鋏で先を扱き、ループ上にさせるとそれはまるで蝶々のよう。心憎い演出だ。「わあ、綺麗だ。白いブーケも良いですね」 花嫁さんが持つブーケはイチゴのように赤い華やかな色合いか、甘い砂糖菓子のようなピンク色を想像していたが、白いブーケは清楚であり、これを持つ花嫁さんが今からどんな色に染められるのかという未来への期待が見え隠れするようだ。 物言わぬ花にこめた気持は晴れやかであり大胆だ。なぜかこれを持つ僕まで嬉しくなってきた。「ようやく笑ったな?」 悠弥さんが僕の髪を撫でてくれた。「いつも微笑んでいなさい」 ブーケをよけて僕の肩を持ち、首を傾げて頬に軽く唇が触れた。「あ、あの」 僕の息が悠弥さんの鎖骨にかかる。その開いた胸元に紫陽花が触れていた。「……僕」 あなたが好きです、が言えない。こんなに近くにいるのに思いの丈を告白するのをためらってしまう。それは僕の卑しい血筋を咎められ、拒否されるのが怖いからだ。――僕の家は商いをしている。それは悠弥さんの家業の花屋のように公に営業するものではなく、陰で栄える品位の欠けた文化なのだ。2話に続く
2008/11/15
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