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2/19(月)高知龍馬マラソン翌日まで高知に滞在。天気はあいにくの雨になってしまったが、はりまや橋からバスに乗って桂浜へ向かった。まずは坂本龍馬記念館へこちらの坂本龍馬像がお待ちかね。「心をつなごう」 「シェイクハンドぜよ!」当然の事ながら龍馬さんとシェイクハンドし、記念館の展示を見て回って龍馬気分が盛り上がる。桂浜は坂本龍馬像が立ち記念館もあって、今では坂本龍馬一色になっているが、元々は室町時代からあった浦戸城の城跡。桂浜に連なる岬全体が城郭を形成していて、現在も石垣の一部や土塁の跡が残っており、坂本龍馬記念館の駐車場の前の丘は、丘全体が天守台の跡になっている。浦戸城は室町時代後半から安土桃山時代にかけて土佐の領主だった長宗我部氏の本拠地だった城で、土佐の政治の中心だっただけでなく、長宗我部氏の四国制覇の拠点となった城。四国を制した長宗我部氏だったが、豊臣秀吉に臣従して土佐一国の領主に戻り、最終的には関ケ原の戦いで西軍に味方した事により、領地召し上げの末、改易となってしまった。関ケ原の戦いの後に土佐の領主となった山内氏は。新たに高知城を築いて本拠地とし浦戸城は廃城に。かつて天守があった丘の中心には、今は小さな祠がひっそりと建っている。浦戸城天守台の跡から坂道を下って行くと、10分足らずで桂浜に到着砂浜に降りて太平洋の潮騒を聴きながら歩く そしていよいよ坂本龍馬像へ‼️‼️龍馬さん!久しぶりにここまで来たぜよ‼️その後も美しい桂浜の景色を眺めて過ごしたかったが、午後になり雨足がどんどん強くなってきたので、龍馬三昧の時間は終了。バスではりまや橋まで戻り、空港リムジンバスで高知龍馬空港へ。帰りの飛行機の時間まで、高知での楽しい時間を振り返りながら、美味しい生ビールを飲んで過ごした。
2024.02.20
高知城を下城して続いて向かったのは、城から見て南西の向きにある、江戸時代には下級武士や町人が住んでいたエリア。本町筋や上町などと呼ばれている一帯で、坂本龍馬は郷士の次男としてここで生まれたと伝わっている。坂本龍馬生誕の地は今は石碑が建っているのみ観光用の地図には、他にも才谷屋の跡や近藤長次郎生誕の地なども載っていたが、今はその痕跡も残っておらず、龍馬たちが歩いたであらう街を、ただ妄想を広げながらぶらぶら歩いた。その後はJR高知駅前に建つ3人の像と対面左から、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎3人とも明治維新直前の土佐が生んだ英傑だが、いずれも下級武士の出、中岡慎太郎に至っては、武士ですらない庄屋の息子というのが面白い。おまけこの日の昼は坂本龍馬の生家の近くにある、昔ながらの喫茶店でオムライスを食べた。観光客向けというより、地元のお客さん向けといった感じのお店で、オムライスはどこか懐かしい味がした。
2024.02.17
2/17(土)早朝に羽田空港を出発して高知龍馬空港へ。高知龍馬空港からバスで高知市内へ移動し、早速観光名所のこちらを通った。「土佐の~♪ 高知の~♪ はりまや橋で~♪」高知にやって来たのは27~8年ぶりとすごく久しぶりだが、相変わらずはりまや橋は・・・。そのまま歩いて土佐藩24万石の居城高知城へ。高知城は1600年の関ケ原の戦いの論功行賞で土佐の領主となった山内家が築いた城で、山内家は江戸時代を通じてこの城を居城とした。追手門の外に立つ土佐藩の藩祖 山内一豊 の像追手門をくぐって場内へ入る城内に入ってすぐの所に立つ板垣退助の像「板垣死すとも自由は死せず」城内の階段を登って行くと、山内一豊の妻、千代の像が。千代と言えばやっぱり馬とセットですな。三ノ丸から見た天守の姿高知城の天守は明治以前から現存する、「現存12天守」のうちの1つで、1611年に完成した初代の天守が1727年の火災で焼失のを、1749年に再建したもの。天守に隣接して建つ本丸の御殿と共に、当時の姿を今に伝えている。いよいよ天守の中へ天守最上階からの高知城下の眺め昔のままの木造の天守は、中の階段がものすごく急で、建物の実用性なんか二の次の造り。江戸時代初期の築城の思想が良く現れていて、非常に面白い。戦後に各地で復元された、鉄筋コンクリート造の天守とは、一線を画している。
2024.02.17
