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Paganus

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2007.05.01
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カテゴリ: 日々雑感
日本とキリスト教
歴史
 日本にいつキリスト教が到来したかということに関しては、中国で景教と呼ばれたネストリウス派キリスト教が5世紀頃秦河勝等によって日本に伝えられたとする説があり、聖徳太子の幼名は厩戸皇子であるが馬小屋の前で生まれた事からイエス・キリストを連想させたからという説もあるが、想像の域を出ない。

 史実として確認されている日本へのキリスト教の最初の宣教は、16世紀のカトリック教会の司祭、イエズス会のフランシスコ・ザビエルらによるものである。キリスト教は当時、九州から西日本、近畿地方を中心に多くの信徒を獲得した。この頃、キリスト教徒は「切支丹」(キリシタン)、キリスト教宣教師は「伴天連」(バテレン)と呼ばれた。しかし豊臣秀吉は一部のキリシタン大名によって、入信の強制や神社仏閣の破壊、僧侶の弾圧や日本人奴隷貿易などが行われているとし、伴天連追放令を布告した。秀吉の政策は部分的・限定的なものだったが、徳川幕府は国をあげての徹底的なキリシタン弾圧を実施、多くの信徒や聖職者が逮捕・殺害された。長崎の一部等でわずかに残った信徒は隠れキリシタンとして地下に潜り、近代に至った。

 禁教令からおよそ250年後の幕末1865年3月、出来たばかりの長崎・大浦天主堂にてフランス人ベルナール・プティジャン神父(後に司教)の前に隠れキリシタンが現れて信仰告白を行い(大浦天主堂#信徒の発見と大浦天主堂)、その後、続々と隠れキリシタンが神父の元に詰めかけた。そして彼らが祈りと洗礼の儀式と四旬節などの典礼歴を守ってきたことが明らかになり、「信徒発見」のニュースが欧米に伝えられた。

 隠れキリシタンの多くはカトリック教会に合流したが、同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治政府もこれを継続し、水責め・火責めなどの拷問、3400名に及ぶ流刑などが行われた([1]浦上小教区変革史)。また他の地方でも東北で東方正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。欧米諸国からの猛烈な抗議を受けて、明治政府がキリスト教禁制の高札を撤去したのは1873年のことである。

 キリスト教への禁止撤廃後は、キリスト教とその教会は、純粋な宗教的動機にとどまらず、西洋文化に触れる目的でまずやってくる日本人をもひきつけるようになる。カトリック、東方正教会、プロテスタントとも禁教時代から宣教師を日本へ派遣しており、前述のようにそのなかには秘密裡に宣教をするものもあったが、いまや公に日本人信徒を獲得すべく、教会、伝道所を立てて宣教を行った。また海外からの宣教とは独立して、内村鑑三らによる無教会という信仰のあり方も主張された。

 カトリックとプロテスタント諸教派は、宣教の補助手段またキリスト教の社会実践として、学校(ミッション・スクール)や病院をたて、活動を行った。こうした学校を通じ、とくに都市部の知識層において、学校教育を通じてキリスト教とその文化に触れ、影響をうけるものが出た。またキリスト教実践の延長として社会福祉活動を行うものもいた。セツルメント運動や神戸・灘での生活協同組合(現在のコープこうべの前身)などを、キリスト教文化の影響下に生まれた運動としてあげることができる。

 戦前を通じ、キリスト教に対して社会の環境は、しかし総体に厳しいものであった。キリスト教諸派に対する政府の統制は1930年代からとりわけ厳しさを増し、各教派とも厳しい状態におかれた。キリスト教徒にも靖国参拝が強制され、解散を命じられた教派も出た。プロテスタント諸教派は政府の指導下に合同教会を設立した。聖職者や信徒のなかには、官憲の追及を受け、逮捕・投獄されるものもおり、厳しい取り扱いの結果、死没するものも出た。


 2004年現在日本の総人口の約1%弱がキリスト教徒である。そのうちカトリックが約50万人、プロテスタント諸派が計約30万人、プロテスタントで最も信徒数の多い日本基督教団が約10万人である。東方正教会(日本ハリストス正教会)は約1万人。尚、異端とされる教派についても言及すると、末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教)が公称約12万人、最大勢力とされるエホバの証人(ものみの塔)が公称約22万人とされている。通常この二派は正統派の立場からはキリスト教徒総人口には含まれない。

カトリック
 太平洋戦争中、靖国神社参拝が強要された折に、反対をした学生への弾圧を受けて日本のカトリック教会は「靖国参拝は宗教活動に当たらない」との見解を出し、以後戦争に協力した。ただ、司祭や信徒の中には天皇の神性を否定して逮捕された者もいる。なお、終戦直後に靖国神社の扱いが問題になった際には、カトリックの当時教皇庁駐日代表だったブルーノ・ビッター神父が靖国存続意見を提出した。今日、この対応には、他宗教への寛容、保守的風土の考慮という点での支持と、アメリカの反共戦略への協力、日本社会の民主化への逆行という点での批判がそれぞれある。

 中華人民共和国の成立に伴い、中国大陸での布教が事実上不可能となり、また、北朝鮮においても布教ができなくなったため、多くの宣教師が日本を新たな布教先として選んだ。カトリックの場合、当時の教皇であったピウス12世の方針もあり、日本のカトリック教会は政治・社会問題については消極的で、きわめて保守的な態度をとった。フランスやイタリアで興った社会主義とカトリックとの共存を目指す動きは、学生を中心とする知識人の一部には伝わったが、その力は大きくはなかった。