1/3(水)地元兵庫県での帰省を終えて横浜の自宅へ帰る途中、浜松で下車して寄り道。徳川家康が武田信玄に大敗を喫した、三方原古戦場と浜松城へ行って来た。浜松駅からバスに乗り浜松城から徳川家康が出撃したルートを辿って、約30分で三方原古戦場へ。浜松の市街地から坂を登った、三方原台地と呼ばれる平らな台地に広がる古戦場。浜松城の徳川勢を無視して、三方原台地を浜名湖の北方へ向かって進軍する武田勢を、台地の北端に追い詰めて撃退しようと出陣して来た徳川勢が、逆に台地の上で待ち構えていた武田の大軍に迎撃され、まさにボコボコなされた「三方原の戦い」の現場だ。現在は平らな台地に浜松市の墓園が広がっていて、墓園の片隅に古戦場の石碑と看板があるだけで、古戦場の面影を感じるものは残っていない。浜松城からここまで出て来て、背を向けているはずの武田勢が、魚鱗の陣形で待ち構えていた時はどんな景色だったのだろうか。武田勢の魚鱗の陣形に対し、徳川勢は急遽、鶴翼の陣形を敷いて迎え撃ったが、呆気なく布陣を破られて大敗し、一斉に浜松城へ向かって敗走した。帰りは再びバスで浜松城まで、徳川家康が敗走した道を辿る。浜松城に到着。敗走した、若き日の徳川家康像が建っている。室町時代、浜松付近は曳馬と呼ばれ、駿河今川氏傘下の飯尾氏が築いた曳馬城があったが、1570年に徳川家康が遠江を領有してから、浜松と改称し新たに浜松城を築いたのが城のルーツ。1590年に城主となった、豊臣家譜代の堀尾吉晴によって天守が建てられたが、1600年代に姿を消してしまい、長く天守台の石垣が残るだけだった。現在建っているのは、1958年(昭和33年)に建てられた、鉄筋コンクリート造3階建ての復興模擬天守で、中は資料館として公開されている。天守最上階から戦場となった三方原方面を望む徳川家康は29歳から45歳までを浜松城を居城として過ごし、武田信玄にボコボコにされた「三方原の戦い」があったのは31歳の時の事。家康にとっては、桶狭間の戦い後の大高城から岡崎城への敗走、本能寺の変の後の伊賀越えからの脱出行と並び、人生の中での大ピンチだった三方原からの敗走。その後の家康の出世や、歴代城主が幕府の要職に就いた事から、「出世城」と呼ばれるようななった浜松城だが、その出世も大敗から多くの学びを得た、徳川家康の成長あってのものだろう。
2024.01.03
9/16(土)5連勝に向けたジェフのアウェイゲームに参戦するため、宇都宮までやって来た。早めに宇都宮駅に着き、歩いて15分ぐらいの距離にある宇都宮城跡へ。宇都宮城は平安時代からこの地を治めた実力者が、拠点として来た城で、江戸時代になってからは、奥州街道、日光街道の要衝として、主に徳川譜代の大名が配置された。一昨日訪ねた福井城を築いた結城秀康(松平秀康)とも縁があって、1600年の関ケ原の戦いの際、西上する東軍本隊に対し、敵対する会津の上杉景勝への抑えとして、宇都宮城に結城秀康が配置され、上杉軍の南下に備えた事で知られている。江戸時代の宇都宮城は、戊辰戦争の宇都宮の戦いで消失していまい、今は本丸の跡に土塁と櫓、城壁などが復元されている。土塁の上は遊歩道して整備されているので、城跡の雰囲気を味わいながら歩いて来た。江戸時代初めには、本多正純失脚の原因となった、釣り天井事件の舞台にもなった宇都宮城。事件自体は、本多正純を中央から追い落とすための謀略の気配がプンプンするが、そんな事も妄想しながらの城跡歩きは楽しい。
2023.09.16
JR福井駅周辺でのブラブラ歩きでは、歴史に名を残す2つの城跡も訪ねて来た。まずは幻の巨城 北ノ庄城跡織田信長の家臣 柴田勝家が、越前朝倉氏滅亡後に領主となった際に築いた城で、現在は柴田勝家を祀る柴田神社として、城跡の痕跡が僅かに残るのみとなっている。北ノ庄城は近くの足羽山から採れる、笏谷石を大量に使った強固な石垣と、9階建ての高層天守が建っていた巨大な城だっと伝わっているが、築城から僅か8年目の1583年に、柴田勝家が羽柴秀吉との戦いに敗れて落城し、爆破・炎上したために幻の城となってしまった。城跡に立つ柴田勝家の像柴田勝家と共に命を落とした妻お市の方の像も建てられている。お市の方の3人の娘、浅井三姉妹と言われる茶々、初、江の三姉妹の像も、母 お市の方の像の傍らに建てられていた。北ノ庄城が落城して滅亡し、1600年の関ケ原の戦いの後に越前の領主となった、徳川家康の次男 結城秀康(松平秀康)が築いたのが、現在も城跡の一部が残る福井城。こちらの城跡には結城秀康(松平秀康)の像が福井城は江戸時代を通して徳川家一門の大名として、越前藩32万石を治めた藩の居城で、本丸と内堀が現存しているが、本丸跡の本丸御殿があった場所には、福井県庁の重厚な庁舎がデーンと建っていて、正直、城跡としての趣は台無しになっている。越前藩の政庁だった福井城に、福井県の県庁を持って来たい気持ちは分かるけど、何とかならんかったのかね。内堀を渡って本丸を結ぶ御廊下橋。藩主が本丸を行き来する時に用いられたとのこと。本丸の一部には天守跡の石垣が残されていて、5階建ての天守が建っていた名残を感じる事が出来る。越前の地を治めた、光と影のような対象的な2つの城。福井には更に前の時代の越前を治めた、朝倉氏の一乗谷城の跡も近くにあるので、今度はちゃんと時間を取って、そちらにも足を伸ばしてみたい。
2023.09.14
8/6(日)夏の信州旅の最終日は、大町市の扇沢から県境をトンネルで越えて、富山県側にある黒部ダムまで足を伸ばした。マイカーで行けるのは扇沢まで、ここで関電トンネル(大町トンネル)を抜ける電気バスに乗り換え。黒部ダム建設の資材輸送のために作られた、関電トンネル(大町トンネル)で、工事の難所となった破砕帯と長野・富山の県境を越えて、扇沢から約15分で黒部ダムに到着。バスを降りてトンネルの階段を抜けると、圧倒的スケールの黒部ダムがドーン!この時期は観光放水が行われていて、こちらのスケールにも圧倒される。天気に恵まれ、放水された水からは虹がかかっていた圧倒的スケールのダムを歩いた後は、併設されているレストハウスで、名物の「黒部ダムカレー」を楽しんだ。ライスがアーチ型ダムの形になっているのがポイントで、私が注文したのはカツがトッピングされたもの。食事を済ませた後は再び電気バスに乗って扇沢までUターン。マイカーに乗り換えて安曇野ICから夕闇迫る中央道を走り、横浜の自宅まで安全運転で帰った。途中、諏訪湖SA.からの諏訪湖の夕景お疲れ様でした~。
2023.08.07
昨日の水戸では、帰りの特急の時間まで水戸駅周辺をブラブラ。駅のすぐ近くに水戸城があるので行ってみた。2020年に復元された水戸城大手門天保年間(1830~40年頃)の姿を復元したとされている。大手門の前には水戸藩の藩校だった弘道館が、当時の姿のまま残っている。1841年に設立された弘道館の建物弘道館の中にある至善堂。藩主の控室や師弟の学習室として使われたが、1869年の江戸城開城後には、15代将軍を退いた徳川慶喜が水戸に移り、この部屋で謹慎生活を送った。ちょっとの時間で足を伸ばして訪問した水戸城。徳川慶喜はこの部屋で何を思い、どんな時間を過ごしたのだろうか。
2023.07.07
札幌市内ではウロウロ歩きなが、定番の観光スポットも通って来たので一応ご紹介。時計台は記念撮影をする観光客でいっぱい札幌のシンボル大通り公園とテレビ塔ちょうど「ライラックまつり」が開催されていて、たくさんのお客さんで賑やかだった。ライラックの花はもうすぐ終わりかな。大人なオッサンとしては「すすきの」は外せない。この後の夜の「すすきの」での中身は秘密である。
2023.05.22
帰りの特急「ときわ」の時間まで土浦駅周辺をお散歩。駅から徒歩10分ほどの距離にある土浦城室町時代中期、1430年頃に築かれた平城で、江戸時代は土浦藩土屋氏9万5千石の居城だった。霞ヶ浦に連なる沼地から堀に水を引き入れた水城で、「亀城」の別名を持つ。江戸時代に建てられた本丸の櫓門が現存する他に平成になってから復元された、本丸の東櫓、西櫓が建っており、当時の城の雰囲気を現代に伝えている。
2023.02.15
土浦からレンタカーを走らせていたら、こんなのが目に入って来たので車を止めて見てしまった。予科練平和記念館に展示されている、零戦二十一型の実物大レプリカ正式名称は零式艦上戦闘機二十一型。「ゼロ戦」の愛称で知られる日本海軍の名戦闘機。同じ敷地内には、人間魚雷「回天」の実物大レプリカも展示されていた。こんなのに乗って潜水艦から発射され、敵の艦船に体当たりするなんて、実際に乗って亡くなった人は何を思ったのだろうか。想像する事ができない。
2023.02.15
2/2(木)東京 中央区八丁堀にて。赤穂浪士の堀部安兵衛がこの辺りに住んでいたらしい。コロナの自宅療養期間が終わり、今日から無事に社会復帰。風は冷たいけど外の空気は気持ちが良い。
2023.02.02
1/20(金)真冬の東尋坊へ。低気圧の発達で夜から大寒波到来の予報が出ていて、行ってみたけど強烈な風で長居は出来なかった。 大荒れの天候だったが、雲の間からは「天使のはしご」が降りて来ていた。強烈な風から逃れて海を眺められるカフェで休憩。「IWABA CAFE」のコーヒーを味わってまったり時間を過ごした。
2023.01.21
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