 1960年代に入ると、教会内部では第2バチカン公会議に代表されるような自己刷新の動きがあり、また、ベトナム戦争についても、アメリカやヨーロッパ各地でカトリック信仰に基づく反戦運動が紹介され、日本のカトリック教会は多様化する。具体的には、信徒の参加と日本独自の文化への配慮を重視するようになり(インカルチュレーション)、仏式・神式の儀式への参列・焼香等が一定の条件付で許可されるようになった。

 政治・社会的には、社会的正義の実現が大きく唱えられ、信教の自由と政教分離の原則をうたう日本国憲法の内容の実現を求める立場が日本司教団の公式の見解とされる。カトリック正義と平和協議会も、公の組織として活動している。

 天皇制については、カトリックが反皇室的立場をとっているという批判がある。これに対し、現憲法の「国民の総意」に基づいた象徴天皇制の徹底化と捉える見方がある。天皇制の廃止を求める運動を司教団が起こしたことはない。また靖国神社問題をはじめとする政教分離については教会はその厳格な執行を求める立場にたつ。一方、信徒レベルでは批判もあり、教会組織としての意見の徹底的な統一が図られているわけではない。

プロテスタント
 プロテスタント(当時はその殆どが日本基督教団に合同)もカトリックと同様の立場を取っていたが、殆ど全ての教会に求道者を装った特高の密偵が入り厳しい監視下に置かれ、時として牧師連行などの弾圧を受けた。

 殊に、四重の福音(新生、聖化、神癒、再臨)という信仰のスローガンで知られるホーリネスの日本基督教団第六部(元日本聖教会)、同第九部(元きよめ教会)、宗教結社東洋宣教会きよめ教会の三派は、その再臨信仰により国体否定・神宮冒涜の不穏結社とされ、一斉検挙により結社禁止・教会解散・牧師長期拘置などの厳しい弾圧を受け、七名の牧師が殉教した。

 救世軍はイギリス軍スパイの容疑をかけられ外国人士官(宣教師)が逮捕され、また、「皇軍以外に『軍』を名乗る組織があるのはけしからん」という理由で敗戦まで「日本救世団」に名称変更を強制された。セブンスデー・アドベンチスト教会も再臨信仰が不敬に当たるとして活動禁止を余儀なくされた。



東方正教会
 日本の正教会は19世紀半ば以来の歴史を持つ。

 発足間もない時代、日本の正教会はニコライ・カサートキンらの伝道師を最初に派遣したロシア正教会の指導下におかれていた。19世紀半ばに函館から始まった日本ハリストス正教会の伝道は、明治末には日本全国におよび、北海道・東北・東京・関西・九州を中心に教会が建てられた。主にロシアからの資金援助により、東京神田に壮麗な大聖堂も建設された。しかし1917年のロシア革命によりロシアからの資金と宣教の両面での援助が断たれたことから、日本の正教会は苦しい立場におかれた。加えて、ロシア政府と教会の関係に厳しい目を向けていた日本政府は、ロシアの共産化以後、さらに正教会を厳しく監視するようになる。このため第2代日本府主教であるセルゲイ府主教は、政府の圧力により退位を余儀なくされた。

 また、関東大震災で東京市内のほとんどの教会が破壊された。これらは再建されず、東京市内の教区は神田の東京復活大聖堂(ニコライ堂)に再編された。

 第二次世界大戦後日ソの外交関係が途絶しアメリカを中心とする連合軍が日本に入ると、日本の正教会はアメリカ合衆国に所在する正教会の管轄下に一時的におかれた。アメリカから高位聖職者が来日し、日本の正教会の指導に当たった。また日本からニューヨークのウラジミール神学校に多数の若い神学生が留学した。日本教会の管轄はその後モスクワに戻り、1970年代には日本教会は聖自治教会となり、自身で主教を選出する権限を得た。東京、仙台、京都が主教座教会となっている。また、ロシア正教会の直接の管轄を継続すべきとするグループは「モスクワ総主教庁駐日ポドヴォリエ」を設立している。日本正教会と駐日ポドヴォリエの関係は良好。



超教派
 日本における超教派の動きとしては、聖職者や学者の間での交流と、信徒を中心とした交流が指摘される。

 元々、戦時中の政府の政策で一本化された日本基督教団であるが、現在は超教派の教団として現在でも残っている。

 60年代の学生運動のときには、靖国神社参拝をめぐり、プロテスタントとカトリックの大学生を中心とする信徒が合同で活動をおこなった。一方教会間の交流としては共同訳による新共同訳聖書の翻訳事業が特筆される。この新共同約聖書においては、プロテスタント諸派の一部が「外典(アポクリファ)」として聖書から除外したもの(集会の書、マナセの祈り等)を「旧約聖書続編」としてまとめている。このことは日本の聖書翻訳事業においては画期的なことである。

 また2006年8月には京都で世界宗教者会議が行われ、他宗教を含めた交流の場がもたれた。

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Last updated  2007.05.01 02:56:07
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Paganus @ そうですね 日本人は元来が「貧乏人」的発想をします…
たぬきねいり2 @ 同じ事を感じました ジーゼルエンジンなら別ですがガソリンエ…
たぬきねいり2 @ 昨今の 行革の著しい挫折をみると、ありそうなこ…
Paganus @ Re:違うでしょう。(08/16) たんかれいさん  文民統制の歴史的経…
たんかれい @ 違うでしょう。 文民統制とは ・宣戦や講和の権限 ・軍…

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